2010年01月13日

●今なぜエルヴィス・プレスリーなのか(EJ第2189号)

 「コンピュータの歴史Part2」は諸事情により掲載を中止し、
 今日から、テーマとしてロックの歴史に大きな影響を与えた歌
手であるエルヴィス・プレスリ−を取り上げます。今日はその予
告編のような話からはじめたいと思います。
 なお、この記事は2007年10月22日から2007年12
月07日までの34回にわたって連載したものであることをお断
りしておきます。
 どうしていま、エルヴィス・プレスリーなのかというと、今年
(2007年)が彼の没後30年に当るからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Elvis Aron Presley 
     1935.1.8〜1977.8.16
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、単なる歌手ではなく、ロックという新しい音楽
の歴史を切り拓くとともに、当時の米国の文化を根本から変える
重要な役割を果たしています。ですから、没後30年にもなるの
に、米国の文化の象徴としていまだに語り継がれているのです。
 ところで、エルヴィスのセカンドネームの「アーロン」の綴り
には次の2説があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       Aron  Aaron/Evis Aaron
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在では「A」を1つ書くようになっており、登録上も1つな
のですが、エルヴィスの墓標には「A」が2つの「Aaron」 と書
いてあるのです。このことからエルヴィスは実は死んでおらず、
生きているという説が出ているのです。
 エルヴィスの父親のヴァーノン・プレスリーという人は、どう
やら発音が正確ではなかったようで、エルヴィスをと取り上げた
医師のハントはヴァーノンの発音を聞き間違えて、エルヴィスの
「I/エル」を抜かして「エヴィス・アーロン」とカルテに書き
込んでいたことがわかっています。
 しかし、エルヴィス自身は意識して「Aaron」 を使っていたと
いわれます。もともと父親のヴァーノンは、自分の友人のアーロ
ン・ケネディにちなんで「アーロン」と名付けたのですが、エル
ヴィス自身は聖書のモーゼの兄のアーロンを意識していたようで
す。それほどエルヴィスは宗教には強い関心があり、友人とよく
宗教論をしていたようです。
 エルヴィスの生まれたのは、ミシシッピ州のテネシー寄りの農
村イースト・テュペロというところです。テュペロは綿花畑のつ
らなるコットン・ベルトの中心部に位置しています。
 エルヴィスは、双子の兄弟の弟として生まれていますが、兄の
ジェシー・ガーロン・プレスリーは、誕生時に死亡しているので
す。1935年1月8日のことです。
 エルヴィスは幼年期はこのテュペロで過ごし、13歳のときに
一家はテネシー州メンフィスに転居したのです。1948のこと
であり、太平洋戦争は3年前に終わっており、メンフィスは戦後
戦勝景気に沸き立っていたのです。
 米国の中南部の農村に住む者からみるとメンフィスは大都会で
あり、当時仕事はたくさんあったのです。そのため、南部の農民
たちは次々と農業をやめ、メンフィスに集まってきたのです。戦
後の20年で離農した人口は約1100万人――プレスリー一家
もそのうちのひとつであったのです。
 さてこのメンフィスは、テネシー州の西境にあり、ミシシッピ
川のデルタの頂点に位置しています。そして、この都市は米国の
2つの根本的に異なる領域にはさまれているという位置関係にあ
るです。
 つまり、メンフィスは、南に貧困なデルタの農場とルイジアナ
の湿地帯、それから、あのハリケーンで大きな被害を受けたヨー
ロッパ風のニューオリンズの港湾都市と、北と西には豊かな平野
部の農場、それにシカゴとデトロイトという工業都市にはさまれ
ているのです。メンフィスのこの位置関係がエルヴィスの音楽に
大きく影響したのです。
 つまり、メンフィスは、南部貴族の上品な雰囲気とアフリカ系
アメリカ人社会のソウル精神が混じっているのです。これがブル
ースとロックンロールという新しい音楽を生んだのです。
 ミシシッピ川河口のデルタ地帯で始まったディキシーランド・
ジャズの音楽が、外輪船に乗って次第に北の方へのぼってきて、
たどりついたのがメンフィスであり、黒人たちによって、より哀
愁のある音楽へと変わっていったのです。これがブルースです。
 1903年にミシシッピ州デルタ地帯を旅行中であったW.C
.ハンディーは、たまたまブルースの生演奏を聴き、それまで楽
譜に残されることのなかったその音楽を始めて楽譜に仕上げるこ
とによって、「ブルース音楽」の文化を確立したのです。
 そこでこの年を「ブルースの生誕の年」として、2003年は
ブルース生誕100年を記念して、アメリカ合衆国議会によって
「ブルースの年」と宣言されています。
 日本の場合「ブルース」というと、淡谷のり子、青江美奈らに
代表される「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」を指すことが
多いのです。しかし、「別れのブルース」や「伊勢佐木町ブルー
ス」のように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつ
く曲は、音楽的にはブルースとは別物と考えるべきです。
 エルヴィスは幼い頃から、ゴスペル・シンガーを夢見ていたの
です。ゴスペルは、米国発祥の音楽のジャンルであり、もともと
はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽で、ゴスペルとは英語
で「福音」や「福音書」を意味しています。
 米国南部の音楽のルーツは、ほとんど農村部にあったのです。
ブルース、カントリーソング、ゴスペル、ワーク・ソング――こ
れらはすべて南部の日常生活の中から生まれたのです。
 そういう農村部の南部人が、それぞれの音楽とともにこのメン
フィスにこぞって集まってきたのです。これらの音楽が都会の音
楽と融合して新しいサウンドを生み出しつつあったのです。そう
いう新旧のサウンドが渦巻く都市メンフィスでエルヴィスは育っ
たのです。            ――[エルヴィス/01]


≪画像および関連情報≫
 ・ロックとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロックは、米国で1950年代に生まれたポピュラー音楽の
  ジャンルである。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの基本
  構成をとるバンドスタイルで演奏される、激しいビートサウ
  ンドが特徴――ただし、音楽性の多様化によりこの範疇に入
  らないロックも多い。ジャズ、R&Bと共に世界中に広まっ
  たアメリカ発の音楽であり、世界中の音楽シーンに衝撃を与
  えただけでなく、その影響は思想、ファッション、アートな
  どポップスカルチャー全体に及び、その社会的インパクトは
  極めて強かったのである。
  ―――――――――――――――――――――――――――

テネシー州メンフィス.jpg
テネシー州メンフィス

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2010年01月14日

●サム・フィリップスとエルヴィスの出会い(EJ第2190号)

 続々と南部の農村からメンフィスという都会に集まってきた黒
人たち――その数は1960年までにメンフィスの総人口50万
人中20万人に達したのです。
 しかし、当時のメンフィスには厳格にして複雑な人種隔離の掟
というものがあったのです。レストランやトイレや病院、それに
動物園や図書館や乗り物など、あらゆる公共の場での人種隔離が
行われていたのです。
 黒人たちはメンフィスで黒人地区を形成して、ブルースが誕生
したといわれるビール・ストリートは黒人たちの集結する娯楽場
になっていました。そこでは、宗教歌も世俗歌も都会化され、エ
レキ化され、それは「リズム&ブルース/R&B」という音楽を
作り出したのです。
 当時高校生であったエルヴィスは、町の中心街にあるエリス音
楽堂で毎月行われる白人ゴスペル・コンサートに必ず出かけて行
き、日曜日の夜には黒人ゴスペルの作曲家として名高いウィリア
ム・ハーバート・ブルースター牧師による教会のゴスペル集会に
参加していたのです。
 確かにメンフィスには厳しい人種隔離の掟はあったのですが、
若者たちは、こと音楽に関しては白人も黒人もなかったのです。
南部人の彼らにとって音楽は最も身近な娯楽であり、とくにエル
ヴィスのような10代の白人の若者には、黒人音楽の強烈なビー
トとそのスタイルは抑えがたい魅力があり、何とかそれを自らの
音楽に取り入れようとしたのです。
 20世紀のちょうど半ばに南部社会において、このような音楽
における文化交流が自然発生的に行われ、結果として新しいスタ
イルの音楽――ロックを誕生させる契機となったわけです。
 それではエルヴィスはどのようにしてデビューすることになっ
たのでしょうか。その舞台はメンフィスのユニオン・アヴェニュ
ー706番地にあるメンフィス・レコーディング・サービス/サ
ン・レコードだったのです。
 このサン・レコードにおいて歌手エルヴィスが産声を上げるこ
とになるいきさつについては、多くのエルヴィス関連本において
ほとんど一致しています。要するに、サン・レコードを経営する
サム・フィリップスとエルヴィスがどういういきさつで出会った
かということです。
 これについては、エルヴィス研究の第一人者である前田絢子氏
による次の最新刊が一番詳しいので、これをベースとしてご紹介
することにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
   前田絢子著/角川選書/413
   『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 サン・レコードは5つしか部屋のない小さな録音スタジオであ
り、主として黒人系のR&Bなどのレコードの製作をやっていた
のです。しかし、それだけではやっていけないので、4ドル支払
えば、誰でもレコードが作れるサービスをやっていたのです。
 エルヴィスは、当時ギターの弾き方や音楽の指導を受けていた
年上の音楽仲間のビル・ブラックから、サン・レコードのサム・
フィリップスのことは何回も聞かされていたのです。彼がスゴ腕
の音楽プロデューサーであることをです。そして、ブラックは、
エルヴィスに次のような秘策を与えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一番重要なことはサムに君の歌を聞かせることだ。それは難し
 いことではない。サン・レコードに行って4ドル支払って自分
 の歌を録音してもらうことだ。そうすれば、スタジオのコント
 ロール・ルームにいるサムの耳に入る。君の歌は特徴があるの
 で、必ずサムの関心を引くと思う。   ――ビル・ブラック
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスといえば、派手な衣装をまとい、大げさなアクショ
ンで歌う歌手というイメージが強いので、意外かも知れませんが
非常に内気な性格だったのです。
 そのため、ブラックの提案をなかなか実行に移せないでいたの
です。いきなり、ダメといわれたくない――まだ、準備不足だと
考えて伸ばし伸ばしにしていたのです。
 1953年にエルヴィスは高校を卒業し、町の電気会社に就職
したのです。そして毎日のように工事用の部品を積んで小さなト
ラックで町を走り回ったのです。車内のラジオからはいつも音楽
が流れていました。実は私もエルヴィスと同年代の1935年生
まれであり、若いときに音楽を聴く手段はもっぱら、ラジオだっ
たのです。LPはまだ高くて手が出なかったのです。
 その1953年の夏の土曜日、エルヴィスはかねてから心に温
めていたことを実行します。サン・レコードに行って、自分の歌
を録音したのです。しかし、あいにくそのときスタジオにはサム
・フィリップスはいなかったのです。
 しかし、録音を担当したサムの秘書のマリオン・カイスカーが
エルヴィスの歌を録音して残していたのです。もちろんサムに聴
かせるためです。というのは、つねづねサムはスタッフに次のよ
うにいっていたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  黒人のような声と感覚を持った白人がいたら大儲けできる
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 カイスカーは、エルヴィスの声に特別の魅力があることに気が
ついて、スタジオのテープに彼の声を残しておいたのです。連絡
先を聞かれたエルヴィスは期待したのですが、1953年の終り
までは、サン・レコードからは何の連絡もなかったのです。
 そこで、1954年1月にエルヴィスは再びサン・レコードを
訪れ、もういちど録音します。そのときは、直接サム・フィリッ
プスに会えたのです。       ――[エルヴィス/02]


≪画像および関連情報≫
 ・サン・レコードについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「キング・オブ・ロック」エルヴィス・プレスリーが、メン
  フィスのローカル・レーベル「サン・レコード」で歴史的な
  キャリアをスタートさせたのは1954年。つまり今年はエ
  ルヴィス・デビュー50周年。ロックンロールを作ったのは
  エルヴィスであるからして必然的に「ロック生誕50周年」
  にもあたる今年には、エルヴィスとロックンロールの故郷、
  聖地グレイスランドを中心に世界中で記念イベントが開催さ
  れています。
   http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=6607
  ―――――――――――――――――――――――――――

サム・フィリップス/マリオン・カイスカー.jpg
サム・フィリップス/マリオン・カイスカー
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2010年01月15日

●ロックンロールの誕生(EJ第2191号)

 1954年1月のことです。サン・レコードから何もいってこ
ないので、エルヴィスはサン・レコードを訪ねて再び録音をやっ
たのです。本当はサム・フィリップスに会うためです。
 そのときは首尾よくフィリップスには会えたのですが、そのと
きとくに何の話もなかったのです。
 それから、さらに6ヵ月が経過したのですが、サン・レコード
からは何の連絡もなかったのです。これはもう駄目かなとあきら
めかけたとき、フィリップスの秘書マリオン・カイスカーから連
絡が入ったのです。「サン・レコードに来て欲しい」と。
1954年6月26日のことです。
 後にフィリップスの言によると、電話をかけて電話を置いたら
エルヴィスがサン・レコードの入り口に立っていたというほど、
エルヴィスはサン・レコードに息せきって駆け付けたのです。し
かし、この焦りが裏目に出るのです。
 エルヴィスはフィリップスの前で自分の歌える曲を全部聴いて
もらったのですが、フィリップスのOKは出なかったのです。エ
ルヴィスも焦っていて自分のベストを出せなかったといいます。
しかし、エルヴィス自身はこのセッションは失敗だったものの何
となく自分には何らかの才能があることを確信したのです。きっ
とチャンスはくる、と。
 フィリップスも迷っていたのです。そこで、友人のスコティ・
ムーアに「エルヴィスを試してくれないか」と頼んでいます。ス
コティは、カントリーバンド「スターライト・ラングラード」の
オーナーであり、フィリップスの音楽仲間なのです。そのバンド
のベーシストをやっていたのは、エルヴィスの年上の音楽仲間で
あるビル・ブラックだったのです。
 スコティは、早速エルヴィスの家に電話を入れて、その翌日に
スコティの家で会うことにしたのです。1954年7月4日のこ
とです。当日、エルヴィスはスコティの前で自分の歌を披露した
のですが、その席にはビル・ブラックも参加したのです。
 エルヴィスを帰すと、スコティはフィリップスに電話を入れて
その日のセッションの様子を次のように報告しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 リズム感はいいし、声も素晴らしい。しかし、歌った曲には問
 題があるけどね。しかし、オーディションをする価値はある。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1954年7月5日、サン・レコードで、エルヴィスの正式な
オーディションが行われたのです。スコティとビルも楽器を持っ
て参加したのです。
 しかし、一日かけて歌いまくったのに対し、前2回のセッショ
ンと同じで、良い結果が得られなかったのです。曲は主としてバ
ラード調のものが多かったようです。夜中の12時近くになって
今日はもうお開きにしようかということになったときです。
 いきなり、エルヴィスはギターをかき鳴らし、テンポの早い曲
を歌い出したのです。曲は「ザッツ・オール・ライト」という曲
です。この曲はある黒人のブルース・シンガーが1946年に書
いた曲ですが、結局ヒットしなかったのです。
 エルヴィスが歌い出すと、スコティとビルも演奏に参加して演
奏をはじめたので、スタジオは大変な騒ぎになったのです。コン
トロール・ルームで休んでいたフィリップスはこれを聞いて突然
起き上がり、大声で叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはいい。その調子で続けてくれ。この音がどこかにいって
 しまわないうちに、もう一度最初からやり直しだ。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 フィリップスはマイクの位置などを正しくセットして、テープ
を回し始めたのです。そして、何回も何回も形が整うまで演奏は
繰り返され、やっと収録が終わったのです。そして、出来上がり
を全員で聴いたのです。
 このサウンドこそ、後に「ロックンロール」といわれる新しい
音楽の誕生だったのですが、これについて、前田絢子氏は次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 黒人のリズム&ブルースとゴスペル、白人のカントリー・ミュ
 ージックとが、エルヴィスの若々しく躍動する身体の中で一つ
 となり、まったく独創的なサウンドを作り上げていた。ビルは
 圧倒されて、茫然としながら、「こんな危険な音をどうすれば
 いいんだ。きっと俺たち、町から追い出されるぜ」と呟いた。
 これが、伝説的なロックンロール誕生の瞬間であった。みんな
 疲れ切っていたが、何かを達成した後の奇妙な開放感と興奮を
 覚えていた。ようやく互いに「お休み」と言ってスタジオを出
 たのは、夜中の二時を回っていた。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 サム・フィリップスはそのままスタジオで考え込んでしまった
のです。この曲はビル・ブラックのいうように「危険な音」に違
いなかったからです。当時の白人の若者は、黒人の音楽には興味
を持ってはいましたが、黒人のレコードを買う者はさすがに少な
かったのです。
 しかし、この曲は確かに黒人の強烈なビートはあるが、黒人特
有の粘っこさはなく、もっと軽やかで若々しい声が躍動している
のです。これは白人のカントリーソングのセンチメンタルな声と
も異なっていたのです。まさに、これは黒人の音楽と白人の音楽
が融合した新しい音楽であったのです。
 当面フィリップスのやるべきことは、レコードのB面に何を入
れるかであったのです。フィリップスは、そのためにエルヴィス
とビル、スコティを召集します。  ―― [エルヴィス/03]


≪画像および関連情報≫
 ・「ロックンロール」と「ロック」の関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「ロックンロール」の略語が「ロック」である。「ロック」
  という略語はロックンロール黎明期からしばしば用いられて
  いたが、1960年代には「ロック」という呼び方が一般化
  し、「ロックンロール」と呼ぶことは少なくなった。ただし
  アメリカはでは現在もバンドサウンドであるロックのことを
  指して、総じて「ロックンロール」という言葉を用いること
  がある。              ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

前田絢子氏の本.jpg
前田絢子氏の本
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2010年01月18日

●SUN209/エルヴィス最初のシングル(EJ第2192号)

 エルヴィス、スコティ、ビル、フィリップス――この4人は、
「危険な音」を生み出した翌日、再びサン・レコードのスタジオ
に集まって、打合わせをしています。「B面を何にするか」を決
めなければならなかったからです。しかし、この日もB面に入れ
る曲は決まらなかったのです。
 しかし、サム・フィリップスは焦らず慎重に仕事を進めるタイ
プであり、この日も一日やって結論が出ないと、少し間を置いて
またはじめようということにしてその日は終ったのです。サムは
自分が心からいいと思わない限り妥協しなかったからです。
 みんなが引き上げると、サムは親友のデューイ・フィリップス
に電話します。 このもうひとつのフィリップスであるデューイ
は、ラジオ放送局でディスクジョッキーの仕事をやっており、自
分の番組「レッド・ホット・アンド・ブルー」を持っていたので
す。サムの要請を受け入れて、その日の夜、デューイは自分の放
送終了後にスタジオにやってきたのです。
 2人はビールを飲みながらエルヴィスの「ザッツ・オール・ラ
イト」を聴いたのです。何回も何回も繰り返して聴いたのです。
そのうえでデューイは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   これはヒットになる。でっかいヒットになるぜ。
            ――デューイ・フィリップス
―――――――――――――――――――――――――――――
 次の日、デューイはサムに電話を入れ、昨夜聴いた「ザッツ・
オール・ライト」のデモ盤をカッティングして欲しいと要請して
います。サムは早速デモ盤を作って放送局に届けたのです。
 デューイは自分の番組で「ザッツ・オール・ライト」を流した
ところ、もの凄い反応を呼んだのです。放送局にはリクエストが
殺到し、何十回も曲は反復して流されたのです。それでもリクエ
ストは止まらなかったのです。
 あまりの反応の凄さにデューイは、サムにエルヴィスを放送局
に連れてきてくれと依頼します。サムから話を聞いてエルヴィス
は震えあがって逃げ出し、映画館に姿を隠してしまったというの
です。やっとのことで、放送局に連れてこられたエルヴィスは、
マイクの前で怯えて何も話せない状況であったといいます。
 そこでデューイは本番前の打ち合わせをしようと騙して本番の
インタビューをはじめたのです。最初は次の質問――実は一番大
事な質問からはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     デューイ :高校はどこだった?
     エルヴィス:はい、ヒュームズです
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜこの質問が大事かというと、このやりとりでエルヴィスが
白人であることがわかるからです。ヒュームズ・ハイスクールは
白人用の高校であったからです。レコードを確実に売るには歌手
が白人であることを知らせておく必要があったからです。
 その日、サン・レコードの電話も鳴りっ放しだったのです。と
にかく急いでB面を決める必要がある――サム・フィリップスは
鳴り止まない電話を眺めながら考えていたのです。
 また、スタジオに集まった4人は、B面の選曲をはじめたので
す。その時点でまだ、できていないレコードの予約は5000枚
以上入っていたというのです。
 しかし、いつものように決定的なものが出ずにその日も終ろう
としていたときです。今度はビル・ブラックが「ブルー・ムーン
・オブ・ケンタッキー」という曲を少しテンポを上げながら、お
どけた甲高い裏声で歌い始めたのです。エルヴィスとスコティも
演奏に加わったのです。
 「これだ!!これはいける」とサムは叫んだのです。「ザッツ・
オール・ライト」は、黒人のブルースの上に白人のカントリーを
乗せているのに対し、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」
は白人のカントリーの上に黒人のブルースを乗せているのです。
これでやっとB面は決定されたのです。
 サム・フィリップスは「ザッツ・オール・ライト」と「ブルー
・ムーン・オブ・ケンタッキー」の2曲を表裏に収録したレコー
ドを作って、メンフィス中のディスク・ジョッキーに配布したの
です。各局とも反響は上々だったのです。
 そして、1954年7月19日、サン・レコードからエルヴィ
スの最初のシングル「SUN209」が発売されたのです。「ザ
ッツ・オール・ライト」はメンフィスのヒットチャートを一気に
駆け上がって第1位となり、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッ
キー」もそれに続いたのです。
 ビルボード誌は、エルヴィスについて、次のように書いてエル
ヴィスを絶賛したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス・プレスリーは、カントリーにおいても、リズム&
 ブルースにおいても、メロディをたたき出すことのできる有望
 な新人歌手である。           ――ビルボード誌
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスを中心として、3人の関係者が生み出した「危険な
音」は、南部社会はおろか、全米を巻き込み、ついには全世界を
征服する音になろうとは、さすがのサム・フィリップスも考えて
いなかったと思います。
 とにかくこのサン・レコードの発表した「SUN209」が、
後のロックンロール――略してロックという音楽の最初の音楽に
なったことは確かなのです。
 いや、今にして考えると、このロックという音楽は、黒人文化
を吸い込んだ新しい価値観の主張であり、時を同じくして起こっ
た公民権運動を社会の内部から支える強烈なエネルギーになった
といえるのです。         ――[エルヴィス/04]


≪画像および関連情報≫
 ・小泉純一郎元首相とエルヴィス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ポップミュージックの「キング」と呼ばれたエルビス・プレ
  スリーが亡くなって30年。命日の8月16日には「キング
  ・オブ・ロックンロール」をしのぶイベントがエルビスゆか
  りのメンフィスでも大々的に開かれたが、秋に入っても、そ
  の熱気は冷めない。米テネシー州メンフィス。エルビスが長
  年暮らした場所で、ファンにとっての聖地だ。昨年6月、エ
  ルビスファンの小泉純一郎元首相も訪問した邸宅グレースラ
  ンドは、一部が観光施設として公開され、今も多数のファン
  が内外から訪れる。    ――エルヴィス関連サイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・レコードと「SUN209」.jpg
サン・レコードと「SUN209」
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2010年01月19日

●2人のフィリップス(EJ第2193号)

