2010年07月28日

●FRBとロスチャイルド一族の関わり(EJ第2350号)

 「目的のためには手段を選ばない」という言葉があります。こ
れを文字通り実行に移して巨大な権力を手に入れたのがロスチャ
イルド一族なのです。
 金/ゴールド――いやお金といってもいいですが、この種のテ
ーマを掘り下げようとすると、ロスチャイルド一族のことに触れ
ないで書くことは困難になります。
 FRBを設立するために彼らはウッドロー・ウィルソンをどう
しても大統領にする必要があったのですが、どのようにして彼を
大統領にしたのか――ロスチャイルド一族の凄さというか、怖さ
を知るためにご紹介したいと思います。まさに「目的のためには
手段を選ばない」そのものであることがわかります。
 当時米国では「中央銀行」という言葉に強いアレルギーがあっ
たのです。そこで、ポール・ウォーバーク――ジキル島での秘密
会の元締め的存在で、ロスチャイルドの代理人――彼は、中央銀
行の名称を避けて、「連邦準備制度」というわけのわからない名
前にしたのです。
 連邦準備制度を設立する法案は、最初は共和党のネルソン・オ
ルドリッチ上院議員が議会に提出したのです。このオルドリッチ
は、共和党の上院議員で院内幹事という高いポストにあり、ジョ
ン・D・ロックフェラー・Jrの義父に当たる人物です。そして
ジキル島での秘密会の参加メンバーです。
 この法案に対して民主党は猛烈に反対します。そうしているう
ちに共和党は選挙で野党に転落してしまったのです。ロスチャイ
ルド一族は、この時点で民主党の大統領候補ウッドロー・ウィル
ソンに白羽の矢を立てることにしたのです。しかし、彼はどうみ
ても泡沫候補のひとりに過ぎなかったのです。
 これは1912年の大統領選挙の話なのですが、次期大統領と
して有力な存在は、共和党のウィリアム・タフト候補だったので
す。まともに戦えば、ウッドロー・ウィルソン候補にとても勝算
はなかったのです。
 しかし、誰も予期しないことが起こったのです。人気者の元大
統領セオドア・ルーズベルトが共和党を離れて、革新党を結成し
て立候補したのです。こ れは誰も予想できなかったのです。
 その結果、共和党の票は大きく割れ、ウッドロー・ウィルソン
候補は地滑り的勝利を収めたのです。このセオドア・ルーズベル
トかつぎ出しには、オット・カーンとフェリックス・ウォーバー
クが尽力したのですが、彼らとウッドロー・ウィルソンを支援し
ていたポール・ウォーバークとジェイコブ・シフは緊密な連携を
取ってウッドロー・ウィルソンを当選させたのです。
 オット・カーン、フェリックス・ウォーバーク、ポール・ウォ
ーバーク、ジェイコブ・シフの4人は、いずれもクーン・ロープ
商会(ロスチャイルド系)の共同経営者なのです。なお、フェリ
ックス・ウォーバーク、ポール・ウォーバークは従兄弟同士であ
り、ロスチャイルド一族なのです。
 ウッドロー・ウィルソン大統領は、連邦準備制度を作るための
オーウェン・グラス法案――これは以前共和党のオルドリッチ議
員が提出した法案と名前以外はほとんど変わらない内容の法案な
のですが、年末で議員の多くがクリスマス休暇をとっている時期
にあえて上程して、議会を通過させてしまうのです。
 ウッドロー・ウィルソン大統領としては、大統領になるまでに
彼らにやってもらったことを考えると、やらざるを得なかったと
いうことになります。しかし、連邦準備制度はウッドロー・ウィ
ルソンの最後の告白により、大きな問題があることが明白になっ
たにもかかわらず、現在もなお、残っており、世界の金融経済に
少なからざる影響力を発揮しているのです。果たしてこれでよい
のでしょうか。
 ここで、連邦準備制度というのはどういう制度であるのかにつ
いて知識を整理しておきましょう。
 まず、FRSとFRBの違いを頭に入れておきましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 FRS/Federal Reserve System ・    連邦準備制度
 FRB/Federal Reserve Board  ・ 連邦準備制度理事会
 FRB/Federal Reserve Banks  ・    連邦準備銀行
―――――――――――――――――――――――――――――
 FRBは、「連邦準備制度理事会」と「連邦準備銀行」の2つ
の意味があることになりますが、一般的にFRBというときは前
者を指すことになっています。
 連邦準備制度理事会は連邦準備制度の統括機関であり、各国の
中央銀行に相当します。14年任期の理事7人によって構成され
理事の中から議長・副議長が4年の任期で任命されます。議長・
副議長・理事は大統領が上院の助言と同意に基づいて任命するこ
とになっています。FRBは、金融政策の策定と実施を任務とし
ており、また連邦準備制度の活動の最終責任を負うのです。
 FRBは日本銀行のように政府が株式を所有しておらず、ロス
チャイルド系、ロックフェラー系財閥ら国際金融資本が現在に至
るまで最大の株主となっているのです。米国よりもヨーロッパの
資本家の比率が高く、正式には公的機関ではなく民間銀行という
位置づけなのです。
 ロスチャイルド一族は世界中に網を広げており、日本もその例
外ではないのです。1904年に日露戦争がはじまったとき、日
本にはお金がなかったのです。当時日本がロシアに勝利するとは
誰も考えていなかったからです。
 しかし、日本はクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフから融
資を受けてロシアに勝利するのです。別に日本に同情したわけで
もなく、日本が勝つと信じていたわけでもない――勝てそうもな
いと思われているところに賭けることによって、勝った時により
多くの代償を得るといういわば博打ちなのです。
 シフは日本の恩人として天皇から勲章を授けられていますが、
日本人はお人良しです。彼らはこれによって、もっと大きな代償
を得ているのですから。        ―[金の戦争/09]


≪画像および関連情報≫
 ●ジェイコブ・シフとは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清による外
  債募集に応じ、2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援
  助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。このとき、バクー油田の
  利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドに融資を断ら
  れ、その紹介を受けてジェイコブ・シフより融資を受けた。
  その訳はロシアの伝統的な反ユダヤ主義に対する報復だった
  と言われている。結果として日本は勝利を収め、シフは一部
  の人間から<ユダヤの世界支配論>を地で行く存在と見なさ
  れるようになった。またこれ以後、高橋との親交を結んだ。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジェイコブ・シフ.jpg
ジェイコブ・シフ
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2010年07月27日

●FRBはどのように設立されたか(EJ第2349号)

 第1次世界大戦が勃発する一年前の1913年に連邦準備法が
米議会を通過して成立しています。これによって、米国の中央銀
行に当たる連邦準備制度理事会/FRBが誕生したのです。
 このFRB――世界の基軸通貨であるドルを印刷できる機関な
のですが、何と世界に類のない民間の銀行が株主になっているの
です。しかも、このFRBの成立には多くの謎があるのです。と
いうのは、この連邦準備法は1913年の多くの上院議員が休暇
中の12月23日に議会を通過しているからです。
 そもそもFRBとは何でしょうか。
 米国には1776年の建国以来中央銀行はないのです。ニュー
ヨークやシカゴなど全国12の連邦準備銀行(下記)がそれぞれ
民間銀行の預金準備と紙幣の発券などを行っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ニューヨーク連銀     7.カンザス連銀
 2.アトランタ連銀      8.ミネアポリス連銀
 3.ボストン連銀       9.フィラデルフィア連銀
 4.シカゴ連銀       10.リッチモンド連銀
 5.クリーブランド連銀   11.サンフランシスコ連銀
 6.ダラス連銀       12.セント・ルイス連銀
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が
起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱したことがあるの
です。そんなことがこれからもあってはならないというわけで、
時のウッドロー・ウイルソン大統領がJ・Pモルガンやポール・
ウォーバーグやジョン・ロックフェラーの力を借りて、1913
年に独自の判断でオーウェン・グラス法――FRBを創設する法
律に署名して、なぜか上院議員がクリスマス休暇で休んでいる日
を選んで議会を通過させているのです。どうしても確実に成立さ
せたかったからです。
 FRBは、軍事費を調達する目的で1694年に英国で創設さ
れたイングランド銀行をモデルとして、米国の中央銀行を作ろう
という目論みであり、1910年12月に国際的資本家J・Pモ
ルガンが所有するジョージア州沿岸の「ジキル島」という小さな
島で密かに行われたのです。
 ちなにみに、そのとき島に集まった8人のメンバーをお知らせ
しておく必要があると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネルソン・W・オルドリッチ――ネルソン・ロックフェラーの
                   母方の祖父/上院議員
 秘書のシェルトン
 A・ピアット・アンドリュー――財務次官補であり全国金融委
                     員会の特別補佐官
 フランク・ヴァンダーリップ――ナショナル・シティ・バンク
                 ・オブ・ニューヨーク頭取
 ヘンリー・P・デーヴィソン――    J.P.モルガン商会
 チャールズ・D・ノートン ――モルガン系ファースト・ナシ
                      ョナル・バンク
 ベンジャミン・ストロング ――J.P.モルガン上級代理バン
                  カーズ・トラストの頭取
 ポール・ウォーバーグ   ――    クーン・ローブ商会
―――――――――――――――――――――――――――――
 このメンバーのなかで中央銀行の設立に関与した経験のあるの
は、クーン・ローブ商会(ロスチャイルド系)のポール・ウォー
バーグだけであったので、話はウォーバーグが中心になって進め
られたのです。
 このウォーバーグは、選挙で共和党のウッドロー・ウイルソン
を支援して大統領に当選させており、大統領としてはウォーバー
グに頭が上がらなかったのです。そして、初代のFRB議長の座
に座ったのは、「ジキル島会議」に加わったメンバーであるJ・
Pモルガンのベンジャミン・ストロングだったのです。
 FRBの創設のこのような経緯を知ると、FRBが一部の利権
が巣食う悪の殿堂のように見えてきます。われわれ日本人にとっ
てFRBとは米国の中央銀行――つまり、日銀のような存在であ
るという以上の何物でもないのですが、FRBにはいろいろな問
題があるのです。それに金の問題を語るとき、FRBを避けては
通れないのです。
 ここにとても貴重な映画があります。この映画を見ると、FR
Bがなぜできたのか、今までに何をしてきたかよくわかります。
全部で47分22秒という長編ですので、お時間のあるときに見
ていただきたいと思います。きっと興味深く鑑賞できると思いま
す。EJの今回のテーマにも深く関係があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 http://video.google.com/videoplay?docid=-845461387975920288&hl=en
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウッドロー・ウィルソン大統領は、晩年になって自分のやった
ことを深く後悔して、次のようにいい残しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。
 ・大きな産業国家はその国自身のクレジット・システムによっ
  て管理されています。私はそのクレジット・システムを一点
  に集結させてしまいました。
 ・したがって、国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんの
  わずかの人たちの手の中にあります。
 ・私たちは文明化した世界においての支配された政府、ほとん
  ど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。
 ・もはや自由な意見による政府、信念による政府、大多数の投
  票による政府はありません。
 ・小さなグループの支配によって、拘束される政府と化してし
  まったのです。       ――ウッドロー・ウィルソン
――――――――――――――     ―[金の戦争/08]


≪画像および関連情報≫
 ●ウッドロー・ウィルソン大統領について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1909年までプリンストン大学学長を務めていた。学長と
  して内紛の絶えなかった大学を改善し政治的な才能を着目さ
  れた。民主党からの勧めでニュージャージー州知事に立候補
  当選しそこでも数々の腐敗追及で有名となった。この間みせ
  た改革への推進、文章・演説の才は1912年の民主党大統
  領候補に押し上げた。この年の大統領選挙は共和党が現大統
  領タフト派と元大統領セオドア・ルーズベルト派に分裂した
  ため、民主党にとり予想外に楽な選挙結果となった。ウィル
  ソンは選挙人435人を獲得する圧勝だったが――次点は共
  和党から分離した進歩党をなのるセオドア・ルーズベルトの
  88人)民主党は1896年の大統領選に敗れてから政権に
  なく人的基盤は弱かった。
           http://ww1.m78.com/hito-2/wilson.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ウッドロー・ウィルソン.jpg
ウッドロー・ウィルソン
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2010年07月26日

●ナポレオンと金本位制(EJ第2348号)

 ジョン・ローの口車に乗って国家財政を破綻させたフランスの
その後の状況を少し追ってみます。ローの政策失敗の約50年後
の1775年に米国の独立戦争が起こりますが、まだ財政面での
回復が十分ではないのに、フランスは米国側について参戦し、財
政をさらに悪化させているのです。いうまでもなく米国の独立戦
争は、英国本国――グレートブリテン王国と、米国東海岸の英国
領13の植民地との戦争です。
 フランスの財政の深刻さは尋常ではなく、窮余の一策としてフ
ランス政府がやったのが増税なのです。しかし、この結果、勃発
したのがフランス革命なのです。
 フランス革命の結果誕生したフランス共和国政府は、経済・金
融面においても革命的な改革を実行したのですが、それも失敗に
終わるのです。その象徴は「アシニア紙幣」なのです。ジョン・
ローの失敗に何ら懲りていない証拠であるといえます。
 どういうことをやったのかについて説明します。
 1789年11月、フランス革命政府は教会財産を没収し、司
祭たちの生活費や貧困者救済にあてる財源にしたのです。そして
売却までの当面の措置として、これらの財産を担保として、紙幣
を発行したのです。教会財産は6億ルーブルあり、これは当時の
フランスの国家財政1年分を超えるものでした。
 当初は5%の利子つきの国家債券でしたが、90年からは強制
通用力を持つ不換紙幣となり、10ソル(スー)から1万フラン
(ルーブル)まで数十種類が発行されたのです。
 なぜ、「アシニア紙幣」といわれるかですが、「assigner(ア
シネ)」というのは「金を支払いに当てる」という意味です。国
有財産をアシニアするという意味になります。
 しかし、1992年になって、オーストリアをはじめとする諸
国との革命戦争が勃発すると、その戦費を捻出するため、紙幣が
乱発されるようになったのです。
 当然のことながら、金貨・銀貨とくらべての貨幣価値は大きく
下落したので、政府は、物価統制令や、紙幣を額面どおり使わな
いことの罰則などを出したのですが、インフレーションは進行し
アシニア紙幣の価値は10%を切るようになったのです。そして
1996年3月、遂にこの紙幣の使用を停止せざるを得なくなっ
たのです。
 紙幣は焼却され、印刷機は破壊されたのです。別に印刷機が悪
いわけではないのですが、そうでもしないと国民の怒りは収まら
なかったのです。
 フランス国民は、混乱した政治、進行するインフレ、諸外国の
圧力などで疲弊し、英雄の出現を心から渇望したのです。その結
果出現したのが、ナポレオンなのです。フランスは、秩序への反
動というかたちで、軍人ナポレオンによる政権を誕生させたこと
になります。
 しかし、ナポレオンはなかなかよくやっているのです。ナポレ
オンは、まず法制を改革し、続いて軍隊を再構築したのです。そ
して、急速に治安を回復させています。さらにナポレオンは、紙
幣発行の一切の助言を拒否しており、政府の支出は金もしくは銀
で支払うことに限定し、それを固く守ったのです。
 つまり、ナポレオンはフランスを金本位制に戻し、それは19
14年まで続くのです。こうしたナポレオンの「金を守る」とい
う姿勢はフランスの最も有名な金貨が今でも「ナポレオン」と呼
ばれていることにあらわれています。
 しかし、1914年に第1次世界大戦が勃発するのです。戦争
がはじまると各国政府は金本位制を中断せざるを得なくなるので
す。戦費を調達するには赤字国債に頼らざるを得ず、それだけの
国債を吸収するには金の準備高と関係なく、紙幣を増刷せざるを
得ないからです。また、戦争によって対外支払いは増大し、その
ために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止したり
通貨の金兌換を停止することになるのです。
 第1次世界大戦は大方の期待を裏切って4年間続き、世界経済
は大きなダメージを負ったのです。仮に金本位制が守られている
ならば、戦争はおそらく数ヶ月しか続けることはできなかったは
ずであり、世界大戦などにはならなかったでしょう。
 1918年に戦争は終結します。当然各国は金本位制に復活に
することになるのですが、何しろ参戦国は戦争で経済が弱体化し
ているので、それを反映して平価を切り下げ、そのうえでの復帰
が当然前提となります。
 しかし、プライドの高い英国は、ポンドの切り下げは国の威信
にかかわるとして、旧平価での復帰に執拗にこだわったのです。
その結果、1922年にイタリアのジェノアで開催された国際経
済会議の場で、「金為替本位制」という妥協的の産物である制度
を導入してお茶を濁すことになったのです。
 「金為替本位制」とは何でしょうか。
 金為替本位制は、米国のドルと英国のポンドが金と同様に準備
通貨としての価値を持つとする制度なのですが、ドルはともかく
として、ポンドは旧平価を維持する購買力を失っており、既に準
備通貨として通用するはずはなかったのです。
 第1次世界大戦の最大の利得国である米国も、1913年に設
立されたFRB――連邦準備制度理事会が当初から国債の引き受
けをやっており、ドルの価値をいつまで維持できるか不透明の状
態だったのです。
 金為替本位制になると、金を裏付けとしてドルやポンドが発行
され、そのドルやポンドを裏付けとして、その他の国々が通貨を
発行する――これは金が2倍に増えたのも同然だったのです。す
なわち、通貨の裏付けが二重に計算されるという不合理を抱えて
いたのです。
 このように制度は大きな矛盾をはらんでいたのですが、最初の
うち金為替本位制はうまく機能しているように見えたのです。し
かし、これはやがてとんでもないバブルを発生させ、世界恐慌を
引き起こすことになるのです。     ―[金の戦争/07]


≪画像および関連情報≫
 ●金為替本位制とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  古典的な金本位制のひとつ。金貨本位制国または金地金本位
  制国の通貨を外貨準備として保有する国が、自国の通貨に対
  して金貨(地金)本位制国の通貨を、平価の上下のせまいは
  ばの中で決められたレートで売り買いする制度のこと。金地
  金本位制とあわせて金核本位制ともいう。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ナポレオン.jpg
ナポレオン
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2010年07月23日

●最初のケインジアン/ジョン・ロー(EJ第2347号)

 金と通貨の問題をお話しするときにどうしても知っておいてい
ただきたいある事件があります。それは、英国が古典的金本位を
始めた1816年のちょうど100年前の事件です。
 1715年に太陽王という異名をとったフランスのルイ14世
が亡くなっています。この当時のフランスは、度重なる戦争の影
響で深刻な財政破綻に瀕していたのです。新しい王となったのは
ルイ15世ですが、わずか5歳の幼少であったため、オルレアン
公フィリップが摂政を行うことになったのです。
 フィリップは遊び人で、たびたびパリのカジノに出没していた
のですが、そこでジョン・ローなるスコットランド人と知り合い
意気投合したというのです。
 このジョン・ローなる人物は大変の頭の良い男であり、とくに
経済理論に通じていたのです。後に英国の新古典派の経済学を代
表するアルフレッド・マーシャルやあのカール・マルクスは、彼
のことを次のように批評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎アルフレッド・マーシャル
  向こう見ずでバランス欠如だが、実に魅力的な天才である
 ◎カール・マルクス
  詐欺師と予言者の性格を持つ面白い人格的な混合物である
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろん良い評判ではないですが、これらの著名な大経済学者
があえてローについて言及したのは、彼の経済に関する考え方が
ユニークであったことによります。
 カジノでオルレアン公フィリップと知り合ったローは、早速宮
廷にフィリップを訪れて、あるレポートを渡したのです。それは
フランスの経済の建て直しの提案だったのです。それは、とても
カジノの博打打ちとは思えない立派な内容の提案だったのです。
 ローの論文を要約するとこうなります。まず、フランスの経済
が深刻なのは通貨が不足しているからであると原因を指摘したの
です。金貨だけに頼っていたのでは、到底フランスの経済的要請
を満たすことはできないというわけです。
 それではそれをどのように解決するか――それは紙幣の発行以
外には考えられないというのです。何しろ当時は金貨中心の時代
ですから、紙切れの紙幣など信用されないという反論に対しては
英国とオランダを例に出して紙幣の利点を強調し、巧妙なる信用
理論を駆使して、土地を担保にして紙幣を発行することで、フラ
ンスの経済に活力を与えることができると説いているのです。そ
して具体的には次の2つのことを提案しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.自分が王家の財産と収入を管理する銀行を設立する
  2.その収入と土地を担保にして銀行券を発行すること
―――――――――――――――――――――――――――――
 このローの提案を見ると、まるでケインズ理論そのものであり
そのため、ジョン・ローのことを「最初のケインジアン」と呼ん
でも差支えないほどに、その内容は現代の管理通貨制度とよく似
ていたのです。
 フィリップはローの提案を取り入れ、1716年に「バンク・
ドゥ・フランス」が設立されたのです。ローは、続いて設立され
た「ミシシッピ」という会社を通して、金と兌換しない不換紙幣
の発行に乗り出したのです。西欧世界はじめてのことです。
 このローの政策によって、フランスの景気は上向きになり、通
商は活発になって、税収は急速に増大したのです。金融活動も盛
んになり、フランス経済は急速に拡大しはじめたのです。本当に
最初の3年間は、まさにローのいうよう通りになったのです。そ
してローは一躍フランス中の尊敬を集める存在になったのです。
 しかし、1720年に金融機関で取り付け騒ぎが起こると、そ
れをきっかけにフランス経済は音を立てて崩れたのです。それは
ヨーロッパ全体の経済危機にまで発展することになります。
 金の裏付けを持たない紙幣の発行は、どうしても加熱すること
になるのです。株取引は劇的に増加し、市場はまさに熱狂状態と
なったのです。市場のこの状況を仔細に分析した複数のベテラン
の投資家たちは、この好況をバブルと見抜いて、保有する株式と
銀行券を一斉に売却したのです。
 経済が崩れだすとローは国外逃亡を企てますが、国境で逮捕さ
れます。そのときに彼が携えていた荷物には金貨と銀貨で一杯で
あったといいます。つまり、ジョン・ロー自身が自分の理論を信
じておらず、ひたすら金貨と銀貨を集めていたのです。
 このようにジョン・ローは一種の詐欺師的存在であったけれど
も彼の経済の考え方は実にユニークであったといえます。彼の有
名な理論に「水とダイヤモンド」というのがあります。
 水は「利用価値」は高いが「交換価値」がなく、ダイヤモンド
はもの凄い「交換価値」を持つけれども「利用価値」はほとんど
ない――これを説明するのに、アダム・スミスは水とダイヤモン
ドでは生産の労働コストにその違いを求めたのに対し、ローは財
の相対的な希少性がその交換価値を作るとしたのです。
 水は自由財に近く、希少性が少ないことから、供給曲線は限り
なく右側にあるので、価格は安いのです。それに対して、ダイヤ
モンドは希少性を持たせるために供給を制限しているので、供給
曲線は左側に抑えられている――これにより、水の価格は安く、
需給点が限りなく右側にあり、ダイヤモンドの価格は高く、需給
点が限りなく左側にあるのです。
 ジョン・ローは、以上のような論法で、貨幣は信用であり、信
用は「取引ニーズ」によって決まってくる――したがって、存在
する貨幣の量は、金の輸入や貿易収支などによって決まるのでは
なく、経済への信用供給によって決まると主張したのです。そし
てマネーサプライは内生的なもので、「取引ニーズ」によって決
まると考えたのです。
 しかし、大失敗をしたフランスは、その失敗に懲りず、財政を
さらに悪化させることになります。   ― [金の戦争/06]


