2010年06月15日

●一世を風靡した小谷部学説(EJ第1639号)

 データを整理して先に進みます。1188年2月21日――文
治4年2月21日に義経追討の院宣が出されています。朝廷はこ
の院宣を出すのは内心反対だったのですが、鎌倉の頼朝に屈する
かたちで出したのです。ここで朝廷はひとつの細工をしているの
です。平泉の藤原泰衡に対して早飛脚で密使を送り、院宣が出た
ことを知らせたのです。
 その一方で朝廷は鎌倉への使者はわざと非常に時間をかけて、
4月9日に鎌倉に到着しているのです。つまり、義経追討の院宣
が出たことを知ったのは、鎌倉の頼朝よりも平泉の泰衡の方が早
かったと思われるのです。
 朝廷の密使から義経追討の院宣が出たことを知った泰衡は、直
ちに義経にそれを知らせ、かねてからの手はずの通り、義経主従
を平泉から脱出させたのです。文治4年4月中旬のことです。こ
れは、文治5年4月30日に義経が持仏堂で自害したことになっ
ている一年以上前のことになります。
 泰衡は忠衡に命じて百名前後の兵を整えさせ、義経主従とは別
に平泉を出発させています。義経主従と行動を共にさせるために
後を追わせたのです。義経と忠衡の向った先は、安東水軍の本拠
地である津軽半島の十三です。義経主従は、十三の壇林寺に文治
5年5月に到着しています。やがて、忠衡の兵も十三に到着し、
安東水軍の船で、十三から蝦夷地に渡っています。
 この文治4年4月から翌年の文治5年4月までの一年間、泰衡
は朝廷や鎌倉の矢面に立って、金品を贈ったり、接待したりと、
のらりくらりと時間稼ぎをやったわけです。その間に義経主従と
忠衡たちは準備を整えて、蝦夷地に向けて無事に出発することが
できたのです。すべては泰衡のお陰でなのです。
 以上の考察により、義経主従が少なくとも文治5年4月には死
んでおらず、北を目指して落ち延び、やがて蝦夷地に渡っている
ことがわかってきました。あとは、具体的に彼らはどこに行って
何をしたかについて考えていきます。
 シベリア地方のウラジオストック市の北部に「ハンガン岬」と
いうところがあります。地名の由来ははっきりとしていませんが
「判官」と結びつけている人もいます。
 このハンガン岬から東北に120キロ離れたところに、「スー
チャン」という場所があります。この「スーチャン」は中国語で
あり、「蘇城」と書くのです。ここには古い城跡があるので、そ
う呼ばれています。シベリア(沿海州)は1858年のネルチンス
ク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったので、中国
語の地名が残っているのです。
 さて、この「蘇城」はどのような城であったのでしょうか。地
元民の間では次のいい伝えが残っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築い
 た。武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と
 命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に
 攻め入って強大な王国を建てた。      ――地元の伝承
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この蘇城について、実際に現地に行って調査し、そのことを本
に書いた人がいます。小谷部全一郎という人です。「源義経=成
吉思汗説」を最も普及させた人物として有名です。
 この本は『成吉思汗は源義経也』のタイトルで、冨山房から大
正13年に発刊され、ベストセラーになったのです。EJを書く
に当ってこの本は不可欠なので、中央区立京橋図書館から借りて
現在手元にあります。(添付ファイル参照)
 小谷部全一郎は、江戸時代初期からの、いわゆる義経生存説を
基本とし、問題によっては独自の解釈を加えて「源義経=成吉思
汗説」を展開しています。自ら現地に足を運んで調査をしている
ので、強い説得力があります。
 初版発行が大正13年(1924年)11月10日で、12日
には再版、12月5日には6版を出すというベストセラーを記録
したのです。
 彼は、同書の中で、次のように述べて、歴史学者たちを挑発し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はお
 たまじゃくしの後身ではすないと主張するようなものである。
 また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりと
 するようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史
 家の見解は、影を以って実体なりと強弁し、或いは形が少しば
 かり似ているからとして、鰌を指して「鯨である」というのと
 同じことである。            ――小谷部全一郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者は大同団結して反撃に出たのです。国史
学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語・言語学の第一級
の研究者がずらりと結集して、次の本によって、さまざまな角度
から小谷部説を批判したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『中央史壇』臨時増刊号
   『成吉思汗は源義経にあらず』――国史講習会発行
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中でも金田一京助と中島利一郎の批判は激しかったのです。金
田一京助は、小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述
されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」であると切
り捨てています。中島利一郎の反論はさらに激しく、小谷部論を
ひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑
稽」「児戯に等しい」という言葉を使って罵倒しています。
 小谷部全一郎は、8ヶ月後に『成吉思汗は源義経也――著実の
動機と再論』を出版し、反対論者たちに反論しています。
 しかし、どうして歴史学者たちはこの問題になると、かくも感
情的になってしまうのでしょうか。 ・・・[義経の謎/09]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部全一郎は、米国のエール大学に留学し、ドクター・オ
  ブ・フィロソフィーの学位を取得している。米国留学から帰
  国後、北海道でアイヌの子弟教育を行っている。博学で、努
  力家で、冒険家として有名な人である。金田一京助は、アイ
  ヌ語学の研究をしているので、小谷部とは面識があり、親し
  い間柄であるが、その所論はお互いに相容れない。

小谷部全一郎氏の本.jpg
小谷部 全一郎氏の本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月14日

●藤原家富貴栄華の秘密(EJ第1638号)

 藤原一族――奥州一帯を支配し、北の王者といわれていたので
すが、奥州一帯とはどこからどこまでを指すのでしょうか。この
ことをはっきりさせておく必要があります。
 奥州一帯――秀衡の時代には、陸奥国と出羽国を支配していた
のです。この陸奥国と出羽国は、現在の福島県以北青森県までを
指すのです。まさに北の王者です。
 ところで、秀衡は、1170年5月に朝廷から「鎮守府将軍」
に任命されているのです。鎮守府とは、陸奥と出羽、つまり奥州
を治める役所のことです。当時その役所は平泉にあり、秀衡は奥
州を支配する将軍に任命されたのです。EJ第1635号におい
て「四代将軍泰衡」という言葉を使いましたが、泰衡は紛れもな
く四代鎮守府将軍なのです。
 鎌倉の頼朝がどれほど秀衡を恐れていたかを示すエピソードが
あるのです。1184年のことです。奈良の東大寺を復興するさ
いに鎌倉の頼朝は1000両を寄進したのですが、鎮守府将軍の
秀衡は5倍の5000両を出したのです。鎌倉は秀衡の財力に圧
倒されてしまったのです。それにしても、藤原家はどうしてかく
も裕福なのでしょうか。
 藤原三代の栄華は、金色堂に代表されるように、莫大な黄金の
生産があってのことです。その黄金は、一体どこから採れたので
しょうか。
 奥州には大量の砂金を産出する河川があったといううわさはあ
ります。もし、それが本当であれば、その河川の上流には莫大な
量の山金が埋蔵されているはずです。しかし、金山の開発が進歩
した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたとい
う記録はないのです。
 金山の本格的な開発は、江戸時代になってから、能楽師あがり
の大久保石見守にはじまるといわれます。佐渡の金山、伊豆の金
山、石見の銀山などは有名です。
 藤原家の古い書物によると、秀衡は宋朝の天子に一万五千貫の
黄金を贈り、その見返りとして、大量の経文や仏像を手に入れて
います。一万五千貫の金――これは純金56トンに相当するので
すが、尋常ならざる量です。
 これほどの金を経文や仏像を手に入れるためにポンと投げ出す
ということは、藤原家にはその十倍二十倍の金の蓄積があったと
考えるのが自然であると思います。たとえ豊富な山金が埋蔵され
ていたとしても、当時の原始的な採鉱技術で採取されていたとは
考えにくいことです。
 さらに、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼
朝はもっと裕福になってもいいはずです。しかし、そういう気配
はないのです。一体藤原氏の黄金はどこから来て、どこに消えて
しまったのでしょうか。
 藤原氏の金に着眼したのは、高木彬光氏なのです。彼は、小説
『成吉思汗の秘密』の中で、神津恭介に次のように語らせている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「それではせっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産
 出していた黄金を手に入れることができなかったというという
 のは、どこに原因があるのでしょうか」
 「その理由は、僕にいわせれば、一つしかありませんね。鉱脈
 が枯渇したとも思えない。技術が滅びたとも思えない。原料の
 供給が絶えたとしか解釈はできないのです。これは、僕の大胆
 な推理だけれども、藤原三代の富貴栄華の源泉は、その莫大な
 黄金の原産地は、北海道、樺太――というよりも、大陸のシベ
 リア地方ではなかったかと思うんですよ」。
     ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは驚くべき推理です。藤原氏は秀衡の時代までに、当時は
まったく未開拓のシベリア方面まで勢力を広げていたという仮定
に立つからです。そのために藤原氏は、津軽海峡、宗谷海峡、間
宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしていなければならな
いということになります。
 もし、この仮定が事実だとすると、平泉から大陸にいたる北方
ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大
陸に渡ったことになるのです。秀衡が義経と泰衡に渡した錦の袋
には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと考
えられるのです。
 ところで、義経主従が大陸に渡ったという可能性が少しずつ出
てきていますが、そういうことを記述した文献があるのでしょう
か。それとも単なる推測なのでしょうか。
 それがあるのです。実は、『松前福山略記』という文書がある
のです。そこに次のように記述されています。さらに『新撰陸奥
国誌』にも似たような記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊
 海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡
 る。                ――『松前福山略記』
 文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し
 西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。
                 ――『新撰陸奥国誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことは、藤原忠衡が入っていることです。「主従百人
余」とありますが、これは奥州藤原氏一族と考えられるのです。
それに『新撰陸奥国誌』にある「十三」というのは、津軽半島の
半ばにある場所であり、ここは安東水軍で有名な安東氏の本拠地
なのです。実は、秀衡の弟の秀栄は十三に福島城を築いて城主に
なっているのです。壇林寺は秀栄が建造した寺なのです。
 「十三より海に航し」とは、安東水軍の船で蝦夷地に送り届け
ていることを示しています。このように大陸へはちゃんとルート
が存在していたのです。      ・・・[義経の謎/08]


≪画像および関連情報≫
 ・十三湖と安東水軍
  鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の
  青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」
  で有名な安東氏であるが、安東氏は、当時のえぞが島にも、
  えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられる。その後、安東氏
  は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが
  島に逃れている。また、安東氏を擁した武田信広――武田は
  若狭の国から流れてきたといわれている――は、その蠣崎氏
  の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれている。

津軽半島/十三.jpg
津軽半島/十三
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月11日

●義経生存説が生まれた論拠(EJ第1637号)

 「義経=成吉思汗論」のテーマはスタートしたばかりです。ど
うやら、泰衡の仕掛けた衣川の戦いは偽戦であって、義経主従は
文治5年4月以前に平泉を離れ、蝦夷地に落ち延びている――こ
こまでを実証してきたところです。確かに平泉から北方方面には
数多い義経の足跡が残されているのです。
 しかし、現在の歴史書には源義経は衣川の戦いで自害したこと
になっています。そして、これは史実に基づくものであり、それ
以外のすべての説は妄論であり、異論であるとされています。し
かし、これには長い間にわたって数多くの議論があり、その議論
に現在でも何ら決着がつけられていないのです。
 これから、源義経が成吉思汗であることを多くの証拠を上げて
実証していきますが、その前に義経が平泉を脱出したことさえ認
めない歴史学者がいかに多いかということを知っておくのも無駄
ではないと思うのです。そこで少し脱線しているのです。
 明治38年2月1日――その日付の「読売新聞」に『「アルタ
イ山頭の神鏡」発見』という記事が出たのです。それは、バイカ
ル湖辺アルクスク約50里、アルタイ山頭に近いアラールス・ス
カヤステープの一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたこ
とを報じています。その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀
の紋、そして、次の文字が書いてあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          正三位藤原秀衡朝臣謹製
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、その記事は少し高揚感をこめて、次のようにしめくく
られているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神鏡がいかなる理由で彼の地にあるのか。だれもが源義経のこ
 とを想起するであろう。神鏡が発見された以上、近年提唱され
 ている義経=成吉思汗説もまったく事実無根といえないのでは
 ないか。未だ正確な検証をした人はいないが、『決して牽強付
 会の説とはいえない』と或る人は物語っている。
            明治38年2月1日付、読売新聞より
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「読売新聞」の記事に対して鳥居龍蔵という学者が、2月
4日付の「読売新聞」で否定しています。1日と4日では鳥居自
身は、その神鏡を実際に見て検証しているはずはないのに、自信
を持って次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鏡に「正三位藤原秀衡朝臣謹製」と記すのは、江戸時代に盛ん
 に行われたことです。アイヌを仲介とした北方交易によって大
 陸に入り、たび重なる交易によって彼の地に収まったのです。
            明治38年2月4日付、読売新聞より
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鳥居龍蔵をはじめとする、いわゆるアカデミズムの世界の歴史
学者たちは、あくまでも史実中心、文献を駆使して義経生存説の
誤りを指摘します。「文献にはこうある。史実はこうだ。したが
って、義経生存説は間違っている」という論法です。史実の主張
こそ任務と考えているからです。
 ですから、この「アルタイ山頭の神鏡」のように、少しでも義
経生存説を裏づけるものが出てくると、それを十分に検証するこ
となしに直ちに否定するのです。それはほとんどヒステリックな
反対ですらあります。
 確かに2月1日の「読売新聞」の記事には、義経=成吉思汗説
などは史実に基づかない妄論といわれているが、このような神鏡
のようなものが出てくると、一概に妄論とはいえないのではない
かとアカデミズムの頑迷固陋さを挑発するような高揚感があるこ
とは確かです。
 そこで鳥居龍蔵もカチンときて、ろくに検証もせずに即座に否
定したものと考えられます。これでは「ああいえば上佑」的な議
論といわれても仕方がないでしょう。『吾妻鏡』がいかに史実に
基づいているといっても、義経が死んだとされる日よりも80年
もあとで幕府によって編纂されたものなのです。そういうような
書籍に幕府にとって都合の悪いことを書くはずがないのです。
 金田一京助――義経生存説を明確に否定した国文学者です。金
田一も文献は駆使したが、自らアイヌへの実地調査を行い、その
研究を通して、どのようにして義経生存説が誤って伝えられたか
について、検証した学者です。鳥居のように頭ごなしに否定する
のではなしに、問題の根っこを明らかにすることによって、結果
として、義経生存説が間違いであると説いたのです。
 金田一京助は「義経に対する民衆の思いこみが、義経生存説の
勃興に寄与した」といっています。この金田一京助の主張に関連
して、『義経伝説――歴史の虚実』(中公新書)の著者である高
橋富雄氏は、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の戦いを通して、大衆がみずからの戦いをたたかい、義経
 を守ろうとして、実はみずからも守ることになったのである。
 だとすれば、義経の敗北はみずからの敗北である。義経におけ
 る英雄の挫折は、とりも直さず、大衆みずからにおける英雄へ
 のねがいの挫折とならざるをえない。義経の正当証明が、その
 理念化が、事実を曲げてもまかの通らねばならなかった理由は
 ここにあった。― 高橋富雄著、『義経伝説――歴史の虚実』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本来、義経生存説が間違いならば、それを裏付ける数多い例証
に対してきちんと反証するべきです。このような抽象的な論拠で
義経生存説は否定できないと考えます。それにしてもアカデミズ
ムは、なぜ頑なに義経生存説を否定しようとするのでしょうか。
 明日から、多くの例証を上げながら、源義経=成吉思汗説につ
いて、さらに深堀りしていきます。 ・・・[義経の謎/07]


≪画像および関連情報≫
 ・義経生存説が出てくる根源
  義経生存説運動とは、民衆の敗者復活戦であり、自己肥大化
  幻想なのである。絶対多数の敗者である民衆が現実を認める
  ことを拒否し、挫折した弱い義経に己を重ね、義経に想像上
  のサクセスストーリーを歩かせることで自尊心を満足させて
  いた、といえばよかろうか。
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より

森村宗冬氏の本.jpg
森村 宗冬氏の本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月10日

●義経北行説はなぜ消えないのか(EJ第1636号)

 先日は、衣川の戦いが偽戦であって、源義経は郎党を引き連れ
平泉を後にして、蝦夷地に逃れている――多くの史料があり、こ
のことはもはや動かし難い事実であると考えられます。
 ちなみに「蝦夷地」とは、もともとは「アイヌ人の住む地域」
のことであり、北海道全般を指していたのです。当時北海道は、
まったくの未開の地であり、「蝦夷地に行く」ということは、異
域、異界――死の世界も異界である――に足を踏み入れることと
同意義だったのです。このことから、「義経生存説」は現代にい
たるまで、根強く生き続けることになるのです。
 しかし、この義経北行説を利用して名前を売る学者が横行した
のです。加藤謙斉という学者がいます。享保2年(1717年)
に出版された『義経実記』の著者です。
 この本で加藤謙斉は、義経の平泉脱出について具体的に述べた
あと、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経平泉脱出の経緯は、雑記小説などに記されているが、信用
 できない。しかし、義経が蝦夷地の方向に向ったことは、異国
 の文献によっても立証できるので確実である。
                     ――『鎌倉実記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「異国の文献」とは、「『金史』列将伝」(『金史』別
本)というのです。金国というのは、中国大陸の北方を支配して
いた実在の王朝なのです。その王朝を確立したのは女真族という
のですが、これも本当のことです。そして、『金史』はその女真
族の歴史書であり、これも実在するのです。
 しかし、『金史』別本というのは存在せず、その後多くの学者
によって、それが実際には存在しないことを指摘されています。
『金史』別本は、完全な捏造だったのです。
 こういうことが起こると、義経北行説そのものが疑わしい目で
見られてしまうのですが、義経北行説をまともに考察した学者も
たくさんいたのです。その中でも有名なのは、儒学者新井白石と
同じ儒学者である安積たん白との間で、享保6年から10年まで
の4年間にわたって行われたやりとりです。
 たん白が、「蝦夷地では内地の兜の鍬形によく似た物をアイヌ
たちが尊崇している」と問うと、新井白石は次のように答えてい
ます。現代ならメールで問答するところです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍬形の件、確かに不思議でございます。蝦夷地南方に「ハイ」
 なる場所がございまして、源義経の居館跡が残っているとかい
 ないとか。この地方の人々は蝦夷地中では「ハイグル」と呼ば
 れ、気性が荒く武を好むゆえ恐れられているとか。「グル」と
 は、「党」という意味と聞いております。昔から「智者は死な
 ず」とも申します。案外、義経衣川自害の話より、蝦夷脱出の
 話が本当かも知れません。          ――新井白石
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。新井白石は、加藤謙斉のウソを完全に見破っ
ており、その上での議論であることを強調しておきます。そして
加藤謙斉の『鎌倉実記』の出た後は、義経生存説の舞台は中国大
陸の北方に設定されるようになり、その内容も荒唐無稽のものが
多くなっていったのです。
 そして、大きなゆり戻しがきます。明和7年(1770年)に
半田道時は、『伊達秘鑑』の「義経秀衡事跡」の項において、次
のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  源義経、平泉高館で自害のことは『吾妻鏡』『源平盛衰記』
 『義経記』に見えている。近年、義経蝦夷渡海や義経金国入国
 をうたった書が出ているが、これらは皆、牽強付会の妄説であ
 り、信ずるに足りない。         ――『伊達秘鑑』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このほか多くの反対説が出てくるのですが、それでも義経北行
説そのものは消えることはなく、根強く生き残っていくのです。
それは、反対説のほとんどが『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などが
正しいと主張するだけで、数多い義経北行説の証拠を明確に否定
できないのにそれは妄論であり異説であると、どちらかというと
感情的な反対に終始したからです。
 江戸時代末期になると、ロシアの脅威が現実のものとなってき
ます。元文4年(1739年)に陸奥・安房の海上にロシア船が
あらわれています。これはおそらく偵察です。ロシアが正式に日
本に接触を求めてきたのは安永7年(1778年)のことです。
ロシア船がクナシリ島にやってきて、松前氏に対して通商を要求
してきたのです。
 ロシアの脅威が高まってくると、幕府にとって蝦夷地は国土防
衛上の重要な拠点となります。そのため、幕府は次の2つの対策
を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.探検隊による蝦夷地の正確な調査を実施
    2.アイヌを同化させ、蝦夷地を内地化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時蝦夷地は松前藩の管轄化に入っていたのですが、蝦夷地を
支配していたのはアイヌなのです。アイヌは自由の民であり、だ
からこそ自由に外国との交易に従事していたのです。
 しかし、国土防衛上、蝦夷地を自由の状態にはしておけないの
で、文化4年(1807年)に蝦夷地全体を幕府の直轄地化した
のです。これに伴い、アイヌを説得して和人へ同化させる政策を
実施することにしたのです。
 『義経伝説と日本人』の著者、森村宗冬氏は義経蝦夷渡海説は
アイヌの和人への同化手段として、また、和人の蝦夷地行きを促
すものとして利用されたといっています。
                ・・・・[義経の謎/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアの脅威
  天明6年(1786年)  ロシア船蝦夷地に来航
  寛政4年(1792年)  ロシア使節ラスクマン根室来航
  寛政7年(1795年)  ロシア人日本船の貨物強奪
  寛政9年(1797年)  ロシア人エトロフ島強行上陸
  文化元年(1804年)  ロシア通商を要求/レザノフ

