2008年04月07日

●すべては日銀と大蔵省との暗闘にある(EJ第661号)

 大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀スタッフとの関係は、
まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆頭とする、事務方官僚との関係に酷似してい
ます。そのため大蔵省出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといって
も過言ではないのです。
 とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力争いを繰り広げてきた
のです。その暗闘は敗戦直後からはじまっています。『円の支配者』の著者、ヴェルナ
ー氏は、現在、日本を苦しめている10年デフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意図
的に作り出したものであり、その陰謀は半ば成功しつつあるといえるのです。
 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀ではなく大蔵省である
と思っており、その結果として大蔵省はその名称を奪われ、解体の危機にあります。日
銀は不況を利用して大蔵省に勝利したのです。そういう意味で現在の日本の不況は「日
銀不況」といってよいのです。エコノミストの森永卓郎氏はこのタイトルで本を書いて
おられます。
 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって、念願の独立性を手に入
れ、金利政策や公開市場操作など、すべての中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、
そして6人の審議委員から構成される政策委員会で決定できるようになったのです。
 この決定にはたとえ、政府といえども異議を唱えることはできずこと金融政策につい
ては、日銀は政府よりも強い権力を手に入れることができたのです。現在の速水総裁の
弱々しい自信のない様子を見ているとだまされますが、金融政策は完全に日銀の手に握
られてしまっているのです。
 今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えているのか、日銀がどう
動けばデフレは解消するのかについて知るために、一番重要な時期、すなわち1962
年〜1994年における日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏に
ついて少し知っておく必要があると思います。なお、総裁などについては敬称を略させ
ていただきます。
 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁を務め、1969年1
2月から総裁に就任しています。佐々木に目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚
登と戦後初の日銀総裁である新木栄吉の2人です。
 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万田を戦時経済体制の指
導者として任命し、何かと援助を与えたのです。米国の占領体制が続いている間はGH
Qの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉したのです。そ
のため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には総裁になります。しかし
次の年の6月に公職追放となり、1951年まで蟄居を余儀なくされます。
 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登です。彼は優れた仕事をして
のちに「法王」と呼ばれるようになるのですが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀
マンです。
 公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されます。これはきわめて異例な人事であ
り、GHQの力が働いたのは明らかです。セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総
裁の一万田と連携をとらせて、ワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るとい
う米国の高等戦略です。
 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼の絶対的な指令は、戦
後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果
たしたのです。このように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたことに
なります。
 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は、日本に戻って再び日銀総裁にな
り、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるのです。日銀の出身者が蔵相に就任したのは
一万田をのぞいて他にはいないのです。
 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させ
ようとするのですが、このクーデターは、失敗に終ります。大蔵省はこのクーデター頓
挫から反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになります。
 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すこと
を提案し日銀に承知させるのです。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまるこ
とになります。
 クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を出すというシステムに
よって、新木や一万田は自らの意思で後継者を選ぶことができるようになります。そし
て、この二人によって選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと佐
々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。
 一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者として選んだことを日
銀内に伝えたのです。これによって、佐々木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを
得た「プリンス」といわれるようになります。日銀においては、早くから次の「プリン
ス」が決まっているようなのです。
 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総務部企画部長や人事部
長の要職に置き、営業局長を長くやらせます。この役職は一万田流のいろいろなノウハ
ウを知るうえで重要なポストだったのです。
 佐々木は1969年12月から日銀総裁になるのですが、彼のやり方は一万田流の容
赦のないやり方であったそうです。規則上は全理事が金融政策について自由に発言がで
きることになっていますが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかった
といわれています。
 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄なのです。そういうわ
けで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリンスが三重野康というわけです。佐々木が人
事部長をしていたとき目にとまったのが三重野康であったといわれます。
                        ・・・ [円の支配者日銀/11]

4月07日日銀不況.jpg
posted by 管理者 at 03:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 円の支配者日銀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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