2009年03月27日

モーツァルトはどんな顔をしていたか(EJ第1923号)

 昨日で「ダ・ヴィンチ・コード」が終了し、本日からのテーマ
は「モーツァルト」です。
 これは、2006年9月19日から2006年12月28日ま
で70回にわたって連載したものであることをお断りしておきま
す。
 もともとフリーメーソンをテーマとして取り上げていたとき、
その一部として書くつもりであったモーツァルトの歌劇『魔笛』
とフリーメーソンの関係を含む次のテーマとしてまとめてみたい
と考えております。
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     モーツァルトをめぐる謎の解明に挑戦する
      ―とくに『魔笛』に隠された謎を解く―
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 このテーマの中で取り上げたいと考えている主要項目は、次の
4つです。
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    1.モーツァルトはどんな顔をしていたか
    2.モーツァルトは果たして殺されたのか
    3.歌劇「魔笛」とフリーメーソンの関係
    4.モーツァルトの音楽は健康に良いのか
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 ところで、モーツァルトに謎なんてあるのかという人もいると
思うのです。モーツァルトといえば天才音楽家であり、数多くの
書籍があって、その誕生から死亡まではちゃんとした記録がある
――したがって、謎などはないという考え方です。
 しかし、モーツァルトにはわからないことが多くあるのです。
とくにモーツァルトは35歳の若さで急死しているのですが、死
因が特定できないことです。その当時の平均寿命を考慮しても、
35歳はあまりにも若過ぎるのです。
 モーツァルトの前後に活躍した作曲家の生涯年齢を次に上げて
おきます。どう考えても35歳は若死にであるといえます。
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 ヨハン・セバスチャン・バッハ ・・・・・・・・ 65歳
 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン ・・・・・・・・ 77歳
 アントニオ・サリエリ ・・・・・・・・・・・・ 75歳
 ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン ・・・ 58歳
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 死因は一応病死ということになっています。しかし、その死因
は尿毒症、リューマチ性熱病、結核、甲状腺腫、水腫、ブライト
氏病、腎臓炎、粟粒疹熱、脳炎などたくさん出てきて、特定され
ていないのです。
 それに映画『アマデウス』を観てもわかるように、当時音楽家
としてかなり有名であり、かなり収入もあったモーツァルトとし
ては、寂しい埋葬をされています。モーツァルトは聖マルクス貧
民用共同墓地に葬られ、ちゃんとした墓がないのです。そこで、
殺されたのではないかという説が出てきたのです。
 このように、モーツァルトにはいろいろな謎があるのです。し
かし、最初から重たいテーマではなく、「モーツァルトはどんな
顔をしていたか」から考えていきましょう。
 われわれは漠然とではありますが、モーツァルトの顔を知って
います。それはCDなどのラベルに描かれたモーツァルトの肖像
画がアタマにあるからです。モーツァルトには数多くの肖像画が
残されていますが、それらの肖像画はよく見ると、いずれも印象
が異なるのです。
 その代表的なものを2つ上げましょう。添付ファイルをご覧く
ださい。CDなどのラベルには、この2つ(BとC)のいずれか
が使われるケースが多いのです。
 現在、CDや本などに出ているモーツァルトの肖像画のほとん
どはBであり、若き日のモーツァルトです。これは、1819年
にバーバラ・クラフトによって描かれたものです。モーツァルト
は、1791年に死んでいますから、モーツァルトの死後に描か
れたものです。
 しかし、それ以前はもっぱらCが使われていたのです。こちら
は、ヨーゼフ・ランゲという人物が1783年に描いたものなの
です。モーツァルトが生存中の肖像画です。モーツァルトの肖像
画としては、この2枚がさかんに使われるのです。
 しかし、この2枚の肖像画は、モーツァルトの年齢が違うとは
いえ、どうみても似ていないのです。しかも、Cの肖像画の下の
部分がゴチャゴチャしており、おかしいです。
 実はランゲによるモーツァルトの肖像画は未完成なのです。C
の原画がAなのです。これを見ると下の部分が仕上がっていない
ことがよくわかります。
 このヨーゼフ・ランゲという人物は、モーツァルトの妻のコン
スタンツェの姉であるアロイジアの夫なのです。アロイジアは、
作曲家ウェーバーの従妹に当たります。添付ファイルのDはその
アロイジアです。
 モーツァルトは、マンハイムで写譜を頼んだことがきっかけで
ウェーバー家と付き合うようになります。父親のフリードマンは
モーツァルトの楽譜を見て彼の才能を認め、4人の娘(作曲家ウ
ェーバーの従妹)の音楽的能力をテストしてもらったのです。
 モーツァルトは次女のアロイジアの声の能力を見抜き、声楽家
として成功することを父親に告げるのです。そして何度かウェー
バー家を訪れるうちにモーツァルトはアロイジアとの結婚を望む
ようになります。しかし、この恋は成就しなかったのです。
 アロイジアは、資産家の宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲと結婚し、
モーツァルトはその後もウェーバー家と付き合ううちに、三女の
コンスタンツェと結婚するのです。これはそのように仕向けた母
親セシリア・ウェーバーの作戦だったのです。
 しかし、モーツァルトは結婚後もアロイジアを彼のオペラに起
用したり、彼女のために演奏会用コンサート・アリアを作曲した
りしているのです。肖像画Cはそのアロイジアの夫であるランゲ
の作品なのです。       ・・・[モーツァルト/01]


≪画像および関連情報≫
 ・なぜ、肖像画は未完成なのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アロイジアの夫ヨーゼフ・ランゲは、素人ながら絵心があり
  おそらくはアロイジアに頼まれてモーツァルトの横顔の肖像
  画を描いたと思われますが、この作品は未完成のまま、モー
  ツァルトの死後コンスタンツェに渡っています。未完成に終
  わったのは、嫉妬深かったランゲがモーツァルトと妻アロイ
  ジアの仲を知って筆を止めたとも考えられます。ちなみにア
  ロイジアは、もともとは母の勧めでランゲと結婚したような
  経緯もあり、モーツァルト死後離婚しています。
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトの肖像画.jpg
モーツァルトの肖像画
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2009年03月30日

●モーツァルトを取り巻く環境(EJ第1924号)

 モーツァルトがどういう顔をしていたか――現代では肖像画に
よって判断するしかないが、多くあるようにみえるモーツァルト
の肖像画は、前回述べたように、その主要なものは2つぐらいし
かないのです。
 むしろ、われわれがモーツァルトといって頭に浮かぶのは、映
画『アマデウス』のモーツァルト役トム・ハルスの顔かもしれな
いのです。余談ですが、このトム・ハルスという俳優はピアノの
名手で、映画の演奏シーンはすべて彼が弾いているのです。それ
でいて、アカデミー主演賞はサリエリ役のマーレイ・エイブラハ
ムに持っていかれたのは気の毒であると思います。
 ところでモーツァルトは「音楽の天才兒」といわれますが、こ
れはきわめて抽象的な表現であると思います。「モーツァルトは
どういう音楽家ですか」という問いに対して、「天才的音楽家で
す」と答えても、それでは答えにならないのです。したがって、
モーツァルトがどのように天才的なのかについて明らかにする必
要があります。
 モーツァルトについて述べるのに当たって、父のレオポルト・
モーツァルトについて知っておく必要があります。レオポルトは
音楽の指導者として、また人生の指南役として、モーツァルトに
多大な影響を与えているからです。
 レオポルト・モーツァルトは、アウグスブルグの製本屋の出で
ザルツブルグの大学で学問を修め、ザルツブルグ大司教の宮廷管
弦楽団のヴァイオリン奏者を務めていたのです。
 レオポルトは、数多くの作品を作曲していますが、そのほとん
どは、平凡なありきたりの曲でしかなかったのです。しかし、彼
は音楽の指導者としてはきわめて優れた才能を持っており、後世
の音楽家にも影響を与える優れた仕事を成し遂げているのです。
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 彼(レオポルト・モーツァルト)は、ヴァイオリン奏者ならび
 に教師としてはきわめてすぐれた手腕を持っていた。1756
 年に彼はヴァイオリン教則本を出版して好評を博し、数ヶ国語
 に翻訳された。これは、古典音楽の正しい奏法に関心を持つ者
 にとって、今日なおはかり知れぬ価値を持っている。
          ――スタンリー・サディー著/小林利之訳
         『モーツァルトの世界』より。東京創元社刊
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 レオポルトは7人の子どもがいたのですが、そのうち成長した
のは2人だけであり、その一人がモーツァルトなのです。もう1
人は姉に当たる4歳年上のマリーア・アンナ・ナンネルであり、
姉も豊かな音楽的才能に恵まれていたといわれます。
 モーツァルトは、姉のハープシコード(ピアノの前身)のレッ
スンを聴いて育っているのですが、その頃から音楽に対して異常
な関心を示したといわれます。
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 3歳のとき、モーツァルトは、耳ざわりの良い和音を聴き覚え
 のままハープシコードで演奏しようとし、4歳では小品を演奏
 し、5歳で作曲した――これら初期の簡素な作品のあるものは
 父親の書きとめた譜面として保存されている。そのころ、モー
 ツァルトはハープシコード協奏曲を作曲しようとさえしている
 のである。                ――前掲書より
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 モーツァルトはヴァイオリンの演奏に優れた才能を発揮してい
ますが、ハープシコードの演奏においてとくに天賦の才を発揮し
たといわれています。つまり、モーツァルトは、演奏家としても
超一流であったのです。自分のアタマに浮かんだものを即座に楽
器で上手に表現できる才能を生まれながらに持っていたのです。
 この天才姉弟はザルツブルグでは有名になり、モーツァルトが
6歳になったとき、バイエルン選帝侯の前で演奏する話が持ち上
がり、レオポルトは姉弟を伴って急遽ミュンヘンに向かうことに
なったのです。
 ここで留意しておくべきことが2つあります。
 1つは、当時の音楽家の社会的地位はあまり高くなかったとい
うことです。レオポルトはザルツブルグ大司教の宮廷管弦楽団の
ヴァイオリン奏者ですが、たとえ楽長であっても、せいぜい料理
長ぐらいの地位でしかなかったといいます。
 つまり、音楽家は芸術家というよりも職人に近かったのです。
宮廷管弦楽団という名前はついていますが、コンサートというよ
りも貴族たちの食事のさいのバックグラウンド・ミュージックを
担当するのが主な役割だったのです。
 2つは、当時は神聖ローマ帝国の時代(962〜1806)で
あって、大司教の許可がないと、ザルツブルグから外に出られな
かったということです。
 モーツァルト一家の住んでいたザルツブルグは、地理的には神
聖ローマ帝国の一部ですが、帝国の支配が及ばない独立国なので
す。具体的にいうと、ザルツブルグは大司教が治める独立国のよ
うな存在であったということです。神聖ローマ帝国とは、現在の
ドイツ、オーストリア、オランダの一部をいうのです。
 したがって、モーツァルト一家がザルツブルグの外に出て旅を
するというのは大変なことであり、その後何回も重ねてザルツブ
ルグの外に出ることになるモーツァルト一家としては、大司教と
の関係に十分配慮する必要があったのです。
 モーツァルトは、13歳のときザルツブルグ宮廷管弦楽団の楽
師長(コンサート・マスター)に就任し、父のレオポルトは副楽
長に昇進します。宮廷管弦楽団は、50人くらいの規模であり、
同数の歌手もいたとされています。したがって、当時の大司教が
いかに力があったかがわかります。楽師長は、楽長、副楽長に継
ぐ楽団ナンバー3のポストなのです。
 もっとも楽師長といっても最初は無給、3年後には年俸150
フロリン(1フロリンは約1万円)になっています。大司教は一
家に逃げられるのが怖かったのです。 [モーツァルト/02]



≪画像および関連情報≫
 ・映画『アマデウス』のトム・ハルスについて
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  本名/Thomas Edward Hulce。 15歳でノース・キャロライ
  ナの芸術学校に学び、卒業後NYで後に「アマデウス」の原
  作を書上げるピーター・シェイファーの舞台で注目される。
  映画デビューは「ジェームズ・ディーンにさよならを」で当
  初はトーマス・ハルス名義だった。舞台での実力が買われ、
  84年、「アマデウス」でモーツァルトを熱演(ピアノの名
  手としても知れている。アカデミー主演賞にもノミネートさ
  れ高い評価を得た。賞は惜しくもサリエリ役のF・マーレイ
  ・エイブラハムが受賞したがトムの好演なくしてはエイブラ
  ハムの受賞、そして作品賞やその他主要映画賞の独占はなか
  ったであろうと言われている。
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モーツァルトの父レオポルト.jpg
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2009年03月31日

●2人の大司教とモーツァルト(EJ第1925号)

 モーツァルトについて語るとき、モーツァルトがどのような時
代に生まれ育ったか、彼を取り巻く環境がどのようなものであっ
たかについて十分知っておく必要があります。
 モーツァルトは、1756年1月27日にザルツブルグに生ま
れています。モーツァルト時代のザルツブルグは大司教領といっ
て、大司教が事実上の領主であることは既に述べています。大司
教領というのは、教皇の直轄地であり、教皇に任命された大司教
が、政治・行政面での君主であったのです。
 ところで、「大司教」というのはどのような地位なのでしょう
か。ローマ・カトリック教会の組織は次のようになっています。
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    1.教皇          5.大司教
    2.枢機卿         6.司教
    3.総大司教        7.司祭
    4.首座大司教
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 組織の頂点は「教皇」です。一般的に「ローマ法王」と呼ばれ
ますが、正しくは教皇というべきです。教皇は「枢機卿」の中か
ら選ばれるのです。「大司教」は5番目の地位ですが、5番目に
してザルツブルグのようなひとつの領土を持つほどの力がある大
司教もいるのです。
 最下位の「司祭」が、いわゆる教会の教父のことであり、ひと
つの教区を担当しているのです。教区とは、キリスト教において
一定地域にある教会をまとめた教会行政上の単位で、これらの教
区はローマ教皇庁と直結しているのです。キリスト教にはこのよ
うな合理的な管理組織が昔からあり、それがキリスト教の発展を
現在まで支えてきたといえます。
 ましてザルツブルグは財政上も豊かであり、大司教の権力は大
きかったのです。このような地位には、ハプスブルグ家の流れを
引く有力な貴族の子弟が選ばれるのが通例となっていました。
 ハプスブルグ家とは、現在のスイス領内に発祥したヨーロッパ
のドイツ貴族のことで、カエサル一門の出身と名乗り、政略結婚
を繰り返して大規模な領土拡大に成功した一家です。
 中世から20世紀初頭にかけて、オーストリア大公国、神聖ロ
ーマ帝国、スペイン王国、ナポリ王国、ベーメン(ボヘミア)王
国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの大公、国王、皇帝
を代々輩出したヨーロッパの王家の中でも屈指の名門といわれて
いるのです。
 モーツァルトはその生涯において、次の2人のザルツブルグ大
司教からさまざまな影響を受けることになります。
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 ジグムント・クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵
               ヒエロニムス・コロレド伯爵
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 ほとんどのモーツァルト史では、シュラッテンバッハ伯爵は、
モーツァルトに対して好意的であり、理解者であったのに対し、
コロレド伯爵はモーツァルトを冷遇し、遂にはクビにしたとあり
ます。その真偽はさておくとして、これら2人の大司教によって
モーツァルト家は翻弄されることになるのです。
 確かにシュラッテンバッハ伯爵の評判は良く、何よりも音楽に
理解があったのです。宮廷楽団の予算を惜しまず、優れた音楽家
をイタリアに留学させるなどの便宜を図ったのです。この伯爵が
いたからこそ、モーツァルト一家は何回も旅に出て、そこに長く
滞在することができたのです。
 しかし、シュラッテンバッハ伯爵が1771年に亡くなり、そ
の後を継いだのが、コロレド伯爵なのです。コロレド伯爵が大司
教に選ばれるに当たっては、ハプスブルグ家の強い押しがあった
といわれます。つまり、彼はシュラッテンバッハ伯爵以上にハプ
スブルグ家に近い人であったのです。
 モーツァルト一家――といっても、レオポルトとモーツァルト
姉弟が最初に旅に出たのは1762年1月12日で行き先はミュ
ンヘン、目的は既に述べたようにバイエルン選帝侯の前での演奏
だったのです。モーツァルト6歳のときの話です。当時、ザルツ
ブルグからミュンヘンまでは2日かかったのですが、ミュンヘン
はザルツブルグに一番近い大都市だったのです。
 その同じ年の9月にモーツァルト一家は今度はウィーンに旅を
しているのですが、そのとき次のような有名なエピソードが残さ
れているのです。
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 モーツァルトが最初にウィーンに行ったときの、こんなエピソ
 ードが残っている。ウィーンに入るには地方税関と中央税関を
 通らなければならなかった。厳しいことで知られていた。とこ
 ろが、幼いモーツァルトは、持ち前の人懐っこしさで税関の職
 員とすぐに仲良くなってしまった。そして、モーツァルトが子
 供用の小さなヴァイオリンで一曲弾いて聞かせたら、税関の職
 員はニコニコして一家を何の審査もせずに通関させたという。
     ――中川右介著、『モーツァルトミステリーツアー』
                  ゴマブックス株式会社刊
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 実際にその当時通関は厳しくて、普通の人であれば何時間もか
かるのです。それがモーツァルト一家の場合はフリーパスです。
おそらく大司教が何らかの便宜を図っていたと考えられます。
 後で詳しく述べますが、1770年にモーツァルトは、ローマ
教皇クレメンス14世から、「黄金の軍騎士勲章」を授けられて
いるのです。これによってモーツァルトは、ローマ教皇庁の保護
下に置かれた音楽家ということになり、大変な特権を手にしたこ
とになるのです。
 モーツァルトは天才音楽家ではありますが、当時音楽家の社会
的地位は低く、モーツァルトの場合は異例な出世ということにな
るのです。          ・・・[モーツァルト/03]


≪画像および関連情報≫
 ・コロレド大司教について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コロレド大司教(ヒエロニムス・ヨーゼフ・フランツ・デ・
  パオラ・コロレード伯爵は、モーツァルトの人生に大きく影
  響をあたえた1人といえましょう。モーツァルトとの関係を
  理解する為には「大司教」制や都市「ザルツブルグとウィー
  ン」の関係,そして「神聖ローマ帝国」について理解する必
  要があります。映画「アマデウス」を見ていてもこれらのこ
  とがよくわからないため「何故?」という疑問を抱きながら
  見た方も多いのではないでしょうか・・・私も初めてこの映
  画を見た時は実はその1人でした。なぜコロレードにあれほ
  どまで縛られなくてはならないのか、なぜ自由にウィーンに
  移り住むことが許されなかったのか・・・。
  http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/colloredo.htm
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モーツァルトと2人の伯爵.jpg
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2009年04月01日

●文化を改革しようとしたコロレド大司教(EJ第1926号)

 シュラッテンバッハ大司教とコロレド大司教――これら2人の
大司教は後世ではとかく次のようにいわれます。
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   シュラッテンバッハ大司教 ・・・ 寛大なる大司教
        コロレド大司教 ・・・ 意地悪な大司教
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 しかし、これはあくまでモーツァルトの側から見ての評価であ
り、客観的には必ずしも正しい評価とはいえないのです。後世に
おいてモーツァルトが不世出の天才音楽家としての評価が定まっ
たことにより、モーツァルトに厳しく当たった人は、すべて悪者
にされてしまっている感があるからです。
 しかし、モーツァルトは幼少のときから周囲の大人からちやほ
やされて育ってきているので、おそらくわがままな性格の生意気
な青年であったと考えられます。映画『アマデウス』の中のモー
ツァルトもそのように描かれています。
 コロレド大司教は、18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で
思慮深く、贅沢を好まない知識人だったのです。当時の貴族とい
えば途方もない贅沢を尽くしたものでしたが、コロレド大司教は
質素を心がけ、倹約家であったといわれます。これは、なかなか
できないことであり、それだけでも彼がそれなりの人物であった
ことを窺わせます。
 コロレド大司教は、ことさらモーツァルトに厳しく当たったの
ではなく、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとし
たに過ぎないのです。それどころか、口ではやかましくいっても
モーツァルト一家が長い休暇をとって旅行をすることを事実上認
めるなど、モーツァルト一家に対するそれなりの配慮もしている
面もあるのです。
 このことを一番わかっていたのは父のレオポルトなのです。彼
は大司教と息子の板ばさみにあって苦しみます。もともと、シュ
ラッテンバッハ大司教のモーツァルトに与えた厚遇が度を過ぎて
いたのであって、それを少し正規の状態に戻したに過ぎないので
す。しかし、わがままなモーツァルトにとっては、それがどうし
ても気に入らなかったのでしょう。
 コロレド大司教が、まずモーツァルトに求めたことは、教会に
おける典礼音楽をもっと短く簡明にできないかということだった
のです。この大司教の命を受けて、モーツァルトが作曲したのが
次のミサ曲です。
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   小ミサ曲 第8番 ハ長調「雀ミサ」/K220
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 このミサ曲にはモーツァルトの不満があふれているといわれま
す。普通であれば、グローリアもクレードもフーガ形式を使うの
ですが、それをしないで全体が簡略化されています。そのため、
アインシュタインはこれを「最短ミサ」と呼んでいます。
 伴奏ヴァイオリンの音形が雀のさえずりに似ているため、「雀
ミサ」と呼ばれているのですが、教会音楽らしくない華々しいト
ランペットの音は大司教への反発をあらわしているといわれてい
ます。このように批判を込めて作った曲でも立派な音楽になって
いる点はさすがにモーツァルトであるといえます。
 モーツァルトは、ある神父への手紙に「もっとも荘厳なミサで
さえも、45分以上にわたることはできないなんて音楽になりま
せん」と不満を訴えています。
 コロレド大司教は、このようにザルツブルグの政治や文化の改
革をしようとしたのですが、少しやり方が強引だったため、ザル
ツブルグ市民にとっても不評だったのです。そのため、コロレド
大司教には余計に悪い評判が立ってしまったのです。
 シュラッテンバッハ大司教の存命中にモーツァルト親子はミュ
ンヘン、ウィーン、パリ、ロンドンへ行ったあと、イタリアを訪
問しています。そして、1769年11月にイタリアに行くので
すが、この訪問は大成功だったのです。モーツァルトが15歳の
ときのことです。
 もし、このときの大司教がシュラッテンバッハ伯爵ではなくコ
ロレド伯爵だったら、おそらく休暇願いは却下されてしまったで
しょう。そういう意味では、モーツァルトにとってシュラッテン
バッハ大司教は大切な人であったといえます。
 それでは、コロレド大司教はモーツァルトにとって、ただマイ
ナスの上司であったかというと、そうではないのです。モーツァ
ルトが亡くなった時点で考えると、コロレド大司教の存在も結果
としてはモーツァルトのプラスになっているのですが、これにつ
いてはいずれ述べます。
 モーツァルトは生涯に3度イタリアに行っています。その最初
が、1769年12月から1771年3月までで、父のレオポル
トと一緒に行っているのです。
 イタリアは現在でもオペラの国ですが、その当時ドイツ・オペ
ラなどはなかったので、イタリアは、正真正銘の音楽の先進国で
あったのです。多くの音楽教師がイタリアから各国に派遣されて
おり、サリエリもその一人であったのです。当時オペラの書けな
い音楽家は一人前とはいえなかったのです。
 レオポルトは、息子にイタリアで本場のオペラに触れさせよう
としたのです。当時ドイツの著名なオペラの作曲家たち――ヘン
デル、ハッセ、グルックなどは、イタリアに長く滞在してイタリ
ア風の音楽語法を完全に修得しようとしていたのです。
 モーツァルト父子は、イタリアへは、インスブルック、ロヴェ
レート、ヴェローナ、マントーヴァを経由してミラノに到着して
います。それぞれの都市で演奏会を開いていますが、いずれも大
好評だったのです。とくにヴェローナでの演奏会では、詩人たち
が競ってモーツァルトを讃える詩を書くなど、大反響を呼んだの
です。マントーヴァでは、アカデミア・フィラルモニカの定期演
奏会に招かれ、見事なハープコードの演奏を披露し、大喝采を浴
びたのです。       ・・・・・[モーツァルト/04]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトのイタリア紀行
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  ヴェルグルを通ってインスブルックに着いた。ここで演奏会
  で協奏曲を演奏している。19日にここを去り、ブレンナー
  峠を越えて、あこがれのイタリアに入った!ヴィピテーノ、
  ブレッサノーネ、ボルツァーノ、トレントへ。現在でもこれ
  らのチロル地方は、イタリア語ではなくドイツ語が主流であ
  る。24日には、ロヴェレートに着き、ここで4日間滞在し
  トデスキ伯爵の邸で演奏会をし、教会でオルガンを弾き、大
  騒ぎになったという。27日頃、ヴェローナに着き、約2週
  間過ごした。1月5日のアカデミア・フィラルモニカの演奏
  会に出演し、大喝采を博した。1770年1月10日、ヴェ
  ローナを出て、マントヴァに着く。ここでハッセのオペラを
  見たと手紙に書いている。16日にはアカデミア・フィラル
  モニカで演奏会を開き、マントヴァの人々を熱狂させた。
  http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/mozart_fanciullezza2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ハープシコードを弾くモーツァルト.jpg
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2009年04月02日

●評価を高めたイタリアへの旅(EJ第1927号)

 モーツァルトが世に出るために重要な役割を果たしたのは3度
にわたるイタリア旅行です。いずれも父のレオポルトと一緒に旅
をしています。
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  第1回 ・・・ 1769年11月〜1771年 3月
  第2回 ・・・ 1771年 8月〜1771年12月
  第3回 ・・・ 1772年10月〜1773年 3月
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 モーツァルトの後ろ楯になったシュラッテンバッハ大司教が亡
くなったのは、第2回のモーツァルト父子が、イタリア旅行から
帰った日の翌日の1771年12月のことです。
 1772年にコロレド伯爵がザルツブルグ大司教に選出されま
すが、コロレド大司教は就任するとすぐ、無給のコンサートマス
ターであったモーツァルトを有給に昇格させています。そうする
ことによって、なるべくモーツァルトにザルツブルグに腰を落ち
着かせて、働いてもらおうと考えたからです。
 さらに、新大司教は、その年の10月からのモーツァルト父子
のイタリア行きを認めています。コロレド大司教がモーツァルト
家に一定の配慮を示したというのは確かなことなのです。ただ、
新大司教は、モーツァルトが後世において世界的に名を残すよう
な大作曲家になることは見抜けなかったのです。
 それにしてもモーツァルトはよく旅行していますが、次のデー
タがあります。
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     モーツァルトの生涯 ・・ 13097日
     旅行期間 ・・・・・・・・ 3720日
     旅行回数 ・・・・・・・・・・ 17回
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 つまり、モーツァルトは人生の28.4%は旅行していたので
すが、それは観光旅行などではなく、よりよい仕事を求めての旅
であったのです。
 1770年7月にモーツァルトは、ローマ教皇クレメンス14
世から「黄金の軍騎士勲章」を授与されています。わずか14歳
での受賞なのです。音楽家でこの勲章をもらったのは、モーツァ
ルト以外では、16世紀のオルランド・ディ・ラッソのみ――ル
ネッサンス時代まで遡らないと誰もいないのです。
 それでは、どうして、モーツァルトはこの勲章を受章できたの
でしょうか。
 それは、当時イタリアには優れた音楽家が大勢いて、モーツァ
ルトの並外れた音楽的才能を見抜く人が多かったからです。これ
については、次の3つの逸話が残っています。
 1つは、モーツァルト父子がボローニヤに滞在しているとき、
モーツァルトは、ボローニヤの由緒あるアカデミア・フィラルモ
ニカの会員に推挙されていることです。
 その会員は、通常かなりの年齢と経験を積んだ作曲家だけに与
えられるものであり、その資格を問う厳しい試験――和声と対位
法――があったのですが、モーツァルトはその関門をあっさりと
クリアしているのです。
 2つは、秘曲「ミゼレーレ」にまつわる有名な逸話です。モー
ツァルト父子はローマに着くと、すぐヴァチカンのシスティーナ
礼拝堂をたずねています。礼拝をするというより、そこで歌われ
ている、アレグリという作曲家が作曲した秘曲「ミゼレーレ」を
聴きに行ったのです。
 秘曲「ミゼレーレ」は、この礼拝堂以外で歌うことが禁ぜられ
楽譜の持ち出しも禁止されていたのです。モーツァルトはこの曲
を聴いて宿に戻り、五線譜にその曲を書き写し、2回目にそれを
聴いて確かめたところ、ほとんど間違っていなかったという天才
ぶりを発揮したのです。
 父のレオポルトは、門外不出の曲の秘曲にそのようなことをし
てはならないと止めたのですが、それはかえってモーツァルトの
評価を高めるだけで、誰もとがめなかったというのです。ちなみ
にこの曲は、1981年に映画「炎のランナー」のサウンドラッ
クに採用されたことで国際的知名度を獲得しています。
 3つは、歌劇「ポントの王ミトリダーテ」(K87)の公演の
成功です。このオペラは、1770年12月20日に上演されて
いるのですが、その初日にはどのアリアも終わるたびに「マエス
トロ万歳、マエストリーノ(小さな巨匠)万歳」と叫ぶ喝采が劇
場全体を揺るがすほど、アンコールされたのです。
 さらにモーツァルトは、1772年の歌劇「ルチオ・シルラ」
でも、さまざまな困難を乗り越えて、成功させています。これに
よってモーツァルトは、イタリアにおいては誰一人知らぬ者はい
ないほど有名な音楽家になったのです。
 しかし、これほどの成功にもかかわらず、イタリア以外でのモ
ーツァルトの評価は嫉妬も加わって、今ひとつであったのです。
まして、コロレド大司教になってからは、いろいろな意味で自由
に行動することは困難になっていったのです。
 父のレオポルトは、このままザルツブルグにいたのでは、息子
は大成できないと考えたのです。というのも、これまでの成功に
よって息子のモーツァルトが少し天狗になっており、早熟で口や
かましく、生意気になっており、それに対してコロレド大司教が
嫌悪感を抱きつつあることがわかったからです。
 そこで、レオポルトは息子の永住の地として、イタリアを考え
て、つてを求めて動き始めたのです。さいわい、フィルミルアン
伯爵の後援を得て、フィレンツェのトスカーナ大公に接触したの
です。トスカーナ大公はモーツァルトの音楽を高く評価していた
のですが、結果は「ノー」という冷たいものだったのです。一体
その原因は何でしょうか。
 それは、女帝マリア・テレジアの邪魔であったのです。少なく
ともマリア・テレジアは、最初はモーツァルトを買っていたので
すが、どうしたことでしょうか。・・・[モーツァルト/05]


≪画像および関連情報≫
 ・アレグリ作曲/秘曲「ミゼレーレ」について
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  合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のため
  に作曲されており、かなりの名声を博してきた。合唱団の片
  方が聖歌〈ミゼレーレ〉の原曲を歌うと、空間的に離れたも
  う一方がそれに合わせて、装飾音型で聖句の「解釈」を歌う
  のである。《ミゼレーレ》は今でもシスティーナ礼拝堂の聖
  務週間で定期的に歌われている。1981年に映画「炎のラ
  ンナー」のサウンドトラックに利用されたことで、国際的な
  知名度を獲得するに至った。     ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

グレゴリオ・アレグリ.jpg
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2009年04月03日

●マリア・テレジアとモーツァルト(EJ第1928号)

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 乞食みたいに方々をうろつきまわっている、役にも立たぬ人間
 に悩まされぬようにしなさい。    ――マリア・テレジア
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 これは、女帝マリア・テレジアがモーツァルト父子の立ち回り
先に出していたいわばふれ状なのです。神聖ローマ皇帝フランツ
1世シュテファンの皇后であるマリア・テレジアのこのようなふ
れ状を見れば、誰もモーツァルトを雇おうとはしないはずです。
モーツァルト父子は何か女帝の逆鱗に触れるようなことをしてし
まったのでしょうか。
 1762年9月18日、モーツァルト一家は姉のナンネルも連
れてザルツブルグを出発し、10月6日にウィーンに到着してい
ます。モーツァルトにとって最初の旅行です。モーツァルトが6
歳のときのことです。
 一週間後の13日にシェーンブルン宮殿の皇帝の前で、演奏会
を開いているのです。そのとき聴いていた皇帝一族のなかに女帝
マリア・テレジアと娘のマリー・アントワネットがいたのです。
 このとき女帝はモーツァルトの音楽に感心し、父のレオポルト
には年収の倍くらいの金額の褒美を与え、モーツァルトとナンネ
ルに礼服を与えるなど大変厚遇しているのです。
 しかし、モーツァルトが12歳のとき、1768年12月に再
びウィーンに行って、マリア・テレジアに拝謁したときは、一転
して冷たかったといいます。いったい何が原因なのでしょうか。
 考えてみると不思議なことはたくさんあるのです。なぜ、ザル
ツブルグ宮廷管弦楽団の一員に過ぎないレオポルトが、皇帝の前
で演奏できたかということです。その当時、確かにモーツァルト
は天才の片鱗を示してはいましたが、現代のようにマスコミが発
達していない時代であり、それがウィーンにまで聞こえていたと
は思えないのです。よほど強いコネクションでもないと、皇帝に
会うことなど不可能です。
 モーツァルト一家が何らかの特命を帯びていたという説もある
のです。当時は現代のように簡単に国を出ることができなかった
時代であり、各国を旅する音楽家が特命を帯びることがあっても
おかしくはなかったのです。
 こうも考えられます。既に述べたように、当時は音楽家の社会
的身分は低く、まだ幼い子供が大人顔負けの音楽を作曲したり、
演奏するというので会ってみたが、こういうものは一度聴けば十
分ということで冷たくなったという説です。つまり、見世物とし
て興味本位でモーツァルトの演奏を聴いたわけです。
 もうひとつ、モーツァルトが知らないで、マリア・テレジアの
恨みを買うようなことをしたというものです。
 時期が前後するのですが、こういういきさつがあります。ミラ
ノ公国のフェルデナント大公がモデーナ・エステ家の娘と結婚す
るときの式典のための音楽――こういう式典のための音楽はほと
んどオペラである――をモーツァルトに委嘱したのです。このフ
ェルデナント大公はマリア・テレジアの息子との1人なのです。
このときモーツァルトの書いたオペラは次の曲です。
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   「アルパのアスカニオ(二幕の劇場セレナータ)」
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 しかし、モーツァルトを信用していないマリア・テレジアは、
自分の音楽教師であるヨハン・アドルフ・ハッセにもオペラの作
曲を依頼していたのです。
 しかし、「アルパのアスカニオ」は成功したのに対し、ハッセ
のそれは失敗に終わったのです。マリア・テレジアが本当に音楽
がわかっていれば、既に70歳を越えていたハッセがモーツァル
トに勝てるはずがないことはわかったはずですが、彼女はそれを
根にもってモーツァルトに冷たくしたという説です。これによっ
て、レオポルトによるイタリア永住計画は、マリア・テレジアの
反対によって潰されたというわけです。
 このように数ある説の中で、最もあり得るのは、マリア・テレ
ジアがモーツァルトをヴァチカンのスパイではないかと疑ってい
たとする説です。考えてみればヴァチカンは天才音楽家といって
もまだ年端もいかぬ子供のモーツァルトに「黄金の軍騎士勲章」
を与えており、これは一種の外交特権となって、モーツァルトが
多くの貴族と会いやすくなっていたことは確かだからです。
 ハプスブルグ家はもちろんカトリックです。教皇から皇帝に戴
冠される立場であり、信仰は篤かったことは間違いないのです。
しかし、教会とは対立関係にあったのです。イエズス会や他の修
道会は解散させられ、ウィーンにおける聖職者の影響力は低下し
つつあったといえます。それにカトリックにとっては敵ともいう
べきユダヤ教徒やプロテスタントも、礼拝してよいということに
なったのです。マリア・テレジアは、帝国の統治の改革に乗り出
しており、宗教の改革に関しても手をつけつつあったのです。
 ハプスブルグ家の内部でも一枚岩ではなかったのです。フラン
ツ1世は遊び人で政治のことは奥さんのマリア・テレジアにまか
せており、女帝が全権を握っていたのです。娘のマリー・アント
ワネットはフランスに嫁ぎましたが、息子のヨーゼフ2世は急進
改革派であったのです。彼は日頃から母親の改革は手ぬるいと考
えていたようです。
 それでもマリア・テレジアはいろいろな改革に手を染めていた
のです。プロテスタントやユダヤ教徒に関する寛容令、農奴制の
廃止、拷問と死刑の廃止、出版物の検閲の緩和、病院、孤児院の
増設・拡充など、いろいろな改革を進めつつあったのです。
 ヴァチカンとしては、そういう周辺国の情報を必要としていた
のです。周辺国の中には実質上一国に近いザルツブルグも情報収
集の対象に入っていたと思われます。
 そうなると、ザルツブルグのコロレド大司教とモーツァルトの
不仲の原因は、こんなところにあるのではないかと思います。音
楽家が政治に巻き込まれているのです。
               ・・・[モーツァルト/06]


≪画像および関連情報≫
 ・マリア・テレジア銀貨
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  マリア・テレジアといえば、有名なオーストリア・ハプスブ
  ルグ家の女王です。 彼女の在位は1740〜1780年で
  した。この女王の像を刻んだ銀貨が、不思議なことに、東ア
  フリカとアラビア半島の一部で異常な人気を呼びました。
   「人気」という言葉はふさわしくないかもしれませんが、
  その実質的な価値以上の価値をもって取引されたのです。エ
  チオピアの西部にあるカファ地方はコーヒーの語源にもなっ
  たところです。コーヒーを買うためには、他のどんな貨幣で
  も受け入れられず、マリア・テレジアの銀貨だけが使われた
  のです。何と200年近くもです。
  http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/E015.htm
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1ターレル銀貨のマリー・テレジア.jpg
1ターレル銀貨のマリー・テレジア
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2009年04月06日

●1782年以降に何があったか(EJ第1929号)

 モーツァルトの生涯は次の35年です。モーツァルトのことを
調べるに当たって、またモーツァルトの作品を聴くに当たって、
その作品がどの年代に作られているかについて知っておくことは
大切なことであると思います。
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    誕生/1756. 1.27/ザルツブルグ
    死亡/1791.12. 5/  ウィーン
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 モーツァルトの主要なオペラといえば、次の5つが上げられま
す。発表年代と合わせて記述しておきます。
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 1.歌劇「後宮からの誘拐」 ・・・・・・・・ 1782
 2.歌劇「フィガロの結婚」 ・・・・・・・・ 1786
 3.歌劇「ドン・ジョバンニ」 ・・・・・・・ 1787
 4.歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」 ・・・・ 1790
 5.歌劇「魔笛」 ・・・・・・・・・・・・・ 1791
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 交響曲についても、代表的な6曲を発表年代と合わせて記述し
ておきましょう。
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 1.交響曲第35番「ハフナー」 ・・・・・・ 1782
 2.交響曲第36番「リンツ」・・・・・・・・ 1783
 3.交響曲第38番「プラハー」 ・・・・・・ 1786
 4.交響曲第39番 ・・・・・・・・・・・・ 1788
 5.交響曲第40番 ・・・・・・・・・・・・ 1788
 6.交響曲第41番「ジュピター」 ・・・・・ 1788
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 これを見ると、誰でも知っているモーツァルトの有名な作品は
1782年以降に集中的に作曲されていることがわかります。こ
の年、モーツァルトには何があったのでしょうか。
 モーツァルト父子は、1775年にミュンヘンから戻ってくる
と、しばらくザルツブルグにいたのです。実は、1773年7月
にモーツァルト父子はウィーンに行っているのです。その目的は
ザルツブルグ脱出計画の実現です。
 このとき、コロレド大司教はザルツブルグを留守にしており、
休暇届が却下される恐れがない機会を利用して強行したのです。
しかし、このときウィーンには皇帝はおらず、2人はマリア・テ
レジアの御前に伺候しているのです。
 マリア・テレジアは、裏ではいろいろモーツァルトの邪魔をす
るのですが、会うのを拒否しないはがりか、表面上は慈悲深く振
舞ったのです。しかし、それはあくまでうわべだけのことで、就
職の可能性は掴めず、レオポルトの計画は失敗に帰すのです。
 しかし、モーツァルトにとって、このウィーンで過ごした10
週間は、就職こそできなかったものの、その後のモーツァルトの
音楽に大きな影響を与えたのです。ウィーン音楽に触れてから、
モーツァルトの音楽は劇的な変貌を遂げるのです。彼はこのウィ
ーン滞在期間中に次の6つの弦楽四重奏曲を作曲しています。
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 1.弦楽四重奏曲/メヌエット ・・・・・・・ 1773
 2.弦楽四重奏曲/ イ長調 第 9番 ・・・ 1773
 3.弦楽四重奏曲/ ハ長調 第10番 ・・・ 1773
 4.弦楽四重奏曲/変ホ長調 第11番 ・・・ 1773
 5.弦楽四重奏曲/変ロ長調 第12番 ・・・ 1773
 6.弦楽四重奏曲/ ニ短調 第13番 ・・・ 1773
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 1777年3月にモーツァルト父子は、コロレド大司教に休暇
届を出すのですが、却下されてしまいます。そこで、モーツァル
トは宮廷管弦楽団を辞職し、母と一緒にマンハイムとパリに行っ
て就職先を探ったのです。
 しかし、この判断は失敗だったのです。1778年7月に母が
パリで死去したり、結婚したかったアロイジアに失恋し、散々の
目にあったからです。
 そして、モーツァルトは、1779年1月にザルツブルグのコ
ロレド大司教に詫びを入れて、宮廷管弦楽団に復職するのです。
大司教はモーツァルトを受け入れ、今まで年俸150フロリンで
あったのを3倍の年俸450フロリンにして迎えたのです。大司
教としても、モーツァルトを手元に置いておきたかったのです。
 しかし、それも長くは続かなかったのです。1780年にミュ
ンヘンの選帝候カルル・テオドールから、オペラの作曲を委嘱さ
れるのです。そのときの作品は「イドメデオ」なのです。これに
関しては、コロレド大司教は反対できないので、モーツァルトは
6週間の予定でミュンヘンに行くのです。1780年11月のこ
とです。この予定であれば、モーツァルトは年内にザルツブルグ
に帰っていなければならないのです。
 しかし、1781年3月まで彼はミュンヘンにいたのです。途
中から父のレオポルトもミュンヘンにきています。ちょうどこの
とき、大司教が父親の病気見舞いのためウィーンにきていて、ザ
ルツブルグにいなかったので、それが可能だったと思われます。
 しかし、1781年3月にウィーンにいた大司教にモーツァル
トはウィーンに来いと呼び出されるのです。それは、文句をいう
ために呼び出したのではなく、自分がウィーンで音楽会を開くた
めにモーツァルトを必要としたのです。演奏させたり、作曲させ
たりするためです。
 確かに契約上はモーツァルトはコロレド大司教に雇われており
命令に従う義務があります。しかし、モーツァルトはウィーンで
は大作曲家であり、演奏などはやらないのです。しかし、大司教
はそれを強制する――そういう点がモーツァルトとしては耐えら
れず、大司教と大喧嘩になってしまい、1781年5月に解雇さ
れてしまうのです。そして、ちょうどその年の12月にモーツァ
ルトは結婚を決意するのです。 ・・・[モーツァルト/07]


≪画像および関連情報≫
 ・「選帝候」とは何か
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  神聖ローマ帝国とは962〜1806年に西ヨーロッパに存
  在したドイツを中心にした連邦国家である。初めから、神聖
  ローマ帝国と名乗ったわけではなく、11世紀にはローマ帝
  国、12世紀には神聖帝国、13世紀になってから神聖ロー
  マ帝国、15世紀後半からはドイツ人の神聖ローマ帝国とよ
  ばれるようになる。13世紀初頭に有力な神聖ローマ帝国皇
  帝がいない、大空位時代が発生すると選帝候と呼ばれる人々
  が皇帝を選ぶことが慣例として発生し、1356年の金印勅
  書で、7人の(マインツ、ケルン、トリアの3宗教諸侯、ボ
  ヘミア王、ザクセン公、フランデンブルク辺境伯、プファル
  ツ伯の4世俗諸侯)による選挙によって皇帝を選ぶことが制
  度化される。
       http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu21.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ミュンヘン.jpg
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2009年04月07日

●『誘拐』されるモーツァルト(EJ第1930号)

 1782年にモーツァルトは、ウェーバー家の三女であるコン
スタンツェと結婚します。モーツァルトは、本当は次女のアロイ
ジアと結婚したかったのですが、アロイジアに拒否されてしまっ
たので、妹と結婚したのです。
 この結婚をめぐっては、いろいろな説が取り沙汰されているの
です。どうして、モーツァルトは、アロイジアのように音楽的才
能もなく、性格が良いとも思えないコンスタンツェと結婚するこ
とになったのでしょうか。
 父のレオポルトはウェーバー家の娘との結婚には絶対反対の立
場だったのです。モーツァルトとウェーバー家の付き合いは、も
ともとは、モーツァルトがウェーバー家の当主であるウェーバー
・フリードマンに写譜を頼んだのがきっかけなのです。そのとき
ウェーバー家はマンハイムに住んでいたのです。
 その後、次女のアロイジアはモーツァルトの指導もあってソプ
ラノ歌手として成功し、ウェーバー家はアロイジアの仕事の関係
でウィーンに居を構えたのです。しかし、当主のフリードマンは
間もなく死去してしまいます。そうすると、アロイジアは、俳優
のランゲと結婚して家を出てしまったのです。
 未亡人になったフリードマンの妻のセシリアは、住まいを利用
して下宿屋をはじめ、モーツァルトはそこの下宿人として生活を
はじめるのです。モーツァルトは、このセシリアの経営する下宿
屋を拠点としてウィーンでの仕事をしていたのです。
 当時モーツァルトがウィーンを拠点として取り組んでいた仕事
は「後宮からの誘拐」というオペラの作曲だったのですが、この
オペラには、偶然ではあるものの、モーツァルトのウィーンでの
生活と奇妙な一致点があるのです。
 それは「セシリアによるコンスタンチェを使ったモーツァルト
誘拐計画」というべきものです。セシリアは、次女のアロイジア
がソプラノ歌手として成功したことにより、生活が豊かになった
ことを見ているので、モーツァルトを逃がさないようにして、三
女のコンスタンツェと結婚させたい――そうすれば一家の今後の
収入の支えになると考えたのです。そのため、モーツァルトを下
宿人として確保する必要があったのです。
 しかし、モーツァルトの父親はセシリアの思惑に気がついてお
り、ウェーバー家と付き合うことを認めなかったのです。そのた
め、下宿をするなどとんでもないことと、いろいろな有力者のつ
てを使って、モーツァルトをザルツブルグに引き戻そうとしてい
たのです。
 その当時モーツァルトが父に対して出した手紙の中に次のよう
な一文があります。
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 お父さんがぼくとランゲ夫人(アロイジア)との仲を云々なさ
 るのには驚いてしまって、一日じゅう悲しい気持ちになりまし
 た。彼女は、まだ稼ぎのなかったころは、両親の荷厄介になっ
 ていたのですが、両親に恩返しができるようになり、父親が亡
 くなってしまうと、すぐさま気の毒な母親を見捨てて、俳優を
 追いかけ回し、結婚してしまいました。母親は、してやっただ
 けのものを、返してもらえないと嘆いています。
             ――モーツァルトが父に宛てた手紙
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
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 この手紙を見る限り、モーツァルトはこの時点ではコンスタン
ツェと結婚しようなどとは考えていなかったはずです。しかし、
不思議なことにというより運命的にですが、「後宮からの誘拐」
のオペラには、コンツタンツェ――スペインの貴族の娘で、キリ
スト教徒ベルモンテの恋人――という名前のヒロインが登場する
のです。このオペラの原題は「ベルモンテとコンスタンツェ」と
いうのです。
 ところで「後宮からの誘拐」とは、いったいどういう内容のオ
ペラなのでしょうか。
 このオペラのあらすじは「キリスト教徒の貴族ベルモンテが、
トルコの太守の宮殿に奴隷として囚われている恋人のコンスタン
ツェを救出にやってくる。彼は従僕ペドリッロやコンスタンツェ
の侍女ブロンデの助けを借りて、彼女を連れて逃げようとし、宮
廷の番人オスミンに妨害されて捕まり、処刑されそうになるが、
太守の英断により放免される」というものです。
 問題は、なぜ、「誘拐」なのでしょうか。
 コンスタンツェがトルコの太守の後宮に閉じ込められているの
を助けるというプロットであるならば、それは「救出」であって
「誘拐」ではないはずです。しかし、トルコ側は、ベルモンテを
誘拐の現行犯で捕まえているのです。それはセリフの中でもしば
しば現われます。
 それはさておき、モーツァルトは当初はセシリアの娘コンスタ
ンツェと結婚しようとは思っていなかったのです。それは、モー
ツァルトの次の手紙でも明らかです。
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 世間の人が、ぼくともう結婚させてくれたコンスタンツェとは
 暇のあるときは、ふざけて冗談も言います。だがそれだけのこ
 とで、ほかに何もありません。ぼくが冗談を言ったひとと結婚
 しなければならないとしたら、たちまち二百人もの妻を持つこ
 とになるでしょう。            ――前掲書より
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 しかし、セシリアは、作戦を練ってモーツァルトを取り込みに
かかっているのです。そして、モーツァルトを自分の経営する下
宿に確保することに成功します。そして、さらにセシリアは、ザ
ルツブルグには帰らない方がよいなどとモーツァルトにアドバイ
スするのです。若いモーツァルトはそういうセシリアの説得に動
かされていくのです。これは、セシリアによるレオポルトからの
モーツァルトの誘拐そのものです。・・[モーツァルト/08]