新井白石.jpg
新井 白石
posted by 管理者 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月09日

●金色堂に祀られていた泰衡の首(EJ第1635号)

 平泉の金色堂といえば藤原家の廟所です。ここには、藤原家の
三代の将軍――清衡、基衡、秀衡の遺体が祀ってあるのです。し
かし、秀衡の遺言を守れず、藤原家を滅亡に導いた四代将軍泰衡
は、金色堂に祀ってもらえなかったとされています。
 しかし、これら3体の遺体のほかに首桶がひとつ入っているの
です。これは、秀衡の遺言を忠実に守ろうとして兄泰衡に殺され
た秀衡の三男忠衡の首と今までいわれてきたのです。
 明治18年に記述されたという『平泉志』の金色堂の章には次
のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三壇中に藤原氏三代の棺を納む、遺骸各厳然として存在す。中
 央清衡、左基衡、右秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
               ――『平泉志』金色堂の章より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この事実は、昭和25年までは誰一人疑う者はおらず
信じられてきたのですが、同年、朝日新聞社の学術調査団が、そ
れまで忠衡とされていた首を精査した結果、その首は泰衡である
ことがわかったのです。第四代泰衡はちゃんと金色堂に祀られて
いたのです。
 『吾妻鏡』によると、頼朝は泰衡の首を安倍貞任の例にならっ
て、泰衡の首の眉間部分に長さ八寸の鉄釘を打ちつけ、陣ヶ岡で
さらし首にしていますが、金色堂の中の首にはその傷口があった
のです。
 さらに、歯の消耗などから調べて、30歳程度の男性であるこ
とも判明しています。『吾妻鏡』によると、忠衡は23歳、泰衡
は31歳といわれているのです。したがって、首は泰衡のもので
あることが明らかになったのです。
 それでは、どうして首は忠衡といわれてきたのでしょうか。
 それは頼朝の怒りを恐れたからです。このことからも衣川の戦
いが偽戦であり、泰衡は忠実に父秀衡の命令を守ったということ
がわかります。
 それでは、忠衡はどうしたのでしょうか。
 佐々木勝三氏らの研究家たちは、義経の行方を追跡していく過
程で、藤原忠衡の子孫を発見しているのです。つまり、忠衡は殺
されていなかったのです。
 忠衡の子孫(長男)は久慈市の吉田に城を築いて吉田権之介奉
行と称し、その子孫は泉田を屋号としてきています。現在、岩手
県九戸郡野田村に「中野姓」を名乗っていますが、その屋号は、
「泉田」なのです。
 佐々木氏らは、同家を訪問して、その由緒書きを手に入れてい
るのです。その一部をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  我が大祖は元平泉の藤原清衡三代之孫秀衡の三男泉三郎忠衡
 なり。文治五年七月源九郎判官義経養匿のため、罪ありとして
 大軍を率いて来るは、鎌倉の兄源右兵衛頼朝なり。忠衡初め出
 羽にあり、のちに花巻に来たり、義経を守護し、死と称して義
 経の郎等の擬首を鎌倉に送った。(以下、省略)
 ――『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、忠衡は義経主従と一緒に平泉から北上し、久慈
地方に来ているのです。中野家には義経の書いたとされる大般若
経が掛け軸となって残っているといいます。やはり、義経は自害
などしていなかったのです。
 泰衡の首が金色堂の秀衡の遺体に寄り添うように置かれている
のは、泰衡が父秀衡の遺言を忠実に果たして義経を最後まで護り
非業の死を遂げたという同情の念が遺族にあったからと考えられ
ます。史実のように、秀衡の遺命に叛いて義経を討ち、頼朝に媚
びようとしてその頼朝に殺され、さらし首になったとしたら、遺
族は金色堂に祀ることを許したでしょうか。
 ひとつ不審なことがあります。
 義経が平泉入りしたのは文治3年秋ですが、それから5年まで
の間、朝廷や鎌倉から何回も使者がやってきて「義経を出せ」と
責めたてているのです。こういう事態に対して義経が何の策も立
てずに高館に潜んでいたとは考えられないことです。
 このまま平泉に居座れば、藤原家にとんでもない迷惑をかけて
しまうと考えたはずです。藤原家は、朝廷や鎌倉の使者が来るた
びに酒食を出して丁重にもてなしたのですが、絶対に屋外には出
さなかったといいます。
 しかし、そのとき実は義経主従は平泉には、いなかったのでは
ないでしょうか。なぜなら、もし、義経を高館にかくまいながら
朝廷や鎌倉の使者を饗応していたのだとしたら、あまりにも大胆
不敵な振る舞いということになると思うからです。そしてそれは
非常にリスクの多い行為です。
 佐々木勝三氏らは、文治4年5月には既に平泉を脱出していた
と考えています。このとき、朝廷より第4回の勅使一行が平泉に
到着していたのです。衣川の戦いよりも一年以上前の話です。
 ところで、自害したことになっている義経は、平泉に隣接した
衣川村の雲際寺という寺院に位牌が祀ってあるといいます。それ
は次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  損館通山源公大居士、文治五年閏四月二十八日源之義経
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この死亡日は『吾妻鏡』とは一致していないのです。それにこ
の法名は変わっています。法名には故人に何らかの縁のある文字
が用いられるのが通常ですが、そういうこととは無関係な文字の
羅列です。そこで、次の読み方があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 館を捨てて(損館)、山を通って(通山)、遁世(居士)す
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/05]

≪画像および関連情報≫
 ・平泉/中尊寺金色堂
  奥州に覇をとなえた藤原一族の権力の源泉は黄金にあったと
  いわれる。金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊
  寺創建当初唯一の遺構である。

平泉/中尊寺金色堂.jpg
平泉/中尊寺金色堂
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月08日

●衣川の戦いは偽戦である(EJ第1634号)

 義経の身代わりといわれた杉田太郎行信についてはこういう話
があるのです。衣川の戦いにおいて、須賀川の城主である須賀川
刑部が手勢200騎を従えて敵を探していたのです。そのとき、
竜頭兜に緋縅の鎧を着た立派な武者が榎堂の方に行くのが見えた
のです。
 これぞ大将判官なりと考えた須賀川刑部が手柄にしようと追い
討ったのです。それほど義経に似ていたからです。しかし、捕え
てみると、杉田太郎行信だったというのです。『大木戸合戦記』
という本に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大将軍の首を頂戴しようとしてよくよく見れば、それは判官
 殿ではなく、母方の従弟である杉目太郎行信である。刑部おお
 いに驚くと同時に、判官殿にかわって討死する覚悟であるのを
 雄々しく思い、太刀を捨てて礼をなし、士卒を従えて引き返し
 た。              ――『大木戸合戦記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、義経を討ったとされる藤原泰衡という人物に注目する
必要があります。この泰衡は次の3つの点において大変評判が良
くないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.父である秀衡の遺言を守らず、朝廷や鎌倉に屈して義経を
   討っていること
 2.泰衡は義経だけでなく、義経擁護を主張した弟の忠衡まで
   殺していること
 3.頼朝の命を果たしたのに泰衡追討の院宣が出ると頼朝に命
   乞いをしている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上が正しいとされている歴史的事実ですが、よく調べると、
事実はかなり異なるのです。泰衡は父秀衡の遺言を忠実に果たし
ているという説があるのです。
 結論から先にいうと、「衣川偽戦」こそが秀衡の遺言だったの
です。自分の死期を悟った秀衡は一族を集めて次のようにいい遺
しています。なお、この席には源義経を呼んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.自分の死後、必ず鎌倉殿は「判官失い奉れ」といってくる
   が、日本の名将判官殿に叛いてはならない。
 2.鎌倉殿から使者がきたら、まず、和睦をすすめる。それで
   もお許しがないときは、使者を斬り捨てよ。
 3.判官殿を大将軍と仰ぎ、白河、念珠の関を固め、奥州2国
   の大軍をもって一致協力してこれに当たれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秀衡はこういうと、全員に起請文を書かせ、血判を押させてい
るのです。さらに秀衡は、錦の袋に納めた遺書2通を出して、1
通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、次のように述べているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退
 きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがご
 とくひらけるであろう。             ――秀衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、秀衡の死後、その子孫たちは秀衡の言いつけ通りにし
ていないのです。最初に義経を主君と仰ぐことに異議を唱えたの
は、長男でありながら側室の子であるということで嫡男になれな
かった国衡です。
 これに対して、三男の忠衡は父の遺言を守ることにこだわった
のです。困ったのは泰衡です。泰衡は兄と弟の板ばさみになって
しまったからです。そこに、朝廷や鎌倉からは何回も「義経を差
し出せ」という矢の催促――窮した泰衡は義経を討つことを決断
したというのが、巷間伝えられている説です。三男の忠衡はこれ
に反発したので、忠衡も討たれたのです。
 確かに話の筋は通っています。しかし、これに反対意見を唱え
ている人がいます。それは、「源義経=成吉思汗説」研究の第一
人者といわれる佐々木勝三という人です。佐々木氏は、同じ研究
家の2人とともに昭和52年に次の本を出しておられますが、こ
れは貴重な文献です。この本は現在では入手不能ですが、幸い私
は入手しております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
  『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍵を握るのは秀衡の遺した遺書です。この遺書の現物は発見さ
れていないのですが、佐々木氏は上掲書の中で、青森県八戸市の
小田八幡宮に秀衡の復元遺書があると述べています。そこには、
次のように書かれているというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵の首を焼け首となして、これを君のニセ首となすべき御心得
 なさしめたまへ。高館を御立ちのきなさしめたまわば、南部大
 崎明神へ御参籠の上、大般若経御書写なされて二世の安楽の御
 為に奉納なさしめたまうべし。(以下、略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し読みにくいですが、秀衡は明らかに偽戦を勧めています。
つまり、衣川の戦いという偽戦を行い、義経を討ったことにして
その焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経を落ち延びさせよと
いっているのです。
 おそらく国衡が義経を主君と仰ぐことに反対したのは事実と思
われます。藤原氏として一致結束できないことを悟った泰衡は、
義経とともに遺書を開き、そこに書かれていることを忠実に実行
したものと思われます。
 したがって、泰衡は、義経はもちろんのこと、忠衡も殺してい
ないのです。           ・・・[義経の謎/04]


≪画像および関連情報≫
 ・『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』序文より
  ――佐々木勝三氏
   従来の日本の歴史は、皇室を中心とした朝廷の歴史、もし
   くは権力者を中心とした支配者側の歴史が絶対とされてき
   た。本書は、成吉思汗という世界史上の一大権力者に焦点
   を当てながらも、悲運の英雄源義経を見守りつづけてきた
   みちのくの庶民から生まれた歴史なのである。

佐々木勝三氏の本.jpg
佐々木 勝三氏の本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月07日

●最初から偽首とバレていた証拠(EJ第1633号)

 殺人事件において犯人を殺人罪で起訴するには、他殺死体が必
要です。鎌倉の頼朝の側から考えてみましょう。秀衡の死後、頼
朝は何回も藤原泰衡に対して「義経を差し出せ」とプレッシャー
をかけています。
 文治5年5月22日にその泰衡から、「4月30日に義経を誅
す」との飛脚が届きます。そして、6月13日、その証拠として
義経の首が酒を浸した黒い漆塗りの桶に納められ、鎌倉に送られ
てきたのです。
 4月30日に義経を殺害し、5月22日に鎌倉にそのことを知
らせる手紙を届ける――これは遅すぎます。そして、義経を殺害
してから43日後にその首を届ける――これも遅いです。
 現在の鉄道の計算では、平泉から鎌倉までは約500キロあり
ます。その内訳は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        東京――鎌倉   48キロ
        東京――平泉  450キロ
        ―――――――――――――
                498キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 500キロを里に直すと、130里です。当時の旅は歩くこと
が中心になるので、かなり早く歩いていたのです。平均して1日
8里〜10里は歩けたはずです。1日8里歩いたとして17日、
1日10里なら13日で平泉から鎌倉まで行けるのです。それが
実に43日もかかっている――誰が考えてもこれは遅すぎます。
 それに証拠の義経の首ですが、次の2つの理由によって義経と
判別不能と考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.義経の首は焼き首であったこと
      2.当時は太陰暦/2ヶ月遅いこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 泰衡が義経主従を襲ったとき、義経主従は屋敷に火を放ってい
るのです。そのため義経の首は焼き首になったのです。加えて、
当時の暦は太陰暦であり、現在の太陽暦で6月13日は8月の初
めに当るのです。炎暑のなかを43日――果たして焼き首は原型
を保っていられるでしょうか。おそらくそれは不可能であると考
えられます。
 異常に遅い報告と証拠の首のさらなる遅い到着――疑り深い頼
朝がそれをまともに信用するはずがないのです。その証拠に首が
届いてから1ヵ月後には泰衡討伐の大軍を平泉に差し向けている
からです。それは、泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜
いていた証拠といえます。
 これに関して『大日本史』は次のように記述しています。『大
日本史』は、水戸光圀以来、250年にわたって、歴代の水戸藩
主が各時代の大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作なの
です。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を
繰り返して生まれたものであり、重みがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ
 ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日
 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ
 て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど
 も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、
 よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり
 と偽り、しかして逃走せしらんか。
                   ――『大日本史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の首の検視の状況について、もう少し詳しく述べておくこ
とにします。
 泰衡の使者は新田冠者経衛、6月13日に首の入った桶を2人
の従僕に担がせて、鎌倉・腰越浦に到着したのです。頼朝は、和
田義盛、梶原景時に実検役を命じたので、義盛と景時は兜を着け
郎従20騎を従えて検視におもむいたのです。
 景時は「予州の首ではない。不審の点がある」と難色を示した
のですが、義盛はこれを制して「すでに焼き首となった以上は日
頃とは違って見える」として、それ以上の検視を行わず、その首
を藤沢に送って葬っているのです。
 これは、江戸末期に出た『義経勲功記』という本に出ているの
ですが、これから推察して、頼朝側は最初から偽首と知っていた
と考えられるのです。和田義盛は、智臣として名高い因幡守大江
広元から指示を受けており、偽首であることは想定内の出来事と
して処理したのです。頼朝側としては、目的は奥州平泉を取るこ
とにあったからです。
 私の推測ですが、頼朝としては、義経主従が蝦夷地に逃げて行
くのをあえて見逃したのではないかと考えます。頼朝が最も恐れ
たのは、秀衡が義経と組んで、義経を総大将として鎌倉に攻めて
くることだったのです。秀衡の率いる奥州平泉の財力と兵力に義
経の知略が加わると鎌倉が危ないと考えたのです。
 しかし、秀衡亡き後はたとえ義経が生き延びてもとくに恐れる
ことはないと考えたのです。したがって、首の検視にあえて異議
を唱えず首を葬れば、義経は正式に死んだことになり、鎌倉勢と
してはこれ以上義経を探し回る必要もなくなる――義経の兄とし
ての頼朝の本心はこんなところにあったのではないでしょうか。
 偽首にする以上、身代わりが必要になります。義経の身代わり
は、杉目太郎行信であるとされています。延宝年間の『可足記』
に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 九郎判官の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信
 が首、鎌倉の見参に入候          −−『可足記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杉目太郎行信、義経によくも似ていたのです。
                 ・・・[義経の謎/03]

≪画像および関連情報≫
 ・藤原秀衡について
  藤原秀衡は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三
  年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二
  代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極
  めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になって
  からも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とするよう
  遺言を残して没す。東北の王者して奥州に君臨。

藤原秀衡.jpg
藤原 秀衡
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月04日

●基本的条件は成立するか(EJ第1632号)

 私が「源義経=成吉思汗論」に興味を持ったのは、高木彬光著
『成吉思汗の秘密』(角川文庫)を読んでからです。この本は推
理小説というスタイルをとっており、名探偵神津恭介が登場する
のですが、そこに何らの殺人事件も起こらないのです。
 この小説は、神津恭介が病気で東大病院に入院し、退院までヒ
マをもてあましているという設定で、「成吉思汗は実は源義経で
あった」ということをヒマつぶしに神津に推理させる――そうい
うかたちをとってかねてからの自らの研究を神津の口を通して発
表しているのです。したがって、内容は真面目そのものです。
 作家高木彬光は、青森中学時代から義経伝説に興味を持ち、研
究を重ねていたのです。そして、当時江戸川乱歩が編集に当って
いた雑誌『宝石』に原稿を持ち込んで連載をはじめたのです。昭
和33年5月号から9月号までの5回にわたる連載です。『成吉
思汗の秘密』はこのようにして完成したのです。
 当時高木彬光は既に人気作家であり、多くの注文原稿を抱えて
いたのですが、この小説だけは持ち込み原稿なのです。それだけ
に意気込みが違うのです。また、この小説は、後から何回も加筆
されており、ある別の作家の小説との結びつきもあるのです。
 私はその小説を当時偶然に読んでおり、驚愕したのを今でもよ
く覚えています。それは次の小説です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    仁科東子著、『針の館』――カッパ・ノベルス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今回のテーマも関連する書籍をほとんどすべて集めており、総
合的に書き進めますが、その中心は高木彬光説を中心に述べてい
くつもりです。最近『成吉思汗の秘密』が光文社から復刊されて
いますが、それを読まれるのはEJのこのテーマが終わってから
の方が興味深いと思います。
 そろそろ本題に入っていきましょう。
 「源義経=成吉思汗」が成り立つためには、次の3つの条件が
成立する必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経と成吉思汗の両者はほとんど同じ年に生まれている
 2.義経が活動しているときは、成吉思汗は活動していない
 3.成吉思汗が活動しているときは、義経は活動していない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1を検証してみます。
 源義経は平治の乱――すなわち、源平両族の勢力争いの時代に
生まれています。父は源義朝、母は常盤御前であり、3人兄弟の
3男として生まれています。歴史書によると、義経は平治元年の
生まれとされています。西暦では1159年です。
 問題は成吉思汗の方です。当時の蒙古は記録が完備しておらず
学者の推定でしかないのですが、1158年、1161年、11
62年という3つの説があるのです。はっきりしているのは、義
経と同年代であることです。したがって、1については、一応成
立すると考えてよいと思います。
 2と3を検証してみます。
 義経の命日は、文治5年4月30日――衣川の戦いのあった日
とされています。西暦では1189年です。年齢は31歳です。
それでは、成吉思汗はいつごろから活躍しているかについて調べ
る必要があります。
 大蒙古帝国は13世紀に突如として出現したのです。東は中国
全土を支配して元朝を開き、西はイラン、トルコから東ヨーロッ
パまでも呑み込んで世界最大の領土を誇ったのです。それを成し
遂げたのが成吉思汗なのです。
 その間日本では、鎌倉幕府が150年間続き、元弘3年(13
33年)をもって幕を閉じるのですが、幕府が倒れるキッカケに
なったのは、2回にわたる蒙古の来襲――文永の役、弘安の役で
あり、蒙古とは密接な関係があるのです。
 当時のモンゴル地方は、広大な草原地帯に多数の民族が入り乱
れて生活しており、遊牧民として移動するので、そこに統一国家
を築くのは至難のわざであったのです。
 成吉思汗という人物について記述されている書物は極めて限ら
れており、次の3つが根本史料とされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.『元朝秘史』 ・・・ 13世紀にモンゴル語で編纂
 2.『集史』   ・・・ 14世紀にペルシャ語で編纂
 3.『元史』   ・・・ 中国が明代(14世紀)編纂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの史料によると『元朝秘史』には生年月日は明記さ
れておらず、『集史』は1155年生まれとしています。しかし
これは死亡した年とされる1227年/72歳からの逆算であり
死亡年齢がはっきりしていないので、根拠のないものです。
 この1227年の死亡についてははっきりしているのですが、
死亡年齢は『元史』では66歳、『集史』は72歳と相違してい
ます。『元史』の66歳を基にして生年月日を算出すると、66
歳は数え年であるので、生年月日は1162年ということになり
ます。1159年生まれの義経と3年の誤差がありますが、ほぼ
同年代の人物と考えてよいと思います。
 『元朝秘史』は、歴史書というよりも壮大なる叙事詩的物語と
なっており、テムジンが蒙古の諸部族からカン(汗)の位に推さ
れて成吉思汗になる1206年にいたるまでの歴史の記述は伝説
と文学の世界といえます。しかし、ここまでの分析により、「源
義経=成吉思汗」が成立する基本条件はクリアできたようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

            前半生   後半生
       源 義経  史実    伝説
       成吉思汗  伝説    史実  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/02]


