2009年09月25日

●開発当時も現在も無名な開発者(EJ第1661号)

 今日からスタートさせるテーマは、「インターネットはどのよ
うにして生まれたか」です。つまり、「インターネットの歴史」
ということになりますが、この一見何でもないテーマ――実は大
変な難題なのです。
 なお、この記事は2005年8月23日から2005年10月
28日までの計46回にわたって連載したものであることをお断
りしておきます。
 この驚くべきほど世界中で普及している通信技術は、一体誰が
開発し、いつから始まったのでしょうか。これが意外にはっきり
していないのです。
 ひとつわかっていることは、インターネットは特定の誰かが開
発したものではなく、数多くの人たちによって作り上げられた通
信技術であるということです。
 インターネットの場合は、開発に携わった人たちは当時はまっ
たくの無名であったのです。これは当然のことですが、他の有名
な技術の開発と違ってインターネットの特徴的なことは、インタ
ーネットがこれほど劇的に普及した現在でも、それらの人たちが
依然として無名のままであるということです。
 もし、あなたがインターネット構築に関わった人を1人でもい
いから上げてごらんなさいといわれたら、答えられますか。
 これは、かなり難問のはずです。私はIT業界の人にもこの問
いをしてみたのですが、ほとんど誰も答えられなかったのです。
IT業界の人でもわからないことが、一般の人にわかるはずがな
いと思います。
 それには、いくつもの理由があるのです。その謎を解き、改め
て身近になっているインターネットという通信技術について知る
ことは無駄なことではないと考えたのです。私は現在あるネット
関係の会社で、新人を主な対象として技術教育を担当しています
が、そのさいつねに次のことを強調しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 新しい技術について知る一番良い方法は、その技術がどのよう
 経緯で誕生したか、その歴史を知ることである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ITの話だからと敬遠しないで読んでいただくと、インターネ
ットが一層身近に感じられると思います。今日はその予告編のよ
うな話からはじめます。
 2005年8月3日のことです。7月31日よりパリで開催さ
れていたIETFミーティング会場において、2005年度ポス
テル賞の受賞者として、慶応義塾大学常任理事を務める村井純教
授が選出されたのです。
 IETFミーティングとは? ポステル賞とは? 村井 純と
は?――おそらくほとんどの人はチンプンカンプンであると思い
ます。まあ、インターネットに詳しい人は、村井純教授ぐらいは
ご存知とは思いますが・・・。
 それに私の調べたところでは、8月4日の日本経済新聞、日経
産業新聞には一切このニュースは伝えられていないのです。村井
教授の受賞は今回で7人目、しかもアジアからのはじめての受賞
なのです。これがニュースにならないのは不思議な話です。
 これはインターネットに関連するニュースですが、要するに、
日本ではこの手のニュースは関心がないということでしょう。い
や、もしかすると、新聞記者がよくわかっていないということで
はないでしょうか。彼らは自分に理解できないことはニュースと
して取り上げないのです。
 ポステル賞とは、1998年に急逝したジョン・ポステル氏に
ちなんで、インターネット・ソサエティ(ISOC)が1999
年に設置した賞であり、インターネットに多大な貢献をした人に
贈られるのです。今回の村井教授の受賞は、IPv6などの技術
開発と普及への努力、およびアジア太平洋地域でのインターネッ
ト普及への貢献が評価されたものとされています。
 村井教授に贈られた受賞トロフィ−には次のように書かれてい
ます。原文を載せておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   For his vision and pioneering work that helped
   countless others to spread the Internet across
   the Asian Pacific region.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、ポステルという人はどういう人でしょうか。
 このジョン・ポステル氏こそ、インターネットの創始者の1人
といってよいと思います。ポステル氏は、1969年、カルフォ
ルニア大学ロサンゼルス校在籍中に、米国防総省のプロジェクト
であるARPANET――あとでさんざん述べることになる――
に参加しているからです。IPアドレスの管理業務を政府より委
託され、IANAを創設するなど、インターネットの発展に貢献
した人なのです。IANA(アイアナ)というのは、インターネ
ットに関する方針や標準を決定し、インターネットで扱う基本デ
ータの割り当てを担当している組織のことです。
 しかし、1998年10月16日に心臓病のため、急逝されて
います。55歳の若さでです。インターネットの世界においては
惜しみても余りある人材を失ったことになるといえます。
 村井純教授によると、ポステル氏は日本のインターネットの立
ち上げに大変な協力をしてくれた大恩人だそうです。アドレス、
JPドメインなど彼の協力なしにはできなかったことがたくさん
あるのだそうです。
 しかし、ジョン・ポステルという名前を知っている日本人がど
れほどいるでしょうか。ほとんどいないと思うのです。インター
ネットがこれほど普及し、多くの人に使われるようになった現在
でも、彼はまだ無名に近いのです。
 村井純氏にしても、最近でこそ知る人が増えてきましたが、テ
レビに出る機会も少ないので、あまり知られているとはいえない
と思います。しかし、インターネットに不可欠であるルート・サ
ーバーの13台目が日本に設置されている事実を何人の日本人が
知っているでしょうか。この13台目のMサーバーは、村井氏の
実績によって設置されているのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/01]


≪画像および関連情報≫
 ・IETF = Internet Engineering Task Force
  TCP/IPなどのインターネットで利用される技術を標準
  化する組織。ここで策定された技術仕様はRFCとして公表
  される。RFCはIETFが正式に発行する文書である。
 ・IETFミーティングがどういうものか知りたい人は、次の
  URLをクリックして、「江端さんのひとりごと/IETF
  惨敗記」を読まれることをお勧めする。大変面白い。
  ―――――――――――――――――――――――――――
     http://www.ff.iij4u.or.jp/~ebata/ietf.txt
  ―――――――――――――――――――――――――――

村井氏ポステル賞を受賞.jpg
村井氏ポステル賞を受賞
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2009年09月28日

●電子メールはいつから始まったか(EJ第1662号)

 EJで今まで取り上げてきたテーマに比べて、今回のテーマで
ある「インターネットの歴史」はいかにも地味であり、面白くな
さそうに見えます。また、ITや技術の話は苦手であるとして、
読むのを敬遠する人もいるかも知れません。
 しかし、それでは困るのです。むしろ、技術に弱い人ほど、今
回のテーマは読んでいただきたいのです。現在の世の中において
インターネットの恩恵を受けていない人はほとんどいないでしょ
う。少なくとも、EJの読者はPCを所有し、インターネットを
利用している人々であり、そういう意味でインターネットの恩恵
を享受されています。私が毎日大勢の人々にEJをお送りできる
のもインターネットのおかげといえます。
 インターネットの素晴らしいことは、メールやサイトという手
段を通じて、世界中の人々とコミュニケーションができる点にあ
ります。ここで私たちが忘れてはならないことは、そういうネッ
ト・コミュニケーションのコストがきわめて低いことです。それ
は、多くのインターネットの開発者たちが誰一人として権利(特
許)を主張しなかったことにより、実現されていることをご存知
でしょうか。
 WWWの開発者として知られるティム・バーナーズ・リー、イ
ンターネット・プロトコルの生みの親であるヴィンセント・サー
フやロバート・カーン、ハイパーテキストを考案したテッド・ネ
ルソン、電子メールの考案者として知られるレイ・トムリンソン
などなど――誰もひとりとして特許を主張していない。これは驚
くべきことであります。そういう人たちのおかげで私たちはイン
ターネットという便利な道具を自由に使えるのです。
 しかし、私たちはそういう人々をあまりにも知らなさ過ぎると
思うのです。したがって、こういう開発者たちに敬意を払い、感
謝する意味でも、彼らに関してもっと関心を持つべきだと思うの
です。これがEJでこのテーマを取り上げた理由であります。
 インターネットは誰がはじめたか――これは難問なのです。イ
ンターネットの主要なサービスのひとつである電子メール(以下
メール)はいつからはじまったかを例にして考えてみます。
 インターネット上でメールをやり取りするには、メールアドレ
スというものが必要です。メールアドレスは、アットマークと呼
ばれる「@」記号を中心に、@の左の部分はユーザ名、右の部分
は、ドットでいくつかに区切られるドメイン・ネームというもの
が記述されています。これは、メールの送受信に使うコンピュー
タがどこにあるかを示しているのです。
 メールがいつからはじまったかを考える場合、第1の考え方と
して、「@」の右の部分の記述のやり方が統一され、標準化され
た時点――すなわち、ドメンネーム・システムが生まれ、それが
世界中で使えるようになった時点――これを基準として使う方法
があります。
 この考え方に立つと、1983年にドメインネーム・システム
の標準化ができているので、メールはこの時点からはじまったと
いうことになります。この観点からは、このドメインネーム・シ
ステムを使って実験を成功させたジョン・ポステル――昨日のE
J参照――がメールの創始ということになります。事実、ポステ
ルは「インターネットの父」と呼ばれているのです。
 第2の考え方として、「@」を中心に、左の部分にユーザ名、
右の部分にホストコンピュータ名を書くという方法で、メールを
やり取りするシステムが考案され、実験が行われた時点をもって
メールの創始とする考え方があります。
 この考え方に立つと、1971年にARPAネット(後で詳し
く説明)上のコンピュータ間で、メールをやり取りする実験が行
われているので、この時点をもってメールの創始と考えることが
できます。このま実験を行ったのが、レイ・トムリンソンなので
す。そのため、トムリンソンは「メールの発明者」、「アットマ
ークの父」と呼ばれているのです。
 さらに第3の考え方があります。
 そもそも第2の考え方の土台になる発想――コンピュータを介
して「手紙」をやり取りしようという発想――そういうアイデア
が生まれた時点があり、それが具体化されて使われるようになっ
たということがあれば、その時期こそメールが始まった時点であ
るという考え方です。
 調べてみると、「@」の使用に先立つ1960年代半ばにおい
て、「メール」と呼ばれるデジタル情報を個人間でやり取りして
いたことがあるのです。それは、大勢のエンジニアが大型汎用コ
ンピュータを共用する方式――時分割処理システムにおいて既に
行われていたのです。
 しかし、時分割処理システムは汎用ではなく、システムごとに
異なる運用が行われていたのです。したがって、このメールのや
りとりは、ひとつのコンピュータを共用する人々の間でのコミュ
ニケーションにとどまっていたのです。
 トムリンソンは、このような独自のルールを持つ時分割処理シ
ステム同士をつないで、他のシステムともメールをやり取りする
ために、「@」記号を使って、ユーザがどのコンピュータからメ
ールを出しているかを明示して、ネットワークを介してメールを
送る実験を行い、成功させたというわけです。
 このように、メールひとつとっても、以上の3つの考え方によ
り、その創始の時期が異なってくるのです。いずれにしても、メ
ールという技術的手法が生まれたのは、1960年代半ばである
ということがわかります。約40年前の話です。
 3つの観点を整理すると、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の視点 ・・ ネットワーク間をつなぐ決まり事ができる
 第2の視点 ・・ 決まり事のベースとなった技術の開発使用
 第3の視点 ・・ 上記の技術がどんな発想から誕生したのか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/02]


≪画像および関連情報≫
 ・過去から未来で/探検!つうしんワールド
  「電子メールの開始」
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   http://www.ntt-west.co.jp/basic/faq/html/in_02/
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『起源のインターネット』.jpg
『起源のインターネット』
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2009年09月29日

●ヴァネヴァー・ブッシュをご存知ですか(EJ第1663号)

 最初に、次の4人の名前に注目していただきたいのです。この
中に一人でも知っている人がいるでしょうか。
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    1.J・C・R・リックライダー
    2.イワン・サザーランド
    3.ロバート・テイラー
    4.ローレンス(愛称ラリー)・G・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東京電機大学の脇英世教授によると、この中で一人でも知って
いる人がいたら、その人は、相当の情報通信業界通であるとまで
いっています。実は、この4人はインターネットの開発に深い関
わりのある組織のトップを務めた人たちなのです。
 これらの人たちがどのような人物であり、インターネットの開
発においてどのような役割を果たしたのかを知っていただくため
に、少し遠まわりな話からはじめる必要があると思います。
 「ヴァネヴァー・ブッシュ」という人をご存知ですか。
 現在の米国大統領は、ジョージ・ブッシュですが、彼とは何も
関係はないのです。しかし、ヴァネヴァー・ブッシュは、大統領
という職務とは必ずしも無関係ではないのです。それにきちんと
インターネットの歴史について説明するには、彼の名前は欠かせ
ないひとりなのです。
 米国のボストンには2つの有名な大学があります。ボストンの
西側にあるハーバード大学と東側にあるMIT(マサチューセッ
ツ工科大学)です。
 ハーバード大学は今から300年以上前に創立された歴史のあ
る名門大学です。これに対してMITは、1861年に創立され
た大学ですが、長い間にわたって、あまりぱっとしない大学だっ
たのです。
 しかし、MITは、第2次世界大戦中の軍事研究によって一躍
有名大学の地位を獲得するのです。MITは、軍と協力し、放射
研究所を設立したのですが、そこでレーダーの開発に成功したか
らです。
 このレーダーは、第ドイツ戦、対日本戦におどろくべき威力を
発揮し、両国空軍が得意とする空からの攻撃を無力化させてしま
ったからです。MITの空軍との協力は第2次世界大戦後も続き
北米防空を目的とするMITリンカーン研究所が設立されている
のですが、インターネットの前身といわれるARPAネットを作
り出した人材の多くはこの研究所から育っているのです。
 このMITにおいて最初に有名になったのが、ヴァネヴァー・
ブッシュなのです。ブッシュはボストン郊外のチェルシーという
ところで生まれたのですが、子供の頃から数学には天性のものが
あったそうです。1913年、彼はタフツ大学の修士課程を優秀
な成績で卒業、一時GEに務めます。しかし、GEの工場が火事
で焼けて失職してしまうのです。
 そこでブッシュは、海軍の検査官をしながら、タフツ大学の数
学の教師をやっていたのですが、1915年に大学に戻ることを
決意、MITの博士課程に進みます。そして、1年後にはハーバ
ードとMITの両大学から工学博士の学位を取得し、母校のタフ
ツ大学の電気工学科の助教授に就任するのです。
 第1次世界大戦が終わった1919年にブッシュはMITの電
気工学科の助教授になり、1923年には教授に昇進します。専
門は一貫して「電力伝送」だったのです。そして、これから彼は
まさに縦横無尽の活躍をすることになるのです。
 このヴァネヴァー・ブッシュという人物は、このように科学者
としても一流であったのですが、その政治的手腕も並外れていた
のです。若い頃のブッシュは数々のアイデアを軍に対して提案し
ているのですが、軍は無名の若造の提案などに耳を貸さなかった
といわれるのです。やがてブッシュは、「工学で成功するには政
治にも通じている必要がある」と考えて、意識的に政治の世界を
目指したといわれます。
 そして、1940年6月にブッシュは、時のルーズベルト大統
領にNDRC(全米防衛研究委員会)の設置を提案し、大統領の
承認を得て委員長に就任します。そしてその次の年に第2次世界
大戦がはじまると、OSRD(科学研究開発庁)が議会の承認の
下に作られ、ブッシュは長官に就任――この経緯は明日のEJで
述べますが、こうして、大学と軍が協力して軍事研究を推進する
システムが出来上っていったのです。
 そしてブッシュが第2次世界大戦中に取り組んだ最も大きな仕
事が、マンハッタン計画なのです。ブッシュは原爆開発の最高幹
部としてこの計画に深く関与していたのです。
 米国の原子爆弾の開発には、ハンガリーからの亡命ユダヤ人が
多く加わっています。名前を上げておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ジョン・フォン・ノイマン  ユージン・ウィグナー
  エドワード・テラー     セオドア・カールマン
  レオ・シラード
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは着の身着のままで米国に逃れてきたのです。彼らが生き
残る手段として身につけているものは才能しかなかったのです。
彼らはナチスが原爆を所有したときの最悪の事態を避けるために
移民である自分たちを受け入れてくれた第2の祖国である米国に
奉仕する機会として、マンハッタン計画をとらえ、ナチスとの原
爆開発競争に打ち込んだのです。
 マンハッタン計画を率いていたのは、後に「原子爆弾の父」と
称されるJ・ロバート・オッペンハイマーでしたが、この計画を
バックで支え、コントロールしていたのは、ヴァネヴァー・ブッ
シュだったのです。
 この時点でブッシュは、大統領の科学顧問というべき科学者と
して最高の地位にあり、何でもやれる立場にあったということが
できます。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/03]


≪画像および関連情報≫
 ・マサチューセッツ工科大学
  米国において、シリコンバレーなどと並ぶ先端技術産業の集
  積地であるボストンのルート128地域においても、中核的
  な役割を果たす機関である。同大学のメディアラボは情報技
  術関連の先端を走る研究所としてマスメディアなどでも頻繁
  にとりあげられる。特筆すべきは、同研究所で開発された情
  報処理システムがキャンパスネットワークの根幹を占めてお
  り、この研究成果は米国以外の大学院大学等でも活用され成
  果を挙げている。同大学は、ボストン所在の他大学(ハーバ
  ー大学、マサチューセッツ工科大学)との間で、学生や研究
  者同士の交流も推進している。
    出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

MIT.jpg
MIT(マツチューセッツ工科大学)
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2009年09月30日

●ブッシュと原子爆弾製造計画(EJ第1664号)

 ヴァネヴァー・ブッシュが、いかにして科学界をまとめ、ND
RC(全米防衛研究委員会)のトップになったか――これについ
て、もう少し詳しく述べる必要があります。
 1930年代の後半のことです。ヨーロッパでは戦争の危機が
深刻の度を増していたのです。そのとき米国では、4人のスーパ
ー科学者が集まって、科学界が国の国防上の要請にどう応えるべ
きかを討議していたのです。その4人の科学者とはヴァネヴァー
・ブッシュを含む次のメンバーです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カール・コンプトン ・・・・・・・・・・・ MIT学長
 ヴァネヴァー・ブッシュ ・・・・・・・・ MIT副学長
 ジェームス・コナント ・・・・・・ ハーバード大学学長
 フランク・ジュウェット ・・・・ベル電話会社研究所所長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ヴァネヴァー・ブッシュを含む4人組は、いずれも科学界の超
エリートだったのです。MIT学長のコンプトンは、ハイテク王
国米国を支える現在のMITの基礎を築いた人物です。ハーバー
ド大学学長のコナントは戦後、初代のドイツ大使として活躍し、
政財界に名を残し、ハーバード大学の傑出した学長として語り草
になったほどの人物です。それにベル研究所のジュウェットは、
1939年に科学アカデミー総裁として科学界のとりまとめ役と
して活躍した人物です。
 この4人組の中心人物はもちろんヴァネヴァー・ブッシュその
人です。彼らは、学者は象牙の塔に閉じこもっていては駄目であ
り、計り知れない価値を持つ科学の成果を社会の現実的な役に立
てなければならない――たとえそれが戦争のための兵器を作るた
めであっても、必要ならやらざるを得ないと彼らは考えて議論を
したのです。ブッシュはこの4人組で科学界をまとめ、何とか、
大統領にものがいえるシステムを作りたい――このように考えて
いたのです。
 1939年にブッシュはMITの副学長を辞任し、カーネギー
研究所に移籍します。カーネギー研究所は、カーネギー財団の豊
富な資金力をバックに科学振興をはかることを重要な任務として
おり、政府の科学政策に大きな影響力を与える役割を担ってきた
のです。ブッシュとしては、かねがね政治へのアプローチの必要
性を感じており、この移籍はそのための最初の一手ということが
できます。
 ワシントンにくると、ブッシュは国家航空諮問委員会の議長に
就任します。この委員会では、防空などの航空問題について、軍
人と科学者が議論し、結論をまとめて、大統領に勧告する役割を
担っているのです。
 そして、1939年の春、科学アカデミー協会は、例の4人組
のひとりであるベル研究所のフランク・ジュウェットを総裁に選
出します。もちろん、ブッシュら4人組が周到に根回しした結果
なのです。科学アカデミー協会は、科学界をとりまとめるかなめ
の組織なのです。
 軍、政府、産業界を組織化する――そのためには、肝心の科学
界をまとめる必要があるます。そこで、その布石として、科学ア
カデミー協会にジュウェットを送り込んだのです。
 1940年6月、ブッシュはハリー・ホプキンズ大統領補佐官
の斡旋によって、はじめてルーズベルト大統領に会います。会見
時間はたったの10分――この会見でNDRCの設立とブッシュ
の委員長就任が決まったのです。ブッシュによる事前の十分な根
回しによって、大統領との会見は儀式的なものになったのです。
 ブッシュはなぜNDRCの設立を訴えたのでしょうか。
 その目的のひとつに、各大学や海軍の研究所において、ばらば
らに行われていた核分裂研究を一元的に把握することがあったの
です。そして、NDRCが発足すると、ウラン諮問委員会はその
傘下に入ることになったのです。
 しかし、ブッシュがNDRCの委員長になり、核分裂研究を一
元管理するようになって、原子爆弾の開発はかえって遅れること
になります。それには難しい問題がたくさんあったからです。
 1940年4月、ドイツ軍はデンマークやノルウェーに侵攻し
第2次世界大戦が始まります。6月14日にドイツはパリを陥落
させ、フランスを手中におさめます。危機的な状況はますます深
刻化の度合いを深めていたのです。
 1941年6月にOSRD(科学研究開発庁)が設けられ、N
DRCはその下部組織になります。ブッシュはOSRDの長官に
就任し、NDRCは4人組のひとりであるハーバード大学学長の
コナントが務めることになったのです。
 もはや研究をしているときではなく、開発に重点を置く時期に
なったからです。OSRDは300を超える研究機関と契約を結
び、6000人を超える科学者を動員し、あらゆる兵器の製造に
着手したのです。ブッシュの体制整備がものをいったのです。
 しかし、当時の米国は他国の武力紛争への介入を禁ずる中立法
が制定されており、強い厭戦ムードもあったのです。しかし、軍
や政府は、このままでは済まないことを確信していたのです。
 ブッシュとしては、そういうときに備えて、少なくとも意思決
定はスムーズに行える体制だけは作っておきたいと考えて、ND
RC委員長のコナントを通して提出された計画書と予算案をOS
RDのブッシュ長官が裁可できるようにしたのです。しかし、原
子爆弾の製造に関しては、ブッシュは最後まで悩みぬくのです。
 しかし、1941年11月17日、原子爆弾製造に関する計画
書がNDRCから提出されます。ブッシュは27日にこの原爆開
発計画を大統領に提出し、原爆製造は決定されたのです。
 1941年12月8日(日本時間)、日本軍による真珠湾爆撃
によって、米国の厭戦ムードは吹き飛び、米国も戦争に突入する
ことになったのです。そして、大統領は原爆開発のための試験炉
建設を承認し、「代替燃料計画」の名前で、原爆製造の方向に大
きく舵が切られたのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/04]


≪画像および関連情報≫
 ・1940年5月にブッシュが科学アカデミー総裁のジュウェ
  ットに送った手紙の内容
  ―――――――――――――――――――――――――――
   ひとつ、困っていることがある。それはとてつもなく重要
  なことかも知れないし、また、そうでないかもしれない。ウ
  ランの核分裂のことだ。昨年の夏は、ウランの核分裂によっ
  てつくられる原子爆弾の顛末がどうなるか知りたいと思って
  いたし、いまでもそうだ。しかし、事態は決定的に切迫して
  いる。この国でできることがあるとして、何をするべきだろ
  うか。
   もうひとつは何もしないことだ。平和時の穏当な時期だっ
  たら、私がとるのはこのやり方だ。そうでないいま、何もし
  ないということは、現在の研究の進展をあえて無視するに等
  しい。もちろん、すべてはたち消えになるかもしれない。誰
  かが、連鎖反応の障害を発見する可能性はある。しかしなが
  ら、昨年はそうしたことは起こらなかった。たち消えになる
  のをただ座して待っているわけにはいかないように思う。
  歌田明弘著、『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
  シュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴァネヴァー・ブッシュ.jpg
ヴァネヴァー・ブッシュ
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2009年10月01日

●作ったものは必ず使うことになる(EJ第1665号)

 マンハッタン計画――原爆の開発は、当時のお金で、そのプラ
ントの建設に14億ドル、その稼動に6億ドル、合計20億ドル
もの大金がかかったのです。これは、米国政府にとってはじめて
のビック科学プロジェクトになったのです。
 この金額は、当初は誰も予想していなかった巨額の金額であり
コストがかさめばかさむほど、その「成果」を確認させる必要性
が生じてきたといえます。なぜなら、戦時中とはいえ、20億ド
ルもの巨額な税金が、納税者へのきちんとした説明もなく、議会
の承認も得ずに投入されていたからです。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、この原爆製造計画について途中で
非常に不安に駆られたと回想記に述べています。どうしてかとい
うと、最終決断は大統領であるとはいえ、それは事実上自分の案
そのものであったからです。彼が不安に感じていたのは、大統領
決定が得られないということではなく、あまりに容易に決定され
てしまうことに対する不安だったのです。
 ブッシュは、原爆開発に関する「最高政策決定グループ」を作
るよう大統領に提言し、認められています。メンバーは次の5人
だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ヴァネヴァー・ブッシュOSRD長官――議長
    ウォレス副大統領
    スティムソン陸軍長官
    ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長
    コナントNDRC委員長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、5人で討議して何かを決めるというより、原爆のこと
が一番よくわかっているのはブッシュだけであり、ブッシュが反
対すれば何も通らないし、彼が案を出せば、それが「最高政策決
定グループの提案」ということになって、大統領はそれをそのま
ま了承するというかたちになる――ブッシュを不安にさせたのは
これだったのです。権限が大きくなり過ぎて、それが彼を孤独に
させ、責任の重圧から不安感をいだくようになったのです。
 さまざまな技術的困難を乗り越えてマンハッタン計画は着々と
進行し、遂に1945年2月、プルトニュウムがロスアラモスの
爆弾製造班に渡され、いよいよ、原子爆弾の完成は時間の問題と
なっていったのです。
 しかし、1945年4月12日、フランクリン・デラノ・ルー
ズベルトは急逝してしまいます。そして、副大統領のハリー・S
・トルーマンが大統領に就任します。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、トルーマン大統領にマンハッタン
計画についてすべてを打ち明けます。ルーズベルト大統領は、副
大統領のトルーマンにも最高機密のマンハッタン計画のことは、
一切話していなかったからです。
 驚いたのはトルーマンです。しかし、その時点ではたとえ大統
領といえども、流れを変更することはできなかったのです。19
45年4月27日――第1回の標的委員会が開催され、どこに原
爆投下をするかが検討されたのです。
 新兵器の破壊力を正確に知るには、日本のまだ空襲を受けてい
ない無傷の地域で、100万人以上の人口があるところが検討さ
れたのです。その結果、京都、広島、横浜、小倉が理想的な標的
であるとされたのです。
 しかし、京都は貴重な文化遺産があるとして、スティムソン陸
軍長官が反対して外され、標的は広島、長崎に決定されます。そ
して、運命の8月6日、エノラ・ゲイ号が広島に原爆を投下し、
9日には長崎にも投下したのです。大変なお金をかけて作ってし
まったものは、結局、その威力を議会に見せつけ、国民を納得さ
せるためにかくして使われてしまったのです。
 原爆製造に関して米国と英国との関係にも言及しておきます。
米国は1940年8月頃から英国と兵器開発協力を行っていたの
です。英国も米国と兵器を開発することは積極的だったのですが
原爆開発に関しては別だったのです。
 当初、原爆開発に関して英国は米国よりも進んでおり、原子力
の大きな政治的、軍事的意味を考えて、自国開発を望んでいたか
らです。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、英国の原爆開発責任者であるアン
ダーソン卿に原爆の共同開発を何回も働きかけたのですが、英国
は一向に乗ってこなかったのです。しかし、ドイツの空爆はます
ます激しさを増し、1942年になって、英国首脳部は米国との
原爆の共同開発を行うしかないと考えたのです。
 しかし、時既に遅し。この時点で米国は1941年末に「代替
燃料計画」という名の原爆開発をはじめており、既に米国独自で
原爆を製造する体制が整いつつあったのです。そして、6月17
日、ルーズベルト大統領は、ブッシュが議長を務める最高政策決
定グループの提出した原爆製造計画を承認し、全速力で開発を進
めるよう指示を出しています。
 6月20日にハイドパークで米英首脳会談が行われいるのです
が、その時点でも英国は米国の動きを正確には掴んでいなかった
ようなのです。しかし、チャーチルはこの会談で「原爆の製造は
米国で行う」ことを認めているのです。
 7月に入って英国は、原爆製造プラントは英米共同プロジェク
トでやることを米国に申し入れてきます。今度は、英国のアンダ
ーソン卿がしきりとブッシュに書簡を送り、共同事業化を求めて
きたのです。
 そういう英国の態度を見てブッシュは、英国に見切りをつける
のです。この時点で英国と組んでも損するのは米国であると考え
たのです。そして、ルーズベルト大統領に英国には原爆開発の情
報を漏らさないよう進言し、大統領の承認をとるのです。そのあ
と英国との間は非常に良くない状況になるのですが、これについ
ては話を省略します。なお、「ブッシュ対チャーチル会談」は関
連資料を参照。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/05]


≪画像および関連情報≫
 ・チャーチル首相からの激しい抗議に困り果てたルーズベルト
  は、対応をブッシュに丸投げし、ブッシュはチャーチルにつ
  かまって、ひどい目にあう。それだけ、ブッシュは大物であ
  るということである。以下はブッシュの回想記より。
  ―――――――――――――――――――――――――――
   チャーチルは、情報交換について、十分か十五分にわたっ
  て、わめきちらした。いわく、不公平だ、理にかなっていな
  い、不合理だ、いまの取り決めでは不満だ、あげくのはてに
  貴様はなんていまいましいやつだ、とののしった。首相は、
  閣議室の席につき、葉巻をくわえて火をつけようとする。私
  の見るところでは、葉巻の先端を切っていないので火がつか
  ず、肩ごしに暖炉の方に向って火のついているマッチを次か
  ら次へ放り投げた。海軍大臣たちを次の間に待たせているよ
  うだったが、首相は、私のやり方を罵倒しつづけた。私は何
  も言わなかった。首相の弾劾演説がようやく終わったとき、
  私は「アメリカの原子力開発は、現在、陸軍の管轄下にあり
  ます。陸軍長官がロンドンにおられますので、彼がいない場
  所でそのことについて議論したくありません。」とだけ言っ
  た。「よくわかった。正式に話し合いすることにしよう」と
  チャーチルは答えた。こうしてこの異様な話し合いは終わっ
  た。――歌田明弘著『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー
  ・ブッシュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ルーズベルトとチャーチル.jpg
ルーズベルトとチャーチル
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2009年10月02日

●ブッシュ、ウィナー、ノイマンの関係(EJ第1666号)