≪画像および関連情報≫
 ・歌劇「後宮からの誘拐」のテーマについて
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  歌劇「後宮からの誘拐」K384を皆さんはどのような日本
  語の翻訳タイトルで呼んでいるであろうか。呼び馴れた定訳
  をお持ちの方でも、本を紐解くたびにまちまちな翻訳タイト
  ルが使われていることに困惑した経験はないだろうか。一時
  は《後宮からの誘拐》が大多数を占めていたが、最近再び諸
  訳乱立の傾向が甚だしくなり、収拾がつかなくなりそうなと
  ころまで発展している。皆さんの中にも「誘拐」という言葉
  はこのオペラの内容にそぐわないし、物騒でもあると感じる
  人は多いことであろう。しかしこの際、なぜ「誘拐」などと
  言う言葉が出てきたのか、落ち着いて考えてみるのも無駄で
  はあるまい。我々がどのタイトルでこの曲を呼んだらよいの
  かの回答が見つかるはずである。
      http://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ngc/j/k384.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

「後宮からの誘拐」のシーン.jpg
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2009年04月08日

●結婚契約書とコンスタンツェ(EJ第1931号)

 ザルツブルグとウィーンはそんなに離れてはいませんが、ミュ
ンヘンよりは遠いのです。ザルツブルグにいて大司教の許しがな
いと外に出られないレオポルトは、息子のモーツァルトがウェー
バー家に深入りしつつあることをどうして知ったのでしょうか。
 このテーマの最初のところで述べたように、レオポルトは音楽
の指導者としては大変優れており、多くの弟子がいたのです。そ
ういう弟子の大半はウィーンにおり、彼らがレオポルトに手紙で
モーツァルトの情報を詳細に伝えてくれたのです。
 しかし、セシリアのモーツァルト誘拐作戦は、計画性を持って
着々と進められたのです。コンスタンチェにいつも小ざっぱりし
た衣装を着せ、清潔感あふれる雰囲気を感じさせるよう振舞わせ
たのです。このセシリアの作戦は、モーツァルトが父に送った次
の手紙から成功していることがわかります。手紙はウェーバー家
のことを書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ひとつの家族が、一人一人、気質が全く違うのを見たことがあ
 りません。長女のヨゼファは怠け者で、粗野で、嘘つきで、狡
 猾な人間です。ランゲに嫁いだ次女アロイジアも嘘つきで、意
 地悪で、コケットです。(一部略)ところで、三女、つまりぼ
 くのやさしい、いとしいコンスタンチェは、家族のなかの殉教
 者なのです。いちばん気立てがよく、いちばん分別があり、姉
 妹のなかでいちばんいい娘です。家じゅうの面倒を見ているの
 ですが、なにひとつうまくいきません。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトがコンスタンチェを妻に迎えることに反対してい
たのは、レオポルトだけではないのです。まわりのモーツァルト
の友人は全部反対だったのです。それは、コンスタンチェがふし
だらな女であるという理由からです。
 この噂を耳にしたセシリアは危機感を持ち、相談相手のトール
ヴァルトの知恵を借りて、一世一代の大芝居を打つのです。この
助っ人のトールヴァルトは、セシリアを伴い、コンスタンチェの
後見人であると名乗ってモーツァルトに会います。そして、次の
ようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はコンスタンチェの後見人ですが、彼女はあなたとのあらぬ
 噂話や中傷に傷ついています。そこで、コンスタンチェとの今
 後の交際は、文書で約束するまで、一切お断りします。
                  ――トールヴァルトの言
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚いたのはモーツァルトです。コンスタンチェも悪くないなと
思いはじめたときに交際断絶を宣言されたので、ショックを受け
たのです。そして、どのような文書を入れるのかと聞いたところ
トールヴァルトは次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ヴォルフガング・モーツァルトは、コンスタンチェ・ウェーバ
 ーと2年以内に結婚する義務を負うものとします。もし双方に
 それが不可能な事情が起き、考えが変わった場合、罰金として
 300フロリンを毎年支払います。     ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ひどい話です。普通の常識ある人であれば、即座に結婚をあき
らめたでしょうが、モーツァルトは違ったのです。彼は即座にそ
のように文書を書き、トールヴァルトに渡したのです。彼はそれ
を一読すると、セシリアに渡して引き上げます。
 しかし、セシリアと後見人の計画はさらに手の込んだものだっ
たのです。こういう連中の手にかかると、純情なモーツァルトな
ど赤子の手をひねるように簡単に騙されてしまいます。
 そこにコンスタンツェが現れます。モーツァルトは彼女に結婚
契約書を書いた事情を話すと、コンスタンツェは母親に文書を見
せるようにいい、それを破り捨ててしまうのです。そして、モー
ツァルトに次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトさん。私はあなたを信じています。こんな契約書
 なんかいりません。あなたの言葉だけで結構です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このコンスタンツェの言葉にモーツァルトが喜んだのはいうま
でもありません。しかし、すべては芝居だったのです。後見人の
トールヴァルトはそこまでの筋書きを書いていたのです。まんま
とモーツァルトは騙されてしまったのです。
 モーツァルトについて知ろうとするとき、モーツァルトがどう
いう人間だったのかということと、妻のコンスタンツェについて
詳しく知っておく必要があります。
 現在、モーツァルトにかかわるいろいろな手紙や文書、逸話を
分析すると、コンツタンツェがいかにモーツァルトを愛していな
かったことが明らかになっています。
 モーツァルトが死んだとき、最低ランクの葬式を出し、墓さえ
も作らなかっただけでなく、ニッセンという男と早々と再婚し、
モーツァルトの作品から入る資金などで、贅沢な暮らしをしてい
るのです。アロイジアさえもできなかった暮らしをです。
 モーツァルトの死後30年経ったある日、ある夫妻がコンスタ
ンツェに会ったとき、モーツァルトが愛用していた金時計を見せ
てもらったそうです。夫妻が熱心に見ていると、コンスタンツェ
は「よかったら、それ上げますよ」といったというのです。
 そんな恐れ多いことを・・と夫妻は遠慮したのですが、本当に
コンスタンツェがモーツァルトを愛していたのであれば、世界的
な音楽家になった夫の遺品を簡単に人にくれてやることなことは
しないでしょう。コンスタンツェは最初からモーツァルトを金づ
るとしてとらえ、一世一代の大芝居まで打って、モーツァルトと
結婚したのです。       ・・・[モーツァルト/09]


≪画像および関連情報≫
 ・世界の3大悪女とは誰か
  ―――――――――――――――――――――――――――
   1.モーツァルトの妻 ・・・・・・・ コンスタンツェ
   2.哲学者ソクラテスの妻 ・・・・・ クサンティップ
   3.文豪トルストイの妻 ・ソフィア・アンドレーエヴナ
  これら有名人の妻達にはなぜか悪妻が多いようである。天才
  であるがゆえに凡庸な女性では飽き足らず“やや難しい”女
  性を選んでしまう運命なのであろうか。モーツァルトを愛す
  る者たちにとって、その妻を悪く書く事はためらわれ、良い
  人物として解釈したいものである、しかしそれでは、本当の
  モーツァルトの姿は見えてこない。後世の人々から“悪妻の
  レッテル”を貼られてしまうには、どんな訳、どんな事実が
  あったのであろうか。
  http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/konstanz.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

コンスタンツェ・モーツァルト.jpg
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2009年04月09日

●ハイドンと親交のあったモーツァルト(EJ第1932号)

 モーツァルトが結婚するまでの経緯を9回にわたって述べてき
ました。結婚当時モーツァルトは26歳になっていたのです。結
婚以前のモーツァルトと以後のモーツァルト――その作品も運命
も大きく異なるのです。いわゆるモーツァルトの名作といわれる
作品のほとんどは結婚後の11年間に作られています。
 モーツァルトがコンスタンツェと結婚したのは1782年8月
4日のことです。モーツァルトの結婚に反対し続けた父のレオポ
ルトは結婚の一日前に結婚同意書をモーツァルトに送っており、
モーツァルトのもとには挙式後に届けられています。
 映画『アマデウス』でしかモーツァルトについて知らない人は
モーツァルト夫妻と父との関係について大きな誤解をしてしまう
ことになります。
 映画では、モーツァルトは父の反対のままコンスタンツェと結
婚し、その何年か後に父がウィーンのモーツァルトのアパートを
訪ねたとき、はじめてコンスタンツェを紹介したことになってい
ます。そして、家の中が片づいていない、だらしないなど何かと
口うるさい父に対して、コンスタンツェは腹を立て、喧嘩になっ
て父が憤然とザルツブルグに帰ってしまうのですが、事実はかな
り異なるようなのです。
 1783年7月には、モーツァルトはコンスタンツェと一緒に
ザルツブルグに行き、レオポルトと会っています。モーツァルト
にとって、父との和解は精神的に大きな開放感をもたらし、以後
名作が増産されているのです。しかし、夫婦のザルツブルグ訪問
の間に、その直前に生まれた第一子は死亡してとまうという不幸
もあったのです。
 モーツァルトとコンスタンツェの間には、6人の子供が生まれ
ているのですが、次男と四男の2人しか育っていないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   次男 ・・・・・    カール・トーマス
   四男 ・・・・・ フランツ・クサーヴァー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトの子供のことはあまり話題にはなりませんが、と
くにこの四男の「フランツ・クサーヴァー」の名前を覚えておい
ていただきたいのです。
 1785年2月11日にレオポルトは、ミュンヘンを経て息子
のウィーンの新居を訪れています。そのときの新居の模様をレオ
ポルトは娘のナンネルに当てた手紙で次のように伝えています。
映画におけるモーツァルトの住居とは大きく異なっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 お前の弟の住居は、必要な家具が全部そろっている非常に立派
 なものだ。家賃は460フロリンも払っている。ウィーンに着
 いたその晩、あの子の第1回予約演奏会に出かけた。貴族階級
 の人たちが大勢顔を見せていた。演奏会はすばらしかった。
               ――レオポルト・モーツァルト
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに次の2月12日には、ヨーゼフ・ハイドンがモーツァル
ト宅を訪れて、レオポルト同席のもとでモーツァルトがハイドン
に捧げた6つの弦楽四重奏曲のうち、後半の3曲(17番〜19
番)の演奏が行われています。ハイドンとモーツァルトは、お互
いに啓発し合う間柄で、モーツァルトは「ハイドン・セット」と
いわれる次の6つの弦楽四重奏曲を書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ハイドンセット第1曲 → 弦楽四重奏曲第14番  ト長調
 ハイドンセット第2曲 → 弦楽四重奏曲第15番  ニ短調
 ハイドンセット第3曲 → 弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調
 ハイドンセット第4曲 → 弦楽四重奏曲第17番 変ロ長調
 ハイドンセット第5曲 → 弦楽四重奏曲第18番  ト長調
 ハイドンセット第6曲 → 弦楽四重奏曲第19番  ハ長調
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このとき、ハイドンはレオポルトに対してモーツァルトのこと
を次のようにいっています。ハイドンは当時50歳を越えていた
はずです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は誠実な人間として神に誓って申し上げます。あなたの息子
 さんは、私が個人的に知っている、あるいは名前だけ知ってい
 る作曲家のなかで最大の作曲家です。彼は審美眼があり、作曲
 にも深い造詣を持っています。   ――ヨーゼフ・ハイドン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レオポルトは、このウィーン訪問のとき既に生まれていた次男
のカール・トーマスを抱いています。そして、自らが鬼婆と罵っ
たセシリア・ウェーバーにも会って、食事を共にしています。
 レオポルトは、そのときの感想もナンネルに手紙を送っていま
すが、セシリアの料理のうまさを次のように褒めています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 お前の弟の義母ウェーバー夫人(セシリア)と木曜日に昼食を
 一緒にした。食事はぜいたく過ぎもせず、粗末過ぎもしなかっ
 た。完璧な料理で、焼肉はふとった雉だったし、どれもこれも
 見事な出来栄えだった。          ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画とは大違いです。映画ではコンスタンツェは家の中の掃除
をせず、家事を放り出してしまっています。一方、モーツァルト
は酒びたりで、連夜パーティに明け暮れるというイメージでした
が、レオポルトの見たウィーンでのモーツァルトは、連日演奏会
に明け暮れ、あとの時間はすべて教えることと作曲に当てられて
いる――そういう超多忙のモーツァルトだったからです。
 それならば、なぜモーツァルトは、お金に不自由していたので
しょうか。これほど、仕事が忙しければ少なくとも借金を重ねる
ことにはならないはずです。 ・・・・[モーツァルト/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ハイドン・セットについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイドン・セット(全6曲)は、モーツァルトが作曲した弦
  楽四重奏曲集である。まとめて、ハイドンに献呈されている
  ので「ハイドン・セット」と呼ばれる。モーツァルトが2年
  あまりを費やして作曲した力作と知られ、古今の弦楽四重奏
  曲の傑作として親しまれている。
   ●作曲 1782年12月〜1785年1月
   ●献呈 ヨーゼフ・ハイドン
   ●編成 ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヨーゼフ・ハイドン.jpg
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2009年04月10日

●3大オペラとフランス革命の精神(EJ第1933号)

 このあたりから、「モーツァルトは果たして殺されたのか」と
いう謎の解明に入っていきます。モーツァルトは若くして病死し
たことになっていますが、モーツァルトは毒殺されたとする説が
根強くあるのです。
 モーツァルトとコロレド大司教との確執、コンスタンチェとの
結婚、超多忙の仕事にもかかわらず多大の借金による生活苦、3
大オペラの作曲など――そういうものがすべてモーツァルトの死
に深くかかわってくるのです。
 ここで、モーツァルトの3大オペラとは次の作品であり、モー
ツァルトの謎の解明には研究が不可欠なオペラです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌劇『後宮からの誘拐』 ・・・・・ 1782 → 自由
 歌劇『フィガロの結婚』 ・・・・・ 1786 → 平等
 歌劇『魔笛』 ・・・・・・・・・・ 1791 → 友愛
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なぜ、3大オペラが重要な意味を持つのかというと、その基本
テーマがフランス革命やフリーメーソンのスローガンと一致する
からです。さらに、歌劇『フィガロの結婚』はイタリア語ですが
歌劇『後宮からの誘拐』と歌劇『魔笛』はドイツ語で書かれてい
ること――つまり、生粋のドイツオペラであることです。
 歌劇『後宮からの誘拐』をイタリア語で書くか、ドイツ語で書
くかを議論するシーンは映画『アマデウス』にあります。皇帝ヨ
ーゼフ2世がモーツァルトにはじめて会うシーンでです。
 サリエリが作曲したモーツァルトの入場のマーチを皇帝がたど
たどしく弾いている――そこにモーツァルトが入ってくる、あの
シーンです。そのとき、皇帝とモーツァルトはドイツ語のオペラ
を作ろうということで意見が一致します。
 当時オペラはイタリア語で書くことが常識であったので、その
場にいた宮廷楽長のサリエリをはじめ、3人のイタリア人の音楽
教師は全員反対し、結論は出なかったのです。
 しかし、次回にモーツァルトが皇帝に会ったとき、その前と同
じメンバーがいたのですが、そこでは皇帝が自ら「ドイツ語でや
ろう」ということで結論を出したのです。本格的なドイツ・オペ
ラ誕生の瞬間です。
 『後宮からの誘拐』は5回上演されましたが、大成功だったの
です。さらに年は違うが、モーツァルトと同時代の作曲家である
クリストフ・ヴィリバルト・グルックは、このオペラが大変気に
入り、たっての希望で6度目の上演が行われたのです。
 その後、『後宮からの誘拐』はブルグ劇場で15回上演された
のです。そして1785年までに初演されたのは、プラハ、ワル
シャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ、
マンハイム、カールスルーエ、ケルン、ザルツブルグ、ドレスデ
ン、ミュンヘンなどで、モーツァルトの生前中に最も多く上演さ
れたオペラとなったのです。
 『後宮からの誘拐』の成功に大衝撃を受けたのは、サリエリら
のイタリアの宮廷音楽師たちです。皇帝の決定でドイツ語のオペ
ラが作られたこと、さらにそのオペラが極めて優れていたこと、
それにそれが大ヒットしたことによって自分たちの地位が危なく
なると本気で怖れたのです。このときから、彼らのモーツァルト
に対する陰湿きわまる妨害工作がはじまるのです。
 ところでこの『後宮からの誘拐』にはそのエンディングに意外
性があります。戯曲を作成したのはブレッナーという人ですが、
モーツァルトが選んだ台本作家のシュテファーニは、内容を大幅
に変更しているのです。
 当時は著作権があまり厳しくなかったので、原作は大幅に改訂
されることが多かったのです。細かな改訂は多くありますが、第
3幕を大幅に変更しています。
 コンスタンツェを救い出そうとして、太守ゼリムの屋敷に忍び
込んだスペインの青年貴族ベルモンテは、原作では実は太守の子
供という設定になっているのです。そのためにすべての罪が許さ
れるという結末になっているのです。
 モーツァルトと台本作家のシュテファーニは、ベルモンテを太
守の子供ではなく宿敵の子に変えています。そのうえで太守ゼリ
ムがそのうえですべてを許す方が劇的であり、意外性が増すと考
えたからです。
 貴族中心の社会である18世紀末において、宿敵の子でさえも
許す太守の寛容の精神――これこそが真のキリスト教の精神に通
じるとモーツァルトは考えたのです。そして、これがモーツァル
ト最後のオペラ『皇帝テイトの慈悲』につながってくるのです。
 モーツァルトが次に目をつけたのが、ボーマルシェの喜劇「た
わけた一日、あるいはフィガロの結婚」の台本なのです。この劇
がコメディ・フランセーズで行われたのが1784年4月27日
のことです。
 貴族のプライドを傷つける揶揄に満ちたこの作品は評判になり
ハプスブルグ家からルイ16世の王妃となったマリー・アントワ
ネットの熱心な勧めで国王もこの劇を鑑賞したのです。
 しかし、ルイ16世は劇の途中から怒り狂ったのです。そして
終幕を前にして、国王は次のように叫んだといわれます。
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 汚らわしい!こんな危険な作品を上演するのは、バスティーユ
 (政治犯の収容所)を取りこわすのも同じだ!上演禁止!
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもなく、「たわけた一日、あるいはフィガロの結婚」
は歌劇『フィガロの結婚』の原作です。モーツァルトは、これを
ドイツ語でオペラにしようとしたのです。戯曲を上演しようと計
画したのがシカネーダー一座だったのです。実はこの戯曲は、フ
ランス革命の引き金のような役割を果たす作品となるのであり、
そのオペラ化は危険な試みといえます。[モーツァルト/11]


≪画像および関連情報≫
 ・グルックとサリエリ
  クリストフ・ヴィリバルト・グルックは、18世紀にオース
  トリアとフランスで活躍したオペラの作曲家。バレエ音楽や
  器楽曲も手懸けたが、現在では歌劇『オルフェとエウリディ
  ーチェ』によって、中でも間奏曲〈精霊たちの踊り〉によっ
  てとりわけ有名。
  アントニオ・サリエリは、グルックと同様に16世紀に活躍
  したイタリアのレガノ生まれの作曲家である。サリエリは同
  時代には世間からかなりの賞賛を得ていた。幼少のころから
  たぐいまれな才能を顕わしたあと、1766年にウィーンの
  宮廷に宮廷へ招かれた。それ以後ウィーンにとどまり、17
  88年には宮廷作曲家に任命され、亡くなる直前の1824
  年までその地位にあった。      ――ウィキペディア

グルックとサリエリ.jpg
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2009年04月13日

●台本作家ダ・ポンテとカスティの戦い(EJ第1934号)

 モーツァルトの快進撃に怖れを抱いたサリエリ宮廷楽長以下の
イタリアの音楽貴族たちは、目立たないようにモーツァルトの演
奏会を潰しにかかったのです。つまり、兵糧攻めにして、モーツ
ァルトの作曲意欲を削ごうとしたのです。
 その効果は目に見えて顕著になり、あれほど多忙であった演奏
会は減少の一途をたどったのです。1785年のことです。これ
によりモーツァルト家の家計は逼迫の度を深めていったのです。
当時は、現在と違って、作曲はお金にならなかったのです。
 聴衆も同じ曲を何回も聴くよりもつねに新しい曲を求め、作曲
家は次々と新しい曲を作り続けることが求められたのです。した
がって、多くの駄作も生まれています。音楽家としては、作曲よ
りも演奏の方がお金になったのです。
 モーツァルトは新しいオペラを作曲して現状を打開しようと、
必死になって優れた台本を求めていたのです。そのとき目をつけ
たのが、ボーマルシェの戯曲「たわけた一日、あるいはフィガロ
の結婚」なのです。ルイ16世から上演禁止の処分を受けた、あ
の作品です。
 ここでモーツァルトは、ダ・ポンテというイタリア人の台本作
家と出会うのです。そのときウィーンの宮廷には、ジョヴァンニ
・パティスタ・カスティという台本作家がもてはやされていて、
サリエリらの作品の台本を書いていたのです。
 ダ・ポンテにとってカスティはライバルであり、何とかして追
い落としの機会を狙っていたのです。そういうときにダ・ポンテ
はモーツァルトに出会うのです。モーツァルトとしてダ・ポンテ
は、ウィーン宮廷音楽家と対抗するための格好の台本作家であり
ダ・ポンテとしてもモーツァルトと組むことで、カスティの追い
落としはできると考えたのです。
 問題は上演禁止となっている戯曲をどの部分を削るかにあった
のです。モーツァルトとダ・ポンテは密かに何回も会って、打ち
合わせを行ったのです。そして、原作を全面的に改訂し、政治的
部分は全部取り除き、ドイツ語ではなくイタリア語で書くことに
決め、ヨーゼフ2世に直訴したのです。この部分は映画『アマデ
ウス』では、次のような話になっているのです。サリエリらの悪
辣さを強調するためでしょう。
 サリエリはモーツァルトが何をしているのかを探るため、モー
ツァルト家に召使を送り込むのです。モーツァルトの支援者が匿
名で召使の給料を支払うという申し出です。その申し入れに対し
そのとき、たまたまモーツァルト家に来ていたレオポルトは強く
反対します。見ず知らずの他人を不用意に家に入れることは反対
だというのが理由です。もっともな話です。
 このかたくなな父の態度に腹を立てたコンスタンツェはレオポ
ルトに食ってかかるのです。モーツァルトはみんなの期待の星で
あり、そういう支援者はたくさんいるのだというわけです。そう
いう経緯でコンスタンツェはその召使を受け入れるのです。
 サリエリは、召使にモーツァルト夫妻が留守のときを教えるよ
うにいい、その留守に乗じてモーツァルト家に入り込むのです。
そして、書きかけの歌劇『フィガロの結婚』の譜面を発見し、ヨ
ーゼフ2世に対し、モーツァルトが上演禁止となっている戯曲を
オペラ化しようとしていることを告げ口するのです。
 おそらくこの話は作り話であると考えます。しかし、それほど
までにサリエリらがモーツァルトを危険人物視していたことを示
したかったので、作ったエピソードであろうと思います。
 資料によると、ヨーゼフ皇帝には台本作家のダ・ポンテが進言
したことになっています。真木洋三氏の本には、次のように書い
てあります。「ポ」はダ・ポンテ、「皇」は皇帝です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポ:ボーマルシェの原作を全面的に改作し、顰蹙を買う部分は
   すべてカットします。
 皇:本当に責任をもって、そうするか?
 ポ:必ず、皇帝陛下のお気に召すようつくり直してみせます。
 皇:作曲は誰がする?
 ポ:ヴォルフガング・モーツァルトであります。
 皇:うむ、面白い。上演禁止のおふれを撤回しよう
 ポ:陛下の御寛容の精神にそいまして、永遠に光芒を放つ不朽
   の名作を必ずつくってみせまする。
 皇:楽しみに待っておるぞ
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌劇『フィガロの結婚』の制作が決まったことに危機感を抱い
たサリエリらは、オペラの評価を下げるためのあらゆる妨害をは
じめたのです。その有名なもののひとつにバレエ音楽削除の要求
があります。これは実際にあったことで、映画『アマデウス』で
もそのシーンはあるのです。大変印象的なシーンです。
 歌劇『フィガロの結婚』の内容をチェックする目的もあって、
ヨーゼフ皇帝はよくリハーサルには顔を出したのです。モーツァ
ルトは、皇帝が見えるたびにフィガロの何曲かを演奏してみせ、
皇帝もそれを楽しみにしていたのです。
 ある日皇帝がやってくると、舞台ではバレリーナがパントマイ
ムのようなことをやっているのを見て、皇帝は「これは何だ」と
尋ねるのです。サリエリらは、フィガロにはバレエシーンがあり
かつて皇帝がバレエ音楽を入れるなといったことを理由として、
その部分をモーツァルトに削除をさせたと説明します。
 皇帝は「馬鹿ばかしい。音楽を入れよ」と命令します。待って
いましたとばかりモーツァルトが音楽を入れると、そこに見事な
バレエ・シーンが展開されます。誰しもがモーツァルトの音楽の
価値を納得できるシーンです。これによって、モーツァルトの音
楽は1つの音符も抜けないほど、完璧であることがわかったとい
えます。しかし、皇帝はしだいにサリエリらの執拗な戦略に取り
込まれていってしまうのです。 ・・・[モーツァルト/12]


≪画像および関連情報≫
 ・歌劇『フィガロの結婚』解説/池田博明氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アルマヴィーヴァ伯爵の屋敷のなかで、浮気騒動や不倫騒動
  が起こる劇で、モーツアルトの音楽だけでなく、ダ・ポンテ
  の台本もよく出来ている。特に第二幕、ロジーナの衣装室か
  らケルビーノが逃走した後、幕切れに至るまで次々に起こる
  ドンデン返しは傑作だった。これまでにこの歌劇を通しでき
  ちんと見ていなかった私にもあらためて、この作品の人気が
  高い理由がよく分かったのである。ポンネルの映像版は登場
  人物の内的独白では、映像のなかの人物に口を開かせないと
  いう演出で、凝りに凝っている。この歌劇の音楽の牽引役は
  終始出ずっぱりで、いつも一番高い音を取っているスザンナ
  である。しかし、真の主役は伯爵夫人という意見もある。
    http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/music/figaro.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

『フィガロの結婚』の1シーン.jpg

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2009年04月14日

●ウィーンでの初演の妨害陰謀工作(EJ第1935号)

 歌劇『フィガロの結婚』の初演の日は、実ははっきりしていな
いのです。関連する諸資料を調査したところ、次の日が正しいと
考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       歌劇『フィガロの結婚』
       完成:1786年 4月29日
       初演:1786年 5月 1日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌劇『フィガロの結婚』の初演は、サリエリ一派の妨害工作に
よって満足のいくかたちでの成果は得られなかったといえます。
歌手たちは指揮者モーツァルトの指示に従わず、いい加減に歌っ
たので、モーツァルトは一幕が終わると、皇帝にそのことを訴え
たといいます。皇帝は歌手たちに対して「本文をわきまえろ」と
叱責したので、二幕以降は何とかオペラを続けることができたと
いうのです。
 しかし、最上階に陣取る一派は、ありったけの力をこめて大声
を出すなど、歌手や観客の耳を塞ぐ妨害工作を行ったのです。何
が何でも成功させないという妨害です。しかし、公平無私の音楽
通たちからは、これが並みの音楽ではないとわかったので、何回
もブラヴォーの声がかかったのです。
 1786年5月11日付の「ウィーン新聞」は、歌劇『フィガ
ロの結婚』の初演について次のように報じています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 聴衆は初演の日は、実際、どういう態度をとるかわかりかねて
 いた。偏見をもたない観客からは多くのブラヴォーの叫び声が
 挙がったが、最上階に陣取った騒々しい無骨者どもが、かれら
 の金づくりの肺――金を払って動員された連中の肺の意――を
 用いて、あらんかぎりの怒号を浴びせ、歌手の声も聴こえなく
 してしまった。その結果、最後まで――このオペラへの聴衆の
 ――態度は分裂したままであった。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新・田口孝吉訳
      『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、評価の定まらぬままで5月3日に再演、続いて8日に
3回目の上演が行われたのです。このときは、7曲ものアンコー
ルが続き、アンコール禁止令が出される騒ぎとなったのです。
 その後、5月24日に4回目が上演された後は、8月、9月、
11月に各1回ずつというようになり、12月18日に上演され
た後は、ウィーンでの上演は陰をひそめてしまうのです。
 しかし、歌劇『フィガロの結婚』について正しい評価を下して
いた音楽家は多くいたのです。あのリヒャルト・ワーグナーもそ
の1人です。ワーグナーは、この作品について、次のように述べ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『フィガロの結婚』は実に自信にあふれた傑作である。モーツ
 ァルトは、イタリア・オペラ・ブッファの確固とした基礎のう
 えに見事な構築物を築き上げた。だからこそ彼に削除を求めて
 きた皇帝に対し一音符たりとも取り除くことは出来ないと正当
 にも断言したのである。イタリア人作曲家たちが楽曲間に月並
 みなつなぎ楽句としていたものを、モーツァルトは舞台進行、
 音楽進行に徹底して活気をもたらすために応用した。(中略)
 陰謀と即妙な機転が仮借のない闘いを広げるのである。
                ――リヒャルト・ワーグナー
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このワーグナーの批評の中で「彼に削除を求めてきた皇帝に対
し、一音符たりとも取り除くことは出来ないと正当にも断言」と
あるのは、皇帝が「大変素晴らしいが、音が少し多過ぎる」と感
想を述べたことに対するモーツァルトの反論のことです。
 サリエリをはじめとするイタリア宮廷音楽家たちは、オペラの
中の楽曲と楽曲の間に、全体との構成をあえて考えずに対話とし
てつなぎ楽句を入れていたが、『フィガロの結婚』ではその部分
も完全な音楽と化しており、音楽それ自体が対話となっているこ
とを指摘しています。つまり、モーツァルトの音楽は一音符たり
とも取り除くことは不可能なほど完璧なのです。
 しかし、ウィーンでは、サリエリらの想像を絶する妨害により
思うような成果が上げられなかったことを受けてモーツァルトは
たまたま誘いがあったこともあり、プラハで『フィガロの結婚』
の上演をしようと決意するのです。
 『フィガロの結婚』の内容自体が、伯爵の陰謀を巧妙なフィガ
ロの機転で切り抜けるという話ですが、モーツァルトもサリエリ
ら貴族の陰謀を機智で排除することに意欲的だったのです。ワー
グナーが「陰謀と即妙な機転が仮借のない闘い」と表現したのは
モーツァルトの貴族に対する闘いを意味していると思われます。
 しかし、比較的モーツァルトに好意的なヨーゼフ皇帝にしても
貴族の一員であり、ウィーンにおけるモーツァルトの壮絶な闘い
は、どうしてもモーツァルトには不利であったといえます。
 1786年12月、プラハから『フィガロの結婚』の上演の話
がきたのです。モーツァルトは、コンスタンツェも連れて、17
87年1月早々にプラハに旅立ちます。そして1月17日に『フ
ィガロの結婚』の上演が行われていますが、これにはモーツァル
トは指揮をしていないのです。
 19日にはモーツァルト自身のコンサートが国立劇場で行われ
交響曲第38番ニ短調「プラハ」が披露されたのです。その後ク
ラヴィアによる即興演奏が行われ、その中で『フィガロの結婚』
のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をモーツァルトが演奏し
たところ、劇場は大歓声につつまれたのです。そして、3日後の
22日、モーツァルトの指揮で『フィガロの結婚』が上演され、
大成功を収めたのです。    ・・・[モーツァルト/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨーゼフ2世について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  神聖ローマ帝国皇帝。在位は1765〜1790年。フラン
  ツ1世とマリア・テレジアの子、マリー・アントワネットの
  兄に当たる。父帝フランツ1世の死後、母マリア・テレジア
  とともに共同統治を行う。啓蒙思想のの影響を受けながら、
  絶対主義の君主であろうとした啓蒙専制君主の代表的人物で
  あった。その急進的改革ゆえ、「民衆王」、「皇帝革命家」
  などのあだ名がある。        ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

皇帝ヨーゼフ2世.jpg
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2009年04月15日

●モーツァルトとフリーメーソン(EJ第1936号)

 1787年1月22日のプラハでの、モーツァルト指揮による
『フィガロの結婚』の上演は記録に残るほどの大盛況であったと
モーツァルトの伝記記者の一人であるニーメチェクは、次のよう
に伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このときほど劇場(国立劇場)が満員になったことは、かつて
 一度もなかった。非凡な作品、非凡な演奏が一体となって、劇
 場は恍惚感に惹きこまれた。甘美な魔術ともいうべきか。音楽
 会の最後に、半時間以上も即興演奏を行い、恍惚感を絶頂にも
 たらした時、高い喜びにあふれた喝采となった。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最後の演奏が終っても拍手は鳴りやまなかったのです。そのと
き聴衆の一人が「フィガロから何かを弾いて」と叫んだのです。
モーツァルトはクラヴィアに座り直すと、「もう飛ぶまいぞ」を
弾き、その場でそれを主題とする12曲の演奏曲を即興演奏で弾
いてのけたのです。聴衆の熱狂ぶりが見えるようです。
 プラハの人たちのこれほどの反応にもかかわらず、モーツァル
トの表情には一抹の淋しさがただよっていたといいます。心の底
から満足はしていなかったのです。彼はやはりウィーンにおいて
このよのような歓声と喝采を受けたかったに違いないのです。し
かし、ウィーンではサリエリらの陰謀と妨害によって、作品の評
価は賛否が完全に分かれたのです。
 プラハの興行師パスクワーレ・ボンディーニは、モーツァルト
に次のシーズンにぜひオペラを一曲書いて欲しいと依頼します。
モーツァルトはこの依頼を引き受け、そして作曲されたのが、ダ
・ポンテの台本による歌劇『ドン・ジョバンニ』なのです。
 しかし、この年1787年5月にはモーツァルトの表情をもっ
と暗くさせる悲報がもたらされます。父レオポルトの死です。こ
の時点で既にモーツァルトの父への手紙は非常に少なくなってい
たのですが、それでもそれによってモーツァルトの心の動きを窺
い知る貴重な資料だったのです。しかし、父の死によって当然手
紙はなくなるわけで、モーツァルトの心情を探る手ががりが完全
に消失してしまったことを意味します。
 ここで、モーツァルトがフリーメーソンの会員になった経緯に
ついて述べておくことにします。フリーメーソンは、1717年
7月にロンドンで大ロッジが創設されて以来、ロッジ組織がヨー
ロッパ中に広がったのです。
 モーツァルトが生活していたウィーンでは、皇帝ヨーゼフ2世
がフリーメーソンを容認していたので、多くの貴族が入会してお
り、一種の社交機関となっていたのです。モーツァルトも知識人
たちとの心のつながりを持ちたいと考えて入会したものと考えら
れます。
 当時、既にドイツではゲーテやレッシング、フランスではボー
マルシェやスタンダール、英国ではスウィフトが会員であったこ
ともモーツァルトの入会の動機になったと考えられますが、モー
ツァルトの場合、22歳で母を亡くしたこともあって、若いとき
から、死と向き合う姿勢を抱いていたことも入会を決断する要因
になったのです。当時のフリーメーソンは、死を恐れない強い魂
を磨き、従容として死を受け入れることを大きな課題としていた
からです。
 ウィーンでは、皇帝の容認もあり、ロッジの組織もしっかりし
ていたので、フリーメーソンは盛んだったのですが、ミュンヘン
を中心としたドイツのバイエルン地方では、選帝侯のカール・テ
オドールはフリーメーソンの禁止令を出していて、地域によって
フリーメーソンの受け入れには差があったのです。
 フリーメーソンとは、「人間はすべて平等である」と考える組
織なのです。そんなことは、現代では当たり前じゃないかという
なかれ、モーツァルトの活躍していた18世紀のヨーロッパ社会
は階層社会であり、下の階層の者は上の階層の者にまともに接す
ることはできなかったのです。
 しかし、そういう時代にあって、「人間はすべて平等である」
という思想は一般市民にとっては画期的ですが、貴族にとっては
危険思想であったといえます。そういう意味では、そういう思想
を積極的に受け入れた皇帝ヨーゼフ2世は、大変な改革派である
といってよいと思います。
 もともとマリア・テレジアはフリーメーソンを禁止していたの
です。しかし、ヨーゼフ2世が1780年に皇帝になると、彼は
禁止令を撤廃し、自らも会員になったというのです。しかし、あ
まりにも会員数が増えてくると、皇帝はそれを恐れるようになり
それに1989年7月14日にフランス革命が起こって、妹のマ
リー・アントワネットが殺されると、一転して弾圧政策を取るよ
うになります。
 戯曲『フィガロの結婚』においてボーマルシェは、フリーメー
ソンでいうところの平等の思想を次のように、フィガロのセリフ
として主張しています。もちろんこの部分は、オペラにおいては
省かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 生まれ合わせの偶然で、ある者は王として、またある者は牧童
 として誕生する。幸運が両者の運命を分かつのである。だが、
 事態を変革できるのはあくまで人の才能である。死によって、
 20人の王がとどめをさされるとしても、ヴォルテールは不死
 のままである。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、オペラの方もよく分析すると、表現こそ違うが歌に隠
れて平等の思想が主張されていることがわかるのです。モーツァ
ルトは確信犯であるといえます。・・・[モーツァルト/14]


≪画像および関連情報≫
 ・啓蒙専制君主としてのヨーゼフ2世
  ―――――――――――――――――――――――――――
  18世紀のヨーロッパ各国では、啓蒙思想が広まって新しい
  社会の息吹が聞こえていた。責任内閣制を成立させ、産業革
  命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成
  したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩
  んでいた。プロセインやロシアでも、絶対君主制の枠を超え
  るものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようと
  した啓蒙専制君主が現れた。オーストリアのヨーゼフ2世が
  貴族の特権をおさえようとしたり、宗教寛容令を出してカト
  リック教会の特権的地位を弱めようとしたことは、「絶対君
  主」が「社団」を利用して君主権を強化したことに対してそ
  の反対に「社団」の弱体化や特権剥奪によって君主権強化を
  図ったものである。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

真木洋三氏の本.jpg
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2009年04月16日

●父レオポルトの死とフリーメーソン(EJ第1937号)

 プラハでの音楽会は成功したのですが、1787年2月中旬の
ウィーンの風はモーツァルトにはひとしお冷たかったようです。
その頃のモーツァルトは、フリーメーソンに入会したことによっ
て、英国の音楽家と親しい付き合いが生まれていたのですが、彼
らはしきりとモーツァルトに英国での音楽活動を勧めたのです。
 しかし、英国行きは父に反対されます。当時の英国は物価も高
く、音楽会はシーズンがあって、ドイツやオーストリアほどの回
数が開かれないので大変だという理由からです。
 モーツァルトがそのことを英国の支援者たちに話すと、『フィ
ガロの結婚』に出演した英国の音楽家たちは、わざわざザルツブ
ルグまでレオポルトに会いに行き、少なくともマエストロ・モー
ツァルトは、ウィーンにいるよりも英国の方が充実した音楽生活
が送れることを熱心に説いてくれたのです。
 レオポルトはそのときはじめて息子がウィーンでどんな立場に
陥っているかを正確に知ったのです。それは彼が想像していたよ
りも、はるかに深刻な事態だったのです。そこでレオポルトは、
モーツァルトの英国行きを許すのです。
 モーツァルトは先生について英語を勉強するかたわら、英国で
の生活資金を稼ぐため、作曲をしたり、弟子を指導したりする忙
しい毎日を送っていたのです。そして、彼はプラハで頼まれたオ
ペラの台本をダ・ポンテに依頼します。
 しかし、ダ・ポンテにはサリエリからも台本の依頼がきていて
簡単に台本が完成する状況になかったのです。そういう1787
年4月に父レオポルトが重い病いに倒れるのです。
 このときモーツァルトが父に宛てて書いた手紙には、次のよう
な記述があります。そこには、死についてのモーツァルトの考え
方が書かれていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 死はわれわれの一生の真の最終目的なのですから、私は数年来
 人間のこの真実で最善の友と非常に親しくなって、その姿が私
 にはもうなんら恐ろしいものではなくなりました。そして、死
 こそがわれわれの真の幸福にいたる扉をひらく鍵だということ
 を学びとる良い機会を慈悲深く私に授けてくださいましたこと
 を神に感謝します。   ――父への手紙より/モーツァルト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 病人に対して死について述べることは常識的に避けるものです
が、彼は死について一種の諦観を持っていたのです。「死は人生
の最終目的である」――とても31歳の青年の死生観とは思えま
せんが、この手紙を読むと、モーツァルトが、なぜ、フリーメー
ソンに入会したかが理解できます。彼は単なる社交のためとか、
流行とかのためにフリーメーソンに入ったのではなく、まさに死
と向き合い、魂を磨くために入ったと考えられます。したがって
その態度は真面目であり、フリーメーソンのためにも多くの曲を
作っているのです。
 当時のカトリック信者にとっては、死の観念は地獄と因果応報
の恐怖をもたらすものだったのですが、フリーメーソンは、死は
避けられないものであるとして積極的に受け入れることによって
勇気と平安の心を持つことができると説いていたのです。
 このモーツァルトが父に宛てた手紙が『ドン・ジョバンニ』と
『レクイエム』に鮮明に反映されています。このモーツァルトの
死生観に影響を与えたと見られる本があります。この本は、モー
ツァルトの死後に蔵書の中から発見されたものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  モーゼス・メンデルスゾーン著
  『フェードーンあるいは魂の不死性について』/1767
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本の中にソクラテスがシミアスに対していうことばにモー
ツァルトがいっているのと同じ表現があるのです。明らかにモー
ツァルトはこの本を熟読していたものと思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 したがって、シミアスよ、真の哲人にとって、死は決して恐ろ
 しいものではない。いつでも喜んで迎えるべきものだ。肉体と
 ともにあることは、彼らにとって、どんな場合でも、煩わしい
 ものだ。というのは、彼らが自分たちの存在の真の最終目的を
 満たそうとするなら、彼らは魂を肉体から分かつことを求め、
 そして自己自身の内に魂を集めなければならない。
   ――海老沢敏著、『モーツァルトの生涯』より。白水社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 父の病気の知らせでモーツァルトが心を痛めていた1787年
4月のこと、ボンからある少年がモーツァルトを訪ねてきたので
す。その少年はモーツァルトの前で自分の覚えてきた曲を弾きは
じめたのですが、モーツァルトが機嫌が悪いのがわかると、何か
テーマを出してくれとモーツァルトに頼みます。
 モーツァルトがテーマを弾くと、少年はそれを発展させながら
素晴らしい演奏をはじめたのです。その少年についてモーツァル
トは、たまたま来ていた友人にこういったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あの少年を見ていたまえ。いつか世間を騒がせる大変な大物に
 なるだろう。              ――モーツァルト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その少年こそ、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンその人
だったのです。彼はウィーンに着くとすぐ母が病気なったという
知らせが入って、すぐボンに帰ってしまったのですが、モーツァ
ルトとはこういう出会いがあったのです。
 そして、1787年5月28日、レオポルト・モーツァルトは
亡くなったのです。モーツァルトが父の死を予感して父の得意な
ヴァイオリンの曲「弦楽五重奏曲ハ長調K516」を書いたとい
われています。そのとき、モーツァルトの置かれた状況を知って
聴くと味わい深い曲であり、ぜひとも聴くことをお勧めしたいと
思います。          ・・・[モーツァルト/15]


≪画像および関連情報≫
 ・「ソクラテスの死」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748〜1825)はルー
  ブル美術館にある「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィー
  ヌの戴冠式」などで有名な、新古典主義の歴史画家ですが、
  そのダヴィッドの作の絵の中に、「ソクラテスの死」があり
  ます。この絵は、ご覧の通り、ソクラテスに同情的な役人か
  らソクラテスがまさに毒盃を受け取ろうとしているシーンを
  描いており、集まった弟子たちが悲嘆にくれているのに対し
  て、ソクラテスだけは何か毅然とした態度で死に臨んでいる
  ようにわたしには思えます。
            http://matsuura05.exblog.jp/298487/
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ソクラテスの死」.jpg
「ソクラテスの死」
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2009年04月17日

●2つの弦楽五重奏曲と対比する交響曲(EJ第1938号)

