2010年03月03日

●2060年に世界は滅亡する(EJ第2223号)

 今日からのテーマは「ニュートンの予言」です。
 この記事は2007年12月11日から2008年2月5日ま
での36回にわたって連載したものであることをお断りしておき
ます。
 なぜここにきてニュートンなのかについては理由があります。
 2007年6月21日のことです。AP通信が次のような報道
を行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 英国の数学者・物理学者アイザック・ニュートン(1642〜
 1727)は「早ければ2060年に世界の終末が来る」と直
 筆文書に予言していた。旧約聖書を「解読」した結果といい、
 万有引力の発見などで知られる天才が宗教に強い関心を持って
 いたことを示す証拠として注目される。    ――AP通信
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手の世界の終末予言はノストラダムスをはじめ多くの人が
やっているのですが、いずれもマユツバの結果になっています。
そういうわけですから、このAP通信のニュースを知った人は、
「またか」と思った人が多いと思います。
 実は私もその一人なのですが、少し気になったのは、「なぜ、
アイザック・ニュートンなのか」ということです。ニュートンの
一生を振り返ってみると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1642年( 0歳)誕生
 1668年(25歳)学位取得
 1669年(26歳)ケンブリッチ大学ルーカス教授職に就任
 1672年(29歳)王立協会会員に就任
 1687年(44歳)『自然哲学の数学的諸原理』
           (プリンキピア)刊行
 1699年(56歳)造幣局長官に就任
 1701年(58歳)国会議員に選出
 1703年(60歳)王立協会会長に選出
 1705年(62歳)ナイト位授与
 1710年(67歳)グリニッジ天文台監察委員長に就任
 1727年(84歳)死亡
                    ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この経歴を見る限り、彼がこの世界の終末を予言する可能性は
ほとんどゼロに近いのです。しかし、晩年のニュートンには別の
顔があったのです。それを裏付ける証拠はたくさんあります。そ
の一つは、1754年、ニュートンの死後に刊行された次の論文
の存在です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートン著
 『2つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』(1754)
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はニュートンは、聖書の研究を実に50年以上かけてやって
いたのです。そしてそれを4500ページにも及ぶ文書にまとめ
「秘密文書」として保管していたのです。記述された時期は17
00年代の初頭と考えられます。
 なぜ、秘密文書にしたかですが、それは英国国教会の追及を逃
れるためです。その文書はポーツマツ伯爵の邸宅に220年間も
秘匿されていたのです。
 ところが、この文書が1936年にロンドンのオークションで
落札され、はじめてその存在がわかったのです。現在この文書は
ヘブライ大学図書館が保管しており、2007年6月から公開が
許されているのです。
 私はこの話は聞いていたのですが、何しろ情報が限られており
EJのテーマとして取り上げるのは困難と考えていたのです。と
ころが2007年10月になって次の書籍が発売されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  中見利男著/日本文芸社
  『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 早速手に入れて読んでみると、これが実に難解なのです。著者
の中見氏によると、ニュートンの論文は一筋縄ではないというの
です。18世紀の古典的英語に加えて、ヘブライ語、ラテン語、
そしてニュートン独自の記号があり、翻訳者泣かせであって解読
が難しいのです。それに加えて相当聖書の知識がないと理解でき
ない内容なのです。
 しかし、EJでは何回も聖書を取り上げていることであり、そ
の番外編として取り上げたら面白いと考えたのです。年をまたい
での連載になりますが、何とか謎の核心に迫ってみたいと考えて
おりますので、ご愛読のほどお願いします。
 ニュートンは50年間もかけて聖書を研究したといわれていま
すが、それが本当であるとすると、相当若い頃から聖書の研究に
没頭していたことになります。1700年度の初頭に一応の結論
を出しているとすれば、ニュートンが10代の頃からということ
になります。
 1700年の50年前というと、ニュートンがクランサムのグ
ラマースクールに入学していた頃になります。ニュートンはその
後ケンブリッジ大学トリニティカレッジに入学し、一気に才能を
開花させるのですが、聖書の研究はそれ以前からやっていたとい
うことになります。
 実はニュートンの学問的業績は1600年代で終わっており、
その後は、造幣局長官や国会議員、グリニッジ天文台監察委員長
を務めていますが、ほとんど職務には身を入れていないのです。
国会議員のときなどは議会でほとんど発言せず、議会での唯一の
発言は次のこと言葉だったといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         議長、窓を閉めてください
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは政治にはほとんど興味がなかったようであり、単
なる名誉職だったのです。  ――[ニュートンの予言/01]


≪画像および関連情報≫
 ・アイザック・ニュートンとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アイザック・ニュートンは、自然科学(物理・数学)史上空
  前の大天才である。ニュートンに匹敵するのは、ニュートン
  以前ではアルキメデスくらい、ニュートン以後にはまだ出現
  していないのではないか。もっとも大天才といっても、それ
  は物理・数学の天才ということであって人格までが「天才」
  ではないのは当たり前のことである。
   ――http://www.s-yamaga.jp/nanimono/sonota/newton.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

『ニュートンの予言』/中見利男.jpg
『ニュートンの予言』/中見利男
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2010年03月04日

●ニュートンは最後の魔術師である(EJ第2224号)

 ニュートンというと思い出すのは、映画『ダ・ヴィンチ・コー
ド』で、主人公のラングドンとソフィーが暗号に導かれて、ウェ
ストミンスター寺院を訪ねるシーンです。
 この壮麗なゴシック建築のウェストミンスター寺院は、ユネス
コ世界遺産にも登録されている歴史的建造物であり、1065年
の聖別式以来、国王の戴冠式が執り行われ、ダイアナ元王妃の葬
儀もここで執り行われています。
 ここにはアイザック・ニュートンの墓の他にチャーチルなど著
名人を始め、イギリス歴代の王族が眠る埋葬地としても知られて
いるのです。
 ニュートンの墓がどのような墓であるか、ダン・ブラウンの原
作からご紹介しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その墓は大きな黒大理石の石棺と、そこに載ったニュートンの
 彫像からなっていた。古めかしい衣装に身を包んだニュートン
 が積み重ねられた自分の著書に誇らしげに寄りかかっている。
 『神性』、『年代記』、『光学』、そして『プリンキピア――
 自然哲学の数学的原理』。その足もとには、背中に翼のついた
 ふたりの少年が巻く物を持って立っている。斜めにすわったニ
 ュートンの後ろには簡素なピラミッドがそびえている。
             ――ダン・ブラウン著/越前敏弥訳
          『ダ・ヴィンチ・コード/下』 角川文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は映画『ダ・ヴィンチ・コード』の撮影では、ウェストミン
スター寺院に拒否されたので、実際の撮影はイングランド東部の
リンカーン大聖堂で行われたのです。そして、ニュートンの墓は
セットで完全に再現されたのです。
 ついでにニュートンの墓の碑文には、次のように書かれている
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートンここに眠る。ナイトにして、神のごと
 き精神の力と独自の数学原理により、惑星の進行とその形、彗
 星の進路、潮の満ち引き、光線の不同性、そしてどのような学
 者も考えつかなかったこと、つまり作られた色の特質を探求し
 た。勤勉で、思慮分別があり、自然、古雅、聖書の叙述に対し
 て忠実であった彼は、自身の哲学によって全能かつ善なる神の
 威厳を擁護し、独自の方法で単純明快さを示した。これほどに
 偉大なる人類の誇りが存在したことは喜ばしき限りである!
   1642年12月25日誕生、1726年3月20日逝去
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほどの賛辞を贈られるほどの偉人が終末予言などというリ
スクのある行為をなぜしたのでしょうか。ましてニュートンは科
学者中の科学者と多くの人から思われており、予言者というイメ
ージからはほど遠い感じがします。
 しかし、ニュートンをそのように見ていない英国の有名人がい
たのです。その名前はジョン・メイナード・ケインズ――そう、
あの有名な経済学者のケインズなのです。
 実は、1936年のオークションでニュートンの秘密文書をせ
り落としたのは次の2人であり、その1人はジョン・メイナード
・ケインズだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ジョン・メイナード・ケインズ
       アブラハム・ヤツダ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケインズは、ニュートンの秘密文書を読んだ感想について生前
次のように語っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは後世の人々が考えたような「近代に属する最初の
 科学者」ではなく、「最後のシュメール人、バビロ二ア人であ
 り、最後の魔術師」であった。なぜ、私は彼を魔術師と呼ぶか
 ――それは彼が全宇宙をその中にあるものを秘密と考えていた
 からである。(中略)ニュートンは宇宙を全能の神によって課
 せられた暗号と見なしていた。        ――ケインズ
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケインズは早くからニュートンには注目しており、ニュートン
に関する情報を集めていたのですが、1946年のケインズの死
後に遺言によってニュートンの文書類はすべて彼の母校であるキ
ングス・カレッジに寄贈されたのです。
 一方、ニュートンの文書をせり落としたもうひとりの人物、ア
ブラハム・ヤフダ氏は1951年の死にさいして、新しく建国さ
れたイスラエルにニュートンの文書類を一任し、それは1969
年に国立図書館に寄贈され、現在はヘブライ大学に保管されてい
るのです。
 ところで、ニュートンに関しては聖書の研究に加えて錬金術の
研究も行っていたといわれています。しかも、ニュートンはそれ
を造幣局長官時代にやっていたことがわかっています。ケインズ
の文書の中には錬金術の資料も多く含まれていたのです。
 20世紀になって、ニュートンの遺髪の分析により、水銀が検
出されたのですが、これはニュートンが錬金術の実験をしていた
ことを実証する結果となったのです。
 注目されるのは、こうしたニュートンの文書類の中の聖書に関
する記述なのです。「7つのトランペットと7つの鉢の同時性に
ついて」と「黙示録T」、そしてこの世の終末に関する「黙示録
U」の中の「2060年に関して」、「黙示録V」など、興味深
い内容が満載されているのです。中でも「黙示録U」は重要な部
分なのです。        ――[ニュートンの予言/02]


≪画像および関連情報≫
 ・錬金術とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  錬金術とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から
  金属――とくに金を精錬しようとする試みのことである。広
  義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対
  象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。
  錬金術の発達の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学
  薬品の発見が多くなされ、その成果は現在の化学にも引き継
  がれている。――ウィキぺディア 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93
  ―――――――――――――――――――――――――――

アイザック・ニュートン.jpg
アイザック・ニュートン
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2010年03月05日

●『ヨハネの黙示録』のヨハネとは(EJ第2225号)

 今回のテーマは「ニュートンの予言」です。最初に「預言」と
「予言」の違いについて述べておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         神がするのは「預言」
         人がするのは「予言」
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」の2つがありますが、ど
う違うのかをおさえておく必要があります。キリスト教の本質を
なすものは「新約聖書」です。これに対して「旧約聖書」はユダ
ヤ教の経典ですから、すべてがイエスの教えに合致するとは限ら
ないのです。
 しかし、イエスは旧約聖書の世界観を持つユダヤ教徒たちを相
手に教えを説いており、旧約聖書の知識を前提にしています。で
すから、キリスト教を理解するには、旧約聖書の知識を持ってお
くことが求められるのです。
 なお、「旧約」や「新約」の「約」というのは、「契約」とか
「誓約」の「約」であるということです。日本の場合は、島国で
あり、神は日本の国土から生まれたものであって、契約などをし
なくても神は神なので、日本人にとっては「神と契約する」とい
う概念はわかりにくいと思われます。
 ニュートンは聖書を解読するに当たって、旧約聖書と新約聖書
のそれぞれから次のものを研究の対象としているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪旧約聖書≫
  ・「ダニエル書」「ミカ書」「イザヤ書」「エゼキエル書」
 ≪新約聖書≫
  ・「ヨハネの黙示録」その他いくつかな書簡
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは、歴史的事実を分析し、聖書に登場する言葉や暗
喩の解釈をし尽くしたうえで、その終わりの日、すなわち、Xイ
ヤーは、いつなのかについて解明する作業に入っています。これ
らの中でニュートンがとくに注目していたのは「ダニエル書」で
あるといわれます。そして、そのXイヤーは次のときであるとい
うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨハネの黙示録がいうところの「竜」と「獣」が一体になり、
 その力がピークに向かい始めるときをいう。 [「」は平野]
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ダニエル書」と「ヨハネの黙示録」には、それぞれ複数の怪
物が登場します。問題は、それらの怪物が何をあらわしているの
かについての解釈のしかたです。これらの「竜」と「獣」が何を
あらわすかについてはこれから考えていきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「ヨハネの黙示録」 ・・・・・ 1匹の竜と2匹の獣
  「ダニエル書」 ・・・・・・・ 4匹の獣
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの黙示録」には謎がたくさんあります。これは新約聖
書の最後に配置された書であって、新約聖書の中では唯一預言書
的性格を持つ書であるといえます。
 というのは、この「ヨハネの黙示録」は「この世界はやがて確
実に破滅する」と述べており、その時期についても、いろいろ解
釈の違いはあるけれども、明確に示しているからです。
 それに新約聖書には4つの福音書があり、その中に「ヨハネの
福音書」というものもあります。これら4つの福音書に加えて、
「ヨハネの黙示録」があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.マタイの福音書
          2.マルコの福音書
          3.ル カの福音書
          4.ヨハネの福音書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、「黙示」というのは、ギリシャ語で「アポカリュプ
ス」を訳したものであり、その原義は「覆いを取る」ということ
です。つまり、「隠されていたものが明らかにされる」という意
味なのです。
 ところで、「ヨハネの黙示録」のヨハネというのはどういう人
物なのでしょうか。
 ところがこれがはっきりしていないのです。何しろ聖書に登場
する人物には「ヨハネ」という名前の人が多いので、実に紛らわ
しいのです。まず、バプテスマのヨハネがいます。洗礼者ヨハネ
ともいわれています。
 イエスはこのヨハネから洗礼を受けたのです。そのとき、ヨハ
ネには多くの弟子がおり、ヨハネ教団を有していたのです。彼ら
の多くは後にイエスの教団に合流しています。
 ヨハネはつねづねいっていたそうです。「わたしよりも優れた
方が後から来られる。わたしはかがんでその方の履物のひもを解
く値打ちもない」と。
 それでは、このヨハネ――バプテスマのヨハネが「ヨハネの福
音書」のヨハネなのか、それても「ヨハネの黙示録」のヨハネな
のかというと、それは明らかに違うのです。
 ただわかっているのは、「ヨハネの福音書」の作者は明らかに
他の3つの福音書――マタイ、マルコ、ルカの作者に比べて、違
う観点、異なる思想を持ってイエスを描いていることは、はっき
りしており、現在では使徒ヨハネ――イエスの12使徒の1人の
ヨハネといわれています。洗礼者ヨハネと区別するため、使徒ヨ
ハネ、またはゼベダイの子ヨハネと呼んでいるのです。しかし、
このヨハネが黙示録のヨハネかというと、そうではないと考えら
れるのです。        ―― [ニュートンの予言/03]


≪画像および関連情報≫
 ・「ヨハネ」とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  旧約・新約をとおしても『黙示録』は聖書の中で最もその扱
  いが議論され、(歴史的にさまざまな理解が示されてきたこ
  とからもわかるように)人々が理解に苦しんだ書である。著
  者「ヨハネ」に関してもほとんど知られていない。伝統的な
  理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙1・2』
  『ヨハネの黙示録』の著者をすべてすべて使徒ヨハネである
  と考えてきた。           ――ウィキペデイァ
  ―――――――――――――――――――――――――――

使徒ヨハネ/福音書作者.jpg
使徒ヨハネ/福音書作者
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2010年03月08日

●黙示録は見せながら隠している(EJ第2226号)

 「ヨハネの福音書」の作者であるヨハネは、使徒ヨハネ(ゼベ
タイの子)であることは間違いないといわれていますが、「ヨハ
ネの黙示録」のヨハネが使徒ヨハネと同一人物であるかどうかに
ついては意見が分かれています。
 ところで、キリストの使徒は次の12人です。イエスは自分を
含めて13人になるよう12人を選んだといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ペテロ(シモン)   
       2.アンデレ       
       3.ヤコブ(ゼベタイの子)
    →  4.ヨハネ(ゼベタイの子)
       5.ピリポ        
       6.バルトロマイ     
       7.トマス
       8.マタイ(アルパヨの子レビ)
       9.アルパヨの子ヤコブ
      10.タダイ(ヤコブの子ユダ)
      11.熱心党のシモン
      12.イスカリオテのユダ
―――――――――――――――――――――――――――――
 伝統的な解釈では、「ヨハネの福音書」も「ヨハネの黙示録」
もすべて使徒ヨハネの作であるとしています。西暦2世紀の殉教
者ユスティヌスは、自著の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 キリストの使徒の一人で名をヨハネという人がわたしたちと共
 にいた。彼は自分の受けた啓示によって預言した。
        ――「ユダヤ人とトリュフォンとの対話」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの福音書」は預言ではないので、ユスティヌスが上記
の自著の中で「預言」といっているのは「ヨハネの黙示録」のこ
とであると考えられるのです。
 どうして、「ヨハネの黙示録」の著者が使徒ヨハネでないとい
われるのかというと、「ヨハネの福音書」が平易でわかりやすい
のに対して「ヨハネの黙示録」は内容が不気味で、難解であるか
らであり、とても同じ作者であるとは考えられないからです。
 これについては、面白い意見があります。黙示録は「内容を見
せながら隠している」という意見です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 見せながら隠すとは妙な表現だが、隠したい相手には表面的な
 意味しか分からないようにする一方、伝えたい相手には記述以
 上の意味が読み取れるようにするということだ。たとえば、地
 中に宝を埋める場合、そのに上に目印を置くが、あからさまに
 宝のありかを示すような目印では困るし、目印と分からなくて
 も困る。そこには絶妙な匙加減が必要で、黙示録にはそれが仕
 掛けられているのである。
      ――飛鳥昭雄著、『[言霊でしか解けない]聖書』
                        徳間書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 あえて分かりにくくしているのであれば、黙示録の作者はヨハ
ネであっても不思議はないといえます。問題はその隠されたもの
をどうようにして読み解くかということです。
 ノンフィクション作家の神代康隆氏によると、「ヨハネの黙示
録」には次の4つの解釈があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.過去主義的解釈
          2.歴史主義的解釈
          3.未来主義的解釈
          4.象徴主義的解釈
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「過去主義的解釈」です。
 黙示録は、当時のキリスト教会とローマ帝国の闘争の歴史的事
実を象徴的な表現で書いたものであって、そこに示されているこ
とは既に終わっているという考え方です。
 第2は「歴史主義的解釈」です。
 黙示録はヨハネの時代からこの世の終りまでの人類の歴史を一
般的に眺望した書物であるという考え方です。黙示録には既に終
わったこともこれから起こることも含まれているのです。ニュー
トンはこの考え方に立って、黙示録を読み解き、この世の終わり
の時期を予測したのです。
 第3は「未来主義的解釈」です。
 この考え方は、黙示録預言は今後未来において起こると説いて
いるのです。未来に起こるといってもそんなに先のことではなく
この世の終りの時期のことです。その大破局がどのようにして起
こるのかについて描いているというのです。
 第4は「象徴主義的解釈」です。
 これは、黙示録が字義通りの意味のほかに、別な意味が隠され
ているとする考え方です。その謎を説くには、ある特別な方法が
必要であるというのです。この「特別な方法」についてはいずれ
詳しく述べる予定です。
 それでは、現代の聖書学者や黙示録研究家は、この「ヨハネの
黙示録」をどのようにとらえているのでしょうか。
 米国の聖書学者であるヘンリー・H・ハーレイ氏は、次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ことばをその最も明白な意味に取ると、最も単純で、最も明瞭
 で、最も自然で、最も合理的な解釈は「歴史派」と「未来派」
 の解釈を結合させたものである。      ――神代康隆著
     『神の計画書[黙示録]大預言』より/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
              ――[ニュートンの予言/04]


≪画像および関連情報≫
 ・「福音書」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  福音書とはイエス・キリストの言行録のこと。通常は新約聖
  書におさめられた福音書記者による四つの福音書(マタイに
  よる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハ
  ネによる福音書)を意味する。その他にトマスによる福音書
  などがあるが、正典として認められず、外典となっている。
  福音とは本来、「良い知らせ」という意味である。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

言霊でしか解けない/聖書.jpg
言霊でしか解けない/聖書
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2010年03月09日

●黙示録のシンクロニシティ(EJ第2227号)

 聖書――黙示録の預言などというと、頭から信じない人がたく
さんいます。しかし、世の中に不思議なことがたくさんあるとい
う事実は否定できないでしょう。「世にも不思議な物語」という
テレビ番組もありますね。
 ひとつの例を上げます。これは実話です。
 ある大学の教授が学会のため北海道に出張することになったの
です。そのとき、北海道に住んでいる2人の教え子に会いたいと
思い、2人に電話を入れたのです。教え子の一人とは連絡がつき
ある場所で会うことにしたのですが、もう一人の教え子とはどう
しても連絡がとれなかったのです。
 仕方がないので、北海道に着いて、アポが取れた教え子との待
ち合わせの場所に行ったのですが、少し早く着いてしまったので
近くをぶらぶらしているといきなり後ろから声をかけられたので
す。「先生!どうされたんですか!?お久しぶりですね!」と。
 驚いて振り向くと、なんとどうしても連絡のとれなかったもう
一人の教え子が立っていたのです。やがて約束した教え子もやっ
てきて、教授は3人で食事をすることができたのです。
 ちなみにこの教授は、このような出来事によく遭遇するそうで
「人間というのは、不思議な事だが、会いたいと思っている人に
は会えるようになっているんだなぁ」といっています。
 このような話をすると、多くの人は「そんなの偶然の一致」と
片付けてしまいます。しかし、こういう不思議な偶然に注目した
スイスの心理学者がいたのです。その心理学者こそカール・グス
タフ・ユングなのです。
 彼はこの不思議な現象を「偶然の一致」とは呼ばず、「意味あ
る偶然」と名付けたのです。そして彼は、世界に溢れるこの「意
味のある偶然」に注目して、それを「シンクロニシティ」と命名
したのです。「シンクロニシティ」は直訳すると「共時性原理」
――意味のある偶然」という意味になるのです。
 ユングは、「この世の中のもの全ては繋がっていて連動してい
る」といっています。この繋がりは目に見えるものではなく、普
段は意識の底の底に沈んでいて、人間だけでなく、動物、植物、
鉱物から、この世にあるもの全てを繋がっているのです。そして
互いに影響を与え合い、互いに連動して動くのです。世の中にあ
る何かが動けば、他のものも影響を受けて動く、といった感じに
影響力が広がっていきます。
 世の中の動きは、この意味ある偶然の積み重ねによって、直線
的ではなく、らせん状に出来事を繰り返して進んでいくと考えら
れるのです。同じようなことが何回も繰り返されながら、進行し
ていくというわけです。「ヨハネの黙示録」にはそういうシンク
ロニシティが多くみられるのです。
 念のため、シンクロニシティを次のように定義しておくことに
きます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近
 接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で
 規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係
 も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、
 シンクロニシティの作用とみなす。   ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国の16代のリンカーン大統領と35代大統領のケネディ大
統領には驚くべきシンクロニシティがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ●リンカーンが下院議員に初当選したのは1846年。一方の
  ケネディが下院議員に初当選したのは100年後の1946
  年。リンカーンは1856年に大統領選で副大統領候補とな
  り、大統領になったのは1861年。ケネディは1956年
  に大統領選で副大統領候補、大統領になったのは100年後
  の1961年。
 ●リンカーンの後任大統領アンドリュー・ジョンソンは、18
  08年生まれでリンカーン暗殺の10年後に死亡。ケネディ
  の後任大統領のリンドン・ジョンソンは1908年生まれで
  ケネディの暗殺のやはり10年後に死亡している。
 ●リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、18
  39年生まれ、ケネディを暗殺したリー・ハーヴェイ・オズ
  ワルドはやはり100年後の1939年生まれ。
 ●リンカーン暗殺後、犯人のブースは劇場から逃走し、倉庫で
  身柄を確保されている。一方、ケネディ暗殺後、オズワルド
  は倉庫から逃走し、劇所で身柄を確保されていいる。そして
  ブースもオズワルドも裁判が行われる前に、第三者によって
  暗殺されている。
 ●リンカーンもケネディも金曜日に妻の目の前で銃で頭を撃た
  れている。           中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにリンカーンとケネディの周辺では、100年単位で
まったく同じことが起こっているのです。これは、単に個人だけ
ではなく、かつてのローマ帝国でもこういった奇妙な一致が起き
ているのです。
 「ヨハネの黙示録」においては、古代、中世、未来の3つの時
代について預言が行われており、それがシンクロニシティに基づ
いていることをニュートンは発見したと思われるのです。そこで
ニュートンは、シンクロニティを使って、「ヨハネの黙示録」の
中に登場するさまざまな暗号がどの時代のどういう事件を預言し
たものかを判断して絞り込んでいったものと思われます。
 2060年に世界は破滅する――単なる予言ではないのです。
世界的に有名で知らない人はいない天才科学者であるアイザック
・ニュートンが50年もの歳月をかけて計算して出した結論なの
です。そこには確固たる裏付けがあっての結論のはずです。来週
も謎を追います。      ――[ニュートンの予言/05]