 インターネットの歴史の話をするのに、なぜ、原爆開発の舞台
裏の話が必要なのか――こういう疑問をいだく読者がいるかもし
れません。しかし、これらはコンピュータやインターネットと無
関係ではないのです。
 世界ではじめて原爆を開発するのですから、大勢の数学の専門
家を集め、智恵を絞る必要があります。そして、膨大にして複雑
な計算処理をこなさなければならないのです。その計算にはコン
ピュータが不可欠ですが、当時は現代のようなコンピュータはな
く、計算には大変な時間がかかったのです。それに、いうまでも
ないことながら、そこに莫大な予算が必要になります。
 今までにある技術に予算をつけるのと違って、新しい、その効
果が実証済みでない技術に予算を獲得するのは大変なことなので
す。ヴァネヴァー・ブッシュのやったことは、そういう国家的プ
ロジェクトを推進するために、科学者が主導権を取りやすいシス
テムというか体制を作ったことです。
 これがあの時期において原爆の開発を前進させ、さらに、軍事
的に使う新しいネットワーク――すなわち、インターネットの開
発に大きく寄与したのです。
 原爆の開発やインターネットの開発に直接的にはヴァネヴァー
・ブッシュの名前は出てきませんが、もし、ブッシュの作り上げ
た軍・大学・産業が一体となって国家的重要プロジェクトに取り
組む仕組みがなかったら、米国において原爆もインターネットも
開発されてはいなかったと思うのです。
 さて、この後の話に何回も登場する3人のキーマンがいます。
それぞれの人がどういう年代に活躍した人であるのかを次に示し
ておきます。これで見ると、ブッシュがいかに長生きであったか
がよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ヴァネヴァー・ブッシュ ・・・ 1890−1974
 2.ノーバート・ウイナー  ・・・ 1894−1964
 3.フォン・ノイマン    ・・・ 1903−1957
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3人はどういう関係にあるのか――3人の中では一番年が若く
早く亡くなったフォン・ノイマンの話からします。ノイマンは、
ハンガリーのブダペストで生まれているが、子供の頃から「普通
とは違う」人であったといいます。
 友人がノイマンの記憶力を確かめるために『二都物語』の冒頭
には何が書いてあったかいってみろといったそうです。これに対
してノイマンは、一瞬もためらうことなく語り始め、実に15分
以上続けたそうです。友人が確かめたところ、一字一句間違って
いなかったというのです。驚くべき記憶力です。
 ノイマンは、ブダペスト大学から数学の博士号、チューリッヒ
大学から科学の博士号を同時に授与され、1927年にドイツの
ゲッチンゲン大学において、著名な数学者であるダーフィト・ヒ
ルベルト教授の元で指導を受けています。このときの仲間には、
あの原爆開発のオッペンハイマーもいたのです。そして同大学の
教授として5年間を過ごすのです。
 ノイマンはこの時点で抜群の業績を上げて名声を博し、20代
半ばにして数学界にフォン・ノイマンを知らない者はいないほど
有名な数学者になったのです。しかし、彼が本当に実力を発揮す
るのはそれ以降のことなのです。
 フォン・ノイマンはナチスが台頭する前に米国に渡り、193
3年に開設されたプリンストン大学の高等研究所の最も若い研究
員になっています。そして、彼は純粋な応用数学のみならず、物
理や経済学、それに一種の哲学――とくに量子パラドックスにつ
いても優れた業績を残し、「最後の万能学者」といわれるように
なるのです。
 1941年にマンハッタン計画に参画――オッペンハイマーの
指揮の下で原爆の製造に取り組むことになります。彼は、移民で
ある自分がマンハッタン計画のような重要プロジェクトに参画で
きることを誇りに思い、これに全力を尽くしたのです。
 原爆の開発には、膨大で複雑な計算をこなす必要があります。
この面倒な計算をノイマンは一手に引き受け、起爆装置のレンズ
の設計などの難問を次々と解決していったのです。
 このときノイマンが計算処理をするために使っていたのが「微
分解析機」というマシンです。実はこれは、当時MITの教授を
していたヴァネヴァー・ブッシュのチームが、1930年に開発
したマシンなのです。
 実はブッシュは、最初に「ネットワーク解析機」というマシン
を作ったのです。ブッシュの専門は「電力伝送」なのですが、当
時の電力系のネットワークは非常に不安定であり、この現象を記
述する回路の方程式は解析が非常に難しく、手計算では到底無理
だったのです。そこでブッシュのチームは、電力系のネットワー
クをシミュレートする装置を開発しようとして「ネットワーク解
析機」を作ったのです。
 ブッシュのチームは、このネットワーク解析機の機能をさらに
強化させて「微分解析機」を作ります。これを使うと、6段まで
の微分方程式を解くことができるのです。このようにいうと、縁
遠い世界の話に聞こえますが、この微分解析機は「アナログ・コ
ンピュータ」なのです。当時のコンピュータは「アナログ」だっ
たのです。
 このアナログ・コンピュータの開発に当ってブッシュは、同じ
MITで教授をしていたノーバート・ウィナーに何度も相談し、
開発を進めたといわれています。ウィナーは、天才数学者といわ
れ、その著書、『サイバネティックスはいかにして生まれたか』
はあまりにも有名です。
 これで、多少大雑把ではありますが、フォン・ノイマン、ヴァ
ネヴァー・ブッシュ、ノーバート・ウィナーの3人がつなががっ
たと思います。月曜日はこの話をさらに進めます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/06]


≪画像および関連情報≫
 ・脇英世著、『インターネットを創った人たち』(青土社刊)
  には、微分計算機について次のように出ている。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  微分計算機は遅い。原理的には積分は円盤が回転し終わらな
  ければ終了しないからだ。何回も積分操作が入れば演算時間
  はそれだけ長くかかることになる。手回し計算機で計算する
  より、50倍程度速かっただけだそうだ。電卓に手の生えた
  程度の計算速度だろう。
  ―――――――――――――――――――――――――――

フォン・ノイマン.jpg
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2009年10月05日

●アナログにこだわるヴァネヴァー・ブッシュ(EJ第1667号)

 ここまで、ヴァネヴァー・ブッシュという一人の優れた科学者
が、いかに最高の政治的権力を持つにいたったかについて述べて
きましたが、彼にも大きな問題点があったのです。
 フォン・ノイマンは、かねてからコンピュータの開発が国家に
とっていかに重要であるかということを考えていたのです。彼の
考えているコンピュータは、単なる計算機ではなく、人間の機能
を拡張させるものだったのです。
 そのためには、コンピュータは可能な限り最新の機能を備えた
ものである必要があり、その観点からそれはデジタル技術のもの
である必要があったのです。当時はアナログ・コンピュータの時
代であり、デジタル・コンピュータの必要性はまるで理解されて
いなかったのです。
 しかし、コンピュータ――それもデジタル・コンピュータの開
発は途方もなくお金のかかるものであり、国家として開発すべき
ものである――そう考えたフォン・ノイマンは、太平洋大戦終了
後に、ヴァネヴァー・ブッシュに相談を持ちかけたのです。コン
ピュータについて理解できる頭を持ち、巨額な資金を動かせる政
治力のある人物は、ブッシュしかいなかったからです。
 ところが、ブッシュは、コンピュータはデジタルで開発しなけ
ればならないとするフォン・ノイマンの主張に真っ向から反対を
唱えたのです。ブッシュはアナログにこだわっていたのです。
 実はデジタル・コンピュータの必要性をブッシュに説いたのは
ノーバート・ウィナーの方が早かったのです。ウィナーは、19
40年9月に、デジタル・コンピュータのアイデアを書いた12
ページのメモをブッシュに送っているのです。
 しかし、ブッシュはこのウィナーの提案を拒否し、一顧だにし
なかったのです。彼は自らアナログ・コンピュータを制作してお
り、アナログに相当の思い入れがあったからです。
 このようにあくまでアナログにこだわるブッシュについてウィ
ナーは、次の言葉でそれとなく批判しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ヴァネヴァー・ブッシュは、頭で考えるのと同じ程度に
  手でも考える男である   ――ノーバート・ウィナー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これはどういう意味かわかるでしょうか。
 ちょっと考えると褒めているようですが、これは批判している
のです。ウィナーは、ブッシュの、機械のかたちでしか物事を理
解できない想像力の欠如というか限界について、精一杯の皮肉を
込めて「手でも考える男」といったのです。
 PCを例に上げると、今の世の中でも、PCというものを「ひ
とつの機械」としてしか認識できない人はたくさんいます。PC
はハードウェアとソフトウェア(OS+アプリケーション)から
成るマシンですが、ソフトウェアというものがどうしても認識で
きない人がいるのです。したがって、そういう人は、OSの不具
合もアプリケーションのバクも、すべてPCという機械の故障と
しかとらえられないのです。PC全体をハードウェアとして認識
しているからです。
 しかし、そうだからといって、ブッシュという科学者の能力が
低いということにはならないのです。なぜなら、その当時は世の
中すべてがアナログの時代であり、むしろ、そういう時代にデジ
タルの必要性を説くフォン・ノイマンやノーバート・ウィナーの
能力が人並み外れて高かったと考えるべきです。
 ブッシュは、「メメックス(MEMEX)」という機械のアイ
デアを発表しています。これは、太平洋戦争終結直前の1945
年7月の「アトランティック・マンスリー」誌に次のタイトルで
掲載された論文に出ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『われわれが思考するごとく――As we may think』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文は、戦争終結後、科学者は次に何をするべきかについ
て論じたものです。それでは、メメックスとはどういう機械なの
でしょうか。論文には次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それは机でできている。そして多分遠方からも操作できるが
 原則的には人が仕事をする家具である。上部には傾斜した透明
 なスクリーンがあって、その上に楽に読めるように資料が投影
 される。キーボード、ボタンのセット、レバーもある。それら
 がなければ、それは普通の机のように見える。
  一方の端には保存された資料がある。大部分は改良マイクロ
 フィルムに処理されている。メメックス内部のわずかな部分だ
 けが記憶装置になっていて、残りは機構装置である。それでも
 ユーザーが一日に5000ページ分の資料を挿入したとしても
 その貯蔵所を満杯にするには何百年もかかるので、ユーザーは
 浪費が許されて、資料を自由に入れることができる。
  メメックスのコンテンツの大部分は、すぐにも機械に挿入で
 きるマイクロフィルムで買うことができる。  ――脇英世著
      『インターネットを創った人たち』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メメックスは、一種のマイクロフィルム検索装置と考えられま
す。仕事の資料はマイクロフィルムに映しとって、保存スペース
におさめて、検索してスクリーンに映し出して利用します。再生
するだけではなく、自分のコメントを書き込むこともできます。
何となく現在のPCのような使い方です。
 当時としては驚くべきアイデアといえますが、装置としては、
1930年代のアナログ装置そのものです。ブッシュは、テキス
ト(文字)だけでなく、画像や音声までをメメックスの情報とし
て扱うことを考えており、そういう意味でメメックスはマルチメ
ディア・マシンと呼ぶことができます。しかし、このマシン、ア
ナログではありますが、現代に通じるアイデアも豊富に含まれて
いたのです。明日のEJで述べます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/07]


≪画像および関連情報≫
 ・MEMEX――ブッシュがメメックスのアイデアを得た時期
  は「われわれが思考するごとく」発表の10年以上前のこと
  である。

MEMEX.jpg
MEMEX
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2009年10月06日

●ENIACからMANIACへ(EJ第1668号)

 ヴァネヴァー・ブッシュはこう考えたのです。あるテーマにつ
いて思考しようとするとき、その思考のための準備行為――とく
に関連資料の収集に膨大な時間がかかる――これを何とかできな
いものかと考えていたのです。この解決策としてメメックスの構
想が生まれたのです。
 メメックスの長所は資料の検索が柔軟にできることです。情報
を記述した通常のテキストは、ページ順に読まなければならない
のですが、メメックスの場合は読む順序は自由に決められ、さま
ざまなテキストを横断して、反復して読むことができるのです。
そして道筋を記憶させておくことによって、元の場所にも簡単に
戻れる――テキストの革命です。
 このアイデアは、のちに「ハイパーテキスト」と呼ばれて、コ
ンピュータによる情報処理の重要なコンセプトになるのです。さ
らにその情報はテキストだけでなく、ヴィジュアルの資料や音声
を含んでいたのです。メメックスにおいて写真を取り込み、何ら
かの方法で音声や動画まで扱うことまで考えていたのです。これ
は、マルチメディア・マシンそのものです。
 ヴァネヴァー・ブッシュをテーマに一冊の本を書いた歌田明弘
氏は、その本の中で次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (ヴァネヴァー・ブッシュが)50年代末に書いた『メメック
 スU』というエッセイでは、ブッシュは、電話線を介して、図
 書館のメメックス・マシンで必要な文献を検索し、ファクシミ
 リを使ってそのまま自宅のメメックスにとりこむことも考えて
 いる。実際、いまや、電話線をとおして、デジタル化されたデ
 ータをいながらにして入手し、自分のコンピュータにおさめて
 利用することができる。
 ――歌田明弘著『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
          シュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべし、これは、現在の「インターネット」そのものではな
いでしょうか。ヴァネヴァー・ブッシュは今から実に55年も前
に、今日のコンピュータ文化を予見していたのです。
 これほど優れた学者であるブッシュですが、なぜ、コンピュー
タの開発に関してはアナログにこだわり、デジタルを拒否したの
でしょうか。
 それは、フォン・ノイマンらが中心になって開発が進められて
いた世界初のデジタル・コンピュータENIACは相当ひどい代
物だったのです。動作はきわめて安定せず、雷雲がくると調子が
おかしくなるしまつです。
 ENIACを見たIBMの創業者の息子で、後に同社会長にな
るトーマス・ワトン・ジュニアは、世界で初めて稼動したENI
ACを見たとき、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あのENIACはせいぜいが興味深い実験装置であって、われ
 われとはおそらく無縁だろう。
              ――トーマス・ワトン・ジュニア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あのIBMですらこうだったのです。つまり、ビジネスパーソ
ンの目から見ると、ENIACは「金ばかりかかる信頼性の低い
マシン」であり、とても使い物になるとは見えなかったのです。
ある意味では、ビジネスマン的な合理性を持つブッシュとしては
納得のいくマシンとは思えなかったのでしょう。
 しかし、フォン・ノイマンは違っていたのです。コンピュータ
はデジタルであるべきだという信念を持っていたのです。ノイマ
ンは、マンハッタン計画での原爆開発のプロセスにおいて、ブッ
シュの開発したアナログ計算機を使っており、その限界を嫌とい
うほど知っているからです。
 ENIACの開発が終了したときの最初の計算は、フォン・ノ
イマンが主導して行っています。実際には1945年12月から
翌年の1月にかけて、ロスアラモスの2人の物理学者によって行
われたのです。
 計算内容は、水爆開発のための予備的な計算である3つの微分
方程式を解くもので、そのためのデータが打ち込まれた約50万
枚のパンチカードがENIACの設置されているペンシルヴァニ
ア大学に運ばれたのです。
 ENIACはこの計算を約6週間で仕上げています。もし、ア
ナログ計算機で行ったら、100人で1年はかかっていたはずで
あり、かなりのスピードであることが証明されたのです。ENI
ACによる計算の状況を見て、フォン・ノイマンは、プログラム
をコンピュータに内蔵させるというアイデアを思いつくのです。
 それまでのデジタル・コンピュータは、ひとつの計算が終了す
るたびに機械をリセットし、次の計算を行うという効率の悪いも
のだったのです。
 ノイマンは、コンピュータに記憶装置を作り、そこにプログラ
ムをデータとして格納し、これを順番に読み込んで計算するとい
うコンピュータを提案したのです。これなら、いちいちリセット
することなく、連続して計算することができるからです。
 これは「ストアドプログラム方式」――ノイマン型コンピュー
タと呼ばれ、現在のコンピュータの基になったのです。ノイマン
はこのアイデアを海軍に気候予測の計算のためと称して売り込み
1952年3月から稼動をはじめています。その名前は次のよう
につけられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Mathematical Analyzer Numerical Integrator and Computer
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この頭文字をとると、MANIAC(マニアック)となるので
す。ENIACからMANIACへ−−海軍は正式な開発をIB
Mに委ねます。当社とは縁のないもの――当初のワトソンの言葉
からの180度転換です。   
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/08]


≪画像および関連情報≫
 ・歌田明弘著、『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
  シュ/原爆・コンピュータ・UFO』/エピローグより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  原爆とコンピュータ・カルチャーとUFO。ブッシュという
  名は、いま、相互に何の関係があるかわからないこの三点の
  うえに位置している。「現代はどういう時代なのか」という
  問いに答えるのは容易ではない。だが、強いて答えるなら、
  この奇妙な三角形のうえにいるヴァネヴァー・ブッシュとい
  うこの男の有りように、それを見てとることができる、と言
  えるかもしれない。
  ―――――――――――――――――――――――――――

V・ブッシュと歌田氏の本.jpg
V・ブッシュと歌田氏の本
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2009年10月07日

●クロード・シャノンは何をやったか(EJ第1669号)

 ヴァネヴァー・ブッシュのもうひとつ大きな業績は、クロード
・シャノンという人物を世に出したことです。ところで、クロー
ド・シャノンという人物をご存知でしょうか。
 アインシュタインを知らない人はいないでしょうが、シャノン
の名前は意外に知られていないのです。何はともあれ、彼は何者
であり、何をやったのかを明らかにする必要があります。
 クロード・シャノン(1916〜2001)は、情報理論の創
始者なのです。ヴァネヴァー・ブッシュのアナログ・コンピュー
タもフォン・ノイマンのデジタル・コンピュータ――いずれもコ
ンピュータは「計算機」であり、そこには「情報」という概念は
存在しなかったのです。この「情報」という概念を作ったのが、
シャノンであり、もし、シャノンなかりせば情報処理マシンとし
ての現代のコンピュータは誕生していなかったといえます。
 19世紀から20世紀にかけての100年間は物理学の時代と
いわれます。すべてのものは物理学で説明できると考えられてい
た時代なのです。
 そういう時代にクロード・シャノンは、次のようなことをいっ
ていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  物理学だけでは解き明かすことができないものがある
  それが「情報」である   ――クロード・シャノン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンの情報の概念を説明する有名な話があります。タイプ
ライターをサルに与えて、タイプの打ち方を教えたとします。サ
ルは利口ですから、タイプライターを打つことはすぐ覚えてしま
うはずです。
 しかし、打ち出された紙には意味不明の文字が並んでいるだけ
です。一方、人間がタイプライターを使ってシェイクスピアの文
章をタイプしたとします。
 この人間が打ったシェイクスピアの文章が印字された紙とサル
が打った意味不明の文字を印字した紙とは、物理学の観点から見
れば、物質の構成も、光の反射もほとんど同じものです。しかし
人間が見ればその差は歴然としています。
 この物理学で測ることのできない「差」こそ「情報」であると
シャノンはいうのです。物理学では、世界は物質とエネルギーで
作られているとされてきたのですが、シャノンは宇宙を形作る第
3の要素として「情報」というものを指摘したことになります。
 クロード・シャノンの優れた業績には次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.情報のコード化
         2.情報の最小単位
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンの優れているところは、「物理学では情報を扱うこと
はできない」と指摘しただけでは終わらなかったところにあると
いえます。当時「情報」という言葉は既に存在したのですが、き
わめて曖昧に使われていたのです。
 シャノンは「情報」を科学的に定義し、数式や方程式で扱える
ようにしたのです。それを可能にしたのが「情報のコード化」な
のです。情報のコード化の最も分かりやすい例として「モールス
信号」をあげることができます。
 モールス信号は、「トン」(短音)と「ツー」(長音)という
2種類の信号の組み合わせで、文字を伝える方法です。添付ファ
イルに、アルファベットのモールス信号を付けておきますが、こ
れを見ると面白いことがわかるのです。
 英文の中に使われる文字には、よく使われる文字とそうでない
文字があり、統計的に判明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪最もよく使われる文字≫
  E ・・・ −         トン
  T ・・・ ――        ツー
 ≪あまり使われない文字≫
  Q ・・・ ―― ―― − ――  ツー・ツー・トン・ツー
  Z ・・・ ―― ―― −    ツー・ツー・トン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。最もよく使われる文字は短く、あまり使われな
い文字には長い音を割り付けています。少しでも早く情報を伝え
るための処置といえるでしょう。これがシャノンの考えた「情報
のコード化」なのです。
 これに加えてシャノンは「情報の基本単位」を明らかにしてい
るのです。物理学では、物資の基本となるものは「原子」である
としています。あらゆる物質は原子から作られている――正確に
いえば、原子を構成する素粒子である――情報の世界にも最小の
単位があることを明らかにしているのです。
 この情報の最小単位を「ビット」というのです。ビットとは、
「0」か「1」ということになります。シャノンは「ビットこそ
が最も基本的な情報であり、あらゆる情報はビットの単位に分解
できる」と指摘したのです。これは、ありとあらゆる情報は2進
数で表現できるということを意味しています。
 さらにシャノンは、ビットの単位までコード化できるのは、数
字だけではなく、文字、音、映像といった情報もビット化するこ
とができるとしたことです。それだけではないのです。空気の温
度や天体の運動という物理的変化・・・この世の中にあるすべて
の情報はビット化できるシャノンはいっているのです。
 このシャノンの理論から、次のように、アナログとデジタルの
考え方が出てきているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    アナログ ・・・ コード化されていない情報
    デジタル ・・・ コード化されている 情報
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/09]


≪画像および関連情報≫
 ・クロード・シャノンの略歴
  クロード・シャノンは1916年米国ミシガン州ペトスキー
  で生まれる。小さい頃から自分でものを作るのが好きな少年
  だったらしい。1932年に地元のミシガン大学に入学し、
  電気工学と数学を専攻。ここで学んだジョ−ジ・ブールの記
  号論理学は後に彼の情報理論に大きな役  割を果たすこと
  になる。1936年に卒業するとマサチューセッツ工科大学
  の研究助手になり、同時に大学院に進んだ。ここで、ヴァネ
  ヴァー・ブッシュが作った微分解析機の操作を担当している
  うちに、解析機のリレー回路をもっとうまくできないものか
  と考え、記念碑的な修士論文を書き上げる。1940年、M
  ITの博士課程を卒業し、数学博士号を取得した。その後、
  プリンストン大学にいたヘルマン・ワイルのもとで研究して
  いたが、第二次世界大戦の勃発のため1941年にベル研究
  所に入り、対空防御システムの研究を行った。戦後もベル研
  究所に残り、情報通信理論の研究をすることになった。この
  時代に情報理論の基礎的な仕事をした。1956年MITの
  教授に招かれた。一時期は一輪車で通う名物教授だったそう
  だ。1978年に引退し、2001年に逝去。

クロード・シャノンとモールス信号.jpg
クロード・シャノンとモールス信号
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2009年10月08日

●コンピュータは電子計算機にあらず(EJ第1670号)

 中高年の人はコンピュータが苦手である――日本ではこれが通
り相場になっています。日本では大企業の社長や役員、ベテラン
の政治家、財界の大物など、一部の例外はあるものの、コンピュ
ータはダメのようです。そういう人たちの中でかなり使える人が
いると、それはニュースになるほどです。
 それでもコンピュータ関連の大企業のトップは違うだろうと考
える人がいるかもしれませんが、私の知る限り、そういう業界で
も使いこなせる人はあまりいないと考えてよいと思います。紺屋
の白袴は意外に多いのです。
 どうしてかというと、彼らはコンピュータを次のように考えて
いるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      コンピュータは「電子計算機」である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、PCを使う場合、一番多いのはワープロ、次いでイ
ンターネット関連の操作でしょう。ワープロは文章を作成するも
のですが、この場合、コンピュータを電子計算機と考えている人
は、「電子計算機」と「文章作成」の関係がわからないのです。
「なぜ、文章を作成するのに計算が必要なのか」と考えてしまう
からです。
 また、インターネットでメールを受発信する――なぜ、計算機
にそんなことができるのか――これも理解できないのです。さら
に、コンピュータが「スカイプ」のように電話にもなるといわれ
ると、完全に理解不能に陥ってしまいます。
 前回までに述べたように、かつてコンピュータは電子計算機そ
のものだったのです。主として砲弾の弾道計算に使われていたわ
けです。しかし、シャノンの情報理論によって、コンピュータは
単なる計算機ではなくなり、その可能性は一挙に拡大し、何でも
できる魔法のマシンと化したのです。
 ワープロは、「文字」という情報をコード化し、ビット化する
ことによって、実現されています。これにデジタル化ということ
が深く関連してきます。アナログからデジタルへ――この代表的
な例として、音楽CDやMDがあります。
 かつてのレコードは、音の情報をレコード盤の溝に刻み込み、
それをレコード針がなぞることによって再生しています。レコー
ドの音の情報は切れ目がなく、連続しています。これは、アナロ
グ情報であり、コード化されていない情報です。
 これに対して、CDやMDは音が連続していないのです。少し
専門的にいうと、CDの場合、44.1KHz(キロヘルツ)ご
とに音を分割してしまうのです。44100分の1秒の単位で分
割するのです。これを「サンプリング――標本化」といいます。
 次に、その分割された音の情報(音圧の高さ)をビットのかた
ちにコード化するのです。つまり、0と1の2進法のデータに変
換するのです。これを「量子化」といいます。
 したがって、CDには音の波形そのものは記録されておらず、
そこに記録されているのは、アナログの音をこま切れにしてビッ
ト化した0と1の情報だけなのです。
 それでは、なぜ、44.1KHzでサンプリングするのかとい
うと、このレートの場合、ちょうどその半分に当る22KHzま
での高音が正確に再現されるからです。なぜ、22KHzかとい
うと、人間の耳にはこのレベルまでしか聞こえないからです。
 したがって、理屈の上では、音の情報をできるだけ細かくサン
プリングした方が音に忠実にデジタル化できるのですが、聞こえ
なければ意味がないということで、44.1KHzでサンプリン
グしているのです。
 絵画や写真についてもデジタル化は可能です。
 まず、絵や写真を細かい升目に分割します。これはサンプリン
グ――標本化ですね。次に、その升目のそれぞれについて、その
中の色を読み込み、あらかじめ決めておいた対応表にしたがって
色を数値に置き換えるのです。これは量子化です。このようにす
ると、絵画でも写真でも単なる0と1の数字情報と化してしまい
コンピュータで扱うことができるのです。
 このようにシャノンの情報理論によって、コンピュータは単な
る計算機から情報を処理するマシンに変貌したのです。したがっ
て、コンピュータは電子計算機ではなく、「EDPS」と定義す
べきです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      E ・・・ Electronic  電子の
      D ・・・ Data     データを
      P ・・・ Processing  処理する
      S ・・・ System    システム
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまでの説明で、シャノンがコンピュータの発達にどれほど
貢献したかについてはわかっていただけたと思います。また、情
報理論は通信の発展にも大きく寄与したのです。
 しかし、このクロード・シャノン――かなり変わり者であった
ようです。そして、大のマスコミ嫌いで、彼に関する情報はあま
りにも少ないのです。
 シャノンは1916年4月30日にミシガン州のゲイロードと
いう小さい町で生まれています。祖父は発明家で、父親は判事、
母親はドイツ移民の娘でゲイロードの高校の先生だったのです。
 1932年にゲイロード高校を卒業し、16歳でミシガン大学
に入学しています。数学と物理が好きで、機械いじりや電子工作
が得意であったといいます。1936年に電気工学科と数学科を
卒業するという2学科専攻のダブル・メジャーを達成しており、
成績は抜群であったといわれています。
 そのときMITで微分解析機を保守する研究助手を募集してい
たので、それに応募して採用されています。ヴァネヴァー・ブッ
シュとの接点はここで生まれるわけです。MITでシャノンは大
活躍をはじめるのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/10]


≪画像および関連情報≫
 ・CDの音は「冷たい」?
  CDの音が物足りないという人が少なくない。そして、それ
  は音をぶつ切りにしているせいであるという人がいる。CD
  の音を聞き慣れている若者の間で、最近LPがブームになっ
  ていると聞く。LPはアナログで音をカットしておらず、聴
  くと雑音は入るものの、何となく音が「温かい」から人気が
  あるというのである。
 ・SACDというものがある。これは、100KHzまで録音
  可能であるという触れ込みである。私はSACDのプレーヤ
  を持っており、聴いてみたが、普通のCDに比べて別にどう
  ということはない。専門家に聞くと、SACDの音を満足に
  聴くには、超音波帯を再生可能な高性能スピくーカが必要で
  あるという。こんなものが普及するはずがないと思うが。

サンプリングと量子化.jpg
サンプリングと量子化
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2009年10月09日

●ブール代数とクロード・シャノン(EJ第1671号)

 1936年にMITの電気工学科の研究助手になったクロード
・シャノンは、その翌年の1937年に次の論文を発表して注目
されます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     リレーとスイッチング回路の記号分析
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンは、ヴァネヴァー・ブッシュの開発した微分解析機に
取り組むうちに、微分解析機で使われている複雑なリレー回路は
ミシガン大学の数学科で習った記号論理とブール代数の0と1の
2進法に置き換えられることに気がつき、そのことを上記の論文
にまとめたのです。
 この論文はブッシュの推薦文によって、「38年AIEE」と
いう学術誌に投稿され、掲載されたのです。ときにシャノンは弱
冠22歳――この年齢で学術誌に論文が掲載されるのは、異例の
ことなのです。
 ところで、「ブール代数」とは何でしょうか。
 実はブール代数は、コンピュータにも通信にも関係があるので
簡単に説明をしておきたいと思います。少し理屈っぽくなります
が、しばらく付き合ってください。
 ブール代数を考え出したのは、ジョージ・ブール(1815―
1864)という英国の数学者です。この理論は、もともと論理
学のために考え出されたものです。
 ジョージ・ブールが現れるまでは、論理学は哲学の一種である
と考えられていたのです。ブールは、論理や推論を何とか数学に
置き換えることはできないものかと考えていたのです。
 しかし、人間が使っている10進法で考えている限り、それは
不可能なことだったのです。もし、10進法でやるとしたら、あ
まりにも複雑になってしまうからです。そんなとき、ふと「2進
法でやったらどうか」という考え方が浮かんだのです。論理が正
しければ1、間違っていれば0、これを基礎にして論理の数学化
を試みたのです。
 具体的にいうとジョージ・ブールは、AND、OR、NOTと
いう3つの演算子を使って「論理回路」というものを作ったので
す。これを論理代数学というのです。論理代数学には、次の3つ
の演算があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       AND演算 ・・・ 論理積
       O R演算 ・・・ 論理和
       NOT演算 ・・・ 否 定
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1は「AND演算」です。
 「A AND B = C」という数式について考えます。こ
れは「〜かつ〜」という意味になります。論理学的な言葉でいう
と、「Aが正しくかつBも正しいときだけ、Cも正しい」という
ことになります。
 第2は「O R演算」です。
 これは「〜または〜」という意味になります。同じ数式につい
て考えると、「AかBのどちらかが正しければCは正しい」とい
うことになります。
 第3は「NOT演算」です。
 これは「〜ではない」という否定です。これは、ANDやOR
と違って2つの数値から答えを出すためのものではないのです。
「Aが正しいときNOT−Aは間違いであり、Aが間違いである
とき、NOT−Aは正しい」ということになります。
 なぜ、このような演算をするのかというと、これらはいずれも
2進法で表現できるからです。例えば、上記の「AND演算」は
次のように2進法で表現できます。ちなみに、1は「真」であり
0は「偽」を表しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          A  B  C
          0  0  0
          0  1  0
          1  0  0
          1  1  1
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 0と1をベースとして作られているブール代数の理論は、2進
数で計算する電子回路の設計にそのまま使えるのです。コンピュ
ータを開発しようとしていたエンジニアが飛びついたのは当然の
ことといえます。AND、OR、NOTを組み合わせれば、どの
ような計算も可能になるのです。
 クロード・シャノンの論文を高く評価したヴァネヴァー・ブッ
シュは、今後ブール代数が通信工学全般に大きな影響を及ぼすこ
とになるとして、シャノンにMITの数学科でさらに勉強をする
よう勧めたのです。
 シャノンはこれを受け入れ数学科の博士課程に進み、1940
年に博士号を授与されています。その後、シャノンはプリンスト
ン大学の先進研究所(IAS)を経由して、1941年にベル研
究所に移籍し、そこで15年間を過ごすのです。
 そして、1948年に彼は論文を発表します。それはシャノン
の最も有名な論文になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         『通信の数学的理論』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文は、雑音の存在する通信チャンネルで、ひずみのない
信号を送ることができるということを証明してみせたのです。こ
の論文は各界に大きな衝撃を与え、クロード・シャノンは一躍有
名になるのです。しかし、彼は有名になることや人前に出ること
を嫌い、世間から身を隠すようになります。そして、シャノンは
正統的な通信理論を離れ、AI(人工知能)の研究に傾斜してい
くのです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/11]


≪画像および関連情報≫
 ・1桁同士の足し算の回路
  AND、OR、NOTを組み合わせると、あらゆる演算が可
  能になる。コンピュータは数多くの論理回路の組み合わせで
  できている。参考までに、添付ファイルには「1桁同士の足
  し算の回路」を付けてある。
  坂村健著、『痛快!コンピュータ学』より。集英社インター
  ナショナル刊