 昨日のEJの最後に弦楽五重奏曲に言及したので、モーツァル
トの弦楽五重奏曲について知っておいても損のない話をしたいと
思います。
 クラシックファンでも、室内楽曲というと敬遠してしまう人が
少なくないようです。地味ですし、聴いていると眠くなってしま
うからでしょうか。
 しかし、モーツァルト・イヤーの今年にぜひ聴いていただきた
い室内楽曲に次の2つがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.弦楽五重奏曲ハ長調K515 ・・・・ 1787年
 2.弦楽五重奏曲ト短調K516 ・・・・ 1787年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトの五重奏曲は弦楽器だけで演奏されるものは6曲
あるのですが、その編成は次のようになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ヴァイオリン 2 ヴィオラ 2 チェロ 1
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記2曲の弦楽五重奏曲がなぜ注目されるのかというと、モー
ツァルトの死の3年前に完成している3大交響曲のうちの次の2
曲と対比されるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 交響曲第40番ト短調K550 ・・ 弦楽五重奏曲ト短調
 交響曲第41番ハ長調K551 ・・ 弦楽五重奏曲ハ長調
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 見ていただくとわかるように、弦楽五重奏曲と交響曲の調性が
一致しています。父レオポルトが死んだ1787年にこれらの弦
楽五重奏曲が作曲され、次の年の1788年に交響曲の2曲が完
成しているのです。
 もっとも3大交響曲には第39番変ホ長調K543も同じ17
88年に作られており、しかも、6月に第39番、7月に第40
番、8月に第41番と、まるで狂ったように立て続けに作曲され
ているのです。そして、交響曲第41番の「ジュピター」に至っ
ては、もうこれで終わりだといわんばかりに、精一杯エネルギー
を注ぎ込んで作られています。まるで、自分が死ぬのを悟ってい
たかのようなのです。
 弦楽五重奏曲ト短調は、明らかに父の死を意識しているように
思えます。第1楽章はヴァイオリンとヴィオラで、何か焦ってい
るような、駆り立てられているような旋律で始まりますが、モー
ツァルトは父に語りかけているのです。それは、すぐにヴィオラ
とチェロに受け継がれるのですが、このあたりは交響曲第40番
の有名な出だしにちょっと似ています。
 弦楽五重奏曲ハ長調は、モーツァルトの全器楽作品中最大規模
を有する名曲であり、交響曲第41番「ジュピター」に似て、旋
律法、形式観ともに揺るぎなく、君臨する王者の風格を備えてい
るといわれます。アインシュタインは、この作品について次のよ
うに述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    誇らかで、王者のようで、宿命をはらんでいる
               ――アインシュタイン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトのト短調とハ長調の交響曲は多くのコンサートで
取り上げられ、数知れない人が聴いています。それならば、その
前の年――レオポルトが死亡した年に作曲された2つの弦楽五重
奏曲を交響曲と合わせて聴いてみるのも一興ではないかと思いま
す。これらの2曲の弦楽五重奏曲は、モーツァルトの室内楽作品
のうちの最高傑作であるといってよいと思います。
 モーツァルトにとって、父の死亡した1787年という年は、
悪いことばかりが重なった年ではなかったのです。プラハで作曲
を依頼された歌劇『ドン・ジョバンニ』が好評だったことは、良
かったことの第1です。
 このオペラは、1787年10月29日にプラハで初演され、
最大級の賛辞で迎えられたからです。モーツァルトはこの上演料
として、900フローリンを受け取っています。1フローリンは
現在の日本円で1万円と考えればよいのです。あれだけのオペラ
で900万円は安いと思いますが、この時代の音楽家の収入につ
いては、改めて取り上げたいと思います。
 モーツァルト夫妻がプラハからウィーンに帰ってきたとき、も
うひとつ良いことがあったのです。それは、宮廷作曲家に任命さ
れたことです。1787年11月に、宮廷作曲家の地位にいたグ
ルックが死去し、皇帝ヨーゼフ2世がモーツァルトを後任に任命
したのです。しかし、年俸は800フローリンでした。
前任者のグルックは年俸2000フローリンだったのですが、年
齢が若いということで半分以下にされてしまったのです。
 もうひとつの良いこととは、父レオポルトがモーツァルトのた
めに1000フローリンを残してくれたことです。実はこのお金
については、レオポルトは死の病床で娘のナンネルに「コンスタ
ンツェに知られないようにモーツァルトに渡せ」といって託され
たものなのです。レオポルトは最後までコンスタンツェを信用し
ていなかったのです。
 このように1787年は、モーツァルトにとって順調にお金が
入った年なのです。これによって、モーツァルト家はそれまでの
郊外の借家住まいから、都心部に住居を移しています。当時モー
ツァルト家は、女中を含む大人4人、子供2人の生活であり、も
てなしも多かったようです。
 しかし、モーツァルトはかなりの高額所得者であり、普通に暮
らせば十分生活ができたはずです。にもかかわらず、モーツァル
トは、次の年の1788年から、かなり多額の借金を重ねること
になるのです。1788年からモーツァルトが亡くなる1791
年までは謎の4年間といわれているのです。しかし、作品の充実
度は群を抜いているのです。  ・・・[モーツァルト/16]


≪画像および関連情報≫
 ・弦楽五重奏曲ハ長調K515/弦楽五重奏曲ト短調K516
  K515は第3番、K516は第4番という番号が付いてい
  るが、一枚のCDで両方を聴くことができる。
    ――――――――――――――――――――――
     モーツァルト/弦楽五重奏曲第3番・第4番
     スメタナ四重奏団/ヨゼフ・スーク
              1976年デジタル録音
    ――――――――――――――――――――――
 ・レビュー/第3番の演奏は出だしからゆったりとした流れで
  聴いていてとても落ち着きます。メロス四重奏団やアルバン
  ベルク四重奏団の演奏と比べると、その違いがよくわかりま
  す。この2曲の関係は調性が同一のためか、しばしば交響曲
  第40番と第41番との関係になぞられます。「ほぼ同時期
  にこのようなまったく性格の相反する作品を同時に書くこと
  ができるモーツァルトは天才だ」というのはよく語られてい
  る話ですが、この弦楽五重奏曲K515、K516の作品に
  おいて如実に感じとることができます。

歌劇『ドン・ジョバンニ』.jpg
歌劇『ドン・ジョバンニ』
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2009年04月20日

●貴族とイタリア系音楽家の陰湿な工作(EJ第1939号)

 30歳を超える頃から、モーツァルトは生活に困窮しはじめる
のです。その頃のモーツァルトについて調べていると必ず出てく
る次の名前があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ヨハン・ミヒャエル・ブフベルク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ブフベルクは、生活に困窮しているモーツァルトの家計を経済
的に支え続けた人物なのです。彼は酒類の販売などで成功し、新
興ブルジョア階級を代表する裕福な商人であって、無類の音楽好
きだったのです。モーツァルトとはフリーメーソンの同志であり
固い絆で結ばれていたのです。ちなみにモーツァルトがフリーメ
ーソンに入会したのは、1784年12月14日のことです。
 モーツァルトはお金に窮するたびに、全15回にわたってブフ
ベルクにお金の無心をしているのですが、それに対してブフベル
クは、ほとんどそのつど応えているのです。
 モーツァルトがブフベルクについて書いているものは少ないの
ですが、互いにフリーメーソンの会員であることを強調した次の
文があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私にとって最も重大な件で、心をすっかりうちあけました。す
 なわち、真の同志として振るまったのです。このうえなく率直
 になれますのは、真の同志にたいしてだけです。・・もしその
 ひとが真の友、すなわち同志であり、もし真の同志であるなら
 ば、私自身もそうするだろうように、その人にできるなら友人
 を援助するだろう人、そういう人だとあなたのことをなぜか考
 えております。キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結果として、モーツァルトはブフベルクに対して借金を返済す
ることは全然できなかったのです。清算できないままに借金を重
ねていったわけです。その代わりというわけではないでしょうが
モーツァルトは彼のためにいくつかの作品を残しているのです。
その中で最も有名な作品を上げておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルト/ピアノ三重奏曲ホ長調 K542/1784
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、モーツァルトの2つのオペラ『フィガロの結婚』と『ド
ン・ジョバンニ』は、政治的色彩は払拭したといっても、結局は
貴族を皮肉と辛辣な風刺にさらす内容になっています。最終場面
では、『フィガロの結婚』ではアルマヴィア伯爵がひざまついて
夫人に赦しを請い、『ドン・ジョバンニ』ではスペインの貴族で
あるドン・ジョバンニが、霊界からあらわれた石像に地獄に引き
ずり込まれる物語です。
 批判の的にされた貴族たちは、モーツァルトを危険人物として
みなし、宮廷楽長のサリエリを中心にウィーンでの音楽活動を封
じ込めようとしたのです。しかし、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァ
ルトを宮廷作曲家に任命したので、うかつには手を出せなくなっ
てしまったのです。
 そして、皇帝がモーツァルトに対して、イタリア・オペラの作
曲を命じたという情報がサリエリらに入ってきたのはそれから間
もなくのことだったのです。確かにモーツァルトは台本作家のダ
・ポンテと打ち合わせを重ねており、それは間違いのないことと
判明したのです。
 このとき作られたオペラが『コシ・ファン・トゥッテ』です。
しかし、このオペラは階級色の全くない男女の愛をテーマにした
ものであり、貴族批判のオペラではなかったのです。
 モーツァルトに作曲させてはならない――貴族の有志とサリエ
リをはじめとする宮廷のイタリア系音楽家は、モーツァルトを窮
地に追い込み、作曲意欲を削ごうとして狡猾きわまるたくらみを
実行に移すのです。
 それは、モーツァルトになるべく無駄な金を使わせて生活を困
窮させ、モーツァルトとコンスタンツェをなるべく引き離して、
コンスタンツェを疑心暗鬼にさせる――そうすることによって、
モーツァルトを経済的にも、精神的にも破綻に追い込むというも
のです。この作戦は少しずつ功を奏し、モーツァルトはつねにお
金に苦しめられることになったのです。
 1789年の春に、ある貴族がモーツァルトを訪ねてきます。
その貴族とはカール・リヒノフスキー侯爵ですが、彼はプロセイ
ンの国王フリードリッヒ・ウィルヘルム2世の訪問に同行して欲
しいというのです。モーツァルトが仕事が忙しいと断わると、皇
帝の許しを得ているといって強引に承諾させます。
 モーツァルトが妻を同行させて欲しいというと、それは拒否さ
れます。なぜ、モーツァルトが妻との同行を申し入れたかという
と、妻を残していくことにある種の不安を持っていたからです。
 さらにあつかましいことに、侯爵は旅行に伴う旅費は、高額の
報酬を受けている貴殿のことゆえ自分の分は負担して欲しいと付
け加えたのです。侯爵ともあろう人が音楽家を連れて旅行する場
合、侯爵側ですべてを負担するのが常識なのです。
 モーツァルトはこの理不尽な申し入れの裏に何かがあると悟る
のです。しかし、あからさまに反対できないので、さらなる借金
をして旅費を工面して侯爵に付き合ったのです。
 そのさい、モーツァルトは妻をウィーンに残しておくのが不安
であったので、ブフベルクに預けています。ウェーバー家の姉妹
にも面倒を見てくれと頼んでいます。
 果たせるかな、4月8日から6月4日までの2ヶ月にわたる北
ドイツ旅行はモーツァルトにとっては何の成果をもたらさないで
終わっているのです。こういう創造のための無駄な時間の浪費と
意味のない出費が重なりが、少しずつモーツァルトを追い詰めて
いったののです。       ・・・[モーツァルト/17]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの北ドイツの旅について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトはヘンデルの《メサイア》の編曲もしています
  が、エステルハージー伯爵の邸で《メサイア》の指揮をした
  翌日の1789年4月8日、ベルリンなど北方を目指し、ウ
  ィーンを出発しました。同行者は、カール・リヒノフスキー
  侯爵。彼はモーツァルトのクラヴィーアの弟子で、モーツァ
  ルトの後援者、トゥーン伯爵夫人の娘と結婚していました。
  侯爵は後にベートーヴェンの熱心な後援者となる人物です。
  この旅行の目的ははっきりしていませんが、侯爵にはザクセ
  ン公国に領地があり、プロイセン帝国の宮廷があるポツダム
  にも出向くことになっていました。侯爵はいわば自分の里帰
  りにモーツァルトを誘ったのかもしれません。
            ――久本祐子のモーツァルトの旅より
  ―――――――――――――――――――――――――――

キャサリン・トムソンの本.jpg
キャサリン・トムソンの本
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2009年04月21日

●モーツァルトはどのロッジに属したか(EJ第1940号)

 モーツァルトが活躍していた頃のウイーンには、次の8つのフ
リーメーソンのロッジ(支部)があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪薔薇十字団系≫     ≪その他≫
   1.「授冠の希望」    5.「聖ヨーゼフ」
   2.「堅忍不抜」     6.「三羽の鷲」
  ≪啓明結社系≫       7.「棕櫚の樹」
   3.「真の調和」     8.「三つの焔」
   4.「恩恵」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同じフリーメーソンといっても、ロッジによってその団体の性
格はかなり異なっており、当時のフリーメーソンのロッジには、
大別すると2つの系統――「薔薇十字団系」と「啓明結社系」が
あったのです。
 薔薇十字団というのは、17世紀のはじめから世にあらわれる
ようになり、いったんは姿を消してしまい、再び19世紀に復活
するのです。これは神秘主義と錬金術に関心を寄せた一派だった
のですが、近代科学の黎明期の時代であり、錬金術にはかなりの
関心が集まっていたのです。
 これに対して啓明結社というのは、1776年にドイツのバイ
エルン(英語名:パヴァリア)地方で、アダム・ヴァイスハウプ
トによってはじめられた秘密結社であり、モーツァルトの活躍し
ていた地域と時期が一致しています。この啓明結社は、やがて選
帝侯によって禁止されてしまいます。
 ウィーンでは、薔薇十字団系としては「授冠の希望」と「堅忍
不抜」ロッジ、啓明結社系としては「真の調和」と「恩恵」ロッ
ジが属し、その他に属する結社は、単なる気の合う仲間同士の懇
親クラブ的色彩の強いものが多かったのです。中には「聖ヨーゼ
フ」ロッジのように、とくにこれといった思想もなく、貴族たち
の単なる夜の宴会的なロッジもあったのです。
 モーツァルトが入会したのは、啓明結社系の「恩恵」という小
さなロッジです。このロッジは、オットー・フォン・ゲミンゲン
という人物が創立したロッジです。このロッジは「真の調和」ロ
ッジと同系統であり、モーツァルトはむしろ「恩恵」よりも「真
の調和」の会合の方に多く出席していたのです。
 「真の調和」ロッジは、イグナーツ・ボルンという人が創設者
であり、大親方を務めていたのです。このロッジは、ウィーンで
最も大きな中心的なフリーメーソンのロッジだったのです。会員
には、有能な作家、科学者、芸術家が多く、さまざまな会合や演
奏会が開催されていたのです。
 モーツァルトは、1784年12月14日に「恩恵」ロッジに
第1段階の「徒弟」として入会し、次の年の1月7日に「恩恵」
ロッジの依頼によって「真の調和」ロッジで第2段階の「職人」
の進級儀式を受けています。その後、第3段階の「親方」に昇進
しているのですが、日付けの記録は残っていません。
 また、モーツァルトはかなり熱心な会員であり、父のレオポル
トやヨーゼフ・ハイドンまでも説き伏せて、フリーメーソンに入
会させています。ヨーゼフ・ハイドンは、結社への入会志願の書
類に次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フリーメーソン主義は私に大変好ましい印象を与えてまいりま
 した。そうした印象があるために、私はこの人道主義的原理を
 備えた結社の一員になりたくて仕方がなかったのです。そうい
 う望みを抱いて久しくなります。  ――ヨーゼフ・ハイドン
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーツァルトは、フリーメーソンのための音楽を多く作曲して
います。その代表的なものを3つご紹介しておきます。いずれも
1785年の作品です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3月26日/『結社員の旅K468』
 4月 4日/カンタータ『フリーメーソンの喜びK471』
 7月   /『フリーメーソンの葬送音楽K477』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく1785年はモーツァルトにとってフリーメーソンに
入れ込んだ年といっても過言ではないのです。しかし、その後は
まるで熱意を失ったように見えるのです。会合出席の記録は激減
し、この団体のための作曲は1791年7月までの5年半という
ものはまるでなくなってしまっています。一体、モーツァルトに
何があったのでしょうか。
 その原因は、1785年12月11日にヨーゼフ2世から出さ
れた宮廷勅令にあったのです。ヨーゼフ2世はいわゆる改革派で
あり、フリーメーソンの力を利用して宗教改革に手を染めようと
していたフシがあるのです。その結果、カトリック教会が強く抵
抗した修道院の廃止や、教会を国家機関のひとつに過ぎないもの
と、その位置づけを変更するなどの改革を実現しています。
 しかし、あまりに会員が増え過ぎたことと、一部のロッジに怪
しげな錬金術や秘密主義が流行し、また、フリーメーソンに名を
借りた山師的な動きが出てきたため、そういったものを排除し、
合理的な団体として存続させるためにも、それを国家の管理下に
置く必要性があると考えて宮廷勅令を出したのです。
 その結果としてモーツァルトの属するロッジ「恩恵」は、「授
冠の希望」や「三つの焔」と一体化され、「新・授冠の希望」と
なったのです。「真の調和」は、「棕櫚の樹」と「三羽の鷲」と
一体化され、新たに「真理」という名のロッジになったのです。
そして「聖ヨーゼフ」と「堅忍不抜」は解散させられています。
しかし、これはモーツァルトにとっては大打撃であったのです。
「新・授冠の希望」はモーツァルトと合わない貴族が多く属して
いたからです。        ・・・[モーツァルト/18]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとフリーメーソンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトがフリーメーソンの会員であったことは周知の
  事実である。しかし、これについては意外に資料が不足して
  いる。そういう意味で本テーマでよく引用しているキャサリ
  ン・トムソンの本は貴重である。しかし、このテーマについ
  てきわめて詳しく取り上げているのが、藤沢修治氏の次のサ
  イトである。大変な労作であり、参考になる。ぜひ一読され
  ることをお勧めする。
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

アダム・ヴァイスハウプト.jpg
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2009年04月22日

●啓蒙思想とフリーメーソン(EJ第1941号)

 モーツァルトが活躍した当時の音楽家がどういう扱いを受けて
いたかを示す、音楽家募集の新聞広告があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 近郊の邸宅で召使を募集中、上手なヴァイオリン弾きで、難し
 いピアノ・ソナタに伴奏が付けられる人が望ましい。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、当時の音楽家の身分は召使なのです。ヴァイオリン
やピアノが弾けて、作曲もできる召使なのです。それは、ヨーゼ
フ・ハイドンについてのキャサリン・トムソン(オーストラリア
の劇作家)の次の記述を読むとよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ヨーゼフ・ハイドンは、音楽に関心をもち召使に寛容な主人を
 もてたという点では、エステルハージィ侯のもとで幸福であっ
 たけれども、身分は依然として奴婢の召使に等しいものであっ
 た。白いシャツと白い靴下を身にまとい、髪粉をふった鬘をか
 むり、召使用のお仕着せを着て、毎朝、侯に拝謁する義務があ
 った。主人の注文するものはどんなものでも作曲しなければな
 らず、その作品は侯の財産となり、他人に譲渡することは不可
 能だった。宮廷を離れることも許可なしには不可能であり、そ
 の許可も常に与えられるわけではなかった。
           ――キャサリン・トムソンの上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 音楽家のこのような身分を考えると、モーツァルトの行動がい
かに革新的であったかがよくわかります。彼はハイドンと同じ時
代の音楽家でありながら、現代のような独立した音楽家を目指し
て行動し、音楽会の開催や、オペラや交響曲などの作曲は、あく
まで皇帝や貴族たちからの依頼を受けて行うというかたちにこだ
わったのです。当時は音楽家という職業がまだ確立していなかっ
たからです。
 したがって、定収入がないと生活に困るので、宮廷音楽家――
それも召使ではなくある程度自由度のある音楽活動ができる地位
をモーツァルトは求めたのです。しかし、そのようなポジション
を得るには、並みの音楽家では不可能であり、それに皇帝がそれ
を認めることが不可欠であったのです。
 モーツァルトが、ここまで述べてきたような音楽活動ができた
のは、彼自身が比類のない天才的な音楽家であったことと、その
天賦の才能を認めた皇帝ヨーゼフ2世の存在があったからです。
ところがその皇帝ヨーゼフ2世は、1790年2月20日に亡く
なってしまい、モーツァルトは最大の理解者であり、最大の後ろ
盾を失うことになるのです。
 専制君主とカトリック教会が君臨する当時の体制は、保守的、
迷信的、前近代的の度を深めつつあり、当時の人々にとって、き
わめて陳腐な体制として映り始めていたのです。そして、こうい
う時代を背景に、フリーメーソンは台頭したのです。
 もともとフリーメーソンは、趣味や音楽を楽しむクラブ的な集
まりであり、居酒屋や宿屋に集って談話、飲酒、食事などを楽し
む親睦クラブに過ぎなかったのです。しかし、そこに集まったの
は貴族や富裕商人、学者、芸術家といった知識階級の人々であっ
たので自然に時代の思想を語ることが多くなっていき、それが啓
蒙思想という時代の潮流に結びついて大きく発展したのです。
 ところで啓蒙思想とは、理性の光または自然の光が、中世的暗
黒を破って人類の進路を照らし出すという考え方であり、啓蒙思
想あるいは啓蒙主義は、進歩の思想とも合理主義であるともいわ
れるのです。ちなみに「啓蒙」の原義は、「光で照らされる」と
いう意味なのです。フリーメーソンは、この啓蒙主義をベースと
して発展したのです。
 やがてフリーメーソンでは、その団体の目的・教義・義務・規
約などを規定する「フリーメーソン憲章」なるものが作られ、明
確なひとつの活動団体を形成していったのですが、当初から政治
的結社になることは自ら否定しており、政治活動は行わなかった
ところに大きな特色があるといえます。
 ところで、フリーメーソンのスローガンは、「自由・平等・友
愛」であり、それがフランス革命のそれと同じであるところから
革命の指導理念になったとよくいわれます。確かにフランス革命
だけではなく、後のアメリカ合衆国独立や日本の明治維新などに
おいてもフリーメーソンの関与が取り沙汰されていますが、それ
はフリーメーソンが、旧体制の打破という啓蒙思想をバックにし
たものであったからです。
 フリーメーソンは宗教ではないのです。それは既存宗教を取り
込むことをしなかったからです。というよりも、宗教は何でもよ
かったのです。といって神の存在を否定したわけではなく、すべ
ての人が同意できる信仰の対象を「宇宙の偉大な建築家」とし、
これは太陽神を意味していたのです。
 このあたりから、初演ベースでいうと、モーツァルトの最後の
オペラになる『魔笛』の話に入っていくのですが、このオペラは
フリーメーソンの思想というものをベースに鑑賞すると、そこに
まったく新しい解釈が生まれてくるのです。
 既出のキャサリン・トムソンは、『魔笛』というオペラについ
て、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『魔笛』で彼は真実と正義と平等のうえにつくられる理想社会
 の空想図(ヴィジョン)を提起しているのだ。このオペラは、
 啓蒙によってそのような社会を成就し、原始人より高度な幸福
 の水準に自己を高めようとする人間の闘いについての寓話物語
 なのである。  ――――キャサリン・トムソンの上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『魔笛』には、さまざまな解釈があり、いまだに定説というも
のはないのです。       ・・・[モーツァルト/19]


≪画像および関連情報≫
 ・啓明結社の指導者マニュアルより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓蒙とは、自分が何であり、他者が何であり、また、他者が
  何になりうるかを知ることを意味する。・・・他者を援助し
  彼らの喜びをともにすることを意図する。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

キャサリン・トムソン氏.jpg

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2009年04月23日

●『魔笛』はこんな筋書きである(EJ第1942号)

 今回からモーツァルトの最大の謎といわれる『魔笛』にまつわ
る謎の解明に挑戦していくことにします。そのためにはこのオペ
ラのあらすじを知っておく必要があります。
 『魔笛』のあらすじは、いろいろなサイトに出ていますが、重
要なポイントが入っていないと困るので、EJ風に整理して記述
することにします。『魔笛』をご覧になっている方もそうでない
方も一応目を通して頭に入れておいていただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪第1幕≫
 ――第1景――荒々しい岩山の風景
 ・王子タミーノが巨大な蛇に追いかけられ失神してしまう。そ
 のとき夜の女王の配下である3人の侍女があらわれ、蛇を退治
 する。3人は気絶している王子の容貌の美しさにみとれる。そ
 こに異様ないでたちの鳥刺しのパパゲーノが登場する。タミー
 ノは彼が蛇を退治してくれたと思い込み礼をいう。パパゲーノ
 は自慢する。しかし、再び3人の侍女があらわれ、パパゲーノ
 の口を封印し、しゃべれなくする。
 ・3人の侍女は夜の女王の娘パミーナの肖像画をタミーノに見
 せる。そして、パミーナは悪魔ザラストロの虜にされているこ
 とを伝える。そこに夜の女王があらわれ、悪魔ザラストロにさ
 らわれた娘の救出をタミーノに依頼。タミーノは引き受ける。
 ・2人にはお供の3人の童子が道案内をし、タミーノには魔法
 の笛(魔笛)を、パパゲーノには魔法の鈴が渡される。
 ――第2景――エジプト宮殿の部屋
 ・監禁されているパミーナは逃亡を企てる。3人の奴隷が彼女
 を捕え、奴隷頭のモノスタトスの前に連れていかれる。そこに
 パパゲーノが突然あらわれ、両者ともそれぞれの異様ないでた
 ちに驚き、パミーナをそのままにして逃げ出す。
 ――第3景――「叡智」「理性」「自然」の3つの神殿
 ・3人の童子がタミーノを神殿に案内する。タミーノは3つの
 神殿の扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(僧侶の一人)
 が登場する。2人の長い問答が始まり、ザラストロが悪人であ
 るという夜の女王の話とは違うとタミーノも思い始める。
 ・タミーノは笛を吹くとパパゲーノがそれに答えて、パミーナ
 を連れて登場する。モノスタトスが追ってくるが、パパゲーノ
 の鈴が彼らを幻惑し、追い払ってしまう。
 ・ザラストロが従者を従えて登場。モノスタトスたちの不実を
 正し、試練を克服させるためタミーノとパミーナを引き離す。
 ≪第2幕≫
 ――第1景――エジプトのピラミッドの椰子の林のなか
 ・ザラストロは、若い2人に叡智を授けるように神々に懇願す
 る。タミーノは試練を受け入れるが、パパゲーノはそんな面倒
 なことはいやだと駄々をこねる。僧侶はパパゲーノに試練に打
 ち勝ったら似合いの娘を世話するというのでパパゲーノはやっ
 と試練を受けることを承知する。
 ・タミーノとパパゲーノは神殿の地下に導かれ試練が始まる。
 3人の侍女があらわれて邪魔をしようとするが、タミーノは取
 り合わない。しかし、パパゲーノは苦悩する。そのとき、雷鳴
 とともに僧侶があらわれ、3人の侍女は去る。
 ――第2景――庭園のなか
 ・パミーナが眠っているとモノスタトスが来て誘惑しようとす
 る。そこに夜の女王が登場するので彼は隠れる。女王は復讐の
 思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺
 すように命じて去る。
 ・夜の女王が去るとモノスタトス出てきてパミーナに迫る。し
 かし、ザラストロが登場し叱責して去らせる。モノスタトスは
 今後は夜の女王に寝返るかとつぶやく。パミーナが母の命令の
 ことを話すと、ザラストロは「この神聖な殿堂には復讐などな
 い」と教団の理想を歌い上げる。
 ・2人の僧侶がタミーノとパパゲーノに沈黙の修行を課して去
 る。しかしパパゲーノは黙っていることができずしきりに喋っ
 てはタミーノに制止される。そこへ老婆がやってきて、自分は
 18歳だというのでパパゲーノは大笑いする。彼女には年頃の
 恋人がいるという。しかもその名はパパゲーノだというので驚
 いてお前は誰だ?と尋ねる。そうすると、雷鳴が轟き彼女はど
 こかに消えてしまう。
 ・3人の童子が登場して、2人を励まし酒や食べ物を差し入れ
 る。パパゲーノが喜んで飲み食いする。そこにパミーナがあら
 われ、タミーノに話しかけるが、彼は修行のため沈黙を守る。
 パパゲーノも、口いっぱいに食物を入れているので喋れない。
 相手にしてもらえないパミーナは、もう自分が愛想をつかされ
 たと勘違いし、大変悲しんでその場を去る。
 ・沈黙の試練に落第したパパゲーノのところに僧侶がやってき
 てお前の望みは何かと尋ねる。パパゲーノが「恋人か女房がい
 れば」というと先ほどの老婆がやってきて、私と一緒になると
 誓えと迫る。パパゲーノが一緒になると約束すると、老婆は若
 い娘に変身するが、僧侶が彼女を連れて行ってしまう。
 ・タミーノに捨てられたと思い込んだパミーナは母のくれた剣
 で自殺しようとする。三人の童子が現れてそれを止め、彼女を
 タミーノのもとに連れて行く。
 ――第3景――神殿の洞窟の内部
 ・タミーノはパミーナを従えて、魔法の笛を吹いて水と火の試
 練の勝利者となる。夜の女王と侍女たちが神殿を襲撃しようと
 やってくる。しかし光に打ち負かされ消え去る。
 ・パパゲーナを失ったパパゲーノが絶望して自殺しようとする
 が、童子たちが登場して魔法の鈴を使うように勧める。鈴を鳴
 らすと、パパゲーナがあらわれる。
 ・場面が変り明るくなる。、ザラストロが太陽が夜に打ち勝っ
 たと宣言し、一同神を讃える合唱のうちに幕となる。
 ――――――――――――――・・・[モーツァルト/20]


≪画像および関連情報≫
 ・夜の女王とザラストロ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。こ
  のオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもあ
  る。特に夜の女王の2つのアリアは至難なコロラトゥーラの
  技巧を要求する難曲である。ザラストロにも有名な2曲があ
  る。低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要な
  レパートリーのひとつでもある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

シカネーダ扮するパパゲーノ.jpg
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2009年04月24日

●なぜ話の筋は通らないのか(EJ第1943号)

 ここに一枚の奇跡的に残っている芝居のチラシがあります。そ
こには次のように書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 皇帝室特許ヴィーデン劇場
 本日、1791年9月30日、金曜日
 ヴィーデンの皇帝室特許劇場の俳優および女優諸兄姉は下記の
 名誉ある上演を行なう
 初演 『魔笛』 エマヌエル・シカネーダによる2幕の大歌劇
 配役 ――主要者のみ――
  タミーノ  ・・・ シャック
  祭司第一  ・・・ シカネーダー/兄
  夜の女王  ・・・ ホーファー夫人
  パパゲーノ ・・・ シカネーダー/弟
  奴隷第一  ・・・ ギーゼッケ
 音楽はカペルマイスターで現皇王室宮廷作曲家ヴォルフガング
 ・アマデウス・モーツァルト氏によるもの。モーツァルト氏は
 親愛なる観客に敬意を表して、また台本作家に対する友情から
 本日自身でオーケストラを指揮する。
 オペラの台本には2枚の彫板刷りが付き、シカネーダ氏がパパ
 ゲーノ役の舞台衣装をつけた姿が出ており、切符売り場で30
 クロイツァーで販売される。
 入場料は通常どおり。開演は7時
        ――H・C・ロビンズ・ランドン/海老沢敏訳
    『モーツァルト最後の年1791』より 中央公論新社
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの歌劇『魔笛』の上演を知らせるチラシです。こ
のチラシの文面を見ると、いろいろなことがわかります。
 出演者について解説します。タミーノ役はベネディクト・シャ
ック――彼はモーツァルトの親友です。この台本を書いたといわ
れるシカネーダーは弟の方でパパゲーノ役をやり、兄は祭司第一
を担当しています。
 夜の女王のホーファー夫人というのは、ウェーバー家の長女で
あり、モーツァルトの妻コンスタンツェの姉です。彼女は次女ア
ロイジアに次いで声楽の素質があったのです。奴隷第一役のギー
ゼッケというのは、本名はヨハン・ゲオルク・メッツラーといい
台本作りに一役買っている重要人物なのです。
 劇場の切符売り場では、台本が売られていたようです。価格は
30クロイツァー――1フローリンが60クロイツァーであり、
1フローリンは日本円で約1万円――つまり、台本一冊5000
円程度で売られていたことになります。
 さて、昨日のEJの『魔笛』のあらすじを読んで、どのように
感じられたでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.第1幕は夜の女王は善者、ザラストロは悪者なのに、第2
   幕では完全に善悪が逆転している。
 2.モノスタトスと配下の奴隷がなぜ夜の女王ではなく、ザラ
   ストロ側にいたのか理解しにくい。
 3.タミーノとパパゲーノが急に試練に挑戦することになるい
   きさつが、今ひとつ理解しにくい。
 4.第1幕は単なるおとぎ話に過ぎないが、第2幕になると、
   内容が突然哲学的問答に終始する。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このオペラを観て感ずるのは、やはり第1幕と第2幕に見られ
る善悪の逆転です。娘パミーナをザラストロに奪われたと訴える
夜の女王――この時点で夜の女王は被害者です。そして実際にパ
ミーナは捕われの身になっており、いかにも悪者然としたモノス
タトスとその配下(奴隷)に取り囲まれている――これは第2景
の情景です。
 タミーノはザラストロ――パミーナを捕えた張本人に会おうと
して神殿に押しかけます。そうしたら、そこで突然哲学的な問答
がはじまり、タミーノは観客を置き去りにしたまま、夜の女王の
いっていることは本当ではないと悟ってしまう――そのあたりが
すんなりとは理解できないのです。そして第2幕の試練は一層分
かりにくいものになってしまうのです。
 さらに『魔笛』と題しながら、魔笛の活躍する場はあまりなく
むしろパパゲーノのもらった鈴の方が活躍する印象を受けます。
悪者を追い払ったり、パパゲーナを呼び出すときに効果を発揮す
るのです。
 もちろん、魔笛についても、森の動物を呼び出したり、パミー
ナと一緒に試練を乗り越えるときに使われていますが、観客はタ
ミーノとパミーナが試練を受けることになる理由がいまひとつ分
かりにくいので、魔笛の重要性に気がつかないのです。
 しかし、音楽に関しては比類もなく素晴らしいので、意味がよ
くわからなくても何となく納得してしまう――『魔笛』はそんな
オペラなのです。
 これについて、熱心なフリーメーソンの会員であったとされる
ゲーテは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 観客は舞台を見て楽しめば十分である。その際、その高尚な意
 味が入信者たちに見落とされることはないのだから。
        ――ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、ゲーテは、フリーメーソンの会員にある意味が伝われ
ば十分であり、一般の人は楽しめればいいではないかといってい
るのです。ゲーテはある時期、続編を書こうかと思いたったほど
この作品を高く評価していたのです。
 このようなゲーテのような考え方に加えて、当時の音楽評論家
たちはろくに調べもせず、この台本は2つの別の物語を統合した
ものと断じることによって、長い間満足の行く解釈をすることを
怠ったのです。        ・・・[モーツァルト/21]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトのウィーン/鈴木秀美/より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (ハイドンの)音楽の数々は、私たちの目の前であたかも華
  麗な行列のように繰り広げられ、私たちはそれをうっとりと
  見守っているが、それは必ずしも私たちが個人的にそれに参
  加し、私たちが直接に感情をもって関与するのを求めはしな
  い。他方モーツァルトでは、この関係はまったく異なってい
  る。つまり彼は私たちに彼の感情世界を共有するよう誘い、
  言ってみれば私たちの手を取り、私たちを案内し、最後には
  彼が赴くところ、どこなりと自分についてくることを求めて
  いるのだ。そこから彼の喜びは私たちの喜びであり、彼の悲
  しみは私たちの悲しみとなる。
                  ――ロビンズ・ランドン
   http://www.arttowermito.or.jp/music/mda3suzukij.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルト最後の年1791.jpg

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2009年04月27日

●『魔笛』の台本は誰が書いたのか(EJ第1944号)

 『魔笛』が分かりにくいのは、互いに大した関係もなく、矛盾
さえしている2つの別な作品を組み合わせて作られたものだから
という説がいまだに信じられています。
 『魔笛』の台本は、エマヌエル・シカネーダーが書いたという
ことになっています。そのとき、シカネーダーはジングシュピー
ル(歌芝居)で勝負しようと決めていたのです。しかし、レオポ
ルト・シュタット劇場で同業者のマリネルリがそのジャンルで既
に成功しており、マリネルリと張り合う結果になったのです。
 当時、シカネーダーが種本にしていたのは、クリストフ・マル
ティーン・ヴィーランドという童話作家の作品集であり、シカネ
ーダーは『魔笛』より前にその種本に基づく『オペロン』という
作品で成功していたのです。
 シカネーダーは『魔笛』の台本を作成するのに当たって、『オ
ベロン』の続編として考えていたヴィーランドの別の物語、『ル
ル、あるいは魔笛』を使うことに決め、既に第1幕を書き上げて
いたのです。
 ところが、レオポルト・シュタット劇場が同じ種本に着想を得
ている『魔法の竪琴、あるいはファゴット吹きカスパール』とい
う作品を先に上演してしまったのです。そこで、シカネーダーは
第1幕のほとんどを生かし、第2幕は当初予定した筋書きを大幅
に変更して完成させたのが『魔笛』の台本なのです。第1幕と第
2幕のトーンが違うのは、そのためだというのです。
 こういう台本の途中変更説や2本の異なる作品の統合説が『魔
笛』の筋書きがおかしいことの原因として定着してしまったのは
当時の音楽学者、サン・フォワ、エドワード・デント、ヘルマン
・アーベルトらの怠慢によるものといえます。彼らはろくに調べ
もせず、『魔笛』を論理も意味もない単なる子供だましの童話と
して片付けてしまったからです。
 しかし、『魔笛』の筋にはすべて意味があって、一貫性があり
2つの作品の統合説などはあり得ないのです。また、レオポルト
・シュタット劇場の作品が上演されたのは1791年6月8日な
のですが、モーツァルトは6月11日には既に第2幕の僧侶の二
重奏まで作曲を進めていたことが、妻のコンスタンツェに宛てた
手紙で明らかなのです。2つの別な作品を統合したなどというこ
とはあり得ないのです。
 モーツァルトは『魔笛』が初演される直前にプラハに出かけて
いますが、その時点で総譜はほとんど完成していたのです。プラ
ハから戻ってきて、「僧侶たちの行進曲」と「序曲」を完成させ
ています。これらの部分は文字通りインクも乾かぬままに総練習
の譜面台に載せられたといわれます。
 2つの作品の統合説は、台本をシカネーダーがひとりですべて
を書いたという前提から生じているのです。しかし、『魔笛』の
台本作家には諸説があるのです。はっきりしているのは、いずれ
も1人の力で書き上げられたものではないということです。『魔
笛』の台本には、次の4人が何らかのかたちでかかわっていると
いわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.エマヌエル・シカネーダー
   2.ヨハン・ゲオルク・メッツラー
   3.イグナーツ・フォン・ボルン
   4.ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 『魔笛』の台本は、熱心なフリーメーソンの会員であるゲーテ
がそういっているように、非常に緻密に組み立てられているので
す。したがって、シカネーダー1人ですべてを書くことは不可能
であると思われます。とくにフリーメーソンの基本思想について
シカネーダーは書く力はないといえるのです。
 『魔笛』に関する研究家であるジャック・シャイエはシカネー
ダーについて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトとシカネーダーがロッジの同志であったというの
 は通説になっているが、これは半分しか正確ではない。シカネ
 ーダーは、たしかにフリーメーソンであったが、放蕩のかどで
 「職人」位階以上に昇進することもなく、レーゲンスブルクの
 彼のロッジ「3つ鍵カール」から1789年5月4日に破門さ
 れていた。――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨハン・ゲオルク・メッツラーとは何者でしょうか。
 この人は、シカネーダー劇団の団員の1人であり、『魔笛』の
初演において、「奴隷第一」という役で出演しているのです。た
だし、ギーゼッケという名前になっているのです。彼は俳優とし
ては二流ですが、当時の芸人としては学があり、必要に応じて劇
作家、法律家、そして鉱物学者でもあったのです。
 ギーゼッケもフリーメーソンであったといわれますが、その詳
細はわかっていないのです。しかし、ギーゼッケはシカネーダー
ではできないフリーメーソンの儀礼について書ける力を持ってい
たといえます。そのため、『魔笛』の台本は、自らが演ずるパパ
ゲーノに関するエピソードだけをシカネーダーが書き、後のすべ
てをギーゼッケが書いたといわれるのです。
 しかし、『魔笛』の第1幕の後半以降の内容は非常に高度であ
り、ギーゼッケをもってしても書くのは無理であったとする説が
あるのです。そこで出てきたのは、イグナーツ・フォン・ボルン
の『魔笛』の台本とのかかわりです。それでは、フォン・ボルン
とは何者でしょうか。
 フォン・ボルンは、ウィーン最大のフリーメーソンのロッジで
ある「真の調和」を創設した人物です。「真の調和」ロッジには
モーツァルトもよく出入りしており、フォン・ボルンが台本制作
にかかわったという可能性は十分あります。フォン・ボルンにつ
いては、明日のEJで述べます。・・・[モーツァルト/22]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとシカネーダーの関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  シカネーダーがモーツァルトと出会ったのは随分前のことで
  モーツァルトが17歳のころのことである。1777年10
  月14日のモーザー一座の公演にはモーツァルトもこれを観
  劇に出かけているが、この時はシカネーダーは出演していな
  いが、78年にはザルツブルクにシカネーダーが興行に訪れ
  たときには頻繁に交流があったようである。レオポルトシュ
  タット劇場との熾烈なライバル関係にあったシカネーダーは
  モーツァルトに対して魔法オペラの作曲を再三にわたって依
  頼していたが、詳細は不明な点が多い。
 http://homepage3.nifty.com/classicair/feuture/fueture_38.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

アン・デア・ウィーン劇場.jpg
アン・デア・ウィーン劇場
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2009年04月28日

●モーツァルトも台本作りに参画している(EJ第1945号)

 イグナーツ・フォン・ボルン――おそらく『魔笛』の台本の基
本構成は彼が構築したものと考えられます。フォン・ボルンは、
1742年にトランシルヴァニア――ルーマニア中部/18世紀
はオーストリアの支配下にあった――に生まれています。
 プラハ大学にて哲学、法律学、自然科学を修め、鉱物学の研究
者として名を高めたのです。現在では鉱物学は地味な学問でしか
ありませんが、この時代は錬金術に関心があり、鉱物学は花形の
学問だったのです。既出のギーゼッケも鉱物学者です。
 1776年にフォン・ボルンは女帝マリア・テレジアからウィ
ーンに招かれ、ウィーンで研究をするようになります。そして、
啓蒙主義を支える一人となり、フリーメーソン結社の最高位階ま
で昇進し、ウィーン最大のロッジの事務総長を務めたのです。
 フォン・ボルンは、最も傾聴に値する理論家であり、ウィーン
のフリーメーソンで最も信頼された指導者だったのです。とくに
彼の関心は儀礼の諸問題にあり、それらの儀礼と古代エジプトの
秘儀を結びつける貴重な研究をしているのです。それは1784
年に次の論文として発表されているのですが、『魔笛』の演出は
この論文に基づいているといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
            『フリーメーソン情報』/1784
 ――エジプトの秘儀について/イグナーツ・フォン・ボルン
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがてフォン・ボルンはロッジ「真の調和」を設立し、その代
表幹事になるのですが、そのロッジは、ウィーンで最大のロッジ
に成長します。既に述べたようにモーツァルトは他のロッジ――
恩恵ロッジに入会したものの、そのほとんどは真の調和ロッジに
出席していますし、ヨーゼフ・ハイドンも、1785年に真の調
和ロッジに入会しています。
 なぜなら、真の調和ロッジは、他のロッジよりも音楽会を多く
開催し、フォン・ボルンはフリーメーソンと音楽の関係について
も確固たる考え方を持っていたので、モーツァルトやハイドンは
彼の理論に啓発されることが多かったと考えられるのです。そう
いうフォン・ボルンが『魔笛』に何も関与していないとはとても
考えられないことです。
 『魔笛』には、その重要人物として「ザラストロ」という人物
が登場しますが、このザラストロという人物のモデルが、イグナ
ーツ・フォン・ボルンその人であるという説もあるのです。そう
であるとすると、『魔笛』の台詞の中のザラストロの哲学的問答
が理解できますし、『魔笛』の台本作りにフォン・ボルンが少な
からずかかわっていたことは確かと思われます。
 しかし、フォン・ボルンは、1791年7月に亡くなっている
のです。この時期は『魔笛』の練習中ですが、オペラの骨格構築
にフォン・ボルンにギーゼッケ、そしてモーツァルト自身も参画
して議論が重ねられたと思われるのです。
 フォン・ボルン、ギーゼッケ、モーツァルトの3者による『魔
笛』の台本作り説は、『魔笛』の筋について巷間いわれる次のよ
うな評価に大きな変更を迫るものになるといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (『魔笛』の筋は)荒唐無稽に徹した文学形式のうちでも最も
 馬鹿馬鹿しい見本の一つである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが果たして『魔笛』の台本作りに参加していたか
どうかについては、それを裏付ける証拠はほとんど残っていない
のです。モーツァルトのフリーメーソン活動については、妻のコ
ンスタンツェと彼女の第2の夫ニッセンによって、そのほとんど
が削除されてしまっているからです。
 なぜ、コンスタンツェはフリーメーソン活動に関する手紙を処
分したのかはわかりませんが、モーツァルトの死後、コンスタン
ツェは、皇帝ヨーゼフ2世によって約束されていた終身遺族年金
を宮廷からもらうことに必死になっており、その決定に不利にな
る文書はすべて処分したのではないかと思われるのです。
 なぜなら、モーツァルトが亡くなった時点でのフリーメーソン
活動は皇帝の締めつけによってかなり抑制的なものになっており
コンスタンツェは、亡夫のフリーメーソンにかかわる活動が載っ
ている文書を持っていると不利になると考えたのではないかと思
われます。
 そういう少ない資料の中で、モーツァルトが『魔笛』の台詞に
非常にこだわっていたことを示すエピソードが存在するのです。
 次の文は、モーツァルトが友人のライトゲープ(ホルン奏者)
と『魔笛』の公演を桟敷席で鑑賞したとき、ライトゲープの無神
経な態度に腹を立てている様子が窺われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 初めのうちぼくはがまんして、「いくつかの台詞」に彼の注意
 を引こうとしました。でもだめでした。彼はなにもかも笑いと
 ばしていました。それはあまりにもひどいのです。ぼくは彼を
 パパゲーノ呼ばわりして席を立ってしまいましたが、あの馬鹿
 にそのことがわかったとは思えません。  ――モーツァルト
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで留意すべきは、モーツァルトが管弦楽法の旋法とかにラ
イトゲープの注意を引こうとしたわけではなく、「いくつかの台
詞」に注意を喚起している点です。音楽ではなく台詞なのです。
 また、コンスタンツェが母のセシリアをこのオペラに連れて行
くときにあらかじめ台本を渡し、それをよく読んでから行くよう
に指示している手紙もあり、モーツァルトが相当台詞にこだわっ
ていたことは確かです。そういう意味でモーツァルトが台本作り
に参画していたと思われます。 ・・・[モーツァルト/23]


≪画像および関連情報≫
 ・トランシルヴァニアについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1713年、オーストリアはトランシルヴァニア総督を置き
  ハンガリーとは政治的に分離した。オーストリア政府は、ル
  ーマニア人の懐柔同化政策をとり、彼らのローマ教皇の権威
  を認めさせるカトリックとの合同教会を作った。皮肉にも合
  同教会の聖職者の中からルーマニア人の民族運動の指導的知
  識人(トランシルヴァニア学派)が現われ、1791年には
  ルーマニア民族の同権を求める皇帝への請願書が提出された
  のである。             ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

トランシルヴァニア.jpg
トランシルヴァニア
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2009年04月30日

●成立の経緯にウソが多い『魔笛』(EJ第1946号)