 エルヴィスを見出し、エルヴィスを世界的なエンタティナーに
育てた人物であるサム・フィリップスとはどういう人物だったの
でしょうか。
 サム・フィリップスは、アラバマ州北部のフローレンスの大き
な農場主の8人兄弟の末子として生まれたのです。彼にとって幸
せだったのは、そういう環境から幼いときから、その農場で働く
黒人労働者の歌声を聴きながら育っているという点です。
 とくにその農場で働く下男のサイラス・ペインという盲目の黒
人からいつもブルースを聴かされていたので、ブースの虜になっ
てしまっていたのです。このような経験から彼は音楽を聴く確か
な耳を育てていたのです。
 幼いときから弁護士になることを目標にしていたのですが、高
校生のとき父親が亡くなると、弁護士になる夢をあきらめ、それ
まで通っていたハイスクールも中退してしまうのです。
 たまたま高校のときマーチング・バンドのリーダーをしていた
関係から、音楽に関する職業に就きたいと考えて、放送局に入社
し、アナウンサーや放送エンジニアとして働き出したのです。
 故郷から南に6マイルのマッスル・ショールズの町の放送局の
雑用係を振り出しに、アラバマ州ディケイターのWHSLを経て
テネシー州ナッシュヴィルのWLACというラジオ局で経験を積
んだあと、1946年の夏、23歳のときに妻と2人の息子を一
緒にメンフィスのラジオ局WLECに移ってきたのです。
 メンフィスのWLECでのサムの主な仕事は、ダウンタウンの
中心にあるピーボディ・ホテルの最上階のスカイウェイから毎日
夕方に放送する「トレジャリー・バンド・スタンド」という生番
組を演出することだったのです。要するにビックバンドのライブ
演奏の演出を担当したわけです。
 しかし、そのフルバンドによるスウィングジャズの演奏は実に
つまらないものだったのです。何よりも意外性がないこと、予定
調和的なアレンジ、生ぬるいけだるいムード、パンチが効かない
演奏、刺激的な興奮や衝撃などは、どこを探してもなかったので
す。こんな音楽じゃダメだな――サムはいつもそう思っていたの
です。サムには時代が変化しようとする鼓動がはっきりと聞こえ
ていたのです。
 1950年1月、彼は中南部にいる優れた黒人ミュージシャン
たちのユニークで素晴らしい音楽を多くの人に聴かせたいと考え
て、自分のスタジオを開設したのです。これがここまで何度も登
場したサン・レコード・スタジオなのです。
 サムは優れた黒人音楽家を見つけてきては自分のスタジオに連
れてきて録音させ、見込みのあるものは、シカゴのチェス・レー
ベルやウェスト・コーストに本拠を持つRPMレコードなどに音
源貸し出して紹介する仕事をはじめたのです。サムの良い音楽を
探し当る耳は確かであり、これが結構良い商売になったのです。
 そうするかたわら自分の歌を含めて何でも録音して音源を残し
ておきたい人のために、そういう音源を録音してアセテート・レ
コードを作るサービス――メンフィス・レコーディング・サービ
スをスタジオを利用してはじめたのです。エルヴィスはこのサー
ビスを利用してサムと知り合ったというわけです。
 これらの仕事は放送局の仕事をやりながらでもできたのですが
サムは1951年6月にWLECを辞めて独立したのです。サム
にそれを決意させたのは、彼が黒人と付き合っていることに不快
感を持つ者が放送局に多くいて、サムに対して露骨ないやがらせ
をするようになったからなのです。何しろこの局には黒人と握手
をする者がいるので、不潔な臭いがするというようなことをしつ
こくいわれたのです。
 もうひとりのフィリップス――デューイ・フィリップスについ
ても述べておくことにします。デューイはテネシー州のアダムズ
ヴィルで生まれ、成人してからメンフィスに出てきてパン屋の店
員などをしていたのですが、そのうちラジオの虜になり、ディス
ク・ジョッキーになろうと決心するのです。
 1949年にWHBQ局のラジオ・ショー「レッド・ホット・
アンド・ブルー」に自分を売り込んだところ、首尾よく採用され
たのです。彼にもサムと同様に時代の鼓動が聞こえており、新し
い音に反応する本能的な嗅覚を持っていたのです。
 デューイは伝統的な音楽区分を無視し、自分が最高だと思う音
楽をどんどん番組で流したのです。そこには白人も黒人もなかっ
たのです。そのため、デューイの番組は、黒人ファンも多く、な
かなか評判が良かったのです。
 なにしろ当時のメンフィスでは、警察が白人と黒人の分離に目
を光らせていたのですが、夜になるとデューイは自分の番組でそ
れを混ぜ合わせるのに忙しかったのです。デューイについてはこ
んな話が伝説のように伝わっています。
 あるとき、デューイは自分の番組の視聴率を知りたいと思った
のです。そこで、番組でこう呼びかけたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この番組を聴いていただいている皆さんにお願いします。本日
 夜10時に車のクラクションを鳴らしてくれませんか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜10時になると町は突然のクラクションの騒音で大騒ぎとな
り、警察まで出動する騒ぎになったのです。それでも鳴り止まな
いので、デューイが番組でストップをかけたところ、クラクショ
ンはピタリと収まったといいます。人騒がせな話ですが、デュー
イの人気がいかに凄いものだったかがこれでわかると思います。
もちろん、高校生のエルヴィスも毎晩9時になると、デューイの
番組にダイヤルを合わせていたのです。
 考えてみると、エルヴィスの音楽をこれら2人のフィリップス
が見出すのは必然的であったといえます。なぜなら、エルヴィス
とサムとデューイ――この3人が同じメンフィスという町にいて
ともに新しい音楽を必死に模索していたからです。メンフィスに
はそういう音楽的土壌があったのです。―[エルヴィス/05]


≪画像および関連情報≫
 ・関連サイト/BEATS21より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  テネシー州メンフィスはミシシッピ河によって発展した港町
  で、黒人のブルースやゴスペルから、白人のカントリー(ヒ
  ルビリー)に至るまで南部音楽文化の一大「集積地」の一つ
  でもあった。しかしサム・フィリップスがこのレコーディン
  グ・スタジオを造る前まで、近隣には同様の施設はなく、そ
  の結果、黒人・白人を問わず何がしかの大志をいだくミュー
  ジシャンはこぞってサンと接触を持った。小さなレコーディ
  ング・ハウスから、高純度の優れたポップ・ミュージックが
  次々と生まれ出たのは、50年代の深南部――ディープ・サ
  ウスという黄金時代を背景にしながら、フィリップスがその
  時代の胎動に鋭く反応したからだった。
         http://www.beats21.com/ar/A01112003.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

2人のフィリップス.jpg
2人のフィリップス
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2010年01月20日

●人種差別を容認するプレッシー判決(EJ第2194号)

 一定の年代以上の人でエルヴィス・プレスリーの名前を知らな
い人はいないはずです。しかし、彼のファンは別であるが、その
印象はそんなに良いものではないと思います。
 ド派手な衣装と腰を振るオーバー・アクション、不良っぽい長
いもみあげ、馴染みにくい音楽と激しい歌唱、うるさい音楽、多
くの青春映画のスター、それに意外に早死にした米国の歌手――
このように考えていた人は少なくないと思います。
 一方、若い人の中には、エルヴィスの名前を知らない人も多く
なっています。20世紀の音楽といわれるロックのファンであり
ながら、エルヴィスが生み出した「ロックンロール」についても
知らない人が多いのです。ちなみにロックは、ロックンロールの
省略形なのです。
 前田絢子氏と並ぶエルヴィスの研究者である作家の東理夫氏は
著書で、エルヴィスが時代に果たした役割について、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時代が熟していた、といえばいえる。またエルヴィスが、テネ
 シー州メンフィスという白人文化と黒人文化とが共生する場所
 にいたことも重要だった。そして彼がロックを生むのを助ける
 適切な人間に出会えたことも大切だった。ライトタイム、ライ
 トプレイス、ライトパーソン――しかるべき時に、しかるべき
 場所で、しかるべき人が、という3つの要素がととのった時、
 エルヴィスはロックを生み出すことができたのだ。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 サン・レコードが「SUN209」を世に問う1954年7月
――メンフィスではいささか深刻な事件が起きていたのです。深
刻な事件とは、5人の学生がメンフィス州立大学に入学願書を提
出したことです。
 現代人であれば、なぜそんなことが深刻な事件なのかといぶか
しく思うはずです。しかし、この米国南部社会では、学校は白人
と黒人に峻別されており、黒人学生は白人学校への入学は認めら
れていなかったのです。つまり、南部社会では人種隔離教育が徹
底されていたのです。
 問題は、この人種隔離教育が90年以上にもわたって南部社会
で行われてきた社会的掟であったにもかかわらず、なぜ、あえて
5人の黒人学生が禁止されている白人学校であるメンフィス州立
大学に入学願書を出したかです。
 もちろんそれには理由があったのです。1954年5月17日
に米国の連邦最高裁判所が米国史上画期的ともいえる判決を下し
ていたからです。それは「ブラウン判決」と呼ばれ、長い間、南
部社会で行われていた公立学校の人種差別を違憲とする判決だっ
たのです。5人の黒人学生は、このブラウン判決に基づいて、入
学願書をメンフィス州立大学に提出したというわけです。
 しかし、5人の黒人学生の願書は、テネシー州の教育委員会に
よって退けられたのです。つまり、テネシー州は、ブラウン判決
という国家の押し付けを拒否したのです。これは大変なことです
が、この間の事情を理解するには、南北戦争が終わった頃の米国
に戻って考えてみる必要があります。
 ブラウン判決は、その前の判例である「プレッシー判決」を覆
して成立しているのですが、そのプレッシー判決とは何なのかに
ついて考えてみることにします。
 南北戦争のさなかにリンカーン大統領は奴隷解放を宣言し、南
北戦争終了後に憲法修正条項が発令され、黒人の基本的な人権が
法的に保障されたことはよく知られている通りです。
 具体的にいうと、南北戦争後の1863年――憲法修正第13
条によって奴隷制度が廃止され、第14条により、法の下での人
種差別は許されないことになったのです。
 しかし、これに南部社会は猛反発したのです。そして彼らは次
の有名な言葉を掲げて人種差別を継続したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          分離すれども平等
―――――――――――――――――――――――――――――
 1892年6月のことです。ルイジアナ州に住むホーマー・ア
ドルフ・プレッシーという黒人男性がある行動を行ったのです。
そのとき南部を中心とする多くの州においては、法律によって、
あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場、列車の座席
など、あらゆるものに白人用、黒人用の区別があり、その区分け
を無視すると、法律違反として逮捕されたのです。
 黒人男性プレッシーは、法律の違法性――憲法第14条違反を
国に問うため、あえて白人席に座って逮捕されたのです。裁判は
長期化し、最高裁まで持ち込まれたのですが、判決はプレッシー
の敗訴に終ったのです。判決は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隔離を認める州法は一方の人種を劣勢とみなすものではない。
 したがって、憲法第14条に反するものではない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この判決は、それ以後実に50年以上南部社会において有効に
働いており、「プレッシー判決」として人種差別を容認し続けて
きたのです。
 リンカーン大統領によって確かに奴隷制度は廃止されたのです
が、黒人が自立するための経済的な救済制度は何ひとつ行われて
いないのです。
 そのためほとんどの黒人は、「分益小作人」という貧農として
奴隷時代とあまり変わらない生活を送るしかなかったのです。こ
の分益小作人制度は、黒人の安い労働力を確保するために考え出
された南部社会特有の農業制度であり、黒人たちはそれにすがっ
て生きるしかなかったのです。そして、1951年にもうひとつ
の裁判が起きるのです。      ――[エルヴィス/06]


≪画像および関連情報≫
 ・分益小作人とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小さな町では仕事がほとんどなかったため、田園地帯に住む
  多くの黒人たちは、まだ残っている白人の地主たちと、可能
  な限りの取り決めを結ぶしかなかった。農具、種子、住居、
  食糧の提供を受ける代わりに、他人の土地で栽培した作物の
  一定割合を地主に納める分益小作制という制度が、黒人たち
  にとっての生存手段、生活様式となった。それは、土地を失
  った多くの貧しい白人にとっても、同様だった。いったんこ
  の様式が定着してしまうと、農村地域以外への黒人の移動を
  制限する「黒人取締法」もあり、また教育機会もろくに与え
  られなかったこともあって、それはますます強化されていっ
  たのである。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-travel-geography08.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

東理夫氏の本.jpg
東理夫氏の本
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2010年01月21日

●音楽から崩れ去った人種差別(EJ第2195号)

 1951年のことです。カンザス州トピーカというところで、
オリバー・ブラウンという黒人の溶接工が、ある小さな裁判を起
こしたのです。
 それはブラウンの自宅の近くの学校が白人専用であるため、娘
をバスで遠くの黒人学校に通わせなければならなかったのですが
これは不当であるとして訴えたのです。訴えた先は、トピーカ市
教育委員会です。
 プレッシー判決から既に50年経っていましたが、もちろん簡
単には決着がつかず、最高裁までもつれたのです。プレッシー判
決の違法性を内心感じていた当時の最高裁判事たちは、いずれも
裁決には逃げ腰だったのです。なぜなら、どのように判決を下し
ても世間の大きな批判を浴びることは必至だったからです。
 ところがここにアクシデントが起きるのです。最高裁判所長官
のフレッド・ウイルソンが心臓麻痺で急死してしまったのです。
そこで当時の大統領アイゼンハワーは、新最高裁判所長官として
アール・ウォレンという人物を任命したのです。
 アール・ウォレンは、ノルウェー系の米国人で、1891年に
カルフォルニアに生まれています。家は貧しく肉体労働で稼いだ
お金でカルフォルニア大学バークレー校を卒業し、その後、共和
党左派の政治家としてカルフォルニア州知事にまで上り詰めたの
です。当時最も勢いのあるカルフォルニア州を率いる大物知事と
して政治力を発揮したのです。
 しかし、この知事時代にアール・ウォレンはある失政をしてい
るのです。彼は1943年にカルフォルニア州知事になっている
のですが、当時は第2次世界大戦中だったのです。そのとき、カ
ルフォルニアに住む10万人を超える日系人から土地や建物を奪
い、収容所に送り込む命令の書類に積極的にサインしたのです。
 やがて彼はこれがとんでもない間違いであったことに気がつく
のですが、そのことによって生涯苦しむことになります。人種差
別はやってはならない――そう思い知ったときにアイゼンハワー
大統領から最高裁判所長官を命ぜられたのです。彼はこれが自ら
犯した罪を償うために神が与えてくれた試練として受け止め、最
高裁判所長官を引き受けたのです。
 アール・ウォレンは、アイゼンハワーが軍隊とホワイトハウス
以外は知らない超エリートであったのに対し、カルフォルニアと
いう土地を治める州知事という仕事をやったことで、庶民の生活
も黒人の生活もよく実態を掴んでいたのです。
 したがって、現在係争中の裁判が明らかにトピーカ市教育委員
会が違憲であることは、アール・ウォレンはよくわかっていたの
です。しかし、50年前のプレッシー判決のようにならないよう
にするのはどうすべきかを考えたのです。
 一番重要なことは、最高裁の判事全員が違憲判決に賛成し、そ
れがアメリカ合衆国の総意であることを示すことであると考えた
のです。そうしないと、プレッシー判決の二の舞になると思った
のです。
 そこで、アール・ウォレン長官は違憲判決反対の最高裁判事に
1人ずつ説得に乗り出したのです。彼は「法律は、 『この日この
時』と無縁であってはならない」と説き、時代は確実に変わって
いるのだということを反対する判事たちに訴えたのです。
 この異例ともいえる最高裁長官による説得を受けて、自分の在
任中はことを起こしたくないと考えていた判事たちは大きく心を
動かされたのです。
 こうして、米最高裁は1954年5月17日に次の判決を下し
たのです。これがブラウン判決なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 我々は、公共教育の場における「分離すれども平等」の原則は
 成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が
 本質的に不平等だからである。      ――ブラウン判決
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このブラウン判決がさらなる人種差別を助長すること
になるのです。南部出身の80%にわたる101名のアメリカ合
衆国連邦議員は、この判決を無効ならしめるあらゆる合法手段を
取るとする「南部宣言」を発表し、マッシブ・レジスタンス――
大規模な抵抗をするという意思表示までしたのです。
 南部の州議会は、人種共学を阻止する州法を次々と制定し、南
部の各地で人種統合を阻止する市民組織シティズンズ・カウンシ
ルが結成され、大規模な反対運動が巻き起こったのです。
 また、ブラウン判決が人種別教育廃止の実施時期と方法を明確
にしていないことを口実に分離教育を継続し、また、公立学校以
外の公共の場所、例えばレストランやトイレ、乗り物などの分離
を禁じていなかったことを利用してそういう分離を継続して残し
たのです。そして、どうしても黒人の入学を認めざるを得ないと
きは、州知事はその学校に閉鎖命令まで出したというのです。そ
して、そこに通っていた白人たちには私立学校に転校させている
のです。そこまでして人種共学に断固反対したのです。
 しかし、この米国南部のマッシブ・レジスタンスによっても止
められなかったものが音楽なのです。ブルース歌手でディスク・
ジョッキーのB・Bキングは次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人は、もしもラジオの電波にも人種間隔をおこなうこ
 とができれば、やったと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人もメンフィスの市当局も飛び交うラジオを黙らせる
ことはできなかったのです。街のレコード店では黒人の作品を含
めてあらゆる音楽を並べたのですが、誰もそれを阻止することは
できなかったのです。メンフィスのポプラ通りのレコード店「ポ
プラ・テューンズ」には、とくにあらゆるレコードが揃っており
あの2人のフィリップスも、エルヴィスもこの店の常連だったと
いわれています。このようにして、人種差別は音楽から崩壊して
いったのです。          ――[エルヴィス/07]


≪画像および関連情報≫
 ・アール・ウォーレン元米最高裁長官について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アール・ウォーレンは、カルフォルニア州地方検事および第
  30代カルフォルニア知事――1943年〜1953年、最
  高裁長官――1953年〜1969年まで務めた。彼の任期
  中のアメリカ合衆国では、人種差別、公民権運動、政教分離
  および警察逮捕手続き問題など様々な社会問題が憲法問題と
  して判断の対象となったが、ブラウン判決を始めとして、リ
  ベラルな判断を下すことにより20世紀後半以降のアメリカ
  の社会を法的アプローチによって根本的に変革することとな
  った。20世紀アメリカの法律家の中では最大の功労者とさ
  れる。               ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アール・ウォレン元米最高裁長官.jpg
アール・ウォレン元米最高裁長官
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2010年01月22日

●エルヴィスの舞台パフォーマンス(EJ第2196号)

 エルヴィスの最初のレコードがラジオで盛んに流されると、そ
れは南部各地の若者たちの間であっという間に広がって、大変な
騒ぎになったのです。そして、ミュージシャンを目指す多くの若
者がサム・フィリップスのスタジオに押しかけたのです。
 「ブルー・スエード・シューズ」で知られるカール・リー・パ
ーキンズもサムのところに駆けつけた一人です。その他にもジェ
リー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュ、バーバラ・ピット
マン、チャリー・リッチなどたくさんいたのです。
 1954年7月9日、「ザッツ・オール・ライト」の録音後は
じめて、最初のライブをやることになったのです。それは、スコ
ティ・ムーアとビル・ブラックが所属するバンド「スターライト
・ラングラード」の出演する「ベル・エア・クラブ」だったので
す。そのとき、エルヴィスの歌の伴奏は、当然ことながら、スコ
ティとビルが引き受けたのですが、彼らがエルヴィスの最初のバ
ック・バンドになるのです。
 それから、エルヴィスのレコードを聞き、WMPS局でディス
ク・ジョッキーをやっていたボブ・ニールが、エルヴィスのマネ
ージャーを買って出たのです。このボブ・ニールの最初の大仕事
が、7月30日にオーバートン・パーク・シェルで行われるコン
サートにエルヴィスを出演させることだったのです。
 そのときの話です。コンサートには大勢の人が集まったので、
エルヴィスは歌いながら不安になって身体が震え出して止まらな
くなってしまったのです。その震えを止めようとつま先で立った
ところ、今度は両足に震えがきて足がバタバタしたのです。
 その様子を見ていた観客の女性から歓声が上ったのです。観客
から見ると、エルヴィスが足を震わせながら歌うのが、とてもセ
クシーであり、それがエルヴィス特有のパフォーマンスであると
思ったからです。それ以来、エルヴィスは意識して足を震わせ、
腰を振りながら歌うのが彼のパフォーマンスとなったのです。今
までにそのようにして歌う歌手はいなかったので、この歌い方は
賛否両論を呼ぶことになります。
 エルヴィスの歌は多くの若者には諸手を上げて迎えられたので
すが、大人たちの反応はすこぶる芳しくなかったのです。彼の歌
をラジオで聴いた大人は「白人が黒人の歌を歌うとは何事か」と
いう非難を浴びせたのです。
 さらにエルヴィスの歌を実際に見た大人は、身体を震わせ腰を
振る歌い方を見て、さらに激しく非難したのです。「男のくせに
腰を振るとは・・・」といって嫌悪したのです。
 この舞台上のエルヴィスのパフォーマンスについて、作家で大
学教授のボビー・アン・メイソンは、エルヴィスに関する著書で
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは結局生まれながらの偉大なショーマンだった。舞
 台上ではのびのびとして、聴衆ともたやすく共感を作り上げ、
 彼らが何を欲し何を必要としているかを感覚的にとらえた。そ
 の確信があるために、彼はとっぴな動きもでき、その猥雑さが
 生な反応を引き起こした。初めの頃、彼はしばしば舞台上で無
 遠慮だった。きわどい冗談を言い、みだらな身振りをした。唾
 も吐いた。プロのショーマンシップのルールには気づかず、彼
 はティーンエージャーの反抗的エネルギーを田舎風の無邪気さ
 で、礼儀正しさもどこ吹く風と吹き飛ばし、大げさに振舞った
 のである。   ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 最初のオーバートン・パーク・シェルから10日後の8月10
日、第2回のオーバートン・パーク・シェルのコンサートが開か
れたのです。この日、エルヴィスは昼と夜の2度のステージを務
めたのです。
 昼のステージでエルヴィスは2曲――「オールド・シェップ」
と「ザッツ・ホェン・ユア・ハートエイクス・ビギン」というひ
どくおとなしい曲を歌っています。これを聴いていたサム・フィ
リップスは、エルヴィスはカントリー界でも通用するかもしれな
いと考えたのです。
 夜のステージは若いファンがいっぱいであり、昼のような生ぬ
るい曲を歌うのを許してくれなかったのです。彼らは「ザッツ・
オール・ライト」を聴きにきたからです。なかでもエルヴィス以
外には目に入らない多くの女性ファンは、エルヴィスの登場から
退場まで、その一挙手一投足に悲鳴を上げて、泣きわめき、そし
て歓声を上げたのです。現在のロック・コンサートと同じ光景が
そこに展開されたのです。
 エルヴィスの歌が、黒人音楽好きの少年少女に受けているのは
ラジオのディスク・ジョッキーのリクエストでわかっていたので
すが、当時の南部社会では、カントリー・アンド・ウェスタンの
大人のファンが多かったので、この面で気に入ってもらえなけれ
ば、大ヒットにつながらないのです。
 しかし、この第2回のオーバートン・パーク・シェルのコンサ
ートを聴いて、エルヴィスはどちらもいけるとサム・フィリップ
スは確信を強めたのです。このコンサートでエルヴィスはどちら
の歌でも受けていたからです。
 もうひとつエルヴィスの登場が米国の音楽界にとって幸いだっ
たことは、エルヴィスと同年代の若手のミュージシャンが一挙に
増えたことです。彼らは黒人歌手がどんなに人気を得てもけっし
て嫉妬しないのですが、白人の歌手の台頭には激しく対抗心を燃
やし、反応したからです。
 しかし、エルヴィスの人気は圧倒的であり、とくに彼の舞台パ
フォーマンスは天性のものがあって、他の追随を許さなかったの
です。そして、エルヴィスがカントリーの世界でもやっていける
とサムが睨んだ通り、エルヴィスのレコードがビルボードのロー
カル・チャートに顔を出してきたのです。これはいける――サム
は確信したのです。        ――[エルヴィス/08]


≪画像および関連情報≫
 ・ボビー・アン・メイソン氏の本
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カントリー&ウェスタン、リズム&ブルース、ロックン・ロ
  ールなどを融合させた新しいアメリカの大衆音楽を作り上げ
  抜群の歌唱力と独特の歌唱スタイルでスーパースターとなっ
  たプレスリー.ミュージック・シーンへの衝撃的登場と時代
  的熱狂から映画出演、歌手としての再生、晩年の生活と死に
  至るまでを共感的に描きだし、文化としてのプレスリーの意
  味を浮き彫りにする要を得た評伝。話題作を次々に発表し女
  性作家としていま注目を集める著者の意欲作。
               ――岩波書店ホームページより
  ―――――――――――――――――――――――――――

ボビー・アン・メイソンの本.jpg
ボビー・アン・メイソンの本
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2010年01月25日

●最初のレコードに隠された秘密(EJ第2197号)

 ここでもう一度話をエルヴィスの最初のレコード、サン・レコ
ードの「SUN209」に戻ってしてみる必要があります。この
レコードのA面とB面は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   A面/     「ザッツ・オール・ライト」
   B面/「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」
―――――――――――――――――――――――――――――
 疑問に思うのは、エルヴィスがサム・フィリップスやスコティ
・ムーアに何回か時間をかけて歌を聴いてもらっているのに、な
ぜか「ザッツ・オール・ライト」は歌っていないのです。彼はこ
の歌がとても好きで、なかなか上手に歌えるのにです。
 しかもこの曲はセッションの最後の最後、もう今日はお開きに
しようというときになって、はじめて飛び出したのです。B面の
「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」も最後の最後になって歌
われています。
 これはどうしたことでしょうか。単なる偶然でしょうか。それ
とも何か理由があってのことなのでしょうか。
 これに関して、既出の東理夫氏は、エルヴィスには二面性があ
るとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一人は恥ずかしがり屋で昔ながらのカントリー・ミュージック
 や信仰深いゴスペル音楽をこよなく愛しながらも、なかなかチ
 ャンスに恵まれない孤独な青年。もう一人は、黒人系の音楽、
 特にリズム・アンド・ブルースが好きで、彼らの歌を、白人が
 人前で歌うことをはばかられた時代に、チャンスがあれば、開
 けっぴろげに歌うふてぶてしい青年。そのどちらが真のエルヴ
 ィスなのだろうか。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、もともと黒人系の音楽が大好きだったのです。
そのため、黒人系の教会――イースト・トリッグ・パプティスト
・チャーチによく出かけていき、ゴスペルを聴いていたのですが
当時の社会ではそんなことをとてもあからさまにはできなかった
のです。だから、サムの前では歌わなかったのです。
 しかし、なかなかサムのOKが出ず、これはもしかすると採用
されないかも知れないという危機的状況に追い込まれて、だめも
とで最後の最後に「ザッツ・オール・ライト」歌ったのです。
 「ザッツ・オール・ライト」という曲は、曲全体を通じ、カン
トリー風のビートを持つ自由に飛び回るようなブルースでおり、
生き生きとした曲なのです。エルヴィスはもともとこういう曲は
得意なのですが、それはある意味においてエルヴィスの秘密の逃
げ場だったといえるのです。つまり、当時のエルヴィスは、白人
世界から落ちこぼれ、黒人世界に逃避していたといえるのです。
だから、なかなかサムの前では歌えなかったのです。
 「ザッツ・オール・ライト」は、黒人のブルースシンガー、ア
ーサー“ビックボーイ”クルーダップが書いて、1946年9月
に自らレコーディングしていますが、結局ヒットしなかった曲な
のです。エルヴィスは、その歌を白人の若者の好みに合わせて、
今風にアレンジしてカバーしたに過ぎないのですが、きわめて新
鮮に聞こえたのです。
 B面の曲である「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」はどう
だったのでしょうか。
 この曲は、ブルーグラス・ミュージックのビル・モンローのオ
リジナルで、ちょうどエルヴィスがサン・レコードからデビュー
する前後にラジオで盛んに流れていた曲なのです。この曲はビル
・モンローの高音の裏声――ハイ・ファルセット・ボイスで、少
しもの悲しく歌われるワルツなのです。
 ブルーグラス・ミュージックは、アコースティック音楽のジャ
ンルで、ギター、アコースティック・ベース、フィドル、マンド
リン、バンジョーで構成されるのです。「アコースティック」と
いうのは、電気的な増幅なしに演奏する楽器のことです。これを
定着させたのが、ビル・モンローなのです。
 「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」を歌い出したのは、ベ
ーシストのビル・ブラックです。彼は、エルヴィスの歌った「ザ
ッツ・オール・ライト」のリズムやテンポをそのままに、ビル・
モンローの哀調を帯びた裏声を真似して「ブルームーン・オブ・
ケンタッキー」を歌ったのです。これを聴いてエルヴィスとスコ
ティとサムは笑い転げたのです。
 実は当時のカントリー・アンド・ウェスタン・バンドの特徴は
コメディアンを抱えたショウ・バンドであり、そのコメディアン
役を引き受けるのはベーシストだったのです。ビル・ブラックは
ベーシストであり、彼が所属しているバンドでこのコメディアン
役をやっていたのです。
 ビルの後に続いてエルヴィスは4分の3拍子の「ブルームーン
・オブ・ケンタッキー」を裏声ではなく、普通の音域の歌として
4分の4拍子のリズムに乗せて歌い始めたのです。これはやさし
いことではないのですが、「ブルームーン・・・」と歌い出すと
ころを「アイ・セッド・ブルームーン・・」と歌詞を付け加えて
歌うことによって、4分の3の曲を4分の4で歌い出すときの不
安定さを解消しているのです。これは、エルヴィスがよくやるこ
となのですが、まさに天賦の才能が光ったといえます。
 そのときです。エルヴィスは「ザッツ・オール・ライト」と同
じフィーリングで歌い出したのです。次の瞬間、サムが次のよう
に叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    Hell、thst's fine!
    That's different! That's a pop song now!
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ――[エルヴィス/09]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・モンローとブルーグラスについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  伝説的なバンドのリーダーや、シンガー・ソングライター、
  さらには革新的な演奏者として、ビル・モンローが現在のカ
  ントリー音楽の発展に与えた影響の大きさは計り知れない。
  それは、マディ・ウォーターズとロックの関係に匹敵すると
  いえるだろう。36年にレコーディング活動を開始した彼は
  バンド・リーダーとして、革新的な演奏者を求めつづけた。
  バンドはマンドリンの速弾きで有名な彼を中心に、まるでジ
  ャズ・コンボのような演奏スタイルを確立していったのだ。
           ―― http://wacca.tv/a/artist_18536
  ―――――――――――――――――――――――――――