≪画像および関連情報≫
 ・作家/高木彬光について
  1920(大正9)年に青森市で生まれた高木彬光(たかぎ
  ・あきみつ)は、1948(昭和23)年、江戸川乱歩の推
  薦で『刺青殺人事件』を刊行し、推理文壇にデビュー。その
  後、『能面殺人事件』『妖婦の宿』などの傑作長短編を相次
  いで発表し、一躍、本格推理小説の第一人者となる。神津恭
  介をはじめ、百谷泉一郎、近松茂道、霧島三郎、大前田英策
  墨野隴人の名探偵を登場させ、歴史推理小説『成吉思汗の秘
  密』、経済推理小説『人蟻』、法廷推理小説『破戒裁判』
  などの傑作を次々と発表、戦後の日本推理小説界を代表する
  作家として活躍。1995(平成7)年に逝去。

高木彬光.jpg
高木 彬光氏
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月03日

●『吾妻鏡』の記述は正しいか(EJ第1631号)

 今日から歴史のテーマ「源義経」を取り上げることにします。
しかし、まともに義経物語をやろうというのではないのです。
「源義経=成吉思汗論」をやろうというのです。なお、この記事
は2005年7月11日から2005年8月22日までの30回
にわたって連載したものであることをお断りしておきます。
 実はEJでは一度この問題を取り上げています。私にとってこ
れは、昔から関心のあるテーマであり、次の期間、EJでは、4
回にわたって取り上げているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1999年4月6日/EJ第113号
        〜1999年4月9日/EJ第116号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、6年も経っておりますし、その頃EJを読んでいない
読者もたくさんおられるので、リニューアルし、内容を大幅に増
強して再び取り上げたいと思います。初期の頃からの読者も、ぜ
ひリニューアル版を読んでいただきたいと存じます。
 それに何よりも今年のNHKの大河ドラマは「義経」ですし、
同時進行すればイメージも湧くと思います。ところで、既に日本
がドイツ行きを決めている「サッカー・ワールドカップ2006
年ドイツ大会」――この応援歌(正確にいうと、ドイツに行くた
めの応援歌)をご存知でしょうか。
 実は「成吉思汗/ジンギスカン〜ドイツに行こう」というので
す。これは、日本代表のドイツ行きをバックアップしようと、日
本代表サポーターであるUTRUSが応援歌に選んだのが、ディ
スコ世代にはおなじみの楽曲「ジンギスカン」のカヴァーなので
す。ちなみにこの歌は、1980年に旧西ドイツのグループ「ジ
ンギスカン」の大ヒット曲です。
 このように直接は関係ないのですが、今年は義経と成吉思汗が
揃っているのです。そういうこともあって、「源義経=成吉思汗
論」を取り上げたいと思います。今日はその予告編のようなこと
からはじめたいと思います。
 源義経は、猜疑心の強い兄頼朝の不興を買って逃げ落ち、奥州
藤原氏に身を寄せます。しかし、義経の理解者である秀衡が亡く
なると、その子泰衡は頼朝のきびしい追及に屈して、自分が匿っ
ている義経とその一族に奇襲をかけるのです。これが世にいうと
ころの「衣川の戦い」です。
 義経とその一族は泰衡の奇襲に破れ、義経は妻子とともに自害
を遂げる――文治5年(1189年)4月30日のことです。こ
れは歴史上動かし難い史実として記述されており、どのような歴
史書もそうなっています。「源義経=成吉思汗論」は、その動か
し難い史実を正面から否定しようというのですから、それは容易
ならざることです。
 正史に反することを唱えるのは異説ということになります。学
問の世界に限らず異説を唱える者に対しては、世間の目は厳しく
なるものです。しかし、正史をアタマから信じ、異説を検証しよ
うともしない学者よりも、正史に疑いを持ち、その疑いを解決す
るために異説を立てる――そういう学者の方が真実をつかめるの
ではないかと考えます。
 義経自殺の根拠は『吾妻鏡』とされています。『吾妻鏡』は、
鎌倉幕府の手によって編纂されたれっきとした正史であり、数多
い史書の中でも一級史料とされているのです。ここに書かれた以
上、それは正しいのだというのが歴史学者の考え方なのです。日
本の学者は公文書に弱いのです。
 『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から文永3年までの87年間の事
件を日記風に記録しているのです。それでは、文治5年4月30
日はどう書いてあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今日、陸奥の国に於いて泰衡が源予州を襲う。予州、持仏堂に
 入り、まず妻(22歳)と子(女子4歳)を害し、ついで自害
 す。                 ――『吾妻鏡』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「予州」とは義経のことです。伊予守だったのでそう呼ばれて
いたのです。義経は「判官」といわれますが、それは彼が検非違
使をしていたからです。検非違使とは、簡単にいうと、現代の裁
判官のような役職と考えればよいと思います。平安初期,嵯峨天
皇のとき設置された令外の官で、京中の治安維持のため置かれた
のが最初です。
 それはさておき、『吾妻鏡』の記述――ばかにあっさりしてい
ると思いませんか。実は、この『吾妻鏡』は、義経の死より80
年のちの文永年間に編纂されているのです。何しろ今から800
年も前の話です。それが本当に信じられる根拠というか、証拠が
あるのでしょうか。
 義経を討ったという報告は、当の泰衡が鎌倉に対して行ってい
ます。泰衡の飛脚は5月22日に鎌倉に着いており、この使者は
次のような泰衡の言葉を鎌倉に届けているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 4月晦日、民部少輔の館に於いて、予州を誅す。その首は追っ
 て送りまいらせます。              藤原泰衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に義経の首は6月13日に頼朝のところに届けられていま
す。これについては改めて分析しますが、4月30日に起こった
事件を5月22日に報告し、首が6月13日に届くのは、当時と
しても非常に遅いのです。
 この報告がそれから80年後に編纂された『吾妻鏡』では「民
部少輔の館」が「持仏堂」に変わり、「予州を誅す」が義経自害
に変わってしまっているのです。これは果たして信じられること
なのでしょうか。
 泰衡にとって義経は少年時代に一緒に文武を学んだ仲であり、
亡父秀衡がこよなく敬愛していた人物なのです。しかも、泰衡は
父から、私の死後に鎌倉殿が攻めてくることがあれば、判官殿を
総大将にして戦うべしと遺言を授けられているのです。その泰衡
が果たして義経を裏切るでしょうか。 ・・・[義経の謎/01]


≪画像および関連情報≫
 ・義経主従が住んでいた衣河館(高館)/前に衣川、東は秀衡
  の屋敷、西は金鶏山に接する城郭構えの居館

平泉/義経堂(高館).jpg
平泉/義経堂(高館)
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月02日

●テレサ・テンの死因についての小説(EJ第1630号)

 テレサ・テンにまつわる疑惑のなかで一番大きな疑惑は、やは
り、その死因ということになると思います。テレサ・テンの死因
は「喘息の悪化による呼吸不全」となっていますが、42歳の若
さであり、それがあまりにも突然なことであったために疑惑がふ
くらんだのです。
 ここに一冊の本があります。発刊されたのは、2004年12
月30日です。明らかにテレサ・テンの死後10周年を意識して
の発刊と思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』
     ―いつの日きみ帰る/ある大スターの死−
      平路【著】 池上貞子【訳】 風涛社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このタイトルを見ると、誰でもこれがテレサ・テンのことを書
いていることはわかります。確かに本に書かれていることは、テ
レサ・テンのことそのものであり、それも彼女の死の原因に絞ら
れているのです。しかし、本のなかには「テレサ・テン」とは一
語も書かれていないのです。
 平路(ピン・ルー)は、1953年に台湾の高雄で生まれた女性
作家です。父親は山東省出身の外省人であり、境遇はテレサ・テ
ンと似ています。一応この本は「小説」というスタイルをとって
います。もう少し正確にいえば、テレサ・テンという大歌手の死
を題材とするミステリータッチの小説というべきでしょう。
 しかし、私の読んだ限りでは、小説というかたちをとっている
ドキュメンタリーという感じです。この本の訳者の池上貞子氏は
本書の構成について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  本書『何日君再来』は、テレサ・テンの死のなぞについて、
 彼女についていた監視(スパイ)が、親しい上司へ推測を入れて
 報告するという設定で、所々に真偽の不確かなテレサ本人の手
 記と称する文章が入っているという設定だ。これは、男と女の
 言葉(文章)が入り乱れて放たれているという点では前作の『行
 道天涯』(邦題『天の涯までも――小説・孫文と宋慶齢』)と同
 じ手法であり、着眼点も表向きは華やかさや権威に包まれ、ス
 ポットライトを浴びた人の、活躍の場を失った後の女性として
 の孤独や寂しさなどにある。   ――池上貞子氏のあとがき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「彼女についていた監視(スパイ)」というのは、本を
読む限り台湾当局の監視員であるようです。本当にテレサ・テン
はこのようにつねに国から監視されていたのでしょうか。
 この本の著者である平路は、その冒頭でテレサ・テンの死には
次の3つの疑問点があるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  第1の疑問点:フランス人の男のアリバイが疑わしいこと
  第2の疑問点:遺体の首には、小さな針の穴があったこと
  第3の疑問点:テレサ・テンのパスポートについての疑惑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「フランス人」というのは、もちろんステファンのことです。
彼の本名はステファン・ピュエールというのですが、本書のなか
では「ピュエル」と本名が使われています。著者は、暗に「ステ
ファンがテレサ・テンの死にかかわっている」ことを強調してい
るような感じです。
 これらの3つの疑問点については、ここで改めて繰り返すこと
はしませんが、この本を読んでわかることは、テレサ・テンとス
テファンの人間関係は相当ひどい状態になっていたことが鮮明に
わかるのです。もちろん、本の内容が真実であるという保証はあ
りませんが、他の情報源と照らしてみてもそういう状態になって
いても不思議ではないのです。
 いくつかの記述をひろってみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしはいつも彼女に「あの人を門口で待たしていていいんで
 すか」と言っていたのですが、彼女は全然気にしないで「ほっ
 とけばいいのよ、あんな人」と言っていました。
                  /ビデオ屋のおかみさん
 その後、物音が聞こえました。男性客がドアをたたいていて、
 キーを使っても開けられませんでしたから、おそらく、中から
 ロックしていたのでしょう。男性客は口汚くののしっていまし
 た。英語のスラングのようなものです。靴の先で荒々しくドア
 を蹴っていました。しばらく大騒ぎをしたあと、男性客はまた
 エレベータに乗り込んでいきました。
                    /最上階のフロア係
 ピュエルのあとについているとき、彼女は自分がしょっちゅう
 緊張していることに気がついた。あんた、自分がどんな罪を犯
 しているか、知っているの?彼女はピュエルに目配せし、そっ
 と壁に貼られた告示を指し示す。
 <麻薬は死刑、銃殺刑に値する罪である>
     ――『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述を読むと、チェンマイでもテレサ・テンとステファン
はよく喧嘩して、部屋に鍵をかけてステファンを入れなかったり
していた様子がよくわかります。それもステファンが大麻をやっ
ていることをテレサ・テンは知っていて、そのことを巡っていつ
も喧嘩をしていたのではないかと思われます。
 『何日君再来』――ちょっと変わった小説です。テレサ・テン
の死について関心のある人は読む価値があると思います。さて、
6月6日から7月8日まで、25回にわたって続けてきたテレサ
・テンのテーマ――いかがでしたでしょうか。
 『何日君再来』という歌については書いてみたいことが残って
います。しかし、それは改めて取り上げるとして、明日からは新
しいテーマを取り上げます。ご愛読感謝いたします。
               ・・・[テレサ・テン/25]


≪画像および関連情報≫
 ・『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』風涛社刊
  平路(ピン・ルー)/略歴
  本名は路平。1953年台湾高尾生まれ。台湾大学心理学部
  卒業後、アメリカに渡り、アイオワ大学で統計学の修士号を
  とり、しばらく働きながら創作活動を行う。1994年に正
  式に台湾に戻り、執筆活動に励む。著書に『玉米田之死』、
  『何日君再来』ほか多数

ある大スターの死.jpg
ある大スターの死
posted by 管理者 at 03:00| Comment(2) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月01日

●ステファンにまつわる大麻疑惑(EJ第1629号)

 テレサ・テンの足跡をたどると、ステファンと交際をはじめる
前と後とでは大きく運命が変わっていることがわかります。ステ
ファンと会う前は運気が非常に強く、多少の障害があっても跳ね
返して伸びる力があったのです。実際にテレサ・テンはステファ
ンに会う時点では世界的な歌手になっていたのです。
 しかし、ステファンと会ってからはしだいに運気が弱くなり、
仕事も少なくなっていったのです。持病の喘息もひどくなり、体
調は必ずしも万全ではなくなっています。さらに、テレサ・テン
にまつわる疑惑というものもこのステファンと無関係ではないの
です。
 1990年1月16日――あの勝新太郎が大麻不法所持で逮捕
されています。それからしばらく経って、トーラスレコードにと
んでもない情報が飛び込んできたのです。「テレサ・テンが大麻
を吸っている」というウワサです。
 この件についてトーラスレコードの舟木社長は、即座にパリに
飛んでテレサ・テンに会い、その疑惑について聞いています。し
かし、テレサ・テンはこれについて「絶対にやっていない」と強
く否定しているのです。
 ところが、ステファンには強い疑惑があるのです。それは、テ
レサ・テンが亡くなった年のチェンマイのメービンホテルにおけ
るステファンの不審な行動がそれを物語っています。
 テレサ・テンとステファンは、1994年の年末から1995
年にかけてチェンマイのメービンホテルに宿泊しています。既に
述べたように、そのときのテレサ・テンの体調は思わしくありま
せんでした。事実、1994年の年末にテレサ・テンは喘息の発
作を起こし、チェンマイラム病院に入院しています。
 実はそのときステファンは不思議な行動をとっているのです。
1994年8月に2人でチェンマイに行ったとき、テレサ・テン
はつねにステファンと行動をともにしており、どちらかが1人で
出かけることはなかったのです。
 しかし、1994年の暮れに行ったとき、テレサ・テンはほと
んどホテルに閉じこもっていたのに対し、ステファンは夕方にな
ると、1人でよく外に出かけていたのです。
 1995年4月にチェンマイに行ったときは、外に出かけるの
はステファンだけであり、それも出かけるのは夕方以降に限られ
ていたのです。ステファンは一体何のために、どこに行っていた
のでしょうか。
 既出の『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)の著者は、4回
にわたりチェンマイに取材をかけ、そのときのステファンの行動
を追跡しています。同書によると、ステファンが夜になると行っ
ていたのは、メービンホテルの近くのナイトバザールに店を出す
屋台だというのです。この屋台は、30代の女性と20代の小柄
な男性がやっていたといいます。
 屋台を見張っていると、外国人のツーリストたちがよくその屋
台に立ち寄っており、外国人が何かを話すと小柄な男がバイクで
どこかに出かけて、20分ほど経つと戻ってきてタバコのような
ものを渡すのを目撃したというのです。
 屋台の男女にステファンの写真を見せると、ステファンが屋台
によく来ることは認めたのです。それに彼らは、テレサ・テンも
一緒に来たことがあり、青物の野菜炒めをよく食べていたといっ
ています。
 この屋台について同書には、次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あの客に渡したタバコ(?)は、本当は何だったのか。調査
 を進めた。チェンマイの麻薬捜査局によれば、この屋台は麻薬
 組織の末端の販売ルートの一つになっており、とくに外国人観
 光客が利用しているという。屋台には常備しておらず、注文が
 あるとバイク便で指定の時間、場所に届ける。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はステファンが大麻を吸っていたことをホテル側は知ってい
たと思われるのです。かつてメービンホテルに勤務していたとい
うスタッフの一人は次のように証言しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨年(1994年)15階のルームボーイとして働いていまし
 た。テレサさんの部屋のクリーンアップをしながら、ああ、こ
 の臭いは大麻だと直感しました。ほかの場所から臭ってきたな
 んてことはありません。とっても強い臭いですから。
                      ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホテル側はステファンが大麻を吸っていた事実について従業員
に厳重に口止めしています。それでいて、従業員に次の命令を出
しています。これはテレサ・テンの死亡当日の作業記録です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   REMARK (テレサ)の夫の動静を注意して観察すること
                    ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これで、ステファンがホテルに戻ってきて、なかなか病院に行
かなかった謎が少し解けるのです。それは、部屋にあったと見ら
れる大麻の処分と部屋にこもる大麻の臭いを何とかするため、時
間がかかったのではないかと考えられるのです。
 推測ですが、この件に関してはホテル側も関与している疑いが
あります。ホテルとしては、テレサ・テンはホテルの部屋で死亡
したのではなく、病院への移送中に死亡したことにしたかったの
です。それは、警察側の捜査が15階1502室に及ぶのを何と
しても避けたかったからです。
 それにホテル側はステファンの帰国を助けています。とにかく
ステファンには一刻も早く、ホテルをチェックアウトしてもらい
たかったわけです。      ・・・[テレサ・テン/24]


≪画像および関連情報≫
 ・ナイトバザールはメービンホテルの裏側にある。
 ・ナイトバザールは、市の中心部、チャーンクラーン通りの両
  脇の歩道に約900メートルに渡って夜のみ出現するショッ
  ピングスポットで、ここでの買い物はチェンマイ観光のハイ
  ライトのひとつと言ってもいいだろう。店は、移動式の屋台
  のような造りの幅2〜3メートルの小さなものが中心で、そ
  の数は膨大だ。扱っているものは、基本的にお土産用に大量
  生産された民芸品が多く、洋服なら洋服、銀製品なら銀製品
  というようにひとつのカテゴリのみを販売しているところが
  多い。同じものを売っている店が多数あるので、買い物をす
  る時には何軒かで値段を聞いて相場を確認してからにした方
  がいいだろう。
   詳細は−−−−−−−−−−−−
   http://www.sawadeechao.net/cnxgoods/goods.htm

ナイトバザール.jpg
ナイトバザール
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月31日

●テレサ・テン/国をあげての盛大な葬儀(EJ第1628号)

 1995年5月12日未明――TG636便でテレサ・テンの
遺体はチェンマイから台湾の中正国際空港に戻ってきたのです。
このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀
仗兵が出迎えています。そしてこの日、テレサ・テンの葬儀を行
うための台湾政府葬儀委員会が発足しています。
 5月13日になると、遺体は台北にある中華テレビ局内に設置
された霊堂に安置され、棺にはテレサ・テンの好んだ色――紫の
布がかけられていたのです。そこにはテレサ・テンの肖像が掲げ
られ、堂内にはテレサ・テンの歌声が途切れることなく流されて
いたのです。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人
が足を運んでいるのです。
 5月22日に台湾政府は、テレサ・テンの葬儀を公葬(国葬に
準ずる)とすることに決定し、5月28日に実施すると発表して
います。そして、テレサ・テンには、次の褒章が授与されていま
す。一芸能人にはまさに異例のことといえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      政府 ・・・・・・・ 華夏一等奨章
      軍 ・・・・・・・・ 陸海空軍褒章
      僑務委員会 ・・・・ 華光一等奨章
      総統 ・・・・・・・ 褒揚令 褒章
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「華夏一等奨章」は日本でいうと国民栄誉賞のようなものに当
たりますが、芸能人に授与されるのははじめてのことです。
 5月28日の葬儀は、午前7時30分から親族だけの葬儀、午
前8時から友人や葬儀委員による追悼会、午前9時からは公葬、
午前11時から覆旗典例の順序で進められたのです。
 追悼会では、トーラスレコードの舟木社長が弔辞を読み、その
席には作詞家の荒木とよひさ、作曲家の三木たかしの姿もあった
のです。追悼会の最後にはテレサ・テンが残した詞に曲をつけた
「星願」が演奏されています。歌ったのは、テレサ・テンの声に
似ている李宝埼という歌手であり、歌は葬儀の2日前に完成した
といわれています。
 午前9時から11時までは公葬が行われています。台湾以外で
は、香港、日本、東南アジア各地、中には大陸から処罰覚悟で多
くのテレサ・テンファンが参列し、その規模は国家主席であった
蒋介石総統の葬儀に次ぐものとなったのです。
 午前11時からの「覆旗典例」について、有田氏は次のように
書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  午前11時過ぎ、「覆旗典例」がはじまった。総統府秘書長
 国民党中央委員会秘書長などの手によって棺が閉められ、中華
 民国旗(青天白日満地紅旗)、国民党旗(青天白日旗)がかけ
 られた。芸能人としてはじめてのことである。哀悼の演奏が行
 われるなかを連戦・行政院長、宗楚瑜・台湾省長らが焼香し、
 献花した。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてテレサ・テンの棺は精鋭軍人に担がれ、車で金宝山霊
園に向ったのです。葬儀場周辺や沿道には3万人のファンが詰め
かけて、棺を見送っています。
 テレサ・テンは金宝山霊園の公墓に土葬されたのです。台湾で
は、土葬する場合の手続きが難しく、土地取得も必要なので、特
別の功労のあった人だけが許されるのです。
 チェンマイでテレサ・テンが死亡したとき、台湾の著名な霊園
が次々に土地提供を申し出たというのです。結局は金宝山霊園に
決まり、現在では台湾の観光スポットになっているのです。とく
に日本人はよくテレサ・テンの墓を訪れるといいます。
 テレサ・テンの葬儀の模様を見た日本人は、改めてテレサ・テ
ンが、台湾や中国、それに東南アジアをはじめとする華僑社会に
おいていかに影響力を持つ歌手であったかを思い知らされたと思
うのです。日本と他のアジアの諸国とでは、テレサ・テンの評価
に関して大きなギャップがあったからです。
 テレサ・テンの墓地のある金宝山霊園のパンフレットには、テ
レサ・テンについて次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはわが国の芸能文化にその一生をささげたばかり
 でなく、国際的に傑出した芸術家でありました。彼女は常に努
 力を惜しまず、奇跡ともいえる芸術性を発揮して、歌謡界にお
 いて空前の成功をおさめました。と同時に、国を愛し、軍を敬
 い、軍人の士気を鼓舞する活動にも大いに貢献したのです。そ
 の甘美で優雅な歌声は、大陸はおろかアジア、世界の華人まで
 も魅了し、深い感動を呼びました。しかし、なににもまして重
 要なことは、彼女が純真にして善良な、誠実にして謙虚な人格
 の持ち主であったことです。であればこそテレサ・テンは、中
 国文化や中国歌謡を真に国際化することに成功した唯一の巨星
 となり得たのです。
 ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 晶文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンが亡くなってから、彼女の突然死に関連していく
つかの疑惑が報道されています。エイズ死亡説、毒殺説、大麻疑
惑、スパイ疑惑など・・・です。死因に不審な点があるとされた
のは、チェンマイのテレビ局がテレサ・テンの遺体の上半身を無
神経にも放送したからです。それを英国のロイター通信社がそれ
を世界に配信したのです。とくに左の耳の下の赤い斑点があるこ
とは大きな話題となったのです。それに関して、ステファンにつ
いても数多い疑惑が出ています。
 そのほとんどは根拠のないものであり、改めて取り上げるまで
もないことですが、納得できない人も一部いることは確かです。
テレサ・テンのテーマはあと2回で終了する予定ですが、残りの
2回で、これらの疑惑について述べたいと思います。
               ・・・[テレサ・テン/23]