≪画像および関連情報≫
 ・シンクロニシティ関連サイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  私がシンクロニシティで大切だと思っていることは意味ある
  偶然です。人は何か偶然の体験をした時、何も気にすること
  はないかもしれません。または、たまたまだ、運が良かった
  だけだよ、こういうこともあるんだな、と思うぐらいかもし
  れません。偶然が偶然を呼ぶことに驚かされることは、多々
  あるのではないでしょうか。この偶然が重なる体験のことを
  私は「意味ある偶然」として、人生において大変意味がある
  考えています。そして、大切なことは、何回も連続して起こ
  る、シンクロニシティ、意味ある偶然の示す意味、方向性、
  テ−マを理解することです。それが、私達がこれから進むべ
  き人生の目標、生まれてきた目的に対するメツセ−ジでもあ
  るからです。
     http://www.office-stella.com/synchronicity.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

リンカーン/ケネディ.jpg
リンカーン/ケネディ
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2010年03月10日

●対抗心が強い権威主義者/ニュートン(EJ第2228号)

 アイザック・ニュートン――私たちはニュートンについてどの
くらいのことを知っているでしょうか。
 庭でぼんやりとリンゴの木を見ていたら、リンゴが落ちてきた
ことから引力についてのインスピレーションが湧き、万有引力の
発見をした英国の科学者にして偉人――このぐらいのイメージし
かないのではないでしょうか。
 そこで「ニュートンの予言」の内容に入る前に、ニュートンが
どういう人物だったのかについてご紹介したいと思います。彼は
かなり対抗心の強い人物であったといわれます。
 ニュートンについて、科学者として現在定まっている評価は、
次のようなものであり、評価は妥当であると思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートンは、自然科学(物理・数学)史上空前
 の大天才である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートン以前でニュートンに匹敵するのは、アルキメデスぐ
らいなものであり、ニュートン以後にはニュートンに匹敵する科
学者は出ていないといってよいと思います。それほどの大天才で
あることは確かなのです。
 しかし、その人格はどうであったかというと、かなり自己中心
で対抗意識が強く、猜疑心の強い性格の権威主義者であったとい
われているのです。それは、次の3人の科学者との先取権争いに
よくあらわれていると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.ロバート・フック
     2.ゴットフリート・ライプニッツ
     3.ジョン・フラムスティード
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回は、ロバート・フックとの争いについて述べます。
 ロバート・フックは英国の物理学者で生物学者であり、科学の
さまざまな分野で活躍した人です。彼はどのようなことでニュー
トンと対立したのでしょうか。
 1669年〜1672年にかけて、ニュートンは光に関しての
理論を講義録としてまとめています。そのかたわら、反射望遠鏡
を自ら開発したのです。
 この反射望遠鏡はとても評判になり、これがきっかけとなって
1672年にロンドン王立協会の会員に選出されることになった
のです。そこで、ニュートンは自分の光学に関する理論を王立協
会で発表しようとしたのです。
 しかし、ニュートンの論文を読んだロバート・フックは、ここ
に書かれていることは既に『顕微鏡観察誌』で自分が発表済みの
ことであり、目新しいものは何もないと発表に反対したのです。
ロバート・フックは王立協会の創立者の一人であり、初代事務局
長でもあったので、ニュートンの発表は中止になったのです。
 この一件があってから、ニュートンはそれ以後の学会での発表
には非常に慎重になったのです。彼はその頃既に万有引力の法則
を発見していたのですが、その発表の時期をその後慎重に探るこ
とになります。
 よく知られているように、天動説を覆して地動説を唱えたのは
ニコラウス・コペルニクスです。これは「コペルニクス的転換」
といわれるように、当時としては驚天動地のことだったのです。
 しかし、ひとつだけコペルニクスは大きな間違いを冒していた
のです。その間違いとは、惑星が円軌道を描いて運行するという
点です。
 これを修正したのは、ヨハネス・ケプラーなのです。ケプラー
は、惑星の運動を歪んだ円、もしくは楕円であるとしたのです。
もし、惑星の運動を楕円とすると、他の観測結果とも一致するこ
とが証明され、後に「ケプラーの法則」と名付けられたのです。
 ただ、そのときケプラーは「太陽と惑星の間に磁力のような力
が存在する」ことを確認していたのですが、その正体が何である
かはわかっていなかったのです。
 「距離の2乗に反比例する力によって、惑星は太陽に引かれて
いる」――これはケプラーの法則によって導かれる結論です。こ
の力の正体を突き止めたのはアイザック・ニュートンです。ニュ
ートンはその力を「リンゴが落ちる力と同じである」とし、万有
引力と名付けたのです。しかし、この内容にもロバート・フック
は自分が先であるといい出してニュートンを怒らせます。
 ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーは、ニュートンよりも
14歳も若いのですが、ニュートンをしばしば訪ねて指導を受け
ていたのです。ハレーは、ロバート・フックとの対応でいら立つ
ニュートンをなだめ、資金を提供するからニュートンに万有引力
の法則を論文にまとめるよう働きかけたのです。
 そのようにして完成したのが、『自然的哲学の数学的諸原理』
――「プリンピキア」なのです。「プリンピキア」は1687年
に刊行されたのです。
 その後もロバート・フックは、ニュートンに対し、いろいろ反
対を唱えていたのですが、1703年に死亡してしまい、フック
との先取権争いはニュートンが勝ったのです。そして、フックの
死亡した年にニュートンは王立協会の会長に就任するのです。
 ニュートンが王立協会の会長になり、1705年に爵位を受け
て、サー・アイザック・ニュートンになると、彼は死ぬまでその
地位に居座り続けたのです。ニュートンは権威主義者であり、彼
が会長になると、王立協会には自由な雰囲気がなくなってしまっ
たといわれているのです。
 何もかも規則づくめで堅苦しいものになり、協会の細部の決定
――例えば引越しのことまで、ニュートンは会長として自分の意
見を通したのです。ニュートンは最後まで自分の業績にケチをつ
けたフックの決めた規則をすべて変更するということまでやった
のです。ニュートンの死後、協会長になったハンス・スローンは
その規則を全廃しています。 −−[ニュートンの予言/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・フック(1635〜1703)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロバート・フックは、イギリスの物理学者、生物学者。オッ
  クスフォード大学に学び、ロバート・ボイルの助手となる。
  科学の様々な分野で活躍した。オックスフォード大学の科学
  者たちは、王政が復古した1660年、ロンドンに移り王立
  協会を作る。フックもこれに参加し、1662年に実験係と
  なる。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・フック.jpg
ロバート・フック
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2010年03月11日

●ライプニッツやフラムスティードとの確執(EJ第2229号)

 ロバート・フックに続いてニュートンと先取権争いをした学者
は、ゴットフリート・ライプニッツとジョン・フラムスティード
の2人です。前者は微分積分の先取権争いであり、後者は月の観
測データを巡る争いです。
 ケプラーの逆2乗則――万有引力の法則の先取権争いについて
は明らかにロバート・フックに分が悪かったといえます。ただ、
そのときニュートンは王立協会の会員になったばかりであり、事
務局長のロバート・フックに抗すべくもなかったのです。
 しかし、微分積分の先取権争いのときのニュートンは高名な学
者になっており、かなり強引な争いをやっているのです。ニュー
トンは王立協会の協会長になると、その地位を利用して各大学に
自分の息のかかった人間を送り込み、やがて英国の科学界に君臨
するようになっていったのです。したがって、ニュートンの逆鱗
に触れると大変であり、多くの学者はニュートンを恐れるように
なったといいます。
 ライプニッツは1684年に微分積分法を発表しているのです
が、ニュートンは1687年にプリンピキアで発表しているので
す。したがって、発表はライプニッツの方が早いのです。しかし
ニュートンは何らかの方法で、ライプニッツが自分の微分積分法
を盗んだと主張したのです。ニュートンは既に1666年に微分
積分法を考案していたと主張したのです。
 ライプニッツの数学的業績としては、第一に微分積分法ですが
それ以上に重要な業績は今日の形式言語に該当するものを考案し
ていることです。この形式言語を利用することで、どのような推
論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることがで
きるのです。また、ライプニッツは2進法も研究しており、後の
コンピュータ開発の基礎になる技術を先取りしていたのです。
 そういうわけですから、ライプニッツがニュートンの微分積分
法を盗んだとはとうてい思えないのです。彼は微分積分法に対す
る適切な記号を考案しており、現在使われている微分積分の記号
は、ライプニッツの考案によるものです。
 それでは、ジョン・フラムスティードとはどういう争いがあっ
たのでしょうか。ジョン・フラムスティードは、英国の天文学者
です。彼は、1666年と1668年に起きた日食を正確に予測
した功績によって、1675年に初代の英国王室天文官に任命さ
れています。
 ニュートンは月についても研究しており、それを前進させるた
め、フラムスティードに月の観測データの提供を求めたのです。
しかし、フラムスティードとしては、もう少し観測精度を上げて
から発表は自分の手で行いたいと考えていたので、ニュートンの
要請を拒否したのです。
 ニュートンははじめのうちは丁重にデータを要求したのですが
拒否されると居丈高になり、その政治力にものをいわせて、子分
にしていたハレーを使って、フラムスティードの観測データを強
引に雑誌に掲載させる措置を取ったのです。
 それに加えて69歳のニュートンは王室協会長として、65歳
のフラムスティードを呼び出して問い詰め、フラムスティードの
言に怒り狂ったニュートンは公衆の面前でフラムスティードに罵
詈雑言を浴びせるということまであったのです。
 これが原因でフラムスティードは失意のうちに1719年に死
亡してしまうのです。このようにして、ニュートンは頑健な体力
で、フラムスティードにも勝ったのです。
 なぜ、ニュートンはかくもフラムスティードに冷たかったのか
というと、それはひとつだけニュートンがフラムスティードに負
けたことがあるからです。
 それは、1680年に現われた彗星をフラムスティードが正確
に1つの彗星であると指摘したのに対し、ニュートンは2つであ
ることに固執したのです。しかし、結局フラムスティードの方が
正しいことをニュートンは認めざるを得なかったのです。
 ニュートンやハレーとフラムスティードとは、天文台長の仕事
の認識が根本から異なっていたのです。ニュートンらは天文台長
は観測データを提供するサービス業であると考えていたのに対し
フラムスティードは観測家として誇りを持ち、少しでも誤差の少
ない観測データを自らの手で発表したいと考えていたのです。実
際にフラムスティードはそういうデータをまとめて、「英国天文
誌」に出版したのですが、生前は出版を差し止められ、出版され
たのは死後の1725年になってからだったのです。
 しょせん、ニュートンとフラムスティードとは学者としても地
位としても差があり過ぎて、争いにならなかっのです。それに加
えてニュートンは健康であり、死の直前まで元気そのものであり
長く英国の学会に君臨したのです。
 後日談ですが、1727年の最後の王立協会の席でもニュート
ンは元気そのものであり、そのとき、第2代の天文台台長になっ
ていた71歳のハレーを観測データの報告が遅いことを頭ごなし
に叱責したというのです。しかし、それから半月後にニュートン
は死亡しています。
 このように見ていくと、ニュートンという人物は科学者として
は一流の人物であったことは確かですが、尊大な権威主義者で、
強大な政治力を持ち、自分に歯向かう者には徹底的にねじふせる
ところのある人物だったようです。
 ニュートンが学者でも政治力が必要であると感じたのは、王立
協会での最初の論文発表が、ロバート・フックに潰されたことが
原因であったようです。もともと性格は臆病であり、自分の研究
発表には異常なほど慎重であったのです。
 このように学会を牛耳る政治力を得たニュートンでも聖書の研
究に関しては、文字通り用心深く秘密裡に行っていたのです。そ
れは、教会勢力を心から恐れていたからです。
 ニュートンの輝かしい業績のどれよりも時間をかけて取り組ん
だ聖書の研究――これに比べれば他の学問的業績は彼にとって附
加的なものに過ぎなかったのです。[ニュートンの予言/07]


≪画像および関連情報≫
 ・「プリンキピア」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『自然哲学の数学的原理』は通称「プリンキピア」とも言わ
  れ、初版は1687年に出たが、本書は1726年にロンド
  ンで出版された第3版である。ニュートンは、早くから無限
  級数を研究して1664年に2項定理を樹立し、流分法の思
  想を求積や接線の問題に応用して、その成果を論文で発表し
  ている。流分法の独立の展開―――微積分法の概念を示した
  『プリンキピア』の構成はエウクレイデスの『幾何学原理』
  の構成をそのまま採用している。『プリンキピア』では定義
  の次に運動の諸公理と題して3原理とそれを補足して6系を
  あげている。いわゆる「ニュートンの運動の3原理」として
  知られているもので、ニュートン力学の根本原理である。
   ――http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/166.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ライプニッツ&フラムスティード.jpg
ライプニッツ&フラムスティード
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2010年03月12日

●ニュートンの錬金術研究(EJ第2230号)

 ニュートンが親しく付き合い、影響を受けていたロバート・ボ
イルという人がいます。アイルランド・リズモア出身の貴族で化
学者、物理学者でもあった人です。
 ニュートンと対立したロバート・フックの師であり、フックを
王立協会――現在の英国国家科学アカデミーの会員にさせたのも
ロバート・ボイルなのです。彼は、フランシス・ベーコンなどと
共に王立協会の設立に関わっている大物の一人です。
 ロバート・ボイルは、1627年生まれであり、イートン校で
教育を受けたのですが、その学寮長のヘンリー・ウットン卿の影
響で、ボイルは秘密結社である薔薇十字団と関わりを持つように
なったのです。
 薔薇十字団というのは、17世紀のヨーロッパにおける話題の
秘密結社であり、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使し、人知
れず世の人を救うことを目的にしているのです。
 1639年にボイルはフィレンツェに行き、長く滞在している
のですが、メディチ家に身を寄せていたといわれます。メディチ
家は薔薇十字団と関係があり、教皇の圧力に対抗して、ガリレオ
らの科学者を保護し、支援していたといわれます。ボイルもその
庇護を受けていた一人なのです。
 薔薇十字団といえば、魔術、錬金術、カバラというものが連想
されますが、ニュートンはそういうものとの接点があったといわ
れるのです。とくに彼は錬金術に凝っていたといわれているので
すが、それを教えたのはロバート・ボイルなのです。
 ロバート・ボイルは、次の論文を書いており、彼の死後それら
はニュートンに預けられています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「水銀と金の加熱」 ・・・・・・・ 1675年
   「金の劣化に関する歴史的考察」 ・ 1677年
―――――――――――――――――――――――――――――
 錬金術とは、化学的手段を用いて卑金属から貴金属――とくに
金を精錬しようという試みのことです。現代から考えると、全く
の愚行として一笑に付することになりますが、歴史を通して見る
と、錬金術は古代ギリシャの学問を応用したものであり、その時
代においては正当な学問だったのです。それどころか、その研究
が、科学である今日の化学の基礎になったのです。
 重要なことは、ニュートンがこの錬金術に尋常ならざる関心を
持ち、錬金術に関する膨大な文献を残していることです。錬金術
は広義に解釈すると、一般の物質を完全な物質に変化・精錬しよ
うとする技術ですが、さらには人間の霊魂をより完全な霊魂に変
性して神に近づける、神と一体になる方法でもあるのです。そう
なると、聖書にも関係してくることになります。
 錬金術は、相対立する物質をフレスコの中で溶解させることで
新たな物質を作り出し、相異する2つの卑金属を合成して黄金な
どの成果を生み出す技術であり、神秘主義や魔術などの異教・異
端に深く関わっているのです。
 したがって、ニュートンが錬金術の研究に尋常ならざる意欲を
もって取り組んでにいたということは、いわゆる異教・異端に関
わっていたことを意味します。ましてニュートンは、英国の造幣
局長官の要職にあり、死ぬまでその職にあったのですから、錬金
術を研究するのは明らかに問題があります。
 聖書は「神の計画書」といわれます。その神の計画を実行に移
すのは、謎の団体――秘密結社であるといわれています。秘密結
社というと、ニュートンはフリーメイソンなのかと考える人がい
るかも知れませんが、ニュートンとフリーメイソンを結びつける
事実はないのです。
 しかし、驚くべき事実があります。それは、ニュートンとシオ
ン修道会との関係なのです。シオン修道会とは、あの映画『ダ・
ヴィンチ・コード』にも出てくる秘密結社です。
 シオン修道会とはどういう団体なのでしょうか。
 次の記事は1981年1月22日付のフランスの新聞に掲載さ
れたものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 121名の著名人で構成される紛れもない秘密結社プリウレ・
 ド・シオン団は、1095年、エルサレムでゴドフロワ・ド・
 ブイヨンが設立したもので、それにはレオナルド・ダ・ヴィン
 チ、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーなどが総長として
 名前を連ねてきた。この結社が1981年1月17日、ブロワ
 で総会を開いた。このブロワの総会で、ピエール・ブランター
 ル・ド・サン=クレールが三度目の投票で92票中83票を獲
 得して総長に選ばれた。総長の選出は、この結社の世界に対す
 る思想と方針に決定的な影響を与えることになる。なぜなら、
 プリウレ・ド・シオン団の121名の幹部は、財界や國際政界
 思想界で隠然たる勢力を誇っているからで、さらにピエール・
 ブランタールは、ダゴベルト2世を経るメロヴィング王家直系
 の子孫にあたっているといわれている。彼の系統は、1891
 年にレンヌ・ル・シャトーの教会でソニエール神父が発見した
 カスティーリャのブランシュ女王の羊皮紙によって法的に証明
 されている。これらの文書は、1965年に神父の姪がローラ
 ンド・スタンモア長官とトーマス・フレイザー卿に売却し現在
 有限会社ヨーロッパ・ロイド銀行のロンドン支店の貸金庫に保
 管されている。        ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 シオン修道会は、11世紀の中世に遡る歴史があるといわれて
います。その根拠としては『秘密文書』といわれる冊子の記述に
あるのですが、この文書については、最後の総長を自認するピェ
ール・プランタールが、自ら捏造であることを1993年に告白
したことによって、現在ではそれが信じられています。しかし、
果たして本当に捏造なのかについては、その根拠というものがな
い状況です。        ――[ニュートンの予言/08]


≪画像および関連情報≫
 ・薔薇十字団とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1614年にヘッセンのカッセルで、匿名の1冊の小冊子が
  出版された。いわゆる「友愛団の名声」である。より正確に
  は「世界の改革」なる小説、「友愛団の名声」、およびアダ
  ム・ハーゼルアイマーの署名のある「尊敬すべき薔薇十字友
  愛団への短い返答」の3文書を収録した小冊子だ。このドイ
  ツ語の冊子は大成功を収め、あっというまに版を重ね、オラ
  ンダ語および英語に訳された。この成功に気を良くしたのか
  翌15年には、「友愛団の名声」の第二版が出た。これには
  「薔薇十字団の告白」なる、新たな文書が収録されていた。
  さらに16年には、3冊目の薔薇十字文書の「化学の結婚」
  が出版された。
    http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/barakigen.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・ボイル.jpg
ロバート・ボイル
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2010年03月15日

●シオン修道会とニュートンの関係(EJ第2231号)

 なぜ「ニュートンの予言」の話にシオン修道会が出てくるのか
というと、ニュートンがシオン修道会の第19代の総長であった
といわれているからです。
 しかし、シオン修道会――プリウレ・ド・シオン団は、現在表
面上は実在しない組織であったということになっています。その
理由は、シオン修道会のことを後世に伝える文書――アンリ・ロ
ビノーの秘密文書が、シオン修道会の最後の総長であると自称し
ていたピエール・プランタール自身がそれらは捏造文書であると
告白したからです。
 このアンリ・ロビノーの秘密文書は、1964年〜67年にか
けて、パリのフランス国立図書館に「アンリ・ロビノーの秘密文
書」と題して6バージョン、匿名者――アンリ・ロビノーからの
寄贈というかたちで登録されたのです。
 それら6つの文書は、メロヴィング朝フランク王国について記
述されたもので、その概要は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.メロヴィング朝フランク王国の家系は現在も続いている
 2.レンヌ=ル=シャトーの謎/別人の名の署名
 3.レンヌ=ル=シャトーの謎/別人の名の署名
 4.第1文書の内容を補う記述
 5.奇妙な詩――「赤い蛇」の署名
 6.「アンリ・ロビノーの秘密文書」というタイトルがある
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1文書の署名は、ピエール・プランタール自身であり、彼は
自らダゴベルト2世の隠された血筋の末裔であるとそこで名乗っ
ているのです。この中で注目すべきは第5文書なのです。
 第5文書は「赤い蛇」という奇妙な名前で登録されているので
すが、この文書の作者は3人いるのです。これら3人は実在の人
物ですが、文書が登録される直前に全員死亡しているのです。ち
なみに文書が登録されたのは1967年のことです。
 これら3人は秘密の記録を残した後、全員が暗殺されたか、自
殺したということをピエール・プランタールは暗示したかったの
ではないかと思われるのです。
 ここまで書くと、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』
を読んだ方は気が付くと思います。そうです。話が非常に似てい
るからです。もしかしたら、ダン・ブラウンは、この第5文書を
読んでシナリオを書いた可能性もあると思います。
 ところで、ピエール・プランタールは、これらの文書は捏造で
あると告白したので、そのため、シオン修道会そのものも実在し
ないものとされてしまったのですが、これは明らかに間違いであ
ると思うのです。
 というのは、フランス政府の官報によると、シオン修道会は実
際に存在した組織であり、1956年6月25日に発足の届け出
が出されているのです。それには届け人として次の2人の名前が
あるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   『カトリック制度と戒律での独立伝統主義騎士団』
   会長  /アンドレ・ボノム
   事務局長/ピエール・プランタール
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところが、この組織の活動の痕跡はほとんどなく、1993年
まで継続したもののその時点で解散しています。この経過から考
えられることは、ピエール・プランタールなる人物がメロヴィン
グ朝フランク王国の末裔を名乗り、『カトリック制度と戒律での
独立伝統主義騎士団』という組織を立ち上げたが、それが実はシ
オン修道会であることを証明するため、秘密文書を捏造してフラ
ンス国立図書館に登録したのではないかということです。
 しかし、この文書が捏造であるといっても、それがシオン修道
会の存在を否定することにはならないのです。それにピエール・
プランタールなる人物、国際社会の中枢を知る人の間では有名な
存在だったようです。彼はあのド・ゴール大統領とも懇意であり
ある意味でフランスを動かせる大物の1人だったといいます。
 フランス政府は、ピエール・プランタールを反政府活動分子と
見ていたようであり、そのバックグラウンドになっているシオン
修道会を別件の裁判を利用して潰しにかかったのではないかとも
いわれているです。
 ところで、このシオン修道会とは何なのでしょうか。ダン・ブ
ラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』でもこの秘密結社が今いちわ
からない存在であり、話の筋がよく読めなかった人が多いと思う
のです。それに、ニュートンがその19代の総長であるというの
は本当のことなのでしょうか。
 メロヴィング朝の家系に関わる資料には「シオン修道会歴代総
長」のリストがあるのです。そこから、第1代から第7代をピッ
クアップしてみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1代 ジャン・ド・ジゾール     1188〜1220
 2代 マリ・ド・サン=クレール   1220〜1266
 3代 ギョーム・ド・ジゾール    1266〜1307
 4代 エドアール・ド・バール    1307〜1336
 5代 ジャンヌ・ド・バール     1336〜1351
 6代 ジャン・ド・サン=クレール  1351〜1366
 7代 ブランシュ・デヴロー     1366〜1398
―――――――――――――――――――――――――――――
 シオン修道会の初代の総長であるジャン・ド・ジゾールは、ノ
ルマンディのジゾール要塞の領主です。なお、2代、5代、7代
は女性の総長です。
 ところで、初代から7代までを見ると、「ジャン」か「ジャン
ヌ」を名乗る人が3人もいますが、これには意味があります。と
いうのは、「ジャン」または「ジャンヌ」は「ヨハネ」のフラン
ス語表記であるからです。  ――[ニュートンの予言/09]


≪画像および関連情報≫
 ・メロヴィング朝とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世が勢力を
  伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴ
  ィング朝を開いた。496年、クローヴィスはカトリック教
  徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたア
  リウス派キリスト教(異端宗派)より家臣4000名ととも
  に正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗
  した。これを「クロヴィスの改宗」という。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

映画『ダ・ヴィンチ・コード』より.jpg
映画『ダ・ヴィンチ・コード』より
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2010年03月16日

●ニュートンは異端の神学者である(EJ第2232号)