ビル・モンローとブルーグラス.jpg
ビル・モンローとブルーグラス
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2010年01月26日

●エルヴィスとゴスペルの関係(EJ第2198号)

 エルヴィスについてもうひとつ強調しておくべきことがありま
す。それはエルヴィスとゴスペルとの関係です。エルヴィスの音
楽とゴスペルとは切っても切れない関係にあるからです。
 ところで、ゴスペル・ミュージックとは何でしょうか。
 ゴスペルは一般的には宗教音楽全体を指すことが多いのですが
エルヴィス研究の第一人者である前田絢子氏は次のように定義し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 教会の正統的・伝統的な讃美歌以外の、新しく生まれた宗教歌
 で、ブラック・ゴスペルとホワイト・ゴスペルの2つの流れが
 ある。そして、何といってもゴスペルの主流はブラック・ゴス
 ペルである。               ――前田絢子氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスがゴスペルの魅力に取り憑かれたのは、実は母のグ
ラディスのせいなのです。グラディスはゴスペルの大ファンであ
り、家には78回転の「ゴスペル・コレクション」のSPがあっ
て、グラディスはいつもこれを聴いていたのです。したがって、
エルヴィスは小さいときからゴスペル漬けで育ったということに
なります。
 エルヴィスが19歳のときの話です。19歳といえば例のサン
・レコードとの契約の話があり、これについてはここまで詳しく
お話ししてきましたが、ひとつふれていないエピソードがあるの
で、これについて述べます。
 エルヴィスが19歳の頃、メンフィスに活動の拠点を置き、全
米で最も人気の高かった「ブラックウッド・ブラザーズ」という
ゴスペル・グループがあったのです。その2軍的存在に「ソング
フェローズ」というグループがあるのです。
 そのソングフェローズが、新しいメンバーを募集していたので
す。その情報を掴んだエルヴィスが早速オーディションを受けた
のですが、なぜか落ちてしまったのです。しかし、それから数ヵ
月後に、今度はソングフェローズの方からエルヴィスに誘いをか
けてきたのです。ところが、それはちょうどエルヴィスがサン・
レコードと契約を結んだ直後のことだったのです。
 後年エルヴィスは、「もし、誘われる順序が違っていたら、自
分の運命は変わっていた」と述懐しています。しかし、エルヴィ
スはその後もゴスペル仲間と交際を続け、後年のエルヴィスの大
型コンサートでは、ゴスペルはプログラムの定番になっていたこ
とはよく知られていることです。
 考えてみると、「SUN209」は、エルヴィスの相反するイ
メージのカップリングであるといえます。そのA面は、どちらか
というと不良っぽいイメージの「ザッツ・オール・ライト」、B
面はおとなしいイメージのカントリー・アンド・ウェスタンとい
うような相反する二面性があり、両方が絶妙なバランスをしてい
たといえるのです。
 さらにエルヴィスはゴスペルへの深い傾倒があり、それが彼の
歌うバラード調の歌の底辺にあると思うのです。このことに関連
して、もうひとつのエピソードをお話ししましょう。
 トーマス・アンドリュー・ドーシーという黒人がいます。彼は
ゴスペルの父といわれた人で、全米にゴスペルを普及して巡回し
た人です。ドーシーの元で育った歌手にゴスペルの女王といわれ
るあのマヘリア・ジャクソンがいます。そのドーシーの作品に次
の曲があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「ピース・イン・ザ・バーレイ/谷間の静けさ」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、ブラック・ゴスペルの代表的作品ですが、この曲には
エルヴィスにまつわるエピソードがあるのです。ドーシーは19
37年から14年間にわたって全米にゴスペルを宣伝普及してい
たので、彼は汽車に乗ることが多かったのです。
 あるとき汽車は両側に広がる農場を駆け抜けると、静かな谷間
にさしかかったのです。その谷間の不思議な静寂さに圧倒されて
しまったドーシーは、思わずペンを取り出してその情景を書き留
めたというのです。
 現在、自分は普及・巡回に非常に疲れているが、この谷間のよ
うに未来には平和がある――というような歌詞です。これは「現
在の苦悩と天国の幸福」という黒人霊歌に通じる思想と一致する
と、既出の前田絢子氏は指摘しています。
 実はエルヴィスはこの曲がとくに好きで、いつも口ずさんでい
たといいます。この曲は1951年にレッド・フォリーが歌って
カントリー・チャートで第7位につけた曲ですが、エルヴィスも
よく歌っているのです。
 そして、1957年1月6日にエド・サリヴァン・ショーに出
演したとき、エルヴィスはこの歌を歌ったのです。当時エルヴィ
スは、不良っぱいイメージで評判はあまり良くなかったのですが
この曲を歌うことで、その悪いイメージを完全に払拭してしまっ
たといわれます。政治的にやったのではないかともいわれていま
すが、エルヴィスにとってはこの歌唱の方が本物であり、3回目
の出演になったエド・サリヴァン・ショーではそれを証明してみ
せたということになります。
 この曲は多くの歌手によって歌われていますが、何といっても
圧巻なのはエルヴィスの歌唱であり、この曲を含めてエルヴィス
によるゴスペルを聴きたい人は次のCDをお勧めします。CDに
は、前田絢子氏の長文のライナーノーツが付いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ELVIS PRESLEY/ELVIS ULTIMATE GOSPEL
              ――BMGジャパン
―――――――――――――――――――――――――――――
 サム・フィリップスは、エルヴィスのこの二面性をよく見抜い
ており、エルヴィスをカントリー界の殿堂、グランド・オール・
オープリーに出そうするのです。  ――[エルヴィス/10]


≪画像および関連情報≫
 ・トーマス・A・ドーシーについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1899年にジョージア州ヴィラリカ生まれ。ゴスペルが生
  まれたのは19世紀後半頃だが、それまでの黒人霊歌やブル
  ース、また白人のカントリー&ウェスタンを融合してひとつ
  の姿となってあらわれたのは1930年頃と言われ、その創
  作者こそかつての売れっ子ブルース・シンガー、トミー・ド
  ーシーことトーマス・A・ドーシーである。彼の元で育った
  人にマヘリア・ジャクソンや、ロバート・マーティン、ジェ
  ームス・クリーヴランドなどがいるし、彼と共に賛美集会を
  催し、後進も育てていったマザー・スミスことウィリー・メ
  イ・フィールドなどもおり、彼らの働きによって黒人のバプ
  ティスト教会を中心に、ゴスペルは教会の音楽としても礼拝
  に欠かせないものとなっていった。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゴスペルを歌うエルヴィス.jpg
ゴスペルを歌うエルヴィス
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2010年01月27日

●人種差別を破壊したエルヴィスの音楽(EJ第2199号)

 後で述べることになりますが、実はサン・レコードとエルヴィ
スとの契約は、1954年7月から1955年11月までのごく
短い期間だったのです。
 しかし、その短い期間の間にサム・フィリップスは、無名のエ
ルヴィスを効果的に売り込み、大スターに仕立て上げたのです。
1954年10月2日、サムはエルヴィスを「グランド・オール
・オープリ」への出演を取り付けることに成功したのです。
 「グランド・オール・オープリ」というのは、正統的なカント
リー・ミュージックの伝統を誇るラジオ番組であり、それはカン
トリー・ミュージックの本場であるテネシー州のナッシュヴィル
のライマン公会堂から、全米に向けて放送される米国最大のカン
トリー・ショーだったのです。
 このライマン公会堂は、「カントリー・ミュージックのカーネ
ギー・ホール」と呼ばれており、ここに出演するのは、大変なこ
とだったのです。カントリー・ミュージックはもともと南西部の
田舎の民族音楽だったのですが、ラジオやレコードの普及によっ
て商品化され、ひとつのジャンルとしてのポジションを持ってい
たのです。
 グランド・オール・オープリは、それらを統括する権威の象徴
であり、その雰囲気は保守的で、権威主義的な傾向が強かったの
です。そこに斬新で自由なスタイルのエルヴィスの音楽をぶつけ
たのですから、それを聴いた聴衆が戸惑いと違和感を覚えたのは
当然のことであったと思います。その反応はいまいちであり、ど
ちらかというと、冷淡だったといえます。
 しかし、サムはエルヴィスの歌はカントリー・ミュージックに
通ずるものがあると確信していたのです。その仕掛けとして、サ
ムは、グランド・オール・オープリに出演したすぐ後、エルヴィ
スを「ルイジアナ・ヘイライド」も出演させたのです。
 「ルイジアナ・ヘイライド」はルイジアナ州シュリーヴポート
にグランド・オール・オープリに対抗して誕生した新しいカント
リー・ショーであり、こちらの方はエルヴィスのような新しいサ
ウンドを待っていたので、熱狂的にエルヴィスを歓迎し、大成功
を収めたのです。そして、果たせるかなグランド・オール・オー
プリもカントリー・ミュージックはエルヴィスの音楽の影響を受
けて変貌・発展を遂げていくことになるのです。
 このカントリー・ミュージックの最高峰であるグランド・オー
ル・オープリと、もうひとつの新しいカントリー・ミュージック
の拠点であるルイジアナ・ヘイライドの両方に相次いで出演した
ことによって、エルヴィスの音楽の南部制覇は完璧なものになっ
たのです。
 この頃から若者たちの反応は手のほどこしようのないほど熱狂
的になっていったのです。エルヴィスの人気は南部全体に広がり
ビルボード・チャートにもエルヴィスのレコードは頻繁に顔を出
すようになっていったのです。
 このように南部各地で開かれたエルヴィスのコンサートでは、
黒人も白人もなく、一体となって参加し、音楽とダンスの祭典と
化したのです。この事態に困ったのは警察当局です。
 エルヴィスに限らず、ロックンロールコンサートでは、コンサ
ート会場は一応きちんと人種隔離が行われていたのですが、興奮
してくると、若者たちは人種別の仕切りを取り払い、白人も黒人
も一緒になって踊るようになったのです。警察当局は必死になっ
て取り締ったのですが、どうしようもなかったといいます。
 遂に警察当局は、トラブルの危険があるとして、人種別にコン
サートを行うよう命令を出したのですが、やがてなし崩しになっ
ていくことなります。ロックンロールの持つ人種統合への潜在的
な力が爆発したからです。音楽の力が根強い人種差別の厚い壁を
少しずつ破壊していったのです。
 既出の前田絢子氏は、次のような印象的な文章で表現していま
す。エルヴィスの音楽をこのように位置づけている考え方に新鮮
さを覚えます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスはロックンロールを「発明」したわけではなかった
 かも知れない。なぜなら、歴史的文脈で見れば、いずれロック
 ンロールとなるはずの音楽的・文化的要素は、エルヴィスが登
 場する前から動き出していたからである。しかし、その「危険
 な音」を南部全体で新しい文化として爆発させ、やがて世界現
 象にしたのはまぎれもなくエルヴィスであった。型破りな才能
 と途方もない黒人文化への理解と包容力によって、エルヴィス
 は音楽を両人種間の新しいコミュニケーション手段に変容させ
 たのである。隔離されつづけた両人種に、思いがけない密な接
 触の機会を与えることで、南部社会に人種的な中立、寛容、や
 がては受容を促す環境を作り出したのだった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、黒人の音楽R&Bを歌う白人の歌手は多くいたのです。
いくつか名前を上げると、ペリー・コモ、フランク・シナトラ、
パットブーンなどですが、いずれもR&Bを白人向けのソフトな
ポップスとして歌っていて、白人らしさを売り物にし、白人向け
のアレンジをしていたのです。
 しかし、エルヴィスは黒人らしさを強調し、それを売り物にし
ている点が違うのです。これは当時の白人歌手ではあり得ない革
命であり、それは音楽の世界だけではなく、南部社会全体を変貌
させる大きなパワーとなって爆発したのです。
 このようにしてエルヴィスは南部全体を征服し、その活動範囲
は急激に拡大したのです。そのため地方レーベルに過ぎないサン
・レコードの手に負えない状況になっていったのです。
 しかし、エルヴィスの才能を見抜き、最初のレコードを出すや
次々と手を打って、エルヴィスをスターダムに押し上げたサムの
プロデュースは見事の一言に尽きます。―[エルヴィス/11]


≪画像および関連情報≫
 ・カントリー・ミュージックとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カントリー・ミュージックと聞くと、一般的には西部開拓や
  カウボーイを連想する人も多いが、それはあくまでも、ハリ
  ウッドのの映画産業やブロードウェイ・ミュージカルなどが
  作り上げた西部劇の影響であり、元々はそれほど深い関係で
  はなかった。また、それらの劇中で演奏される曲もクラシッ
  ク音楽の作曲家が民謡などをベースに作った映画・舞台音楽
  がほとんどで、厳密に言うとカントリー・ミュージックとい
  うジャンルにも当てはまらない場合が多い。むしろ後にカン
  トリー・ミュージシャンの方がそのイメージに肖り、西部劇
  やカウボーイ風の演出を取り入れる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・レコード時代のエルヴィス.jpg
サン・レコード時代のエルヴィス
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2010年01月28日

●パーカー大佐とは何者か(EJ第2200号)

 1955年11月21日のことです。エルヴィスは、サン・レ
コードからニューヨークに拠点を持つ世界的レーベル、RCAビ
クターに移籍したのです。移籍料は当時としては3万5000ド
ルという破格なものだったといわれます。
 このRCAビクター移籍を実現させた立役者は、トーマス・ア
ンドリュー・パーカーという人物――この男は、パーカー大佐と
呼ばれており、生涯エルヴィスにつきまとうことになるのです。
 なぜ、パーカー大佐と呼ばれるかですが、パーカーというのは
彼の本名ではないのです。大佐というのは敬称であり、自分を偉
そうに見せるための肩書きとして使っていたに過ぎないのです。
 彼はどこの国の市民権も持たないオランダ人亡命者であり、本
名は、アンドレアス・コーネリス・ファン・クーイクというので
すが、このアイデンティテイは既に捨てていたのです。
 彼は米国にやってきて国籍を取得する目的で軍隊に入り、19
29年〜1932年まで、第64沿岸砲兵部隊で任務に従事し、
米国の国籍を取得しています。パーカーという名前はそのときの
上官の名前をそのままパクッタのです。
 彼は国籍を取ると、早速ビジネスを始めます。最初はサーカス
とカーニバルの世界に入り、辣腕を発揮して、巡業団を立ち上げ
興行師として成功しています。第2次世界大戦後は、カントリー
歌手のマネジメントに乗り換えて、エディ・アーノルドやハンク
・スノーを大物スターに育て上げています。そのマネジメント能
力は優れており、その業界では有名な存在だったのです。
 そして、パーカー大佐は、1954年から1955年にかけて
彗星のごとく出現したエルヴィスに目をつけたのです。「これは
良い商売になる」と考えたわけです。そして、エルヴィスに近づ
き、エルヴィスと当時マネジャーをしていたボブ・ニールに、大
きな仕事をとってプロモートし、もっと有名にしてやるといい、
そのための契約をしようと迫ったのです。
 当時、エルヴィスには仕事の話が多く舞い込み、その活動範囲
が拡大して、サム・フィリップスのサン・レコードではとうてい
捌き切れない状況になっていたのです。
 パーカー大佐はサン・レコードのそういう状況を見て積極的に
動き、エルヴィスをサン・レコードから、RCAビクターに移籍
させたのです。地方レーベルからメジャー・レーベルへの移籍で
あり、エルヴィスの価値が大きく上がったことは確かです。
 しかし、そのとき、パーカー大佐がエルヴィス側に突き付けた
契約条件はエルヴィス側にとってきわめて不利なものだったので
すが、エルヴィスの両親はその条件を受け入れています。この間
の事情について、前田絢子氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスのキャリアの最後までマネジメントを独占したパー
 カー大佐の評価は二つに割れる。エルヴィスを食い物にしつづ
 けた貪欲な商人とするものと、エルヴィスを大スターに仕立て
 た有能なマネジャーというものだ。パーカー大佐の取り分が、
 最初の契約では収益の25%だったものが、1967年の契約
 更改では50%という異常な数字に跳ね上がっている事実を併
 せ考えれば、その両方が正しかったということになる。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスについて語るに当たって、パーカー大佐という大物
マネージャーにふれないことは困難です。なぜなら、エルヴィス
の1955年のRCAビクター移籍以来、エルヴィスの行動はほ
とんどパーカー大佐によってコントロールされていたといっても
過言ではないからです。
 ひとつ例を上げましょう。エルヴィスはあれほどの大スターに
なったにもかかわらず、なぜ日本にきていないのでしょうか。そ
れどころか、エルヴィスがショーを行ったのは、米国以外ではカ
ナダだけなのです。
 どうしてなのでしょうか。本当のところは闇ですが、パーカー
大佐がエルヴィスの海外公演を許さなかったというのが本当の理
由ではないかと思われます。
 ある説によると、パーカー大佐はオランダ人で不法滞在をして
いて、いったん米国から出たら、再び米国へは帰れなくなるから
ではないのかという話があるのです。しかし、パーカー大佐は米
国国籍を持っており、別に米国から出ても帰れなくなることはな
いと思うからです。
 しかし、エルヴィスが42歳の若さで死んだこととパーカー大
佐の存在は無関係ではないと考えるのです。これについてはやが
て明らかにしていくつもりです。
 さて、パーカー大佐はどういう風貌をしていたのでしょうか。
添付ファイルには、おそらくパーカー大佐と思われる人物の写真
を付けていますが、既出のボビー・アン・メイソンによるパーカ
ー大佐についての記述をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼は禿げかかった肥満男で、歩くというよりは、よたよたする
 と常に評される男だった。奇妙な帽子をかぶり、だらしない衣
 装を身につけ、葉巻を吸った。彼は人前でもシャツ姿だった。
 騒々しく愛想がよく、文字通り口の端で、奇妙な言語障害にも
 見える話し方をした。実際のところそれは彼のオランダなまり
 の名残だったが、誰も彼がオランダ人とは知らなかった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス側がパーカー大佐と結んだ契約は、ボビー・アン・
メイソンによれば、「年季奉公」の契約書のようなものだったの
です。それなのに、どうしてエルヴィスはこの契約を受け入れた
のかについては、エルヴィスサイドのいろいろな事情が存在して
いたのです。           ――[エルヴィス/12]


≪画像および関連情報≫
 ・サム・フィリップスのエルヴィスへの思い/2003年没
  ―――――――――――――――――――――――――――
  むろん、ジミー・ロジャーズやハンク・ウィリアムズも悪く
  はないだろう。……知ってのとおり、私は大のロジャーズ・
  ファンだ。……ハウリン・ウルフほど深いところまで、食い
  こんではこないにしても。ただ、ウルフを筆頭とする偉大な
  ブルース・シンガーたちからは、もうとにかく絶対的に真実
  で、南部の人間たちが、白人、黒人を問わず経験してきた暮
  らしにとことん密着した何かが感じ取れる。そういう一番基
  本的なもろもろを思い出させてくれる男の魂が死ぬなんてこ
  とは、絶対にありえないんだ、そうだろう?その手のことは
  買ってきた本で覚えられるようなもんじゃない。現場に居合
  わせなきゃ駄目だ。私もたぶん解かってると思う。それはい
  つまでも心の中にある。絶対に忘れない。絶対に忘れられな
  い。              ――サム・フィリップス
   ――http://homepage3.nifty.com/cross-may/impre48.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

「パーカー大佐」.jpg
「パーカー大佐」
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2010年01月29日

●パーカー大佐のマルチメディア戦略(EJ第2201号)

 パーカー大佐は、エルヴィスに対し、もし一流になりたいので
あれば、サン・レコードのような三流レーベルでは駄目であると
説いたといいます。
 これは本当の話であり、当のサン・レコードのサム・フィリッ
プスもそう考えていたのです。彼はエルヴィスのレコードを相応
にプロデュースすることも、売り出すこともできないことをよく
知っていたのです。己の実力をよくわきまえていたといえます。
 サムはパーカー大佐は嫌いでしたが、メジャー・レーベルのR
CAビクターが動いたと知ると、サムはエルヴィスを全米のエル
ヴィス、世界のエルヴィスにするにはパーカー大佐にまかせるし
かないと考えたのです。サムはパーカー大佐のマネジメントの実
力は認めていたのです。
 それにRCAビクターが提示してきた移籍金3万5000ドル
という当時としては途方もない金額もサムにとって必要であった
のです。したがって、サム・フィリップスは、自分が発見したも
のを手離すことに何の後悔もないといっていたのです。
 現代の人から考えると、いかに相手が大物マネージャーである
ことがわかっていても、あまりにも不平等な契約であれば断れば
いいと思うでしょう。しかし、エルヴィスの両親は不平等である
ことを十分承知のうえパーカー大佐の要求を受け入れているので
す。契約の当事者はもちろんエルヴィス本人ですが、エルヴィス
が未成年者であるためパーカー大佐は両親と交渉したのです。
 エルヴィスの父親のヴァーノンは当時トラックの運転手をして
いたのですが、そういう社会階層の人間は、権威すなわち高い階
層の人間への従属が求められていたのです。人種差別が色濃く残
っていた時代ですから、白人といえども階級意識は非常にはっき
りしていたのです。
 エルヴィスの両親は、自分たちの置かれているポジションをよ
く心得ており、パーカー大佐が口が達者で腕は確かであるが、詐
欺師同然のタイプの人間であることをよく承知していながら、彼
にエルヴィスのマネジメントを任せたのです。それは当時として
はきわめて分別ある判断であったといえるのです。彼らは自分た
ちにはできない能力を持っているパーカー大佐にすべてを賭けて
みようと考えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プレスリー一家がガイドが必要なのを知っていた。彼らと同じ
 ような種類の人間で、銀行家、弁護士、会社重役など、ひとり
 として信用できない人々の間を巧みに動き回れる人間が、おそ
 らくプレスリー一家は大物たちに挑戦できる詐欺師を見出した
 自分たちを幸運だと考えた。大物は彼らを単に踏み潰すだろう
 ということを知っていたからだ。それが彼らの人生の現実だっ
 た。      ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、エルヴィスが100万ドルを稼ぎ、その半分を大佐が取
り分としてとったとしても、50万ドルはエルヴィス側に入るの
です。毎日トラックを運転して週に37ドルを稼いでいるヴァー
ノンにとって途方もない金額だったのです。もともと仕事をとっ
てくるのは大佐であるのだから、半分やってもいいとヴァーノン
とグラディス(エルヴィスの両親)は考えていたのです。だから
こそ、大佐と長い間うまくやっていけたのです。
 1955年11月21日にサン・レコードからRCAビクター
への移籍契約がすべて終わった翌日、エルヴィスはパーカー大佐
に次のような電報を打っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大佐殿、僕と家族があなたのしてくださったことにどんなに感
 謝しているか言葉では決して言い表せません。僕はずっと思っ
 ていましたが、そして今では僕の両親も確信していますが、あ
 なたこそ僕がともに仕事をすることを望みうる最高の、もっと
 もすばらしい人物です。僕は終始変わらずにあなたに、忠実で
 す。そしてあなたの僕に対する信頼に応えるためにできること
 はすべてします。そのことを信じてください。もう一度、御礼
 を言います。そしてあなたを父のように愛していると申し上げ
 ます。              エルヴィス・プレスリー
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 パーカー大佐は、マルチメディアを重視しようとする当時とし
ては非常に珍しいマネージャーであったのです。それまではレコ
ードとラジオが中心であったのですが、それに映画とその頃から
普及がはじまっていたテレビを活用しようという考え方を持って
おり、それに向けて積極的に運動をはじめたのです。
 1956年1月27日にエルヴィスは、RCAビクター移籍後
はじめて次のシングルを出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Heartbreak Hotel / I Was the One
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ハート・ブレイク・ホテル」――このあまりにも有名な曲は
その後登場した数多くのミュージシャンに多大な影響を与えたの
です。R&Bでもないし、カントリーでもない。それにピアノも
加わってモダンさが出ている。曲は暗く陰鬱であり、最初は伴奏
もなく、全編ほとんどアカベラに近い。ここまでのエルヴィスの
スタイルとは明らかに違うのです。
 しかし、エルヴィスのこの第6弾シングルは、4月にはチャー
トの第1位に達したのです。さらに、「ハート・ブレイク・ホテ
ル」発表の次の日の1月28日、エルヴィスはCBS−TV「ト
ミー・ドーシー・ステージ・ショウ」に出演して、黒人R&Bを
歌っています。パーカー大佐の仕掛けによって初のテレビ出演で
す。しかし、TVではじめてエルヴィスを見た視聴者はさまざま
な反応を示したのです。      ――[エルヴィス/13]