 歌劇『魔笛』の誕生にはさまざまなウソが伝えられています。
その中でもっともポピュラーなウソをご紹介します。これはコン
スタンツェの第二の夫ニッセンの伝記に書いてあるのです。
 当時、シカネーダーは自分の作品が不評で、ひどく落ち込んで
いたというのです。八方塞りだったわけです。そんなとき、シカ
ネーダーはモーツァルトのところにやってきて、自分を救って欲
しいと訴えたのです。以下、ニッセンの伝記から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ぼくが?――どうやって?」
 オペラをぼくのために書いてほしい。完璧に今のウィーンの大
 衆好みのものを。君ならきっと、玄人を満足させるばかりでは
 なく、君の評判も上げられる。ただ、第一にあらゆる階層に共
 通する最低限の平均的な好みを満たすように心がけてほしい。
 ぼくは台本と舞台装置その他をやるとする。すべては大衆が求
 めている今様のものを―――
 「よろしい――引き受けた!」
 謝礼はいくらあれば?
 「何もいらない!さあ、君が助かるように一緒に事を運ぼう。
 でも決して利益が全然欲しくないなんて思っていない。総譜を
 君に、君だけに上げよう。ただし、他に写譜を取らせないとい
 う約束のもとに、いくらでもいいから君が正当と思う額をくれ
 たまえ。もしオペラがうまくいったら、総譜を他の劇場に売ろ
 う。それがぼくの報酬になる。――」
        ――H・C・ロビンズ・ランドン/海老沢敏訳
    『モーツァルト最後の年1791』より 中央公論新社
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトは熱心にオペラに取り組み、オペラは大成功だっ
たのです。数週間後には諸外国の劇場でも上演されるようになっ
たのですが、モーツァルトには何の挨拶もなかったのです。シカ
ネーダーはモーツァルトとの約束を破ったのです。
 シカネーダーが裏切ったことを知ったモーツァルトはたったの
一言「恥知らず!」――というと、あとはすっかり忘れてしまっ
たというのです。これがニッセンの伝記における話です。
 映画『アマデウス』では、シカネーダーはモーツァルトに話を
持ちかけ、総収入の半分を支払うという約束でモーツァルトを納
得させています。しかし、あくまで成功報酬であり、この段階で
シカネーダーは前金を払っていないのです。
 しかし、このときモーツァルトは、ある謎の人物(実はサリエ
リが変装)からレクイエム(鎮魂曲)の作曲依頼を受けており、
かなり高額の前金を受け取っていたのです。それは急ぎの仕事で
あり、完成時には残金を払うという約束です。コンスタンツェは
そのことを知っていたので、シカネーダーの話には終始反対だっ
たのです。お金になるかどうかわからないシカネーダーの話より
レクイエムを完成させて残金を受け取る方が確実性があるからで
す。モーツァルト家はお金に窮していたからです。
 しかし、ニッセンの伝記の話も、映画『アマデウス』の話も本
当のこととは思えないのです。モーツァルトがお金に窮していた
ことは確かですが、当時、シカネーダーは経済的には何ら窮して
いなかったからです。
 なぜなら、シカネーダーは、手がけた新作オペラが大当たりで
1791年3月までは、ドイツ語の芝居とウィーンの大衆が喜ぶ
「音楽付き芝居/ジングシュピール」の全デパートリーを手がけ
ていたからです。そういうシカネーダーがモーツァルトに成功報
酬でオペラを書いてくれと頼むはずがないのです。
 ここではっきりしておくべきことは、『魔笛』というオペラが
フリーメーソンの通過儀礼――イニシエーションを描いた作品で
あるということです。後で述べるようにこのオペラは緻密に組み
立てられており、フリーメーソンのロッジから破門されていると
いわれるシカネーダーが台本を書くにはかなり困難があると思わ
れるからです。
 既出の『魔笛/秘教オペラ』の著者、ジャック・シャイエは、
これに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『魔笛』は、真面目さとフリーメーソン情報の緻密さにおいて
 それまでに書かれたあらゆる作品をはるかに凌いでいる。その
 真面目さは、場末の劇場の特徴でもなければ、ご承知の通り、
 シカネーダー特有の美徳でもなかった。そして、このことにつ
 いてのギーゼッケの役割はあまり当てにならないので、この点
 については別の力が働いたと考えねばならない。たまたまフォ
 ン・ボルンの支援を得たとしても、モーツァルトがその役割を
 引き受けたとすれば辻褄が合うように思われる。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう「真面目さ」とはモーツァルトのそれであり、モー
ツァルトのフリーメーソンに対する「真面目さ」なのです。つま
り、モーツァルトは第3位階の「親方」への入門を許された真面
目な会員であり、とくにフォン・ボルンを心から尊敬していたと
いわれるのです。
 そういう意味でこのオペラの骨格はフォン・ボルンが構築し、
そこにギーゼッケが加わったかどうかはわからないものの、何よ
りもモーツァルト自身が台本作りに積極的に関わっていると考え
る方がはるかに自然であると思われるのです。シカネーダーはパ
パゲーノ役を演ずると同時に、オペラの演出を担当した程度であ
り、台本作りには加わっていないものと思われます。
 モーツァルトがフォン・ボルンをいかに尊敬していたかについ
ては、モーツァルトが1785年に作曲した『フリーメーソンの
喜び』(K471)によって明らかです。なぜなら、これはフォ
ン・ボルンの栄誉を称えた作品であるからです。ボルンは、皇帝
ヨーゼフ2世にも信頼が厚かったのです。
               ・・・[モーツァルト/24]


≪画像および関連情報≫
 ・ジャック・シャイエについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ジャック・シャイエは、コンセルヴァトワール(国立高等音
  楽院)およびソルボンヌ大学の教授を歴任したフランスの音
  楽学者で、日本にきたこともある。『バッハの受難曲』『ト
  リスタンとイゾルデ』『音楽の四万年』『音楽と記号』など
  の著作でも知られている。
  ―――――――――――――――――――――――――――

フォン・ボルン.jpg
フォン・ボルン
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2009年05月01日

●通常カットされる夜の女王の語り(EJ第1947号)

 現在、劇場で上演される歌劇『魔笛』がわかりにくいのは、第
2幕のある重要な部分をカットして上演しているからなのです。
 EJ第1942号で書いた『魔笛』のあらすじの中に次の部分
があります。第2幕の第2景です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・パミーナが眠っているとモノスタトスが来て誘惑しようとす
 る。そこに夜の女王が登場するので彼は隠れる。女王は復讐の
 思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺
 すように命じて去る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜の女王は、第1幕と第2幕に一回ずつ登場して有名な2つの
アリアを歌うのですが、第1幕では相手はタミーノ、第2幕では
パミーナが相手なのです。
 第2幕で夜の女王は娘のパミーナに対して、次の話を聞かせる
シーンが台本にあるのですが、オペラの上演では、それがカット
されるのが通常になっています。
 まず、夜の女王は、ザラストロの正体を次のように明かすこと
から語りはじめるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この国の支配者であられたお前のお父さまは、イシスの神に仕
 える人びとのために7つの光輪をつけた「太陽」をみずからす
 すんでお捨てになったのです。今では、他のおかたがその権力
 を象徴する太陽の紋章を胸につけておいでです。そのおかたこ
 そザラストロです。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、ザラストロは魔法使いでも何でもなく、神から
大陽の紋章を受け継いだ聖者ということになります。しかし、夜
の女王はそれが不満であり、それでは「宇宙を包囲し、それをみ
ずからの光線で貫いている≪太陽の輪≫は、どなたにお遣わしに
なるのですか」と尋ねると、お父さまは次のように答えたことを
娘に教えるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それは神に仕える男たち(入信者たち)だけにあたえてもらい
 たい。これからはザラストロがその雄々しい守護者となるだろ
 う。ちょうどこれまでわしがそうであったように。もうこれ以
 上きかないでくれ。こういうことはお前ごときの女の才知のう
 かがい知るところではないのだ。お前の務めは、娘ともども神
 に仕える賢明な男たちの導きにすっかり身をゆだねることだ。
           ――ジャック・シャイエ著、前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜の女王のこの話の内容を理解するには少し説明が必要です。
 パミーナの父の治世は、物質が形を形成する以前の状態を象徴
していて、男女の性の区別はなかったのです。問題はその区別が
起こったときです。それが起こったとき、宇宙の勢力は、男性と
女性に二分され、父個人の所有する財宝はすべて女性に返された
のですが、その中に「叡智」は入っていなかったのです。
 この「叡智」こそ「宇宙を包囲し、それをみずからの光線で貫
いている≪太陽の輪≫」なのです。そのため、女性は太陽を奪わ
れ、「夜の女王」になって、以後男性の社会から分離されること
になったのです。夜の女王はこれが不満でならないのです。
 しかし、そうであるとすると、ザラストロはなぜ夜の女王から
娘のパミーナを取り上げたのでしょうか。この行為のためにザラ
ストロは、「夜の女王から娘をかどわかした悪者」のレッテルが
貼られることになります。
 これについては次のように説明をすることができます。
 パミーナの父の治世では、男女両性の危機はなかったのですが
性の分離が行われると、昼(男性)の勢力と夜(女性)の勢力に
二分――すなわち、ザラストロの世界と夜の女王の世界に二分さ
れ、争いが起こったのです。
 しかし、夜の女王の娘パミーナと昼の勢力を受け継ぐことにな
る王子タミーノが結婚すれば、男女の争いは解決し、新しい黄金
時代が幕を開くというわけです。つまり、第3世代になれば、問
題は解決されるという考え方です。
 ザラストロは、そういう黄金時代を築くため、心を鬼にして夜
の女王から娘パミーナを引き離し、モノスタトスの管理下に置く
のです。なぜ、心が邪悪なモノスタトスの下に置いたかというと
パミーナに「耐えること」を教えるためなのです。つまり、これ
はザラストロがパミーナに課したひとつの試練なのです。そして
パミーナはそれを乗り越えて次のステージに進むのです。
 どうでしょうか。善悪の逆転などなく、ちゃんと話の筋は通っ
ています。しかし、第2幕の夜の女王がパミーナに聞かせる話は
オペラでは削除されることが多いのです。
 それはこの語りを入れると、ザラストロが悪者ではなくなり、
夜の女王のアリアに見られる怒りや哀しみをうまく表現できなく
なるからではないでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ――夜の女王のアリア/第2幕――
  地獄と復讐が私の心の中に煮えかかっている
  死と絶望が私のまわりに燃え上がっている
  お前によってザラストロが死の苦しみを感じないなら
  お前はもうけっして私の娘ではない
  永遠に勘当され 永遠に見捨てられる 永久に打ち砕かれる
  自然の全ての絆は勘当され 見捨てられ 打ち砕かれる
  自然の全て絆は
  もしお前によってもザラストロが恐れなくなったとしたら
  お聴き、復讐の神々よ
  お聴き、母親の誓いを
―――――――――――――――――[モーツァルト/25]


≪画像および関連情報≫
 ・ザラストコ/夜の女王/モノスタトス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『魔笛』では、ザラストロの広い人間愛は、自分の娘と「太
  陽の7つの楯」とを喪失した悲しみに映しだされる「夜の女
  王」の狭い利己的な愛と家族中心思想に対比されている。モ
  ノスタトスは、彼の名(モノ[1人きりで]スタトス[立っ
  ている])が暗示するように、利己的個人を象徴する。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジャック・シャイエの本.jpg
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2009年05月07日

●通過儀礼とは何か(EJ第1948号)

 『魔笛』というオペラを鑑賞するとき、基本的二元論を頭に置
いておく必要があります。それはJとB――あのフリーメーソン
の2本の柱です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        J ・・・・・ ヤキン
        B ・・・・・ ボアズ
―――――――――――――――――――――――――――――
 JとBの関連語を並べると、次のようになります。昨日のEJ
では、○印のついている部分を使って説明しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ヤキン(J)       ボアズ(B)
     オシリス         イシス
   ○ 男 性          女性
   ○ 太 陽          月
   ○ 昼            夜
     火            水
     金            銀
     能 動          受 動
     3            5
     赤            白または黒
     啓 発          無駄口
     牡牛座          双子座
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリーメーソンでは、自然界は次の4つの元素によって形成さ
れているという考え方があります。これを「4大元素」といって
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
     火            水
     空気           大地
―――――――――――――――――――――――――――――
 この4大元素は、「太陽」と「月」、「男性」と「女性」に関
連しており、これによって次の図式を描くことができます。これ
は、ジャック・シャイエの考え方に基づいています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ――「太陽」―――――――「月」――→
       ザラストロ・・・・・ 夜の女王
        I          I
        I          I
     ――「火」――――――――「水」――→
       タミーノ ・・・・・ パミーナ
        I          I
        I          I
     ――「空気」―――――――「大地」―→
       パパゲーノ ・・・・ モノスタトス
―――――――――――――――――――――――――――――
 4大元素の2つである「火」と「水」は、それぞれ「太陽」と
「月」に対応し、同時に「男」と「女」――つまり、タミーノと
パミーナを暗示しています。
 4大元素の残りの2つである「空気」と「大地」には、パパゲ
ーノとモノスタトスが対応しています。ジャック・シャイエはパ
パゲーノとモノスタトスについて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 パパゲーノの場合を見てみよう。空気中に住まう鳥の捕獲者で
 あり、タミーノが鳥の一種と取り違えるほどの鳥の羽根を身に
 まとい、笛(通風楽器)を吹き、羽根が生えているかのように
 身軽であわて者でもあるパパゲーノは、「空気」の王国のあら
 ゆる特徴を所有している。彼とは対照的に正反対なのがモノス
 タトスである。モノスタトスは、地下の闇の黒いシンボルであ
 り、夜の女王と侍女たちの案内人として慣れ親しんだ地下道を
 かけ巡り、ヴァルカンのような地下の洞窟で鍛えられた鎖で誰
 彼なくひっ捉えてやろうと躍起になっている。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この図式は、物語の最初の部分ではパパゲーノとモノ
スタトスは逆になっています。パパゲーノは夜の女王に仕えてお
り、モノスタトスはザラストロに仕えていたのです。しかし、最
終的には本来のポジションに戻っています。
 『魔笛』では、これらザラストロ、夜の女王、タミーノ、パミ
ーナ、パパゲーノ、モノスタトスは主要登場人物ということにな
り、それぞれについて詳しく知っておく必要があります。
 フリーメーソンでは、入会希望者があると、ロッジの幹部が集
まって会議を開き、試練を受けさせる資格があるかどうかを協議
します。実際にこのシーンはオペラの中にありますが、そこでタ
ミーノを自分の後継者とする意思を明らかにしているのです。
 フリーメーソンでいう「通過儀礼」という言葉の意味は、ひと
つの世界から他の世界へと通過することをいうのです。考えてみ
ると、『魔笛』というオペラは、タミーノとパミーナがザラスト
ロに主導され、厳しい試練を乗り越えることによって、それぞれ
が住んでいた世界から、フリーメーソンの世界に通過する儀礼全
般について描いたものであることがわかります。
 とくにパミーナについては、彼女の意思に反する誘拐にはじま
り、モノスタトスの執拗ないやがらせに耐えてタミーノと出会う
が、すぐ引き離される――そして「ザラストロを殺せ」と迫る母
の訴えに悩むなど、涙と煩悶のプロセスを辿ってはじめてザラス
トロを信ずるようになるのです。このパミーナの通過儀礼につい
ては非常に説得力があります。
 そのきっかけになったのが、第2幕でザラストロがパミーナを
いたわりながら歌うアリア「この神聖な神殿の中では」(「関連
情報」参照)なのです。    ・・・[モーツァルト/26]


≪画像および関連情報≫
 ・「この神聖な神殿の中では」/ザラストロのアリア
  ―――――――――――――――――――――――――――
    この神聖な神殿の中では
    人々は復讐ということを知らない
    ひとりの人間があやまちを犯せば
    愛がそのひとを本来のつとめに導く
    こうしてそのひとは友の手にすがって
    楽しく満ち足りて、よりよい国にいくのだ
    この神聖な壁の中では
    人間が人間を愛するところでは
    裏切り者のひそむ余地はない
    人々は敵を赦すのだから
    このような教えを喜ばない者は
    人間であることに値しないのだ
  ―――――――――――――――――――――――――――

ザラストロとパミーナ.jpg
ザラストロとパミーナ
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2009年05月08日

●3と5の争いのドラマ(EJ第1949号)

 『魔笛』というオペラの中に「3」という数字が効果的に使わ
れている――これはよくいわれることです。表面的に見えるもの
だけでも、「3人の侍女」「3人の童子」「3つの神殿」などが
上げられます。
 一方、フリーメーソンにも「3」という数字は深い関連があり
ます。基本的な位階としての「徒弟」「職人」「親方」の3つの
位階、入会者を受け入れるかどうかを決める3人の試問官、入会
式のさいに「戸を3回たたく」儀礼、それに序曲の3つの和音な
ど、「3」という数字が深く関連します。
 しかし、既出のジャック・シャイエは、『魔笛』というドラマ
は、「3」と「5」の争いによって展開されるといっています。
基本的には、次の対応になっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      「昼/男性」の世界 ・・・・・ 3
      「夜/女性」の世界 ・・・・・ 5
―――――――――――――――――――――――――――――
 「5」が夜の世界をあらわし、さらに女性を示すならば、なぜ
「5人の侍女」ではなく「3人の侍女」なのかという疑問に対し
て、ジャック・シャイエは、次のように説明しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 3人の侍女は、何よりもまず、夜の世界の使者である。それゆ
 え彼女たちは、元来、3人ではなく、5人のはずだったことに
 注意しよう。おそらく5人の配役を舞台にのせることが困難で
 あったため、このわずかな歪曲が許されたのだろう。しかし、
 モノスタトスが加担した以後の夜の女王に先導される襲撃グル
 ープは、たしかに象徴的な5人の人物を含んでいることを指摘
 しておこう。―ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かに舞台演出上は、夜の女王の侍女は5人よりも3人の方が
ベターです。しかし、音楽の方では、第1幕の冒頭シーンで3人
の侍女が歌う場面でも三重唱とはしておらず、パパゲーノの口に
鍵をかけて歌うシーン――「フム、フム、君も十分思い知ったろ
う」では、タミーノとパパゲーノを加えてはじめて5重唱にして
いるのです。つまり、3人の侍女の3重唱というのは最後までな
いのです。それほど女性に関しては「5」にこだわるのです。
 モーツァルトは、一般的に台本にはあまりこだわらず、音楽を
書いたといわれます。つまり、台本作りにはあまり口を挟まず、
出来上った台本に対して作曲をしたというのです。
 しかし、少なくとも『魔笛』に関してはそうではなかったと考
えられるのです。なぜなら、『魔笛』の台本は、熱心なフリーメ
ーソンの会員であるモーツァルトが積極的に加わらなければ書け
ない台本であったといえるからです。
 ところで、音楽でどこまで物事を表現できるのかということに
関連して、あのイゴール・ストラヴィンスキーは次のように述べ
ています。これは「ストラヴィンスキーの公理」といわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 たいていの場合がそうであるように、音楽が何かを表現してい
 るように見えるとしても・・・、それは、暗黙の因習的な約束
 事によって、貼札とか公文書の書式、つまり、一種の礼儀作法
 のように、われわれが音楽に賦与し、押しつけ、そして習慣的
 か無意識的に、われわれがその本質と混同するようになった単
 なる付加的要素である。 ――イゴール・ストラヴィンスキー
―――――――――――――――――――――――――――――
 難しい表現を使っていますが、要するにストラヴィンスキーは
「音楽には、その本質からすれば、何かを表現する力はない」と
いっているのです。音楽で多くのことを表現できないとすれば、
何かを明確に表現しなければならないオペラにおいては作曲者自
身が台本作りに積極的に関らざるを得ないことになるわけです。
そういうことから少なくとも『魔笛』の台本には、モーツァルト
自身の手が相当加わっていると考えざるを得ないのです。
 少し難しい話で恐縮ですが、ある音楽がメロディーや和音が中
心音と関連づけられて構成されている場合、その音楽は「調性が
ある」といいます。モーツァルトの楽曲分析に詳しいキャサリン
・トムソンは、モーツァルトの作品の調性について次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの作品においては、特定の調性がフリーメーソン
 の思想と明確に結びついている。それらの調性は変ホ長調、ハ
 長調、ならびに両者の関係調であるハ短調である。変ホ長調が
 選ばれたのはこれが管弦器に容易な調であるためと思われる。
 管弦器は結社の支部の祭儀で重要な役割を占めていた。メーソ
 ンのシンボリズムの3という数の重要性を考えると、3つのフ
 ラットの調号にも意義があるのかも知れない。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 『魔笛』の場合、中心となる調性は「ハ長調」です。シャルル
・フランソワ・グノーは「神はハ長調で語る」といっていますが
ハ長調は他のすべての調性の基調となっています。このハ長調の
両側に、調性が対立する2つの世界があります。それは次のよう
な世界です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  フラットの世界 ・・・・・ 「叡智」の荘厳さ
  シャープの世界 ・・・・・ 「世俗」の軽薄さ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「フラット」とは、変化記号のフラットのことですが、
『魔笛』ではフリーメーソンの儀礼にかかわる部分のほとんどは
フラットが3つ付く変ホ長調で書かれているのです。ここにも3
が出てくるのです。      ・・・[モーツァルト/27]


≪画像および関連情報≫
 ・調性(キー)とは何か/基礎知識
 ――――――――――――――――――――――――――――
  基本的にいうと、全ての曲に調性(キー)というものが存在
  します。その曲の属性とでもいうべきもので、24種類ある
  のです。具体的には「ハ長調/Cメジャー」とか「イ短調/
  Aマイナー」といいます。楽曲はその調性(キー)の上に成
  り立っていて、たまにそのキーから「あえて」はずしてみた
  りして変化をつけるのです。
 ――――――――――――――――――――――――――――

第1幕の5重唱/3人の侍女.jpg
第1幕の5重唱/3人の侍女
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2009年05月11日

●『魔笛』における調性の研究(EJ第1950号)

 『魔笛』について書かれているウェブサイトはたくさんありま
す。しかし、本当の意味でこのオペラの楽曲の内部まで踏み込ん
で解説しているケースは少ないと思います。また、たとえあった
としてもおそらく専門的な立場からの分析であり、素人にはとて
も理解できないでしょう。
 しかし、EJでは、あくまで『魔笛』の謎に迫るための必要不
可欠な情報として取り上げており、音楽の素人でも十分理解でき
るように書いているつもりです。『魔笛』というオペラの謎に迫
るためには、少し立ち入った楽曲の分析がどうしても必要になる
からです。
 『魔笛』の楽曲には、序曲の他に全部で21のナンバーがあり
ます。それぞれのナンバーの中には台詞や短い歌唱が含まれてい
ます。とくに第1幕と第2幕の「フィナーレ」にはそれらを多く
含んでいるので、「フィナーレ」についてはさらに細かい区分け
をして、21のナンバーを次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  0.序曲
  ≪第1幕≫
  1.導入部
  2.パパゲーノのアリア
  3.タミーノのアリア
  4.夜の女王のアリア
  5.五重唱/タミーノ、パパゲーノ、3人の侍女
  6.三重唱/モノスタトス、パミーナ、パパゲーノ
  7.教訓の二重唱/パミーナとパパゲーノ
  8.第8番/フィナーレ
    A――3人の童子
    B――神殿に入ろうとするタミーノ
    C――パミーナとパパゲーノの逃走
    D――ザラストロの審判
    E――合唱
  ≪第2幕≫
  9.僧侶たちの行進
 10.ザラストロのアリア
 11.僧侶たちの二重唱
 12.五重唱
 13.モノスタトスのクープレ
 14.夜の女王のアリア
 15.ザラストロのアリア
 16.3人の童子の三重唱
 17.パミーナのアリア
 18.僧侶たちの合唱
 19.三重唱/タミーノ、パミーナ、ザラストロ
 20.パパゲーノのクープレ
 21.フィナーレ
    A――パミーナの「空気」の試練
    B――タミーノとパミーナ対する「火」と「水」の試練
    C――パパゲーノとパパゲーナに対する「空気」の試練
    D――夜の女王、3人の侍女、モノスタトスの襲撃
    E――聖なるものに達したカップル
    F――終曲の合唱
―――――――――――――――――――――――――――――
 ストラヴィンスキーは、音楽で何かを表現するには限界がある
といいましたが、モーツァルトは『魔笛』において、何かを表現
するために調性というものにこだわっていたと思えるのです。
 『魔笛』において、モーツァルトは「変ホ長調」という調性を
大事に使っています。これに関連してモーツァルトは次の3つの
ルールを守っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.「完璧さ」をあらわすのは「 3」である
   2.「清澄さ」をあらわすのは「長調」である
   3.「荘厳さ」をあらわすのは「 ♭」である
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら3つのルールから導き出される調性が「変ホ長調」なの
です。変ホ長調は、「♭」が「3」つ付く「長調」の調性である
からです。
 『魔笛』の楽曲において、変ホ長調が使われている楽曲をピッ
クアップすると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.序曲
  2.タミーノのアリア(3)
  3.教訓の二重唱/パミーナとパパゲーノ(7)
  4.鎧を着た男たち(21B)
  5.第2幕の終曲(21F)
―――――――――――――――――――――――――――――
 興味深いのは、♭が3つの変ホ長調がベストであり、その数が
が減るにつれて、一転暗い感じの曲になることです。すなわち、
♭が2つの変ロ長調では、「夜の女王のアリア」(4)、タミー
ノ、パパゲーノ、3人の侍女の「五重唱」(5)、タミーノ、パ
ミーナ、ザラストロの「三重唱」(19)であり、♭が1つのヘ
長調では、「ザラストロの審判」(8D)、「僧侶たちの行進」
と「ザラストロのアリア」(9/10)、「夜の女王のアリア」
(14)が該当するのです。また、♭が2つのト短調では、嘆き
のアリアといわれる「バミーナのアリア」(17)が該当すると
いった具合です。
 これに対して、シャープ(♯)は「世俗の軽薄さ」をあらわし
ており、3人の侍女やパパゲーノが活躍するほとんどの部分の調
性は、♯が1つのト長調となっています。
 やや専門的な分析になりましたが、モーツァルトはここまで考
えて『魔笛』を書いたのです。 ・・・[モーツァルト/28]


≪画像および関連情報≫
 ・『魔笛』と変ホ長調について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (変ホ長調)――序曲と終曲の合唱によってオペラ全体を取
  り囲んでいるこの調性は、通過儀礼の崇高な場面だけでなく
  荘厳なあるいは教訓的な意味をもつ大部分の小曲あるいは楽
  句の調性となる。その関係調であるハ短調は、不完全な、あ
  るいは起伏の多い進行を示すことになる。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベイルマン/『魔笛』のシーン.jpg
ベイルマン/『魔笛』のシーン
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2009年05月12日

●フリーメーソンの通過儀礼とは何か(EJ第1951号)

 『魔笛』をさらに分析するために、フリーメーソンの通過儀礼
について詳しく調べてみる必要があります。既に述べているよう
に、フリーメーソンには次の3つの位階があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
          第1位階  徒 弟
          第2位階  職 人
          第3位階  親 方
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはもちろん、第3位階までをクリアしていること
は既に述べました。各位階ごとに通過儀礼の内容は違うのですが
第3位階の通過儀礼において、その位階への志願者はこれまでの
位階とは異なる役割を演ずることになります。その役割とは「ヒ
ラム・アビブ」なのです。なお、フリーメーソンについての詳細
は、私のブログの「秘密結社の謎と真相」(56回)をお読みく
ださい。ブログのアドレスは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     http://electronic-journal.seesaa.net/
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリーメーソンのロッジには、儀礼を執り行うために次の3人
の役職者がいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ワーシップフル・マスター ・・・  儀礼総括責任者
 2.シニア ・ウォーデン   ・・・   儀礼の役職者
 3.ジュニア・ウォーデン   ・・・   儀礼の役職者
―――――――――――――――――――――――――――――
 儀礼は真っ暗な闇の中ではじまるのです。東のワーシップフル
・マスターの前にある蝋燭の光だけが見えます。そして、志願者
はこの位階の目的が「死」そのものであることを告げられます。
 最初に、これまでの2つの位階――徒弟と職人の儀礼について
ワーシップフル・マスターから次の要約が読み上げられます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1階級においては、神、隣人、そしてわれわれ自身に対する
 責務を教えられた。第2階級では、人間の学問の秘儀に参与し
 創造主の作業を分析し、その善き性質と偉大さを跡付けた。第
 3階級では、それらすべてを固めねばならない。・・・人類を
 友愛の絆で固め・・・死の暗闇の後に・・正義の復活がある。
 そのとき、塵の中にまどろんでいた死すべき肉体は目覚め、そ
 の同胞とつながり、不死を身に纏う・・・
 ――クリストファ・ナイト/ロバート・ロマス著/松田和也訳
               『封印のイエス』より。学研刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヒラム・アビフというのは、フリーメーソンの創始者といわれ
ている人物ですが、彼は3人の男によって殺されたという伝承が
あります。第3位階の志願者は、そのヒラム・アビフ自身を演ず
ることが求められるのです。
 まず、志願者は右の額を軽く一撃され、左膝を地面につくよう
指示されます。ヒラム・アビフは、第1の悪漢が武器として持つ
定規で、右の頬を激しく一撃されたのです。そして、次のような
ワーシップフル・マスターによる語りが入ります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・彼は立ち上がり、西の門に走った。そこに第2の悪漢が
 いた。・・・これに対しても、同じように決然と、同じ答えを
 返した。コンパスを持っていた悪漢は、これでマスターの左の
 頬を激しく打った。マスターは右の膝をもって大地に跪いた。
              ――ナイト/ロマスの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 志願者はここで左の頬を軽く叩かれ、右膝を地面につくよう指
示されます。そして語りが続けられます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・われらがマスターは、血を流し、意識を失いそうになり
 ながら、東の門に走った。・・・そこには第3の悪漢がいたが
 ・・・同じ答えを返し、・・・巨大な石鎚をもって、額の中央
 に打撃を受けた・・・マスターは絶命し、地面に横たわった。
              ――ナイト/ロマスの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ワーシップフル・マスターが背後から近づき、手にした道具で
志願者の額を叩くと、仰向けになって寝るよう指示されます。挑
戦者が床に倒れると、身体に屍衣(死体を包む布)が巻かれ、ワ
ーシップフル・マスターは次のように続けます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・われらがブラザーは・・・秘密を漏らすよりも死を選ん
 だヒラム・アビフと・・・同じ状況に置かれた。・・ブラザー
 ・ジュニア・ウォーデン、われらがマスターの代理人を、エン
 タード・アプレンティスの握手をもって立たしめよ。
              ――ナイト/ロマスの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリーメーソンには、3つの握手法――徒弟の握手/職人の握
手/親方の握手法があるのですが、徒弟と職人の握手法が試みら
れますが、志願者を起すことはできません。そこで、ワーシップ
フル・マスターは親方の握手法によって志願者を起こします。そ
して、ワーシップフル・マスターは次のようにいいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ブラザーよ、すべてのマスター・メーソンはこのようにして象
 徴的な死から甦り・・仲間に加わったのだ。マスター・メーソ
 ンの光は、天上からの神の光の助けなしには人間の理性では見
 通すことのできぬ闇のヴェールである。・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにして志願者は第3位階「親方」に昇進するのですが
これは「死と復活」の儀礼そのものです。『魔笛』では、これに
当たる儀礼が演じられているのです。―[モーツァルト/29]


≪画像および関連情報≫
 ・フリーメーソンの握手法――「親方の握手法」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハサミのように開かれた指が意味するもの――それはフリー
  メイソンの重要な象徴である直角定規もしくは開かれたコン
  パスである。さらに、その手の型で握手をすることは、直角
  定規とコンパスを交差させることを意味し、メイソンが信条
  とする“道徳”と“真理”の調和を表現している。
   http://unkokuse.hp.infoseek.co.jp/shinpi/meison.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

フリーメーソンの握手法.jpg
フリーメーソンの握手法
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2009年05月13日

●『気絶による変容』というものがある(EJ第1952号)

 フリーメーソンの第3位階「親方」への通過儀礼において「仮
の死」があり、それから目覚めると新しい世界に入ることができ
るというのは、キリストの死と復活を暗示させます。
 『魔笛』において、試練を受ける対象者――タミーノ、パミー
ナ、パパゲーノの3人は、いずれも「仮の死」――気絶を経験し
それが試練を受ける契機となっているのです。
 タミーノは舞台に登場するとすぐ大蛇の前で気絶しています。
これによってタミーノの何かが変容するのです。そして、試練が
ひとつ終わるごとに人格が形成されていくのです。
 はじめて『魔笛』を見たとき、蛇に追いかけられて何らなすこ
となく気絶してしまうような弱い男に、夜の女王が強大なザラス
トロに捕われている娘の救出を依頼する矛盾を感じたものですが
そこに「気絶による変容」という深い意味があったのです。
 それでは、パミーナはどうでしょうか。
 パミーナもタミーノと同様に登場するとすぐ、モノスタトスと
のやりとりの中で気絶しています。その直後にパパゲーノがやっ
てきてパミーナは目覚めるのです。
 興味深いことに、タミーノにしてもパミーナにしても、気絶か
ら目覚めて最初に見る顔――つまり、気絶の変容による新しい生
が見るのはいずれもパパゲーノであるという事実です。
 タミーノの場合は、蛇を退治した3人の侍女であり、パミーナ
の場合はモノスタトスであるのがオペラの流れとしては自然なの
ですが、目を覚まして最初に見たのはあえてパパゲーノになって
います。これについてジャック・シャイエは、これが意味のある
ことであるとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らの新しい生が最初に見たものは、消えやすい「空気」の幻
 覚の化身である軽薄で軽率なパパゲーノ以外の何者でもない。
 それは、この最初の変容が感覚的なものでしかなかったからで
 ある。真の愛のより深遠なる叫びがそれに結びつくときに初め
 て、彼らは本当に彼ら自身となるのである。このような愛は彼
 らにはまだ早すぎるので、彼らはその愛の対象それ自体を見つ
 めることができない。そのために、タミーノは肖像画を通して
 バミーナはパパゲーノの話によって、パパゲーノは老婆の醜悪
 な姿でしか、それぞれ愛の対象を知らないのである。彼らが実
 際にお互いの姿を「眺める」ためには、他の試練、他の変容を
 さらに経験する必要がある。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、『魔笛』というオペラの中で演じられる「試練」につ
いて知る必要があります。「試練」には次の4つがあります。こ
れはフリーメーソンの通過儀礼と密接な関連を持っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.大地の試練
           2.空気の試練
           3.水 の試練
           4.火 の試練
―――――――――――――――――――――――――――――
 「大地の試練」は、フリーメーソンのロッジでは、反省の部屋
というところで行われます。志願者は目隠しをされて狭くて暗い
場所に案内されるのです。その部屋には、「V・I・T・R・I
・O・L」という文字が書いてありますが、それは次の意味をあ
らわすラテン語なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   Visita Interiorem Terrae,Rectificando Invenies
   Occultum Lapidem /大地の内奥を訪れよ、汝正しき
   道を辿りて隠れたる石を見出さん
―――――――――――――――――――――――――――――
 オペラにおいては、タミーノとパパゲーノに対する最初の試練
が行われる地下の場面が反省の部屋であり、そのままのかたちで
再現されています。
 この部屋では徹底した「沈黙」が求められます。沈黙は大地の
試練だけではなく、どの試練でも求められるのですが、試練ごと
にレベルが高くなります。ところで、オペラのこのシーンで観客
たちは「沈黙の試練なのに結構よく喋っているじゃないか」と感
ずるはずです。
 しかし、ここで求められているのは、「男性が女性に対して行
う沈黙」なのです。シャイエによれば、この試練は男性を女性に
対して無感覚にし、男性に女性を警戒するように教えることが目
的であるとしているのです。
 試練では、奈落(大地)から3人の侍女があらわれ、タミーノと
パパゲーノに対して、ザラストロの教団を信じないようけしかけ
執拗に2人に話しかけようとします。これが、ナンバー12の五
重唱なのです。
 タミーノはそれに一切耳をかさないのですが、パパゲーノはそ
れを守りきれないのです。最後に「神聖な敷居が汚されている」
という聖職者たちの合唱が起こり、すさまじい雷鳴が轟きます。
ここでパパゲーノは気絶するのです。パパゲーノは大地の試練に
不合格になりますが、この気絶で確実に一皮むけるのです。
 どうして、タミーノが合格で、パパゲーノが不合格なのかとい
うと、3人の侍女が退散したあとで、タミーノを担当する弁者と
パパゲーノを担当する第2の僧がたいまつを持って登場し、弁者
はタミーノに合格を宣言するのに対し、第2の僧はパパゲーノに
は何もいわないからです。演出による違いはありますが、そうい
うシーンがちゃんと入っているのです。
 試練が終わると、志願者は頭からヴェールをかけられて反省の
部屋から連れ出されます。これは、フリーメーソンの儀礼での目
隠しとまったく同じです。大地の試練以外の試練については、明
日のEJでお話しします。   ・・・[モーツァルト/30]


≪画像および関連情報≫
 ・「反省の部屋」の版画と諸シンボル
  ―――――――――――――――――――――――――――
  添付ファイルの右の図は、『魔笛』の1791年初版台本の
  扉絵であるが、反省の部屋を描いている。左の図は、反省の
  部屋につねに見られる数多くのシンボル――壷、砂時計、伝
  統的な頭蓋骨に代わる斬首像など――のかたわらに「大地の
  内奥」を思わせるシャベルとツルハシがはっきり見られる。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

『魔笛』初版台本/1791.jpg
『魔笛』初版台本/1791
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2009年05月14日

●モーツァルトとホ長調の研究(EJ第1953号)

 パミーナに対する大地の試練は、どのように行われていたので
しょうか。
 それは、タミーノの大地の試練のすぐあとで行われているので
す。楽曲ナンバー13「モノスタトスのクープレ」(EJ第19
50号参照)です。
 場面は心地よい庭園で時間は夜です。薔薇とさまざまな花壇の
あるところにパミーナは眠っています。薔薇は女性のフリーメー
ソンの入信式のシンボルなのです。女性フリーメーソン結社につ
いては『魔笛』と関係があるので、改めて述べることにします。
 夜はそのまま「反省の部屋」になり、夜はパミーナの母親の王
国です。そこに大地の化身であるモノスタトスが登場し、眠って
いるパミーナに対し、「これほどの魅力に鈍感でいられる男はい
ない」と歌い、パミーナを自分のものにしようとします。
 そうすると、奈落(大地)から夜の女王が姿をあらわし、モノ
スタトスを追い払うのです。夜の女王は、目を覚ました娘に対し
省略されることの多い例の打ち明け話(EJ第1947号参照)
をするのです。そして、短刀を渡してザラストロを殺せと娘に命
令します。
 短刀を手にして思案にくれているパミーナのところに再びモノ
スタトスがあらわれます。夜の女王の話を盗み聞きしていたので
す。そして、パミーナにいうことを聞かないと、その話をザラス
トロにばらすと脅迫しますが、パミーナはそれを拒否します。
 そこにザラストロがあらわれてモノスタトスを追い払います。
ここでパミーナの大地の試練は終了するのです。ザラストロの2
つ目のアリアがここで歌われることは既に述べましたが、このア
リアはモーツァルトにとっては大変珍しい曲なのです。
 それは、このアリアの調性がホ長調であることです。ホ長調は
シャープ(♯)が4つ付く調性であり、モーツァルトがめったに
使わない調性なのです。既出のジャック・シャイエは、これにつ
いて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ホ長調はモーツァルトがそれまで用いてきた調性のうちでは、
 最もシャープの数が多いものであり、それも極度に倹約してい
 る。彼の全器楽作品の調性目録のなかで、この調性が見られる
 のは、1780年までに3度、1780年から1791年まで
 に2度であり、それもほとんどメヌエットのトリオのなかにあ
 る。それは、この曲が喚起している至福の楽園の牧歌的な清澄
 さを描くためにはとくに適していた――たとえ、それを用いる
 ことによって、モーツァルトがスコアの他の調性のさまざまな
 約束ごとを乱しているとしてもである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このザラストロのアリアは、大地の試練で悩み苦しむパミーナ
にとって最大の癒しとなる歌になっています。そこには賢者たち
の楽園の牧歌的な描写があり、夜の女王が訴える復讐を知らず、
友愛が支配しています。『魔笛』を鑑賞した人でも、ぜひ改めて
このアリアを聴き直してみる価値はあると思います。
 このアリアの最後の一節は、夜の女王の心の狭さを批判する警
句ともなっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   このような教えを喜ばない者は人たるに値しない
―――――――――――――――――――――――――――――
 このなかの「人」は「Mensch/人間」であって「Mann/男」で
はないのです。もはや両性の争いではなく、人類が問題なのだと
いうことを歌っているからです。まして復讐などはあってはなら
ないと歌うのです。
 次の試練は「空気の試練」です。この試練には、次の2つのこ
とが試されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ご馳走の誘惑を乗り越える
       2.高度のレベルの沈黙を守る
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノとパパゲーノの空気の試練は、楽曲ナンバー16「3
人の童子の3重唱」からはじまるのです。3人の童子はこのとき
大地の試練を受けるとき、取り上げられていたタミーノの笛とパ
パゲーノの鈴を2人に返しているのですが、これには深い意味が
あるのです。
 タミーノにとって上記の1に関しては問題ではないものの、つ
らかったのは、2の「高度のレベルの沈黙を守る」ことだったの
です。「高度のレベル」とは、世間的な女性一般に対して沈黙を
守るだけでなく、自分が深く愛する女性――パミーナに対しても
沈黙を貫かなければならないことを意味していたからです。
 パパゲーノはご馳走にむさぶりついたのですが、タミーノはそ
れを拒否し、自分の手に戻ってきた笛を吹いたのです。笛に誘わ
れてパミーナが姿をあらわしたのですが、彼は彼女と話すことを
拒否し、沈黙を守ったのです。パミーナは、タミーノが試練を受
けていることを知らないので、タミーノが自分を嫌いになったも
のと思い込み、絶望感に襲われたのです。そして、タミーノは空
気の試練に合格するのです。
 これに対してパミーナに対する空気の試練は、タミーノとの別
れと苦悩、自殺の決意――そして、それを乗り越えたことがその
まま試練になっているのです。タミーノやパパゲーノと違う点は
彼らが試練と知って挑戦しているのに対し、パミーナはそれが試
練であるとは聞かされていないことです。
 これで、タミーノとパミーナは、気絶に続く2つの試練――大
地の試験と空気の試練という2つの試練をクリアしたことになり
あと最大の難関といわれる水と火の試練の2つを残すのみとなっ
たのです。この2つの試練をタミーノとパミーナは2人で受ける
こにとなるのです。      ・・・[モーツァルト/31]


≪画像および関連情報≫
 ・「沈黙」を守ることについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フリーメーソンの入会者に対して「沈黙」は執拗に勧告され
  ている。その勧告とは彼らがロッジのなかで見たり聞いたり
  するすべてのことに対して沈黙を守るということである。秘
  密結社ということばが無意味なことばであってはならないか
  らである。しかし、『魔笛』のなかでは、男性が女性に対し
  て沈黙を守るということである。
  ―――――――――――――――――――――――――――

沈黙の戒め/ホ長調.jpg
沈黙の戒め/ホ長調
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2009年05月15日

●パパゲーノの大地と空気の試練(EJ第1954号)

 『魔笛』において演じられるフリーメーソンの通過儀礼――つ
まり、「試練」は、あくまでタミーノとパミーナを中心に描かれ
ており、パパゲーノとパパゲーナのそれはどちらかというと狂言
まわし的に表現されています。
 しかし、狂言まわしといっても、そこに原則論的なものは貫か
れていて、ちゃんと説明がつくのです。そこで、パパゲーノによ
る「水の試練」について見ていくことにします。
 タミーノが空気の試練を受けているとき、パパゲーノもその場
にいたのです。しかし、パパゲーノは、3人の童子が運んできた
ご馳走をたらふく食べ、試練に背を向けています。パパゲーノは
喉の渇きを訴えると、水差しを持った老婆がどこからともなく忽
然とあらわれるのです。
 パパゲーノは水が出てきたことに腹を立て、その水を老婆に浴
びせます。実はパパゲーノは葡萄酒しか飲まないので、水を屈辱
的な飲み物と考えており、飲むことを拒絶したわけです。
 しかし、「水」は女性のシンボルであり、パパゲーノはこれを
拒否してしまったので、彼はカップルを構成する機会を逸したこ
とになるのです。
 一方、パパゲーナの方は、パパゲーノから水を浴びせられたこ
とによって、結果として洗礼を施こされることになったのです。
これは、彼女にとっては、不完全ながら水の試練を受けたことに
なり、それだけパパゲーナはパパゲーノに近づきやすくなったこ
とを意味しています。しかし、試練が十分でないので、老婆のか
たちは変わらないのです。もちろんパパゲーノは、そんなことは
知らないでいるのです。
 しかし、パパゲーノは一回だけ老婆の姿でないパパゲーナを見
る機会があります。それはパパゲーノが大地の試練に失敗したと
き、弁者が登場し、パパゲーノの臆病さを責めたのです。「お前
は大地の暗い奥底を永遠にさまようがよい」と僧侶がいうと、パ
パゲーノは、「そんなことはどうでもよい。葡萄酒を飲ませてく
れ」とせがみます。僧侶は「それなら、飲ませてあげよう」とい
うと、大地から大きな葡萄酒があらわれたのです。パパゲーノは
われを忘れて葡萄酒を飲むのです。
 これはかたちを変えた大地の試練なのです。葡萄酒は「母なる
大地」の生産物のシンボルであるからです。興に乗ったパパゲー
ノは、夜の女王からもらった鈴――グロッケンシュピールを鳴ら
して有名なアリア――「かわいい娘か女房が」を歌います。
―――――――――――――――――――――――――――――
       可愛い娘か女房が
       欲しゅうてならぬ、パパゲーノは
       おお、そんなにやさしい小鳩がいたら
       さぞやおいらは楽しかろ!
       飲むもの、食うもの、みなうまく
       位でいえばお殿様
       賢者のように満ち足りて
       極楽浄土にいる気持
       かわいい娘か女房か
―――――――――――――――――――――――――――――
 この鈴の音を聞いて、小さな老婆が杖で大地を叩いて踊りなが
ら登場します。彼女は可愛いらしく、空気のように軽快なパパゲ
ーナの姿になっているのです。ジャック・シャイエによると、こ
れは葡萄酒の力によって幻覚として老婆がパパゲーナの姿になっ
ていると解説しています。
 その証拠にパパゲーノがわれを忘れてパパゲーナに抱きつこう
とすると、僧侶が中に入って2人を引き離します。試練が完了し
ていない――つまり、空気の試練が終わっていないというわけで
す。パパゲーノは絶望のあまり絶叫します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  たとえ大地に飲み込まれても、あの娘のあとを追ってやる
―――――――――――――――――――――――――――――
 そうすると、たちまち大地がパパゲーノの足元から崩れ、彼は
地中に飲み込まれます。これによって、パパゲーノの大地の試練
は終了したのです。
 すっかり、絶望したパパゲーノは、首をつって自殺しようとし
ます。このとき、モーツァルトは喜劇の軽やかな調子を離れるこ
となく、苦悩の音楽を表現することに成功しています。オーケス
トラの激しい動き、多様な転調、短調の軽いタッチなどを駆使し
てです。パパゲーノの悲しさ、絶望感がよく出ています。
 彼は首吊りを実行に移そうとして、若干時間稼ぎをします。誰
かが引き止めてくれると考えたからです。
 しかし、誰も引き止めてくれないので、今度は5つの連続音の
出る小さな笛を何回も吹きます。これがよかったのです。笛は通
風楽器であり、タミーノの笛と同様に空気の試練の道具として機
能したからです。
 その効果はてきめんで、3人の童子はパパゲーノに呼びかけま
す。「パパゲーノ!鈴を鳴らしてごらん!」と。楽曲ナンバーの
21−Cです。鈴の音に誘導されて、老婆の姿でないパパゲーナ
が登場します。そして2人で歌われるのが、「パ・パ・パの二重
唱」といわれるナンバーです。
 この二重唱について、ジャック・シャイエは次のように書いて
います。本当に心温まる二重唱です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無邪気でありながら非常に面白いこの有名な二重唱は、最も近
 いカデンツの和音からはみ出すことなく、また3つの区分のど
 の肉声でも転調することなく、130小節にわたってその面白
 さを保つという離れ業をやってのける。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 次は、火と水の試験です。  ・・・[モーツァルト/32]


≪画像および関連情報≫
 ・通過儀礼による「気絶」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いかなる試練も一巡すると人格が完全に変容することになっ
  ている。すなわち、未来の選ばれた人は、まず古い生を死に
  次いで新しい生に生まれ変わるのである。このような観念は
  フリーメーソン結社が位階の称号を授与するたびに、(「知
  識」に一歩近づくことを表わしている)採りいれているもの
  だが、この結社独自のものではない。キリスト教を含むほと
  んどすべての宗教はそのことを知っている。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

パパゲーノの大地の試練.jpg
パパゲーノの大地の試練
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2009年05月18日

●タミーノとパミーナの火と水の試練(EJ第1955号)