ジョージ・ブールと論理回路.jpg
ジョージ・ブールと論理回路
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2009年10月13日

●サイバネティクスとは何か(EJ第1672号)

 ノーバート・ウィナーが提唱する「サイバネティクス」――こ
れは、生物から機械までの通信や制御に関する一般理論といわれ
ています。サイバネティクスに該当する日本語は「操舵」という
ことばになります。
 「操舵」とは船を操ること――船の舵を取る、操縦することを
をいいます。ちょうどいま、私は福井晴敏さんの小説、『亡国の
イージス』(講談社刊)を読んでいるのですが、その中に次の一
節が出てきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのひと言で口もとを引き締め、引き下がった竹中を背にした
 宮津は、「応急操舵やめ。部署復旧だ。それから艦内に状況を
 通達」と立て続けに指示を出した。
    ――福井晴敏著、『亡国のイージス』(講談社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「応急操舵」というのは、船舶が航行中、船橋からの舵の操作
ができなくなった場合、その船舶は操縦がきかなくなり、とても
危険な状態に陥ることがある――そういう場合、応急的に舵を直
接人力で操作して、危機を脱出することをいうのです。
 変転する環境をかいくぐって、あらかじめ決められた目標へ直
線的に向い、最適コースをとるシステムと違って、行き過ぎたり
戻り過ぎたりするが目標に向って進む――これが「操舵」であり
サイバネティックスなのです。
 久里浜港から大島までの大島航路の船長さんの話です。普通港
から船を出すときは、あらかじめ進路を計って方向を定め、その
方向に向って出すものと素人は考えます。
 しかし、実際はそんなことはしないそうです。もちろん大島へ
の航路図はありますが、出航するときは、錨を上げて、港を出る
と、船長の判断で船を大島の方向に向けて30分ほど走らせるの
です。そのうえで船の現在位置を測り、航路とずれがあるときは
修正し、また、しばらく走らせる――これを何回か繰り返して目
的の大島港に時間通りに到着させるのです。
 この考え方がサイバネティクスなのです。目標に向う道筋にお
いて、ずれがあるときは素早くそれを察知し、自動的に方向を修
正し、最終的には目標に達する――つまり、自動制御の考え方で
す。人間の脳には、こういうシステムが備わっており、具体的な
目標が設定されると、そのシステムが作動するとされています。
 このサイバネティクスの原理を応用して巡航ミサイルが開発さ
れています。目標が設定されると、目標物が方向を変更しても追
尾して爆破する恐るべき兵器です。
 このウィナーの理論に心酔していたひとりにJ・C・R・リッ
クライダーがいます。J・C・Rはジョセフ、カール・ロブネッ
トの略です。
 リックライダーは、ウィナーが開催していたセミナーに積極的
に参加し、人間の脳が音声を知覚するメカニズムの理論モデルに
ウィナーの方法論が使えることを知ります。
 さて、このJ・C・R・リックライダー――これから詳しく紹
介することになる人物ですが、「リックライダーはインターネッ
ト開発の父である」といってもよいほど、インターネットに貢献
した人物であるのに多くの人に知られることなく、1990年に
この世を去っています。
 リックライダーは、音響学の専門家であり、ロチェスター大学
で博士号を授与されていますが、修士論文と博士論文のタイトル
は、次のように変わったものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 修士論文:猫の集団と睡眠について
 博士論文:猫の聴覚皮質での周波数局在に関する電気的研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーは大変な猫好きなのですが、これには理由があ
るのです。彼はミズリー州のワシントン大学在学中に父の会社が
倒産して、大学に通う学資が不足してしまいます。そこで、大学
の心理学科の実験用動物の世話をするアルバイトをやりながら大
学に通ったのです。その実験用動物の中に猫がおり、彼の生理心
理学への接近と猫好きをもたらしたのです。
 リックライダーの興味は非常に広範であり、化学、物理、美術
心理学まで及んでいます。そして、大学では、心理学科、数学科
物理学科の3学科を卒業しています。
 あのクロード・シャノンが、電気工学科と数学科のダブル・メ
ジャーであったのに対して、リックライダーは3学科卒業のトリ
プル・メジャー――こういうケースはとても珍しいそうです。し
かし、主たる関心は生理心理学であったといいます。
 心理学が専攻のリックライダーが、なぜ音響学の専門家になっ
たのか――これには理由があります。彼は1942年に博士号を
取得すると、すぐにモスクワ大学の準研究員としてゲシュタルト
心理学を研究する予定になっていたのです。
 ところが1942年の夏にある出来事が起こったのです。その
出来事とは、ハーバード大学心理音響研究所の所員の募集があっ
たことです。リックライダーにとって、これは非常に魅力的な募
集であり、応募したところ採用されたのです。
 それにこの心理音響研究所の所長というのがレオ・ベラネック
博士であり、リックライダーがかねてから崇拝していた人物だっ
たからです。レオ・ベラネックはハーバード大学の音響学の専門
家だったのです。
 この心理音響研究所は、戦争に際して実際的な音響学の研究が
必要であるとして、空軍によって設立されたのです。後にレオ・
ベラネック博士はBBN社を創設することになるのですが、この
BBN社こそ、インターネットの前身といわれるARPAネット
の構築を最初に請け負うことになるのです。
 この研究所でのリックライダーの研究テーマは「受容の理論と
音声の理解度」というものですが、これを契機に彼は音響の研究
打ち込むようになります。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/12]


≪画像および関連情報≫
 ・サイバネティクス
  20世紀に入って確立された、主に生物と機械における通信
  ・制御・情報処理を総合して扱う学問の総称。「サイバネテ
  ィクス」という言葉の由来はギリシア語の kysernetes にま
  で遡るが、現在流通しているような「サイバネティクス」の
  意味を定着させたのはアメリカの数学者ウィナーの『サイバ
  ネティックス――動物と機械における制御と通信』(池原止
  戈夫ほか訳、岩波書店刊)である。

サイバネティクス.jpg
サイバネティクス
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2009年10月14日

●ワールウインド計画と北米防空システム(EJ第1673号)

 空軍の後ろ盾のある新設の心理音響学研究所というと、いかに
も立派な研究施設のように聞こえますが、実は間借りしたビルの
地下1Fにあったのです。そして、そのビルというのは、ビクト
リア様式とゴシック様式を混ぜたような前時代的なメモリアル・
ホールの建物であり、とくに地下1Fはダンジョン(地下牢)と
いわれる狭く薄暗い環境であったといいます。
 このダンジョンでリックライダーは、ひたすら軍事研究に打ち
込んだのです。例えば、高度1万メートルを飛行する重爆撃機B
−17やB−24の機内での搭乗員の会話の受ける影響の研究な
どがそうです。
 リックライダーは、心理音響学研究所でのこうした研究のかた
わら、ハーバード大学の講師をしたり、当時MITで行われてい
た「潜水艦の探知の研究」や「防空研究所の設立研究」などの軍
事研究にも積極的に関わっていたのです。
 MITの防空研究所の設立計画――この計画は1951年8月
にMITリンカーン研究所として実るのですが、これに関しては
少しその背景について述べる必要があると思います。
 そもそも防空研究のはじまるきっかけは、1949年8月にソ
連が原爆開発に成功したことによるのです。北極を越えてソ連の
爆撃機が核攻撃を加えてきたらどうするか――この危険性をいち
早く米空軍に指摘したのは、空軍の科学顧問を務めるMITのジ
ョージ・バレー教授だったのです。このバレー教授こそ第2次世
界大戦中に爆撃用のレーダー照準器を開発した人なのです。
 空軍はただちに防空システム技術委員会を作り、バレー教授を
を委員長に任命します。最初に委員会は、ソ連の長距離爆撃機の
北米侵入阻止率を試算したところ、わずか10%という結果が出
たのです。ほとんど阻止不能という結論です。
 そこで委員会は、北米防空システムを実現するために防空研究
所の設立を提案し、それを受けて空軍は、MITに防空研究所を
設けることを決定します。この設立をめぐってMIT内にいろい
ろ反対意見が出たのですが、1951年にMITリンカーン研究
所は設立されることになるのです。
 それまでMITにおいて軍事研究に深く関わっていたリックラ
イダーは、1950年にMIT音響研究室に移籍し、1951年
にリンカーン研究所ができると同研究所の研究員になります。そ
して、防空指揮統制システムのレーダー画面にどのような情報を
表示させるかという研究に没頭することになります。
 さて、バレー委員会はもうひとつ重要な提案をしています。北
米防空システムを実現するにはコンピュータが必要であるとして
「ワールウインド・コンピュータ」を推薦したことです。ところ
で、この「ワールウインド・コンピュータ」とは何でしょうか。
 第2次世界大戦後、MITはバレー教授の率いるレーダーの分
野ではほとんど独走していたのですが、デジタル・コンピュータ
の分野では大きく遅れていたのです。
 その一番の原因はヴァネヴァー・ブッシュの存在です。彼はア
ナログ・コンピュータにこだわっており、デジタル・コンピュー
タにはまるで意を払わなかったのです。
 しかし、MITにとって救世主がいたのです。その救世主とは
MITのサーボ機構研究所にいたジェイ・フォレスターという人
物です。ジェイ・フォレスターは1918年の生まれであり、ク
ロード・シャノンよりも2歳年下であったのです。
 1944年12月、MITサーボ機構研究所は海軍とフライト
・シミュレータの委託研究を契約するのですが、この研究がフォ
レスターに回ってきたのです。これは、アナログ・コンピュータ
を使うことを前提にしたシステムです。
 しかし、研究を進めるうちにフォレスターは、リアルタイムで
動作するフライト・シミュレータを作るにはアナログ・コンピュ
ータでは無理であるという結論に達したのです。1946年1月
フォレスターは海軍にデジタル・コンピュータの採用を提案し、
3月に正式に承認されるのです。そして、この計画は「ワールウ
インド計画」と呼ばれるようになったのです。この「ワールウイ
ンド」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         Whirlwind ―― つむじ風
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、「ワールウインド計画」は途方もなくお金がかかった
のです。当初の見積もりでは2年間で87万5000ドルだった
のですが、1946年3月のスタート時点では190万ドルに増
加し、次の年の1947年には300万ドルに膨れ上がるという
具合です。しかも、それから15年間の費用見積もりは実に10
億ドルというのですから、発注者の海軍は唖然としたのです。
 これがいかに凄い数字であるかは、ペンシルヴァニア大学開発
のENIACが60万ドルしかかかっていないことを知れば十分
でしょう。
 海軍はこの金額を聞いてすっかりやる気をなくし、フォン・ノ
イマンが開発を進めるIASコンピュータに乗り換えようとしま
す。しかし、このときワールウインド・コンピュータは、ほぼ完
成していたのです。
 それは当時としては驚くべきほど高速であり、しかも、このコ
ンピュータの最大の特色は、対話型ディスプレイを持つ画期的な
ものであったことです。当時のコンピュータには対話型ディスプ
レイを持つのはなく、かくしてMITはデジタル・コンピュータ
においても確固たる地位を築くことになるのです。
 バレー委員会の推薦のお陰で「ワールウインド計画」は存続が
決まります。1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発もこの計画
の追い風となります。この計画は、MITサーボ機構研究所から
独立し、MITデジタル・コンピュータ研究所に昇格します。
 このワールウインド計画の対話型コンピュータは、ヒューマン
・インタフェースに関心を持つリックライダーに大きな影響を与
えることになるのです。・[インターネット歴史 Part1/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ワールウインド・コンピュータの概要
  ―――――――――――――――――――――――――――
  3300本のストレージ管、8900個のクリスタル・ダイ
  オードを使い、巨大な二階建ての建物に収容されていた。建
  物の地下に大きな電源ユニットがあり、一階にストレージと
  通信ユニット、二階には中央処理装置とコンソール、CRT
  (ディスプレイ)が並んでいた。屋根には空調がついていて
  コンピュータの吐き出す膨大な熱を逃がしていたという。い
  わば建物全体がコンピュータの巨大な筐体であった。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

ワールウインド・コンピュータ.jpg
ワールウインド・コンピュータ
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2009年10月15日

●防空情報通信システム/SAGE(EJ第1674号)

 バレー委員会が進めようとしている対ソ連防空システムは、も
ともと空軍が計画したSAGE(セイジ)というシステムです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 SAGE = Semi-Automatic Ground Environment System
              ――――防空情報通信システム
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 SAGEは、大型高性能のコンピュータを多数作って全米に配
置し、電話回線を利用してレーダー・システムと接続するもので
す。脇英世氏の本からSAGEの概要を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 全米22箇所に、原爆攻撃に耐えられる厚い鉄筋コンクリート
 製の窓もない巨大な要塞のような指揮センターが設置されるこ
 とになっていた。各指揮センターには通信機器、空調設備、発
 電設備、戦闘指揮所、2台のAN/FSQ−7(コンピュータ
 の名前)が設置された。戦闘指揮所には、50台の巨大なモニ
 ターがあり、50人の将兵が常時はりついていた。さらにこれ
 らが全米100箇所のレーダー、高射砲部隊、迎撃戦闘機部隊
 と通信回線経由で結び付けられることになっていた。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バレー教授はこのSAGEにワールウインド・コンピュータを
使うことを決意したのです。1951年8月20日、ワールウイ
ンド・コンピュータは、マサチューセッツ州上空に侵入した2機
のプロペラ戦闘機をレーダーで捕捉、防空用の迎撃戦闘機を誘導
することに成功したのです。これによって、ワールウインド・コ
ンピュータの評価は大きく高まったのです。このSAGEこそ、
世界初のリアルタイム対話型コンピュータとなったのです。
 そして、SAGEには、IBMをはじめ、SDC、バローズ、
ウェスタン・エレクトリック、RCAなどの企業が参入してきた
のです。ちなみに、このSAGE計画によってIBMは世界最大
のコンピュータ・メーカになるきっかけを掴んでいます。それは
この計画のために56台の大型コンピュータを製造し、5億ドル
の利益を上げたからです。
 リックライダーは、かねてから、コンピュータを「インタラク
ティブ」にすればよいと考えていたのです。あたかも人間がコン
ピュータと対話するように、ユーザ自身がコンピュータで直接作
業できるようにする――こういう信念を持っていたのです。
 SAGEは、コンピュータネットワークによる情報システムの
先駆け的存在だったのです。しかし、当時の技術力では、すべて
の情報通信をコンピュータだけで制御することはできず、人間に
よる多くの補助操作が必要だったのです。つまり、SAGEは、
軍事目的の人間・機械混成システムだったといえます。
 このような人間・機械混成システムにおいて、システムの一要
素である人間を科学的に扱うためには、実験心理学の視点に立つ
必要があったのです。そういう意味で、リックライダーの存在は
大きかったのです。
 1953年になると、MITリンカーン研究所はMITのキャ
ンパスから離れて、レキシントンに移転しています。この機会に
MITに戻ったリックライダーは、経済学部の中に大学院生を集
めて心理学の研究をする「ヒューマン・ファクター・グループ」
を作ったのです。リックライダーはカリスマ性があり、学生たち
に人気があったのです。
 優秀な学生が集まっていたせいもあって、リックライダーの率
いるグループは数々の成果を上げたのです。しかし、経済学部で
心理学を教えるのはおかしいとか、そのグループが非公式グルー
プであるということから、そうした研究成果には、経済学部とし
ては博士号を出せないという議論に発展するなどして、1957
年6月30日にリックライダーはMITを去るのです。
 そのリックライダーを迎えたのが、BBNという企業です。役
職は次のように長いものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   心理音響・工学的心理学・情報システム担当副社長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その当時BBN社は、従業員40人程度の小さな企業だったの
ですが、その後BBN社はMITのドロップアウト組のたまり場
として有名になっていくのです。
 BBN社の「BBN」は、いずれもMIT関係者の名前の頭文
字なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     B ・・・・・  リチャード・ボルト
     B ・・・・・   レオ・ベラネック
     N ・・・・・ ロバート・ニューマン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初の「B」のリチャード・ボルトは、MIT出身で建築音響
の専門家であり、MITの教授を務めていたのです。次の「B」
はレオ・ベラネック――既に述べたようにベラネックはハーバー
ド大学で音響学の博士号を取得し、同大学の心理音響研究所の所
長を務めていますが、彼もMITの電気工学科の出身です。
 最後の「N」はロバート・ニューマン――ボルトの教え子であ
り、建築音響を専門とする大学院生です。BBN社は、1949
年11月に元になる会社が設立され、ニューマンが入社した50
年にBBNという社名になったのです。
 リックライダーがBBN社入りをした1957年、米国は一大
ショックにたたきのめされます。ソ連がスプートニク衛星の実験
に成功し、核弾頭を装備した大陸間弾道弾が現実の問題になって
きたからです。いわゆる「スプートニク・ショック」です。
 あれほど巨額の金と人を注ぎ込んだ米国自慢の防空情報通信シ
ステムSAGEは、その瞬間にただの鉄屑と化してしまったから
です。     ・・・[インターネットの歴史 Part1/14]


≪画像および関連情報≫
 ・BBN時代におけるリックライダーの3つの業績
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1.『聴覚の理論』 ・・・・・・・・・ 1959
  2.『機械と人間の共生』 ・・・・・・ 1960
  3.『心理生理学モデルについて』 ・・ 1961
  ―――――――――――――――――――――――――――

BNN時代のリックライダー.jpg
BNN時代のリックライダー
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2009年10月16日

●ARPA設立の舞台裏(EJ第1675号)

 1957年10月、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに
成功します。直径22.8センチ、重さ184ポンドの小さな鉄
の玉が電波を発信しながら96分2秒ごとに地球を一周する――
このスプートニクは米国に一大衝撃をもたらしたのです。
 宿敵ソ連に手の届かない頭上から常時監視されるという屈辱は
米国としては到底我慢できるものではなかったのです。人工衛星
の打ち上げに成功したということは、核弾頭を装備した大陸間弾
道ミサイルを打ち込まれる恐れが現実のものになったことを意味
するのです。
 頼みの国防情報通信システム――SAGEは、核爆弾を積んだ
有人爆撃機から北米を守るために作られており、核ミサイルの来
襲は全く想定していなかったのです。核ミサイルの攻撃に対して
は、SAGEでは防御不能なのです。
 1957年11月、時のアイゼンハワー大統領は、事の重大性
を認識し、MIT学長であるジェームス・キリアンを科学技術関
連の顧問に任命します。キリアンは直ちに科学委員会を招集し、
11月末にマケルロイ国防長官がペンタゴン内に宇宙開発の最先
端研究を統括する機関を設置することを発表しています。
 これを受けて、1958年2月にARPAが設立されることに
なります。ARPAとは次の言葉の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ARPA = Advanced Research Projects Agency
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ARPA(アルパ)はソ連に対抗するために宇宙
開発を中心とする軍事的な先端技術の研究をするための機関とし
て設立されたのです。しかし、実施する研究をめぐって軍の内部
で激しい主導権争いが起こったのです。
 1958年、それまで、宇宙開発を手がけていたNACAを母
胎としてNASAが創設されます。とにかく宇宙開発だけは、A
RPAに渡したくないという勢力があったのです。大統領として
は、国防長官直属の機関であるARPAに宇宙開発を含めたすべ
ての権限を集中させておきたかったので難色を示したのですが、
結局押し切られて、宇宙関係の研究についてはARPAの仕事か
ら外されたのです。
 こういった結果を招いたのは、アイゼンハワー大統領の中途半
端な態度にあります。彼は世論対策としてARPAを立ち上げた
のであって、ここでの研究開発によって国が何を目指しているの
かを明確に国民に示すことはなかったのです。
 しかし、大統領選挙でもアイゼンハワー大統領の科学技術政策
の遅れを批判して大統領になったジョン・F・ケネディは、19
61年1月に大統領になると、5月には「今世紀末までに人間を
月に送り、安全に地球に戻す」という有名な声明を行い、目標を
明確にしたのです。
 とにかくJFKがホワイトハウスの住人になると、連邦政府は
先端技術開発の推進に一転して積極的になったのです。これは、
ソ連に先行されたという事情があったにせよ、JFKが大学その
ものが基幹産業であるマサチューセッツ州選出の議員であるとい
うことと無関係ではないといえます。そういうわけで、JFKは
科学界に対して極めて好意的だったのです。
 とくに、ケネディ政権にはロバート・マクナマラ国防長官のよ
うに科学技術に詳しい閣僚がおり、先端技術開発の強力な推進力
になっています。マクナマラは、フォード・モータース社の社長
からケネディ政権入りしていますが、ハーバード大学で企業経営
で用いる数値解析手法を教えていたことがあり、コンピュータの
効用も熟知している科学に強い国防長官だったのです。
 とにかく米国にとって非常に重要なタイミングで、ケネディ政
権が誕生していることは実に象徴的なことであると思います。米
国とソ連とのロケット開発競争の舞台裏やJFK暗殺の真相につ
いては、その時代的背景を知っていただくためにも、次のEJを
参考していただきたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪本当に月に行っているのか≫
  EJ第1390号(2004.7.10)〜
          EJ第1418号(2004.8.20)
 ≪JFK暗殺の謎を探る≫
  EJ第1424号(2004.8.30)〜
         EJ第1465号(2004.10.29)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、宇宙関係の研究を外された結果、ARPAに残されたも
のは、核実験探知とか弾道ミサイルといった分野だけになってし
まったのですが、国防長官事務局直属で、決定機構を簡素化し、
何事も迅速に対応できる機関という基本的な性格は残されたので
す。とにかく「冷戦下の国防」というお墨付きを持っていたので
国民に言い訳をしないでも国費を研究開発に振り向けることが可
能であったし、機密保持という理由から競争入札なしに研究者が
欲しい器材を自由に購入できたのです。こういう恵まれた環境が
あったからこそ、インターネットが開発できたといえます。
 さて、ARPAの局長に就任したのは、ジャック・ルイーナと
いう人です。彼はSAGEの仕事をしていたのですが、そのとき
地道に人間とコンピュータとの直接対話を研究していたJ・C・
R・リックライダーに注目していたのです。
 ルイーナは、コンピュータ化された軍事指令制御システムを何
としても構築しなければと考えていたのです。そのためには、従
来のパンチカードやテープの入出力によるシステムではなく、コ
ンピュータと直接対話する新しいシステムである必要があったの
です。そして、ARPAの中にコンピュータによる「コマンド・
コントロール」部門を作ることを決意して、それを実行するので
す。そして、1962年10月、指揮・統制事務部局が設けられ
その初代部長として、J・C・R・リックライダーが就任するこ
とになるのです。・・・[インターネットの歴史 Part1/15]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・マクナマラについて
  米国の実業家で、政治家。1961年から1968年まで米
  国の国防長官。1968年から1981年まで世界銀行総裁
  を務める。

ロバート・マクナマラ.jpg
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2009年10月19日

●リックライダーとIPTO(EJ第1676号)

 ジャック・ルイーナは、ARPAの新ポストである指揮・統制
事務部局の部長の人選に当って、次の2つのポイントが必要であ
ると考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.専門家でないことが好ましい。専門家ではかえって偏り
   が出る恐れがある
 2.技術だけでなく文化全般に造詣が深く、誰からも信頼さ
   れる人柄を持つ人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 候補者に上がったのは、MITリンカーン研究所の通信部門の
長であるフレッド・フリックとBNN社のリックライダーの2人
だったのです。実は、フレッド・フリックも心理学者であり、リ
ックライダーとはハーバート大学時代からの知己なのです。
 リックライダーが採用されたのは、彼がまさに2つの選考基準
にぴったりの人物だったからです。彼はコンピュータの専門家で
はありませんが、コンピュータについて明確なビジョンを持って
いたのです。
 リックライダーは、米国の防空指揮統制の問題は人間と機械の
共生の問題であり、人間とコンピュータの対話型インターフェイ
スの問題である――すなわち、コンピュータはもっとインタラク
ティブになるべきであるというビジョンを持っていたのです。
 また、防空指揮統制システムはバッチシステムではなく、タイ
ムシェアリング・システムであるといっていたのです。この考え
はジャック・ルイーナのそれと同じであったのです。加えて、彼
は専門は心理学ですが、化学、物理、美術、音響学など、幅広い
分野の知識を有していたのです。
 リックライダーは、指揮・統制事務部局の部長に就任すると、
部局の名称を「IPTO」(イプト)に変更し、一緒にまかされ
ることになっていた行動科学の研究を「行動科学部」として独立
させます。IPTOは、次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  IPTO=Information Processing Techniques Office
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーは、最先端の研究開発の広がりと速度を熟知し
ており、長期的な視野から何をすべきかについて、実によく理解
していたのです。彼は、自分のビジョンを実現してくれると考え
る優秀な人材を発見し、十分な研究資金を援助することをはじめ
たのです。彼は人材の優秀性を見抜く優れた能力を持っており、
自分の独断で投入できる潤沢な研究資金を有していたのです。
 彼が最初に目をつけたのは、MITリンカーン研究所において
SAGEの開発をやっていたときに知ったイワン(アイヴァン)・
サザーランドという学生だったのです。
 サザーランドはインタラクティブなグラフィクス・コンピュー
タのアイデアを持っていたのです。その研究は、ライトペンとい
う入力装置を使って、オンラインで線画を描くシステムとなって
実っています。この研究は、1963年1月7日に次のタイトル
の博士論文にまとめられ、MITに提出されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「スケッチパッド――人間と機械のグラフィカルコミュニケ
 ーションシステム」      ――イワン・サザーランド
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 サザーランドはこの功績によって、リックライダーに続く第2
代のIPTOの部長をなったのです。そして、リックライダーは
25歳のサザーランドに後を託してARPAを去ります。
 このようにリックライダーは、1962年から1964年まで
のわずか2年しかIPTOにはいなかったのですが、その間に、
13の機関のプロジェクトに援助を行い、通常の30倍から40
倍の研究費を与えているのです。
 そのプロジェクトの中に、現在のコンピュータ環境に通ずる開
発が数多くあるのです。その一つにダグラス・エンゲルバートの
プロジェクトがあります。彼は「人間の知性の拡張」という論文
で、知的作業を支援するコンピュータのアイデアを発表しており
それをリックライダーは読んで知っていたのです。
 十分な研究資金を得たエンゲルバートは、マウス、ハイパーテ
キスト、ワードプロセッサー、ビットマップスクリーン、コンピ
ュータ会議システムなど、現代に通じる技術を次々と開発して世
に出したのです。
 しかし、リックライダーが結果としてIPTOで、一番多くの
資金を投入したのは、「時分割処理システム/タイム・シェアリ
ング・システム」だったのです。
 ここで、タイム・シェアリングシステムについて述べる必要が
あります。ジョン・マッカーシーという人物をご存知ですか。
 ジョン・マッカーシーは多くの分野で数多い業績を残している
人ですが、主な業績は次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.AI(人工知能)
         2.LISP言語
         3.タイムシェアリング
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 LISP言語というのは、マッカーシーが人工知能研究のため
に開発した言語です。したがって、マッカーシーは、人工知能と
タイムシェアリングの2つの分野で業績を残したといえます。
 当時のコンピュータの使い方は、高価なコンピュータを有効利
用するために、多くの仕事(ジョブ)をまとめた段階で一括に処
理していたのです。これをバッチ処理といいます。
 しかし、この方式は、コンピュータの処理時間は節約できるが
ジョブを入れた人間はその処理が終わるまで長く待たされるので
フラストレーションがたまるのです。短い簡単なジョブで待たさ
れる人はなおさらです。何か良いアイデアはないものか――マッ
カーシーは考えたのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/16]


≪画像および関連情報≫
 ・「タイムシェアリング」(Time Sharing System/TSS)
  タイムシェアリングシステムとは、1台のコンピュータのC
  PUの処理時間をユーザ単位に分割することにより、複数の
  ユーザが同時にコンピュータを利用できるようにしたシステ
  ムのことである。当初は、メインフレーム(大型コンピュー
  タ)で開発された技術であったが、現在ではパーソナル・コ
  ンピュータであってもOSの制御によって同様の処理を行う
  ことができる。――出典:フリー百科事典『 ウィキペディア
  (Wikipedia)』より
 ・スケッチパッドを操作するイワン・サザーランド/写真
   喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊

イワン・サザーランド/スケッチパッド.jpg
イワン・サザーランド/スケッチパッド
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2009年10月20日

●ジョン・マッカーシーとTSS(EJ第1677号)

 ジョン・マッカーシーは、1955年から58年まで、ダート
マス大学で助教授をしていたことがあります。当時、コンピュー
タは途方もなく高価なものであり、学者といえども触ることはも
ちろんのこと、近寄ることすら困難だったのです。
 このときMITには、IBMが寄贈した「IBM704」とい
うコンピュータがあったのですが、これはバッチ処理を目的とし
て作られたコンピュータだったのです。
 しかも、IBM704は、寄贈を受けたとはいえ、MITが独
占的に使っていたわけではないのです。MITが8時間、IBM
の事業所が8時間、ダートマス大学を含むその他東海岸の大学が
8時間というように時間を区切って使っていたのです。
 マッカーシーは考えたのです。ダートマス大学にいたのでは、
8時間をさらに他の大学と分け合うことになり、いつ順番が回っ
てくるかわかったものではない――そのためにはMITの教員に
なるのが一番良いと考えたのです。
 それからもうひとつ、IBMの連中と仲良くなる必要があると
考えたのです。そういうわけで、たまたまIBMの技術者がダー
トマス大学を訪問したときに、マッカーシーは食事と酒をおごっ
て饗応したのです。まさに目的のためには手段を選ばずです。
 その効果はすぐにあらわれたのです。IBMからIBMポーキ
プシー事業所に招待されたからです。マッカーシーはそこでコン
ピュータのプログラミングを身につけてしまいます。
 1958年に彼はこのアイデアを実行に移し、MITの助教授
になるのです。そして、同年中にLISP言語を開発し、次の論
文を発表します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「記号表現の機能関数と機械によるその計算T」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は一時人工知能(AI)の研究をやっていたことがあり、こ
のLISPも少しかじったことがありますが、とても難しい言語
です。LISPのプログラムはやたらと括弧が多いので、「括弧
のお化け」といわれていたのです。
 LISPに限らず人工知能のプログラムは複雑なので、大きな
システムを構築するときは、何人ものプログラマーがプログラミ
ングやそのデバック作業――「バグ」という名のプログラムのミ
スを取り除く作業に取り組む必要があります。これに途方もない
時間がかかるのです。
 そのためには、1台の大型コンピュータを複数のプログラマー
で同時に使い、作業に取り組む環境が必要なのです。この環境こ
そタイムシェアリングなのです。もちろんコンピュータは1人1
ジョブしかできないのですが、コンピュータ側でその処理時間を
複数のユーザに振り分けて処理を行うのです。
 そうすると、コンピュータを使うユーザは、あたかも一人でコ
ンピュータを使っているような感じになれるのです。これがマッ
カーシーの考えた時分割処理――タイムシェアリング・システム
(以下、TSS)なのです。
 MITの学内でもこのマッカーシーのアイデアに共感を持つ学
者が増えて、自発的にTSSの研究がはじまったのです。その中
で、MITコンピュテーション・センターのフェルナンド・コル
バトがIBM704用に開発したCTSS――コンパチブルTS
Sは注目に値します。
 コルバトは、1961年11月にCTSSのデモをしているの
ですが、CTSSはMITコンピュテーション・センターで19
73年まで使われていたのです。
 MITの上層部もTSSの重要性は認め、1960年から長期
コンピュータ研究グループ(LRCSG)を発足させ、MITの
将来のコンピュータ資源のあり方を研究させたのです。
 LRCSGは、上下2つの委員会に分かれていたのです。上部
委員会の委員は、ほとんど古典的な理論の専門家ばかりであった
のに対して、下部委員会は、マッカーシーをはじめ、フェルナン
ド・コルバト、ジャック・デニス、ウェスリー・クラークなどの
そうそうたる専門家が結集していたのです。
 下部委員会における実権はマッカーシーが握っており、そのた
め、マッカーシー委員会と呼ばれるまでになったのですが、この
委員会の結論は、「MITは巨大なTSSを構築すべし」という
ものだったのです。
 しかし、これには莫大な資金がかかり、上部委員会では慎重論
が多数を占めたのです。そこにIBMがある提案をしてきたこと
が原因で、MITはTSSの自力開発を断念してしまうことにな
ります。そのIBMの提案とは次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  新コンピュータIBM360の完成まで待ってもらえれ
  ば、MITに新しいコンピュータのTSSを寄付する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 MITはこの提案に乗ってしまったのです。しかし、IBMシ
ステムの開発は大幅に遅れ、別件でMITとIBMの間で法的な
トラブルが発生し、寄付の話は白紙に戻ってしまったのです。
 1962年、このようないきさつに失望したマッカーシーは、
MITを飛び出し、西海岸のスタンフォード大学のコンピュータ
科の教授になり、独自のAI研究を推し進めることになります。
このマッカーシー――よくよく彼にはMITは縁がなかったとい
えます。なぜなら、これほどの学者でありながら、MITでは助
教授にしかなれなかったのですから。
 1962年にIPTOの部長に就任したリックライダーは、こ
のMITのTSS開発計画に資金提供を申し出るのです。しかし
IPTOの資金はあくまで軍事目的に沿ったものである必要があ
り、TSSはその目的には入っていなかったのです。しかも、T
SSの研究には巨額の資金が必要なのです。
 そこで、リックライダーは、MITに「MAC計画」というプ
ロジェクトを立ち上げさせるのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/17]