≪画像および関連情報≫
 ・「ハート・ブレイク・ホテル」の歌詞/1番
  ―――――――――――――――――――――――――――
  彼女が俺を捨ててから
  新しい溜まり場を見つけた
  淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
  俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
  淋しくて死にそうだ
  いつも混んでいるけれど
  座るところなら見つかるぜ
  傷ついた恋人たちが
  自分の悲しみを嘆く場所
  淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
  みな淋しくて死にそうだ
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ハート・ブレイク・ホテル」.jpg
「ハート・ブレイク・ホテル」
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2010年02月01日

●エルヴィス・ザ・ペルヴィス(EJ第2202号)

 「ハート・ブレイク・ホテル」の評判は上々だったのです。ま
ず、ポップチャートの第1位、それからカントリーチャートでも
第1位をとっているのです。さらに、リズム・アンド・ブルース
(R&B)の部門でも第5位に入る健闘ぶりです。
 レコード発売はさらに続きます。この「ハート・ブレイク・ホ
テル」に続いて、次の2曲が発売されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       Hound Dog / 「ハウンド・ドッグ」
        Don't Be Cruel/「冷たくしないで」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これも大ヒットするのです。「ハウンド・ドッグ」は2つの部
門で、「冷たくしないで」は3つの部門で第1位に輝いているの
です。ここまでくると、もはやエルヴィスのロックンロールの勢
いを誰も止めることはできない状態になったのです。
 パーカー大佐は、全米ネットワークのテレビにエルヴィスを出
演させるためにテレビ局を飛びまわっており、彼の努力は少しず
つ実りつつあったのです。
 エルヴィスはニューヨークに行き、CBSテレビの「トミー・
ドーシー・ステージ・ショウ」を皮切りに、ABCテレビの「ミ
ルトン・バール・ショウ」などに複数回出演したのです。
 エルヴィスが「ミルトン・バール・ショウ」の2回目のショウ
で、「ハウンド・ドッグ」を歌ったときです。これが良識ある保
守層の人々の怒りに火をつけてしまったのです。そして、彼らは
次のような非難声明を出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスなる者によるロックンロールは、労働者階級特有の
 下品なしぐさをし、黒人文化による過度にセクシーな動作を伴
 うものであり、許し難いことである。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らは各地で一斉にロックンロール排斥運動を起こし、これが
全米に広がったのです。騒ぎは拡大し、ニューヨーク州、マサチ
ューセッツ州、カルフォルニア州においてはロックンロール・コ
ンサート禁止令が出され、多くの放送局がロックンロール放送を
中止し、警察、教会、PTA、婦人団体などまで出動して、エル
ヴィスを名指しで非難する事態になったのです。
 ある新聞は、次の見出しを付けて、エルヴィスを非難したので
す。どういう意味かわかりますか。
―――――――――――――――――――――――――――――
       エルヴィス・ザ・ペルヴィス
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ペルヴィス」というのは、骨盤のことであり、現在ではそう
いうダイエット・エクササイズもあります。つまり、この新聞の
見出しは、エルヴィスの腰を揺らして歌うスタイルを批判してい
るのです。
 実はこういうときにこそ、パーカー大佐は役に立ったのです。
エルヴィス一人であればおそらくすくみあがってしまったであろ
う事態も大佐の指示通りにやることによって、うまく乗り切るこ
とができたのです。
 エルヴィスがフロリダ州でコンサートをやったときの話です。
コンサートが始まる前から大勢の警官が会場に張り込んで、エル
ヴィスが例のスタイルで歌ったら逮捕する構えでいたところ、大
佐の指示でプログラムをゴスペル調のバラード中心に変更し、指
一本しか動かさなかったので、警察は、エルヴィスを逮捕できな
かったということがあったのです。
 海千山千のパーカー大佐が付いていたからこそ、こういう修羅
場を乗り切ることができたのです。収益金の50%という大佐の
のギャラはけっして高くはなかったのです。エルヴィスの両親は
賢明な判断をしたことになります。
 しかし、全員が批判していたわけではなかったのです。黒人は
もとより白人の若者はこぞってエルヴィスを支持したのです。そ
して皮肉なことに、殺到する非難や抗議はエルヴィスを全米の家
庭の茶の間に入り込ませることになり、かえって若者たちを中心
にエルヴィスのファンは急増したのです。
 こういう状況の中において、パーカー大佐は、エルヴィスを何
としても出演させたいテレビ番組があったのです。その番組は、
「トースト・オブ・ザ・タウン」といい、一般的には「エド・サ
リヴァン・ショウ」として知られていたのです。
 このエド・サリヴァンとはどういう人物なのでしょうか。既出
の前田絢子氏の本からご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エド・サリヴァンは、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ち
 で、南部文化に対する知識も理解も持ち合わせていなかった。
 実生活でも、画面の上でも、生真面目でユーモアに欠け、融通
 のきかない堅物だった。まるで、時代の裁判官のような威厳を
 もって、毎週日曜夜8時から1時間、一流スターを紹介しつづ
 けた。         ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エド・サリヴァンのような無骨な人物がどうして人気を勝ち得
たかについては、当時の米国の社会が伝統を重んじ、穏健にして
保守的であったことと無関係ではないと思います。彼のようなけ
っして羽目を外さない堅実さが、社会道徳の守護神として米国社
会に受けていたのです。
 エルヴィスが登場してきた1950年代の半ばにおいて、エド
・サリヴァンの人気は絶頂にあり、エルヴィスについて次のよう
にいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あのような下品な動作をする子供は私の番組には絶対に登場さ
 せない。              ――エド・サリヴァン
―――――――――――――    ―― [エルヴィス/14]


≪画像および関連情報≫
 ・エド・サリヴァン・ショウとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  エド・サリヴァン・ショウは、エド・サリヴァンがホスト役
  を務める、米国CBSで放映された、バラエティー番組。放
  映期間は、1948年6月20日〜1971年6月6日、当
  時の放送時間は日曜日:午後8時(現地)から。番組発足当
  時のタイトルは、'Toast Of The Town' (トースト・オブ・
  ザ・タウン、直訳すると「町の人気者」である。番組内容は
  ゲストとのトークと、その芸の披露とが主となっていて、出
  演したゲストは、コメディアン、バレエダンサー、曲芸師、
  クラシック音楽家、オペラ、ポピュラー音楽のシンガーなど
  である。              ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

エド・サリヴァン.jpg
エド・サリヴァン
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2010年02月02日

●エド・サリヴァンの敗北宣言(EJ第2203号)

 「ミルトン・バール・ショウ」の出演で、“良識ある”中産階
級保守層にブーイングを浴びたエルヴィスは、次は「スティーヴ
・アレン・ショウ」に出演することが決まっていたのです。
 道徳の擁護者たちは、アレンに対してエルヴィスの出演をキャ
ンセルせよと迫ったのですが、アレンは承知しなかったのです。
彼は当時米国で最もホットな出し物――エルヴィスを自分のショ
ウに組み入れ、エド・サリヴァン・ショウの視聴率を抜くことを
計算していたからです。
 しかし、エルヴィスをビッグ・スターとして自分の番組で紹介
すると、若者には受けるものの、“良識ある”中産階級保守層の
反発を買うことを恐れて、ひとひねりしたのです。
 ボビー・アン・メイソンは、アレンのひとひねりを次のように
表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アレンはエルヴィスを冴えないユーモアの標的にした。エルヴ
 ィスはタキシードを着て、バセット・ハウンド(短脚の猟犬)
 に向かって、「ハウンド・ドッグ」を歌わなければならなかっ
 た。田舎者が洗練を装うという撞着語法的ジョークだ。犬の方
 もタキシードを装っていた。エルヴィスはこだわらず、とりあ
 えず、協力したが、その効果はばかばかしく滑稽だった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、スティーヴ・アレンは、エルヴィスを愚かな田舎者の
プレズリー(プレスリーをわざと間違えて発音)に仕立て上げ、
彼のイメージ・チェンジを図って、批判をかわすというお粗末き
わまる演出をしたのです。
 この「田舎者」――ヒリビリーという言葉をエルヴィスは嫌っ
ていたのです。後に彼はこのときのことを非常に屈辱的な自分を
売った体験であると述べています。
 しかし、このようなばかばかしい演出をしたにもかかわらず、
エルヴィスを出演させたことで、スティーブ・アレン・ショウは
視聴率競争においてエド・サリヴァン・ショウを抜いてはじめて
トップになったのです。
 さすがのエド・サリヴァンもこの事態に愕然とし、「あんな下
品な動作をする子供は自分の番組には絶対に出演させない」とい
う前言を撤回して、パーカー大佐と連絡を取ったのです。そして
交渉の結果、3回の出演で5万ドルという当時としては超破格の
ギャラで、エルヴィスの出演が決まったのです。
 それでもサリヴァンは、エルヴィスの腰から下は撮影しないこ
とを徹底させるなど、辛うじて自分のメンツを保とうとしたので
すが、逆にそうしたことによって、カメラはエルヴィスの若々し
い顔の表情の動きをとらえることになり、それがさらなる人気の
上昇につながったのです。その結果、第1回目の視聴率は空前の
82.6%を記録したのです。
 しかし、サリヴァンはスティーヴ・アレンと違い、エルヴィス
をきちんとビッグ・スターとして扱ったのです。そうしたところ
彼がなかなかの好青年であることに気が付いたのです。見かけの
印象とは大きく異なっていると感じたのです。
 そして、1957年1月6日の第3回目の出演のとき――この
ときエルヴィスはゴスペルの「谷間の静けさ」を歌っているので
すが――サリヴァンは彼一流の敗北宣言をしているのです。第3
回目の出演の終わりにサリヴァンはエルヴィスに手を差し伸べて
次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス・プレスリーとアメリカ国民のみなさん、エルヴィ
 スは実に謙虚で立派な青年です。ビッグ・スターに接してこれ
 ほど気持ちの良い経験をしたことはありません。エルヴィス、
 君は、まったく申し分のない若者だ。 ――エド・サリヴァン
―――――――――――――――――――――――――――――
 既出の前田絢子氏は、サリヴァンがエルヴィスに対してこのよ
うにいったということは「市場経済の論理に敗れた男の負け惜し
みに過ぎない」と斬り捨て、このエルヴィスとサリヴァンとの一
連のやりとりについて、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスとエド・サリヴァンとの対決と和解は、いわばアメ
 リカの南部地方文化とアメリカ主流文化との関係を象徴するも
 のだった。       ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでわれわれは、なぜ南北戦争が起こったのか、なぜ同じ国
民同士で戦わなければならなかったのかについて改めて考えてみ
る必要があります。なぜなら、そうすれば、エルヴィスの音楽が
米国の文化をいかに変貌させたかがわかるからです。
 もともと米国の南部地方は「米国の中の外国」といわれている
のです。それは歴史的・文化的特殊性のためにそのようにいわれ
るのです。
 英国の植民地が最初に建設されたのは南部が先であり、こちら
は奴隷制を中心とする農業が、少し遅れて殖民が始まった北部で
は商工業が中心に発展したのです。このようにして、まったく異
なるプロセスを経て発展した南部と北部はやがてぶつかり、武力
衝突をするのです。これが南北戦争ですが、これについては文化
との関連において、いちどEJのテーマとして、取り上げてみた
いと思います。
 しかし、ジャズやゴスペルなどの黒人音楽、カントリー・ミュ
ージックにロックンロール、それにコーラやフライド・チキンな
ど、われわれが米国の文化であると考えているものは、すべて南
部の文化なのです。そうした中で、南部で育ったエルヴィスの音
楽は、渋々ながらではあるが、米国社会の中央に招き入れられ、
米国主流文化に影響を与えたのです。――[エルヴィス/15]


≪画像および関連情報≫
 ・「ハウンド・ドッグ」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  おまえはただのハウンド・ドッグ
  いつもうるさく吠えたてるだけ
  おまえはただのハウンド・ドッグ
  いつもうるさく吠えたてるだけ
  兎の一匹も捕まえられない奴なんか
  おれの友達じゃない
  おまえが上流だってみんなはいうが
  そんなことは嘘っぱち
  おまえが上流だってみんなはいうが
  そんなことは嘘っぱち
  兎の一匹も捕まえられない奴なんか
  おれの友達じゃない
  http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_10.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ハウンド・ドッグ.jpg
ハウンド・ドッグ
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2010年02月03日

●白人と黒人の壁を破るエルヴィス(EJ第2204号)

 エルヴィス・プレスリーというと、多くの人はロックンロール
によって米国で若者革命を巻き起こした音楽文化の革命児――こ
の程度の印象しかないのではないでしょうか。
 エルヴィスに関して次のような解釈があり、それが一定の評価
を受けていることを前田絢子氏は紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かにプレスリーは革命的なことをやってのけたかも知れない
 が、それは偶然の産物に過ぎない。たまたま生まれ合わせた時
 代と場所と、ずば抜けた才能が重なった結果なのだ。彼の音楽
 は黒人文化と白人文化を融合し、主流文化を決定的に変える流
 れを、従来とはまったく異なる形で象徴していたが、プレスリ
 ー本人はそのような現象には少しも関心を持っていなかった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このエルヴィスに関する考え方が冒頭のエルヴィスのイメージ
を形成していることは明らかです。確かにエルヴィスは社会活動
家として行動を起こしていないし、政治意識をもって動いてはい
ないのです。かといって単なる歌手ではないのです。
 しかし、彼は黒人を対等の人間として受容する勇気を持って行
動していたのです。これは当時とくに南部社会ではなかなかでき
ることではなかったのです。なぜなら、白人が黒人と付き合うこ
となど考えられなかったし、白人が黒人にちょっとでも好意を示
しただけでも「ニガー・ラヴァー」というレッテルが貼られ、ひ
どい嫌がらせが行われたからです。
 そんなエルヴィスを象徴するある事件があります。
 1956年12月7日、メンフィスの黒人ラジオ局WDIA主
催の「グッドウィル・レビュー」の会場――エディス・オーディ
トリアムにエルヴィスは単身姿をあらわしたのです。この「グッ
ドウィル・レビュー」というのは、貧しい黒人の子どもたちのた
めに毎年開かれるチャリティ・ショウで、当日は9000人を超
える黒人が会場を埋め尽くしていたのです。このチャリティ・シ
ョウには、B・Bキングやレイ・チャールズといった黒人の大物
スターが協賛出演していたのです。
 当時エルヴィスは既に有名スターになっており、そういう会場
に、たった一人で出かけて行くのは異常なことだったのです。し
かも、9000人の黒人が詰めかける会場に、たった一人の白人
として姿をあらわしたのです。
 エルヴィスはステージの袖から見ていましたが、番組プロデュ
ーサーが発見して、彼を舞台に引っ張り上げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 レディース・アンド・ジェントルマン、エルヴィス・プレス
 リーです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 司会者がこういった瞬間、会場からは歓声が起こり、観客全員
が一斉に座席から立ち上がり、エルヴィスめがけて殺到し、会場
は大混乱に陥ったのです。そのあまりの熱狂ぶりにコンサートは
継続不能になり、エルヴィスを会場の外に連れ出すのが、やっと
だったというほどでした。その時点でエルヴィスの人気はそれほ
どまで黒人層に浸透していたのです。
 エルヴィスと親交があったとされるB・B・キングは、米国の
R&Bギタリストで、当時メンフィスを中心に活躍していたので
す。このキングらの話によると、エルヴィスは尊敬する黒人には
敬語を使い、若い黒人音楽家とは平気で肩を組み、普通の人間と
して付き合ったといいます。
 そして、つねづね黒人音楽に対しては次のようにいっていたと
いうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 リズム&ブルースやゴスペルの黒人パフォーマーは、心の底か
 ら魂の歌を絶唱します。彼らにはとうてい、かないません。
                ――前田絢子氏の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、黒人たちはエルヴィスの歌い方を見て、エルヴィスが彼
らの人生を肯定したと感じたといいます。これは黒人たちにとっ
てどんなにうれしかったことか想像に余りあるのです。エルヴィ
スは自分の歌い方について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 黒人の人たちは、僕よりずっと長い間、今僕がやっているよう
 に歌ったり、演奏したりしてきたのです。飲み屋でも、 ジュ
 ーク・ジョイントでも、あんなふうに演奏してきたのに、僕が
 始めるまで、誰も気がつかなかっただけ。僕のは彼らから、も
 らったのです。 ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年代というのは、米国のあちらこちらで、昔から存在
していた年長者や経験者を大事に扱う序列や、肌の色による人種
差別、その上に成り立っていた階級といったものが、内部崩壊を
起こしていたのです。
 黒人は劣っているという間違った認識で差別していても、黒人
たちは、豊かで奥行きが深く、躍動的で美しく、それまでの白人
たちのものとは明らかに異なる独自の文化を持っていること、そ
れらはけっして白人のそれに劣っているのではなく、別の価値観
を持つ存在であること――そういう考え方が50年代に入って、
大きな波になって動き始めていたのです。
 エルヴィスはそういう変化を敏感に感じ取ったのです。だから
こそ、自分が黒人歌を歌うことによって人種差別の障壁をあっさ
りと乗り越えてみせたのです。白人が黒人の曲を歌ってはいけな
い理由はないですし、それを聴いてはいけない理由もない。だか
ら、そういうエルヴィスの行動を誰も止めることはできなかった
のです。            ―――[エルヴィス/16]


≪画像および関連情報≫
 ・B・B・キングについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  世界一タキシードが似合うブルース・マン、B・B・キング
  ――よれよれのジーンズをはいた泥臭いブルース・マンのイ
  メージとは正反対とも言えるこの表現には、いろいろな意味
  が込められています。彼は奴隷制度の記憶が残るデルタ地帯
  で生まれ育ったブルース・マン最後の世代であると同時に、
  デルタ・ブルースとエレクトリック・ブルースをつなぎ、ブ
  ルースをポップスの一ジャンルに広めたアーティストです。
  そして、彼はブルース・アーティストとして初めてラスベガ
  スやテレビなど、ショー・ビジネスの世界に進出しました。
  それだけではなく、彼はブルース親善大使としてロシアやア
  フリカなど世界中を訪れて、ブルースを世界中に広める役割
  も果たしました。だからこそ、タキシードが最も似合うブル
  ース・マンなのです。
        http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/b-b-king.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィスとB・B・キング.jpg
エルヴィスとB・B・キング
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2010年02月04日

●エルヴィスの映画出演がはじまる(EJ第2205号)

 1956年4月2日のことです。エルヴィスはパラマウント映
画と契約を結んだのです。その契約は実に7年の長期契約だった
のです。なぜそんなに長い契約を結んだのかというと、パーカー
大佐はその時点でエルヴィスを数年で消え去るアイドル歌手の一
人に過ぎないと考えていたからです。
 しかし、エルヴィスは映画には強い思い入れがあったので、長
期間、映画漬けになることそれ自体はそれほど抵抗はなかったの
です。エルヴィスは、同時代の映画スターであるジェイムズ・デ
ィーンのファンであり、映画には興味があったのです。映画はそ
の当時最大の娯楽であったのです。
 ところで、ジェイムズ・ディーンについて、あなたはどのくら
いご存知でしょうか。
 ジェイムズ・ディーンは1931年生まれであり、エルヴィス
よりも年上に当たります。高校時代から演劇に興味を持ち、カル
フォルニア州立大学の演劇科で学んでいます。しかし、俳優とし
ての成功を夢見て大学を中退し、ニューヨークに出て、アクター
ズ・スタジオに入門するのです。
 このアクターズ・スタジオの創設者の一人が、あの有名なエリ
ア・カザン監督なのです。ジェイムズ・ディーンは、運よくカザ
ン監督の目に止まり、映画『エデンの東』の主演に抜擢されるの
です。その後、次の作品にも抜擢されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    『理由なき反抗』/主 役 ・・・ 1955年
    『ジャイアンツ』/順主役 ・・・ 1956年
―――――――――――――――――――――――――――――
 映画『エデンの東』でディーンは、主人公のキャル・トラスク
とその境遇が若干似ているところから、その思いを自然にぶつけ
た結果、なかなかの名演技となり、アカデミー賞の最優秀主演男
優賞にノミネートされたのです。
 次の映画『理由なき反抗』でも、ディーンは中産階級の凡庸な
父親と支配的な母親とを持つ、疎外され傷つく17歳の孤独な若
者を演じて評判になります。ディーンは当時の反逆的な若者の代
表格だったのです。
 1950年代の半ばになると、米国の若者は変わり始めたので
す。両親の世代と価値観に大きなずれが生じて、親の無理解と無
神経さに苛立つ若者が増えていったのです。ディーンはそういう
若者を見事に演じて若者たちの共感を呼んだのです。
 エルヴィスにとってこのジェイムズ・ディーンは、憧れの存在
だったのです。エルヴィスはとくに『理由なき反抗』が気に入っ
ていて、ディーンのセリフをすべて覚えていて、ハリウッドの映
画関係者を驚かせたのです。
 しかし、1955年9月30日、カルフォルニア州サリーナス
での自動車レースに参加するため愛車のポルシェを猛スピードで
飛ばして事故を起こし、死亡してしまうのです。
 1956年の8月22日、エルヴィスはハリウッド入りをする
のですが、翌日から最初の映画『やさしく愛して』の撮影に入り
10月8日に終了しています。これは、映画の撮影としては非常
に短い期間でしかないのです。まして主役のエルヴィスの最初の
映画であるにもかかわらずです。
 この映画は興行的には大ヒットしたのですが、映画は散々の出
来であったのです。しかし、パーカー大佐はエルヴィスの映画俳
優としての可能性には興味はなかったようで、ただ金儲けにだけ
こだわったのです。
 エルヴィスは立て続けに4本の映画を撮ったのです。1年半あ
まりの間にそれらは制作されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.『やさしく愛して』 ・・・・・ 1956公開
  2.『さまよう青春』  ・・・・・ 1957公開
  3.『監獄ロック』   ・・・・・ 1958公開
  4.『闇に響く声』   ・・・・・ 1958公開
―――――――――――――――――――――――――――――
 1957年12月に、エルヴィスはメンフィスの徴兵委員会か
らアメリカ合衆国政府の徴兵令状を受け取ったのです。そのとき
エルヴィスは『闇に響く声』を撮影中であったので、完成までの
2ヶ月の猶予を申し出て認められています。
 実は『闇に響く声』の台本は、ジェイムズ・ディーンに書かれ
た作品であり、ディーンの急死によってエルヴィスにまわってき
たのです。これについてエルヴィスは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この映画は、僕にとって大きな挑戦でした。というのも、これ
 は僕よりもずっと経験を積んだ俳優のために書かれた作品だっ
 たからです。      ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この作品の原作はハロルド・ロビンズの小説『ア・ストーン・
フォー・ダニー・フィッシャー』であり、主人公はボクサーだっ
たのですが、エルヴィスがやることになって、急遽歌手に書き換
えられ、舞台もニューヨークから、南部のニューオーリンズに変
更されているのです。
 エルヴィス自身は映画では歌を歌わず、演技で勝負したいと考
えていたのですが、映画の製作者は最初からエルヴィスの歌で売
る計画であったので、歌いっぱいの映画になったのです。
 しかし、『やさしく愛して』では「ラヴ・ミー・テンダー」、
『さまよう青春』では「ラヴィング・ユー」、『監獄ロック』で
は「ハウンド・ドッグ」、『闇に響く声』では「トラブル」とい
うように、エルヴィスのキャリア全体の中でも、最高の音楽が並
んだので、興行的には大成功だったのです。
 1958年3月10日に『闇に響く声』の撮影が終わると、エ
ルヴィスはメンフィスに戻り、一連の手続きを終えて3月24日
に陸軍に入隊したのです。    ―――[エルヴィス/17]


≪画像および関連情報≫
 ・デニス・ストック写真展/ジェイムズ・ディーン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今から50年前の1955年始め、フォトジャーナリストと
  してある程度成功していた写真家デニス・ストックは、出世
  作『エデンの東』に主演したばかりのジェイムズ・ディーン
  と出会い、すぐに意気投合しました。ジミーの魅力に魅せら
  れたデニスは、故郷のインディアナ州フェアマウント、ニュ
  ーヨークなどでジミーの様々な姿を写真に残します。ジミー
  は24歳の若さで亡くなってしまいましたが、演じることで
  若者の感情を代弁してきた永遠のヒーローは、いつの時代で
  も人々魅了し続けています。
  http://www.magnumphotos.co.jp/ws_exhibition/stdjd.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジェイムズ・ディーン.jpg
ジェイムズ・ディーン
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2010年02月05日

●エルヴィスを徴兵した米政府のの思惑(EJ第2206号)

