2010年04月23日

●テレサ・テンと『何日君再来』(EJ第1606号)

 今日からのテーマは「テレサ・テン」です。この記事は200
5年6月6日から2005年7月8日まで25回にわたって掲載
されたものであることをお断りしておきます。

 1995年5月8日、月曜日、午後5時30分(タイ現地時間
による)――台湾出身の歌手テレサ・テンがタイのチェン・マイ
のホテルで気管支喘息のため急逝した日です。今年はテレサ・テ
ン没後10年目になるのです。
 今日から始まるテーマは「テレサ・テン」です。可能な限り資
料を集めましたが、量はあまりないので、どこまで書けるかわか
りませんが、やってみようと思います。最初は予告編のような話
からはじめることにします。
 私の場合、テレサ・テンといえばすぐ頭に浮かぶのは「何日君
再来」という歌です。テレサ・テンとこの歌が結びつく人は、か
なりの年配者のはずです。もっと若い人であれば「時の流れに身
をまかせ」とか「つぐない」という歌になると思います。
 この「何日君再来」という歌は、テレサ・テンのCDに収録さ
れているのはほとんど日本語バージョンです。しかし、この曲に
関しては中国語で聴かないとダメです。なぜかというと、ぜんぜ
ん響きというかニュアンスが違うからです。
 新宿3丁目に「香蘭」というスナックがあります。この店は中
国人のママが経営しているのですが、彼女の歌う中国語の「何日
君再来」は絶品。この歌を聴きによく通ったものです。
 今となっては、中国語でテレサ・テンが歌う「何日君再来」を
聴くことは極めて限られていますが、1985年12月15日に
NHKホールで行われたライブ・コンサートでは「何日君再来」
をフルに中国語で歌っています。私はこのレーザーディスク盤を
持っています。確認していませんが、このライブ版はDVD盤で
も発売されているはずです。
 なお、「何日君再来」を中国語で歌っているCDとしては、次
のものがあります。
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       『Top Ten/Teresa Teng/中国語編』
        Taurus TAC−2509
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 現在、中国、台湾、日本において「何日君再来」はテレサ・テ
ンの歌として定着していますが、もともとこの歌はテレサ・テン
の持ち歌ではないのです。実はこの歌にはとても政治的なドラマ
チックな歴史があるのです。
 「何日君再来」は、第2次上海事変がおきた1938年に映画
『孤島天堂』の挿入歌として作られたのです。映画の内容は、あ
る抗日愛国青年が日本軍のスパイから情報を聞き出し、それに基
づいて行動に起こし作戦に成功する――そして、彼の所属する部
隊は次の任地に移動するという内容です。「何日君再来」は、そ
の青年に想いを寄せる酒場の踊り子が去りゆく恋人を想って歌う
歌なのです。つまり、愛する人との別れを歌った歌です。
 この曲はタンゴ調の切ないメロディの名曲で、まず、中国で爆
発的にヒットしたのです。この映画の主演女優リー・リリが歌い
時の上海歌謡のトップ・スターであったチョウ・シュアンが同じ
曲を歌って中国で大ヒットになったのです。
 これに目をつけたのは日本のレコード会社です。日本語の歌詞
をつけては渡辺はま子が「君いつの日帰る」のタイトルで歌い、
続いて「満映」の女優をしていた李香蘭(山口淑子)もこの曲を
レコーディングして、日本でも大変流行したのです。
 しかし、この歌はその後さんざん時の政情にもてあそばれるこ
とになるのです。
 最初は日本軍がこの歌を問題にしたのです。それはこの歌が抗
日映画『孤島天堂』の主題歌であったからです。直接的にはこの
歌の題名が問題にされたのです。
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  「何日君再来」――ホー・リン・チン・ツァイ・ライ
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 「何日君再来」の中の「君」は、中国語で「チン」と発音する
のですが、これは「軍」も意味するのです。「軍」も「チン」と
発音するのです。そのため「軍」とは国民党軍の蒋介石を指して
いるのではないかと日本軍が疑ったのです。つまり、この歌の意
味を「いつかは蒋介石が帰ってくる」と解釈したのです。
 戦争が終わると、今度は「君」を日本軍を意味するものとして
台湾ではこの歌を禁止流行歌に指定してしまいます。台湾ではも
とから台湾に住んでいる人を「本省人」、中国大陸から蒋介石と
一緒に台湾に渡ってきた中国人を「外省人」と呼んでいるのです
が、外省人から成る国民党政府は、何かにつけて日本軍統治時代
を懐かしむ本省人を牽制したのです。
 もちろんこの時点の「何日君再来」は、テレサ・テンの歌でな
いことはいうまでもありません。チョウ・シュアンや李香蘭の歌
だったのです。テレサ・テンがこの歌をはじめて歌ったのは彼女
が14歳のときなのです。その最初の歌は、1967年9月に台
湾の宇宙レコードの出したLP――「テレサ・テン(漢字)之歌
第一集/風陽花鼓」に収録されたのです。
 ところが、このときは歌のタイトルを「何日君再来」とはせず
自主規制して名称を変更しています。当時の政情においてこの曲
を台湾で出すことははばかられたからです。しかし、その以後テ
レサ・テンは何回もこの曲を録音することになります。
 中国大陸では、1976年の毛沢東死去以降にテレサ・テンの
歌が流行しはじめるのです。中でも「何日君再来」はとくに人気
があったのです。その時点で「何日君再来」は禁止歌となってい
るのに効果はなく、中国政府は困り果てるのです。
 ところが、北京の音楽評論家が劉雪庵が新説を出します。この
歌は「チン」は軍、すなわち人民軍のことであり、台湾に行った
その軍が大陸にまた帰ってくる――すなわち、台湾が中国に帰っ
てくる歌であるとしたのです。
 結果としてこの歌は、台湾でも中国大陸でもそれぞれ勝手な理
屈をつけて禁止歌ではなくなったのです。これを契機にテレサ・
テンの歌は台湾でも中国大陸でも大流行することになります。
               ・・・[テレサ・テン/01]


≪画像および関連情報≫
 ・何日君再来/いつの日君帰る
   美しい花はいつも咲きはしない
   美しい景色はいつも在るわけではない
   愁いかさなっても笑みを浮かべ
   涙が胸につのる思いを濡らしているけれど
   今宵別れてのち
   いつの日貴方はまた帰って来るのでしょう
   この杯をあけてください
   この料理を召し上がって
   人生で心から酔えることなど何回もない
   いま楽しまなければ何を楽しみとすればよいのだろう
   「さあさ、もう一杯あけてください」
   今宵別れてのち
   いつの日貴方は帰って来るのでしょう
               ―――作詞・作曲/劉雪庵
   平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』より
   晶文社刊


テレサ・テン.jpg
テレサ・テン
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2010年04月26日

●『何日君再来』はなぜヒットしたか(EJ第1607号)

 「何日君再来」についてもう少し書くことにします。それはこ
の曲を最初に歌ったチョウ・シュアンに関することです。なお、
EJで中国や韓国のことを取り上げるときに一番苦労するのは漢
字です。テレサ・テンを漢字表記したとき、ウェブ上では表記で
きても印刷すると文字が欠落してしまったりします。そのため、
長くはなりますが、カナ字で表記することにします。
 「何日君再来」がどんな歌か知らない人も多いと思います。歌
の話をしているのに、肝心の歌を知らないのでは興味が湧かない
と思いますので、「何日君再来」のメロディを最初に聴いてくだ
さい。巻末のアドレスをダブルクリックすると、「何日君再来」
のメロディ(演奏のみ)を聴くことができます。聴いたうえで読
んでいただきたいと思います。
 「何日君再来」を最初に歌ったとされる上海歌手チョウ・シュ
アンについては、次の本で詳しく知ることができます。1988
年に出版された本です。
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      中薗英助著
      『何日君再来物語』河出書房新社
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 この本ではこの曲に関する昨日のEJで述べたいきさつが詳し
く述べられています。ところでこの曲の作者は誰なのか――これ
については長い間にわたって不明なのですが、中薗氏はその作者
を追求して突きとめ、その背後に潜むある黒い影の存在に気がつ
くといった興味ある内容になっています。
 この本には「何日君再来」を最初に歌ったチョウ・シュアンに
ついても知ることができます。
 チョウ・シュアンは、1918年生まれであり、中国の極貧の
の家に生まれ、上海の周家の養女になります。小さいときから舞
踊団に入って歌を歌うことをはじめるのです。1932年の「一
・二八事変(第一次上海事変)」の少し前、愛国歌「民族之光」
――歌詞に「敵を手玉にとって倒す」という部分がある――を歌
って時の政府から高い評価を受けるのです。
 それまでチョウ・シュアンという名前は「周旋」と書いていた
のですが、政府は「旋」に「王」という字をへんとして与えてい
るのです(添付ファイル参照)。
 しかし、チョウ・シュアンの名前を決定的に有名にしたのは、
やはり「何日君再来」を歌ってからです。この歌によって、チョ
ウ・シュアンは「中国のリリー・マルレーン」と呼ばれるように
なるのです。1987年11月にTBSテレビがチョウ・シュア
ンのドキュメンタリーを取り上げたことがあります。このときベ
ースになったのも中薗氏の『何日君再来物語』だったのです。
 私は残念ながらチョウ・シュアンの「何日君再来」を聴いたこ
とがないのですが、繊細な感じのソプラノであるといわれていま
す。その歌はまさに中国の歌そのものという感じですが、これに
対してテレサ・テンのそれは多くの楽器を使い、巧みな編曲が施
されてチョウ・シュアンの歌よりも「何日君再来」のメロディが
格段に美しく聞こえます。
 テレサ・テンは「何日君再来」を何回もレコーディングしてい
るのですが、そのたびに彼女はいろいろな工夫を施して歌ってい
ると香港のプロデューサーはいっています。中国の伝統的な歌唱
法を意識して艶のある声で歌い上げているのです。
 テレサ・テンによる「何日君再来」が、なぜ中国大陸に幅広く
普及し、多くの中国人からもてはやされ、親しまれたかについて
は、次の2つの理由があります。
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 1.日本の録音技術により、制作されたカセットテープの音質
   が非常に優れていたこと
 2.文化大革命の混乱が収束しつつある中で、人々は政治色の
   ない歌を求めていたこと
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 「何日君再来」に限らず、テレサ・テンの歌の録音には日本の
優れた録音技術が使われています。そのため、大量にダビングが
行われ、それがすさまじい勢いで市場に大幅に出回ったのではな
いかといわれるのです。
 平野久美子氏の著書である『華人歌星伝説/テレサ・テンが見
た夢』(晶文社刊)には、台湾淡江大学米国研究所のトーマス・
リー教授の次の意見が掲載されています。
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 テレサ・テンの歌が大陸に入ったのは、文化大革命の混乱がよ
 うやく収束に向かって、人々が平和で穏やかな社会をむかえた
 がっていた時期なのです。そこに政治色のない、ごく普通の人
 間の感情を歌った曲が、やさしく訴えるような調子で流れてき
 た。大陸の人々はそういう歌に飢えていたのだと思いますね。
                  ――トーマス・リー教授
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 何しろ文化大革命といえば、死者1000万人、被害者1億人
経済的損失5000億元といわれるのです。テレサ・テンの歌は
この文化大革命の終焉と深く関与しているのです。
 誰でもイデオロギー色の強い歌ばかりを歌わされていれば、情
緒が枯れてしまうものです。そういうときに台湾や香港から流れ
てくる歌は中国の人にとって精神安定剤として機能したといえる
のです。テレサ・テンの歌い方は北京語の発音が明確であり、歌
の意味がよく聞き取れることに加え、攻撃性が皆無であることや
やさしく感性に訴えてくる特徴があり、誰でも受け入れられるも
のを持っていたといえます。
 このようにして、台湾の歌手テレサ・テンの名声は揺ぎないも
のになっていったのです。テレサ・テンが亡くなったとき、新聞
は一斉に「何日君再来」の見出しを掲げたといわれます。いうま
でもなく、この「君」はテレサ・テンを指しており、彼女がいつ
の日か帰ることを願ったのです。・・・[テレサ・テン/02]


≪画像および関連情報≫
 ・「何日君再来」の聴いてみよう/アドレスをダブルクリック
  音が出ないときは、もう一度やってみてください。
  
 http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~yamakiyo/BGM-heriqunzailai.htm

チョウ・シュアン.jpg
チョウ・シュアン
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2010年04月27日

●テレサ・テンが育った時代環境(EJ第1608号)

 テレサ・テンが生まれたのは1953年1月29日、場所は台
湾です。テレサ・テンの両親は大陸出身のいわゆる外省人――母
親は山東省の出身、父親は河北省の生まれで国民党軍の陸軍中尉
だったのです。
 この台湾という国は、つねに島外の国によって統治されるとい
う不幸な歴史を持っています。
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    オランダの植民地    1624〜1661
    チョン・チェンゴン王朝 1661〜1683
    清国          1683〜1895
    大日本帝国       1895〜1945
    中華民国        1945〜
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 台湾の本省人(台湾人)と呼ばれる人たちは、日清戦争の結果
日本統治が開始される1895年以前に福建省と広東省から移住
してきた人たちが中心を占めるのです。
 日本――当時の大日本帝国は50年に及ぶ統治によって台湾に
近代国家の基礎を築いているのです。なぜなら、清国は台湾の全
土を統治していたわけでなく、台湾西部の一部(全台湾島の3分
の1)しか実質支配していなかったからです。
 台湾の本省人がどちらかというと日本寄りなのは、統治時代の
日本のやったことを評価しているためです。それは、日本の敗戦
による台湾撤収後に大陸からわたってきた新しい為政者である外
省人たちのふるまいがあまりにひどかったからです。
 1949年に蒋介石は台北を暫定首都とし、北京語を正式に台
湾の国語と定め、台湾全土に戒厳令をしいて臨戦体制下に置くの
です。この戒厳令は実に38年間に及び、この間に知識層を中心
に徹底的な人権抑圧や言論統制が行われるのです。そして台湾が
正常化するのは、1987年に李登輝が総統に就任してからなの
です。テレサ・テン一家が台湾にやってきたのも1949年9月
のことなのです。
 テレサ・テン一家もいやおうなしに台湾社会を飲み込む激動の
渦に巻き込まれることになります。一家は慣れない台湾の各地を
転々とするという生活を強いられたのです。そういう引越しの連
続という生活において、テレサ・テンは成長していったのです。
 幼い頃のテレサ・テンは、よく美空ひばりの歌を歌っていたと
いいます。1950年代になると国民党政府は日本統治時代の影
響を何とか消そうと躍起になります。しかし、なぜか日本映画は
条件付きで上映が認められており、映画『君の名は』や美空ひば
りの映画は各地で大ヒットしていたのです。
 テレサ・テンは10歳くらいから素人のど自慢大会に出場し、
賞金を取ってくるようになります。この頃から彼女の名前は少し
ずつ台湾で知られるようになっていったのです。しかし、父親は
彼女が歌の大会に出ることに反対であり、カトリック系の金陵女
子中学に進学させるのです。
 しかし、1966年にテレサ・テンは学校に通うかたわら台湾
電視台――台湾唯一のテレビ局の専属になるのです。そして、月
に1回歌の番組に出演することになります。この頃、あのチョウ
・シュアンは香港に移り、台湾のテレビ局にも出演して懐メロを
歌っていたといいます。
 しかし、このことは学校に隠しており、何とか学校と両立させ
ようとしたのですが、やがて学校にわかってしまい、結局学校を
やめることになるのです。しかし、このことが契機となって娘が
歌の道に進むことに反対していた父親は、彼女が歌のプロを目指
すことをはじめて許すのです。
 そこでテレサ・テンは、テレビの出演に加えて、ライブハウス
(歌庁)にも出演するようになり、やがてテレサ・テン一家は彼
女の収入に頼るようになっていったのです。当時一家は小さな食
堂をやっていたのですが、収入は月に2000元ほどしかなかっ
たのに、テレサ・テンは月に6000元〜8000元も稼ぐよう
になっていったからです。
 1967年9月には、はじめてのLPが発売され、次々とLP
の数は増えていき、やがてテレサ・テンの名前は台湾では知らな
い人はいないほど有名になるのです。しかし、この頃のテレサ・
テンには自分の持ち歌はなく、他の歌手の持ち歌のカバーをして
いたのです。
 彼女がはじめて自分の歌を与えられたのは、4枚目のLPが発
売されたときです。「晶晶」(チンチン)というテレビ番組の主
題歌がテレサ・テンに与えられたのです。このLPの発売日には
多くの人がそのLPを買うために長蛇の列を作ったといわれてい
ます。
 ここで彼女の名前の変遷についてふれておきたいと思います。
本来であれば名前を漢字で表記したいのですが、表記できないの
で、ここまで「テレサ・テン」で通してきています。彼女に最初
につけられた名前は「リーイュン」です。そして教会ではクリス
チャンネームとして「テレサ」をもらったのです。
 テレビに出るようになって「リーチュン」と変えています。こ
こではじめて「君」という字を使ったのです。1970年になる
と、香港に進出して「香港LEEシアター」で歌うようになった
とき、クリスチャンネームと組み合わせて「テレサ・テン」と称
するようになったのです。
 香港の九龍(カオルーン)の「東方」という歌庁でも歌うよう
になります。10人くらいの歌手が一人2曲ずつ歌うのですが、
テレサ・テンには多くのアンコールがかかるので、だんだん順番
が後ろの方になり、いつもトリで歌うようになるなど、テレサ・
テンは押しも押されぬ大歌手への道を突き進んで行ったのです。
 1972年、19歳のとき、テレサ・テンは、香港の10大ス
ターに選出されます。そして「歌迷小姐」という映画で主役を演
ずるようになります。この映画の主題歌「千言萬語」という曲が
大ヒットするのです。     ・・・[テレサ・テン/03]

≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンと最初の出演映画

若い日のテレサ・テンと映画出演.jpg
若い日のテレサ・テンと映画出演
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2010年04月28日

●日本進出のいきさつを探る(EJ第1609号)