 タミーノとパミーナについては、大地の試練と空気の試練は既
にクリアしています。しかし、パミーナは女性であることなどか
ら、タミーノと同じ試練の方法ではなく、別バージョンとなって
おり、本人はそうと意識していないのです。
 彼らに残っているのは、火と水の試練です。タミーノはその試
練を受け入れ、挑戦しようとしますが、パミーナは命令も許可も
受けていないので、その心構えはできていないのです。そのため
自分に背を向けてしまうタミーノに対して絶望感を抱いて自殺し
ようとします。
 それを引きとめたのは、3人の童子なのです。短刀で自殺しよ
うとするパミーナに対して次のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おお、不幸な人よ、おやめなさい。あなたの王子さまがこれを
 見たら、悲しみのあまり死んでしまいますよ。彼はあなただけ
 を愛しているのですから。         ――3人の童子
―――――――――――――――――――――――――――――
 3人の童子のこのことばを聞いて、パミーナは愕然とし、生気
を取り戻すのです。そして、3人の童子はパミーナをタミーノの
ところに連れていくのです。
 場面は変わって、タミーノに対する火と水の試練の現場です。
突如として2人の鎧を着た男が登場します。闇の中で黒い鎧を着
て、兜の上には火が燃えている――あるいは手に松明を持って登
場してくるのです。そして、男たちは次のように歌うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   苦難に満ちたこの道をたどる者は、
   火、水、空気、土によって浄められる
   死の恐怖に打ち勝つことができるならば
   この地上から天界に舞い上がるであろう
   かくて、その者は心の目を開かれ、イシスの秘儀に
   全身を捧げることができるであろう
―――――――――――――――――――――――――――――
 「兜の上で火が燃えている」――不思議な兜ですが、モリエー
ルの「町人貴族」にも、この奇怪な兜――ここでは兜ではなく帽
子であるが――が登場します。第4幕第8場で、トルコ風儀式が
行われるのですが、そこに登場する回教僧のターバンの上には、
火のついたローソクが立ててあるのです。これも明らかに宗教的
な結社の儀式と思われます。
 2人の男は、要するに「火」と「水」の番人なのですが、彼ら
の歌は、ルター派教会の讃美歌「コラール」の旋律で歌われてい
る点に留意する必要があります。特定の宗教に依存しないはずの
フリーメーソンの儀礼において、なぜ、コラールが出てくるので
しょうか。これはモーツァルト音楽の音楽的装飾の領域における
謎とされているのです。
 ちなみに、コラールのメロディーは多くの場合単純で、歌うの
が容易なのです。それらは一般に韻を踏んだ詞を持つ、有節形式
(歌詞に1番、2番があること)です。初期のコラールの歌詞と
音楽は宗教改革以前の賛美歌や世俗歌からとられたのですが、い
くつかのコラールの旋律はマルティン・ルター自身によって書か
れたものもあるということです。
 さて、タミーノが「私のために恐怖の門を開け」と歌い、火と
水の試練への一歩を踏み出そうとしたとき、パミーナの声が聞こ
えてくるのです。彼女はタミーノと危険を共にしたいと願い出て
許されたのです。
 ここで重要なことは、パミーナが、自分が試練に立ち向かって
いることを認識している点です。それは女性がその資格において
入信式の試練を受ける許可を正式に受けていることを意味するか
らです。2人の鎧を着た男とタミーノの三重唱のかたちでパミー
ナがタミーノと一緒に火と水の試練を受けることが次のように歌
われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   夜も死も恐れない女は、尊敬に値し、清められよう
―――――――――――――――――――――――――――――
 女性とフリーメーソン結社との関係については改めて述べるが
女性は正式には「火(男)」と「水(女)」――夫婦の2つの元
素によってしか清められることはないのです。しかし、パミーナ
は、既に見てきたように、本人はそれを認識していなかったもの
の、他の2つの元素「大地」と「空気」の試練を結果としてクリ
アしているのです。タミーナは、この三重唱によってはじめて、
夜の王国の女としての侮辱から解放されたことになるわけです。
 ここでパミーナはタミーノに魔法の笛を吹くよう進言するので
す。そして、実際に火と水の試練は、2人がそれを受けている間
タミーノの吹く笛の音色が響いているだけで終るのです。試練の
中身は何も明らかにされないのです。
 ジャック・シャイエは、魔法の笛について、次のように述べて
いるので、ご紹介しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 魔法の「笛」の存在は、この試練に新たな広がりをあたえてい
 る。この試練は、もはやたんに一定のプログラムの成就ではな
 く、一つの縮図であり、総括である。つまり、「笛」は、その
 中に4大元素を凝縮しているだけでなく、タミーノ(火)がパ
 ミーナ(水)を伴って、「大地」の奥に入り、そこで彼ら自身
 のシンボルである2つの元素「男」と「女」に直面するのは、
 その笛に息(空気)を吹き込むことによってである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 音楽は神々の言葉を借りたものという考え方があり、笛は音楽
の魔術的な力を意味しています。そうであるとすると、このオペ
ラの題名はやはり『魔笛』なのです。
               ・・・[モーツァルト/33]


≪画像および関連情報≫
 ・タミーノとパパゲーノの火と水の試練の音楽
  ―――――――――――――――――――――――――――
  宗教的金属楽器のわずかな珍しい和音――ティンパニーがた
  だちにこれはこだまの反響のように弱音で答えている――に
  かろうじて支えられて、魔法の笛は、技巧をいっさい排除し
  た厳粛な行進曲として鳴り響く。その間に、火山の門が左右
  に開き、次いでカップルの背後から閉じられる。われわれは
  試練には立ち会わない――このように秘密である――、そし
て音楽のなかでそれを強調するものは何もない。魔法の笛だ
  けが冷静に行進曲を続ける。やがて(演劇的慣習からすれば
  少し早すぎるが)、パミーナとタミーノが再び現われ、抱擁
  し合って舞台中央にとどまる。そのとき、笛の音が止み、オ
  ーケストラが再び鳴りはじめる。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

火と水の試練.jpg
火と水の試練
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2009年05月19日

●フリーメーソン結社への女性の入会(EJ第1956号)

 『魔笛』において、タミーノとパミーナの火と水の試練を見て
いると、フリーメーソンには女性も入会が認められることがわか
ります。火と水の試練をクリアしたタミーノとパミーナは最終的
に聖職者の衣装を着てあらわれるからです。
 モーツァルトの女性観をあらわすオペラに、『コシ・ファン・
トゥッテ』というのがあります。このオペラは次のような内容を
持つ作品です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪第一幕≫
  中世のナポリ。フェランドとグリエルモは軍人で友人同士。
 またドラベッラとフィオルデリジは姉妹。それぞれフェランド
 はドラベッラと、グリエルモとフィオルデリジは婚約者同士で
 ある。二人の男性は共通の友人である老哲学者ドン・アルフォ
 ンソと女性の貞節について賭をする。
  軍隊の出征を告げる太鼓。二人は偽って戦地に向かうことに
 なる。フェランドとグリエルモは賭で約束したとおり、変装し
 て互いの相手の婚約者の前にあらわれアタックする。女 中の
 デスピーナもドン・アルフオンソに買収され、彼に協力する。
 ≪第二幕≫
  はじめは固く拒否していた姉妹も次第にこころを動かしはじ
 める。デスピーナもこれに拍車をかけるようにけしかける。ま
 ずはフィオルデリジが陥落して、ついでドラベッラも相手を受
 け入れる。新しい恋人同士の結婚式が始まろうとする。
  そのとき太鼓が鳴って、軍隊が出征から帰ってくる。二人の
 男性は変装からもとの軍人にもどる。青ざめる姉妹。真相があ
 かされる。四人はもとのさやにおさまって、めでたしめでたし
 となる?
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3174/cosi.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、このオペラは女性が偽りの愛の誘惑に負けるかどう
かという賭けがテーマなのです。しかも本当の恋人同士が入れ替
わるという仕組みになっていて、観客は二重の意味でモラルに反
した禁断のゲームを味あうことになります。
 それに、このオペラの題名は「女は皆こうしたもの」という意
味であり、そこには女性に対する軽蔑感が感じられます。モーツ
ァルト自身がそういう考え方であったかどうかはわかりませんが
18世紀の欧州社会全体が、表面的には女性に対して親切な態度
を装いながら、その奥底にそういう軽蔑感を包み隠していたこと
は間違いないと考えられるのです。
 カトリック教会をみればわかるように、いかなる宗教団体もそ
の初期の段階においては、多かれ少なかれ男性支配、少なくとも
男女分離の世界であったのです。すなわち、女性が入信式ないし
それに類するものに近づくことを絶対に排除したのです。
 カトリック教会においては、現在でも一部の例外として下位の
地位に就くことはあるものの、女性が聖職に就くことは基本的に
抑制されているのです。その点については、自由、平等、友愛を
掲げるフリーメーソン結社も例外ではないのです。
 フリーメーソン結社には、アンダーソン憲章というものがあり
ます。これはジェイムズ・アンダーソン(1680〜1739)
が起草し、1723年にロンドンで公表されています。各ロッジ
は、これをベースにしてロッジの規約を作成したのです。
 この憲章は二部から成っており、第一部では「フリーメーソン
の歴史」、第2部は「フリーメーソンの責務」と題する6ヶ条が
定められています。その第2部の第3条に「入会規定」として、
次の趣旨のことが記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪入会規定/第3条≫
  健全なる肉体と精神を持つ、神を信じる名声ある男性である
  こと。奴隷、女性、品行が悪いかあるいは汚名を受けた人は
  資格がない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロッジの中には、この入会規定に疑問を抱き、女性の加入を認
めるところも出てきたのです。この場合、正規の男性ロッジとは
別に女性だけのロッジを作り、それを「養子ロッジ」とするかた
ちをとったのです。しかし、そのロッジは男性ロッジよりも一段
低い位置に置いたのです。
 そういう中にあって、「モプス結社」と名乗るロッジが登場し
てきます。この結社は、男性の役員が義務的に存在していたもの
の、女性に広く門戸を開いた結社で、慈善事業の実行を使命とし
て活動したのです。
 しかし、英国の大ロッジは「ロッジは完全に男性によって構成
されていなければならない」とし、「男女混合ロッジ」や入会規
定において女性の入会を認めているロッジとは、いかなる関係も
持ってはならない――こういう厳しい根本原則を掲げて反対した
のです。その結果、非正規のフリーメーソンロッジがたくさん生
まれることになります。
 さらに1784年になると、錬金術師といわれるカリオストロ
が「エジプトの儀礼」という名称で、男女両性から成るフリーメ
ーソン結社を設立し、自らは男性ロッジ「偉大なるコプト人」と
いう称号を名乗り、妻のロレンツァ・フェリチァーニには「シバ
の女王」という名称を与えて、女性ロッジの「偉大なる女親方」
の地位に昇進させたのです。
 この「エジプトの儀礼」は、あくまでも男性ロッジと女性ロッ
ジを同格に位置づけていますが、男性ロッジの位階の数を3から
7に増やして、結果として男性ロッジを高い位階を持つ上位のフ
リーメーソン結社に位置づけたのです。
 このカリオストロの儀礼の考え方を『魔笛』の台本作家は取り
入れているフシがあるのです。『魔笛』は、結社への女性の入会
に関して一つの道を拓いているのですが、これについては明日の
EJで述べます。       ・・・[モーツァルト/34]


≪画像および関連情報≫
 ・モプス結社の「モプス」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「モプス」が何を意味するかはっきりとはわからないが、予
  言者「モプスス」ではないかと考えられる。ギリシャ神話の
  中にはこの名前を持つ予言者は2人いる。ヴィヴァルディは
  「モプスス」についてのカンタータを書いている。
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』から

歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』より.jpg
歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』より
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2009年05月20日

●フリーメーソン結社とフェミニスム(EJ第1957号)

 フリーメーソンにおける「男性ロッジ」と「女性ロッジ」の対
立は、『魔笛』における「ザラストロ」と「夜の女王」との対立
と同じ構図であると考えることができます。
 夜の女王は闇の世界だけを統治しており、彼女の配下の3人の
侍女は夜の女王の結社に入信した者とみなすことができます。し
かし、彼女たちの性では絶対に通過できない永遠に不完全な入信
式を受けたことになるのです。これは女性ロッジに入信した女性
と同じ立場であるといえます。
 一方ザラストロは、「太陽の輪」を有し、神の殿堂を守ること
を使命としています。そして、自分たちこそが正規のロッジであ
るとして、闇の世界は認めないのです。闇の世界の存在は神の殿
堂を汚し、呪詛の雷鳴を招く根拠になっている――そう考えてい
るのです。夜の女王や3人の侍女がザラストロの神殿に近づくと
激しい雷鳴が轟くのはそのためです。
 しかし、『魔笛』におけるパミーナの扱い方は、女性にとって
ひとつの救いをもたらすものとなっています。なぜなら、闇の世
界の住人であったパミーナは、その世界から拉致されたとはいえ
彼女の功徳により、必要な試練を乗り越えて、最終的には聖職者
の地位を得ているからです。
 これは、女性ロッジに入会した女性であっても、男性ロッジに
入会した男性と同じように、ひとつずつ位階を乗り越えて最終的
に聖職者のポジションが得られる可能性を暗示しているものとし
て注目されるのです。
 モーツァルトならびに『魔笛』の台本作家は、モプス結社――
代表的な女性ロッジを意識してオペラを作っていると考えられま
す。モプス結社は女性の入信者に対して固有の儀礼を行っていた
のです。この儀礼を象徴するものは、『魔笛』の第1幕の前半に
おいて多く見られるのです。それは次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.3人の侍女たちの殺す蛇
         2.パパゲーノが提供する鳥
         3.秘密を厳守させる南京錠
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「3人の侍女たちの殺す蛇」です。
 聖書の「創世記」において、蛇は女性を誘惑するための小道具
として使われています。蛇はエヴァに近づき、神が禁じていたに
もかかわらず、善悪の知識の木の実を食べるよう唆したのです。
 ジャック・シャイエは、モプス結社の入信式について、次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 女性の入信式には聖書の「誘惑」への暗示が満ち溢れている。
 第1段階、すなわち「徒弟」位階へ加入するためには、未来の
 「姉妹」は蛇の絵を手に握っていなければならない。次の位階
 すなわち、「職人」位階では、彼女たちは、エデンの園の場面
 を追体験し、「叡知」の果実である林檎を食べなければならな
 い。この林檎は、真二つに割れていて、種が女性の数である五
 角星を表わしている。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2は「パパゲーノが提供する鳥」です。
 この場合、鳥は「軽薄さ」の象徴なのです。パパゲーノは自分
の食用に鳥を捕えているのではなく、夜の女王の命令によって鳥
を捕え、その鳥(軽薄さ)と引き換えに日々の食料と飲料を得て
暮らしているのです。このようなことでは、彼女たちが「完全な
知識」に近づくことはけっしてないのです。
 第3は「秘密を厳守させる南京錠」です。
 『魔笛』の第1幕の冒頭において、3人の侍女はパパゲーノが
蛇を殺したのは自分だとウソをついた罰として、口に南京錠をか
けて、喋らせないようにするシーンがあります。実は、この南京
錠もモプス結社の入信式に使われる道具なのです。
 この南京錠は、モプス結社の職人の位階において、秘密を厳守
させるための小道具なのです。儀礼においては、次のように行わ
れるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 導師は新会員を起き上がらせる。そして、先を聖なる槽の中に
 ひたしておいた鏝(こて)をとって、彼女の唇に五度触れさせ
 てから次のようにいう。「余が汝の唇にあてたものは、秘密厳
 守の封印である。汝はやがてその封印に秘められた教訓を学ぶ
 ことになろう」。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜の女王と3人の侍女をよく見ると、ヴェールで顔を隠してい
ます。これは、女性が完全な「知識」に近づくことがないことを
示しているのです。彼女たちの行動には制約があり、明らかに限
界があるのです。
 タミーノとパパゲーノが夜の女王と3人の侍女から説得され、
その気になってザラストロの城に出かけようとする――そうする
と、3人の侍女は別れを告げて去って行こうとするシーンがあり
ます。タミーノはあわてて「道を教えてくれ」というと、侍女た
ちは3人の童子にその役割を譲って姿を消してしまいます。
 これは、侍女たちにはその性――女性の制約によって、ザラス
トロの城への案内ができないのです。そこで男性の3人の童子に
その役割をバトンタッチしたのです。3人の童子は女性歌手が歌
うことが多いですが、通過儀礼としては3人の童子はあくまでも
男性であることが必要なのです。
 このような観点から考えても、『魔笛』におけるパミーナの扱
いは異例であって、その後の女性ロッジの扱いについて重要なイ
ンパクトを与えたのです。   ・・・[モーツァルト/35]


≪画像および関連情報≫
 ・3人の侍女と別れの場面
  ―――――――――――――――――――――――――――
  タミーノ :おっと、美しいご婦人方、教えてください。
  パパゲーノ:その城にはどう行くのですか。
  3人の侍女:若く、美しく、やさしく、賢い3人の少年が、
        あなた方の旅に見え隠れに付き合います。その
        少年たちが案内してくれるでしょう。彼らの助
        言に従えば、それで良いのです。
  ―――――――――――――――――――――――――――

女性ロッジ/男性ロッジ入信式.jpg
女性ロッジ/男性ロッジ入信式
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2009年05月21日

●真の台本作家は誰なのか(EJ第1958号)

 『魔笛』というオペラは、台本は取るに足らないおとぎ話であ
るが、その素晴らしい音楽によって、モーツァルトの代表的なオ
ペラになっていると考えている人が多いと思います。実際にこの
オペラは、劇としての意味はよく分からなくても、全編に流れる
優しい、親しみやすい音楽によって、観客として十分な満足感が
得られることは確かです。
 『魔笛』の台本作家は、エマヌエル・シカネーダーということ
になっています。しかし、ここまでの分析により、シカネーダー
は、演出は担当したものの、このオペラの真の台本作家ではない
のではないかと考えられるのです。
 なぜなら、『魔笛』では、明らかに台本も音楽もフリーメーソ
ン結社の通過儀礼を精緻に描いており、これほどの内容の台本を
シカネーダーに書けるはずがないからです。確かにシカネーダー
は、一時期フリーメーソンであったことがありますが、熱心な会
員ではなく、「職人」以上の位階に昇進できなかったのです。そ
の後、日頃の行いが良くないという理由で、レーゲンスブルグの
彼のロッジ「3つ鍵カール」から破門されているのです。そうい
う男が、これほどの精緻な台本を書けるはずがないのです。
 それなら、一体誰が『魔笛』の台本を書いたのでしょうか。
 確証はないものの、情報を総合すると、イグナーツ・フォン・
ボルンの指導を受けたモーツァルトがあくまで主体となって台本
作りに取り組み、それをシカネーダーやギーゼッケなどがサポー
トしたのではないかと考えられるのです。
 モーツァルトは「恩恵」ロッジに籍を置いていたとはいえ、自
分のロッジよりも、フォン・ボルンが主宰する同系統の「真の調
和」ロッジの方に熱心に出席しており、フォン・ボルンの影響を
大きく受けていたのです。したがって、『魔笛』の制作に当たっ
て、モーツァルトがフォン・ボルンの指導を受けたという可能性
は十分あるのです。
 この台本の解釈を巡って、演出上大きな間違いも出てくるので
す。確証がないのであえて名前を伏せますが、ある高名な指揮者
――音楽ファンでなくても誰でも知っている高名な指揮者は『魔
笛』の演出に当たって、「3人の童子」を「3人の精霊」と解釈
し、舞台上も女性に演じさせています。しかし、これは大きな間
違いということになります。
 確かに「3人の童子」は女声で歌われることが多いのですが、
舞台に出てくるときはあくまで男の子の格好をしていなければな
らないのです。なぜなら、「3人の童子」は、ザラストロ側の人
間であり、通過儀礼において一定の役割を果たしているのであっ
て、必ず男性でなければならない――その理由は既に述べた通り
です。しかるに、その高名な指揮者は、そういうことについて、
全く意を払っていないのです。
 1791年9月30日、『魔笛』は初演されています。その初
演を観る機会を持った観客は、その比類のない音楽の美しさとモ
チーフの豊富さに、それまでのモーツァルトの作品とは違った感
動を示したといいます。それは「熱狂」と呼ぶにふさわしい反応
示したのです。
 上演のたびごとにその熱狂さは増大し、このオペラは、初演以
来16晩連続して上演されたのです。モーツァルトは、最初の3
晩は指揮をとったのですが、そのときモーツァルトの身体はかな
り弱っていて、モーツァルトの弟子のジュスマイヤーが横に座っ
て譜面をめくっていたといいます。
 初演の日、観客は喝采の嵐のなかで、モーツァルトを熱心に呼
び求めたのですが、一向に姿をあらわさなかったというのです。
シカネーダーとジュスマイヤーは、劇場中を探して、隠れている
モーツァルトを探して舞台に立たせたといわれます。
 結局、『魔笛』は、1791年10月は24回上演されており
その売り上げ総額は、8443フローリンを計上したといわれて
います。入場料も安く、劇場も狭かったにもかかわらずこの額は
当時としては信じられない額であったのです。
 しかし、『魔笛』では、モーツァルトに大した収益はもたらさ
なかったのです。それは、シカネーダーがモーツァルトに約束の
謝礼金を支払わなかったからです。当時は、作曲家よりも劇場の
支配人の方が力は強かったからです。
 本来は他の劇場にスコアを売るときは、それはモーツァルトの
収入になるはずだったのに、シカネーダーはその約束を破り、約
束の金を払わなかったのです。
 映画『アマデウス』では、『魔笛』の初演の演奏の最中にモー
ツァルトが倒れた設定になっていますが、実際はそうではなく、
初演以来の上演のたびに、『魔笛』が人気を集めつつあったとき
モーツァルトは、もはや寝床から起き上がるのは困難になりつつ
あったのです。
 そういうときでも、モーツァルトは『魔笛』の公演は気になっ
ていたらしく、ベットでしきりと時計を見ては、「ちょうど夜の
女王が出てくる時刻だ」などとつぶやいていたというのです。そ
れほど、モーツァルトにとってこのオペラは、今までのオペラと
は違う特別な思い入れがあったものと考えられます。
 『魔笛』に関しては、その解釈を巡って諸説があるため、その
演出は大変難しいのです。それは指揮者や演出家がどれだけこの
オペラを知っているかによって、その演出の出来栄えが大きく異
なってくるからです。
 そういう意味で注目されたのは、2005年のザルツブルク音
楽祭での『魔笛』の公演――リッカルド・ムーティの指揮による
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。
 次の年にモーツァルト生誕250周年を控えているので、意欲
的な演出が注目されたのですが、期待通りのユニークな演出が行
われて話題となっています。グラハム・ヴィックの演出です。
 ヴィックの『魔笛』の演出は大方の意表をつくものであり、賛
否両論があります。この演出の詳細については、明日のEJでお
知らせしたいと思います。   ・・・ [モーツァルト/36]


≪画像および関連情報≫
 ・『レクイエム』と『魔笛』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『レクイエム』と『魔笛』のあいだには、いくつかの類似点
  がある。アインシュタインは、メーソン的要素が、教会の葬
  儀に浸透していただろうと考えている。バセットホルンとト
  ロンボーンを演奏する冒頭部『レクイエム』の厳粛な曲の流
  れは、オペラの方の厳粛な場面を想起させるし、また、「妙
  なるラッパ」のなかのいくつかの言葉は、『魔笛』の言葉に
  似ている。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

3人の童子.jpg
3人の童子
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2009年05月22日

●意表をつくヴィックによる新演出(EJ第1959号)

 2005年のザルツブルグ音楽祭においては、モーツァルト生
誕250周年の前年ということで、モーツァルトについては、3
つのオペラ――『魔笛』、『ポントの王ミトリダーテ』、『コシ
・ファン・トゥッテ』が新演出で演奏されたのです。
 そのうち、『魔笛』に関しては、次の指揮者、演出者によって
演奏されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
              モーツァルト作曲/歌劇『魔笛』
     リッカルド・ムーティ指揮/グラハム・ヴィック演出
            ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
―――――――――――――――――――――――――――――
 2005年の『魔笛』の新演出の模様のご紹介は、広島大学大
学院文学研究科論集/第65巻による河原俊雄氏の論文に基づい
ています。
 『魔笛』では、序曲が終わって第1幕の幕が上がると、うっそ
うとした奥深い森の中のシーン。そこに、いきなり、タミーノが
「助けてくれ!」と叫びながら、舞台の奥から飛び出してくるの
です。その後から、巨大な蛇がタミーノを追いかけてきます。
 演出によりますが、多くの場合、大蛇は中に人が入ったぬいぐ
るみで、ぜんぜん怖さを感じないのです。まさに子供騙しそのも
のです。いかにもシカネーダーらしい演出といえます。
 ところが、ヴィックの演出はぜんぜん違うのです。幕が上がる
と、そこは森の中などではなく、小さな部屋――すなわち、タミ
ーノの部屋なのです。そこには、熱帯魚の水槽があり、サーフボ
ードが置いてあり、PCまであるのです。
 そこに蛇が登場してきます。それも小さな青大将ぐらいの蛇な
のです。しかし、タミーノは大げさに救いを求めます。「助けて
くれ!」「助けてくれ!」と。そして、ベットの上で気絶してし
まうのです。
 もっとも、蛇の好きなことは別として、舞台の上で明らかにぬ
いぐるみとわかる大蛇が出てくるよりも、自分の部屋に青大将程
度の大きさの蛇があらわれたときの方が怖いとは思います。しか
し、気絶までするのは大げさではありますが・・・。
 それでは、蛇を退治するために登場する3人の侍女はどこから
出てくるのかというと、壁からスルリと出てくるのです。衣装は
部屋の壁紙の柄や色と同じなのです。3人の侍女は蛇を退治する
と、気絶しているタミーノを眺め、あれやこれや美少年を賛美し
て、触りまくるのです。
 それならば、パパゲーノはどこから出てくるのでしょうか。そ
れは東京ガスのCMのように洋服ダンスから出てくるのです。例
のガス・パッ・チョです。毛皮のようなタッチの緑色の長いコー
トを着て、どことなく、ヒッピー風のスタイルで登場します。
 こういう展開でわかるように、ヴィックは『魔笛』の台本で指
定されている状況をできる限り、日常的な世界に置き換えようと
しているわけです。
 それでは、パミーナの肖像画を見せられてアリアを歌う場面は
どうなっているのでしょうか。ヴィックは肖像画をパミーナのポ
スターにしているのです。そのポスターを部屋の床の上に広げて
見入るタミーノ。そして、思わずアリアを歌う。10代後半の年
齢のタミーノであれば、あってもおかしくはないといえます。一
目惚れです。
 どちらかというと『魔笛』では、最初からタミーノを神々しい
特別な青年としてとらえ、オペラの主役にして、王子が数々の苦
難を乗り越えて理性と道徳と叡知を身に着けてザラストロの後継
者となるプロセスを画く演出をするのが多いのです。
 しかし、ヴィックの演出では、タミーノを若くて未熟な青年と
して突き放し、客観的に見ているところがあります。この演出は
正しいのです。10代後半の若者は未熟であって当然であり、そ
ういう若者が、最終的にザラストロの後継者になるということが
観客に素直に納得できるかどうか。それは、以後のさまざまな試
練を彼が乗り越える演出にすべてがかかっているといえます。
 タミーノの未熟さ、軽薄さは、音楽の付かないパパゲーノとの
次の対話でよく表現されています。『魔笛』の台本は、もともと
そのように表現されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノ :君は陽気な人なんだね。誰なのか教えてくれる?
 パパゲーノ:誰なのかだって。ばかな質問だね。あんたと同じ
       人間さ。それじゃ、今度はこっちが誰なのかって
       聞いたら?
 タミーノ :そうしたらこう答える。王家の血筋の者だって。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノにとっては、「王子」とは自分を他人と識別できる唯
一の社会的属性だと思っています。しかし、同然のことながら、
それはパパゲーノにとっては何の意味もないことなのです。王子
である前に人間である――これが重要なのです。
 これと関連あるやり取りが、弁者とザラストロの間で行われて
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 弁者   :・・・私はこの若者のことが心配なのです。もし
       もです。もしも苦痛に打ちひしがれ、精神に見捨
       てられ、厳しい戦いに屈するようなことにでもな
       ったら、彼は王子ですよ。
 ザラストロ:それ以上だ。彼は人間だ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「王子である以前に人間である」――タミーノとパパゲーノと
のやり取り、弁者とザラストロとのやり取り、ともに同じことを
いっています。この意味において、パパゲーノはザラストロの考
えは同じであり、タミーノにそれを気づかせる存在となっている
のです。ヴィックの演出はそのあたりのことを意識してやってい
ると考えることができます。  ・・・[モーツァルト/37]


≪画像および関連情報≫
 ・ザルツブルグ音楽祭について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ザルツブルク・フェスティヴァル/ザルツブルク音楽祭は、
  オーストリアのザルツブルグで開かれる音楽祭である。毎年
  夏に行われる。モーツァルトを記念したフェスティヴァルと
  して、世界的に知られている。ウィーン・フィルを始め、世
  界のトップオーケストラ、歌劇団、指揮者が集うこのフェス
  ティヴァルは、世界でもっとも高級かつ注目を浴びる音楽祭
  であるが、あくまで演劇部門が大きなウェイトを占めており
  本来ならば「音楽祭」と呼ぶのは不適当(原語であるドイツ
  語名称は「ザルツブルクの祝祭」という意味でしかない)で
  あるが、日本では慣習上「音楽祭」と呼称している。ここで
  も、以降は便宜上「音楽祭」と呼称する。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴィック演出の『魔笛』のシーン.jpg
ヴィック演出の『魔笛』のシーン
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2009年05月25日

●ザラストロの国をどう描くか(EJ第1960号)

 グラハム・ヴィッツの『魔笛』の新演出について、論評を続け
ることにします。『魔笛』を演出するさい、一番問題となるのは
ザラストロの王国をどのように描くかです。
 『魔笛』におけるザラストロの王国は、そこはフリーメーソン
の世界であり、理想の国――神々の国という描き方をするのが一
般的です。そうでないと、その国の一員になるのを目指して厳し
い試練を受けることとの整合性がとれなくなるからです。
 しかし、『魔笛』の台本で設定されているザラストロの王国は
必ずしも理想の国とはいえないようです。ヴィックと一緒にドラ
マトゥルギー(作劇)を担当しているデレック・ヴェーバーは、
ザラストロの王国について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノはザラストロの世界に入り込む。そこでは1人の誘拐
 された娘が選ばれた者をおびき寄せるためのおとりとして監視
 されている。その社会は上辺はきれいだが、その下には汚い暗
 黒の世界があり、その世界なくしてはこの社会は存続すること
 はできず、その社会には奴隷集団を引き連れたモノスタトスの
 ような人物が棲んでいる。    ――デレック・ヴェーバー
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 あえていうまでもないことながら、上記の文中にある「誘拐さ
れた娘」とはパミーナのことであり、「選ばれた者」はタミーノ
を意味しています。確かに奴隷制度に支えられているザラストロ
の王国には大きな矛盾があります。このザラストロの王国の持つ
矛盾について次のような表現があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ザラストロは、アメリカ合衆国の北部では人権を唱えながらも
 同時に南部では216人の奴隷を所有し、そこに何ら非道徳性
 を感じなかったジョージ・ワシントンに等しい。
               ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、ヴィックはザラストロの国をどのように表現したの
でしょうか。
 第2幕が始まると、観客はあっと驚きます。それは、ザラスト
ロの国の住民が全員老人――それもかなり高齢の老人ばかりだか
らです。点滴を受けている老人、本を読んでいる老人、居眠りを
している老人、ぼんやり虚空を見つめる老人――まさに老人のオ
ンパレードなのです。
 その中にあって、舞台の中央では鎧を着た2人の若い男が黙々
とシャベルで穴を掘っているのです。彼らは、ザラストロの高齢
社会を支えている労働者なのです。彼らがいないとこの社会は成
り立たないのですが、若者の人数が圧倒的に足りないのです。2
人という数がそれを示しています。
 これは、明らかに現代の社会――いやごく近未来の社会そのも
のといってよいと思います。そこには未来に対する夢もなく、迫
り来る死の恐怖を免れるために宗教にしがみつく――そういう宗
教社会をヴィックは『魔笛』の中で、ザラストロの国として描き
出したのです。
 それでは、ザラストロの国の入り口にある3つの門はどのよう
に表現されたのでしょうか。
 ザラストロの3つの門――「自然」「叡知」「理性」のそれぞ
れの門は、いかめしい感じがするのですが、ヴィックは、客席か
ら見て、右側の門の上には「鳥かご」、中央の門の上には「地球
儀」、そして左側の門の上には「積み上げられた書籍」が置くと
いう演出をしています。
 結局、タミーノに扉を開くには、「積み上げられた書籍」が置
いてある左の門だったのです。これは、まだ多くのものが欠けて
いた10代後半のタミーノに対して、熱心に勉学に取り組み、知
識を増やすことをザラストロの国では求めていたことを示してい
るのです。しかし、そのようにしてたどりついた社会が老人ばか
りの高齢社会だったというわけです。
 このヴィック演出の『魔笛』を見た観客をギョッとさせるシー
ンは他にもたくさんあるのです。そのひとつに、第1幕の後半に
タミーノが魔法の笛を吹くと、森の中からたくさんの動物が出て
くるのですが、それらの動物のいくつかを狩猟姿のザラストロや
その配下が射殺するシーンです。これは、ザラストロの国が持っ
ている危険な一面をヴィックは知らせているものと思われます。
 もうひとつは、タミーノとパミーナの火と水の試練――これを
ヴィックは、なんとロシアン・ルーレットに変えてしまっている
のです。タミーノとパミーナは、互いに抱き合いながら、銃を頭
に当てて、引き金を引くのです。1発目は「カチッ」という音が
して空砲、続いて2発目も空砲だったのです。これで試練は終り
です。このヴィックの演出について、河原俊雄氏は次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 試練などといっても、それ自体何の意味もないし価値もない。
 ロシアン・ルーレットと同じ。しかし命がけであることには変
 わりがない。炎の試練や水の試練を2人でくぐり抜けるぐらい
 の心理的な恐怖と危険はある。しかし、この試練自体に何らか
 の特別の意味があるわけではない。その主張は明快だ。神秘的
 なものや高速なものを具体的で現実的なものに読みかえる。こ
 の姿勢は一貫している。   ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この火と水の試練は、最も厳しい、死に直面する試練といいな
がら、オペラでは実に簡単に済んでしまうことに違和感を覚える
観客もいるはずです。ただ、フルートが単純なメロディをかなで
るだけです。おそらく演出上最も難しいシーンであると思うので
す。それをロシアン・ルーレットに変えてしまうとは・・・驚く
べき新演出です。       ・・・[モーツァルト/38]


≪画像および関連情報≫
 ・ザルツブルグ音楽祭/2006のブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2006年のザルツブルグ音楽祭で最後に聴いたプログラム
  は、アーノンクール指揮のウィーンフィル、モーツァルトの
  後期三大交響曲でした(2006年8月25日)。交響曲第
  39番。1−4楽章を通じて早めのテンポで統一感があり、
  テンポを変えながら起承転結を作る演奏とは異なる解釈。古
  学奏法は、ピリオド奏法で、どちらかと言うと音が小さくな
  りがちと理解していましたが、古学奏法で耳に優しいながら
  もウィーンフィルは大音響を奏でていて、衝撃的な演奏。特
  筆すべきは第3楽章。曲の印象を左右するティンパニの4音
  大き目で乾いた3音に続き、4音目はばちを反対にクルリと
  回して軽く打つ演奏に固唾を呑んでしまいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/classicstation2006/4745434.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロシアン・ルーレット.jpg
ロシアン・ルーレット
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2009年05月26日

●酷評のヴィック『魔笛』新演出(EJ第1961号)

 グラハム・ヴィックの演出では、夜の女王はどこから現われる
のでしょうか。
 3人の侍女は壁から、パパゲーノは洋服ダンスから現われたの
ですが、夜の女王はベットの下から登場したのです。それも、ネ
グリジェ姿で現われたのです。そして、タミーノにすがるように
威圧するように「娘を助けてくれ!」と懇願したのです。客席か
らはクスクス笑う声が聞こえたといいます。
 『魔笛』というオペラは、演出する立場から考えてみると、要
素として次の4つがあることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.メルヒェン的要素    3.ユートピア的教義
  2.民衆・大衆劇要素    4.偉大なる愛の物語
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの要素のどれに重点を置き、それらをどのように組み合
わせてオペラを演出するかということになります。そのさい、欠
かせないのが、ザラストロの国をどのように描くかなのです。
 ハリー・クプファーという旧東ドイツ出身の演出家がいます。
彼の演出としては、ワーグーナーの楽劇『指輪』の演出が有名で
すが、非常に多くのオペラを演出しているのです。
 そのクプファーの新演出による『魔笛』では、ザラストロの国
を旧東ドイツの政治体制を持つ官僚社会として演出しています。
その時点で東ドイツはまだ崩壊していないのです。これについて
河原俊雄氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリンのコーミッシェ・オーバーでの70年代80年代のク
 プファーの演出では、ザラストロの世界を旧東ドイツの政治体
 制を戯画化した官僚社会と規定し、タミーノはその社会に洗脳
 されて最後にはそこに所属することになる。パミーナはそのタ
 ミーノの姿を見て戸惑い、最後には踏みとどまり、一緒にはそ
 の社会に入らない。クプファーの演出では、ザラストロの世界
 は明らかに理想的な世界ではなく、非人間的な世界である。
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 90年代になって東ドイツが崩壊すると、クプファーはザラス
トロの世界を共産主義が支配する官僚社会からコンピュータの支
配する管理社会に変えているのです。
 それまでの『魔笛』におけるタミーノという役柄は、神の国に
入る「選ばれし者」として神格化する傾向があったのですが、ク
プファーは、タミーノをして自らの位階を上昇させる出世欲にし
か関心がなく、自らの社会のありようには無批判な人物としてと
らえています。
 タミーノを神格化しないという点ではヴィックも同様ですが、
彼は決してタミーノを、クプファーのように否定していないので
す。ヴィックはタミーノをまだ世間のことを知らない、どこにで
もいるハイティーンとしてとらえているのです。
 ヴィックは、ザラストロの世界を来るべき高齢社会として演出
しているのですが、ザラストロはタミーノを「選ばれし者」とし
てパミーナと一緒に自分の世界に引き入れようとします。ザラス
トロはやがて「選ばれし者」――すなわち、救世主が現われて、
この衰退しきった社会を救ってくれると考えているのです。
 この点については、夜の女王も同じなのです。彼女もタミーノ
を「選ばれし者」としてとらえており、ザラストロとの間で自分
の娘であるパミーナをからめて、タミーノの争奪戦の様相を演じ
ているのです。
 「選ばれし者」――救世主といえば、映画『マトリックス』を
連想します。機械化軍団に追い詰められてどうにもならなくなっ
たザイオンにおける人間社会――彼らはひたすら救世主を求め、
その役割をネオが演ずる――あの映画『マトリックス』に大変似
ていると思います。事実、ヴィックの演出の評価にはその点を指
摘した評論家はたくさんいるのです。
 はっきりいって、このヴィック演出の『魔笛』の評判はさんざ
んのものです。2005年8月4日付、ツァイト紙に掲載された
評論家C・シュパーンの批評は、ヴィックの新演出の『魔笛』を
「ファンタジー・ショウ」であると断じ、皮肉たっぷりに次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 舞台の上では金切り声の寄せ集めがひっきりなしに動き回り、
 舞台の下のオーケストラ・ボックスでは本物の輝きが瞬く。
           ――C・シュパーン/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、C・シュパーンは、リッカルド・ムーティの指揮によ
るウィーン・フィルの演奏はいうことはないほど素晴らしいが、
ヴィックの演出とはまるで合っていないということをいいたかっ
たものと思われます。
 フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイテュング紙上で、J・
シュピノーラは、ヴィック演出を次のように批評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時代に沿った魔法の等価物を彼は求めた。その魔法について彼
 はほとんどわかっていないように思える。その結果、気の抜け
 た代用品以上のものは見つけられなかった。ヴィックの演出は
 『マトリックス』や『ハリー・ポッター』のファンタジー美学
 を真似したのだが、映画はそれをもっとうまくやれる。
          ――J・シュピノーラ/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 J・シュピノーラはかねてから『魔笛』の演出は、何らかの明
確な主張を持っている者がやるべきであるといってきた人ですが
ヴィックのこの演出には不満であったと思われます。
 このように『魔笛』には、さまざまな解釈とそれに基づく演出
が考えられるのです。     ・・・[モーツァルト/39]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィック新演出のその他の批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いずれの論調も厳しい。酷評といってもいい。しかしこれら
  の新聞評に共通するのは、映画『マトリックス』のイメージ
  を借用したという点に対する批評である。しかし、映画『マ
  トリックス』と『魔笛』を重ねるということがヴィックの演
  出の眼目ではない。これはあくまでも枠組みの設定なのだ。
  その枠組みの中で彼が表現したいくつかの重要なメッセージ
  についてはいずれの批評もまったく言及していない。
                   ――河原氏の前掲論文
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベットの下から現われた夜の女王.jpg
ベットの下から現われた夜の女王
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2009年05月27日

●『レクイエム』とモーツァルトの死(EJ第1962号)

―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょうど今、僕の忠実な召使の一世殿が持ってきてくれた値の
 はる蝶鮫を一切れ食べたところだ。今日はなんだか食欲がある
 ので、できればもう少し何か買って来てくれるよう、彼を使い
 に出した。
――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳 『ハイド
ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』 より。
東京書籍刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、1791年10月8日にモーツァルトが、バーデンに
温泉治療に行っているコンスタンツェに出した手紙です。文中に
「一世殿」とあるのは従僕のダイナーのことです。手紙の内容が
本当かどうかはわかりませんが、これを見る限りではこの時点で
モーツァルトは食欲もあって大変元気だったようです。ところが
モーツァルトは、それから58日後の12月5日に亡くなってい
るのです。35歳の短い生涯だったといえます。それにしても何
が原因の急死なのでしょうか。
 20回にわたって、『魔笛』の謎について分析しましたが、今
日からこのテーマの最後として、「モーツァルトはなぜ早死にし
たか」について述べていきます。
 モーツァルトの死と不思議な依頼人によって彼が死の直前まで
書いていた「レクイエム」とは不思議な関連があるのです。映画
『アマデウス』では、仮面をつけたサリエリがモーツァルトを訪
ねてきて「レクイエム」の作曲を依頼する話になっていますが、
これは事実ではないのです。
 モーツァルトに「レクイエム」の依頼をしてきたのは、フラン
ツ・ヴァルゼック伯爵であるといわれています。しかし、依頼者
の名前は依頼者の希望によって伏せられており、モーツァルトの
友人でホルン奏者のライトゲープを通し、ブフベルクの仲介によ
り依頼がもたらされたのです。相当高額の手付金を支払う条件で
あり、完成時期についても厳しい注文はなく、モーツァルトにと
って悪い仕事ではなかったのです。
 ヴァルゼック伯爵は若くして亡くなった妻を悼むために鎮魂の
ミサの作曲をモーツァルトに依頼したのです。しかし、モーツァ
ルトは、依頼を受けた当時『魔笛』の作曲を行っており、その他
プラハでの戴冠式のためのオペラ『皇帝ティトスの慈悲』を書く
仕事もあって忙しかったのですが、コンスタンツェの積極的な勧
めもあって引き受けたのです。
 ヴァルゼック伯爵がなぜ自分の名前を隠して依頼したかについ
ては理由があります。ヴァルゼック伯爵は、シュトゥパハ城に住
んでいて、ここに客を招いて室内楽の夕べをよく催したのです。
そういう折に、そのとき演奏された曲の作曲者をお客に問い、当
てさせることを好んだといわれます。
 したがって、妻の鎮魂ミサを演奏するとき、作曲者を隠してお
くことによって、それを当てさせる楽しみのために依頼者の名前
を伏せたのではないかと考えられています。実は、モーツァルト
の財政の危機をたびたび救っているブフベルクの家の持主はヴァ
ルゼック伯爵であり、そのつながりでモーツァルトへの作曲の依
頼があったのです。
 しかし、この「レクイエム」はいろいろな意味でモーツァルト
を精神的に不安定にしたのです。な゛゜なら、モーツァルトは、
「レクイエム」の作曲に驚くほど熱心に真剣に取り組んだのです
が、そうすると必ず体調が悪くなり、不快な気分になることが多
くなったからです。そういうモーツァルトの様子を心配してコン
スタンツェは夫から譜面を取り上げたこともあるのです。
 ヴァルゼック伯爵の使者はときどきモーツァルトの前に現われ
て「レクイエム」の進行状態を聞きにきています。忙しさに追わ
れてなかなか「レクイエム」を完成のできないモーツァルトは、
催促の使者の影に次第に怯えるようになっていきます。
 1791年6月のある日、モーツァルトとコンスタンツェは、
ウィーンのプラーター公園を散策中にモーツァルトはコンスタン
ツェに次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 僕は自分のために「レクイエム」を書いている。僕はもう長く
 ない。きっと毒を盛られたんだ。その考えを振り払えない。
                     ――モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 この話の真偽はわかりませんが、モーツァルトはその毒の名前
までいったというのです。その毒の名前は「アクア・トファナ」
――18世紀によく知られた毒薬です。『モーツァルトとコンス
タンツェ』の著者であるフランシス・カーは、「アクア・トファ
ナ」について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この毒薬は、17世紀にシチリアの女性テオファニア・ディ・
 アダモとその娘のナポリのジュニアが発明したのである。16
 59年、ローマで大勢の男が死ぬという事件があった。ローマ
 警察が死因を究明したところ、彼らはその妻たちによって毒殺
 されたことが判明したが、この大量殺人に使われた毒薬がじつ
 はアクア・トファナだった。毒薬の発明者である2人の女性は
 その年ローマで逮捕された。   ――フランシス・カー著/
     横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より。
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 アクア・トファナは白砒素、アンチモン、酸化鉛の混合物なの
です。すぐに死にいたることはなく、徐々に効果をあらわし、自
然の苦痛のように診断される特徴を持っているのです。
 しかし、モーツァルトは死の数ヶ月前から、しきりと毒を盛ら
れたというようになっていたのです。ちょうどそれと時期を同じ
くして「レクイエム」の作曲に取り組んでいたので、とくにそう
いう妄想を抱くようになっていたのです。モーツァルトは誰が毒
を盛ったと考えていたのでしょうか。・[モーツァルト/40]


≪画像および関連情報≫
 ・死とレクイエムについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  キリスト教では死者のためのミサ曲であるレクイエムが用い
  られる。死者の霊が最後の審判に当たって、天国に入れられ
  ることを願う目的で行なうミサのことである。レクイエムと
  いう言葉は、カトリック教の式文が「彼らに永遠の安息を与
  えたまえ」で始まることから取られた。死者が天国に入れる
  ように神に祈る典礼であって、死者の霊に直接働きかけるも
  のではない。したがって、鎮魂曲、鎮魂ミサという呼称は適
  当ではない。
  http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199006.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

大作曲家の生と死/ハイドン・モーツァルト.jpg
大作曲家の生と死/ハイドン・モーツァルト
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2009年05月28日

●反対派が送り込んだジュスマイヤー(EJ第1963号)