≪画像および関連情報≫
 ・IBM704について
  1959年、日本の気象庁でもIBM704を導入し、翌年
  には米国に次いで数値予報を開始。IBM704は、日本政
  府が行政用に導入した初めてのコンピュータであり、導入当
  時は大きな話題となった。ただし、その性能は今日のパーソ
  ナルコンピュータにも遠く及ばないため、当時の数値予報結
  果は現場の予報官の使用には耐えず、研究開発の段階が長く
  続いたのである。しかし、気象庁は5〜8年毎に最新のコン
  ピュータの更新を繰り返し、数値予報システムの開発・改良
  を図った。この間、気象衛星等による観測データの充実もあ
  り、数値予報の精度は格段に向上した。今日では数値予報シ
  ステムなしに予報業務を語れない。

コルバト博士.jpg
コルバト博士
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2009年10月21日

●なぜ、TSSにこだわるのか(EJ第1678号)

 MAC計画について説明する前に、IPTOが研究開発支援を
するのにふさわしい分野として、どういう分野を考えていたかに
ついて知っておく必要があります。
 国防総省がARPAのIPTOに求めていたのは、「指揮・統
制システムの自動化」であったようです。これを受けての委員会
の報告をまとめると、次の5つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.指揮官はあくまで人間であって、コンピュータはその補
   助装置と考えるべきである
 2.将来の指揮の自動化については、指揮のための情報には
   何が必要か分析・理解する
 3.指揮官が指揮の中枢になれるコンピュータ支援による指
   揮情報処理システムの開発
 4.現在の機械語は相当よくなっており、プログラミング分
   野のことは研究不要である
 5.問題設定、分析、プログラミングという情報処理技術の
   現状こそ自動化の阻害要因
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを踏まえて、委員会は研究開発を支援するのにふさわしい
分野として次の4分野の抽出を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.問題設定、分析、プログラミングの分野の先進的な研究
 2.機械と人間によるコミュニケーションのための必要分野
 3.パターン認識、概念形成・認識、問題解決、学習、意思
   決定、といった分野の構造を理解するために必要な研究
 4.コンピュータのハードウェアの信頼性を向上させる研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、リックライダーは、人間・機械混成システムの完全自
動化には否定的であったし、委員会も現状では無理と認めていた
のですが、4分野の抽出は、あくまで将来の自動化の可能性を探
るという観点からまとめられていたのです。
 しかし、IPTO部長としてリックライダーは、これらの4分
野にはないTSSに強くこだわり、そこに多額の援助資金を投入
しているのです。どうして、リックライダーはこれほどTSSに
固執したのでしょうか。
 それは、リックライダーがSAGEに従事していたとき、空軍
に提出した次の提案の中にヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この提案は、人間もコンピュータもそれぞれ最適に能力を引
 き出すためのもの――つまり、人間−機械思考システム構築の
 提案である。・・・・・
  このシステムは情報センターの中に置かれている。工学的知
 識の分野ごとに、全米でおそらくいくつかのセンターが作られ
 ることになるだろう。そして、関係するセンター同士は通信回
 線で結ばれている。
  ひとつのセンターには、情報にすばやくアクセスできる図書
 館が付属しているが、本や雑誌を排除するものではない。もち
 ろん、そこには大きな記憶容量をもった大型デジタルコンピュ
 ータがある。       ――J・C・R・リックライダー
 ――喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつデータがあります。それは、リックライダーが19
65年に書いた唯一の本『未来の図書館』の中の次の一節です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 産業界や、政府や、教育の場で、「机」の意味が、受動的なも
 のから能動的なものにかわるだろう。机は画像表示装置があっ
 て操作できるものになり、遠隔コミュニケーション・遠隔コン
 ピュータ・システムの中にあることになる。そして、そのもっ
 とも大切な部分が多分ケーブルで、そのケーブルは壁のコンセ
 ントを通して机を認知支援ネットワークにつなげている。
 ――喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読んで最初に思ったことはあのヴァネヴァー・ブッシュ
のメメックス構想です。コンピュータがブッシュのアナログ・コ
ンピュータからデジタル・コンピュータに変わっただけで、構想
そのものは基本的に同じです。そうかといって、リックライダー
は、ブッシュにヒントを得たわけではないのです。
 全米にいくつかの情報センターがあって、それぞれが通信回線
で接続されている――図書館にもコンピュータが設置されていて
それが情報センターに接続されており、ユーザは図書館でTSS
の環境で端末を通じて情報センターに接続し、必要な情報が得ら
れるという構想です。
 この構想でわかることは、リックライダーの考えているシステ
ムはあくまで中央にある大型コンピュータを端末でTSSの環境
によって共同で使うことを前提としていることです。そこには、
小型汎用コンピュータ(PC)への考え方が見えないことです。
だから、TSSは不可欠なのです。
 さて、ここでMITのMAC計画に戻りますが、MACはIP
TOの助成を受けるために立ち上げられたプロジェクトです。実
は、MACには2つの意味があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  MAC ・・・・ Machine-Aided Cognition ・・ A
      ・・・・ Multi-Access Computer  ・・ B
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Aは委員会の指定した3の分野をあらわしていますが、BはT
SSを意味しています。これは、リックライダーの建前(A)と
本音(B)そのものです。
 リックライダーは、こうまでしてMAC計画に300万ドルの
多額の予算をつけて、TSSに力を入れているのですが、それは
異常な執念といえます。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/18]


≪画像および関連情報≫
 ・リックライダーの認知支援システム
  ―――――――――――――――――――――――――――
  丸と楕円は上級の特別なコンピュータシステムである。四角
  は人間とコンピュータのインターフェースを示している。階
  層4は、大勢のシステムを利用する人のステーションか操作
  卓である。ほとんどの操作卓は電話線でつながれている。直
  線で表わされているのが、いま接続されている状態で、点線
  がこれから接続されうる状態である。階層1の中心は、知識
  の前提を貯めているセンターで、階層2は、そのサブ領域を
  受け持っている。そして、階層3がいろいろなところにいる
  ユーザの情報処理をしている。階層4の利用者のところには
  入出力(制御と画像表示)装置があって、たぶん、ある程度
  の処理能力とメモリーがある。階層1以外はこの図には書け
  ないほど数が多い。
   喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

認知支援システム.jpg
認知支援システム
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2009年10月22日

●共有よりも占有にこだわるクラーク(EJ第1679号)

 インターネットの歴史をここまで追及してきて気がついたこと
があります。当時米国に、いかに優れた能力を持つ若手の学者が
数多くいたかということ――それに時の米国政府と軍が彼らを国
防の名の下にいかに有効に活用したかということです。
 一方学者たちの方も国防目的ということを巧みに利用し、国防
に寄与する開発を積極的に進める一方で、自らが何としても成し
遂げたかったアイデアを実現させている――そのように考えられ
るのです。国防目的、軍事目的であれば、資金的には採算を度外
視して使えたからです。
 政府と軍と大学と産業界――いわゆる軍産複合体が、一方にお
いて大きな問題点を残しながらも、うまく機能して、米国は後世
に残る数多くの発明やシステムをこの時期に創り出しているので
す。インターネットという全世界が等しくその恩恵を享受できる
素晴らしい発明も、このようにして実現されたのです。
 さて、スプートニク・ショックを受けた米軍の中枢がひたすら
開発を望んだのは、「デジタル・コンピュータによる指揮・統制
の自動化」です。リックライダーは、完全自動化は無理であると
しながらも、そのためには、人間がコンピュータとあたかも対話
するようにして使う「対話型コンピューティング」が必要である
ことをしきりと説いていたのです。
 ところで、『亡国のイージス』(福井晴敏著)を読んで、イー
ジス艦の中に「戦闘情報指揮所」(CIC)というものがあるこ
とをはじめて知りました。まさにこれはかつて米軍が目標にして
いた「デジタル・コンピュータによる指揮・統制の自動化」のミ
ニチュア版ともいうべきものです。指揮・統制の自動化に対する
米軍の執念がこのようなものを生み出したのだと考えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  戦闘情報指揮所(CIC)が、護衛艦の中枢と呼ばれるよう
 になって久しい。外を見渡せる艦橋(ブリッジ)ではなく、密
 閉された艦内に指揮所を設けるという発想は、旧日本海軍には
 なかった。それが終戦後に米海軍から艦艇が供与され、レーダ
 ー、ソナー各種攻撃兵器や通信機能をまとめて管制するCIC
 の存在が明らかになると、国産護衛艦にもそのシステムが導入
 されるようになって、瞬く間に主指揮所の地位を築いていった
 のだった。
  レーダーやセンサー、全地球測位システム(GPS)を活用
 し、リアルタイムで把握した情報をもとに立案した作戦を、前
 線から後方に至るまで速やかに実施させるC3−I(シーキュ
 ーブドアイ/指揮・統制・通信及び情報)システムが戦場の雌
 雄を決する現在、海上自衛隊もLINKA17と呼ばれるデー
 タ・リンクシステムを各艦のCICに備え、護衛艦隊の「有事
 即応」能力の向上に努めている。
    ――福井晴敏著、『亡国のイージス』より。講談社文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに、C3−I――3つのCと1つのI――には次の意味
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     指揮 ・・・・・ コマンド
     統制 ・・・・・ コントロール
     通信 ・・・・・ コミュニケーション
     情報 ・・・・・ インフォメーシイョン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーがあくまでTSSにこだわったのは、軍事に使
う「C3−Iシステム」にしても、学者が思考のために使う「思
考センター」の構想にしても、いずれもリックライダーは、情報
(リソース)共有システムをネットワーク化した巨大なシステム
を想定していたのです。そのため、高性能の汎用コンピュータを
多くの端末を介して共用で使うということが前提となっており、
どうしてもそこにTSSの環境が不可欠であったのです。
 しかし、こういうリックライダーのTSSの構想に反対の立場
を取る学者もいたのです。その一人が例のMITのマッカーシー
委員会に参加していたウィスリー・クラークです。
 ウィスリー・クラークはこう考えたのです。当時のコンピュー
タをTSSの環境で使うと、データの入出力にはタイプライター
様の端末(テレタイプ)しか使えなかったのです。しかし、画像
表示装置などの高度な入出力装置の利用は、コンピュータを占有
してはじめて可能だったのです。つまり、TSSを施して複数の
端末をつなげば入出力装置の質を低く抑えなければならない――
クラークはこの立場からTSSに反対したのです。
 しかし、クラークがTSSを否定したと考えるのは正しくない
のです。彼はTSSを可能にする「多重シークエンスプログラム
概念」という技術の考案者だったからです。この技術はクラーク
によって1954年に開発されているのです。
 しかし、クラークはTSSの考案者であるが故にその可能性と
限界がよくわかっていたのです。リックライダーは、コンピュー
タをTSSの環境で多くの人が利用することが対話型コンピュテ
ィングであり、それがコンピュータを「近寄りやすい」マシンに
できると考えていたのですが、クラークは画像表示装置を利用す
ることによって「対話の質」を上げる――つまり、グラフィクス
を使って対話を分かりやすくすることこそ、コンピュータをもっ
と「近寄りやすくする」と考えていたのです。
 クラークは、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コピュータはあくまで道具であり、大きなシステムには大きな
 仕事があり、小さなシステムには小さな仕事がある。そして、
 個人のファイルは共有されるファイルより安全である。
                 ――ウィスリー・クラーク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼はワールウインドのプログラマーだったのですが、小さなシ
ステムの快適さを知っていたのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/19]


≪画像および関連情報≫
 ・リックライダーとウィスリー・クラークとの出会い
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ある日、仕事に疲れたクラークが、気晴らしにリンカーン研
  究所の地下のホールを歩きまわっていると、ホールの端にと
  ても暗い研究室がある。興味を惹かれ中へ入って暗闇の中を
  見まわると、リックライダーが一人で、ディスプレイの前に
  座って何か心理学の実験らしいことをやっている。何をして
  いるのかと、訊いたことから、話がはずみ、意気投合。そこ
  で、クラークはホールの反対側にある自分の研究室を教え、
  ぜひ来室してTX−2(クラーク開発のデジタル・コンピュ
  ータ)でプログラミングを学ぶよう勧めたのである。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

護衛艦内部のCIC.jpg
護衛艦内部のCIC
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2009年10月23日

●ミニ・コンピュータ界のIBM/DEC(EJ第1680号)

 巨大にして強力ななコンピュータを大勢の人が端末を通して使
う――これが時分割処理システム/TSSの考え方です。リック
ライダーがIPTO部長として最も資金を投入したのが、このT
SSなのです。
 この考え方に対して反対の立場をとったのは、ウェスレイ・ク
ラークです。このクラークという人物――インターネットの歴史
にとって重要な役割を果たしているのです。そういうわけで、名
前をよく覚えておく必要があります。
 クラークは、1952年にMITリンカーン研究所に後のSA
GEとなるワールウインド計画のプログラマーとして入所してい
るのです。その当時リックライダーもMITリンカーン研究所に
いて、地下の薄暗い研究室でクラークと出会う話は前号で述べて
います。
 クラークはワールウインドのメモリ試験用のコンピュータを制
作しています。これは、TX−0、TX−2と呼ばれていますが
クラークがリックライダーにプログラミングを教えたのがTX−
2のプログラミングなのです。
 しかし、クラークはTXシリーズに飽き足らなくなり、自分が
理想と考えるコンピュータを制作したのです。それがLINCと
いう名前のコンピュータです。LINC――ラボラトリー・イン
スツルメント・コンピュータの頭文字であり、実体は研究室で使
える計測用の小型コンピュータなのです。
 LINCは画期的な小型コンピュータであり、これをPCの遠
い祖先とみる学者もいます。LINCは、MITのサマー・キャ
ンプで公開され、大きな話題を呼んだのです。LINCは自分専
用のコンピュータであり、当時としては夢の実現だったのです。
 しかし、先進的なものは保守的な層からは反撃を受けるものな
のです。LINCに対してMITの上層部は反対だったのです。
しかし、ここにDEC(デック)という会社が登場します。DE
C社はLINCをDEC製品として採用しようとしたのです。
 そうすると、MITの上層部は一転してその計画に参加させる
ようクラークに求めてきたのです。クラークはそのようなMIT
に失望し、MITを辞めて、1964年にセントルイスのワシン
トン大学にその拠点を移しています。それから、3年間、クラー
クはいったん表舞台から姿を消してしまうのです。
 ここでDECという企業について少し述べる必要があります。
この企業は大型コンピュータ全盛の時代に小型コンピュータ――
当時はこれをミニ・コンピュータと呼称――を制作し、「ミニ・
コンピュータ界のIBM」といわれた優良企業なのです。だから
こそ、クラークのLINCに興味を持ったのです。
 しかし、DEC社は1998年にコンパック・コンピュータに
買収され、さらにそのコンパックがヒューレット・パッカードに
買い取られるという劇的な変化に見舞われています。
 DECの創始者は、ケン・オルセンという人です。彼の父親は
コネチカット州のブリッジポートの金物工場の経営者だったので
す。オルセン少年はエレクトロニクス、具体的には無線に興味が
あったのですが、父親から機械関係の仕事を身につけるよういわ
れ、高校までは機械制作の現場で働いたのです。これがあとで役
に立つことになるのです。
 1944年にオルセンは海軍に志願入隊します。海軍なら、エ
レクトロニクスを勉強しながら、給料までもらえるという好条件
だったからです。1946年に帰還兵の特典を生かして、MIT
に入学し、電気工学科を選ぶのです。そして、1950年に大学
院に進学し、コンピュータを専攻します。
 その後、MITリンカーン研究所のワールウインド計画に参加
することになり、1954年からMIT初のトランジスタ・コン
ピュータTX−0、TX−2の制作に従事します。ここで、ウェ
スレイ・クラークとの接点が生まれるのです。
 1957年にケン・オルセンは、弟のスタン・オルセン、MI
Tリンカーン研究所の同僚であったハーラン・アンダーソンと3
人で、DEC社を設立します。
 1960年にDEC社は、「PDP−1」というコンピュータ
を発売したのです。PDPとは、プログラムド・データ・プロセ
ッサという意味です。このPDP−1――まったく新しいタイプ
のコンピュータであり、価格は12万ドル。当時としてはきわめ
て安く高速であり、ミニ・コンピュータという新しい分野を開い
た画期的な製品といえます。
 ところで、このPDP−1はグラフィック・ディスプレイとラ
イトペンを備えており、そういう意味でそれ以後のコンピュータ
の開発の方向性に大きな影響を与えたのです。
 PDP−1は、MITに寄付されたのですが、リックライダー
の提案でBBNも1959年に購入しています。リックライダー
は、キーボードとディスプレイのあるこのPDP−1を使うこと
によって、「機械と人間の共生」のアイデアを生み出したといえ
ると思います。
 PDP−1は大ヒット商品となったのですが、クラークのLI
NCはもっと画期的な小型コンピュータなのです。DEC社は、
PDP−12の一部にLINCを組み込んでいます。
 ところで、PDP−1を「ミニ・コンピュータ」と名づけたの
は、当時のコンピュータがあまりにも巨大であり、その落差は大
きかったからです。しかし、皮肉なことに、それ以後コンピュー
タはますます小型化が進み、「ミニ」の名前が奇異に感じられる
ようになります。
 DEC社は1966年に株式を公開し、超一流企業への道を進
むことになります。そして、1977年に32ビット・コンピュ
ータVAXを発表します。このコンピュータがDEC社の繁栄を
確固たるものにして、DEC社は「ミニ・コンピュータ界のIB
M」といわれるようになるのです。DEC社はMITに非常に近
い企業であり、分家のようなものです。そして、インターネット
にも深い関連があったのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/20]


≪画像および関連情報≫
 ・デモンストレーションをするウェスレイ・クラーク

LINC/クラーク.jpg
LINC/クラーク
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2009年10月26日

●第2代目IPTO部長サザーランドの役割(EJ第1681号)

 同じ対話型コンピューティングを目指しながらも、2つの考え
方があったことは既に述べました。リックライダーの考え方とク
ラークの考え方です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.中央に強力な大型コンピュータがあって、それを時分割の
   環境で端末を介してファイルを共有して使用する。しかし
   この場合、入出力装置は貧弱にならざるを得ない。
          ――J・C・R・リックライダーの考え方
 2.真の対話型コンピューティングは画像処理可能の入出力装
   置によってはじめて可能になる。そのためには各人が資源
   を占有できる小型コンピュータを持つ必要がある。
             ――ウェスリー・クラークの考え方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、1台の巨大なコンピュータを端末を介して時分割(T
SS)で多くの人で使うか、各人が小型のコンピュータを使い、
それらを何らかの方法でネットワーク化するかの違いなのです。
 現代のわれわれから考えると、クラークの考え方が正しいこと
はすぐわかりますが、当時は小型コンピュータが存在しなかった
時代なのです。それにおそらくリックライダーとしては、将来コ
ンピュータが小型化して、誰でも持てるようになるとは考えてい
なかったと思われるのです。
 しかし、クラークは小型コンピュータ同士でデータをやりとり
する具体的なアイデアまで持っていたのです。これについてはあ
とで明らかになります。
 クラークは小型コンピュータを設計するさい、最初に価格を決
めているのです。その価格は2万5千ドル――これは当時一人の
研究スタッフの年俸程度の金額であり、学部長決済で購入できる
予算額なのです。このようにして完成した小型コンピュータが、
LINC(リンク)なのです。
 クラークは、対話型コンピューティングにおいては、人とコン
ピュータが自然に対話できるように「対話の質」を上げる必要が
あると主張しています。そのためには、入出力装置にディスプレ
イが付き、それがグラフィクスを扱えることが不可欠であり、個
人がコンピュータの資源を占有しなければならない――これが、
個人が占有して使える小型コンピュータが必要であるとするクラ
ークの根拠です。
 確かに考えてみると、PCが一挙に普及したのはOSがウイン
ドウズ95になってからです。ウインドウズ95になってPCの
インターフェースがグラフィクス化されたのです。文字だけのイ
ンターフェースからグラフィクスになって対話の質が向上し、コ
ンピュータが身近なものになったからです。クラークは現代のコ
ンピューティングに非常に近いアイデアを当時持っていたことに
なります。
 クラークはこれほど優秀な学者ですから、彼を慕う門下生は多
かったのです。彼らはクラークがMITリンカーン研究所を去っ
た後も一部の人は研究所に残っていたのです。そして、クラーク
の開発によるTX−2というコンピュータ上で育っていた高度な
対話型コンピューティングの研究開発は、クラークが去っても研
究が継続されていたのです。その門下生の1人にイワン・サザー
ランドがいます。
 このサザーランド――1938年の生まれなのです。ネブラス
カ州の出身です。1959年に奨学金を受けて、ピッツパークの
カーネギー工科大学を卒業し、1960年にカルフォルニア工科
大学修士、1963年にMITで博士号を取っています。
 サザーランドはMITやARPAの主催する会合に講師として
招かれることが多く、その講演内容も期待を裏切らなかったので
リックライダーの目に止まったのです。そして、リックライダー
は、弱冠25歳のサザーランドを自分の後任のIPTOの部長に
選んだのです。
 サザーランドは、大学院を卒業すると陸軍に入隊し、国家安全
保障局(NSA)に配属されています。そして、1964年にI
PTOの部長に就任することになったのです。ちなみにサザーラ
ンドの軍隊での階級は陸軍一等兵、IPTOの部長職は准将待遇
なのです。つまり、一等兵がなんと一挙に将官になってしまった
ことになります。25歳の若者が、1600万ドルの予算権限を
握ったのですから大変なことです。
 しかし、サザーランドにとってIPTO部長の仕事はやはり少
し重荷だったようです。それもあって、サザーランドは、196
4年7月から1966年6月までIPTOに在籍はしたのですが
実質的にIPTOの仕事をしたのは、1年間だけだったのです。
 1965年になるとサザーランドは、ハーバード大学やNSA
(国家安全保障局)の仕事にかかりっきりであったそうです。し
かし、サザーランドはIPTOにとってひとつ大きな貢献をして
いるのです。それは、当時NASAの研究助成管理部にいたロバ
ート・テイラーをARPAに引き抜いたことです。
 テイラーは1965年からサザーランドに代わってIPTOの
仕事をしており、1966年6月から正式に第3代目のIPTO
部長に就任するのです。
 後にサザーランドはハーバード大学の電気工学科の助教授とな
り、そこで赤外線暗視鏡「リモート・リアリティ」を使ったヘリ
コプターの夜間着陸システムを開発しています。これが後に「バ
ーチャル・リアルティ(仮想現実)」の萌芽になるのです。これ
ではハーバード大学やNSAが彼を離さないはずです。それにも
かかわらず、彼を第2代のIPTO部長にしたのは、彼の師であ
るクラークをリックライダーは意識していたと思われます。
 ところで、ロバート・テイラーとは何者でしょうか。
 ロバート・テイラーは、1956年にテキサス州立大学に入学
し、心理学と数学を学び、大学院では心理音響学を専攻している
のです。専門分野がリックライダーと同じであり、お互いによく
知る間柄だったのです。
         ・・・[インターネットの歴史Pare1/21]


≪画像および関連情報≫
 ・「CGの父」といわれるサザーランド
  コンピュータ・グラフィックスは昔はCAD/CAMなどで
  使われた、ごく限られた専門家の世界だったが、ここ数年で
  大きく様変わりした。ハリウッドの映画は今やコンピュータ
  グラフィックス無しでは成り立たないし、テレビゲームの世
  界も3Dグラフィックスは当たり前になってきた。アイヴィ
  ン・サザランドは、このコンピュータグラフィックスの基礎
  技術を確立した人として知られている。現在はサンマイクロ
  システムズのフェローとして健在である。
  http://www.chienowa.co.jp/frame1/ijinden/Ivan_Sutherland.html

サザーランドの近影.jpg
サザーランドの近影
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2009年10月27日

●第3代IPTO部長ロバート・テイラー(EJ第1682号)

 ロバート・テイラーは、1961年にNASAに就職し、そこ
でフライト・シミュレータを制作しています。NASAは、彼の
業績を高く評価し、テイラーは若くしてNASAの枢要な地位に
就くことができたのです。
 そして、有人飛行制御、表示、シミュレーションなどの技術研
究に資金援助する仕事についたのです。そういう仕事の関係で、
テイラーは、CGのサザーランドやマウスの開発者エンゲルバー
トなどとも付き合いがあったのです。
 リックライダーは、早くからテイラーには注目しており、彼を
IPTOに呼んで、仕事をまかせたいと考えていたのです。なぜ
なら、NASAで彼がやっていた仕事とIPTOの部長の仕事は
よく似ており、彼はそれを手際よくこなしていたからです。
 こうしたリックライダーの強い要請によって、ロバート・テイ
ラーは、1966年6月から5年間にわたってIPTO部長を務
めることになるのです。しかし、テイラーは、サザーランドの都
合で、実質的には、1965年6月から、IPTO部長の仕事を
していたことは既に述べた通りです。
 ロバート・テイラーは、ある意味でリックライダーよりもこの
IPTO部長という仕事を割り切った感覚でこなしていったので
す。忘れてはならないのは、ARPAは国防総省の一組織であり
あくまで軍事目的のための先端技術研究ということで予算が出て
いるということです。
 しかし、テイラーは、この仕事について、次のように考えて仕
事をしていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは国防総省のエージェンシーだったが、私が援助する
 研究には特定の軍事的なつながりがあるべきであるとは考えて
 いなかった。(中略)われわれは軍事的な関連性があるという
 だけの理由で何かに資金援助しなければならないとは思ってい
 なかった。            ――ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テイラーによると、IPTO部長という仕事には途方もない自
由度があったといっています。当時ARPAには審査委員会など
はなかったので、研究プロジェクトへの資金援助は、IPTO部
長とARPA局長だけで決められたのです。したがって、IPT
O部長の良いと考えたプロジェクトには、資金援助はきわめてス
ピーディーに行われたのです。
 ちなみにIPTOは、9.11テロで被害のあった国防総省ビ
ルの中にあり、IPTO部長室はDリングにあったのです。国防
総省ビルは、上空から見ると五角形をしているので、ペンタゴン
――五角形の意味――といわれるのですが、五角形はさらに5つ
の五角形のリングで構成されているのです。なぜ、こんな形をし
ているのかというと、この構造であれば一番遠いところにも10
分以内で到着できるからです。
 この5つの五角形のリングは内側からA、B、C、D、Eと呼
ばれるのですが、外側になるほど位階の高い将官が使っているの
です。つまり、ラムズフェルド国防長官の部屋はEリングにある
のです。IPTO部長室はDリングにあったのですから、かなり
高い将官待遇(准将)だったわけです。
 そういう立場でありながら、IPTO部長はほとんど自分の判
断で、軍事目的を意識せず、これはと思う研究に資金を投入でき
たのです。結果としては、それができたからこそ、インターネッ
トが開発されたといえるのです。
 したがって、全体的なバランスなどほとんどなかったのです。
そのため、東海岸のMITや西海岸のUCLA/カルフォルニア
大学ロサンゼルス校やUCバークレー校にばかり資金が集中した
のです。とくに、MITには大量の資金が集中したといえます。
 テイラーは、国防総省の建物にいて将官でありながら、軍服も
着ず、白のタートルネックのセーターを愛用し、机に足を投げ出
していたといわれます。
 しかし、彼の頭はフル回転していたのです。そして、あること
を思いつくのです。リックライダーの考え方によって、資金はタ
イムシェアリング・システムに重点投入されていたので、多くの
タイムシェアリング・システムがあちこちにあったのです。
 それぞれのタイムシェアリングの周りには、これを取り巻く一
種のコミュニティができていたのです。例えば、MITのMAC
計画、UCバークレー校のGENIE計画などがそうです。大勢
の人が巨大なコンピュータを使うのですから、そういう共同体が
できるのは当然なことといえます。
 「そういったコミュニティ同士を何とか接続できないものか」
――テイラーはこのように考えたのです。しかし、これを実現す
るのは大変な難問があったのです。その難問とは、それぞれのコ
ミュニティが使っている端末の規格や通信に使うプロトコルなど
がすべて異なっていたことです。
 これを解決することは意義がある−−こう考えたテイラーは、
当時のARPAの局長であるチャールズ・ハーツフェルドのとこ
ろに交渉に行ったのです。ハーツフェルドは、ARPAの初代局
長であるジャック・ルイーナの後任者です。
 このときテイラーは、まだサザーランドの補佐役であり、正式
なIPTO部長ではなかったのですが、事実上の部長権限を有し
ており、こういう交渉ができたのです。
 ハーツフェルドは、1961年に弾道ミサイル防御計画のため
に着任したのですが、彼はリックライダーのタイムシェアリング
・システムを高く評価しており、軍事に直接関係がないとみられ
る一般的科学研究に資金を投ずることにもあえて異を唱えること
はしなかったのです。
 ハーツフェルドとテイラーの交渉はわずか20分で終了し、そ
の場で100万ドルの予算がついたのです。こうして、テイラー
構想――ARPAネットは滑り出したのです。1966年2月の
ことです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/22]


≪画像および関連情報≫
 ・ペンタゴンについて
  ペンタゴンは、米国国防省総司令部の庁舎、または総司令部
  そのもののこと。建物のかたちより英語で五角形を意味する
  「ペンタゴン」で呼ばれる。5階建てで、各床に環状の廊下
  がある。この構造により世界最大のオフィスビルでありなが
  ら一番遠いところにも10分以内でたどり着くことができる
  とされている。所在地はワシントンD.C.郊外のバージニ
  ア州のアーリントン。約23,000名の軍事・民間の従業
  員、約3,000名のペンタゴンの国防以外の援助要員を収
  容する。
  ――出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国防総省ビル/ペンタゴン.jpg
国防総省ビル/ペンタゴン
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2009年10月28日

●ラリー・ロバーツ招聘の顛末(EJ第2683号)