≪画像および関連情報≫
 ●ジョン・ローの貨幣論
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ローは貨幣としてそのモノ自体に希少性のある金貨銀貨が用
  いられる時代にあって、貨幣が価値をもつのはその交換性に
  おいてであり、交換の連鎖さえ引き起こせれば貨幣そのもの
  には価値は無くてもよいと考えた。これは貨幣が金や銀との
  交換機能を喪失した20世紀以降の貨幣制度と全く同じ考え
  方である。又、国富を増強するには国内外の交易を活発化さ
  せることであって、貨幣(金銀)を蓄積することそれ自身に
  意味はないとした。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・ロー.jpg
ジョン・ロー
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2010年07月22日

●金本位制には3つある(EJ第2346号)

 経済でも技術でも現状を正確に把握するには、それぞれの歴史
を振り返ってみる必要があります。同様に、現代世界の通貨問題
を読み解くには、ブレトン・ウッズ体制にいたるまでの歴史的プ
ロセスとブレトン・ウッズ体制崩壊後の金市場の動向を理解する
必要があります。
 ひとくちに「金本位制」といっても、次の3つに分けて考える
必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.古典的金本位制
      2.ケインズ理論による金本位制
      3.金・ドル本位制
―――――――――――――――――――――――――――――
 3つの違いについて述べることにします。
 「古典的金本位制」とは、1816年に英国が採用した金本位
制のことです。その当時他の国では金ではなく、銀本位制もしく
は金銀本位制を採用しているところが多かったのです。しかし、
銀の価格は安定せず、金銀比価の変動が激しいため、結局、金本
位制が定着したのです。金本位制を定義しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金本位制とは、中央銀行が発行した紙幣と同額の金を常時保管
 し、金と紙幣との兌換を保証する制度である
―――――――――――――――――――――――――――――
 英国は、1816年に次のレートで金本位制をひき、この価格
が、金本位制を停止した1914年までの約100年間にわたっ
て続いたのです。第1次世界大戦前のことです。ちなみに、日本
も1897年に金本位制を採用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金/1オンス(31.1035グラム)=
             3ポンド17シリング10ペンス半
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1次世界大戦は1918年に終了し、各国は国際通貨制度と
して古典的金本位制にいったんは復帰するのですが、再度停止に
追い込まれます。世界恐慌が起こったからです。
 世界恐慌とは、1929年10月24日にニューヨーク株式市
場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界規模
の恐慌のことです。
 そのとき米国の舵取りをまかされたのは、1933年3月4日
に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト米大統領です。
昨日のEJでも述べたように、当時は恐慌のため、金が米国から
流失しはじめていたのです。
 ルーズベルトは、まずこれにストップをかけるために「金本位
制は安泰である」とのメッセージを出して米国国民の動揺を抑え
たのです。そのウラで経済を支配する一切の強権を大統領に集中
させる法律を通しています。
 実はこのときルーズベルト大統領に対して助言を与え、その経
済政策に対して理論的にバックアップした人物がいるのです。あ
のジョン・メイナード・ケインズその人です。彼は英国から大統
領のもとへ送り込まれたのです。
 ルーズベルト大統領としては、デフレを抑制し、企業の再雇用
を促進し、落ち込んだ生産水準を上昇させるためにドルの大量印
刷をする必要があったのですが、その政策についてアドバイスし
たのがケインズなのです。
 ルーズベルトは、金の価格を「1オンス=35ドル」に固定す
るとともに、米国の全国民から強制的にすべての金をドル紙幣に
交換させたうえで、金本位制をとったのです。これが「ケインズ
理論による金本位制」です。
 ケインズは自らの経済学について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政府が投資を直接間接に増加させ、完全雇用を実現する経済で
 ある。そのためには、自由放任主義も、均衡財政主義も、金本
 位制も否定されなければならない。そうなれば、新しい体制が
 古い体制に比して平和にとって好ましいものになる。
             ――ジョン・メイナード・ケインズ
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、ルーズベルトの経済政策――ニューディール政策は
実際上ドルと金の兌換を行わず、保証にとどめたのです。ドルに
金の価値を持たせたといえます。これはいかにもそれから米国が
隆盛を迎えるに当って都合の良い経済学であったといえます。な
お、「ニューディール」というのは、トランプの札の配り直しと
いう意味であり、契約の結び直しを意味するのです。
 「金・ドル本位制」というのは、いうまでもなく、ブレトン・
ウッズ体制のことをいうのです。この「金・ドル本位制」とルー
ズベルトが実施した金本位制とはどこが違うのでしょうか。その
どちらにもケインズがからんでいるからです。
 もともとケインズは国の命を受けて、ルーズベルトの指南役と
して、ドルの突出を抑えるべく乗り込んだのです。既に基軸通貨
としてのポンドの命脈は尽きてはいましたが、ブレトン・ウッズ
会議では、ひとつの提案をもって臨んだのです。
 その提案とは、新たに「国際決算同盟」を作り、その通貨単位
として、「バンコールを創設する」というものです。しかし、こ
れに対して米国の代表であるハリー・デクスター・ホワイトは、
基軸通貨はドルであることを前提に、IMF(国際通貨基金)を
いわばその分身として設立することを主張し、圧倒的な国力を背
景に押し切ったのです。
 しかし、基軸通貨としてのドルは中央銀行の間では、金とのリ
ンクを維持する――英国としてはこれを主張して押し通すのが精
一杯であったといえます。これが「金・ドル本位制」です。
 ケインズとしては、これによって将来のドルの暴走に歯止めを
かけたわけです。       ・・・・・[金の戦争/05]


≪画像および関連情報≫
 ●「バンコール」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「バンコール」とは、ジョン・メイナード・ケインズによっ
  て提案されたものの実現はしなかった国際通貨。第二次世界
  大戦までに各国が次々と廃止した金本位制に代わり、金など
  30種類の基礎財をベースにして国際的に通用する通貨を発
  行するというもの。しかしながらアメリカ合衆国の合意をと
  りつけることができず、実際には金の兌換性を維持した米ド
  ルを機軸として、ブレトン・ウッズ体制が1971年のニク
  ソンショックまで続くことになる。  ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレトン・ウッズ会議の行われたホテル.jpg
ブレトン・ウッズ会議の行われたホテル
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2010年07月21日

●『トリフィン・ジレンマ』と松井理論(EJ第2345号)

 前回のEJでお話しした「トリフィン・ジレンマ」のトリフィ
ンとは、ロバート・トリフィンというベルギー生まれのイェール
の経済学者です。ブレトン・ウッズ会議でのケインズ理論に関連
する国際金融政策で有名になった人です。
 この世界の学界で通説となっているといわれる「トリフィン・
ジレンマ」について真正面から堂々と異を唱えている日本人の学
者がいます。この学者は、民間銀行出身で、途中から学界に入っ
た松井均氏――東京国際大学教授です。松井理論は今回のテーマ
にも深い関係があるので、既出の谷口智彦氏の著書をベースにし
てご紹介することにします。
 「トリフィン・ジレンマ」――正確には「流動性ジレンマ論」
というのですが、松井均氏はこれを「誤謬の学説」であるとし、
第2次大戦後の米国に、国際収支節度から逸脱する絶好の理論的
口実を与えたと批判しているのです。
 「流動性ジレンマ論」が展開されるトリフィンの主著とは、次
の書籍です。邦訳も出ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ロバート・トリフィン著/小島清・村野孝共訳
  『金とドルの危機/新国際通貨制度の提案』/勁草書房刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本の共訳者の小島清氏と村野孝氏といえば、斯界の大御所
的存在の人ですが、松井均氏は彼らの「流動性ジレンマ論」につ
いて、次のように批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 たとえば、小島氏は。基軸通貨米ドルが米国の経常収支赤字の
 みによって世界に供給され、しかもそれが基軸通貨制なかんず
 く単一基軸通貨の制度的必然であったと考えておられる・・。
 これは、国内金融にたとえて言うならば「国内で最も大手の市
 中銀行が毎期の損益計算書において営業赤字を記録しなければ
 預金通貨は市中に供給され得ない」と主張するに等しい。
        ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて松井均氏は、基軸通貨国は流動性(決済資金)を
供給する市中銀行のように、短期融資や貿易信用供与によって、
世界経済の成長に必要な通貨を供給できるし、それによって赤字
を計上しなければならない必然性など、どこにもないというので
す。松井理論を要約すると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 基軸通貨制とりわけ単一基軸通貨制であっても、基軸通貨国が
 国際収支の節度を守り、・・・基礎収支を均衡ないし黒字に保
 ち、派生的発行(短期貸付け)によって基軸通貨を対外供給す
 れば、基軸通貨の信認維持と対外供給量拡大とは両立可能であ
 り、ジレンマが生ずべき必然性は存在しない。
        ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この松井理論――1990年代末〜2000年代初頭にかけて
日本で実施された金融の「量的緩和」政策の是非をめぐる議論に
おいても登場したのです。
 2000年の前後において、日本ではデフレが進行しており、
その対策として、大方のエコノミストは「マネーの総量を増やす
政策」をとるべきであると主張したのです。
 問題は、マネーの総量を増やす政策のマネーとは、どういうマ
ネーなのかということをめぐって、経済学者と日銀・銀行エコノ
ミスト意見は、次の2つに分かれたことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ここでいうマネーは「ベースマネー」のことであり、日銀
   がそれを行うべきである ← 通貨学派
 2.企業などの民間経済主体の経済行為によって生み出される
   マネーを増やすのである ← 銀行学派
―――――――――――――――――――――――――――――
 両学派の意見は噛み合わず、実際に行われたのは日銀当座預金
残高を積み上げる――要するにベースマネーの積み上げに目標を
定める「量的緩和」政策が長く続くことになったのです。しかし
その効果については今一つ不明確のままになっています。
 これに対して松井理論――銀行学派の考え方は、具体性であっ
てわかりやすいのです。松井均氏によると、近代的な金融市場に
おける通貨発行の順序は「まず、預金通貨が発行され、その後に
現金通貨――ベースマネーが発行されるのであって、その逆はあ
り得ない」というのです。
 しかし、実際に行われたのはその逆の方であり、預金通貨の発
行に結びつかなかったのです。松井均氏は、マネーの総量を増や
すには、例えば、市中銀行が積極的に必要な短期融資などを行い
持ち込まれた手形が銀行によって割り引かれ、手形を持ち込んだ
企業の預金口座に融資相当残高が増えたとき、預金通貨はつくら
れたのです。中央銀行からのベースマネーが供給されるのはその
後のことであるべきというのです。
 この松井理論に立つと、米国は基礎収支――いわゆるプライマ
リーバランスを健全に維持しながら、フルに銀行機能を発揮する
ことによって、世界に成長・決済通貨を供給する基軸通貨国とし
ての責任を果たせることになります。つまり、ニクソン・ショッ
クは防げたかもしれない――松井氏はこう主張するのです。
 しかし、これはあくまで学者の理論上の話であって、理論的に
どんなに誤りがあったとしても、当時の米国の指導者――すなわ
ち、政治家たちの間では、トリフィンの「流動性ジレンマ論」は
幅広く信じられていたのです。
 まして、ブレトン・ウッズ体制は、今と違って金の裏付けのあ
るドルを扱っており、堅実そのものと考えられます。それでも崩
壊した理由は何なのでしょうか。    ―[金の戦争/04]


≪画像および関連情報≫
 ●「ベースマネー」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイパワードマネーとは、現金通貨と民間金融機関が保有す
  る中央銀行の預け金の合計のこと。日銀の統計では、マネタ
  リーベースと呼ばれており、実際に金融業界でもこの名称が
  使われる。ベースマネーとも呼ばれる。現金通貨とは、日銀
  券と硬貨の合計であり、中央銀行の預け金としては、金融機
  関が保有している日銀当座預金残高がこれに当る。マクロ経
  済学の教科書では、中央銀行はこれをコントロールすること
  によって、間接的にマネーサプライを調節することができる
  ため、金融政策の一つの指標とされている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

谷口智彦氏の「通貨燃ゆ」.jpg
谷口 智彦氏の「通貨燃ゆ」
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2010年07月20日

●基軸通貨システムは長続きできない!?(EJ第2344号)

 ブレトン・ウッズ体制がスタートした1940年代――その頃
の米国には世界の金のほとんどが集まり、経済も絶好調であった
のです。何しろ圧倒的な金をベースにして発行されるドルは、金
と同等の価値があったのです。そのため、このブレトン・ウッズ
体制のことを「金・ドル本位制」と呼ぶのです。
 しかし、それまでの基軸通貨であるポンドを押しのけてドルを
世界に、とくにヨーロッパにおいて広げるのは、そう簡単なこと
ではなかったのです。
 そこで、1940年代から50年代にかけて、それまでに貯め
込んだ膨大な貿易収支の黒字をヨーロッパ中心に対外投資に注ぎ
込むことによって、米国は資本輸出国として絶対的な地位を築い
て行ったのです。
 この経験を通じて米国は対外投資が一定の政治的パワーを生み
出すことを学習していたのです。1956年に勃発したいわゆる
スエズ戦争において、そういう米国のパワーを垣間見ることがで
きます。
 第2次中東戦争/スエズ戦争は、普通の歴史のテキストでは次
のように記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1956年、国民投票で大統領に就任したナセルは、スエズ運
 河会社の国有化を宣言。これに対して英仏などの西欧圏やイス
 ラエルは動揺する。英仏は運河の無料通航を要求してエジプト
 侵攻を決意。この危機に対して国連安保理事会は英仏の拒否権
 で機能せず、英仏は10月29日、ナセル打倒に向けてエジプ
 トに軍事侵攻、続いて英仏両軍がスエズ地区に出兵した。11
 月1日の国連緊急総会はスエズ運河国有化の正当化と即時停戦
 を決議、英仏のエジプト侵攻を非難。国際世論に屈した英仏と
 イスラエルは遂に侵攻を断念し、1957年3月までに撤退し
 た。ナセル・エジプトを代表とするアラブ民族主義の大勝利で
 あった。これによりスエズ運河国有化は完成し、スエズ運河は
 エジプトのもとで運営されることが決まった。これが第2次中
 東戦争、すなわち「スエズ戦争」の概要である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦争の顛末を見ると、英仏軍がいかにもあっさりと撤退し
たことが奇異に感じられます。しかし、これには歴史の表面には
出ないウラの事情があるのです。
 英仏軍が撤退した本当の理由は米国の働きかけによるものなの
です。このとき米国は英仏によるエジプトへの干渉に強硬に反対
し、もし英国が応じないときは、米国が保有する英国債を全額売
却すると警告したのです。
 そのとき米国は膨大な額の英国債を保有しており、それが売却
されると、どのような恐ろしいことになるのか英国はわかったの
で、フランスを説得して軍を引いたのです。そのとき米国は軍事
力のみならず、マネー・パワーもまた国際的政治力を発揮する有
効な手段になり得ることを確認したのです。
 しかし、ブレトン・ウッズ体制には大きな欠陥があり、いずれ
破綻をきたすことを英国を代表してあのブレトン・ウッズで米国
のホワイトと交渉したケインズは早くからそれを見抜いていたと
いわれます。ケインズに関しては次のような話があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国での難しい交渉と長い船旅を終え英国に降り立ったケイン
 ズと、取り巻いた新聞記者の間で交わされたというやり取りが
 今に伝えられている。
 「ケインズさん、あんたは英国を、アメリカの49番目の州に
 しちゃったって、もっぱらの噂です。ほんとなんですか」
 アラスカ、ハワイが連邦入りし州になるのは1959年のこと
 だから、当時のイギリスが合衆国に組み入れられるとしたら、
 「49番目」の州となる計算である。ケインズは聞かれてあっ
 さり、こう答えたそうだ。
 「ああ、そういう幸運には恵まれないね」――ずいぶんと皮肉
 がきいている。――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 新聞記者の質問に対して「ああ、そういう幸運には恵まれない
ね」と答えたケインズ――英国が米国の49番目の州になるとい
う「幸運」は訪れないという意味をこめてそういったのです。既
にこの時点でケインズはこの制度が長く続かないことがわかって
いたのです。
 ブレトン・ウッズ体制は、誰もが予想しなかったほどその失墜
は早く訪れたのです。この点に関して、ブレトン・ウッズ体制に
は基本的な制度設計に欠陥があると見るのが、今日まで世界の学
界における通説となっています。
 その基本的な制度上の欠陥とは、基軸通貨国というのは必然的
に国際収支が赤字とならざるを得ない仕組みになっているという
ことであり、俗に「トリフィン・ジレンマ」という理論で知られ
ているのです。要約すると次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 基軸通貨は基軸通貨国の国際収支赤字によってのみ外国人に供
 給され、その国際収支赤字は基軸通貨の信認を低下させるから
 基軸通貨の供給量(対外供給残高)拡大と信認継続とは両立し
 えない。   ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、ドル紙幣を刷ることは世界経済の規模を拡大するた
めに不可欠なことであるけれども、それをすればするほど赤字の
垂れ流しが起こり、ドルの信認に傷がつく――したがって、その
ような制度は長続きしないというものです。これが「トリフィン
・ジレンマ」です。
 しかし、この学説には強い反論があり、大きな議論になってい
るのです。             ――[金の戦争/03]


≪画像および関連情報≫
 ●トリフィン・ジレンマとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  トリフィン・ジレンマ――「アメリカの双子の赤字の拡大」
  と「基軸通貨ドルの下落傾向」の矛盾は、益々拡大している
  といわざるを得ません。それどころか矛盾解消の処方箋とし
  てトリフィンが為替調整策とともに嫌った外国為替国際市場
  に身を任せる、所謂市場原理主義が幅を利かせ暴走する「変
  動相場制」が採用され、その弊害がトリフィン・ジレンマの
  矛盾を拡大再生産しているのが現状です。「サブプライムロ
  ーンの焦付き」と「原油高の高騰」が、ヘッジファンドなど
  投機マネーの暴走に力を借り、トリフィン・ジレンマは益々
  加速しています。
    http://kerukamo.blog115.fc2.com/blog-entry-108.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレトン・ウッズでのケインズ.jpg
ブレトン・ウッズでのケインズ
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2010年07月16日

●金の動きにかかわる3つの年(EJ第2343号)