 モーツァルトほどの大音楽家になると、音楽を目指す若者が弟
子として入門したいと大勢申し出るはずです。しかし、当のモー
ツァルトは極力弟子はとらない方針でやってきたのです。
一曲でも多くの曲を作曲して曲を残したい――モーツァルトはそ
う考えていたからです。
 モーツァルトは、若いときから死と正面から向き合う独特の死
生観を持っており、漠然とではあるものの、自分の人生は短いと
悟っていたふしがあります。したがって、弟子の指導に時間を取
られるよりもその時間に作曲したいと考えていたのです。
 そのため、モーツァルトは宮廷などに職を得ることによって、
定収入を得ようと必死になったのです。幸いモーツァルトにとっ
ては、皇帝ヨーゼフ2世のバックアップがあったのです。少なく
とも、1790年2月20日にヨーゼフ2世がなくなるまではそ
の方針でやってこれたのです。
 モーツァルトは、ヨーゼフ2世に代わって皇帝を襲位したレオ
ポルト2世に対して、宮廷の副楽長を与えてくれるよう請願書を
出しています。その理由として、サリエリ楽長は教会音楽には精
通していないが、自分は若い頃から教会音楽の様式を熟知してい
るので、副楽長としてやっていける――こういう主張を請願書に
盛り込んでいたのです。
 このモーツァルトの要求は、彼の実力からいっても当然過ぎる
ものだったのですが、モーツァルトは宮廷のエスタブリッシュメ
ントたちに警戒されていたのです。それにレオポルト2世はヨー
ゼフ2世と違って、音楽についての関心も低く、サリエリ楽長の
一派にまかせ切りだったのです。そのため、モーツァルトの請願
書は無視されてしまったのです。
 宮廷の副楽長の地位が得られないとわかったモーツァルトは、
弟子を取ることを決意して、ブフベルクに依頼の手紙を出してい
ます。それに応じて弟子として志願してきたのが、24歳の美青
年で、後でいろいろと問題になる次の弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー
―――――――――――――――――――――――――――――
 その頃モーツァルトが疑心暗鬼になっていたことがあります。
それはモーツァルトの締め出しの動きが、単に宮廷からの追い出
しに止まらず、自分の周辺にまで及んでくる気配だったのです。
具体的にいうと、モーツァルトとコンスタンツェの間を意図的に
引き裂こうとする反対派の動きです。
 というのは、コンスタンツェには浪費癖があり、人づきあいに
にも問題があって、モーツァルトとしては、彼の反対派がそこに
つけ込んでくることを恐れていたのです。
 それは、コンスタンツェを残してモーツァルトが少し長い旅に
出るときなどに、モーツァルトが妻に対して送った異常ともいえ
る内容の次の手紙を見ればわかると思います。ここでいう長い旅
とは、1789年にリヒノフスキー侯爵に要請され、同行せざる
を得なかった2ヶ月間にわたる北ドイツへの旅のことですが、こ
れについては、EJ第1939号をご覧ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ねぇ、お前、ぼくから、たくさんのお願いがあるんだよ。第一
 に、淋しがるな。第二に、からだに気をつけ、春の外気に気を
 許すな。第三に、独りで出歩くな。一番いいのは、全く出歩か
 ないこと。第四に、僕の愛情を確信すること。ぼくはお前のか
 わいい肖像を目の前に置かないでお前に手紙を書いたことは一
 度もない。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはこれ以外に妻の親戚や自分の友人に、ときどき
家に行って、コンスタンツェの様子を見てくれるよう頼み、コン
スタンツェ自身には手紙で、どういう人が訪ねてきたかについて
出来るだけ頻繁に手紙で知らせるよう書いています。頼んだ人が
本当に行ってくれているのか知りたかったのでしょう。
 最愛の妻を心配する夫の行為といえなくはありませんが、少し
常軌を逸しているといっても過言ではないと思います。そこには
コンスタンツェの軽率な言動をモーツァルト反対派につけ込まれ
ることを恐れていたものと考えられます。
 モーツァルトは、弟子に応募してきたジュスマイヤーにいくつ
かの質問をしています。「今まで誰かに教わったことはあるか」
という問いに対して、ジュスマイヤーは「自己流」と答えている
のですが、モーツァルトはそれをうそと見抜いたのです。ピアノ
の弾き方を見れば自己流では絶対にできない相当の腕前であった
からです。そういうことから、モーツァルトはジュスマイヤーは
反対派から送り込まれたスパイと考えていたふしがあります。
 ジュスマイヤーはモーツァルトの弟子になると、作曲の手伝い
をしたり、写譜をしたりして、モーツァルトをサポートしていま
す。モーツァルトには他にも何人か弟子はいたのですが、現在で
もジュスマイヤーの名前が残っているのは、彼がモーツァルトの
未完の「レクイエム」を補筆完成させたことにあるといえます。
 さらにもうひとつ、ジュスマイヤーはモーツァルトの指示を受
けて、コンスタンツェのバーデンでの脚の治療のサポートをして
います。しかし、このコンスタンツェの病気というのが今ひとつ
はっきりしないのです。
 モーツァルトの作品がますます輝きを増して、『魔笛』が大成
功しているにもかかわらず、モーツァルトが依然として多額の借
金をしなければならなかったのは、コンスタンツェの病気の治療
費の支払いが巨額であったことが原因であるといわれています。
 それもウィーンから25キロ離れた郊外にあるバーデンでの温
泉治療であり、馬車代や宿泊代など、多額の費用がかかったので
す。モーツァルトはこともあろうに妻の治療のサポートにジュス
マイヤーを同行させているのです。・・[モーツァルト/41]


≪画像および関連情報≫
 ・「レクイエム」にからむ2人の人物
  ―――――――――――――――――――――――――――
  CD業界には不思議な偶然が重なることがある。今回もまさ
  にそう。モーツァルトのレクイエムに絡む二人の作曲家の珍
  しい作品が同時期に登場することになったのである。ジュス
  マイヤーとアイブラー。有名なのはもちろんジュスマイヤー
  で、現在彼は“モーツァルト・レクイエムの補筆完成者”と
  して世界中で知られる。だが、彼の作品がCDとして登場す
  ることはきわめて珍しい。もちろんレクイエムのCDは現在
  存在しない。そしてもうひとりはアイブラー。モーツァルト
  のレクイエムの補筆完成を最初に依頼されながら、断念した
  人である。
      http://www.aria-cd.com/oldhp/yomimono/vol30.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトとジュスマイヤー.jpg
モーツァルトとジュスマイヤー
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2009年05月29日

●モーツァルトは病死か毒殺か(EJ第1964号)

 モーツァルトの死の原因は何か――これは今日においても大き
な謎となって残っています。それは、死亡年齢が35歳という当
時でも信じられないほどの若死にだったからです。
 もちろん公式には「病死」ということになっています。妻のコ
ンスタンツェの第2の夫のニッセンは、モーツァルトの最後の病
を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼が病床に伏した死病は、15日間続いた。それは両手足に腫
 張をきたし、ほとんど動かせなくなることから始まった。その
 後、突然の嘔吐が続いたこの病気は急性粟粒疹熱と言われた。
 死の2時間前まで、彼は意識があった。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「急性粟粒疹熱」というのは病名ではないのです。当時ウィー
ンでは、ウィルス性感冒が流行していて、この流行感冒にかかる
と、発熱時に激しい発汗があり、小水泡様の部分的に化膿した皮
膚発疹がしばしば生ずるので、それを「急性粟粒疹熱」といった
のです。したがって、これは病名ではなく、病気の結果生ずる症
状なのです。それなら、病名は何でしょうか。
 モーツァルトの臨終の場にいたのは、医師のクロセット、妻の
コンスタンツェ、コンスタンツェの妹のゾフィーの3人であった
といわれます。
 したがって、ニッセンが『モーツァルト伝』を記述するとき、
モーツァルトの臨終の模様の詳細を妻から聞いて書いていると誰
でも考えますが、実はニッセンは妹のゾフィーから聞いているの
です。なぜなら、ニッセンがコンスタンツェに何度聞いても、彼
女はなぜか口を閉ざして何も話さなかったからです。
 それでは、クロセットという医師が診断しているのに、なぜ正
式な病名を書いていないのでしょうか。死亡診断書と聖シュテフ
ァン教会事務局の死者台帳には「急性粟粒疹熱」と書かれている
だけなのです。
 ところで、モーツァルトが死亡したのは、1791年12月5
日午前0時55分です。その前にモーツァルトが人前に出たのは
11月18日、フリーメーソンの会合だったのです。そのときは
とくに外見上モーツァルトに何の異常もみられなかったのです。
しかし、それから2日後の11月20日にモーツァルトは流行性
感冒を患って床につき、その2週間後に亡くなったということに
なっています。
 12月5日に亡くなっているにもかかわらず、ウィーンの市民
がモーツァルトの死を知ったのは、12月7日になってからなの
です。同日付の「ウィーン新聞」は次のように伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今月4日から5日にかけての晩、当地において、皇王室付き宮
 廷作曲家ヴォルフガング・モーツァルト氏が死去した。彼はま
 れに見る音楽的才能によって、すでに幼少よりヨーロッパ全土
 にその名を知られており、卓越した天賦の才能を首尾よく発展
 させ、それを一貫して使い続けることによって、最も偉大な巨
 匠への階段を昇り詰めた。そのことは広く愛され、賛美された
 彼の作品が証明している。これらの作品は、彼の死によって高
 貴なる音楽がこうむった取り返しのつかない損失の大きさを示
 している。――1791年12月7日付「ウィーン新聞」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1791年といえば、3大交響曲、歌劇『魔笛』などの成功に
よって、モーツァルトはウィーンの話題の中心だったはずです。
そのモーツァルトの死が、2日も遅れて報道されること自体がお
かしいといえます。
 まして、モーツァルトの葬儀はその前日の6日に終っていて、
市民は誰ひとりとして葬儀には参加できなかったのです。いや、
ウィーン市民どころか、後で述べる理由によって、妻のコンスタ
ンツェをはじめ、モーツァルトの近親者も霊柩馬車に乗って途中
まで行ったものの、途中で降りてしまい、誰も墓地まで行ってい
ないのです。これは明らかに異常なことです。
 そうこうしているうちに、1791年12月12日付のベルリ
ンの「音楽週報」に次のような記事が載ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが亡くなった。彼はプラハから病気のまま帰国し
 それ以来ずっと患っていた。彼は浮腫とみなされており、先週
 末、ウィーンで死去した。死後体がふくれたので、毒殺された
 のではないかと考えられている。
       ――1791年12月12日付「音楽週報」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これが毒殺説が広まった発端なのです。もちろん「音楽週報」
の通信員は確たる根拠を持ってこれを書いたのではないのです。
ただ、死体の状況がどこからともなく伝わってきて、それを毒殺
に結びつけたに過ぎないのです。
 それに18世紀の社会的風潮として、有名な人物が突然死した
りすると、それを不自然な死因と結びつけてしまう傾向があった
のです。そのため、この記事を発端として、毒殺説は拡大して後
世に伝えられることになったのです。
 病死説と毒殺説――真相はどちらなのでしょうか。
 この結論は現代においてもまだ出ていないのです。そこでEJ
では、いろいろな情報を基にして、この後その謎に迫っていきた
いと考えています。次のような詩の一節があります。タイトルは
「モーツァルトの死に寄せて」です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人類と音楽の名誉にかけて望みたい。このオルフェウスが自然
 死を遂げたのであることを!
        ――ヨハン・イーザック・フォン・ゲルニング
――――――――――――――――・・[モーツァルト/42]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『アマデウス』の原作
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロシアの文学者プーシキンはこの説を題材に戯曲「モーツァ
  ルトとサリエーリ」を書き、この戯曲が成功したために(映
  画『アマデウス』もこの作品に基づいています)「モーツァ
  ルト毒殺説」は非常にポピュラーなものとなりました。その
  ため、この毒殺(犯人はサリエーリ)を真実であるかのよう
  に受けとめている人もいるようですが、これはあくまでも、
  フィクションで、信憑性も低いとされています。しかし、モ
  ーツァルト最後の作品が「レクイエム(鎮魂曲)」で、実際
  にこの曲がモーツァルトの追悼ミサに使われたというのは非
  常に因縁めいた話ではあります。「神に愛された」作曲家は
  自分の死も音楽で飾る宿命にあったということでしょうか。
       http://www.ocn.ne.jp/music/mozart/intro.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトの葬儀.jpg
モーツァルトの葬儀
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2009年06月01日

●病死と判定する証拠がないのか(EJ第1965号)

 モーツァルトは病死か毒殺か――常識的に考えてみても病死で
あるという人が多いと思います。いや、偉大なる音楽家モーツァ
ルトを生み出したヨーロッパ社会、とりわけ彼が活躍したウィー
ンの人たちにとっては、名誉にかけてもモーツァルトの死が自然
死であって欲しいと考えるのは当然のことです。
 しかし、なぜ、毒殺説が消えないのでしょうか。それは病死と
断定できない何かがあるからです。それに当時のモーツァルトを
取り巻いている環境にも、毒殺を疑う根拠がぜんぜんないわけで
はないのです。
 そういうわけで、病死の真贋について最初に調べてみることに
します。それによって、病死とは断定できないものとは何かが明
らかになると思います。
 モーツァルトの死を病死とする根拠を調べてみると、ある高名
な医師――ウィーン医学界の第一人者による医学的鑑定書の存在
です。その医師の名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      グルデナー・フォン・ローベス博士
―――――――――――――――――――――――――――――
 この博士による鑑定書とは、ジーギスムント・ノイコムなる人
物に宛てた手紙なのです。期日は1824年6月10日になって
います。ノイコムがどのような人物かは後で述べることにして、
手紙の一部をご紹介しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの病と死について私が知っていることのすべてを
 貴殿にお知らせするのは、私の喜びとするところであります。
 モーツァルトは秋も深まった頃、リウマチ熱に冒されました。
 この病気は当時私たちの間にひろく流行し、多くの人がかかっ
 たものです。私が彼の病気について聞き知りましたのは、彼の
 病状がすでにかなり悪くなってから二、三日後のことでした。
 私はあれやこれやを斟酌して彼を訪問することをしませんでし
 たが、ほとんど毎日顔を合わせていたクロセット博士から、そ
 の様子を聞き及んでおりました。博士はモーツァルトの病気を
 危険なものとみなし、最初から憂慮すべき結果を、とくに脳で
 の発症を恐れていました。ある日彼はザラーバ博士と会い、モ
 ーツァルトは絶望的状態であり、発症を阻むことはもはや不可
 能であると明言しました。ザラーバ博士はこの所見をただちに
 私に知らせてくれました。そして、事実、モーツァルトはそれ
 から二、三日たって、脳の発症の通例の症状で、死去したので
 す。(中略)・・・私は死後身体を見ましたが、この病例によ
 く見られる兆候以外のものは何ひとつ認められませんでした。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このグルデナー・フォン・ローベス博士は、実際には生前モー
ツァルトを一度も診察しておらず、医師のクロセットから聞いた
話としてこの手紙を書いているのです。しかし、死後モーツァル
トを見ている記述があるところからして、おそらくは公の検死官
であったと思われるのです。しかし、これについては確証がとれ
ていないのです。
 当時ウィーンで施行されていた医事衛生法では検死は義務づけ
られているのですが、検死を行う検死官はその土地の外科医もし
くは軍医と定められており、内科医は検死はできなかったはずな
のです。グルデナー医師とクロセット医師はともに内科医であり
内科医の2人が検死をしたとは思われないのです。したがって、
誰も検死していないというのが本当だったと思われます。
 それでは、この手紙の受取人であるジーギスムント・ノイコム
とは何者でしょうか。
 ノイコムは、かつてのハイドンの弟子であり、毒殺犯人である
との噂の高かったサリエリの嫌疑をはらすために、「論争ジャー
ナル」という雑誌に論文を書いたのですが、その材料としてグル
デナー博士の所見というか鑑定が必要であったのです。
 要するにノイコムの立場は、サリエリの嫌疑をはらすというと
ころにあり、毒殺説の反証――すなわち、モーツァルトは病死で
あるという証拠が欲しかったわけなのです。したがって、彼の論
文の中で使われているグルデナー博士の鑑定もモーツァルトが病
死したという客観的な証拠とはならないはずです。
 それでは、モーツァルトの最期を看取ったとされるクロセット
医師とは、どういう人物だったのでしょうか。
 クロセット医師について書く前に、モーツァルトが亡くなった
とき、そばに誰がいたのでしょうか。このこと自体がはっきりと
していないのです。EJ第1965号で述べたように、臨終の席
にいたのは妻のコンスタンツェと妹のゾフィー、それにクロセッ
ト医師の3人ということになっています。
 しかし、諸説があるのです。その席にジュスマイヤーがいたと
いう説もあるし、コンツタンツェはいなかったというものまであ
るのです。はっきりしているのは、間違いなくいたのは、コンツ
タンツェの妹のゾフィーだけなのです。
 コンスタンツェが夫の臨終の場にいなかったのではないかとい
う説が出てきたのは、コンスタンツェの第2の夫であるニッセン
がモーツァルトの伝記において、モーツァルトの臨終の模様をゾ
フィーからの手紙に基づいて記述しているからです。なぜなら、
コンスタンツェはモーツァルトの臨終の模様をニッセンがいくら
聞いても一切話そうとしなかったからです。
 しかし、コンスタンツェは少なくとも臨終の場には立ち会って
いたはずです。コンスタンツェとゾフィー、そしてクロセットの
3人でモーツァルトの死を看取っています。ところが、その直後
にコンスタンツェはその場から姿を消しているのです。そして、
その後の葬儀や埋葬に関しては、コンスタンツェは間違いなく参
加していないのです。コンスタンツェのこの行為は、一体何を意
味しているのでしょうか。   ・・・[モーツァルト/43]


≪画像および関連情報≫
 ・トーマス・フランツ・クロセット博士
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クロセットは、臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、
  当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトル
  の下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやってきた。
  彼は1783年に「腐敗熱」に関する論文をものにし、まも
  なく師シュトルを代講をするようになったのみならず、彼に
  代わって治療にもあたった。それによって彼は「すべての学
  識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た」のだった。
  1787年5月23日にシュトルが亡くなると、彼はウィー
  ンで最も高名にして人望ある医者となり、皇帝一家までもが
  対診医として幾度となく彼を招いたという。1797年には
  ついに彼はウィーン大学医学部の客員メンバーとなった。
  マティーアス・フォン・ザラーバ博士は、クロセット博士の
  友人であり、同じシュトルの門下生である。
  ―――――――――――――――――――――――――――

病床のモーツァルト.jpg
病床のモーツァルト
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2009年06月02日

●クロセットは正しく診断したのか(EJ第1966号)

 クロセット博士は、当時のウィーンでは臨床医師としてかなり
有名な人であったようです。はっきりとした記録があるわけでは
ないが、モーツァルトの友人のひとりであったようです。このク
ロセットは、1789年にモーツァルト家を訪れていますが、そ
のときは、コンスタンツェの脚の感染症の往診だったようです。
 その頃コンスタンツェは脚の具合が悪く、その治療と称して、
バーデンへの温泉治療を何回も行い、モーツァルト家の家計の足
を引っ張っていたのです。
 しかし、クロセット医師の診断では、コンスタンツェの脚は妊
娠に伴ってあらわれる静脈炎であり、少なくとも温泉療法を何回
も行うほどの重症ではないことははっきりしているのです。しか
し、人の好いモーツァルトは妻のいうことを真に受けて、大金の
かかる温泉治療に何度も行かせたり、クロセット医師にも往診を
頼んでいるのです。
 ここでモーツァルトの亡くなる前の晩、すなわち、1791年
12月4日のことです。モーツァルトが苦しみ出し、その様子が
尋常ではなかったので、モーツァルトを看護していたゾフィーは
必死になってクロセット医師のところに駆けつけたのです。しか
し、彼は家を留守にしていたのです。
 そのときクロセットは、ある劇場で観劇中だったのですが、ゾ
フィーはそのことを聞いて劇場まで行ったのです。そして、観劇
中のクロセットに、モーツァルトの様子がおかしいので診察して
やって欲しいと頼み込んだのです。
 しかし、返事は冷たいものだったのです。クロセットは「劇が
終わってから行くから・・」といったそうです。時刻は午後8時
頃であったと思われます。当時ウィーンではオペラや芝居は、午
後7時頃から始まるのが通例でしたから、ゾフィーがクロセット
に往診を依頼したのは、劇が始まって1時間ほど経過した頃だっ
たはずです。
 何度頼んでもクロセットが聞き入れてくれないので、ゾフィー
は家に戻ってクロセット医師を待つことにしたのです。しかし、
待てど暮らせどクロセットはやってこなかったのです。
 劇が終るのは午後9時頃と考えられるので、それからすぐモー
ツァルトの家に駆けつければ、遅くとも午後10時には着いてい
るはずなのですが、クロセットがモーツァルト宅にやってきたの
は、日付が変わった12月5日――つまり、モーツァルトの死の
直前であったのです。おそらくクロセットは劇が終ってから友人
と食事をし、酒を飲んで、それからモーツァルト宅にやってきた
ものと思われます。
 ピアニストで、熱烈なるモーツァルトの崇拝者であるヴィンセ
ント・ノヴェロという人がいます。彼はモーツァルトの死後、妻
のメアリーと一緒にモーツァルトの関係者――コンスタンツェや
息子のフランツ・クサーヴァー、妹のゾフィー、かつての恋人ア
ロイジアなどを訪ねて克明にメモをとったのです。
 後年、このノヴェロ夫妻の手記をまとめて「モーツァルト巡礼
――1829年ノヴェロ夫妻の旅日記」という本が出版されてい
ます。モーツァルトの伝記としては、コンスタンツェの第2の夫
であるニッセンのものがありますが、その中身は省略や誤りが多
くあり、とくに謎の多いモーツァルトの臨終から死・埋葬につい
ての記述は、ほとんど書かれていないのです。
 むしろニッセンの伝記よりも、ノヴェロ夫妻の手記は夫妻が直
接関係者に会ってビンセント自身が書いているので、内容が正確
であり、モーツァルトについて書くときよく引用されています。
 以下は、ノヴェロ夫妻が直接ゾフィーに聞いて、ヴィンセント
・ノヴェロが、メモをしたモーツァルトの臨終の様子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 医者はやって来るとゾフィーに、酢を入れた冷水でモーツァル
 トの額とこめかみを冷やすように命じた。彼女は、病人の手足
 が、炎症を起こしてむくんでいるので、急に冷やすのはよくな
 いのではないでしょうか、と言ったが、医者が強く命じたので
 濡れたタオルを当てると、途端にモーツァルトは軽く身ぶるい
 して、間もなく彼女の腕の中で息を引き取った。この時部屋の
 中にいたのは、モーツァルト夫人と医者と彼女だけだった。死
 んだのは二階の表通りに面した部屋だった。
 ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの遺品」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part6.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、モーツァルトが息を引き取ったのは、コンスタ
ンツェではなく、ゾフィーの手の中だったのです。一体コンスタ
ンツェは何をしていたのでしょうか。
 ゾフィーによると、モーツァルトに対するクロセットの処置は
短く、ひどくそっけないものだったというのです。それは、何と
か助けようという態度ではなく、もうだめだという諦めが医師に
あったのではないかと考えられます。
 モーツァルトの死因がアクア・トファナによる毒殺ではないか
という説が一方にありながら、病死説がそれを押さえ込んでいる
のは、高名で優秀な医師であるクロセットがモーツァルトの最後
を看取ったという事実があるからなのです。
 もし、死因がアクア・トファナによる中毒であるならば、クロ
セットほどの医師がそれを見逃すはずがないからです。しかし、
クロセット自身がそのとき相当酒を飲んでおり、時刻は深夜――
当時の薄暗いランプの光で、アクア・トファナによる中毒の特徴
――歯茎に浮かぶ青い線や皮膚の色の変化などが短い診断で判断
できるものとは思われないからです。
 おそらくクロセットは、昨日のEJでご紹介したグルデナー博
士による何らかの脳内発症による死亡と考えていたのでしょう。
まさか医師としては、アクア・トファナによる毒殺などは考えな
いと思われるので、死因を間違ってとらえたのではないかと考え
られます。脳に異常をきたすにしては、モーツァルトの意識は死
の直前まではっきりしていたのです。・[モーツァルト/44]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィンセント・ノヴェロによるコンスタンツェ像
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コンスタンツェの顔は、ニッセンの伝記で描かれている人物
  像と似ていない・・・。彼女が有名な夫について語るときの
  話しぶりは、彼にきわめて近く、親しい人間の中に私が当然
  期待したほど熱っぽいものではなかった。
                ――ヴィンセント・ノヴェロ
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

フランシス・カーの本.jpg
フランシス・カーの本
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2009年06月03日

●モーツァルトの本当の死因は何か(EJ第1967号)

 モーツァルトの伝記作家たちが上げているモーツァルトの死因
は次の10種類に及びます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.尿毒症         6.ブライト病
   2.リューマチ性熱     7.水銀中毒
   3.結核          8.粟粒疹熱
   4.甲状腺腫        9.脳の炎症
   5.水腫         10.悪性チフス熱
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中で死亡診断書に記述されているのは、「(急性)粟粒疹
熱」です。粟粒疹熱とは、高い発熱によって生ずる毛穴の炎症と
膨張であり、ある病気の結果生ずる症状のひとつであって、病名
ではないことは既に述べた通りです。
 モーツァルトの謎の死と埋葬に新説を打ち出した『モーツァル
トとコンスタンツェ』の著者、フランシス・カーはモーツァルト
の死因について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 提出された死因のひとつひとつを検査すると、その死因のすべ
 てが、現われた症候と相いれない、ひとつあるいはそれ以上の
 要素を含んでいることが確認できる。モーツァルトが示した症
 候でわかっているものは、からだのむくみ、関節の炎症、熱、
 頭痛それに嘔吐だけである。実際の死因は、肝炎でこじれた尿
 毒症と充分考えていいかもしれない。患者が、モーツァルトの
 ように、昏睡状態で死んだ場合、尿毒症は、医師がまず考える
 と思われる5つの原因のうちのひとつである。
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 昏睡状態で患者が死んだとき、医者が考える5つの原因のうち
のひとつは「尿毒症」――他の4つの原因とは「脳卒中」「てん
かん」「外傷」「過剰な薬剤」の4つです。この最後の「過剰な
薬剤」がすなわち毒薬なのです。モーツァルトは、死の2時間前
に昏睡状態になっているのです。
 要するに、これが原因であるという決め手がないのです。した
がって、ひとつの原因ではなく、いくつかの原因が重なった結果
ではないかとも考えられます。したがって、何らかの方法で毒薬
を飲まされていて、体力がなくなり、それにプラスして何らかの
病気――とくにリュウマチ熱を発症したとも考えられます。そう
なると、病死か毒殺かで白黒をつけることは困難になると思われ
るのです。
 モーツァルトの死因について多くの医学関係者が指摘している
のは「リュウマチ熱」ですが、普通であれば成人がこの病気にか
かって急死することは稀なことなのです。しかも、モーツァルト
が35歳になってはじめてこの病気を発症した場合でないと、急
死は考えられないのです。ところが、モーツァルトは小さいとき
に少なくとも三度はこの病気にかかっており、免疫はできていた
と考えられるので、リュウマチ熱だけが原因で死亡した可能性は
きわめて低いといえます。
 ここで、モーツァルトの担当医のクロセットやザラーバは、脳
での発症を危惧していたことを思い出していただきたいのです。
脳での発症とは、頭部における沈着、つまり「脳合併症」のこと
なのです。
 クロセットもザラーバも、マクシミリアン・シュトルの門下生
ですが、シュトルは当時主流であった体液病理学の第一人者なの
です。体液病理学によると、リュウマチ性疾患によって頭部に何
らかの物質が沈着し、それが脳合併症を起こす可能性があること
を指摘しており、クロセットやザラーバがそれを疑ったのは当然
のことであるといえます。
 ザルツブルグ・モーツァルティウムを卒業し、優れたピアニス
トでもあるアントン・ノイマイヤーは、同時に優れた内科医でも
あるのですが、彼はこれに関連して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、当時主流であった体液病理学を思い起こしてみる必要
 がある。それによれば、リウマチ性疾患の諸症状は、病因とな
 る――今日なら毒性の、といわれるだろう――物質がさまざま
 な器官組織へ沈着することによって生み出されるとされた。そ
 のような物質のひとつが関節に集中して沈着すると、急性関節
 リュウマチの、あのような症状があらわれるのである。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この場合、ノイマイヤーが沈着する物質にわざわざ「今日なら
毒性の、といわれるだろう」という注釈をつけたことは意味深な
ことです。モーツァルトが、かなり前から何らかの毒物を飲まさ
れていて、そういう毒性のある物質が脳に沈着した可能性をほの
めかしているのです。
 モーツァルトの直接の死の原因は瀉血療法にあるという指摘を
する医師もいます。瀉血とは、人体の血液を外部に排出させるこ
とで、症状の改善を求める治療法のひとつです。体液病理学では
炎症性の疾患にこの療法をよく行うのですが、今日ではこの療法
は限定的にしか行われないのです。
 モーツァルトには、体液病理学を専門といるクロセットとザラ
ーバという2人の医師が付いていたため、もちろん何回も瀉血療
法を受けていたことは確かであり、ゾフィーの手紙によると、最
後の晩もクロセットはモーツァルトに瀉血を行っているのです。
 しかし、瀉血による血の喪失は、熱と発汗で衰弱していたモー
ツァルトに致命的な打撃を与えたはずであり、それが死への引き
金になったものと思われます。
 モーツァルトの死因は、毒薬の投与とそれが頭部に沈着する病
気の合併症が疑われるのです。 ・・・[モーツァルト/45]


≪画像および関連情報≫
 ・マクシミリアン・シュトルツ博士の治療法
 ――――――――――――――――――――――――――――
 私の治療法は、以下のようなものであった。すなわち、必要と
 あらば、あらかじめ瀉血を施した後で、多量の食塩水を与え、
 次に催吐剤を投じる。これをときどき繰り返す。患者が嘔吐し
 たら、体内を空に保つようにする。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
 ――――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトの死亡通知書.jpg
モーツァルトの死亡通知書
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2009年06月04日

●ゾフィーはなぜ臨終の席にいたのか(EJ第1968号)

 モーツァルトの臨終の席の主役は、どう見てもコンスタンツェ
ではなく、妹のゾフィーです。モーツァルトはゾフィーの腕の中
で息を引き取っています。ゾフィーはどのような経緯でモーツァ
ルトの臨終の席にいることになったのでしょうか。
 1791年12月4日の話です。モーツァルトの亡くなる1日
前の話です。そのときゾフィーは、母のセシリアと一緒に生活を
していたのです。ゾフィーは11月の後半にモーツァルトが病床
から起き上がれなくなってからは、姉のコンスタンツェを励ます
ため、毎日のようにモーツァルトの家に行っていたのです。
 12月4日にいつものようにモーツァルトの家に行くと、モー
ツァルトはゾフィーに対して「今晩は一日自分に付き添っていて
欲しい」と頼んだのです。ゾフィーは、今晩は戻れなくなるので
母の面倒を一番上の姉であるヨーゼフ・ホーファーに頼んでくる
からといって家に戻ろうとしたのです。
 そのとき、コンスタンツェが家の外まで追いかけてきて、次の
ことを頼んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖ペテロ教会の司祭様のところに行って、司祭様に来てもらう
 ように頼んでちょうだい。それも、偶然のようにして来て欲し
 いと頼んで欲しいの。         ――コンスタンチェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゾフィーは姉のいう通りに教会に行って頼んだのですが、司祭
の返事は次のように冷たいものでした。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あの音楽家さんは、カトリック教徒としてはいつも芳しくない
 方でしてね。ですから、行くのはお断りします。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが司祭から疎まれていたのは、おそらくモーツァ
ルトがフリーメーソンとして、かなり派手に活動をしていたから
ではないかと思われます。
 ゾフィーがモーツァルトの家に戻ってきたときは、かなり遅い
時間になっていたはずですが、そのときの模様をゾフィーはニッ
センに宛てた手紙で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーがベットのそばにいました。有名な「レクイエ
 ム」が毛布の上に置いてあり、モーツァルトはジュスマイヤー
 に自分が死んだら、どうやって書き終えたらいいか自分はこう
 考えているからと言って説明していました。それからあの人は
 姉さんに自分が死んだことをアルブレヒツベルガーに知らせる
 までは秘密にしておくように言いきかせました。というのは、
 この方に神と世のつとめがすべて任されていたからです。
             ――フランシス・カーの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことは、この時点でモーツァルトはまだ元気であり、
仕事をしていたということです。しかも、モーツァルトは自分が
今晩死ぬということを自覚していたようです。ゾフィーに今晩は
泊まってくれと頼んだのも自分が明日まで持たないことをモーツ
ァルト自身がよくわかっていたからなのでしょう。
 実は、ゾフィーが母の面倒や教会との掛け合いをして走り回っ
ている間に、モーツァルトは病床で「レクイエム」の試演をやっ
ていたのです。その試演に参加していたのは、次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ベネディクト・シャック
         フランツ・ホーファー
         フランク・ゲルル
―――――――――――――――――――――――――――――
 シャックは、そのとき公演中の『魔笛』でのタミーノ役ですが
彼がソプラノを、ヴァイオリン奏者のホーファーはテノールを、
『魔笛』でザラストロ役をやっているゲルルはバスを、そしてモ
ーツァルト自身がアルトを担当して「レクイエム」の試演をやっ
たのです。
 しかし、リハーサルが始まって、「デイエス・イラエ」までは
進んだのですが、「ラクリモサ・ディエス・イラ(涙の日)」の
描写になったとき、モーツァルトは泣き出してしまって、そこで
中止になったのです。
 それにしても死の直前まで、モーツァルトは意識はしっかりし
ており、最後の最後まで「レクイエム」の完成を目指していたの
です。しかし、モーツァルトは午後11時頃に意識がなくなって
昏睡状態に入り、12月5日午前〇時55分にこの世を去ってい
ます。クロセット医師がモーツァルト家にやってきたのは、おそ
らく日付けの変わった5日早々であったと思われます。
 クロセットは、モーツァルトに対して瀉血を行い、依然として
熱が下がらないので、ゾフィーに額を冷やすように命じたところ
ゾフィーは次のように反対しています。それは、クロセット医師
がさんざん遅れてやってきて、あまりにも誠意のない治療をした
ことも手伝ってのことと思われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 病人の手足が炎症を起こしてむくんでいるし、急に冷やしても
 大丈夫なのですか。             ――ゾフィー
―――――――――――――――――――――――――――――
 おそらくクロセットはゾフィーの言葉にはカチンときたに違い
ないのです。この高名な医師に対して素人が何をいうか――クロ
セットは強引に「やれ!」とゾフィーに命じたのです。
 そうしたところ、モーツァルトは痙攣を起こし、ゾフィーの腕
の中で息を引き取ったのです。瀉血で最後の体力を奪われていた
ことが死の原因だったと思われます。以上がモーツァルトの病死
説の全貌です。        ・・・[モーツァルト/46]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト作曲/レクイエム
  ―――――――――――――――――――――――――――
   1曲:入祭唱        8曲:涙の日
   2曲:キリエ        9曲:主イエス・キリスト
   3曲:怒りの日      10曲:賛美の生け贄と祈り
   4曲:奇しきラッパの響き 11曲:サンクトゥス
   5曲:恐るべき御稜威の王 12曲:祝福されますように
   6曲:思い出したまえ   13曲:神の小羊よ
   7曲:呪われたもの    14曲:聖体拝領唱
   8曲:涙の日
  ―――――――――――――――――――――――――――

ネルソン・オニールの「モーツァルトの死」.jpg
ネルソン・オニールの「モーツァルトの死」
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2009年06月05日

●モーツァルトは誰に毒を盛られたのか(EJ第1969号)

 モーツァルトの毒殺説が出てきた最初のキッカケは、当のモー
ツァルト自身が口にしたからだといわれています。それは、17
91年6月のことで、コンスタンツェとウィーンのプラーター公
園を散策中のことだったといわれています。
 モーツァルトの伝記作家たちは、このプラーター公園における
モーツァルトによる告白を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1791年6月、モーツァルトは、コンスタンツェとウィーン
 のプラーター公園を散策中、自分は毒を盛られたと言い、「だ
 れかがぼくにアクア・トファナを飲ませた」と語った。
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 しかし、彼の不快な気分は眼に見えてつのり、彼を陰気な憂鬱
 へと陥らせた。妻はそれを感じとり、気が重かった。彼の気を
 紛らわせ、元気づけるために、彼女はある日彼とともにプラー
 ター公園を馬車で走った。彼らが公園で2人きりで座った時、
 モーツァルトは死について語り始め、僕は自分のために≪レク
 イエム≫を書いているんだ、と言い張った。感じやすい夫の目
 に涙が浮かんだ。「僕にはよく分かる」と彼は続けた。「僕は
 もう長くない。きっと毒を盛られたんだ!この考えを振り払え
 ないんだよ」。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃モーツァルトは2つの気分に支配されていたようです。
『魔笛』やフリーメーソン関係の曲を書いているときはとても元
気なのに、『レクイエム』の作曲をはじめると、なぜか元気がな
くなって、うつ状態になってしまうのです。
 しかし、そうかといってうつ病とは考えられない――このよう
に医師のアントン・ノイマイヤーはいうのです。それは精神異常
を示す兆候――食欲不振とか、それによる体重の減少、睡眠障害
などが当時のモーツァルトには何も見られないからです。
 もし、モーツァルトが本当に毒を盛られたとしたら、それは遅
効性のある毒であり、少しずつ効いてくる毒を飲まされていたと
いうことになります。問題はそういう毒薬を誰が盛ったかという
ことです。モーツァルトの身近にいる人でないと、それを果たす
ことはできないと考えられます。
 ところで、例のプラーター公園でのモーツァルトの告白を『モ
ーツァルトは誰に殺されたか』の著者、真木洋三氏は次のように
より踏み込んで書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの没後7年目の1798年、プラハのニーメチェ
 ックは、最初のモーツァルト伝を出版したが、その伝記による
 と、彼が妻に毒殺を打ち明けた場所は、プラター公園であった
 という。
 「誰が、毒を盛ったの?」
 コンスタンツェは驚いてモーツァルトに詰め寄った。彼はひと
 呼吸もふた呼吸も置いて、呟くように言った。
 「お前、気がついてなかったのか?」
 「なんのこと?」
 「とぼけるのもいい加減にしろ、お前のほれ・・・」
 お抱え道化師さ、と言おうとして彼は顔をそむけ、ゆっくりと
 歩き始めた。彼女の顔から血の気が一挙に引いた。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「お抱え道化師」とは誰のことでしょうか。
 オペラ好きの人であれば、「お抱え道化師」と聞いてすぐ頭に
浮かぶのはリゴレット――歌劇『リゴレット』のタイトル・ロー
ルです。モーツァルトは、コンスタンツェに宛てた手紙で、よく
この言葉を使っているのです。1791年6月にバーデンで温泉
治療をしているコンツタンツェに宛てた手紙の最後に次のように
使っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    お前のお抱え道化師に、ぼくからよろしく
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「お抱え道化師」といわれているのは、モーツァルトの
弟子のジュスマイヤーのことなのです。そうすると、ジュスマイ
ヤーによってモーツァルトは毒を盛られたことになります。その
ような可能性は考えられるのでしょうか。
 確かにジュスマイヤーであれば、モーツァルトの食べ物に毒を
盛ることは可能です。しかし、ジュスマイヤーにモーツァルトを
殺す動機が見つからないのです。
 そこで考えられるのは、コンスタンツェのジュスマイヤーとの
不倫疑惑です。真木洋三氏はそれを前提として、モーツァルト毒
殺の推理を組み立てているのです。それならば、ジュスマイヤー
はコンスタンツェと一緒に暮らすことを夢見てモーツァルトを毒
殺したのでしょうか。
 確かに不倫疑惑は否定できないし、あっても不思議はないので
す。コンスタンツェの脚の病気は妊娠に伴うものであり、頻繁に
温泉治療が必要なほどの重症ではないといわれます。それをコン
スタンツェは、モーツァルト家の家計の厳しい中で2年以上も続
けて行ない、モーツァルトを苦しめたのです。モーツァルトの借
金の主要な原因はコンスタンツェのこの病気治療にあるのです。
 その温泉治療のバーデンでは、ジュスマイヤーが付き添ってい
たのです。モーツァルトの命を受けてです。しかし、ジュスマイ
ヤーが宮廷貴族が送り込んだスパイと考えた場合は、少し事情が
違ってきます。        ・・・[モーツァルト/47]


≪画像および関連情報≫
 ・コンスタンツェのジュスマイヤーの不倫疑惑
  ―――――――――――――――――――――――――――
   モーツアルトの弟子がなぜ自分の師匠を毒殺しなければな
  らなかったのでしょうか。実は、モーツアルトの妻コンスタ
  ンチェと弟子のジュスマイアーは不倫をしていたのではない
  かと疑われています。モーツアルトは、もともとコンスタン
  チェの姉のアロイジアにプロポーズをしていましたが、結果
  的にふられてしまいました。それでもモーツァルトは、コン
  スタンチェと結婚した後も、アロイジアにずっと好意を寄せ
  ていたようです。それを不満に思ったコンスタンチェは若い
  弟子のジュスマイアーと不倫をしてしまったというのです。
  しかし、コンスタンチェはジュースマイアーにモーツアルト
  の殺害を依頼したわけではなく、むしろ、自分の不倫相手が
  夫を殺害してしまったのを知って、罪の意識から葬儀に参加
  できなかったのではないかと推論できます。
  http://www2.ocn.ne.jp/~lemonweb/story_pages/s_page4.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

プラーター公園.jpg
プラーター公園
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2009年06月08日

●ジュスマイヤーとは何者か(EJ第1970号)

 フランツ・ジュスマイヤー――モーツァルトの弟子であったこ
の男はどういう人物なのでしょうか。
 ジュスマイヤーは1766年にオーストリアのシュヴァーネン
シュタットで生まれる――父に音楽の手ほどきを受け、1779
年〜84年、クレムスミュンスター修道院で学んでいます。
 この修道院では、オペラやジングシュピールがよく上演された
ため、グルックやサリエリのオペラを研究する機会に恵まれ、修
道院のための教会音楽や舞台音楽を大量に作曲するなど、それな
りの音楽的才能を発揮しています。
 1790年にモーツァルトの弟子になりますが、そのときジュ
スマイヤーは24歳であり、なかなかの美青年だったといわれま
す。モーツァルトは、ジュスマイヤーを自分の仕事のアシスタン
トとしてに使うよりも、むしろコンスタンツェの面倒をみさせて
いたといわれます。
 コンスタンツェが脚の治療と称してバーデンに行きたがるとき
も家計が苦しいにもかかわらずそれを許し、ジュスマイヤーを世
話役として同行させたのも、わがままなコンスタンツェの面倒を
ジュスマイヤーに押し付け、作曲に専念するための自分の時間を
作りたかったというのがモーツァルトの本音だったと思います。
 なぜなら、そのときモーツァルトは「自分にはもうあまり時間
がない」ことを本能的に知っていたように思われます。その当時
モーツァルトが書いていたオペラは、歌劇『皇帝ティトゥスの慈
悲/K621』です。
 この当時のモーツァルトの心情を理解しようと思うなら、この
オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲/K621』について知る必要が
あります。ところがかなりのモーツァルトファンでも、『魔笛』
は知っていても、『皇帝ティトゥスの慈悲』については知らない
人が多いのです。
 このオペラは『後宮からの誘拐』に似ています。『後宮からの
誘拐』は実は当時の皇帝ヨーゼフ2世に対して愛と寛容を訴える
ものだったのですが、『皇帝ティトゥスの慈悲』は同じ愛と寛容
を皇帝レオポルト2世に対して訴えるものなのです。レオポルト
2世はモーツァルトに対して、どちらかというと冷たい人であっ
たからです。
 『皇帝ティトゥスの慈悲』とは、人間関係が複雑に入り組んで
いるオペラです。EJ風に要約してみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ローマ皇帝ティトにはセストという親友がいる。ティトはセ
 ストの妹のセルヴィアを愛しており、求婚するが、セルヴィア
 はセストの友人アントニオを熱愛していたので、ティトの求婚
 を断わる。そこで、ティトは先帝の娘であるヴィテリアと結婚
 することを決意するが、ヴィテリアはセストを愛している。
  セストはヴィテリアにそそのかされて、皇帝ティトの暗殺を
 企てるが失敗する。ティトは親友のセストを何とか救ってやろ
 うと理由を聞くが、セストはヴィテリアを庇って黙秘する。
  ローマ元老院はセストに死刑を言い渡し、刑が執行されるこ
 とになった。しかし、ヴィテリアは正式に皇妃の座につくこと
 になるが、その席で群集の面前でかかる悪事を企んだのはセス
 トではなく自分であると告白してセストの命を救う。
  皇帝ティトは、愛がすべての原因であることを悟り、この事
 件にかかわったすべての者を許すと言明する。しかし、セスト
 は、皇帝は許しても自分の良心は許してくれないと罪に伏すこ
 とを願い出る。しかし、ティトは悔い改めたその心こそ変わら
 ない忠誠よりも尊いとしてセストを許すのである。
  この皇帝ティトの深い慈悲に、ティトを除いた全員が「永遠
 の神」を称える大合唱が歌われ、オペラの幕が閉じる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このオペラの最後の大合唱は、モーツァルトの持っているエネ
ルギーが天に向かって噴出するかのような大迫力に満ちたものに
なっています。おそらくモーツァルトは、自らが皇帝ティトにな
り代ったような気持ちで作曲したものと思われます。
 この『皇帝ティトゥスの慈悲』の作曲と同時平行して『魔笛』
の作曲も進めていたモーツァルトは、『皇帝ティトゥスの慈悲』
の一部をジュスマイヤーにまかせているのです。そこがあとでこ
の作品の弱点ともなるのですが、モーツァルトにとっては、『魔
笛』の方が大切だったと思われます。
 1791年7月26日に、コンスタンツェは6番目の子供を出
産するのです。男の子です。モーツァルトの子供は6人ですが、
結局2人しか育っていないのです。このとき、モーツァルトは、
ジュスマイヤーを呼び出して次のようにいっているのです。真木
洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーが彼(モーツァルト)に呼ばれた。弟子は緊張
 し切っていた。
 「あの子は、わたしの子ではないよ」
 「でも、先生の子なのは、たしかです」
 「莫迦なこと、言うんじゃない。十か月前、君は、コンスタン
 ツェとずっと一緒だった。わたしは、昨年、9月23日、フラ
 ンクフルトへ出発した。しかも、9月はいちどもバーデンには
 行っていない」。
  ジュスマイヤーの顔色は蒼白となった。両手がかすかに震え
 ている。
 「なにもかも知っているよ。きみが特別の仕事のために、わた
 しのところへ来たのも・・・」
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「特別の仕事のために」とは何を意味しているのでしょうか。
ジュスマイヤーは誰かの命によって送り込まれたスパイだったの
でしょうか。         ・・・[モーツァルト/48]


≪画像および関連情報≫
 ・『皇帝ティトゥスの慈悲』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『皇帝ティトゥスの慈悲』が音楽的に弱々しい作品だという
  のは絶対に正しくない。そこには最高の技術を持った名匠の
  美しい音楽がみちみちているのである。問題は、すべてテキ
  スト自体が、真の人間の感情と劇的な形を持つような作品を
  生み出す可能性を、まったくといってよいほど殺してしまっ
  ていることなのだ。―スタンリー・サディー著/小林利之訳
         『モーツァルトの世界』より。東京創元社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

『皇帝ティトウスの慈悲』の初版スコア.jpg
『皇帝ティトウスの慈悲』の初版スコア

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2009年06月09日

●モーツァルトの4男をめぐる謎(EJ第1971号)