≪画像および関連情報≫
 ・金宝山墓園
  テレサ・テンが眠るのは台北県北海岸の金宝山墓園。台北市
  内から車で1時間半ほどの小高い山にあり、海も一望できる
  眺めのよい墓地である。テレサのお墓の前には、ト音記号の
  形に美しく整備された花壇の中にテレサの銅像が静かにたた
  ずんでいる。毎年命日の5月8日には、この「テレサ・テン
  紀念公園」で、テレサを偲ぶ記念式典が開催される。

  http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200504/park.html

テレサ・テンの墓園.jpg
テレサ・テンの墓園
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

●テレサ・テン/メービンホテルで客死(EJ第1627号)

 1994年12月31日――テレサ・テンはチェンマイのメー
ビン・ホテルにステファンと一緒に宿泊していたのです。結局、
この年の紅白歌合戦にテレサ・テンは選ばれなかったのです。
 この日ホテルの中庭には新年のカウントダウン用の会場が設け
られており、約300人ほどの宿泊客がカウントダウンを待って
いたのです。テレサ・テンとステファンも宿泊客と一緒にカウン
トダウンを見ていたといいます。
 午前0時に花火が上がり新年が告げられると、ホテルの総支配
人がテレサ・テンに一曲歌って欲しいといってきたのです。そこ
でテレサ・テンが歌ったのは、『梅花(メイフア)』という歌な
のです。この『梅花』という歌には台湾の悲しい歴史が秘められ
ているのです。
 1972年2月21日、米大統領ニクソンは訪中して毛沢東主
席と会談、カーター政権時代の1979年に米中の間に国交が樹
立されたのです。それと同時に米国は台湾との国交を断絶し、台
湾は国際的に孤立してしまうのです。
 台湾では意気消沈した国民を励まそうと、いろいろな歌が作ら
れています。そのひとつが『梅花』なのです。この歌は中国でも
流行したのですが、中国政府はこの歌を放送禁止処分にしている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    梅の花、梅の花
    それはこの世に満ち溢れ 寒ければ寒いほど花開く
    ・・・・・・・・・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌い終わると、会場から盛大な拍手と歓声がわきあがったので
す。そして、この小さな舞台での歌が、アジアの歌姫テレサ・テ
ンの最後の舞台になったのです。
 実は、テレサ・テンは12月30日の午前9時に喘息の発作を
起こし、ホテルに医師を呼んでいます。医師が部屋に入ると、寒
いほどエアコンがきいており、部屋にはタバコの煙が充満してい
たといいます。ステファンはヘビー・スモーカーで冷房を強くす
るのがつねであったからです。しかし、これは喘息患者には最悪
の環境なのです。
 医師は直ちにステファンにタバコをやめさせ、テレサ・テンを
チェンマイの市内で一番設備の整っているラム病院に入院させた
のです。医師の治療の結果、翌31日の大晦日になると、喘息の
発作は収まったので、退院したいと願うテレサ・テンの要望を受
け入れて、退院させています。その数時間後にテレサ・テンはホ
テル側の要請によって『梅花』を歌ったのです。
 いったん香港に帰ったテレサ・テンは4月に再びチェンマイに
やってきます。もちろん、ステファンも一緒です。この頃のテレ
サ・テンの身体の調子は一段と悪化しており、かなり咳が出てと
まらない状況だったといいます。このとき、テレサ・テンは、前
回発作を起こしたとき診てもらった医師のクリニックを訪ね、診
察を受けて薬を調合してもらっているのです。
 1995年5月8日――いつも通りにルームサービスで朝食を
とったテレサ・テンは、どこにも出かけず、一日中部屋に閉じこ
もっていたといいます。しかし、ステファンは夕方になってひと
りで外出しているのです。このときは、部屋に閉じこもってほと
んど外に出ないテレサ・テンと対照的にステファンはよく外に出
かけています。一体何をしに出かけたのでしょうか。
 そのあと、異変が起こったのです。午後5時15分頃になって
テレサ・テンは部屋のドアを開け、よろよろと少し歩いたところ
で突然倒れたのです。これを15階のカウンターの女子従業員が
見ており、責任者に通報します。
 テレサ・テンはすぐチェンマイラム病院に運ばれたのですが、
道路が渋滞しており、通常であれば10分で着く病院に30分も
かかってやっと到着したのです。直ちに緊急治療室に入れられた
のですが、テレサ・テンはそのときは既に死亡していたのです。
 病院長による手書きの死亡通知書には、次のように記述されて
いたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1995年5月8日 関係各位殿――テン・リー・ユン夫人は
 午後5時30分頃、病院到着前に死亡、病院ではすでに心臓停
 止、瞳孔は開いたままで、脳死の状態であった。一定の時間蘇
 生措置が試みられたが、生還せず。享年42歳。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき、ステファンは外出中でしたが、彼は非常に不審な行
動をとっているのです。
 ステファンはこの日の夕方に外出しています。正確な時刻は不
明ですが、テレサ・テンが部屋から出てくる午後5時15分より
も前であることは確かです。
 ステファンがホテルに戻ってきたのは、午後6時30分頃とい
うことです。その時点でテレサ・テンは既に死亡していたのです
が、ホテルのマネージャーは本当のことがいえず、ステファンに
すぐに病院に行くよう求めたのです。それからステファンは部屋
に入り、1時間経過しても出てこなかったのです。
 マネージャーが電話して「危篤ですから、すぐ行くように」と
重ねていったのですが、それでも出てこないのです。仕方がない
ので、マネージャーは部屋を訪ね、すぐに行くよう求め、やっと
病院に行かせたのです。そのため、ステファンが病院に着いたの
は午後8時を回っていたといいます。午後6時30分から8時過
ぎまでの2時間近い空白の時間――ステファンはホテルの部屋で
一体何をしていたのでしょうか。
 しかも、ステファンは遺体解剖同意書には「解剖するな」と書
き入れています。そして、ホテルに戻ったステファンはテレサの
家族と連絡をとったのです。 ・・・[テレサ・テン/22号]


≪画像および関連情報≫
 ・『梅花』の歌詞
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  梅の花 梅の花 それはこの世に満ち溢れ
  寒ければ寒いほど花咲く
  梅花の辛抱強さは私たちの広大な大中華を象徴する
  ごらんなさい あたり一面梅の花 土地があればきっとある
  氷雪風雨もおそれない
  それは私の国花です
  (館野雅子訳)
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

メービンホテル.jpg
メービンホテル
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

●果たせなかった4回目の紅白出場(EJ第1626号)

 「民主中国陣線」――テレサ・テンが自分の生活の拠点をパリ
に移してまで支援しようとしていた団体ですが、時間の経過と共
に彼女は次第に彼らと距離をおくようになっていったのです。
 それは「民主中国陣線」内部の度重なる内紛、腐敗などにある
のです。テレサ・テンをはじめ当初は大量に寄せられた資金を無
駄なことに費やしたり、持ち逃げする者まで現れ、メンバーは激
減してしまったのです。
 それにフランス政府自体が中国寄りの姿勢をとるに及んで、民
主中国を実現する運動は一層やりにくくなってきたのも事実なの
です。そもそも自らは海外の安全な場所にいて、そこから民主中
国を実現する運動をすること自体に無理があったのです。
 まして周りは中国の環境とはまるで違う自由の国フランス――
若者の中にはそれに目を奪われ、自分を見失ってしまう者も少な
からず出てきたのです。組織が衰退するのは時間の問題だったと
いえます。そして、こんなことがいわれるようになったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 共産党は40年かかって腐敗したが、パリの民主化運動組織は
 たったの4ヶ月で腐敗してしまった・・・と。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうやらテレサ・テンは、パリに生活の拠点を構えて、資金は
日本で稼ぐことによって、民主中国化運動を支える計画を持って
いたようです。その時点でのテレサ・テンの音楽活動は、香港や
台湾でも年に1回程度しか歌っていないのですが、日本では年に
2曲程度の新曲を出しており、CM――金鳥の蚊取り線香/何日
君再来、メナード化粧品/あなたと共に生きてゆく――などにも
積極的に出るようになっていたのです。しかし、往時の勢いは既
になくなっていたのです。
 1993年10月24日――テレサ・テンはフランスを離れて
香港に戻ります。そのときパリで出会った14歳年下のステファ
ン・ピュエールなる恋人と一緒だったのです。そして、二度とフ
ランスの自宅に戻ることはなかったのです。
 このステファン・ピュエール――たいした人物ではなく、非常
に疑惑の多い男なのです。テレサ・テンはこの人物と出会ってか
ら、急速に運が傾き、生活自体が乱れていったのです。この頃の
テレサ・テンはしばしば体調を崩し、かなり痩せていたのです。
そして、ステファンとしばしばチェンマイに現れる頃には容貌が
一変し、相当老け込んでしまっています。
 有田氏の本によると、テレサ・テンはステファンと何度も別れ
ようとしたようです。本に次の一節があります。テレサ・テンと
ステファンの関係がよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  香港の自宅でのことだ。ある日の夜中、大喧嘩をした二人が
 二階から降りてきた。テレサは泣きながら「出ていけ」と叫ん
 だ。ステファンは家を出たが、十分ほどあとでチャイムが鳴っ
 た。外は大雨だったので、全身はすぶ濡れだ。その姿を見たテ
 レサはそれ以上怒ることはできなかった。激しい喧嘩が繰り返
 されるようになっても別れなかったのは、テレサが優しすぎた
 からである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時期になってもテレサ・テンは台湾に戻ると、軍への慰問
を無報酬できちんと続けていたのです。台湾政府はこの献身的な
テレサ・テンの軍への協力に非常に感謝していたのです。そのた
め、テレサ・テンスパイ説などが彼女の死後出てくる原因のひと
つとなるのです。
 テレサ・テンは寒さに弱いのです。そのため冬になると通常は
タイのプーケットで過ごすことが多かったのです。しかし、ここ
は雨が多く不満を持っており、代わりに見つけたのが北部のチェ
ンマイなのです。
 テレサ・テンが最初にチェンマイを訪れたのは、1994年8
月のことです。常用していたホテルは、インペリアル・メービン
ホテルであり、1995年までに3回利用しています。そして、
このチェンマイがテレサ・テンの最後の地になるのです。
 同じ1994年10月23日――テレサ・テンは日本に来てい
ます。24日に仙台市で行われるNHKの「歌謡チャリティコン
サート」に出演するためです。その目的は、その年の暮れに行わ
れる紅白歌合戦への出場を確実にするためといわれています。
 ここまでテレサ・テンは、1985年、1986年、1991
年と3回の紅白出場を果たしていますが、1994年の紅白にも
出場を狙っていたのです。この時点での日本におけるテレサ・テ
ンの人気には陰りが出ており、紅白出場で何とか劣勢を挽回した
いと考えていたのです。
 しかし、このときのテレサ・テンの体調は最悪であり、いつも
は決してわがままをいわないテレサ・テンは、この来日のときだ
けは決まっていたスケジュールを大幅に修正させたり、飛行機に
乗り遅れたりと、失敗の連続だったようです。後でわかったこと
ですが、テレサ・テンはステファンと大喧嘩して、日本に来てい
たのです。終始不機嫌だったのはそれが原因なのです。
 本番でテレサ・テンは「夜来香」と「時の流れに身をまかせ」
を歌ったのですが、いつもなら滑らかに出る声に張りはなく、明
らかに不調だったのです。そして、今考えると、これがテレサ・
テンの日本での最後の歌になってしまったのです。
 この最後の来日のとき、成田空港でラジオ番組用の収録が行わ
れています。このときの声は元気がなく、最後に「日本にまた来
たいです。テレサ・テンでした」としめくくっています。
 飛行機の出発時間がきたとき、トーラス・レコードの鈴木章代
さんは「身体に気をつけて。香港の空港にはステファンが迎えに
きているからね」と呼びかけています。
 これに対してテレサ・テンは、「ありがとう。行ってきます」
と言葉を返しています。これがテレサの見納めとなったのです。
               ・・・[テレサ・テン/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ステファンとのツーショット
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

テレサとステファン.jpg
テレサとステファン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月26日

●なぜ、香港を捨ててパリに行ったのか(EJ第1625号)

 「歌で中国人の心をひとつにしたい」――こう考えるテレサ・
テンの希望は、天安門事件によって無残にも踏みにじられること
になります。ショックが大き過ぎて、1989年6月24日から
予定されていた日本でのキャンペーンは中止せざるをえなくなっ
たのです。しかし、21日に予定されていたテレビ朝日の「郷ひ
ろみ宴ターテイメント」への参加は中止するわけにはいかず、香
港からの中継で参加しています。
 そのときテレサ・テンは黒いチャイナドレスに真珠のネックレ
スをしていましたが、これは明らかに天安門事件の犠牲者に対す
る喪装だったと思われます。歌った歌は「香港」――この歌の二
番の歌詞「心だけが帰るところはきっとこの街」のところで涙声
になり、あとは泣きながら歌っているのです。
 天安門事件のあと、テレサ・テンは香港の自宅を紫一色に塗り
変えています。気分の一新ということもあるでしょうが、199
7年に香港が中国に返還されると、人民解放軍がやってくること
を非常に恐れており、それを防ぐという意味もあっての改装とも
いわれています。紫という色は運がついてきて、自分を守ってく
れる――これはつねづねテレサ・テンがいっていた言葉です。
 そのため、テレサ・テンの邸宅は「紫の館」と香港の人々にい
われるようになったのです。しかし、テレサ・テンは、内心ひそ
かに恐れていた1997年の香港返還まで残念ながら生きること
はできなかったのです。
 1989年11月20日――テレサ・テンは香港をあとにして
パリに旅立ちます。それは単なる旅ではなく、生活と音楽活動の
拠点をパリに移すための決意の旅立ちだったのです。
 彼女はこの突然のパリ行きについては母親にも相談せず、一人
で決断しているのです。とりあえずのパリでの生活の拠点は、凱
旋門から10分くらいの距離にあるフォブール・サン・トノレ通
り230番地の家具付きワンルームだったのです。そして一年後
にモンテニュー大通りのアパルトマンを購入しています。本気で
長く住むつもりであったことがこれでわかります。
 なぜ、気に入っていた香港での生活を捨てて、パリに移ったの
かについて、有田芳生氏はテレサ・テンに何回も尋ねていますが
彼女は次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 政府は全然信用できないですからね。もし、わたしが無視して
 自分のいい生活をそのままして(いたら)、多分そのあと大きな
 災難(が)来ると思います。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このテレサ・テンのことばを聞くと、やはり彼女はやがて中国
政府が自分に対して、何らかの関与をしてくるのではないかと考
えていたことがわかります。確かに中国政府から見ると、大陸と
台湾の両岸で高い人気を持つ有名な歌手テレサ・テンは、政治的
に一番有効に利用できる存在であるからです。
 「香港にいては危ない」――テレサ・テンがそう考えたのは間
違いないとしても、それではなぜ、フランスなのでしょうか。テ
レサ・テンはフランス語がまったく話せないのです。
 有田氏の本を読んでわかったことですが、天安門事件が起こっ
た1989年という年は、フランス革命から200周年に当る年
なのです。フランス政府は、パスポートや身分証明書を持たない
者であっても積極的に中国からの政治亡命者を受け入れる方針を
明らかにしていたのです。
 これによって、パリは中国からの政治亡命者を大量に受け入れ
「民主中国陣線」(FDC)が結成されたのです。海外から中国の
民主化を推進する――それが目的だったのです。
 この組織のリーダーとしては、学生リーダーのウアルカイシや
チヤイ・リン(柴玲)、経済学者のイエン・チアー・チー(厳家
其)などが就任し、活発に活動を始めたのです。
 テレサ・テンのパリ移住がこのことと無関係であるとは思えな
いのです。彼女としては、自分もパリに住まいを移し、「民主中
国陣線」を何らかのかたちでバックアップしたかったのではない
か――そう思われるのです。
 彼らはフランスのマスコミと連携して声明を出したり、「人民
日報」の海賊版をFAXで送りつけるなど、さまざまな活動をは
じめたのです。実際にパリに居を構えたテレサ・テンは、彼らと
食事をしたり、集会に参加したりしてお互いに中国の情報を交換
しています。
 さらに具体的にテレサ・テンは「民主化支援コンサート」を開
こうと提案しています。「民主中国陣線」では、野外でやるか、
劇場でやるかが話し合われ、劇場でやる方がベターであるという
ことになったのです。会場はブローニュの森の北東角にあるパレ
・デ・コングレでやろうということになったのです。
 実際にコストが計算され、全部で120万フラン(約2640
万円)かかることがわかったのですが、それを支援してくれる新
聞社や団体はどこもなかったのです。
 しかし、「お金の心配はいらない」といっていた頼みの綱のテ
レサ・テンは最終的に「民主中国陣線」のコンサートプランには
乗らず、天安門事件に抗議するコンサート構想は幻に終わってし
まったのです。
 テレサ・テン自身が話していないので、本当の理由は推測する
しかないのですが、次の2つの理由からであると考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンは屋外の無料コンサートを考えていたのに、
   民主中国陣線は劇場で有料開催にこだわったこと
 2.多数の死者が出た事件に対して、歌うという行為で抗議す
   ることに最終的に疑問を感じてしまっていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民主中国陣線は組織としてうまくいっておらず、資金不足で焦
りがあり、そこがテレサ・テンと折り合えなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/20]


≪画像および関連情報≫
 ・パリ時代のテレサ・テン
  平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より。晶文社刊

セーヌ川とテレサ・テン.jpg
セーヌ川とテレサ・テン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

●両岸の政治に翻弄される『龍』と『君』(EJ第1624号)