 次の3つの年が何を意味しているかわかるでしょうか。それは
「金」をめぐる重要な動きに関係があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1933年
            1944年
            1971年
―――――――――――――――――――――――――――――
 1933年3月8日のことです。フランクリン・ルーズベルト
米大統領は就任最初の記者会見で次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   金本位制には手をつけない。金本位制は安泰である
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルト大統領は、直ちに緊急銀行法を上下両院で可決・
成立させたのです。そしてこの法律に基づき、大統領は経済を支
配できる次のような強力な権限を得ているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.財務長官に、金貨、金塊、証券の引き渡しを要求する権限
   を与える
 2.大統領に、金銀の輸出・退蔵を規制あるいは禁止する権限
   を与える
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうしてこのような法律を成立させたのかについては理由があ
ります。当時大恐慌が米国全土を襲い、経済の崩壊に怯えた米国
人は資本を海外に移したり、金に換えたりしており、物凄い勢い
で米国から金が流出していたからです。
 1933年2月の最後の10日間で8000万ドル、3月の最
初の4日間で2憶ドル以上の金が消失していたのです。ルーズベ
ルト大統領が3月初めの記者会見で「金本位制は安泰である」と
いったのも、このような深刻な事態を何としても乗り切りたいと
考えたからなのです。
 1933年4月18日、ルーズベルト大統領は次のような大統
領令を発したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 全国民はすべての金貨、金証券、金塊を銀行へ提出し、紙幣
 または銀行預金と交換すべし        ――大統領令
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点で金の価格は、それまでの「1オンス=20.67 ド
ル」から「1オンス=35ドル」に引き上げられたのです。金の
単位は正確には「トロイオンス(単にオンスと略す)」というの
ですが、質量は約31グラムです。ちなみにトロイとは、中世に
おいて重要な商都であったフランス・シャンパーニュ地方の町ト
ロイに由来するのです。
 フェルディナント・リップスという人がいます。実はこの名前
はこれから何度も登場してくることになりますが、「金の戦争」
という言葉を最初に使った人がこのリップスなのです。
 リップスは1931年にスイスで生まれた銀行家であり、19
68年にチューリッヒ・ロスチャイルド銀行の設立にかかわった
人物といわれています。
 リップスによると、金の戦争はルーズベルト大統領の1933
年の大統領令からはじまったというのです。それではなぜ、金の
戦争なのでしょうか。
 米国は米国市民からこの大統領令によって金を押収し、以後の
個人による金保有と売買を禁じています。つまり、これは国家に
よる金の管理そのものであり、まさに非常事態であって、戦争と
いってよいといえます。なぜ、金の戦争なのかはこのあと次第に
明らかになっていきます。
 戦争には武力によるものだけではなく、政治による政治戦争、
経済による経済戦争もあります。なお、ここでいう金の戦争――
これは政治および経済の戦争をミックスしたものといえます。
 第2の1944年とは何でしょうか。
 1944年は、米ニューハンプシャー州の保養地のブレトン・
ウッズにおいて、英国のジョン・メイナード・ケインズと米財務
長官であるハリー・デクスター・ホワイトによる迫真の協議を通
じて生まれた新しい通貨体制――ブレトン・ウッズ体制が誕生し
た年なのです。
 このとき、英国のケインズは、圧倒的な国力を背景とする米国
のホワイトに完敗したのです。これに関する詳細は、EJ第18
11号とEJ第1812号の次の記事をご覧ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
◎EJ第1811号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/16254304.html
◎EJ第1812号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/16372704.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 このブレトン・ウッズ体制によって、「世界銀行」と「IMF
/国際通貨基金」が誕生しています。この新しい体制を支えたの
は、世界の貨幣用金の75%を占める米国の金保有量――2万ト
ンをはるかに超える量――であったのです。
 この体制によって米国のドルが固定レートとなり、自由に金へ
と交換できることになったのです。この新体制は1946年5月
に正式に発足しています。
 それでは、最後の1971年とは何でしょうか。
 1971年8月15日のことです。基軸通貨国として世界に君
臨していた米国は、ドルと金とのリンクを断ち切ると宣言したの
です。いわゆる「ニクソン・ショック」が起こった年です。
 ブレトン・ウッズ体制からニクソン・ショックまでの27年間
に一体何があったのでしょうか。それと、さらにそれから37年
間――米国はどのように変化したのでしょうか。
 それを「金の動き」という視点から追跡して行きたいと考えて
おります。             ――[金の戦争/02]


≪画像および関連情報≫
 ●金の単位――トロイオンスについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  トロイオンスは、貴金属や宝石の原石の計量に用いられるヤ
  ード・ポンド法の質量の単位である。金衡オンス(きんこう
  オンス)ともいう。トロイオンスは480グレーンに等しく
  常用オンス――487.91 グレーンよりも少しだけ重い。
  現在は1グレーンが正確に64.798 ミリグラムと定めら
  れているので、1トロイオンスは、正確に31.1035 グ
  ラムとなる。常用オンスは28.349 グラムである。貴金
  属(金や銀)の価格設定においてはトロイオンスのみが用い
  られる。日本の計量法でも、金貨の質量の計量に限定してト
  ロイオンスの使用が認められている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

フランクリン・ルーズベルト大統領.jpg
フランクリン・ルーズベルト大統領
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2010年07月15日

●ドルは基軸通貨を保てるか(EJ第2342号)

 今日から「金の戦争」をテーマに掲載します。なお、この記事
は2008年6月9日から2008年8月13日までの47回に
わたって掲載したものであることをお断りしておきます。
 原油の問題を書いてきて気がついたことがあります。それは原
油高騰の裏側で金も高騰していることです。それも相当急ピッチ
で値を上げてきているのです。
 実は金の国際相場の上昇は現ブッシュ政権成立直後の2001
年4月頃から始まっているのです。2007年秋頃からそれが急
ピッチになり、遂に2008年3月中旬に「1オンス=1000
ドル」を突破しているのです。もちろん史上はじめてです。
 エコノミストたちの分析によると、金の高騰はサブプライム問
題の影響で世界の過剰流動性マネーが金に流れ込んだことと、中
国やインドの実需の増加などによるものであるとしていますが、
これは原油高騰と同じ構図というようになります。しかし、本当
にそうなのでしょうか。
 原油はともかくとして、金相場の高騰に関しては相当深いウラ
があるようなのです。そこで、金相場を中心に国際経済を見ると
という視点があってもよいと考えて、少しずつ関連の本を集めて
きたのですが、金に関する本はきわめて少なく、果たしてどこま
で掘り下げられるかは不明ですが、今日から次のタイトルで金の
問題を追及していくことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「金」をコントロールする米国の長期金融戦略を探る
   ―― このままでは日本は3度の敗戦になる ――
―――――――――――――――――――――――――――――
 なお、今回のテーマに関連のあるテーマを過去にEJで取り上
げていますので、あわせて読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『日米経済関係の謎』/全20回
 2006年3月31日/EJ第1806号〜2006年4月
 28日/EJ第1826号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/15838071.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、原油高が止まらないということは「ドル安」が進んでい
るということを意味しています。一部のエコノミストによると、
米国のサブプライム問題はこの先一層深刻化してドルは暴落し、
米国のドル覇権は失墜するという論調が盛んです。しかし、本当
にそうなるでしょうか。
 産経新聞社編集委員の田村秀男氏は、ドルの暴落について次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ドル暴落」が実際に起これば、米国は全世界に張り巡らせた
 軍事基地を維持できなくなる。値打ちがどんどん下がるドル札
 を那覇、横須賀あるいは東京六本木のバーやホテルで受け取っ
 てもらえなくなったら、また、基地の家族がドル建ての給料で
 暮らせなくなったときどうなるかを想定すればよい。何よりも
 基地が物資を調達できなくなったとき、米国は海外での軍事力
 を事実上失う。そんな事態をだれも望んではいない。よくも悪
 くも、米国の金融・軍事パワーが世界を経営しないと、自国や
 周辺を安定させられない。         ――田村秀男著
   『経済で読む「日・米・中」関係/国際政治学入門』より
                    扶桑社新書/031
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ドル暴落」と簡単にいいますが、もし、いま起こったとした
ら大混乱になることは必至です。したがって、遠い将来のことは
別として現時点で「ドル暴落」を望む世界の指導者は一人もいな
いといってよいと思います。
 確かにロシアの新大統領メドベージェフ氏は「資源をルーブル
で決済すると宣言しましたが、基軸通貨のドル体制を崩そうとは
考えていないはずです。どこの国も目先の自国の繁栄を考えてい
るからです。中国にしてもインドにしても同様です。
 中国やインドは、できる限りドルに対して自国通貨を大幅に上
昇させまいとして、ドルを買い上げ、米国債の購入を続けていま
す。もちろん日本も同様です。いずれも自国通貨に対するドルの
安定を少なくとも現時点では強く望んでいるのです。したがって
そう簡単にドル暴落は起こらないのです。
 原油価格はドルで表示されています。これによってドルの力が
裏打ちされ、強くなっているといえるのです。つまり、原油はか
つての金本位制時代の金にも相当する存在なのです。
 これに正面から逆らった最初のアラブ産油国はサダム・フセイ
ンのイラクだけです。1999年にユーロが誕生すると、フセイ
ンは2000年に原油の決済通貨をユーロに変更します。そして
2003年のイラク攻撃のあと、米国はイラク原油の決済通貨を
ユーロからドルに戻しています。
 また、2007年にイランが、原油のドル決済完全に停止と宣
言し、現在のところユーロと円で決済しています。しかし、欧州
はそれに対応せずにドルを維持しています。現時点においても、
米国によるイラン攻撃の噂が消えないのはそのあたりにも原因が
あるといわれています。
 ここでわれわれは「基軸通貨」というものの持つ意味を改めて
考える必要があると思います。現在のドルは金の裏付けのない単
なる紙切れに過ぎないものです。しかし、その紙切れで米国は世
界中から必要なものを何でも買えるのです。
 原油はドルで決済することになっていますので、原油を購入す
るときは、自国通貨でドルを買い、そのうえで購入するという面
倒なことを強いられるのです。
 米国の場合、もし、ドルが足りなければ印刷すればよいわけで
米国はこれによって、世界中から巨大な富を集めることができる
のです。それはドルが基軸通貨であるからできることなのです。
 したがって、米国が一番恐れるのは、ドルの刷り過ぎによって
インフレになることです。インフレになるとドルの価値は下がっ
てしまうからです。したがって、FRBはそうならないようあら
ゆる手を打っています。       ――[金の戦争/01]


≪画像および関連情報≫
 ●「基軸通貨」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  英ポンドは19世紀半ば以降、国際金融の中心地としてのイ
  ギリスの強力な立場を背景に基軸通貨としての役割を担って
  いたが、第一次世界大戦で欧州各国は経済が疲弊し逆にアメ
  リカは戦争特需で経済が急成長したため、基軸通貨が機能面
  で英ポンドから米ドルへ移り、第二次世界大戦後はアメリカ
  がIMF体制の下で各国中央銀行に対して米ドルの金兌換を
  約束したこと及びアメリカの経済力を背景に米ドルが名実共
  に基軸通貨となった。欧州単一通貨・ユーロが将来的に米ド
  ルと並ぶ基軸通貨に成長するとの見方もあるが、対外取引の
  80%以上が米ドルで行われていることから、現在のところ
  の実質的な基軸通貨としての地位は揺らいでいない。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

田村秀男氏の新刊書.jpg
田村 秀男氏の新刊書
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2010年07月14日

●これからも消えない義経生存説(EJ第1660号)

 源義経=成吉思汗説(義経の謎)今回の30回で終了します。
 俗にいう「源義経生存説」を信ずる人は、次の2つにわかれる
と思うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経は平泉では死んでいないが、北海道までは逃避行を続
   けたことは間違いないと考えている人
 2.義経は藤原氏の一部の武将と大陸に渡り、成吉思汗になり
   モンゴル帝国を築いたと考えている人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が今まで調べた限りでは、1に関しては、その可能性は80
%程度はあると考えます。それを証明する状況証拠が豊富に存在
するからです。しかし、2に関しては、何しろ大陸の話なので、
状況証拠は限られており、そういう意味からは、その可能性とし
ては20%程度ではないかと思われます。源義経が成吉思汗であ
るという決定的な証拠もない代わりに、そうではないという証拠
もない状況だからです。
 源義経生存説がはじめて登場したのは、江戸時代の中期ですが
それから昭和にかけて大きな話題となったことは、次の6回ほど
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.江戸時代/正徳 2年(1712)
   ・義経は蝦夷地に脱出し、アイヌに神として崇められる
 2.江戸時代/享保 2年(1717)
   ・蝦夷地に脱出後、金国に入り、皇帝として厚遇される
 3.江戸時代/天明 3年(1783)
   ・義経は蝦夷地から韃靼に渡り、やがて清国を建国する
 4.明治時代/明治18年(1885)
   ・義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗に
 5.大正時代/大正13年(1924)
   ・小谷部の『成吉思汗は源義経也』がベストセラーズに
 6.昭和時代/昭和33年(1958)
   ・高木彬光『成吉思汗の秘密』のベッドディテクティヴ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歴史上の出来事が本当にあったことかどうかを調べるにはいく
つかの方法があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.外国も含む史料や歴史文献を調べて、そのように記述され
   ているかどうかを確認する。
 2.実際に現地を実地踏査し、その出来事に関係のある遺跡や
   伝承・伝説などを調査する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、多くの歴史学者は上記の1しかやっていないのです。
確かに実地踏査するといっても、何百年も前のことですから、調
査には限界があります。伝承・伝説にしてもそれを額面通りには
受け取れない――それはよくわかります。
 そうはいっても、2を省略することは怠慢のそしりを免れない
でしょう。小谷部全一郎氏は、単に歴史書を調べるだけでなく、
平泉から北海道まで、義経一行が逃げたと思われるルートをすべ
て実地踏査し、さらに大陸まで足を伸ばして義経の足跡を探査し
たうえで、『成吉思汗は源義経也』を書いているのです。
 私は、今回のテーマを書くため、必ずしも読みやすくはない小
谷部氏の本を時間をかけて読んでみましたが、彼の示す数多い状
況証拠には説得力があり、よくぞここまで調べたものと感嘆した
しだいです。
 これに対して歴史学者は、あくまで史書に基づいて得られた判
断を歴史的事実としており、実地踏査などだれもやってはいない
と思われます。それでいて、実地踏査に基づく小谷部全一郎氏の
研究に関しても、最初から「そのような事実はない」と決めてか
かり、それでいて何らの証拠も示さず、牽強付会のこじつけとし
て葬り去っているのです。
 歴史学者たちはいったん確定した(と彼らが思っている)歴史
的事実に対して異見を唱える者を容赦なく弾劾します。そのすさ
まじさは、小谷部氏のケースを見れば明らかでしょう。
 それを恐れてか、歴史のウソを数多く指摘しているあの井沢元
彦氏ですら、義経に関しては衣川の戦いで自決したという、ごく
一般的な説を追認しているのです。
 歴史学者たちは「義経生存説」が消えない理由について、日本
人の「判官びいき」のためとしており、その考え方を基調として
あらゆる義経生存に関わる状況証拠を否定しています。
 確かに義経は「悲劇の主人公」といえます。幼くして父親を殺
され、敵将に預けられて、さらに母とも引き離されて鞍馬山に送
られる――親の愛を十分に受けられないで育っています。やがて
兄頼朝と会って、平家討伐という大功績を立てるが、頼朝から一
転逆賊扱いされ、追手に追われたあげく、31歳で自害――「薄
命」を絵に描いたような生涯です。
 こうなると「義経かわいそう」ということになり、判官びいき
が生まれ、「そうあって欲しい」という一念が義経生存説を生み
出したとするのです。そして、各地に残る義経の遺跡や伝説など
のすべては、こうした判官びいきから生まれたものであると学者
たちは考えているようです。
 何はともあれ、義経が衣川の戦いで死亡したという確たる証拠
がないことが生存説を生む原因なのです。それにしても、歴史学
者たちはこの問題になると、なぜ、かくも感情的になってしまう
のでしょうか。
 30回にわたる源義経=成吉思汗説(義経の謎)のテーマは、
これで終了します。長い間のご愛読感謝します。
              ・・・[義経の謎/30最終回]


≪画像および関連情報≫
 ・ある推理作家の想像する義経の最後
  ―――――――――――――――――――――――――――
  義経が大陸にわたったのだとしても、私は彼がジンギスカン
  になったのではないだろうと思っている。あるいはジンギス
  カンの軍団と戦って敗れ去ったか。あるいは平泉の滅亡を知
  って、帰るべき地を失った痛手を胸にどこかでのたれ死にし
  たか。いずれ悲運な最後を遂げたような気がしてならない。
  −中津文彦著『義経はどこへ消えた?』(PHP研究所刊)
  ―――――――――――――――――――――――――――

中津文彦氏.jpg
中津 文彦氏
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2010年07月13日

●天城山心中と椿山心中(EJ第1659号)

 愛新覚羅家といえば、忘れられない出来事があります。それは
昭和32年に起こった天城山心中事件です。当時の新聞が伝える
事件の概要です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昭和32年12月10日、静岡県伊豆半島の天城山で若い男女
 の死体が発見された。地元警察が現場検証したところ、死体は
 2人ともピストルで頭を撃ち抜かれていた。遺品から男性は学
 習院大学2年生の大久保武道さん(当時20歳)で女性は同級
 生で元満州国皇帝・溥儀氏の姪で愛新覚羅慧生さん(えいせい
 ・当時20歳)であることが判明、2人の関係や状況から心中
 と断定された。            ――当時の新聞より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ピストル心中を遂げた男性の大久保武道さんは、八戸の出身で
あり、地元鉄道会社重役の父を持ち、学習院大学生であり、文京
区森川町の新生学寮に下宿していたのです。
 女性の方は愛新覚羅慧生さん――愛新覚羅溥儀の姪、溥儀の弟
である溥傑の長女です。この愛新覚羅溥傑のことを語るには、そ
の妻である愛新覚羅浩さんについてふれる必要があります。
 愛新覚羅浩さんは激動の昭和史の中での生き証人です。日本の
公家の嵯峨侯爵家に生まれながら、満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥
傑氏に嫁ぎ、満州国の興亡を体験しています。敗戦の満州での逃
避行から監獄での生活という辛苦を味わっているのは皇族、華族
のなかでは浩さんと近衛文隆だけだといわれています。
 心中の原因は「叶わぬ恋」――大久保としては、慧生の実家が
嵯峨家という名家であり、慧生との交際が快く思われていないこ
とから、このままいっても恋は成就しないと、心中を決意したも
のと思われます。大久保の一途さに慧生が魅かれ、大久保に引き
ずられる形で慧生も死を選んだというのが実状のようです。
 なぜこの話を取り上げたかというと、そのときから800年も
前に、天城山心中に酷似した事件が起こっているからです。それ
が椿山心中なのです。椿山心中とは、次のような話です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘
 は鶴姫を産む。義経が既に北へ旅立った後の話である。歳月が
 流れて、成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎とい
 う武士である。しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり、義経
 の遺児との結婚など不可能。思い余った2人は、話にだけ聞く
 義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。そして夏泊ま
 で来たとき、追っ手が迫った。2人は半島の絶壁で胸を刺し違
 えて、海に飛び込んだのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 阿部と鶴姫が自決した夏泊半島(青森県東津軽郡)の椿山は、
全山が1万数千本の椿でおおわれ、4月下旬から6月上旬にかけ
て、丘陵一帯が真紅に染まるのです。しかし、白椿は全然ないの
です。それは、阿部と鶴姫の血潮で染まったためであると言い伝
えられているのです。
 そして、冬になれば毎年、浅所海岸にシベリアから白鳥が飛来
し、純白の雪景色の世界に飛翔する白鳥の姿には、生命の輝きが
感じられます。これらの白鳥は、鶴姫の父・義経の霊魂が化した
もので、非業の死をとげた鶴姫をなぐさめるために毎年決まって
飛来するといわれています。
 天城山心中と椿山心中の男性は、いずれも八戸の出身であり、
女性はいずれも源義常につながるのです。愛新覚羅慧生さんは清
国の末裔ですし、鶴姫は義経の忘れ形見です。清朝は成吉思汗に
つながるのです。あまりにも酷似しているのです。しかも、伊豆
の天城山は、源氏のゆかりの土地なのです。
 このことに気が付いたのは、高木彬光氏です。そして『成吉思
汗の秘密』に書いたのです。彼はこれを「輪廻」といっているの
です。ソロモンの『伝道の書』に次の言葉があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 先に有りしものはまた後に有るべし。先に成りし事はまた後に
 成るべし。日の下には新しきものあらざるなり。見よ、これは
 世に新しきものなりとさしていうべきものありや。それは我ら
 の前にありし世に、すべて久しくありたるものなり。
              ――ソロモンの『伝道の書』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』――源義経=成吉思汗説を書
くに当たって、この本ほど役に立った本はないのです。ジョセフ
ィン・テイというイギリスの女流作家がいます。その人の書いた
探偵小説に『時の娘』という傑作があるのです。「真理は時の娘
なり」という格言からとった題名ですが、『成吉思汗の秘密』の
構想は明らかにこれからとられています。
 この小説の主人公は、ロンドン警視庁の警部――彼は犯人を追
いかけているうちにマンホールに落ちて大怪我をするのです。そ
れで、病院に入っているうちに、退屈でしょうがないものだから
推理を働かせて、いろいろな難問に挑戦するというものです。
 高木彬光氏は、もちろん『時の娘』を読んでいて、その構想の
実現の機会を狙っていたといいます。1957年8月のことです
が、ある易者に先祖のお墓参りをすれば、必ず大作のきっかけが
掴めるといわれたそうです。半信半疑で出発した高木氏は、不思
議な体験をするのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 途中北上川が氾濫して、夜中から朝まで平泉の駅に急行列車が
 立往生してしまったのである。その時、私は妙な夢を見た。白
 鳥の大群が海をわたり、一望千里の広野に飛んで行く光景だっ
 た。いつのまにか、私もその一羽になって空を飛んでいる――
 眼がさめたとき、私は子供の頃聞いていた椿山伝説を思い出し
 て、おやと思ったのである。 ――高木彬光著「前掲書」より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシリーズは明日で終了します。・・・[義経の謎/29]


≪画像および関連情報≫
 ・高木彬光著、『成吉思汗の秘密』についての批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  誰かがやりそうなものと、ひそかに期待していたが、とうと
  う高木さんが、ジョセフィン・テイの「時の娘」の手法を取
  り上げた。病院に臥床中の神津恭介は、ベッド・ディティク
  テヴとなって、「成吉思汗は源義経なり」の史上の大疑問を
  犯罪捜査の手法によって、一々証拠を示しながら、あくまで
  も論理的に解明して行くのである。テイ女史のリチャード・
  三世善玉説は、イギリス史学界の問題にもなった。高木さん
  のこの一篇も、日本史学界に一つの刺戟を与えるのではない
  かと思う。               ――江戸川乱歩
  ―――――――――――――――――――――――――――