 昨日のEJでも述べたように、モーツァルトとコンスタンツェ
の間には6人の子供が生まれましたが、次のように次男と四男の
2人の男子しか育っていないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   次男 ・・・・・    カール・トーマス
   四男 ・・・・・ フランツ・クサーヴァー
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第1932号で、2人の男の子のうちの四男、「フランツ
・クサーヴァー」の名前を覚えておいて欲しい――そのように私
は書きました。モーツァルトのテーマがはじまってちょうど10
回目のときでしたが、やっとそれが何を意味するかについて書く
ところまできました。
 モーツァルトの弟子であるジュスマイヤーのフルネームは、次
のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤー
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの四男もフランツ・クサーヴァー――すなわち、
フルネームは次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、モーツァルトは四男にこのような名前をつけたのでしょ
うか。真木洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの眼には涙が光った。すべり落ちる涙を振り払っ
 て、微かな、つぶやくような声で彼は続けた。
 「きみの名前をつけて、あの子は、フランツ・クサーヴァー・
 ヴォルフガング・モーツァルトとしよう。こんなことになるだ
 ろうと思って、去年の9月30日付でコンスタンツェはこの住
 所に引っ越したことにしてある。世間的には、わたしの子とな
 るだろう。だが、・・・」
 「先生、お許し下さい!」
 ジュスマイヤーは両頬に涙を迸らせて、両膝をついて涙に咽ん
 でいた。彼はキリストのかくれている場所を、わずかの金に釣
 られて役人に告げ、キリストを裏切ったユダの立場に自分が立
 たされているのを知った。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろんこれは四男の名前に着眼した真木洋三氏の推理です。
確たる証拠があるわけではありませんが、あってもおかしくない
説得力を持った説であると思います。
 真木洋三氏はもうひとつジュスマイヤーは、しかるべきところ
から意図的に送り込まれたスパイであると推理しています。映画
『アマデウス』では、サリエリが女中をスパイとして送り込むと
いう設定になっているので、あり得ないことではないのです。
 それなら、ジュスマイヤーは誰から送り込まれたスパイなので
しょうか。
 おそらくそれはサリエリであろうと思われます。何をもってそ
う判断するかというと、ジュスマイヤーはモーツァルトの死後、
コンスタンツェの前から姿を消し、サリエリの弟子になっている
のです。
 この事実からジュスマイヤーとサリエリは事前に繋がりがあっ
て、サリエリの特命を受けてモーツァルト家に入り込み、モーツ
ァルトに毒を盛る――まさかコンスタンツェと不倫を働くという
のは特命でないと思うが――そういう疑いが出てくるのです。サ
リエリのモーツァルト服毒説はこういう観点から出てくるのであ
れば、あってもおかしくない話なのです。
 実際問題として、サリエリらの宮廷貴族の一派は、『フィガロ
の結婚』をはじめとするモーツァルトのオペラの公演を物理的に
妨害して失敗させようとしたことは動かし難い事実です。貴族た
ちにとってモーツァルトは危険な存在だったのです。
 しかし、それでいながら、サリエリはモーツァルトの音楽を高
く評価していたのです。1791年4月17日にはサリエリが自
ら指揮して、モーツァルトの交響曲第40番ト短調を演奏してい
ます。サリエリはこの曲がとても好きだったといわれます。
 『魔笛』に関して、モーツァルトはコンスタンツェへの手紙に
おいて次のように伝えてもいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨日13日の木曜日・・・6時に、僕はサリエリとカヴァリエ
 リを馬車で迎えにいき、彼らを桟敷席に案内した。2人がどん
 なに感じよかったか、僕の音楽だけでなく、台本も何もひっく
 るめて全部をどれだけ気に入ってくれたか、お前には信じられ
 ないだろうよ。(中略)サリエリは、序曲から最後の合唱まで
 一心に聴き、見ていたが、彼からブラヴォーとか、ベッロ(素
 敵だ)とかいう言葉を誘い出さない曲は、一曲もなかった。彼
 らは僕の好意に対し、ほとんどきりのないくらい礼をいった。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほどモーツァルトを買っていたサリエリがモーツァルトを
殺すはずはない――これはひとつの説得力のある意見です。サリ
エリとしては、宮廷音楽家としては最高の地位を得ており、モー
ツァルトを恐れる必要は何もなかったからです。しかし、貴族と
してみた場合は、モーツァルトはやはり危険分子なのです。
 サリエリは、ジュスマイヤーを弟子として迎え入れただけでな
く、四男のクサーヴァー・モーツァルトの面倒まで見ているので
す。もし、四男ががジュスマイヤーの子供だとした場合、これは
何を意味しているのでしょうか。・・・[モーツァルト/49]


≪画像および関連情報≫
 ・フランツ・クサーヴァー・モーツァルト
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・モーツァルトはドイツのピアニス
  トで作曲家。モーツァルトの生き残った2人の子供のうちの
  次男(実際には四男)。母コンスタンツェの意向もあり、ヴ
  ォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世として活動。
  しかし、生まれた直後に父親が他界したため、父から直接、
  卓越した音楽教育などを受けた事実はない。アントニオ・サ
  リエリとヨハン・ネボムク・フンメルに師事。《ディアベリ
  の主題による50の変奏曲》に、フランツ・リストなどとと
  もに名を連ねている。ピアノ・ソナタやポロネーズ、ロンド
  変奏曲などの作品があり、作品は洗練され、繊細であるが、
  ウェーバーやシューベルトと同世代にもかかわらず、作風は
  ウィーン古典派の域を出ない。    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

クサーヴァー・モーツァルト.jpg
クサーヴァー・モーツァルト
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2009年06月10日

●『レクイエム』の補作をめぐる問題(EJ第1972号)

 宮廷貴族のスパイであるジュスマイヤーが弟子としてモーツァ
ルト家に入り込み、あろうことか妻のコンスタンツェと不倫を重
ね子供までつくってしまう――それをモーツァルトは知っていて
すべてを許す――普通こういうことは考えられないことですが、
『皇帝ティトゥスの慈悲』と重ねあわすと、なんとなく理解でき
るような気がするのです。モーツァルトは、自分が皇帝ティトゥ
スになったつもりで、寛容と慈悲の精神をもってコンスタンツェ
やジュスマイヤーを許したのでしょうか。
 いずれにせよはっきりしていることは、子供が生まれた時点で
ジュスマイヤーとコンスタンツェの仲は既に破綻していたという
事実です。それは、ジュスマイヤーがモーツァルトの死後、速や
かにモーツァルト家から姿を消しているからです。
 夫を亡きものにして一緒に暮らすのではなく、目的が達せられ
たので姿を消すというのであれば、ジュスマイヤーのスパイ説は
真実味を帯びてきます。ジュスマイヤーは、モーツァルト家から
姿を消して、サリエリの弟子になっているからです。
 ジュスマイヤーがコンスタンツェの前から姿を消したのであれ
ば、それなら彼はぜ未完の『レクイエム』の補作を行なったので
しょうか。これには少し複雑ないきさつがあるのです。
 モーツァルトの死後、『レクイエム』の依頼主のヴァルゼック
伯爵からコンスタンツェのところに使者が来て、『レクイエム』
の総譜を渡せといってきます。
 既にジュスマイヤーは姿を消していて、補作をやってもらう人
がいない。もし未完のままスコアを渡すと、残金がもらえないの
で、コンスタンツェはなんとか完成させようとします。そこで、
モーツァルトの友人のヨーゼフ・アイブラーに『レクイエム』の
補作を依頼するのです。
 アイブラーはいったんは引き受けておきながら、何ひとつ作業
を行なわないまま、補作を投げ出してしまったのです。なぜ、投
げ出したかは今もってわかっていないのです。
 ヴァルゼック伯爵からの催促は激しさを増すばかりで困り果て
たコンスタンツェは死にもの狂いでジュスマイヤーを探し、彼が
サリエリの弟子になっていることを突き止めたのです。
 コンスタンツェは人を介してジュスマイヤーに補作を依頼した
のです。ジュスマイヤーはモーツァルトとの約束でもあったので
補作を引き受け、完成させます。そして、モーツァルトの没後、
2年が経過した1793年になって、『レクイエム』は、ヴァル
ゼック伯爵に手渡されたのです。そしてその『レクイエム』は、
1793年12月にヴァルゼック伯爵の作品として、邸内の礼拝
堂において演奏されたのです。
 しかし後になってコンスタンツェが『レクイエム』のコピーを
楽譜出版会社のブライトコップフ・ウント・ヘンテル社に売りつ
けたので、『レクイエム』はモーツァルトの作品として正式に認
定されたのです。
 しかし、ジュスマイヤーも黙ってはいませんでした。1800
年2月8日になって、ジュスマイヤーはブライトコップフ・ウン
ト・ヘンテル社に対して『レクイエム』の後半のほとんどは自分
の補作であることを通告したのです。ジュスマイヤーの心境とし
ては、こうすることによってのみ自分の名前が後世に残る――そ
のように考えたのです。
 それは、ジュスマイヤーの考えた通りとなり、モーツァルトの
『レクイエム』の補作者としてフランツ・クサーヴァー・ジュス
マイヤーの名前は今日に残っているのです。そして、ジュスマイ
ヤーはそれから3年後に37歳の若さでこの世を去っています。
 ジュスマイヤー版の『レクイエム』は、その後何回かにわたっ
て修正が行なわれていますが、やはり作曲者のモーツァルト自身
から直接指示を受けてのジュスマイヤーの補作には、多くの問題
があるとはいえ、一定の価値が認められています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1971年、フランク・バイヤーによって、ジュスマイヤーの
 補作であるオーケストレーションの改訂が行われた。そのあと
 イギリスの音楽学者リチャード・モーンダーにより続唱の涙の
 日(ラクリモサ)の第9節以下のジュスマイヤーの補作がカッ
 トされ、代わって入祭文の一部を入れ、最後にモーツァルトが
 スケッチのまま残したアーメンのフーガをつけ加えるという大
 手術が行われた。完全にジュスマイヤーの作と思える、サンク
 トゥスとベネディクスも切り落とされてしまった。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまで宮廷貴族の送り込んだスパイとしてのジュスマイヤー
によるモーツァルト毒殺説について述べてきましたが、もう1人
疑わしい人物がいます。
 それは他ならぬモーツァルトの妻であるコンスタンツェその人
です。モーツァルトに遅効性の毒を盛るには、モーツァルトの身
近にいる者以外は無理ということになります。そうなると、コン
スタンツェかジュスマイヤーしかいないことになります。
 コンスタンツェを疑う理由はいくつもあるのです。それは死亡
から埋葬までの一連のプロセスに多くの疑惑があるからです。フ
ランシス・カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが死んだ正確な日時は1791年12月5日の午
 前1時5分前であることはわかっている。しかしその後は、わ
 れわれは闇、疑惑、矛盾の中に投げ込まれてしまう。特にその
 中で際立つのはコンスタンツェだが、それは彼女が肝心なとき
 にいなかったり、黙して語らずといった不可解な行動による。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――・・・[モーツァルト/50]


≪画像および関連情報≫
 ・モツレクに関するブログより/ゆきのじょうさん
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトのレクイエムには、フォーレやヴェルディには
  ない問題が生じています。それは本作品が全くと言って良い
  ほどの未完成品であるということです。モーツァルトの死後
  レクイエムは弟子たちによって完成版がつくられることにな
  ります。最終的にまとめたのがフランツ・クサヴァ・ジュス
  マイヤー(1766〜1803)です。特に「ラクリモーザ」
  より後はモーツァルトの自筆譜すら残っていないため、様々
  な仮説、憶測が流れることになります。それらの主張を乱暴
  に一言で言ってしまえば「モーツァルトが書きたかったレク
  イエムはこういうものではない」ということだと思います。
  http://www.kapelle.jp/classic/your_best/mozart_requiem.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

フランツとカール/モーツァルトの子供.jpg
フランツとカール/モーツァルトの子供
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2009年06月11日

●なぜ、スヴィーテン男爵が葬儀執行人なのか(EJ第1973号)

 モーツァルトが亡くなったのは、1791年12月5日午前0
時55分ということではっきりしています。しかし、葬儀の日付
については死亡日ほどはっきりしていないのです。
 それなら、聖シュテファン教会の死者台帳にはどのように記述
されているのでしょうか。死者台帳には、1791年12月6日
と明記されています。
 普通であればこれで決まりなのです。死者台帳が日付を間違っ
て記載されるはずがないからです。しかし、葬儀当日の天候が合
わないことと、モーツァルトが毒殺されたとする説を否定しよう
とする勢力によって、12月7日説が最近になって出てきたので
す。どうして、6日だと普通の病死ではないとされるかについて
は、これから述べていくことにします。
 モーツァルトが亡くなったあと、疑わしいことがたくさん出て
きています。それは、モーツァルトの臨終のさいは看護を妹のゾ
フィーにまかせきりにし、目だった動きをしなかったコンスタン
ツェが、モーツァルトが死ぬと急にテキパキと動き出したことで
す。それは、まるでモーツァルトの死を待っていたかのようだっ
たといわれます。
 それは、モーツァルトが死んでほどなくして、知らせを聞いて
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵が姿を現したことに
よって、わかったのです。モーツァルトの死後、コンスタンツェ
が召使の誰かに命じ、男爵に連絡を入れたからです。そして、彼
はコンスタンツェと葬儀の段取りを決め始めたのです。彼は最初
から葬儀を取り仕切るつもりでやってきたのです。
 EJ第1968号で述べたように、モーツァルトはコンスタン
ツェに、自分が死んだらアルブレヒツベルガーに一番最初に連絡
をとるようにいっています。アルブレヒツベルガーは宮廷付きの
オルガニストでモーツァルトの友人であり、モーツァルトから葬
儀などを依頼されていたのです。
 しかし、コンスタンツェはモーツァルトの言いつけを無視し、
スヴィーテン男爵に連絡をとったのです。おそらく事前にコンス
タンツから話がいっていたのでしょう。スヴィーテン男爵は深夜
にもかかわらず、モーツァルトの家に駆けつけたのです。
 それでは、スヴィーテン男爵とモーツァルトとの付き合いはど
の程度のものだったのでしょうか。
 スヴィーテン男爵との付き合いはフリーメーソンを通じてのも
のであり、いくつか作曲や編曲の仕事をもらっています。しかし
最後にヘンデル作品の編曲の仕事を最後に1年半以上疎遠になっ
ており、とくに親しい付き合いではなかったのです。
 コンスタンツェとしては、モーツァルトの死をいち早く伝える
べき人はたくさんいたはずです。親友のフォン・ジャカン、アロ
イジアの夫であるランゲ、何回も資金援助を受けた恩人のブフベ
ルク、それに『魔笛』を共に制作した仲間であるシカネーダーな
どです。しかし、コンスタンツェはなぜか、モーツァルトとあま
り接触のなかったスヴィーテン男爵を呼んでいるのです。遠くに
住んでいたとはいえ、モーツァルトの姉のナンネルにさえコンス
タンツェは最後までモーツァルトの死を伝えなかったのです。こ
れは妻として最低の行為と批判されても仕方がないのです。
 もうひとつ、モーツァルトが死んだときコンスタンツェは、モ
ーツァルトの友人の1人であるヨーゼフ・ダイナーのところへ女
中を走らせ、モーツァルトを死装束を着せ替えるよう頼んでいま
す。12月5日の午前5時のことです。
 なぜ、そんなに急ぐのでしょうか。夏であれば遺体の腐敗も考
慮して急ぐ必要がありますが、時期は厳冬の季節であってそんな
に急ぐ必要はまったくないのです。
 それは何らかの理由で、モーツァルトの遺体をあまり多くの人
には見せたくなかったのではないかと思われます。したがって、
少しでも早く遺体に死装束を着せ、モーツァルトの死を多くの人
が知る前に葬儀を済ます必要があったのでしょう。
 そのためには、あとで墓が掘り返される恐れのない最下等の葬
儀と共同墓地への埋葬一番都合が良かったのです。スヴィーテン
男爵は、深夜に駆けつけるや否やコンスタンツェに、第3等の葬
儀と共同墓地への埋葬を提案し、コンスタンツェは誰に相談する
ことなく、それに同意しています。
 葬儀費用は8フローリン56クロイツァー――これは貧民のた
めの無料の葬儀の一つ上のランクの葬儀なのです。おそらく事前
にコンスタンツェは男爵に、借金が多く葬儀にお金をかけられな
いことを話していたものと思われます。何やらモーツァルトが死
んだらこうするということを前々からよく計画を練っていたフシ
が濃厚なのです。
 既にご紹介しているモーツァルトの研究家藤澤修治氏のレポー
トによると、死の直前のモーツァルトは相当金銭的に潤っていた
としています。そのいくつかの根拠を示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『レクイエム』作曲料の前金 ・・・  225フローリン
 『皇帝テイトゥスの慈悲』の作曲料・ 1125フローリン
 『魔笛』の作曲料 ・・・・・・・・  900フローリン
 宮廷音楽家の報酬/5ヶ月分 ・・・ 2630フローリン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                   4880フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけで4880フローリン――この他楽譜出版収入、ピア
ノや作曲の教授料などを加えると、ゆうに5000フローリンを
超える収入(1フローリン=約1万円)があったのです。これで
最下等の葬儀しか出せないはずはないのです。
 コンスタンツェは、モーツァルトに親しい友人であれば、死の
直前のモーツァルトの懐具合を知っているので、あえて疎遠のス
ヴィーテン男爵に葬儀執行人を頼んだのではないかと推測できる
のです。しかし、最下等の葬儀を選んだのはお金のためではない
ある事情があったのです。   ・・・[モーツァルト/51]


≪画像および関連情報≫
 ・聖シュテファン大聖堂について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハプスブルク家のルドルフ4世はこの教会をゴシック様式に
  全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分
  と両側の廊下部分の礎石が据えられました。南塔は高さが、
  136.7メートルあり、1433年に完成。1469年に
  は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世がローマ法王を説得
  して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独
  立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬され
  ています。
      http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11795
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖シュテファン大聖堂.jpg
聖シュテファン大聖堂
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2009年06月12日

●なぜ葬列をやめ引き返したのか(EJ第1974号)

 モーツァルトの葬儀の費用は、第3等で8フローリン56クロ
イツァーであると述べましたが、これについてフランシス・カー
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴァン・スヴィーテンは聖シュテファン教会での葬儀の手筈を
 整え、埋葬は、主要な共同墓地ではなく、教会から2マイル半
 離れた郊外の聖マルクス墓地に決められた。粗末で目立たない
 墓穴が注文されたが、これに8グールデン56クロイツァーか
 かった。さらに3グールデンが葬儀馬車用にとっておかれた。
               注――グールデン=フローリン
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフランシス・カーの記述において気になる点が2つあるの
です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.埋葬場所が教会から2マイル半離れた郊外の聖マルクス
   墓地であること
 2.8フロ−リン56クロイツァーは、粗末で目立たない墓
   穴の費用である
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはもっと近くに埋葬できたはずなのです。それな
のに教会から約4キロも離れた郊外のマルクス墓地に埋葬されて
いるのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
 それから、8フロ−リン56クロイツァーの葬儀は、粗末で目
立たないけれども墓穴を掘る費用を含んでいるのです。しかし、
映画『アマデウス』で見たようにモーツァルトの遺体は目印をつ
けられないままに放置された共同墓穴に落とされているのです。
これは貧者の葬儀であり、無料の葬儀の扱いなのです。
 葬儀執行人スヴィーテン男爵がモーツァルトの葬儀を第3等と
したのは、当時の葬祭法令によれば当然のことであると唱える学
者がなぜか少なくないのです。
 確かに当時の社会習慣や葬祭法では第1等の葬儀は「貴族」に
限られ、「庶民」は第2等か第3等しか選べなかったというのは
事実です。『モーツァルトの死』という著作のあるカール・ベー
アはその本の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 葬祭法によれば(庶民であるモーツァルト)は、実際には第2
 等を選ぶか第3等を選ぶしかなかったのである。比較にならな
 いくらいはるかに高名であったベートーヴェンですら、36年
 も後で、第1等の葬儀ではなく、第2等が選ばれたものであっ
 た。モーツァルトの評価が高まったのは後世になってからであ
 り、彼は当時人気の落ちぶれた一介の音楽家に過ぎず、ベート
 ーヴェンが第2等だった事実からしても、庶民であるモーツァ
 ルトは第3等の葬儀だったとしても何の不思議もない。
      ――カール・ベーア著、『モーツァルトの死』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これには異論があるのです。モーツァルトに詳しい藤
澤修治氏の論文によれば、グルックは一曲もドイツ・オペラを作
曲したことがないにもかかわらず、ウィーン宮廷は彼を国葬で送
り出し、庶民だったが第1等の葬儀を受けて個人墓に葬られてい
るのです。さらに、ヨーゼフ・ハイドンも庶民ではあったが、葬
儀は第1等であり、はやり個人墓に葬られています。
 それにモーツァルトは、カール・ベーアのいうように、「当時
人気の落ちぶれた一介の音楽家」などではないのです。死の2ヶ
月前に作曲され、10月だけで24回も連続上演された歌劇『魔
笛』ひとつ見ても、稀有の音楽家であるという評価は定着してい
たのです。
 それに最も重要なことは、モーツァルトは第3等の葬儀となっ
て金が支払われていたにもかかわらず、実際には第3等以下の扱
い――目印のない共同墓地に投げ捨てられているのです。これは
一体どうしたことなのでしょうか。
 映画『アマデウス』で目にしたモーツァルトのあまりにも寂し
い埋葬のされ方をもしモーツァルトの遺族や友人が見ていたら、
黙っていないはずです。ところが、巧妙に計算されたある策略に
よって、モーツァルトの埋葬には遺族や友人は誰も立ち会っては
いないのです。映画でもそうなっていたはずです。
 これに関しても当時のウィーンの慣習を持ち出して、正当性を
主張する学者が多いのです。つまり、会葬者は墓地まで葬列を組
んで行くことはなかったというのです。
 これは明らかにウソであると思われます。もし、そうなら、共
同墓地に葬られる場合、遺族は遺体がどこに埋葬されたかわから
なくなってしまうからです。したがって、最低限遺族は埋葬に立
ち会うことが許されていたと考えられるからです。
 モーツァルトの場合、霊柩馬車を用意して、葬儀執行人のスヴ
ィーテン男爵とコンスタンツェを除く数人の遺族と友人がマルク
ス墓地に向かっているのです。しかし、なぜか、霊柩馬車に付き
添って全員がマルクス墓地に向かう途中のシュトーベントゥール
というところで引き返しているのです。
 それでは、霊柩馬車はどうなったのか――霊柩馬車はモーツァ
ルトの遺体を乗せて付き添いなしにマルクス墓地に向かったので
す。なぜ、引き返したのか――それは当日の6日の天候のせいに
されているのです。
 葬儀当日の12月6日、天候は荒れており、風雨が強く気温は
大きく下がっていたのです。馬車にはコンスタンツェの母のセシ
リアが付き添っていたのですが、途中寒さに耐えかねて自分だけ
帰えらせてくれとスヴィーテン男爵に申し出て降りたのです。し
かし、老婆一人だけを風雨のなか帰すわけに行かず、結局全員が
引き返したのです。      ・・・[モーツァルト/52]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの埋葬について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの埋葬に多額の金をかける労を取った人間はだ
  れひとりいなかった。雨が激しかったため、遺体に付き添っ
  ていた少数の友人たちも急いで家に帰って行った。柩は貧民
  用の墓穴にあわただしく下ろされ、土をかけられた。数週間
  後に、柩は他の貧者の柩に混ざって、なにひとつ痕跡をとど
  めなくなった。その結果、死体は全く発見されなかった。
            ――サッチヴェレル・シットウェル著
                  『モーツァルト伝』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

スヴィーテン男爵.jpg
スヴィーテン男爵

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2009年06月15日

●喪主が参加しない異常な葬儀(EJ第1975号)

 モーツァルトの遺体を収めた霊柩馬車に付き添っていたのは誰
でしょうか。
 正確にはわからない。しかし、確実にいた者といなかった者は
わかるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ≪付き添っていた者≫
      ・ヴァン・スヴィーテン男爵葬儀執行人
      ・セシリア(コンスタンツェの母)
     ≪付き添っていなかった者≫
      ・コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 確証はありませんが、この他に付き添っていたと思われるのは
最後までモーツァルトの面倒をみたゾフィー・ハイベルです。こ
れは理解できます。ちなみに、霊柩馬車は人が乗れるものではな
く、馬車には棺だけを乗せてその周りを葬列参加者が付き添って
ゆっくりと墓地に行くのです。
 そして、もうひとり――モーツァルトの埋葬について調べてみ
ると、必ず出てくるヨーゼフ・ダイナーなる人物――この人物が
付き添っていたと思われるのです。このヨーゼフ・ダイナー――
EJ第1973号では「モーツァルトの友人の1人」と紹介した
のですが、正確にいうと、ダイナーはモーツァルトがよく通って
いたビア・ホール「金蛇亭」の給仕であり、モーツァルト家と親
しくなって、店に関係なくモーツァルトの使い走りをしていたと
いわれます。
 だからこそ、モーツァルトが死ぬとすぐコンスタンツェは女中
をダイナーのところに行かせ、モーツァルトに死装束を着せるの
を手伝ってくれるよう依頼したのです。
 ところで、このヨーゼフ・ダイナーがなぜ霊柩馬車に付き添っ
ていたかですが、後になって、彼はモーツァルトの埋葬に関して
手記を出しているからです。これが「ダイナー手記」といわれ、
モーツァルトの埋葬の不可解さを世に知らしめたのです。
 「ダイナー手記」では、モーツァルトの葬儀の模様は次のよう
に記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・モーツァルトの亡くなった夜は、陰鬱な嵐もようであっ
 たが、彼の最後の祝福の時にも空が荒れだした。雨と雪が一緒
 に降り、それはまるで、偉大な作曲家の葬式にかくもわずかし
 か参列しない同時代人たちに対して、天が恨みを表わそうとし
 ているかのようであった。ごくわずかな友人と3人の女性が遺
 体に付き添った。モーツァルト夫人は参列していなかった。こ
 のわずかな友人たちは傘をさして棺の周りに立ち、それから棺
 はシュラー大通りを抜けて、聖マルクス墓地へと運ばれていっ
 た。嵐はますますひどくなったので、そのわずかな友人たちも
 シュトーベントゥールのところで引き返すことに決めた。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、肝心の妻であるコンスタンツェはなぜ付き添ってい
ないのでしょうか。
 コンスタンツェは、ヴァン・スヴィーテン男爵がモーツァルト
家に到着して間もなく家から姿を消しているのです。この喪主の
いない葬儀の執行について、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は何
もいっていないのをみると、コンスタンツェの失踪はあらかじめ
打ち合わせがあった通りということになります。
 後になってコンスタンツェは、夫の死に気が動転し、当時原因
不明の病気にかかっていて葬儀に参列できなかったといっている
のですが、それは明らかにウソであるといえます。
 それは、コンスタンツェがモーツァルトの死後少なくとも17
年間はマルクス墓地に墓参りにすら行っていないことによっても
明らかです。仮に百歩譲って病気で葬儀に参列できなかったこと
を認めるとしても、病気が治れば墓参りぐらいは行くのが自然で
あると思うのに行っていないからです。明らかにコンスタンツェ
は、行けなかったのではなく、行かなかったのでしょう。
 それなら、17年経過してなぜ急に墓参りをしたのかというと
これも自発的ではなかったのです。既出の藤澤修治氏の論文によ
ると、ザクセン公使館参事官であったゲオルク・グリージンガー
がコンスタンツェの家を訪ねてモーツァルトのことを話したとき
コンスタンツェがモーツァルトの墓参りに行っていないことを話
したというのです。1808年のことです。
 そのときグリージンガーは、モーツァルトの遺体がどこに埋葬
されているのかが分からなくなっているとことを報じたドイツの
新聞を見せてマルクス墓地に行って墓探しをするべきであるとコ
ンスタンツェを説得したのです。
 コンスタンツェは断わりきれなくなって、はじめてマルクス墓
地に行ったのです。そのときコンスタンツェに同行したのは、グ
リージンガーの他に、コンスタンツェの再婚相手のニッセン、息
子のフランツだったのです。結果はもちろんモーツァルトの埋葬
場所を特定できるはずはなかったのですが、モーツァルトの死後
はじめて、コンスタンツェはマルクス墓地に行ったのです。
 モーツァルトの死後、モーツァルトの音楽家としての評価が上
がるにつれて、音楽学者、音楽評論家などは次の2つのことの打
ち消しに必死になって取り組むようになります。さすがに大音楽
家のモーツァルトを大事にしない国としてウィーンの市民が批判
されることを恐れたものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.モーツァルトは何者かに毒殺されている
   2.モーツァルトの埋葬は当時の慣習である
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、どのようにいい繕っても、葬儀に喪主が参列しない異
常さは打ち消せなかったのです。・・・[モーツァルト/53]


≪画像および関連情報≫
 ・あえて不審の死を隠そうとする理由
  ―――――――――――――――――――――――――――
  もしモーツァルトが毒殺されたとすれば、彼と親しかった友
  人たちは、ある人間が彼を殺したがっていた理由を知ってい
  た可能性が充分ある。もしその理由にモーツァルトの私生活
  に関連した秘密にからんでいたとすれば、彼らはこのことに
  ついての問い合わせを避けたいと思うだろうし、彼の死を、
  世間の関心から極力遠ざけようとするだろう。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・写真/http://www.tdl.to/jurin/Mozart/Constanze.html

78歳のコンスタンツェ.jpg
78歳のコンスタンツェ
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2009年06月16日

●モーツァルトの葬儀の日は穏やかな日(EJ第1976号)

 夫の死の直後から葬儀を放り出して姿を消し、以後17年間に
わたって、墓参りをしない妻のコンスタンツェ――どのように考
えても人の道に欠ける行いといえます。どうしてコンスタンツェ
はこういう行動をとったのでしょうか。
 推理小説めいた話になりますが、仮にコンスタンツェが夫を毒
殺したとすると、コンスタンツェのとった行動は理解できるので
す。だからこそ、200年以上も経ってモーツァルトの毒殺説が
消えないのです。
 一般論として、妻が夫を毒殺したとしたとき、その当事者であ
る妻はどういう行動をとるでしょうか。理想論としては次の3つ
であると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.遺体はできる限り人目に触れさせず、素早く埋葬する
 2.遺体は後で掘り返されないよう共同墓地に埋葬させる
 3.首謀者であり喪主である妻はなるべく表面には出ない
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上の3つは、コンスタンツェの取った行動そのものであり、
当時のウィーンの葬祭の慣習や宮廷の勅令にも合っていることな
のです。しかし、夫の死後、喪主の役割を放り投げて姿を消して
しまうことは、人の道に反することであり、当時でも許されるこ
とでないことはいうまでもないことです。
 推測ですが、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は事前にコンスタ
ンツェから相談を受け、モーツァルトが金銭的に窮していたこと
を聞かされていたものと思われます。
 そこで、スヴィーテン男爵は最低限の葬儀を素早く行うことに
し、このことをモーツァルトの親戚や友人から非難されることの
ないよう、喪主は気が動転して起き上がれない状態になったとし
て姿を隠すことを承知していたものと考えられます。
 ニッセンによると、コンスタンツェは「1人で絶望の淵にたた
ずむことがないように未亡人はシカネーダーの仲間のバウエルン
フェルトのもとに預けられ、後にゴルトハーンの家に移った」よ
うです。これはスヴィーテン男爵の差配です。
 それに当時のウィーンの葬祭に関する慣習と宮廷の勅令がから
んでくるのです。
 モーツァルトの葬儀や埋葬が当時の慣習から考えて、それほど
おかしなものではない証拠として、既出のアントン・ノイマイー
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 遺体の祝福は巨門(リーゼントーア)の左手の十字架礼拝堂で
 行われたものと思われる。その後遺体はカピストラン説教壇の
 横にある「死者のための礼拝堂」として用いられていた十字架
 像礼拝堂に、夜まで「安置」された。というのは遺体の移送は
 夜になってから行うことに決められていたのである。したがっ
 て、家族にとっては、聖堂敷地内での祝福をもって、本来の埋
 葬は済んだことになる。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 アントン・ノイマイヤーのこの記述でわかることは、当時遺族
は墓地での遺体の埋葬までは立ち会わないことが慣例であるよう
に思えることです。実際に勅令では「・・遺体は集落の外に選ば
れた墓地に運ばれて、飾りなしに埋葬される」とあるのです。
 しかし、それなら、すべての人は共同墓地に埋葬されるのかと
いうと、そうではないのです。身分の高い人や国に貢献した人に
ついては個人墓は認められているのです。
 それに、埋葬のさい、遺体に遺族は付き添わないと葬祭法で決
めているのに、モーツァルトの場合は墓地まで行かなかったにせ
よ、どうして葬列が組まれたのでしょうか。
 当時ウィーンの法律については、次のようにいわれているよう
に朝令暮改の典型だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウィーンの法律は、午前11時から昼までしか続かない
―――――――――――――――――――――――――――――
 ましてモーツァルトの葬儀執行人は、貴族であるスヴィーテン
男爵なのです。そういう身分の高い人が葬儀の手続きのさい、葬
列を組みたいと申し出ればそれは簡単に許されたはずです。
 このようにして、喪主はいなかったけれど禁止されている葬列
をあえて組み、ウィーンの厳冬のひどい風雨の中でそれを行おう
としたが、途中のシュトーベントゥールで、引き返さざるを得な
かったというかたちを作りたかったのではないでしょうか。
 ウィーンの冬は寒いのです。しかも風雨の強い日に葬列を組ん
で、馬車について4キロも歩けるでしょうか。葬列者の中には、
コンスタンツェの母のセシリアのように高齢者もいたのです。
 これなら、シュトーベントゥールで引き返したくなる気持は理
解できます。いくら遅く進むよう配慮しても相手は馬車です。そ
の速さについて行けなかったとしても当然です。
 しかし、これには条件があります。葬儀の日が天候が悪い――
風雨が強く嵐のような日であることです。実際にモーツァルトの
葬儀と埋葬の行われた1791年12月6日はそういう日であっ
たと誰でも思っています。映画『アマデウス』でもそういう設定
になっていたはずです。
 しかし、・・です。ウィーン気象台の記録によると、1791
年12月6日は、「霧の出やすい日であったが、晩秋の穏やかな
日」とあるのです。つまり、風雨の激しい日などではなかったの
です。そうなると、基本条件がガラガラと音を立てて崩れてしま
うのです。
 実は12月7日は、南西の強風が吹き、午後遅くに雨が降り出
しており、一般にいわれているモーツァルトの埋葬の日の天候と
一致するのです。そのため、今頃になって葬儀・埋葬の日は7日
の誤りという説が出ていたのです。・・[モーツァルト/54]


≪画像および関連情報≫
 ・個人墓や家族墓は稀に作られたのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最後に問題になるには、モーツァルトの墓が聖マルクス墓地
  のどこにあるのか、ということである。この問題は長い間熱
  心に討議され、その間に若干の確実性をもった答えが出され
  ている。ここでもまた、モーツァルトの時代には、死者の墓
  所をしかるべき記念碑で目立たせるということは、決して家
  族の自由裁量に任されていなかったのだ、ということをあら
  かじめ踏まえておく必要があろう。
  ―アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖マルクス墓地のモーツァルト.jpg
聖マルクス墓地のモーツァルト
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2009年06月17日

●モーツァルト伝記作家たちの言い訳(EJ第1977号)

 モーツァルトはどのように埋葬されたか――この問題について
モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが妻のコンスタン
ツェをはじめとする家族や友人たちから冷たい最後の見送りを受
けて聖マルクス墓地に送られ、名もない貧民と同等の扱いで共同
墓地に葬られたことについて、数々の言い訳がましい理由を並び
立て、その正当性を主張しています。
 なぜ、そのような言い訳をするのでしょうか。どのような葬儀
をするかはモーツァルト家の問題であり、伝記作家たちは、事実
をそのまま伝えればよいのです。少なくとも言い訳をする必要な
どないはずです。
 モーツァルトの伝記作家たちが言い訳の根拠として使っている
のは、次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.葬儀当日の6日が風雨の強い荒天候であったこと
  2.当時ウィーンの葬祭慣例と葬祭に関する取り決め
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の葬儀当日6日の荒天候については、当時のウィーン気象
台の記録により、昨日述べたように荒天候ではなく、穏やかな日
であったことが証明されています。
 これを受けて、葬儀の日は12月6日ではなく7日ではないか
とする説が浮上しています。なぜなら、7日の天候こそ荒天候で
あったからです。しかし、聖シュテファン教会の死者台帳に6日
と明記されている以上、何ら説得性を持たない説といえます。
 言い訳の第2の根拠とされているウィーンの葬祭法――死者の
葬祭に関して宮廷から勅令のかたちで公布された細かな取り決め
――これについては、もう少し詳しく述べる必要があります。
 葬祭に関する細かな取り決めをしたのは、ヨーゼフ2世のとき
なのです。ヨーゼフ2世はいわゆる啓蒙主義精神に基づく改革派
の君主であり、その改革は埋葬の儀式にまで及んだため、多くの
住民の反発を買ったのです。
 啓蒙思想というのは、自然科学的な方法を重視し、従来は神学
的に解釈されていた事柄についても合理的な説明を行おうとした
のです。したがって、死者の埋葬に関しても宗教的な観点よりも
きわめて現実的な衛生管理的な取り決めが公布されたのです。
 例えば、1784年に出された埋葬規定の根拠付けのくだりに
は次のようにあります。このとき、ヨーゼフ2世は教会の埋葬を
違法としたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 埋葬の目的は、なによりも、腐敗をできる限りすみやかに進め
 ることにある。そこでそれを妨げぬように、埋葬のさいには衣
 服を剥いだ裸の遺体を麻袋に入れて縫い合わせ、棺に納めてそ
 のまま墓地へ運んでいくこと。・・・運ばれた遺体は、時を移
 さず、棺から取り出し、縫い合わされた麻袋に入れたまま墓穴
 の中に置き、生石灰を投入した上、土で穴を封じること。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 映画『アマデウス』では、モーツァルトはこれとまったく同じ
埋葬をされています。映画では特殊な柩が使われていたのですが
これについてフランシス・カーは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この種の埋葬を行うとき、司祭は底に特別な仕掛けが施されて
 いる柩を使った。柩が墓穴に下ろされると底は綱を少々引っ張
 ることで開き、遺体が穴に落ちると柩は再び引き上げられた。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、棺の片方の壁は開くようになっているので、棺を墓
穴のところに担いで行って傾けると、棺の中に入っている遺体が
穴に落ちるのです。
 しかし、宗教的なことにかかわる問題であるため、この埋葬規
定についての反論は大きく、暴動が発生して流血の惨事まで引き
起こしたため、同規定は1785年1月31日に事実上撤回され
ているのです。
 これによって、モーツァルトの埋葬のされ方が、当時の葬祭法
によってやむを得なかったとする伝記作家たちの言い訳は、その
根拠とされる葬祭法がモーツァルトの死の6年も前に廃止されて
いることによって根拠を失うのです。
 それでは、モーツァルトはどうしてあのような埋葬のされ方を
したのでしょうか。
 それは、モーツァルトの死に関して何らかの陰謀があったとい
うしかないのです。モーツァルトの伝記作家のひとりであるカー
ル・ベーアは、これに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (モーツァルトの)死と埋葬について別な考え方をもつ後世の
 人間にとって、モーツァルトが若くして死んだことは不幸とい
 うほかはない。もしモーツァルトがもう10年生きていたら、
 彼は国葬を与えられ、彼以前のグルックや、彼のあとのハイド
 ンと同じく独立した墓を確保できるほどの名声を得ていたこと
 だろう。しかしモーツァルトは、あの種の墓崇拝とは相反する
 時代に世を去っただけでなく、彼の偉大さが充分世間に認めら
 れなかった。            ――カール・ベーア著
           『モーツァルト、病気、死、埋葬』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このカール・ベーアの考え方は、その当時モーツァルトは名声
を勝ち得ていなかったことを前提としていますが、これは非常に
おかしいことであるといえます。モーツァルトの名声はグルック
やハイドンなどよりはるか上を行くものであったことは明らかで
あるからです。        ・・・[モーツァルト/55]


≪画像および関連情報≫
 ・啓蒙絶対君主制とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓蒙絶対君主とは、主に18世紀後半、プロセイン、オース
  トリア、ロシアにおいて、啓蒙思想を掲げて「上からの近代
  化」を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあ
  てはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して啓蒙絶対君
  主と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられてい
  ない。代表的人物としては、18世紀後半のプロセインにお
  けるフリードリッヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(そ
  の母である女性マリア・テレジアを含む)ロシアのエカチェ
  リーナ2世などがその典型とされる。また一般的には知られ
  ていないが、スウェーデンのグスタフ3世も啓蒙君主として
  説明されることがある。       ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルト像.jpg
モーツァルト像
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2009年06月18日

●コンスタンツェはモーツァルトを憎んでいたのか(EJ第1978号)

 モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが悲惨な埋葬を
されている事実について、どういうわけか、さまざまなウソを並
べてそれを正当化しようとしています。
 モーツァルトの死の6年も前に廃止されたウィーンの葬祭法を
持ち出してきたり、実際は悪天候でない葬儀当日の天候を悪天候
ということにして、それを葬列が墓地まで行かず引き返した理由
にしたり、葬儀を放り出して姿を消したコンスタンツェをなぜか
過剰にかばったり・・・とにかく事実を隠蔽しようとする必死の
努力をしているのです。
 もうひとつ見逃せないのは、著名なモーツァルト伝記作家の一
人であるカール・ベーアは、その著作『モーツァルト、病気、死
埋葬』において、当時モーツァルトの人気は終焉しており、それ
が葬儀においてグルックやハイドンのような特別な計らいを受け
られなかった理由にしていることです。
 これは誠に支離滅裂な理由であるといえます。モーツァルトの
天才ぶりは、彼が死去した1791年の『魔笛』をはじめとする
作品だけでも十分過ぎるほどなのです。だからこそ当時ウィーン
の音楽界を仕切っていたあのサリエリでさえ、モーツァルトの才
能を認め、その影におびえたのです。
 しかし、当時の貴族から見た場合、音楽家としてのモーツァル
トの影響力はかなり薄くなっていたことは確かなのです。それは
それまでモーツァルトの重要な収入の柱であった予約演奏会が激
減したことにあります。
 予約演奏会とは、ある曲を作曲・演奏することをあらかじめ告
知し、参加者(ほとんどは貴族)を募る演奏会の形式であり、当
時のモーツァルトにとっては音楽家としての自分を売り込む絶好
のチャンスであり、同時に有力な収入源のひとつだったのです。
 それでは、なぜ、予約演奏会が減ったのでしょうか。
 それはモーツァルトの人気が凋落したわけではなく、戦争が起
こったからなのです。その戦争とは、1787年〜92年にかけ
て起こったロシア・トルコ戦争なのです。
 このとき、オーストリアはロシアの同盟国であり、ヨーゼフ2
世はロシアを助けるため対トルコ戦争をはじめたのです。この戦
争によって物価は高騰し、戦費調達のため増税が行われたので、
ウィーンの市民は苦しい生活を強いられることになったのです。
 モーツァルトの重要な顧客であった貴族は続々と出征し、また
は領地に帰ってしまったため、予約演奏会を開こうとしても誰も
参加しない状況がモーツァルトの死まで続くのです。カール・ベ
ーアがいうモーツァルトの人気の終焉とは、このときの状況を指
していっていることなのです。
 この時期にモーツァルトが作曲した曲を上げると、当時の世相
を反映していることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
         コルトダンス『戦闘』/KV535
  ドイツ語軍歌『我は皇帝たらんもの』/KV539
―――――――――――――――――――――――――――――
 話は変わるが、コンスタンツェの妹のゾフィーは、モーツァル
トが死去した1791年12月5日に、ヨーゼフ・ミューラーが
美術館から駆けつけてきて、モーツァルトのデスマスクを作成し
たことをニッセンに宛てた手紙に書いています。
 ヨーゼフ・ミューラーの実名は、ヨーゼフ・ダイム伯爵で、蝋
人形のコレクションを持っていたといわれます。ヨーゼフ・ダイ
ム伯爵はデスマスクをコンスタンツェに贈ったのですが、後日コ
ンスタンツェは間違ってかわざとか、このデスマスクを床に落と
して壊してしまったとき次のようにいったといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  昔の醜いものがこわれてよかった。――コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェはモーツァルトのどういうところに怒っている
のでしょうか。まるで夫を憎んでいるようです。モーツァルトの
葬儀をどのようにするか、コンスタンツェはどのようにもできた
のです。葬儀費用にも事欠いていたというのは偽りであり、コン
スタンツェとしては、何が何でもモーツァルトの遺体を人目に触
れさせたくなかったとしかいえないのです。既出のフランシス・
カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、コンスタンツェが、モーツァルトの最後の処遇に少しで
 も反対したとすれば、あの恥ずべき埋葬を差し止めることがで
 きたであろう。自分の不愉快な思いをあとで記録に残しておく
 こともできたはずである。しかし、コンスタンツェは、夫の最
 後の安息の場としての共同墓穴について非難することはまった
 くしなかった。モーツァルトが死んで1日2日して、ヨーゼフ
 ・ダイナーはコンスタンツェに会い、共同墓穴の上に、十字架
 かなんらかの目印を立てるようしきりと頼んだが、彼女は「教
 会にやらせなさい!」といって拒否したという。司祭も同じよ
 うに拒否したため、結局十字架も目印も立たなかった。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 夫の遺体を徹底的に隠すという意思がコンスタンツェに働いた
としたら、それは何らかの陰謀があったと考えざるを得なくなり
ます。            ・・・[モーツァルト/56]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト当時の演奏会
  劇場の使えない日には、旅館、カジノ、ダンスホールといっ
  た場所の多目的な空間が演奏会に用いられた。モーツァルト
  もしばしば登場した代表的な場所としては、ダンス・ホール
  を備えたレストラン兼旅館のメールグルーベや、モーツァル
  ト自身一時期そこに住んでいた出版業者トラットナーの邸宅
  の中にあるカジノなどがあり、夏期にはアウガルテンのよう
  な庭園でも野外演奏会が行われた。メールグルーベやトラッ
  トナー邸の収容人員は劇場に較べるとはるかに少なくほぼ百
  数十名といった所であったが、こうした所で演奏会を開こう
  とする場合には、まず名簿を回覧して予約者を募り、ある程
  度の人数が見込めたところで開催する、いわゆる予約演奏会
  の形を取るのが普通であった。モーツァルトが1784年3
  月にトラットナー邸で行った演奏会の予約者名簿には、当時
  のウィーンを代表する貴族や富裕市民たちの錚々たる名前が
  174名も連ねられている。
    http://homepage3.nifty.com/jy/essays/mz_concert.htm


コンスタンツェ/ハンセン制作.jpg
コンスタンツェ/ハンセン制作
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2009年06月19日

●コンスタンツェ良妻論の根拠(EJ第1979号)