 1989年6月3日の夜の天安門広場の様子です。それは6月
4日未明の惨劇のあと辛うじて脱出した学生リーダーの一人であ
る柴玲(チャイ・リン)の吹き込んだテープによって詳しく知る
ことができます。
 その夜広場に座り込む学生たちは誰ともなく「龍的傳人」(ロ
ンダチュアンレン)を歌い出したというのです。この歌はあの台
湾出身のシンガーソングライター候徳鍵が作曲した歌であり、座
り込みの現場に当の候徳鍵がいたからです。
 「龍的傳人」の中間部分に次の一節があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        古き東方に一匹の龍がいる
        その名は中国
        古き東方に一団の人がいる
        彼らは龍の傳人だ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 龍は、馬の頭、鹿の角、蛇の胴体、鶏の爪という生命力の強さ
の象徴を合体させた架空の動物なのです。中国では昔から龍神崇
拝があり、やがていつしか中国は自らを龍にたとえるようになっ
ていったのです。中国人は龍の子孫であるというのです。
 候徳鍵がこの歌を発表したのは1978年――台湾で20万枚
を超える爆発的なヒットになったのです。とくに大陸では熱狂的
に受け入れられたのです。なぜなら、この歌は明らかに大陸讃歌
であるからです。
 1978年といえば、テレサ・テンが2回目のリサイタルを開
いた年であり、1979年には日本で偽造パスポート事件を起こ
しています。テレサ・テンと候徳鍵はともに外省人の人気歌手で
あり、ともに大陸に対して一種の憧れを抱いていたという共通性
はあるものの、その後の運命はきわめて対照的です。
 台湾政府から「愛国歌手」と称えられたテレサ・テンに対して
候徳鍵は同じ台湾政府から「売国奴」として扱われることになる
からです。どうして候徳鍵は、そういう運命になったしまったの
でしょうか。
 台湾政府は、「龍的傳人」が台湾や大陸で大ヒットすると、こ
の歌は大陸讃歌であるとして、放送・販売を全面停止処分とする
のです。そういう事情もあって、1983年に候徳鍵は新婚間も
ない家庭を捨て、香港経由で大陸に渡り、そのまま中華人民共和
国に亡命しているのです。そして大陸で音楽活動を始めるのです
が、これには共産党のバックアップがあってのことなのです。
 その候徳鍵が再び注目を集めたのは、1989年6月2日のこ
とです。天安門広場の学生を支援するため、知識人3人とハンス
トに参加したときです。
 候徳鍵は天安門広場に最後まで残っている学生や市民の安全の
保証を軍隊とかけあったとされています。しかし、交渉はうまく
行かず、軍は6月4日の未明に戦車を繰り出して学生たちの強制
排除を行うのです。
 この強制排除によってどのくらいの犠牲者が出たかについては
不明なのです。それでも当日天安門周辺で319人が死亡してい
るのは確かなのです。まさに「血の弾圧」といえます。1997
年になって、全人代常務副委員長の非公式発言によると、北京を
含めた全国21都市で学生・市民と当局の衝突で15000人以
上の死傷者が出たことを認めているのです。
 しかし、6月4日の天安門広場の騒乱の渦中に候徳鍵はいなく
なってしまったのです。ところが2ヶ月後に、候徳鍵は何事もな
かったように北京の自宅に戻るのです。1989年8月22日の
読売新聞は次のように伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 北京の民主化要求運動で学生たちと最後まで天安門広場に残り
 その後、行方が全く知れなかった台湾出身の人気歌手兼作曲家
 候徳鍵さん(33)が、このほど2ヶ月ぶりに北京市内の自宅
 に無事戻った。候さんはこの間、中国当局の追及を恐れて在北
 京オーストラリア大使館に避難していた。同大使館を離れるに
 当たっては中国当局との間で候さんの安全確保など「裏取引」
 があったとの見方がもっぱらだ。
           ――1989年8月22日付、読売新聞
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 候徳鍵は外国人記者に天安門事件について聞かれたとき、次の
ように答えていますが、これは明らかにウソであり、中国当局と
の取引であると考えられるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 学生、市民、軍人に限らず、殺された者は一人として見なかっ
 たし、戦車や装甲車が群集をひくのも見ていない。
             ――読売新聞社記者の質問に対して
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、候徳鍵は天安門事件のさい、当局に拘束された知識人
や学生の釈放を求めて当局と折衝するなどの活動を行っていたの
です。そして、彼は天安門事件から1年が経過する前後に再び姿
を消してしまうのです。
 これは、天安門事件一周年の活動を警戒する中国当局によって
他の活動家と一緒に「予防拘束」されたものとみられます。そし
て候徳鍵は、1990年6月20日に台湾に姿を現したのです。
彼は自ら中国を脱出し、台湾に戻ったとしていますが、これは中
国から強制送還されたとの見方がもっぱらなのです。候徳鍵が台
湾に戻ってよいことは何もないからです。
 果たせるかな、候徳鍵は社会から黙殺されたまま、人目を忍ぶ
ように台湾で暮らしていたのですが、1994年10月に覚せい
剤所持の現行犯で台湾の警察に逮捕されたのです。
 こういう経過を知ると、テレサ・テンも候徳鍵も台湾と中国の
政治のはざまに翻弄された犠牲者であると見ることができます。
ともに民主的な中国を夢見て活動していたのです。それにしても
候徳鍵の「龍的傳人」は素晴らしい詞ですね。
               ・・・[テレサ・テン/19]


≪画像および関連情報≫
 ・「龍的傳人」/作詞・作曲/候徳鍵
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  はるか東方にひと筋の川がある   古き東方に一匹の龍がいる
  その名を長江という        その名は中国
  はるか東方にひと筋の川がある   古き東方に一団の人がいる
  その名を黄河という        彼らは龍の傳人だ
  長江の美しさを未だ目にしないが  巨龍の足もとで私は育ち
  魂はつねに長江に遊んでいる    やがて私も龍の傳人になった
  黄河の怒涛を未だ目にしないが   黒い瞳、黒い髪、黄色の肌
  その響きを夢のなかで聞いている  我らは永遠に龍の傳人
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 唱文社刊


天安門事件.jpg
天安門事件
posted by 管理者 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月24日

●ハッピー・ヴァレーでのテレサ・テンの歌(EJ第1623号)

 テレサ・テンがハッピーヴァレーに行って歌おうと決意したの
は、会場で3人の歌手が歌い終わった直後です。彼女は鐘肇峯の
了解をとりつけると会場に電話をして歌うことを告げています。
 会場の関係者は非常に喜び、「漫歩人生路」を歌ってくれませ
んかと曲をリクエストしてきたのです。この曲は中島みゆき作詞
・作曲の「ひとり上手」の中国語バージョンであり、香港でヒッ
トしていたのです。主催者はテレサ・テンが当初出演を断ったに
もかかわらず、多くの人を動員するため、勝手にテレサ・テンが
出演してこの歌を歌うことを発表していたのです。
 しかし、テレサ・テンはこれを拒否し、支度をしてすぐ家を出
るのです。決意してからというものテレサ・テンは泣きっぱなし
で涙を流しており、化粧をしないで、ジーンズにTシャツを着て
サングラスをかけたのです。テレサ・テンとしては異様ないでた
ちで、ベンツ280に乗って出かけたのです。
 テレサ・テンは途中で鐘肇峯をひろって、ピアノが弾けるとこ
ろを探しまくっています。短い時間でも練習したいと考えたから
です。しかし、あいにく使えるピアノはなく、そのままハッピー
ヴァレーにある亜細亜酒店(アジアホテル)に行ったのです。こ
のホテルは出演者の衣装替えに使われていたからです。
 テレサ・テンはそこで、主催者から集会のために制作されたT
シャツを渡されるのです。そこには「民主歌声献中華」と書いて
あったのです。
 テレサ・テンはそのTシャツには着替えたのですが、化粧はせ
ず、そのまま主催者のバンに乗って会場に向ったのです。そして
出番がきたとき、テレサ・テンは「民主萬歳」と赤い文字で書い
たハチマキをして、胸と背中に2枚のプラカードをぶら下げてい
たのです。前面には「反対軍管」、背中は「我愛民主」とテレサ
・テン自身の字で書かれていたのです。
 司会者の若者に紹介されてテレサ・テンが舞台に登場すると、
彼女の異様ないでたちに一瞬会場は静まり返り、そのあと大歓声
が湧いたのです。テレサ・テンはマイクを取ると、次のように挨
拶しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ありがとう。みなさん本当にありがとう。これほど熱心に民主
 を打ち立てようと努力している。そんなみなさんと香港で一緒
 にいられることをとてもうれしく思います。わたしはある一つ
 の歌を練習してきました。その歌をわたしはこれまで歌ったこ
 とはありません。この歌を耳にしたことのあるひとも少ないは
 ずです。みなさん、この歌を聴いて、わたしのこころがいった
 い何を叫びたかったのかわかってください。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはこういうと鐘肇峯のピアノを伴奏に歌い始めた
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       わたしの家は山の向こう
       そこには豊かな森があり
       そこには果てしない草原がある
       ・・・・・・・・・・・・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことに、有田芳生氏の本にはテレサ・テンがハッピー
ヴァレーの競馬場の集会で歌った「我的家在山的那一邊/私の家
は山の向こう」が収録されているCDが付いているのです。おそ
らく会場で誰かが録音したカセットテープをダビングしたものと
思われます。そこには、歌う前にテレサ・テンが話した小さな演
説――(前述)も入っています。聴いてみると、感情がこもって
おり、胸を打ちます。
 そもそもこの歌は、1936年、日中戦争当時に「松花江上」
のタイトルで流行した歌であり、かつての日抗歌なのです。この
歌は1960年代に入り、共産党政権に追われて家を失い、故郷
を後にした外省人の望郷歌として再現されているのです。昔の台
湾の人々なら誰もが知っている歌ですが、大陸では絶対に歌われ
ない歌なのです。したがって、テレサ・テンはこの歌を歌うこと
によって北京政府に対して明確に抗議したのです。
 このとき舞台の袖には候徳鍵(ホウ・ドウチエン)という台湾
出身のシンガーソングライターがテレサ・テンの歌を聴いていた
のです。この候徳鍵は、6月4日未明のいわゆる天安門広場の虐
殺のあと、姿を消すのですが、これについては改めてお話しする
ことにします。
 テレサ・テンが「我的家在山的那一邊」を歌った直後から資金
カンパが激増し、この日だけで1200万香港ドル(約2億16
00万円)を超えたといいます。香港においてテレサ・テンの影
響力がどんなに大きいかを示すエピソードです。
 5月27日のマラソン・コンサート(30万人参加)の次の日
は「全世界華人抗議デー」と名づけられたのですが、香港では民
主化支援デモが行われ、約200万人が参加しています。
 しかし、北京では政府の圧力によってデモは徹底的に押さえ込
まれ約5万人、上海では1万人、南京では3万人がデモに参加す
るにとどまっています。
 こういう状況を見て、天安門広場に座り込みを続ける学生指導
部の間では占拠継続か撤退かの意見の対立が生じていたといわれ
ているのです。
 1989年6月2日――そのとき天安門広場にいた学生は、約
3000人、そこに新たに知識人や有名歌手ら4人が「李鵬政権
の高圧的政治に反対する」として、72時間の時限ハンストに突
入したのです。その4人の中に前述の台湾のシンガーソングライ
ター候徳鍵も入っていたのです。
 このことが天安門広場にいる学生たちに大きな心の支えになっ
たことは確かです。そして、運命の6月4日未明を迎えることに
なります。
               ・・・[テレサ・テン/18]


≪画像および関連情報≫
 ・「我的家在山的那一邊/私の家は山の向こう」
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私の家は山の向こう       私の家は山の向こう
 そこには豊かな森があり     張おじさんは喜びを失い
 そこには果てしない草原がある  劉おじさんは笑顔をしまい込んだ
 春には稲や麦の種を撒き     鳥は暖かな巣を飛び立ち
 秋には刈り取り新年を待つ    春は冷え冷えとした冬に変わった
 張おじさんは愁いなく      親しい友らは自由を失い
 劉おじさんは永遠に明るい    麗しい団欒を捨て去った
 地底から飛び出した狸鼠によって 友よ一時の歓楽を貪るなかれ
 全てがすっかり様変わり     できるだけ早く帰って
 それは山脈を孤独にし      民主の火を燃やそうよ
 人間的な善良を飲み込んだ    私の育った所を忘れちゃいけない
          それは山の向こう
          山の向こうなの        (館野雅子訳)
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン.jpg
パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

●テレサ・テンはなぜ決断したのか(EJ第1622号)

 香港島の最南端に海を望む高級住宅街があります。街の名前は
スタンレー――1987年、テレサ・テンはそこに二階建ての住
居を購入し、住むようになります。この住居は付近の住民からは
「紫の館」と呼ばれていたのです。(添付写真参照)
 スタンレーの中国語名は「赤柱」で、実は「泥棒の隠れ家」を
意味するのです。英国の植民地大臣のスタンレー侯爵にちなみ、
1845年にスタンレーと改名されましたが、中国人の多くは今
でも古い名前の「赤柱」と呼んでいます。
 中国人は住宅を購入するとき「龍が住めるかどうか」という奇
妙なことを必ず考えるといわれます。中国では皇帝から庶民まで
龍は「運を呼ぶ縁起の良い動物」として、とても尊重されている
からです。
 香港に住むとしたらどこを選ぶかということになると、それは
英国人の住んでいたところということになります。彼らは一番良
いところに住んでいたに決まっているからです。そこは、浅水湾
(レパルス・ベイ)――高級ビーチリゾートで、映画『慕情』の
舞台となったところです。(添付写真参照)
 テレサ・テンも浅水湾を最初は考えたのですが、「浅水湾では
龍が住めない」という理由でやめています。彼女は自分の生年月
日が旧暦では「辰年」に当るので、とくに龍にこだわっていたの
です。これが住居をスタンリーに決めた理由です。
 さて、香港の作曲家に鐘肇峯(ツオンツアーフオン)という人
がいます。鐘肇峯はテレサ・テンが新曲を録音するときにその編
集作業を手がけていたのです。未確認情報ですが、テレサ・テン
は、楽譜(スコア)が読めなかったといわれているのです。その
ために新曲を出すに当っては、その介添え役をする作曲家が必要
だったのです。鐘肇峯はこの面で香港におけるテレサ・テンのサ
ポートをしていた作曲家の1人なのです。
 余談ですが、作曲家の三木たかしは、テレサ・テンに歌を与え
るとき、歌の内容を説明し、中国語で完全に理解させます。その
うえで、ピアノを弾きながら自分で歌って聞かせるのです。この
ようにしてテレサ・テンに歌を覚えさせたといっています。
 テレサ・テンが亡くなったとき、三木たかしと荒川とよひさは
次のCDを出しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『ありがとう テレサ・テン/三木たかし』
    TACL−2407/taurus   
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CDには三木たかしと荒川とよひさのコンビで作ったテレサ・
テンのヒット曲をすべて三木たかしが歌っているのです。作曲家
であり、自分の作った曲といっても歌は素人です。それでもあえ
て歌う――それがテレサ・テンへの感謝であり、思い出であり、
心からの追悼になると三木は考えたのだと思います。
 三木の歌はしみじみと聴く者の心に訴えてきます。私はこの三
木の歌とテレサ・テンの歌を交互に聞けるよう編集してみたので
すが、これがなかなかいいのです。それが、歌を歌いながら教え
たテレサ・テンへの三木・荒川コンビの心からなる追悼のメッセ
ージとなっているからです。
 天安門広場に座り込みをしている学生たちを支援する12時間
のマラソン・コンサートは、1989年5月27日に香港島にあ
るハッピーヴァレー競馬場で行われることになっていたのです。
 このコンサートの模様は、香港のテレビ各局――TVB、AT
V、RT香港、CR香港が中継することになったのです。そして
これとは別にコンサート前日の26日に20万人の若者がヴィク
トリア公園に集まって、天安門広場の学生支援を訴えたのです。
 テレサ・テンは、このマラソン・コンサートに最初は参加する
気はなく、出演呼びかけに対して明確に断っていたのです。しか
し、その心中は迷いに迷っていたのです。
 26日の朝、テレサ・テンは鐘肇峯に電話をかけて、実はコン
サートに出るかどうかいまだに決めかねているが、もし、直前に
なって出ようと思ったときはピアノを弾いてくれるかどうか確か
めています。鐘肇峯はこの申し出を了承しています。そして、何
を歌うのかと聞いたのです。
 そのとき、テレサ・テンは次のように答えているのです。その
歌は鐘肇峯が聞いたことのない歌だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   我的家在山的那一邊//私の家は山の向こう
   ウオダチアーツアイシャンダナーイーピエン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうです。有田芳生氏の本のタイトルと同じです。26日にテ
レサ・テンは鐘肇峯とある教会で会い、そこにあるピアノでこの
歌を練習しているのです。
 このときもテレサ・テンは鐘肇峯にまだ歌うかどうか決めてい
ないと告げ、行くときは連絡するということを約束しています。
彼女はこの時点でも、大陸の方からコンサートの話を持ちかけて
きたことにこだわっていたのです。テレサ・テン自身がそのコン
サートが台湾と大陸との何らかのかけ橋になればそれこそ自分の
望むことであると考えていたからです。
 しかし、天安門広場で座り込みを続ける学生に対して、中国政
府は戒厳令をひき、北京の郊外に20万人の軍隊を待機させてい
るのです。軍隊の力で自由を圧殺するなんて・・・そんな国に平
和のためのコンサートが開けるはずがない――テレサ・テンはこ
う考えて、電話機をとって鐘肇峯に電話をかけるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   わたし、やはり行きます。よろしくお願いします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この時点では、6月4日未明にあんなひどいことが起
こるとは、テレサ・テンをはじめ誰も考えていなかったのです。
人民軍が人民にあんなひどいことやるとは!――それはとうてい
座視できることではなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/17]


≪画像および関連情報≫
 ・上の写真
  香港島のスタンレーにおけるテレサ・テンの家
 ・下の左の写真
  浅水湾――レパルス・ベイ
 ・下の右の写真
  スタンレーにある洒落たフランス・レストラン

スタンレーのテレサの邸宅.jpg
スタンレーのテレサの邸宅
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月20日

●天安門事件はなぜ起こったのか(EJ第1621号)

 「天安門事件」というと、日本を含む世界各国では1989年
6月4日未明に起こった惨劇――人民の軍隊が素手で抵抗する人
民に銃口を向けたあの血の粛清事件を誰でもイメージします。
 しかし、中国で「天安門事件」というと、1976年4月5日
の事件のことをいうのです。周恩来の死を悼んで天安門広場にお
いて集会が行われ、文化大革命に批判的な抗議行動を起こし、北
京当局と衝突したあの事件のことをいうのです。意識的に198
9年の天安門事件に言及するのを避けているようです。
 EJで取り上げる天安門事件は、いうまでもなく1989年の
事件のことです。現在でもこの事件については、中国、台湾、香
港ではその表現が異なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      大 陸 ・・・・・・・ 天安門風波
      台 湾 ・・・・・ 六・四民運事件
      香 港 ・・・・・ 六・四 大惨殺
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1989年4月15日のことです。改革派の指導者として人気
のあった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記が急逝したのです。
共産党の風紀の乱れを糾弾していた会議の席上、突然心臓発作を
起こして亡くなったのです。
 胡耀邦――この人こそ「精神汚染キャンペーン」の行き過ぎを
戒め、テレサ・テンの名誉回復をした人物なのです。なぜ、「元
総書記」なのかというと、胡耀邦の改革に関しては、これに反対
する党内論争があったのです。胡耀邦はブルジョワ自由化に強い
反対の立場をとらず、学生のデモに関しても比較的寛大な態度を
とっていたのですが、これは「重大な政治原則の誤りである」と
され、テン・シャオピンをはじめとする党長老によって1987
年1月16日に総書記を降ろされたからなのです。
 1985年に時の総理大臣中曽根康弘は靖国神社に参拝してい
ますが、中国の反発を受けて次の年にこれを中止したのは、当時
総書記であった胡耀邦の政治的立場が崩れることを恐れたためと
もいわれています。しかし、1987年に胡耀邦総書記は解任さ
れてしまうのです。
 しかし、胡耀邦の後任の総書記には、やはり改革派の趙紫陽総
書記が就任し、中国は振り子を元に戻すことだけは避けたと世界
は評価していたのです。その矢先の胡耀邦の急死なのです。
 4月18日――数千人の学生が天安門広場に集まり、「胡耀邦
の再評価と名誉回復」や「精神汚染キャンペーンの除去」を求め
てデモは拡大していったのです。学生たちは「死ぬべき人が死な
ず、死ぬべきでない人が死んだ」として、やがて批判は明確にテ
ン・シャオピン(トウ小平)自身に対して向けられたのです。
 22日には天安門広場に2万人集会が行われ、24日には北京
の40の大学で6万人の学生が授業ボイコットを行うという事態
へと発展したのです。
 テン・シャオピンは4月25日に重要講和を行い、「これは単
なる学生運動ではなく動乱であり、断固として制止すべきもので
ある」と訴えているのです。しかし、新聞でこの講話の内容を知
り、「動乱」という言葉に学生たちは反発します。そして27日
には10万人を超えるデモが行われたのです。
 しかし、中国政府としてはこの時点で大きな問題を抱えていた
のです。5月15日にゴルバチョフが訪中することになっていた
からです。30年ぶりの中ソ首脳会談であり、世界中の目が北京
に集まっていたのです。その結果、天安門広場での学生運動は世
界中のメディアが報道するところになったのです。
 結局、ゴルバチョフは5月15日に北京空港に到着し、天安門
広場が学生に占拠されていて使えないので、別の場所で歓迎儀式
が行われたのです。事実上の最高権力者であるテン・シャオピン
としては、はらわたの煮えくり返る思いだったと思われます。
 16日、ゴルバチョフはテン・シャオピン、李鵬と会談したあ
と、趙紫陽総書記との会談を行ったのですが、そのときの総書記
の発言によって学生たちが反発したのです。その発言とは「自分
は総書記であるが、あくまでテン・シャオピン同士が最高指導者
である」というものです。
 趙紫陽が何を狙ってこのような発言をしたのか――その真意は
わかりませんが、「テン・シャオピンが院政をひいている」こと
は、この発言で明確に読み取れると思います。自分はもっと改革
に取り組みたいのだが、そこに大きな壁がある――このように取
れないことはないのです。
 学生たちはこの発言を受けて「老人政治は引退のとき」として
テン・シャオピンに対して引退を迫るビラが撒かれたのです。上
海でも100万人規模のデモが行われ、広州、天津、武州でも北
京に呼応してデモは拡大していったのです。
 5月17日にテン・シャオピンの自宅で政治局常務委員会が開
催されています。その席でテン・シャオピンは戒厳令の布告を主
張するのですが、趙紫陽総書記1人がこれに断固反対を唱えるの
です。しかし、テン・シャオピンは多数決で「戒厳令布告」の宣
言をごり押しします。
 1989年5月19日、戒厳令を正式に布告をするための会議
が開かれたのですが、趙紫陽総書記は病欠とされています。20
日、李鵬首相によって戒厳令実施の国務院命令が発令され、北京
郊外に20万人の軍隊が待機させられたのです。
 そのときテレサ・テンは香港にいたのです。香港では連日天安
門広場での学生たちの活動は大きく報道されていたのです。香港
だけでなく世界の華僑社会でも学生たちを支援する運動を起こそ
うとする動きがうねりのように広がっていったのです。
 香港では「全港各界連合大運動」という組織が設立され、コン
サートの開催を計画していたのです。テレサ・テンのところにも
参加の要請が届いていたのですが、テレサ・テンは参加を断って
います。しかし、それは決して本心ではなかったのです。彼女は
迷いに迷っていたのです。   ・・・[テレサ・テン/16]