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天城山心中と椿山心中
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2010年07月12日

●清朝と満州国の関係を探る(EJ第1658号)

 清朝を建てた愛新覚羅氏は文化政策――文教の保護政策に大変
力を入れたのです。宮廷に多くの学者を集め、多くの書物を編纂
させています。出版が発達していない封建時代において、一般大
衆にあまりかかわりのない歴史的な記録の集成に力を入れるには
そういう政策が必要であったのです。
 その政策は代々の清朝の皇帝たちにきちんと受け継がれ、歴史
書の編纂は継続されていったのです。既出の『図書輯勘録』30
巻はその中のひとつなのです。この『図書輯勘録』に六代皇帝で
ある乾隆帝の序文があり、そこに皇帝自身が「朕の姓は源、義経
の裔なり」と書いているという言い伝えについては、既に述べた
通りです。
 この『図書輯勘録』という書物は、発見されなかったという事
実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまって
います。しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出
の文献なのです。
 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちによって、自分たちの大清帝国
の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔
などということを広く知られたくはなかったのは当然です。した
がって、それは北京の秘庫に深く収められ、専門の史官によって
厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。
 したがって、簡単に発見されるものではなく、見つからないか
らといって、そういう書物はなかったということにはならないと
思います。清朝の建国者である愛新覚羅家と日本とはいろいろな
つながりがあり、源義経=成吉思汗説とも深いかかわりがあると
いうことができます。
 このことに関連して、愛新覚羅溥儀という人物について少し述
べる必要があります。愛新覚羅溥儀は、ベルナルド・ベルトリッ
チ監督の映画『ラストエンペラー』の主人公その人です。彼は、
戦時中に日本の建設した「傀儡国家」である満州国の皇帝として
国家(中国)に反逆し、中国人民を抑圧したと言う理由で、19
50年に「戦犯」として、中国共産党によって撫順刑務所へ送ら
れています。そこで溥儀は「思想再教育」を受け、1959年に
「特赦」によって出所しています。
 しかし、溥儀が「満州国の皇帝として、国家(中国)に反逆し
中国人民を抑圧した」というのは事実でしょうか。
 結論からいうと、愛新覚羅溥儀は満州人として、日本の協力は
得たものの、自らの故郷である満州に独立国を建てただけのこと
であり、中国には関係がないのです。ここにも満州人も漢民族も
すべて中国にしてしまう中国の戦略があります。
 愛新覚羅溥儀は宣統帝といって、清朝最後の皇帝であることは
事実です。1911年の辛亥革命は大きく広がり、1912年1
月1日に孫文が臨時大総統に就任して、「中華民国」が成立した
のです。その後、袁世凱が清朝と中華民国との仲介をし、宣統帝
・溥儀の「退位」を引き出したのです。しかし、この「退位」は
「条件つき」だったのです。その条件の概要は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.宣統帝・溥儀は退位後も皇帝の称号は廃止しない
   2.大清皇帝は年金として毎年400万両を受領する
   3.大清皇帝は紫禁城内にそのまま居住し、後日移動
   4.大清皇帝の宗廟・陵は永久に奉祀し、慎重に保護
   5.先帝光緒帝の陵の工事は予定通り続行させること
   6.紫禁城内の各職員は従来通りそのまま使用できる
   7.大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する
   8.禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国に下に置かれる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、宣統帝・溥儀は、退位後も皇帝の称号を名乗る
ことが許され、紫禁城に住むことができ、高額の年金を与えられ
て、側近の職員もそのままという生活を保障されています。溥儀
としては、この協定と引き換えに退位をしたのです。1912年
2月20日、中華民国と清朝との間に「退位協定」が締結され、
宣統帝・溥儀は退位して、清朝は滅亡したのです。
 しかし、袁世凱は大統領に就任すると、1914年に大総統令
を出して、一方的にこの協定を破棄してしまうのです。そして、
溥儀を一国民に格下げし、紫禁城から追い出してしまうのです。
 溥儀は天津租界の日本公使館に保護されたのですが、中華民国
政府は紫禁城から清皇室の財産をことごとく没収し、さらに西太
后をはじめとする清朝歴代諸皇帝の御陵まで軍兵を差し向けて、
副葬品などを掠奪したのです。これは、明らかに契約違反以外の
何ものでもなく、これによって、中華民国は清朝から禅譲された
政権の正当性を自らの意思で放棄したことになるのです。
 その後、1934年に溥儀は、日本軍の力を借りて父祖発祥の
地である満州国の皇帝の地位につくのです。「退位協定」が破ら
れているので、清朝はそのまま残っていると考えれば、満州国は
後清朝というべき性格を持つといえます。
 満州国は古来より一度たりとも中国人によって征服されたこと
はないのです。しかし、満州国皇帝の溥儀は、国家に反逆し、中
国人民の抑圧などで罰せられているのです。これは明らかに冤罪
ということになります。
 もし、中華民国政府が「退位協定」を守っていたら、日本は満
州国など建国しなかったでしょうし、溥儀もその皇帝に就任する
こともなかったのです。
 満州は、日本の北方領土と同じようなものなのです。終戦のど
さくさにまぎれて併合され、中国東北部に改称されています。か
つての満州は歴史のかなたに埋没されつつあるのです。
 源義経=成吉思汗説について書くさいに、「満州」のことが多
く出てくるので、取り上げてみたのです。なぜなら、満州は年月
の経過とともに人々から忘れられ、単なる中国の東北地区になり
つつあるのです。
 このように愛新覚羅家と日本とは、密接なつながりがあるので
す。それは源義経とも密接に関係があるのです。
                 ・・・[義経の謎/28]


≪画像および関連情報≫
 ・満州について
  満州はさして古い地域名ではなく、この地域が清の支配民族
  マンジュ(漢字で「満州」)の居住地域であったことから、
  西欧語で「マンチュリア」と呼ばれるようになり、漢字圏で
  もこれに対応させて、「満州」と呼ぶようになったものであ
  る。中華人民共和国では過去の満州国の記憶を嫌い、地域名
  称としての「満州」はほとんど使われることはなく、抽象的
  な「中国東北地区」が使われる。民族名としての「満州族」
  すら使わせず、「満族」と呼称している。――出典: フリー
  百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラスト・エンペラー.jpg
ラスト・エンペラー
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2010年07月09日

●清国は中国にあらず(EJ第1657号)

 清朝のことが出てきたので、若干脱線しますが、清朝と中国の
関係について述べておきます。源義経=成吉思汗説とも関係があ
るからです。
 一般的に清朝は最後の中国王朝であると思われています。した
がって、1894年〜1895年にかけて行われた日清戦争は、
日本が中国と戦った戦争であり、その結果、下関講話条約で日本
が獲得した台湾は、中国から割譲を受けたものである――そう思
い込んでいる人が意外に多いのです。
 しかし、これはとんでもない間違いなのです。清朝は中国では
ありません。日清戦争は日本と清帝国との戦争であり、日本と中
国の戦争ではないのです。なぜなら、中国という国家はその時点
でまだ存在していなかったからです。したがって、台湾について
は、中国の一部ではなく、清帝国の辺境だったのです。
 その理由としては、次の2つを上げることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.まず、人種が違うということである。清朝の皇帝は満州人
   であって、中国人(漢人)ではないのである
 2.清朝は中国の外の瀋陽で建国されており、確かに中国を支
   配したが、それ以外の国も支配していること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族なのです。清という国は、満州族の一部族
である愛新覚羅氏が建てた王朝なのです。考えてみると、テムジ
ンが当初活躍したのは、現在の中国の東北地区に当たる満州の地
域なのです。
 清朝は1636年に瀋陽で建国されており、中国に入って支配
したのは1644年からのことです。それから1912年までの
268年間、清朝は中国を支配したのですが、中国だけではなく
清帝国を構成する五大種族に君臨したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.満州族 ・・・・・・・・ 八旗の議長
  2.モンゴル族 ・・・・・・ 大ハーン
  3.漢族 ・・・・・・・・・ 明朝の皇帝
  4.チベット族 ・・・・・・ 大施主
  5.東トルキスタン族 ・・・ ジューンガルの支配権
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族に関しては、「八旗」と呼ばれる8部族の
部族長会議の議長であり、モンゴル族に関しては成吉思汗以来の
遊牧民の大ハーン、漢族にに関しては洪武帝以来の明朝の皇帝の
地位を引き継いで皇帝として支配したのです。
 チベット族に関しては、元の世祖フビライ・ハーン以来の、チ
ベット仏教最高の保護者である大施主、東トルキスタン族に対し
ては、最後の遊牧帝国ジューンガルの支配権を引き継いで、オア
シス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していたのです。
 これらの五大種族の中で漢族だけはどちらかというと低く扱わ
れていたのです。他の4つの種族は自治が認められていたのに対
し、漢族だけは清朝帝国の使用人である官僚を通して統治されて
いたからです。
 漢族は科挙の試験に合格して官僚にならない限り、中国の行政
には参加できず、辺境の統治にも帝国の経営にも参加することは
認められなかったのです。いわば、漢族は清帝国の二流市民であ
り、中国は清朝の植民地の一つだったのです。
 これに比べてモンゴル族は、清朝の建国に当初から参加した関
係で、新帝国では満州族に準ずる地位を与えられていたのです。
モンゴル人の貴族たちは、清朝の皇族と同じ爵位を与えられ、皇
帝から俸禄を支給されていました。それにモンゴル族の庶民は、
それぞれ自分の領主に治められていて、清朝に税金を払うことは
なかったのです。
 それにもかかわらず、清朝は中国王朝であり、清帝国は中華民
国であったという誤解がはびこっているのです。どうしてこうい
うことになったのでしょうか。
 これに関して、東京外国語大学名誉教授、岡田英弘氏は次の3
つの原因を上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.「国家国民」という新しい観念が世界中に広まったこと
 2.20世紀における中国人による政治的宣伝の結果である
 3.ヨーロッパ人やアメリカ人の勘違いがそれに加わること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは「国家」という言葉を何気なく使いますが、国家な
どという政治制度は18世紀の末まで、世界中のどこにも存在せ
ず、あったのは君主制と自治都市だけである――岡田氏はこのよ
うにいい、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アメリカ独立でも、フランス革命でも、国王の財産を市民が強
 奪して、国家がはじまったのだが、こんどは国家の正当な所有
 権者がだれかが問題になる。国家の所有権は「国民」に帰属す
 る、ということになると、こんどはその国民とはだれかが問題
 になる。そこで、「国土」に住んでいる者が国民だということ
 になる。そうすると、それまでにはなかった「国線」を引いて
 その内側の住民を国民と見なして、同じ「国語」を話し、同じ
 「国史」を共有することを強制するようになる。  
       ――岡田英弘著、『皇帝たちの中国』、原書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに乗じた中国の政治的な宣伝があるのです。中国人の国民
主義(ナショナリズム)は高揚して「大漢族主義」の主張により
満州人も漢人はもともと同じ中華民族であり、その清朝の皇帝に
臣属しているモンゴル人もチベット人も漢族であるという乱暴な
主張をしているのです。
 加えて、ヨーロッパ人やアメリカ人は海路を通って清帝国に入
ったので、清帝国支配権の中国部分しか見ておらず、清国イコー
ルチャイナと誤解してしまったのです。・・[義経の謎/27]


≪画像および関連情報≫
 ・「八旗」とは何か
  「八旗」とは、清の時代の、清の支配民族である満州族の社
  会組織・軍事組織のことである。8つの旗と呼ばれる社会・
  軍事集団が編成され、全ての満州族がこれに配属された。女
  真族を統一して清を興したヌルハチが、女真族固有の社会組
  織を元に創始した。また、この制度を指して八旗と呼ぶ。
 ・≪軍旗の色≫
   1.黄色の縁取りあり  3.紅色の縁取りあり
     黄色の縁取りなし    紅色の縁取りなし
   2.白色の縁取りあり  4.藍色の縁取りあり
     白色の縁取りなし    藍色の縁取りなし

八旗.jpg
八旗
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2010年07月08日

●義経=清朝先祖説というものがある(EJ第1656号)

 「源義経=清朝先祖説」というのがあります。「源義経=成吉
思汗説」を述べるに当って、これに言及しないわけにはいかない
と思います。しかし、これは妄説中の妄説といわれるもので、歴
史論争としては既に「そのようなことはありえない」として決着
のついていることだそうです。
 そこで、コトの真偽は読者のご判断に委ねるとして、あえてご
紹介することにします。
 源義経=清朝先祖説は、もちろん、源義経=成吉思汗説をベー
スにしていわれるようになったものであり、源義経=成吉思汗説
の発展系といえます。
 『清国総録』という本があります。英国の公使をしていたデビ
スという人が書いた本です。この本に次のようなことが書いてあ
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は、明朝のために放
 逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ、長の娘と婚して、諸
 公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙
 して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝を成吉思汗の孫、忽
 必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。
              ――デビス著、『清国総録』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清国の建国については諸説があり、成吉思汗の誕生や蒙古の建
国と同様に伝説的なヴェールに閉ざされているのです。しかし、
英国の公使までやった人物がそうデタラメを書くとはとても思え
ないのです。
 清国というのは、1616年から1912年まで中国を支配し
た最後の統一王朝であり、満州に存在していた海西女真族(満州
民族)の部族、愛新覚羅氏が作った王朝です。
 1616年、ヌルハチ(太祖)が女真族(満州族)を統一し、
満州に「後金」を立てたのです。そして、1636年に「清」と
改めています。1644年には明の滅亡をきっかけに中国に侵入
し、都を北京とし、支配民族の満州人の八旗軍を中心に、15年
で全土を統一しています。第4代の康熙(こうき)帝から、第6
代の乾隆(けんりゅう)帝までは全盛をきわめています。
 清朝では、人口が急増し、商工業が盛んになって全国が1つの
市場になり、銀の流通が広がったのです。皇帝が学者を優遇する
政策をとり、『康熙字典』をはじめとする多くの書物の編纂が行
われ、絢爛たる文化を誇った王朝なのです。
 中でも『古今図書集成』一万巻は有名であり、中国最大の類書
(百科事典)といわれました。源義経=清朝先祖説はこの書物と
深い関係があるのです。
 さて、天明3年(1783年)に成立したという『国学忘貝』
という本があります。編者は森長見という人です。この書物の中
に次の驚くべき記述があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清王朝の編纂による『古今図書集成』一万巻中に『図書輯勘』
 一三○巻がある。清国皇帝は自身で序文を記し、『朕は源義経
 の末裔である。義経が清和源氏の流れをくむため、清和天皇の
 名をとって国号を≪清≫とした』と述べている。私は或る儒者
 の書物を見てこのことを知った。
              ――森長見編、『国学忘貝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は源義経の末裔であり、そのため「清」という国名は清和
源氏の「清」をとったものであるということを皇帝自身の筆で書
いているとすれば大変なことです。
 確かに、かつて北京の宮殿に「和」という字がついたものが多
いということがあったのです。大和殿、保和殿、中和殿、雍和宮
協和門などです。清朝時代には、日本のことを「和」と呼んでい
たのです。
 そのため中華民国が誕生したとき、袁世凱大総統はその名前を
書きかえるのに苦労したと伝えられています。大和殿は承運殿、
保和殿は建極殿、中和殿は体元殿、協和門は経文門というように
です。なぜ、袁世凱大総統は、ここまで「和」を外すことにこだ
わったのでしょうか。
 歴史学者たちは当然『図書輯勘』の存在を疑ったのです。『古
今図書集成』自体は、日本に八代将軍・吉宗の時代に絵図160
巻のみがきて、宝歴13年(1763年)に全巻がきているはず
なのです。時の老中・田沼意次は書物奉行に諮問したうえで、紅
葉山文庫に収蔵したとされています。
 何人かの歴史学者は、紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲
覧を申し出たのですが、なかなか許可にならなかったのです。そ
の中にあって、閲覧の許可が出たのが桂川中良という人です。彼
の兄が医師・蘭学者にして幕府の医学館教授をしていたことがも
のをいったのです。
 桂川中良は、『古今図書集成』のすべてを閲覧したのです。し
かし、肝心の皇帝の序が出ているという『図書輯勘』はなかった
というのです。総目録にもなかったそうです。そこで、桂川中良
は『図書輯勘』は存在しない書物と決めてしまい、次のように述
べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば『古今図書集成』という貴重な書物を見たうえに
 真実を知ったことこそ大きな幸福である。義経=清朝先祖説は
 『国学忘貝』に限らず、広く世に喧伝されているが、同好の士
 よ。義経と清朝のことに関しては、永久に懸念を絶つべきであ
 る。                    ――桂川中良
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂川中良は、このことばによって、義経は衣川の戦いで自害し
ており、清朝先祖説を含む義経=成吉思汗説などは妄説に過ぎな
いと断定したのです。しかし、最近になって、『図書輯勘』はや
はりあるという説も出てきているのです。 
                 ・・・[義経の謎/26]


≪画像および関連情報≫
 ・『古今図書集成』
  中国、清代に編纂された中国最大の百科事典。1万巻からなり
  1725年に完成。のち銅版印刷で60余部が印刷された。図
  は、1884年に上海で重版されたものである。

古今図書集成.jpg
古今図書集成
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2010年07月07日

●成吉思汗は何を意味するか(EJ第1655号)

「源義経=成吉思汗説」のテーマは、本日で第25回目となり
ます。そろそろ終りに近づいてきています。しかし、このテーマ
で述べなければならないことはまだ残っています。今週はそうい
うことに絞って述べていくことにします。
 蒙古について書かれている本を調べると、その始祖の成吉思汗
については、カナで「ジンギスカン」か「チンギス・ハーン」な
どと表記され、「成吉思汗」という漢字が使われていないことに
気がつきます。しかし、日本の書物によると、「成吉思汗」の文
字が使われているのです。この「成吉思汗」という漢字は、誰が
つけたのでしょうか。
 1206年の第2次即位のとき、テムジン(鉄木真)は自らを
「成吉思汗」と名乗っています。当時のモンゴルには文字という
ものはなかったのですが、成吉思汗=義経と考えると、義経は自
らの意思で、この名前を選んだと考えてよいと思います。
 義経は京都で検非違使をしていたとき、公卿との付き合いがか
なりあったといわれます。そのため、当時公卿の間で流行してい
た文字遊びにもある程度は通じていたものと思われます。頼朝は
そういう義経の行動を苦々しく思っていたのです。
 文字遊びとは、例えば、在原業平が「かきつばた」という五字
を読み込んだ歌を作れといわれて、即座に次の歌を詠じたという
そういう高雅な遊びのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    「か」らころも、「き」つつなれにし、
    「つ」ま(妻)しあれば、「は」るばる来ぬる、
    「た」びをしぞ思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こんな話もあります。保元の乱に敗れて死んだ左大臣、藤原頼
長は、改元のとき問題になった「天保」という年号を「一大人只
十」と分解して、年号にふさわしくないので、止めることを進言
したといわれます。
 義経がそういう知識があったと考えると、自ら選んだ成吉思汗
という称号にはそこに何らかの思いをこめて作ったと考えるのは
不思議なことではないと思うのです。
 問題なのは「汗」という字なのです。「汗」とは王位を指す名
称であり、帝位は「大汗」と称する――この「大汗」の称号は、
成吉思汗が即位してはじめてできたものであり、成吉思汗自らが
創始したものと考えてよいと思います。
 「汗」は分解すると「サンズイに干」――スイカンと読むこと
ができるのです。「スイカン」とは白拍子の衣装です。『平家物
語』の「妓王」の段に次の文章があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞いければ男舞とぞ申しける
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 したがって、水干は白拍子――すなわち、静御前を指している
のではないかということです。つまり、「成吉思汗」とは漢文読
みをすると、次のように読めるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「吉」「成」りて「水干」を「思」う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「吉」とは「吉野山」であり、「水干」を静御前と考えると、
「成吉思汗」という称号は次の意味に取れるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      吉野山の誓い成りて、静(しずか)を思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 静に関しては有名な話があります。鶴岡八幡宮の堂が完成した
ときのことです。祝いの儀を執り行うことになって、鎌倉武士の
間から、名高い白拍子の静に祝いの舞を舞ってもらったらどうか
という声が出たのです。
 頼朝は政子に静に舞を披露するよう伝えるよう命じたのです。
政子はおそらく静は断ってくると考えたのですが、静は舞を舞う
ことを了承するのです。
 そのとき静は、この舞を通じて義経にメッセージを伝えたいと
考えたのです。そして、鎌倉若宮堂で、大将軍頼朝の権威に何ら
臆せず、次の自作の歌を詠じながら、舞を舞ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     しずやしず、しずのおだまきくりかえし、
      むかしを今に なすよしもがな
     吉野山 峰の白雪ふみわけて
      入りにし人の あとぞ恋しき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは明らかに義経を思う恋の歌だったのです。頼朝は謀反人
を偲ぶ歌を歌うとは・・と露骨に不快感を示したのですが、政子
は「見事!」と褒めたといわれます。
 実は「成吉思汗」という名前は、義経の静の歌に対する返しで
あるといわれているのです。それは「成吉思汗」を万葉仮名とし
て読み下せば、「なすよしもがな」になるからです。
 このように「成吉思汗」という名前は、和漢両様の読み方で、
静御前の歌への見事な「返し」となっているのです。果たして、
これが牽強付会のこじつけといえるでしょうか。
 ところで、今日は8月15日です。毎年8月15日には京都の
鞍馬山では「義経忌」という法要が行われるのです。実は、同じ
8月15日にモンゴルでは「オボー祭」という催しが行われてい
るのです。「オボー」というのは、郡境に立つ小塔という意味で
すが、成吉思汗の命日のお祭りといわれています。こんな偶然が
あるでしょうか。
 「われこの天命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、
故山に帰りたし」――これは成吉思汗の遺言として伝えられてい
ます。「ただ、故山に帰りたし」――まことに意味深なことばで
あると思います。         ・・・[義経の謎/25]