 シオン修道会の総長に「ジャン」あるいは「ジャンヌ」を名乗
る者が多いことについては前回述べた通りです。この「ジャン」
あるいは「ジャンヌ」は「ヨハネ」のフランス語表記なのです。
これについて、シオン修道会関係者は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この襲名制度は明らかに、ペトロを原点とする教皇制度とは対
 照的な、ヨハネを原点とする秘教的・魔術的な教皇制度を意図
 したものと思われる。     ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについては、改めて詳しく述べますが、「ペトロを原点と
する教皇制度」とは明らかにローマ教会(カトリック)を指して
いると思われます。
 カトリックではペトロを初代のローマ教皇とみなすのです。こ
れは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与え
られ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなし
ているからです。
 そうであるとすると、シオン修道会は「ヨハネを原点とする教
皇制度」に立脚していて、ローマ教会に対立する組織ということ
になります。そして、その実体はメロヴィング家の子孫たちの組
織ということになるのです。
 しかし、シオン修道会の総長のリストをよく見ると、メロヴィ
ング家の子孫でない人たちも多く入っているのです。その中で誰
でも知っている有名人をピック・アップしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  8代 ニコラ・フラメル      1398〜1418
 11代 サンドロ・ボッティチェルリ 1483〜1510
 12代 レオナルド・ダ・ヴィンチ  1510〜1519
 18代 ロバート・ボイル      1654〜1691
 19代 アイザック・ニュートン   1691〜1727
 24代 ヴィクトル・ユゴー     1844〜1885
 25代 クロード・ドビュッシー   1885〜1918
 26代 ジャン・コクトー      1918〜1963
 27代 ピエール・プランタール   1963〜1984
                ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 8代のニコラ・フラメルは血族以外の最初の総長ですが、彼は
錬金術師です。11代のサンドロ・ボッティチェルリは画家であ
り、レオナルド・ダ・ヴィンチと親交があります。そのせいか、
第12代の総長はレオナルド・ダ・ヴィンチです。
 18代はロバート・ボイル、EJ第2230号で述べたように
ニュートンと親交があり、おそらくそのせいでアイザック・ニュ
ートンは第19代の総長になったのでしょう。つまり、前総長と
後継者の間柄です。
 24代から26代までの3人は、説明の必要がないほどの有名
人です。ヴィクトル・ユゴー、クロード・ドビュッシー、ジャン
・コクトー、いずれもシオン修道会の総長をやっているのです。
そして、最後の27代総長が昨日のEJで述べたピエール・プラ
ンタールなのです。
 さらに驚くべきことがあります。名前の横の数字は在任期間を
示しているのですが、それが実に長いことです。レオナルド・ダ
・ヴィンチ36年、ボイル37年、ニュートン34年というよう
に、30年以上やっている人はザラです。一体そんなに長期間何
をやっているのでしょうか。
 もちろん、このシオン修道会の総長リストが本物であるという
証拠はないのです。確かにピエール・プランタールの告白により
文書は捏造ということになっているので、シオン修道会も存在し
なかったことになるのです。
 しかし、後でわかるように、ニュートンのキリスト教に対する
考え方や聖書研究への異常なほどの傾倒ぶりを知ると、彼がシオ
ン修道会の総長であってもおかしくないとも考えられるのです。
 それどころか、いわゆる微積分、光学的発見、万有引力の法則
などの輝かしい業績を持つ数学・物理学者としてのニュートンは
あくまで表看板に過ぎず、本来たどりつくべき彼の本当の顔は異
端の神学者なのです。つまり真の神の声を聞き、それを人類に伝
えるシオン修道会の総長の顔であったのです。だからこそ、ニュ
ートンは予言書を残したのです。
 これについて、中見利男氏は自著において次のように述べてい
ます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 正確には数学・物理学者のニュートンが聖書を研究していたの
 ではなく、実際はその逆で、異端の神学者ニュートンが人生の
 ある時期に数学・物理学者としての顔を持ったに過ぎないとい
 うことだ。          ――中見利男氏の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このテーマは今回が10回目ですが、既にわからないことがた
くさん出てきています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.メロヴィング朝とは何なのか。メロヴィング朝とシオン修
   道会とはどういう関係にあるのか。
 2.ペトロを原点とする教皇制度とヨハネを原点とする教皇制
   度とはどこがどのように違うのか。
 3.キリスト教の「正統」と「異端」の違いは何か。アリウス
   派とアタナシウス派とは何なのか。
 4.シオン修道会という組織は何のために存在し、最終的には
   どのようなことを実施したいのか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらがわからないと、ニュートンの予言は理解することが困
難であると思います。    ――[ニュートンの予言/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ペトロとは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したこ
  とはすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福
  音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの
  墓にかけつけている。『使徒言行録』では、ではペトロはエ
  ルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエス
  の名によって奇跡的治癒を行っている。
                    ――ウィキペディア
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖ペトロ.jpg
聖ペトロ
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2010年03月17日

●メロヴィング家とフランク王国(EJ第2233号)

 「ニュートンの予言」を理解するためには、まず、メロヴィン
グ朝について知る必要があります。メロヴィング朝はフランスの
最初の王朝で、5世紀から8世紀にかけて、現在のフランスとド
イツにあたる領土を統治下に置いていたのです。
 西暦370年頃のことです。ローマ帝国の北方から黒海北岸に
多くのゲルマン人が住んでいたのです。彼らは部族単位で農耕牧
畜で生活をしていました。そこに、フン族という民族が移動して
きたのです。
 このフン族に追われるようにして、ゲルマン人は部族単位で西
に移動をはじめたのです。これが375年頃からはじまった「ゲ
ルマン民族の大移動」です。
 これらのゲルマン民族は、次々とローマ帝国の領地に乱入して
きたのです。現代流にいえば「難民」です。それまでもローマ領
に侵入してくるゲルマン民族は多かったのですが、東西ローマ帝
国は何とかそれを食い止めてきたのです。
 しかし、今回は規模が違っていたのです。それでも東ローマ帝
国は何とか国境の防衛に成功したのですが、西ローマ帝国は防衛
に失敗したため帝国は大混乱し、皇帝はゲルマン人の親衛隊長オ
ドアケルに殺されてしまったのです。
 西ローマ帝国に進入したゲルマン民族は、あちこちに勝手に建
国し、互いに争いをはじめたのです。そのときガリア地方北部に
侵入していた民族がフランク族なのです。
 もともとフランク族は、ライン河河口一帯(現在のオランダ、
ベルギー)に住んでいたのですが、北ガリアに移動してきたので
す。そして、481年にメロヴィング家のクロヴィスがフランク
族を統一し、フランク王国を建国したのです。
 507年にクロヴィスは南ガリアにいた西ゴート王国を破って
イベリア半島に追いやり、ブルグント王国を編入して、ライン川
以東の中小部族を服従させて、メロヴィング朝の版図をライン川
から大西洋・ガロンヌ川まで拡大したのです。
 東ローマ帝国の皇帝はフランク王国のクロヴィスに対して「執
政官」職を与えることにより、事実上西ローマ帝国を継承する代
理支配者として認めたのです。ローマ帝国として、フランク王国
の力を無視できなくなったためです。
 多くのゲルマン民族が建国したものの、長続きしなかったのに
対して、フランク王国は長期にわたって繁栄し続けたのです。そ
れには重要な理由があったのです。それは、フランク王国が早々
にカトリックに改宗し、ローマ教会にしたがったことです。
 ここで、フランク王国のカトリックへの改宗について説明する
必要があります。これについては、2006年7月24日から、
同年9月15日までの40回にわたって取り上げたEJのテーマ
「映画『ダ・ヴィンチ・コード』研究」でも詳しく解説していま
すが、この部分は以後の説明に重要なので、そのポイントについ
て繰り返し説明することにします。
 キリスト教においては次の2つの派があって、ローマ教会はア
タナシウス派に立脚しており、アタナシウス派が正統なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      アリウス派   ・・・・・ 異端
      アタナシウス派 ・・・・・ 正統
―――――――――――――――――――――――――――――
 もともとフランク王国のメロヴィング家のクロヴィスは、アリ
ウス派を信仰していたのですが、それをあえてアタナシウス派に
改宗したのです。政治的にそうした方が国にとってプラスという
判断でやったわけです。
 このアリウス派とアタナシウス派の違いに入る前にユダヤ人の
宗教について述べると、ユダヤ人の宗教には、次の3つがあった
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.サドカイ派
          2.パリサイ派
          3.エッセネ派
―――――――――――――――――――――――――――――
 「サドカイ派」というのは、宗教観は保守的であり、死後の世
界などは信じない現実主義者で、いわば宗教的・貴族官僚という
べき支配階級なのです。
 これに対して「パリサイ派」は、あらゆる事柄に律法を適用し
ようとし、現代の正統ユダヤ教の特徴となる律法遵守の規準を作
り出すなど、宗教に対してはひたむきな一派です。
 最後は「エッセネ派」ですが、この一派は1947年まではあ
まり知られていなかったのです。1947年に『死海文書』とい
うものが発見され、はじめてこの奇妙な集団――「エッセネ派」
のことがわかったのです。彼らは紀元前2世紀中頃から西暦68
年まで、エルサレムの東32キロのところにあるクムランという
砂漠で生活していたのです。
 「エッセネ派」については『封印のイエス』の著者、クリスト
ファー・ナイト/ロバート・ロマスが次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 律法を遵守することで有名なパリサイ派も、このエッセネ派の
 厳格さから比べれば、単に気楽な快楽主義者でしかない。ロー
 マ教会は、常にエッセネ派と初期キリスト教会のつながりを否
 定してきたが、多くの学者が、両者の間には数多くの共通点が
 あったことを認めている。なかでも最も明らかな特徴は、両者
 ともにこの世の終わりを待望する黙示録的ビジョンを持つこと
 である。  クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著/
       松田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究社
―――――――――――――――――――――――――――――
 このクムラン宗団は、イスラエルの民と神との「新たな契約」
を確立したと信じており、パリサイ派と同様に、天使の存在を信
じていたのです。そして、彼らこそ元来のエルサレム教会であっ
たと考えられます。     ――[ニュートンの予言/11]


≪画像および関連情報≫
 ・フン族とはどういう民俗か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  漢代に分裂した匈奴――現代中国語ではション・ヌーに近い
  発音であるが、古中国語では、HUNGNU/フンヌと発音
  すると推定されている――のうち北匈奴と同一の部族とする
  説もある。この説は非常に有名であり、フン族について語ら
  れる時大抵は言及される。      ――ウィキペディア
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F
  ―――――――――――――――――――――――――――

フン族の侵入を描いた絵画.jpg
フン族の侵入を描いた絵画
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2010年03月18日

●メロヴィング朝からカロリング朝へ(EJ第2234号)

 フランク王国は、カトリックに改宗したことによって、ローマ
貴族やローマ教会との関係が良くなり、それが王国維持・拡大に
寄与することになったのです。とくにローマ教会は、西ローマ帝
国以来の政治・軍事上の後ろ楯をフランク王国に望んでいたので
フランク王国は発展していったのです。
 しかし、511年にクロヴィスが亡くなると、男系血統重視の
慣習によって、フランク王国は4人の息子に分割されたのです。
その後王国は分裂と統一を繰り返して、だんだん国力が弱体化し
ていったのです。
 その結果、メロヴィング朝フランク王国は、6世紀の後半には
次の3つに分国されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.アウストラシア
          2.ネウストリア
          3.ブルグント
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃になると、王家は飾りのような存在になり、実権は王家
の執事役の「宮宰」が握っていたのです。そして、3国の中では
アウストラシア王家の宮宰であるカロリング家が実権を掌握する
ようになったのです。
 732年にイスラム教徒が初めてピレネー山脈を越えてフラン
ク王国に侵入してきたのです。このとき、アウストラシアの宮宰
であるカール・マルテルは軍を率いてこれを撃退します。これは
キリスト教世界を守ったとローマ教皇に高く評価され、カロリン
グ家の権威は一段と高まったのです。
 これによりローマ教皇から「適格者こそ王にふさわしい」とお
墨付きを得たマルテルは、751年にメロディング朝の王を退位
させ、息子のピピンを国王に即位させたのです。ここにメルヴィ
ング朝は滅び、カロリング朝が誕生することになります。
 ニュートンは「秘密文書」において、聖書をベースとして大国
の盛衰とローマ・カトリック教会がいかにして力をふるうように
なっていったかについて詳細に記述しているのです。ニュートン
はこうした歴史上の国家や政治的闘争を振り返ることによって、
世界の終末をあぶり出そうとしているのです。
 しかし、ニュートンの記述は論理的、解析的な文章で構成され
ているが、ひとつの概念を解説するために膨大な言葉を費やし、
非常に読みにくいのです。要するに、表現がくどく、理解しにく
いというわけです。そのため、原文をそのままご紹介するのは重
要部分の一部に止め、歴史上の国家や政治的闘争などの記述は、
EJの本文として書いていきます。
 カロリング朝の2代目のフランク王は、ピピンの後継のカール
大帝なのです。カール大帝は、771年にフランク王国全土の統
治者となり、カール大帝は、異教信仰と政治的独立を守り抜いて
いたザクセン族を平定し、773年にはイタリアに遠征。その翌
年、ランゴバルド王国を併合して王位についています。
 当時の北イタリア地域は東ローマ帝国の支配下にあったのです
が、ゲルマン民族の一派であるランゴバルド王国は東ローマ帝国
に敵対行為をとっていたのです。カール大帝はそのランゴバルド
王国を支配下に置いたのですから、フランク王国と連携している
ローマ教会は東ローマ帝国の支配や脅威から大きく解き放たれる
ことになったのです。
 これについて、ニュートンは「秘密文書」に次のように記述し
ているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの事件は773年と774年に起こった。教皇は今や絶
 頂期に達し、敵の脅威から解放され、以後、笏の代わりに2つ
 の王国の鍵を手中し、頭上の3つの王冠をもって繁栄せる治世
 を誇った。         ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中の「これらの事件」とは、カール大帝のランゴバルド王
国を併合して王位につく一連の行動をさしているのです。カール
大帝は、ほとんどのゲルマン系諸部族を統合して西ヨーロッパの
政治的統一を成し遂げたのです。
 時は800年のことです。カール大帝は、教皇レオ3世によっ
てクリスマスのミサに呼び出されます。教会の席に着くと、突如
教皇レオ3世はカール大帝の頭上に王冠を載せると、ミサに参加
していた群集が次のように口々に叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神が王冠を与えたシャルル皇帝(カール大帝のこと)、ローマ
 人の平和の愛する偉大なる皇帝!
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうして西ローマ帝国が復興されたのです。この西暦800年
という年代を記憶しておいていただきたいと思います。
 ローマ帝国が東西に分裂したのは395年のことです。しかし
宗教面に関しては同じキリスト教であり、そこに大きな差異はな
かったのですが、どちらかというと、東ローマの方が幾分優位に
立っていたといえます。教会は次の5つの教会を総本山として信
仰していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.コンスタンティノーブル
        2.アンティオキア
        3.アレクサンドリア
        4.エルサレム
        5.ローマ
―――――――――――――――――――――――――――――
 単に「ローマ帝国」といいますが、ここからは東ローマ帝国と
西ローマ帝国はきちんと分けて考える必要があります。それは、
宗教面における東西教会の分裂がこれから起きるからです。これ
については明日のEJで述べます。[ニュートンの予言/12]


≪画像および関連情報≫
 ・カール大帝について
  ――――――――――――――――――――――――――−
  カール大帝、あるいはシャルルマーニュは、フランク王国の
  国王。カロリング朝を開いた小ピピンの子で、カール1世と
  もいう。768年に弟のカールマンとの共同統治――分国統
  治として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早
  逝したため以後43年間、単独の国王として長く君臨した。
                    ――ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
  ―――――――――――――――――――――――――――

カール大帝の胸像.jpg
カール大帝の胸像
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2010年03月19日

●ニケーア信経が後世に残したもの(EJ第2235号)

 「ローマ帝国」という名前の国は、紀元前27年から1453
年まで確かに存在していきす。必ずしも同一の国家を指すわけで
はないので、単に「ローマ帝国」といっただけでは具体的にどの
国を意味するのかわからないといえます。
 ヨーロッパの歴史を区分する場合、次の基準で「古代」と「中
世」を分類するのです。古代、中世ともにおよそ1000年単位
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    紀元前5世紀〜紀元 4世紀 ・・・ 古代
    紀元 5世紀〜紀元15世紀 ・・・ 中世
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、古代と中世を分ける出来事とは何でしょうか。それ
は次の4つの出来事を上げることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.4世紀のキリスト教公認
        2.ゲルマン民族大移動開始
        3.ローマ帝国の東西の分裂
        4.5世紀西ローマ帝国滅亡
―――――――――――――――――――――――――――――
 一般にローマ帝国というと、中世におけるローマ帝国――すな
わち、東ローマ帝国を意味しています。紀元395年から145
3年にまでの約1000年続いた国家です。この国家は「ビザン
チン帝国」、あるいは「中世ローマ帝国」ともいうのです。
 そもそもどうしてローマ帝国は東西に分割されることになった
のでしょうか。
 4世紀にコンスタンティヌス1世の治世のときの話です。コン
スタンティヌス1世は首都をローマからビザンテュオン(現在の
トルコのイスタンブール)に移し、コンスタンティノポリスと改
称して国の建て直しを図ったのです。このとき、ローマ帝国はひ
とつであり、独立の帝国だったのです。
 コンスタンティヌス1世自身は不敗太陽神を信仰していたので
すが、ローマ帝国をまとめるために新しい宗教が必要であると考
えており、その宗教にキリスト教を選んだのです。しかし、当時
そのキリスト教自体が内部抗争をしており、教義を統一すること
が必要だったのです。そのため後世に「ニケーア公会議」と呼ば
れる宗教会議を開き、教義の統一を図るのですが、その内容につ
いては後から詳しく述べることになります。
 コンスタンティヌス1世の後を継いだテオドシウス1世は、キ
リスト教を国教に定めます。テオドシウス1世は、死に際して帝
国を2分割し、次のように長男と次男に分治させたのです。西暦
395年のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      長男アルカディウス ・・・・・ 東
      次男ホノリウス   ・・・・・ 西
―――――――――――――――――――――――――――――
 これ以後、東は東ローマ帝国、西は西ローマ帝国と名付けられ
対照的な運命をたどることになるのです。
 さて、コンスタンティヌス1世がキリスト教を国教とすること
を考えたとき、キリスト教は内部抗争をしていたと述べましたが
どのような抗争をしていたのかについて考えます。
 それは「イエスは神か人間か」についての論争です。「ニケー
ア公会議」では、コンスタンティヌス1世の臨席のもと、司教ア
リウスと宗教学者アタナシウスは、このテーマについて宗教論争
を戦わせたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 司教アリウスは、イエス・キリストは人間であるのだから、神
 ではないと唱えた。神は神であり、イエスが元来、神であった
 とするのは神への冒涜である。イエスはその行動によって聖な
 る者となったに過ぎない。これに反対したアタナシウスは、父
 と子は(奇妙なことだが)同じ実質なのだと唱えた。投票の結
 果、アリウスは破れ、以後、彼の名は異端者の代名詞とされる
 こととなった。
      クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著/松
        田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究者
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会議は宗教会議ですが、きわめて巧妙に仕掛けられた政治
的な会議であったのです。ローマ教会としてはイエスが神でない
と絶対に困るわけです。コンスタンティヌス1世としてはキリス
ト教にはあまり関心がなかったのですが、母親の聖へレナが熱心
なキリスト教信者であったので、ローマ教会の望む方向に一本化
を図ったのです。その方が国の基盤は磐石になるからです。  
 それまで「異端」という意味は、はっきりとしていなかったの
ですが、コンスタンティヌス帝はこのニケーア信経――ニケーア
公会議で制定されたもの――を根拠にして皇帝のいうことが真実
であり、それ以外は異端として正統と異端を明確にしたのです。
 これに基づき、多くの文書が正典から外され、それらには「グ
ノーシス的」というレッテルを貼ったのです。コンスタンティヌ
ス帝とローマ教会は、これによって大きな力を得たのです。
 それは、自らの都合によって仕上げた教義に合わないものは何
でも破壊することができたからです。そこには何が真実かという
ことは重要ではなかったのです。それが、イエス・キリストに関
しては新約聖書の貧弱な記述以外はほとんどわかっていないとい
う現状を生んだのです。
 とくにローマ教会は、イエスが神ではなく、人間であったとい
う証拠になるものは徹底的に隠蔽し、消滅を図ってきたのです。
その最たるものは、エジプトのアレキサンドリアの図書館を焼き
討ちし手かがリとなる貴重な資料を焼いてしまったことです。ま
た、ニケーア信経に違反することを述べたり、書いたり、説いた
ものは死刑にするというようなこともやったのです。目的には手
段を選ばなかったのです。  −−[ニュートンの予言/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ニケーア公会議とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ニカイア公会議(ニケア、ニケーアとも)は、325年3月
  20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現ト
  ルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教のの歴
  史で最初の全教会規模の会議(これを公会議という。正教会
  の一員たる日本正教会の訳語では全地公会)
                    ――ウィキペデイア
  ―――――――――――――――――――――――――――

コンスタンティヌス1世像.jpg
コンスタンティヌス1世像
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2010年03月23日

●死海文書とクムラン宗団(EJ第2236号)

 初期のキリスト教について知る手ががりとなる「死海文書」と
いうものがあります。1947年から1956年にかけて、イス
ラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くにある11の洞窟の
中から発見されたのです。
 この文書の発見によって、クムラン周辺で宗教生活を送ってい
た奇妙な集団――クムラン宗団のことがわかったということにつ
いては既に述べた通りです。このクムラン宗団が、これらの死海
文書を著したのではないかといわれているのです。
 この文書は、紀元前2世紀から西暦68年までに書かれたもの
ですが、約800巻の断片から成り立っており、その中には「写
本」というかたちをとっているものが多くあります。そのため、
「死海写本」とも呼ばれているのです。
 この文書が「写本」といわれるのは、線が細く、少ないインク
の量で文字が流れるように書かれており、単語綴りに間違いがな
く、行間が狭いことから考えて、プロの筆記者によるものである
ことは間違いがないといわれています。筆耕分析によると、数百
人の異なった筆跡であることが確認されており、相当大勢の人に
よって記述されたものといわれています。
 このことから考えてこれらの写本は、紀元70年のユダヤ戦争
以前にエルサレム神殿図書館から流出したものではないかと考え
られるのです。一説によると、エルサレム神殿祭司たちはユダヤ
戦争中、ローマ軍が神殿に入って図書館を検査して、ユダヤ戦争
の原因となったユダヤ過激派たちに関する文書が見つかると神殿
の立場が危なくなると心配して、書類を持ち出して隠したのでは
ないかといわれているのです。
 そんなに危険な文書なら焼いてしまえばよいと考えるかも知れ
ませんが、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ
渦激セクトによって書かれたものであっても、焼くことは禁止さ
れていたのです。
 もともとクムランは要塞都市といわれるように、ユダヤ軍の基
地の一つだったのです。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ち
こたえたほどの要塞だったのです。エルサレム神殿図書館から写
本を持ち出した一行はクムラン要塞の軍人に文書保管を依頼した
が断られ、要塞の下のヨルダン川に無数に点在する天然の洞窟に
文書を隠したのではないかと考えられているのです。死海文書は
次のような文書で成り立っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ヘブライ語聖書 ・・・・・・・・・・・・ 30%
 2.伝統的なユダヤ教の宗教文書 ・・・・・・ 25%
 3.クムラン宗団と思われる宗教活動 ・・・・ 30%
 4.ヘブライ語で記述された不明の文書 ・・・ 15%
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、このクムラン宗団は、死海の周辺で厳しい修行をしてい
たのですが、その修行場がどんな場所であるかについて次の記述
が参考になるので、ご紹介しておきます。ここは、イエスが宗教
活動の拠点としたガリラヤ湖とも近い場所なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヘルモン山の雪解け水が死海のある南に向かって流れているの
 がヨルダン川で、その途中にあるのがガリラヤ湖である。そこ
 でヘルモン山からガリラヤ湖までを上ヨルダン川、ガリラヤ湖
 から死海までを下ヨルダン川と呼ぶことがある。死海は、まさ
 に地の果てである。ここでヨルダン川は行き止まりになってい
 る。雨の多いところなら水がたまり、やがて海につながること
 もあるのだろうが、何しろ周囲は砂漠であるから、死海の水は
 どんどん蒸発する。川は谷を削って地中の塩分を溶かし込むの
 で死海の塩分はどんどん濃くなっていく。その死海を見下ろす
 クムラン僧院の洞窟は、死海から見れば高い崖の上だが、標高
 800メートルの山地にあるエルサレムから見れば低い土地に
 ある。このあたりはカルスト地形で、鍾乳洞が多い。その洞窟
 の中で数多くの修行者が肉体と精神の鍛錬を続けていた。これ
 が、エッセネ派なのであ
 る。   ――三田誠広著、『ユダの謎/キリストの謎』より
                NONブック/祥伝社424
―――――――――――――――――――――――――――――
 「死海文書」研究の専門家であるロバート・アイゼンマン教授
によれば、西暦40〜50年頃のクムラン宗団の指導者は「義人
ヤコブ」であるといっています。ローマ教会も、この「義人ヤコ
ブ」なる人物がエルサレム教会の初代司教であることは認めてい
るのですが、カトリック教会としては、エルサレム教会とクムラ
ン宗団とは別の存在であるようにしようとしています。
 しかし、クムラン宗団は、エルサレム教会と同じ世界観を持ち
同じ用語を使い、そして同じ終末思想を持っている――それは新
約聖書にも通じているのです。もっと重要なことはこの義人ヤコ
ブがイエスの弟であるといわれている点です。そうであればこの
クムラン宗団は初期キリスト教会――すなわち、イエスの教団そ
のものであるという考え方が成り立つからです。
 それでは、カトリック教会にとって、義人ヤコブがイエスの弟
であっては、なぜいけないのでしょうか。普通ならば、兄弟がい
るのは当然のことですが、イエスを神の子とするカトリック教会
にとっては困るのです。実はニュートンもイエスを神の子と認め
ていないのです。これについては改めて詳しく述べますが、ニュ
ートンは次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神と人の仲介者について結論を言えば、神は唯一の存在であり
 神と人の仲介役もひとり。つまり、仲介役のイエス・キリスト
 は人間なのである。            ――ニュートン
―――――――――――――――――――――――――――――
         ――[ニュートンの予言/14]


≪画像および関連情報≫
 ・「死海文書」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クムランの宗教共同体の人々は、初期のキリスト教徒と同じ
  く、終末の時期は差し迫っていると信じていた。また、クム
  ラン共同体が存在した時代はユダヤ・キリスト教世界で終末
  論が流行した時代でもある。それだけに死海文書の中には終
  末に関連した内容を持つものが数多く含まれているが、特に
  「戦いの書」および「宗規要覧」と呼ばれている文書などに
  死海文書独自の内容が含まれている。
  http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-293-7p.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