 エルヴィスのような芸能人が兵役に就くさいには、いくつかの
特例が認められています。一定の免除金を支払えば徴兵を逃れる
ことも可能なのです。
 実際にエルヴィスは、海軍からは徴兵前に志願すれば特別に扱
うという申し出を受けていましたし、陸軍からは入隊後にエンタ
ーティナーとして特別部隊に参加したらどうかという誘いも受け
ていたのですが、エルヴィスはすべてを断って、単に2ヶ月の入
隊延期願いを出しただけだったのです。
 エルヴィスが軍隊での特別待遇を受け入れなかったのには諸説
があります。ひとつは、エルヴィスが国家権力に楯つくにはあく
まりにも謙虚な南部の労働者階級出身の青年であり、国民の義務
として通常の兵役に就きたいと考えて、軍隊での特別待遇は拒否
したという説です。
 もうひとつは、パーカー大佐の思惑によってあえて特別待遇を
拒否させたという説です。エルヴィスのファンの中心は若者であ
り、その若者の代表格のエルヴィスが一切の特別待遇のない通常
の兵役に就く方が愛国者としてファンのイメージとしては良くな
ると軍隊から復帰後のことまで考えて、大佐がエルヴィスに勧め
たのではないかという説です。
 そもそもその当時ペンタゴンは、なぜエルヴィスを必要として
いたのでしょうか。
 195O年代の末期において米国は冷戦の真っ只中にあり、軍
備拡張に熱心だったので、戦時体制に準ずる選抜徴兵制が敷かれ
ていたのです。したがって、米国人であれば誰でも徴兵される可
能性があったのです。
 しかし、それにしても米国政府は、なぜこの時期にエルヴィス
を徴兵したのでしょうか。
 エルヴィスのように未経験で、体力的にも、精神的にも兵士向
きではない人間を一兵卒として働かせるよりも、国内に残して広
報や慰問に使った方が国としてメリットがあるはずです。
 第2次世界大戦においても、米国政府は、有名映画スターやス
ポーツ選手を徴兵せず、彼らの日常活動を通じて戦時国債販売の
キャンペーンに使ったりしてきているのです。
 しかし、米軍司令部の勧めを断り、どうしても最前線に行きた
いと自ら申し出て、航空カメラマンとして何度も決死のドイツ爆
撃行に加わった映画俳優クラーク・ゲーブル――映画『風と共に
去りぬ』で主役――のようなケースもあります。
 もっともクラーク・ゲーブルの場合は、最愛の妻キャロル・ロ
ムバードを飛行機事故で亡くしたばかりであり、自殺願望もあっ
たのではないかといわれているのです。
 それでは、なぜエルヴィスに徴兵令が出されたのかですが、次
の2つの理由があったものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.今が準戦時体制であることを知らしめる
    2.反体制ムードの上昇にブレーキをかける
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の理由は、「今が準戦時体制であることを知らしめる」と
いうことです。
 エルヴィスは、徴兵令の出された1957年12月当時、人気
急上昇の歌手であり、超有名人だったのです。したがって、エル
ヴィスを徴兵すると、あのエルヴィスでも徴兵されたんだからと
いうわけで、かなりの募集宣伝になるのです。そのためにあえて
エルヴィスを徴兵したのではないかと思われます。
 第2の理由は、「反体制ムードの上昇にブレーキをかける」と
いうことです。
 エルヴィス自身はそのような気はなかったのですが、エルヴィ
スは「反体制の旗手」と世間からは見られています。そのムード
を沈静化させ、懲らしめ、内部に取り組んでしまおうという考え
方がペンタゴンにあったのではないかと考えられます。
 1950年後半のエルヴィスの印象について、既出の東理夫氏
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスの最初からの印象は、いつも世を拗ね、屈折したも
 のを胸に秘め、鬱積したはけ口をギラギラした目で探している
 ような若き日のトニー・カーティスやマーロン・ブランド、そ
 れにジェイムズ・ディーンに近かった。エルヴィスの内心はと
 もかく、外面上、唯々諾々とペンタゴンの言いなりに従った印
 象から、彼の持っていた反抗の姿勢、反逆児のイメージに裏切
 られたと感じた若者たちがいたことは確かだった。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 米政府が何らかの意図があってエルヴィスを徴兵したかどうか
はあくまで推測の域を出ませんが、少なくとも政府としてはエル
ヴィスが相当気になる存在であったことは確かだったのです。
 しかし、当のエルヴィスは有名芸能人のための一切の特別扱い
を拒否して、通常のかたちでの兵役を受け入れたのです。これに
よって彼の持っていた反逆の姿勢、反逆児のイメージを買ってい
たファンが離れたことは確かであり、そういう意味でエルヴィス
を徴兵したことはペンタゴンとして成功であったといえます。
 このように兵役は芸能人にとって最大の危機なのです。それは
兵役をどう受入れるかによってその後の人気が大きく左右される
からです。しかし、エルヴィスにはパーカー大佐という有能なマ
ネージャーがついており、そのあたりの対応は、万全であったと
いえます。
 パーカー大佐はエルヴィスが不在でもそのキャリアを維持する
ために、既に録音済みのシングルろレコードを時折リリースし、
彼の帰還を望む声が高まるよう、巧みにタイミングを計って手を
打っていたのです。そのために、入隊前に取った4本の映画も大
きな働きをしたのです。     ―――[エルヴィス/18]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスの兵役
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1957年12月に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通
  知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており
  陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けること
  なく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月
  5日に満期除隊した。彼は軍在籍中に空手の黒帯を取得し、
  軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に
  響く声」を製作中で、それによって徴兵を少し延期したこと
  でも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し
  入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝
  えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れ
  を行ったという。          ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

軍服姿のエルヴィス.jpg
軍服姿のエルヴィス
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2010年02月08日

●最愛の母グラディスの死(EJ第2207号)

 1958年3月24日、午前6時35分――エルヴィスは陸軍
に入隊します。入隊すると、アーカンソー州フォート・チャフィ
の新兵訓練所に入るのですが、入隊の日、両親のヴァーノンとグ
ラディスはエルヴィスを徴兵センターまで見送っています。しか
し、その頃、母のグラディスの体調はよくなかったのです。
 そのとき、エルヴィス一家は、グレイスランドに立派な家を構
えていたのですが、米国の軍隊は、扶養家族がいる場合、基地の
近くに家を借りて家族と一緒に暮らすことができたのです。そう
いうわけで、基礎訓練が終わって、テキサス州フォート・ウッド
の基地に落ち着いたエルヴィスは、両親と一緒に住める3つの寝
室が付いたトレーラーハウスを見つけて、しばらくそこで一緒に
暮らしていたのです。
 エルヴィスが成功してエルヴィスの一家はお金に不自由するこ
とがなくなったのです。不自由どころかお金はひっきりなしに銀
行の口座に振り込まれ、使い切れないほどだったのです。
 エルヴィス一家は、メンフィスの郊外のグレイスランドに立派
な家を建て、当時ステータスのシンボルといわれたキャデラック
を何台も持つようになったのに、エルヴィスの両親であるヴァー
ノンとグラディスはけっして幸福ではなかったのです。
 とくに母親のグラディスは、あまりにも変化した生活にまった
くついて行くことはできなかったのです。既出のボビー・アン・
メイソンは、母のグラディスについて次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディスは貧乏だった頃に戻りたいと何度も言った。新しい
 贅沢は、エルヴィスがいないことや、夢中になったファンや怒
 りに駆られた両親たちや、凶悪なハリウッドの人種など、エル
 ヴィスを脅かしているとしか思えない危険の埋め合わせにはな
 らなかった。彼女はひたすらエルヴィスのことを思い、心配し
 た。酒を飲んで、体重が増えた。ひどく神経過敏になった。し
 かも慢性の肝炎だった。気分がすぐれなくても、適切な医療を
 受けようとはしなかった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディスがもうひとつ嫌ったのは、マネージャーのパーカー
大佐が、大スターエルヴィス・プレスリーの母親を良いイメージ
で演出しようとして、出かけるときに彼女の服装にまでいちいち
口を出してくることだったのです。
 母親が息子に執着するのは当然のことですが、グラディスのエ
ルヴィスに対する思い入れは尋常なものではなかったのです。小
さいときからいつも一緒であり、まるで母ひとり子ひとりの家庭
のようだったのです。逆にいうと、父のヴァーノンはエルヴィス
にとって遠い存在であったといえます。
 それはエルヴィスの双子の兄弟となるはずだった子――ジェシ
ー・ギャロン・プレスリーを死産で失っていることに原因があっ
たのです。グラディスはそのトラウマによって、非常に神経質な
性格になったといいます。
 この思いはエルヴィスにとっても同様であり、グラディスはエ
ルヴィスにいつも死んだ兄、ジェシー・ギャロンについて話して
聞かせたので、エルヴィスとしては自分が二人分の息子の役割を
務めなければならないといつも感じていたのです。
 グラディスはしっかりした女性でしたが、奔放な一面も持って
いたのです。彼女は「バック・ダンス」の名手だったのです。こ
のダンスは「牡鹿の求愛のダンス」といわれ、ジャズのジルバと
タップダンスに似た「グロッグ」というカントリーダンスを混ぜ
たような挑発的なソロダンスなのですが、グラディスはこのダン
スを得意としたのです。エルヴィスの激しいステージ動作はこれ
が受け継がれたものと思われます。
 グラディスについてふれたので、父親のヴァーノンについても
述べておくことにします。ヴァーノンについて、既出の東理夫氏
は、著書で次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディス・ラヴ・スミスに比べると、ヴァーノン・エルヴィ
 ス・プレスリーはずっと薄っぺらな人間に見える。その一生を
 一言でいえば、結局は「行き当りばったり」の人生というしか
 ない。彼はただ毎日が安直に流れ去っていくにまかせる、その
 場しのぎの生き方しかできなかった。いつも人の尻に乗り、子
 分のようについていったため損をするというタイプだった。夫
 としても不甲斐なく、父親としても頼りなかった。むしろ家族
 や家庭というものから、一歩退いた姿勢でいようとしていた節
 がある。そのような生きることに対する積極的な姿勢の欠如と
 いった性格的欠陥は、その子エルヴィス・アーロン・プレスリ
 ーの心に大きな影響を与えることになる。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにエルヴィスの人生に大きな影響を与えた母グラディ
スは、1958年8月14日に心臓麻痺で亡くなってしまうので
す。エルヴィスが入隊して4ヶ月後のことです。
 エルヴィスは母の遺体にすがりつきながら、声を上げて泣き続
け、誰もそれを止めることはできなかったといいます。こうして
エルヴィスは最大の理解者である母を失ったのです。そのとき悲
嘆にくれるエルヴィスに夜を徹して付き添い、励ましたのは、あ
のサム・フィリップスだったのです。
 誕生のとき、双子の兄を失ったことがエルヴィスの子供時代の
基調を決めたとするならば、最愛の母親を失ったことによって何
かが壊れ、それが彼の残りの人生の基調を決めたということがい
えると思います。エルヴィスの専門家は、グラディスの死後、エ
ルヴィスは、まるで道徳のコンパスを失ったようであると述べて
いるのです。          ―――[エルヴィス/19]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『グレイスランド』というのがある
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「エルヴィスは生きている!」というニュースは、今も時折
  アメリカのタブロイド紙をにぎわせている。この映画は、そ
  んなエルヴィス伝説をそのままモチーフにした作品。エルヴ
  ィスが生きているとしたら、彼は20年間なぜ姿を消してい
  たのだろうか。20年もの長い間、何をして暮らしていたの
  だろうか……。タイトルの『グレイスランド』とは、エルヴ
  ィスが最後に暮らしていたメンフィスの自宅のこと。世界中
  のエルヴィス・ファンにとって、グレイスランドはまさに聖
  地。この映画では、劇映画としては初めて屋敷内にカメラが
  入っている。
      http://www.eiga-kawaraban.com/99/99080201.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィス一家.jpg
エルヴィス一家
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2010年02月09日

●音楽映画/サウンドトラック商法(EJ第2208号)

 母グラディスの死のあと、エルヴィスはドイツのフランクフル
トに赴任します。そして2年間の兵役を終えて、1960年3月
3日、エルヴィスは79名の仲間と共に、ニュージャージー州マ
クガイア空軍基地に帰ってきたのです。
 到着が早朝であることに加えて、当日は朝から猛吹雪であった
にもかかわらず、基地には大勢の記者やファンが詰めかけていた
のです。その歓迎ぶりは、内心、自分のキャリアは続かないので
はないかと思っていたエルヴィスの不安を完全に吹き飛ばすもの
でした。
 エルヴィスは、2年間の兵役を境にして完全に別のエルヴィス
になっていたのです。それは、次の3つが理由として考えられる
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.体制反逆児的イメージが消滅したこと
     2.母の束縛が解かれ、自らの意思で行動
     3.本格的アーチストを目指す目標を持つ
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1に、エルヴィスが素直に兵役――それも特別待遇なしの兵
役に従事したことによって、かつてのエルヴィスが持っていた体
制反逆児的アイドル的イメージが消滅したことです。
 もともとエルヴィスの評価は二極化していたのですが、反逆児
的イメージが消滅したことによって離れていったファンと変貌し
たイメージを歓迎するファンが入れ替わって、かえって安定的な
ファンが増えたのです。
 第2に、それまで精神的に大きく依存してきた母がいなくなり
自分の意思で行動するようになり、すっかり大人の顔になったこ
とです。エルヴィスは当時まだ25歳に過ぎなかったのですが、
軍隊の経験を経てたくましい大人に変貌したのです。
 第3に、エルヴィス自身が本格的なアーチストを目指そうとい
う気になったことです。永続的な歌手として生き残るにはどうす
べきか、本格的な俳優になるのはどうすべきかについて真剣に考
えるようになったことです。もし、エルヴィスにそういう気持ち
にならなかったら「かつて一世を風靡したロックンロール歌手」
としてキャリアを終えていたと思われます。
 除隊後のエルヴィスの最初の仕事は、フランク・シナトラのテ
レビ・ショウへの出演だったのです。当時人気が低迷していたシ
ナトラのショウは、エルヴィスがたった6分間出演しただけで、
今までの最高の視聴率を記録したのです。その6分間の出演で、
テレビ局がエルヴィス側に支払ったギャラは12万5000ドル
という法外なものでした。しかし、これによってエルヴィスの評
価は確定したといえます。
 これに自信をつけたエルヴィスは、レコーディングに意欲を燃
やし、RCAスタジオで数回にわたるレコーディング・セッショ
ンに取り組んだのですが、そこに集まったメンバーは入隊前とほ
とんど同じ顔ぶれが集まったのです。これはマネージャーのパー
カー大佐の努力によるものだったのです。
 この一連のレコーディング・セッションで誕生した曲は次の3
曲であり、たてつづけにビルボードのヒットチャートを襲撃し、
連続第1位を獲得したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「本命はお前だ/Stuck On You」
  「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー/It's Now Or Never」
  「今夜はひとりかい?/Are You Lonesome Tonight ?」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの曲は、エルヴィスの初期の作品に比べると、野性的な
パワーに欠けますが、その代わり完璧ともいえる絶妙な技巧と歌
唱力が加わっていたのです。伸びやかで独特の艶のあるビブラー
トのかかったエルヴィスのバラードがその後全米の音楽界を征服
することになるのです。
 とくに「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」は、エンリコ・カル
ーソーのスタンダード・ナンバーで、グラディスがかつて蓄音機
でエルヴィスに聴かせた「オー・ソレ・ミオ」のエルヴィスによ
るアレンジなのです。
 この「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」は、単なるカルーソー
のカヴァーではなく、完全にエルヴィスの歌そのものになってい
るのです。つまり、「オー・ソレ・ミオ」ではなく、名実ともに
「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」なのです。これは、彼の音楽
的感性の豊かさを証明するものであり、ぜひ聴いていただきたい
と思います。チャチャチャのリズムに乗った楽しい曲です。
 こうした歌のレコードがヒットする中で、パーカー大佐は新し
い金儲けの方法を考え出したのです。それはエルヴィスの人気を
利用して彼を多くの映画に出演させ、そのサウンドトラック盤を
製作して売るという方法です。
 しかし、エルヴィスは本気で映画俳優を目指し、演技に磨きを
かけたかったのです。そして歌の方はできるだけライブを増やし
て、良い曲を創り出していく――そういう方針で進みたかったの
です。ところが、これはパーカー大佐のプロデュースの考え方と
相容れなかったのです。
 エルヴィスの音楽いっぱいの映画を作り、それを世界的に上演
させる――大佐にとってエルヴィスの演技などどうでもよかった
のです。人気は絶頂にあり、エルヴィスの歌さえ入れば映画は大
ヒットするに決まっているのです。たとえその中に質的に問題の
ある曲が何曲か入っていても、サウンドトラック盤を出せば確実
に売れると考えたのです。
 ライブなんかをやるよりも映画の方が全世界で上演され、それ
に連動してサウンドトラック盤というレコードが売れる――商売
としてはなかなかのアイデアです。
 しかし、結果として、このライブを少なくして、音楽映画を多
産し、サウンドトラック盤を売る商売がエルヴィスの心身を蝕む
ことになるのです。       ―――[エルヴィス/20]


≪画像および関連情報≫
 ・「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  除隊後のメガ・ヒット<本命はお前だ>に続く第2弾シング
  ルとして60年7月にリリース。8月1日から9月18日ま
  で連続5週ヒットチャート・トップになったこの曲は、成長
  著しいパフォーマンスを披露。華麗なる変身をリアルタイム
  で聴いた人には相当な衝撃だったと想像するのは容易だ。す
  でに駐屯中の西ドイツで、レコード化を希望していたエルヴ
  ィスの望みが叶ったものだけに、気合い十分、ニュー・エル
  ヴィスをアピールする野心も十分だっただろう。
    http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_37.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」.jpg
「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」
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2010年02月10日

●映画制作とサントラ録音の日々(EJ第2209号)

 映画の制作に関して、エルヴィスとパーカー大佐の意見は明ら
かに相違していたのです。エルヴィスは、ジェイムズ・ディーン
やマーロン・ブランドのような本格的な映画俳優になりたいと考
えていたのです。したがって、音楽だけを売り物にする映画ばか
りではなく、シリアスな内容の作品にも出演したい――エルヴィ
スはそう考えていたのです。
 しかし、パーカー大佐は、エルヴィスの最大の魅力は音楽であ
り、その音楽がいま大衆から受け入れられている以上、それでと
ことん売るべきである――映画はエルヴィスの音楽を普及させ、
世界中に浸透させる手段であると考えていたのです。
 その頃制作された映画に次の4本があるのです。これらは、エ
ルヴィスが求めるシリアスな作品と音楽を売り物にする音楽映画
に分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ≪シリアスな作品≫
   『燃える平原児』 ・・・・・ 1960.12
   『嵐の季節』・・・・・・・・ 1961.06
  ≪音楽を売り物にする作品≫
   『GIブルース』 ・・・・・ 1960.11
   『ブルー・ハワイ』 ・・・・ 1961.11
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見て驚くのは作品と作品の公開間隔の短かさです。19
60年11月と12月、1961年6月と11月――この調子で
制作していたのでは、ほとんど映画制作に時間をとられてしまう
ことになります。それに加えて、映画のサウンドトラック・アル
バムの制作もあるのです。
 結論からいうと、パーカー大佐の狙い通り、興行的には音楽を
売り物にする映画が圧倒的に好評だったのです。シリアスな内容
の2本の作品では、エルヴィスは好演したものの、興行的には今
ひとつの結果に終わったのです。
 『GIブルース』は復帰後最初の映画だったのですが、記録的
な興行成績を上げ、そのサウンドトラック・アルバムはビルボー
ド・アルバム・チャートでナンバーワンになっています。
 『ブルー・ハワイ』にいたっては、数年来の米国映画の空前の
ヒット作になったのです。その興行成績は1957年の『OK牧
場の決闘』をはるかに凌いだのです。
 この映画のサウンドトラック・アルバムは、ビルボード・アル
バム・チャートの第1位に輝き、その後1年間にわたって、売り
上げチャートの第1位を独占したのです。
 この映画は日本でも空前のヒットになったのですが、それは当
時一般の人々には手の届かなかったハワイ旅行に行った気分にな
れる映画として、人気を呼んだのです。
 ところでこの映画の主題曲『ブルー・ハワイ』という曲の由来
をご存知でしょうか。イントロからしてハワイのムードがダイレ
クトに伝わってくる名曲です。
 実は最初に歌ったのはビング・クロスビーなのです。1937
年の映画『ワイキキの結婚』のタイトルソングとして、レオ・ロ
ビンソンとライフ・レインジャーの2人によって作曲され、映画
の中でビング・クロスビーが歌ったのです。
 その後、クロスビー・バージョンはシングル・カットされ、全
米でヒットしているのです。さらに、1958年から59年にか
けて、ビリー・ボーン・オーケストラでリバイバル・ヒットし、
その後エルヴィスがレコーディングしているのです。
 そのほか、フランク・シナトラ、マントヴァー二・オーケスト
ラ、ベニー・グッドマン、レイ・アンソニー、そして『ハネムー
ン・ベガス』で、ウィリー・ネルソンがカヴァーしています。
 エルヴィスは、1961年3月、ハワイでチャリティ・コンサ
ートを開いています。このライブのあと、エルヴィスは7年間に
わたって聴衆の前に立つことはなかったのです。パーカー大佐の
指示に従い、一年に3本の割合でただひらすら映画とそのサウン
ドトラック・アルバムを作り続けたのです。
 短い期間で映画を制作すれば、どうしても粗製乱造になり、質
に問題が出てくるのは当然の結果です。売り上げ第一主義の二流
以下の映画のシナリオを与えられたこと、映画の画面にしか通用
しないサウンドトラックの歌の数々――それらがエルヴィスの才
能と意欲を押し潰していったのです。
 それでも彼のキャリアは隆盛を極め、人気の頂点に立っていた
のです。その頃のエルヴィスの心境を既出のボビー・アン・メイ
ソンは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼のキャリアは隆盛を極めていたが、さらに奥深いレベルでは
 大佐の操作は不幸をもたらすものだった。エルヴィスはツァー
 をやめ、60年代、スタジオでの大量の時間を質の疑わしいサ
 ウンドトラックのレコーディングに費やした。サウンドトラッ
 クは機械的で事務的な条件で、組合規定に従った休憩時間つき
 で行われた。それはエルヴィスの集中力とインスピレーション
 を粉砕する条件だった。エルヴィスの創造性はやりがいのない
 仕事に苦しみ、彼は自分がますますフラストレーションを感じ
 ていることに気づいた。彼は自分の映画が月並みなのを知って
 いた。またレコーディングするようにと頼まれる歌の多くに気
 恥ずかしい思いをした。しかし彼は映画でも音楽でも、もっと
 ましな演目の申し出があるだろうという希望にすがるしかなか
 った。     ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにして、エルヴィスはキャリアはパーカー大佐に依存
し、個人的な財政管理は父親にすべてまかせ、自分は気晴らしと
満足感を得る役割を自認するようになったのです。お金は使い切
れないほどあったのです。そんなとき、ビートルズがエルヴィス
を訪問してきたのです。     ―――[エルヴィス/21]


≪画像および関連情報≫
 ・添付ファイルの説明
  ―――――――――――――――――――――――――――
  映画『ブルーハワイ』のハワイ・ロケ中にエルヴィスを訪ね
  た雪村いづみ。この頃、エルヴィスは少しおなかの出っ張り
  を気にしていたといいます。
  ―――――――――――――――――――――――――――

雪村いづみとエルヴィス.jpg
雪村いづみとエルヴィス
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2010年02月12日

●エルヴィスがビートルズと会った夜(EJ第2210号)

