株価が2万円を超えていた2000年4月頃のことですが、日銀の速水総裁は、ゼロ
金利解除の時期を慎重に窺っていました。そして、ゼロ金利解除のXデーを7月17日
とひそかに決めていたのです。ちなみに、ゼロ金利政策を開始したのは1999年2月
のことです。
速水総裁としては、1998年4月から施行された新日銀法によって、日銀として念
願の強い独立性を手に入れたあとの最初の大きな金融政策が、ゼロ金利政策であっただ
けに、その解除も日銀主導で行いたいと考えていたのです。
新日銀法が施行される1998年3月までは、日銀総裁は大蔵大臣が罷免できる権限
を有しており、日銀の権限は限定されたものだったのです。そのため、グリーン・スパ
ンFRB議長が機動的・弾力的な金融政策を行っている米国や、強い権限を行使できる
欧州の中央銀行に、日銀としては長くから憧れを抱いており、独立を勝ち取ることは日
銀の悲願だったのです。
日銀法改正は、1997年に橋本首相の行政改革の一環として提案されています。当
時日銀副総裁であった福井俊彦氏がマスコミや政治家に働きかけ、新日銀法によって、
「金融政策の決定がより迅速かつ柔軟になり金融市場の信頼を高めることにも役立つ」
とさかんに主張したのです。
福井氏のいうことが本当であったかどうかは後から詳しく論評するとして、速水総裁
が、迅速、柔軟、機動性にこだわったことは確かだと思います。しかし、速水総裁が最
良のタイミングとして狙っていた7月14日のXデーは実現しなかったのです。そごう
が破綻してしまったからです。
しかし、日銀は8月11日にゼロ金利解除を断行します。何が何でもやらなければ…
という速水総裁の決断からです。しかし、8月は7月に比べてさまざまな経済指標が悪
化し、経済環境が最悪のときにゼロ金利解除を断行したのです。しかも、今から考えれ
ば、7〜9月期のGDPは前期比マイナス0.6%という大幅なマイナス成長だったの
ですから、経済に対して猛烈な逆噴射をかけたことになるのです。大蔵省としては必死
になって止めに入ったのですが、速水総裁はこれを断行してしまうのです。
このときマスコミの反応は日銀に好意的であったといえます。当時大蔵省が悪者にさ
れていましたから日銀はよく自らの意思を貫いたと賞賛されたのです。このとき中原伸
之審議委員、植田和男審議委員は反対したと伝えられています。これについては、昨年
の8月8日のEJ438〜441で詳しく伝えています。
しかし、皮肉なことに日銀がゼロ金利を解除した8月から景気は減速し、調整局面に
入っていったのです。日銀もそのことに気がついてはいたのですが、強引にゼロ金利を
解除したこともありそれを素直に表明できなかったのです。
ところで、いわゆるオーバーナイト金利を0.25%上げたことがなぜ大問題なので
しょうか。当時の新聞紙上では、その程度の利上げで企業収益に大きな影響が出るとこ
ろは市場から退場すべしという勇ましい意見まで出たのです。
これに対して森永卓郎氏は、あるシンクタンクの試算を紹介しています。
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『中長期的な成長径路、消費者物価1%の目標インフレ率、
需給ギャップ等を勘案したテイラー・ルールに基づいて試算す
ると、適正コールレートはマイナス4%にも達するという。つ
まりいまのコールレートはかりにゼロでも極端に高過ぎるので
ある。もちろんコールレートをマイナスにすることはできない
が金利を引き上げる政策は明らかに誤っていたのだ』。(森永
卓郎著『日銀不況』より。東洋経済新報社刊)
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このようにゼロ金利解除は企業に大きな負担をもたらす結果となったのですが、もっ
と大きな問題は、このゼロ金利解除を実現するために日銀が資金を絞ってしまったこと
なのです。
市場に流通している現金――これを「流通現金」というのですが、これと日銀当座預
金の残高の合計を「マネタリーベース」といいます。このマネタリーベースは日銀が完
全にコントロールできる資金なのです。
このマネタリーベースは1999年12月以降、いわゆる2000年問題に備えるた
めもあって対前年比で2ケタ増が続いているのですが、2000年5月以降、低下しは
じめ、12月には前年同月比マイナス1.1%、さらに、2001年1月にはマイナス
5.6%と大幅な資金供給量の減少となったのです。
これをどのように考えるべきでしょうか。森永卓郎氏は、たった0.25%のコール
レートを守るために、資金供給をマイナスになるまで絞り込まなければならなかったの
は、それだけ実体経済が悪化していたと考えるべきであるといっています。
これだけ資金供給を絞れば当然株価に影響を与えます。日銀が資金供給を絞り始めた
2000年5月の時点では株価は2万円ぐらいの高値だったのですが、それからみるみ
るうちに株価は下落をはじめ、2000年の年末にはバブル崩壊後の最安値となり、2
001年3月中旬には日経平均株価が1万2000円を割り込む深刻な事態となったのです。
それでも日銀は「景気は足踏み状態」と不況を認めようとしませんでしたが、遂に金
融引締めを断念し、3月19日に金融緩和に踏み切るのです。何とちくはぐな対応では
ありませんか。
そもそも2000年の春にわずかに出かかった景気回復の芽は、小渕政権が100兆
円もの公的資金をはたいてやっと手にしたものだったのですが、速水総裁は日銀の権威
や面子を守るために、それを台無しにしてしまったことになります。
3月19日の日銀の決定にはいろいろな疑問があります。それは今までと180度違
う決定内容であったこと、それにそれは、日銀審議委員の中原伸之氏の年来の意見をそ
のまま取り入れたものだったからです。クーデターが起こったのではないかという意見
すらあるほどなのです。 ・・・[円の支配者日銀/02]
2008年03月25日
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