死海文書の発見場所.jpg
死海文書の発見場所
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2010年03月24日

●ニュートンは異端である(EJ第2237号)

 前回、ニュートンは「イエス・キリストは人間である」という
考え方を持っていたことをお伝えしましたが、これは明らかにキ
リスト教の基本教義に反するのです。つまり、ニュートンは異端
の考え方を持っていたのです。
 そういうわけで、ここでどうしても「三位一体」の議論をしな
ければならないのです。三位一体とは次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 三位一体(トリニタス)とは、カトリック・正教会などの伝統
 的教会およびプロテスタントなどのキリスト教の大多数派にお
 ける中心的教義のひとつである。    ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 キリスト教徒でない人にとっての三位一体という言葉は、最近
では小泉元首相の「三位一体改革」であるとか、あの映画『マト
リックス』のキャリー=アン・モスが演ずる「トリニティー/三
位一体の意」、またはソニーの「トリニトロン」を思い出す人が
いるかも知れません。「トリニトロン」は、三位一体を表すトリ
ニティと電子を意味するエレクトロンの合成語なのです。
 しかし、ここではキリスト教の中心的教義である「三位一体」
を真面目に読み解かないと、ニュートンの予言を解明することは
できないのです。「三位一体」とは次の3つが「同質」かつ「不
可分」であるという考え方です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.父なる神
        2.子なる神イエス・キリスト
        3.聖霊である神
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「三位」とは、「父」「子」「聖霊」を指すのですが、
これら3つは一体であり、3つの間に上下はなく、3つにはそれ
ぞれ次の位格(ペルソナ)というものがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「父」  ・・・・・ 世界を創造し、統治する
   「子」  ・・・・・ 人間を救い、助ける役割
   「聖霊」 ・・・・・ 人間をを正しく導く役割
―――――――――――――――――――――――――――――
 この三位一体の教理にはいろいろな矛盾があります。一番大き
な矛盾は、もし、3人の神がいるなら、一神教であるはずのキリ
スト教は多神教になってしまうのです。旧約聖書の中で神は、自
らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っている
のです。
 歴史的経過について述べると、2世紀の前半で新約聖書の中で
「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊」が並記され、
3世紀になって西方教会の教父テルトゥリアヌスがはじめて「三
位一体」という表現を使ったのです。
 そして、4世紀のはじめに、イエスが神か人間かをめぐって、
神とするアタナシウス派と人間であるとするアリウス派に分かれ
て、大論争に発展したのです。
 313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコン
スタンティヌス帝は、このような教義の分裂論争が続くと、ロー
マ帝国の混乱につながるとして、教義の統一を図ろうとしたので
す。これがニケーア宗教会議です。つまり、コンスタンティヌス
帝の政治的思惑から、キリスト教の教義の統一性が図られたとい
えます。そして、それでも三位一体に異議を唱える者に対しては
死刑という厳罰をもって臨んだのです。
 それでもこの問題は決着がつかなかったのです。4世紀後半か
ら5世紀の初めに聖霊に関して新しい考え方が出てきたのです。
それは、「聖霊は神性を持たない」というもので、ヘレスポント
スに隣接している国々のマケドニア人の間で普及したのです。
 そして父と子と聖霊の実体は同質ではなく類似であるとする類
似派、父と子と聖霊は一つの神の性質に過ぎず、御父みずから受
肉してキリストとなった」と考えるサベリウス派などが現われて
混乱したのです。
 しかし、381年のコンスタンティノポリス公会議で、これら
の考え方はすべて異端として排斥されたのです。そして、ニケー
ア信条の内容は拡張され、ニケーア・コンスタンティノポリス信
条が採択されたのです。これによつて、三位一体の教理はほぼ完
成に達したといえます。
 ところが聖霊の解釈に関しては、なおやっかいな問題が生じた
のです。ニケーア・コンスタンティノポリス信条の原文は「聖霊
は父なる神から発する」となっていたのに、ローマ・カトリック
側がそのラテン語訳に9世紀になって一方的に「子からも(発す
る)(Filioque/フィリオクェ)」と付け加えたからです。そし
て、これを正文であると主張したため、コンスタンティノポリス
教会側が反発したのです。
 さらに当時のコンスタンティノポリス総主教フォティオスと前
総主教イグナティオスをめぐるコンスタンティノポリス教会内部
の政治的争いにローマ教皇が介入し、イグナティオスを支持した
のです。こうして、東西のキリスト教会を二分する深刻な対立状
態がもたらされたのです。
 このように三位一体の考え方はキリスト教においてさまざまの
問題を巻き起こしたのです。アリウス派は救世主イエスを人であ
るとし、神は完全な唯一の存在で、自己のみで存在できるとした
のです。これは、明らかにユダヤ教的な一神教に重点を置く考え
方といえます。
 これに対してアタナシウス派の三位一体の考え方はギリシャ哲
学、新プラトン主義に立脚し、3柱の神を置く古代エジプトやバ
ビロンの神学や古代アーリアの神話まで遡る多神教の流れをくん
でいるような気がします。ニケーア公会議におけるキリスト教の
純化はギリシャ化なのです。 ――[ニュートンの予言/15]


≪画像および関連情報≫
 ・アンドレイ・ルブリョフのイコン「至聖三者」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  正教会では、アンドレイ・ルブリョフが描いたものが代表的
  な、アブラハムを訪ねる三人の天使――『創世記』――に拠
  る『至聖三者』の聖像が、唯一正当な至聖三者の図像表現と
  して公認される。これは西方にも伝わり、聖像を用いる教派
  で使われている。西方ではルブリョフとともに「老人の姿の
  父、キリスト、鳩または火の姿で表される聖霊」の図像も広
  く用いられている。代表的な作例にマザッチオの『聖三位一
  体』がある。これは十字架上のキリストとともに父および鳩
  の形をした聖霊を描いたものである。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

至聖三者.jpg
至聖三者

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2010年03月25日

●『ニュートンの12の信条』の発見(EJ第2238号)

 1月3日に放映されたTBSの大型番組『新春超歴史ミステリ
ー/古代ローマ1000年史』は、今回のテーマにも関係がある
ので、最初から最後まできちんと見たのですが、なかなか見ごた
えのある番組だったと思います。
 しかし、肝心のキリスト教を取り入れることによって、ローマ
帝国が変貌していくところ――コンスタンティヌス皇帝の出てく
るシーンは最後のところで簡単にまとめられてしまっており、そ
こが残念であったと思います。
 ところで、三位一体の3つの位格のなかで、おそらく一番わか
りにくいのが「聖霊」であると思います。一般的には「聖霊」は
次のように解釈されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     聖霊とは神と人とを繋ぐとりなし手である
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖霊というのは、「この世のすべては神の御心のままである」
と考えるプロセスにおいて出てきた概念なのです。人間は聖霊に
よって内面から刷新され、それによって善行を積むようになると
考えるのです。
 例を上げると、新約聖書は明らかに人間によって記述されたも
のであり、旧約聖書の「モーセの十戒」のように、神が直接的に
人間に伝えたものではないのですが、なぜ宗教的権威を保ってい
るのでしょうか。
 これについて、キリスト教では、聖霊が新約聖書の作家たちを
霊的に感化させた結果であると考えるのです。つまり、聖霊が作
家たちに執筆を決意させ、執筆を貫徹させる――聖霊は神の位格
すなわち神と同格であり、したがって、新約聖書は「神自身が人
間に与えた言葉である」ということになるのです。
 キリスト教にもいろいろな流派がありますが、三位一体の考え
方は共通しています。キリスト教には、聖霊の概念を使って世の
中を次の3つに分ける考え方があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   父なる神の時代 ・・・・・ イエスが誕生する以前
   子なるイエスの時代 ・・・ イエスの時代 
   聖霊の時代 ・・・・・・・ イエスが昇天した以後
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスが誕生する前は、神が直接イスラエルの民と対話してい
たのです。したがって、その時代のことを「父なる神の時代」と
いうのです。
 キリストが誕生すると「子なるイエスの時代」となります。そ
してイエスが処刑され、昇天すると、現在の世の中になります。
それを「聖霊の時代」というのです。イエスは昇天してしまって
いるので、後は聖霊のみが人間に影響を及ぼしていると考えるわ
けです。なお、福音派の解釈では、世界の終末における最後の審
判の後、再び「父なる神の時代」が到来するといわれています。
 「父なる神」「子なるイエス」「聖霊」――そのそれぞれが、
神の格位を持っているというのが三位一体の考え方ですが、やは
り論理的に一番わかりにくいのが「聖霊」です。
 仮にもし「聖霊」ではなく「マリア」であったとしたら、素人
的には、「父なる神と子なるイエスと母なるマリア」となって一
番わかりやすいのですが、マリアには神の位格はないということ
で、異端ということになるのです。
 現在のカトリック教会の職階――中世以降――を見ると、三位
一体が厳然として生きていることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.「唯一絶対神」    7.「大司教」
    2.「聖霊」       8.「司教」
    3.「神の子イエス」   9.「司祭」
    4.「ペテロ」     10.「助祭」
    5.「歴代ローマ教皇」 11.「信徒」
    6.「枢機卿」
       ――『キリスト教と聖書の謎』/日本文芸社より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、1710年〜20年にかけて、ニュートンは次の文書を
書いているのです。この文書は現在ケンブリッジのキングス・カ
レッジに保管されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神とキリストに関するアイザック・ニュートンの12の信条
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書が書かれた時期は、ニュートンがシオン修道会の総長
だった時期と重なっているのです。もともとケインズが入手して
いたものであり、ケインズの死後、ケンブリッジのキングス・カ
レッジに寄贈されています。
 この「ニュートンの12の信条」を読むと、そこにはニュート
ンの神に対する考え方がよくわかります。その第1条と第2条は
次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1条 父なる神はただひとり。永遠かつ偏在、全知全能の存
     在であり、天と地の創造者である。そして、神と人と
     の仲介者は、人間であるイエス・キリストただひとり
     である。
 第2条 父とは見えざる神のことである。まだ誰も見たことは
     なく、いまも見ることはができない。他のすべての存
     在は、見えるときがある。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでは、カトリックの教義である三位一体に明らかに反する
文章が並んでいます。「神と人との仲介者は、人間であるイエス
・キリスト」とはっきり述べています。イエスは神ではないと明
言しています。       ――[ニュートンの予言/16]


≪画像および関連情報≫
 ・唯一絶対神とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『ヤハウェ』とは知る人ぞ知る旧約聖書の絶対神の名前であ
  る。つまりは、ユダヤ教徒が崇拝する神、天地万物を創造し
  たとされる唯一絶対神である。しかし、ヤハウェと言われて
  も、一般的な日本人には馴染みのない名前であろう。という
  のは、日本語訳の聖書では、ヤハウェという固有名詞を全て
  「主」という一般名詞に読み替えているからだ。ゆえに、い
  くら聖書の中を探したからとて、その名前を見つけることは
  できない。ちなみに、新約聖書にも「主」という単語が出て
  くるが、あれはギリシア語の「キボトス」を訳したものであ
  るため、ヤハウェとは違い純粋に「主」という意味の一般名
  詞である。
   ――http://www.fitweb.or.jp/~entity/seisho/yhwh.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

イエス・キリスト.jpg
イエス・キリスト
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2010年03月26日

●イエスはなぜ神でなければならないか(EJ第2239号)

 「ニュートンの12の信条」の第12条は、次のように記述さ
れています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第12条 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がお
      られ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ
      帰って行くのです。また、唯一の王、イエス・キリ
      ストがおられ、万物はこの主によって存在し、わた
      したちもこの主によって存在しているのです。
             ――コリントの信徒への手紙8−6
      つまり、われわれは父のみを全能の神として崇め、
      イエスのみを救い主、偉大なる王、神の子羊として
      崇敬しなければならない。イエスがわたしたちのた
      めに殺されて、ご自分の血でわたしたちを罪から解
      放してくれたからこそ、われわれは王にも司祭にも
      なれるのである。 ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この第12条は何を主張しようとしているのでしょうか。
 結論からいうと、イエスを神として崇めてはならないと警告し
ているのです。崇めるべきは、唯一神ヤーウェであると。もし、
それをすると、「モーセの十戒」の次の3条に反してしまうとい
うのです。ニュートンの12の信条は明らかに「モーセの十戒」
を下敷きにして書かれているものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪モーセの十戒≫
  1.わたしのほかに何ものをも、神としてはならない
  2.いかなる像も造ってはならない
  3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスは神か人間かということがなぜ問題になるのかというと
それは教皇の権威に影響するからでです。カトリックでは、教皇
は「キリストの地上の代理人、人間よりも上に立つ」という考え
方に立っています。
 昨日のEJで述べたように、教皇はカトリックの職階の上から
5番目に該当します。第4位の「ペテロ」は初代ローマ教皇に位
置づけられているのです。したがって、もし、イエスが人間であ
るということになったら、教皇の権威は大きく失墜してしまうこ
とになります。したがって、カトリックとしては、どうしてもイ
エスは神でなければならないのです。
 しかし、ニュートンはこういう教皇の権威を真っ向から否定し
てかかるのです。ニュートンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「子」はすべてのものを「父」から受け取り、「父」に服し、
 その意志を行い、その玉座に就きながらも「父」を自らの神と
 呼ぶのであり、したがって、「父」ともども一なる神にほかな
 らず、それは王と副王とが一なる王にほかならないのと同じで
 ある。キリストは副王、つまりこの世界における神の代理者と
 して働く霊的存在である。  ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンはイエスは人間ではあるが、その言葉は神から伝え
られたものであり、そういう意味でイエスは神の代理者であり、
預言者であると考えているのです。
 上記のニュートンの論拠は、王から直接発せられる命令もその
代理人である副王からの命令も、同じように王からの命令である
のと同じように、イエスの発する言葉は父なる神――唯一絶対神
の命令そのものであるというものです。
 したがって、イエスの名の前では、すべての膝が屈せられるべ
きであるが、あくまでその祈りはイエスの名において至高の絶対
者、神に向けられるべきであり、神の名においてイエスに向けて
はならないとニュートンは強調するのです。もし、神を王とする
なら、イエスは副王の立場である――ニュートンはこう考えてい
るわけです。
 これは、正統な三位一体論から大きく隔たっている考え方であ
るといえます。ニュートンはイエスを崇拝するのはそれ自体が偶
像崇拝そのものであり、「モーセの十戒」の戒律に反すると主張
しているのです。
 しかし、カトリックの正統な三位一体論に立つと、偶像崇拝が
容認される余地が出てくるのです。実は、この偶像崇拝に関する
論争は、ローマ帝国の歴史の中にあるのです。
 726年、東ローマ帝国ビザンチン皇帝レオ3世は偶像崇拝禁
止令を出し、それをローマ教皇が拒否するという事件があったの
です。レオ3世の息子であるコンスタンティヌス5世は反対者を
容赦なく弾圧・処刑したのですが、論争は一向に解決しなかった
のです。
 ローマ教会は、聖像(イコン)をゲルマン人への布教に使って
いたのです。そこに偶像崇拝禁止令が出たので、ローマ教会とし
てしては当然反対します。ローマ教会はその決定を不満として、
それまでコンスタンティノーブルに送っていた税の支払いを停止
し、これにより東西教会の対立が決定的となったのです。
 この論争はその後も決着がつかず、東ローマ皇帝・コンスタン
ティノーブル総主教とローマ教皇の関係は、決定的に悪化してし
まったのです。これによって、ローマ帝国は、フランク王国を後
ろ盾にしていくのです。800年にはローマ教皇がフランク王カ
ールを「ローマ皇帝」に戴冠し、ローマ教会は東ローマ帝国から
完全に独立したのです。これについては既に述べた通りです。
 実は、ローマ帝国における偶像崇拝に関する争いは、三位一体
論にからめて、宗教に関して大きな影響を与えたのです。偶像崇
拝――聖像崇拝については、明日のEJで詳しく述べることにし
ます。           ――[ニュートンの予言/17]


≪画像および関連情報≫
 ・「モーセの十戒」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーセの十戒の話は、『旧約聖書』の「出エジプト記」に載
  っています。イスラエル人の一部はカナーンの地に定着せず
  にエジプトに行ったのですが、エジプトにおけるイスラエル
  人の立場は奴隷でした(他国によってイスラエル民族が苦し
  められるというテーマが、実はユダヤ教成立に関する重要な
  キーワードになっていて、後に触れることになります)。そ
  んな苦境ゆえ、イスラエル人はエジプトを脱出することにな
  りますが、その時の指導者がモーセなのです。年代は紀元前
  13世紀頃のことです。
   http://xn--nckya8b3h.seesaa.net/article/51952716.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「モーセの十戒」.jpg
「モーセの十戒」
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2010年03月29日

●イコンはなぜ禁止されたのか(EJ第2240号)

 キリスト教においては、神や天使や聖人を描いた絵や像のこと
を「イコン」というのです。「イコン」はギリシャ語であり、中
世から現代までそのように呼ばれています。英語の「Icon/アイ
コン」もこれに由来するのです。
 ここで「ニュートンの12の信条」の第2条を再現しておくこ
とにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2条 父とは見えざる神のことである。まだ誰も見たことは
     なく、いまも見ることはができない。他のすべての存
     在は、見えるときがある。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、唯一絶対神、すなわち神は「見えないもの」であると
しています。実際に見えないのであるから、神を絵に描いたり、
偶像にしようがないし、してはならないのです。旧約聖書――イ
スラム教とユダヤ教では神を描写することは「形像拒否」として
禁止されたのです。
 しかし、ユダヤ教における形像拒否は、イスラム教のそれより
も厳しくなかったようで、ケルビム(天使)や十二体の牛の像など
がソロモンの神殿に残されているのです。
 初期のキリスト教においては、イエスや使徒たちを描くことは
許されず、ユダヤ教美術やローマ美術に共通する植物イメージ、
燭台などのユダヤ教由来のモチーフが、イエスと象徴的に結びつ
けられて描かれています。その当時はもちろん三位一体の教義は
確立していなかったのです。
 しかし、4世紀になって三位一体の教義が取り入れられると、
イエスはたとえ神の子であっても人間として誕生したので、見え
る存在となっている――これはもともと描出不可能であったはず
の約束が、神の側から破られているとして、人として姿を表した
イエスに関する限り、それを描いたり、像として表現することが
許されるようになったのです。843年のことです。これについ
ては、もともと聖像禁止令を出した東方教会と西方教会とでは、
そこに大きな温度差があったのです。なお、西方教会はローマ・
カトリック教会、東方教会は正しくは正教会とも呼ばれます。
 東方教会では、イコンの形式について、教会の教義によって厳
格かつ細密な規範が与えられたのです。描くものは図像に限定さ
れ、立体化することは禁じられたのです。
 このように描く形式が限定されただけではなく、描く人、描く
場所などについても細かな規定が定められ、そこに芸術としての
自由度はほとんどなかったのです。イコンを描くことは、神に近
づく道のひとつとされ、祈祷のかたちのひとつとして位置づけら
れたからなのです。
 イコンを作成するときは、多くの場合、修道院の修道士や修道
女が教会の祝福の下で描き、それを司祭が成聖したものを聖像と
呼んだのです。さらに教会などにそれを置く場所についても厳格
な規定が定められていたのです。
 実はこの聖像製作者の拠点である修道院は、東ローマ帝国内に
かなり大きな修道院領を保有していたのですが、聖像禁止令を出
したレオ3世の息子のコンスタンティヌス5世は、843年に聖
像禁止令が解かれるまで、徹底的に修道院を弾圧し、修道院領を
没収し、皇帝領としているのです。
 その結果、皇帝の権力基盤が強化され、古代ローマ帝国後期か
らはじめられた皇帝の専制君主制が完成しているのです。そのた
め、ネオ3世らの聖像禁止令は修道院領の収奪が本当の目的では
なかったかともいわれているのです。
 さて、聖像に関して厳しい規範をかけた西方教会――ローマ教
会は、聖画像崇敬についてはほとんど何の規制もなく自由であり
描写の形式でも特に教会上の規範は何もないのです。しかし、聖
画像崇敬において間違った表現や展示がされないよう司教の管理
義務の強化が促されたといわれています。
 教会に行くと当然のようにあるイエス・キリストの絵画や彫像
――三位一体の教義では、イエスは神の子であり、イエス自身も
神と一体の存在であるので、その画像の下で祈りを捧げても一向
にかまわないことになります。
 しかし、ニュートンは、イエスは人間であり、その人間イエス
を描いた画像に対して祈りを捧げるのは、一種の偶像崇拝である
と考えているのです。そいう偶像崇拝を許しているローマ・カト
リック教会をどうしても許せなかったのです。ニュートンはこれ
に関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人間であるイエス・キリスト、神と人の仲介者であるイエス・
 キリストは、われわれのために殺された。そんな神の子羊に栄
 誉と栄光を授ける限りにおいては、偶像崇拝にあたらない。人
 間であるキリストが卑しい身分であったとしても、その事実に
 変わりはない。       ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するにニュートンは、イエスは人間ではあるが、われわれの
ために自分の血で罪から開放してくれたのである――その栄譽を
称えるのは一向にかまわないし、膝を屈することもよい。しかし
イエスを神として崇拝することは偶像崇拝であり、モーセの十戒
に違反しており、絶対にやってはならないことであるといってい
るのです。
 ニュートンの12の信条の第12条で、われわれはイエスのお
かげで「王にも司祭にもなれる」といっています。これは、英国
国教会の首長である国王やローマ法王をはじめとする教会の権威
が全否定されたに等しいのです。
 ニュートンが彼の文書を厳重なる秘密文書としては、これが理
由なのです。        ――[ニュートンの予言/18]


≪画像および関連情報≫
 ・「ウラジーミルの生神女」について
  ――――――――――――――――――――――――――
  美術研究の上では、多く板絵に金地を貼りテンペラ技法で書
  いたものがイコンと呼ばれ、実際に教会で使われる聖像も多
  くこの種類のものであるが、他にもフレスコやモザイク、ス
  テンドグラスなどが使われることもある。近代以降はリトグ
  ラフを始めとした印刷によるものが信徒の利用する食堂や信
  徒の家庭などで普及していった。幾つかの聖像は奇跡と結び
  付けられ、殊に崇敬される。特定の聖像のための祭日も存在
  する。キリストの顔を写したといわれている「自印聖像」、
  「ウラジーミルの生神女」などがよく知られている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ウラジーミルの生神女」.jpg
「ウラジーミルの生神女」
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2010年03月30日

●カトリックのどこに問題があるか(EJ第2241号)