 ビートルズがエルヴィスを表敬訪問したとき、エルヴィスはハ
リウッドの豪邸に住んでいたのです。この邸宅はエルヴィスがイ
ランの国王から借りたものだったのです。
 エルヴィスがハリウッドで愚にもつかない映画作りとサウンド
トラック・アルバムのレコーディングに明け暮れしていた頃、ビ
ートルズが放送電波を支配し、ビートルズを中心にロックンロー
ルのエネルギーは爆発しつつあったのです。
 ビートルズは、1964年に初めて「エド・サリヴァン・ショ
ウ」に出演していますが、そのときパーカー大佐は「アメリカ合
衆国にようこそ!」という電報を打っているのです。それは、米
国のロックンロールの世界では、今でもエルヴィス・プレスリー
というキングが活躍しているのだということをビートルズに思い
知らせることを意図していたのです。パーカー大佐とビートルズ
のマネジャーであるブライアン・エプスタインとは、いつも張り
合っていたからです。
 1995年8月のはじめのことです。ビートルズはニューヨー
クのシェイ・スタジアムに6万5000人集めて記録破りのコン
サートを行ったのです。エルヴィスにとって強敵の出現です。し
かし、エルヴィスは映画の仕事に縛られており、対抗したくても
できない状況にあったのです。
 そのビートルズがエルヴィスに会いたいといってきたのです。
エルヴィスは内心ビートルズに脅威を感じていたので、会うのを
避けようとしたのですが、表敬訪問ということもあって会うこと
にしたのです。
 1995年8月27日の午後、ビートルズはハリウッドのエル
ヴィスの邸宅に到着したのです。訪問は厳重に秘匿されたのです
が、到着したときは大勢のファンが集まっていたといいます。
 エルヴィスとビートルズとの出会いについては後日いろいろ語
られていますが、あまり雰囲気の良いものではなかったのが真実
のようです。当日は、若手の音楽家に対しては親しくやさしいエ
ルヴィスがなぜか苛立っており、ビートルズの方もかなり緊張し
てあまり和やかな雰囲気ではなかったようです。
 ビートルズは憧れのエルヴィスを前にして、畏怖のため口がき
けなかったのです。その気詰りな場面を変換しようとしたのか、
エルヴィスはギターを手に取ると、ジューク・ボックスから流れ
てくるチャーリー・リッチの「モヘア・サム」に合わせて軽くギ
ターをかき鳴らしはじめたのです。
 そうすると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが一緒
に演奏に加わってきたのです。歴史的なジャムセッションでした
が、数曲のセッションで終わってしまったといいます。ボビー・
アン・メイソンはその会談について次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 レノンがなぜもうロックンロールのレコードを作らないのかと
 聞いたとき、エルヴィスは苛立った。「サンのレコード好きだ
 ったんですよ」と、レノンは言った。エルヴィスは身構えた。
 すでに緊張していたその夕べはさらに緊迫し、そしてずるずる
 と過ぎていった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうやら、ジョン・レノンの態度はかなり傍若無人であったよ
うで、エルヴィスの神経を逆なでしたのです。無作法にエルヴィ
スを挑発したのです。後日エルヴィスは次のようにビートルズを
批判していますが、このときのレノンの態度が原因であると思わ
れるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ビートルズはアメリカの若者にとって不健全である
             ――エルヴィス・プレスリー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジョン・レノンは、あとで自分がエルヴィスに対して礼を欠い
たことに気がつき、エルヴィスの側近に対してエルヴィスに次の
ように伝えて欲しいと頼んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、エルヴィスがいなかったら、僕らはいなかったでしょ
 う。昨晩は僕の人生で最高の夜でした。
                   ――ジョン・レノン
―――――――――――――――――――――――――――――
 それにしてもエルヴィスはどうしてもっと鷹揚にビートルズに
接することができなかったのでしょうか。それはエルヴィス自身
が自分の置かれていた不幸なポジション――映画制作に縛られて
動けない――に苛立っており、焦っていたからです。
 しかし、エルヴィスがいたからこそビートルズが誕生したので
す。「もし、エルヴィスがいなかったら、僕らはいなかったでし
ょう」というジョン・レノンの言葉に偽りはないのです。
 もし、エルヴィス自身がビートルズの芸術とその強力な音楽の
展開に自分が果たした貢献に誇りを持つことができたら、もっと
ビートルズを丁寧に寛大に扱うことができたはずです。しかし、
そのときのエルヴィスには‘長老’としての役割を演じられなか
ったのです。エルヴィスは初期のビートルズの音楽のいくつかを
気に入っていたのですが、彼らと会って以来、ビートルズには興
味を失ってしまったといいます。
 ところで、1960年代というと、米国がひとつの時代から新
しい時代に突入したことを感じさせる現象が多く起こっていたの
です。エルヴィスは時代の変化に無関心ではなかったのです。
 その1960年代に最初に米国を揺さぶったのは黒人たちの起
こしたある事件だったのです。米国社会は、1954年のブラウ
ン判決後も黒人分離と差別の解消は一向に進まず、黒人たちは、
50年代の米国の経済的繁栄から取り残されていたのです。50
年代の豊かさの裏側にあった矛盾が一挙に表面に露呈し、それが
爆発したのです。        ―――[エルヴィス/22]


≪画像および関連情報≫
 ・ロック史のブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ビートルズはデビューしたての頃は、エルビス・プレスリー
  やチャック・ベリーといった、50年代のロックン・ロール
  からの強い影響が見て取れるバンドであり、熱狂的な支持の
  され方はエルビス・プレスリーに代わるものであった。そん
  なデビュー当時の彼等のトレードマークと言えば、あのマッ
  シュルームカットであり、当時は「男のくせに長髪にして女
  みたいに前髪を垂らしている」と言われ、エルビス・プレス
  リーの時代からあった「ロック=不良」というイメージに、
  新たに「ロック=長髪」というイメージを作り上げた。
        http://history.sakura-maru.com/beatles.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ビートルズとエルヴィス.jpg
ビートルズとエルヴィス
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2010年02月15日

●60年代米国の社会的背景(EJ第2211号)

 エルヴィスが除隊して芸能界に復帰して、縦横無尽に活躍した
1960年代――この年代は50年代の「豊かな社会」に育った
若者たちが引き起こす過激な反社会的風潮というものがあって、
それが米国社会全体に、これまでにない激烈な意識革命を起こし
つつあった時代なのです。そういう社会背景を少し振り返ってみ
たいと思います。
 1960年2月1日に深刻な事件が起こったのです。米国南部
ノースカロライナ州グリーンズポロにあるウールワース百貨店内
のランチ・カウンターに4人の黒人学生があらわれたのです。
 しかし、このスポットは、黒人の立ち入り禁止区域であり、そ
こにいた白人たちは騒然となったのです。4人の黒人学生は平然
と椅子に座って、コーヒーを注文したからです。
 この黒人学生に対する白人客のやったことは、ひどいものだっ
たのです。頭からケチャップをかけたり、背中からジュースを流
し込んだり、悪態をついたり、椅子を蹴飛ばしたり、ひどいこと
をしたのです。しかし、4人の学生は何をされてもじっと我慢し
て椅子に座っていたといいます。
 しかし、それらの黒人学生は翌日もまたやってきて、同じこと
をやったのです。同じように白人客は嫌がらせをやったのですが
今回はテレビがやってきて、その模様を全米に報道したのです。
 黒人学生に加えられるひどい嫌がらせ、何をされてもじっと耐
える学生――これを見て、黒人ばかりか白人の学生まで熱い共感
を巻き起こして、南部以外からもこの運動に参加する黒人学生が
続々と集まってきたのです。そして、多くの黒人禁止区域で同じ
ことをはじめたのです。
 黒人学生たちのはじめた運動とは、黒人禁止区域に立ち入って
次のようなことをやる運動です。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.シット・ イン ・・・ 座り込み/喫茶店など
   2.プレイ・ イン ・・・ 入り込み/公 園など
   3.リード・ イン ・・・ 読み込み/図書館など
   4.スリープ・イン ・・・ 泊り込み/ホテルなど
―――――――――――――――――――――――――――――
 この運動はあっという間に南部全体に広がり、さらにそれは全
米に拡大していったのです。そして1960年の秋になると、米
国のムードは今までとは変わっていったのです。
 そういうさなかの1960年11月に行われた大統領選挙は、
こうした社会風潮をまさに反映する結果を生み出したのです。当
時まだ43歳だった民主党のジョン・F・ケネディが大統領選で
歴史に残る激戦の結果、共和党のニクソンを僅差で破り、第35
代米国大統領になったのです。
 ケネディは、秩序と安定を重視した共和党出身のアイゼンハワ
ー前大統領とはすべての面で対照的な大統領であり、しかも史上
はじめてのカトリック教徒の大統領だったのです。
 圧倒的にプロテスタントの多い米国で、カトリック教徒が大統
領になるなど、考えられなかったのです。ケネディは民主党の予
備選で7回も勝利しているのに、民主党の長老はカトリックであ
る限り選挙は勝てないと考えていたといいます。
 しかし、それでもケネディが大統領選に勝利したのは、米国国
民がケネディの中に、当時の米国社会を覆っていたどうしようも
ない停滞感を打破してくれるのではないかという可能性を見出し
たからにほかならないのです。
 また、ケネディは、公民権運動――黒人が公民権の適用を求め
て行った大衆運動に関しても明確な方向性を示していたのです。
当時黒人には選挙に当って識字テストが義務づけられ、事実上投
票を阻止されていたのですが、ケネディはその廃止を打ち出すな
どの進歩的な綱領を掲げて大統領選を戦ったのです。
 ケネディ大統領は、「ニュー・フロンティア」というスローガ
ンを使い、米国の世界的な威信の維持のためにその社会改革を強
く訴えたのです。それはケネディの有名な演説の次の一節にあら
われています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はアメリカ国民の一人ひとりに、この新しいフロンティアの
 新しい開拓者となるよう要請したい。 ――J・F・ケネディ
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、あまりにも僅差の勝利であったために、ケネディ大統
領の掲げる政策の実現は非常に困難だったのです。とくに南部で
は、南部の民主党と西部・中西部の共和党は保守連合を組み、議
会を握って、ケネディ大統領の改革推進をことごとく阻んだので
政権運営は妥協に妥協を重ねざるを得なかったのです。
 それに加えて、大統領に就任早々、ベルリン問題やキューバ危
機などの外交上の重要事件が頻発して、なかなか国内問題につい
て取り組むことができなかったのです。したがって、ケネディが
大統領に就任しても人種差別問題の解決は一向に進展しなかった
のです。
 そういうときに起こったのが「フリーダム・ライダーズ」と呼
ばれる運動です。1961年5月のことです。ケネディが大統領
に就任して4ヶ月目の出来事です。
 「フリーダム・ライダーズ」とは、白人、黒人の男女が作るグ
ループで、南部社会にやってきて、バス乗車のさいの人種分離を
あえて無視する行動を繰り返す――こうすることによって、人種
差別解決に突破口を開こうとしたのです。
 しかし、彼らがアラバマ州に入ったとき、白人の暴徒が彼らを
襲い、怪我人が出たのです。しかし、それを州政府は見て見ぬ振
りをしたのです。しかし、その衝撃的な映像がテレビで全世界に
流されたのです。
 ちょうどそのときケネディ大統領はウィーン首脳会談に出席し
ており、面目丸つぶれになったのです。しかし、早急には公約で
ある黒人の公民権を守る具体策は打ち出されることはなかったの
です。             ―――[エルヴィス/23]


≪画像および関連情報≫
 ・カトリックとプロテスタントはどう違うか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カトリックでは、司祭や神父といった聖職が、ローマ法王を
  頂点とし、司教、司祭、信徒というピラミッド型階層構造に
  なっています。そのため、聖書と並んでローマ法王の教えな
  どにも権威をおき、古くからの言い伝えや習慣などを重んじ
  ます。洗礼を受けたときにクリスチャンネームをつけるのも
  プロテスタントではあまり見られない習慣です。修道院があ
  るのもカトリックだけです。一方、プロテスタントは「聖書
  のみ」に従います。そのため、ローマ法王のような権威は認
  めず、階層構造を持つ組織もありません。このことが一因と
  なって、プロテスタント内にさまざまな宗派(教派)を生み
  出しています。プロテスタントには、教理のどの面を強調す
  るかとか、どういう方法で洗礼をするかなどで、多くの教派
  が存在します。でも、互いに認めあっています。
  http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/theollife/qanda01.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・F・ケネディ.jpg
ジョン・F・ケネディ
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2010年02月16日

●キングの演説/私には夢がある(EJ第2212号)

 昨年の今頃のことですが、私は「モーツァルト」をテーマとし
てEJを書いていました。そのとき、ある若い人の会合で話す機
会があって、その人たちに次のように尋ねたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     みなさんはモーツァルトの音楽が好きですか
―――――――――――――――――――――――――――――
 この問いに関しては、かなり多くの人が「イエス」でした。続
いて次のように尋ねたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     モーツァルトはどんな時代に生きた人ですか
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに関しては誰一人として答える人はいなかったのです。私
が答えとして求めたのは、「フランス革命の直前の時代に活躍し
た音楽家」というものです。しかし、最近の若い人はとくに西洋
史は学校のカリキュラムの関係もあって弱いようです。
 モーツァルトの音楽を愛好する人は多いですが、彼が生きた時
代背景を踏まえて聴く場合と、そうでない場合とは感じ方が違っ
てくると思うのです。エルヴィスの音楽も、当時の米国の社会的
風潮と無関係ではないのです。
 1963年6月――リンカーン大統領による奴隷解放宣言から
ちょうど100年に当たるこの年、黒人たちは南部各地で一斉に
立ち上がったのです。
 これに合わせるかのように、ケネディ大統領は抜本的な公民権
法案の上程を決断し、6月11日にその考えをテレビ演説を通し
て国民に表明したのです。
 この大統領の演説に勇気づけられた黒人たちは、マーティン・
ルーサー・キング牧師を中心とする公民権運動活動家の指揮の下
で、非暴力のキャンペーン活動「ワシントン大行進」を実現させ
たのです。1963年8月28日のことです。
 キング牧師はこの日、20万人以上の大群衆を前に有名な演説
「私には夢がある」を行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面して
 はいても、私にはなお夢がある。それはアメリカン・ドリーム
 に深く根ざした夢なのだ。つまり将来、この国が立ち上がり、
 「すべての人間は平等である」というこの国の信条を真実にす
 る日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤
 色の丘の上でかつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者
 の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。
           ――マーティン・ルーサー・キング牧師
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/mlk.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 キング牧師のこの演説によって、公民権運動は南部の地域的問
題ではなく、全米の問題になっていたのです。第二次世界大戦が
終ると、黒人の多くは南部から北部に移動して、60年代には黒
人の多く――黒人人口の69%が都市に住むようになり、45%
が北部に住んでいたのです。しかし、生活は貧しく、失業者は白
人の2倍に達していたのです。
 しかし、大統領による公民権法案の上程や黒人運動の盛り上が
りに危機感を感じた白人の一部は、とくに南部において、公民権
法に過激に反対する「ホワイト・バックラッシュ」運動を巻き起
こしたのです。
 これによって、ケネディの人種政策に非難が集中し、ケネディ
打倒のスローガンが叫ばれるようになり、南部を中心に不穏な空
気が漂うようになっていったのです。
 そして、1963年11月22日、ケネディ大統領は訪問中の
テキサス州ダラスにおいて、オープンカーでパレード中に狙撃さ
れ、死亡したのです。しかし、ケネディ大統領の暗殺には多くの
謎があり、その真相は闇の中です。
 これに関して、詳しく知りたい方は、次のブログに42回にわ
たるEJのバックナンバー「JFK」を掲載しているので、参照
していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  http://intec-j.seesaa.net/category/1760916-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケネディの後を継いだのは、リンドン・ジョンソン大統領です
が、彼はケネディの遺志を受け継ぎ、公民権法を成立させ、その
他にもケネディが構想として打ち出していた社会福祉法案などを
成立させています。これらの法案――とくに公民権法はケネディ
の死と引き換えに実現されたといっても過言ではないのです。
 しかし、ケネディ政権から引き継いだものの中で、ジョンソン
政権が最大の重荷となったのはベトナムへの介入だったのです。
もともと1960年にベトナムに南ベトナム解放戦線が組織され
た時点でケネディは軍事顧問団を送り込み、あくまで限定的な介
入に止めるつもりだったのです。
 しかし、1964年になると、ジョンソン大統領は大規模な戦
争拡大に踏み切り、1965年には海兵隊をベトナムに上陸させ
米軍用機が直接北ベトナムを爆撃するようになったのです。いわ
ゆる「北爆」です。そして、1973年までにこの北爆に用いら
れた爆弾の量は、第二次世界大戦中に全世界で使った量と一致し
たといいます。
 しかし、予想を超える悪戦を強いられた米国は兵力を増強し、
1968年には54万人の陸上兵力をベトナムに送り込んでいる
のです。そして、1966年にはそれまで学生身分を徴兵猶予の
対象としてきた制度が改正され、学生でも徴兵されるようになっ
たのです。そうするとこれがきっかけになって、学生運度が高ま
りを見せ、若者を中心に反戦運動が盛り上がったのです。
 そしてこの運動が、黒人の公民権運動とつながり、大きなうね
りとなって、盛り上がっていったのです。そして一触即発、何が
起こっても不思議ではなくなったのです。[エルヴィス/24]


≪画像および関連情報≫
 ・キング牧師の公民権運動
  ―――――――――――――――――――――――――――
  キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」
  である。インド独立の父、マハトマ・ガンジーに啓蒙され、
  また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴
  力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違い
  されがちだが、キング牧師のそれは「非暴力抵抗を大衆市民
  不服従に発展させる。そして支配者達が『黒人は現状に満足
  している』と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中
  にハッキリと見せる。」という決して単なる弱腰姿勢ではな
  かった。                     以上
  ―――――――――――――――――――――――――――

キング牧師.jpg
キング牧師
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2010年02月17日

●キング牧師の暗殺とエルヴィス(EJ第2213号)

 1966年――大学生の徴兵免除が廃止された年、ミシガン大
学では、ベトナム問題を討議する「ティーチ・イン」が行われ、
ベトナム戦争に米国が関与する意義を根本的に問い直す動きが学
生運動を中心にして全米に拡大したのです。
 ところで、当時もっとも人種差別の激しい州といえばミシシッ
ピ州だったのです。そのミシシッピ州で、1966年夏に黒人の
選挙権登録運動が起こったのです。地元の白人の抵抗は想像を絶
していて、3人の黒人の公民権運動家が殺害されるという事件に
まで発展したのです。
 この事件がキッカケになり、ミシシッピ州には全米各地から黒
人学生はもちろん白人学生まで結集して大騒ぎとなったのです。
カルフォルニア大学のバークレー校では、夏にミシシッピでの運
動に参加した学生が、大学の学生集会でその報告をしようとした
ところ学校当局からストップがかかったのです。
 この学校当局の命令を批判して「フリー・スピーチ運動」が起
こり、それが全学的なストライキに発展して、カルフォルニア大
学は窮地に陥ったのです。結局この事件については大学側が折れ
て解決したのですが、これを契機として学生運動は全米に拡大し
たのです。
 こうした学生運動は、その狙いとして学生の政治活動の自由や
学校運営への学生の参加などに加えて、ベトナム戦争反対や黒人
公民権の問題もその訴えに含まれていたのです。1960年代の
若者中心のこうした運動は、カウンター・カルチャーとして、若
者たちの間に定着していくことになります。
 若者たちは、既成の文化に対抗するための対抗文化――カウン
ター・カルチャーを創り上げるのに対して、1950年代に社会
のはみ出し者であったビート族に共鳴し、その風体を真似するよ
うになったのです。
 ひげを伸ばし、長髪で、破れた穴の空いたジーンズといった自
由のスタイルーー彼らはこういうスタイルで、既成文化に対抗し
ようとしたのです。これは、多くのものを求め豊かになろうとす
る当時の物質万能主義に対する抵抗でもあったのです。彼らがい
わゆるヒッピー族といわれる若者たちのはじまりなのです。彼ら
はそれまでの既成文化が戦争や人種差別を生み出した元凶である
という観念にとらわれていたのです。
 こうした学生運動と平行して、黒人たちの間には不満が充満し
ていたのです。公民権法が成立しても一向になくならない人種差
別と経済差別――こうしたものへの強い不満が爆発寸前にまで高
まっていたのです。
 それは、1964年から4年続けて、いずれも真夏の最中に人
種間衝突という形で爆発したのです。それは暴力と憎悪の人種間
対立であったのです。この暴動は米国各地できまって真夏に勃発
し、多くの死者と大勢の逮捕者を出したのです。とくに白人暴徒
の暴力はひどいもので、多くの黒人が殺されています。そのため
これを「ロング・ホット・サマー」といわれたのです。
 このロング・ホット・サマーで、黒人の先頭に立ったのは、若
き黒人指導者、ストークリー・カーマイケルです。彼は白人の暴
力に対抗するには、黒人も武器を持って立ち上がるべきであると
説いたのです。そして、その結果、黒人コミュニティの自主管理
と武装化を主張する「ブラックパワー党」が結成され、ブラック
パワー運動が展開されるようになります。
 これに対して反対したのは、キング牧師です。キング牧師は一
貫して非暴力を掲げていて、白人黒人共同の敵としての「貧困」
を絶滅することを目的とする平和運動を推進し、ブラックパワー
運動をそれに巻き込もうとしたのです。
 当時の米国はベトナム戦費が拡大したことによって、福祉予算
が圧縮され、とくに黒人の生活を悪化させていたのです。そのた
め、キング牧師は「反戦」をスローガンとして訴えて、その中に
同じ考えを持つ白人も闘いの中に巻き込もうとしたのです。
 しかし、1968年4月4日、清掃人組合のストライキを支援
するために訪れていたテネシー州メンフィスにおいて、キング牧
師は、白人の人種差別主義者によって暗殺されたのです。39歳
の若さでした。
 このキング牧師の暗殺は、全米の黒人社会で憤激を巻き起こし
全米168の都市で激しい暴動が起こったのです。それは、米国
社会が分裂しかねない危険をはらんでいたのです。
 キング牧師の暗殺から2ヵ月後の6月6日、あのロバート・ケ
ネディ上院議員が暗殺されたのです。ロバート・ケネディは民主
党大会での大統領指名に向かって着実に支持層を広げつつあった
矢先だったのです。まさに1968年、米国社会は本当に崩壊の
危機にあったといえるのです。
 米国社会がこうした危機を迎えている間、エルヴィスはハリウ
ッドの豪邸に住んで、ひたすら愚にもつかない映画づくりに縛ら
れていたのです。しかし、エルヴィスはかたちは体制側の人間と
して振舞っていたものの、全米で起こっている出来事には深い関
心をもって見守っていたのです。
 しかし、エルヴィスはけっして政治的には行動せず、自分なり
の方法で、何らかの支援が出来ないかと考えていたのです。エル
ヴィスの映画の契約は1967年までであり、その変わり目に自
分としてやれることを考えていたのです。
 その第一弾は、1966年5月に録音され、1967年3月に
発売された次のアルバムです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『ゴールデン・ヒム』/RCA LPM/LSP−3758
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは28ヶ月ぶりに、ナッシュヴィルのRCAスタジ
オにおいて、サウンドトラックでないアルバムをレコーディング
しているのです。A面6曲、B面7曲、全13曲はすべてゴスペ
ルで綴ったアルバムであり、エルヴィスの別の一面を示す音楽ア
ルバムといえます。        ――[エルヴィス/25]


≪画像および関連情報≫
 ・キング牧師の監獄からのメッセージ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  自由への大きな一歩を踏み出すのに、ニグロにとっての大き
  な躓きの石となっているのは、・・・正義よりも<秩序>の
  維持に執心している穏健派の白人である。このような人物た
  ちは、黒人を子供とみなし、家父長主義的に、人が自由を獲
  得するまでのタイムテーブルを定めるのは自分たちの役割だ
  と勝手に思いこんでいるのだ。・・・」
   ――キング牧師の「バーミングハム監獄からの手紙」より
       http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/m-l-king-2.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゴールデン・ヒム/エルヴィス.jpg
ゴールデン・ヒム/エルヴィス
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2010年02月18日

●明日への願い/エルヴィス復活(EJ第2214号)

 ゴスペル・アルバム『ゴールデン・ヒム』に続いてエルヴィス
は何かをやらなければならないと考えていたのです。というのは
エルヴィスの映画の人気は下がり気味であり、ロックンロールも
ビートルズをはじめとする新興勢力が台頭しつつあったからなの
です。映画からの離脱は、エルヴィスだけでなく、当のパーカー
大佐自身もその必要性を感じていたのです。
 エルヴィスとパーカー大佐がそのように考えていた1967年
秋にNBCテレビから特別番組『エルヴィス』の企画の話が舞い
込んだのです。エルヴィスの復帰イベントとして最適であるので
エルヴィスとパーカー大佐はこれに乗ることに決めたのです。
 早速1968年1月から打ち合わせがはじまったのですが、実
施時期については、その年のクリスマスの季節に1時間番組を組
むことになったのです。問題はどういう内容にするかですが、こ
れを巡って、パーカー大佐とNBCテレビのプロデューサーであ
るスティーブ・ビンターの意見が真っ向から対立したのです。
 パーカー大佐の考え方は、エルヴィスによる単なるクリスマス
の音楽ショーであり、エルヴィスはタキシードを着て、クリスマ
ス・ソングを2O曲ほど歌って、挨拶して引き上げるという単純
なものだったのです。
 しかし、スティーブ・ビンターは、この番組をパーカー大佐の
いうような単なるクリスマス番組にせず、非凡な才能を持つエル
ヴィスという大歌手の劇的な2度目の復帰イベントになるように
すべきであると考えたのです。
 そのためには、リズム&ブルースとカントリーとゴスペルが融
合されたものが真のロックンロールであることを視聴者にはっき
りと確認させる必要があるとビンダーは考えていたのです。エル
ヴィスが映画作りをしている間にまがいもののロックンロールが
流行していたからです。
 エルヴィスは大佐の目の前では大佐の意見に楯つくことはしな
かったですが、大佐のいないところではビンダーの意見に賛成で
あり、全面的に協力することを約束していたのです。そのさい、
エルヴィスは自分の希望として、何らかの方法で世相を反映させ
たいとビンダーに伝えていたのです。
 ビンダーは久しぶりの大型番組なので、エルヴィスにのびのび
と歌ってもらうためにある工夫をしたのです。それは伴奏者にエ
ルヴィスの昔の仲間を集めたのです。スコティ・ムーア、D・J
・フォンタナ、それにドラムのハル・ブレイン、ベースのラリー
・ネクテルなど、これによってエルヴィスは思う存分歌うことが
できたのです。
 最大のポイントは、何らかの方法で世相を反映させたいという
エルヴィスの希望をどう実現させるかでした。ビンダーは、パー
カー大佐には内緒で作曲家のアール・ブラウンに依頼して次のメ
ッセージソングを作曲させたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       アール・ブラウン作曲
       『明日への願い/If I Can Dream』
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスはこの歌を6回ほど黙って聴いていましたが、「ぜ
ひ、歌おう」と快諾したというのです。この歌は次のようにはじ
まるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   『明日への願い』
   きっとどこかに
   もっと明るく灯る光があるはず
   きっとどこかに
   もっと青い空高く飛ぶ鳥がいるはず
   兄弟たちが手に手をとって
   歩める地を夢見ることができるなら
   教えて、なぜ、ああ、なぜ、なぜに
   僕の夢は叶わない、なぜなんだ
    http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_46.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 歌詞は長いので、すべての歌詞は上記URLをクリックして見
ていただきたいが、その内容は故キング牧師の有名な演説『私に
は夢がある』に応える内容になっていることは明らかです。
 ビンダーがパーカー大佐に対してエルヴィスがこの歌を番組の
最後に歌うことを隠したのは、エルヴィスがキング牧師の死に心
を悼めていたことを知り、大佐がそういう問題に対するいかなる
コメントも出すことをエルヴィスに禁じていたことを情報として
掴んでいたからです。
 キング牧師が暗殺されたのは、1968年4月4日のことであ
り、そのキング牧師に対するメッセージソングをその年の暮れの
12月3日に放映するのですから、相当きわどい話です。
 この放映はビデオ収録だったのですが、この番組の最後の曲で
ある『明日への願い』を歌ったエルヴィスについて、既出の前田
絢子氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 けれどもエルヴィスは、ゴスペル歌手が着るような純白の正装
 に着替えて、歌の言葉の一つずつに確信をこめて、全身全霊を
 こめて力強く歌い切った。それは、エルヴィスの偽りのない思
 いを率直に伝えていた。それは志半ばにしてあえなく凶弾に倒
 れたキング牧師に捧げる哀悼の歌であり、エルヴィス自身の祈
 りであった。そこには、60年代を通じてエルヴィスが没頭し
 てきた霊的探求の結晶がこめられていた。未来が見えない混乱
 の時代のクリスマスに捧げる、反体制でも、怒りでもない、探
 求者エルヴィスが到達した一つの答だった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ――[エルヴィス/26]