 テレサ・テンのテーマが3回進んだところで、今回なぜ、テレ
サ・テンを取り上げたのかについて述べておきます。取り上げる
きっかけは、今年がテレサ・テンの没後10年に当るからです。
EJはニュース性のある記事を取り上げていますので、ひとつの
節目を迎える今年は取り上げるに値すると考えたからです。
 そして何よりもテレサ・テンは謎の多い歌手だからです。偽造
パスポート問題、スパイ説、そして早過ぎる死――謎に包まれて
います。そのあたりを少しでも明らかにしたかったからです。
 これらのテレサ・テンの謎については、私なりに整理すると、
次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンという歌手については国によってその認識に
   おいて大きなギャップがある。とくに日本人の認識と、台
   湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)の人の認識に大
   きな差があること。
 2.テレサ・テンは単なる人気歌手ではなく、台湾と大陸の政
   治的なはざまにおいて、きわめて政治的に利用された歌手
   ではないかとの疑いがあるが、果たしてそうなのか。その
   疑惑を解明したい。
 3.2の問題とも関連するが、なぜ、テレサ・テンは台湾を出
   て香港、パリと住まいを頻繁に変えたのか。そして、なぜ
   タイのチェンマイのようなところで急死したのか。あまり
   にも謎が多いこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつ、テレサ・テンを取り上げようと思ったのは待望の
有田芳生氏の次の著作が出たことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  有田芳生著
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』
  株式会社文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンが急死した1995年といえば、日本はオーム事
件の真っ只中にあったのですが、有田氏はオーム事件を追跡する
かたわら、この本の執筆を早くから予告していたのです。
 私はそれをひたすら待っていたのですが、ようやく今年になっ
て発刊されたのです。この本が入手できたこともテレサ・テンを
テーマに取り上げる動機になったことは確かです。
 現在は上記の1の解明をはじめています。テレサ・テンが日本
ポリドールレコードと契約を結んだのは、1973年のことです
が、1972年の時点でテレサ・テンは香港10大スターに選ば
れていたのです。既にそのときテレサ・テンは、大歌手としての
一歩を踏み出していたのです。
 当時既に、テレサ・テンは華僑の世界ではよく知られており、
各地から声がかかるようになっていたのです。そのため、彼女は
母と一緒に香港、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インド
ネシア、タイなどの東南アジアツアーに出かけています。つまり
台湾だけでなく、東南アジア各国では幅広く知られる歌手だった
のです。しかし、当時日本で彼女の存在を知る者は誰もいなかっ
たのです。
 テレサ・テンに対する日本人のギャップとはこのことをいうの
です。今でも日本人の多くはテレサ・テンを演歌歌手として見て
おり、アジアの大歌手としてはとらえていないのです。このこと
がわかっていないと後に彼女に降りかかる数々の災厄が理解でき
ないと思うのです。
 テレサ・テンに一番最初に目をつけたのは、日本ポリドールレ
コードです。有田氏の本によると、このあたりの事情が詳しく書
かれていて大変興味深いのです。
 1973年3月のことです。日本ポリドールの幹部2人が3泊
4日の予定で香港に出張したのです。出張といっても、香港ポリ
ドールとの懇親を兼ねた旅行であり、とくに特定の仕事があった
わけではないのです。
 しかし、この出張がテレサ・テンを日本にデビューさせるきっ
かけになるのです。香港ポリドールの制作部長と食事をしたあと
彼に連れられて歌庁(ライブハウス)に行ったのです。時間は夜
の9時頃だったそうです。
 興味あるのは香港の歌庁のしきたりです。アルコールが入って
いるお客は、たとえ席が空いていても舞台の近くの席には座らせ
てもらえないのです。そこで、かなり後ろから舞台を見ることに
なったのです。
 そのとき、女性歌手が歌っていたのですが、日本ポリトールの
幹部は最後に3曲歌った歌手に注目したのです。ルックスもよく
歌は抜群にうまい。それに何となく光っている――何という歌手
かと聞くとテレサ・テンだという。日本ポリドールの社員は、当
時テレサ・テンをぜんぜん知らなかったといいます。
 しかし、席がはるかに後ろでよく見えない。そこで翌日もう一
度来ることにしたのです。昼間のうちにテレサ・テンのデータを
集め、酒を飲まないで出かけたのです。前から4番目の席でコー
ラを飲みながら、テレサ・テンの歌を聴いたのです。
 歌のうまいことは昨夜の段階でわかっていたのですが、近くで
見るとインテリジェンスを感じたといいます。これはいける!そ
う考えたポリドールの幹部は、香港ポリドールの制作部長にテレ
サ・テンとのコンタクトを頼んで日本に戻ったのです。
 日本に帰って検討した結果、契約してみようという話になって
日本ポリドールの制作部長舟木稔氏が再び香港に飛び、テレサ・
テン側と交渉をはじめたのです。
 しかし、簡単にいくと思われた交渉は意外に難航したのです。
結局、台湾で父親に会って交渉し、やっとOKをもらったという
のです。そして、1973年4月12日、日本ポリドールレコー
ドは、テレサ・テンと契約を締結するのです。初年度のギャラは
月25万円。大学卒の初任給が5万6千円の時代です。
               ・・・[テレサ・テン/04]


≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンの原稿を書きながら眼の前の書棚を見る。そこ
  に飾ってある写真は、若い頃から爛熟期、そしてうつろな顔
  をしたのもあれば、パリの寝室に貼ってあった貴重な一枚も
  ある。彼女の写真、ビデオなど、机の前後左右には資料や写
  真が積み重ねてある。こういう生活がもう何年も続いていた
  ――有田芳生氏
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』(文
  藝春秋社刊)より

有田芳生氏の本.jpg
有田芳生氏の本
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2010年04月30日

●日本でのヒットが生まれるまで(EJ第1610号)

 テレサ・テンがはじめて日本に来たのは、1973年11月の
ことです。年齢は20歳だったのです。テレサ・テンの日本での
活動は、営業を渡辺プロ、レコーディングはポリドールで行うこ
とになったのですが、彼女のデビュー曲をどのような曲にするか
は大問題だったのです。テレサ・テンの担当マネージャーは桜井
五郎氏(以下、敬称略)――いしだあゆみやアン・ルイス、大信
田礼子などを束ねる腕利きのマネージャーだったのです。
 いろいろ検討が行われた結果、アイドル路線で、ポップス調の
曲でいくことに決まったのです。当時は小柳ルミ子の「私の城下
町」や天地真理の「水色の恋」がヒットしており、ポップス調の
曲が流行していたからです。そのため、テレサ・テンの実際の歳
を1歳ごまかし、19歳でいくことにしたのです。つまり、ター
ゲットを10代に絞ったのです。
 ところで、テレサ・テンのデビュー曲をご存知でしょうか。ほ
とんどの人は知らないと思います。なぜなら、レコードはぜんぜ
ん売れず、売り出しは失敗に終わったからです。
 デビュー曲は、山上路夫と筒美京平の最強コンビによる次の曲
だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『今夜かしら明日かしら』
       作詞/山上路夫 作曲/筒美京平
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 渡辺プロのことですから、キャンペーンは相当力を入れている
のです。45回にわたるテレビ出演、それに加えて日劇での森進
一ショーでも歌う機会を作ったのですが、レコードはほとんど売
れず、オリコンチャートは第75位に終わったのです。
 実は日本ポリドールの舟木制作部長がテレサ・テンと契約をす
るために香港に行ったとき、香港ポリドールはテレサ・テンでは
なく、歌も女優もできる優雅(ユウヤ)というタレントではどう
かと提案したそうです。しかし、舟木氏はあくまでテレサ・テン
にこだわったのです。
 しかし、そのユウヤは既に日本でデビューしており、「処女航
海」というレコードも出していたのですが、このレコードはオリ
コンチャート第24位――テレサ・テンの惨敗だったのです。
 なぜ、売れなかったのか――桜井マネージャーはさんざん考え
た結果、原因は次の2つにあると考えたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.日本語に問題があり、情感が伝わらない
   2.アイドル路線にしたのが裏目に出たこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンにとって日本語の修得は大きな壁だったのです。
まして来日直後は日本語をまったく話せず、これが情感を伝える
ことの障壁になっていたことは確かです。それにはっきりしてい
ることはアイドル路線をとって10代のファンからそっぽを向か
れたことです。
 むしろポップス路線よりも演歌の方がいいのではないか――桜
井はふとそう考えたのです。それも中高年層をターゲットとする
演歌ではなく、20代前半の女性向けに演歌にポップス調をプラ
スした曲にしたらどうかと考えたのです。
 こういう演歌を作れるのはあの人しかいない――そう考えた桜
井は、猪俣公章のところに行ってテレサ・テンのために曲を書い
てくれと頼み込んだのです。そのとき筒美京平がテレサ・テン用
の曲を既に4曲も完成させていたにもかかわらずです。
 さらに桜井は編曲にはポップス調で活躍していた森岡賢一郎を
起用してしています。演歌にどっぷりつからず、モダンな感じを
出すための配慮です。このようにして、山上路夫が詞を作り、そ
れに猪俣公章が曲をつけ、森岡賢一郎がアレンジして完成したの
が『空港』です。最初のタイトルは『雨の空港』だったのですが
既に『雨のエアポート』という曲があったために『空港』になっ
たのです。
 1974年7月、テレサ・テンの第2弾シングル『空港』は発
売されます。この曲は桜井の狙い通り、20歳〜25歳までの若
いOLにヒットして、実売で70万枚を超える大ヒットになった
のです。調査によると、中心層はあくまで若い女性だったのです
が、40歳代の男性にも好反応が出ていたのです。これがそのあ
と、20年以上にわたるテレサ・テンの日本での人気を支えるこ
とになるのです。
 この曲のヒットによってテレサ・テンは、1974年のレコー
ド大賞新人賞を獲得したのです。ちなみにそのときの最優秀新人
賞は、麻生よう子の『逃避行』だったのです。
 2曲目にして大ヒットを飛ばしたテレサ・テンではあったが、
日本での扱いはあくまで新人のそれだったのです。しかし、香港
に行くと美空ひばりクラスの扱いを受けるのです。当時はアグネ
ス・チャンの方が、日本でははるかに格が上だったのです。
 有田氏の本にこういう逸話が出ています。香港からリンリン・
ランランがやってきたときの話です。そのとき、控室がテレサ・
テンと相部屋であったので、日本の担当者に抗議したそうです。
彼女たち自身の扱いを怒ったのではないのです。アグネス・チャ
ンには個室を与えているのに、テレサ・テンのような大歌手をな
ぜこのように低く扱うのか――という抗議です。
 テレサ・テンはそういうことには一切クレームをつけなかった
といいます。しかし、最初のうち営業の一環としてのクラブやキ
ャバレーでの仕事にはクレームをつけたといわれています。テレ
サ・テンは、こういう社交場に来る客は歌を聴きにくるのではな
いことにこだわったといいます。
 彼女は台湾や香港でもクラブで歌っていますが、お客は歌を聴
きに来ており、お客のマナーは良かったのです。既に述べたよう
に、香港の歌庁では、酒の入っているお客は、前の席には座れな
いようになっていることからも明らかです。テレサ・テンは歌手
として強い誇りを持っていたのです。
               ・・・[テレサ・テン/05]



≪画像および関連情報≫
 ・『空港』について書かれているサイト

   http://www.megsweet.com/airport.html


今夜かしら明日かしら.jpg
夜かしら明日かしら
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2010年05月06日

●新宿ルイードでの公演のすべて(EJ第1611号)

 私の手元に一枚のCDがあります。「テレサ・テン・アット・
ルイード」と書いてあります。私はこのCDをテレサ・テンの3
回忌にCDショップで見つけて購入したのです。
 このCDは、1976年7月10日に新宿ルイードで行われた
テレサ・テンのコンサートが収録されているのですが、実はこの
とき誰も正式には録音を行っていないのです。したがって、誰か
が私的にコンサートの模様を録音したものと考えられます。
 録音の質は必ずしも良くなく、アマチュアによるものです。お
そらくテレサ・テンが誰かに依頼して私的に録音させたものと考
えられます。このテープはテレサ・テンの死後、彼女の持ち物の
中から発見されたものなのです。
 しかし、私的録音で音質は良くないとはいえ、このテープのお
陰で、テレサ・テンの日本での初めてのライブのすべてを知るこ
とができます。そういう意味で貴重なCDです。私の持っている
CDは、トーラスレコードがテレサ・テンの持っていたレコード
を使って制作されたものなのです。
 1976年7月10日――その日はあいにく小雨が降っており
お客の出足はわるく、客席はまばらだったのです。その時点では
たとえ『空港』がヒットしたとはいっても、テレサ・テンの名前
は幅広く知られているとはいえなかったのです。
 しかし、コンサート自体は和気あいあいと進められたのです。
そのステージは正式な司会者がいるわけではなく、テレサ・テン
自身が司会を行い、プログラムを進行させたのです。彼女の日本
語は、たどたどしくはあったものの、必死の勉強の成果で十分意
味の取れるところまで上達していたのです。
バンドは、豊岡豊とスウィング・フェイス――ドラムス、バス
ギター、ピアノ、4トランペット、4トロンボーン、5サックス
となかなか大編成のバンドが担当したのです。
 この記念すべきコンサートを再現してみましょう。
 その日のテレサ・テンについて、トーラスレコードの鈴木章代
さんは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  テレサ・テンが登場。黒いチャイナ・ドレスの深いスリット
 からのぞく綺麗な脚、少しだけウエーヴのかかったセミ・ロン
 グの髪、彼女は輝いていた。
          ――トーラスレコード製作担当/鈴木章代
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初の曲『雪化粧』――これは『空港』のコンビ、山上路夫/
猪俣公章の曲です。その歌のあと、テレサ・テンは客席に向かっ
て「こんな雨の日にたくさんの人に来てもらってありがとう」と
述べていますが、心中複雑だったと思われます。なぜなら、客席
は本当にぱらぱらだったからです。それでも客席には彼女の母親
をはじめとして、母国からの応援団も座っていたのです。
 ちょうどこのときテレサ・テンには、香港のリー・シアターで
3日間のワンマンショーを開く話がきていたのです。リー・シア
ターといえば3000人を収容できる大ホールであり、彼女はそ
こを満席にできる実力歌手だったからです。
 それでも雨のルイードでのコンサートは和やかに進められたの
です。テレサ・テンは、ときどき客席に話しかけながら、『しく
らめんのかおり』『心もよう』という2曲の日本の歌を歌ったの
です。テレサ・テンの日本語は歌に関しては完璧でしたが、話し
かけるときはどうしてもたどたどしくなるのです。「ありがとう
ございました」が「ありがとあんした」というようになってしま
うわけです。
 このあと解説を交えて『高山青』という台湾の歌を歌い、『グ
ッドバイ・マイ・ラブ』を歌うのですが、緊張したのか、彼女は
歌のタイミングを間違えてしまっています。この歌は香港の公演
で歌う予定の曲であり、こういうミスは普通起こらないのです。
 そして、8曲目になったとき、彼女はいきなりフルートを取り
出します。そして、バンドリーダーの豊岡さんに話しかけて、ド
ラムのテンポに注文をつけます。そして自らフルートを吹き出し
たのです。
 ところが、ブゥービーブゥービー、ビューといった調子でうま
く吹けない――しかし、そこはプロのバンドです。たどたどしい
彼女のフルートに合わせて演奏したのは『ジャンバラーヤ』――
これは本当に楽しく、素晴らしい歌だったのです。とにかく歌に
入ると、彼女は安定した完璧な歌を聞かせるのです。
 ステージの後半には、この日のために用意したという『五木の
子守唄』『夕焼け小焼け』『長崎は今日も雨だった』『襟裳岬』
『女ひとり』『夜のフェリーポート』を歌い、いよいよ最後の曲
になります。テレサ・テンは客席に話しかけます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  今日のステージ本当に楽しかった。最後の曲になる前に何か
 聞きたいことありませんか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンのステージでは、彼女は必ずこのようにして客席
に問いかけるのです。一瞬静寂になると、テレサ・テンは「わか
らないね」といい、いい直すのです。きっと、自分の日本語が伝
わらないのではないかと心配しているのです。この頃はまだ日本
語には自信が持てなかったようです。客席からは「恋人はいます
か」などといういくつかの質問があり、CDからは和やかなもの
が伝わってきます。
 そして、最後の曲『マイウエイ』が高らかに歌い上げられて、
印象深い新宿ルイードでのコンサートは終了するのです。有田芳
生氏の本によると、この日会場には俳優の川谷拓三氏もきており
テレサ・テンの歌声に耳を傾けていたといいます。
 ちょうどこの頃テレビではドリフターズの「8時だョ!全員集
合」が大ヒットしており、テレサ・テンはこれに出ることを楽し
みにしていたようです。ドリフターズとは仲が良く、地方公演の
ときは彼女が前歌を担当していたといいます。
               ・・・[テレサ・テン/06]

≪画像および関連情報≫
 ・『テレサ・テン at ルイード』
  Taurus/TACL−2436

テレサ・テン・アット・ルイード.jpg
テレサ・テン・アット・ルイード
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2010年05月07日

●テレサ・テン偽造旅券事件の真実(EJ1612号)