≪画像および関連情報≫
 ・「白拍子」
  切り絵作家・宮田雅之氏の作品

静御前の舞い.jpg
静御前の舞い
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2010年07月06日

●テムジン2回の即位の真相(EJ第1654号)

 義経一行は、蝦夷地に渡ってからは、松前、函館、乙部浦を経
て、西海岸を北上し、寿都にきています。その足跡は数多く残さ
れているのです。
 義経一行は寿都にはしばらく滞在していたと考えられます。義
経を慰めるため、弁慶がアイヌの人たちと相撲をとった土俵跡が
残されているからです。今では草に覆われていますが、土俵の大
きさは幅20メートル、周囲に30センチの土盛りがされており
あたりには4本の柱の跡、弁慶が力足を踏んだ跡、わらじばきの
足跡や義経の座った物見台まであるのです。
 しかし、寿都では義経よりも弁慶が主役であって、義経は脇に
追いやられているのです。現在でも、毎年8月14〜15日には
「寿都弁慶祭り」が盛大に行われており、依然として弁慶が主役
なのです。そして、なぜか、弁慶別れの宴(儀式)が伝説として
残されているのです。
 問題は、義経一行が寿都を去るときの別れの宴であるのか、弁
慶だけが寿都を離れるさいの別れの宴であるのかがはっきりしな
いことです。この場合、何らかの使命を担って弁慶が寿都を離れ
たと考えると、弁慶の別れの宴の謎は解けるのです。
 小谷部氏は、義経一行が寿都で義経の本隊と弁慶を長とする部
隊に分かれたと考えているのです。そして、弁慶の部隊は、おそ
らく安東水軍の力を借りて、先遣隊として大陸に渡ったのではな
いか――このように推理しているのです。
 この弁慶を長とする先遣隊は、サハリン島の西北端から大陸の
アムール川河口付近に上陸し、満州女直族のワンスン、高麗チャ
ガン軍を破ってウラジオストック近郊に達したと考えられるので
す。つまり、ここまでは、弁慶軍が攻め進んできたのであり、義
経軍は後から合流したのではないかと思われるのです。
 そして、第1次即位の時期は、高麗チャガンを破った1192
年頃ではないかと考えられます。そうであるとすると、第1次即
位のときのテムジンは、弁慶であると考えても不思議はないわけ
です。これがテムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という説を
生んだのです。
 テムジンの軍勢は、この時点でウラジオストック近郊に達して
おり、そこで約10年間を過ごしているのです。かなり長い期間
です。義経の本隊は、この間に合流したものと考えられます。
 10年後の1202年にテムジン軍は動き出し、タタール部族
とケレイト部族の攻略を開始するのです。これらの戦いからは義
経自身が全軍の指揮をとったものと考えられます。そして、ナイ
マン王国を攻略して、1206年にオノン河上流にてクリルタイ
を開催し、成吉思汗に即位するのです。これが第2次即位と呼ば
れるのです。
 問題は、第2次即位以降の成吉思汗が義経であるとして、その
義経が前面に出て指揮をとったのか、それとも依然として弁慶を
前面に立てて、義経は裏で指揮をとったのか――そのことははっ
きりしていないのです。
 しかし、テムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という記述が
残っているのですが、成吉思汗が大男であるという記述はないの
です。成吉思汗が大男であるというのは、テムジンがそうであっ
たからということからきているのです。
 これに関して、興味深い絵があります。添付ファイルを見てく
ださい。中公新書『元朝秘史』(岩村忍著)に出ているものです
が、これはラシードの『集史』から転載されたものであると思わ
れます。何の絵かというと、成吉思汗が降伏させた敵将と謁見し
ている絵なのです。
 5人の人物が描かれていますが、左側に降伏した3人の敵の武
将がうなだれるように立っています。そして、右から2人目の人
物が成吉思汗なのです。絵が鮮明ではないので、はっきりわかり
ませんが、ふっくらとした顔立ちで、口ひげのようなものも見え
ます。しかし、その背丈は敵将よりも明らかに低いのです。
 写真じゃないのだからという意見もありますが、逆に絵である
からこそ、成吉思汗の大きさを強調するのが普通です。このよう
に、成吉思汗が大男であったという説もあまり根拠のあるもので
はないといえます。
 さて、もう一度寿都に話を戻します。弁慶岬には遠く海原を眺
める弁慶の銅像が立っています。この弁慶像は1988年に建て
られたものですが、弁慶は一体何を待っていたのでしょうか。
 弁慶の像の台座には「想望」という文字が刻まれています。こ
の「想望」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。奥州を逃れた義経・
 弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。弁慶の舎弟
 ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷に向っ
 たという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って
 海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはでき
 なかった。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬を
 弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶
 岬と呼ぶようになったのである。    ――「想望」の由来
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、義経一行は援軍を待っていたのです。平泉を脱出した
義経一行には藤原忠衡の率いる軍、大河兼任率いる軍など、いろ
いろ挙兵の情報があり、常陸坊海尊の挙兵も、そのひとつである
と考えられます。
 ところでこの常陸坊海尊とは何者でしょうか。
 常陸坊海尊は、園城寺(三井寺)の僧兵で、義経の家臣のひと
りです。しかし、実在の疑われる伝説的な人物であり、その人物
像は明確ではないのです。なお、歴史学者の中には弁慶ですら実
在を疑っているほどです。常陸坊海尊は、衣川合戦当日も、近く
の山寺に参拝したまま戻らず、そのまま逃れて生き延びたとされ
ている人物です。NHKの大河ドラマては、常陸坊海尊は登場し
ていないはずです。        ・・・[義経の謎/24]


≪画像および関連情報≫
 ・サイタボウの碑
  チチハル駅と成吉思汗駅との中間にフラルジという部落があ
  る。ここに、昔、日本からやってきた僧の古碑があり、それ
  を「サイタボウの碑」と称している。「サイタボウ」は「西
  塔坊」であり、武蔵坊西塔弁慶を意味するといわれている。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊

降伏した敵将と会う成吉思汗.jpg
降伏した敵将と会う成吉思汗
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2010年07月05日

●義経主従における弁慶の役割(EJ第1653号)

 義経が本当に小男であったとして、何らかの方法で大男になり
すます――そんなことが可能でしょうか。
 それよりも可能性があるのは、ある大男が義経の代わりを務め
る――この方がよほど現実的な話ではないかと思います。しかし
その大男は常に義経の身近にいて、秘密の守れる信用ある人物で
なければならないのです。そういう人がいれば、身代わり説は現
実のものとなります。
 義経の場合はそういう条件に当てはまる大男がいたのです。そ
うです。武蔵坊弁慶その人です。弁慶ならば義経の身代わりは十
分務まるのです。考えてみると、京都から平泉への逃避行におい
てもつねに弁慶が主役になっていたのです。
 歌舞伎十八番『勧進帳』――義経一行は、山伏に姿を変えて安
宅の関(石川県小松市安宅町)にさしかかります。ここではあく
まで弁慶が主役で義経は強力に姿を変えています。
 関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見咎められ、詮
議の問答が始まるのです。勧進帳とは寺院建立などの資金集めの
ためにその趣意をしたためたものであり、弁慶は白紙の勧進帳を
読み上げ、怪しい者ではないことを力説します。
 しかし、富樫は「お顔が似ている」と強力に疑いの目を向ける
のです。そうすると弁慶は、義経に似た貴様が憎いとして、主人
を棒で打ちすえます。そこまでして主君を守ろうとする忠義の心
に感心した富樫は、義経と知りながらも一行を解放し、関を通し
てしまうという話です。このように逃避行ではあくまでも弁慶が
主役であって、義経の出る幕はないのです。
 若干横道にそれますが、富樫が通り過ぎようとする強力を「お
顔が似ている」として引き止めたということには少し疑義がある
のです。なぜなら、富樫が義経の顔を知っているはずがないから
です。当時のことですから、まさか義経の似顔絵が関所に配られ
ていたとは思えないからです。赤穂浪士の討ち入りのときでさえ
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、吉良上野介の顔を確認す
るのに大変な苦労をしているのです。名前はよく知られていても
顔までは知らないケースが当時は圧倒的に多かったのです。
 推測ですが、平泉から蝦夷地に落ちのびるときもこの手を使っ
たものと思われます。つまり、成吉思汗は六尺豊かの弁慶がなり
すまし、義経は裏で采配を振るったのではないかと思われるので
す。そうであるとすると、「成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大」は
何の不思議もないことになります。
 『成吉思汗伝』を書いたドルジという学者がいます。彼はその
中で、成吉思汗の死について次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の崩御の際には、その玉体は漸次縮小した。まことに
 奇異にたえなかったが、古今未曾有の大英雄の最後には、この
 ような奇跡も当然起こりうるとものと信じ、遺体はそのまま黄
 金の棺におさめ・・・。
    ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「玉体は漸次縮小」とは、裏の成吉思汗である義経が死んだと
考えれぱ、何も不思議はないのです。これについて小谷部全一郎
氏は、面白い推理をしているのです。
 小谷部氏は、成吉思汗がテムジンと名乗っていたときは弁慶が
その役を演じ、成吉思汗になってからは義経に代わったのではな
いかと考えているのです。テムジンのときは、モンゴル軍はそれ
ほど大軍ではなく、兵士と一緒に戦場に出て戦っていたので、テ
ムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」というイメージが定着した
のです。しかし、成吉思汗になってからは、義経に代わって、あ
まり人前に姿を現すことはなくなっていたのです。そのときモン
ゴル軍は巨大化しており、そのようにしても誰も不審に思われる
ことはなかったと考えられます。
 実は成吉思汗は、次のように2回にわたって即位しているので
す。これは今まで謎とされていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     第1次即位 ・・・ 不   明
     第2次即位 ・・・ 1206年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1次即位とは、テムジンが諸部族を統一し、部族長に推され
たときをいうのです。そのとき「カン」の位を得たのです。つま
り、各部族がテムジンを長として認めたことを意味します。これ
に対して第2次即位とは、「九旒の白旗」を掲げて、全モンゴル
の王となったときをいうのです。
 『元朝秘史』は、第1次即位の年代を記していないのです。し
かし、一部史料には1189年となっています。今までの分析で
は、義経一行はその1年前に平泉を脱出していますが、第1次即
位のときのテムジンを義経と考えることには無理があります。義
経は八戸や蝦夷において、かなりゆっくりと滞在しており、時間
的に間に合わないと考えられるのです。ここで実は弁慶が問題に
なってくるのです。
 北海道の日本海沿岸に寿都という町があります。その寿都町の
寿都湾の西口に「弁慶岬」というのがあるのです。北海道の地図
で調べていただきたいと思います。強風と日本海に沈む夕日の美
しさで知られるところです。弁慶岬には3.6メートルの弁慶像
が海を向いて立っています。
 なぜ、このようなところに弁慶がいるのでしょうか。ここには
「弁慶別れの宴」という伝説が残っているのです。弁慶は二ツ森
という小高い山の頂上で、秘蔵の金の銚子と金の盃とで別離の宴
を開いています。宴が終わると、弁慶はいつかまたこの町に戻っ
てくると約束して、金の銚子と盃とを白桔梗の根元に埋めたとい
うのです。
 この伝説は何を意味するのでしょうか。ここでは弁慶が主役で
あり、義経は脇に追いやられているのです。別れていく主人公は
なぜか弁慶なのです。       ・・・[義経の謎/23]


≪画像および関連情報≫
 ・寿都に関わる史跡・伝承
  @弁慶の相場場
  A弁慶別離の地/二ツ森
  B弁慶岬

弁慶岬.jpg
弁慶岬
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2010年07月02日

●義経と成吉思汗の容姿を探る(EJ第1652号)

 ところで、源義経と成吉思汗はどのような容姿をしていたので
しょうか。
 実はこれが意外に難問なのです。現代のようにマスコミがある
わけではないので、いかに著名人といえども実際に会った人以外
は本人の容姿を知る方法はないのです。
 義経はどのような容姿をしていたのか――義経は当時美人の誉
れの高い常盤御前の子供ですから、眉目秀麗の男子と勝手に決め
ていますが、実際にはどのような容姿をしていたのかを知る手段
が乏しいのです。
 そこで見つけてきたのが、添付ファイルの絵画ABCです。い
ずれも源義経なのですが、イメージに合うでしようか。
 一番知られているのはBの絵です。これは平泉の中尊寺にある
ものですが、正直いってこれほど義経のイメージに合わない絵も
ないと思います。この肖像画は俗に義経の「失意の肖像」といわ
れており、沈痛な表情をして肩を落として失意のどん底にいる義
経を描いています。しかし、衣川の戦いで死んでいるとすれば義
経は31歳――肖像画は50歳以上に見えます。
 Aの絵は「義経参着の図」といって、黄瀬川において、義経が
平家打倒の旗揚げをした兄頼朝に初対面するときの緊張の面持ち
の場面を描いたものです。義経22歳のときの肖像とされていま
す。昭和15年の安田靫彦(ゆきひこ)氏の作品で、東京国立近
代美術館が所蔵しています。Bの「失意の肖像」に対してAの方
は「希望の肖像」といわれています。
 義経に関して一般の人が描いているイメージはほとんどが「希
望の肖像」の方であると思います。安田氏によると、義経の顔は
藤原時代の毘沙門天像からヒントを得たということで、あくまで
想像の産物なのです。なお、Cの絵の作者は狩野探幽であり、江
戸時代に描かれた「義経図」です。現在、茨城県立歴史館の所蔵
になっています。
 それでは、成吉思汗の方はどうでしょうか。
 チンギス・カーンの肖像としてわれわれが目にする肖像といえ
ば、Dの肖像画しかありません。成吉思汗に関しては義経以上に
その容姿を伝える情報がないのです。『元朝秘史』などにも容姿
については何も説明されていないのです。
 Dの肖像画は「中国歴代帝后像」に収められているものであり
想像画であって、しかも多分に中国化されています。よく見ると
クビライ像とほとんど同じであることに気がつきます。要するに
実際の容姿を伝えるものでないことは確かです。
 成吉思汗の容姿について唯一伝えている本があります。バント
ルドという人の書いた『モンゴル侵入までのトルキスタン』とい
う書物です。しかし、著者のバントルド氏によると、他の文献か
らの引用であると断っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗は、身長は高くて体格は頑丈。ひたいが広く、ひげは
 長く、人物雄壮である。なお、一般のモンゴル人は、最長のも
 のでも五尺二、三寸を過ぎず、ひげは少なくて、顔すこぶる醜
 なり。    ――『モンゴル侵入までのトルキスタン』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが正しいとすると、成吉思汗は義経とはまったく似ていな
いことになります。バントルド氏が引用した文献は南宋の趙こう
という人が書いた著作といわれています。彼は北京で成吉思汗の
軍隊と接触していますが、そのとき成吉思汗は西征に出かけてい
て本人には会っていないのです。おそらく将軍ムカリに会って、
成吉思汗のことを聞いて書いたものと思われます。
 源義経は『平家物語』によると、五尺たらずの小男とされてい
るのです。義経、成吉思汗ともにその容姿は想像の産物とはいえ
決定的な違いがあるといえます。
 高木彬光氏は、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)において、神
津恭介の主張する義経=成吉思汗説に反論する歴史学者である井
村博士の言葉として次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは絶対にこの一人二役説が成立しえないという証明をし
 てみせよう。成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大といわれている。
 もちろん、むかしのことだから身長一メートル何十センチ、体
 重何十キロというような正式な記録は残っていないが、一方源
 義経のほうは、五尺そこそこの小男だったことが、日本の記録
 に残っている。小人国に漂流したガリバーでもあるまいし、五
 尺そこそこの小男では、いくら蒙古人の中にまじっても、身長
 巨大とはいえないだろう。顔の人相なり、体重の変化というこ
 とは当然ありうるとしても、人間の身長が30歳過ぎてから急
 に伸びるということが、いったい医学的にありうるものなのか
 ね。 ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは源義経=成吉思汗説にとっては、大変な難問と思われる
のですが、決定的なものではないのです。なぜなら、義経が小男
で、成吉思汗が大男であるからです。これが逆――すなわち、義
経が大男で、成吉思汗が小男であったら、完全にお手上げになっ
てしまうのですが、そうでないからです。
 そもそも英雄といわれる人は、その容貌、外見、住居などのあ
らゆる面で人を威圧することを考えていたといわれます。ナポレ
オンは、かなり痩せていたので、服の中に綿を入れて肥満を装っ
ていたし、あのジュリアス・シーザーは禿頭であったので、たえ
ず鬘を使っており、加藤清正は実は小男であったので、つねに長
烏帽子をかぶっていたといわれます。
 成吉思汗がそういう細工をしていたことは考えられるのです。
戦国時代の日本の武将でもそうですが、自分の本当の姿を側近を
除いてみだりに見せないようにしていたからです。だからこそ、
影武者が可能だったのです。本当の義経がどのような顔をしてい
たのかは義経軍にあっても、一部の側近しかわかっていないとい
うことは十分あり得るのです。   ・・・[義経の謎/22]


≪画像および関連情報≫
 ・義経/成吉思汗の容姿を示す絵画
   A ・・・ 希望の肖像/義経参着の図
   B ・・・ 失意の肖像
   C ・・・ 狩野探幽の義経図
   D ・・・ 成吉思汗の肖像画

義経/成吉思汗肖像画.jpg
義経/成吉思汗肖像画
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2010年07月01日

●義経/成吉思汗/その性格と人物(EJ第1651号)

 平泉で自害したという義経が大陸に渡り成吉思汗になる――こ
のような壮大なロマンを追って分析してきましたが、今度は源義
経と成吉思汗がそれぞれどのような性格の人物であり、何を好み
何を嫌ったかについて考えていくことにします。
 源義経については、『扶桑見聞私記』にその性格を記述した次
の一文があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (九郎殿は)第一は才智なり、第二は博学なり、第三は大勇に
 して威あり、第四は奢心ある人なり、第五には威高に見ゆるな
 り、第六にはよく人を被馴、第七には謀計あり、第八にはよく
 諸人の心底を察し知る、第九にはよく勇士の剛臆を知り給ふ、
 第十に剣術の名誉を得られたり、此の十種は皆凡人の及ぶとこ
 ろにあらず・・・
                 ――『扶桑見聞私記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗については、既出の『鉄木真用兵論』において、ロシ
アの学者イワニンが次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗、己を処するに方正、人を遇するに寛大、かつ臣下を
 愛し厚く勲労を賞せしをもっておおいに名望を博し、彼に心服
 して従う者日にますます多く、兵勢従って奮起するを得たり。
 また成吉思汗は政略と兵力とを並用し、徳義をあつくして同盟
 を結び、勇敢不屈、みずから士卒の標準となり、よく法を守り
 措置公平、号令厳粛をもって強兵を編成し、四隣ついになびか
 ざる者なきに至れり・・・
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。きわめてよく似ています。名前を外せば、ど
ちらが義経で、どちらが成吉思汗かわからなくなるほどです。と
くに人心の掌握術においては、義経、成吉思汗ともに天賦の才能
を持っていたようです。
 現在、放送されているNHKの大河ドラマ『義経』において、
頼朝の妻である北条政子が、義経の人の心を掴む不思議な魅力に
は警戒しなければならないと頼朝に告げるシーンが再三出てきま
すが、成吉思汗についても同様の才能があったようです。
 偶然とはいえない一致点はまだあります。成吉思汗は兵士の訓
練の一環として、巻狩りをよく実施しています。成吉思汗の実施
した巻狩りを小谷部氏は次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (巻狩りを)挙行する前にはあらかじめ人を派遣して一定の区
 域に野獣を追い込んでおく。当日、武装した者たちが、美しく
 装った馬に乗り、征矢と鏑矢を添えた箙を負い、猟犬多数を引
 き連れて山野におもむく。巻狩りの指揮者は勢子に鳥獣を駆り
 出させ、獲物は必ず一人で射止めなくてはならない。名誉の獲
 物を射止めた者は、それを高く捧げて名のりをあげる・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは鎌倉時代に盛んに行われていた巻狩りそのものといえま
す。NHKの大河ドラマ『義経』において、奥州の藤原秀衡が一
門の武者と義経を伴って巻狩りをするシーンがありますが、まさ
にこの記述と同じことをやっているのです。
 また、成吉思汗は、巻狩りのさい、高い櫓にのぼって将兵の猟
の状況をチェックし、間違って鳥獣を逃がした士卒には罰を与え
たといわれています。
 これなどは、『源平盛衰記』に出てくる宇治川の合戦のさい、
義経が高い櫓の上に上がって、宇治川の先陣と剛者を矢立の筆を
取り寄せて明記するシーンを彷彿させるものがあります。
 相撲についても述べる必要があります。相撲の起源は非常に古
く、『古事記』にも相撲を思わせる記述があり、日本に古来から
伝わるものです。モンゴルで相撲が盛んなのは、改めていうまで
もないことですが、どのように考えても、モンゴルの相撲は日本
から伝わったものと考えるのが自然であると思います。
 しかし、不思議なことにモンゴルに関して書かれたどの本にお
いても、モンゴルの相撲は日本のそれが伝わったものとは一切書
いていないのです。憶測ですが、それをいうとどうして伝わった
かをいわなければならなくなり、義経=成吉思汗説が出てきてし
まうからではないでしょうか。
 それはさておき、相撲は鎌倉時代において武芸の一つとして盛
んに行われていたのです。したがって、当然義経はやっているし
好きであったといわれています。大河ドラマでは、牛若時代の義
経が平家の子供たちと庭先で相撲をとるシーンが登場します。
 モンゴルと日本の相撲の共通点は、武芸のひとつとしてそれが
行われていたことです。鎌倉時代において相撲は武芸のひとつと
して教えられており、勝者には褒美を与える慣わしがあったので
す。『元朝秘史』によると、相撲は成吉思汗とその子オゴタイが
とくに愛好したといわれています。
 さらに、モンゴル人は緑茶を愛好しています。成吉思汗が愛用
し、伝えたとされているのです。もちろん日本では緑茶の起源は
古く、鎌倉時代には茶室、茶会などが流行しており、緑茶の愛好
者が多かったのです。
 また、成吉思汗と義経は酒嫌いであり、成吉思汗は酒好きの従
臣に次のようにいっていたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 酒を飲むと、理性を失う。心を平静に保つことができず、まる
 で頭を打たれたようにめまいを感じる。知識も才能も用をなさ
 ぬ。帝王が酒をたしなむときは堂々たる王業をほどこすことが
 できぬ。将軍が酒をたしなむときはその部隊を統御することが
 できぬ。もし酒をやめることができないなら、節酒して一ヶ月
 三回にせよ。一回ならさらによい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/21]