≪画像および関連情報≫
 ・カムバック・スペシャルについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「いよいよ今夜ね」「今夜エルヴィスがテレビに出るのよ」
  「早く帰らなくては」「今夜9時からだったな」1968年
  12月3日全米で交わされた会話はこんなだっただろう。1
  956年に一大旋風を巻き起こし、かってない過激なスタイ
  ルゆえに空前の人気を得ながらもパッシングを受け、82.
  6%という驚異的な視聴率を残しテレビから姿を消した。そ
  の後は1960年のフランク・シナトラショーに除隊を記念
  してゲスト出演しただけだった。テレビの前に座る人は期待
  した。アメリカが世界に誇る稀代のアーティストのピュアな
  姿を。永く目にしたことのない本当のエルヴィスの登場を待
  った。その予感はメディアを通じて伝えられていた。その視
  聴率70.2%。
     ――http://www.genkipolitan.com/elvis/best50.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

明日への願い.jpg
明日への願い
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2010年02月19日

●2度目のラスヴェガス公演大成功(EJ第2215号)

 1967年5月1日、エルヴィスはかねてから結婚することに
決めていた11歳年下で21歳のプリシラ・ポーリューとラスヴ
ェガスのアラディン・ホテルで結婚しています。
 プリシラとの出会いは、1959年にエルヴィスが西ドイツに
滞在しているときに知り合ったのです。その当時プリシラは14
の少女だったのですが、それ以来8年間の恋を実らせて、結婚す
るにいたったのです。
 結婚後エルヴィスとプリシラは、ハリウッドの邸宅で生活をは
じめたのですが、当時ハリウッドの邸宅にはエルヴィスの取り巻
きである12人の若者――メンフィス・マフィアと呼ばれるーー
が一緒に住んでいて、とても新婚生活といえるものではなかった
のです。したがって、プリシラの最初の仕事は彼らを整理して追
い出すことだったといわれます。きさにプリシラにとって前途多
難な結婚生活のスタートだったといえます。
 その後エルヴィスとプリシラは、メンフィスのグレースランド
の本邸宅に戻ります。1968年2月に長女、リサ・マリーが誕
生し、エルヴィスは父親になったのです。
 エルヴィスとプリシラとの結婚は意外だったのです。何しろス
ーパースターで億万長者にして独身、女性ファンの夢をかきたて
る相手として常にトップの関心を集めていたエルヴィスです。
 映画の共演女優とのゴシップもたくさんあったのです。アニタ
・ウッド、アン・マーグレットなど噂になった相手は100人以
上になるのです。もちろんプリシラの存在も話題になったのです
が、世間一般の評判ではプリシラはエルヴィスが過去に捨てた女
程度の認識でしかなかったからです。
 ところで、1968年といえば、長かった映画製作の終わりの
時期であり、新しいビジネスの面でエルヴィスは超多忙をきわめ
ていたので、グレースランドにプリシラをひとり残して家に帰っ
てこない日々が続いたのです。
 1969年7月31日、エルヴィスはラスヴェガスのインター
ナショナル・ホテルのショウ・ステージに立っていたのです。実
はエルヴィスは1956年にラスヴェガスでショウを行ったこと
あったのです。
 しかし、当時の観客からエルヴィスはまるで相手にされず、空
しく撤退した苦い経験があったので、エルヴィスはとても緊張し
ていたのです。ラスヴェガスのショウで成功しなければ、一流の
エンタテイナーにはなれないといわれていたのです。
 この最初のラスヴェガスでの失敗について、既出のボビー・ア
ン・メイソンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 かつて1956年、大佐がエルヴィスにラスヴェガスで2週間
 の出演契約を取ったことがあった。しかし贅沢なギャンブラー
 やカクテル・ラウンジのしゃれ者たちは、当時、彼の呼び名に
 なっていたような「ヒルビリー・キャット」に用はなかった。
 エルヴィスは惨めだった。「最初の晩のあと、僕は外に出かけ
 ただ暗闇の中を歩き回った」と彼は言う。「まったくひどかっ
 た」と。    ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、1969年7月のときは劇場は満員で2OOO人の観
客が入っていましたが、緊張した面持ちのエルヴィスがステージ
の中央に進み出ると、全員が総立ちになり、口笛と絶叫と拍手が
巻き起こり、それは10分間鳴り止まなかったのです。
 エルヴィスは歌い出したのです。最初の曲は「ブルー・スエー
ド・シューズ」――エルヴィスは圧倒的な表現力で歌い出したの
です。これで、エルヴィスのラスヴェガスの成功は間違いなかっ
たのです。彼は一流のエンタテイナーとしても重要な第一歩を踏
み出したのです。
 2007年11月13日、小泉純一郎元首相がシンガポールを
訪問したときブルーの靴をプレゼントされましたが、それは小泉
元首相がエルヴィス・ファンであることを知っていて、「ブルー
・スエード・シューズ」――ブルーの靴が贈られたのです。
 このように、2度目のラスヴェガスは大成功だったのです。マ
スコミは一斉に「エルヴィス復活」を報じたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 メディアは一斉に、エルヴィス復活のニュースを大々的に報じ
 体制派のニューヨーカーも、反体制派のヴィレッジ・ヴォイス
 も、エルヴィスのステージを絶賛した。また、ニューヨーク・
 タイムズは、エルヴィスを野球界のヒーロー、ジョー・ディマ
 ジォと並べて、前人未踏の偉業をなしとげたチャンピオンとし
 てその復帰を称えた。エルヴィスは、観客動員の上でも、収益
 の上でも、断トツのラスヴェガス記録を達成した。このように
 エルヴィスは、最強のステージ・パフォーマーとして、よみが
 えったのである。    ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 簡単に「復活」という言葉を使うが、エルヴィスのようなアー
チストにとって、人気を維持するのはきわめて困難なことである
のに、エルヴィスの場合はかえって人気が拡大しているのですか
ら、驚きです。これは尋常なことではないのです。
 最初の転機は、人気が頂点に達したときの兵役による2年間の
完全引退です。凡庸なアーチストであれば、これで終わりのはず
ですが、エルヴィスは除隊後に復活し、さらに人気を高めている
のです。そして、これを映画の連作とサウンドトラック盤の制作
で7年間もライブ・コンサートをやめているのに、その後そのラ
イブでさらに大スターになって復活しています。
 すい星のごとく登場するスターたちが流れ星のように消えてい
くこの世界にあって、エルヴィスはなぜあのようにいつまでも自
分のポジションを保てるのでしょうか。このあたりのことも考え
てみる必要がありそうます。    ――[エルヴィス/27]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスのラスヴェガス公演に関するブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  プリシラと結婚したエルビスプレスリーは、娘、リサ・マリ
  ー・プレスリーも生まれ――ミドルネームのマリーはパーカ
  ー大佐の夫人の名前から取った――ますます仕事を精力的に
  こなしていきました。そんな時パーカー大佐がラス・ベガス
  のインターナショナル・ホテルにエルビスプレスリーを出演
  させる契約を結びました。
   映画「チェンジ・オヴ・ハビット」の撮影開始され、映画
  「殺し屋の烙印」が全米で一般公開された頃、エルビスプレ
  スリーは目前に迫ったインターナショナル・ホテル公演のリ
  ハーサルを始めるためメンフィスを出発し、ロサンゼルス入
  りしました。今度の公演を成功させるためにエルヴィスプレ
  スリーは、一流のスタジオ・ミュージシャンを集め、バック
  バンドを編成したのでした。
            http://am.gnk24.com/060/post_7.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィス結婚.jpg
エルヴィス結婚
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2010年02月22日

●3種類のエルヴィスがいる(EJ第2216号)

 7年以上に及ぶ長い空白にもかかわらず、エルヴィスはなぜ復
活し、人気を拡大できたのでしょうか。
 結論からいうならば、エルヴィスは時代とともに3種類の歌手
を演じていたからです。その本質は同じですが、シンガーとして
は、3種類のエルヴィスがいたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    50年代 ・・・ ロックンロール・シンガー
    60年代 ・・・ 映画中心ボップ・シンガー
    70年代 ・・・ セイクレッド ・シンガー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、エルヴィスをもって「ロックンロールの開祖」とす
ることに異議を唱える人もいます。確かに文献や音源を基にした
考証によると、エルヴィスが「ザッツ・オール・ライト」を歌う
以前から、ロックン・ロールという言葉自体が、黒人のブルース
やジャズや日常生活の中で、セックスを意味するスラングとして
使われていたのです。
 50年代のはじめに、黒人のリズム&ブルースをはじめとする
にぎやかな音楽が流行したのですが、これを白人のDJ/ディス
ク・ジョッキーであるアラン・フリードが「深夜のバカ騒ぎ」と
いう意味で、ロックンロールと名付けており、1952年頃には
一部の人たちから市民権を得ていたのです。これが、ロックがエ
ルヴィスの「ザッツ・オール・ライト」からはじまったわけでは
ないとするエルヴィス開祖説に異議を唱える人の根拠になってい
るのです。これについて、音楽評論家の湯川れい子氏は次のよう
にいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そしてそのリズム&ブルースは、やがてロックン・ロールと呼
 んでいいスタイルを持つようになっていったのだが、たとえば
 1952年にニュー・オルリンズ周辺で大ヒットした黒人シン
 ガーのロイド・プライスが歌った「ローディー・ミス・クロー
 ディー」や53年にヒットしたクライド・マックファーターと
 ザ・ドリフターズの「マニー・ファニー」などがそれである。
          ――「ポップス界の革命児」/湯川れい子
   『エルヴィス・プレスリー/流れる汗のきらめき――狂熱
             のシグナル』、シネアルバム/53
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、「エルヴィスの前にロックン・ロールなし」というこ
とで多くの専門家の意見は一致しているのです。なぜなら、エル
ヴィスの前のロッカーがエルヴィスのようなエネルギーとカリス
マ性によってロックン・ロールの起爆剤になり得たかというと、
それは明らかに「ノー」というしかないからです。
 それでは、そういうエルヴィスの持つカリスマ性の秘密とは一
体何なのでしょうか。
 湯川れい子氏は、エルヴィスのその秘密について、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず、声の良さでしょう。陰影があるのに、濁りがない、千変
 万化する声。プア・ホワイトとして、黒人居住区のすぐそばに
 育ち、ブルースやゴスペルを血と肉の中に取り入れていた天性
 のリズム感と野生。そして、愛情深い母親に育てられたことに
 よって、根底から人間を愛し、ヒトとしての尊厳を、すべての
 対象に対して抱くことができたという稀有な人間性。それらが
 実に重要だったと思うのです。 ――湯川れい子著「わが魂の
     讃歌」/別冊「太陽/エルヴィス・プレスリー」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 あのマイケル・ジャクソンは、白人が黒人の音楽を取り入れる
ことに対して、「白人はわれわれの音楽を盗んで儲けている」と
いって、白人の音楽をまったく認めなかったといわれます。しか
し、そういう彼でもエルヴィスに関しては別格であるとして批判
していないのです。エルヴィスが打算ではなく、心底から黒人の
音楽が好きであることを知っていたからです。
 メンフィスの黒人ミュージシャンで、ディスク・ジョッキーと
して有名なルーファス・トーマスは、エルヴィスについて次のよ
うにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自分の人生で、あれだけの強烈なマグネティズムを持った人間
 に会ったのは、エルヴィスともう一人、マーティン・ルーサー
 ・キング牧師だけだった。    ――ルーファス・トーマス
                  上掲・別冊「太陽」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 60年代のエルヴィスはひたすら三流映画づくりに縛られるこ
とになるのですが、その映画のサウンドトラック盤をていねいに
聴いてみると、意外に良い曲が多いのに気がつきます。
 映画のできは三流であっても、その挿入歌についてエルヴィス
は心を込めて歌っていからのです。そういう映画時代のエルヴィ
スの歌を聴いてエルヴィス・ファンになった人も多いのです。
 70年代のエルヴィスは、紛れもなくセイクレッド・シンガー
(宗教歌手)として生きたのです。それは、ゴスペル歌手という
よりも、エルヴィス流に昇華された歌であり、ある意味において
は、どんな曲もゴスペル・ソング化していたのです。これについ
て、湯川れい子氏も次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もはやエルヴィスの晩年の歌は、それが「明日に架ける橋」で
 あれ、「心の痛手」であれ、「ダニー・ボーイ」であれ、立派
 にゴスペル・ソングであり、セイクレッド・ソングだったので
 す。      ――湯川れい子氏/上掲・別冊「太陽」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、今回ご紹介した別冊「太陽/エルヴィス・プレスリ
ー」は、10年前のエルヴィス没後20年記念として制作された
特別号なのです。         ――[エルヴィス/28]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスと湯川れい子氏の関連ブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今日は私の師匠で、エルヴィスのファンとして知られる湯川
  れい子が昨年出した本『湯川れい子のロック50年〜見た!
  聞いた!会った!世界のスーパースターたち〜』からの文章
  で、エルヴィスのすごさを検証してみましょう。ちなみにこ
  の本の監修をしたのは不肖・私です。その本には、「わが心
  のスーパーアイドル・エルヴィス・プレスリー」という章が
  あります。そこにはエルヴィスについて湯川が書いたいくつ
  かの記事が掲載してあり、中でも、エルヴィスが亡くなった
  1977年8月直後に書かれた「エルヴィスへの挽歌」とい
  うのが、私個人的に、かつて読んだエルヴィスについての文
  章(あらゆる人が書いたもの)の中で、もっともエルヴィス
  という人のすごさを書き表したものだと思っています。
          ――http://www.actiblog.com/enter/9280
  ―――――――――――――――――――――――――――

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エルヴィスと湯川れい子氏
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2010年02月23日

●エルヴィスはなぜニクソンと会ったのか(EJ第2217号)

 エルヴィスは、ラスヴェガスでの仕事が成功し、仕事が非常に
忙しくなっていたのです。そのため、彼はグレースランドの邸宅
に妻のプリシラと娘を残して、長期間にわたってツァーに出るこ
とが少なくなかったのです。
 南部社会の習慣として、女性は保護されるべき存在であり、自
らのキャリアを追求するべきではなく、結婚して子供を育て家を
守る――これはごく当たり前のことであり、エルヴィスはそれを
問題があるとは思っていなかったのです。それでもラスヴェガス
の公演のときは、初日と最終日は妻の参加を認めており、それは
大変寛大な措置をとっていると思っていたようです。
 このように書くと、何事にもレディーファーストの国である米
国らしくないと考えるかも知れませんが、少なくとも5O年代の
米国の南部社会ではそれが当然のことだったのです。しかし、こ
れは明らかに差別であり、それがプリシラにとっては大いに不満
だったのです。
 人種差別撤廃運動が盛んになるのと平行して、それまで社会的
に一人前とは認められず、無意識のうちに差別を受け入れてきた
女性が自らのポジションに疑問を持って、少しずつ声を上げ始め
ていたのです。1963年には、女性の新しい生き方を説いた次
の本が話題になり、大勢の女性に読まれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベティー・フリーダン著、『新しい女性の創造』
 ――結局のところ女性たちは、家庭という「居心地の良い強制
 収容所」に囚われているだけなのではないか――
―――――――――――――――――――――――――――――
 それに、米国社会の混乱は収まる気配はなく、要人暗殺が繰り
返され、黒人たちによる暴動が頻発し、反戦運動がいたるところ
で起こっていたのです。
 さらにそうした不穏な動きは大勢の若者が集結する野外ロック
・コンサートと一体化して盛り上がることになります。1969
年8月、ニューヨーク州のウッドストックから40マイル南西の
べセルで開催された『ウッドストック音楽祭』は、1960年代
のヒッピー文化のクライマックスともいえる祭典だったのです。
 そこでは、既成社会の体制や秩序、モラルを否定して、反社会
的・脱社会的思想を持つ独自の政治的声を持つ集団が形成されつ
つあったのです。
 その数実に50万人――ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジ
ョプリン、ジョー・コッカー、ジョーン・バエズ、ザ・グレイト
フル・デッド、ザ・フー、ザ・バンドなど、反戦フォークのスー
パースターやヒッピー文化を象徴する大物ロッカーやグループが
参加したのです。
 彼らは昼夜ぶっとおしで演奏されるロックを聴きながら、マリ
ファナ、LSDなどのドラッグに酔いしれたのです。そしてこう
いう若者たちによる野外コンサートが各地で開かれ、それが次第
に政治的な色彩を帯びるようになっていったのです。
 こうした彼らに比べると、エルヴィスはまともな体制派の音楽
家であるといえます。そのため、エルヴィスのところには何者と
も知れぬ者から脅迫状が届けられたり、舞台で暴漢に襲われると
いうことも一度ならず起こり、彼を不安にさせたのです。
 エルヴィスは自分の身を守るため、自ら空手を習い、プリシラ
にも空手を習わせたのです。もっともこれがエルヴィスにとって
痛恨の極みともいうべきことに結びつくことになります。しかし
空手を習得したことで、それをラスヴェガスのショウにも取り入
れることを思いつき、これで大当たりをとっています。
 さらに、かつてやっていたようにメンフィス・マフィアを復活
させ、自分の身に回りに屈強の男を配置して、自分をガードさせ
るとともに、大量の拳銃を買い込み、異常なほど警戒心をつのら
せていたのです。
 こういうときにエルヴィスは突然突飛な行動を行います。それ
は、時の大統領ニクソンに対して手紙を書いて会見を申し入れた
のです。もともと政治的な行動をとらないエルヴィスなのに、一
体どういう心境だったのでしょうか。大統領宛の手紙の最初の部
分をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私の名はエルヴィス・プレスリー、あなたを崇敬し、あなたの
 政権に心より敬意を抱く者です。数週間前、パーム・スプリン
 グスでアグニュー副大統領と話をする機会があり、その際にこ
 の国の状況について私の懸念を申し述べました。ドラッグ・カ
 ルチャー、ヒッピー分子、SDS――民主社会のための学生運
 動、ブラック・パンサー党などですが、彼らは私を敵だとも、
 彼らが呼ぶところの体制だともみなしていません。実は、私は
 その体制なるものをアメリカと呼び、それを愛しています。閣
 下殿、私はこの国を助けることができるし、助けたいと思って
 います。        ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 意味がはっきりしない点がありますが、要するに、政府の反ド
ラッグ・キャンペーンに役立ちたいとということなのです。この
手紙を読んだホワイト・ハウスの関係者は、エルヴィスとニクソ
ンの面談をアレンジし、短時間ながらニクソン大統領と直接面談
させることに成功したのです。
 1970年12月30日、エルヴィスはワシントンD.C.に
行き、ニクソン大統領と会見したのです。さらにFBI長官エド
ガー・フーヴァーにも会っています。その結果、彼が手に入れた
のは、なんと「麻薬取締官のバッジ」なのです。
 これによってエルヴィスは、自分はある使命を与えられた選ば
れた人間であると思い込むようになったのです。いま考えると、
この頃からエルヴィスは、かなり精神的に追い詰められていたと
いうことがいえます。ニクソン大統領との会談はエルヴィスがこ
ういう精神状態のときに行われたのです。[エルヴィス/29]


≪画像および関連情報≫
 ・『ウッドストック音楽祭』/1969年8月15日
  ―――――――――――――――――――――――――――
  67年のモンタレー・ボップ・フェスティバル以来、アメリ
  カだけでも何十という野外フェスティバルが開催されたが、
  その中でも最も記憶されているのは、ニューヨークの郊外で
  開催され、約30組のバンドが参加したウッドストック・フ
  ェスティバルで間違いあるまい。今でも野外フェスといえば
  誰しも「ウッドストック」を引き合いに出す。大がかりな野
  外フェスを企画するたびに主催者側は「第二のウッドストッ
  ク」とか「ウッドストックの再来」とか銘打って宣伝したが
  るのも、いかにウッドストックの影響力が強かったかを物語
  っている。
      http://rock-cd.info/history/1969woodstock.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ニクソン大統領とエルヴィス.jpg
ニクソン大統領とエルヴィス
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2010年02月24日

●コンサートに明け暮れるエルヴィス(EJ第2218号)

 私生活では、かなりおかしな言動が目立ちはじめたエルヴィス
ですが、コンサートの方は実に快調だったのです。どの会場も前
売券は即日完売し、超満員の盛況だったのです。どうしてこのよ
うに盛況だったのでしょうか。
 エルヴィスのコンサートの様相を既出の前田絢子氏は次のよう
に紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンサートは、『2001年宇宙の旅』のテーマ曲として知ら
 れる「ツァラストゥストラはかく語りき」の演奏ではじまる。
 オーケストラに大編成ロック・バンド、それにゴスペル・グル
 ープが二組入った大演奏が、王者の入場を告げる。きらびかな
 装飾がほどこされた豪華なジャンプスーツを身につけたエルヴ
 ィスが、歓声のなかを荘厳な音楽に押されるように登場する。
 オープニングの「シー・シー・ライダー」の単調で歯切れの良
 いリズムが、観客の気持ちを刺激して、エルヴィスが、会場全
 体を一つの熱狂的な感応体に変える。(中略) コンサートのハ
 イライト「アメリカの祈り」は分裂も対立も差別もない「美し
 いアメリカ」を舞台の上に実現して見せた。エルヴィスの力強
 いヴィジョンに圧倒されて、会場全体が絶叫と拍手で興奮と歓
 喜の渦に巻き込まれた。(中略) やがて、クロージング・ナン
 バー「好きにならずにいられない」でフィナーレを迎える頃に
 は愛の熱気が充満する会場で、エルヴィスと観客の一体化が実
 現する。        ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記述でわかるように、エルヴィスのコンサートは、単なる
人気歌手のコンサートのレベルを完全に超えており、政治的では
なく、分裂も対立も差別もない「美しいアメリカ」の実現への祈
りに貫かれていたのです。これは宗教に近いものです。
 さて、エルヴィスのコンサートのハイライトである「アメリカ
の祈り」の原題は次の通りです。これは1971年にカントリー
歌手のミッキー・ニューベリーがアレンジしたものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     アメリカの祈り/An American trilogy
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「トリロジー」というのは「3部作」という意味であり、
次の3つの歌が歌われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「ディークシー」 ・・・・・ 南軍マーチ
   「共和国の戦いの讃歌」 ・・  北軍讃歌
   「私の試練」 ・・・・・・・  黒人霊歌
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、これら3つ歌の持つばらばらの主張を劇的に融
合させて、情熱的に歌い上げたのです。このあたりのエルヴィス
の歌唱力は非凡なものがあり、当時の米国人の誰もが心の底には
南北戦争時の矛盾を抱えたままであると考えていたので、そうい
う分裂も対立も差別もないアメリカを作ろうと歌うエルヴィスに
共感したのです。エルヴィスの提示したのは「人類救済の歌」で
あり、誰でもが受け入れられるものだったのです。
 このように、エルヴィスは1969年のラスヴェガスの凱旋コ
ンサートから、1977年8月の死にいたるまでの8年間は、文
字通りコンサートに明け、コンサートで暮れる日々だったといっ
てよいのです。1970年から死の直前の1976年までのコン
サートの回数は次の通りになっています。これは異常という以外
の何ものでもない回数です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1970年 ・・・ 138 1974年 ・・・ 155
 1971年 ・・・ 156 1975年 ・・・ 108
 1972年 ・・・ 164 1976年 ・・・ 129
 1973年 ・・・ 169
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点でのエルヴィスのコンサートについてその全貌を見た
いと思うなら、次の2つのDVDを見ることを勧めします。
―――――――――――――――――――――――――――――
       『エルヴィス・オン・ステージ』
       『エルヴィス・オン・ツァー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの映像は、エルヴィスのコンサートの迫力をそのまま世
界に伝えて、大きな反響を巻き起こしたのです。『エルヴィス・
オン・ツァー』については、1972年ゴールデン・グローブ賞
の最優秀ドキュメンタリー賞を獲得しています。
 1972年6月に、エルヴィスにとって初めてのニューヨーク
公演が行われたのです。場所は、マディソン・スクエア・ガーデ
ンであり、満員の観客を集めたのです。その人気がいかに凄かっ
たかは、一ヶ月前のチケット発売日には、夜明け前から2000
人のファンが列を作り、4回のショウのすへてが即日完売だった
ことからわかります。ショウに詰めかけた観客の中には、ジョン
・レノン、ボブ・ディラン、デヴィット・ボウイなどの有名ミュ
ージシャンの顔もあったのです。
 ニューヨーク・タイムズは「別の星からやってきたプリンスの
登場」と題してエルヴィスのショウを絶賛しています。さらに、
1973年1月14日には、ハワイのホノルルにあるインターナ
ショナル・コンヴェンション・センター・アリーナで史上初の宇
宙衛星中継用のコンサートが行われています。
 このコンサートの模様は、衛星中継特別番組「アロハ・フロム
・ハワイ」としてまとめられ、日本、韓国、香港とオーストラリ
アを含むアジア地域とヨーロッパ28ヶ国で生放送され、世界中
で高視聴率を記録しています。
 こうした華やかなコンサートの成功の裏で、エルヴィスの私生
活は崩壊の淵に立っていたのです。 ――[エルヴィス/30]