 1979年2月17日のことです。そのときテレサ・テンはレ
コーディングのため、日本に来ており、東京ヒルトンホテルに母
親と宿泊していたのです。
 そこに東京入管管理事務所の係官が訪れ、不法入国の疑いがあ
るとしてテレサ・テンを連行していったのです。調べに対しテレ
サ・テンは、違法にインドネシア旅券を取得し、それを使って日
本に入国したことをことを認めたので、彼女は東京入管に身柄を
拘束されてしまったのです。
 どうしてこんなことが起こったかです。1978年12月、テ
レサ・テンは公演のためインドネシアに滞在していたのですが、
ある友人の勧めによってインドネシア旅券を2万香港ドル――約
80万円で購入するのです。もちろん違反であり、旅券は偽造旅
券取得ということになるのです。
 偽造旅券というと、他人の旅券の写真部分を貼り替える手口が
多いのですが、テレサ・テンの場合は、「テン・エリー」という
インドネシア女性を騙り、テレサ・テン自身の写真で旅券を取得
しているのです。つまり、正規の旅券を地下ルートで取得したこ
とになります。テレサ・テンはこの旅券でジャカルタの日本大使
館で日本ビザを取得しているのです。
 1979年1月10日にテレサ・テンは台湾を出国して、シン
ガポール公演と香港公演をこなしています。このときの出入国に
は台湾旅券を使用しています。
 2月13日にテレサ・テンは香港から台湾に戻るのですが、そ
のとき誤ってインドネシア旅券を提示してしまうのです。当然ビ
ザがないとして台湾の入国は拒否され、出発地の香港に送還され
てしまうのです。そのとき既に有名人であったテレサ・テンと台
湾の入管職員とのやり取りを『中国日報』の空港駐在記者に目撃
されてしまうのです。
 その記者は入管の係員から事情を聞き、インドネシア政府の連
絡機関であるインドネシア商会にテレサ・テンにパスポートを発
行した事実があるかどうかを確認したところその答えは「ノー」
であったのです。
 一方、香港に戻されたテレサ・テンは、14日に中華航空機で
羽田に向うのです。そして、彼女は羽田の東京入管でも問題のイ
ンドネシア旅券を提示します。東京入管では旅券には日本ビザも
付いていたので入国を認めたのです。そして、彼女は指定の宿舎
である東京ヒルトンホテルに宿泊したのです。
 『中国日報』の記者からの通報で事態を知ったインドネシア外
務省は追跡調査を開始します。15日になって在日インドネシア
大使館は東京入管に「現在中国人女性が所持している「テン・エ
リー」名義の旅券は、違法に取得されたものである」との通告を
行ったのです。
 こうして東京入管の係官が2月17日に東京ヒルトンホテルに
出向き、テレサ・テンの身柄を確保したというわけです。この事
実は『中国日報』をはじめとするメディアによつてに詳しく報道
され、大きなニュースとなってしまったのです。
 この事態に困惑したのは日本ポリドールです。台湾からは、テ
レサ・テンを台湾に強制送還するよう強く求められていたからで
す。しかし、それに応ずると、再び出国することが困難になり、
最悪の場合、歌手をやめさせられることも考えられたからです。
それにテレサ・テン本人も「台湾には帰りたくない」と強く主張
していたのです。
 日本ポリドールは、大物弁護士を介して法務省と交渉し、コン
サートのスケジュールの決まっている米国に行かせることで決着
したのです。そして、2月24日にテレサ・テンは国外退去処分
を受け、パンアメリカン機でサンフランシスコに向ったのです。
これによって、今後1年間は、日本への入国は禁止されることに
なったのです。
 それにしても、なぜテレサ・テンは偽造旅券などを使ったので
しょうか。
 それはその当時の台湾の国情によるのです。その時点で台湾は
戒厳令がしかれており、日本をはじめとする国交のない国への出
国許可は最低でも二ヶ月、問題があれば1年くらいかかることも
あったのです。
 有田芳生氏の本によると、芸能人の出国許可に関して次のよう
に書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  音楽や芸能活動を管轄する教育部に許可を求め、新聞局が芸
 能人の実績を検討し、出入国の必要性を認める。そのうえで警
 察局が形式的な許可を与え、最終的には外務部が認めることに
 なる。その過程では、戒厳令総司令部による思想調査も行われ
 た。当時はパスポートとともに出国許可証が必要とされていた
 のである。
   ――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうやらテレサ・テンのインドネシア旅券の取得にはインドネ
シア政府関係者がかかわっており、この事件はいわゆる灰色決着
されたのです。本来であれば、不法入国は3年以下の懲役もしく
は禁固、10万円以下の罰金です。しかし、テレサ・テンについ
ては、悪意がないことと、台湾の国情、インドネシア政府の思惑
が複雑にからみ合い、東京入管としては起訴も罰金もなしの国外
退去処分と一年間の日本への入国の禁止という非常に軽い処置で
決着をつけたことになります。
 この一週間の拘留の間に取調官、同じ部屋の収容者全員がテレ
サ・テンファンになるというほど、テレサ・テンの評判は良かっ
たそうです。大スターぶらずに素直に取り調べに応じ、同室の女
性たちにも礼儀正しく接し、短期間の間にみんなから好かれる存
在になっていたのです。拘束が解かれるとき、化粧をしたテレサ
・テンは同室の人たちに一曲中国の歌を歌い、きちんと挨拶をし
て部屋を後にしたということです。・・[テレサ・テン/07]


≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンが宿泊した頃の東京ヒルトン
  (現キャピトル東急)

当時の東京ヒルトン.jpg
当時の東京ヒルトン
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2010年05月10日

●テレサ・テン帰国工作プロジェクト(EJ第1613号)

 テレサ・テンは、台湾と中国大陸のはざまにおいて政治的に利
用され、翻弄された歌手であったといえます。しかし、これは本
人が望んでそうなったわけではなく、本人のあずかり知らぬとこ
ろでそういう仕組みが作られ、テレサ・テンはそこに嫌応なしに
組み込まれていったといえます。これからはしばらくそういう点
に焦点を当てて書いていきます。
 日本での拘束が解かれたテレサ・テンは米国に向かいます。そ
して、しばらくサンフランシスコで平穏な日々を過ごすのです。
テレサ・テンはこの時期、USC(南カルフォルニア大学)やU
CLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)に通って勉強して
いるのです。この時期はテレサ・テンの人生にとって最も平穏な
ひとときであったといえます。
 その頃中国では、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、時
代が変わろうとしていたのです。10年間続いた文化大革命が終
結し、1977にはテン・シャオピン(トウ小平)が政権中枢に
返り咲いて、改革・開放政策が進められるようになったのです。
 1978年12月の第11期三中全会の方針決定により、海外
から文化の流入が始まったのです。これに伴い、台湾や香港の歌
手のカセット・テープが大陸に持ち込まれ、大量にダビングされ
て広く浸透していったのです。
 当然テレサ・テンの歌もまるで水が乾いた土地にしみ込むよう
に大陸に伝わっていったのです。そのときとくに親しまれた歌が
既に取り上げた「何日君再来」(ホー・リー・チン・ツァイ・ラ
イ)なのです。
 実は、私がEJのテーマとしてテレサ・テンを取り上げる時点
で、入手できていなかった重要な文献が一冊あるのです。それが
中薗英助氏の『何日君再来物語』(河出書房新社刊/1988年
――既出)だったのです。『何日君再来』の話から書き出そうと
決めていたのに肝心の本が入手できていなかったのです。
 しかし、その本は現在私の手元にあります。先週末に日本橋図
書館から借りることができたのです。現在読んでいますが、その
中に実に興味あることが書いてあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  チョウ・シュアンのテープを手に入れるまでの間、いちばん
 聴いたのは、やはりテレサ・テンだろう。或る日、テレサ・テ
 ンが一風変わったうたい方をしているのに気がついた。
  最初に気がついたのは家人である。書斎に入ってきて、彼女
 は「何日君再来」に耳を傾けながら、まことに妙な顔をした。
 「ホーリイチュンツァイライというところをこの人はツァイラ
 イライ」と、ていねいにライを重ねるのね」(中略)
  「そうかね?」
  首をひねっているうちに、二番の歌詞のホーリイチュンツァ
 イライになったとき、たしかに再来を再来来と重ねてうたって
 いる。
  ――中薗英助著、『何日君再来物語』より 河出書房新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読んで私は早速いくつかあるテレサ・テンのCDで「何
日君再来」を聴いてみたのです。その中でトーラスレコードから
出ている中国語の「何日君再来」の2番では、確かに「ツァイラ
イライ」とうたっているように聞こえます。しかし、他のCDで
はそうは聞こえないのです。
 おそらくテレサ・テンが意識的に「ツァイライライ」と歌った
録音テープがあることは確かであると思います。「再来」と「再
来来」は大きく違います。「再来」は単に「いつ帰ってくるの」
という問いかけであるのに対して、「再来来」は「君よ、帰って
きて欲しい」という強い熱意が入るからです。
 「何日君再来」をはじめとするテレサ・テンの歌が大陸で流行
しているのを知った時の台湾政府はテレサ・テンの写真とカセッ
トテープ、さらには化粧品や石鹸などを風船に付けて、気流に乗
せて金門島から大陸に向けて飛ばしたのです。金門島と大陸は約
1.6〜1.8キロという近さなのです。
 こういう一種の思想工作を通じて台湾政府は、「テレサ・テン
は政治的に使える」と考えたのです。ときの台湾の首相であるス
ウンユインシュエンは、テレサ・テンの帰国工作を部下に命じた
のです。台湾政府から見れば、テレサ・テンは偽造旅券で問題を
起こした問題人物です。その問題人物であるテレサ・テンに膝を
屈して台湾に帰国させる――国のためならそこまでやるという国
家プロジェクトがはじまったのです。
 国民党の文化工作委員会は中国テレビに依頼してテレサ・テン
と話をしてもらう工作をすると同時に、台湾にいるテレサ・テン
の父親を通じて、テレサ・テンに国家としていつくかの条件を提
示したのです。
 しかし、テレサ・テンは最初のうちは警戒してなかなか帰国し
ようとはしなかったのです。偽造旅券事件のさい、台湾のマスコ
ミが彼女のことを理解せず、「裏切り者」と書いたことに強く反
発していたからです。
 この時期テレサ・テンは、ニューヨークのリンカーンセンター
やロサンゼルスのミュージックセンター、カナダのトロントなど
でもコンサートを開いており、米国でも人気が上りつつあったの
です。テレサ・テンにとっては米国での生活は充実感のある快適
なものだったのです。
 そのとき、中国テレビからテレサ・テンに対してある話がきた
のです。テレサ・テンのロスでの生活を台湾で紹介したいという
ものだったのです。これは国民党の文化工作委員会が中国テレビ
に依頼したことを受けてのものだったのですが、テレサ・テンは
これを受け入れています。収録のためロスにやってきたテレビの
プロデューサーは「心配はいらない」と彼女に伝えています。
 さらに、国民党の文化工作委員会の主任の地位にあった周応龍
がわざわざロスまで足を運び、テレサ・テンと話し合い、帰国の
条件を直接本人に伝えています。・・・[テレサ・テン/08]


≪画像および関連情報≫
 ・中薗英助著『何日君再来物語/いつのひきみかえる』

中薗英助氏の本.jpg
中薗 英助氏の本
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2010年05月11日

●昼は『老テン』、夜は『小テン』(EJ第1614号)

 文化工作委員会の文化・宣伝担当の最高責任者である周応龍は
ロスに住むテレサ・テンを尋ねて、テレサ・テンと彼女の弟と一
緒に食事をしています。そのときにテレサ・テンの帰国の条件を
提案しています。
 その提案の内容は、偽造旅券事件のことは不問にする代わりに
次の2つのことをやってもらいたいということだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.愛国基金コンサートに出演
      2.軍の慰問コンサートを実施
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはこの提案を受け入れるのです。そして、帰国後
愛国基金コンサートに出演することを約束するのです。1980
年9月20日にテレサ・テンは、1年7ヶ月に及ぶ米国生活に終
止符を打って、米国を出発して日本に向かいます。固い決意を胸
に秘めて一歩を踏み出したのです。
 21日に日本に到着し、記者会見を開いて偽造旅券の件につい
て謝罪します。それから、9日間、テレサ・テンは日本での宣伝
のための仕事をして、台湾に戻ったのです。そして約束通り10
月10日、台北国父記念館での愛国基金コンサートに出演するの
です。そのとき集まった観客は実に3000人――台湾市民は熱
狂的にテレサ・テンを迎えたのです。
 それ以来、テレサ・テンは、精力的に軍への慰問コンサートを
行っています。それは国との約束でやむを得ずやっているという
ものではなく、自ら積極的に軍への慰問を続けたのです。兵士の
いるところ必ずテレサ・テンは出かけており、軍人からは「軍人
の永遠の恋人」といわれるようになります。
 軍はテレサ・テンが芸能人であることを考慮して謝礼を払おう
としたのですが、彼女は絶対に受け取らなかったといいます。そ
れに加えて、軍服を着て銃を持つテレサ・テンの姿、戦闘機に乗
る姿、掛け声をかけて軍人と一緒に走る姿がテレビ映像として流
され、いつしか台湾市民はテレサ・テンのことを「愛国芸人」と
呼ぶようになっていったのです。
 金門島の大陸に一番接近した場所にラジオ局があります。今で
は展望台などがあって観光地になっていますが、当時は軍人以外
は立ち入ることはできなかったのです。台湾政府はこのラジオ局
を利用して対大陸工作をやっていたのです。
 1981年12月にテレサ・テンは慰問コンサートのために、
このラジオ局にやってきています。金門島は十二の島に分かれて
いて、当時は20万人の兵士が駐留していたのです。テレサ・テ
ンはそういう兵士に対して「皆さん、お元気ですか。テレサ・テ
ンです」と呼びかけて、「何日君再来」を歌っています。
 これは、単に台湾の兵士に呼びかけるだけではなく、大陸にも
呼びかけているのです。1982年に中国の空軍中尉が飛行機で
台湾に亡命していますが、彼はその動機のひとつとして、テレサ
・テンのそういう放送を聴いて「テレサ・テンに会いたかった」
と述べているのです。
 テレサ・テンを使った台湾政府の宣伝作戦に対して中国政府は
警戒を強めます。テン・シャオピン(トウ小平)は、1983年
10月に講話を行い、精神汚染に反対するキャンペーンをはじめ
るのです。いわゆる資本主義文化の中にあるわれわれにとって有
害なるものを精神汚染として排斥することを明言したのです。
 1983年12月20日付の中国共産党の機関紙『解放日報』
のコラムでは「軽音楽および精神汚染の一掃について」と題して
次のように表現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  歌うのに適当でない歌を歌ったり、ときに香港や台湾の歌手
 の退廃的な調子を真似てみたり、またときには芸術ではない、
 いかがわしい曲調の嵐を受けることで、社会主義音楽界の軽音
 楽を資本主義社会における酒場音楽のようなものへと変化させ
 た。――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テン・シャオピンのはじめた「精神汚染キャンペーン」によっ
て、テレサ・テンの歌は北京では全面的に禁止され、テレサ・テ
ンのテープを持っているだけでも給与を減らされたり、財産の三
分の一を没収されることになったのです。
 しかし、いかにテン・シャオピンでもテレサ・テンの歌を根絶
やしにはできなかったのです。なぜなら、その時点でテレサ・テ
ンの歌声を収めたテープは大陸全土に2億個も出回っており、と
うてい根絶できるものではなかったのです。いくら禁止されても
テレサ・テンのテープをひそかに持ち続け、こっそりと口ずさむ
者が後を絶たなかったのです。
 「精神汚染批判キャンペーン」によって一時は鳴りをひそめた
テレサ・テンの歌声だったのですが、時間の経過とともに緩和さ
れていったのです。そして1984年になると、その行き過ぎを
懸念するテン・シャオピンによって幕が引かれたのです。
 この頃から中国社会で囁かれ出した次の言葉があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「小テン」の人気は「老テン」を圧倒する
 中国は昼は「老テン」が支配し、夜は「小テン」が支配する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもないことですが、「小テン」とはテレサ・テンのこ
とであり、「老テン」とはテン・シャオピン(トウ小平)を意味
ているのです。恐るべし、テレサ・テンの歌の力です。
 このようにテレサ・テンは、台湾や中国をはじめとする東アジ
アでは文字通りの超スーパースターだったのですが、日本におい
ては『空港』でレコード大賞を1回とったに過ぎない新人歌手で
あったに過ぎないのです。こういう点がテレサ・テンという歌手
について東アジアと日本では大きなギャップがあったといえると
思います。テレサ・テンが日本でブームになるのは、このあとの
話なのです。         ・・・[テレサ・テン/09]


≪画像および関連情報≫
 ・写真左「軍服姿で銃を持つテレサ・テン」
  写真右「金門島のラジオ局でのテレサ・テン」

軍の慰問をするテレサ・テン.jpg
軍の慰問をするテレサ・テン
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2010年05月12日

●大歌手と一演歌歌手の落差(EJ第1615号)