≪画像および関連情報≫
 ・1989年5月19日――総書記であった趙紫陽は、民主化
  を求め天安門でハンストを続け、またはそれを支持する学生
  たちの前に現れ、ハンドマイクで涙ながらにこう語りかけた
  といわれます。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「われわれは来るのが遅すぎた」「われわれが若かったころ
  も、デモをやり線路に寝転んだものだ」「しかし、・・多く
  の問題は解決されるだろう。諸君らにハンストの中止をお願
  心からお願いする」             ――趙紫陽
―――――――――――――――――――――――――――

胡耀邦と趙紫陽.jpg
胡耀邦と趙紫陽
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

●テレサ・テン スパイ説の真偽(EJ第1620号)

 昨日ご紹介した『テレサ・テンの真実』という本――テレサ・
テンの死後、彼女は台湾の諜報部員であったと断定している本に
ついて有田芳生氏は、関鍵記者について虚偽の記述が多いとして
いますが、次の3点については間違っていないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.関鍵記者は来日し、拓殖大学に在学している
   2.雑誌「新大陸」の編集に参加し、原稿を投稿
   3.1989年に中国公安警察に逮捕されている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この本ではこれら3つの事実とテレサ・テンの諜報部
員説とを意図的にからみあわせて記述している――そういうこと
が有田氏の本からわかります。そういう意味において有田氏の本
の記述は正確であり、詳細をきわめています。
 関鍵記者は、偶然にテレサ・テンと電話対談が実現したことを
チャンスとしてとらえ、それを出世の足がかりにしようとしたの
です。関鍵記者は、1985年7月から86年にかけて、テレサ
・テンに関する多くのレポートを書き、中国共産党北京市委員会
や同党統一戦線工作部、文化部、共産党中央書記処、国家安全部
の指導者に送り続けています。
 関鍵記者の努力は実りつつあったのです。中国共産党としても
テレサ・テンを大陸に招聘してコンサートを開くことは、台湾と
の統一戦略になると判断し、中国共産党中央宣伝部の指導下にあ
る国務院の文化部と党の統一戦線工作部が中心になって、テレサ
・テンを大陸に招く準備をすることが決まったからです。
 しかし、テレサ・テン側はコンサートに政治的な色をつけたく
ないとして、民間の文化芸術団体――全国青年同盟や中国国際文
化交流センターなどの後援を受ける案を提案したのです。こうい
う折衝は、テレサ・テンの意向を踏まえながら、陸文藻が関鍵記
者をはじめとする複数の人物と折衝を重ね、進められていったの
です。中国共産党の意向もテレサ招聘には前向きであり、この問
題にはかなり柔軟に対応したので、話は順調に進み、次の計画が
まとめられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.北京では5ステージ
         2.上海では3ステージ
         3.最長滞在期間1ヶ月
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうなると、テレサ・テンの大陸招聘は国家レベルの話になっ
ているのです。その頃テレサ・テンは日本では、「愛人」で紅白
歌合戦に出場し、シングル「時の流れに身をまかせ」を発売して
ヒット中ではありましたが、日本人の多くはテレサ・テンがそん
な大歌手であると誰が考えていなかったと思います。
 しかし、問題は台湾政府の意向だったのです。テレサ・テンは
それとなく政府関係者に打診を行っています。表面的にはあまり
色よい返事は得られなかったのですが、あえて黙認するというム
ードは広がりつつあったといえます。
 テレサ・テンの構想は、北京の中心である天安門で100万人
を集めてコンサートを行いたい――こういう壮大なものだったの
です。そしてそれはその時点では決して不可能なことではなく、
十分実現の可能性があったといえます。しかし、それは予想もつ
かないあの天安門事件の発生によって無残にも潰えることになっ
てしまうのです。
 ここでもう一度関鍵記者の話に戻ります。
 1986年頃から関鍵記者は日本に留学したいと考えるように
なっていったのです。日本に行けば、テレサ・テンと会える機会
も生まれるし、学歴も得られると考えたからです。
 しかし、自費で日本に留学するには身元引受人が必要になるの
ですが、日本人新聞記者の紹介で身元引受人もできたので、87
年に日本にやってきます。そして、東京ランゲージ・スクール新
宿本校に入学するのです。そして、家族も呼び寄せて、日本で暮
らしはじめるのです。
 関鍵は1988年10月から雑誌『新大陸』の編集に参加する
ようになります。この雑誌は、日本地区の中国留学生学友会が創
刊しており、中国の宣伝をするということで、中国大使館から資
金援助を受けていたのです。
 1989年6月、天安門事件が起こります。このとき関鍵は学
生を支援する過激なビラを作成して配付し、次第に反政府運動に
没頭するようになるのです。これを受けて、中国の公安当局は日
本の留学生の動きを探りはじめるのです。
 その後、関鍵は日本で暮らす資金を稼ぐため、かなり危ない仕
事に手を染めるのです。それは、香港の雑誌に北京政府の内幕に
関する記事を投稿することによって、生活費を得るようになって
いったのです。
 そして、そのネタを入手するためたびたび北京に行き、『人民
日報』の大衆工作部で働いていた妹の手を借りて機密資料を持ち
出したのです。
 これがひそかに関鍵をマークして内偵を進めていた中国の公安
警察の知るところとなり、1991年9月16日夜、関鍵は身柄
を拘束されてしまいます。同時に関鍵の妹も逮捕されています。
逮捕容疑は、「国外の人間のため不法に国家機密を提供した罪」
と「スパイ罪」です。
 そして、裁判の結果、懲役20年、政治権利剥奪5年の刑が確
定して収監されるのです。有名な新聞記者であった関鍵の逮捕は
国内でさまざまな憶測を呼び、日本のスパイ説、台湾のスパイ説
の噂が飛び交ったのです。
 もともと関鍵は、テレサ・テンとの電話インタビューで有名に
なった経緯があり、関鍵の話と関連付けてテレサ・テンの名前が
どうしても出てくることになるのです。これがテレサ・テンスパ
イ説のひとつの原因になってくるのです。来週はいよいよ天安門
事件とテレサ・テンの話に入ります。
               ・・・[テレサ・テン/15]

≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンスパイ説を説く本
  宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊

スパイ説の根拠になった本.jpg
スパイ説の根拠になった本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

●テレサ・テンと関鍵記者の関係(EJ第1619号)

 関鍵記者――『北京青年報』に所属――によるテレサ・テンと
のインタビュー記事(『中国青年報』に掲載)は、大変な騒ぎに
発展したのです。
 これに台湾政府や台湾メディアが否定的報道をしたことにより
テレサ・テンの口は重くなったのです。台湾に住む家族のことを
心配したからです。台湾の『中国時報』は、次のように報じてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     テレサ・テン北京と通話?あまりに違う!
     誤報であり、中京の統一戦略である
――『中国時報』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 台湾のメディアからテレサ・テンに問い合わせが殺到したので
すが、テレサ・テンはほとんど答えていないのです。東京で大陸
の記者と接触したことがあるが、その会談をもとに書いた「創作
記事」である――テレサ・テンはこう言明したのです。
 関鍵記者が北京からシンガポールのテレサ・テンの自宅に電話
を入れてインタビューをしたのは事実ですが、それを認めてしま
うと、テレサ・テンが大陸とつながっていると疑われる恐れがあ
ったのです。このため、関鍵記者に関しては憶測でさまざまな間
違った情報が飛びかってしまうことになります。
 テレサ・テンの死後、「テレサ・テンは諜報員だった」ことを
主張する次の本は、関鍵記者について次のように記述しているの
です。テレサ・テンが本当に諜報員だったかどうかに影響する重
要な記事であるので引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その年(85年)のうちに関鍵記者は日本に渡ることになる。
 留学が目的だった。東京の拓殖大学に在学しながら、中国大使
 館の財政的バックアップを受けた新聞「新大陸」の編集に参加
 する。関鍵記者の日本での身元引受人はある日本人がなった。
 ところがこの日本人というのは元台湾出身。日本に帰化した人
 物で、実は台湾の諜報部員だった。(一部略)この台湾出身の
 諜報部員を関鍵記者に紹介して引き合わせたのがテレサ・テン
 だったのである。(一部略)
 ―――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
    徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらにこの本の著者は、関鍵記者が1989年に中国の公安警
察に逮捕されていることを伝えています。
 有田芳生氏によると、同書による関鍵記者の話はほとんどが虚
偽であるとして次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「スパイ説」を広めた『テレサ・テンの真実』は関鍵記者にも
 触れ、いくつもの虚偽を記述している。たとえば、この身元引
 受人が「日本に帰化した人物で実は台湾の情報部員で」「この
 台湾出身の情報部員を関鍵記者に紹介して引き合わせたのがテ
 レサ・テンだった」と断定している。これまた、まったくのデ
 マである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、関鍵記者はテレサ・テンが台湾と大陸のかけ橋になる
と考えてテレサ・テンの大陸でのコンサートの実現に向けて、精
力的に動き出すのです。
 そのひとつのキッカケは、1985年1月20日に『北京青年
報』に掲載された「故郷は黄河古道のほとり――テレサ・テン故
郷訪問記」(既出)からはじまったのです。
 このとき『北京青年報』の記者は、テレサ・テンの2人の叔母
に会っているのですが、そのとき叔母の一人からテレサ・テンに
喘息を患っているので、喘息の治療薬を送ってくれるよう伝えて
欲しいと頼まれているのです。
 テレサ・テンはその記事を読んで、1985年2月中旬に4本
の喘息治療薬を香港に住む知人を通して関鍵記者に宛てて送って
います。その香港に住む知人とは、陸文藻(ルーウエンツァオ)
といって、もともとテレサ・テンのファンの一人です。
 陸文藻から手紙と喘息の治療薬を受け取った関鍵記者は、指導
部の許可を受けて、それを叔母に届けています。それが縁になっ
て、関鍵記者は陸文藻を通じて、テレサ・テンの大陸コンサート
の実現の交渉を進めるのです。
 テレサ・テンが大陸でのコンサートを強く望んでいたことは事
実であり、テレサ・テンはコンサート実現のさいの条件を次のよ
うに示したといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 チケット収入と外国テレビ局からの放送収入を次の割合で全額
 寄付する

 大陸の文化芸術基金会/身体障害者支援福祉基金  50%
 台湾の文化芸術基金会 ・・・・・・・・・・・  30%
 香港の文化芸術基金会 ・・・・・・・・・・・  20%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 関鍵記者は、テレサ・テンを大陸に招聘してコンサートを開く
ことによって、台湾統一政策のシンボルとして位置づけるよう上
層部に提案して許可をとったといわれているのです。関鍵記者は
次のように書いています。完全にテレサ・テンを政治利用しよう
としているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしは、テレサ・テンは祖国を熱烈に愛し、統一を渇望し、
 また長期的視野を持った大胆かつ思慮に富んだ、理想を抱く傑
 出した若者だと深く感じました。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               ・・・[テレサ・テン/14]


≪画像および関連情報≫
 ・『中国青年報』に掲載された関鍵記者の記事
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
    徳間書店刊

関鍵記者の記事.jpg
関鍵記者の記事
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月17日

●政治的に利用されるテレサ・テン(EJ第1618号)

 ここで、テン・シャオピン(トウ小平)が実施した4つのキャ
ンペーンについて述べておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.「五講四美」キャンペーン    ・・・ 1981年
 2.「三熱愛」キャンペーン     ・・・ 1983年
 3.「精神汚染一掃」キャンペーン  ・・・ 1983年
 4.「雷峰同志に学べ」キャンペーン ・・・ 1987年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「五講四美」というのは次の意味があります。参考までに上げ
ておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       I−礼儀       I− 心 の美
       I 道徳       I  行為の美
    五講−I 文明    四美−I
       I 衛生       I  言葉の美
       I−秩序       I− 環境の美
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「三熱愛」とは、次のことを意味しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.祖  国への愛
        2.社会主義への愛
        3.共産主義への愛
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「精神汚染一掃」キャンペーンと「雷峰同志に学べ」キャンペ
ーンには、次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「精神汚染一掃」 キャンペーン
  ・革命精神を堕落させるものを追放するキャンペーン
 「雷峰同志に学べ」キャンペーン
  ・毛沢東思想を体現した人民解放軍兵士を見習う運動
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらのキャンペーンは、民主化を求める人々の望みを何とか
押さえ込もうとするテン・シャオピン率いる共産党政府の戦略な
のです。テレサ・テンの歌は「黄色歌曲」(ホワンスーグーチュ
ウ)として、禁止されることになったことは既に述べました。
 余談ですが、「黄色歌曲」という言葉について面白い話がある
のです。「黄色歌曲」とは「エロチックな歌」という意味なので
すが、「黄色」ということばにはそういう意味はないのです。
中国には、「黄河」「黄帝」「黄塵」など、「黄」の付く字が
いろいろありますが、いずれも「エロチック」という意味には結
びつかないのです。これについて平野久美子氏は英語の「イエロ
ー」と「エロ」とを結びつけたのではないかといっています。
 しかし、1986年、フー・ヤオパン総書記はテレサ・テンの
名誉回復を発表しています。これによって「何日君再来」の歌も
売国歌から愛国歌へと評価が180度変わることになるのです。
 実はテレサ・テンを解禁しようとする大陸の動きは、1985
年に入るとはっきりとした動きをとるようになっていたのです。
その最初の動きは台北の中華体育館で行われた十五周年記念コン
サートの映像が大陸でテレビ放映されたことです。
 それからもうひとつ、1985年2月1日に『中国青年報』に
掲載されたテレサ・テンの肉声のインタビュー記事です。『中国
青年報』というのは、中国共産主義青年団中央委員会の全国機関
紙です。インタピューをやったのは、関鍵(グワン・ジエン)と
いう記者です。
 このインタビューは、1985年1月30日、午前0時12分
から53分間にわたって電話で行われています。そのとき、テレ
サ・テンは、シンガポールにある自宅にいたのです。
 実はそれに先立って、共産主義青年団北京市委員会の機関紙で
ある『北京青年報』に次の記事が掲載されていたのです。85年
1月20日のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「故郷は黄河古道のほとり――テレサ・テン故郷訪問記」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、河北省大名県にはテレサ・テンの父が生まれ育った家
屋が残っており、『北京青年報』の記者がテレサ・テンの2人の
叔母に会ってまとめた記事なのですが、テレサ・テンはそれを読
んでいたのです。
 ところで1月29日はテレサ・テンの誕生日であり、関鍵記者
はその日を狙って北京からシンガポールのテレサ・テンの自宅に
電話をかけているのです。
 『中国青年報』の記事の中で、彼女は大陸について次のように
語っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中国を立派に建設することは、海外に住む華僑と海峡を挟んで
 両岸に住む中国人の共通の願いです。海外に住む中国人はみな
 内地の建設に大きな関心を持っています。どの国にいようとも
 中国に関する話題はいつも熱いのですよ。わたしは香港で見た
 報道で、内地ではいま現代化と<文明礼貌>(社会マナーの向
 上)、それに国家建設を提唱していると聞きましたが、本当に
 素晴らしいですね。           ――テレサ・テン
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記事は大きな波紋を広げます。新華社と肩を並べる中新社
(中国新聞社)は「テレサ・テン/シンガポールで北京と国際電
話」と題する記事を掲載したほか、100社を超える新聞がこれ
をニュースとして報道したのです。
 困惑したのは台湾の政治家やメディアなのです。そして、この
事態になって、テレサ・テンははじめて自分が政治的に利用され
ていることに気が付いたのです。そして、この件に関しては、そ
の後、一切語ることはなかったといわれます。
               ・・・[テレサ・テン/13]

≪画像および関連情報≫
 ・中新社は、紙上で関鍵記者が紙面の都合でカットしたテレサ
  ・テンの次のコメントを掲載しています。テレサ・テンは政
   治的に利用されたのです。
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   こんなに多くのファンの青年たちがいらっしゃるというこ
   とに大変感激しています。機会があれば大陸に行きたいし
   青年たちのためのコンサートもやりたい。私の願いです。
                     ――テレサ・テン
    有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

テン・シャオピン.jpg
テン・シャオピン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月14日

●テレサ・テンはなぜ香港で成功したか(EJ第1617号)

 現在でも多くの日本人にとってテレサ・テンは、台湾出身の一
演歌歌手に過ぎない存在であると思います。テレサ・テンをEJ
で取り上げて12回目ですが、ここまでの記述では、台湾や中国
にとってテレサ・テンという歌姫がどのように重要な存在である
か、なぜ彼女が、台湾と中国の政治の奔流に巻き込まれたのかに
ついては、まだ明確には理解できないと思います。
 これを理解するには、テレサ・テンと香港との関係について知
る必要があります。テレサ・テンが香港に進出するのは、シンガ
ポール、マレーシア、タイ、ベトナムなどの華僑社会でのキャン
ペーンで大成功を収めてからのことです。
 1930年代以前の中国歌謡――とくに女性歌手は「毛毛雨」
(マオ・マオ・ユー―雨の日に鳴く猫の声)といって、独特の裏
声発声法を使っていたのです。ところが1930年代になると香
港における歌謡曲が一変するのです。西洋的なメロディが中心と
なって編曲もきちんと行われるようになり、「毛毛雨」は影をひ
そめるようになっていったのです。
 こういう時期に活躍した歌手としては、「何日君再来」のチョ
ウ・シュアン、パイ・コン、ヤオ・リー、リー・シャンラン(李
香蘭)が上げられます。
 そして1940年代になると、ジャズやクラシック、ダンスナ
ンバーの要素を取り入れた意欲的な中国語歌謡曲が作られ、流行
していくようになっていきます。
 1945年に中華人民共和国が成立すると、自由を愛する芸術
家たちは一斉に香港に逃げ出すのです。その結果、1960年代
までの香港では、中国語歌謡曲はラテンやポップスなどの新しい
音楽を取り入れて一段と西欧化が進み、いわゆる「上海歌謡」と
して定着していきます。
 1960年代になると、ビートルズ旋風が吹き荒れます。これ
が香港歌謡界に大きな影響を与えて、若者たちは、自由に音楽を
作って、それを自己表現の手段とするようになります。そして、
1970年代になって、香港歌謡界に台湾からテレサ・テンが登
場するのです。
 西欧化された上海歌謡に慣れていた香港人にとって、テレサ・
テンの歌う北京語の歌はとても新鮮に響いたのです。香港電台の
中国語番組制作部長は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼女が北京語で歌う曲なら、民謡調の歌謡曲から欧米ポップス
 のカヴァーバージョンまで、何でも人気がありました。あの独
 特の情感に訴える歌い方やベビーフェイスの可愛らしさが、香
 港でもすぐ評判になったのです。
 ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 唱文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつその当時、香港大学の学生バンド「ザ・ロータス」
のリーダーであるサミュエル・ホイが作詞・作曲する広東語ポッ
プスが大流行していたのです。
 サミュエル・ホイの軽快な広東語ポップスと愛らしいテレサ・
テンの北京語歌謡――それらは、それまで欧米ポップスにしか関
心を示さなかった香港の若者たちに中国語歌謡曲に関心を向けさ
せる力となったといえます。
 それに加えて、テレサ・テンの人気に拍車をかけたのは、19
70年代後半から1980年代にかけての香港での日本ブームな
のです。日本資本のデパートが大挙して香港に進出し、日本式ラ
イフスタイルがもてはやされた時代なのです。それに、オフコー
ス、キャンディーズ、近藤真彦、田原俊彦などなど、日本語ポッ
プスが大流行していたのです。そこに日本で成功したテレサ・テ
ンの歌が入っていったのです。
 6月17日のEJ第1615号で触れた香港でのテレサ・テン
/十五周年記念コンサートでのことです。第3部に登場したテレ
サ・テンは中国の歌の合間に、広東語、潮州語、台湾語、福建語
を使い分けて、香港、シンガポール、台湾、インドネシア、タイ
アメリカ、カナダ、オーストラリアなど、世界各国からわざわざ
やってきた華人ファンに挨拶したあと、ひときわ声を張り上げて
北京語で次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ・・・それでは大陸から来てくださったお客さま!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき、かなりの数のお客が立ち上がって、手が熱狂的に振
られたのです。既に述べたように、当時大陸では、精神汚染一掃
キャンペーンで、テレサ・テンの歌は禁止処分になっていたにも
かかわらず、延べの全観客7万人の20%にわたる1万人以上の
人がテレサ・テンのコンサートのために香港に来ていたのです。
続いてテレサ・テンは観客に次のように呼びかけます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       同胞の皆さんに盛大な拍手を!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうすると会場からは地鳴りのような拍手と大歓声が巻き起こ
り、香港コロシアムのドームを揺らしたのです。そして、ラスト
ナンバーは、あの「何日君再来」だったのです。そのとき実際に
会場にいたという平野久美子さんの本では次のように書かれてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラストナンバーはやはり「何日君再来」だった。会場を埋めた
 観客は総立ち状態。あまりに歓声が大きくてテレサ・テンの歌
 はほとんど聞こえない。フルバンドの演奏だけが耳に残った。
 歌い終わった彼女は何回も何回も「謝謝」をくりかえし、バッ
 クステージに消えていった。        ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「私はどこにいてもチャイニーズです」――いつもテレサ・テ
ンはくりかえしていたのです。テレサ・テンのこの人気の凄さに
中国政府、台湾政府が関心を持たないはずはないのです。
               ・・・[テレサ・テン/12]