 ここまでの分析によって、ニュートンは明らかにローマ・カト
リック教会に対して異端の立場に立っていることがわかります。
しかし、キリスト教には教派が多くあり、その関係は複雑なので
少し整理してから先に進みます。そうすることによって、なぜ、
ニュートンがカトリック教会に怒りを向けたのか、その理由が分
かると思うからです。
 昨日のEJで、東方教会は正教会とも呼ばれると述べましたが
正教会は「ギリシャ正教」とも呼ばれるのです。日本にはロシア
正教から伝道され、現在、日本ハリストス正教会として結実して
います。日本語の「正教」の英訳は「オーソドックス」であり、
これは「正しい賛美」――すなわち、正しく神を賛美するという
意味になります。
 これに対して西方教会、すなわちカトリック教会はローマ教皇
を頂点に全世界に10億人以上の信徒を有するキリスト教の最大
教派です。カトリックは、ギリシャ語で「普遍的」という意味の
「カトリケー」やラテン語の「カトリクス」が語源になります。
 どうして東方教会と西方教会に分かれたのでしょうか。
 その契機になったのは395年のローマ帝国の東西分裂です。
キリスト教を国教に決めたテオドシウス1世は死に際して、2人
の息子にローマ帝国を分割したのです。長男は東ローマ帝国、次
男は西ローマ帝国を担当したのです。
 これによって、教会も東西に分裂したものの、あくまで同じキ
リスト教として教義の調整などを行ってきたのです。最初のうち
は、あくまで東ローマ帝国――ビザンチン帝国が中心で西ローマ
帝国に宗主権を及ぼしていたのです。
 キリスト教を国教とした東西ローマ帝国は、国内の安定性と一
体性の基盤としての宗教の役割を重視し、教会を庇護する一方に
おいて、教会の人事や教義にも、帝国が直接関わるようになって
いったのです。
 東西の教会では、たびたび教義をめぐる論争がおき、歴代皇帝
は、そのつどその調整を行うための会議を開催したのです。会議
には次の2つがあります。「公会議」といわれる会議は次の「全
地公会」のことをいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    全地公会 ・・・・・ 全教会が召集される会議
    地方公会 ・・・・・ 地方教会招集による会議
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、西ローマ帝国はゲルマン部族の相次ぐ乱入に抗し切れ
ずに滅亡してしまいます。その後西欧世界を支配したゲルマン部
族は必ずしもキリスト教を信仰しなかったため、西方教会はよっ
て立つ国家を失ってしまったのです。
 そこで、東ローマ皇帝は名目上は西方世界に対してもローマ帝
国皇帝の主権が及んでいることを利用して、西の滅亡後のローマ
教会の長である教皇に西方世界の行政権を与えたのです。しかし
この措置は西方教会の自立と組織化を促すと同時に、後の教会の
東西分裂の準備をすることになったのです。
 西方世界の行政権を得た西方教会は、フランク王国のメロヴィ
ング朝を後ろ楯にするようになり、そのメロヴィング朝がピピン
によって倒され、カロリング朝に変わると、教皇の権威が大きく
変わることになるのです。
 教皇という称号はもともと、西方教会唯一の司教座であるロー
マ教会司教の頂点に立つ者に与えられるものです。しかし、教皇
の権威はあくまで宗教的・霊的なものに限定されていたのです。
 しかし、ピピンが自らの王権の正当性を承認してもらうために
ローマ教皇に領地を献上し、すり寄ったのです。これが教皇領の
はじまりになります。
 さらにピピンの子であるカール大帝も教皇から帝冠を受けると
それ以後王位継承者の頭に教皇が冠を載せるという戴冠式が定着
していくことになります。かくして教皇は王の上の座に位置する
ようになったのです。
 ユダヤには、古代より王となる者に預言者が油を塗るという儀
式がありますが、聖職者が王に冠を載せるという戴冠式はそのユ
ダヤの儀式をキリスト教的に置き換えたものなのです。いずれに
せよ、これによって、教皇の権威は、宗教的・霊的なものに加え
て、政治にまで及ぶようになっていくのです。しかし、教皇がこ
のような絶大なる力を保持できる根拠は、新約聖書の中にはどこ
にも存在しないのです。
 さて、このようにカトリック教会の教皇の権力がとてつもなく
強大になって行った結果、それが現在のヴァチカン市国――カト
リックの総本山につながって行くのですが、これには次の経緯が
あるのです。
 イエスの12使徒の一人であるペテロは、イエスから教会設立
を命ぜられます。しかし、64年にペテロは皇帝ネロに捕われて
ヴァチカンの丘でイエスと同じ磔刑に処せられるのです。その墓
の上にミラノ勅令によってキリスト教を公認したコンスタンティ
ヌス大帝は寺院の製造を命じたのです。324年のことです。こ
のようにして完成したのが、サン・ピエトロ聖堂――旧聖堂なの
です。「サン・ピエトロ」とは、イタリア語で聖ペテロという意
味なのです。そういうわけで、ペテロは初代のローマ教皇といわ
れているのです。
 このようにして17世紀になると、教皇領は最大に達して、ほ
ぼイタリア全土を覆い、さらにシチリア島にまで及んだといわれ
ます。また、ルネッサン期には信者から集めた潤沢な資金によっ
て多くの聖堂の新改築を行っているのです。
 ニュートンは、こうしたローマ・カトリック教会の全盛期に活
躍した人であり、権勢を極めるヴァチカンの勢力に密かに怒りの
炎を燃やしたものと思われます。
 やがて、中世から十字軍を経てルネッサンス期に至る間、少し
ずつヴァチカンの力は衰えて行ったのですが、19世紀に入ると
大きな転機を迎えます。   ――[ニュートンの予言/19]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴァチカンとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  バチカンという名称はこの地のもともとの名前であった「ヴ
  ァティカヌスの丘」からとられている。ここに教会が建てら
  れ、やがてカトリック教会の中心地となったもともとの理由
  は、この場所で聖ペテロが殉教したという伝承があったため
  である。バチカンの公用語はラテン語であるが、すでに死語
  となっているため、ラテン語が用いられるのは教皇の手によ
  る公式文書などで、通常はイタリア語が用いられている。ス
  イス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・ピエトロ広場.jpg
サン・ピエトロ広場
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2010年03月31日

●イタリアはどのようにして統一されたか(EJ第2242号)

 1789年7月14日にフランス革命が起きて19世紀に入る
と、ヴァチカンの教皇領は少しずつ奪われて少なくなって行くこ
とになります。その経緯について知ることは、ローマ・カトリッ
ク教会の盛衰に深く関係してくるので、調べてみる価値はあると
思います。しばらく歴史の勉強をすることになります。
 イタリアは長く統一国家が形成されず、中世以来長期にわたっ
て分裂状態のままであったのですが、19世紀になるとようやく
独立の気運が高まってきたのです。
 ウィーン体制時代には、カルボナリ党、マッツィーニの青年イ
タリア党が独立・統一のための活動をしていましたが、当時イタ
リアはドイツの影響下に置かれており、独立は非常に困難な情勢
にあったのです。なぜなら、いわゆるハプスブルク家のオースト
リアに従属している国が多かったからです。
 ヴェネツィアやミラノにはオーストリア軍が駐屯していて、反
オーストリア的な政治運動を監視しており、自由主義的運動や統
一運動が活発化すると、必ずオーストリア軍が出動して弾圧に出
るというパターンが繰り返されてきたのです。
 また、フランスもイタリアに大きな政治勢力が出現することを
嫌って、何かとイタリアに干渉することが多かったのです。18
48年の2月革命時にイタリア各地で独立・統一運動が盛り上が
るのですが、この時もオーストリアとフランスの干渉によって、
すべての運動が失敗しています。ローマ共和国が成立したときは
フランスが直ちに軍隊を派遣してこれを潰し、以後ローマにはフ
ランス軍が駐屯していたのです。
 ところで、フランスと国境を接する半島北西部とサルディニア
島を領土に持つサルディニア王国という国があったのです。この
国はイタリアの中では比較的大きな国であり、ナポレオン1世時
代にはフランスに支配されて封建的な古い制度はなくなっており
イタリアの中では、最も近代的な国家だったのです。
 1849年、そのサルディニア王国に新しい王――ヴィットー
リオ=エマヌエーレ2世が即位します。この王はイタリアの統一
を考えて、首相にカブールという人物を選んだのです。彼はイギ
リスの議会を見学したこともある自由主義的立場の政治家であり
外交手腕に優れていたのです。
 カブール首相は、イタリアが統一を成し遂げるには、イタリア
からオーストリア軍を排除しなければならないと考えたのです。
それはまさにその通りなのですが、サルディニア王国の軍事力で
は、とうていオーストリア軍には勝てないのです。
 「フランスを味方にすれば勝てる。これしかない」――カヴー
ル首相はそう考えたのです。当時フランスは1849年以降、ル
イ=ナポレオンが支配していたのです。はじめは大統領に当選す
るのですが、やがて皇帝に即位してナポレオン3世と名のってい
たのです。
 といっても当然のことながらあの名将ナポレオン・ボナバルト
のことではないのです。ナポレオン3世は確かにあのボナパルト
の血を受け継いではいましたが、戦略的才能のない凡将だったと
いわれます。それでも彼はフランスの皇帝であり、どうやって近
づくかについてカブールは思案していたのです。
 そこに1853年にクリミア戦争が勃発します。カブール首相
はチャンス到来と考えて、サルディニア軍1万5000を派遣し
てクリミア戦争に参戦したのです。もちろん小国サルディニアに
とって大きな負担ではあったのですが、クリミア戦争に参戦する
ことがイタリア統一の第一歩になると激励して兵士を送り出した
のです。これによってナポレオン3世はサルディニア王国に好意
を抱いたのは当然です。
 カブールはこれを契機にフランスと外交交渉を行い、次の条件
を提示して、オーストリアと戦争することになったとき、フラン
スが援軍を送るという約束を取り付けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サルディニアは、フランス国境に近いサヴォイア、ニースとい
 う二つの地方をフランスに割譲する。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけの準備をして、1859年、サルディニア王国はイタ
リア統一戦争を開始するのです。サルディニア軍は東隣のロンバ
ルディアに攻め込みます。ここにはオーストリア軍が駐屯してい
るので、この戦争は、事実上オーストリアとの戦争です。オース
トリア軍22万に対して、サルディニア軍は7万、フランス軍は
12万8000の兵力です。ほぼ互角の兵力ですが、フランスの
援軍がなければ戦争にならないのです。
 サルディニア・フランス連合軍はオーストリア軍を破り、ロン
バルディアはサルディニアに併合されます。これに呼応して、パ
ルマ、モデナ、トスカナ各国で反オーストリアの反乱が起こり、
これらの国々では、住民投票によって、サルディニア王国への編
入が決まるのです。ここまではコトは順調に運んだのです。
 しかし、臆病なナポレオン3世は、サルディニア王国が強大に
なるのを見て怖くなったのです。フランスの南にいきなり巨大な
統一国家ができるのは得策ではないと考えたナポレオン3世は、
オーストリアと単独で講和条約を結び、兵を引いてしまったので
す。これによってフランスの援助がなければ戦えないサルディニ
ア王国は戦争を中断せざるを得なかったのです。
 この国家の危機に英雄が現れます。その名はジュセッペ・ガリ
バルディ――青年イタリアのメンバーとして以前から統一運動で
活躍していた人物です。1860年5月6日、ガルバルディは個
人的義勇兵1000人を集めて、2隻の船でサルディニアの港か
らシチリア島に向けて出発します。この彼の部隊が後に「赤シャ
ツ隊」と呼ばれるようになります。
 シチリア島はイタリア半島の南半分にあるナポリ王国の領土で
す。シチリアに上陸したガリバルディと千人隊は、ナポリ王国の
支配に抵抗する農民たちの支援をうけてナポリ王国軍を追い払い
島を占領してしまうのです。 ――[ニュートンの予言/20]


≪画像および関連情報≫
 ・ナポレオン3世とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランス軍を指揮する能力に欠けていたナポレオン3世は、
  困り果てた末に、自軍の本営にウィジャボードという霊応盤
  を持ち込んで降霊術を行ったという。このウィジャボードと
  は、長方形の板の上にアルファベットや数字が記入された文
  字盤のことで、降霊術などで霊魂と会話をする時に使われる
  代物である。降霊術の際は、この文字盤の上に、プランシェ
  ットという文字を指し示すハート型の指示器を置く。この指
  示器の上に霊媒師が手を置くと、あちこち動いて質問に答え
  るというものであった。要するに西洋版のコックリさんと思
  われるが、ほとんどその目的は興味本位中心で娯楽半分のゲ
  ーム感覚で行われることが多かったという。
  ―――――――――――――――――――――――――――

カブール/ナポレオン3世.jpg
カブール/ナポレオン3世
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2010年04月01日

●ヴァチカン市国の誕生(EJ第2243号)

 イタリアの地図を見ていただくと分かりますが、サルディニア
島というのはかなり大きな島です。
 その島の港からガリバルディ率いる赤シャツ隊は、2隻の船に
乗ってシチリア島を目指したのです。そのシチリア島からナポリ
王国軍を追い払った赤シャツ隊はその勢いで、対岸のイタリア半
島の先端に上陸、半島を北上し、ナポリ王国を攻め、滅ぼしてし
まったのです。
 「いざ、ローマへ」――ガリバルディ率いる赤シャツ隊はロー
マを目指して北上します。ローマは、ちょうどイタリア半島の中
央部にありますが、そこはローマ教皇の領地になっていて特殊な
場所です。ガリバルディは、そのローマ教皇領に攻め込もうとし
て北上したのです。
 カブール首相は「これはまずい」と考えたのです。何しろロー
マは教会の領土なので、単純に武力で征服するわけにはいかない
のです。というのは、ローマ教会の信者はイタリア人だけでなく
全ヨーロッパにいて、ローマには特別な感情を持っており、ここ
を武力征服してローマ教皇を敵に回せば、国際問題に発展しかね
ないと考えたからです。しかも、フランス軍もローマに駐留して
おり、武力衝突も懸念されたのです。
 「もし、ガリバルディが教皇領に攻め込むとフランスとの武力
衝突が起きる」――これは絶対に阻止しなければならないと、カ
ブール首相は考えたのです。しかし、自分ひとりでは、ガリバル
ディの進撃を止めることはできないと判断し、サルディニア国王
エマヌエーレ2世自身に出陣を願い、サルディニア軍を率いてイ
タリア半島を南下したのです。
 エマヌエーレ2世は、ナポリの北にあるテアノという場所まで
やってきてガリバルディと会見します。ガリバルディは、この直
前に行われた住民投票で、ナポリ王国のサルディニア王国編入が
決まったことを王に報告し、自分が占領した土地をすべて王に献
上し、ローマ進撃の許可をもらおうとしたのです。
 しかし、王はこれを許さず、ガリバルディの義勇軍をサルディ
ニア正規軍に編入してしまったのです。王はガリバルディに冷た
かったのです。おそらく青年イタリア党出身で民衆に人気のある
ガリバルディは、危険人物に見えたのでしょう。
 それを察知したガリバルディは、これを機に政治の表舞台を去
り、カプレラ島という小さな島で畑を耕しながら余生を送ったと
いわれます。
 この思いもかけないガリバルディの活躍によって、ローマ教皇
領とオーストリア支配下のヴェネツィアをのぞいて、イタリアの
大部分がサルディニア王国によって統一されたのです。そして、
1861年にエマヌエーレ2世は、1861年イタリア王国の成
立を宣言し、初代イタリア国王に即位したのです。
 しかし、ローマ教皇領だけは簡単に解決できなかったのです。
1870年にイタリア軍はローマを占領し、住民投票で教皇領は
イタリア王国に併合されることになります。同時に、ローマ市街
も王国へ明け渡し、残る教皇領は1万8000平方キロになった
のです。
 しかし、教皇ピウス9世は王国側が提案したヴァチカンの「保
障法」を拒否し、イタリア政府に関わる者すべてを破門するとい
う厳しい処置をとったのです。このため、ヴァチカン独立までの
間、イタリア国家と教皇庁は鋭く対立することになります。ヴァ
チカンはカトリックの総本山であるため、この対立はヨーロッパ
全体を巻き込む深刻な問題となり、それがゆえに「ローマ問題」
と呼ばれたのです。
 教皇領を奪われたローマ教会は、深刻な財政難に陥っていたの
です。それまで教皇領から得ていた収入を絶たれたことが原因で
すが、これを救ったのはあのムッソリーニです。
 月日が流れて教皇ピウス11世が即位すると、イタリア政府と
教皇庁は大きく歩み寄りを見せはじめます。1929年2月11
日、当時のイタリア政府の政権を担っていたムッソリーニは、教
皇庁の権利を定めた「ラテラノ(ラテラン)条約」を提示します。
 その内容は、教皇はイタリア王国を承認し、その代わりにイタ
リア王国は教皇主権のヴァチカンを独立国と認め、さらにカトリ
ックがイタリアにおける唯一の宗教であることを確認する、とい
うものです。条約は受け入れられ、ローマ市内にある世界最小の
ヴァチカン市国が誕生したのです。イタリア統一から実に59年
後のことなのです。
 ヴァチカンの歴史をこのように詳しく見てきたのは、ローマ・
カトリック教会が中世から現代までのさまざまな時代の政治とい
かに結びつき、その権力と組織を拡大・強化してきたかを認識す
ることが目的です。
 ヴァチカンは、東京ディズニーランドよりも小さい地域ではあ
るものの、主権を持つひとつの国家であり、ひとつの宗教団体と
してのレベルを超えています。ヴァチカン市国の国家予算は20
03年度のデータですが、歳入は277億円、歳出は290億円
になっています。
 基本的には利益追求の産業活動は行っていないので、「ペテロ
の募金」と呼ばれる世界中のカトリック信徒からの募金や切手の
販売、ヴァチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などの収入
を「宗教活動協会/IOR」を経由して投資運用することによっ
て国家財政を賄っているのです。それに独自通貨を持たないので
以前はリラを使っていたのですが、2002年1月からは、ユー
ロを使っています。
 実はラテラノ条約によってヴァチカンは巨額の資金を手にして
いるのです。イタリア政府は条約調印とともに教皇庁に対して、
7億5000万リラを支払うとともに額面10億リラの整理国債
を交付しているのです。これによってヴァチカンが獲得した金銭
は当時のレートで8500万ドル、現時価に換算しておよそ10
億ドル――1500億円です。これらの資金の運用に関してはい
ろいろなことがいわれています。−[ニュートンの予言/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義のようだが、微妙に同
  義ではない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁
  長官がが存在するが、ローマ教皇庁の実質的な責任者は国務
  長官が務めている。国務長官はバチカン市国の外交部門の最
  高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国
  委員会が持っている。委員会のメンバーの任期5年となって
  いる。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジュセッペ・ガリバルティ.jpg
ジュセッペ・ガリバルティ
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2010年04月02日

●『死海文書』はどのような文書か(EJ第2244号)

 キリスト教を研究していけば行くほど、イエス・キリストの具
体像が見えなくなっていくことに気がつきます。クリスチャンで
はない一般の人は、「キリスト教はイエス・キリストの興した宗
教である」と単純に考えていますが、どうやら違うようです。
 結論を先にいうようですが、ニュートンは次のようなおどろく
べきことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 獣の国と獣の宗教が終わりの日に打ち倒され、そしてイエスは
 再臨する。ここでいう獣の国は西ローマ帝国。そして獣の宗教
 とは三位一体のキリスト教。これが鉄のトライアングルを組む
 ときこそ終わりのはじまりの日なのであると。−−ニュートン
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 断っておきますが、これは過去の話ではなく、これから起きる
話なのです。西ローマ帝国の系譜を引く三位一体のキリスト教と
いえば、ヴァチカンのこと。そのヴァチカンがイエスが再臨する
日に打ち倒されるといっているのです。そのため、キリスト教を
中心にローマ帝国の興亡を追い、どのようにしてヴァチカンが興
ったかを見てきたのです。
 この予言を唱えているのがいまひとつ正体のはっきりしないノ
ストラダムスのような予言者ではなく、世界的な科学者として名
高いニュートンなのですから、荒唐無稽な妄言として片付けられ
ない緊張感がそこにあります。
 謎を解く鍵は、あの「死海文書」なのです。この死海文書をカ
トリック教会は必死になって隠そうとしてきたのです。なぜ、隠
そうとしたのかというと、それはキリスト教会の存立の基盤を根
底から崩壊させる起爆力を秘めていたからです。
 イエスの誕生当時(紀元前6年/推定)、イスラエルに存在し
た最大の勢力は、ユデアの丘にあったクムラン宗団であったので
す。人数こそ2OO人程度でしたが、のちの世界に対するその影
響力は絶大なものがあったからです。
 クムラン宗団は既に述べたようにエッセネ派です。このクムラ
ン宗団とナザレ教徒、エルサレム教会といわれるものは、いずれ
も同じ集団なのです。クムラン宗団の源は古代エジプトにあると
いわれます。
 イエスは紀元27年から3年間、クムラン宗団に参加していま
す。そのため、この死海文書にはイエスという男の真の姿が正確
に記述されているのです。
 「死海文書」の公表をヴァチカンが差し止めているという疑惑
を発表したのは、マイケル・ペイジェントとリチャード・リーの
共著の次の本です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本は大型本349ページに及ぶ大書ですが、「死海文書」
の研究においてヴァチカンがそれをどのように隠蔽し、いかに研
究を妨害したかについて詳細に記述されています。
 本書は「死海文書」を調査する学者のプロジェクトである「國
際チーム」の中には多くのヴァチカン関係者がいて、ヴァチカン
の教義にとって不都合なものがあれば、その国際チームがほとん
ど潰して隠蔽してきた事実が明らかにされています。
 この國際チームのメンバーの選任の権限を持っていたのは、ロ
ラン・ドゥ・ヴォーという名の神父だったのです。彼と面識のあ
った人にいわせると、忘れられない印象を与える人であり、いく
分“変人”であったというのです。
 彼は、1903年にパリで生まれ、1925年から聖シュルピ
ース神学校で神父になるための勉強をして、その間にアラビア語
とアラム語をマスターしています。1929年にドゥ・ヴォーは
ドミニコ修道会に入り、その修道会の後援によってエルサレムの
聖書学院に派遣、やがてその学院の学院長を勤めた経験を持つ聖
書の専門家です。
 このドゥ・ヴォー神父によって、ほとんどの委員が選任された
のですが、このチームに専門家ではないアウトサイダーの委員と
して参加していた一人にエドモンド・ウイルソンという米国文学
および文化批評家がいたのです。彼は、この國際チームについて
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『死海文書』によって惹き起こされた諸論争を研究始めるや否
 や、ある「緊張」に気づくようになる。・・・だが、その緊張
 は、最初大いに論じられた年代の問題や、年代決定そのものに
 ついての争いに起因しているのではなく、おそらくその背後に
 純粋に学問的ではない他の不安に起因しているのである。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウイルソンは、國際チームの学者――彼らのほとんどはキリス
ト教の聖職者であったり、ユダヤ教のラビ的伝統の訓練を受けた
人たちであったが、クムランの資料を研究するのに際して、学者
としてではなく、彼らの種々の宗教的信念によって、多くの制約
を受けているのではないかと疑うようになったといっています。
 このエドモンド・ウイルソンは、1969年になって『死海か
らの巻物』という書物を出版しています。この本は、今日にいた
るまで、アウトサイダーの観点によるクムラン文書についての基
本的にして、最もポピュラー研究書の一つであり、貴重な文献と
なっているのです。
 それでは、ヴァチカンはなぜ「死海文書」を隠そうとするので
しょうか。これについては、もう少し周辺の事情を調査してみる
必要があります。      ――[ニュートンの予言/22]


≪画像および関連情報≫
 ・『死海文書の謎』の書評より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「銅の巻物」で述べられた財宝は、侵入してくるローマ軍よ
  り守るために神殿から運び出されてきた。また、その宝の一
  部と考えられるバルザム油が見つかったこと。「銅の巻物」
  が発見された洞窟のちょうど北にある洞窟で水差しが見つか
  り、それはヘロド王とその後の彼の後継者の時代に由来する
  品であった。棕櫚の繊維の保護カバーで守られ、中には濃い
  赤い油が入っていた。科学的分析では、今日知られているい
  かなる油とも違うもので、一般にバルザム油と信じられてい
  る。バルザム油は伝統的にイスラエルの王に注がれるための
  貴重なものであるが、バルザムの木はほぼ1500年前に絶
  滅しており、確認されていない。これは、クムラン共同体が
  砂漠に孤立した存在ではなかったことを示している。
   ――http://library666.seesaa.net/article/2371988.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

『死海文書の謎』.jpg
『死海文書の謎』
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2010年04月05日

●『死海文書』をめぐる暗闘(EJ第2245号)

 「死海文書」を研究する國際チームの学者の一人にジョン・M
・アレグロ――英国代表という学者がいます。彼は言語学者で、
特別な宗教的関係を持っていない学者の一人であり、聖書の解釈
を担当していたのです。彼もヴァチカン系の國際チームの委員が
資料や事実を隠蔽しようとすることに強くに反発したのです。
 1956年のことですが、アレグロはイギリス北部のラジオ番
組で、「死海文書」に関して3回の講話を行っています。最初の
2回の講話は大した反響は呼ばなかったのですが、3回目の講話
は「ニューヨークタイムズ」に取り上げられ、それが以後かなり
のコダゴタが続く原因になります。
 その「ニューヨークタイムス」の見出しと記事――1956年
1月30日――は次のようなものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエス・キリストの誕生の百年以上も前に存在していた極端な
 ユダヤ教のセクトの諸文書のなかに、キリスト教の儀礼や教養
 の或るものの起源が見出されうる。『死海文書』という「信じ
 難いほどの」文書群について、7人の学者から成る國際チーム
 の一人、ジョン・アレグロが、こういう解釈を下した。・・彼
 は・・昨夜の放送で、「主の晩餐」や「主の祈り」や新約聖書
 のなかのイエスの教えの少なくとも一部が、クムラン共同体に
 帰されうると述べた。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに関してドゥ・ヴォー神父をはじめとするヴァチカン系の
國際チームの委員たちは署名入りで、次のような反論文書を「ザ
・タイムス」に発表したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれが仕事をしているパレスティナ考古学博物館に現在存
 在しているもののほか、アレグロ氏の自由になるような未出版
 のテクスト原本など存在していない。アレグロ氏の放送から引
 用された記事が公表されたが、われわれは原本のなかにアレグ
 ロ氏の「発見」なるものを見つけることはできない。(中略)
 アレグロ氏がある報告のなかで言ったとされるような「ナザレ
 のイエスがぴったり当てはまるような明瞭なエッセネ派」など
 は存在しないのである。彼がテクストを読み間違えたか、ある
 いは資料によっては支持されない一連の憶測を彼がでっち上げ
 たかであると、われわれは確信する。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 このドゥ・ヴォー神父らの署名入りの反論を契機にカトリック
教会の宣伝機関はフル回転をはじめたのです。アレグロの品位を
落とすための誹謗中傷がはじまったわけです。
 1956年6月の「アイリッシュ・ダイジェスト」に「『死海
文書』についての真実」と題された記事がイエスズ教会の注釈者
によって公表され、アレグロとウイルソンを攻撃し、次のような
途方もない声明を明らかにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 巻物が、紀元前2OO年頃からキリスト教の時代まで、ユダヤ
 人の間に広がってきた諸教義についての知識に付け加えるもの
 は驚くほど僅かである。
          ――「『死海文書』についての真実」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そうこうしているうちにアレグロはもうひとつの論争に巻き込
まれたのです。それは1952年にクムランの洞窟から発見され
た「銅の巻物」なのです。國際チームはなぜかこの巻物について
はあえて3年半もの間、手をつけなかったのです。
 しかし、アレグロは自分が管理していた2つの断片について、
マンチェスター工業大学のH・ライト・ベイカー教授の協力を得
て、翻訳に取りかかったのです。ところが、その内容は途方もな
いものであり、アレグロはそれを秘匿したのです。それは、エル
サレムの神殿の宝物や諸文書が埋められている秘密の場所を示す
リストを含んでいたからです。
 ドゥ・ヴォー神父と國際チームは、この「銅の巻物」の内容の
公開に危機感を感じていたのです。だからこそ、あえて手をつけ
ないでいたのです。その内容については、それが宝物のありかを
示すものであるらしいという情報は把握していたのです。
 ヴァチカン系の國際チームの委員たちは、実際に何らかの宝物
が出てきてしまうと、それがイスラエル政府の注意を喚起し、彼
らがその所有権を主張することを恐れたのです。
 しかし、アレグロは巻物についてBBCで映像化することにし
その制作を進め、1957年末までに完成させます。しかし、こ
の番組は1959年まで放映されることはなかったのです。カト
リック教会の圧力によって放映が延期されたのです。これについ
て、アレグロはこれに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らはまたもややらかしたのです。BBCは巻物に関するテレ
 ビ番組の放映をこれで5回引き延ばした。ドゥ・ヴォー神父は
 巻物の資料をコントロールするためなら何事も辞さないのだ。
 どうにかして彼を現在の支配的地位から外さねばならない。私
 は確信している。ローマ・カトリック教会の教義に影響を与え
 るようなものが何か出てきたら、世界はそれを決して目にする
 ことはないであろうと。ドゥ・ヴォーは、最後に残った手段を
 使って、それらを全部ヴァチカンに送り、隠すか破壊するかし
 てしまうだろう。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これが原因でアレグロは國際チームの委員を解職させ
られてしまいます。     ――[ニュートンの予言/23]