≪画像および関連情報≫
 ・義経が酒嫌いであった証拠
  『義経記』には、山伏姿で北走中、越前国府の代官から酒を
  贈られたが、「酒は下向の間禁酒にて候」としてこれを断っ
  たという記述がある。伊勢三郎が義経の臣下になるときも酒
  をすすめるが、「少しもきこし召し給はず」と記述されてい
  る。しかし、大河ドラマでは何度か義経が酒を飲むシーンは
  出てきている。

モンゴル相撲.jpg
モンゴル相撲
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2010年06月30日

●なぜ、成吉思汗駅ができたか(EJ第1650号)

 1206年に成吉思汗が即位したとき、95人の武将に千人長
を命じています。成吉思汗はこの千人長を非常に重視しており、
任命するさいには、さまざまな情報を集めて慎重に選任したとい
われています。
 もし、成吉思汗が源義経であるとすると、任命された千人長の
中には、日本人やアイヌ人の武将もいたと考えられるのです。大
陸に渡った義経の軍勢には、藤原忠衡、大河兼任率いる軍勢にア
イヌの軍勢も加わっていたからです。
 それらの千人長の集落は、現在のロシア、モンゴル、中国など
に点在していたはずです。これらの集落には、すべてがそうであ
るとは限りませんが、千人長である各武将の名前や出身地などの
名称がつけられるケースは少なくないと思われます。
 かつての北海道の開拓地にも、仙台藩がくれば伊達とか白石と
いう名前がつけられていますし、鳥取とか広島という地名もある
のです。このように、出身地の名前やとくに意味のある名称がつ
けられる可能性は高いといえます。
 現在の中国・黒龍江省の北西部に「チチハル」という都市があ
ります。そのチチハルの北西部に「成吉思汗」という名前の駅が
あるのです。これは、ロシアが東支鉄道を建設したとき、もとも
とあった名前をそのまま駅名にしたというのです。しかし、駅名
の由来などについては、中国の文献にはないそうです。
 小谷部氏は「成吉思汗」という名前がついているので、何かあ
るはずだと考えて、実際に現地を訪問しています。ロシアの案内
地図には城址があると書いてあったからです。
 しかし、現地の住民たちは「成吉思汗」という名前は一切知ら
なかったというのです。城址について尋ねると「クローの城であ
る」と答えているのです。小谷部氏はこれは「九郎判官の城」、
すなわち、義経の城ではないかと考えたのです。
 小谷部氏はこのことを本に次のように書いています。あえて原
文をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 此地の住人に成吉思汗と云うも、更に之を知る者なく、其れは
 此処の地名なりと答う。此土地の古城址拠りたる者の武将の名
 を、何というやと、土地の長老に訊うに、クローなりと言う。
 余之を聞き、愕然として驚き、而して又た成吉思汗の都址探検
 の徒爾ならざりしを心に感謝せり。
   ――小谷部全一郎著、『成吉思汗は源義経也』、冨山房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者の中島理一郎氏は、「小谷部氏の愚を憐
まない訳にはいかない」と前置きしたうえで、小谷部氏の聞いた
という「クロー」は部族の長を意味する「グルハン」のなまりに
過ぎないことを強調し、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏が名も無い一酋長の遺跡の上に立って、その辺を成吉
 思汗の都址と思っていたなどとは、とても他には見られない図
 である。『余之を聞き、愕然として驚き、而して』その後につ
 ぐべき言葉を知らぬ。
                      ――中島利一郎
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この反論を読んでどのように考えられるでしょうか。頭から相
手を馬鹿にし、加えて小谷部氏の著作のことばである『余之を聞
き、愕然として驚き、而して』と使って反論を結んでいる点は相
手に対して失礼であると考えます。彼はこれ以外にも小谷部氏に
対し、児戯に等しい妄説、珍説、粗忽屋などの言葉を使い、小谷
部氏を罵倒しているのです。
 なぜ、源義経=成吉思汗説になると、歴史学者はかくも熱くな
り、圧力をかけようとするのでしょうか。事実はひとつしかない
のです。中島氏もこのようにアタマから否定せず、小谷部氏のよ
うに実際に現地に行って事実を確かめる――この姿勢が必要であ
ると考えます。
 「源義経=成吉思汗」がウソだというのであれば、それがウソ
であるという証拠を示すべきです。状況証拠を含む証拠を何も示
さず、史書をあくまでも正しいとして、源義経=成吉思汗説をア
タマから否定して、そういう説を唱える者を社会的に抹殺するの
は間違いです。逆に状況証拠を数多く示しているのは、「源義経
=成吉思汗」肯定説の方であると思います。
 ところで「グルハン=酋長」説に関してはこういう意見もあり
ます。「グルハン」を地元民が発音すると「グラン」と聞こえる
というのです。「グラン」と「クロー」を聞き間違えることはな
いというわけです。
 問題は、それではどうしてこの地に「成吉思汗」という名前が
残っているかです。
 小谷部氏は、実際に成吉思汗駅周辺を訪れてみたことにより、
成吉思汗が成吉思汗に即位したのは、『元朝秘史』にあるように
「オノン河の源」ではなく、この成吉思汗駅のあたりではなかっ
たかという説を出しています。
 オノン河の源というのはハタ山の山頂に当たるのです。即位の
さい、成吉思汗は95人の千人長を任命していますが、その何倍
かの人間がそのときその場所に集結したことを意味します。山頂
にそれだけの人が集まれるとは思えないし、当然馬や食料の羊を
伴って行くことになるので、困難を極めるはずです。
 狼が襲ってくる危険もあるし、雨が降って雷が鳴ったとすると
馬や羊は一斉に林の中に逃げ出して探しようがなくなる――とこ
ろが、成吉思汗駅の周辺、とくにクローの城址付近には、それだ
けの人馬や羊が集まれる場所があるのです。そのため、成吉思汗
の即位の場所はここではないかと考えたのです。
 源義経=成吉思汗説をとる人は、非常によく現地踏査を重ねて
います。それに対して反対派の学者は、史書ばかりを重んじ、現
地を調べようともしていないのです。・・・[義経の謎/20]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗の即位の場所はどちらか
  ドーソンの『蒙古史』によると、「興安嶺上に麾下に従う各
  種族を呼び集め」とあるが、この場所に合うのは、成吉思汗
  駅の周辺の方である。

即位の場所を探る.jpg
即位の場所を探る
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2010年06月29日

●コオンゴアとムカリの正体に迫る(EJ第1649号)

 コオンゴアの話です。コオンゴアはテムジンの命の恩人です。
ムカリはそのコオンゴアの第3子です。この事実から何かを連想
しないでしょうか。
 そうです。奥州の藤原氏です。源義経の命の恩人といえば、藤
原秀衡しかいないと思うのです。鞍馬山に押し込められていた遮
那王――義経の亡命を受け入れ、父代わりに育てたのは秀衡その
人であったからです。
 そして、義経が頼朝に追われ、奥州に逃げ込んできたとき、そ
れを温かく迎え入れたのも秀衡なのです。もちろん、戦国時代の
ことですから、単なる親切心だけではなく、秀衡なりの緻密な計
算があってのことですが、義経から見れば、秀衡は命の恩人その
ものといえます。
 義経主従が平泉に到着したとき、秀衡は義経を丁重に出迎えて
いるのですが、そのときの模様を『義経記』を基にして描くと次
のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「このように零落したわが身を、かくまで丁重にお出迎えいた
 だき、御礼の言葉もございません」。このように義経がいうと
 秀衡は次のように答えている。
 「なんの、なんの。わしは判官殿を主君とも息子とも思ってお
 ります。この秀衡の目の黒いうちは、判官殿に指一本触れさせ
 るものではありません」        ――『義経記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時点において、秀衡は平氏を滅ぼした源氏が京都に上がっ
て朝廷に戦勝報告をし、しかるべき官位を得て政治を動かしてい
くに違いないと見ていたのです。つまり、源氏は平氏にとって代
わり、平氏と同じようなことをやると考えていたのです。
 そうであればあわてることはないと秀衡は考えたのです。豊富
な経済力にものをいわせて、朝廷と公家をコントロールして、奥
州の主張を遠隔操作すればよい――それは平氏のときに秀衡自身
がやってきており、成功させてきているからです。
 しかし、その時点で秀衡は頼朝の本心が読めなかったのです。
頼朝は平家を倒しても一向に京都に上る気配を見せず、最初に手
をつけたことは、守護・地頭の全国への配備だったのです。そし
て、義経追討と称して各地で司法警察権と兵糧米の徴収権を行使
したのです。それでいて、本気で義経を捕まえようとしない――
何かおかしいと秀衡は考えたのです。
 つまり、頼朝は武士の支配する新しい世の中を作ろうとしてい
たのです。これに秀衡は気がつかなかったのです。これは知略家
である秀衡としては、千慮の一失というべきでしょう。
 しかし、その時点で頼朝の勢力は東国から北陸の一部ぐらいま
でしか、確かなものになっていなかったのです。そういうときに
義経が尾羽打ち枯らして飛び込んできたのです。
 頼朝の意図を理解した秀衡は、遅まきながら朝廷と連携して頼
朝の勢力が畿内・西国に伸びるのを防ぎ、鎌倉幕府内部にも手を
突っ込むことを考えていたと思われるのです。そのために、名将
義経は使える――秀衡はそう考えていたからこそ、義経を迎え入
れたのです。
 しかし、その肝心の秀衡が不治の病いにかかってしまったので
す。「もはやこれまで」と考えた秀衡は、かねてから、金の運搬
ルートとして確保してあった北方ルートを義経と泰衡に教え、一
族の一部を義経とともに平泉から落ちのびさせ、時期を伺う作戦
に切り換えたのではないかと思われます。
 おそらく当時未開の地であった蝦夷地まで落ちのびることがで
きれば何とかなる――そう考えていたと思います。いくら秀衡で
も、義経一行が大陸に渡って成吉思汗になるとまでは考えていな
かったはずです。
 さて、その秀衡には、長男の国衡、次男の泰衡、三男の忠衡と
いう3人の子供がいるのです。なぜ、泰衡に家督を継がせたかと
いうと、国衡は側室の子であることと、国衡は義経とそりが合わ
なかったからではないかと思います。
 しかし、泰衡は間違いなく父の言いつけを守ると秀衡は信じて
家督を継がせ、すべての計画を義経と泰衡に伝えて、それを忠実
に実行させたのです。
 このように考えると、コオンゴアは秀衡ではないかと思われる
のです。もし、コオンゴアを秀衡と考えると、その第3子は忠衡
ということになります。つまり、ムカリは藤原忠衡ということに
なります。「朕はムカリのお陰で帝位につくことができた」とい
う言葉の意味は、ムカリ=藤原忠衡と考えると、理解できると思
います。
 既に述べているように、忠衡は約100騎を従えて義経につい
て海を渡っていると思われる記録が残っています。そして、義経
一行が落ちのびるまでの時間稼ぎをかねてからの計画にしたがっ
て泰衡は忠実に果たしたのです。
 既に述べたように、藤原家の子孫が、郎従河田次郎に殺され、
頼朝によってさらし首にされた泰衡の首級を忠衡の首と偽って首
桶に収め、平泉金色堂に安置されている秀衡の棺の近くに置いた
のは、父の言いつけを守って立派にその務めを果たした泰衡をね
ぎらってのことと思われます。そして、この藤原家の秘密は、実
に800年以上もの間、守りぬかれたのです。
 国王となったムカリは、金を攻略している最中の1223年に
54歳で亡くなっています。一方、成吉思汗はその4年後の12
27年に66歳で死亡しているのです。そうすると、ムカリが亡
くなったとき成吉思汗は62歳であり、ムカリは成吉思汗よりも
8歳年下ということになります。ところが、これは義経と忠衡の
年齢差と一致するのです。これは、驚くべきことです。
 実はオナン河のクリルタイでムカリとともに1万戸をまかされ
たボオルチェも義経と共に大陸に渡った日本の武将という説もあ
るのですが、こちらは例証に乏しく、追求が困難であるので、あ
きらめることにします。      ・・・[義経の謎/19]

≪画像および関連情報≫
 ・作家・高橋克彦氏のインタビューより
  泰衡という人物が、これまで言われるように凡庸ではなかっ
  たと思われるようになったのは、義経北行伝説からです。こ
  の北行伝説にリアリティが出ると、はっきりしてくるのは、
  泰衡が義経を殺していないという事実なのです。そうなると
  殺していない義経のために、なぜ泰衡は殺したような言動を
  したかが問題となってくるのです。――『歴史読本/奥州藤
           原氏と源平争乱』1994年3月号より

高橋克彦氏.jpg
高橋 克彦氏
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2010年06月28日

●旗の色と紋所の一致(EJ第1648号)

 成吉思汗がきちんとしたかたちで歴史上に登場するのは、テム
ジンがナイマンを打ち破った後の1206年のことです。テムジ
ンは、この年にクリルタイと呼ばれる長老会議を開催し、自らジ
ンギスカンに即位しているのです。このときの模様を『モンゴル
秘史』では、次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かようにして毛氈の幕帳(とばりや)に住まいせる国民をば、
 ことごとく服(まつ)ろわせて、寅の歳、オナン河の源に集い
 して、九つの脚ある白いとくをうち立てて、大クリルタイを開
 き、チンギス・カハンの称号をここにおいて正式に捧げ奉った
 のであった。「将軍」のムカリには、「国王」の名をそのとき
 賜った。
  ――『モンゴル秘史/2ジンギス・カン物語』、村上正二訳
                      東洋文庫209
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「寅の歳」とは、丙寅の1206年のことですが、何月
であったかは、はっきりしていないのです。春という説と冬とい
う説があります。
 クリルタイを行った場所は「オナン河の源」とありますが、こ
れにも異説があり、これについては改めて述べます。問題なのは
「九つの脚ある白いとく」の部分です。なお、「とく」の字は非
常に難しい字であり、ウェブでは表示されませんので、かなで表
現しています。
 訳者の村上正二氏によると、「九つ」とはモンゴルの吉数であ
り、「白い」は聖なる色をあらわすそうです。「とく」とは旗と
いうよりも幟のようなもので、その尾が9つに割れている――九
つの吹流しの尾をつけた白い旒旗であると考えられます。つまり
これは「九旒の白旗」を意味しているのです。
 ドーソンの『蒙古史』――その該当部分は現時点でまだ入手で
きていないのですが、高木彬光氏の本では、次のように記述され
ているとあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (テムジンは)興安嶺上に麾下に従う各種族を呼び集め、総会
 議を召集し、九旒の白旗を嶺の上にひるがえした。
         ――ドーソン著、『蒙古史』上巻/岩波文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもなく「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎
判官を意味するものと考えられます。それに紋所の笹竜胆もから
んできているのです。戦術も同じ、戦い方もそっくり、旗印は九
旒の白旗、紋所は笹竜胆――すべて源義経と一致するのです。
 さらに分析を進めます。それまで将軍であったムカリには国王
の称号を与えたとあります。ムカリは四駿の一人であり、テムジ
ンにとくに重用された武将です。既出の佐々木勝三氏の本では、
次のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この即位のとき、功績のあった自分の武将95人をそれぞれ千
 戸の長に任命している。とくに功績の大きかったボオルチェと
 ムカリには万戸の支配権を与えた。十戸の長から、万戸の長ま
 で、ピラミッド型の統一組織がここに完成したのである。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既にEJ第1647号で述べたように、テムジンはナイマンを
攻める前に10進法で軍事組織を作っていましたが、このときの
クリルタイではじめて「万人長」を置いたわけです。
 それはさておき、テムジンが「九」という数字を非常に重視し
ていたことは、各書に出ています。『元朝秘史』には次の記述が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (成吉思汗が)西夏に遠征したとき、敵将ブルカンは成吉思汗
 のもとへ謁見に来て、黄金の仏像をはじめ、金と銀の皿を各九
 個、男児と女児を各九人、去勢馬とラクダを各九頭、九の数に
 合わせて献上した。         ――『元朝秘史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、万人長に任命されたムカリに関しては、興味ある話があ
るのです。それは「コオンゴアに関する話」です。義経=成吉思
汗説の研究家の一人である丘英夫氏は、その自著において、次の
ように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『元史』の「ムカリ伝」によると、テムジンは、昔、コオンゴ
 アに命を助けられたんだ。ムカリは、テムジンの恩人であるコ
 オンゴアの第三子なんだよ。コオンゴアはムカリの父親なんだ
 ね。ジンキスカンは、ムカリのお陰で帝位につくことができた
 と言ったあと、ムカリを1万戸の長にして、その上にムカリに
 王位を与えたのだよ。―― 丘英夫著、『義経はジンギスカン
 になった!/その6つの根拠』 アーバンプロ出版センター刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の丘英夫氏は、音韻学を専攻されており、モンゴル文字に
詳しい人です。本書は、2002年に叢文社から『新ジンギスカ
ンの謎』として出版されていますが、修正・増補され2005年
5月にアーバンプロ出版センターから出版されています。本の内
容は何人かの対話形式を採用しており、高木彬光氏の本のスタイ
ルに似ています。
 さて、ムカリという人物は成吉思汗の四駿の中心人物なのです
が、実際にどういう人物なのかについては詳しくわかっていない
のです。しかし、『元史』では、「コオンゴアの息子」であり、
テムジンはそのコオンゴアに命を救われているとしています。
 一体コオンゴアとは何者でしょうか。ムカリとはどういう人物
なのでしょうか。これについての分析は、明日のEJで行いたい
と思います。           ・・・[義経の謎/18]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗に即位するテムジン
  成吉思汗を描く画家たちは、モンゴル族が創建した中国やイ
  ランの宮廷風俗のなかに、皇帝やスルタンの姿で王座に座る
  成吉思汗を描くことが多かったのである。
  ――ジャン=ポール・ルー著/杉山正明監修/田辺希久子訳
       『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社刊より

成吉思汗に即位するテムジン.jpg
成吉思汗に即位するテムジン
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2010年06月25日

●酷似している鉄木真と義経の戦法(EJ第1647号)