 テレサ・テンの軍への積極的な協力によって、台湾政府におけ
るテレサ・テンの評価は大きく上昇したのです。これによって、
出国に関しても国が便宜を図ってくれるので、海外公演もスムー
スにやれるようになったといいます。
 1983年2月には、米国のラスベガスのシーザースパレスで
デビュー15周年を記念するワンマンショーが開かれています。
ちょうどそのとき、この会場では、3月にフランク・シナトラや
トム・ジョーンズの公演も予定されていたのです。
 ショーは午後8時から行われたのですが、通常なら500人程
度の観客が1000人以上も押しかけたため会場は大混乱になっ
たといいます。観客の80%は中国系の人たちであり、歌は聴い
ているものの実物を見たいという華僑で満席になったのです。
 あまりの盛況ぶりにシーザースパレスの社長やラスベガス市長
が見送りにきて、市の記念品を贈呈するという一幕もあり、翌日
の地元メディアはテレサ・テンを「チャイニーズスター」として
称え、大きく報道したのです。
 その年の12月には香港コロシアムでも15周年記念コンサー
トが開催されています。当日のチケットは2日間で売り切れると
いう盛況ぶりで、4回の予定だった公演を6回に増やし、約10
万人の人が集まったといわれます。もちろん香港の観客だけでな
く、大陸からはるばるやってきたお客が全体の30%を占めたと
いうのです。このときのショーは香港のコンサート記録をすべて
塗り替える記録的なコンサートになったのです。
 ここで留意するべきは、これほどの大歌手であったテレサ・テ
ンを当時の日本人は、ほとんど知らなかったという事実です。日
本ではせいぜい『空港』でヒットした一演歌歌手に過ぎなかった
からです。同じアジアの国のひとつである日本では、アジアの歌
手や映画スターについての知識はほとんどないのです。
 逆に日本以外のアジアの国では日本の歌手や映画スターはよく
知られていたにもかかわらずです。最近でこそ韓流ブームで韓国
のスターの情報が入ってきていますが、基本的に日本人はアジア
の国々には関心がないようにみえます。日本人がテレサ・テンと
いう大歌手の存在を意識したとき、単なる演歌歌手の新人としか
とらえられなかったということは、ある意味において現在の日本
とアジアの国々との関係を象徴しているといえます。
 テレサ・テンの日本での活動に視点を移すと、1981年にテ
レサ・テンと日本ポリドールとの契約は切れています。2年後に
テレサ・テンは新しく設立されたトーラスレコードに移籍してい
ます。この会社は、テレサ・テンを香港の歌庁で見出した日本ポ
リドールのプロデューサーである舟木稔氏が社長をしている会社
なのです。
 トーラスレコードの最初のアルバムが『旅人』です。このアル
バムは香港ポリドールが制作を引き受けているのですが、このプ
ロジェクトで、テレサ・テンは作曲家の三木たかしと中島みゆき
に会う機会を得たのです。かくして、テレサ・テンの新境地が開
かれていくことになります。
 とくにテレサ・テンにとって、作曲家三木たかしと、作詞家荒
木とよひさとの出会いは運命的であり、その後の数々の日本での
ヒット曲を生み出すきっかけになるのです。
 三木たかしは、テレサ・テンが長期間のプロモーションができ
ない歌手であるという点をふまえて、あくまで有線放送で宣伝す
るという方針を立てたのです。80年代前半は、有線が音楽を聴
くうえでの身近な存在だったからです。
 当時、ポールモーリアの演奏が大ヒットしており、OLや女子
大生が好んで聴いていたということを参考にして、三木は何度聴
いても飽きがこないBGMのような曲を作ろうと考えて、作曲し
たのです。三木たかしは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  テレサの曲を書くに当っては、有線でよく聴かれるよう、耳
 に心地よい旋律を意識した。個性的な曲はとっつきやすいが、
 すぐに飽きる。たとえ最初の印象は薄くても、何度聴いても飽
 きない曲を目指した。もし、今のようにカラオケが一般的だっ
 たら、受けなかったかもしれない。その意味では、(テレサ・
 テンは)有線が力を持っていた最後の時代の人だと思う。
          ――2005.5.20付、読売新聞夕刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにして三木が作曲した曲に荒木とよひさは詞を書いて
「波止場にて」というタイトルをつけたのです。 しかし、この
曲は採用にならなかったので、その代わりに書いたのが「つぐな
い」だったのです。
 荒木とよひさによると、この曲は東北の港町に暮らすスナック
のママを描いたものだったのですが、プロデューサーの要望で都
会をイメージとしたものに書き換えられたのです。
 1984年1月21日に「つぐない」は発売されたのですが、
出足は最悪で、5週間でわずか50枚しか売れなかったというの
です。しかし、2月25日にテレサ・テンが来日してキャンペー
ンを開始すると、有線に動きが現れます。
 その後、3ヶ月ごとにテレサ・テンは来日し、キャンペーンを
繰り返したことにより、有線での順位はどんどん上がっていった
のです。そして「つぐない」は、100万枚近くを売り上げる大
ヒットになったのです。
 「つぐない」の歌詞は、「窓に西陽があたる部屋は・・」では
じまるのですが、不動産屋に「西陽の当る部屋を借りたい」とい
う注文をする女性が多く出るほど、この曲はヒットしたのです。
 テレサ・テンはこの「つぐない」によって、「日本有線大賞」
と「全日本有線放送グランプリ」を受賞しています。
 「つぐない」は「償還(チャンホウアン)」という名前で中国
語に翻訳されたのですが、テレサ・テンは中国語でこの曲を歌う
ときしばしば涙をこぼしていたといいます。この時期のテレサ・
テンは精神的にとても落ち込んでいたといわれます。
               ・・・[テレサ・テン/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ラスベガスのシーザースパレスとフランク・シナトラと一緒
  に紹介されているショーの看板

ラスベガスにおけるショー.jpg
ラスベガスにおけるショー
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2010年05月13日

●日本での評価が定着したテレサ・テン(EJ第1616号)

 1984年の「つぐない」のヒットのあと、テレサ・テンは、
1985年〜87年にわたって、三木たかし/荒川とよひさのコ
ンビで、150万枚を超える連続ヒットを飛ばすのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「つぐない」/1984年 ・・・・・・・ 150万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「愛人」/1985年 ・・・・・・・・・ 150万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「時の流れに身をまかせ」/1986年 ・ 200万枚
       日本有線大賞/全日本有線放送大賞グランプリ
  「別れの予感」/1987年 ・・・・・・ 150万枚
                 日本有線大賞有線音楽賞
              全日本有線放送大賞グランプリ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どのようにして曲が作られたかに関しては、有田芳生氏の著書
(『私の家は山の向こう』/文藝春秋刊)に詳しいので、EJで
は詳細には述べませんが、「愛人」→「時の流れに身をまかせ」
→「別れの予感」という日本でのヒット曲は、何となくその後の
テレサ・テンの運命を象徴しているように気がします。
 三木たかし(作曲)と荒川とよひさ(作詞)のコンビで曲を作
るときは、先に詞ができるときと、曲が先にできるときがあるそ
うです。「愛人」はタイトルが先に決まり、次に詞ができて、そ
れに三木が曲をつけていますが、「時の流れに身をまかせ」は、
曲が先にできて詞はあとからできたといわれています。
 詞と曲ができたとき、テレサ・テンにはこれはどういう曲であ
るかについてきちんと説明し、中国語で理解させることにしてい
るのです。テレサ・テンが「愛人」の意味を理解したとき、彼女
は、「悪いことをするお姉さんのように思われたくない」といっ
て歌うことに難色を示したそうです。しかし、そこはプロの歌手
――「愛人」を「愛する人」であると自分に納得させて歌い上げ
たといわれます。
 ところでテレサ・テンのNHK紅白歌合戦出場歴は、次のよう
になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1985年/NHK紅白歌合戦初出場
                  「愛人」
     1986年/NHK紅白歌合戦第2回
          「時の流れに身をまかせ」
     1991年/NHK紅白歌合戦第3回
          「時の流れに身をまかせ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、1987年から1990年までの3年間、テレ
サ・テンは日本に来ていないのです。しかし、その間にも日本で
はテレサ・テンの歌声は絶えることはなかったのです。
 1987年には「別れの予感」を発売し、ヒットさせています
し、1988年には「恋人たちの神話」を発売しています。この
曲は、関西テレビ/フジテレビ系の「月曜サスペンスシリーズ/
女性作家サスペンス」のテーマ曲になっており、テレサ・テンの
歌声は絶えることなく日本中に流れていたのです。
 本当は、1989年6月24日に来日し、キャンペーンを行う
ことになっていたのですが、これは1989年4月に起こったい
わゆる「天安門事件」のため、来日は中止になってしまいます。
この事件がテレサ・テンのその後の運命に大きな影を落とすこと
になるのですが、これについては改めて書きます。
 さて、テレサ・テンがNHK紅白歌合戦に初出場した1985
年のことですが、紅白の少し前の12月15日にNHKホールで
テレサ・テンのワンマン(ワン・アンド・オンリー)・コンサー
トが行われているのです。
 有田氏の本によると、当時の歌謡ショーの入場料は全席自由席
で2000円が相場だったのですが、この12月15日のNHK
ホールのコンサートは、S席が5000円、A席は4000円と
いう価格がつけられています。それでも満席になっています。
 考えてみると、このコンサートがテレサ・テンの日本における
最初にして最後の大きなコンサートになってしまったのです。テ
レサ・テンをタイトルとするシリーズの第1回目に当る6月6日
のEJ第1606号でもご紹介したように、このときのライブ・
コンサートはLDで発売されています。
 このLD盤に収められているテレサ・テンの歌はある意味で大
変貴重であるといえます。テレサ・テンは登場すると「空港」を
歌い、そのあと次のように客席に語りかけています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  皆さん、こんばんは。ようこそいらっしゃいました。はい。
 あの、本当に懐かしいっていうか、9年ぶりのコンサートね。
 この素晴らしいNHKホールで開くこと、とってもうれしいで
 す。 ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』/文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このLDには、例の「何日君再来」が中国語で歌われているこ
とや「つぐない」「愛人」はもちろんのこと、「浪花節だよ人生
は」や「北国の春」まで歌い、「ザ・パワー・オブ・ザ・ラブ」
を英語で歌っているなど、貴重な歌がたくさん収録されているの
です。とくにこの「ザ・パワー・オブ・ザ・ラブ」の歌唱を聴く
と、テレサ・テンが単なる演歌歌手ではない、世界的な歌手であ
ることすら感じさせます。
 アンコールの拍手が続く中で、なぜか純白のウェディングドレ
ス姿で登場したテレサ・テンは、日本ポリドールで出した最後の
曲、「ジェルソミーナの歩いた道」を歌っています。そして「あ
の、最後のこの花嫁さんの、着たかったんですね。ずっとチャン
スがなくて・・・。今回やっと花嫁の雰囲気ありましたけど。あ
と相手ですよね」――テレサ・テンはこのように意味深な挨拶を
客席に向ってしているのです。 ・・・[テレサ・テン/11]


≪画像および関連情報≫
 ・1985年12月15日/NHKホールでのコンサート
  でテレサ・テンが歌った24曲

  1.空港 13.夜來香
  2.アカシアの夢 14.I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU
  3.ふるさとはどこですか 15.つぐない
  4.女の生きがい 16.乱されて
  5.雪化粧 17.ミッドナイト・レクイエム
6.夜のフェリーボート 18.愛人
  7.舟歌 19.ノスタルジア
  8.海韻 20.今でも…
  9.何日君再来 21.ジェルソミーナの歩いた道
 10.釜山港へ帰れ 22.漫歩人生路
 11.浪花節だよ人生は 23.東山飄雨西山晴
 12.北国の春 24.リクエストコーナー

1985/NHKホールコンサート.jpg
1985/NHKホールコンサート
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2010年05月14日

●テレサ・テンはなぜ香港で成功したか(EJ第1617号)

 現在でも多くの日本人にとってテレサ・テンは、台湾出身の一
演歌歌手に過ぎない存在であると思います。テレサ・テンをEJ
で取り上げて12回目ですが、ここまでの記述では、台湾や中国
にとってテレサ・テンという歌姫がどのように重要な存在である
か、なぜ彼女が、台湾と中国の政治の奔流に巻き込まれたのかに
ついては、まだ明確には理解できないと思います。
 これを理解するには、テレサ・テンと香港との関係について知
る必要があります。テレサ・テンが香港に進出するのは、シンガ
ポール、マレーシア、タイ、ベトナムなどの華僑社会でのキャン
ペーンで大成功を収めてからのことです。
 1930年代以前の中国歌謡――とくに女性歌手は「毛毛雨」
(マオ・マオ・ユー―雨の日に鳴く猫の声)といって、独特の裏
声発声法を使っていたのです。ところが1930年代になると香
港における歌謡曲が一変するのです。西洋的なメロディが中心と
なって編曲もきちんと行われるようになり、「毛毛雨」は影をひ
そめるようになっていったのです。
 こういう時期に活躍した歌手としては、「何日君再来」のチョ
ウ・シュアン、パイ・コン、ヤオ・リー、リー・シャンラン(李
香蘭)が上げられます。
 そして1940年代になると、ジャズやクラシック、ダンスナ
ンバーの要素を取り入れた意欲的な中国語歌謡曲が作られ、流行
していくようになっていきます。
 1945年に中華人民共和国が成立すると、自由を愛する芸術
家たちは一斉に香港に逃げ出すのです。その結果、1960年代
までの香港では、中国語歌謡曲はラテンやポップスなどの新しい
音楽を取り入れて一段と西欧化が進み、いわゆる「上海歌謡」と
して定着していきます。
 1960年代になると、ビートルズ旋風が吹き荒れます。これ
が香港歌謡界に大きな影響を与えて、若者たちは、自由に音楽を
作って、それを自己表現の手段とするようになります。そして、
1970年代になって、香港歌謡界に台湾からテレサ・テンが登
場するのです。
 西欧化された上海歌謡に慣れていた香港人にとって、テレサ・
テンの歌う北京語の歌はとても新鮮に響いたのです。香港電台の
中国語番組制作部長は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼女が北京語で歌う曲なら、民謡調の歌謡曲から欧米ポップス
 のカヴァーバージョンまで、何でも人気がありました。あの独
 特の情感に訴える歌い方やベビーフェイスの可愛らしさが、香
 港でもすぐ評判になったのです。
 ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 唱文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつその当時、香港大学の学生バンド「ザ・ロータス」
のリーダーであるサミュエル・ホイが作詞・作曲する広東語ポッ
プスが大流行していたのです。
 サミュエル・ホイの軽快な広東語ポップスと愛らしいテレサ・
テンの北京語歌謡――それらは、それまで欧米ポップスにしか関
心を示さなかった香港の若者たちに中国語歌謡曲に関心を向けさ
せる力となったといえます。
 それに加えて、テレサ・テンの人気に拍車をかけたのは、19
70年代後半から1980年代にかけての香港での日本ブームな
のです。日本資本のデパートが大挙して香港に進出し、日本式ラ
イフスタイルがもてはやされた時代なのです。それに、オフコー
ス、キャンディーズ、近藤真彦、田原俊彦などなど、日本語ポッ
プスが大流行していたのです。そこに日本で成功したテレサ・テ
ンの歌が入っていったのです。
 6月17日のEJ第1615号で触れた香港でのテレサ・テン
/十五周年記念コンサートでのことです。第3部に登場したテレ
サ・テンは中国の歌の合間に、広東語、潮州語、台湾語、福建語
を使い分けて、香港、シンガポール、台湾、インドネシア、タイ
アメリカ、カナダ、オーストラリアなど、世界各国からわざわざ
やってきた華人ファンに挨拶したあと、ひときわ声を張り上げて
北京語で次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ・・・それでは大陸から来てくださったお客さま!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき、かなりの数のお客が立ち上がって、手が熱狂的に振
られたのです。既に述べたように、当時大陸では、精神汚染一掃
キャンペーンで、テレサ・テンの歌は禁止処分になっていたにも
かかわらず、延べの全観客7万人の20%にわたる1万人以上の
人がテレサ・テンのコンサートのために香港に来ていたのです。
続いてテレサ・テンは観客に次のように呼びかけます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       同胞の皆さんに盛大な拍手を!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうすると会場からは地鳴りのような拍手と大歓声が巻き起こ
り、香港コロシアムのドームを揺らしたのです。そして、ラスト
ナンバーは、あの「何日君再来」だったのです。そのとき実際に
会場にいたという平野久美子さんの本では次のように書かれてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラストナンバーはやはり「何日君再来」だった。会場を埋めた
 観客は総立ち状態。あまりに歓声が大きくてテレサ・テンの歌
 はほとんど聞こえない。フルバンドの演奏だけが耳に残った。
 歌い終わった彼女は何回も何回も「謝謝」をくりかえし、バッ
 クステージに消えていった。        ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「私はどこにいてもチャイニーズです」――いつもテレサ・テ
ンはくりかえしていたのです。テレサ・テンのこの人気の凄さに
中国政府、台湾政府が関心を持たないはずはないのです。
               ・・・[テレサ・テン/12]


≪画像および関連情報≫
 ・平野久美子著
『華人歌星伝説/テレサ・テンが見た夢』
  晶文社刊

平野久美子氏の本.jpg
平野 久美子氏の本
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2010年05月17日

●政治的に利用されるテレサ・テン(EJ第1618号)

 ここで、テン・シャオピン(トウ小平)が実施した4つのキャ
ンペーンについて述べておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.「五講四美」キャンペーン    ・・・ 1981年
 2.「三熱愛」キャンペーン     ・・・ 1983年
 3.「精神汚染一掃」キャンペーン  ・・・ 1983年
 4.「雷峰同志に学べ」キャンペーン ・・・ 1987年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「五講四美」というのは次の意味があります。参考までに上げ
ておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       I−礼儀       I− 心 の美
       I 道徳       I  行為の美
    五講−I 文明    四美−I
       I 衛生       I  言葉の美
       I−秩序       I− 環境の美
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「三熱愛」とは、次のことを意味しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.祖  国への愛
        2.社会主義への愛
        3.共産主義への愛
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「精神汚染一掃」キャンペーンと「雷峰同志に学べ」キャンペ
ーンには、次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「精神汚染一掃」 キャンペーン
  ・革命精神を堕落させるものを追放するキャンペーン
 「雷峰同志に学べ」キャンペーン
  ・毛沢東思想を体現した人民解放軍兵士を見習う運動
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらのキャンペーンは、民主化を求める人々の望みを何とか
押さえ込もうとするテン・シャオピン率いる共産党政府の戦略な
のです。テレサ・テンの歌は「黄色歌曲」(ホワンスーグーチュ
ウ)として、禁止されることになったことは既に述べました。
 余談ですが、「黄色歌曲」という言葉について面白い話がある
のです。「黄色歌曲」とは「エロチックな歌」という意味なので
すが、「黄色」ということばにはそういう意味はないのです。
中国には、「黄河」「黄帝」「黄塵」など、「黄」の付く字が
いろいろありますが、いずれも「エロチック」という意味には結
びつかないのです。これについて平野久美子氏は英語の「イエロ
ー」と「エロ」とを結びつけたのではないかといっています。
 しかし、1986年、フー・ヤオパン総書記はテレサ・テンの
名誉回復を発表しています。これによって「何日君再来」の歌も
売国歌から愛国歌へと評価が180度変わることになるのです。
 実はテレサ・テンを解禁しようとする大陸の動きは、1985
年に入るとはっきりとした動きをとるようになっていたのです。
その最初の動きは台北の中華体育館で行われた十五周年記念コン
サートの映像が大陸でテレビ放映されたことです。
 それからもうひとつ、1985年2月1日に『中国青年報』に
掲載されたテレサ・テンの肉声のインタビュー記事です。『中国
青年報』というのは、中国共産主義青年団中央委員会の全国機関
紙です。インタピューをやったのは、関鍵(グワン・ジエン)と
いう記者です。
 このインタビューは、1985年1月30日、午前0時12分
から53分間にわたって電話で行われています。そのとき、テレ
サ・テンは、シンガポールにある自宅にいたのです。
 実はそれに先立って、共産主義青年団北京市委員会の機関紙で
ある『北京青年報』に次の記事が掲載されていたのです。85年
1月20日のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「故郷は黄河古道のほとり――テレサ・テン故郷訪問記」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、河北省大名県にはテレサ・テンの父が生まれ育った家
屋が残っており、『北京青年報』の記者がテレサ・テンの2人の
叔母に会ってまとめた記事なのですが、テレサ・テンはそれを読
んでいたのです。
 ところで1月29日はテレサ・テンの誕生日であり、関鍵記者
はその日を狙って北京からシンガポールのテレサ・テンの自宅に
電話をかけているのです。
 『中国青年報』の記事の中で、彼女は大陸について次のように
語っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中国を立派に建設することは、海外に住む華僑と海峡を挟んで
 両岸に住む中国人の共通の願いです。海外に住む中国人はみな
 内地の建設に大きな関心を持っています。どの国にいようとも
 中国に関する話題はいつも熱いのですよ。わたしは香港で見た
 報道で、内地ではいま現代化と<文明礼貌>(社会マナーの向
 上)、それに国家建設を提唱していると聞きましたが、本当に
 素晴らしいですね。           ――テレサ・テン
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記事は大きな波紋を広げます。新華社と肩を並べる中新社
(中国新聞社)は「テレサ・テン/シンガポールで北京と国際電
話」と題する記事を掲載したほか、100社を超える新聞がこれ
をニュースとして報道したのです。
 困惑したのは台湾の政治家やメディアなのです。そして、この
事態になって、テレサ・テンははじめて自分が政治的に利用され
ていることに気が付いたのです。そして、この件に関しては、そ
の後、一切語ることはなかったといわれます。
               ・・・[テレサ・テン/13]