≪画像および関連情報≫
 ・エッセネ主義について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  われわれが、エッセネ主義というものを、例えば排他的に死
  海のグループと同一のものとするようなあまりにも狭い定義
  を下すのではなく、当時広がっていた反エルサレム、反ファ
  リサイ主義の非妥協的な運動の一般的叙述と理解したならば
  どうであろうか。キリスト教が生まれてきたのは、そのよう
  な「エッセネタイプの」ユダヤ教からであったのである。
    ――マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著の
                        前掲書より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・アレグロ.jpg
ジョン・アレグロ
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2010年04月06日

●イエスはエッセネ派である(EJ第2246号)

 「死海文書」をめぐる一連の動きを調べていくと、ヴァチカン
――ローマ・カトリック教会は、なぜ「死海文書」を隠蔽しよう
とするのか、不思議に思います。何かを隠そうとするときは、そ
れが公表されたら困ることがあるからです。「死海文書」には、
カトリック教会の困る何が記述されていたのでしょうか。
 イエスがクムラン宗団に属していたことは、はっきりしている
のです。その当時ヨハネ――バプテスマのヨハネは、ガリラヤ湖
に接したヨルダン川で洗礼を施していたのです。
 ヨルダン川での水による洗礼が、当時としては画期的なもので
あったことは、「ダ・ヴィンチ・コード」をテーマとして取り上
げていたEJ第1906号などで詳しく書いているので、次のU
RLを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
http://electronic-journal.seesaa.net/article/22734882.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 それまでユダヤ教の洗礼は、はるばるエルサレムの神殿まで出
かけて行って、業者から購入した生贄の血によって行っていたの
で、とてもお金がかかったのです。それがヨルダン川の水ででき
てしまうのですから、大変な評判だったのです。イエスもヨハネ
から洗礼を受けているのです。
 このバプテスマのヨハネもエッセネ派であったといわれていま
す。しかし、エッセネ派が荒れ野での修行を重視していたのに対
し、ヨハネは大衆を救うために大衆の中に出ていったのです。
ヨハネの人気は上昇し、彼の教団の信徒は増えていったのです。
 しかし、これは、サドカイ派が守ってきた伝統とヘロデ大王が
築いた神殿の権威を踏みにじる行為でもあったのです。当時ガリ
ラヤの支配を任されていたヘロデ・アンティパス(ヘロデ王の子
息)は、かねがねヨハネを快く思っていなかったのです。
 31年にイエスはクムランを去り、イエスの教団ができるので
すが、ヨハネがイエスを認めたことによって、ヨハネの教団から
もイエスの教団に入る者も多くなっていったのです。しかし、そ
の時点ではイエスの教団よりもヨハネの教団の方が大きかったと
思われます。
 ヨハネは、ユダヤ教の伝統にしたがって民族主義的な考え方を
持っていたので、ローマ帝国の傀儡になり果てていたヘロデ・ア
ンティパスをつねに批判していたのです。さらにあろうことか、
ヘロデ・アンティパスは兄の妻を奪った不倫が原因で、政略結婚
でアラビアから迎えた妻が逃げてしまうという失態を犯したので
ヨハネはそれを容赦なく批判したのです。
 これに怒ったヘロデはヨハネを逮捕し、首を刎ねてしまうので
す。この話は、オスカー・ワイルドの名作『サロメ』であまりに
も有名です。32年のことです。ちなみに、サロメとは、ヘロデ
の不倫の相手であるヘロディアの連れ子なのです。
 イエスもヨハネと同じエッセネ派であり、修行を重ねているう
ちにエッセネ派の限界に気がつくのです。エッセネ派は自ら修行
して、グノーシスと呼ばれる叡智によって神の領域に近づこうと
するのです。しかし、修行の結果、神の領域に到達できても救わ
れるのは自分だけなのです。
 これではいけない。大衆を救済しなければ――とイエスは考え
てクムラン宗団を去ったのです。ヨハネも同様な理由で早くから
大衆救済に動いたのです。
 しかし、ヨハネがヘロデに殺されると、イエスはある決断をし
たのです。イエスは国家のために律法を破る必要があると考えた
のです。それまでどちらかというと、イエスはクムラン宗団の掟
にきわめて厳格であったのですが、一挙に急進派になったといえ
ます。イエスは自分の殺されることはわかっていたらしく、急ぐ
必要があると感じたのです。
 イエスの有名な教えに次のようなものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさ
 い。だれかが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリ
 オン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りよ
 うとする者に、背を向けてはならない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「目には目を、歯には歯を」というユダヤの教えを破っ
ているのです。ここで、頬を打つ者、下着を取ろうとする者、1
ミリオン行く者というのは、ローマ軍のことです。そのような横
暴なローマ軍のために祈ってやり、愛してやる――そういう精神
的優位に立てといっているのです。それがユダヤがローマに支配
されてるというこだわりから解放される道なのだと説いているの
です。聖書研究家の三田氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスが説いたのは、博愛や無抵抗主義ではない。むしろ精神
 的な暴力ともいうべき、ラディカルな発想の転換である。
            ――三田誠広著/NONブック424
                『ユダの謎/キリストの謎』
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスの武器は「言葉」なのです。「初めに言葉があった」と
は「ヨハネの福音書」の中の有名な言葉ですが、イエスにとって
言葉は武器なのです。
 年末になると、必ずといってよいほど、繁華街ではイエスの言
葉が流されます。街に出てこのメッセージを聞くと、「もう、今
年も暮れだな」と思うものです。昨年の暮れも私はイエスのメッ
セージを聞いています。
 イエスは、33年、磔刑になって殺されてしまいましたが、イ
エスの言葉は現在でも街を歩いていると、聞こえてくるのです。
考えてみると、これほど強力な武器はないといえます。
 ヨハネもイエスも殺されたとなると、その後彼らの教団はどう
なっていったのでしょうか。 ――[ニュートンの予言/24]


≪画像および関連情報≫
 ・バプテスマのヨハネについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエ
  リザベト。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも。正教会で
  はキリストの道を備えるものという意味の前駆の称をもって
  しばしば呼ぶ。日本ハリストス正教会での呼称は前駆授洗イ
  オアン(せんくじゅせんイオアン)。イエスの弟子である使
  徒ヨハネとは別人である。      ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

イエスに洗礼するヨハネ.jpg
イエスに洗礼するヨハネ
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2010年04月07日

●洗礼者ヨハネとイエス(EJ第2247号)

 日本ではイエスのことを「キリスト」といったり、「イエス・
キリスト」と呼びますが、この言葉の意味をはっきりさせておく
必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ギリシャ語のキリスト ・・・ 油で浄められた者
   ヘブライ語のキリスト ・・・ メシア/ 救世主
―――――――――――――――――――――――――――――
 「油で浄める」というのは、神によって選ばれた王を祝福する
儀式のことであり、「メシア」というのは一般的には「救世主」
といわれるが、この救世主はユダヤ教では「王」――それもただ
の王ではなく、ダビデ王のことを意味しているのです。このダビ
デ王――イスラエルの12部族を1つにまとめた偉大なる王であ
り、だからこそ「救世主」と呼ばれたのです。
 ところで、「死海文書」の多くに2人の「メシア」が登場する
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    祭司のメシア ・・・・・ レビ のメシア
    王 のメシア ・・・・・ ダビデのメシア
―――――――――――――――――――――――――――――
 早くから洗礼者ヨハネは多くの人からメシアではないかと考え
られていたのです。しかし、ここでいうところのメシアは「祭司
のメシア」なのです。
 イエスは、ヨハネから洗礼を受けると、その後あしかけ3年間
クムラン宗団で修行しています。実はイエスにはヤコブという名
前の弟がいて、彼もイエスと一緒にクムラン宗団に入って修行し
ているのです。
 戒律の厳しいクムラン宗団の修行においてもイエスの兄弟は傑
出した存在感を示すようになります。洗礼者ヨハネはイエスに対
し、「王のメシア」になるよう要請し、これでクムラン宗団は祭
司のメシアと王のメシアの2本柱が揃ったのです。
 しかし、西暦32年に洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺され
クムラン宗団は2つのメシアのうちの祭司のメシアを失うことに
なります。そしてクムラン宗団は直ちに洗礼者ヨハネの後任とし
てイエスの弟のヤコブを祭司のメシアに据えるのです。
 それからの約一年間――洗礼者ヨハネの処刑から自らの処刑ま
でイエスは急進的、政治的に動いたのです。ヨハネが殺され、さ
まざまな預言書を読んだことによって自分も同じように殺される
のではないかという危機感を抱いたからです。そういう「先がな
い」という思いがイエスを急進的に走らせたといえます。
 彼はユダヤの律法を破って、多くの一般人に洗礼を施し、信者
を増やし、側近たちの宗教的地位を引き上げ、彼らにモーセの秘
儀を伝えはじめたのです。そして、イエスは自分の身を守らせる
5人の親衛隊――ヤコブ、ヨハネ、熱心党のシモン、シモン・ペ
テロ、ユダの5人――を伴い、各地を伝道して回ったのです。わ
れわれがキリスト映画で見るイエスの伝道のシーンは、すべてこ
の頃のものです。その期間はわずか一年間だったのです。
 このときイエスに従っていた信徒たちの一団をイエスの教団と
か原始キリスト教団、ナザレ教団などと呼ぶことはありますが、
死海文書によれば、それらはクムラン宗団の別働隊であったと考
えられるのです。いうまでもなく現在われわれがキリスト教と認
識しているカトリック教会とは別のものです。
 死海文書をよく読むと、イエスは洗礼者ヨハネを師と仰ぎ、ヨ
ハネを祭司のメシアとみなしていたことがわかるのです。次の文
言は死海写本にある「レビの遺訓」といわれるものですが、これ
は、まるでイエスのことをいっているように思えますが、イエス
が洗礼者ヨハネに抱いていた深い尊敬の念をあらわしたものとさ
れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    彼は彼の時代の子らの罪を贖い、
    すべてのひとびとの子らのためにつかわされる
    彼の言葉は天の声に等しく、
    彼の教えは神の意を伝える
    彼の太陽は永遠に輝き
    その炎は遍く世を照らす
    暗黒は大地から消え、
    乾いた地から暗闇は去る
    ―ジェイムズ・D・テイバー著/伏見威蕃・黒川由美訳
          『イエスの王朝/一族の秘められた歴史』
              ソフトバンク・クリエイティブ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように死海文書には、いわゆるローマ・カトリック教会に
とっては都合の悪い内容を数多く含んでいたのです。そのため、
カトリック教会は死海文書の解読をカトリックの神父中心に行い
他の研究者には資料を自由に閲覧さえさせなかったのです。
 ヘロデ大王の時代、ユダヤ属州はローマ総督によって直轄され
ていたのですが、当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化
を尊重し、統治者として巧みな統治政策を取っていたのです。と
くにローマ帝国は、ユダヤには相当気を使っていたのです。
 属州でありながら、ユダヤ人を裁く権利をユダヤ側に与え、安
息日を尊重し、軍務につかないことも認めるというかなり広範囲
な自由を与えていたのです。
 しかし、地中海世界はこぞって多神教文化であり、その中で一
神教を奉ずるユダヤは、どうしてもローマとの距離は開く一方で
あったのです。ユダヤ人としては、エルサレムを中心とする神政
国家がないということ自体が不満だったのです。
 しかし、ローマ帝国は、後にキリスト教を国教とするまでは伝
統的に政教分離がはっきりしていた国であり、ユダヤ人が望むよ
うな宗教国家を認める気にはならなかったのです。しかし、西暦
66年になって、ローマ帝国とユダヤの間は険悪な情勢になり、
ユダヤ戦争が勃発します。  ――[ニュートンの予言/25]


≪画像および関連情報≫
 ・洗礼者ヨハネとイエス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で説教をしていた。そこにイエ
  スがあらわれる。ヨハネから洗礼を受けるためである。ヨハ
  ネはためらい、言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けな
  ければならないのに、なぜ私のところへ・・・・」イエスは
  「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々
  にふさわしいから」と言った。腰布をまとったキリストは川
  の流れの中に立ち、岸に立ったヨハネから頭に水をかけられ
  る。イエスに洗礼をほどこしたのである。/マタイ3、マル
  コ1、ルカ3            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

洗礼者ヨハネ/ドメニコ・ギルランダイオ.jpg
洗礼者ヨハネ/ドメニコ・ギルランダイオ
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2010年04月08日

●第1次ユダヤ戦争とクムラン宗団(EJ第2248号)

 第1次ユダヤ戦争の詳細を後世に伝えたのは、フラウィウス・
ヨセフスという歴史家です。彼はユダヤ軍の武将であり、戦争の
途中でローマ帝国に降伏したのです。
 ユダヤ戦争の発端は、当時ユダヤを統治していたローマ総督フ
ロルスがエルサレム神殿の宝庫から財貨を持ち出したことにユダ
ヤ人が激怒し、エルサレムでユダヤの過激派が暴動を起こしたこ
とがきっかけになったと一般的にはいわれています。
 しかし、これは少しウラの話があるのです。クムラン宗団の祭
司メシアのヤコブ――義のヤコブはイエスの死後、教団をまとめ
てきた人物です。彼はエルサレムの初代教会の祭司として認めら
れており、信望は厚かったのです。何しろイエスの宣教は一年で
終わったのに対し、ヤコブは20年間も聖職にあったのですから
それだけその教えは伝わっていたのです。
 その義人ヤコブは、ローマ帝国の傀儡政権化しているヘロデ一
派とは敵対関係にあったのです。そのため、ヤコブは64年にそ
の一派とみられるグループに虐殺されてしまうのです。ローマ帝
国とのトラブルは、このヤコブの死と無関係ではないのです。
 フロルス総督は、暴動に参加した多くのユダヤ人を捕らえて十
字架刑に処し、事態を収拾しようとしましたが、これが火に油を
注ぐ結果となり、反ローマ運動がユダヤ全土に波及したのです。
そして66年に遂に戦争に突入してしまいます。
 強大なローマ帝国と戦争するとなると、宗派の違いなどはいっ
ていられなくなり、ユダヤ民族は一丸となって戦うことになった
のです。サドカイ派の神殿兵はもとより、パリサイ派も、クムラ
ン宗団のエッセネ派も加わって果敢に戦ったのです。その中心と
なったのは、神の国を再建するには剣の力が必要であると主張す
る熱心党です。
 当初ローマ側は、シリアの総督ガルルスが率いる第12軍団を
中心とする兵力で力でねじ伏せようとしたのですが、ベテホロン
の戦いでローマ軍は大敗を喫してしまうのです。
 事の重大さを認識した当時のネロ皇帝は、将軍ヴェスバシアヌ
スに命じてユダヤの鎮圧に向かわせます。将軍ヴェスバシアヌス
は3個軍団の約6万の兵を率いて、息子のティトゥスと共に出陣
したのです。
 将軍ヴェスバシアヌスは、直接エルサレムを攻撃するのを避け
周辺の都市をひとつずつ落として、エルサレムを孤立させる戦略
を取ったのです。そして、ガリラヤを攻略しているときに投降し
てきたのが、フラウィウス・ヨセフスなのです。このようにして
ローマ軍はガリラヤとサマリアを平定し、エルサレムの攻撃をは
じめようとしたのです。
 ところがここで、ローマ側に思いも寄らぬ出来事が起こるので
す。68年にローマで叛乱が起こり、皇帝ネロが自殺に追い込ま
れてしまったのです。やむをえず、ヴェスバシアヌスは急遽ロー
マに戻り戦線はこう着状態に陥ってしまいます。
 本当はここがユダヤ側にとってチャンスだったのですが、寄せ
集めのユダヤ軍は内部での抗争が起こってしまい、味方同士で犠
牲者を出す始末です。
 そうしているうちにヴェスバシアヌスはローマ皇帝となり、新
皇帝は息子のティトゥスに全軍の指揮をとらせ、再びユダヤに進
軍させます。ユダヤ軍は神殿やアントニウス要塞にこもって戦い
ますが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、夏には神殿に火がつけ
られ、秋にはエルサレムが滅亡してしまうのです。
 ティトゥスは、神殿の宝物を戦利品とし、反乱の指導者を捕虜
にしてローマに凱旋したのです。この凱旋のとき造られたのが、
現在も残るティトゥスの凱旋門です。そこには、エルサレムの神
殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれているのです。
 それでも一部のわずかなユダヤ兵たちは、ヘロデ大王が築いた
難攻不落の要塞――ヘロディオン、マカイロス、マサダにこもっ
て抵抗を続けましたが、74年にマサダ要塞に最期まで残ったユ
ダヤ兵が集団自決したことによって、ユダヤ戦争は完全に終結し
たのです。これが第1次ユダヤ戦争です。
 義人ヤコブが殺され、第1次ユダヤ戦争によって、エルサレム
教会は瓦解し、それを後に別の宗教組織、すなわち今日ローマ・
カトリック教会として知られる組織がそっくり奪ったのです。こ
れについて、ナイトとロマスは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 西暦70年のエルサレム陥落以後、キリスト教と呼ばれる宗教
 はユダヤ教と分離しはじめ、それと同時に、ヨシュアと呼ばれ
 た英雄の姿は異教の神話と伝説の中に消えていった。そして古
 い異教の物語が、ユダヤの王となろうとしたイエスという男の
 物語の上に積み重ねられていった。ローマでは、ロムルスとレ
 ムスの物語が、ペトロとパウロの語り直された。そして、イエ
 スの誕生日には、太陽神ソルの誕生日である12月25日がふ
 さわしいと考えられた。安息日は土曜日から太陽神の日である
 日曜日に移り、太陽の象徴は聖者の頭の後ろに後光として描か
 れるようになった。
        クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著
      /松田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究社
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまで見てきたように、イエスが属したクムラン宗団は基本
的には洗礼者ヨハネの教団です。これに対してローマ・カトリッ
ク教会はイエスを神格化し、ヴァチカンの丘で処刑されたペテロ
――初代ローマ教皇を中心とする教団です。
 したがって、イエスを中心とするいわゆるキリスト教団と現在
のカトリック教会は全然別のものということになります。したが
って、カトリック教会におけるイエス像は、実際のイエスと大き
く異なるものになっているのです。
 死海文書には、カトリック教会のそれとは違うイエスの教団の
すべてが詳細に紹介されており、だからこそカトリック教会はそ
れを隠蔽しようとしたのです。――[ニュートンの予言/26]


≪画像および関連情報≫
 ・『ユダヤ戦記』/ヨセフス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フラウィウス・ヨセフスは、古代イスラエルの著述家。紀元
  66年に勃発したユダヤ戦争において、はじめユダヤ軍の指
  揮官として戦ったが、ローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚
  としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛
  末を記した『ユダヤ戦記』をあらわして著述家としての名声
  を得ることになった。        ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

第1次ユダヤ戦争.jpg
第1次ユダヤ戦争
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2010年04月09日

●ダニエルとは何者か(EJ第2249号)

 ここまでニュートンの予言の前提となる知識について書いてき
ましたが、いよいよ予言の核心部分に入っていきます。ニュート
ンが聖書の解読作業――とくに世界の終末の日の特定に当って一
番参考にしたものは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.「ダニエル書」 ・・・・・ 旧約聖書
    2.「ヨハネの黙示録」 ・・・ 新約聖書
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ダニエル書」は、旧約聖書の外典のひとつです。他にも「ミ
カ書」、「イザヤ書」、「エゼキエル書」などがあります。「ヨ
ハネの黙示録」は新約聖書の中にあります。
 ところで、ダニエルとは何者でしょうか。
 ダニエルは、偶像崇拝を毅然とした態度で拒否し、それによっ
て生じたさまざまな危険を神が与えた智恵と力で切り抜けたこと
で知られる高名な預言者です。
 ご存知の人は多いと思いますが、ダニエルの有名な話を一つご
紹介します。ダニエルの予知能力がどんなに凄いかについて知っ
ていただきたいからです。
 ユダヤ、すなわちイスラエルは何回も他国に滅ぼされた歴史が
あるのです。ダビデ王が出現するまでは、ユダヤは12の小国に
分かれていたのです。これがイスラエルの12の部族です。これ
を本当の意味で統一したのがダビデ王であり、イスラエル王国と
して、さらに発展・繁栄させたのが、息子のソロモン王です。
 しかし、ソロモン王の死後、イスラエル国家は北と南に分割さ
れ、北イスラエル王国の方が宗教的堕落が早かったため、先に滅
びてしまいます。紀元前721年のことです。
 こうしてイスラエル王国は南だけが残ったのですが、バビロン
の王ネブカドネツァルによってエルサレムは陥落し、南の王エホ
ヤキンは支配階級の多くの者と一緒に捕虜として、バビロンに連
れて行かれたのです。これが世にいう「バビロンの捕囚」です。
紀元前598年のことです。
 このネブカドネツァル王の配下の預言者として若きダニエルが
いたのです。ダニエルは誰もできない予言を連発して王を驚かせ
王の側近を務めていたのです。
 時は紀元前2世紀半ば――ネブカドネツァル王の息子であるベ
ルシャツァル王の時代の話です。ある日王は王宮ですべての王族
や貴族を招いて大宴会を開催していたのです。そのとき王は酒の
肴としてエルサレム神殿の宝物――これはネブカドネツァル王が
エルサレムを陥落させたときの戦利品――を持ってこさせ、大勢
で宴会を楽しんでいたのです。そのとき突然空中から手が現われ
て、白い壁に何やら書きはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       メネ メネ テケル ウ パルシン
―――――――――――――――――――――――――――――
 王は恐怖に震え、宮殿にいた祈祷師、賢者、星占い師に言葉の
意味を解かせようとしたのですが、誰もできないので、最後にダ
ニエルが呼ばれたのです。
 ダニエルは即座に壁の言葉の意味を読み解き、これは神の怒り
であることを王に告げるのです。「メネ」は「数える」、「テケ
ル」は「量を計る」、「パルシン」は「分ける」という意味であ
り、次の意味になると伝えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神は王の治世を速やかに終了させ、国をメディアとペルシャの
 2つに分割する。              ――ダニエル
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際にダニエルの予言通りにベルシャツァル王はその夜のうち
に殺され、メディア人のダイオレスが王国を継いだのです。
 このダニエルが書いた預言書に終末預言が出ているのです。重
要なものは3つありますが、そのうちの1つを次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖
 なる者がその語っている者に言った。『この幻、すなわち、日
 ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが
 踏みにじられるというこの幻の出来事はいつまで続くのか』。
 彼は続けた。『日が暮れ、夜の明けること2300回に及んで
 聖所はあるべき状態に戻る』。
             ――「ダニエル書」8・13−14
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中の「2300回」に注目しましょう。2300回の日没
と日の出――つまり、2300日ということになります。これは
神の計画書ですから、神の世界の計算を行う必要があります。神
の世界では1日が人間の世界の1年に当たります。したがって、
「2300日」とあるのは、2300年ということになります。
これは、終末の日を予測する重要な数字のひとつになります。
 さて、重要な3つのうちの2つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打
 ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。
                ――「ダニエル書」12・7
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう「一時期」「二時期」は1年、2年、「半時期」は
半年と考えられるので、3年半ということになります。1ヶ月を
30日とすると、計算は次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
     30×(12×3+6)=1260日
―――――――――――――――――――――――――――――
 1260日は神の計算では1260年ということになります。
2300年と1260年の違いは、ダニエルが幻で見た出来事が
起こったかどうかにあります。2つ目には幻の出来事の記述があ
りません。         ――[ニュートンの予言/27]


≪画像および関連情報≫
 ・メネ メネ テケル ウ パルシン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたと
  いうことです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて
  目方の足りないことがわかったのです。『パルシン』とは、
  あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる
  ということです。」そこでベルシャツァルは命じて、ダニエ
  ルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国
  の第三の権力者であると布告した。その夜、カルデヤ人の王
  ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、62歳で
  その国を受け継いだ。
  http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2004msg/040904.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ネブカドネツァル王.jpg
ネブカドネツァル王
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2010年04月12日

●終末の日に関係のある4つの数字(EJ第2250号)