 源義経が果たして成吉思汗に結びつくかどうか――蒙古側から
の検証をしています。
 テムジンがナイマンを攻撃する準備として最初にやったのは、
部族長会議を開き、軍律を改めて厳格させたことです。部族とし
て「決めたことは守る」ことを徹底化させたわけです。これは、
全ての戦利品は後で公平に分配することにし、全軍が一丸となっ
て敵に当たれるような体制にしたことを意味します。
 続いてやったことは、軍事組織を整えたことです。すべての指
揮官はテムジンが任命することとし、指揮官を兵10人に1人、
100人に1人、1000人に1人任命したのです。それぞれ、
十人長、百人長、千人長というようにしたのです。10進法の軍
隊組織です。
 テムジンはこの指揮官の任命をすべて自分の手で行っているの
です。これによってテムジンは、モンゴル軍全体を完全に掌握し
てしまったのです。この10進法の軍隊組織は、誰にも非常に分
かりやすく、コントロールしやすいのです。テムジンは成吉思汗
になってからも、この軍隊組織を継続して採用しています。
 そして、テムジンは、1204年春にナイマン部族攻撃に踏み
切っています。これまでのモンゴル高原における部族間の戦いは
秋に行われるのが常識とされていたのです。なぜかというと、戦
闘の機動力である馬が夏草を食べて十分体力がついた時期が秋で
あるからです。春は馬が痩せているのです。
 ナイマン王のタヤンカンは、テムジンがいずれ攻めてくること
は分かっていたのですが、まさか春に攻めてくることは予想して
いなかったのです。テムジンはまさにその虚を衝いたのです。戦
争のための十分な備えのできていないナイマン軍は、統制がとれ
ないままモンゴル軍を迎え撃つことになります。
 モンゴル高原での戦いでは馬が不可欠です。そのためナイマン
との戦いのように遠征になると、兵士はそれぞれ替え馬を連れて
戦場に赴いたのです。その数は文献によってさまざまですが、1
兵士当たり平均5頭程度といわれます。このように馬だけでも大
変な数になってしまうわけです。
 ナイマン軍には、その替え馬の準備が整わないまま戦闘に入っ
たので、たちまち馬は疲弊してしまいます。それに対してモンゴ
ル軍は、次々と馬を替えながら、繰り返し波状的に攻撃をするの
で、ナイマン軍はあっという間に追い詰められたのです。
 テムジンはモンゴル軍をナイマン軍からよく見える丘陵に展開
し、ここでひとつの仕掛けを行ったのです。夜間に兵士一人ひと
りに5ヶ所ずつの篝火をたかせたのです。そのときのモンゴル軍
は約5千人と考えられるので、2万5千の篝火が一斉にたかれた
ことになります。
 これを見せられたナイマン軍はあまりの大軍に仰天します。そ
して一部の部族は戦線から次々と離脱をはじめたのです。それを
モンゴル軍の先鋒である4狗――ジュベ、クビライ、ジェルメ、
スプタイ率いる軍隊が追撃したのです。そして、オルホン河東岸
にあるナク崖(現在のラク山)にナイマン軍を追い詰め、激戦の
末、ナイマン軍を破ったのです。1204年夏のことです。
 この攻め方は、義経による一の谷の戦いに酷似しています。一
の谷の戦いというと、ひよどり越えの坂落としがあまりにも有名
ですが、これが成功したのは、その前夜に三原山に陣取る平家勢
を義経が策略を用いて蹴散らしたことにあるのです。
 義経は三原山麓の集落の人々をひそかに退去させ、夜になるの
を待って、火矢を放って無人となった集落に火をつけ、いくつも
の鉦や太鼓を鳴らして、「おう!おう!」と大声を上げさせたの
です。このときの義経軍の兵力は約3千人――その何倍かの兵力
に見せかけたのです。
 闇から迫る、炎、鉦、太鼓――てっきり源氏の大軍が攻めてき
たと思った平氏軍は大混乱をきたし、戦闘を交えぬままその夜の
うちに逃走してしまったのです。こうして、ひよどり越えの坂落
としが行われたのです。
 策略を用いて実際の兵力を何倍かの大軍に見せかける――こう
いう戦法を義経は得意としたのです。彼は屋島の戦いでも同じよ
うなことをやっています。
 暴風雨をついて阿波(徳島)勝浦に上陸した義経軍150騎は
起伏の激しい道程を丸一日かけて馬で踏破し、海上からの襲撃に
備えている平氏軍の背後から襲ったのです。しかし、このとき義
経軍はわずかに150騎であり、大軍を擁している平氏には勝て
ない――こう考えた義経は、屋島の周辺の村から極秘のうちに牛
を集め、そこに火を放ったのです。
 驚いた牛は一斉に走り出したのです。義経軍はそれを機に出撃
したのです。そのざわめきを源氏の大軍と勘違いした平氏軍は、
われ先に海上に停泊させていた船に逃げ込んだため、義経軍は少
ない人数で平氏軍に圧勝しているのです。テムジンの戦法は、こ
の義経のそれと酷似しているといえます。
 さて、勢いに乗ったテムジン率いるモンゴル軍は、ナイマンの
本拠のあったアルタイ山麓を攻撃して平定し、秋になるとセレン
ゲ谷のメルキト部族を攻撃して滅ぼしています。1205年には
逃げたメルキトの首領トクトアを追ってイルティシュ河を攻め、
遂にモンゴル高原において、テムジン率いるモンゴル軍にとって
敵はなくなってしまったのです。
 このナイマンとの戦いで捕虜にしたのがタタトンガなのです。
テムジンは征服した部族の中で、学者や職人など特殊技能を持つ
人物を非常に大事に扱い、国づくりに役立てています。テムジン
はタタトンガがウイグル文字に精通していることをよく知ってお
り、彼にモンゴル文字を創らせているのです。
 それまでモンゴル人は文字を持たなかったし、その必要性を感
じていなかったのです。テムジンは中央アジアに住むウイグル族
が使っていた古代文字を基礎にして、タタトンガにモンゴル文字
を考案させたのです。この「文字を書く」ということこそ、成吉
思汗が遺した最大の遺産といえます。・・・[義経の謎/17]


≪画像および関連情報≫
 ・白石典之新潟大学人文文学部助教授は、テムジンの侵略ルー
  トは、敗走者を追ったというよりも、鉱山確保の意味があっ
  たのではないかと推測している。アルタイ山脈、セレンゲ谷
  はいずれも鉄や銅などの鉱山のある場所である。
  図は、白石典之著、『チンギス=カンの考古学』より。同成
  社刊。

テムジンの侵略ルート.jpg
テムジンの侵略ルート
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2010年06月24日

●テムジンの四駿四狗(EJ第1646号)

 テムジンの戦いに関する記録(伝記)を読んでいると、テムジ
ンには信頼できる3人の武将がいたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.ジャムカ
           2.ムカリ
           3.ボオルチェ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テムジンとジャムカは宿命のライバルといわれています。テム
ジンとジャムカの部隊は一緒に宿営し、味方として共に戦うこと
を長く繰り返してきたのです。
 しかし、だんだん意見が合わなくなり、ある夜、テムジンは手
勢を連れて、ジャムカの陣営をひそかに去るのです。しかし、次
の朝、テムジン部隊が見たものは、あとに付いてくるかなりの数
の男たちだったのです。
 それは、ジャムカの部隊の兵士たちがテムジンを慕って付いて
きたのです。彼らは、ジャムカとテムジンを比較し、その人物の
違いを見抜いたのです。これにより、テムジンの部隊は労せずし
て、一挙にふくれ上がることになったのです。
 この経験を通じてテムジンは非常に重要な教訓を学ぶことにな
るのです。『モンゴル帝国の戦い』の著者であるロバート・マー
シャルは、この教訓について次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 旧来の族長への忠誠心はつねに条件づきであり、信頼できるも
 のではなかった。『秘史』によると、若きチンギス・ハンの人
 生形成においてもっとも重要だったのは、父の死後、家族が父
 の配下に見捨てられてしまった時期の経験だった。独力で生き
 る道を開拓しなければならなくなったチンギス・ハンが学んだ
 のは、唯一信頼できる支持勢力は彼の個人的資質への心酔者の
 なかから生まれる、ということだった。チンギス・ハンの軍事
 支配の、またその結果としての権力のバックボーンになったの
 は、この一団だった。
    ――ロバート・マーシャル著/遠藤利国訳/東洋書林刊
      『モンゴル帝国の戦い/騎馬民族の世界制覇』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ムカリとボオルチェについてはどうでしょうか。
 成吉思汗を支える側近には「四駿四狗」といわれています。四
駿四狗は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ≪四駿≫ ――― 側近中の側近
     ムカリ ・・・・・・・ ジャライル族
     ボオルチェ ・・・・・  アルラト族
     ボロクル ・・・・・・  フウシン族
     チラウン ・・・・・・  スルドス族
    ≪四狗≫ ――― 忠臣中の猛将
     ジェペ ・・・・・・・   ベスト族
     クビライ ・・・・・・  バルラス族
     ジェルメ ・・・・・・ ウリンカイ族
     スベェディ ・・・・・ ウリンカイ族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「四駿」はテムジンの側近中の側近であり、テムジンが最も信
頼していた将軍です。とくにムカイとボオルチェは四駿の中でも
とくにテムジンに信頼されていたとされています。
 これに対して「四狗」は、四駿と同様に成吉思汗のために戦っ
た将軍なのですが、主として危険な最前線に立って戦っている猛
将なのです。子供の頃からテムジンと行動を共にしたジェルメ、
かつて敵であり、成吉思汗を狙撃したが、許されて部下になった
ジェベ、特に力があったフビライ、最も若く、後にバトゥの西征
などで活躍するスブタイの4人です。ちなみに、フビライは蒙古
帝国の第6代大汗のフビライとは別人です。
 しかし、四狗は、とくにジェベなど、かつての敵であったため
四駿ほど成吉思汗と親しくはなれなかったようで、そのためいつ
も危険な前線を任されていたという見方もできます。
 東半分の覇権を手に入れたテムジンにとって、もはや最大にし
て最後の敵は、北西部を支配しているナイマン族だったのです。
そのナイマン陣営には、テムジンとの戦いに敗れたジャムカをは
じめとするテムジンに恨みを持つ部族の逃亡兵が大量に集結して
いたのです。
 したがって、人数的にはナイマン軍がテムジン率いるモンゴル
軍よりも圧倒的に上回っていたのです。しかし、テムジンはナイ
マンと戦い、雌雄を決しようと考えていたのです。この一戦に勝
利すれば、部族間の抗争に終止符が打たれ、積年の恨みを水に流
すことができると考えたからです。
 テムジンは戦いに備えて、いくつかの準備を行っています。そ
の1つは、既にタタール戦のときに発令し、定着させてきている
軍律のさらなる強化です。
 タタール戦の前に発令した軍律は、それ以降の2つの戦いで、
違反者への厳正にして厳しい処分に課すことによって定着しつつ
あったのをもう一回引き締めたのです。
 タタール戦のさい、この軍律に違反したアルタン、クチャル、
ダリタイの3人は、テムジンの近親者の有力者であったのです。
彼らは、われわれの協力があってテムジンはカンになれたのであ
り、われわれに命令するのはけしからんとして、戦利品を公然と
私物化したのです。
 しかし、テムジンはこれを知ると、ジェベ、クビライの2将軍
に命じて、彼らが勝手に私物化した馬や略奪品をことごとく没収
させたのです。
 テムジンが軍律を厳格化させたのは、既にこの時点でテムジン
がモンゴル統一を考えていたこと、それに人間にとってもっとも
大切なものの一つが「法」の尊重であることを徹底させたかった
のではないかと思われます。    ・・・[義経の謎/16]


≪画像および関連情報≫
 ・テムジンを描いたイラスト
  http://www.juno.dti.ne.jp/~tenchi/syokai/S-Mwb1.html

四駿四狗.jpg
四駿四狗
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2010年06月23日

●義経に似ているテムジンの戦い(EJ第1645号)

 果たして源義経は成吉思汗なのか――この一人二役説について
蒙古――モンゴルの側から見ていくことにします。果たしてうま
く繋がるのでしょうか。
 蒙古史によると、1202年からテムジンは部族を統合するた
めの大規模な戦闘を開始しています。この話に入る前に、当時の
モンゴル高原の諸民族について簡単に述べておきます。部族を言
語で分けると、次の2つの系統に分けられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.モンゴル語系統
    モンゴル部族 ケレイト部族 タタール部族
  2.チュルク語系統 
    ナイマン部族 メルキト部族 オングット部族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モンゴル高原において、最も豊かな土地とされる三河地方――
オルコン河、トゥラ河、セレンゲ河――にいたのは、最も強力な
部族といわれるケレイト部族であり、その北東方面を流れるケル
レン河の東岸地帯にはタタール族がいたのです。
 さらに西のアルタイ山脈の方面にいたのがやはり強大な勢力を
誇るナイマン部族であり、バイカル湖の南側にはメルキト部族が
いたのです。テムジンの属していたモンゴル部族はブルカン岳の
麓を流れるオナン河の流域を本拠地としていたのです。
 テムジンの属するモンゴル族は、次の3つの強力な氏族に分け
ることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             1.カタギン 氏族
      ニルン族   2.サルジウト氏族
             3.ボルジギン氏族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3大氏族は「ニルン族」といわれる格式高い部族なの
です。このニルン族の中で一番力が高く、モンゴル部族を実質的
に支配していたのは、ボルジギン氏族です。このボルジギン氏族
にも多くの氏があり、中心的な氏は「キャト氏」――テムジンは
このキャト氏に属していたのです。
 1202年にテムジンは、タタール部族を攻めることを決意し
ていますが、攻めるに当たって、はじめて「軍律」というものを
定めています。それは、次のような内容です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵人に打ち勝つも、財物(たからもの)のところに立ち停まる
 まいぞ。勝ち終うれば、その財物はみなわれらのものなるぞ。
 必ずやわれは分かち合うぞ。     ――『モンゴル秘史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時のモンゴルの戦いでは、敵を打ち負かした氏や氏族の長は
それぞれ略奪した財物を自分のものにできたのです。しかし、こ
れを認めると、戦いのさなかに略奪品の場所に留まって、戦いを
やめてしまうのです。全軍がひとつの目標に立ち向かって戦闘す
ることを求めるテムジンにとって、これを認めるわけにはいかな
かったのです。これにより日本の戦い方に近づいたといえます。
 このタタールとの戦いは、「ダラン・ネムルゲスの戦い」とい
い、この戦いによってタタール族は事実上滅びたのです。テムジ
ンは、この戦いで軍律に違反したアルタン、クチャル、ダリタイ
の略奪物をすべて奪い、処分しています。この軍律は、やがて、
モンゴルの法律の基になっていくのです。
 テムジンにとって次の標的はケレイト部族です。しかし、ケレ
イト部族は強大であり、まともに戦ったら、当時のテムジン率い
るモンゴル軍の兵力では勝てなかったのです。
 1203年、ケレイト部族のワンカン軍が、テントを張って酒
盛りをしているとの報告を受けたテムジンは、夜を徹して騎馬軍
団をそこに走らせます。この騎馬軍団には、その前年に傘下に置
いたタタール族も含まれているのです。
 テムジン騎馬軍団は、酒盛り後のケレイト軍を急襲します。そ
して彼らを山峡にを包囲したのです。テムジンは3日3晩攻撃し
て、ケレイト軍を降伏させてしまうのです。この戦いについて、
『鉄木真用兵論』という本に次のように記述されています。この
本はイワニンというロシア人の書いたものであり、1875年に
刊行されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力において劣れる鉄木真(テムジン)は尋常の手段をもって
 勝を制するの不可能なるを知り、まず諜者をして敵情を探らし
 む。その報にいわく、敵軍は金帳の内に盛宴を張る、急ぎ侵入
 して討ち給えと。鉄木真直ちにチュルチェ及びアルカイなどの
 武将を先駆となし、疾風のごとくに突進して懸崖を下り、山下
 に陣せる敵軍の不意を襲ってこれをおう殺せり・・・。
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述は一の谷の合戦を彷彿させるものがあります。まさに
ひよどり越えの蒙古版といえます。これ以外にもテムジンについ
て伝えられる話を調べていくと、義経を彷彿させる話がたくさん
出てくるのです。例えば、こんな話もあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鉄木真は少時父を喪い郎徒らにも見すてられたるにより、つい
 にメルトキ部の人々に捕えられ、敵の長老ワンカンに一身を依
 託せり。            ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これなどは、義経が子供のころ、敵将清盛のために命を助けら
れ、鞍馬山に預けられたこととそっくりの話です。
 話を元に戻しますが、このケレイト軍との戦いによって、テム
ジン率いるモンゴル軍は、モンゴル高原の東半分を傘下に収める
ことに成功したのです。当時、モンゴルの西半分はナイマン部族
が支配していたのです。テムジンにとって、最大の強敵はこのナ
イマン部族なのです。       ・・・[義経の謎/15]


≪画像および関連情報≫
 ・モンゴル騎馬軍団
  モンゴル騎馬軍団はユーラシア大陸全土にまたがる大規模な
  征服戦争によって、攻略した都市から職人を集め、兵器や甲
  胄を生産している。モンゴル騎馬軍団は軽装騎兵と重装騎兵
  に分かれている。
  ・軽装騎兵 ・・・・ 左
  ・重装騎兵 ・・・・ 中
  火器が発達によって鎧も変化。右に見るように、分厚い棉や
  絹布地の中に鉄の甲片を仕込み、表面に銅の釘で固定した棉
  甲が誕生する。

モンゴル騎馬軍団.jpg
モンゴル騎馬軍団
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2010年06月22日

●義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ第1644号)

 義経軍はウラジオストック近郊までやってきて、そこを本拠地
にして約10年間を過ごしていると考えられます。そうであると
すると、ウラジオストック周辺にその痕跡はかなり残っているも
のと思われます。
 その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク
市にある義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足し
ます。昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、そ
の上に石碑があり、「源義経墓」と彫られていたというのです。
 この亀石と石碑を目撃した日本人が何人かいるのです。大正7
年――第一次世界大戦の末期の頃ですが、ロシア革命に呼応して
連合軍の要請で日本はシベリアに遠征軍を送っているのです。そ
の中で、東部シベリアに出兵していた人たちの中に目撃者がいる
です。その一人である宮古市の刈屋清右衛門氏は、佐々木勝三氏
に次のように語っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山
 があり、石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
 竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に
 割れていました。石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その
 3枚を合わせてみましたら、字が竿石いっぱいに彫られてあり
 ました。字は明らかに「大日本源義経墓」というようにつなが
 りました。              ――刈屋清右衛門氏
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、石
碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っていると
のことです。この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台
石は硬質であり、その磨減の古さから考えて、600〜700年
の星霜を経たものであるとのことです。
 ところで、ハバロフスクの博物館に運ばれたという石碑はどう
なったのでしょうか。
 小谷部氏は、ハバロフスク博物館まで行こうとしたのですが、
治安に問題があるとのことで断念し、当時ウラジオストック派遣
軍司令部の中岡中佐に博物館に行って確認して欲しいと依頼した
のです。その中岡中佐から小谷部氏に対する報告文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
 白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセ
 メントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
 土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過
 激派のなせることなりと。しかし、博物館長はこのしっくいが
 いずれのとき塗られしやおぼえなきと答えき。
               ――佐々木勝三氏の上経書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア人がしっくいを塗って文字を隠したのは明らかで、自国
に不利な文字がそこにあったものと考えられます。そこには「大
日本源義経」と書いてあったのですから。
 この地に義経公園があるということは、それはこの地に古くか
ら居留していた日本人にとって、義経がこの地に来たことを示す
何らかのあかしがあったからと考えられます。そして、おそらく
義経公園は古城跡の一部ではなかったかと思われます。
 それに、このニコラエフスク市は黒竜江のほとりにあり、それ
が、「大きな川のあるクルムセの国」の川ではないかと考えられ
ます。案外ニコラエフスクが「クルムセの国」ということも考え
られるのです。
 もうひとつ義経の城ではないかと思われるものに「蘇城(スー
チャン)」があります。EJ第1639号でご紹介した古城跡の
ことです。スーチャンもナホトカ、ウラジオストック、ニコラエ
フスクを結ぶ線の近くにあるのです。
 この地を支配していたのは、土着民のタモー族というのですが
このタモー族の伝説によると、蘇城は昔、イーポンの武将が築い
た城ということなのです。「イーポン」は「日本」を連想させま
すし、武将の名前はキン・ウ・チィというのですが、これは源義
経であると考えられます。
 さらに重要な痕跡と思われるものがあります。それは、既にご
紹介している「ハンガン岬」です。このハンガン岬――もう少し
正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であ
るらしいのです。ハンガンではなく、「ハングアン」と発音する
そうです。シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに
適当な地点が少ないのですが、そういう意味でこの付近では重要
な泊地になっているのです。
 もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確
認できないのですが、シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ば
れていたそうです。そういうところから、義経一行はこの泊地か
ら上陸したのではないかといわれているのです。なお、ハンガン
とスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞
に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフ
スクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で
役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であら
われたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっている
もので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったと
いわれます。
 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けてい
たことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居
にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考え
られるのです。
 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えている
のでしょうか。          ・・・[義経の謎/14]


≪画像および関連情報≫
 ・笹竜胆/ささりんどう
  民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
  向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

笹竜胆.jpg
笹竜胆
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2010年06月21日

●ウラジオストックにある義経公園(EJ第1643号)