≪画像および関連情報≫
 ・中新社は、紙上で関鍵記者が紙面の都合でカットしたテレサ
  ・テンの次のコメントを掲載しています。テレサ・テンは政
   治的に利用されたのです。
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   こんなに多くのファンの青年たちがいらっしゃるというこ
   とに大変感激しています。機会があれば大陸に行きたいし
   青年たちのためのコンサートもやりたい。私の願いです。
                     ――テレサ・テン
    有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

テン・シャオピン.jpg
テン・シャオピン
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2010年05月18日

●テレサ・テンと関鍵記者の関係(EJ第1619号)

 関鍵記者――『北京青年報』に所属――によるテレサ・テンと
のインタビュー記事(『中国青年報』に掲載)は、大変な騒ぎに
発展したのです。
 これに台湾政府や台湾メディアが否定的報道をしたことにより
テレサ・テンの口は重くなったのです。台湾に住む家族のことを
心配したからです。台湾の『中国時報』は、次のように報じてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     テレサ・テン北京と通話?あまりに違う!
     誤報であり、中京の統一戦略である
――『中国時報』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 台湾のメディアからテレサ・テンに問い合わせが殺到したので
すが、テレサ・テンはほとんど答えていないのです。東京で大陸
の記者と接触したことがあるが、その会談をもとに書いた「創作
記事」である――テレサ・テンはこう言明したのです。
 関鍵記者が北京からシンガポールのテレサ・テンの自宅に電話
を入れてインタビューをしたのは事実ですが、それを認めてしま
うと、テレサ・テンが大陸とつながっていると疑われる恐れがあ
ったのです。このため、関鍵記者に関しては憶測でさまざまな間
違った情報が飛びかってしまうことになります。
 テレサ・テンの死後、「テレサ・テンは諜報員だった」ことを
主張する次の本は、関鍵記者について次のように記述しているの
です。テレサ・テンが本当に諜報員だったかどうかに影響する重
要な記事であるので引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その年(85年)のうちに関鍵記者は日本に渡ることになる。
 留学が目的だった。東京の拓殖大学に在学しながら、中国大使
 館の財政的バックアップを受けた新聞「新大陸」の編集に参加
 する。関鍵記者の日本での身元引受人はある日本人がなった。
 ところがこの日本人というのは元台湾出身。日本に帰化した人
 物で、実は台湾の諜報部員だった。(一部略)この台湾出身の
 諜報部員を関鍵記者に紹介して引き合わせたのがテレサ・テン
 だったのである。(一部略)
 ―――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
    徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらにこの本の著者は、関鍵記者が1989年に中国の公安警
察に逮捕されていることを伝えています。
 有田芳生氏によると、同書による関鍵記者の話はほとんどが虚
偽であるとして次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「スパイ説」を広めた『テレサ・テンの真実』は関鍵記者にも
 触れ、いくつもの虚偽を記述している。たとえば、この身元引
 受人が「日本に帰化した人物で実は台湾の情報部員で」「この
 台湾出身の情報部員を関鍵記者に紹介して引き合わせたのがテ
 レサ・テンだった」と断定している。これまた、まったくのデ
 マである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、関鍵記者はテレサ・テンが台湾と大陸のかけ橋になる
と考えてテレサ・テンの大陸でのコンサートの実現に向けて、精
力的に動き出すのです。
 そのひとつのキッカケは、1985年1月20日に『北京青年
報』に掲載された「故郷は黄河古道のほとり――テレサ・テン故
郷訪問記」(既出)からはじまったのです。
 このとき『北京青年報』の記者は、テレサ・テンの2人の叔母
に会っているのですが、そのとき叔母の一人からテレサ・テンに
喘息を患っているので、喘息の治療薬を送ってくれるよう伝えて
欲しいと頼まれているのです。
 テレサ・テンはその記事を読んで、1985年2月中旬に4本
の喘息治療薬を香港に住む知人を通して関鍵記者に宛てて送って
います。その香港に住む知人とは、陸文藻(ルーウエンツァオ)
といって、もともとテレサ・テンのファンの一人です。
 陸文藻から手紙と喘息の治療薬を受け取った関鍵記者は、指導
部の許可を受けて、それを叔母に届けています。それが縁になっ
て、関鍵記者は陸文藻を通じて、テレサ・テンの大陸コンサート
の実現の交渉を進めるのです。
 テレサ・テンが大陸でのコンサートを強く望んでいたことは事
実であり、テレサ・テンはコンサート実現のさいの条件を次のよ
うに示したといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 チケット収入と外国テレビ局からの放送収入を次の割合で全額
 寄付する

 大陸の文化芸術基金会/身体障害者支援福祉基金  50%
 台湾の文化芸術基金会 ・・・・・・・・・・・  30%
 香港の文化芸術基金会 ・・・・・・・・・・・  20%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 関鍵記者は、テレサ・テンを大陸に招聘してコンサートを開く
ことによって、台湾統一政策のシンボルとして位置づけるよう上
層部に提案して許可をとったといわれているのです。関鍵記者は
次のように書いています。完全にテレサ・テンを政治利用しよう
としているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしは、テレサ・テンは祖国を熱烈に愛し、統一を渇望し、
 また長期的視野を持った大胆かつ思慮に富んだ、理想を抱く傑
 出した若者だと深く感じました。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               ・・・[テレサ・テン/14]


≪画像および関連情報≫
 ・『中国青年報』に掲載された関鍵記者の記事
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
    徳間書店刊

関鍵記者の記事.jpg
関鍵記者の記事
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2010年05月19日

●テレサ・テン スパイ説の真偽(EJ第1620号)

 昨日ご紹介した『テレサ・テンの真実』という本――テレサ・
テンの死後、彼女は台湾の諜報部員であったと断定している本に
ついて有田芳生氏は、関鍵記者について虚偽の記述が多いとして
いますが、次の3点については間違っていないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.関鍵記者は来日し、拓殖大学に在学している
   2.雑誌「新大陸」の編集に参加し、原稿を投稿
   3.1989年に中国公安警察に逮捕されている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この本ではこれら3つの事実とテレサ・テンの諜報部
員説とを意図的にからみあわせて記述している――そういうこと
が有田氏の本からわかります。そういう意味において有田氏の本
の記述は正確であり、詳細をきわめています。
 関鍵記者は、偶然にテレサ・テンと電話対談が実現したことを
チャンスとしてとらえ、それを出世の足がかりにしようとしたの
です。関鍵記者は、1985年7月から86年にかけて、テレサ
・テンに関する多くのレポートを書き、中国共産党北京市委員会
や同党統一戦線工作部、文化部、共産党中央書記処、国家安全部
の指導者に送り続けています。
 関鍵記者の努力は実りつつあったのです。中国共産党としても
テレサ・テンを大陸に招聘してコンサートを開くことは、台湾と
の統一戦略になると判断し、中国共産党中央宣伝部の指導下にあ
る国務院の文化部と党の統一戦線工作部が中心になって、テレサ
・テンを大陸に招く準備をすることが決まったからです。
 しかし、テレサ・テン側はコンサートに政治的な色をつけたく
ないとして、民間の文化芸術団体――全国青年同盟や中国国際文
化交流センターなどの後援を受ける案を提案したのです。こうい
う折衝は、テレサ・テンの意向を踏まえながら、陸文藻が関鍵記
者をはじめとする複数の人物と折衝を重ね、進められていったの
です。中国共産党の意向もテレサ招聘には前向きであり、この問
題にはかなり柔軟に対応したので、話は順調に進み、次の計画が
まとめられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.北京では5ステージ
         2.上海では3ステージ
         3.最長滞在期間1ヶ月
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうなると、テレサ・テンの大陸招聘は国家レベルの話になっ
ているのです。その頃テレサ・テンは日本では、「愛人」で紅白
歌合戦に出場し、シングル「時の流れに身をまかせ」を発売して
ヒット中ではありましたが、日本人の多くはテレサ・テンがそん
な大歌手であると誰が考えていなかったと思います。
 しかし、問題は台湾政府の意向だったのです。テレサ・テンは
それとなく政府関係者に打診を行っています。表面的にはあまり
色よい返事は得られなかったのですが、あえて黙認するというム
ードは広がりつつあったといえます。
 テレサ・テンの構想は、北京の中心である天安門で100万人
を集めてコンサートを行いたい――こういう壮大なものだったの
です。そしてそれはその時点では決して不可能なことではなく、
十分実現の可能性があったといえます。しかし、それは予想もつ
かないあの天安門事件の発生によって無残にも潰えることになっ
てしまうのです。
 ここでもう一度関鍵記者の話に戻ります。
 1986年頃から関鍵記者は日本に留学したいと考えるように
なっていったのです。日本に行けば、テレサ・テンと会える機会
も生まれるし、学歴も得られると考えたからです。
 しかし、自費で日本に留学するには身元引受人が必要になるの
ですが、日本人新聞記者の紹介で身元引受人もできたので、87
年に日本にやってきます。そして、東京ランゲージ・スクール新
宿本校に入学するのです。そして、家族も呼び寄せて、日本で暮
らしはじめるのです。
 関鍵は1988年10月から雑誌『新大陸』の編集に参加する
ようになります。この雑誌は、日本地区の中国留学生学友会が創
刊しており、中国の宣伝をするということで、中国大使館から資
金援助を受けていたのです。
 1989年6月、天安門事件が起こります。このとき関鍵は学
生を支援する過激なビラを作成して配付し、次第に反政府運動に
没頭するようになるのです。これを受けて、中国の公安当局は日
本の留学生の動きを探りはじめるのです。
 その後、関鍵は日本で暮らす資金を稼ぐため、かなり危ない仕
事に手を染めるのです。それは、香港の雑誌に北京政府の内幕に
関する記事を投稿することによって、生活費を得るようになって
いったのです。
 そして、そのネタを入手するためたびたび北京に行き、『人民
日報』の大衆工作部で働いていた妹の手を借りて機密資料を持ち
出したのです。
 これがひそかに関鍵をマークして内偵を進めていた中国の公安
警察の知るところとなり、1991年9月16日夜、関鍵は身柄
を拘束されてしまいます。同時に関鍵の妹も逮捕されています。
逮捕容疑は、「国外の人間のため不法に国家機密を提供した罪」
と「スパイ罪」です。
 そして、裁判の結果、懲役20年、政治権利剥奪5年の刑が確
定して収監されるのです。有名な新聞記者であった関鍵の逮捕は
国内でさまざまな憶測を呼び、日本のスパイ説、台湾のスパイ説
の噂が飛び交ったのです。
 もともと関鍵は、テレサ・テンとの電話インタビューで有名に
なった経緯があり、関鍵の話と関連付けてテレサ・テンの名前が
どうしても出てくることになるのです。これがテレサ・テンスパ
イ説のひとつの原因になってくるのです。来週はいよいよ天安門
事件とテレサ・テンの話に入ります。
               ・・・[テレサ・テン/15]

≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンスパイ説を説く本
  宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊

スパイ説の根拠になった本.jpg
スパイ説の根拠になった本
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2010年05月20日

●天安門事件はなぜ起こったのか(EJ第1621号)

 「天安門事件」というと、日本を含む世界各国では1989年
6月4日未明に起こった惨劇――人民の軍隊が素手で抵抗する人
民に銃口を向けたあの血の粛清事件を誰でもイメージします。
 しかし、中国で「天安門事件」というと、1976年4月5日
の事件のことをいうのです。周恩来の死を悼んで天安門広場にお
いて集会が行われ、文化大革命に批判的な抗議行動を起こし、北
京当局と衝突したあの事件のことをいうのです。意識的に198
9年の天安門事件に言及するのを避けているようです。
 EJで取り上げる天安門事件は、いうまでもなく1989年の
事件のことです。現在でもこの事件については、中国、台湾、香
港ではその表現が異なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      大 陸 ・・・・・・・ 天安門風波
      台 湾 ・・・・・ 六・四民運事件
      香 港 ・・・・・ 六・四 大惨殺
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1989年4月15日のことです。改革派の指導者として人気
のあった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記が急逝したのです。
共産党の風紀の乱れを糾弾していた会議の席上、突然心臓発作を
起こして亡くなったのです。
 胡耀邦――この人こそ「精神汚染キャンペーン」の行き過ぎを
戒め、テレサ・テンの名誉回復をした人物なのです。なぜ、「元
総書記」なのかというと、胡耀邦の改革に関しては、これに反対
する党内論争があったのです。胡耀邦はブルジョワ自由化に強い
反対の立場をとらず、学生のデモに関しても比較的寛大な態度を
とっていたのですが、これは「重大な政治原則の誤りである」と
され、テン・シャオピンをはじめとする党長老によって1987
年1月16日に総書記を降ろされたからなのです。
 1985年に時の総理大臣中曽根康弘は靖国神社に参拝してい
ますが、中国の反発を受けて次の年にこれを中止したのは、当時
総書記であった胡耀邦の政治的立場が崩れることを恐れたためと
もいわれています。しかし、1987年に胡耀邦総書記は解任さ
れてしまうのです。
 しかし、胡耀邦の後任の総書記には、やはり改革派の趙紫陽総
書記が就任し、中国は振り子を元に戻すことだけは避けたと世界
は評価していたのです。その矢先の胡耀邦の急死なのです。
 4月18日――数千人の学生が天安門広場に集まり、「胡耀邦
の再評価と名誉回復」や「精神汚染キャンペーンの除去」を求め
てデモは拡大していったのです。学生たちは「死ぬべき人が死な
ず、死ぬべきでない人が死んだ」として、やがて批判は明確にテ
ン・シャオピン(トウ小平)自身に対して向けられたのです。
 22日には天安門広場に2万人集会が行われ、24日には北京
の40の大学で6万人の学生が授業ボイコットを行うという事態
へと発展したのです。
 テン・シャオピンは4月25日に重要講和を行い、「これは単
なる学生運動ではなく動乱であり、断固として制止すべきもので
ある」と訴えているのです。しかし、新聞でこの講話の内容を知
り、「動乱」という言葉に学生たちは反発します。そして27日
には10万人を超えるデモが行われたのです。
 しかし、中国政府としてはこの時点で大きな問題を抱えていた
のです。5月15日にゴルバチョフが訪中することになっていた
からです。30年ぶりの中ソ首脳会談であり、世界中の目が北京
に集まっていたのです。その結果、天安門広場での学生運動は世
界中のメディアが報道するところになったのです。
 結局、ゴルバチョフは5月15日に北京空港に到着し、天安門
広場が学生に占拠されていて使えないので、別の場所で歓迎儀式
が行われたのです。事実上の最高権力者であるテン・シャオピン
としては、はらわたの煮えくり返る思いだったと思われます。
 16日、ゴルバチョフはテン・シャオピン、李鵬と会談したあ
と、趙紫陽総書記との会談を行ったのですが、そのときの総書記
の発言によって学生たちが反発したのです。その発言とは「自分
は総書記であるが、あくまでテン・シャオピン同士が最高指導者
である」というものです。
 趙紫陽が何を狙ってこのような発言をしたのか――その真意は
わかりませんが、「テン・シャオピンが院政をひいている」こと
は、この発言で明確に読み取れると思います。自分はもっと改革
に取り組みたいのだが、そこに大きな壁がある――このように取
れないことはないのです。
 学生たちはこの発言を受けて「老人政治は引退のとき」として
テン・シャオピンに対して引退を迫るビラが撒かれたのです。上
海でも100万人規模のデモが行われ、広州、天津、武州でも北
京に呼応してデモは拡大していったのです。
 5月17日にテン・シャオピンの自宅で政治局常務委員会が開
催されています。その席でテン・シャオピンは戒厳令の布告を主
張するのですが、趙紫陽総書記1人がこれに断固反対を唱えるの
です。しかし、テン・シャオピンは多数決で「戒厳令布告」の宣
言をごり押しします。
 1989年5月19日、戒厳令を正式に布告をするための会議
が開かれたのですが、趙紫陽総書記は病欠とされています。20
日、李鵬首相によって戒厳令実施の国務院命令が発令され、北京
郊外に20万人の軍隊が待機させられたのです。
 そのときテレサ・テンは香港にいたのです。香港では連日天安
門広場での学生たちの活動は大きく報道されていたのです。香港
だけでなく世界の華僑社会でも学生たちを支援する運動を起こそ
うとする動きがうねりのように広がっていったのです。
 香港では「全港各界連合大運動」という組織が設立され、コン
サートの開催を計画していたのです。テレサ・テンのところにも
参加の要請が届いていたのですが、テレサ・テンは参加を断って
います。しかし、それは決して本心ではなかったのです。彼女は
迷いに迷っていたのです。   ・・・[テレサ・テン/16]