≪画像および関連情報≫
 ・平野久美子著
『華人歌星伝説/テレサ・テンが見た夢』
  晶文社刊

平野久美子氏の本.jpg
平野 久美子氏の本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

●日本での評価が定着したテレサ・テン(EJ第1616号)

 1984年の「つぐない」のヒットのあと、テレサ・テンは、
1985年〜87年にわたって、三木たかし/荒川とよひさのコ
ンビで、150万枚を超える連続ヒットを飛ばすのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「つぐない」/1984年 ・・・・・・・ 150万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「愛人」/1985年 ・・・・・・・・・ 150万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「時の流れに身をまかせ」/1986年 ・ 200万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「別れの予感」/1987年 ・・・・・・ 150万枚
                 日本有線大賞有線音楽賞
              全日本有線放送大賞グランプリ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どのようにして曲が作られたかに関しては、有田芳生氏の著書
(『私の家は山の向こう』/文藝春秋刊)に詳しいので、EJで
は詳細には述べませんが、「愛人」→「時の流れに身をまかせ」
→「別れの予感」という日本でのヒット曲は、何となくその後の
テレサ・テンの運命を象徴しているように気がします。
 三木たかし(作曲)と荒川とよひさ(作詞)のコンビで曲を作
るときは、先に詞ができるときと、曲が先にできるときがあるそ
うです。「愛人」はタイトルが先に決まり、次に詞ができて、そ
れに三木が曲をつけていますが、「時の流れに身をまかせ」は、
曲が先にできて詞はあとからできたといわれています。
 詞と曲ができたとき、テレサ・テンにはこれはどういう曲であ
るかについてきちんと説明し、中国語で理解させることにしてい
るのです。テレサ・テンが「愛人」の意味を理解したとき、彼女
は、「悪いことをするお姉さんのように思われたくない」といっ
て歌うことに難色を示したそうです。しかし、そこはプロの歌手
――「愛人」を「愛する人」であると自分に納得させて歌い上げ
たといわれます。
 ところでテレサ・テンのNHK紅白歌合戦出場歴は、次のよう
になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1985年/NHK紅白歌合戦初出場
                  「愛人」
     1986年/NHK紅白歌合戦第2回
          「時の流れに身をまかせ」
     1991年/NHK紅白歌合戦第3回
          「時の流れに身をまかせ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、1987年から1990年までの3年間、テレ
サ・テンは日本に来ていないのです。しかし、その間にも日本で
はテレサ・テンの歌声は絶えることはなかったのです。
 1987年には「別れの予感」を発売し、ヒットさせています
し、1988年には「恋人たちの神話」を発売しています。この
曲は、関西テレビ/フジテレビ系の「月曜サスペンスシリーズ/
女性作家サスペンス」のテーマ曲になっており、テレサ・テンの
歌声は絶えることなく日本中に流れていたのです。
 本当は、1989年6月24日に来日し、キャンペーンを行う
ことになっていたのですが、これは1989年4月に起こったい
わゆる「天安門事件」のため、来日は中止になってしまいます。
この事件がテレサ・テンのその後の運命に大きな影を落とすこと
になるのですが、これについては改めて書きます。
 さて、テレサ・テンがNHK紅白歌合戦に初出場した1985
年のことですが、紅白の少し前の12月15日にNHKホールで
テレサ・テンのワンマン(ワン・アンド・オンリー)・コンサー
トが行われているのです。
 有田氏の本によると、当時の歌謡ショーの入場料は全席自由席
で2000円が相場だったのですが、この12月15日のNHK
ホールのコンサートは、S席が5000円、A席は4000円と
いう価格がつけられています。それでも満席になっています。
 考えてみると、このコンサートがテレサ・テンの日本における
最初にして最後の大きなコンサートになってしまったのです。テ
レサ・テンをタイトルとするシリーズの第1回目に当る6月6日
のEJ第1606号でもご紹介したように、このときのライブ・
コンサートはLDで発売されています。
 このLD盤に収められているテレサ・テンの歌はある意味で大
変貴重であるといえます。テレサ・テンは登場すると「空港」を
歌い、そのあと次のように客席に語りかけています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  皆さん、こんばんは。ようこそいらっしゃいました。はい。
 あの、本当に懐かしいっていうか、9年ぶりのコンサートね。
 この素晴らしいNHKホールで開くこと、とってもうれしいで
 す。 ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』/文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このLDには、例の「何日君再来」が中国語で歌われているこ
とや「つぐない」「愛人」はもちろんのこと、「浪花節だよ人生
は」や「北国の春」まで歌い、「ザ・パワー・オブ・ザ・ラブ」
を英語で歌っているなど、貴重な歌がたくさん収録されているの
です。とくにこの「ザ・パワー・オブ・ザ・ラブ」の歌唱を聴く
と、テレサ・テンが単なる演歌歌手ではない、世界的な歌手であ
ることすら感じさせます。
 アンコールの拍手が続く中で、なぜか純白のウェディングドレ
ス姿で登場したテレサ・テンは、日本ポリドールで出した最後の
曲、「ジェルソミーナの歩いた道」を歌っています。そして「あ
の、最後のこの花嫁さんの、着たかったんですね。ずっとチャン
スがなくて・・・。今回やっと花嫁の雰囲気ありましたけど。あ
と相手ですよね」――テレサ・テンはこのように意味深な挨拶を
客席に向ってしているのです。 ・・・[テレサ・テン/11]


≪画像および関連情報≫
 ・1985年12月15日/NHKホールでのコンサート
  でテレサ・テンが歌った24曲

  1.空港 13.夜來香
  2.アカシアの夢 14.I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU
  3.ふるさとはどこですか 15.つぐない
  4.女の生きがい 16.乱されて
  5.雪化粧 17.ミッドナイト・レクイエム
6.夜のフェリーボート 18.愛人
  7.舟歌 19.ノスタルジア
  8.海韻 20.今でも…
  9.何日君再来 21.ジェルソミーナの歩いた道
 10.釜山港へ帰れ 22.漫歩人生路
 11.浪花節だよ人生は 23.東山飄雨西山晴
 12.北国の春 24.リクエストコーナー

1985/NHKホールコンサート.jpg
1985/NHKホールコンサート
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月12日

●大歌手と一演歌歌手の落差(EJ第1615号)

 テレサ・テンの軍への積極的な協力によって、台湾政府におけ
るテレサ・テンの評価は大きく上昇したのです。これによって、
出国に関しても国が便宜を図ってくれるので、海外公演もスムー
スにやれるようになったといいます。
 1983年2月には、米国のラスベガスのシーザースパレスで
デビュー15周年を記念するワンマンショーが開かれています。
ちょうどそのとき、この会場では、3月にフランク・シナトラや
トム・ジョーンズの公演も予定されていたのです。
 ショーは午後8時から行われたのですが、通常なら500人程
度の観客が1000人以上も押しかけたため会場は大混乱になっ
たといいます。観客の80%は中国系の人たちであり、歌は聴い
ているものの実物を見たいという華僑で満席になったのです。
 あまりの盛況ぶりにシーザースパレスの社長やラスベガス市長
が見送りにきて、市の記念品を贈呈するという一幕もあり、翌日
の地元メディアはテレサ・テンを「チャイニーズスター」として
称え、大きく報道したのです。
 その年の12月には香港コロシアムでも15周年記念コンサー
トが開催されています。当日のチケットは2日間で売り切れると
いう盛況ぶりで、4回の予定だった公演を6回に増やし、約10
万人の人が集まったといわれます。もちろん香港の観客だけでな
く、大陸からはるばるやってきたお客が全体の30%を占めたと
いうのです。このときのショーは香港のコンサート記録をすべて
塗り替える記録的なコンサートになったのです。
 ここで留意するべきは、これほどの大歌手であったテレサ・テ
ンを当時の日本人は、ほとんど知らなかったという事実です。日
本ではせいぜい『空港』でヒットした一演歌歌手に過ぎなかった
からです。同じアジアの国のひとつである日本では、アジアの歌
手や映画スターについての知識はほとんどないのです。
 逆に日本以外のアジアの国では日本の歌手や映画スターはよく
知られていたにもかかわらずです。最近でこそ韓流ブームで韓国
のスターの情報が入ってきていますが、基本的に日本人はアジア
の国々には関心がないようにみえます。日本人がテレサ・テンと
いう大歌手の存在を意識したとき、単なる演歌歌手の新人としか
とらえられなかったということは、ある意味において現在の日本
とアジアの国々との関係を象徴しているといえます。
 テレサ・テンの日本での活動に視点を移すと、1981年にテ
レサ・テンと日本ポリドールとの契約は切れています。2年後に
テレサ・テンは新しく設立されたトーラスレコードに移籍してい
ます。この会社は、テレサ・テンを香港の歌庁で見出した日本ポ
リドールのプロデューサーである舟木稔氏が社長をしている会社
なのです。
 トーラスレコードの最初のアルバムが『旅人』です。このアル
バムは香港ポリドールが制作を引き受けているのですが、このプ
ロジェクトで、テレサ・テンは作曲家の三木たかしと中島みゆき
に会う機会を得たのです。かくして、テレサ・テンの新境地が開
かれていくことになります。
 とくにテレサ・テンにとって、作曲家三木たかしと、作詞家荒
木とよひさとの出会いは運命的であり、その後の数々の日本での
ヒット曲を生み出すきっかけになるのです。
 三木たかしは、テレサ・テンが長期間のプロモーションができ
ない歌手であるという点をふまえて、あくまで有線放送で宣伝す
るという方針を立てたのです。80年代前半は、有線が音楽を聴
くうえでの身近な存在だったからです。
 当時、ポールモーリアの演奏が大ヒットしており、OLや女子
大生が好んで聴いていたということを参考にして、三木は何度聴
いても飽きがこないBGMのような曲を作ろうと考えて、作曲し
たのです。三木たかしは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  テレサの曲を書くに当っては、有線でよく聴かれるよう、耳
 に心地よい旋律を意識した。個性的な曲はとっつきやすいが、
 すぐに飽きる。たとえ最初の印象は薄くても、何度聴いても飽
 きない曲を目指した。もし、今のようにカラオケが一般的だっ
 たら、受けなかったかもしれない。その意味では、(テレサ・
 テンは)有線が力を持っていた最後の時代の人だと思う。
          ――2005.5.20付、読売新聞夕刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにして三木が作曲した曲に荒木とよひさは詞を書いて
「波止場にて」というタイトルをつけたのです。 しかし、この
曲は採用にならなかったので、その代わりに書いたのが「つぐな
い」だったのです。
 荒木とよひさによると、この曲は東北の港町に暮らすスナック
のママを描いたものだったのですが、プロデューサーの要望で都
会をイメージとしたものに書き換えられたのです。
 1984年1月21日に「つぐない」は発売されたのですが、
出足は最悪で、5週間でわずか50枚しか売れなかったというの
です。しかし、2月25日にテレサ・テンが来日してキャンペー
ンを開始すると、有線に動きが現れます。
 その後、3ヶ月ごとにテレサ・テンは来日し、キャンペーンを
繰り返したことにより、有線での順位はどんどん上がっていった
のです。そして「つぐない」は、100万枚近くを売り上げる大
ヒットになったのです。
 「つぐない」の歌詞は、「窓に西陽があたる部屋は・・」では
じまるのですが、不動産屋に「西陽の当る部屋を借りたい」とい
う注文をする女性が多く出るほど、この曲はヒットしたのです。
 テレサ・テンはこの「つぐない」によって、「日本有線大賞」
と「全日本有線放送グランプリ」を受賞しています。
 「つぐない」は「償還(チャンホウアン)」という名前で中国
語に翻訳されたのですが、テレサ・テンは中国語でこの曲を歌う
ときしばしば涙をこぼしていたといいます。この時期のテレサ・
テンは精神的にとても落ち込んでいたといわれます。
               ・・・[テレサ・テン/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ラスベガスのシーザースパレスとフランク・シナトラと一緒
  に紹介されているショーの看板

ラスベガスにおけるショー.jpg
ラスベガスにおけるショー
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月11日

●昼は『老テン』、夜は『小テン』(EJ第1614号)

 文化工作委員会の文化・宣伝担当の最高責任者である周応龍は
ロスに住むテレサ・テンを尋ねて、テレサ・テンと彼女の弟と一
緒に食事をしています。そのときにテレサ・テンの帰国の条件を
提案しています。
 その提案の内容は、偽造旅券事件のことは不問にする代わりに
次の2つのことをやってもらいたいということだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.愛国基金コンサートに出演
      2.軍の慰問コンサートを実施
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはこの提案を受け入れるのです。そして、帰国後
愛国基金コンサートに出演することを約束するのです。1980
年9月20日にテレサ・テンは、1年7ヶ月に及ぶ米国生活に終
止符を打って、米国を出発して日本に向かいます。固い決意を胸
に秘めて一歩を踏み出したのです。
 21日に日本に到着し、記者会見を開いて偽造旅券の件につい
て謝罪します。それから、9日間、テレサ・テンは日本での宣伝
のための仕事をして、台湾に戻ったのです。そして約束通り10
月10日、台北国父記念館での愛国基金コンサートに出演するの
です。そのとき集まった観客は実に3000人――台湾市民は熱
狂的にテレサ・テンを迎えたのです。
 それ以来、テレサ・テンは、精力的に軍への慰問コンサートを
行っています。それは国との約束でやむを得ずやっているという
ものではなく、自ら積極的に軍への慰問を続けたのです。兵士の
いるところ必ずテレサ・テンは出かけており、軍人からは「軍人
の永遠の恋人」といわれるようになります。
 軍はテレサ・テンが芸能人であることを考慮して謝礼を払おう
としたのですが、彼女は絶対に受け取らなかったといいます。そ
れに加えて、軍服を着て銃を持つテレサ・テンの姿、戦闘機に乗
る姿、掛け声をかけて軍人と一緒に走る姿がテレビ映像として流
され、いつしか台湾市民はテレサ・テンのことを「愛国芸人」と
呼ぶようになっていったのです。
 金門島の大陸に一番接近した場所にラジオ局があります。今で
は展望台などがあって観光地になっていますが、当時は軍人以外
は立ち入ることはできなかったのです。台湾政府はこのラジオ局
を利用して対大陸工作をやっていたのです。
 1981年12月にテレサ・テンは慰問コンサートのために、
このラジオ局にやってきています。金門島は十二の島に分かれて
いて、当時は20万人の兵士が駐留していたのです。テレサ・テ
ンはそういう兵士に対して「皆さん、お元気ですか。テレサ・テ
ンです」と呼びかけて、「何日君再来」を歌っています。
 これは、単に台湾の兵士に呼びかけるだけではなく、大陸にも
呼びかけているのです。1982年に中国の空軍中尉が飛行機で
台湾に亡命していますが、彼はその動機のひとつとして、テレサ
・テンのそういう放送を聴いて「テレサ・テンに会いたかった」
と述べているのです。
 テレサ・テンを使った台湾政府の宣伝作戦に対して中国政府は
警戒を強めます。テン・シャオピン(トウ小平)は、1983年
10月に講話を行い、精神汚染に反対するキャンペーンをはじめ
るのです。いわゆる資本主義文化の中にあるわれわれにとって有
害なるものを精神汚染として排斥することを明言したのです。
 1983年12月20日付の中国共産党の機関紙『解放日報』
のコラムでは「軽音楽および精神汚染の一掃について」と題して
次のように表現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  歌うのに適当でない歌を歌ったり、ときに香港や台湾の歌手
 の退廃的な調子を真似てみたり、またときには芸術ではない、
 いかがわしい曲調の嵐を受けることで、社会主義音楽界の軽音
 楽を資本主義社会における酒場音楽のようなものへと変化させ
 た。――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テン・シャオピンのはじめた「精神汚染キャンペーン」によっ
て、テレサ・テンの歌は北京では全面的に禁止され、テレサ・テ
ンのテープを持っているだけでも給与を減らされたり、財産の三
分の一を没収されることになったのです。
 しかし、いかにテン・シャオピンでもテレサ・テンの歌を根絶
やしにはできなかったのです。なぜなら、その時点でテレサ・テ
ンの歌声を収めたテープは大陸全土に2億個も出回っており、と
うてい根絶できるものではなかったのです。いくら禁止されても
テレサ・テンのテープをひそかに持ち続け、こっそりと口ずさむ
者が後を絶たなかったのです。
 「精神汚染批判キャンペーン」によって一時は鳴りをひそめた
テレサ・テンの歌声だったのですが、時間の経過とともに緩和さ
れていったのです。そして1984年になると、その行き過ぎを
懸念するテン・シャオピンによって幕が引かれたのです。
 この頃から中国社会で囁かれ出した次の言葉があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「小テン」の人気は「老テン」を圧倒する
 中国は昼は「老テン」が支配し、夜は「小テン」が支配する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもないことですが、「小テン」とはテレサ・テンのこ
とであり、「老テン」とはテン・シャオピン(トウ小平)を意味
ているのです。恐るべし、テレサ・テンの歌の力です。
 このようにテレサ・テンは、台湾や中国をはじめとする東アジ
アでは文字通りの超スーパースターだったのですが、日本におい
ては『空港』でレコード大賞を1回とったに過ぎない新人歌手で
あったに過ぎないのです。こういう点がテレサ・テンという歌手
について東アジアと日本では大きなギャップがあったといえると
思います。テレサ・テンが日本でブームになるのは、このあとの
話なのです。         ・・・[テレサ・テン/09]


≪画像および関連情報≫
 ・写真左「軍服姿で銃を持つテレサ・テン」
  写真右「金門島のラジオ局でのテレサ・テン」

軍の慰問をするテレサ・テン.jpg
軍の慰問をするテレサ・テン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月10日

●テレサ・テン帰国工作プロジェクト(EJ第1613号)