≪画像および関連情報≫
 ・『アメリカの祈り』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  <アメリカの祈り>・・それは大きなキャンパスに渾身の思
  いで描かれた絵画に似て、「アーティスト」へ辿りついたエ
  ルヴィスが、人生の困難と格闘しながらも、プロフェッショ
  ナルはさらに前に進んでいること、それは類い稀な個性に溢
  れたものであることを世界中に示した曲である。
   あ、綿畑の広がる地に帰りたい
   古き良きあの故郷に
   見よ、はるか、はるか彼方のディキシーランドを
   帰りたい、はるか彼方のディキシー
   ディキシーに誓おう
   ディキシーで生き、骨を埋めることを
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_45.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「アメリカの祈り」.jpg
「アメリカの祈り」
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2010年02月25日

●プリシラの決断/エルヴィスとの別れ(EJ第2219号)

 米国では1963年に「均等給与法」、1964年に「公民権
法」が相次いで成立しています。「均等給与法」では男女差別を
違法とし、「公民権法」では、性差別を禁止する条項が設けられ
ていたのです。さらに1971年には「アファーマティブ・アク
ション」によって、企業が女性を職場から締め出すことはできな
くなったのです。
 女性の社会進出は急増し、70年代の半ばには大学を卒業する
90%の女性は就職し、既婚女性の半数が働いていたのです。女
性の意識が大きく変わってきたのです。
 こういう時期において、プリシラ・ポーリューは何を考えてい
たのでしょうか。
 1985年に出版されたプリシラの回想録『私のエルヴィス』
には、当時のプリシラの心境が次のように記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 生まれて初めて、自分自身をまっすぐ見つめるようになった。
 内輪の人間以外の結婚生活を観察する機会があったが、そこで
 は日常の取り決めや将来の目標について、女性が男性に負けず
 に言うべきことを言っているのを知った。私は今までの自分の
 生き方がひどく不自然で、幸福にはほど遠いものであることを
 思い知らされた。自分の人生は自分で決めなければならないの
 だ。新たに得たこの考え方を振り捨てることはできなかった。
 外には広々とした世界が待っている。その中に私自身の居場所
 を見つけなければ・・。 ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1971年のクリスマス――いつもであれば、エルヴィスの邸
宅であるグレイスランドでは、盛大なクリスマス・パーティーが
開催されるのが通例であったのです。そのとき、プリシラはいつ
もパーティーの中心的存在だったのです。
 しかし、1971年のクリスマスはいつもと同じように開催さ
れましたが、その席にはプリシラも娘のマリーもいなかったので
す。さらに1972年1月のエルヴィスの誕生日パーティーにも
2人の姿はなかったのです。これで、エルヴィスとプリシラの仲
は決定的になったのです。
 そして、同年2月、プリシラは強い意思を持ってマリーを連れ
て、グレースランドの邸宅を出たのです。そして、カルフォルニ
ア州ハンティントン・ビーチにアパートを借りて、自分の空手教
師であったマイク・ストーンとの新生活をはじめたのです。覚悟
の離婚だったのです。そして、1973年10月に正式に離婚す
ることになったのです。
 このプリシラという女性は只者ではなかったのです。彼女は自
らのイメージを一新させし、ロサンゼルスに高級ブティック店を
オープンして成功させ、いくつもの事業を興し、見事な経営手腕
を発揮し、事業家として活躍をはじめたのです。
 そのかたわら、美貌を生かしてモデルや女優の仕事もするよう
になり、人気テレビドラマ『ダラス』をはじめ、映画にも出演し
てハリウッド女優としてのポジションも固めるという八面六臂の
大活躍をはじめたのです。
 エルヴィスの死後は、エルヴィス・プレスリー・エンタープラ
イジズを設立して、初代の会長に就任するや、グレイスランドを
一般公開して事業を飛躍的に拡大させています。さらに、ファッ
ションや化粧品分野にまで事業の幅を広げるなど、現在でもキャ
リアを拡大させているのです。
 2006年6月に、ブッシュ大統領と一緒にグレイスランドを
訪問した小泉純一郎元首相を出迎えたのは、このプリシラと娘の
リサ・マリーであり、世界中にプリシラの健在振りを見せつける
ことになったのです。
 このようにしてプリシラを失ったエルヴィスは、狂ったように
コンサートに打ち込んだのです。1972年から1976年まで
のコンサートの回数は725回にも及ぶのです。
 しかし、エルヴィスの身体は不規則な生活も祟ってボロボロに
なっていたのです。強い照明とカメラのフラッシュで痛めつけら
れていた眼は禄内障を起こしており、肝臓や腸、腎臓や心臓にも
障害が見られ、多くの薬剤を服用していたのです。
 しかし、エルヴィスはコンサートになると、不思議な活力が出
るのか甦り、立派にステージをこなしたあと落ち込むという状態
が続いたのです。それでも次のコンサートのためにまた大量の薬
を飲むということが続いたのです。
 プリシラと別れたあと、エルヴィスはリンダ・トンプソンとい
う女性に会い、一緒に暮らすようになります。リンダは美人であ
るばかりではなく、メンフィス大学で英文学を専攻するという大
変理知的で愛情深い女性だったのです。それに同じ南部の出身で
あって、宗教的にも同じ信仰を持ち、家族を愛し、両親を大事に
するという点も同じだったのです。
 エルヴィスは、このリンダ・トンプソンという女性に失った2
人の女性――母とプリシラとの面影を見たのです。そして、19
72年から76年にかけてエルヴィスはリンダとグレイスランド
で暮らすことになります。
 その間、何回も入院を余儀なくされたエルヴィスにいつも付き
添っていたのはリンダであり、エルヴィスの病室にはリンダの簡
易ベットが備えられていたといいます。
 しかし、エルヴィスに対する嫌がらせは相変わらずは頻発し、
グレイスランドの邸宅にはつねに何人もガードマンがいて警備に
当たるという状態でエルヴィスは家にいても精神的に落ち着くこ
とはなかったのです。
 しかし、エルヴィスは、ラスヴェガスの公演があると、ショー
ガールの美女と派手に遊ぶなど、自分を積極的に変えようとはし
なかったのです。それを見届けように、リンダはプリシラと同様
に、1976年11月にグレイスランドを去ったのです。今度こ
そエルヴィスは一人になったのです。――[エルヴィス/31]


≪画像および関連情報≫
 ・コイズミの夢実現/ニューヨーク・タイムズ紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  【メンフィス(米テネシー州)=有元隆志】「コイズミの夢
  が実現した」−。米国の人気歌手、故エルビス・プレスリー
  宅のあるテネシー州メンフィスのグレースランドを30日、
  ブッシュ大統領とともに訪問した小泉純一郎首相について、
  米メディアは外国指導者に対しては異例の大きな扱いで伝え
  た。普段はブッシュ大統領の一挙手一投足を取材するホワイ
  トハウス詰め記者団も、この日ばかりは大統領よりも首相の
  パフォーマンスに注目し、大統領も「珍しい経験だ」ともら
  した。
    http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060701/1151752870
  ―――――――――――――――――――――――――――

小泉元首相のグレイスランド訪問.jpg
小泉元首相のグレイスランド訪問

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2010年02月26日

●すべての歌がエルヴィス風ゴスペル(EJ第2220号)

 エルヴィスは孤独と闘いながら、超人的なコンサートをこなし
ていったのです。その頃エルヴィスが好んで歌ったのは、次のよ
うなバラードやゴスペルだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         「アンチェインド・メロディ」
         「明日に架ける橋」
         「マイ・ウェイ」
         「偉大なるかな神」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの曲は、エルヴィスの深い悲しみや苦悩を反映して一層
深みを増し、人々の心のひだに沁み込むように歌われたので、観
客を感動で圧倒したのです。
 もはやここまでくると、ロックンロール、バラード、ゴスペル
などの音楽としての区別はなくなり、エルヴィスの歌う歌のすべ
てが「エルヴィスのゴスペル」となっていたのです。つまり、エ
ルヴィスの歌は、それが「アンチェインド・メロディ」であれ、
「明日に架ける橋」であれ、「マイ・ウェイ」であっても、それ
はすべてエルヴィス風ゴスペルとなっていたのです。
 ところで「ゴスペル」とは一体何でしょうか。
 黒人による音楽では、次の違いを知っておく必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.ゴスペル
     2.黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)
     3.ソウル
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゴスペルは黒人霊歌とは違うのです。ゴスペルについて、ゴス
ペルの女王といわれるマヘリア・ジャクソンは次のように説明し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゴスペルは、ニグロ・スピリチュアルのように、どこからとも
 なく人から人へと歌い継がれてきたような歌ではない。トマス
 ・ドーシーのようなミュージシャン/ライターによって、作詞
 作曲されたものである。     ――マヘリア・ジャクソン
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、黒人霊歌は一種の伝承歌であり、作詞・作曲者はい
ないが、ゴスペルには作詞・作曲者がいるということです。音楽
的には、宗教的な内容を扱った歌詞にブルースやジャズの要素を
取り入れたものであり、ゴスペルには良い知らせを運んでくると
いうキリストの福音という意味があります。
 しかし、ゴスペルの母胎はニグロ・スピリチュアル――黒人霊
歌なのです。黒人霊歌は、アフリカから強制的に米国に連れてこ
られた黒人たちが、奴隷という厳しい環境を生き抜くために自然
に歌われるようになった歌なのです。
 内容としては、旧約聖書の登場人物や逸話に、奴隷としての過
酷な生活への思いを重ねて作られているのです。なお、黒人霊歌
には、通常「ダブル・ヴォイスィング」といわれる二重の意味が
こめられている場合が多いのです。
 一つは、白人の主人が聞いても「聖書」的であると判断できる
側面であり、もう1つは奴隷のみがわかる隠された意味です。奴
隷達は、白人に気づかれぬように自分たちの仲間同士の情報連絡
を歌に盛り込んだのです。しかし、ゴスペルには、そういうダブ
ル・ヴォイスィングのようなものはないのです。
 それでは、ソウルというのは何でしょうか。
 ソウルは「黒人革命のブルースである」といわれます。奴隷解
放後に生まれた黒人たちは、黒人としての誇りやプライドという
気持ちを持つようになり、黒人がアメリカの主流へ向かうという
文化的、心理的な思想を抱いたのです。
 そういう黒人たちに主導されて作られた音楽ががソウルなので
す。ソウルはブルースとは違い、白人の音楽的要素も積極的に取
り入れた音楽ですが、分類的には「ブラック・ゴスペル」といわ
れることもあります。
 エルヴィスが、1960年10月にRCAスタジオで録音した
曲に「スウィング・ダウン・スィート・チャリオット」という曲
がありますが、これはニグロ・スピリチュアルです。
 「スウィング・ダウン・スィート・チャリオット」は次の歌詞
ではじまるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  いとしのチャリオットよ、ここまで下りてきておくれ、
  ちょっと止まって、この私を乗せておくれ
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、この「チャリオット」とは何でしょうか。
 チャリオットとは、旧約聖書に出てくる偉大なる預言者エリア
を天に運んだ二頭立ての馬車のことです。したがって、この歌を
白人が聴くと、黒人たちの天国への憧れを歌った歌であると考え
てしまいます。しかし、これは黒人たちへ逃亡を呼びかける秘密
のボランティア・ネットワーク「地下鉄道」のメッセージなので
す。「地下」というのは「隠れて行動する」という意味であり、
「鉄道」とは、黒人たちの逃亡を意味しています。
 逃亡する奴隷は「乗客」、ボランティア活動員は「車掌」、そ
して隠れ家は「駅」というように、それぞれ隠された言葉がある
のです。黒人たちが目指した国はカナダなのですが、ボランティ
ア組織は、その自由の国カナダに奴隷を導くために、こういうニ
グロ・スピリチュアルをよく利用したのです。
 当時は厳しい奴隷狩りが行われており、逃亡してもすぐ捕まっ
てしまったのですが、それでもそういうボランティア組織の力を
借りて約6万人の奴隷がカナダ入りに成功したといわれているの
です。              ――[エルヴィス/32]


≪画像および関連情報≫
 ・黒人霊歌とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカ黒人音楽の一番古いジャンルであり、民謡の一種で
  あり、ゴスペルはもとよりこんにちある様々なアメリカ黒人
  音楽の原点となったのが、この黒人霊歌です。黒人たちは奴
  隷として自分の意思とは関係なくアメリカに連れてこられ、
  そこでは人間としての権利は与えられず過酷な労働のみ与え
  られました。生き方も選べず、権利も自由も何もなく抑圧さ
  れたなかで労働するしかなかった人生、その中で生まれた黒
  人霊歌は彼らの魂の叫びそのものです。信仰のあかしでもあ
  ります。その誕生の歴史的背景は特異なものであり、他の民
  俗音楽とは一線を画しているといえるでしょう。
     ――http://www6.ocn.ne.jp/~fleur/spirituals.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィスのゴスペル特集ディスク.jpg
エルヴィスのゴスペル特集ディスク
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2010年03月01日

●エルヴィスの死(EJ第2221号)

 金曜日のEJでエルヴィスが1960年10月にRCAビクタ
ーのスタジオで、「スウィング・ダウン・スィート・チャリオッ
ト」をレコーディングした話をしました。実はその同じセッショ
ンでもう一曲レコーディングしているのです。それは、「ジェリ
コの戦い」という曲です。この歌もニグロ・スピリチュアル(黒
人霊歌)ですが、歌は次のようにはじまります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨシュアは エリコ(ジェリコ)の戦いで 大奮闘したとさ
 エリコ エリコ エリコ
 ヨシュアは エリコの戦いで 大奮闘したとさ
 すると エリコの要塞が がらがら崩れ落ちたとさ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 このニグロ・スピリチュアルは、聖書の歴史物語に沿っている
のです。「エリコの戦い」というのは、紀元前13世紀――エジ
プトで捕囚の身となり、奴隷状態にあった古代イスラエル人がエ
ジプトを脱出し、自由の地カノンに逃れるさい、最後に戦った戦
いなのです。
 イスラエル人をエジプトから連れ出したリーダーはモーセ――
彼はエジプトで過酷な生活にあえいでいたイスラエル人をエジプ
トから脱出させ、神の示した「約束の地――カナン」――ヨルダ
ン川の西の地域で、現在のレバノン南一帯を含む地方――を目指
したのです。
 しかし、モーセは旅の途中で死亡し、その後を継いで指導者に
なったのが歌に出てくるヨシュアです。ヨシュアはイスラエル人
を率いてカナンの地に入ったのですが、その前に立ちはだかった
のが堅固な城壁で固められた小国エリコだったのです。
 ヨシュアは強い統率力と的確な判断力を持つリーダーで、彼は
神の命を受けてエリコを攻撃し勝利を収めたのです。その結果、
イスラエル人はカナンの地にやっと定着できたのです。
 奴隷の黒人たちが「ジェリコの戦い」を歌うのは、やがて自分
たちにもエリコのような奇跡が起こり、自由になれることを願っ
てのことなのです。
 この「ジェリコの戦い」は、弾むような軽やかなリズムが特徴
です。私はこの歌が昔から大好きで、多くの音源を持っています
が、圧倒的に素晴らしいのは、やはりエルヴィスの歌う「ジェリ
コの戦い」です。
 エルヴィスは、「The Battle of Jerico」と歌うところに「ア
ラウンド/around」を入れて、「The Battle around Jerico」と
いうように歌っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Joshua fit the Battle around Jerico
     Around Jerico,around Jerico
     Joshua fit the Battle around Jerico
     And the walls come tumbling down
―――――――――――――――――――――――――――――
 「アラウンド」を入れると、音に弾みがつき、ぐるぐる回る感
じが表現できる――前田絢子氏はこのように解説しています。エ
ルヴィスは、こういう点は実にこまかくチェックして工夫を加え
ているのです。そのため、現在「ジェリコの戦い」を歌う歌手は
ほとんどこのエルヴィス・バージョンを使うということです。こ
のエルヴィスの「ジェリコの戦い」――お聴きになっていない方
はぜひ聴いていただきたいと思います。
 1977年8月15日のことです。17日からはメーン州ポー
トランドを皮切りにツァーが始まるので、エルヴィスはその準備
に追われグレイスランドの自宅であわただしく過ごしています。
 夜の10時頃になって歯が痛くなり、歯医者に行って鎮痛剤を
もらって飲んだのです。エルヴィスは何か身体がおかしくなると
医師に薬をもらって飲むという習慣がついてしまっているので、
明らかに彼は薬物依存症に陥っていたと思われます。
 夜中の12時過ぎに自宅に戻ったエルヴィスは、歯の痛みが治
まったので、ツアーで歌う予定の歌を何曲かピアノを伴奏に歌っ
て練習したのです。エルヴィスほどの歌手でも公演前はこうして
熱心に練習しているのです。
 結局、ベットに入ったのは翌16日の午前8時頃なのですが、
寝ようとしても寝られなかったのです。仕方がないので、バスル
ームに入って本を読んでいたときに、エルヴィスは心臓発作に襲
われて倒れたのです。
 救急車で病院に運ばれ、蘇生処置が行われたのですが、午後3
時30分に死亡が確認されたのです。解剖の結果、死因は「不整
脈による心不全」と判定されたのです。
 しかし、遺体からは14種類の処方薬が検出され、とくに鎮痛
剤については通常の10倍近い量が測定されたのです。したがっ
て、エルヴィスの死因は「心不全」というよりも「薬物依存によ
るショック死」であると考えられるのです。
 エルヴィスの主治医はニコポラスといい、エルヴィスは彼のこ
とを「ドクター・ニック」と呼び、家族ぐるみで親しく付き合っ
ていました。いわばニコポラスはエルヴィスの取り巻きの一人で
あり、ツァーなどにも同行していたスタッフなのです。
 また、ニコポラスはメンフィスの開発事業の投機に手を出し、
失敗して大きな借金を抱え込んだのです。そのことを知ったエル
ヴィスはニコポラスに30万ドルという大金を、無利子、無期限
で提供していたといいます。
 ニコポラスは、殺人的なツァーのラッシュで体の不調を訴える
エルヴィスに対して、死の直前7ヶ月の間に5600錠を超える
薬を処方していたのです。明らかにエルヴィスの急死の原因はこ
の薬物中毒にあるといえます。
 ニコポラスは、エルヴィスに不適切な処方をした罪で訴えられ
テネシー州医療厚生委員会から医師免許の取り消し処分を受けた
のです。             ――[エルヴィス/33]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスの死/東理夫氏のサイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  死ぬ前の7年間にエルヴィスは1000回以上のコンサート
  をおこなった。平均すれば1カ月に12回、3日に1回以上
  で、リハーサルとツアーの移動日を考えると、寝るひまもな
  いくらいであり、ワーカホリック状態だった。おそらく、過
  労と食事に起因する糖尿病となんらかの薬物ショックのため
  に(私の推測です)、エルヴィスは1977年8月16日、
  42歳で死んだ。
  http://www.soc.shukutoku.ac.jp/yokoyama/LIBRI/PRESLEY.HTML
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・「ジェリコの戦い」が聴けます!!
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  次のURLをクリックし、表示されたサイトにディスプレイ
  の画面が出るので、画面の中央の「→」キーをクリックする
  と、合唱団による「ジェリコの戦い」が演奏されます。
  http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/spirituals/jericho.htm
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ジェリコ攻略.jpg
ジェリコ攻略
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2010年03月02日

●永遠のアメリカン・ヒーロー(EJ第2222号)

 「エルヴィス死す」のニュースが流れた瞬間、米国のあらゆる
メディアは番組を変更し、特別番組を組んで、全米がエルヴィス
一色に染まったのです。そして、誰もがメンフィスに行こうとし
てメンフィスへの航空券は全部なくなったのです。さらに米国中
のレコード店からエルヴィスのレコードが姿を消し、書店ではエ
ルヴィスについて書いてある本が売れに売れたのです。
 8月17日、エルヴィスの死を知った時の大統領ジミー・カー
ターは、次のような異例の追悼メッセージを出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれアメリカ人は、エルヴィス・プレスリーの死によって
 国の一部を失ってしまった。彼は独創的で比類のない存在だっ
 た。彼は、20年以上も前に忽然と世に姿を現し、まったく先
 例のない、今後も二度と見ることのない大きな衝撃を巻き起こ
 した。彼の音楽とパーソナリティーは白人のカントリー・ミュ
 −ジックと黒人のリズム&ブルースを融合し、アメリカ大衆文
 化を永遠に変容させてしまった。彼の影響力は計り知れない。
 彼は、世界中の人々にとって、アメリカの活力と反骨精神、そ
 して善意の象徴であった。エルヴィスは逝ってしまったが、彼
 の名はわれわれの心のうちに永遠に生き続けるであろう。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて大勢の人がグレイスランドのエルヴィスの自宅にやって
きて収拾がつかなくなったのです。エルヴィスの父親のヴァーノ
ンは、いつもファンを大事にしていた息子の気持ちを思い、彼ら
に棺に眠るエルヴィスに最後の別れをすることを許したのです。
 翌日の1977年8月18日、C・W・ブラッドリー牧師の司
式によって、家族と友人だけのごく内輪の葬儀が執り行われたの
です。そして生前エルヴィスと一緒にショウに出演していた2組
のゴスペル・グループや歌手が、エルヴィスが心から愛したゴス
ペル・ソングや讃美歌を歌っています。
 その日はとくに暑い日で、米国南部の真夏の熱波が降り注ぐな
かをエルヴィスの遺体を乗せた白い霊柩車は17台の白いリムジ
ンを従えてグレイスランドの自宅から墓地まで移動したのです。
その長い車の葬列を8万人以上のファンが猛暑の沿道に立ちつく
して見送ったのです。
 普通の歌手であれば、生前にどんなに人気があったとしてもこ
れで終わりになるだけですが、エルヴィスの場合はむしろそれか
らはじまったのです。それは後に「エルヴィス現象」といわれる
社会現象がエルヴィスの死後はじまったからです。
 最初に起こったのは、暴露本の出版合戦だったのです。それは
大衆の貪欲な好奇心に応えるように執拗に出版が繰り返され、そ
れなりにビジネスになっていったのです。
 しかし、それと平行してエルヴィスのCDやビデオは大きな売
り上げを伸ばしていったのです。とくにエルヴィスの死の2ヶ月
前に発売された次のアルバムは、とくに売れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   エルヴィス最後のアルバム/『ムーディ・ブルー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このアルバムは、エルヴィスの生前に既に「ゴールド・ディス
ク」を達成していたのですが、死後さらにその売り上げを伸ばし
米国内で150万枚、世界では1400万枚に達したのです。ゴ
ールド・ディスクというのは、1OO万枚以上売り上げると与え
られる金製のレコードのタイトルのことです。
 さらにエルヴィスの死後に巻き起こったすさまじい暴露本や暴
露記事に対抗して、エルヴィスの名誉を守るために真のファンが
立ち上がったのす。それはエルヴィスが生前に行った善行を明ら
かにしようという運動です。
 貧しい家庭に育ったエルヴィスは、窮状にある人をそのままに
しておけず、個人や団体に数多くの寄付をしているのです。そう
いうエルヴィスの人道的な業績を公表することによって悪意の暴
露本に対抗しようとしたのです。前田絢子氏はこれについて次の
ように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (エルヴィスは)特に黒人たちには同情的だった。折りにつけ
 て、個人や団体に多額の寄付をしていたので、材料には事欠か
 なかった。チャリティ・ショーからの莫大な収益は、エルヴィ
 ス自身の口座からの寄付金と合わせて、宗教や人種に関係なく
 各種の施設に割り当てられていた。メンフィスのコマーシャル
 ・アピール紙に公表されただけでも、病院、学校、老人ホーム
 障害者施設など、おびただしい数に及んだ。それに加えて窮地
 を救われた多くの個人が次々と名乗りを上げた。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうしたいわゆるエルヴィス現象は、1990年代に入っても
終わらず、1993年には多くのファンの働きかけもあって、米
国郵便局からエルヴィスの記念切手が発行されています。その発
売日、メンフィスでは記念式典が行われ、その様子が全米にテレ
ビで放映されたのです。
 切手は即日完売し、増刷分を含めてその数は1億2000万枚
に達したのです。そして、1997年の没後20周年、それから
さらに10年後の2007年の没後30年には盛大なメモリアル
イベントが行われ、CDやDVDが発売され、エルヴィスについ
ての書籍も発売されています。今回のテーマで数多く引用させて
いただいた前田絢子氏の書籍も没後30周年を記念して2007
年7月31日に発売されたものです。
 34回にわたって書いてきたエルヴィス・プレスリーのテーマ
は今回を持って終了します。長い間にわたってのご愛読を感謝い
たします。        ――[エルヴィス/34/最終回]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスとの思い出
  ―――――――――――――――――――――――――――
  没後30周年を迎えるロックの王様エルヴィス・プレスリー
  は1958年に兵役に就き、ドイツのフリートベルクのにあ
  る米軍兵舎でジープのドライバーをしていた経験があり、没
  後30年を迎えた今もなおその場所に住む人々の記憶に残っ
  ている。米軍事区域の隣にあるクラブでは、当時14歳の少
  女が後に伝説となるロックの神様と腕を組むモノクロ写真が
  飾られている。その日からはや50年、アンジェリカ・スプ
  リンガルフさんは目を輝かせながらエルビスとの時間を回想
  する。少女はエルビスが父親、祖母、二人の友人と共にエル
  ビスが滞在していた町の近郊のバード・ナウハイムに住んで
  いた。――8月17日/AFP
  http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2268532/2026693
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィスの死.jpg
エルヴィスの死
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