≪画像および関連情報≫
 ・1989年5月19日――総書記であった趙紫陽は、民主化
  を求め天安門でハンストを続け、またはそれを支持する学生
  たちの前に現れ、ハンドマイクで涙ながらにこう語りかけた
  といわれます。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「われわれは来るのが遅すぎた」「われわれが若かったころ
  も、デモをやり線路に寝転んだものだ」「しかし、・・多く
  の問題は解決されるだろう。諸君らにハンストの中止をお願
  心からお願いする」             ――趙紫陽
―――――――――――――――――――――――――――

胡耀邦と趙紫陽.jpg
胡耀邦と趙紫陽
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2010年05月21日

●テレサ・テンはなぜ決断したのか(EJ第1622号)

 香港島の最南端に海を望む高級住宅街があります。街の名前は
スタンレー――1987年、テレサ・テンはそこに二階建ての住
居を購入し、住むようになります。この住居は付近の住民からは
「紫の館」と呼ばれていたのです。(添付写真参照)
 スタンレーの中国語名は「赤柱」で、実は「泥棒の隠れ家」を
意味するのです。英国の植民地大臣のスタンレー侯爵にちなみ、
1845年にスタンレーと改名されましたが、中国人の多くは今
でも古い名前の「赤柱」と呼んでいます。
 中国人は住宅を購入するとき「龍が住めるかどうか」という奇
妙なことを必ず考えるといわれます。中国では皇帝から庶民まで
龍は「運を呼ぶ縁起の良い動物」として、とても尊重されている
からです。
 香港に住むとしたらどこを選ぶかということになると、それは
英国人の住んでいたところということになります。彼らは一番良
いところに住んでいたに決まっているからです。そこは、浅水湾
(レパルス・ベイ)――高級ビーチリゾートで、映画『慕情』の
舞台となったところです。(添付写真参照)
 テレサ・テンも浅水湾を最初は考えたのですが、「浅水湾では
龍が住めない」という理由でやめています。彼女は自分の生年月
日が旧暦では「辰年」に当るので、とくに龍にこだわっていたの
です。これが住居をスタンリーに決めた理由です。
 さて、香港の作曲家に鐘肇峯(ツオンツアーフオン)という人
がいます。鐘肇峯はテレサ・テンが新曲を録音するときにその編
集作業を手がけていたのです。未確認情報ですが、テレサ・テン
は、楽譜(スコア)が読めなかったといわれているのです。その
ために新曲を出すに当っては、その介添え役をする作曲家が必要
だったのです。鐘肇峯はこの面で香港におけるテレサ・テンのサ
ポートをしていた作曲家の1人なのです。
 余談ですが、作曲家の三木たかしは、テレサ・テンに歌を与え
るとき、歌の内容を説明し、中国語で完全に理解させます。その
うえで、ピアノを弾きながら自分で歌って聞かせるのです。この
ようにしてテレサ・テンに歌を覚えさせたといっています。
 テレサ・テンが亡くなったとき、三木たかしと荒川とよひさは
次のCDを出しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『ありがとう テレサ・テン/三木たかし』
    TACL−2407/taurus   
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CDには三木たかしと荒川とよひさのコンビで作ったテレサ・
テンのヒット曲をすべて三木たかしが歌っているのです。作曲家
であり、自分の作った曲といっても歌は素人です。それでもあえ
て歌う――それがテレサ・テンへの感謝であり、思い出であり、
心からの追悼になると三木は考えたのだと思います。
 三木の歌はしみじみと聴く者の心に訴えてきます。私はこの三
木の歌とテレサ・テンの歌を交互に聞けるよう編集してみたので
すが、これがなかなかいいのです。それが、歌を歌いながら教え
たテレサ・テンへの三木・荒川コンビの心からなる追悼のメッセ
ージとなっているからです。
 天安門広場に座り込みをしている学生たちを支援する12時間
のマラソン・コンサートは、1989年5月27日に香港島にあ
るハッピーヴァレー競馬場で行われることになっていたのです。
 このコンサートの模様は、香港のテレビ各局――TVB、AT
V、RT香港、CR香港が中継することになったのです。そして
これとは別にコンサート前日の26日に20万人の若者がヴィク
トリア公園に集まって、天安門広場の学生支援を訴えたのです。
 テレサ・テンは、このマラソン・コンサートに最初は参加する
気はなく、出演呼びかけに対して明確に断っていたのです。しか
し、その心中は迷いに迷っていたのです。
 26日の朝、テレサ・テンは鐘肇峯に電話をかけて、実はコン
サートに出るかどうかいまだに決めかねているが、もし、直前に
なって出ようと思ったときはピアノを弾いてくれるかどうか確か
めています。鐘肇峯はこの申し出を了承しています。そして、何
を歌うのかと聞いたのです。
 そのとき、テレサ・テンは次のように答えているのです。その
歌は鐘肇峯が聞いたことのない歌だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   我的家在山的那一邊//私の家は山の向こう
   ウオダチアーツアイシャンダナーイーピエン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうです。有田芳生氏の本のタイトルと同じです。26日にテ
レサ・テンは鐘肇峯とある教会で会い、そこにあるピアノでこの
歌を練習しているのです。
 このときもテレサ・テンは鐘肇峯にまだ歌うかどうか決めてい
ないと告げ、行くときは連絡するということを約束しています。
彼女はこの時点でも、大陸の方からコンサートの話を持ちかけて
きたことにこだわっていたのです。テレサ・テン自身がそのコン
サートが台湾と大陸との何らかのかけ橋になればそれこそ自分の
望むことであると考えていたからです。
 しかし、天安門広場で座り込みを続ける学生に対して、中国政
府は戒厳令をひき、北京の郊外に20万人の軍隊を待機させてい
るのです。軍隊の力で自由を圧殺するなんて・・・そんな国に平
和のためのコンサートが開けるはずがない――テレサ・テンはこ
う考えて、電話機をとって鐘肇峯に電話をかけるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   わたし、やはり行きます。よろしくお願いします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この時点では、6月4日未明にあんなひどいことが起
こるとは、テレサ・テンをはじめ誰も考えていなかったのです。
人民軍が人民にあんなひどいことやるとは!――それはとうてい
座視できることではなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/17]


≪画像および関連情報≫
 ・上の写真
  香港島のスタンレーにおけるテレサ・テンの家
 ・下の左の写真
  浅水湾――レパルス・ベイ
 ・下の右の写真
  スタンレーにある洒落たフランス・レストラン

スタンレーのテレサの邸宅.jpg
スタンレーのテレサの邸宅
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2010年05月24日

●ハッピー・ヴァレーでのテレサ・テンの歌(EJ第1623号)

 テレサ・テンがハッピーヴァレーに行って歌おうと決意したの
は、会場で3人の歌手が歌い終わった直後です。彼女は鐘肇峯の
了解をとりつけると会場に電話をして歌うことを告げています。
 会場の関係者は非常に喜び、「漫歩人生路」を歌ってくれませ
んかと曲をリクエストしてきたのです。この曲は中島みゆき作詞
・作曲の「ひとり上手」の中国語バージョンであり、香港でヒッ
トしていたのです。主催者はテレサ・テンが当初出演を断ったに
もかかわらず、多くの人を動員するため、勝手にテレサ・テンが
出演してこの歌を歌うことを発表していたのです。
 しかし、テレサ・テンはこれを拒否し、支度をしてすぐ家を出
るのです。決意してからというものテレサ・テンは泣きっぱなし
で涙を流しており、化粧をしないで、ジーンズにTシャツを着て
サングラスをかけたのです。テレサ・テンとしては異様ないでた
ちで、ベンツ280に乗って出かけたのです。
 テレサ・テンは途中で鐘肇峯をひろって、ピアノが弾けるとこ
ろを探しまくっています。短い時間でも練習したいと考えたから
です。しかし、あいにく使えるピアノはなく、そのままハッピー
ヴァレーにある亜細亜酒店(アジアホテル)に行ったのです。こ
のホテルは出演者の衣装替えに使われていたからです。
 テレサ・テンはそこで、主催者から集会のために制作されたT
シャツを渡されるのです。そこには「民主歌声献中華」と書いて
あったのです。
 テレサ・テンはそのTシャツには着替えたのですが、化粧はせ
ず、そのまま主催者のバンに乗って会場に向ったのです。そして
出番がきたとき、テレサ・テンは「民主萬歳」と赤い文字で書い
たハチマキをして、胸と背中に2枚のプラカードをぶら下げてい
たのです。前面には「反対軍管」、背中は「我愛民主」とテレサ
・テン自身の字で書かれていたのです。
 司会者の若者に紹介されてテレサ・テンが舞台に登場すると、
彼女の異様ないでたちに一瞬会場は静まり返り、そのあと大歓声
が湧いたのです。テレサ・テンはマイクを取ると、次のように挨
拶しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ありがとう。みなさん本当にありがとう。これほど熱心に民主
 を打ち立てようと努力している。そんなみなさんと香港で一緒
 にいられることをとてもうれしく思います。わたしはある一つ
 の歌を練習してきました。その歌をわたしはこれまで歌ったこ
 とはありません。この歌を耳にしたことのあるひとも少ないは
 ずです。みなさん、この歌を聴いて、わたしのこころがいった
 い何を叫びたかったのかわかってください。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはこういうと鐘肇峯のピアノを伴奏に歌い始めた
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       わたしの家は山の向こう
       そこには豊かな森があり
       そこには果てしない草原がある
       ・・・・・・・・・・・・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことに、有田芳生氏の本にはテレサ・テンがハッピー
ヴァレーの競馬場の集会で歌った「我的家在山的那一邊/私の家
は山の向こう」が収録されているCDが付いているのです。おそ
らく会場で誰かが録音したカセットテープをダビングしたものと
思われます。そこには、歌う前にテレサ・テンが話した小さな演
説――(前述)も入っています。聴いてみると、感情がこもって
おり、胸を打ちます。
 そもそもこの歌は、1936年、日中戦争当時に「松花江上」
のタイトルで流行した歌であり、かつての日抗歌なのです。この
歌は1960年代に入り、共産党政権に追われて家を失い、故郷
を後にした外省人の望郷歌として再現されているのです。昔の台
湾の人々なら誰もが知っている歌ですが、大陸では絶対に歌われ
ない歌なのです。したがって、テレサ・テンはこの歌を歌うこと
によって北京政府に対して明確に抗議したのです。
 このとき舞台の袖には候徳鍵(ホウ・ドウチエン)という台湾
出身のシンガーソングライターがテレサ・テンの歌を聴いていた
のです。この候徳鍵は、6月4日未明のいわゆる天安門広場の虐
殺のあと、姿を消すのですが、これについては改めてお話しする
ことにします。
 テレサ・テンが「我的家在山的那一邊」を歌った直後から資金
カンパが激増し、この日だけで1200万香港ドル(約2億16
00万円)を超えたといいます。香港においてテレサ・テンの影
響力がどんなに大きいかを示すエピソードです。
 5月27日のマラソン・コンサート(30万人参加)の次の日
は「全世界華人抗議デー」と名づけられたのですが、香港では民
主化支援デモが行われ、約200万人が参加しています。
 しかし、北京では政府の圧力によってデモは徹底的に押さえ込
まれ約5万人、上海では1万人、南京では3万人がデモに参加す
るにとどまっています。
 こういう状況を見て、天安門広場に座り込みを続ける学生指導
部の間では占拠継続か撤退かの意見の対立が生じていたといわれ
ているのです。
 1989年6月2日――そのとき天安門広場にいた学生は、約
3000人、そこに新たに知識人や有名歌手ら4人が「李鵬政権
の高圧的政治に反対する」として、72時間の時限ハンストに突
入したのです。その4人の中に前述の台湾のシンガーソングライ
ター候徳鍵も入っていたのです。
 このことが天安門広場にいる学生たちに大きな心の支えになっ
たことは確かです。そして、運命の6月4日未明を迎えることに
なります。
               ・・・[テレサ・テン/18]


≪画像および関連情報≫
 ・「我的家在山的那一邊/私の家は山の向こう」
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私の家は山の向こう       私の家は山の向こう
 そこには豊かな森があり     張おじさんは喜びを失い
 そこには果てしない草原がある  劉おじさんは笑顔をしまい込んだ
 春には稲や麦の種を撒き     鳥は暖かな巣を飛び立ち
 秋には刈り取り新年を待つ    春は冷え冷えとした冬に変わった
 張おじさんは愁いなく      親しい友らは自由を失い
 劉おじさんは永遠に明るい    麗しい団欒を捨て去った
 地底から飛び出した狸鼠によって 友よ一時の歓楽を貪るなかれ
 全てがすっかり様変わり     できるだけ早く帰って
 それは山脈を孤独にし      民主の火を燃やそうよ
 人間的な善良を飲み込んだ    私の育った所を忘れちゃいけない
          それは山の向こう
          山の向こうなの        (館野雅子訳)
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン.jpg
パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン
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2010年05月25日

●両岸の政治に翻弄される『龍』と『君』(EJ第1624号)

 1989年6月3日の夜の天安門広場の様子です。それは6月
4日未明の惨劇のあと辛うじて脱出した学生リーダーの一人であ
る柴玲(チャイ・リン)の吹き込んだテープによって詳しく知る
ことができます。
 その夜広場に座り込む学生たちは誰ともなく「龍的傳人」(ロ
ンダチュアンレン)を歌い出したというのです。この歌はあの台
湾出身のシンガーソングライター候徳鍵が作曲した歌であり、座
り込みの現場に当の候徳鍵がいたからです。
 「龍的傳人」の中間部分に次の一節があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        古き東方に一匹の龍がいる
        その名は中国
        古き東方に一団の人がいる
        彼らは龍の傳人だ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 龍は、馬の頭、鹿の角、蛇の胴体、鶏の爪という生命力の強さ
の象徴を合体させた架空の動物なのです。中国では昔から龍神崇
拝があり、やがていつしか中国は自らを龍にたとえるようになっ
ていったのです。中国人は龍の子孫であるというのです。
 候徳鍵がこの歌を発表したのは1978年――台湾で20万枚
を超える爆発的なヒットになったのです。とくに大陸では熱狂的
に受け入れられたのです。なぜなら、この歌は明らかに大陸讃歌
であるからです。
 1978年といえば、テレサ・テンが2回目のリサイタルを開
いた年であり、1979年には日本で偽造パスポート事件を起こ
しています。テレサ・テンと候徳鍵はともに外省人の人気歌手で
あり、ともに大陸に対して一種の憧れを抱いていたという共通性
はあるものの、その後の運命はきわめて対照的です。
 台湾政府から「愛国歌手」と称えられたテレサ・テンに対して
候徳鍵は同じ台湾政府から「売国奴」として扱われることになる
からです。どうして候徳鍵は、そういう運命になったしまったの
でしょうか。
 台湾政府は、「龍的傳人」が台湾や大陸で大ヒットすると、こ
の歌は大陸讃歌であるとして、放送・販売を全面停止処分とする
のです。そういう事情もあって、1983年に候徳鍵は新婚間も
ない家庭を捨て、香港経由で大陸に渡り、そのまま中華人民共和
国に亡命しているのです。そして大陸で音楽活動を始めるのです
が、これには共産党のバックアップがあってのことなのです。
 その候徳鍵が再び注目を集めたのは、1989年6月2日のこ
とです。天安門広場の学生を支援するため、知識人3人とハンス
トに参加したときです。
 候徳鍵は天安門広場に最後まで残っている学生や市民の安全の
保証を軍隊とかけあったとされています。しかし、交渉はうまく
行かず、軍は6月4日の未明に戦車を繰り出して学生たちの強制
排除を行うのです。
 この強制排除によってどのくらいの犠牲者が出たかについては
不明なのです。それでも当日天安門周辺で319人が死亡してい
るのは確かなのです。まさに「血の弾圧」といえます。1997
年になって、全人代常務副委員長の非公式発言によると、北京を
含めた全国21都市で学生・市民と当局の衝突で15000人以
上の死傷者が出たことを認めているのです。
 しかし、6月4日の天安門広場の騒乱の渦中に候徳鍵はいなく
なってしまったのです。ところが2ヶ月後に、候徳鍵は何事もな
かったように北京の自宅に戻るのです。1989年8月22日の
読売新聞は次のように伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 北京の民主化要求運動で学生たちと最後まで天安門広場に残り
 その後、行方が全く知れなかった台湾出身の人気歌手兼作曲家
 候徳鍵さん(33)が、このほど2ヶ月ぶりに北京市内の自宅
 に無事戻った。候さんはこの間、中国当局の追及を恐れて在北
 京オーストラリア大使館に避難していた。同大使館を離れるに
 当たっては中国当局との間で候さんの安全確保など「裏取引」
 があったとの見方がもっぱらだ。
           ――1989年8月22日付、読売新聞
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 候徳鍵は外国人記者に天安門事件について聞かれたとき、次の
ように答えていますが、これは明らかにウソであり、中国当局と
の取引であると考えられるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 学生、市民、軍人に限らず、殺された者は一人として見なかっ
 たし、戦車や装甲車が群集をひくのも見ていない。
             ――読売新聞社記者の質問に対して
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、候徳鍵は天安門事件のさい、当局に拘束された知識人
や学生の釈放を求めて当局と折衝するなどの活動を行っていたの
です。そして、彼は天安門事件から1年が経過する前後に再び姿
を消してしまうのです。
 これは、天安門事件一周年の活動を警戒する中国当局によって
他の活動家と一緒に「予防拘束」されたものとみられます。そし
て候徳鍵は、1990年6月20日に台湾に姿を現したのです。
彼は自ら中国を脱出し、台湾に戻ったとしていますが、これは中
国から強制送還されたとの見方がもっぱらなのです。候徳鍵が台
湾に戻ってよいことは何もないからです。
 果たせるかな、候徳鍵は社会から黙殺されたまま、人目を忍ぶ
ように台湾で暮らしていたのですが、1994年10月に覚せい
剤所持の現行犯で台湾の警察に逮捕されたのです。
 こういう経過を知ると、テレサ・テンも候徳鍵も台湾と中国の
政治のはざまに翻弄された犠牲者であると見ることができます。
ともに民主的な中国を夢見て活動していたのです。それにしても
候徳鍵の「龍的傳人」は素晴らしい詞ですね。
               ・・・[テレサ・テン/19]