 チャールズ・ハーツフェルド第2代ARPA局長――彼はオー
ストリア生まれの物理学者で、とても大柄の人物であり、その声
は轟くように大きかったといいます。そのため、提案のために彼
の前に出ると、多くの人は縮み上がって用意していたことを半分
もいえなかったそうです。しかし、テイラーはむしろ、ハーツフ
ェルドのような人物が好きだったのです。
 前回述べたようにIPTO部長の部屋は、ペンタゴンのDウイ
ングにあったのですが、ARPA局長の部屋はEウイング――外
の見晴らしのよいところにあったのです。
 ロバート・テイラーは意を決して、Eウイングにハーツフェル
ド局長を訪ねて例の提案をしたのですが、そこでどのような会話
が行われたか再現してみることにします。テイラーをT、ハーツ
フェルドをHと表記します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 T:ARPAが支援している機関は、それぞれ規格の異なる独
   自のコンピュータを持っているのですが、それが仇となっ
   て、コンピュータの資産が共有できないでおります。
 H.つまり、物理的に孤立しているということかね。
 T:その通りです。ARPAが支援のさいに、コンピュータの
   機種を限定し、ハードウェアやOSを統一すれば共有は可
   能ですが、ARPAは政府機関でありますから、そんなこ
   とはできません。
 H:その通りだ。ところで、いいアイデアでもあるのか?
 T:ございます。本日はその提案に伺ったのです。
 H:どのような提案かね。
 T:規格の異なるハードウェアやOSを前提として、それぞれ
   のコンピュータを結ぶネットワークを構築するのです。そ
   うすれば資産は共有化できます。
 H:そんなことが本当に可能なのか?
 T:可能です。コンピュータがネットワークで結ばれれば、機
   種の相違から派生する問題は解決できます。
 H:ネットワーク化するというが、技術的には大丈夫なのか。
 T:大丈夫です。やり方は既にわかっておりますし、最初は実
   験的に4つくらいのノード(コンピュータ)からはじめた
   いと考えています。
 H:凄いアイデアだな。よし、わかった、やろう。たった今か
   ら君は100万ドル以上の資金が使える。がんばれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際はこんなに簡単ではなかったでしょうが、折衝は20分し
かかからなかったといいます。
 しかし、「やり方は既にわかっております」といったものの、
これはあくまで方便であり、技術的には見当がついていなかった
のです。テイラーとしては、そういうことができる人物を探せば
よいと考えていたのです。
 コンピュータに通じていて通信の専門家でもある――現代でも
この条件を満たす人を探すのは難しいほどですが、テイラーはそ
の幅広い人脈から、条件にぴったりのMITのリンカーン研究所
の研究員、ローレンス・G・ロバーツ(愛称ラリー・ロバーツ)
を探し出してくるのです。
 1966年当時、ラリー・ロバーツは、MITリンカーン研究
所で空軍の電話システムを設計していたのです。リンカーン研究
所のコンピュータとサンタモニカにあるコンピュータを電話回線
を使って実験的につなぐ実験をしていたのです。このプロジェク
トについてもARPAは支援をしていたのです。
 テイラーは早速ロバーツに会い、今回のプロジェクトの趣旨を
話して、IPTOの実験的ネットワークのプログラム・ディレク
ターとして採用したいと申し入れたのです。そして、この仕事は
ARPA局長の全面的な支持を取りつけていること、さらにダメ
押しとして、自分の後任のIPTO部長に推薦するということま
で付け加えたのです。
 しかし、意外なことにロバーツの返事は「考えてみる」という
素っ気ないものだったのです。数週間後、テイラーは再びボスト
ンにロバーツを訪ねたのですが、このときロバーツは、はっきり
と「ノー」と断っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リンカーン研究所の仕事は楽しい。ワシントンの官僚になる
 のはごめんだ。          ――ラリー・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それから約2ヶ月に1回の割合で、テイラーはロバーツを訪問
して説得したのですが、ロバーツの意思は固かったのです。
 こうしてテイラーがハーツフェルドにOKをとってから、プロ
ジェクトは何も進展しないまま、空しく1年が過ぎようとしてい
たのです。思い余ったテイラーは、ハーツフェルド局長に会いに
行ったのです。
 テイラーは、リンカーン研究所の予算の51%はARPAから
出ていることは本当かと局長に尋ねます。本当だという答えを聞
いたテイラーは、ネットワークのプロジェクトを任せたいエンジ
ニアがリンカーン研究所にいるが、どうしても来てくれないと訴
えたのです。
 ハーツフェルドは「そいつは誰だ」と聞いたので、ラリー・ロ
バーツの名前を告げたのです。ハーツフェルドは、その場でリン
カーン研究所長に電話をかけて「ロバーツをくれ」と頼んだので
す。そして「何が起こるか楽しみだ」といって、ニャッと笑った
といいます。
 それから2週間後にロバーツからテイラーに「仕事を引き受け
た」という連絡が入ったのです。そして、ラリー・ロバーツはペ
ンタゴンの中で働くようになったのです。
 かくして、テイラーは、ロバーツという逸材をネットワークの
プロジェクトに引き入れることに成功するのです。1966年の
12月のことです。・・[インターネットの歴史 Part1/23]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・テイラー
  1932年/米国生まれ
  1956年/米国航空宇宙局(NASA)に勤務
  1965年/IPTO部長に就任
  1966年/ARPAネット開発に参画
  1968年/『コミュラケーション・デバイスとしてのコン
        ピュータ』論文をリックライダーと共同執筆
  1970年/ゼロックス社パロ・アルト研究所創設に参画

ロバート・テイラー.jpg
ロバート・テイラー
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2009年10月29日

●軍事目的のネットワークかどうか(EJ第1684号)

 念願のラリー・ロバーツを引き入れ、ARPAは本格的にAR
PAネットに取り組むことになるのですが、その前に述べておく
べきことがあります。
 それは、インターネット、すなわち、ARPAネットに関する
次の2つの「俗説」の検証です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ARPAネットは、ソ連の核攻撃に対応するための軍事
   目的ネットワークである。
 2.パケット通信システムは、ARPAネットではじめて開
   発された通信技術である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの2つは、インターネットについてほぼ常識的にいわれ
ていることです。とくに1つ目の「インターネットは軍事目的の
ネットワーク」として開発されたことについては、私もそうであ
ると信じてきたのですが、きちんとインターネットの歴史を調べ
てみると、必ずしもそうとはいい切れないのです。
 最初に、1994年に起こったある論争をご紹介しましょう。
これは、喜多千草著『インターネットの思想史』(青土社刊)に
詳しく紹介されているものです。1994年といえば、ちょうど
インターネットの普及が加速し始めた時期に当たります。この同
じ年の7月25日付の「TIME」誌は、次のように伝えている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 インターネットは国防総省の分散型コンピュータネツトワーク
 ARPAネットから育ったものであり、もともと核攻撃による
 中央情報施設壊滅を避けるために構想されたものである。
        ――1994年7月25日付の「TIME」誌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロバート・テイラーは驚いたのです。自分の愛読誌である「T
IME」誌がとんでもない間違いを書いていると感じたテイラー
は編集長に次の手紙を書いて送っています。そして、自分の意見
を「TIME」誌に掲載するよう求めたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 核戦争を避けるためのネットワークがインターネットの母胎に
 なったという説が、いかに「おいしい」話であろうとも、当時
 のARPAネットの計画責任者として、それは断じてなかった
 と証言します。          ――ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「TIME」誌の編集長も負けてはいません。テイラーの反論
に対する反論を次のように送ってきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 パケット交換方式が、核戦争を避けるために開発されたという
 のは、紛れもない事実であり、この技術こそがARPAネット
 構築に使われたというのは確かな筋からの情報です。したがっ
 て、残念ながらあなたの意見を掲載することはできません。
                 ――「TIME」誌編集長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAネットがもともと軍事目的で構築されたという考え方
については、テイラーの主張する方が正しいようです。どうして
このような誤解が生じたかというと、1964年に空軍に対して
提出されたある論文と混同されたのです。その論文は、空軍のシ
ンクタンクであるRAND(ランド)社の研究員であるポール・
バランによって提出された次の論文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     「分散型コミュニケーションについて」
              ――ポール・バラン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポール・バランという人は、1926年にポーランドに生まれ
ていますが、2年後に一家は揃って米国に移民しています。バラ
ンは、1955年にヒューズ航空機に入社し、ここを経て、19
60年にランド社に移籍しています。
 ちょうどそのとき米空軍は、ランド社に対して軍事通信システ
ムの研究を委託していたのです。そのため、この研究がバランの
仕事になったのです。
 空軍がランド社に委託した軍事通信システムというのは、米国
本土がソ連の大陸間弾道ミサイルによる核攻撃を受けたときでも
耐えられる軍用通信ネットワークを構築するというものだったの
です。つまり、ネットワークの一部が破壊されても、ネットワー
ク全体としては機能できるようにするというものです。
 高高度で核爆発があると、電離層が打撃を受けて、長時間、高
周波での通信ができなくなるのです。そのため低周波の地上波を
使う以外はなくなります。つまり、短距離での地上波を使った放
送局によって、メッセージを中継する通信を使うしかない――バ
ランは、この放送局によるメッセージの中継を自動化することを
考えたのです。これが最終的には、パケット通信につながってい
くのです。
 通信ネットワークには、次の3つがありますが、軍事用のネッ
トワークは「分散型」でなければならないとバランはいっている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1. 集中型
          2.非集中型
          3. 分散型
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、バランは「通信はアナログでやるべきである」を主張
するAT&Tの幹部を説得できなかったのです。AT&Tにとっ
ては、結果として電話の将来を危うくするデジタルによる革新的
ネットワークなど、受け入れられるはずがなかったからです。
 そして、このプランは軍事ネットワークとしては、採用されな
かったのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/24]


≪画像および関連情報≫
 ・「ARPAネットは軍事ネットワークである」という俗説に
  対するラリー・ロバーツの反論
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  インターネットは核戦争に耐えるべく軍によって構築された
  という噂が(1964年のポール・バランの論文によって)
  広まり始めた。これは全くの間違いである。たとえランド社
  がこうした前提にたって仕事をしたとしても、ARPAネッ
  トもインターネットも、リックライダー、クレイン・ロック
  ロバーツのMIT派の仕事から生まれてきたのであり、ポー
  ル・バランの仕事とは何の関係もない。
  ラリー・ロバーツ著、『インターネット年代記』/1997
  年3月
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ポール・バラン/RAND.jpg
ポール・バラン/RAND
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2009年10月30日

●パケットの開発者デイビス(EJ第2685号)

 昨日のEJで、ARPAネットにまつわる2つの俗説について
述べましたが、今日は2つ目の問題について考えてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2.パケット交換システムは、ARPAネットではじめて開
   発された通信技術である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAネットは、確かにパケット交換システムを採用した最
初の通信システムですが、果たしてこのパケット交換システムは
核戦争を避けるために開発されたものなのでしょうか――検証し
てみることにします。
 問題は、パケット交換システムは誰が開発した通信技術かとい
うことです。
 一般的には、次の図式が既に出来上っており、パケット交換シ
ステムの開発者はポール・バランだと思われているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ARPAネット=パケット交換=ポール・バラン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、少なくとも「パケット交換」という言葉はポール・バ
ランが発明したものではないのです。バラン自身は「分散通信」
という言葉を使っていたからです。それでは「パケット交換」は
誰が開発したのでしょうか。
 「パケット交換」という言葉を使ったのは、英国人のドナルド
・デイビスという人です。デイビスは1924年に英国のウェー
ルズで生まれていますが、小さい頃から神童とか天才といわれて
いたそうです。成績は抜群であり、いくつもの大学から奨学金提
供の申し出があったといわれます。
 1954年にデイビスは奨学金を受けてMITに留学します。
ちょうどその頃米国では、タイムシェアリングが熱狂的に流行し
ていたのです。デイビスは見学できるタイムシェアリングを見て
回ったのですが、米国と英国の違いに気が付いたのです。
 一つは、英国はコンピュータを実務に使うことが一般的であっ
たのに、米国ではOSに興味の中心があり、コンピュータを実務
に使うことには関心がなかったように思えたことです。
 二つは、英国でもタイムシェアリングは盛んだったのですが、
英国と米国には次の違いがあったことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    英国 ・・・ マルチ・プログラミング中心
    米国 ・・・ マルチ・ユーザー   中心
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、米国の場合は大勢のユーザーが同時に使うことに重点
が置かれていたのに対し、英国のそれはユーザーは少なくてもよ
いが、複数のプログラムが動かせるかどうかに、多大の関心が集
まっていたということです。
 デイビスが41歳になった1965年――ちょうどあのスタン
リー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮影していた
同じ年ですが、デイビスはあることから、情報を小さな単位にし
て送れば、インタラクティブな通信システムが可能になることに
思いいたったのです。
 1966年6月、デイビスはこのアイデアを理論としてまとめ
『デジタル通信ネットワークの提案』という論文を書いているの
ですが、その中に次の一節があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ユーザーはメッセージをシステムが運んで欲しい情報の単位と
 思っているが、ネットワークは自身の必要のために、チャンネ
 ルの容量割当ての際にユーザーのメッセージをより小さな単位
 に分割することがある。この伝送用のより小さな単位のことを
 われわれは『パケット』と呼ぼう。
                  ――ドナルド・デイビス
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこれとほぼ同時期にポール・バランも情報を小さな単位に
分けるアイデアを理論化していたのです。デイビスの理論もバラ
ンのそれも次のような構成になっていたのです。
 ネットワークは分散型にし、ある点から別の点へデータを送る
とき、はじめから経路を決めておくのではなく、状況に応じて経
路が選択できるようにする――そして、データはパケットという
単位で細かく分割して送り出し、目的地にたどりついたとき、順
番に再構成するというものです。
 このように、デイビスとバランの考え方は驚くほどよく似てお
り、パケットの長さも同じ128バイトだったのです。違ってい
たのはその目的だったのです。バランの場合は、核戦争下の戦略
指揮統制システムの開発であるのに対して、デイビスは単に新し
い通信ネットワークの開発だったという点です。
 もうひとつ大きく違ったのは、国営電話会社の対応です。既に
述べているように、米国のAT&Tがバランに対し、「通信はア
ナログでやるもの」と決めつけて反対したのに対し、英国のブリ
ティッシュ・テレコムはデイビスに対して好意的であり、実験の
ための資金まで提供しているのです。まさに度量の違いというべ
きでしょう。これにより、英国は小規模ではあるが、パケット交
換ネットワークが構築されていくことになるのです。
 それでは、ARPAはどのようにしてパケット交換システムを
取り入れたのでしょうか。
 ラリー・ロバーツは、バランとデイビスの研究については知ら
ないといっており、ARPAネットには彼らの研究成果を参考に
していないといっていますが、これは明らかにウソなのです。
 なぜかというと、デイビスが国防総省を訪問したとき、ロバー
ツの机の上にデイビスの『デジタル通信ネットワークの提案』が
ボロボロになった状態で置いてあったのをデイビス自身が見てい
るからです。  ・・・[インターネットの歴史 Part1/25]


≪画像および関連情報≫
 ・インターネットとARPAネット
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  現在のインターネットのルーツは、1960年代後半の国防
  総省のARPAの資金援助で開発されたネットワーク、AR
  PAネットまでさかのぼることができる。ARPAネットは
  主要な大学と契約企業の研究者間のデータ交換を行うために
  これらの機関のコンピュータを結んだものである。
  ――浜野保樹著、『極端に短いインターネットの歴史』より
                         晶文社刊
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

浜野保樹氏の本.jpg
浜野保樹氏の本
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2009年11月02日

●IMP−クラークのアイデア(EJ第1686号)

 1967年4月のことです。ロバート・テイラーとラリー・ロ
バーツは、ミシガン大学で行われたある会合に出席しています。
IPTOの主要な研究者を招いて、ネットワークの実験について
討論をするためです。この席には、あのウェスリー・クラークも
出席していたのです。
 この研究会でロバーツは、コンピュータ・ネットワークを構築
するため、電話回線を使ってタイムシェアリングのコンピュータ
を直接つなぐ実験を行いたいと冒頭に述べたのです。しかし、こ
の席でロバーツの案は、猛烈な反対にあいます。
 なぜなら、ロバーツの案では、この実験に参加することになる
機関のホストコンピュータは、これまでの処理に加えて通信の処
理もしなければならなくなり、コンピュータの処理の負荷が大き
くなるからです。当時としては、高価な大型コンピュータの能力
を余計なことに割きたくない――そういう思いが各研究者にあっ
たことは確かです。
 それに加えて、ハードウェアもOSも全く異なるコンピュータ
同士をどのようにしてつなぐのかという技術的な難問に対して、
誰も答えられなかったのです。かくして、テイラーのコンピュー
タ間ネットワークの構想は崩れ去ろうとしていたのです。しかし
会合の間、クラークは一言も発しなかったのです。
 悲惨な結果に終わった会合の後、ミシガン大学からテイラーと
ロバーツが車で飛行場に行こうとすると、クラークも車に乗り込
んできたのです。そして、飛行場に向う車の中で、クラークは次
のようにアドバイスしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コンピュータを直接つなぐのではなく、どうして各サイトにあ
 る小さなコンピュータを使わないのか。
                 ――ウェスリー・クラーク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、クラークは、メモにある図を書いてロバーツに渡した
のです。そこには、小型コンピュータを使ってホストを接続する
システムが書いてあったのです。
 添付ファイルをごらんください。ホスト1、ホスト2、ホスト
3のそれぞれにIMPという名前の小型コンピュータを用意し、
それを介して3台のホストをつなぐというアイデアです。つまり
内側に同一のコンピュータから成るサブ・ネットワークをつくる
というものです。
 この小型コンピュータであるIMPは、「インプ」と呼ぶので
すが、IMPは次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    IMP = Interface Message Processor
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このクラークのアイデアは、まさにARPAネットの基礎を築
く重要な発明になるのです。そして、このIMPというマシンが
後に「ルータ」と呼ばれるようになるのです。
 クラークの意図を理解したロバーツは「これを実現できるエン
ジニアを知っているか」とクラークに尋ねると、彼は「フランク
・ハート」と答えているのです。このフランク・ハートこそルー
タの開発者なのです。
 クラークのお陰でARPAネットのヒントを掴んだロバーツは
精力的にIMPの仕様を固めるために全力を注いでいます。ロバ
ーツはSRI(スタンフォード研究所)に支援を頼んで、毎週レ
ポートを受け取っています。
 さらに、ドナルド・デイビス、ポール・バラン、ウェスレイ・
クラーク、レン・クレインロックなど、考えられる限りの優れた
技術者の力も借りて、1968年7月、ラリー・ロバーツはIM
Pの仕様を決定します。そして、IMPの制作会社を公募する運
びになったのです。
 公募には結局20数社が応募してきたのです。中にはハネウェ
ル、レイセオン、IBMなどの巨大メーカの名前もあったのです
が、この仕事は名もないBBNが受注したのです。
 無名のBBNがなぜ仕事を取れたのか――これについては、推
測ですが、この仕事を担う総括技術者にフランク・ハートとウェ
スレイ・クラークの名前があったからではないかと思われます。
BBN社の出してきた担当技術者の名前をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 総括 ・・・・・・・・ フランク・ハート     40歳
 ハードウェア担当 ・・ セベロ・オルンステイン  38歳
          ・・ ウェスレイ・クラーク   42歳
 ソフトウェア担当 ・・ ウィル・クローサー    33歳
          ・・ デイビット・ウォルデン  27歳
 理論担当 ・・・・・・ ロバート・カーン     31歳
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、最大の功労者ともいうべきウェスレイ・クラー
クが役不足な感じがします。セベロ・オルンステインはかつての
クラークの部下ですし、総括のフランク・ハートにしてもクラー
クよりも年下です。どうやらクラークは、LINCに燃え尽きて
しまったようなのです。それはさておき、ウェスレイ・クラーク
が、インターネットの最大の功労者の一人であることは間違いの
ないことです。
 ARPAネット実験には次の4つの研究機関が指定され、19
69年9月を納入期とするIMP制作は急ピッチで進められ、同
年12月までにすべてIMPは納入されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.UCLA ・・・・・・・・・・・・・ 8月30日
  2.SRI ・・・・・・・・・・・・・ 10月 1日
  3.UCサンタバーバラ ・・・・・・・ 11月 1日
  4.ユタ州立大学 ・・・・・・・・・・ 12月10日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ・・・[インターネットの歴史 Part1/26]


≪画像および関連情報≫
 ・ルーターとは何か
  ルータは、コンピュータ・ネットワークにおいて異なるネッ
  トワーク間の中継・接続を行う通信機器である。

ホストとIMP.jpg
ホストとIMP
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2009年11月04日

●電子メールが好評のARPAネット(EJ第1687号)

 ホストとホストの通信をIMP(インプ)を介してつなぐとい
うウェスレイ・クラークのアイデアは実現されようとしていたの
です。この場合、通信は次の2つに分かれることになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ホストとIMPの間の通信 ・・   シンクロナス
               ――大学・研究機関の責任
 2.IMPとIMPの間の通信 ・・ アンシンクロナス
               ――開発会社BBNの責任
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在では、ホストとルータの通信とルータとルータの通信は同
じです。そういう意味では、厳密には「IMP=ルータ」とはい
えないのかもしれません。
 さて、UCLA、SRI、UCサンタバーバラ、そしてユタ大
学の4つの拠点にはIMPが搬入され、それぞれのホスト・コン
ピュータと接続、さらにそれが専用電話回線で結ばれて、最初の
ARPAネットが構築されたのです。
 ARPAネットによる通信は、本当にうまくいったのでしょう
か。最初にIMPが持ち込まれたUCLAでのデータの送受信の
模様を残されている資料を基にしてご紹介しましょう。
 1969年8月31日、UCLAには関係者が集まり、IMP
とUCLAのホスト・コンピュータSDSシグマ7の間でビット
・データが転送されたのです。しかし、専用電話回線上で実際に
データが転送されたのは、10月29日、ロサンゼルスのUCL
AとシリコンバレーのSRI(スタンフォード研究所)の間での
ことです。
 UCLAからSRIに「LOGON(ログオン)」というデー
タを送ろうとしたのです。最初に送られたのは「L」という文字
であり、続いて「O」という文字――これらが間違いなく、送ら
れていることは電話で確認しています。
 しかし、その時点でシステムダウンしてしまったのです。後で
判明したところによれば、SRI側のマシンのバグが原因なので
す。速やかにバクは取り除かれ、その日の午後にはUCLAから
SRIにログインが可能になっています。
 モールス信号の開発者、サミュエル・モールスが1844年に
電信で最初に送ったメッセージは「なんぞ神は造りたまいき」、
1876年にグラハム・ベルが、最初に電話に送ったメッセージ
は「ワトソン君、こっちにきてくれ。君に会いたい」――これに
対して、1969年にUCLAがARPAネットで最初に送った
メッセージは「LO」であったのです。
 かくして、ARPAネットは、ハード面については完成したこ
とになります。これからは、ソフトウェアやアルゴリズムの問題
になってくるので、研究開発の中心は東海岸のMITから西海岸
のUCLAに移ってくることになります。
 ここで、ARPAネットのアイデアを考えたテイラーとそれを
実現させたロバーツの考え方の差に注目する必要があります。
 ラリー・ロバーツは、テイラーの開発構想をARPAネットの
初期計画として次のようにまとめています。これを「技術的アジ
ェンダ」といいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.負荷共有 ・・・・・・・・・・・・・ 負荷の平均化
 2.メッセージサービス ・・・・・ 電子メールサービス
 3.データ共有 ・・ データベースへのリモートアクセス
 4.プログラム共有 ・・ データやプログラムを遠隔地に
 5.遠隔アクセス ・・ 遠隔地のコンピュータにログイン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロバーツとしては、IPTOの創始者であるリックライダー、
そして自分を引き抜いてくれたテイラーの意向を無視して、技術
的アジェンダをまとめるわけにはいかなかった事情をこの5項目
は示していると思います。
 この技術的アジェンダを見ると、リックライダーの考えていた
リソース共有ネットワークの機能は3、4、5にあらわれていま
すし、コミュニティの形成に重点を置いていたテイラーの考え方
は2の電子メールサービスに取り入れられています。
 しかし、ロバーツはメッセージ・サービスについては次のよう
にいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 教育や会議などにはよいかもしれないが、科学目的のコンピュ
 ータ・ネットワークにとっては重要ではない。
                   ――ラリー・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、結果としてARPAネットで一番よく使われたのは電
子メール・サービスだったのです。当時の学者としては、高価な
コンピュータを電子メールのようなものに使うことに大きな抵抗
があったのです。
 1968年、ロバート・テイラーは、リックライダーと共同執
筆で、次の論文を発表しています。この本は現在のコンピュータ
の使われ方を的確に示していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 J・C・R・リックライダー/ロバート・テイラー共同執筆
     『コミュニケーション装置としてのコンピュータ』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文の中でテイラーは、ネットワークでコンピュータを使
う人々のつながりを「オンラインで双方向のやりとりをするコミ
ュニティ」と名付け、その未来像について「そのうち同じ興味を
持つ人々が同じ部屋にいてさえも、コンピュータのネットワーク
を介して、一緒に仕事をしていくようになる」と書いています。
 コンピュータがネットワークを介して情報装置として機能する
ことで、地理的制限をとりはらった知的なコミュニティの出現を
うながすという予測をしているわけですが、この予測は見事に的
中することになったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/27]


≪画像および関連情報≫
 ・『コミュニケーション装置としてのコンピュータ』発表時の
  著者紹介写真。リックライダーとテイラーがコンピュータを
  使っていかにも通信をしているように見えるが、この時点で
  通信はつながっていなかったのである。
  左側:リックライダー/右側:テイラー

リックライダーとテイラー.jpg
リックライダーとテイラー
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2009年11月05日

●IMPとルータとの違いは何か(EJ第1688号)

 「インターネットの歴史」をテーマにして、これまで27回に
わたって書いてきました。そして、やっとARPAネットが4拠
点でスタートするところまできました。しかし、この話はまだま
だ終らず、これからがむしろ本番であり、面白くなります。
 このテーマは単なるITのテーマではなく、インターネットの
誕生のドラマを通じて現代の米国を知り、米国を理解するための
助けとなると思うので、そういう観点で読んでいただけたらと考
えて、さらにこのシリーズを続けることにします。
 IMP(インプ)の話が出てきていますが、これについてもう
少し述べることにします。そもそもIMPとは何をするマシンな
のでしょうか。
 通信をするさい、ホスト・コンピュータ(以下、ホスト)は通
信相手を指定してIMPにデータを送ります。IMPはそのデー
タを小さく区切り、宛先情報の入ったヘッダーを付けてパケット
化します。そして、IMPはヘッダーの宛先を頼りに通信相手の
ホストにつながっているIMPにパケットを運ぶのです。
 この場合、ホストはそれぞれ異なる仕様なのですが、IMPは
同一仕様なのです。したがって、IMPとIMPの間の通信プロ
グラムは共通のハードを共通のソフトで制御する一種類のプログ
ラムで済んだのです。
 しかし、ホストとIMPの間の通信は当然のことながらホスト
ごとに異なってくることになります。しかし、ホストプログラム
は次の2つに階層化されます。ホストのアプリケーションとIM
Pとのやり取りを担うホストプログラムを分けたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.アプリケーション ・・・ ファイルの転送/遠隔操作
 2.ホストプログラム ・・・ IMPとのデータの入出力
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このパケット交換の基礎技術は、その後登場するルータに引き
継がれるのですが、IMPをいきなりルータと同一視することに
は問題があります。というのは、現在のルータにあってIMPに
ないのは、異なる仕様のネットワークを相互接続する機能である
からです。
 この異なる仕様のネットワークを相互接続する機能は「ゲート
ウェイ」というマシンに受け継がれ、ここでいうIMPの機能は
「TCP/IP」(ティー・シー・ピー・アイ・ピー)という有
名な通信プロトコルに発展していくのです。
 IMPの基本的な機能には次の3つがあります。これは、ホス
トが、つねに正しいデータを受け取るという前提のもとにIMP
というミニコンがデータの送受信、エラーチェックを専用のハー
ドウェアが担うというものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.パケットの分解・再編
       2.受信確認・データ送信
       3.あて先への送信・受信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1974年に、ARPAにいてロバーツの部下であるロバート
(ボブ)・カーンとスタンフォード大学の助教授をしていたビン
トン・サーフは、ある学術誌に共同で論文を発表します。
 彼らは、無線など非常に雑音などが多く、通信に困難な環境で
もきちんとパケットを送受信させるにはどうするかという現実的
な研究をしており、論文はその研究成果をまとめたのです。
 論文の内容は、IMPの3つの機能をソフトウェア化し、コン
ピュータに実装することによって、エラー訂正などの機能をホス
トにやらせるという画期的な技術だったのです。先端技術という
ものは、当初ハードウェアで実現したことを技術の進化によって
後からソフトウェア化する――そういう流れになるのです。
 そのソフトウェアの名前は「TCP」――しかし、これは現在
のTCPではなく、TCP/IPの全機能をTCPと呼んだので
す。さらに1978年になって、「TCP」と「IP」は分離し
宛先に確実にデータを届ける機能として「IP」を独立させてい
るのです。IPプロトコルの誕生です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪TCP≫
       1.パケットの分解・再編
       2.受信確認・データ送信
       ≪IP≫
       3.あて先への送信・受信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでARPAについて述べておかなければならないことがあ
ります。それはARPAがときどき名称を変えていることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1958年 2月 7日 ・・・  ARPA
   1972年 3月23日 ・・・ DARPA
   1993年 2月22日 ・・・  ARPA
   1996年 2月10日 ・・・ DARPA
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAは1958年に設立されたことは既に述べましたが、
1972年に「DARPA」と名称を変更しているのです。DA
RPAとは次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 DARPA=Defense Advanced Research Projects Agency
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまで述べてきたように、もともと軍事目的の先端技術を開
発するのが目的なのに自由にやっているので、わざわざ「防衛の
ための」という言葉を先頭に付けたのです。しかし、93年にク
リントン大統領は再びARPAに戻したのですが、96年になっ
て、また、DARPAとなって、現在に至っています。しかし、
当のARPAの住人は名前には頓着せず、自由に研究を続けてい
るといわれます。・・・[インターネットの歴史 part1/28]


画像および関連情報≫
 ・ルータ関連の歴史
  ――――――――――――――――――――――――――
  1973 ・・・ ARPAネット初の国際間接続が成功
  1974 ・・・ 「TCP」がIEEEの学術誌に発表
  1976 ・・・ BBN、初のTCP実装ルータを開発
  1977 ・・・ TCPによる異なるネットワーク接続
  1981 ・・・ TCPがTCP/IPに分離して独立
  ――――――――――――――――――――――――――

ARPAネットで使われたIMP.jpg
ARPAネットで使われたIMP
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2009年11月06日

●ゼロックス社とパロアルト研究所(EJ第1689号)