 義経と忠衡軍が津軽の十三湊から安東水軍の力を借りて蝦夷地
に渡り、西蝦夷に行ったこと、それに義経の後を追って大河兼任
率いる200騎が同じルートで蝦夷地に渡って義経・忠衡軍と合
流したらしいことは、これまでの分析でわかってきました。
 しかし、そこから先は義経軍がどのルートをたどって進軍した
かについては、当然ですが、ほとんど確かな資料はないのです。
そこで、既にご紹介している小谷部氏の著書2冊、それを解説し
た佐々木勝三氏他2氏の共著に加えて、次の著書を参照し、推理
してみるしかないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ドーソン著/佐口透訳、『モンゴル帝国史』全6巻
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者のドーソンという人は、アルメニア人のフィンランドの外
交官で、この本は彼が中近東に赴任していたときに『蒙古史』の
タイトルで書き上げたものです。内容は公平・正確という評価が
高く、多くの読書人を魅了した名著なのです。この『モンゴル帝
国史』は、その新装版なのです。もちろん、この本の中でも「義
経=成吉思汗説」は、取り上げられています。
 旧版のドーソンの『蒙古史』は上下巻あわせて700ページの
大書ですが、成吉思汗の30歳前後から1193年頃までのこと
に関しては、たったの4ページしか費やしていないのです。それ
は情報がほとんどないことを示しています。
 1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族
の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイ
ト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女
直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんな
ところまで行って戦争しなければならないのでしょうか――これ
は大きな謎だったのです。
 しかし、源義経=成吉思汗と考えるとこの謎は一挙に解消して
しまいます。源義経率いる軍勢が、サハリン島の西北端から、大
陸のアムール川河口付近に上陸し、1190年〜91年にその地
を支配していた満州女直族のワンスンと交戦したと考えれば、話
がぴったり合うのです。
 この「満州女直」というのは、北東アジアの満州(現在の中国
東北地区)に住んでいたツングース系の民族で、「女真」ともい
うのです。この満州女直族を打ち破ったということは、その時点
で義経軍は、既に相当の規模であったことを意味します。
 もともと忠衡が率いていたのは、騎馬軍団で東北騎馬軍団とい
われていたのです。奥州は馬の産地であり、一戸から九戸までの
9つの牧場があったほどです。そういうわけで、藤原家の軍隊は
騎馬軍団なのです。
 この忠衡率いる100騎の騎馬軍団が義経に従っており、後か
ら合流したとみられる大河兼任率いる200騎の騎馬軍団、それ
にアイヌの一団を加えると、約300騎から〜400騎の軍勢に
なるのです。これが後にテムジン騎馬軍団になるのです。
 軍隊の人数は決して多くありませんが、これだけの手駒を持っ
ていれば、平家を相手にしてあれだけ見事な戦いをした義経であ
れば、十分に満州女直軍と戦えたであろうと推測できます。そし
て義経軍は打ち破った満州女直軍も加えて、沿海州(シベリア)
を海岸線に沿って南下し、現在のウラジオストック近郊まで達し
たと考えられるのです。
 ウラジオストック着いた義経軍は、1192年に休む間もなく
高麗チャガン軍と交戦し、これを破っています。その後、義経軍
はウラジオストック近郊に本拠地を築き、ここで兵を訓練し、体
制を整えています。義経軍はここで約10年の月日を過ごしてい
ます。次の飛躍のためには十分の期間です。
 ところで、現在「タタール海峡」といわれる海峡は、間宮林蔵
が樺太探検のさいに発見した海峡であり、日本では「間宮海峡」
と呼ばれています。
 調べによると、間宮林蔵の樺太探検の目的のひとつは義経伝説
の真偽の解明であったといわれているのです。彼は、アムール川
流域に住む人々に義経のことを聞いてまわっているのですが、そ
こに義経のいくつかの足跡を見つけているといわれています。
 間宮林蔵のこのときの実地踏査によって得られた情報は、ドイ
ツ人医師のシーボルトによる義経北行説と義経=成吉思汗説とし
て発表されています。シーボルトと間宮林蔵は友人関係にあり、
情報源は間宮林蔵であったことは間違いないと思われます。
 義経軍がウラジオストック近郊を本拠地にしたことを示す痕跡
は多く見られます。佐々木勝三氏は、ウラジオストックの北方に
あるニコラエフスクという町の商店で買ったという絵葉書を手に
入れています。大正7年に東部シベリアに出兵した人から贈呈さ
れたものであるというのです。
 その絵葉書には、「源義経墓」と書いてある亀形の台石のよう
なものが写っていたというのです。絵葉書の所有者は藤田伝助氏
といい、藤田氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は23歳の時、上等兵で伍長勤務、分隊長としてウラジオス
 トックに行きました。そして、ツルキンという地名の所に居り
 ました。ニコラエフスク市に行った時、商店で絵葉書を買いま
 したところ、義経(ぎけい)公園という公園の中に、「源義経
 墓」と書いてある亀形の台石が写真になっていたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏の本にもニコラエフスクにある義経公園の亀石の写真
が出ています。その亀石の上にかつて石碑が立っており、「源義
経墓」と書いてあったそうです。そのため、ここに居住する日本
人はこの公園のことを「義経公園」呼んでいたのです。帝政ロシ
ア時代にはまだ日本人が住んでいたのです。[義経の謎/13]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部氏の原文
  隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古
  碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は
  支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の
  碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民
  は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。
  ――小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』より 冨山房刊

ニコラエフスク/義経公園の亀石.jpg
ニコラエフスク/義経公園の亀石
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2010年06月18日

●大河兼任の乱の裏にあるもの(EJ第1642号)

 史実によれば、源義経は1189年4月に自害したことになっ
ています。そして成吉思汗が歴史の舞台に登場するのは1206
年なのです。もし、源義経が成吉思汗であるならば、義経はその
17年の間、何をしていたのでしょうか。
 その前に、その当時の中国大陸の状況について知っておく必要
があります。成吉思汗があらわれる以前の大陸は、唐の時代から
五代の乱世を経て宋の時代になっていたのです。その宋の時代の
敵といえば、すべて北からやってきたのです。
 漢民族は自らは「中華」と称して、北方民族を「北狄」と呼ん
で軽蔑しながらも恐れていたのです。物資が乏しく生活が粗野な
北方民族は、物資豊富で文化の高い南方の農耕民族を狙って、絶
えず侵略戦争を繰り返していたのです。鮮卑、契丹、女真などの
民族がそうです。
 しかし、それらの民族の攻撃は、ことごとく撃退され、万里の
長城の外に追い返されていたのです。漢民族は敵を万里の長城の
外に追い出すと、深追いはしなかったのです。そのため、何回負
けても北方民族は生き残り、繰り返し攻めてきたのです。
 さて、義経一行は、現在のサハリン島(樺太)にいったん渡り、
それから、間宮海峡(タタール海峡)を渡ってアムール川の河口付
近に上陸していると考えられます。そして、その一帯を支配して
いた満州女直(女真系)ワンスンと戦闘をしています。1190年
のことです。
 当時の義経軍は義経主従と忠衡率いる100人程度の軍隊にア
イヌ人が加わっていたものと思われます。義経軍はこの満州女直
を打ち破り、沿海州の海岸に沿って南下します。そして、現在の
ウラジオストック近郊に達するのです。
 戦いというものは、勝ち進むにつれて敗者を軍に加えるので、
その人数が増えていくものですが、それに加えて義経軍にはさら
に200人ほどの援軍が加わっていた可能性があります。つまり
義経一行の後を追って、蝦夷地に渡り、義経軍と合流した一団が
あると考えられるのです。
 この、後から義経軍に加わったとされるのは、どういう一団な
のでしょうか。
 結論から先にいうと、それは大河兼任という秋田県北部の平泉
藤原氏直属の豪族であり、南秋田郡五城目町大川付近を本拠地に
して支配していた一族です。
 1189年12月、大河兼任とその一族は、奥州の同志を結集
し、7000騎の兵力で、出羽国海辺荘から河北、秋田城を経て
多賀城方面に向かい、一路鎌倉を目指したのです。1190年1
月のことです。そのとき大河兼任は自らを源義経と称して軍を挙
げているのです。情報が伝わりにくい当時のことであり、鎌倉方
から見れば、義経はまだ生きており、それが軍を率いて攻めてき
たと勘違いすることを見越しての戦略です。
 しかし、途中の八郎潟付近の志賀の渡しで、突然氷が解けると
いう事故により、多くの兵を水死させてしまうのです。それでも
進軍しながら兵を増強させ、約1万騎の軍勢で、鎌倉側と再三に
渡って合戦を行います。
 ところが、鎌倉勢の大軍に破れ、大河兼任は500騎ほど率い
て逃走し、平泉に陣を張って防戦するのです。しかし、衆寡敵せ
ず破れ、敗走します。そして、宮城県栗原郡にある栗原寺に逃げ
込むのですが、大内兼任はそこで討たれています。この栗原寺は
義経ゆかりの寺とされています。
 この大河兼任の乱は『吾妻鏡』に記述されています。大河兼任
が討たれた模様は、『吾妻鏡』の3月10日の項に次のように記
述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大河次郎兼任、ひとり進退に迫り、花山・千福・山本等を歴て
 亀山を超え、栗原寺に出づ。ここに兼任、錦の脛巾を着け、金
 作りの太刀を帯くの間、樵夫等怪しみをなし、数十人これを相
 囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正(千葉)以
 下に告ぐ。よってその首を実検す云々。
              ――『吾妻鏡』の3月10日より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、大河兼任は殺されています。しかし、この記述に
は不可解なところがあります。それは「錦の脛巾を着け、金作り
の太刀を帯く」の部分です。ずい分目立つ格好であり、逃亡中の
武士はそのような格好をするとは思えないのです。それになぜ樵
夫が登場し、斧で殺されなければならなかったのでしょうか。
 そのことから、これは明らかに大河兼任の替え玉であると思わ
れるのです。斧で殺されたのは、顔を潰してわからなくするため
ではなかったのでしょうか。
 しかし、『吾妻鏡』に「大河兼任死す」とあると、それは歴史
的事実とされてしまうのです。『東日流三郡誌』には次の記述が
残れているといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経一行が十三湊を離れた一年ほど後に、大河兼任の一族二百
 名が義経一行の後を追って、安東水軍の船で出航した。
                 ――『東日流三郡誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 断っておきますが、『東日流三郡誌』には歴史書としては問題
があるといわれています。別説として、栗原寺の僧侶が大河兼任
の頭を丸めさせ、密かに津軽方面に逃がしたという説もあるので
す。大河兼任については諸説があり、これも伝説化されているの
です。いずれにしても、史実上は問題があるのですが、そうかと
いって『吾妻鏡』に書かれていることがすべて真実であるともい
えないのです。
 大河兼任であるかどうかは別として、義経の後を追って200
騎ほどの軍勢が海を渡り、当時西蝦夷にいた義経軍と合流してい
るのです。そして、300騎以上になった義経軍は安東水軍の船
でサハリン島を経て大陸に渡ったのです。 [義経の謎/12]


≪画像および関連情報≫
 ・大河兼任
  極寒の奥州を縦横無尽に駆け抜け、幕府軍を翻弄した豪傑。
  出羽の豪族で、奥州藤原氏に従う。奥州藤原氏が滅亡すると
  旧主の仇を討つと称して、配下の伴党ら7000人を従えて
  橘公業の拠点を襲撃、敵軍を全滅させている。
  次いで由利維平を滅ぼすと、今度は素早く北上し、津軽の宇
  佐美実政を敗っている。しかし、一迫にて源頼朝の命を受け
  千葉常胤、比企能員、足利義兼ら討伐軍と結城朝光ら奥州在
  留の御家人による鎮圧軍が反撃を開始。以後は連敗し、花山
  の栗原寺にて味方の樵夫たち数十人に包囲されて斧で殺され
  ている。

大河兼任と八郎潟.jpg
大河 兼任と八郎潟
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2010年06月17日

●末松謙澄の源義経=成吉思汗説(EJ第1641号)

 明治12年(1879年)のことです。英国で日本人の手にな
る次の英文の論文が発表されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 The Identify of the Great Conqueror Genghis Khan with
 the Japanese Hero Yoshitsune.
 − 大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること −
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文を書いた人は、末松謙澄――当時、ケンブリッジ大学
で、文学・法学を学ぶかたわら、一等書記官見習としてロンドン
の日本大使館に勤務していた青年なのです。
 この末松謙澄という人物はただ者ではないのです。文学・和歌
・漢詩・芸術などの造詣が深く、世界ではじめて『源氏物語』を
翻訳出版するなど大活躍しています。さらに、明治23年には第
1回の衆議院議員選挙に当選して政治の世界でも活躍し、内務大
臣や逓信大臣を務めているのです。
 さて、「成吉思汗=源義経」の英文論文を末松は師の福沢諭吉
のところに持っていったのです。福沢諭吉はこれを読んで「これ
は面白いので、誰か翻訳して書籍として出版したらどうか」と塾
生たちに勧めたのです。
 それを引き受けたのは塾生の内田弥八です。早速それを翻訳し
『義経再興記』というタイトルで明治18年(1885年)に出版
したのです。しかし、著者は「内田弥八」として出版してしまっ
たのです。タイトルの題字は山岡鉄舟、序文は漢学者の石川鴻齋
と土田淡堂が書いて、立派な本にしたのです。
 『義経再興記』は発売されると、大センセーショナルを巻き起
こし、本は売れに売れたのです。明治20年には7版を印刷、最
終的には10版までいったと思われるのです。
 末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。末松が指摘して
いることの多くは、ことばの類似性です。例えば、「成吉思汗」
という名前は「源義経」からきているというのがあります。「源
義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、それが「ゲン
ギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。蒙
古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからで
す。「カン」は王位の総称です。
 さらに、成吉思汗は「ニロン族」の出身であること、父は「エ
ゾカイ」もしくは「エスガイ」と称し、母は「ホエルン・イケ」
と呼んでいたことを指摘しています。末松は、ここでいう「ニロ
ン」は「日本」のことであり、「エゾカイ」は「蝦夷の海からき
た」ことを意味しているというのです。
 この末松論文は当然のことながら、学問の世界からは激しい反
論の嵐がさらされたのです。確かに末松論文は内容的に不十分な
ところが多く、牽強付会の説として批判されたのです。牽強付会
とは、自説に都合の良いところだけをピックアップしてつじつま
合わせをするという意味です。
 しかし、この末松論文は決してムダなことではなかったといえ
ます。ひとつは、この論文が下敷きとなって、小谷部全一郎の本
が誕生したからです。小谷部に蒙古の実地踏査を決意させたのも
末松論文だったからです。
 もうひとつは、この末松論文が契機となって巻き起こった義経
生存説ブームに乗って、明治28年に博文館から『新撰日本小歴
史』という歴史教科書が発刊されたことです。同書の79ページ
に次の記述があります。これはまさに前代未聞のことといえるで
しょう。「義経、衣川で自害」という歴史の定説を覆しているの
ですから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷に入る
            ―――『新撰日本小歴史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松論文で注目すべきは、成吉思汗の母の名前とされる「ホエ
ルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲と
いう意味です。
 これだけでは別にどうということはないのですが、後に成吉思
汗は母親に対して、「センシ皇后」という名前を贈っています。
「センシ」というのは漢字なのですが、字が難しくてメールで送
れないのでカナにします。正しくは「ホエルン・イケ・センシ」
となるのです。
 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。池ノ禅尼は、平
清盛の養母です。平治の乱の直後に捕えられた源義朝の男の遺児
は一人残らず、殺されることになっていたのです。ところが、そ
のとき清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅
尼です。結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少な
くとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。
 もし、義経が成吉思汗であったとしたら、成吉思汗の母となる
女性は何者かということになりますが、そういう母親的存在の女
性に池ノ禅尼の名前を贈ることは考えられることです。
 しかし、義経=成吉思汗説を証明するのに、単にことばの面か
らだけやろうというのは限界があります。幅広い歴史書の分析に
実地踏査などを加えて、さまざまな情報から総合的に判断すべき
です。しかし、学問の世界の反論はそれを守っているとはいえな
いと思うのです。最初に結論ありきであって、その結論を守るた
めに、必ずしも理をもってせず、馬鹿にしたり、罵倒したりする
など、あまりにも感情的になり過ぎる点があると思います。
 ここまでそういう検討を加えた結果、少なくとも「義経は衣川
で自害」という歴史的定説にはかなりの疑問があり、義経一行は
北へ逃れたというのが事実ではないかと考えられるのです。学問
の世界の反論はあまりにも抽象的であり、実証的とはいい切れな
いからです。海を渡って大陸に入った義経一行はどのようにして
成吉思汗といわれるようになったのでしょうか。明日からこの問
題を考えていきます。        ・・・[義経の謎/11]


≪画像および関連情報≫
 ・末松謙澄(1855〜1920)
  安政2(1855)年、行橋市前田生まれ。
  10歳の頃から仏山の私塾で漢学を学び、新聞社で活躍後、
  官界に入る。山縣有朋に文才を認めれて陸軍省へ。明治11
  年ケンブリッジ大学で文学・法学を修め、在学中、英訳「源
  氏物語」を出版。帰国後伊藤博文の次女と結婚。伊藤博文を
  支える要職(逓信大臣など)を歴任すると同時に、多くの著
  作を残している。特に「防長回天史」は維新の貴重な資料と
  されるなど、マルチな才能ぶりに驚かされる。

末松謙澄.jpg
 
末松 謙澄
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2010年06月16日

●ホンカイサマとクルムセ国(EJ第1640号)

 古くからアイヌ民族のあいだに、次のような伝説が伝わってい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、ホンカイサマは金色の鷲が飛ぶのを見て、その鷲に従い、
 昔先祖が往来した海を渡って、大きな川のあるクルムセ国にお
 行きなされた。             ――アイヌの伝説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ホンカイサマ」とは何でしょうか。
 このアイヌの伝説は、佐々木勝三氏の本にも出てきますが、そ
こでは「ホンカンさま」となっていました。アイヌ語に詳しい人
の話によると、アイヌ語には濁音というものはなく、「サ」の音
が出る前に「ン」という音があれば「イ」と発音するのです。し
たがって、「ホンカイサマ」と書いてあっても、発音は「ホンカ
ンサマ」になるのです。
 「ホンカンサマ」は、その読み方からしても「判官様」に通じ
るものがあります。佐々木勝三氏は、平泉から義経主従が北に逃
れたとされる道を実地踏査しているのですが、釜石市の近くで、
「ホンカンサマ」と呼ばれる神社―――「法冠神社」を発見して
います。神社の正確な場所は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     法冠神社 ――― 釜石市大字片岸字室浜
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 法冠神社を建立したのは、室浜に住む山崎久右衛門氏の先祖と
いうことです。神社の由来は、山崎氏の説明によると、次のよう
なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この地は義経一行が、山越えに来て野宿、もしくは休息をした
 ところだと伝えられています。義経さまたちは、この山を越え
 て大槌のほうへ行かれたということです。その跡へ私の先祖が
 お宮を建てたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一口にアイヌ民族といっても、次の2つの種族があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  荒蝦夷(あらえぞ) ・・・ 北海道に留まっている種族
  熱蝦夷(にぎえぞ) ・・・ 北海道を脱出している種族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「荒蝦夷」というのは、ずっと北海道におり、現在は網走地方
に少し残っているだけです。「熱蝦夷」というのは、もともとは
東北地方に住んでいたのですが、日本民族の勢力が北にのびるに
つれて、しだいに北へと圧迫され、北海道に逃げ込んで、釧路か
ら西の日高地方に住むようになった種族です。この種族は昔は勇
猛さを誇ったのですが、現在は少数民族になっています。
 注目すべきは、ホンカイサマ伝説は熱蝦夷にだけに伝わってい
るという事実です。小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』に反
論するため、多くの歴史学者は実際にアイヌ種族を調べています
が、そのほとんどは荒蝦夷に会っていたのではないでしょうか。
荒蝦夷をいくら調べても義経の痕跡は出てこないのです。
 明治時代に熱蝦夷の酋長を調べたある学者によると、ホンカイ
サマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方を教え、それで
鳥獣を捕えたり、網で魚を取る技術を指導したのです。さらに手
工農作のことまで教えたので、ホンカイサマを命の親として神に
祭っているというのです。
 さらにその酋長の話では、やがてホンカイサマは蝦夷地から樺
太へ攻め入り、アイヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこか
ら海を渡ってクルムセの国に入ったというのです。そのさいに、
一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣してし
まい、戻ってこなかったために勇猛を誇ったアイヌ族は急速に衰
えたといわれています。
 さて、問題は「クルムセの国」はどこかということです。伝説
の部分をよく見ると、次の2つのヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.昔、先祖が往来したことがある
      2.その国の近くに大きな川がある
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、義経の時代には「契丹(きったん)」と呼ば
れていた地域ではないかと思われるのです。当時、新羅、高麗、
百済というのは現在の朝鮮半島のことであり、契丹は現在のウラ
ジオストックを中心とするシベリア地方をさします。
 大きな川とは、黒竜江であると思われます。この黒竜江の下流
は、昔から有名な砂金の産地なのです。したがって、秀衡時代の
藤原氏がこのシベリア地方と何らかの関係があるのではないかと
いうことは、あながち荒唐無稽なこととは思われないのです。藤
原氏の所有していたと思われる金は尋常ならざる量だからです。
 ホンカイサマがアイヌの大群を率いて大陸に渡ったとすると、
シベリアの原住民の中には、アイヌ民族と似た風俗が残っている
はずですが、その点はどうなのでしょうか。
 それがあるのです。シベリア西部に住んでいるウオグルという
民族がいるのです。この民族は男は多毛質であり、女は口のまわ
りに入墨をするなど、アイヌ族とよく似た風俗を持っています。
それに住居は丸太の掘立小屋であり、着ている着物の刺繍の模様
も、アイヌのものと酷似しているのです。
 ところで義経は、当時の大陸の状況についてどの程度の知識が
あったかです。推測ですが、私は義経は相当の知識を持っていた
と考えます。NHKの大河ドラマの『義経』の中に、屏風の絵を
前にして平清盛が、まだ幼い牛若に対して海の向こうの話を聞か
せるシーンがあり、印象に残っています。清盛は、都を一時福原
(神戸)に移してまで、海外との交易を考えていたのです。それ
が幼い義経の脳裏に刻み付けられたのです。[義経の謎/10]


≪画像および関連情報≫
 ・シベリア
  シベリアというのは、ロシア連邦のアジア地域、すなわち、
  ウラル山脈以東に広がる広大な地域をいい、シベリアという
  地名は単に地理的範囲を示すものであり、行政単位としては
  意味を持たない。
 ・黒竜江
  現・中国東北地方とソ連邦シベリアの国境を流れる大河。ロ
  シア人はアムール川と称している。全長は4350キロメー
  トルで世界第8位。流域面積は205万1500平方キロメ
  ートルで世界第10位。最上流部はモンゴル高原北東部のヘ
  ンテイ山脈で,ここよりオノン川とケルレン川の二つに分か
  れて流れ出す。オノン川は北東流してシルカ川に注ぎ,ケル
  レン川は東流してアルグン川に注ぎ,アルグン川は、北東流
  して漠河付近でシルカ川と合流する。この合流点より下流を
  黒竜江という。合流点からは大きな狐を描いて南東に流れ,
  松花江などの多くの支流を集めながら小興安嶺の北西端より
  北東流して間宮海峡に注いでいる。

黒竜江.jpg
黒竜江
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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