≪画像および関連情報≫
 ・「龍的傳人」/作詞・作曲/候徳鍵
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  はるか東方にひと筋の川がある   古き東方に一匹の龍がいる
  その名を長江という        その名は中国
  はるか東方にひと筋の川がある   古き東方に一団の人がいる
  その名を黄河という        彼らは龍の傳人だ
  長江の美しさを未だ目にしないが  巨龍の足もとで私は育ち
  魂はつねに長江に遊んでいる    やがて私も龍の傳人になった
  黄河の怒涛を未だ目にしないが   黒い瞳、黒い髪、黄色の肌
  その響きを夢のなかで聞いている  我らは永遠に龍の傳人
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 唱文社刊


天安門事件.jpg
天安門事件
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2010年05月26日

●なぜ、香港を捨ててパリに行ったのか(EJ第1625号)

 「歌で中国人の心をひとつにしたい」――こう考えるテレサ・
テンの希望は、天安門事件によって無残にも踏みにじられること
になります。ショックが大き過ぎて、1989年6月24日から
予定されていた日本でのキャンペーンは中止せざるをえなくなっ
たのです。しかし、21日に予定されていたテレビ朝日の「郷ひ
ろみ宴ターテイメント」への参加は中止するわけにはいかず、香
港からの中継で参加しています。
 そのときテレサ・テンは黒いチャイナドレスに真珠のネックレ
スをしていましたが、これは明らかに天安門事件の犠牲者に対す
る喪装だったと思われます。歌った歌は「香港」――この歌の二
番の歌詞「心だけが帰るところはきっとこの街」のところで涙声
になり、あとは泣きながら歌っているのです。
 天安門事件のあと、テレサ・テンは香港の自宅を紫一色に塗り
変えています。気分の一新ということもあるでしょうが、199
7年に香港が中国に返還されると、人民解放軍がやってくること
を非常に恐れており、それを防ぐという意味もあっての改装とも
いわれています。紫という色は運がついてきて、自分を守ってく
れる――これはつねづねテレサ・テンがいっていた言葉です。
 そのため、テレサ・テンの邸宅は「紫の館」と香港の人々にい
われるようになったのです。しかし、テレサ・テンは、内心ひそ
かに恐れていた1997年の香港返還まで残念ながら生きること
はできなかったのです。
 1989年11月20日――テレサ・テンは香港をあとにして
パリに旅立ちます。それは単なる旅ではなく、生活と音楽活動の
拠点をパリに移すための決意の旅立ちだったのです。
 彼女はこの突然のパリ行きについては母親にも相談せず、一人
で決断しているのです。とりあえずのパリでの生活の拠点は、凱
旋門から10分くらいの距離にあるフォブール・サン・トノレ通
り230番地の家具付きワンルームだったのです。そして一年後
にモンテニュー大通りのアパルトマンを購入しています。本気で
長く住むつもりであったことがこれでわかります。
 なぜ、気に入っていた香港での生活を捨てて、パリに移ったの
かについて、有田芳生氏はテレサ・テンに何回も尋ねていますが
彼女は次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 政府は全然信用できないですからね。もし、わたしが無視して
 自分のいい生活をそのままして(いたら)、多分そのあと大きな
 災難(が)来ると思います。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このテレサ・テンのことばを聞くと、やはり彼女はやがて中国
政府が自分に対して、何らかの関与をしてくるのではないかと考
えていたことがわかります。確かに中国政府から見ると、大陸と
台湾の両岸で高い人気を持つ有名な歌手テレサ・テンは、政治的
に一番有効に利用できる存在であるからです。
 「香港にいては危ない」――テレサ・テンがそう考えたのは間
違いないとしても、それではなぜ、フランスなのでしょうか。テ
レサ・テンはフランス語がまったく話せないのです。
 有田氏の本を読んでわかったことですが、天安門事件が起こっ
た1989年という年は、フランス革命から200周年に当る年
なのです。フランス政府は、パスポートや身分証明書を持たない
者であっても積極的に中国からの政治亡命者を受け入れる方針を
明らかにしていたのです。
 これによって、パリは中国からの政治亡命者を大量に受け入れ
「民主中国陣線」(FDC)が結成されたのです。海外から中国の
民主化を推進する――それが目的だったのです。
 この組織のリーダーとしては、学生リーダーのウアルカイシや
チヤイ・リン(柴玲)、経済学者のイエン・チアー・チー(厳家
其)などが就任し、活発に活動を始めたのです。
 テレサ・テンのパリ移住がこのことと無関係であるとは思えな
いのです。彼女としては、自分もパリに住まいを移し、「民主中
国陣線」を何らかのかたちでバックアップしたかったのではない
か――そう思われるのです。
 彼らはフランスのマスコミと連携して声明を出したり、「人民
日報」の海賊版をFAXで送りつけるなど、さまざまな活動をは
じめたのです。実際にパリに居を構えたテレサ・テンは、彼らと
食事をしたり、集会に参加したりしてお互いに中国の情報を交換
しています。
 さらに具体的にテレサ・テンは「民主化支援コンサート」を開
こうと提案しています。「民主中国陣線」では、野外でやるか、
劇場でやるかが話し合われ、劇場でやる方がベターであるという
ことになったのです。会場はブローニュの森の北東角にあるパレ
・デ・コングレでやろうということになったのです。
 実際にコストが計算され、全部で120万フラン(約2640
万円)かかることがわかったのですが、それを支援してくれる新
聞社や団体はどこもなかったのです。
 しかし、「お金の心配はいらない」といっていた頼みの綱のテ
レサ・テンは最終的に「民主中国陣線」のコンサートプランには
乗らず、天安門事件に抗議するコンサート構想は幻に終わってし
まったのです。
 テレサ・テン自身が話していないので、本当の理由は推測する
しかないのですが、次の2つの理由からであると考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンは屋外の無料コンサートを考えていたのに、
   民主中国陣線は劇場で有料開催にこだわったこと
 2.多数の死者が出た事件に対して、歌うという行為で抗議す
   ることに最終的に疑問を感じてしまっていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民主中国陣線は組織としてうまくいっておらず、資金不足で焦
りがあり、そこがテレサ・テンと折り合えなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/20]


≪画像および関連情報≫
 ・パリ時代のテレサ・テン
  平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より。晶文社刊

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セーヌ川とテレサ・テン
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2010年05月27日

●果たせなかった4回目の紅白出場(EJ第1626号)

 「民主中国陣線」――テレサ・テンが自分の生活の拠点をパリ
に移してまで支援しようとしていた団体ですが、時間の経過と共
に彼女は次第に彼らと距離をおくようになっていったのです。
 それは「民主中国陣線」内部の度重なる内紛、腐敗などにある
のです。テレサ・テンをはじめ当初は大量に寄せられた資金を無
駄なことに費やしたり、持ち逃げする者まで現れ、メンバーは激
減してしまったのです。
 それにフランス政府自体が中国寄りの姿勢をとるに及んで、民
主中国を実現する運動は一層やりにくくなってきたのも事実なの
です。そもそも自らは海外の安全な場所にいて、そこから民主中
国を実現する運動をすること自体に無理があったのです。
 まして周りは中国の環境とはまるで違う自由の国フランス――
若者の中にはそれに目を奪われ、自分を見失ってしまう者も少な
からず出てきたのです。組織が衰退するのは時間の問題だったと
いえます。そして、こんなことがいわれるようになったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 共産党は40年かかって腐敗したが、パリの民主化運動組織は
 たったの4ヶ月で腐敗してしまった・・・と。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうやらテレサ・テンは、パリに生活の拠点を構えて、資金は
日本で稼ぐことによって、民主中国化運動を支える計画を持って
いたようです。その時点でのテレサ・テンの音楽活動は、香港や
台湾でも年に1回程度しか歌っていないのですが、日本では年に
2曲程度の新曲を出しており、CM――金鳥の蚊取り線香/何日
君再来、メナード化粧品/あなたと共に生きてゆく――などにも
積極的に出るようになっていたのです。しかし、往時の勢いは既
になくなっていたのです。
 1993年10月24日――テレサ・テンはフランスを離れて
香港に戻ります。そのときパリで出会った14歳年下のステファ
ン・ピュエールなる恋人と一緒だったのです。そして、二度とフ
ランスの自宅に戻ることはなかったのです。
 このステファン・ピュエール――たいした人物ではなく、非常
に疑惑の多い男なのです。テレサ・テンはこの人物と出会ってか
ら、急速に運が傾き、生活自体が乱れていったのです。この頃の
テレサ・テンはしばしば体調を崩し、かなり痩せていたのです。
そして、ステファンとしばしばチェンマイに現れる頃には容貌が
一変し、相当老け込んでしまっています。
 有田氏の本によると、テレサ・テンはステファンと何度も別れ
ようとしたようです。本に次の一節があります。テレサ・テンと
ステファンの関係がよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  香港の自宅でのことだ。ある日の夜中、大喧嘩をした二人が
 二階から降りてきた。テレサは泣きながら「出ていけ」と叫ん
 だ。ステファンは家を出たが、十分ほどあとでチャイムが鳴っ
 た。外は大雨だったので、全身はすぶ濡れだ。その姿を見たテ
 レサはそれ以上怒ることはできなかった。激しい喧嘩が繰り返
 されるようになっても別れなかったのは、テレサが優しすぎた
 からである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時期になってもテレサ・テンは台湾に戻ると、軍への慰問
を無報酬できちんと続けていたのです。台湾政府はこの献身的な
テレサ・テンの軍への協力に非常に感謝していたのです。そのた
め、テレサ・テンスパイ説などが彼女の死後出てくる原因のひと
つとなるのです。
 テレサ・テンは寒さに弱いのです。そのため冬になると通常は
タイのプーケットで過ごすことが多かったのです。しかし、ここ
は雨が多く不満を持っており、代わりに見つけたのが北部のチェ
ンマイなのです。
 テレサ・テンが最初にチェンマイを訪れたのは、1994年8
月のことです。常用していたホテルは、インペリアル・メービン
ホテルであり、1995年までに3回利用しています。そして、
このチェンマイがテレサ・テンの最後の地になるのです。
 同じ1994年10月23日――テレサ・テンは日本に来てい
ます。24日に仙台市で行われるNHKの「歌謡チャリティコン
サート」に出演するためです。その目的は、その年の暮れに行わ
れる紅白歌合戦への出場を確実にするためといわれています。
 ここまでテレサ・テンは、1985年、1986年、1991
年と3回の紅白出場を果たしていますが、1994年の紅白にも
出場を狙っていたのです。この時点での日本におけるテレサ・テ
ンの人気には陰りが出ており、紅白出場で何とか劣勢を挽回した
いと考えていたのです。
 しかし、このときのテレサ・テンの体調は最悪であり、いつも
は決してわがままをいわないテレサ・テンは、この来日のときだ
けは決まっていたスケジュールを大幅に修正させたり、飛行機に
乗り遅れたりと、失敗の連続だったようです。後でわかったこと
ですが、テレサ・テンはステファンと大喧嘩して、日本に来てい
たのです。終始不機嫌だったのはそれが原因なのです。
 本番でテレサ・テンは「夜来香」と「時の流れに身をまかせ」
を歌ったのですが、いつもなら滑らかに出る声に張りはなく、明
らかに不調だったのです。そして、今考えると、これがテレサ・
テンの日本での最後の歌になってしまったのです。
 この最後の来日のとき、成田空港でラジオ番組用の収録が行わ
れています。このときの声は元気がなく、最後に「日本にまた来
たいです。テレサ・テンでした」としめくくっています。
 飛行機の出発時間がきたとき、トーラス・レコードの鈴木章代
さんは「身体に気をつけて。香港の空港にはステファンが迎えに
きているからね」と呼びかけています。
 これに対してテレサ・テンは、「ありがとう。行ってきます」
と言葉を返しています。これがテレサの見納めとなったのです。
               ・・・[テレサ・テン/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ステファンとのツーショット
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

テレサとステファン.jpg
テレサとステファン
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2010年05月28日

●テレサ・テン/メービンホテルで客死(EJ第1627号)

 1994年12月31日――テレサ・テンはチェンマイのメー
ビン・ホテルにステファンと一緒に宿泊していたのです。結局、
この年の紅白歌合戦にテレサ・テンは選ばれなかったのです。
 この日ホテルの中庭には新年のカウントダウン用の会場が設け
られており、約300人ほどの宿泊客がカウントダウンを待って
いたのです。テレサ・テンとステファンも宿泊客と一緒にカウン
トダウンを見ていたといいます。
 午前0時に花火が上がり新年が告げられると、ホテルの総支配
人がテレサ・テンに一曲歌って欲しいといってきたのです。そこ
でテレサ・テンが歌ったのは、『梅花(メイフア)』という歌な
のです。この『梅花』という歌には台湾の悲しい歴史が秘められ
ているのです。
 1972年2月21日、米大統領ニクソンは訪中して毛沢東主
席と会談、カーター政権時代の1979年に米中の間に国交が樹
立されたのです。それと同時に米国は台湾との国交を断絶し、台
湾は国際的に孤立してしまうのです。
 台湾では意気消沈した国民を励まそうと、いろいろな歌が作ら
れています。そのひとつが『梅花』なのです。この歌は中国でも
流行したのですが、中国政府はこの歌を放送禁止処分にしている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    梅の花、梅の花
    それはこの世に満ち溢れ 寒ければ寒いほど花開く
    ・・・・・・・・・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌い終わると、会場から盛大な拍手と歓声がわきあがったので
す。そして、この小さな舞台での歌が、アジアの歌姫テレサ・テ
ンの最後の舞台になったのです。
 実は、テレサ・テンは12月30日の午前9時に喘息の発作を
起こし、ホテルに医師を呼んでいます。医師が部屋に入ると、寒
いほどエアコンがきいており、部屋にはタバコの煙が充満してい
たといいます。ステファンはヘビー・スモーカーで冷房を強くす
るのがつねであったからです。しかし、これは喘息患者には最悪
の環境なのです。
 医師は直ちにステファンにタバコをやめさせ、テレサ・テンを
チェンマイの市内で一番設備の整っているラム病院に入院させた
のです。医師の治療の結果、翌31日の大晦日になると、喘息の
発作は収まったので、退院したいと願うテレサ・テンの要望を受
け入れて、退院させています。その数時間後にテレサ・テンはホ
テル側の要請によって『梅花』を歌ったのです。
 いったん香港に帰ったテレサ・テンは4月に再びチェンマイに
やってきます。もちろん、ステファンも一緒です。この頃のテレ
サ・テンの身体の調子は一段と悪化しており、かなり咳が出てと
まらない状況だったといいます。このとき、テレサ・テンは、前
回発作を起こしたとき診てもらった医師のクリニックを訪ね、診
察を受けて薬を調合してもらっているのです。
 1995年5月8日――いつも通りにルームサービスで朝食を
とったテレサ・テンは、どこにも出かけず、一日中部屋に閉じこ
もっていたといいます。しかし、ステファンは夕方になってひと
りで外出しているのです。このときは、部屋に閉じこもってほと
んど外に出ないテレサ・テンと対照的にステファンはよく外に出
かけています。一体何をしに出かけたのでしょうか。
 そのあと、異変が起こったのです。午後5時15分頃になって
テレサ・テンは部屋のドアを開け、よろよろと少し歩いたところ
で突然倒れたのです。これを15階のカウンターの女子従業員が
見ており、責任者に通報します。
 テレサ・テンはすぐチェンマイラム病院に運ばれたのですが、
道路が渋滞しており、通常であれば10分で着く病院に30分も
かかってやっと到着したのです。直ちに緊急治療室に入れられた
のですが、テレサ・テンはそのときは既に死亡していたのです。
 病院長による手書きの死亡通知書には、次のように記述されて
いたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1995年5月8日 関係各位殿――テン・リー・ユン夫人は
 午後5時30分頃、病院到着前に死亡、病院ではすでに心臓停
 止、瞳孔は開いたままで、脳死の状態であった。一定の時間蘇
 生措置が試みられたが、生還せず。享年42歳。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき、ステファンは外出中でしたが、彼は非常に不審な行
動をとっているのです。
 ステファンはこの日の夕方に外出しています。正確な時刻は不
明ですが、テレサ・テンが部屋から出てくる午後5時15分より
も前であることは確かです。
 ステファンがホテルに戻ってきたのは、午後6時30分頃とい
うことです。その時点でテレサ・テンは既に死亡していたのです
が、ホテルのマネージャーは本当のことがいえず、ステファンに
すぐに病院に行くよう求めたのです。それからステファンは部屋
に入り、1時間経過しても出てこなかったのです。
 マネージャーが電話して「危篤ですから、すぐ行くように」と
重ねていったのですが、それでも出てこないのです。仕方がない
ので、マネージャーは部屋を訪ね、すぐに行くよう求め、やっと
病院に行かせたのです。そのため、ステファンが病院に着いたの
は午後8時を回っていたといいます。午後6時30分から8時過
ぎまでの2時間近い空白の時間――ステファンはホテルの部屋で
一体何をしていたのでしょうか。
 しかも、ステファンは遺体解剖同意書には「解剖するな」と書
き入れています。そして、ホテルに戻ったステファンはテレサの
家族と連絡をとったのです。 ・・・[テレサ・テン/22号]