 ARPAのIPTO部長といえば、何百万ドルという援助を気
前よく配る存在です。その部長室は、国防総省のDリングに位置
して非常に大きく、豪華な絨毯が敷き詰められ、大きな机、がっ
しりとしたオーク材の会議用テーブル、ガラスの扉のついた立派
な本棚、それから快適な革張りの応接セットなどの調度品で飾り
立てられている豪奢な部屋なのです。
 しかし、IPTO部長の給料は非常に低いのです。ロバーツな
どは外に出かけるときは、オンボロのレンタカーを使っていたと
いうのです。したがって、高給が保証されているMITの教授や
助教授などのポストを捨てて、その職につくのは、相当の奉仕精
神がないとできないことなのです。
 ロバート・テイラーは、実質的に1965年からIPTO部長
の仕事をしていたのですが、1967年にホワイトハウスからあ
る命令を受けるのです。その命令とは、ベトナム戦争に関する米
国の陸海軍および海兵隊からなる四軍の報告があまりにもでたら
めなので、実態を調査し、そういうことがないようにせよという
ものだったのです。
 命令はマクナマラ国防長官からのものと思われますが、どうし
てこのような命令が、軍事のための先端技術を研究するIPTO
に下ったかということです。おそらく他に持って行きようのない
問題だったからではないかと思われるのです。
 このマクナマラという人物は、ケネディ政権のリンドン・ジョ
ンソン副大統領が「フォードから来た髪の毛を統計数字のように
整理した男」といったように、何事も数量化し、秩序立てて判断
するという統計学の権化のような人だったのです。彼は、自分の
仕事はデータの解析と理解であり、データの提供は軍部にまかせ
ればよいと考えていたのです。
 しかし、軍事情報は作戦参謀によって再編集され、嘘で塗り固
められたものが国防総省に上がってきたのです。その結果、米四
軍からの報告をそのまま信ずると、ベトナム人民軍の戦死者は北
ベトナムの総人口を上回ってしまうという結果を招いたのです。
そういうわけで、実態調査命令がIPTO部長のロバート・テイ
ラーに下ってきたというわけです。
 テイラーは、早速ベトナム視察に行くのですが、現地軍から猛
烈な抵抗にあいます。そのため自分が一つ星の准将待遇であるこ
とをまるで水戸黄門の印籠のようにいちいち誇示しなければなら
なかったほどなのです。
 抵抗にあいながらテイラーは、ベトナム視察を繰り返していく
うちにこの戦争が民主主義を守るための正義の戦争であるという
信念が揺らいできたといっています。そして、何のために誰が読
むのかわからない嘘で塗り固められた報告書が恣意的に生産され
国防総省に報告されていた事実を掴んだのです。
 そこでテイラーはARPAネットがスタートし、拡大していく
のを見届けることなく、ARPAを去ってユタ大学に行き、19
69年の暮れから教鞭をとることになります。
 ちょうどその1969年に、ゼロックス社の3代目の社長であ
るピーター・マッカローは、コンピュータ分野への進出を考えて
おり、買収すべきターゲットのコンピュータ会社を物色していた
のです。当初はDEC社をターゲットにしていたのですが、うま
くいかなかったのです。
 1969年2月にSDS(サイエンティフィック・データ・シ
ステムズ)を9億2000万ドルで買収したのです。この金額は
当時としては膨大であり、さしものゼロックス社も新株を350
万株を発行してやっと買収したのです。そして、SDS社はXD
Sとなったのです。
 この買収時点のゼロックス社の研究所の統括責任者は、ジャッ
ク・ゴールドマンだったのです。ゴールドマンは、フォード社か
ら移ってきたばかりの物理学畑の学者でしたが、ゼロックス社の
技術者は「守りの研究」をしていると批判していたのです。
 ゴールドマンは、SDSを買収した日と同じ日付で、マッカロ
ー社長に対して、「新しい先端科学・システム研究所の提案」と
題する21ページに及ぶ提案書を提出しています。そこに書かれ
ていた提案は、次の3つにまとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.既存のゼロックス社研究所群は従来通り、複写機関連技術
   に関わることにする。
 2.新研究所は既存の製品に関わる守りの研究は一切行わず、
   最新の研究に徹する。
 3.新研究所には、コンピュータやシステムに重点を置く3つ
   の部門が必要である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでいう「守りの研究」とは、既存製品――ゼロックスであ
れば複写機に関連する技術を中心に研究する姿勢をいうのです。
3つの部門とは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.システム科学研究室 ・・・ ゼロックス他部門連携
 2.コンピュータ応用研究室 ・ データ・マネジメント
 3.基礎科学研究室 ・・・・・ 一流の学者を集め研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゴールドマンは、最初に親友のジョージ・ペイクを新研究所の
責任者にすることを決めて、それから研究所の場所探しをやった
のです。ゼロックス社の既存の研究所に近い東海岸はあえて避け
て、カルフォルニアのパロアルトに場所を決定します。そして、
1970年6月に「パロアルト研究所」として発足したのです。
 ジョージ・ペイクは、セント・ルイスのワシントン大学の物理
学教授をしていたのですが、この学校はあのウェスレイ・クラー
クのいた大学なのです。しかし、所長を引き受けるさい、ペイク
の念頭にあったのは、ユタ大学にいたロバート・テイラーだった
のです。そして、ペイクは、テイラーに対して、執拗な説得をは
じめたのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/29]


≪画像および関連情報≫
 ・パロアルト研究所/Palo Alto Research Center――parc
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パロアルト研究所はアメリカ合衆国にある研究施設。複写機
  大手の米ゼロックス社が1970年にカルフォルニア・パロ
  アルトに開設する。アーキテクチャー・オブ・インフォーメ
  ーションの創出を目標にしたのである。コンピューター科学
  方面での影響力が大きく、スモールトーク、GUI、マウス
  イーサネット、レーザープリンタなどの発明が行われた。開
  放的な気風であったといわれる。
  出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

パロアルト研究所.jpg
パロアルト研究所
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2009年11月09日

●パロアルト研究所の胴元方式(EJ第1690号)

 パロアルト研究所長ペイクと同研究所システム科学研究室長の
ガニングが、ユタ大学にロバート・テイラーを訪ねたのは、19
70年の夏の頃だったのです。
 彼らはテイラーにパロアルト研究所に来てくれないかと説得し
たのですが、テイラーはパロアルト研究所がXDS(ゼロックス
・データ・システムズ)と深い協力関係があるという話を聞いて
研究所行きに難色を示したといわれます。
 というのは、テイラーは、過去にXDSの前身であるSDS社
長のパレフスキーと確執があったからです。テイラーがARPA
のIPTO部長のときの話です。
 IPTOが援助していたカルフォルニア大学バークレー校のプ
ロジェクトで、SDS社製のコンピュータ「SDS930」上で
時分割処理ができるプログラム(OS)を開発し、成功したので
す。このSDS930というコンピュータは、バッチ処理用のコ
ンピュータであり、時分割処理ができなかったのです。
 そこでテイラーは、SDS社長のパレフスキーをARPAに呼
んで、この時分割処理用のOSを載せた機種を開発してはどうか
というアドバイスをしたのです。ちなみに、そのOSはARPA
の助成による公共の成果であったので、そのOSを使うことには
お金がかからなかったのです。
 しかし、パレフスキーは頭が固く、時分割処理の価値を認めよ
うとしないので、激しい口論となり、交渉は決裂――最後はテイ
ラーが激高して、「出ていけ!」とパレフスキーを部屋の外に追
い出してしまったのです。
 その後、テイラーは時分割処理のOSを搭載したSDSのコン
ピュータを求めているクライアントをSDS側に複数並べて見せ
ることによって、SDSの次機種SDS940にそのOSは搭載
されたのです。しかし、XDSには依然としてパレフスキーが社
長として残っており、テイラーはそんな奴とは一緒にやりたくな
いと考えて、パロアルト行きを渋ったものと思われます。
 しかし、テイラーがXDSに対して不快感を抱いているという
ことを承知したうえで、ペイクはあえてテイラーにパロアルト研
究所入りを要請したのです。そこで、テイラーは、1970年9
月にパロアルト研究所のコンピュータ科学研究室に所属し、研究
者を集める仕事に就くことになったのです。しかし、テイラーの
XDS嫌いは後でいろいろな確執を生むことになります。
 さらにテイラーに関してはもうひとつ問題があったのです。そ
れは、テイラーが博士号を持っておらず、修士号も人文系のもの
であったため、ゼロックス社の社内規約上、コンピュータ科学研
究室の最高責任者に任ずることはできず、副責任者とするしかな
かったことです。
 そこでペイクは、コンピュータ科学研究室の最高責任者にBB
N社に所属していたジェローム・エルカインドを持ってくること
によって、テイラーが実質上の最高責任者として機能できるよう
に配慮したのです。エルカインドならばテイラーとうまくやって
いけると考えたからです。
 しかし、ペイクの気遣いは無用だったといえます。テイラーは
そうした組織上の必要性を自分に有利な条件に変容させる能力に
優れていたのです。それは、コンピュータ研究室にとって対外的
および社内調整などの雑務をすべてエルカインドにまかせ、自分
は副責任者として研究管理に特化することにしたからです。
 ここからテイラーの獅子奮迅の活躍が始まるのです。テイラー
がパロアルト研究所に集めてきた人材は、ARPAネットでつな
がれたコミュニティの中で、すこぶる評判の良い若手の研究者ば
かりだったのです。
 何しろ、普通の研究者であれば、苦吟しながらやっと一行を書
くような難しいプログラミングを、まるで機関銃を撃つようにタ
イピングする者が多くおり、プログラムをいかに短くエレガント
に書くかが競われていたからです。それはまさにハッカーの殿堂
そのものだったといえます。
 テイラーは、こうした若手の研究者に能力を発揮させる優れた
リーダーシップを持っていたのです。システムの若手の研究者た
ちにとってテイラーは、彼がARPAのIPTO部長をしていた
こともあって、その名は知られており、テイラーのチームに入れ
るならと、自らパロアルト研究所入りを志願する若手の研究者も
多かったのです。
 テイラーの率いるコンピュータ科学研究室の会議は、テイラー
によって「胴元方式」と名づけられ、大変有名になったのです。
ここで「胴元」とは、ゲームのルールについて宣言し、そのゲー
ムを仕切る人のことをいいます。どういう会議であったか、喜多
千草氏の本から紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会議では、発表者が胴元で、議事の進め方については自分
 の好きなように設定できるようになっていた。この胴元の比喩
 は活発な会議を促すためには効果的だったといえよう。なぜな
 ら、大勢のゲームの参加者は、胴元を打ち破らないかぎり儲か
 らないため、皆胴元を負かそうとするのが普通だからである。
 こうして、発表されたアイデアに対して、学問的・技術的に陳
 腐なものは容赦なく退けられ、甘い予測は痛烈に批判されると
 いった切磋琢磨が生まれた。つまり、率直なピア・レビューが
 おこなわれたのである。テイラーは、行き過ぎた攻撃や脱線に
 ついてのみ軌道修正しつつ、この合意形成の様子から、研究の
 採るべき方向性を探ることができた。
  ――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしたパロアルト研究所の開放的な風土から、現代のPCの
原型といういうべき個人用の小型コンピュータが生まれ、同時に
インターネットが育っていったといえるのです。パロアルト研究
所――それは当時、現代のIT環境につながる未来の扉だったと
いってよいと思います。  
        ・・・[インターネットの歴史 Patr1/30]


≪画像および関連情報≫
 ・パロアルト研究所の討議方式
  ロバート・テイラーによって開発されたパロアルト研究所の
  討議方式を継承したものと思われる討議方式が、米国のIT
  業界の会議にいくつか残っている。その1つが本シリーズの
  第1回でご紹介したIETFミーティングである。次のアド
  レスをクリックして、「江端さんのひとりごと」をぜひ一読
  していただきたい。
  ―――――――――――――――――――――――――――
      http://www.ff.iij4u.or.jp/~ebata/ietf.txt
  ―――――――――――――――――――――――――――

カルフォルニア大学/バークレー校.jpg
カルフォルニア大学/バークレー校
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2009年11月10日

●若き天才/ランプソンと・サッカー(EJ第1691号)

 ロバート・テイラーがパロアルト研究所(以下、PARC)に
移って、事実上コンピュータ科学研究室をまかされることになっ
たとき、当然のことながら、コンピュータをはじめとする数々の
研究設備を整えることが必要になったのです。最大の問題は、ど
のようなコンピュータを導入するかにあったのです。
 テイラーは、ゴールドマンやペイクからは高い評価を得ていた
ものの、ゼロックスの上層部からは博士号を持っていないという
理由だけで冷ややかに見られていたのです。とくにXDSのハレ
フスキーとは犬猿の仲であることは既に述べました。
 そのような状況において、テイラーと当時コンピュータ科学研
究室にいた研究者たちが選定したコンピュータは、DEC社のコ
ンピュータ「PDP−10」だったのです。
 このPDP−10はその設計の優秀さから全米の大学が好んで
採用しており、ソフトウェアを互いに交換するためにはPARC
も同じコンピュータを持つ必要があったのです。ところが、PA
RCがPDP−10を導入することは絶対にできない事情があっ
たのです。なぜかというと、ゼロックス社にとってDEC社はラ
イバル会社であり、敵対関係にあったからです。
 実はゼロックス社傘下のXDS社製のコンピュータは、どんど
んDEC社のPDP−10に乗り換えられており、ゼロックス社
の幹部はDEC社を最大の敵として神経を尖らせていたのです。
そのようなときにテイラーは平然とPDP−10をコンピュータ
科学研究室用のコンピュータとして申請したのです。
 当然のことながら、これにはゼロックス本社経営幹部は激高し
て直ちに却下されてしまったのです。そこでテイラーは一計を案
じます。それは、DEC社のPDP−10に限りなく近いマシン
をコンピュータ科学研究室のスタッフで作ってしまうということ
だったのです。
 実際にテイラーの研究室は、ありとあらゆる新技術を総動員し
て、PDP−10に限りなく近いが、本物より高性能なコンピュ
ータ/MAXC(マルチプル・アクセス・ゼロックス・コンピュ
ータ)を作ってしまったのです。どうしてこのようなことができ
たのでしょうか。
 それは、テイラーの研究室にコンピュータ製作のプロが大勢い
たからです。実はBCC(バークレー・コンピュータ・コーポレ
ーション)という会社が1970年11月に倒産し、そこにいた
優秀なエンジニアがテイラーの研究室に移籍してきていたからで
す。中心人物として、次の2人の研究者がいたのです。この2人
の名前は覚えておいてください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          バトラー・ランプソン
          チャールズ・サッカー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 BCCは、カルフォルニア大学バークレー校で、ARPAの助
成を受けて時分割処理システム(OS)を作っていたメンバーが
中心となって1968年に設立されています。しかし、経営能力
には欠けていたらしく、1970年11月に倒産してしまったの
です。ちょうど同じ年の9月にテイラーがPARCに着任してい
たので、テイラーが動いてBCCのメンバーを受け入れたという
わけです。
 ついでに述べておくと、このBCCで唯一制作したコンピュー
タがあるのです。「バークレー500」と命名されたのですが、
これもテイラーが動いて、これをARPAに買い上げさせていま
す。後にこのバークレー500はハワイ大学に貸与され、後で述
べる「ALOHAネット」を生み出すことになるのです。
 さて、バトラー・ランプソンは、当時全米の学界でも名前を知
られるほどの若手の研究者でしたが、早口で有名だったといわれ
ます。提案者が少しでも矛盾したことをいうと、機関銃のような
早口で相手をねじふせたといいます。
 チャールズ・サッカーも非常に優秀な若手研究者で、彼は相手
を論破するとき、「ふん、そんなのがうまくいくなら、ブタが空
を飛ぶよ!」というのがクセだったといわれます。しかし、その
判断は的確であり、ランプソンの盟友だったのです。
 コンピュータ科学研究室に新しい研究者を入れるとき、集団で
面接し、議論したといわれます。ここの研究者たちとどの程度議
論できるかによって採否を決めていたのです。そういう集団討議
の場では、ランプソンとサッカーは際立っており、自然に研究室
のリーダー格になっていたのです。
 テイラーの優れていたところは、研究室には中間的な階級構造
を作らず、困ったことがあればすべてテイラーに相談する仕組み
になっていたのです。テイラーはその役割を熱心に行っており、
若い研究者たちにとって、テイラーはこの組織になくてはならな
い存在として尊敬を集めていたのです。
 当時パロアルト研究所の顧問をしていたアレン・ニューウェル
がコンピュータ科学研究室でプログラミングについて講演をやっ
たことがあります。ニューウェルといえば、コンピュータ科学分
野では著名なカーネギー工科大学(後にカーネギー・メロン大学
と改称)の教授だったのです。
 しかし、講演の内容について数多くの質問や提案が飛び出し、
ニューウェルが立ち往生してしまうということがあったのです。
テイラーの研究室のメンバーは、ランプソンやサッカーのように
頭の回転が速く、はっきりとした物言いをする研究者が多く、過
去の業績や権威などにはとらわれず、否定的な意見を述べるとき
は完膚なきまでにけなすことで知られていたのです。
 テイラーの作り出したこういう自由な雰囲気に対してもゼロッ
クス社の経営幹部は眉をひそめていたといわれます。しかし、パ
ロアルト研究所が世界的名声を勝ち取れたのは、こうした若き研
究者たちの後の輝かしい業績であり、そういう優秀な研究者を集
め、のびのびと研究をさせたロバート・テイラーの力があっての
ことなのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/31]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・ゲイツとPDP−10
  19歳でハーバード大学を飛び出し,1975年にマイクロ
  ソフト社を設立。36歳で米国長者番付第1位の史上最年少
  記録を作ることになる天才ハッカー、ビル・ゲイツを育てた
  のはDEC社のミニコン「PDP−10」であったといわれ
  ている。
 ・PDP−10は第2世代の36ビットコンピュータであるが
  世界初の商業用タイムシェアリングシステムとして成功して
  いる。

DEC/PDP−10.jpg
DEC/PDP−10
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2009年11月11日

●PCの原型/ALTO完成(EJ第1692号)

 昨日ご紹介したDEC社のPDP−10に限りなく似て、それ
を上回る機能を持つコンピュータ「MAXC」――これはCをサ
イレントにして「マックス」と呼ぶのです。
 これは、SDS社をゼロックス社に高値で売りつけて億万長者
になったマックス・パレフスキー(XDS社の社長)を揶揄して
「マックス」と呼んだのです。MAXCを制作したのは、テイラ
ーのチームであり、テイラーと仲が悪かったパレフスキーをから
かったというわけです。しかし、この揶揄がパレフスキー本人に
通じているかどうかは定かではないそうです。
 さて、ロバート・テイラーがPARC(パロアルト研究所)に
連れてきた研究者はかなりの人数になります。その中で、とりわ
け現在のインターネット環境づくりに重要な貢献をしたと考えら
れる人物を上げると、次の4人になると思います。これら4人の
関係について記述していきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.バトラー・ランプソン
        2.チャールズ・サッカー
        3.アラン・ケイ
        4.ロバート・メトカフ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アラン・ケイ――1968年当時、彼はユタ大学の大学院生で
あり、イワン・サザーランドの弟子の一人だったのです。そのと
き、同じユタ大学にいたテイラーとは当然面識があり、テイラー
によってPARCに引っ張られたのです。
 アラン・ケイは、PARCに入社する前から「ダイナブック講
想」という画期的なコンピュータのアイデアを持っており、これ
を実現するため、テイラーの誘いに乗ってPARCに入社したの
です。彼はPARCではシステム科学研究室に属していたのです
が、テイラーの率いるコンピュータ科学研究室のディスカッショ
ンにはよく参加していたのです。
 1972年9月のこと、ランプソンとサッカーは、アラン・ケ
イの部屋を訪ねたのです。彼ら2人はアラン・ケイに次のように
尋ねたのです。これは今でも語られる有名な話なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「予算をお持ちではありませんか」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対してケイは「持っている」と答えると、ランプソンと
サッカーは「そのお金であなた用の小さなコンピュータを作らせ
ていただけませんか」と頼んだというのです。
 もともとアラン・ケイは小型コンピュータには関心があり、彼
らがあまりにも真剣なので、現在考えている自分の仕事をあきら
めて、予算の23万ドルを彼らのために提供したのです。このア
ラン・ケイの決断が伝説的な名器「ALTO/アルト」を誕生さ
せることになるのです。
 ALTOの設計は、次のような分担で行われたと記録に残って
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  主設計者 ・・・・・・・・・ チャールズ・サッカー
  副設計者 ・・・・・・・・ エドワード・マクレイト
  監  修 ・・・・・・・・・ バトラー・ランプソン
  総  括 ・・・・・・・・・・・・・ アラン・ケイ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ランプソンとサッカーはアラン・ケイに「3ヶ月で作る」と宣
言したのですが、さすがに3ヶ月では無理で、約6ヶ月をかけて
ALTOは1973年4月に完成したのです。
 添付ファイルにALTOの写真を載せていますが、本体部分は
かなり大きいものの、現代のPCに近いものになっています。そ
れでは、ALTOはどのようなコンピュータなのでしょうか。
 脇英世氏の本から、ALTOがどのようなコンピュータである
かをご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ALTOは8.5インチ×11インチのモノクロのビットマッ
 プ・ディスプレイが採用された。このビットマップ・ディスプ
 レイによってGUIが可能になり、さらにビットマップ・ディ
 スプイとレーザー・プリンタがイーサネットによって結合され
 ることにより、WYSIWYGが可能になった。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かなり、専門用語が入っているので、簡単に説明します。ディ
スプレイは縦型で、ウインドウズのようなグラフィカル・ユーザ
・インタフェース(GUI)を装備しています。脇氏の説明には
ありませんが、キーボードとマウスという現在と同じ入力装置が
ついています。
 WYSIWYG――ウィジウィグというのは、ディスプレイの
画面で見たままが印刷されるという意味であり、WYSIWYG
は次の英文の頭文字をひろったものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       What You See Is What You Get.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。まさしく現代のPCの原型とでもいうべきもの
が1973年には米国では完成していたことになります。しかし
ゼロックス社の首脳はALTOを商品として販売せず、2000
台も生産しながら、PARC内部で使われただけで、終わってし
まったのです。これは同社の経営幹部の責任といえます。
 ALTOがどんなに素晴らしいコンピュータだったかは、19
79年にPARCを見学に来たアップルのスティーブ・ジョブス
CEOがALTOを見て感激し、まず、「リサ」を作り、それを
「マッキントッシュ」に発展させて大成功したことを見ても明ら
かなことです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/32]


≪画像および関連情報≫
 ・スティーブ・ジョブス/アップル社暫定CEO
  スティーブ・ジョブズは米国の企業家。スティーブ・ウォズ
  ニアックなどとともにアップル・コンピュータ社を創立。P
  ARCのALTOのGUIやマウスのアイデアの可能性に目
  をつけたジェフ・ラスキンやビル・アトキンソンのアイデア
  である「マッキントッシュ」に最初は反対しながらも、自ら
  ALTOを見て考え方を変更し、「マッキントッシュ」を制
  作して成功する。近年では業績不振に陥っていたアップル社
  の暫定CEOを引き受け、「アイ・マック」や「iPod」
  を発売して業績を回復させている。ジョブスは暫定CEOで
  あるとして、毎年1ドルしか給与を受け取っていない「世界
  で一番安いCEO」といわれている。「マッキントッシュ」
  と写っているのは、若き日のスティーブ・ジョブスである。

アルトとマッキントッシュ.jpg
アルトとマッキントッシュ
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2009年11月12日

●ロバート・メトカフとノーマン・エブラムソン(EJ第1693号)

 テイラー、ランプソン、サッカー、そしてケイ――おそらくこ
の中で一番有名な人物はアラン・ケイでしょう。ロバート・テイ
ラー――同名の有名映画俳優がいる――はともかくとして、ラン
プソン、サッカーにいたっては、長年コンピュータ業界に籍を置
いた人でさえ、その名前を知る人は少ないと思うのです。
 それに比べてケイは、最初から「子供でも使える小型コンピュ
ータ/ダイナブック」というコンセプトを持っていて、コンピュ
ータ制作やプログラミングよりも、教育研究――その視点に立っ
たコンピュータ利用に情熱を傾けた人です。文才もあり、熱心に
執筆活動をしていたこともあって、世界的にその名前は知られて
いたのです。
 そういう著名人であるケイは、講演でアルト・システムについ
て語るとき、それをアルトとは呼ばず、「暫定版ダイナブック」
として紹介しています。これを聞けば、単体のアルトがケイのダ
イナブック講想を実現したものであると誰でも考えてしうでしょ
う。これでは、ランプソンやサッカーが気の毒です。
 もちろん、アラン・ケイの業績は素晴らしいとは思いますが、
私が調べた限りでは、ランプソンの小型コンピュータの将来像の
方がケイのそれよりもはるかに現実に近いものであったこと――
また、サッカーの類まれなるコンピュータ構築の技術やソフトウ
ェア開発力がなければ、アルトは誕生しなかったということを強
調しておきたいと思います。
 話を先に進めます。PARC内部のアルトをネットワーク化し
LANの基礎を築いたのは、ロバート・メトカフです。メトカフ
は、1972年6月にPARCのコンピュータ科学研究室の一員
になっています。テイラーの勧誘によるものです。
 メトカフは、MITの電子工学科を卒業して、ハーバート大学
の応用数学大学院に進み、主としてコンピュータ・ネットワーク
の研究をしていた研究者です。ハーバート大学には博士号を取得
する目的で通っていたのですが、当時優秀な研究者はいろいろな
研究所から引っ張りだこで、大学ではあまりじっくりと勉強でき
なかったようです。
 ハーバート大学院在学中にMITのMAC計画に参加し、ミニ
コンのIMPをMAC計画で使っていたPDP−10に接続する
など、実践的な通信・ネットワークの仕事をしてたのです。
 メトカフはこの仕事をした関係で、リックライダーやテイラー
を知り、博士号を取得したらPARCに就職することになってい
たのです。
 既に述べたように、学者にとって博士号は特別なものではなく
取得していないと学者仲間から相手にされないという性格のもの
だったようです。メトカフはMAC計画に参加した経験を基にし
て、博士論文をまとめてハーバート大学に提出したのですが、不
合格として却下されてしまいます。理由は「理論化が十分ではな
い」というものだったのです。
 困惑したメトカフはテイラーに電話をしてそのことを伝えたの
ですが、テイラーには次のようにいわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 博士号なんてどうでもいいから、早くPARCに来て欲しい。
 実はすぐに取り組んで欲しい仕事がある。博士号はその仕事で
 とれる。            ―― ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてメトカフはPARCのコンピュータ科学研究室の一員
となるのです。1972年6月のことです。
 テイラーがメトカフに対してすぐにやって欲しい仕事といって
いたのは、次の2つだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.時分割処理システムMAXCをARPAに接続する
  2.PARC内のアルトを接続してネットワーク化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記1の仕事に関しては、メトカフは簡単に片付けています。
しかし、2のアルトによるネットワーク化に関しては、いろいろ
考えるところがあったのです。これに関してもARPAを応用す
れば可能だったのですが、次の3つの理由によってARPAの技
術を使いたくないと考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.ARPAは電話回線を使うので遅い
    2.接続するに当って、コストがかかる
    3.システムが複雑になってしまう恐れ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフがワシントンのARPAを訪れたとき、ハワイ大学で
行われているアロハ・システムのネットワークに関する1970
年の学会報告書を目にしたのです。アロハ・システムのリーダー
は、ノーマン・エブラムソンという学者で、ハーバード大学の教
授から自らの希望でハワイ大学にやってきていたのです。彼は海
が好きで、かねてからハワイに住みたいと考えていたのです。
 エブラムソンの論文を読んだメトカフは、直ちにハワイに行っ
て、エブラムソンの指導を受けるために1ヶ月を過ごすのです。
1972年の夏のことです。
 このアロハ・システム――ハワイ大学の電気工学部情報科学科
が、1968年9月から、空軍の研究資金援助により時分割処理
システムを中心とした情報通信設備の開発を行っている過程で構
築されたものなのです。
 ハワイ大学の場合、その地理的条件などにより、通常の時分割
処理システムをそのままでは適用できないという事情があったの
です。とくに問題となったのは、次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.大学の施設が離れた島に点在していること
  2.電話回線はノイズが混入するので使えない
  3.専用回線は高価であり、海をまたぐネック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ハワイ大学/オアフ島には「IBMシステム360」が設置
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「IBMシステム360」はIBM最大のヒット商品であり
  1964年に完成している。IBM社によると「360」は
  「360度、どの用途でも応用できます」という意味であり
  その汎用性を強調している。
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

システム360/IBM.jpg
システム360/IBM
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2009年11月13日

●ロバート・メトカフとノーマン・エブラムソン(EJ第1694号)

 テイラー、ランプソン、サッカー、そしてケイ――おそらくこ
の中で一番有名な人物はアラン・ケイでしょう。ロバート・テイ
ラー――同名の有名映画俳優がいる――はともかくとして、ラン
プソン、サッカーにいたっては、長年コンピュータ業界に籍を置
いた人でさえ、その名前を知る人は少ないと思うのです。
 それに比べてケイは、最初から「子供でも使える小型コンピュ
ータ/ダイナブック」というコンセプトを持っていて、コンピュ
ータ制作やプログラミングよりも、教育研究――その視点に立っ
たコンピュータ利用に情熱を傾けた人です。文才もあり、熱心に
執筆活動をしていたこともあって、世界的にその名前は知られて
いたのです。
 そういう著名人であるケイは、講演でアルト・システムについ
て語るとき、それをアルトとは呼ばず、「暫定版ダイナブック」
として紹介しています。これを聞けば、単体のアルトがケイのダ
イナブック講想を実現したものであると誰でも考えてしうでしょ
う。これでは、ランプソンやサッカーが気の毒です。
 もちろん、アラン・ケイの業績は素晴らしいとは思いますが、
私が調べた限りでは、ランプソンの小型コンピュータの将来像の
方がケイのそれよりもはるかに現実に近いものであったこと――
また、サッカーの類まれなるコンピュータ構築の技術やソフトウ
ェア開発力がなければ、アルトは誕生しなかったということを強
調しておきたいと思います。
 話を先に進めます。PARC内部のアルトをネットワーク化し
LANの基礎を築いたのは、ロバート・メトカフです。メトカフ
は、1972年6月にPARCのコンピュータ科学研究室の一員
になっています。テイラーの勧誘によるものです。
 メトカフは、MITの電子工学科を卒業して、ハーバート大学
の応用数学大学院に進み、主としてコンピュータ・ネットワーク
の研究をしていた研究者です。ハーバート大学には博士号を取得
する目的で通っていたのですが、当時優秀な研究者はいろいろな
研究所から引っ張りだこで、大学ではあまりじっくりと勉強でき
なかったようです。
 ハーバート大学院在学中にMITのMAC計画に参加し、ミニ
コンのIMPをMAC計画で使っていたPDP−10に接続する
など、実践的な通信・ネットワークの仕事をしてたのです。
 メトカフはこの仕事をした関係で、リックライダーやテイラー
を知り、博士号を取得したらPARCに就職することになってい
たのです。
 既に述べたように、学者にとって博士号は特別なものではなく
取得していないと学者仲間から相手にされないという性格のもの
だったようです。メトカフはMAC計画に参加した経験を基にし
て、博士論文をまとめてハーバート大学に提出したのですが、不
合格として却下されてしまいます。理由は「理論化が十分ではな
い」というものだったのです。
 困惑したメトカフはテイラーに電話をしてそのことを伝えたの
ですが、テイラーには次のようにいわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 博士号なんてどうでもいいから、早くPARCに来て欲しい。
 実はすぐに取り組んで欲しい仕事がある。博士号はその仕事で
 とれる。            ―― ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてメトカフはPARCのコンピュータ科学研究室の一員
となるのです。1972年6月のことです。
 テイラーがメトカフに対してすぐにやって欲しい仕事といって
いたのは、次の2つだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.時分割処理システムMAXCをARPAに接続する
  2.PARC内のアルトを接続してネットワーク化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記1の仕事に関しては、メトカフは簡単に片付けています。
しかし、2のアルトによるネットワーク化に関しては、いろいろ
考えるところがあったのです。これに関してもARPAを応用す
れば可能だったのですが、次の3つの理由によってARPAの技
術を使いたくないと考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.ARPAは電話回線を使うので遅い
    2.接続するに当って、コストがかかる
    3.システムが複雑になってしまう恐れ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフがワシントンのARPAを訪れたとき、ハワイ大学で
行われているアロハ・システムのネットワークに関する1970
年の学会報告書を目にしたのです。アロハ・システムのリーダー
は、ノーマン・エブラムソンという学者で、ハーバード大学の教
授から自らの希望でハワイ大学にやってきていたのです。彼は海
が好きで、かねてからハワイに住みたいと考えていたのです。
 エブラムソンの論文を読んだメトカフは、直ちにハワイに行っ
て、エブラムソンの指導を受けるために1ヶ月を過ごすのです。
1972年の夏のことです。
 このアロハ・システム――ハワイ大学の電気工学部情報科学科
が、1968年9月から、空軍の研究資金援助により時分割処理
システムを中心とした情報通信設備の開発を行っている過程で構
築されたものなのです。
 ハワイ大学の場合、その地理的条件などにより、通常の時分割
処理システムをそのままでは適用できないという事情があったの
です。とくに問題となったのは、次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.大学の施設が離れた島に点在していること
  2.電話回線はノイズが混入するので使えない
  3.専用回線は高価であり、海をまたぐネック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ハワイ大学/オアフ島には「IBMシステム360」が設置
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「IBMシステム360」はIBM最大のヒット商品であり
  1964年に完成している。IBM社によると「360」は
  「360度、どの用途でも応用できます」という意味であり
  その汎用性を強調している。
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