 前回のEJでご紹介したダニエル書の8・13−14に書かれ
ている「日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と
万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事」というのは、エ
ルサレムの陥落のことをいっているような気がします。
 さて、ニュートンはダニエル書から、もうひとつ次の部分を取
り上げています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらに「日ごとの供え物が廃止され、悩むべき荒廃をもたらす
 ものが立てられてから千二百九十日が定められている。待ち望
 んで千三百三十五日に至る者はまことに幸いである」。
              ――ダニエル書12・11−12
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここには、1290日と1335日という2つの数字が登場し
てきます。「待ち望んで千三百三十五日に至る者はまことに幸い
である」とあるので、あることが起こってから1330日経つと
神の国は実現していることになります。したがって、終末の日は
それよりも前にやってくるということになります。
 これで終末の日に関係する数字が4つ出てきたことになるので
まとめておきましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.2300日
      2.一時期、二時期、そして半時期
      3.1290日
      4.1335日
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上が、ダニエル書からニュートンが抜き出した部分ですが、
ニュートンは同じ作業を「ヨハネの黙示録」についてもやってい
るのです。「ヨハネの黙示録」は、新約聖書の中で唯一預言的性
格を持つものですが、内容が難解であり、内容をめぐってさまざ
まな解釈が存在するのです。
 ニュートンが上げた4つのうちの1つは次の部分です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の
 間養われるように、神の用意された場所があった。
              ――「ヨハネの黙示録」12・6
―――――――――――――――――――――――――――――
 似たような数字がまた登場します。1260日です。これは、
3年半――42×30のことであり、ダニエル書の数値と一致し
ます。不思議なことです。2つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある
 自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れ
 て、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることに
 なっていた。      ――「ヨハネの黙示録」12・14
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことですが、ここにも「一年、その後二年、またその
後半年の間」という表現が出てきたことです。これは「日」では
なく「年」になっていますが、3年半(1260日)という同じ
数字ができているのです。3つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけな
 い。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か
 月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分
 の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、予言させ
 よう。        ――「ヨハネの黙示録」11・2−3
―――――――――――――――――――――――――――――
 またしても42か月と1260日という同じ数字が出てきてい
ます。42か月と1260日は同じ数字です。ちなみに、「二人
の証人」とは、ペテロとその後継者のことを指しており、これか
ら転じてヴァチカンの歴代ローマ教皇のことを指しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この獣にはまた、大言と冒とくの言葉を吐く口が与えられ、四
 十二か月の間、活動する権利が与えられた。
              ――「ヨハネの黙示録」13・5
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの黙示録」では、この世の終わりは、最強の獣が現れ
て、42か月(1260年)後にやってくるということを暗示し
ているようです。4つ目にその42か月が出てきます。
 ダニエル書とヨハネの黙示録に出てくる神の計画のカレンダー
に関わる数字は次の4つということになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.1260年
           2.1290年
           3.1335年
           4.2300年
―――――――――――――――――――――――――――――
 この数字は、ある出来事が起きてから、それぞれの年数後に終
末の日がやってくることを示しているのです。問題は、そういう
出来事の起きる「Xデー」はいつなのかということです。
 実は、ニュートンはこの「Xデー」について、膨大なページを
割いて論じているのです。そのうえで、彼は「2060年に終わ
りがくる」と予言しています。偉大なる天才的科学者であるニュ
ートンらしい緻密さをもって、2060年を割り出しているので
す。それがこの予言の恐ろしい点であるといえます。
 ダニエル書やヨハネの黙示録はこういっているのです。この世
の終わりには、竜、獣、偽預言者があらわれ、悪の三位一体を形
成し猛威を振るうが、その獣の活動期間は42か月、3年半、す
なわち1260日であり、この後に終わりの日がやっている――
ところで、これらの竜、獣、偽預言者とは一体何を意味している
のでしょうか。      ―― [ニュートンの予言/28]


≪画像および関連情報≫
 ・「ヨハネの黙示録」の解釈について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『黙示録』は歴史の中でさまざまに論じられてきた。とくに
  『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊
  性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を
  巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまと
  めると以下の三つの見方に集約することができる。
   「預言書」(予言書)としての解釈
   「文学類型(ジャンル)」としての解釈
   「普遍的テーマのイメージ化」としての解釈
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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アイザック・ニュートンの立像
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2010年04月13日

●紀元800年が終わりの始まりの年(EJ第2251号)

 昨日のEJで述べた神の計画のカレンダーに関係する4つの数
字――この数字を歴史上のある出来事のあった年――Xイヤーに
加えると、終末の年が算出されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.Xイヤー + 1260年 = 終末の年
    2.Xイヤー + 1290年 = 終末の年
    3.Xイヤー + 1335年 = 終末の年
    4.Xイヤー + 2300年 = 終末の年
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは、このXイヤーをあらゆる角度から検討している
のですが、EJではニュートンが最終的に下した結論を先に示し
なぜそうなったのかについて述べることにしたいと思います。
 ニュートンは、終末の年を次のように結論づけているのです。
すなわち、Xイヤーを紀元800年にしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    800年 + 1260年 = 2060年
―――――――――――――――――――――――――――――
 紀元800年には何があったのでしょうか。
 これに答える前に述べることがあります。ニュートンはこの世
の終わりのときに次のことが起きるといっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 世の終わりのとき、ローマ帝国の流れを汲む「竜」とそこから
 派生した「獣」と、その獣を崇拝するように推進する「宗教の
 獣」が悪魔の三位一体となって世界に圧制を敷く。そのときキ
 リストによって彼らは打ち倒され、神の国が完成する。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ダニエル書でもヨハネの黙示録でも、世の終わりのとき、獣が
あらわれることを指摘していますが、ニュートンは聖書の分析に
よって、1つの竜と2つの獣があらわれるとし、それらは次のこ
とをあらわしているといっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   竜 ・・・・・・・・・・・・ 古代ローマ帝国
   海から上がってくる獣 ・・・ 西 ローマ帝国
   陸から上がってくる獣 ・・・   ローマ教会
―――――――――――――――――――――――――――――
 古代ローマ帝国と西ローマ帝国の2つが登場するところがわか
りにくいのですが、ここでは、古代ローマ帝国はキリスト教を国
教とする前の帝国、西ローマ帝国は既にキリスト教を国教とした
あとの帝国であり、現在のヴァチカンの系譜である――このよう
に考えておいていただきたいと思います。
 古代のバビロニア帝国は、ユダヤ教会――原始キリスト教会を
迫害し、エルサレムの神殿を蹂躙しています。このバビロニア帝
国は、ベル神という竜神信仰を持っていたのです。そのため、ヨ
ハネの黙示録では「竜」と名づけたものと思われます。
 このバビロニアの竜の系譜を継いだのが古代ローマ帝国です。
彼らはやはり原始キリスト教会を迫害しています。そして、ユダ
ヤ戦争でエルサレムの神殿を二度にわたって蹂躙しています。ま
さにシンクロニシティ(EJ第2227号参照)です。つまり、
バビロニア帝国と古代ローマ帝国は竜のシンクロニシティという
ことができます。
 聖書にこの世の終わりが預言されていることはあまねく知られ
ています。こういうハルマゲドンが起こったとき、イエスが再臨
し、最終的にキリスト教の真の信者が救われ、そうでない人はす
べて滅びるということもそれを信ずるかどうかは別として、よく
知られていることです。
 それでは真のキリスト教の信者とはどういう人たちかというと
イメージ的には、ローマ教皇を中心とするヴァチカンの偉い人と
いうことになる――多くの人はそう考えていると思います。
 しかし、ニュートンはその預言において、世の終わりのときに
滅びるのは、宗教の獣であるヴァチカンそのものである――しか
も、それは2060年であると予言しているのです。これは驚く
べきことであるといえます。
 紀元800年――この年にローマのサン・ピエトロ大聖堂にお
いて教皇レオ3世は、カロリング朝のカール大帝――カール3世
に王冠を授け、西ローマ帝国は復活を果たしています。ニュート
ンはこの歴史的出来事を重視し、その年に1260年を加えて、
終わりの年として2060年を割り出しているのです。
 それでは、教皇レオ3世がカール大帝に戴冠したことは、なぜ
それほど重要なことなのでしょうか。
 既に見てきたように、カール大帝はフランク王国の国王ですが
もともとフランク王国を作ったのは、メロヴィング家のクロヴィ
スなのです。ところで、フランク王国の源流をたどると、シカン
ブリア人にたどりつくのです。
 シカンブリア人の先祖はイスラエルを追放されたベニヤミン族
といわれています。そのベニヤミン族が逃亡先で近くに住んでい
たチュートン族と婚姻関係を結び、その結果生まれたのが、シカ
ンブリア人なのです。
 ベニヤミン族の宗教はユダヤ教であったので、シカンブリア人
はカトリックではなく、アリウス派に属していたのです。ところ
が、496年に当時のフランク国王クロヴィスは、利害のために
ローマ教会と結びつき、カトリックに改宗しているのです。
 当時のローマ教会は、西ローマ帝国が滅亡したことにより、そ
の基盤はきわめて脆弱であり、不安定な状況にあったのです。当
時ローマ教会では最上位の司教を教皇と自称していたのですが、
その実態は普通の司教と何ら変わらない立場であったのです。
 そのため、当時は異端であるはずのアリウス派よりもはるかに
弱い存在であり、教皇としては、フランク王国の軍事的後ろ盾が
欲しかったのです。     ――[ニュートンの予言/29]


≪画像および関連情報≫
 ・イスラエル民族とユダヤ人の違い/失われた10部族
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イスラエル人とはヤコブの十二人の息子たちの子孫のことで
  あるが、「十二部族」と呼ぶ場合には、祭司の部族であるレ
  ビ族を含まない。後にユダヤ人と呼ばれるようになるのは、
  ユダ、ベニヤミンの2部族にレビ族を加えた者たちのことで
  ある。不思議なことに、ユダ族が「ユダヤ人」として活躍し
  たのとは対照的に、ユダ族以外の選民、つまりエフライム族
  やガド族をはじめとする有力なイスラエル兄弟たちは、歴史
  上から姿を消してしまった。現在では彼らは失われてしまっ
  たとされている。
  ―――――――――――――――――――――――――――

教皇レオ3世.jpg
教皇レオ3世
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2010年04月14日

●鍵を握るメロヴィング朝の歴史(EJ第2252号)

 フランク王国の王――クロヴィスについて、もう少しお話しす
る必要があります。クロヴィスの父キルデリクスは、西ローマ帝
国と同盟を結んでおり、敵対する諸部族と果敢に戦ったのです。
 キルデリクスは若いときビザンティン帝国に滞在したことがあ
り、彼の妻でクロヴィスの母であるバシナもビザンティン帝国の
出身で、もともとローマ帝国とは近い関係にあったのです。
 そのような両親の子として誕生したクロヴィスが即位したのは
16歳のときだったのですが、そのとき西ローマ帝国は5年前に
滅亡していたのです。当時フランク王国の南にはシャグリウスな
る人物が、自ら「ローマ人の王である」と名乗ってその一帯を支
配していたのです。
 クロヴィスはまずこのシャグリウスを攻め落とすことを計画し
21歳になった486年にシャグリウスの本拠地であるソワソン
を攻めて占領し、パリ、ルーアン、ランスという当時の北ガリア
の諸都市を支配下に収めるのです。クロヴィスはソワソンに都を
移し、フランク王国の領国は490年にはロアール川の流域にま
で及んだのです。
 当時のガリアには、アタナシウス派のキリスト教――カトリッ
クが普及していたのですが、西ゴート族やブルグンド族といった
ゲルマン諸族はアリウス派のキリスト教を信じていたのです。し
かし、フランク王国では、キリスト教とは何も関係のない古来の
多神教を信じていたのです。
 しかし、クロヴィスの妻のクロチルドはアリウス派を信ずるブ
ルグンド族の王女でありながら、熱心なアタナシウス派のキリス
ト教(カトリック)の熱心な信者だったのです。当然その宗教的
影響はクロヴィスに及んでいたのです。
 そのクロヴィスに東ローマ帝国は目をつけたのです。彼こそロ
ーマ・カトリック教会の最良のパートナーになれると。このよう
な経緯で、ローマ教会側は、密かにランスの大司教をしていた聖
レミギウスにクロヴィスとの会談をもたせるのです。これについ
て、中見利男氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 496年、クロヴィスと聖レミギウスのあいだに秘密会合がも
 たれ、その直後、クロヴィスとローマ教会のあいだに、ある協
 定が成立したのである。この協定は、ローマ教会の存続を保証
 するもので、これによってローマ教会はコンスタンティノーブ
 ルを本拠地とするギリシャ正教に匹敵する地位を獲得したので
 ある。同時に政治的軍事的意味合いおいて無数の異端を根絶す
 る権利を得たのである。ローマ教会とクロヴィスが結んだこの
 協定は、旧約聖書で神とダビデ王が結んだ契約と似たものであ
 り、修正はできても、取り消したり、破棄したり、裏切ったり
 できないものであった。   ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この協定によって、クロヴィスは聖レミギウスによって洗礼を
受けたのです。これによりフランク王国はローマ教会のために力
を行使し、西ゴート族とヴァンダル族によって破壊された西ロー
マ帝国を統治するということが約束されたのです。
 実際にクロヴィスは、異端のケルンのシゲベルトを謀略によっ
て滅ぼし、アリウス派キリスト教を信奉していた西ゴート族と戦
い、507年に最終的に西ゴート族を撃破したのです。その結果
フランク王国は中・南部ガリアを支配下に置いたのです。
 ちなみにフランク王国に追い詰められた西ゴート族は後退し、
あのレンヌ・ル・シャトー村を首都に定めるのです。彼らは異端
のアリウス派を奉じていたのですが、信仰に厚く、それにローマ
の文化や法に対して好意的であり、その点野蛮なフランク族とは
対照的であったといいます。何やらあのダ・ヴィンチ・コードと
接点が出てきています。
 このようにしてメロヴィング朝フランク王国は、ライン河の東
海岸から現在のベルギーとフランスの大部分を傘下に収める王国
を実現し、正式に東ローマ帝国から「執政官」を命ぜられたので
す。フランク王国は後に神聖ローマ帝国といわれる広大な領地を
治めることになります。
 511年にクロヴィスが45歳で没するのですが、その後も長
くメロヴィング朝が続くのです。なお、メロヴィング朝では、王
位継承権のある王の息子が12歳の誕生日になると、必然的に王
になるという慣習があるのです。しかし、統治の役割は「大宰相
――宮宰」に任されるのです。そして、王はただ象徴的な存在が
求められていたのです。
 クロヴィスが死ぬと、フランク王国は4人の息子たちによって
次のように分割相続されたのです。これもフランク王国の慣習な
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      テウデリク  ・・・・・ ランス
      クロドミール ・・・・・ オルレアン
      キリデベルト ・・・・・ パリ
      クロタール  ・・・・・ ソワソン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら4人の息子たちがその後どうなるかについては、ニュー
トンの予言とは関係がないので省略しますが、メロヴィング朝を
継ぐ王が、あのレンヌ・ル・シャトー村に首都を構える西ゴート
王国の王族と婚姻関係を結ぶようになるという数奇な事実につい
ては知っておいていただきたいと思います。
 結局、4人の息子の中でクロタールが父王クロヴィスの遺領を
すべて継ぐことになります。そして、561年にクロタール1世
が亡くなると、メロヴィング朝は、その息子たちに引き継がれる
のです。さらに、628年にクロタール2世が亡くなると、遺領
は、長男のダゴベルトが引き継ぐのです。メロヴィング朝フラン
ク王国は、このダゴベルト1世の時代に名実共に全盛期を迎える
ことになるのです。     ――[ニュートンの予言/30]


≪画像および関連情報≫
 ・西ゴート王国について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  500年年頃の西ゴート王国の領域はダキアを経てローマ領
  内に移動した西ゴート族は、5世紀初頭の指導者アラリック
  1世のもとイタリア半島に侵入した。すでに、首都ではなく
  なっていたローマを一時的に包囲するが、西ローマ皇帝の説
  得に応じガリアへと撤退した。このとき、すでにローマ帝国
  の支配権が及ばなくなっていたガリアとヒスパニアの防衛を
  条件に、領有を認められたとされている。415年にバリア
  王は南ガリアのトロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴー
  ト王国が建国された。またイベリア半島を征服していたヴァ
  ンダル族、スエビ族らを討ち、褒賞として418年にホノリ
  ウス帝から正式に属州アクイタニア(アキテーヌ)を与えら
  れた。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

クロヴィスの墓碑.jpg
クロヴィスの墓碑
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2010年04月15日

●ローマ・カトリック教会の裏切り(EJ第2253号)

 メロヴィング朝のクロタール2世の長男であるダゴベルト1世
は、父が存命中に既にアウストラシア地域を治めていたのです。
その分王国ではピピンなる貴族が宮宰として権勢を振るっていた
のです。この「宮宰」という職務は、もともと内廷の差配職に過
ぎなかったのですが、ピピンによって次第に王国内における行政
・司法・軍事全般を司る重要な職務になっていくのです。
 前回のEJで述べたように、メロヴィング朝では王は基本的に
は象徴的な存在であり、統治の役は大宰相が務めることになって
いるのですが、ピピン以後宮宰職が事実上その大宰相の役を務め
るようになるのです。
 ダゴベルト1世が亡くなると、王国は2人の息子に次のように
分割されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   長男/クロヴィス2世 ・・・ ネウストリア 王
   次男/シギベルト3世 ・・・ アウストラシア王
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうちアウストラシア王のシギベルト3世の宮宰として登場
したのが、ピピンの孫のピピンなのです。2人ともピピンなので
ダゴベルト1世のときのピピンを「大ピピン」、シギベルト3世
のときのピピンを「中ピピン」と称するのです。
 実はこのシギベルト3世の子として生まれたダゴベルト2世の
ピピンによる暗殺劇があるのですが、これについてはEJ第19
09号に書いたので、そちらを参照してください。
―――――――――――――――――――――――――――――
http://electronic-journal.seesaa.net/article/22955231.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、ネウストリア王の宮宰にエブロインという人物がいたの
です。エブロインは権勢を振い、彼はアウストラシアに攻め込み
いったんは勝利を収めます。しかし、680年に中ピピンが放っ
た刺客によって暗殺されてしまうのです。この事件によって、中
ピピンはますます権勢を強めるのです。
 そして、687年に中ピピン率いるアウストラシア軍がネウス
トリア軍を破り、中ピピンは全フランク王国唯一の宮宰になり、
その後ライン河東岸の諸族を征服して、そこへのキリスト教の普
及に尽力したのです。
 中ピピンは714年に亡くなるのですが、中ピピンの正妻の子
は父よりも早くして死亡しているので、6歳の嫡孫を宮宰に立て
たのです。しかし、ネウストリアの貴族たちは不満を表明し、そ
れぞれ独自に宮宰を立て反乱を起こす騒ぎになります。
 中ピピンの庶子のカール・マルテルは、717年に軍をまとめ
て反乱軍を破り、翌年にはパリに入城して北ガリアのほぼ全域を
手中に収めたのです。さらに719年には南ガリアのアキタニア
公ウードの軍勢を破り、ライン河東岸の諸民族を制圧し、これに
よりカール・マルテルは全ガリアの支配権を握ったのです。
 741年にカール・マルテルが52歳で亡くなると、メロヴィ
ング朝のキルペリク3世のもとで、カール・マルテルの長男であ
るカールマンがアウストラシアの宮宰として、次男の小ピピンが
ネウストリアの宮宰としてフランク王国を治めることになったの
です。もはや国王は何の力もないお飾りになっていたのです。
 これに対して、ライン河東岸の諸侯のいくつかが反乱を起こし
たので、カール・マルテルの死後6年をかけて、兄弟力を合わせ
これを鎮圧したのです。ところが、その直後、長男のカールマン
が出家してしまったので、弟の小ピピンが全フランク王国の宮宰
として君臨することになります。
 もはや小ピピンは事実上のフランク王国の王そのものであった
のですが、それでも王位を簒奪することにはためらいがあったの
です。王家のメロヴィング家と宮宰のカロリング家ではあまりに
も身分が違い過ぎたからです。
 そこで小ピピンはローマ教皇のお墨付きを得ようとして、時の
教皇ザカリアスに使者を送って次の質問状を届けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 王の名ありて実なき者と実ありて名なき者と、いずれ真の王
 たるべきや?               ――小ピピン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、ザカリアス教皇の返事は次のようなものであっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     よろしく王の実権ある者に王の名を与うべし
                ――ザカリアス教皇
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて、ローマ教皇はフランク全土の有力諸侯・聖職者
を集めた「ソワソン会議」を開き、小ピピンの王位について打診
したところ反対者はなかったというのです。
 そこで、751年3月、小ピピンはフランク王国の王座に登り
つめたのです。そして新王朝カロリング朝がはじまったのです。
これに伴いメロヴィング朝の最後の国王キルデリク3世は出家し
て聖シシュー修道院に幽閉されて生涯を終えます。
 そのカロリング朝の第2代目のフランク国王が、小ピピンの子
であるカール大帝なのです。カール大帝は768年の父王の死に
より、まず王国の北半分を統治し、771年にフランク全国を統
治するにいたるのです。
 そして、遂に800年――王冠が準備され、ローマに来て特別
ミサに出るよう指示を受けて教会にやってきたカール大帝の頭に
教皇は予告なく王冠を載せ、ローマ皇帝に任命するのです。この
瞬間にローマ教皇とメロヴィング家のクロヴィスとの間に結ばれ
た決して破られてはならない協定は破棄されてしまったのです。
 このローマ教会による裏切り行為は、メロヴィング家の保護を
目的として結成されたシオン修道会にとって、絶対に許すことの
できないものであったのです。そしてニュートンはそのシオン修
道会の総長だったのです。  ――[ニュートンの予言/31]


≪画像および関連情報≫
 ・ピピン3世(小ピピン)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ピピンは王位承認の見返りの一環として754年から755
  年にかけてランゴバルト王国のアイストゥルフスと戦い、ラ
  ヴェンナを奪ってローマ教皇ステファヌス3世に献上した。
  これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった。ま
  た759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人をフランス
  人をから駆逐することに成功し、さらにアキテーヌも王国に
  組み入れた。768年にピピンはサン・ドニで死去し、サン
  =ドニ大聖堂に葬られている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94%E3%83%B33%E4%B8%96
  ―――――――――――――――――――――――――――

ピピン3世.jpg
ピピン3世
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2010年04月16日

●聖マラキの予言というものがある(EJ第2254号)

 ニュートンは、ローマ教会が西ローマ帝国を復活させた日から
1260年後に大惨事が人類を襲い、世界の終わりが来る――そ
のときイエスが再臨するといっています。ヨハネの黙示録でも、
「新しいエルサレムが訪れる」といっており、一致しています。
 ニュートンのいう「この世界の終わり」には、何が起きるので
しょうか。ニュートンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この世界の王国は我々の神、キリストの統治する王国となる。
 そして、その統治は永遠に続く。そして永遠に続くという意識
 からすれば、従来のキリスト教の王国や世界の終わり以前のも
 のとは違うものになる。あえていえば使徒の時代のキリストの
 王国に似ている。      ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題は、「使徒の時代のキリストの王国」が何を意味するかで
すが、死海文書で明らかになったエッセネ派のクムラン宗団――
キリストによる原始キリスト教を中心とする時代が来ることを意
味しているのではないかと考えられます。
 「従来のキリスト教の王国」とは、三位一体の教義を掲げる現
在のキリスト教であり、ローマ・カトリック教会――すなわち、
ヴァチカンのことです。そのヴァチカンが、終わりの日――20
60年に倒されるとニュートンは予言しているわけです。
 ヴァチカンといえば、カトリックの総本山です。そんなことは
起こり得ない――このように考える人は多いでしょう。
 しかし、現在ヴァチカンには多くの問題があり、外部的、内部
的に大きく揺らいでいるのです。まさに内憂外患そのものです。
実はヴァチカンがやがて滅びるということは、いろいろなところ
でいわれているのです。
 実は「聖マラキの予言」といわれるものがあるのです。実際に
聖マラキが書いたという確証はないのですが、それには1143
年に即位した165代ローマ教皇ケレスティヌス2世以降112
人の歴代教皇を実際の名前ではなく、短いラテン語の文章で予言
しているのです。正式には次のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「全ての教皇に関する大司教マラキの預言」
   Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis
   Pontificibus
―――――――――――――――――――――――――――――
 あまねく知られているように教皇は、コンクラーベという複雑
な選出方法で選ばれ、事前に予測するなど不可能です。それがな
んと現在の教皇にいたるまで、正確に予言されているというので
すから、驚きです。いくつかご紹介しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2代:「追い払われた敵」 ・・・    ルキウス2世
 第4代:「スプッラ神父」  ・・・ アナスタシウス4世
 第6第:「耐え難い牢獄から」 ・・   ウィクトル4世
 第9代:「守護者たる雁から」 ・・ アレクサンデル3世
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2代のルキウス2世は「追い払われた敵」と書いてあるので
すが、彼の姓「カッチャネミチ」は「敵を追い払う」という意味
があるのです。
 第4代のアナスタシウス4世は「スプッラ神父」と表現されて
いるのですが、彼はまさにそのものずばりスプッラ家の出身だっ
たのです。
 第6代のウィクトル4世は「耐え難い牢獄から」とありますが
実際に彼はトゥリアノ牢獄で聖ニコラスのタイトルを持つ枢機卿
だったのです。
 第9代のアレクサンデル3世は「守護者たる雁から」と書いて
あるのですが、アレクサンデル3世の家紋には雁があしらわれて
いたのです。
 このように、まだ就任していない100人以上の教皇の特徴を
教皇の登位前の姓名、紋章(家紋)、出自、性格、在位機関の歴
史的背景や特徴的な事件など、短い言葉で書かれており、そのほ
とんどが的中しているのです。もっともどっちともとれるものも
あり、こじつけ説やインチキであるという説もあります。
 それでは、最近の事例ではどうでしょうか。
 例えば、第110代の教皇ヨハネ・パウロ2世と現在の教皇ベ
ネディクト16世は次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  第110代:太陽の労働によって:ヨハネ・パウロ2世
  第111代:オリーブの栄光  :ベネディクト16世
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨハネ・パウロ2世については、世界中を回った教皇として有
名ですが、教皇自身を「全地をあまねく照らす太陽」であるとす
る説が有力です。それが「太陽の労働」であると。
 現教皇ベネディクト16世の「オリーブの栄光」については次
の説が有力です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベネディクト16世が襲名したベネディクトはベネディクトゥ
 スと結びつきが深く、このベネディクトゥスはオリーブの枝を
 シンボルとするベネディクト会の設立者である。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 その真偽はともかくとして、マラキの予言は第111代で終っ
ているという説と113代まであるという2説があります。もし
第111代で終っているとすると、現教皇ベネディクト16世を
もって教皇制度は終るということになります。これはニュートン
の予言にとって重要な意味を持つので、明日のEJで検討してみ
たいと思います。      ――[ニュートンの予言/32]