≪画像および関連情報≫
 ・『梅花』の歌詞
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  梅の花 梅の花 それはこの世に満ち溢れ
  寒ければ寒いほど花咲く
  梅花の辛抱強さは私たちの広大な大中華を象徴する
  ごらんなさい あたり一面梅の花 土地があればきっとある
  氷雪風雨もおそれない
  それは私の国花です
  (館野雅子訳)
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

メービンホテル.jpg
メービンホテル
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2010年05月31日

●テレサ・テン/国をあげての盛大な葬儀(EJ第1628号)

 1995年5月12日未明――TG636便でテレサ・テンの
遺体はチェンマイから台湾の中正国際空港に戻ってきたのです。
このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀
仗兵が出迎えています。そしてこの日、テレサ・テンの葬儀を行
うための台湾政府葬儀委員会が発足しています。
 5月13日になると、遺体は台北にある中華テレビ局内に設置
された霊堂に安置され、棺にはテレサ・テンの好んだ色――紫の
布がかけられていたのです。そこにはテレサ・テンの肖像が掲げ
られ、堂内にはテレサ・テンの歌声が途切れることなく流されて
いたのです。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人
が足を運んでいるのです。
 5月22日に台湾政府は、テレサ・テンの葬儀を公葬(国葬に
準ずる)とすることに決定し、5月28日に実施すると発表して
います。そして、テレサ・テンには、次の褒章が授与されていま
す。一芸能人にはまさに異例のことといえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      政府 ・・・・・・・ 華夏一等奨章
      軍 ・・・・・・・・ 陸海空軍褒章
      僑務委員会 ・・・・ 華光一等奨章
      総統 ・・・・・・・ 褒揚令 褒章
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「華夏一等奨章」は日本でいうと国民栄誉賞のようなものに当
たりますが、芸能人に授与されるのははじめてのことです。
 5月28日の葬儀は、午前7時30分から親族だけの葬儀、午
前8時から友人や葬儀委員による追悼会、午前9時からは公葬、
午前11時から覆旗典例の順序で進められたのです。
 追悼会では、トーラスレコードの舟木社長が弔辞を読み、その
席には作詞家の荒木とよひさ、作曲家の三木たかしの姿もあった
のです。追悼会の最後にはテレサ・テンが残した詞に曲をつけた
「星願」が演奏されています。歌ったのは、テレサ・テンの声に
似ている李宝埼という歌手であり、歌は葬儀の2日前に完成した
といわれています。
 午前9時から11時までは公葬が行われています。台湾以外で
は、香港、日本、東南アジア各地、中には大陸から処罰覚悟で多
くのテレサ・テンファンが参列し、その規模は国家主席であった
蒋介石総統の葬儀に次ぐものとなったのです。
 午前11時からの「覆旗典例」について、有田氏は次のように
書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  午前11時過ぎ、「覆旗典例」がはじまった。総統府秘書長
 国民党中央委員会秘書長などの手によって棺が閉められ、中華
 民国旗(青天白日満地紅旗)、国民党旗(青天白日旗)がかけ
 られた。芸能人としてはじめてのことである。哀悼の演奏が行
 われるなかを連戦・行政院長、宗楚瑜・台湾省長らが焼香し、
 献花した。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてテレサ・テンの棺は精鋭軍人に担がれ、車で金宝山霊
園に向ったのです。葬儀場周辺や沿道には3万人のファンが詰め
かけて、棺を見送っています。
 テレサ・テンは金宝山霊園の公墓に土葬されたのです。台湾で
は、土葬する場合の手続きが難しく、土地取得も必要なので、特
別の功労のあった人だけが許されるのです。
 チェンマイでテレサ・テンが死亡したとき、台湾の著名な霊園
が次々に土地提供を申し出たというのです。結局は金宝山霊園に
決まり、現在では台湾の観光スポットになっているのです。とく
に日本人はよくテレサ・テンの墓を訪れるといいます。
 テレサ・テンの葬儀の模様を見た日本人は、改めてテレサ・テ
ンが、台湾や中国、それに東南アジアをはじめとする華僑社会に
おいていかに影響力を持つ歌手であったかを思い知らされたと思
うのです。日本と他のアジアの諸国とでは、テレサ・テンの評価
に関して大きなギャップがあったからです。
 テレサ・テンの墓地のある金宝山霊園のパンフレットには、テ
レサ・テンについて次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンはわが国の芸能文化にその一生をささげたばかり
 でなく、国際的に傑出した芸術家でありました。彼女は常に努
 力を惜しまず、奇跡ともいえる芸術性を発揮して、歌謡界にお
 いて空前の成功をおさめました。と同時に、国を愛し、軍を敬
 い、軍人の士気を鼓舞する活動にも大いに貢献したのです。そ
 の甘美で優雅な歌声は、大陸はおろかアジア、世界の華人まで
 も魅了し、深い感動を呼びました。しかし、なににもまして重
 要なことは、彼女が純真にして善良な、誠実にして謙虚な人格
 の持ち主であったことです。であればこそテレサ・テンは、中
 国文化や中国歌謡を真に国際化することに成功した唯一の巨星
 となり得たのです。
 ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 晶文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンが亡くなってから、彼女の突然死に関連していく
つかの疑惑が報道されています。エイズ死亡説、毒殺説、大麻疑
惑、スパイ疑惑など・・・です。死因に不審な点があるとされた
のは、チェンマイのテレビ局がテレサ・テンの遺体の上半身を無
神経にも放送したからです。それを英国のロイター通信社がそれ
を世界に配信したのです。とくに左の耳の下の赤い斑点があるこ
とは大きな話題となったのです。それに関して、ステファンにつ
いても数多い疑惑が出ています。
 そのほとんどは根拠のないものであり、改めて取り上げるまで
もないことですが、納得できない人も一部いることは確かです。
テレサ・テンのテーマはあと2回で終了する予定ですが、残りの
2回で、これらの疑惑について述べたいと思います。
               ・・・[テレサ・テン/23]


≪画像および関連情報≫
 ・金宝山墓園
  テレサ・テンが眠るのは台北県北海岸の金宝山墓園。台北市
  内から車で1時間半ほどの小高い山にあり、海も一望できる
  眺めのよい墓地である。テレサのお墓の前には、ト音記号の
  形に美しく整備された花壇の中にテレサの銅像が静かにたた
  ずんでいる。毎年命日の5月8日には、この「テレサ・テン
  紀念公園」で、テレサを偲ぶ記念式典が開催される。

  http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200504/park.html

テレサ・テンの墓園.jpg
テレサ・テンの墓園
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2010年06月01日

●ステファンにまつわる大麻疑惑(EJ第1629号)

 テレサ・テンの足跡をたどると、ステファンと交際をはじめる
前と後とでは大きく運命が変わっていることがわかります。ステ
ファンと会う前は運気が非常に強く、多少の障害があっても跳ね
返して伸びる力があったのです。実際にテレサ・テンはステファ
ンに会う時点では世界的な歌手になっていたのです。
 しかし、ステファンと会ってからはしだいに運気が弱くなり、
仕事も少なくなっていったのです。持病の喘息もひどくなり、体
調は必ずしも万全ではなくなっています。さらに、テレサ・テン
にまつわる疑惑というものもこのステファンと無関係ではないの
です。
 1990年1月16日――あの勝新太郎が大麻不法所持で逮捕
されています。それからしばらく経って、トーラスレコードにと
んでもない情報が飛び込んできたのです。「テレサ・テンが大麻
を吸っている」というウワサです。
 この件についてトーラスレコードの舟木社長は、即座にパリに
飛んでテレサ・テンに会い、その疑惑について聞いています。し
かし、テレサ・テンはこれについて「絶対にやっていない」と強
く否定しているのです。
 ところが、ステファンには強い疑惑があるのです。それは、テ
レサ・テンが亡くなった年のチェンマイのメービンホテルにおけ
るステファンの不審な行動がそれを物語っています。
 テレサ・テンとステファンは、1994年の年末から1995
年にかけてチェンマイのメービンホテルに宿泊しています。既に
述べたように、そのときのテレサ・テンの体調は思わしくありま
せんでした。事実、1994年の年末にテレサ・テンは喘息の発
作を起こし、チェンマイラム病院に入院しています。
 実はそのときステファンは不思議な行動をとっているのです。
1994年8月に2人でチェンマイに行ったとき、テレサ・テン
はつねにステファンと行動をともにしており、どちらかが1人で
出かけることはなかったのです。
 しかし、1994年の暮れに行ったとき、テレサ・テンはほと
んどホテルに閉じこもっていたのに対し、ステファンは夕方にな
ると、1人でよく外に出かけていたのです。
 1995年4月にチェンマイに行ったときは、外に出かけるの
はステファンだけであり、それも出かけるのは夕方以降に限られ
ていたのです。ステファンは一体何のために、どこに行っていた
のでしょうか。
 既出の『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)の著者は、4回
にわたりチェンマイに取材をかけ、そのときのステファンの行動
を追跡しています。同書によると、ステファンが夜になると行っ
ていたのは、メービンホテルの近くのナイトバザールに店を出す
屋台だというのです。この屋台は、30代の女性と20代の小柄
な男性がやっていたといいます。
 屋台を見張っていると、外国人のツーリストたちがよくその屋
台に立ち寄っており、外国人が何かを話すと小柄な男がバイクで
どこかに出かけて、20分ほど経つと戻ってきてタバコのような
ものを渡すのを目撃したというのです。
 屋台の男女にステファンの写真を見せると、ステファンが屋台
によく来ることは認めたのです。それに彼らは、テレサ・テンも
一緒に来たことがあり、青物の野菜炒めをよく食べていたといっ
ています。
 この屋台について同書には、次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あの客に渡したタバコ(?)は、本当は何だったのか。調査
 を進めた。チェンマイの麻薬捜査局によれば、この屋台は麻薬
 組織の末端の販売ルートの一つになっており、とくに外国人観
 光客が利用しているという。屋台には常備しておらず、注文が
 あるとバイク便で指定の時間、場所に届ける。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はステファンが大麻を吸っていたことをホテル側は知ってい
たと思われるのです。かつてメービンホテルに勤務していたとい
うスタッフの一人は次のように証言しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨年(1994年)15階のルームボーイとして働いていまし
 た。テレサさんの部屋のクリーンアップをしながら、ああ、こ
 の臭いは大麻だと直感しました。ほかの場所から臭ってきたな
 んてことはありません。とっても強い臭いですから。
                      ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホテル側はステファンが大麻を吸っていた事実について従業員
に厳重に口止めしています。それでいて、従業員に次の命令を出
しています。これはテレサ・テンの死亡当日の作業記録です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   REMARK (テレサ)の夫の動静を注意して観察すること
                    ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これで、ステファンがホテルに戻ってきて、なかなか病院に行
かなかった謎が少し解けるのです。それは、部屋にあったと見ら
れる大麻の処分と部屋にこもる大麻の臭いを何とかするため、時
間がかかったのではないかと考えられるのです。
 推測ですが、この件に関してはホテル側も関与している疑いが
あります。ホテルとしては、テレサ・テンはホテルの部屋で死亡
したのではなく、病院への移送中に死亡したことにしたかったの
です。それは、警察側の捜査が15階1502室に及ぶのを何と
しても避けたかったからです。
 それにホテル側はステファンの帰国を助けています。とにかく
ステファンには一刻も早く、ホテルをチェックアウトしてもらい
たかったわけです。      ・・・[テレサ・テン/24]


≪画像および関連情報≫
 ・ナイトバザールはメービンホテルの裏側にある。
 ・ナイトバザールは、市の中心部、チャーンクラーン通りの両
  脇の歩道に約900メートルに渡って夜のみ出現するショッ
  ピングスポットで、ここでの買い物はチェンマイ観光のハイ
  ライトのひとつと言ってもいいだろう。店は、移動式の屋台
  のような造りの幅2〜3メートルの小さなものが中心で、そ
  の数は膨大だ。扱っているものは、基本的にお土産用に大量
  生産された民芸品が多く、洋服なら洋服、銀製品なら銀製品
  というようにひとつのカテゴリのみを販売しているところが
  多い。同じものを売っている店が多数あるので、買い物をす
  る時には何軒かで値段を聞いて相場を確認してからにした方
  がいいだろう。
   詳細は−−−−−−−−−−−−
   http://www.sawadeechao.net/cnxgoods/goods.htm

ナイトバザール.jpg
ナイトバザール
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2010年06月02日

●テレサ・テンの死因についての小説(EJ第1630号)

 テレサ・テンにまつわる疑惑のなかで一番大きな疑惑は、やは
り、その死因ということになると思います。テレサ・テンの死因
は「喘息の悪化による呼吸不全」となっていますが、42歳の若
さであり、それがあまりにも突然なことであったために疑惑がふ
くらんだのです。
 ここに一冊の本があります。発刊されたのは、2004年12
月30日です。明らかにテレサ・テンの死後10周年を意識して
の発刊と思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』
     ―いつの日きみ帰る/ある大スターの死−
      平路【著】 池上貞子【訳】 風涛社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このタイトルを見ると、誰でもこれがテレサ・テンのことを書
いていることはわかります。確かに本に書かれていることは、テ
レサ・テンのことそのものであり、それも彼女の死の原因に絞ら
れているのです。しかし、本のなかには「テレサ・テン」とは一
語も書かれていないのです。
 平路(ピン・ルー)は、1953年に台湾の高雄で生まれた女性
作家です。父親は山東省出身の外省人であり、境遇はテレサ・テ
ンと似ています。一応この本は「小説」というスタイルをとって
います。もう少し正確にいえば、テレサ・テンという大歌手の死
を題材とするミステリータッチの小説というべきでしょう。
 しかし、私の読んだ限りでは、小説というかたちをとっている
ドキュメンタリーという感じです。この本の訳者の池上貞子氏は
本書の構成について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  本書『何日君再来』は、テレサ・テンの死のなぞについて、
 彼女についていた監視(スパイ)が、親しい上司へ推測を入れて
 報告するという設定で、所々に真偽の不確かなテレサ本人の手
 記と称する文章が入っているという設定だ。これは、男と女の
 言葉(文章)が入り乱れて放たれているという点では前作の『行
 道天涯』(邦題『天の涯までも――小説・孫文と宋慶齢』)と同
 じ手法であり、着眼点も表向きは華やかさや権威に包まれ、ス
 ポットライトを浴びた人の、活躍の場を失った後の女性として
 の孤独や寂しさなどにある。   ――池上貞子氏のあとがき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「彼女についていた監視(スパイ)」というのは、本を
読む限り台湾当局の監視員であるようです。本当にテレサ・テン
はこのようにつねに国から監視されていたのでしょうか。
 この本の著者である平路は、その冒頭でテレサ・テンの死には
次の3つの疑問点があるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  第1の疑問点:フランス人の男のアリバイが疑わしいこと
  第2の疑問点:遺体の首には、小さな針の穴があったこと
  第3の疑問点:テレサ・テンのパスポートについての疑惑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「フランス人」というのは、もちろんステファンのことです。
彼の本名はステファン・ピュエールというのですが、本書のなか
では「ピュエル」と本名が使われています。著者は、暗に「ステ
ファンがテレサ・テンの死にかかわっている」ことを強調してい
るような感じです。
 これらの3つの疑問点については、ここで改めて繰り返すこと
はしませんが、この本を読んでわかることは、テレサ・テンとス
テファンの人間関係は相当ひどい状態になっていたことが鮮明に
わかるのです。もちろん、本の内容が真実であるという保証はあ
りませんが、他の情報源と照らしてみてもそういう状態になって
いても不思議ではないのです。
 いくつかの記述をひろってみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしはいつも彼女に「あの人を門口で待たしていていいんで
 すか」と言っていたのですが、彼女は全然気にしないで「ほっ
 とけばいいのよ、あんな人」と言っていました。
                  /ビデオ屋のおかみさん
 その後、物音が聞こえました。男性客がドアをたたいていて、
 キーを使っても開けられませんでしたから、おそらく、中から
 ロックしていたのでしょう。男性客は口汚くののしっていまし
 た。英語のスラングのようなものです。靴の先で荒々しくドア
 を蹴っていました。しばらく大騒ぎをしたあと、男性客はまた
 エレベータに乗り込んでいきました。
                    /最上階のフロア係
 ピュエルのあとについているとき、彼女は自分がしょっちゅう
 緊張していることに気がついた。あんた、自分がどんな罪を犯
 しているか、知っているの?彼女はピュエルに目配せし、そっ
 と壁に貼られた告示を指し示す。
 <麻薬は死刑、銃殺刑に値する罪である>
     ――『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述を読むと、チェンマイでもテレサ・テンとステファン
はよく喧嘩して、部屋に鍵をかけてステファンを入れなかったり
していた様子がよくわかります。それもステファンが大麻をやっ
ていることをテレサ・テンは知っていて、そのことを巡っていつ
も喧嘩をしていたのではないかと思われます。
 『何日君再来』――ちょっと変わった小説です。テレサ・テン
の死について関心のある人は読む価値があると思います。さて、
6月6日から7月8日まで、25回にわたって続けてきたテレサ
・テンのテーマ――いかがでしたでしょうか。
 『何日君再来』という歌については書いてみたいことが残って
います。しかし、それは改めて取り上げるとして、明日からは新
しいテーマを取り上げます。ご愛読感謝いたします。
               ・・・[テレサ・テン/25]


≪画像および関連情報≫
 ・『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』風涛社刊
  平路(ピン・ルー)/略歴
  本名は路平。1953年台湾高尾生まれ。台湾大学心理学部
  卒業後、アメリカに渡り、アイオワ大学で統計学の修士号を
  とり、しばらく働きながら創作活動を行う。1994年に正
  式に台湾に戻り、執筆活動に励む。著書に『玉米田之死』、
  『何日君再来』ほか多数

ある大スターの死.jpg
ある大スターの死
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