システム360/IBM.jpg
システム360/IBM
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2009年11月16日

●メトカフの3つの原理(EJ第1695号)

 アロハ・システムの話を続けます。ホストのIBMシステム3
60は、ホノルルのハワイ大学に置かれており、端末はその半径
200マイルの広大な範囲に分散していたのです。こういう状況
では無線しか対応のしようがなかったのです。
 データの基本単位をパケットに分割し、それぞれのパケットに
は宛先を示すベッダをつけて、ホスト・コンピュータ(IBMシ
ステム360)に接続されているIMPというミニ・コンピュー
タに送り、IMP経由で目的のホストに到着、そこで再合体され
て元のデータになる――既にご説明したパケット交換システムで
すが、これを無線でやろうというのです。
 ところで、このミニ・コンピュータIMPには従来のマシンに
はなかった無線通信を使うなどの工夫が加えられたこともあって
エブラムソンはあえてIMP(インプ)とは呼ばず、「メナフー
ニ」という洒落た名前をつけたのです。メナフーニとは「ハワイ
の小鬼」という意味です。
 アロハ・システムは無線通信だけではなく、いつくか新機軸が
取り入れられていたのです。もともとは時分割処理システム――
端末を中央のコンピュータに繋げて多くの人がコンピュータを共
同で使うシステムなのですが、ハワイの島々に置かれていた遠隔
端末がちょうどミニ・コンピュータ――具体的にはDEC社のP
DP−8に置き換えられつつあったのです。そして、それぞれの
PDP−8がメナフーニをパケット交換機として使って、互いに
通信をはじめていたのです。
 つまり、遠隔端末を中央のIBMシステム360に繋げるだけ
ではなく、メナフーニを通して端末同士の通信が行われていたと
いうわけです。この場合、メナフーニをルータと考えれば、現代
の通信に非常に近いものになっていたことです。
 ロバート・メトカフがエブラムソンの論文で最も関心を持った
のは、無線のパケット通信方式の理論の部分だったのです。メト
カフは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アロハ・ネットワークが興味深いのは、メナフーニに入ってく
 るパケットが中央から制御されていないということだった。パ
 ケットは端末で発信の準備が出来たらそのまま発信されており
 パケットにどの端末から発信されたかという情報がつけられて
 いた。そしてもし、メナフーニに入る前に干渉されてしまった
 場合、メナフーニが受け取ったという信号を発信してこないた
 め、端末は再度、ランダムに選んだ間隔をおいてパケットを発
 信する。こうしてランダムに間隔が選ばれることによって、繰
 り返し干渉が起こることを避けるという仕組みになっていた。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し解説する必要があると思います。エブラムソンのやったこ
とを簡単にいうと、次の3つにまとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.パケットが届いたら、それを送信元に信号で知らせる
 2.パケットの着信信号が戻ってこないときは再送信する
 3.そのさい再送信するときの待ち時間はランダムにする
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一番工夫が行われたのは3の部分です。ハワイの島々にある複
数の端末から同時にパケットを送信すると、同じ周波数の電波を
使っているので、どうしてもパケットの衝突(コリジョン)が起
こってしまうのです。
 コリジョンが起こるとパケットは使えなくなる――つまり、こ
の場合、届いたことを示す信号が戻ってこないので、それらのパ
ケットを再送信することになるのですが、各端末が同じタイミン
グで再送信すると再びコリジョンが発生するということになって
しまうのです。これを防ぐためにエブラムソンは各端末のパケッ
ト再送信のタイミングをランダムにして、コリジョンを減らすこ
とに成功したのです。
 「モデルがきれい過ぎる」――メトカフは、この3の部分の工
夫の素晴らしさを称えながらもこう考えたのです。エブラムソン
は、ポワッソンの待ち行列理論を単純に使っていたからです。な
ぜなら、このモデルであれば周波数帯の利用量が17%以上にな
ると、再送信がうまくいかなくなるからです。つまり、パケット
の通信量(トラフィック)が増えると、効率がダウンしてしまう
欠陥があったのです。
 メトカフはこの部分についてハワイにいる間にエブラムソンと
徹底的に議論しています。そして、PARCに戻ってからその解
決策を考案してまとめ、ハーバード大学に博士論文として提出し
たのです。この論文は受理され、メトカフは念願の博士号を手に
したのです。
 アロハ・システムの周波数帯における不安定性は、新しいモデ
ルによってパケット通信量を基礎にした再送信の率の制御を行え
ば、相当通信量が多くなっても周波数帯を安定させておくことが
できることがわかったのです。これは「バックオフ・アルゴリズ
ム」といわれています。
 このようにして、メトカフは、次の3つの基本原理なるものを
まとめます。後に「イーサネット」と呼ばれるネットワークの基
本原理となる3つの原理です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.キャリア・センス ・・・・・・・ CS
   ・ケーブル上に信号が流れているかどうかをチェック
 2.コリジョン検出システム ・・・・ CD
   ・コリジョンが発生したら、速やかにそれを検出する
 3.バックオフ・アルゴリズム ・・・ MA
   ・パケットの再送信する待ち時間をランダム化させる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この原理は現在では「CSMA/CD」と呼ばれ、イーサネッ
トの基本原理になっています。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/35]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・メトカフ開発の3つの基本原理

メトカフの3つの原理.jpg
メトカフの3つの原理
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2009年11月17日

●メトカフ/イーサネットを完成(EJ第1696号)

 PARC内のアルトを接続してネットワーク化する――これが
ロバート・メトカフに課せられた仕事です。当時はこういうネッ
トワークのことを「ローカル・ネットワーク」と呼んでいたそう
です。LANと呼ばれるのはもう少し経ってからです。
 メトカフは既にこの頃からパケット通信網の広がり全体を巨大
なシステムとしてとらえていたのです。そして、このネットワー
クが完成し、他にも同じようなネットワークがあるとそのネット
ワーク同士を統合してさらに巨大なネットワークを構築する――
実に広大な構想をメトカフは描いていたのです。
 しかし、この実現のためには、アルト用のローカル・ネットワ
ークをきちんと仕上げる必要があります。そのため、メトカフは
この仕事のパートナーとして、PARCの同僚のデビット・ボッ
グズを選んだのです。
 ローカル・ネットワークの基本設計としては、パケットの制御
を中央のコンピュータで行わない分散型の制御採用することに決
めていたのです。アロハ・システムと同じ方式です。具体的には
次のようなネットワークを目指したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 速くてシンプル、そして、太いケーブルを必要とせず、どこに
 でも這わせることができ、信頼性が高く、コンピュータの5%
 程度のコストにおさまるようなネットワーク。しかも、アルト
 に差し込めるカード仕様を充たすこと。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さまざまな問題点をクリアして、1974年にメトカフとボッ
クスは実験システムを完成させたのです。アルトを約100台接
続して動かしてみたところ、問題なくネットワークが稼動したの
です。ネットワークの仕様は次の通りだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    最大伝送速度 ・・・ 2.94Mビット/秒
    最大伝送距離 ・・・・・・ 1キロメートル
    最大セグメント ・・・・・ 1キロメートル
    アドレス長  ・・・・・・ 8ビット
    伝送メディア ・・・・・・ 同軸ケーブル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このネットワークは当初「アルト・アロハネットワーク」と呼
ばれていたのです。しかし、メトカフとボッグスがゼロックス社
の法律関係部局に提出したこのネットワークの「発明記録」には
「イーサネット発明記録」と書かれてあったのです。
 「イーサ」というのは、ギリシャ語の「上層の空気」から作ら
れた言葉で、光を伝える仮想的な物質を意味しています。音は空
気が振動することで伝わりますが、宇宙空間は真空であるのに光
は太陽から地球まで届きます。それなら、光を伝える媒体とは何
か――17世紀にホイヘンスはそれが「エーテル(イーサ)」で
あると仮定したのです。
 しかし、ホイヘンスの考え方は19世紀末のマイケルソンとモ
ーリーの実験や20世紀初頭のアインシュタインの相対性理論に
よって否定されています。
 もちろんメトカフはそんなことは知っていましたが、「データ
を伝える媒体」という意味を込めて「イーサネット」と名付けた
のです。後年メトカフはこういっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ある物理学者は既に存在が否定されている物質の名前を使うな
 んて、評判を落とすだけだと思うけどね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフは、アルト・ネットワークを「イーサネット」と命名
するという趣旨の提案を研究者たちに配っています。その日付は
1973年5月22日――この日こそ「イーサネット」が誕生し
た記念日といえるでしょう。
 当時DEC社はベストセラーだったミニコンPDPの後継機と
してVAXという戦略商品を開発していたのですが、このマシン
はLANに繋ぐことが前提だったのです。
 そのことを知ったロバート・メトカフは、DEC社の技術部門
の責任者であるゴードン・ベルに次のように説得したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 DEC社の方からゼロックス社にイーサネットの標準化に協力
 すると説いてくれないか。標準化されれば、ゼロックス社のレ
 ーザー・プリンタは爆発的に売れますよとね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この説得は見事成功し、ゼロックス社はDEC社とイーサネッ
トの標準化で協調することになったのです。そして、この2社連
合にさらに1社が加わるのです。インテル社がそうです。当時イ
ンテル社は新しい半導体製造技術を開発したばかりで、この技術
が使える分野を探していたのです。
 この情報を入手したメトカフはひらめいたのです。もし、この
連合にインテル社が加われば、イーサネットの標準化ができた場
合、制御チップの供給先を確保できる――そう考えたメトカフは
インテル社を全力を傾けて説得し、承知させたのです。このメト
カフという人物、なかなか政治力があるようです。
 かくして、DEC、インテル、ゼロックス3社が共同で標準化
を目指すことになったのです。この3社連合は、それぞれの会社
の頭文字をを取って「DIX連合」と名付けられたのです。この
DIX連合――1980年9月にイーサネットの最初のバージョ
ン1.0を出しています。これをDIX仕様といいます。
 しかし、LANの標準化に競合する大企業が2社あらわれたの
です。GM社とIBM社です。1980年2月に第1回のIEE
E802委員会がサンフランシスコで開かれているのですが、結
局のところ、LANの標準化は1本化されず、DIX連合/GM
/IBMそれぞれがLAN仕様を出すことになります。政治的な
理由でそうなったといえます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/36]


≪画像および関連情報≫
 ・LANの3つの標準化仕様
  ―――――――――――――――――――――――――――
  IEEE802.3 ・・・ DIX連合
   ・バス型LAN
  1EEE802.4 ・・・ GM
   ・トークン・パス型LAN
  IEEE805.5 ・・・ IBM
   ・トークンリング型LAN
  ―――――――――――――――――――――――――――

イーサネットの開発者.jpg
イーサネットの開発者
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2009年11月18日

●RFC文書というものがある(EJ第1697号)

 ゼロックス社は、小型コンピュータのアルトを2000台も生
産しながら、1台も外部に販売しなかったのです。これは、産業
史上の大失敗のひとつとして語り草になったほどです。
 しかし、PARC内ではそれらのアルトがイーサネット・ネッ
トワークで相互につながり、さらにそれがARPAネットにつな
がって全米のコンピュータと自由にプログラムやデータを交換で
きるようになったのです。
 これに貢献したのがメトカフとボックスの2人なのです。2人
は「ボブジーの双子」といわれるほどいつも一緒に働き、イーサ
ネットの実装を熱心に行ったのです。
 ところが、イーサネットの実装が進む過程において、ファイル
転送用プロトコル(EEFTP)が作られ、1975年にレーザ
ー・プリンタをネットワーク上に置くEARSというネットワー
ク・プリンタ・システムが出来上がったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 EEFTP=Experimental Ethernet Transfer Protocol
 EARS =Ethernet Alto Research Character generator
       Scanning laser output terminal
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 PARC内で多くの研究者が個人でアルトを使うようになって
一番扱いに苦慮していたのが、実はプリンタの扱いなのです。し
かし、イーサネットが開発され、PARC内のアルトがネットワ
ークで接続されると、プリンタをネットワーク上の個々のアルト
から共有して使用できるようになったのです。
 もう少し正確にいうと、ネット上の1台のアルトにプリンタを
接続して制御できるようにし、それをネットワークで個人が使っ
ているアルトから利用するシステムなのです。
 やがて、プリンタに接続されたアルトは、入出力機器などの制
御を担当したり、ファイルを記憶したりすることで他のコンピュ
ータに奉仕する機能を持たされたことから、「サーバー(奉仕す
る者)」と呼ばれるようになります。これに対してそれを利用す
るコンピュータは「クライアント」と呼ばれ、「サーバー・クラ
イアントシステム」という方式のはしりになったのです。
 このEARSは、ゼロックス社に莫大なる利益をもたらすこと
になる「ゼロックス9700」というプリンタのプロトタイプに
なったのです。このプリンタの成功によってゼロックス社は、P
ARCへの投資の数倍も稼いだといわれます。
 ここで「RFC文書」について触れておく必要があります。通
信というのは必ず相手があるわけであり、そこに共通の約束事が
できていくことになります。この約束事をどのようにして決めて
いくかということに使われたのが「RFC文書」なのです。
 こういう通信の約束事はARPAネットのノード――ARPA
ネットの拠点のホスト・コンピュータ――から、大学院生が派遣
され、彼らによる話し合いで決められていったのです。
 1969年当時のノードは4ヶ所――UCLA、SRI、UC
サンタバーバラ、ユタ州立大学――でしたが、UCLAのステフ
ァン・クロッカーとジョン・ポステルが「RFC文書」を回覧す
る方法を考え出したのです。1969年4月のことです。そして
エディターはジョン・ポステルが長期にわたって務めたのです。
RFCは次の頭文字です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      RFC = Request For Comment
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このジョン・ポステルという名前を覚えているでしようか。
 EJの現在のテーマの第1回――8月23日付、EJ第166
1号に登場しているのです。そして、慶応義塾大学の村井純教授
の受けた賞がポステル賞なのです。やっと連載37回目にして、
ジョン・ポステルの名前が出てきたのです。
 さて、RFCとは「コメントを求む」という英文の頭文字をと
ったもので、ARPAネットの構築に当ってネットワーキングの
標準規約を定めていくための議論の内容を周知徹底し、関係者の
自由なコメントを求める文書なのです。
 このRFC文書は、現在も新しいものが出され続けており、総
数が4000を超えているそうです。世界中のネットワーク管理
者は、これらの規約によってネットワークを運用しているからこ
そ、世界各地の無数のネットワークが破綻することなく、一定の
秩序のもとに機能しているのです。
 ちなみにRFC文書第1号は次のような内容だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1969年4月7日/ステファン・クロッカー
    「ホスト・ソフトウェアについて」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 初期のREC文書はシステム上では電子的に書かれていたので
すが、プリントアウトされ、紙の文書を郵送するかたちで流通し
ていたのです。当時はメールやファイル交換のプロトコルができ
ていなかったので、メールで配付するというわけにはいかなかっ
たのです。
 現在、初期のRFC文書もインターネット上のウェブページで
読むことができますが、これは後年RFCオンライン・プロジェ
クトで、90年代に入ってから電子化されたものなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  http://www5d.biglobe.ne.jp/~stssk/rfcjlist.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1969年の時点で4ヶ所であったノードは1972年4月に
は23ヶ所になり、ARPAネットは大々的に国際会議で公開さ
れたのです。その当時、最も多い利用例は電子メールだったので
すが、電子メールはファイル転送の特殊な例という位置づけだっ
たのです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/37]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョン・ポステル
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ジョン・ポステル(Jonathan Bruce Postel,1943−19
  98)は米国のコンピュータ科学者。1974年にUCLA
  よりコンピュータサイエンスの博士号を授与される。UCL
  A在学中より初期のARPAネットにかかわる。1977年
  より南カルフォルニア大学(USC)の情報科学研究所にて
  インターネットの発展と標準化に多大な貢献をし、「インタ
  ーネットの神」と呼ばれた。
  出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・ポステル.jpg
ジョン・ポステル
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2009年11月19日

●初期の3層構造のプロトコル(EJ第1698号)

 PARC内のアルトがイーサネットで接続され、そのネットワ
ークがARPAネットに接続されて巨大なネットワークに成長す
る――しかし、まだインターネットは登場していないのです。
 この段階で「通信は階層構造になっている」という少し複雑な
話をする必要があります。しかし、読んでいただければわかるこ
とであり、お付き合いください。
 9月29日のEJ第1686号〜1687号でご紹介したウェ
スリー・クラークのメモの図(添付ファイル参照)を思い出して
いただきたいのです。
 ホスト・コンピュータ同士の通信を行うために、間にIMPに
よるサブネットワークを挟むというのがクラークの提案だったの
ですが、これにより次の2つの通信が生ずるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ホストとIMPの間の通信 ・・   シンクロナス
               ――大学・研究機関の責任
 2.IMPとIMPの間の通信 ・・ アンシンクロナス
               ――開発会社BBNの責任
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この場合、通信は二つの階層に分かれることになります。「ホ
ストとIMPの間の通信」と「IMPとIMPの間の通信」の2
つです。この場合、前者はホスト・コンピュータが置かれている
大学や研究機関が担当し、後者はIMPを受注したBBN社が責
任を負うことになります。
 この方式において注目すべきことは、大学・研究機関とBBN
社がそれぞれ独立して自分たちの仕事を行えば、2つの通信は繋
がることになります。通信に関してとくに緊密に打ち合わせをす
る必要はないわけです。これが階層化のメリットなのです。
 しかし、これにはひとつ問題があるのです。ホストAからファ
イルをホストBに送る場合について考えます。ホストAから送り
出されたファイルはホストAに接続されているIMPに送られ、
IMP間のネットワークを経由してホストBに接続されたIMP
に送られ、IMPからホストBに届きます。
 これによって、確かにファイルそのものは、ホストAからホス
トBに届きましたが、それで目的が果たされたわけではないので
す。なぜなら、そのファイルがちゃんとホストB上に開けないと
意味がないからです。
 ファイルをちゃんと開けるようにするためには、そのための環
境――アプリケーションなど――が受信側のホストになければな
らないのです。そういう意味において、送信側のホストと受信側
のホストの間には何らかの連携が必要になります。
 つまり、IMPとIMPレベルの層、ホストとホストレベルの
層――それぞれが対称的に連携している必要があるのです。この
ことをとくにうるさくいったのは、当時のIPTO部長であった
ロバーツです。その結果、ホストとIMP、ホスト相互間用のプ
ロトコルとして「NCP」が開発されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     NCP = Network Control Program
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、IMPによるサブネットが支える「通信層」とNCP
によってコントロールされる「ホスト層」という2つの層ができ
上がったのです。後にこのNCPがTCPになるのです。
 しかし、このときARPAネットを使う研究者の間でとくに求
められていたのは次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.遠隔ログイン ・・・ 遠くのコンピュータを使う
  2.ファイル交換 ・・・ ファイルを相互に交換する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら「遠隔ログイン」と「ファイル交換」のために「ホスト
層」を2つに分けて、次の3層構成にしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   アプリケーション層 ・・・ ユーザ・レベルの層
        ホスト層 ・・・ ホスト・レベルの層
         通信層 ・・・ IMPによる通信層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「通信層」と称しているのは、IMPのサブネットワー
クのことですが、ここが機能しないと通信はできないわけです。
そのため「通信層」と称しているのです。試行錯誤のすえうまく
機能するようになると、この層は当たり前の環境とみなされ、上
の層に関心は移っていくのです。
 これら3層は、各階層間のインタフェースの整合性さえあれば
上の階層は下の階層でどのような処理が行われているかは関知し
ないで独立して作業ができるのです。
 1973年に行われたARPAネットの現状をまとめた学会報
告では、この3層構造という表現が使われているのです。そして
この時点では、「通信層」の技術が安定してきていることが報告
されています。
 この時点で問題になっていたのは「ホスト層」なのです。なぜ
かというと、それが異種のコンピュータ同士の接続であったから
です。その当時既に実働していたネットワークはいずれも同機種
のコンピュータ同士を結んだものであり、ARPAネットのそれ
とは根本的に異なっていたのです。
 これと関連があるのは、ネットワークとネットワークを接続す
る異種ネットワーク間接続の問題です。これについては、ARP
Aネット側と次のヨーロッパの研究グループとの研究がスタート
しています。ここに国際ネットワーク・ワーキング・グループが
誕生したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     英国の国立物理研究所のグループ
     フランスのCYCLADESグループ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/38]


≪画像および関連情報≫
 ・IMPによるサブネットワーク

IMPによるサブネットワーク.jpg
IMPによるサブネットワーク
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2009年11月20日

●TCP/IPの誕生(EJ第1699号)

 英国とフランスの研究グループ、それに米国のARPA側のメ
ンバーから成る国際ネットワーク・ワーキング・グループの座長
は、ARPA側の代表としてヴィントン・サーフが務めることに
なったのです。このグループは、1974年には国際情報処理学
会――IFIPの正式な下部組織になっています。
 当時、フランスを中心とするヨーロッパでは、ネットワークの
方式について次の2つの方式が対立していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.  データグラム方式
        2.ヴァーチャル回線方式
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どちらの方式も階層的なプロトコルを持つという点では同じな
のですが、「データグラム方式」は、パケットの制御や再配列を
上位の層に受け持たせようとしているのに対し、「ヴァーチャル
回線方式」は、できるだけ下位の層にやらせて安定的なパケット
の配信を行うという考え方だったのです。
 初期のARPAネットでは、IMPによる通信層がパケットの
制御や再配列を行っていたので、上記の2つの方式でいえばヴァ
ーチャル回線方式に該当していたといえます。このヴァーチャル
回線方式の通信層のプロトコルが国際電信電話諮問委員会(CC
ITT)によってまとめられた「X.25」なのです。
 パケットの制御や再配列を上位の層にやらせるか下位の層にや
らせるかの違いは、パケットの配信・再配列に信頼性を持たせる
か否かの違いでもあります。もちろん、上位層にそれをやらせる
方が信頼性を保証するということになります。
 ところが、1977年頃になると、ネットワークにパケット音
声機能を追加しようとする動きが出てきたのです。パケットは通
信経路の中で失われることもあり、その場合はパケットの再送信
を求めて再配列をすることになります。しかし、音声の場合はタ
イミングを重視する通信であるので、失われたパケットの再配信
の必要はないのです。
 これを契機として、TCP(NCPから発展)は信頼性を受け
持たず、パケットを送ることだけに専念する層と信頼性の維持や
パケットの再配列などを受け持つ層に分けるべきであるという意
見が出てきたのです。
 これによって、TCPはその下位層として「IP層(インター
ネット層)」を置き、次の4層にすることになったのです。19
77年のことです。つまり、ホスト層を2つに分割するとともに
名称も一変させたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          アプリケーション層
           トランスポート層
           インターネット層
                通信層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして音声通信には「UDP」というタイミングを重視したプ
ロトコルを新たに加えることにしたのです。つまり、TCPは、
パケットごとの着信を確認して送信するが、UDPはそれをせず
ただパケットを送信するだけなのです。
 実はこれには、従来から対立していた「データグラムかヴァー
チャル回線か」に対して決着をつける意図があったのです。これ
について、喜多千草氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この四層構造こそが、ARPA方式が国際標準になってゆくた
 めの基本となる見通しがあっただろうということである。(中
 略)IPをTCPから分離し、信頼性を受け持たないIP層を
 介して、その上の層にもともとARPAネットで確立したヴァ
 ーチャル・サーキット方式を反映したTCPとCYCLADE
 Sで確立したデータグラム方式を反映したUDPという二つの
 プロトコルが併存することにより、異種のネットワーク間接続
 がすっきりと収まり得ることになった。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「パケット」という言葉は、「トランスポート層」で
は「データグラム」と呼ばれているのですが、ここまでEJを読
んでいただいた方には理解できると思います。
 しかし、この時点ではIMPサブネットに支えられた旧プロト
コルが有効に機能していたのです。これをどのように切り替える
かがなかなかの難問であったのです。
 ところがこの切り替えは急速に進むことになります。それは、
軍がTCP/IPを軍事用通信として本格的に利用しようと考え
ていたからです。1981年11月――ポステルのRFC801
によって、1983年1月までにすべてのノード(各拠点のホス
ト)で移行を完了せよということが伝えられたのです。
 なぜこのような強引なことができたかというと、1975年に
ARPAネットは国防通信局(DCA)の管轄下に編成されてい
たからなのです。
 国防通信局は、ARPAネットを軍事的な実用情報ネットワー
クにするため、セキュリティの甘い大学や研究所のノードと軍関
係のノードの切り離しを行っています。1982年にこの軍事部
分の分離を発表し、TCP/IPの移行が完了した1983年4
月にそれを実行したのです。このようにしてできたのが「MIL
NET」です。
 これに伴い、軍はTCP/IPを産業界に公開したのです。こ
のために2000万ドルの予算を組んで、コンピュータ・メーカ
にTCP/IPを標準で搭載するよう奨励したのです。そのため
TCP/IPは急速に民間に普及していったのです。
 しかし、既にIBM社をはじめ多くのメーカが独自のネットワ
ークの普及を行っており、世界中には互換性のないネットワーク
がうんざりするほど多くあったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/39]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィントン・サーフ博士
  ヴィントン・サーフ博士の近況については、ブログ・サイト
  「BB Column」を参照されたい。
  ―――――――――――――――――――――――――――
         http://www.bba.or.jp/bbc/
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴィントン・サーフ博士.jpg
ヴィントン・サーフ博士
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2009年11月24日

●OSI参照モデルをめぐる論争(EJ第1700号)

 TCP/IP――この言葉が最近よく出てきます。国防通信局
(DCA)の軍事ネットワーク/ARPAネットの標準プロトコ
ルとしてです。このようにいわれてもきっとピンとこない人が多
いと思います。一体TCP/IPとは何なのでしょうか。
 TCP/IPは、PCの例でいうと、OS――通信のOSのよ
うなものと考えてよいと思います。
 PCはPCメーカ独自のハードウェアの上にOSが搭載され、
それがプラットフォームになっています。そのプラットフォーム
上でアプリケーションが動作するわけです。
 通信は伝送路(ケーブルなど)というハードウェアの上にTC
P/IPというソフトウェア(OS)が載り、その上位層におい
てアプリケーションが動作する――大雑把にいえばそういう位置
づけになります。添付ファイルを参照してください。
 さて、昨日のEJで述べたように、ARPAネットのすべての
ノード(拠点コンピュータ)へのTCP/IPの実装は1983
年4月までに完了しています。こんなに早く実装が完了したのは
当時のARPAネットが国防通信局(DCA)の傘下にあり、軍
事ネットワークとして位置づけられていたため、TCP/IPの
実装を軍の命令として実施することができたからです。
 さらに政府は、コンピュータ・メーカにTCP/IPを標準と
して搭載するよう働きかけたのです。しかし、これにはメーカか
らかなり抵抗があったのです。既に自社でプロトコルを開発して
いたところがあり、それをTCP/IPにせよというのですから
反発が起きて当然です。
 IBM社は、1974年9月に「SNA」という大型コンピュ
ータ用の通信プロトコルを発表しており、ゼロックス社において
もPARCが1977年に「PUP」という5層レベルから成る
プロトコルを既に実用レベルにまで高めていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    SNA = System Network Architecture
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とくにPARCのPUPは、TCP/IPを先取りした内容に
なっているのです。もともとヴィントン・サーフが座長を務める
国際ネットワーク・ワーキング・グループがARPAネットの標
準プロトコルを検討していたのです。そのときPUP構築の中心
メンバーであるPARCのロバート・メトカフもこの会議に参加
していたのです。
 しかし、ヴィントン・サーフという人は、拙速を非常に嫌うタ
イプだったのです。まして標準プロトコルを定めるには、大勢の
人による合意形成が必要であるという信念の持主であり、会議に
新しいメンバーが加わって異論を述べると、一から議論し直すと
いう慎重さがあったのです。
 これに対してロバート・メトカフはこういうノロノロとした会
議では何も生まれないと考えて、その標準プロトコルを決める会
議には途中から出席しなくなったのです。そしてPARCの仲間
と一緒にPUPを作ってそれを実装してしまったのです。
 PUPは当初ゼロックス社の「社外秘」とされてきたのですが
1979年7月にはPARCから技術報告が出ています。それは
デビット・ボッグス、ジョン・ショック、エドワード・タフト、
ロバート・メトカフの共著となっているのですが、興味深いのは
そのタイトルです。そこには「インターネットワーク」の文字が
書かれていたからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     『PUP:インターネットワークの仕組み』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 PUPはTCP/IPが世に出る前に単純化され、XNS――
ゼロックス・ネットワーク・システム――と命名されています。
 このように、世界中にさまざまな独自プロトコルによるネット
ワークが乱立する兆しが出てきたのを受けて、1978年に国際
標準化機構――ISOが、米国、英国、フランス、カナダ、日本
から委員を集めて、オープン・システム相互接続(OSI)参照
モデルを打ち出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    レイヤ7 ・・・  アプリケーション層
    レイヤ6 ・・・ プレゼンテーション層
    レイヤ5 ・・・     セッション層
    レイヤ4 ・・・   トランスポート層
    レイヤ3 ・・・    ネットワーク層
    レイヤ2 ・・・    データリンク層
    レイヤ1 ・・・        物理層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この7層から成るOSIは、現在ネットワークの教科書に載っ
ているものと同じですが、いわゆるARPAネットの4層とは基
本的に異なっていたのです。それはARPAネットの4層にはあ
る「インターネット層」がOSIにはなかったことです。
 この時点のOSIモデルでは、「X.25」の方式を「ネット
ワーク層」の標準としていたからです。X.25というのは、既
に述べたように、ヴァーチャル回線方式の通信層のプロトコルな
のです。それにOSIモデルが発表された時点では「TCP」か
ら「IP」は分離していなかったのです。
 これを巡ってARPAの打ち出すTCP/IPとOSIモデル
とは、1982年まで激しい主導権争いを繰り広げるのです。論
争の結果、OSIモデルにインターネット層を加えることになっ
たのです。といっても名称は変更せず、OSIのレイヤ3のネッ
トワーク層がARPAでいうところのインターネット層を意味す
ることになったのです。
 これに伴い、PARCの開発したLANはデータリンク層に位
置づけられ、X.25もLANと肩を並べるひとつの方式という
ことになったのです。やがてX.25の役割は縮小され、歴史的
役割を終えていくのです。 
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/40]


≪画像および関連情報≫
 ・X.25とは何か
  X.25とは、ITU−T(CCITT)で勧告化(国際標
  準化)されたコネクション型のデータ通信を行うパケット交
  換用のプロトコル体系で、X.25プロトコルを使用した回
  線をX.25ネットワークとも呼ぶ。このX.25は、デー
  タ端末(ユーザー側。DTE、データ端末装置)とネットワ
  ーク側のDCE(回線終端装置)の間のプロトコルで、レイ
  3までをサポートしている。
 ・TCP/IPはPCでいうとOSに該当する

TCP/IPはOSである.jpg
TCP/IPはOSである
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2009年11月25日

●CSネットの誕生の背景(EJ第1701号)