≪画像および関連情報≫
 ・聖マラキの予言は本物か偽物か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1595年にベネディクト会修道士アルノルド・ヴィオンが
  ヴェネチアで刊行した著書『生命の木』 の中で言及したの
  がこの予言の初めての公刊であった。聖マラキが執筆したと
  みなせる史料が現存しない上、1590年以前には伝聞すら
  存在しなかったことから、(今なお信奉者の根強い支持はあ
  るが)偽書と見なすのが一般的である。――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベネディクト16世.jpg
ベネディクト16世
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2010年04月19日

●ヨハネ・パウロ1世の33日目の死(EJ第2255号)

 聖マラキの予言の話を続けます。昨日のEJで述べたように、
聖マラキの予言では、第111代の教皇――既に現教皇ベネディ
クト16世が着座している――までしかないという説が一般的に
なっています。
 しかし、そうすると、現教皇でローマ・カトリック教会の教皇
制度は終わってしまうことになります。これは、その時点でのロ
ーマ・カトリック教会の崩壊を意味しています。
 しかし、聖マラキの予言には別説があるのです。教皇制度は第
113代まで続くと予言されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    第112代:「極限の迫害の中で」
    第113代:「ローマびとペテロ」
             ―― 中見利男著/日本文芸社
   『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 第112代の「極限の迫害の中で」というのはどういう意味で
しょうか。
 これから何年か経って、何らかの事情でローマ・カトリック教
会が非難の的になる事件が起こる――これによって、カトリック
教会は世間から批判を浴び、そういう渦の中で第112代教皇が
着座するということを意味しているようです。
 次の第113代の「ローマびとペテロ」とは、どういう意味で
しょうか。中見利男氏によると、「備考」として次の記述がある
というのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ローマびとペトロ、彼はさまざまな苦難の中で羊たちを司牧す
 るだろう。そして、7つの丘の町(ローマ)は崩壊し、恐るべ
 き審判が人々に下る。終り。 ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 仮に教皇が第113代まで続いたとして、それぞれの教皇が最
長で15年ずつ務めたとすると、全部で45年――この45年と
いう数字をヨハネ・パウロ2世が退位した2005年に加えると
2050年という数字になります。
 もちろんそれぞれの教皇の在任期間は違ってくるので、正確な
予測はできませんが、いずれにせよ2060年に限りなく近づく
ことになります。つまり、聖マラキの予言からもヴァチカンの終
わりの時は暗示されているのです。
 もうひとつヴァチカンについてどうしても触れなければならな
いことがあります。それは「P2」という事件についてです。こ
れはイタリアだけではなく、ヨーロッパ全体を震撼させた20世
紀最大のスキャンダルのことです。ところで「P2」とは、次の
言葉の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        P2 = プロパガンダ2
―――――――――――――――――――――――――――――
 「プロパガンダ2」とは、フリーメイソンのロッジ名です。な
ぜ「2」なのかというと、もともと19世紀に「プロパガンダ」
というロッジがあったので、それとの重複を避けて「プロパガン
ダ2」としたのです。
 ヴァチカンとフリーメイソン――これはお互いに対立組織であ
り、古くから敵対関係を繰り広げてきたのです。そのため、カト
リック教会はフリーメイソンのことを「悪魔の集団」とみなして
きた歴史があります。
 そもそも秘密結社というのは、時の権力がある活動に対して強
い迫害をしたり、取り締まりや規制を強めた結果、それらの行動
を起こす団体が地下組織化して結成されることが多いのです。
 ガリレオを迫害し、宗教裁判にかけたように、かつてのヴァチ
カンは科学を敵視したので、多くの科学者たちはフリーメイソン
に逃げ込み、そのネットワークを維持してきたのです。
 フリーメイソンは科学の追及を思想信条としているのに対し、
カトリックは科学的検証や仮説を立てての実験を行う科学者たち
を神への挑戦者とみなし、宗教世界の最大の敵として迫害してき
た歴史があります。そのフリーメイソンによって、現在ヴァチカ
ンの存続基盤が大きく揺らいでいるのです。
 米国映画に『ゴットファーザーPartV』というのがあります。
1989年に公開された映画であり、ご覧になった方も多いと思
います。この映画は、教皇就任後33日目に死亡したヨハネ・パ
ウロ1世の突然死を長年にわたるヴァチカン、イタリア政界、マ
フィアの3者の癒着を象徴するものであるというプロットで描い
た作品です。
 しかも、この映画の公開された1989年はヴァチカンの問題
で世間が騒然としていた時期だったのです。というのは、ヴァチ
カン銀行の総裁であったマルチンクス大司教――1983年に同
司教に対し、アンブロシアーノ銀行の破綻に関係したとして逮捕
状が出されたのですが、その後なぜか逮捕状は無効とされてしま
う――そのマルチンクス大司教が、ヴァチカン銀行の総裁を退任
したのが1989年なのです。おそらく映画の上映もそういう時
期を狙って行われたものと思われます。
 ヨハネ・パウロ1世という人物はどういう人で、一体何をやろ
うとしたのでしょうか。それになぜ教皇は着座後33日目に急死
することになったのでしょうか。
 ヨハネ・パウロ1世の死については、明日のEJで述べること
にしますが、ヨハネ・パウロ1世は教皇になってから、友人に次
のようにいっていたといいます。
 「ヴァチカンには2つのものが欠けている。『正直』と『うま
いコーヒー』がね」――コーヒーはともかくとして、『正直』と
は何のことでしょうか。   ――[ニュートンの予言/33]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨハネ・パウロ1世とは・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1978年にパウロ6世の死去を受けておこなわれたコンク
  ラーベは1日目の3回の投票で終了した。選ばれたのは65
  歳のアルビノ・ルチアーニであった。彼はさまざまな意味で
  型破りな教皇であった。たとえば、教皇演説の中で伝統的に
  自らを「われわれ」と呼んでいたスタイルをはじめて「私」
  に変えた。豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の
  興の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるをえな
  かった。そして教皇名にも「ヨハネ・パウロ」という複合名
  を初めて採用した。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヨハネ・パウロ1世.jpg
ヨハネ・パウロ1世

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2010年04月20日

●ヴァチカンをめぐるミステリー(EJ第2256号)

 ヴァチカンの最大の敵対勢力は、秘密結社のフリーメイソンな
のです。実はカトリック教会の内部は長い間にわたっていろいろ
な点で腐敗し、堕落していたのです。
 そういうカトリック教会――ヴァチカンに対し、フリーメイソ
ン側はフリーメイソン寄りの枢機卿を送り込み、何とかフリーメ
イソンによる教皇を誕生させようと、あらゆる手段を駆使してい
たのです。
 生え抜きのフリーメイソン枢機卿をつくるため、優秀な若手を
神学校に入れ、司教、大司教と出世させて枢機卿にする――こう
いう工作が着々と行われたといわれます。
 つまり、1960年代から70年代にかけて、ヴァチカン内部
は権謀術数が渦巻くぐちゃぐちゃの状態にあったと考えられるの
です。こういうヴァチカンの体質があとで「P2事件」という一
大スキャンダル事件を引き起こすのです。
 カトリック教会内部の腐敗については、何とか改革しようと真
剣に取り組んだ教皇もいたのですが、いずれも失敗に終わってい
るのです。
 そうしたカトリック教会改革の旗手の一人が教皇ヨハネ23世
なのです。ヨハネ23世は、1962年に公会議史上初めて世界
5大陸から参加者を集めて会議を行ったのです。これが第2ヴァ
チカン公会議です。
 この公会議ではアジョルナメント――教会の現代化が話し合わ
れたのですが、なかなかまとまらなかったのです。途中で会議の
前途に不安を感じた教皇ヨハネ23世は会議をやめようとしたの
ですが、うまくいかず会議招集後6ヶ月後に教皇は急死してしま
います。死因は「心筋梗塞」だったのです。
 このヨハネ23世の遺志を継いだのは、教皇パウロ6世です。
パウロ6世はヨハネ23世の遺志を継ぎ、第2ヴァチカン公会議
を3年間3期続けて行い、必要な改革は成し遂げています。しか
し、それは表向きのことであり、実際にはフリーメイソンのヴァ
チカン深耕は一層進んだとされているのです。
 この第2ヴァチカン公会議以降、「聖」の俗化がはじまり、修
道会などの規律や戒律が緩み、典礼や礼拝や祈りが軽視され、教
会に霊的活力や敬虔さが失われたといいます。
 この時点で教皇を操る3人の枢機卿がいたといわれます。それ
は次の3人です。これらの3人はいずれもフリーメイソンである
といわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ジャン・ヴィロ枢機卿
       2.ジョバンニ・ベネリ枢機卿
       3.アゴスチノ・カザロリ枢機卿
―――――――――――――――――――――――――――――
 この教皇パウロ6世の後を継いだのが、ヨハネ・パウロ1世な
のです。1978年8月26日のことです。この教皇は物静かな
人物で、とても大それた事はできないと思われていたのです。
 1978年9月28日、ヴァチカンナンバー・ワンの実力者で
あるヴィロ枢機卿は教皇から呼び出されたのです。そして教皇か
ら一枚の資料を手渡されます。その資料は、教会史上例のない大
改革の人事異動名簿だったのです。
 名簿には、ヴィロ枢機卿本人はもちろんのこと、ヴァチカン内
のメーソン聖職者、職員などの100人近い解職者の名前が連ね
てあったのです。驚愕したヴィロ枢機卿は、何とかこの改革を留
ませようとしたのですが、教皇ヨハネ・パウロ1世は「只キリス
トの意志に従うままです」と語り、頑として聞き入れなかったと
いうのです。
 その次の日、すなわち9月29日の朝4時45分――ベットで
亡くなっている教皇ヨハネ・パウロ1世をコーヒーを運んできた
修道女が発見します。直ちに駆けつけたヴィロ枢機卿は、教皇の
主治医ではないブジネット医師を呼んで検死されています。死因
は「心筋梗塞」――教皇ヨハネ23世の死因と同じです。
 ところが、教皇は酒もタバコも飲まず、心臓は一度も病んだこ
とがないのです。しかも、3週間前に健康診断で健康体と診断を
受けたばかりなのです。
 1978年8月26日の教皇着座からちょうど33日目――教
皇ヨハネ・パウロ1世はこの世を去ったのです。誰が見ても内部
の誰かに毒殺されたとしか考えられない急死だったのです。
 しかも、死後24時間経たないと防腐処理をしてはならないと
法律で決められているのに、ヴィロ枢機卿は防腐剤をそのまま血
管内に流し込み、迅速に葬儀手続きを進めたのです。これによっ
て、血液検査は不可能になったのです。
 映画『ゴットファーザーPartV』は、この教皇謀殺をプロット
として制作されているのです。また、教皇ヨハネ・パウロ1世の
死を扱った次の小説もあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ジョン・コーンウェル著/林 陽訳
     『バチカン・ミステリー』/徳間書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように書くと、フリーメイソンが悪の巣窟や悪魔集団のよ
うにとられてしまう恐れがあります。事実そういう書き方をして
いる著者もいることは確かです。しかし、それは多くのロッジの
中の一部であって、フリーメイソンのすべてがそうであるという
ことではないのです。
 このヴァチカン内部に巣食っていたフリーメイソンは、このあ
と述べる「P2」というとくに問題のあるロッジだったのです。
しかし、そういう一派の侵食を許すヴァチカン内部も腐敗化が進
行していたのです。
 なお、真偽のほどはわかりませんが、ヨハネ・パウロ1世の前
任者パウロ6世は偽者であり、本物のパウロ6世は密かに殺され
ていたという恐ろしい話も伝わっています。来週は「P2事件」
についてお話しします。   ――[ニュートンの予言/34]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『ゴットファーザーPartV』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コルレオーネ・ファミリーを描いた壮大なドラマの最終章。
  ファミリーのドンとなったマイケル(A・パチーノ)はバチ
  カンの加護を得て一切の犯罪から手を引くことを宣言した。
  だが後継者に甥のビンセント(A・ガルシア)を立てたこと
  から内部抗争に火がついてしまう。自身も病に蝕まれるマイ
  ケルは何とか事態の収拾を図ろうとするのだが……。名作・
  傑作の誉れ高い前2作の後という想像しがたいプレッシャー
  を考えるなら、これはこれで<サーガ>の締めくくりには相
  応しい完成度と言ってもよいだろう。オペラ劇場で迎えるク
  ライマックスと、その後に続く幕切れも充分な感動を与えて
  くれる。過去の因縁によって再び暴力の世界に引き戻される
  マイケルを、老け役で熱演するパチーノや、血気盛んなガル
  シアなどキャスト陣の頑張りも悪くない。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヨハネ23世.jpg
ヨハネ23世
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2010年04月21日

●P2事件とは何か(EJ第2257号)

 1976年のことです。シンドーナというイタリアの有力な銀
行家が、金融破綻を起こして米国に逃亡し、4年後の1980年
にニューヨークで逮捕されます。
 このシンドーナはフリーメイソンのロッジ「P2」のメンバー
であり、マフィアの金を扱っていたのです。シンドーナは、アン
ブロジアーノ銀行の頭取であるロベルト・カルヴィとつながって
おり、そのカルヴィもP2のメンバーだったのです。
 実はアンブロジアーノ銀行というのは、ヴァチカンが援助して
設立させたヴァチカン銀行――正式名称は「宗教活動協会」IO
Rの資金管理を行う銀行なのです。シンドーナが逮捕されたこと
によって、シンドーナとマフィア、それに、ヴァチカン銀行との
つながりが明らかにされることを恐れたP2のロッジマスターで
あるリチア・ジェッリは、とんでもないことをやったのです。
 それは、1981年に白昼のマンハッタンでシンドーナを奪還
したのです。まるで映画のようにです。しかし、この奪還劇の黒
幕がジェッリであることはFBIの知るところとなり、直ちに國
際警察を通じてイタリア警察はジェッリ逮捕のための緊急配備を
敷いたのです。
 しかし、逃げ足の早いジェッリは、間一髪で海外に逃亡してし
まいます。ところが捜査陣がジェッリの家の内部を捜索したとこ
ろ、とんでもないものが見つかったのです。それはフリーメイソ
ン「P2」の全メンバー・リストだったのです。1981年2月
17日のことです。
 このリストがどういうものであったのかは、中見利男氏の著書
からを引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはパワーを秘めたフリーメーソン「P2」の全メンバーリ
 ストだった。そこには、なんとイタリアの法務大臣を含む3閣
 僚、そして数人の首相経験者、50人以上の高級官僚、200
 人以上に上る軍部将校、金融界の大物、20人近くの司法関係
 者と一流紙のジャーナリスト、さらに各政党の指導者、大学教
 授、諜報機関の幹部、メンバーはイタリアのまさに権力、財力
 知力を凝縮したような人物が962人、リストは内閣を凌駕す
 るパワーを秘めていた。   ――中見利男著/日本文芸社刊
     『ニュートンの予言/2006年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第2256号で述べたヨハネ・パウロ1世は、ヴァチカン
にP2が根を張っていることを早くから察知して、一大改革に乗
り出そうとしたので、暗殺されてしまったものと思われます。
 この一大スキャンダルによってフォルラニ内閣は総辞職に追い
込まれ、シンドーナの逮捕されます。これを契機に、イタリアの
政財界、ヴァチカンに根を張ったP2の人脈と不正行為が次々と
暴かれるはずだったのですが、なぜか、捜査の手は、ピタリと止
まってしまったのです。
 アンブロジアーノ銀行頭取のカルヴィにも銀行の資金を不法に
輸出したとして逮捕状が出たのですが、なぜかそれは後で撤回さ
れてしまうのです。そして、カルヴィはシンドーナが逮捕された
ことを受けて、P2のトップに立ったのです。
 カルヴィは、ヨハネ・パウロ1世の後を継いだポーランド出身
のヨハネ・パウロ2世の意向により、アンブロジアーノ銀行から
ワレサ率いる自主管理労働組合「連帯」に米CIAと連携して、
10億ドル以上の資金を提供していたのです。このように、ヴァ
チカンは、アンブロジアーノ銀行の庇護の下に、全世界の反共産
主義の活動組織に対して資金を提供していたのです。
 これに危機感を強めたのは当時のソ連です。ヨハネ・パウロ2
世の行動を「教皇の東方戦略」と呼び、それを一大脅威として警
戒したのです。1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はサ
ンピエトロ広場で、イスラム教徒のトルコ人マフィアに銃撃され
ましたが、未遂に終わっています。
 犯人は逮捕されましたが、事件はKGBが計画したものである
との報道が行われ、2005年になって教皇自身も共産党員によ
るものと自著で発表しています。しかし、真偽については現在も
判明していないのです。
 本当であるとしたら、当時社会主義圏における反体制運動の精
神的支柱となっていたローマ教皇の絶大の影響力を排除しようと
したものと推察されます。ヨハネ・パウロ2世は高徳な人柄の教
皇として有名ですが、その一面においてきわめて政治的で人物で
あったことも確かなのです。
 ヴァチカン銀行はマフィアとの関係も明らかになっているので
す。ヴァチカン市国は主権を持つ独立国家であり、イタリアの司
法権が及ばないので、ヴァチカン銀行をイタリアのマフィアが資
金洗浄の目的で使うので、マフィアとの結びつきが取り沙汰され
ているのです。
 1982年5月にアンブロジアーノ銀行は10億ドルから15
億ドルの使途不明金を抱えて倒産します。それと同時にロベルト
・カルヴィは国外に逃亡します。しかし、その直後にカルヴィは
英国の首都ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋
の下で首吊り死体の姿で発見されたのです。
 しかし、当時は自殺と判断されたのですが、2003年7月に
カルヴィの遺族からの依頼で遺体を堀り起こして再鑑定をした結
果、改めて他殺されたものと判断されたのです。
 また、カルヴィの暗殺前の1979年には、ヴァチカン銀行と
アンブロシアーノ銀行の関係と、その投資内容を調査していたイ
タリア警察の金融犯罪担当調査官のジョルジョ・アンブロゾーリ
が自宅前で銃撃され暗殺されてこと、カルヴィが殺された同月の
1982年には、アンブロシアーノ銀行頭取の秘書を勤めていた
グラツィエラ・コケルも投身自殺しているなど、不可解な死が続
いているのです。
 このようにヴァチカンは内部的に大きく崩壊の危機を迎えてい
るといえます。       ――[ニュートンの予言/35]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨハネ・パウロ2世と狙撃犯との対話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1983年ののクリスマスの2日後、ヨハネ・パウロ教皇は
  狙撃犯人のアジャが収監されている刑務所を訪れた。2人は
  面会し短時間の会話を行ったという。ヨハネ・パウロ2世は
  「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなけれ
  ばならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟
  として話しました」と語った。2005年4月、アジャは教
  皇の訃報を聞き、深い悲しみを覚え、喪に服したことが家族
  により伝えられている。

ブラックフライアーズ橋/英国.jpg
ブラックフライアーズ橋/英国
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2010年04月22日

●西ローマ帝国は現在もある/最終回(EJ第2258号)

 36回にわたって連載してきた「ニュートンの予言」は今回で
終了します。謎のすべては解明されていませんが、資料が十分で
はなく、もっと事実を突き止めるには、さらに多くの情報を集め
る必要があるからです。
 「ニュートンの予言」の核心部分をもう一度整理してみること
にします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2匹の獣と竜が暴れ始めてから、1260日(年)後のそのと
 き彼らは神によって打ち倒される。それは2060年のことで
 ある。           ――中見利男著/日本文芸社刊
     『ニュートンの予言/2006年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここに2匹の獣が登場していますが、それらの獣は次のことを
意味しています。海から上がってくる獣と陸から上ってくる獣の
2匹です。
―――――――――――――――――――――――――――――
     第1の獣(海) ・・・・・ 西ローマ帝国
     第2の獣(陸) ・・・・・  ローマ教会
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2の獣である「ローマ教会」、すなわちヴァチカンについて
は既に詳しく述べています。こちらは間違いなく現在も存在して
います。しかし、第1の獣である「西ローマ帝国」とは何を指し
ているのでしょうか。
 第1の獣である「西ローマ帝国」――カロリング朝は911年
のルートヴィッヒ4世で絶えているのです。それなら、西ローマ
帝国は既に存在しないことになります。
 しかし、考えて欲しいのです。かつての西ローマ帝国は、現在
のドイツ、フランス、イタリア、そしてイギリス、ポルトガルの
規模を誇っていたのです。それに加えて、かつて東ローマ帝国の
首都であったコンスタンティノポリス――現在のイスタンブール
を古都に持つトルコ――そういう国が現在でもあるのです。
 そう、現在のEUこそ西ローマ帝国なのです。しかも、ドイツ
とフランスが牽引車になっている――両国ともローマ教会、ヴァ
チカンの教義が濃密に溶け込んだ国家です。
 EUはヨーロッパの複数の国から成る集合体ですが、ユーロと
いう通貨統合が実現されたとき、事実上EUは単一の国家となっ
たといえます。しかも、ユーロの中央銀行はかつての神聖ローマ
帝国の首都フランクフルトにあるのです。
 ちなみにフランクフルトはロスチャイルドの本家本元で、ここ
に中央銀行を置いたということは、ロスチャイルドグループの復
活という意味があります。ロスチャイルドグループは米国のロッ
クフェラ−に挑戦するグループです。
 先ごろ合意されたEU改革条約は、EUの憲法の締結ともいえ
るものです。したがって、今後西ローマ帝国の皇帝と同じように
EUの大統領が誕生する気配さえあります。
 このEU大統領を狙っているといわれる英国の元首相ブレア氏
は引退後直ちにカトリックに改宗しているのです。彼はローマ・
カトリック教会の権威を背景にして大統領の座を収めようとして
いるのでしょうか。
 そして、2007年には、EU統合の基礎になったローマ条約
締結50周年の節目に当るということで、加盟27ヶ国のすベて
の軍隊がパレードに参加しています。まさにEU軍です。これは
どう見ても西ローマ帝国の軍事力の復活そのものです。
 さらにEUの統合本部のあるブリュッセルのコンピュータ室の
コンピュータには、EU国民のあらゆる個人情報が保管されてい
るのですが、気になるのはそのコンピュータの名前なのです。な
んと「BEAST/ビースト」、すなわち「獣」なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    Battle Engagement Area Sumilator Tracker
―――――――――――――――――――――――――――――
 世界の終わりの日に何が起きるのかについては、聖書にいろい
ろ出ていますが、マタイの福音書には次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       その苦難の日々の後、たちまち
       太陽は暗くなり、月は光を放たず
       星は空から落ち、天体は揺り動かされる
       ・・・・・・・・・・
         ――「マタイの福音書24・29――31」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中に「星は空から落ち」とありますが、これは「彗星」と
とも考えられます。彗星といえば「ハレー彗星」が有名ですが、
ハレーはニュートンの弟子なのです。ハレーは彗星の周期計算を
ニュートンの力学をベースに行っているのです。
 ハレー彗星は76年周期で地球にもっとも接近しますが、最近
では、1986年に地球に接近しています。それでは次に地球に
接近するのはいつでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1986 + 76 = 2062
―――――――――――――――――――――――――――――
 ドンピシャリではないですが、2060年に非常に近い数字が
出ています。不気味な話だと思います。
 「ニュートンの予言」は、他の予言書とは大きく異なり、ニュ
ートンらしく、きわめて論理的、数学的に算出されています。何
しろあの天才が50年以上を費やして聖書を研究したというので
すから、その結果算出された結論には重みがあります。
 このレポートでは一部しか伝えていませんが、さらに細かく知
りたければ、中見利男氏の本を読んでいただきたいと思います。
予言は変えていくことは可能なのです。このまま何もしなければ
そうなるといっているだけです。何を変えればいいかは予言書を
見ればわかると思います。  ――[ニュートンの予言/36]


≪画像および関連情報≫
 ・元英国首相ブレア氏カトリックに改宗
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ブレアがカトリックに改宗したと報じられています。ブレア
  がカトリックである妻シェリーからの影響を受けていたこと
  政治の世界に身を投じることになったのも大学時代の友人で
  あった牧師の影響によるものなどが、これまでも指摘されて
  いました。
    http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/7157409.stm
  イラク戦争、その前のコソボ戦争などで、断固として軍事力
  を行使したブレアの決意の背景には、常に宗教の影響が指摘
  されていました。ブレア自身が首相になる4  年前、労働
  党党首になる1年前に書いた文章を見ると、その考え方が決
  して的外れとはいえないものであることがわかります。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレア元英国首相.jpg
ブレア元英国首相
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