 テレサ・テンは、台湾と中国大陸のはざまにおいて政治的に利
用され、翻弄された歌手であったといえます。しかし、これは本
人が望んでそうなったわけではなく、本人のあずかり知らぬとこ
ろでそういう仕組みが作られ、テレサ・テンはそこに嫌応なしに
組み込まれていったといえます。これからはしばらくそういう点
に焦点を当てて書いていきます。
 日本での拘束が解かれたテレサ・テンは米国に向かいます。そ
して、しばらくサンフランシスコで平穏な日々を過ごすのです。
テレサ・テンはこの時期、USC(南カルフォルニア大学)やU
CLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)に通って勉強して
いるのです。この時期はテレサ・テンの人生にとって最も平穏な
ひとときであったといえます。
 その頃中国では、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、時
代が変わろうとしていたのです。10年間続いた文化大革命が終
結し、1977にはテン・シャオピン(トウ小平)が政権中枢に
返り咲いて、改革・開放政策が進められるようになったのです。
 1978年12月の第11期三中全会の方針決定により、海外
から文化の流入が始まったのです。これに伴い、台湾や香港の歌
手のカセット・テープが大陸に持ち込まれ、大量にダビングされ
て広く浸透していったのです。
 当然テレサ・テンの歌もまるで水が乾いた土地にしみ込むよう
に大陸に伝わっていったのです。そのときとくに親しまれた歌が
既に取り上げた「何日君再来」(ホー・リー・チン・ツァイ・ラ
イ)なのです。
 実は、私がEJのテーマとしてテレサ・テンを取り上げる時点
で、入手できていなかった重要な文献が一冊あるのです。それが
中薗英助氏の『何日君再来物語』(河出書房新社刊/1988年
――既出)だったのです。『何日君再来』の話から書き出そうと
決めていたのに肝心の本が入手できていなかったのです。
 しかし、その本は現在私の手元にあります。先週末に日本橋図
書館から借りることができたのです。現在読んでいますが、その
中に実に興味あることが書いてあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  チョウ・シュアンのテープを手に入れるまでの間、いちばん
 聴いたのは、やはりテレサ・テンだろう。或る日、テレサ・テ
 ンが一風変わったうたい方をしているのに気がついた。
  最初に気がついたのは家人である。書斎に入ってきて、彼女
 は「何日君再来」に耳を傾けながら、まことに妙な顔をした。
 「ホーリイチュンツァイライというところをこの人はツァイラ
 イライ」と、ていねいにライを重ねるのね」(中略)
  「そうかね?」
  首をひねっているうちに、二番の歌詞のホーリイチュンツァ
 イライになったとき、たしかに再来を再来来と重ねてうたって
 いる。
  ――中薗英助著、『何日君再来物語』より 河出書房新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読んで私は早速いくつかあるテレサ・テンのCDで「何
日君再来」を聴いてみたのです。その中でトーラスレコードから
出ている中国語の「何日君再来」の2番では、確かに「ツァイラ
イライ」とうたっているように聞こえます。しかし、他のCDで
はそうは聞こえないのです。
 おそらくテレサ・テンが意識的に「ツァイライライ」と歌った
録音テープがあることは確かであると思います。「再来」と「再
来来」は大きく違います。「再来」は単に「いつ帰ってくるの」
という問いかけであるのに対して、「再来来」は「君よ、帰って
きて欲しい」という強い熱意が入るからです。
 「何日君再来」をはじめとするテレサ・テンの歌が大陸で流行
しているのを知った時の台湾政府はテレサ・テンの写真とカセッ
トテープ、さらには化粧品や石鹸などを風船に付けて、気流に乗
せて金門島から大陸に向けて飛ばしたのです。金門島と大陸は約
1.6〜1.8キロという近さなのです。
 こういう一種の思想工作を通じて台湾政府は、「テレサ・テン
は政治的に使える」と考えたのです。ときの台湾の首相であるス
ウンユインシュエンは、テレサ・テンの帰国工作を部下に命じた
のです。台湾政府から見れば、テレサ・テンは偽造旅券で問題を
起こした問題人物です。その問題人物であるテレサ・テンに膝を
屈して台湾に帰国させる――国のためならそこまでやるという国
家プロジェクトがはじまったのです。
 国民党の文化工作委員会は中国テレビに依頼してテレサ・テン
と話をしてもらう工作をすると同時に、台湾にいるテレサ・テン
の父親を通じて、テレサ・テンに国家としていつくかの条件を提
示したのです。
 しかし、テレサ・テンは最初のうちは警戒してなかなか帰国し
ようとはしなかったのです。偽造旅券事件のさい、台湾のマスコ
ミが彼女のことを理解せず、「裏切り者」と書いたことに強く反
発していたからです。
 この時期テレサ・テンは、ニューヨークのリンカーンセンター
やロサンゼルスのミュージックセンター、カナダのトロントなど
でもコンサートを開いており、米国でも人気が上りつつあったの
です。テレサ・テンにとっては米国での生活は充実感のある快適
なものだったのです。
 そのとき、中国テレビからテレサ・テンに対してある話がきた
のです。テレサ・テンのロスでの生活を台湾で紹介したいという
ものだったのです。これは国民党の文化工作委員会が中国テレビ
に依頼したことを受けてのものだったのですが、テレサ・テンは
これを受け入れています。収録のためロスにやってきたテレビの
プロデューサーは「心配はいらない」と彼女に伝えています。
 さらに、国民党の文化工作委員会の主任の地位にあった周応龍
がわざわざロスまで足を運び、テレサ・テンと話し合い、帰国の
条件を直接本人に伝えています。・・・[テレサ・テン/08]


≪画像および関連情報≫
 ・中薗英助著『何日君再来物語/いつのひきみかえる』

中薗英助氏の本.jpg
中薗 英助氏の本
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

●テレサ・テン偽造旅券事件の真実(EJ1612号)

 1979年2月17日のことです。そのときテレサ・テンはレ
コーディングのため、日本に来ており、東京ヒルトンホテルに母
親と宿泊していたのです。
 そこに東京入管管理事務所の係官が訪れ、不法入国の疑いがあ
るとしてテレサ・テンを連行していったのです。調べに対しテレ
サ・テンは、違法にインドネシア旅券を取得し、それを使って日
本に入国したことをことを認めたので、彼女は東京入管に身柄を
拘束されてしまったのです。
 どうしてこんなことが起こったかです。1978年12月、テ
レサ・テンは公演のためインドネシアに滞在していたのですが、
ある友人の勧めによってインドネシア旅券を2万香港ドル――約
80万円で購入するのです。もちろん違反であり、旅券は偽造旅
券取得ということになるのです。
 偽造旅券というと、他人の旅券の写真部分を貼り替える手口が
多いのですが、テレサ・テンの場合は、「テン・エリー」という
インドネシア女性を騙り、テレサ・テン自身の写真で旅券を取得
しているのです。つまり、正規の旅券を地下ルートで取得したこ
とになります。テレサ・テンはこの旅券でジャカルタの日本大使
館で日本ビザを取得しているのです。
 1979年1月10日にテレサ・テンは台湾を出国して、シン
ガポール公演と香港公演をこなしています。このときの出入国に
は台湾旅券を使用しています。
 2月13日にテレサ・テンは香港から台湾に戻るのですが、そ
のとき誤ってインドネシア旅券を提示してしまうのです。当然ビ
ザがないとして台湾の入国は拒否され、出発地の香港に送還され
てしまうのです。そのとき既に有名人であったテレサ・テンと台
湾の入管職員とのやり取りを『中国日報』の空港駐在記者に目撃
されてしまうのです。
 その記者は入管の係員から事情を聞き、インドネシア政府の連
絡機関であるインドネシア商会にテレサ・テンにパスポートを発
行した事実があるかどうかを確認したところその答えは「ノー」
であったのです。
 一方、香港に戻されたテレサ・テンは、14日に中華航空機で
羽田に向うのです。そして、彼女は羽田の東京入管でも問題のイ
ンドネシア旅券を提示します。東京入管では旅券には日本ビザも
付いていたので入国を認めたのです。そして、彼女は指定の宿舎
である東京ヒルトンホテルに宿泊したのです。
 『中国日報』の記者からの通報で事態を知ったインドネシア外
務省は追跡調査を開始します。15日になって在日インドネシア
大使館は東京入管に「現在中国人女性が所持している「テン・エ
リー」名義の旅券は、違法に取得されたものである」との通告を
行ったのです。
 こうして東京入管の係官が2月17日に東京ヒルトンホテルに
出向き、テレサ・テンの身柄を確保したというわけです。この事
実は『中国日報』をはじめとするメディアによつてに詳しく報道
され、大きなニュースとなってしまったのです。
 この事態に困惑したのは日本ポリドールです。台湾からは、テ
レサ・テンを台湾に強制送還するよう強く求められていたからで
す。しかし、それに応ずると、再び出国することが困難になり、
最悪の場合、歌手をやめさせられることも考えられたからです。
それにテレサ・テン本人も「台湾には帰りたくない」と強く主張
していたのです。
 日本ポリドールは、大物弁護士を介して法務省と交渉し、コン
サートのスケジュールの決まっている米国に行かせることで決着
したのです。そして、2月24日にテレサ・テンは国外退去処分
を受け、パンアメリカン機でサンフランシスコに向ったのです。
これによって、今後1年間は、日本への入国は禁止されることに
なったのです。
 それにしても、なぜテレサ・テンは偽造旅券などを使ったので
しょうか。
 それはその当時の台湾の国情によるのです。その時点で台湾は
戒厳令がしかれており、日本をはじめとする国交のない国への出
国許可は最低でも二ヶ月、問題があれば1年くらいかかることも
あったのです。
 有田芳生氏の本によると、芸能人の出国許可に関して次のよう
に書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  音楽や芸能活動を管轄する教育部に許可を求め、新聞局が芸
 能人の実績を検討し、出入国の必要性を認める。そのうえで警
 察局が形式的な許可を与え、最終的には外務部が認めることに
 なる。その過程では、戒厳令総司令部による思想調査も行われ
 た。当時はパスポートとともに出国許可証が必要とされていた
 のである。
   ――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうやらテレサ・テンのインドネシア旅券の取得にはインドネ
シア政府関係者がかかわっており、この事件はいわゆる灰色決着
されたのです。本来であれば、不法入国は3年以下の懲役もしく
は禁固、10万円以下の罰金です。しかし、テレサ・テンについ
ては、悪意がないことと、台湾の国情、インドネシア政府の思惑
が複雑にからみ合い、東京入管としては起訴も罰金もなしの国外
退去処分と一年間の日本への入国の禁止という非常に軽い処置で
決着をつけたことになります。
 この一週間の拘留の間に取調官、同じ部屋の収容者全員がテレ
サ・テンファンになるというほど、テレサ・テンの評判は良かっ
たそうです。大スターぶらずに素直に取り調べに応じ、同室の女
性たちにも礼儀正しく接し、短期間の間にみんなから好かれる存
在になっていたのです。拘束が解かれるとき、化粧をしたテレサ
・テンは同室の人たちに一曲中国の歌を歌い、きちんと挨拶をし
て部屋を後にしたということです。・・[テレサ・テン/07]


≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンが宿泊した頃の東京ヒルトン
  (現キャピトル東急)

当時の東京ヒルトン.jpg
当時の東京ヒルトン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

●新宿ルイードでの公演のすべて(EJ第1611号)

 私の手元に一枚のCDがあります。「テレサ・テン・アット・
ルイード」と書いてあります。私はこのCDをテレサ・テンの3
回忌にCDショップで見つけて購入したのです。
 このCDは、1976年7月10日に新宿ルイードで行われた
テレサ・テンのコンサートが収録されているのですが、実はこの
とき誰も正式には録音を行っていないのです。したがって、誰か
が私的にコンサートの模様を録音したものと考えられます。
 録音の質は必ずしも良くなく、アマチュアによるものです。お
そらくテレサ・テンが誰かに依頼して私的に録音させたものと考
えられます。このテープはテレサ・テンの死後、彼女の持ち物の
中から発見されたものなのです。
 しかし、私的録音で音質は良くないとはいえ、このテープのお
陰で、テレサ・テンの日本での初めてのライブのすべてを知るこ
とができます。そういう意味で貴重なCDです。私の持っている
CDは、トーラスレコードがテレサ・テンの持っていたレコード
を使って制作されたものなのです。
 1976年7月10日――その日はあいにく小雨が降っており
お客の出足はわるく、客席はまばらだったのです。その時点では
たとえ『空港』がヒットしたとはいっても、テレサ・テンの名前
は幅広く知られているとはいえなかったのです。
 しかし、コンサート自体は和気あいあいと進められたのです。
そのステージは正式な司会者がいるわけではなく、テレサ・テン
自身が司会を行い、プログラムを進行させたのです。彼女の日本
語は、たどたどしくはあったものの、必死の勉強の成果で十分意
味の取れるところまで上達していたのです。
バンドは、豊岡豊とスウィング・フェイス――ドラムス、バス
ギター、ピアノ、4トランペット、4トロンボーン、5サックス
となかなか大編成のバンドが担当したのです。
 この記念すべきコンサートを再現してみましょう。
 その日のテレサ・テンについて、トーラスレコードの鈴木章代
さんは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  テレサ・テンが登場。黒いチャイナ・ドレスの深いスリット
 からのぞく綺麗な脚、少しだけウエーヴのかかったセミ・ロン
 グの髪、彼女は輝いていた。
          ――トーラスレコード製作担当/鈴木章代
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初の曲『雪化粧』――これは『空港』のコンビ、山上路夫/
猪俣公章の曲です。その歌のあと、テレサ・テンは客席に向かっ
て「こんな雨の日にたくさんの人に来てもらってありがとう」と
述べていますが、心中複雑だったと思われます。なぜなら、客席
は本当にぱらぱらだったからです。それでも客席には彼女の母親
をはじめとして、母国からの応援団も座っていたのです。
 ちょうどこのときテレサ・テンには、香港のリー・シアターで
3日間のワンマンショーを開く話がきていたのです。リー・シア
ターといえば3000人を収容できる大ホールであり、彼女はそ
こを満席にできる実力歌手だったからです。
 それでも雨のルイードでのコンサートは和やかに進められたの
です。テレサ・テンは、ときどき客席に話しかけながら、『しく
らめんのかおり』『心もよう』という2曲の日本の歌を歌ったの
です。テレサ・テンの日本語は歌に関しては完璧でしたが、話し
かけるときはどうしてもたどたどしくなるのです。「ありがとう
ございました」が「ありがとあんした」というようになってしま
うわけです。
 このあと解説を交えて『高山青』という台湾の歌を歌い、『グ
ッドバイ・マイ・ラブ』を歌うのですが、緊張したのか、彼女は
歌のタイミングを間違えてしまっています。この歌は香港の公演
で歌う予定の曲であり、こういうミスは普通起こらないのです。
 そして、8曲目になったとき、彼女はいきなりフルートを取り
出します。そして、バンドリーダーの豊岡さんに話しかけて、ド
ラムのテンポに注文をつけます。そして自らフルートを吹き出し
たのです。
 ところが、ブゥービーブゥービー、ビューといった調子でうま
く吹けない――しかし、そこはプロのバンドです。たどたどしい
彼女のフルートに合わせて演奏したのは『ジャンバラーヤ』――
これは本当に楽しく、素晴らしい歌だったのです。とにかく歌に
入ると、彼女は安定した完璧な歌を聞かせるのです。
 ステージの後半には、この日のために用意したという『五木の
子守唄』『夕焼け小焼け』『長崎は今日も雨だった』『襟裳岬』
『女ひとり』『夜のフェリーポート』を歌い、いよいよ最後の曲
になります。テレサ・テンは客席に話しかけます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  今日のステージ本当に楽しかった。最後の曲になる前に何か
 聞きたいことありませんか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンのステージでは、彼女は必ずこのようにして客席
に問いかけるのです。一瞬静寂になると、テレサ・テンは「わか
らないね」といい、いい直すのです。きっと、自分の日本語が伝
わらないのではないかと心配しているのです。この頃はまだ日本
語には自信が持てなかったようです。客席からは「恋人はいます
か」などといういくつかの質問があり、CDからは和やかなもの
が伝わってきます。
 そして、最後の曲『マイウエイ』が高らかに歌い上げられて、
印象深い新宿ルイードでのコンサートは終了するのです。有田芳
生氏の本によると、この日会場には俳優の川谷拓三氏もきており
テレサ・テンの歌声に耳を傾けていたといいます。
 ちょうどこの頃テレビではドリフターズの「8時だョ!全員集
合」が大ヒットしており、テレサ・テンはこれに出ることを楽し
みにしていたようです。ドリフターズとは仲が良く、地方公演の
ときは彼女が前歌を担当していたといいます。
               ・・・[テレサ・テン/06]

≪画像および関連情報≫
 ・『テレサ・テン at ルイード』
  Taurus/TACL−2436

テレサ・テン・アット・ルイード.jpg
テレサ・テン・アット・ルイード
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

●日本でのヒットが生まれるまで(EJ第1610号)

 テレサ・テンがはじめて日本に来たのは、1973年11月の
ことです。年齢は20歳だったのです。テレサ・テンの日本での
活動は、営業を渡辺プロ、レコーディングはポリドールで行うこ
とになったのですが、彼女のデビュー曲をどのような曲にするか
は大問題だったのです。テレサ・テンの担当マネージャーは桜井
五郎氏(以下、敬称略)――いしだあゆみやアン・ルイス、大信
田礼子などを束ねる腕利きのマネージャーだったのです。
 いろいろ検討が行われた結果、アイドル路線で、ポップス調の
曲でいくことに決まったのです。当時は小柳ルミ子の「私の城下
町」や天地真理の「水色の恋」がヒットしており、ポップス調の
曲が流行していたからです。そのため、テレサ・テンの実際の歳
を1歳ごまかし、19歳でいくことにしたのです。つまり、ター
ゲットを10代に絞ったのです。
 ところで、テレサ・テンのデビュー曲をご存知でしょうか。ほ
とんどの人は知らないと思います。なぜなら、レコードはぜんぜ
ん売れず、売り出しは失敗に終わったからです。
 デビュー曲は、山上路夫と筒美京平の最強コンビによる次の曲
だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『今夜かしら明日かしら』
       作詞/山上路夫 作曲/筒美京平
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 渡辺プロのことですから、キャンペーンは相当力を入れている
のです。45回にわたるテレビ出演、それに加えて日劇での森進
一ショーでも歌う機会を作ったのですが、レコードはほとんど売
れず、オリコンチャートは第75位に終わったのです。
 実は日本ポリドールの舟木制作部長がテレサ・テンと契約をす
るために香港に行ったとき、香港ポリドールはテレサ・テンでは
なく、歌も女優もできる優雅(ユウヤ)というタレントではどう
かと提案したそうです。しかし、舟木氏はあくまでテレサ・テン
にこだわったのです。
 しかし、そのユウヤは既に日本でデビューしており、「処女航
海」というレコードも出していたのですが、このレコードはオリ
コンチャート第24位――テレサ・テンの惨敗だったのです。
 なぜ、売れなかったのか――桜井マネージャーはさんざん考え
た結果、原因は次の2つにあると考えたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.日本語に問題があり、情感が伝わらない
   2.アイドル路線にしたのが裏目に出たこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンにとって日本語の修得は大きな壁だったのです。
まして来日直後は日本語をまったく話せず、これが情感を伝える
ことの障壁になっていたことは確かです。それにはっきりしてい
ることはアイドル路線をとって10代のファンからそっぽを向か
れたことです。
 むしろポップス路線よりも演歌の方がいいのではないか――桜
井はふとそう考えたのです。それも中高年層をターゲットとする
演歌ではなく、20代前半の女性向けに演歌にポップス調をプラ
スした曲にしたらどうかと考えたのです。
 こういう演歌を作れるのはあの人しかいない――そう考えた桜
井は、猪俣公章のところに行ってテレサ・テンのために曲を書い
てくれと頼み込んだのです。そのとき筒美京平がテレサ・テン用
の曲を既に4曲も完成させていたにもかかわらずです。
 さらに桜井は編曲にはポップス調で活躍していた森岡賢一郎を
起用してしています。演歌にどっぷりつからず、モダンな感じを
出すための配慮です。このようにして、山上路夫が詞を作り、そ
れに猪俣公章が曲をつけ、森岡賢一郎がアレンジして完成したの
が『空港』です。最初のタイトルは『雨の空港』だったのですが
既に『雨のエアポート』という曲があったために『空港』になっ
たのです。
 1974年7月、テレサ・テンの第2弾シングル『空港』は発
売されます。この曲は桜井の狙い通り、20歳〜25歳までの若
いOLにヒットして、実売で70万枚を超える大ヒットになった
のです。調査によると、中心層はあくまで若い女性だったのです
が、40歳代の男性にも好反応が出ていたのです。これがそのあ
と、20年以上にわたるテレサ・テンの日本での人気を支えるこ
とになるのです。
 この曲のヒットによってテレサ・テンは、1974年のレコー
ド大賞新人賞を獲得したのです。ちなみにそのときの最優秀新人
賞は、麻生よう子の『逃避行』だったのです。
 2曲目にして大ヒットを飛ばしたテレサ・テンではあったが、
日本での扱いはあくまで新人のそれだったのです。しかし、香港
に行くと美空ひばりクラスの扱いを受けるのです。当時はアグネ
ス・チャンの方が、日本でははるかに格が上だったのです。
 有田氏の本にこういう逸話が出ています。香港からリンリン・
ランランがやってきたときの話です。そのとき、控室がテレサ・
テンと相部屋であったので、日本の担当者に抗議したそうです。
彼女たち自身の扱いを怒ったのではないのです。アグネス・チャ
ンには個室を与えているのに、テレサ・テンのような大歌手をな
ぜこのように低く扱うのか――という抗議です。
 テレサ・テンはそういうことには一切クレームをつけなかった
といいます。しかし、最初のうち営業の一環としてのクラブやキ
ャバレーでの仕事にはクレームをつけたといわれています。テレ
サ・テンは、こういう社交場に来る客は歌を聴きにくるのではな
いことにこだわったといいます。
 彼女は台湾や香港でもクラブで歌っていますが、お客は歌を聴
きに来ており、お客のマナーは良かったのです。既に述べたよう
に、香港の歌庁では、酒の入っているお客は、前の席には座れな
いようになっていることからも明らかです。テレサ・テンは歌手
として強い誇りを持っていたのです。
               ・・・[テレサ・テン/05]



≪画像および関連情報≫
 ・『空港』について書かれているサイト

   http://www.megsweet.com/airport.html


今夜かしら明日かしら.jpg
夜かしら明日かしら
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。