 ARPAネットが普及してくると、ある動きがはっきりとした
かたちを取りはじめたのです。1980年代になってから、それ
は具体的に動き出します。ARPAネットの恩恵にあずかれなか
ったコンピュータ研究者たちの不満の高まりです。
 ARPAネットは、国防総省の所管であり、軍事研究をしてい
ない大学、研究所、企業が利用することはできなかったのです。
そこで持たざる者のためのネットであるCSネット――コンピュ
ータ・サイエンス・リサーチ・ネットワークを作ろうという動き
が起こってきたのです。
 この考え方を提唱したのは、ウィスコンシン大学コンピュータ
科学科のラリー・ランドウェーバー教授です。1979年5月に
ランドウェーバーは、ウィスコンシン大学に各大学、ARPA、
NSF(全米科学財団)の代表を集めて、次のテーマで会議を開
いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    コンピュータ科学学科の研究用コンピュータ
    ・ネットワーク構築の可能性について
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会議を開く2年前からランドウェーバーは、理論物理学者
同志のメール交換用のネットを作って運用していたのです。これ
は「セオリーネット」と呼ばれていたのです。
 「セオリーネット」は、ウィスコンシン大学にメールサーバー
を置き、利用者の端末をダイヤルアップ回線で接続してメールの
やり取りだけをやっていたのです。ランドウェーバーは、これを
ファイル転送、リモート・ログイン、高速メッセージ配信に拡大
したいと考えていたのです。ウィスコンシン大学は、このシステ
ムについて、NSFから資金援助を受けています。
 もうひとつ、パーデュー大学のケースがあります。同大学のピ
―ター・デニング教授は、AT&Tベル研究所のサービスを通じ
て、やはりダイヤルアップ回線を利用してメールの交換をやって
いたのです。
 ところで、AT&Tベル研究所のサービスというのはどのよう
なサービスだったのでしょうか。
 AT&Tベル研究所は、一日に一度、このネットワークに参加
している大学に電話回線経由で接続し、メールや小規模ファイル
を集めて、それを配付していたのです。この方式だと、メールを
出してから届くまで最低一日かかってしまいますが、郵送よりは
速かったのです。
 AT&Tベル研究所のシステムは、UNIXというサーバーO
S上で動くUUCP(UNIX間コピー・プログラム)というプ
ログラムで通信していたのです。しかし、このサービスは次第に
評判になり、UUCPシステムのユーザは増加し、AT&Tベル
研究所のUNIXサーバーは、同研究所の本来の業務に支障をき
たすようになってしまったのです。
 普通の企業であれば、これだけユーザが増えたらそれをビジネ
スにすることを考えるものですが、AT&Tという会社自体が、
ネットワークの会社でありながら、きわめて後進的な考え方しか
持っていなかったので、1979年の春にこのサービスをやめて
しまったのです。
 困ったのは、パーデュー大学です。しかし、そういうときにラ
ンドウェーバー教授の呼びかけがきたので、ピーター・デニング
教授は会議に参加したというわけです。
 会議は、ARPAのIPTOからボブ・カーン(当時はまだ部
長ではない)、NSFからは数学/コンピュータ部長ケント・カ
ーティスが出席していたのです。この会議の目的は、CSネット
の概要を説明し、NSFからの資金援助を仰ぐ根回しにあったの
で、ケント・カーティスの出席はランドウェーバーにその期待を
抱かせるのに十分なものであったのです。
 話を聞いたケント・カーティス部長は、次の3つの条件を出し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.CSネットは多様なサービスをサポートし、使った額に応
   じて従量課金すべきである
 2.NSFは多くの大学を支援したいので、供出できるものは
   最大5500万ドルとする
 3.NSFとしては無制限に支援できないので、2年間が経過
   したら自立して欲しいこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会談に基づき、ランドウェーバーはNSFに提案書を書い
たのです。NSFは、1980年1月にこの提案を受け入れるこ
とを了承しています。
 この時点でIPTOの部長になったボブ・カーンは、NSFの
関心がCSネットとARPAネットの接続にあるということを知
って、その責任者にヴィントン・サーフを任命しているのです。
またしてもヴィントン・サーフです。この人はよほど信頼の厚い
人物であったものと思われます。まさに「インターネットの父」
にふさわしい人物といえます。
 いろいろあって、CSネットの提案者にネットワークの専門家
はいないので、NSFのカーティス部長は、このCSネット・プ
ロジェクトのフルタイム・マネージャーとして、ボブ・カーンを
任命するのです。完全なるNSFペースです。
 そしてCSネットは、ARPAネットが提供しているのと同じ
ビス――メール、リモート・ログイン、オンライン・ネームサー
ビスを提供できるようになったのです。
 そして、NSFが手をひいた1983年1月には、CSネット
はちゃんと自立できるようになっていたのです。その他にも数多
くのネットワークが続々と誕生しつつあったのです。IBM社が
支援したBITネット、UNIXのUUCPを使ったUSEネッ
トなど――NSFはそれらを統合して「NSFネット」を立ち上
げる手を打っていったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/41]


≪画像および関連情報≫
 ・ウィスコンシン大学
  自然豊かな米国中西部ウィスコンシン州にあり、1894年
  年創立で、ウィスコンシン州・州立大学群の中で最も古い歴
  史を持つ。学生数は約9000人。教養、経営、教育、工学
  など100科目以上の授業が開講されている。研究・教育内
  容も年々充実しており、2002年度の大学 ランキングで
  は大学院修士課程(中西部)の部でベスト4位。

ウィスコンシン大学.jpg
ウィスコンシン大学
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2009年11月26日

●ジェニングスのNSFネット構想(EJ第1702号)

 ここでNSF――全米科学財団についてふれておく必要があり
ます。NSFの設立は、1950年に遡ります。1950年の全
米科学財団法に時のトルーマン大統領が署名したのです。そして
1951年に初代理事長としてアラン・ウォーターマンが指名さ
れて活動を開始しています。
 もともとこの財団設立の構想は、ルーズベルト大統領がヴァネ
ヴァー・ブッシュに書いた一通の手紙がきっかけで、ブッシュが
大統領に答申して実現したものです。もっとも答申した大統領は
ルーズベルトではなくトルーマンだったのです。ルーズベルトは
1945年4月12日に逝去したからです。
 一体どんな手紙だったのかというと、太平洋戦争において軍学
共同体制が生み出した数々の新しい知識や技術は、そのまま民間
でも役に立つものが多いが、こういう研究は平時においても続け
るべきであるかどうか、平時における科学知識・技術の研究体制
について答申して欲しい――おおよそこういう内容であったもの
と思われます。
 ブッシュは1945年7月25日に次の標題の答申をトルーマ
ン大統領に提出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        『科学:限りなきフロンティア』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もともとブッシュは、科学研究こそ国家の安全にとって絶対の
基本であるという信念の持ち主であり、この信念に基づいて科学
研究のみを行う新組織「全米科学財団――NSF」の設立を提言
し、認められたのです。
 NSFは陸軍、海軍とは直接には関係を持たないが、緊密な連
絡をとることが条件とされたのです。NSFのモデルとなったの
は、海軍科学財団であり、初代理事長のアラン・ウォーターマン
も海軍研究局の主任科学者だったのです。ちなみにブッシュ自身
も海軍閥であることは既に述べた通りです。
 1950年代の後半からNSFは、各大学にコンピュータ・セ
ンターの設置の援助を開始しています。しかし、設置したコンピ
ュータは一括処理用であったため、一般の研究者の利用要求を満
たすところまでいかなかったのです。
 しかし、時分割処理が登場してより多くの利用に対応できるよ
うになり、NSFはセンターのコンピュータを時分割処理に対応
できる設備に変更するための助成を行うようになったのです。こ
れによって、NSFは大学の枠内にとどまらない地域コンピュー
ティング・センターを作るようになり、そのセンターの数は増加
していったのです。
 こうしたNSFの地道な努力の積み重ねにより、学校における
コンピュータ利用は次のレベルに達したのです。こういうところ
が米国の強さといえるでしょう。何しろ、1968年頃の話なの
ですから驚きです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     4年制総合大学 ・・・・・・ 100%
     単科大学(カレッジ) ・・・  33%
     短期大学 ・・・・・・・・・  25%
     高校 ・・・・・・・・・・・  20%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 MERITネットワークというのがあります。ミシガン大学と
ミシガン州立大学、ウェイン州立大学の3校を結び、利用者はど
の大学の端末からでも、3つの大学にあるそれぞれの地域コンピ
ューティング・センターのコンピュータを自由に使うことができ
たのです。
 こういう地域センターのコンピュータネットワークがさらに拡
大しつつあった1970年代後半に、ウィスコンシン大学のラン
ドウェーバー教授のあの提案が出てきたのです。その結果、CS
ネットが構築されたのです。
 このCSネットの成功は、NSFの全国的ネットワーク構築へ
の布石となったのです。このとき登場したのが、デニス・ジェニ
ングスという人物です。1985年1月にNSFにやってきて、
ネット構築の責任者になった人物です。
 ジェニングスの仕事は速かったのです。彼はNSFネットの構
想を示し、すぐにテクニカル・アドバイザリー・グループを作り
デラウェア大学のディビット・ファーバー教授を委員長に指名し
たのです。
 ジェニングスの考え方は、既にNSFが設置しているスーパー
・コンピュータ・センターを「56キロビット/秒」の伝送速度
のバックボーン・ネットワークで結ぶというものだったのです。
バックボーン・ネットワークとは、いくつかのネットワークを繋
ぐ基幹的役割をするネットワーク回線のことです。
 これを決めるとき一番大変だったのは、通信プロトコルに何を
採用するかということだったのです。その時点での選択肢は次の
3つがあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.DECネットのプロトコル
       2.TCP/IP
       3.OSIのプロトコル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジェニングスはDECネットのプロトコルの信奉者であったの
ですが、TCP/IPとOSIのプロトコルの戦いになり、実質
標準のTCP/IPがOSIのプロトコルを押しのけて採用され
るようになったのです。これは、米国系のTCP/IPが、欧州
系のOSIに勝ったことを意味するのです。
 ルータの選定も大変だったのです。当時はBBN社のIMPが
主流だったのですが、非常に高価であり、新興勢力のシスコやプ
ロテオンは、まだ全国的なサポート体制ができていなかったので
す。結局、DECのPDP−11にソフトウェアをインストール
して使うことになったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/42]


≪画像および関連情報≫
 ・デニス・ジェニングスの3つ重要な決定
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.NSFネットの目的は、汎用の研究用のネットワークを
    建設することであり、単にスーパーコンピュータを接続
    することだけにとらわれない。
  2.各地にあるスーパーコンピュータセンターがこの地域の
    ネットワークを構築することにし、NSFNETはそう
    した地域ネットワークを相互に接続するためのバックボ
    ーンを提供する。
  3.NSFネットで使うプロトコルはARPANETのTC
    P/IPとする。
    (牛島研究室/オンライン「研究プロジェクト」より)
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

デニス・ジェニングス.jpg
デニス・ジェニングス
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2009年11月27日

●NSFネットからインターネットへ(EJ第1703号)

 1986年になると、ジェニングスは英国に戻ってしまい、ス
ティーブ・ウォルフという人がNSFネット構築の責任者になる
のです。そして、NSFのバックボーン作りがスタートするので
す。NSFのバックボーンというのは、地理的に離れた場所にあ
った次の5大学/6ヶ所のスーパー・コンピュータ・センターを
結んだ回線なのです。
 この頃には、地域センターのネットワークからスーパー・コン
ピュータのネットワークまで、すべてがTCP/IPを採用し、
ARPAネットとなめらかな互換性を持つ相互接続には理想的な
環境になっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.UCSD ・・・・・ カルフォルニア州サンディエゴ
 2.コーネル大学 ・・・ コロラド州ボルダー
 3.イリノイ大学 ・・・ イリノイ州シャンペイン
 4.ピッツバーク大学 ・ ペンシルバニア州ピッツバーク
 5.           ニューヨーク州イサカ
 6.プリンストン大学 ・ ニュージャージー州プリンストン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バックボーンは「背骨」という意味ですが、上記5大学を結ぶ
回線は西と東を結ぶ「背骨」そのものです。西海岸のサンディエ
ゴからボルダー、シャンペイン、そしてピッツバーク、東海岸の
プリンストン、ニューヨークのイサカ――しかもこの回線の伝送
速度は当時としては高速であり、これに接続すると、まるで回線
を高速道路のように使うことができるのです。
 1988年にハードウェアの設置が完了し、新しい基幹ネット
ワークが動き出します。NSFネットの始動です。基幹ネットワ
ークのノード(拠点コンピュータ)は、ノード交換システム――
NSSと呼ばれる独自のパケット交換機です。NSSの内部には
次の3つのプロセッサが置かれ、通信機構に接続されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.パケット交換プロセッサ
     2.経路選択および制御プロセッサ
     3.アプリケーション・プロセッサ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように書くと凄いマシンが導入されたと考えるかもしれま
せんが、実はぜんぜん違うのです。ここで「プロセッサ」といっ
ているのは、IBMのRT/PCのことであり、そのPCが3台
設置され、それらがIBMの推進しているトークンリングLAN
で結ばれただけなのです。
 ちなみに、IBMのRT/PCというのは、初のラップトップ
PCとしてIBMが市場に投入したRISC系のCPUを搭載し
たPCですが、あまりにも低速であって、話題に上らなかったい
わば失敗作なのです。このマシンを本来とは違う目的で使ったと
いうわけです。
 なお、「RISC系のCPU」というのは、詳しく説明すると
難しくなるのでやりませんが、現在ほとんどのPCで使われてい
るインテルのCPUはRISC系ではなく、CISC系であるこ
とは知っておくべきでしょう。
 NSFネットの基幹ネットワークのノード間をつなぐ通信線の
伝送速度は当初56キロビット/秒でしたが、次のように改善し
ていったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1988年  448キロビット/秒
     1989年 1.55メガビット/秒
     1991年   45メガビット/秒
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1991年には、3台のIBMのRT/PCの分担処理を変更
し、IBMのRS/6000というワークステーション1台でや
るようになります。
 そして、1990年2月28日、ARPAネットは正式に幕を
閉じ、NSFネットに引き継がれたのです。この時点でインター
ネットは軍事的背景からは解放されたことになりますが、それを
動かしている組織――技術的意思決定をする組織はARPAネッ
ト時代と何もかわらなかったのです。
 それに、NSFネットの利用目的はあくまで「学術・研究」に
限られ、商業目的のネットワークはNSFネットが提供している
インターネットのバックボーンに接続できなかったのです。
 ごちゃごちゃしてきたのでここで整理しておきましょう。
 1983年にARPAネットから軍事関係の部分であるMIL
NETを分割し、1980年代の前半は、各地に大学や研究所を
結んだネットワークが乱立するようになります。
 1985年にデニス・ジェニングス博士が中心となってNSF
ネットの構築をはじめます。そして、1986年には全米5大学
のスーパー・コンピュータを結ぶバックボーンができ、このバッ
クボーンに地域ネットワークが接続をはじめるのです。これが、
1980年代後半の動きです。
 ARPAネットを受け継いだNSFネットは、利用目的が「学
術・研究」に限られていたので、商業目的のネットワークは、N
SFのバックボーンには接続せず、TCP/IPでパケットを交
換するネットワーク間通信を行うようになり、これがどんどん拡
大していったのです。この頃からこのネットワークを「インター
ネット」と呼ぶようになっていったのです。
 そして、1995年にNSFネットは、ARPAネットの廃止
からわずか数年で廃止に追い込まれます。そしてここに、インタ
ーネットの完全民営化が実現したのです。
 インターネット――インターは「〜の中の」という意味です。
したがって、インターネットは「ネットワークとネットワークの
中のネットワーク」という意味になります。ARPAネットがな
くなっても、NSFネットが廃止されても、インターネットは問
題なく機能しているのです。 
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/43]


≪画像および関連情報≫
 ・NSFネット/5大学スーパー・コンピュータ間を結ぶ基幹
  ネットワーク――牛島研究室/オンライン参照

NSFネット.jpg
NSFネット
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2009年11月30日

●IBM社とインターネット/BITネット(EJ第1704号)

 43回にわたって続けてきました「インターネットの歴史/
Part1」は12月2日で終了します。 本来であればインターネッ
トは1990年に入ってから大きく変わったので、さらに続ける
べきですが、あまりにも長くなるので、1990年代以降のイン
ターネットについては、日本におけるインターネットの歴史と一
緒にして、別の機会に取り上げることにします。
 そこで今回を含めて最後の3回は、インターネットに深く関わ
りながら、なぜかインターネットの誕生・発展の少なくとも主役
ではなかった2つの巨大企業のインターネットへの関わりについ
て述べることにします。
 2つの巨大企業の1つとはIBM社です。前回述べたように、
IBM社は、NSFネットの基幹ノードを構築し、インターネッ
トのノウハウについては熟知していたのです。しかし、それを生
かして他に売る努力をしていない――それはなぜでしょうか。
 推測ですが、IBM社はやはり大型コンピュータから脱却でき
ていなかったからではないかと思います。1990年代から急速
に普及するPCにおいても主導権をとれなかったし、インターネ
ットについても、必ずしも強いリーダーシップを発揮していると
はいえないからです。
 このことに関連して、IBMの大型汎用機を使う人たちの間で
作られていたBITネットについて述べることにします。
 BITネットの「BIT」という意味には次の2つがあるとい
われています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      BIT = Because It is There.
      BIT = Because It is Time.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ビコーズ・イッツ・ゼア」は、「それがそこにあったから」
という意味であり、「ビコーズ・イッツ・タイム」は、「時が満
ちていたから」という意味になります。
 BITネットの創始者は、アイラ・フュークスという人です。
1980年当時、フュークスを含めた大学関係者でコンピュータ
を使っている人たちの間には、ARPAネットに関しては大きな
不満が渦巻いていたのです。
 それは、ARPAネットは素晴らしいネットワークなのだが、
利用に当って制約が多過ぎるという不満です。実際にかなりのア
クセス制限があったのです。そこで、ARPAネットに接続でき
なくても、似たようなことができないかと考えていたのです。
 そこで使ったのがIBM社の「Vネット規格」です。フューク
スはこの規格を使って、IBMのVM370というコンピュータ
を使っている大学間をネットワーク化することを考えたのです。
要するにこのネットワークは、特定のコンピュータ会社の特定種
類のコンピュータ同士をつなぐという、きわめて内向きのネット
ワークなのです。
 IBM社のコンピュータユーザであるフュークスの立場から見
ると、自分が使っているコンピュータを、同じメーカの他のコン
ピュータと接続したいと考えたら、「そこに(Vネットという)
規格があったら」それを使ってネットワークを構築したというわ
けです。そういう意味でそのネットワークはBITネットと名づ
けられたという考え方です。
 いや、ARPAネットが充実し、コンピュータのネット機能も
充実している――すなわち、「時が満ちていたから」当然に作ら
れたネットワークという考え方もあるのです。
 フュークスの呼びかけにIBM社製の大型汎用機を使っている
大学が応じ、BITネットは、米国からカナダ、ヨーロッパまで
広がっていったのです。実際にできたことといえば、電子メール
やファイル交換機能という限られたものであったのですが、それ
でも他に手段がなかった時代ですから、結構重宝がられていたの
です。そして、この結果、メーリング・リストというサービスが
生み出されることになります。
 最終的には、32ヶ国の2300台以上のコンピュータがつな
がれ、その規模はARPAネットをしのぐほどになります。そし
て最終的には「世界一の学術コンピュータ・ネットワーク」とい
われるようになるのです。
 IBM社はBITネットに対して「自社にとって誇らしいユー
ザ・グループの活動」として、大規模な資金援助を行っているの
ですが、これには他の草の根ネットワークからはやっかみと批判
の声があったようです。
 NSFネットはちょうどこのときできたのです。このことによ
り、アイラ・フュークスは、ARPAネット経由のインターネッ
トがペンタゴンを離れ、民営化されることを受けて、同じような
ネットワークであるCSネットと合併して学術研究ネットワーク
会社――CRENを形成するのです。そして、CRENは、TC
P/IPを採用することによって、やがてインターネットに吸収
されていったのです。他の草の根ネットについても、同じような
行動を起こしているのです。
 IBM社関連では、もうひとつ「Fidoネット」と呼ばれる
ものがあったのです。これは、IBM PCを使う人々のネット
ワークです。IBM PCが発売されたのが1981年8月のこ
とであり、「Fidoネット」がスタートしたのは1983年か
らです。
 「Fidoネット」は、IBM PCやIBM互換PCを使っ
ている人たち用の電子メール交換用のネットワークです。そうい
う「Fidoネット」のユーザは、ARPAネットで行われてい
た情報交換の場を何とか作ろうとして、「電子掲示板システム」
(BBS)を作り出しています。
 BBSは米国では「オンライン・サービス」、日本では「パソ
コン通信」というかたちで流行することになります。しかし、こ
のサービスは中央のコンピュータを大勢の人で使う時分割処理シ
ステムの大衆版そのものなのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/44]


≪画像および関連情報≫
 ・「貧者のARPAネット」
  IBMのコンピュータのユーザ同士のネットワークがあった
  ように、UNIXというOS――ワークステーションに搭載
  ――を使う人たちのネットワークがある。「ユーズネット」
  がそれである。
 ・きっかけは、1981年のUNIXへのTCP/IPの標準
  搭載である。これはARPAネットに対して「貧者のARP
  Aネット」といわれたのである。そういう意味では、CSネ
  ット、BITネット、Fidoネットも、すべて「貧者のA
  RPAネット」ということになる。

日本のBBS/パソコン通信.jpg
日本のBBS/パソコン通信
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2009年12月01日

●インターネットに出遅れたマイクロソフト(EJ第1705号)

 インターネット誕生・発展においてきわめて近くにいながら、
少なくともその主役ではなかったもうひとつの巨大企業とはマイ
クロソフト社のことです。
 このようにいうと意外に思われるかもしれませんが、マイクロ
ソフト社は1990年代の前半においては、インターネットには
あまり関心を持っていなかったことは確かです。
 1994年11月1日の夕刻のことです。私は海外出張で、米
国のラスベガスで開催されていた「コムデックス」――PC関係
の展示会の会場におり、おりしも舞台ではビル・ゲイツCEOが
基調講演をやっていたのです。演題は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      Information At Your Fingertips 2005
       ――指先で情報を/2005年――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、今年が2005年なのです。講演と短い映画を
見せられた記憶があるのですが、今ひとつピンとこなかったこと
を今でも覚えています。インターネットのことはほとんど語られ
ていなかったことは確かです。
 脇英世教授によると、当時ビル・ゲイツの考え方はきわめて保
守的であり、インターネットのような新興技術よりもむしろ既存
技術を活用すべきであると考えていたというのです。
 そして、コムデックスでビル・ゲイツが講演をした翌日、マイ
クロソフト社は、オンライン・サービスのMSN(ザ・マイクロ
ソフト・ネットワーク)を発表しています。これは、インターネ
ットではなく、日本流にいうと、パソコン通信の会社なのです。
MSNをまかされたのは、ラッセル・シーゲルマンという人物で
す。彼はインターネットを軽視しており、結果としてこれがマイ
クロソフト社のインターネット対応の遅れを大きくすることにつ
ながるのです。
 なぜ、このこの時期にパソコン通信会社なのでしょうか。IT
に少し進んだユーザなら、1992年の時点でインターネットの
影響力はわかっていたはずです。しかし、そのときのビル・ゲイ
ツのアタマにはAOL(アメリカ・オンライン)を追撃すること
しかなかったのではないかと思われます。
 脇英世教授の話によると、ビル・ゲイツは当時次のような話を
好んでするクセがあったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 インターネットはゴールド・ラッシュである。ゴールド・ラッ
 シュで一攫千金を掴んだ人はほとんどいない。本当に儲けたの
 は、そのために、全米から集まった人たちに対して食料などの
 生活必需品を売った人たちである。    ――ビル・ゲイツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ビル・ゲイツはインターネットはゴールド・ラッシュ
のようなものであると考えていて、そのようなものにあわてて手
を出すべきではないといっていたのです。
 J・アラードという人物がいます。1991年9月1日にマイ
クロソフト社に入社し、当時マイクロソフト社が苦手としていた
TCP/IPの担当をしているのです。
 このJ・アラードとMSNのラッセル・シーゲルマンの間にプ
ロトコルをめぐる激しい論争があったのです。アラードはTCP
/IPを使うことを主張したのに対し、シーゲルマンはマイクロ
ソフト独自のプロトコルの採用を主張したのです。今から考える
と、不毛の論争です。
 とにかく当時のマイクロソフト社では、通信に関しては無知な
人が多く、TCP/IPのことを「TCピップ」と呼んだ幹部が
いるほどなのです。「TCピップ」――TC PICと呼んだわ
けですが、素人ならともかく、マイクロソフト社がそれをいうの
は非常に恥ずかしいことなのです。どこかの国の宰相が「IT」
を「イット」と呼んだよりもお粗末といえるでしょう。
 しかし、MSNの発表直後にビル・ゲイツはそれが失敗であっ
たことに気がついていたのです。そして、幹部社員に次の内容の
メモを送るのです。このメモはマイクロソフト社では「社外秘」
扱いのメモであり、外部の人が読むことは不可能なのですが、同
社の独占禁止法訴訟の一環で証拠文書として公開されたので、内
容が判明したのです。脇英世教授の翻訳で、その最後の部分の一
部をご紹介することにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今や私はインターネットに最高度の重要性を割り当てる。この
 メモにおいて私は、インターネットへのわれわれの力の集中が
 われわれのビジネスのあらゆる部分において決定的に重要だと
 ということを明らかにしたいと思う。インターネットは198
 1年に導入されたIBM PC以来、最も重要な単一の開発目
 標である。(中略)われわれがこれらの挑戦や機会に取り組む
 次の数年は非常にエキサイティングなものになるだろう。イン
 ターネットは満ちてきた潮である。それは信じられないような
 挑戦であると同時に信じられないような機会である。私はわれ
 われの信じられないような成功の軌跡を続けるためにどのよう
 にわれわれの戦略を改善するかについて諸君の答を期待してい
 る。―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは明らかに方針転換です。マイクロソフト社のこの方針転
換で、壮絶なブラウザ戦争が勃発するのです。先行のネットスケ
ープ社のブラウザに対するマイクロソフト社のインターネット・
エクスプローラの逆襲です。
 1998年11月、ライバルのネットスケープ社は、AOLに
42億ドルで買収されたのです。これでネットスケープ社は消え
てブラウザ戦争はマイクロソフトの勝利に終わったのです。この
ブラウザ戦争の詳細は、次のインターネット特集に譲りたいと考
えています。  ・・・[インターネットの歴史 Part1/45]


≪画像および関連情報≫
 ・コムデックス
  毎年アメリカで春と秋の2回開催される世界最大規模のコン
  ピュータ展示会。春季の展示会をコムデックス・スプリング
  秋季の展示会をコムデックス・フォールとと呼び、前者は例
  年ジョージア州アトランタで、後者は例年ネバダ州ラスベガ
  スで開かれる。1995年にソフトバンクが、コムデックス
  の運営会社のイベント事業部門を買収し、傘下に収めた。


ラスベガス.jpg
ラスベガス
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2009年12月02日

●インターネットができるまで/まとめ(EJ第1706号)

 『インターネットの歴史 Part1』は今回が最終回です。
 世界中の多くの人がコンピュータでネットにつながる現代情報
社会――誰がこのような便利なシステムを開発したのか。この謎
を46回にわたって追求してきました。
 長い話でしたので、簡単にまとめておきましょう。
 最初は、高価な1台のコンピュータを多数の人で同時に使える
ようにする時分割処理システムの開発からはじまったのです。こ
の時分割処理システムの開発を推進し実現させたのは、米国防総
省のIPTO部長として辣腕を振るったJ・C・R・リックライ
ダーです。
 やがて、その時分割処理システム上でそれを使っている人々同
士でメッセージのやり取りができるようになる――これが電子メ
ールのはじまりと考えらます。
 続いて、そういう時分割処理システム上で使っている大型コン
ピュータ同士を繋ぐという困難な試みへの挑戦がはじまります。
しかし、異なるハードウェアを持つコンピュータ同士をどうやっ
て繋ぐのか――こういう難問に突き当たってしまいます。
 この難問を解いたのは、ウェスレイ・クラークです。同じ仕様
のIMP(インプ)というミニコンを制作し、それによるサブ・
ネットワークを介して異なる仕様の大型コンピュータ同士を接続
する――この場合、大型コンピュータとIMPの間の通信、IM
P同士の通信という2つの通信が必要になります。こうして完成
したのが、ARPAネットです。
 1970年6月にゼロックス社はパロアルト研究所――PAR
Cを設立し、そのときIPTO部長を辞めていたロバート・テイ
ラーは、PARCに移ります。このときから、まるで水を得た魚
のように、テイラーの大活躍がはじまるのです。
 「もし、テイラーなかりせば・・」――現代の情報社会の基礎
を構成する基幹技術の数々は、本当に開発されていたのかどうか
わからないと思うのです。ロバート・テイラーはそれほどの活躍
をした人なのです。
 やがて、1973年、バトラー・ランプソン、チャールズ・サ
ッカー、それにアラン・ケイが企画に加わって、画期的な小型コ
ンピュータ「アルト」を作り上げます。当時日本ではコンピュー
タといえば、大型コンピュータと相場が決まっていたのですが、
その時点で現代のPCに通じる小型コンピュータ/アルトが既に
完成していたのです。
 このPARC内のアルトを繋いで「アルト・システム」という
ネットワークを作ったのは、ロバート・メトカフとデビット・ボ
ッグスです。このネットワークは「イーサネット」と命名され、
やがて、イーサネットはLAN(ローカル・エリア・ネットワー
ク)と呼ばれるようになります。
 続いて、アルト・システムはARPAネットと接続され、全米
のコンピュータと自由にプログラムやデータを交換できるように
なります。これによって、はじめてネットワークらしいネットワ
ークが誕生したことになります。
 しかし、ARPAネットはあくまで軍事用のネットワークであ
り、それを利用できる人は一部に限られています。そのため19
83年にARPAネットから軍事部分がMILNETとして分離
されます。これを契機にして、各地の大学や研究所の時分割処理
システムのネットワーク同士を結ぶ試みがはじまるのです。
 そして、1986年、NSF(全米科学財団)が援助して設置
した全米5ヶ所のスーパー・コンピュータを結んだネットワーク
が発足し、それはNSFネットと命名されます。NSFネットに
は、TCP/IPというプロトコルが採用されます。
 この時点で、ARPAネットのノード(拠点コンピュータ)は
拡大しており、それを結ぶネットワークは、米国を背骨のように
貫くバックボーン・ネットワークを形成して、基幹ネットワーク
として機能するようになります。
 NSFネットをバックボーンとして、TCP/IPで結ばれた
地域ネットワークとその下のキャンパス・ネットワークという3
層から成るネットワークが形成されていきます。これが後にイン
ターネットと呼ばれるようになります。そして、1989年、A
RPAネットは役割を終えて廃止されます。
 さて、ARPAネットからは軍事部分が分離され、残りはNS
Fネットに引き継がれたのですが、そのすべてが民間が使えるわ
けではなかったのです。それは、あくまで学術・研究関係の専用
ネットワークであり、民間全般が自由に使えるものではなかった
のです。まして、ビジネスとしてネットワークを使うことはでき
なかったのです。
 その不満から全米各地で草の根ネットワークが誕生していきま
す。代表格はCSネットです。それに加えて、IBMのコンピュ
ータのユーザー同士のネットワークであるBITネットというの
があります。さらに、UNIXのUUCPを使ったUSEネット
というネットワークもあります。
 結果として、NSPネットはそれらのネットワークをすべて束
ねるのですが、ネットワークの多くは、NSFネットに接続しな
いで、TCP/IPパケットを交換する通信を行うようになって
いき、NSFネットは1995年に廃止されるのです。
 1995年というと、ウインドウズ95が発売され、インター
ネットが急拡大をはじめる年です。その頃からはっきりと「イン
ターネット」と言葉が使われるようになってきているのです。
 明日から「インターネットの歴史 Part2」を掲載いたしますの
でご期待ください。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/46]


≪画像および関連情報≫
 ・喜多千草氏の本のまえがきより――
  アルト・システムは・・・・最初期のクライアント・サーバ
  ・システムを実現し、他社のコンピュータ・ネットワークと
  の接続や、時分割処理システムの広域ネットワークであるA
  RPAネットとの接続のための、階層的なプロトコルを備え
  ていた。つまり、アルト・システムは、インターネット時代
  のパーソナル・コンピュータのひな形だったのである。
   ――喜多千草著『起源のインターネット』より。青土社刊

喜多千草氏と脇 英世氏.jpg
 
喜多千草氏と脇 英世氏
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