 コンスタンツェがモーツァルトの葬儀に出なかった理由は、突
然の病気ということになっています。もし本当にそうなら、コン
スタンツェは自宅に臥して医師を呼ぶなどしていたはずです。し
かし、そういう気配は一切ないのです。
 コンスタンツェはモーツァルトの死を確認すると、既に述べた
ように直ちにスヴィーテン男爵に使いを出すとともに、ダイナー
のところにも女中を走らせ、死装束の手伝いを頼んでいます。亡
くなったのが午前1時少し前であったことを考えると、あまりに
も素早い異様な対応であるといえます。
 それを済ますとコンスタンツェは家を出て、バウエルンフェル
ト宅に行き、しばらくしてゴルトハーン宅に移動しています。ま
るであらかじめ計画していたかのような素早い動きです。
 それなら、その移動先でコンスタンツェは臥せっていたのかと
いうと、そうではないのです。モーツァルトの死から一週間後の
12月11日にコンスタンツェは、レオポルト2世に謁見し、遺
族年金の支給を願い出ているのです。これだけみても、コンスタ
ンツェが病気であったとは思えないのです。
 さらにコンスタンツェは『レクイエム』の補作のことでアイブ
ラーと会い、話し合っていますし、遺産に関する当局からの召喚
調書の作成のときは家に戻っているのです。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、この手続きのため、12月
9日、16日、19日、20日は在宅しているのです。つまり、
葬儀は放り出しても、お金にからむことには非常に精力的に動き
回っているのですが、それらの事実を正確に伝えている伝記作家
はほとんどいないのです。
 コンスタンツェが皇帝に提出した年金請願書は、弁護士が書い
たと見られる論旨の一貫したものであり、自分にとって年金がい
かに必要であるかという理由が4項目にまとめられています。そ
の4つ目の理由は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第4に、故人は、その前途がいよいよ明るさを増し始めており
 ました矢先に神に召されましただけに、事情はまことに深刻で
 ございます。故人は、最近聖シュテファン大聖堂楽長の地位に
 復帰したほか、みまかる少し以前、ハンガリーの貴族何人かか
 ら1000グールデンの年金を保証されました。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでコンスタンツェは、夫の生活が「明るさを増し始め」た
ことを認めています。しかし、まさか自分が死ぬとは思ってもい
なかった夫が、音楽家未亡人孤児協会に家族を登録していなかっ
たので、これによる家族の生活を保障できない事態であり、年金
を認めて欲しいという趣旨なのです。
 モーツァルトは、宮廷での勤務の実績が年金を支給される条件
に該当していないのです。コンスタンツェにすれば、夫は今まで
にも十二分に宮廷の音楽の仕事に尽くしてきたのであるから、条
件は満たしていなくても、このさいは夫に免じて特別に認めて欲
しいといっているわけです。
 コンスタンツェのこの訴えは成功し、年間に266フローリン
の年金が下賜されることになったのです。さらに葬儀執行人のス
ヴィーテン男爵の計らいによる「未亡人救済音楽会」で、コンス
タンツェは1500フローリンを得ているのです。
 また、モーツァルトの死んだ翌年にプロイセンのウィルヘルム
2世が、オラトリオほか8曲の作曲料として800ダカット――
3600フローリンをコンスタンツェに送金してきています。こ
のように亡き夫の作品の販売と演奏で、コンスタンツェは生活に
困るどころか、ますますお金が入ってきたのです。
 コンスタンツェは、それらのお金でモーツァルトが残したとい
われる莫大な借金を返し、さらにそれらのお金を国債に投資した
り、人に利子を取って貸したり、家屋を増築して母のセシリアの
やっていたように下宿屋をやったりして資金を増やし、彼女が死
んだときには、実に27191フローリン(2億円以上)という
途方もないの財産を残しているのです。
 おそらくコンスタンツェはそういう面での才能があったと思わ
れるのですが、その元金はすべて夫の作品と演奏によるものだっ
たのです。しかし、モーツァルトの莫大な借金をすべて返済した
ことをもって、コンスタンツェのモーツァルトの葬儀の放り出し
や埋葬に当たっての冷たい仕打ちなどによる悪妻論を否定し、良
妻論を主張する向きも少なからずあるのです。
 しかし、コンスタンツェの死後のモーツァルトへの仕打ちは目
に余るものがあるのです。
 それは、モーツァルトの死後何回も繰り返されるモーツァルト
の記念碑を建てるべきであるという声に一切首を縦に振らなかっ
たことです。ある団体は善意の寄付金を集め、そのお金で、モー
ツァルトの記念碑を建てる提案をコンスタンツェにしたにもかか
わらず、彼女は断固これを拒否しています。それは、明らかにコ
ンスタンツェがモーツァルトを憎んでいたとしか思えない態度だ
ったといえるのです。このような経緯で、コンスタンツェの目の
黒いうちの50年間は、モーツァルトの記念碑が墓地に立てられ
ることはなかったのです。
 ちなみに、前夫モーツァルトに対しては冷酷とも思える仕打ち
をしたコンスタンツェは、第二の夫であるニッセンに対してはと
ては正反対に優しく、先に亡くなったニッセンのために自前で立
派な記念碑を建てているのです。それは、4組の石の花で囲まれ
たオベリスク状の手の込んだ記念碑だったといいます。
 コンスタンツェのこのアンバランスさの原因は何でしょうか。
モーツァルトに対する憎しみとは何でしょうか。そして、彼女は
モーツァルトを本当に毒殺したのでしょうか。いよいよその追求
に入っていきます。      ・・・[モーツァルト/57]


≪画像および関連情報≫
 ・ハイドンがブフベルクに宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの死を聞いて私はしばらく呆然としておりまし
  た。神が、かくも早々とあの不可欠な人間を召されるとは思
  いもよらなかったことです。ただ残念なのは、彼が死ぬ前に
  この点においては闇の中を歩いているイギリス人たちに、彼
  の偉大さ――私が毎日のように彼らに説いて聞かせていた主
  題です――を納得させることができなかったことです。わが
  優しき友よ、当地でいまだ知られていない作品の目録をお送
  り頂ければ幸いです。私は未亡人救済のため、そうした作品
  を推進するためにはあらゆる努力を惜しまないつもりです。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

交響曲の父ハイドン.jpg
交響曲の父ハイドン
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2009年06月22日

●コンスタンツェとセシリアの共謀説(EJ大1980号)

 モーツァルトの妻のコンスタンツェに関しては、悪妻論や良妻
論をめぐってさまざまな議論があります。コンスタンツェについ
てのいくつかの評価を上げておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・良くないしつけによって身につけた欠点を持ち、普通の女性
  には備わっている繊細な感情が不足している
 ・コンスタンツェの文章を見ると、優しさはどこにも見当たら
  ず、精神、気品、ユーモアのセンスに欠ける
 ・所作は上品で、気立てが良く、好感が持て、モーツァルトが
  全面的な信頼を寄せるに足りる愛すべき女性
 ・事務的能力はあるが、家事は嫌いで、九柱戯やダンスが好き
  で、夜遊びにふけるのが好きなところがある
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように評価が大きく分かれていますが、どちらかというと
コンスタンツェは家庭向きの女性ではなかったようです。文中に
ある「九柱戯」というのは、宗教的儀式に由来するボーリングの
元祖のようなゲームです。要するに、コンスタンツェは賭け事の
好きな遊び好きの女性というイメージが浮び上がります。
 実際にコンスタンツェは、旅先のモーツァルトから少しでもお
金の入るような手紙が届くと、その前祝いだと称して、男友達た
ちと行きつけのお店でパーティを開くような女性だったのです。
 コンスタンツェの母親のセシリアについては、このテーマの前
半部分でしばしば取り上げていますが、次女のアロイジアに失恋
したモーツァルトを一計を案じてコンスタンツェと結婚させると
いう作戦参謀的な能力に優れた女性であったようです。
 30代で未亡人となったコンスタンツェが頼りにしたのは、や
はり母親のセシリアだったのです。コンスタンツェは、モーツァ
ルトの死後、かつて母親がやったようにアパートの一部屋を間貸
しできるよう改造して、下宿屋をはじめています。
 そしてモーツァルトがそうであったように、その部屋を貸した
デンマーク公使館書記官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと結婚
しているのです。ニッセンは37歳の独身者で、コンスタンツェ
よりも2つ年上だったのです。
 このニッセン――大変なモーツァルト崇拝者であり、それもコ
ンスタンツェとの結婚を決意した理由のひとつだったと考えられ
ますが、コンスタンツェのアパートには500篇以上のモーツァ
ルトの作品の自筆譜が未刊のまま保存されているのを見て仰天し
たといわれています。
 モーツァルトの作品で、生存中に発刊されたのは70作品ほど
でしかなく、コンスタンツェはその残りの430篇ほどの作品の
価値があまりわかっていなかったように考えられます。ニッセン
はこれは大変なビジネスになると判断したのでしょう。
 さて、モーツァルトはなぜ若死にしたのでししょうか。
 もし、アクア・トファナのような遅効性の毒薬を使って毒殺さ
れたとすれば、それを実行できるのは、コンスタンツェかジュス
マイヤーしかいないのです。ちなみに、家庭でのコンスタンツェ
は家事のほとんどを女中まかせにしており、食事の支度などはし
ていなかったようですが、毒薬を使う機会はいくらでもあったと
考えられます。
 既出の藤澤修治氏によると、モーツァルトを毒殺したとみられ
るのは、コンスタンツェと母親のセシリアであるとしています。
その概要については、以下に述べますが、これについての詳細は
藤澤氏の次の論文を参照していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   藤澤修治著/モーツァルト論を再考する−5
   『モーツァルトの死』
   http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 その殺害の動機は何でしょうか。
 それはモーツァルトの借金であると考えられるのです。コンス
タンツェの母のセシリアは、夫のフリードマン・ウェーバーが写
譜の仕事をしていたこともあり、娘たちの音楽教育にも力を入れ
ていたので、多少音楽のことはわかっていたのです。
 夫のフリードマンはモーツァルトの才能に惚れ込んでおり、つ
ねづねモーツァルトはやがて高名な音楽家になるといっていたの
で、セシリアは策略を用いてモーツァルトと自分の娘のコンスタ
ンツェを結婚させたのです。
 ところが、そのモーツァルトはなぜか莫大な借金をこしらえる
ようになり、そのうちの一人の債権者であるリヒノフスキー侯爵
は、モーツァルトが亡くなる1791年の春にモーツァルトに対
して借金返還の訴訟を起こしてきていたのです。
 リヒノフスキー侯爵といえば、既にEJ第1939号でご紹介
しています。彼は、1789年春にモーツァルトに対し、プロセ
インの国王フリードリッヒ・ウィルヘルム2世の訪問に自分と同
行するよう要請してきた貴族です。
 その結果モーツァルトは、そのための借金をして、リヒノフス
キー侯爵と一緒に2ヶ月もの間、意味のない旅をさせられること
になったのですが、その真の狙いはまだわかっていません。
 EJ第1939号では、サリエリを中心とする宮廷のイタリア
系音楽家の一派の陰謀によって、モーツァルトにできるだけ金を
使わせ、モーツァルトとコンスタンツェの間を引き離して、作曲
意欲を削ぐのが狙いと書きましたが、モーツァルトは、そのリヒ
ノフスキーからも莫大な借金をしていたのです。
 リヒノフスキーから訴訟を起こされたことで心配になったコン
スタンツェは母と相談したと考えられます。なぜなら、モーツァ
ルトはリヒノフスキーだけでなく、友人のプフベルクやラッケン
バッヒャーという金融業者からも大金を借りており、このままで
は危ないと考えたからです。
 これら3者からの借金の総額はその時点で4000〜5000
フローリンと考えられるのです。・・・[モーツァルト/58]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ニッセンと言えば「モーツァルト伝」(1828)を著した人物
  として、そしてモーツァルトのお陰で名を残した人の1人と
  いえるでしょう。モーツァルトがいたから名を残すことがで
  きた人は多いのですが、この人はモーツァルトを利用して名
  を残した人?ともいえるかも知れません。さて、この人物と
  はどのような人だったのでしょうか。多くのモーツァルト周
  辺の有名な人のために話題にあまり上ることがなく、さほど
  知られている人物とはいえないかもしれませんが、彼こそ今
  モーツァルトを知る上で最も基礎となる「書」著した人なの
  です。モーツァルトとは5歳年下になりますが、モーツァル
  トの死後18年経って、妻であったコンスタンツェと結婚し
  ています。この結婚生活は彼が65歳で亡くなるまで17年
  間におよんでいます。
 http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/nissen.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゲオルク・ニッセン.jpg
ゲオルク・ニッセン
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2009年06月23日

●モーツァルトに見切りをつけたコンスタンツェ(EJ第1981)

 仮に5000フローリンの借金があっても、モーツァルトほど
の音楽家であれば十分返せると考えのが普通です。しかし、コン
スタンツェとセシリアは、モーツァルトはもうだめだと思ったの
です。1791年の春にリヒノフスキーからモーツァルトに対し
て、貸金返還訴訟が起こされた時点においてです。
 どうしてそのように判断したのかというと、次の3つの理由が
あるからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.1785年以降モーツァルトの定期演奏会や予約演奏会
   が激減していており、人気が凋落している
 2.「コシ・ファン・トゥッテ」以降、もはや大きなオペラ
   の制作依頼はもうこないと考えられること
 3.晩年の3年間に使途の明確でない巨額の借金が急増し、
   勝ち目のない訴訟まで起こされていること
―――――――――――――――――――――――――――――
 人気スターというのは、公の場への露出度が高いものです。そ
ういう意味で、1785年以降にモーツァルトが音楽家としての
公の場である定期演奏会や予約演奏会――とくにブルク劇場には
お呼びでなくなったのは人気の凋落であると考えたのです。
 しかし、当時モーツァルトにとってはいわゆる抵抗勢力の存在
があり、少しでも隙があれば足を引っ張られる状態にあったので
す。当時の音楽会の聴衆のほとんどは貴族であり、とくに予約演
奏会はそうだったのです。したがって、抵抗勢力の力が強くなれ
ばなるほどモーツァルトの演奏会は減ったのです。
 考えてみれば、『フィガロの結婚』にしても『ドン・ジョバン
ニ』にしても、内容は当時の貴族を痛烈に風刺する内容であり、
抵抗勢力を刺激するのに十分だったのです。
 それにもうひとつ忘れてはならないのは、1787年からはじ
まったロシア・トルコ戦争にオーストリアが参戦したことです。
この戦争によって、モーツァルトの味方である抵抗勢力でない貴
族までも出征し、音楽会どころではなくなってしまったのです。
モーツァルトの伝記作家の多くは、なぜかこのロシア・トルコ戦
争の影響には触れていないのです。
 しかし、そこまでは読めないコンスタンツェとセシリアは「モ
ーツァルトに先はない」と見切りをつけたのです。さらにモーツ
ァルトにとって不幸なことは、一貫してモーツァルトを支え続け
てくれた皇帝ヨーゼフ2世が亡くなったことです。1790年2
月20日のことです。これによって、抵抗勢力は一層力を得るこ
とになるのです。
 1787年の父レオポルトの死、1787年からのロシア・ト
ルコ戦争、そして皇帝ヨーゼフ2世の死――これによって、モー
ツァルトの仕事の面に大きな影響が生じたことは確かです。とく
に1789年以降、モーツァルトの生活は視界不良の乱気流に飛
び込んでしまうのです。
 このモーツァルトの死の3年前から、巨額な借金が累積されて
います。これらの借金は生活資金と考えるには額が大きく何に使
われていたのかはっきりしていないのです。その借金の使途をコ
ンスタンツェがどこまで知っていたのかは不明ですが、それらを
探る証拠になる手紙などが一切ないのです。
 このような状況をみてコンスタンツェとセシリアは、1790
年の『コシ・ファン・トゥッテ』を最後に、もはや大きなオペラ
の制作依頼はないだろうと考えたのは無理からぬことであると思
います。当時の作曲家においてオペラの依頼がないということは
それは事実上の失脚を意味していたのです。
 しかし、コンスタンツェとセシリアの分析は、結果として大き
く外れることになります。いうまでもなく、1791年後半には
『皇帝ティトゥスの慈悲』と『魔笛』の2つのオペラが作曲され
大当たりを取ったからです。
 実は1790年にモーツァルトは、英国行きをしきりと勧めら
れていたのです。そのきっかけになったのは、とくにモーツァル
トと仲の良かったヨーゼフ・ハイドンが英国で音楽活動をするこ
とになったからです。
 1790年9月に、ハイドンを召しかかえていたエステルハー
ジー侯が亡くなり、ハイドンは楽長の仕事から外れたのです。そ
のとき、ドイツ生まれで、ヴァイオリン奏者であったロンドンの
興行師ヨハン・ペーター・ザロモンがハイドンのもとを訪れ、き
わめて有利な条件で英国での音楽活動を勧めたのです。
 この申し出にハイドンは乗り、英国での音楽活動を決意し、暮
れが押し詰まった1790年12月14日、ハイドンの送別の宴
が開かれたのです。
 送別の宴に出席したモーツァルトはハイドンと別れを惜しみま
すが、そのときモーツァルトは次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おなたはわたしより20歳以上も高齢でいらっしゃる。十分に
 言葉も喋れないのにイギリスに行かれるのは・・、また、ウィ
 ーンに戻ってきて下さい。ウィーンで再会できるのを楽しみに
 していますよ。             ――モーツァルト
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときモーツァルトは、なぜかもうハイドンとは会えないと
思ったといいます。もちろんモーツァルトとしては、ハイドンの
方が高齢であり、まさか自分が死ぬとは思っていなかったと思う
のです。この予感は20歳以上も若いモーツァルトが死ぬことに
よって不幸にして実現してしまったのです。
 実は、モーツァルトにもロンドンにあるイタリア座の支配人、
ロバート・メイ・オレイリから、ハイドンよりも有利な条件で英
国への誘いが来ていたのですが、モーツァルトは乗らなかったの
です。これを知ったコンスタンツェとセシリアはモーツァルトに
絶望してしまうのです。    ・・・[モーツァルト/59]


≪画像および関連情報≫
 ・人気絶頂のときモーツァルトが出演していたブルク劇場
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1783年3月23日にモーツァルトがウィーンのブルク劇
  場で開いた演奏会を再現するというふれこみの演奏会に行っ
  てきました。シャンゼリゼ劇場で、ツァハリアス率いるロー
  ザンヌ室内オーケストラの出演です。この演奏会は、その6
  日後にモーツァルトがザルツブルクの父親へその大成功を知
  らせた手紙により、曲目が明らかになっています。今の感覚
  から見ると大分変わったプログラミングで、ハフナー交響曲
  がオープニングとシメに(多分)分割されて演奏され、その
  間にオペラのアリアやコンサートアリア、ピアノ協奏曲が2
  曲、ピアノのソロ(即興演奏を含む)が3曲、ポストホルン
  ・セレナードから2曲といった具合です。
http://falfal2.way-nifty.com/garter/2006/01/post_99ba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブルク劇場/ウィーン.jpg
ブルク劇場/ウィーン
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2009年06月24日

●マクダレーナという弟子の存在(EJ第1982号)

 イタリア歌劇団のロバート・メイ・オレイリからモーツァルへ
の英国招聘の中身は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.1790年12月末〜1791年 6月末まで滞在
  2.オペラ、ジング・シュピールなど2曲を作曲し演奏
  3.その他営利のための作曲や演奏会の開催は可とする
―――――――――――――――――――――――――――――
 約6ヶ月間、英国に滞在して、オペラかジング・シュピールを
少なくても2曲を作曲するということだけなのです。それをクリ
アされることを条件として、演奏会を開くなどの仕事をやっても
かまわないというのです。
 その報酬として、300スターリング・ポンド――3000フ
ローリンを提供するというのです。2つの大曲オペラを6ヶ月で
完成させることは、モーツァルトにとっては何でもないことであ
り、同額以上の借金をしてしていたモーツァルトにとって願って
もない話のはずです。
 しかし、モーツァルトはその話を受けなかったのです。これに
対し、コンスタンツェやセシリアはモーツァルトに対して憎しみ
を募らせたのです。このままでは危ない。借金はさらに大きく増
えてしまい、返せなくなる――そう考えたのです。
 しかし、モーツァルトがオレイリからの申し出を断ったのには
理由があるのです。1791の春、ロレンツォ・ダ・ポンテは、
その回想録に次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトと話し合い、ロンドンまで私に同行するよう説得
 した。ところがほんの少し前に、彼は皇帝ヨーゼフから非凡な
 オペラを認められて終身年金を受領していた。そのころ、モー
 ツァルトはドイツ・オペラ「魔笛」を作曲していて、決心する
 のに6ヶ月の猶予が欲しいと頼んだ。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトは、2回にわたって英国に招聘されているのです
が、いずれも断っています。それぞれ理由があるのですが、言葉
の問題を含めていまひとつ乗り気ではなかったといえます。これ
に対して、コンスタンツェとセシリアは不信感を持ったのです。
 これ以外にコンスタンツェはモーツァルトに対してかなりの不
信感――もう少し具体的にいうと、憎しみすらいだいていたフシ
があるのです。それは何が原因だったのでしょうか。
 モーツァルトは、コンスタンツェが脚の治療のためにバーデン
に行くことにきわめて寛容であったのです。1789年8月から
1791年の秋まで、コンスタンツェはしばしばバーデンに行っ
ているのですが、一回出かけると何週間もバーデンに滞在するこ
とが多く、モーツァルトもそれを許しており、それにかなりのお
金を注ぎ込んでいます。つまり、その間モーツァルトは独り暮ら
しをしていたのです。息子のカールは、寄宿学校に入っており、
モーツァルトは文字通り独りだったのです。
 しかし、バーデンはウィーンから25キロしか離れておらず、
モーツァルトがその気になれば、いつでもバーデンに行くことが
できたにもかかわらず、モーツァルトは弟子のジュスマイヤーに
コンスタンツェの世話をまかせ切りにし、バーデンにはほとんど
行っていないのです。
 そのバーデン治療でコンスタンツェは、現地でパーティを開き
遊んでおり、モーツァルトもそのことを知っていたのです。映画
『アマデウス』にもそういうシーンがちょっと出てきていまが、
気がつかれたでしょうか。
 当時、モーツァルトには2人の弟子を持っていたのです。1人
はジュスマイヤーですが、もう1人は女性の次の弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       マグダレーナ・ホーフデーメル
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、ジュスマイヤーについては何回も書いていますが、
マグダレーナ・ホーフデーメルについてははじめて書くことにな
ります。仮にコンスタンツェがモーツァルト殺しに関ったとすれ
ば、マグダレーナの問題は無関係ではないからです。
 マグダレーナは、聖シュテファン教会から歩いて数分のところ
にあるグリュナンガー通りに夫のフランツと住んでいたのです。
マグダレーナはモーツァルトにピアノを習っており、モーツァル
トの数少ない弟子の一人だったのです。
 モーツァルトの葬儀があったとされる1791年12月6日の
夜――そのマクダレーナに関係する殺人未遂・自殺事件が起こっ
たのです。夫のフランツがマクダレーナに刃物で切りつけて重傷
を負わせ、自らは自殺したのです。しかし、マクダレーナは奇跡
的に助かったのですが、そのとき彼女は妊娠5ヶ月の身重だった
のです。
 この殺人未遂・自殺事件はモーツァルトの死と結びつけられて
今日まで語り継がれています。モーツァルトがマクダレーナと不
倫しており、マクダレーナがそのとき身ごもっていた子供はモー
ツァルトの子供ではないかというのです。
 おそらくマクダレーナはモーツァルトの葬儀に参列して戻って
きて夫のフランツと口論になり、夫が怒りのあまりマクダレーナ
に切りつけたものと考えられるのです。伝記作家たちは、モーツ
ァルトとマクダレーナの情事については、深追いはしないものの
その事実を否定していないのです。
 モーツァルトがコンスタンツェのバーデンでの療養にジュスマ
イヤーを同行させ、療養期間が長期にわたっても文句をいわない
ウラにはマクダレーナとの情事があったとも考えられます。はっ
きりしていることは、モーツァルトのマクダレーナとの情事をコ
ンスタンツェが知っていたことです。
               ・・・[モーツァルト/60]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとマクダレーナとの関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトとマクダレーナへの愛のこの悲劇的結末につい
  てウィーンに広がりつつあった噂を、確証もしくは否定でき
  ると思われる2人の人間が存在した。それはほかならぬコン
  スタンツェとマクダレーナ自身である。この噂が嘘だとすれ
  ば、両人とも進んで否定するはずだから、このような状況で
  は、沈黙は事実上確認とみなしていい。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
  ―――――――――――――――――――――――――――

バーデン鉄道.jpg
バーデン鉄道
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2009年06月25日

●モーツァルト最後のピアノ協奏曲(EJ第1983号)

 コンスタンツェがモーツァルトとマクダレーナの関係を知って
いたように、モーツァルトもコンスタンツェとジュスマイヤーの
関係を知っていたのです。このことは既に述べています。
 そして、モーツァルトは、コンスタンツェがむしろバーデンに
長逗留してもいいと思っていたフシがあるのです。それは、モー
ツァルトの最後の年である1791年7月2日に、バーデンにい
るコンスタンツェに宛てた次の手紙でも読み取れます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウィーン、1791年7月2日
 ぼくの親愛この上ない妻よ!(フランス語)
  きみがきわめて達者でいるとぼくは信じている。きみが妊娠
 中にめったに動じなかったことをぼくはいま思い出した・・・
 これはまじめな話だが、ぼくはきみが湯治を秋まで延ばしたら
 と思っている。あのばか者のジュスマイヤーに(『魔笛』の)
 第1幕の楽譜を、管弦楽用に編曲するからこっちに送るように
 言っておくれ。からだには注意して欲しい。きみが丈夫でぼく
 に優しくしてくれる限り、ほかのことがすべてまずく行っても
 ぼくはちっとも気にしないから。
             いつまでもきみのモーツァルトより
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 といっても、モーツァルトはコンスタンツェを愛していたので
す。しかし、自分がコンスタンツェを愛するせめて半分ぐらいで
もいいから、妻が自分を愛してくれたらという不満を持っていた
ことは確かなことなのです。
 この手紙を書いた24日後の1791年7月26日にモーツァ
ルトの6番目の子供であるフランツ・クサーヴァー・ウォルフガ
ング・モーツァルトが生まれているのです。この子がコンスタン
ツェとジュスマイヤーの子ではないかとモーツァルトが疑って、
ジュスマイヤーの「フランツ・クサーヴァー」の2字を冠した名
前を付けたのですが、ちょうどその頃、マグダレーナも2番目の
子供を身ごもっているのです。
 この子はモーツァルトの死後の1792年5月10日に生まれ
ています。男の子だったのですが、マクダレーナは次のように命
名しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ヨハン・アレクサンダー・フランツ
―――――――――――――――――――――――――――――
 この名前をめぐって既出のフランシス・カーは、ファースト・
ネームの「ヨハン」は、モーツァルトのクリスチャン・ネームの
「ヨハネス」から取られたものではないかと指摘しています。
 モーツァルト最後の年になる1791年――この年に入ると、
モーツァルトの創作欲に火が点り、内容の充実した作品が次々と
生まれています。その中で注目すべきは次の作品です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第27番/KV595』
           1791年1月5日作曲
―――――――――――――――――――――――――――――
 このピアノ協奏曲は実に美しい作品であり、まさしく天上の音
楽そのものです。モーツァルト自身が意識していたかどうかはわ
かりませんが、これはモーツァルトの白鳥の歌そのものです。
 なぜ、白鳥の歌というのかですが、それはシューベルトの最後
の歌曲集「白鳥の歌」からきています。イソップの童話で「白鳥
は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」と伝えられている伝説
に基づいて、シューベルトの遺作となった14曲の歌をこのタイ
トルで出版したことに由来するのです。それはあまりにも美し過
ぎるといっても過言ではないでしょう。そして、このピアノ協奏
曲はモーツァルトの最後のピアノ協奏曲になっています。
 辛口の音楽評論家として知られるC・M・ガードルストンは、
このピアノ協奏曲について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この曲はなんとなく親しみ深いところがあり、ほとんど室内楽
 に近い。その本来の環境は、仲間のひとりの家に集まった音楽
 家、音楽愛好家、それに、モーツァルトを加えたサークルであ
 る。これがどのような機会のために書かれたかはわからない。
 モーツァルトはこれを自ら使う目的をもって作曲したというの
 が一般の見方だが、その証拠はない。カデンツァの存在と、そ
 の内面的な性格には、われわれに、これは弟子のためにもので
 はないかと思わせるものがある。
               ――C・M・ガードルストン著
            『モーツァルトのピアノ協奏曲』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ガードルストンがここでいっている「弟子のために書かれたも
の」といっている弟子とは、マクダレーナ・ホーフデーメルのこ
とではないかと思われるのです。
 確かにこの作品は小編成のオーケストラで、音楽全体が控え目
であって、正式な公開演奏を目的としたものというよりも内輪の
サークルで演奏されるのに適しています。
 実際にこの曲は、1791年3月4日に、友人のクラリネット
奏者ヨーゼフ・ベーア主催の予約演奏会で、モーツァルトはゲス
トとして招かれ、彼自身のピアノ演奏によって初演されているの
です。そして、この音楽会がモーツァルトの公的な演奏家として
の最後のものになったのです。
 その時点でモーツァルトはあらゆる音楽会から締め出されてお
り、友人のベーアの好意によってそういう機会が与えられたこと
になるのです。それからほどなくして、モーツァルトはリヒノフ
スキー訴えられるのです。   ・・・[モーツァルト/61]


≪画像および関連情報≫
 ・ピアノ協奏曲第27番/KV595の推薦盤
  ―――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第23/27番』
    ピアノ/指揮/ウラジミール・アシュケナージ
    フィルハーモニア管弦楽団
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・ある批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  さすがアシュケナージである。ある意味協奏曲23番と27
  番の定番と言えるのではないか?1980年のデジタル録音
  初期の音源ではあるが、デジタル臭が希薄で音質も良い。ピ
  アノの音は繊細で細やか、紛れもないスタインウェイの音が
  する。「あー、どっかで聴いたことがあるー」という協奏曲
  の代表曲。廉価格でお買い得だ。
       http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000091LBT
  ―――――――――――――――――――――――――――

ピアノ協奏曲第27番/モーツァルト.jpg
ピアノ協奏曲第27番/モーツァルト
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2009年06月26日

●モーツァルトは高額所得者である(EJ第1984号)

 モーツァルトの最後の年である1791年当時、モーツァルト
はどのくらい借金をしていたのでしょうか。
 モーツァルトの借金の明細はそれを証明する資料がほとんどな
いので推測するしかないのですが、総額で4000フローリン程
度はあったと考えられます。大口債権者は次の3人で、おおよそ
の内訳は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  リヒノフスキー ・・・・・・・ 1435フローリン
  プフベルク ・・・・・・・・・ 1415フローリン
  ラッケンバッヒャー ・・・・・ 1000フローリン
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                  3850フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 大口債権者3人のうち、リヒノフスキーとプフベルクはフリー
メーソンの仲間ですが、ラッケンバッヒャーは富豪商人――おそ
らく今でいう金融業者であると思われます。コンスタンツェは、
その契約内容が相当厳しいものであることを知っており、そのこ
とを母親のセシリアに話していたと思うのです。もし、返済しな
いうちにモーツァルトに万一のことがあったら、一家は路頭に迷
わなければならない――きっとそう考えたのでしょう。
 1フローリン=1万円であるとすると、モーツァルトの借金は
4000万円ということになります。確かに大金ではありますが
問題はこれがモーツァルトにとって返済可能かどうかです。その
ためには、彼の当時の収入を探ってみる必要があります。
 その前に当時のウィーン市民の生活水準というものを大雑把に
頭に入れておく必要があると思います。中級官吏の報酬はどのく
らいであったかというと、年俸で400〜500フローリン程度
――当時官吏は結構もらっていた方であり、中級レベルの世帯と
いってよいと思います。
 大学教授でも年に300フローリン、小教区の司祭職で600
フローリンというところです。ちなみにモーツァルトの父のレオ
ポルト――ザルツブルグ宮廷の副楽長のときは年俸450フロー
リンだったのです。
 同じ音楽家でもウィーンの宮廷楽長となると桁が少し違うので
す。その地位にあったサリエリの年俸は、何と2050フローリ
ンだったのです。しかし、サリエリは特別であり、同じウィーン
宮廷音楽家でも次席オルガニストのアルブレヒツベルガーの年俸
は300フローリンでしかなかったのです。
 これに対し、死亡率の高い18世紀においては、医師の年俸は
高く、ウィーン総合病院の院長クラスでは年俸3000フローリ
ンとサリエリのはるか上を行くのです。
 それでは、モーツァルトは、どのくらいの収入を得ていたので
しょうか。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、1788年から1791年
までのモーツァルトの推定年収は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1788年 ・・・・・ 2060フローリン
   1789年 ・・・・・ 2158フローリン
   1790年 ・・・・・ 3225フローリン
   1791年 ・・・・・ 5672フローリン
        藤澤修治氏論文/「モーツァルトの借金」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで見ると、モーツァルトはかなりの高収入を得ていたこと
になります。これだけの収入があれば、4000フローリン程度
の借金は返せたはずですが、コンスタンツェとセシリアは何を心
配していたのでしょうか。
 それは、おそらく次の3つの理由があると考えられるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.コンスタンツェはモーツァルトの収入の全貌を正確には把
   握していなかったこと
 2.コンスタンツェはモーツァルトの借金の使途についても把
   握していなかったこと
 3.モーツァルトは既に人気がなくなっており、仕事が大幅に
   減ると考えていたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェがモーツァルトの収入についてどこまで知って
いたかは不明です。推定ですが、コンスタンツェが考えていたよ
りもモーツァルトは高収入を得ていたのです。しかし、その全貌
についてコンスタンツェは知らなかったと思うのです。
 これに対して、モーツァルトが相当高額の借金をしていたこと
はよく知っていたのですが、その使途――とくに巨額のものにつ
いては果たして知っていたのかどうかはわかっていないのです。
とくにリヒノフスキーやプフベルクからの借金は巨額であり、そ
れが何に使われていたか――それをコンスタンツェはぜんぜん知
らなかったと思われます。
 収入の全貌が掴めず、明らかに人気は凋落し、仕事は減ってい
る――一方、借金はかなり高額であり、しかも増えている。返せ
る可能性は低い――こういう状況です。このままでは危ないとコ
ンスタンツェとセシリアが考えても不思議はないと思います。
 しかし、コンスタンツェはともかくとして、セシリアは、モー
ツァルトがたぐい稀な音楽の天才であることをよく知っていたの
です。彼の書きためている未発表の自筆譜は必ず高く売れる――
セシリアはそう見抜いていたのです。
 それにしても、モーツァルトは何のために借金をし、何をやろ
うとしていたのでしょうか。
 モーツァルトほどの収入があれば、借金などをしなくてもかな
り豊かな生活が送れたはずなのです。それなのに、モーツァルト
は巨額の借金をしているのです。しかし、それを解明する手がが
りは何も残されていない。明日はこの謎に迫っていきたいと考え
ます。            ・・・[モーツァルト/62]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとリヒノフスキーの謎の旅
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このリフノフスキーはモーツァルトに音楽を教わり、またフ
  リーメイスン仲間でもあり、2人は連れだって、4月始めに
  ヴィーンを旅出ったのである。この旅行中大量の手紙がコン
  スタンツェの元に送り続けられることは言うまでもないが、
  演奏会やオルガン競演などを交えつつ、ライプツィヒでは、
  かつてセバスチャン・バッハが活躍した聖トーマス教会でオ
  ルガン即興演奏を行なえば、バッハに師事した当地の楽長ヨ
  ーハン・フリードリヒ・ドーレスが感動してしまった事件も
  あった。
 http://reservata.s61.xrea.com/academia/mhistory/classic/hwm14-7.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

8フローリン金貨.jpg
8フローリン金貨
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2009年06月29日

●フリーメーソンになった理由は何か(EJ第1985号)

 モーツァルトが巨額の借金をしていたことと、彼がフリーメー
ソンの会員であったこととは無関係ではないのです。彼は熱心な
フリーメーソンであったのですが、現在残されている夥しい数の
モーツァルトの手紙には、フリーメーソンについて直接記述した
ものは一切ないのです。
 それは、18世紀の末に、ウィーンにおいてフリーメーソンで
あることが何を意味していたかということと関係があります。フ
リーメーソン運動の発展は、当時の国情によってそれぞれ異なる
のですが、一般論としては、旧来の土地貴族に対立する商人、手
工業者、専門的職業人――この中には当然音楽家も含まれる――
すなわち、新興ブルジョワの思想を代表していたといえます。
 だからこそ、1789年のフランス革命後において、フリーメ
ーソンがフランス革命の真犯人と噂され、中部ヨーロッパの多く
の国ではフリーメーソンの結社が禁止されたのです。モーツァル
トはまさにこういう時代に生きていたのです。
 オーストリアにフリーメーソン主義を導入したのは、フランシ
ス1世――マリア・テレジアの夫――なのです。彼はフランス生
まれの熱心なフリーメーソンであって、1731年にウィーンに
に最初の支部を設立しています。
 国王がフリーメーソンであるところから、貴族や軍人、それに
一部の聖職者までフリーメーソンになる者もいたのです。しかし
頑固なまでのカトリック教徒であるマリア・テレジアは夫のフラ
ンシス1世が死ぬと、直ちにフリーメーソンの結社を禁止し、フ
リーメーソンの迫害を始めたのです。
 しかし、その息子のヨーゼフ2世は、そのフリーメーソン禁止
令を廃止し、積極的にさまざまな改革を断行したのです。モーツ
ァルトが少なからずこの皇帝に助けられたことについてはもはや
多言を要する必要はないと思います。
 モーツァルトがなぜフリーメーソンに入会したのかについては
彼が王侯・貴族たち――すなわち当時の権力体制から冷たい仕打
ちを受けたからなのです。具体的にいうと、モーツァルトが若い
頃から父のレオポルトと一緒に、または母を伴って一人で、何回
となく繰り返し働きかけた宮廷への就職活動がことごとく失敗に
終ったことです。これによって、彼は権力体制が決して自分の味
方にならないことを思い知ったのです。
 しかし、マンハイム、パリ旅行において、モーツァルトを励ま
し支援を与えたのはフリーメーソンたちだったのです。マンハイ
ムでは、作曲家のカンナビヒ、フルーティストのヴェンドリング
オーボエ奏者のラム、それにマンハイム国民劇場監督のダールベ
ルク男爵、劇作家のゲミンゲン男爵などは、モーツァルトに物心
両面の支援を与えたのです。また、パリにおいては、カンナビヒ
とゲミンゲン男爵の紹介状により、ジッキンゲン伯爵と会うこと
ができています。彼らはいずれもフリーメーソンなのです。
 モーツァルトは、このマンハイム・パリ旅行の2年後にウィー
ンに移り住むことになったのですが、そのときモーツァルトを取
り囲んでいたのは、ほとんどはフリーメーソンの音楽家や貴族た
ちだったのです。
 そういう支援者のおかげで、モーツァルトはウィーンにおいて
ヴィルヘルム・トゥーン伯爵夫人のサロンに出入りできるように
なります。ここでモーツァルトは、後に彼自身の葬儀執行人を務
めることになるヴァン・スヴィーテン男爵に出会ったのです。フ
リーメーソンには、薔薇十字団系と啓明結社系の2つがあるので
すが、スヴィーテン男爵は啓明結社系の大物会員だったのです。
 スヴィーテン男爵は毎週日曜日に自宅でコンサートを開いてお
り、モーツァルトは毎週そのコンサートに参加し、そこで男爵の
保有する膨大なバッハやヘンデルの楽譜に出会うのです。これは
その後のモーツァルトの音楽にさまざまな影響を与えたのです。
 このようにモーツァルトはフリーメーソンから強い影響を受け
1784年12月14日に「恩恵」ロッジに入会することになり
ます。このロッジは啓明結社系であり、マンハイム旅行で知り合
った劇作家のゲミンゲン男爵が創立したロッジなのです。
 しかし、教会当局は、フリーメーソン、とくに啓明結社系の運
動に警戒心を募らせるようになるのです。というのは、薔薇十字
団よりは政治的色彩の強い啓明結社の動きに対して国として放置
はできなかったのです。その中心になったのはパヴァリア(バイ
エルン)なのです。
 パヴァリアでは、カール・テオドール選帝侯が啓明結社が領内
で会合を持つことを禁じたのです。1784年のことです。モー
ツァルトがフリーメーソンに入会した年にそういう禁止の勅令を
出したのです。
 こういう動きに呼応して、どちらかというとフリーメーソンに
理解のあったヨーゼフ2世統治下のオーストリアでもフリーメー
ソン支部に対する監督を強化するようになったのです。そして、
ウィーンではヨーロッパではじめて、秘密警察が創設されたので
す。秘密警察の趣旨は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 民衆の間に芽生えた不満、あらゆる危険思想、とりわけ謀反の
 種を発見して、つぼみのうちにすぐさまそれらを摘みとること
 を目的とする。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉なことに、モーツァルトがフリーメーソンになった年であ
る1784年頃により、フリーメーソンに対する規制がはじまり
フランス革命のはじまる1789年にかけて、一層強化されてい
くのです。モーツァルトのフリーメーソン活動に関する手紙など
が一切ないのは当然なのです。なぜなら、この頃からフリーメー
ソンは地下運動に移行するからです。また、モーツァルトの死後
コンスタンツェは、フリーメーソンに関わる手紙などをすべて処
分したともいわれています。  ・・・[モーツァルト/63]


≪画像および関連情報≫
 ・アルフレート・アインシュタインについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  EJの記述の中にときどき登場するアインシュタインは、高
  名な物理学者のアルベルト・アインシュタインではない。ア
  インシュタインの従弟で、アメリカに帰化したドイツの音楽
  学者、音楽史家であり、とりわけモーツァルトに詳しいモー
  ツァルト学者である。著書、『モーツァルト、その人間と作
  品』などがよく知られている。従兄のアルベルトともども、
  モーツァルト音楽の愛好者で、アルベルト(あるいはアルフ
  レート本人?)が「死とは、モーツァルトを聴けなくなるこ
  とだ」という名言を残している。   1880〜1952
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アインシュタインの著書.jpg
アインシュタインの著書
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2009年06月30日

●『洞窟』という名の幻の支部づくり(EJ第1986号)

 高名なモーツァルト研究学者だったアルフレート・アインシュ
タインはモーツァルトの作品について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自分がフリーメーソンの会員の一人であるという自覚が彼の全
 作品に浸透している。『魔笛』だけでなく、その他の多くの作
 品がフリーメーソン的なものである。この結社に未加盟の人間
 にとっては、これからの作品のメーソン的特徴がいっこうに明
 らかでないとしても、やはりそうである。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 アインシュタインのいう「フリーメーソン的特徴」とは、何で
しょうか。これについては、上記のキャサリン・トムソンの本を
ゆっくり読むことをお勧めしたいと思います。モーツァルトの音
楽の中の「フリーメーソン的特徴」を楽譜入りでわかりやすく解
説をしています。
 それはさておき、モーツァルトは現在私たちが知る以上に非常
に真面目に、そして情熱的にフリーメーソン活動に取り組んでい
たのです。そのため、それがあらゆるモーツァルトの作品に影響
を与えていたのです。
 それだけに、1785年12月にヨーゼフ2世の出した宮廷勅
令はこれから本格的にフリーメーソン活動に取り組みたいと思っ
ていたモーツァルトにとって衝撃的なものだったのです。なぜな
らこれによって、今まで8つあった支部は2つ――「新・授冠の
希望」と「真理」の2つに集約されてしまったからです。
 それに加えて、モーツァルトが加入していた支部の「恩恵」は
啓明結社系の支部であったのに、薔薇十字団系の支部である「授
冠の希望」に吸収され、「新・授冠の希望」(後に「新」が取れ
て元の「授冠の希望」となる)になったのです。
 モーツァルトは、「恩恵」と同系統の「真の調和」支部の支部
長――イグナーツ・フォン・ボルンに惹かれていたのです。とこ
ろがこのフォン・ボルンは新たに「真理」と名前を変えた支部の
支部長にはなったものの、モーツァルトの属することになる支部
「新・授冠の希望」とはまったく考え方が異なるのです。
 こういうフリーメーソン支部の統廃合によって、1785年に
は950名いたウィーンのフリーメーソンの会員は、半分以下の
350名に激減してしまったのです。そして、ウィーンの2つの
支部も18世紀中に消滅してしまったのです。
 そのひとつの重要な原因は、アロイース・ホフマンという男の
裏切りにあったのです。ホフマンは、もともとモーツァルトの属
していた「恩恵」の支部に属していたのですが、宮廷勅令を機に
フリメーソンをやめ、一転してフリーメーソンの誹謗中傷をはじ
めたのです。そして、ウィーンの秘密警察の手先となって、とく
に啓明結社潰しをやったのです。
 しかし、モーツァルトはフリーメーソンの活動を密かに継続さ
せていたのです。それも自ら新しい支部を作ろうとしていたので
す。しかし、それは宮廷勅令に反する行為であり、地下活動的に
ならざるを得なかったのです。そのモーツァルトが作ろうと目指
していた支部の名前は「洞窟」という名前であるといわれます。
 なぜ、「洞窟」という名前を付けたのでしょうか。
 それは、ザルツブルグのアイゲンに実在する美しい洞窟を意味
するのではないかといわれているのです。というのは、その洞窟
は、「啓明団の洞窟」といわれ、啓明団の会合がしばしば行われ
ており、モーツァルトはフリーメーソンに入る前にその会合に参
加したことがあるのではないかといわれているのです。
 キャサリン・トムソンは、このアイゲンの洞窟に関連して次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 地質学者ローレンツ・ヒューブナーの1792年執筆の報告に
 よれば、啓明団の会合が、ザルツブルグ近郊のアイゲンにある
 人里離れた美しい洞窟(今日「啓明団の洞窟」として知られる
 場所)で夜に開催されたさい、啓明団の指導者の一人、ギロウ
 スキー伯が「知人のフォン・アマン、モーツァルト、バリザー
 ニを連れて」列席した。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトにとっては、このアイゲンの洞窟で行われた啓明
団の会合が印象に残っていて、後にフリーメーソンに入ろうとす
る動機のひとつになったと考えられます。また、自分が新たな支
部を作ろうとするときにそれを使ったのではないかと考えられま
す。洞窟の周辺には急流の滝があり、高い木々がそびえ立ち、険
しく切り立った岩山があるのです。添付ファイルにアイゲンの滝
の写真を示しておきますが、この風景は『魔笛』の鎧を着た男た
ちが登場する場面そのものです。
 歌劇『魔笛』の第2幕――鎧を着た男たちが登場する場面のト
書きには、次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2つの大きな峰、一方の峰には急流の滝があり、他の峰からは
 火が吹いている。   ――『魔笛』/鎧を着た男たちの場面
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、モーツァルトがいかにアイゲンの洞窟のことを
印象深く覚えていたかがわかります。だからこそ、自分の最後の
年の作品である『魔笛』の場面に使ったり、自分が密かに作ろう
としていたフリーメーソンの支部の名前に「洞窟」を使おうとし
たものと思われます。
 その「洞窟」支部――結局は実現しなかったものの、それは大
変な企てであり、膨大な資金を必要としたのです。モーツァルト
の理解に苦しむ莫大な借金とは、この「洞窟」作りのために使わ
れたのではないでしょうか。  ・・・[モーツァルト/64]


≪画像および関連情報≫
 ・啓明結社について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓明結社は、陰謀論においては、非常に人気があり、現在で
  も密に世界へ手を伸ばし影響を与えている影の権力であると
  される。ただし、日本ではそれほど有名ではなく「ユダヤの
  陰謀」や「フリーメーソンの陰謀」で置き換えられているこ
  とが多い。また、単にイルミナティと言った場合、後述のア
  ダム・ヴァイスハウプト主宰のものを指す場合が多いが、そ
  の後に復興運動があったとは言えその本体の活動期間は実質
  8年間であり、陰謀論の主体としてはユダヤやフリーメイソ
  ンと比較して説得力に欠けるという側面もある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アイゲンの洞窟周辺.jpg
アイゲンの洞窟周辺
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2009年07月01日

●借金は新支部設立のためのもの(EJ第1987号)

 EJ第1984号において、モーツァルトが死亡した時点での
借金総額は約4000フローリンと述べましたが、それを証明す
る借用書などは一切残っていないのです。したがって、本当のと
ころ、一体どのくらい借りていたのか、その使途は何なのか、そ
れらの借金は返済されたのか、そのままなのかなどについてはわ
かっていないのです。
 しかし、そういう状況において、ひとつ貸借関係がはっきりし
ている事実があります。それは、1791年11月に出された次
の判決文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはリヒノフスキーに対して、1435フローリン
 32クロイツァーの未返済金があることを認定する。直ちにそ
 の金員をリヒノフスキーに支払え        ――裁判所
―――――――――――――――――――――――――――――
 この1435フローリンはあくまで1791年春の時点での未
返済残高であって、実際に借りていた額はそれよりも多いと考え
られます。もっと多く借りていて、モーツァルトが何回か返済し
残っていた額と考えられるのです。
 これ以外の大口としては、金融業者ラッケンバッヒャーからの
約1000フローリンの借金があります。これについては借用証
書が残っているのです。その一部をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はここに以上の借金を確かに受納したことを確認するととも
 に、以下の責任を負いました。私、私の相続人、子孫はこの元
 金を前記の貸主、その相続人、又は新たな債権者に2年後の本
 日、予告なく、前記と同じ金種により、何等の抗弁なく返還致
 します。但し同貨幣により百分の五の利子をつけます。この利
 子は私の元金返還の期限が切れ、貸主が利子その他の費用を請
 求できるようになった時、半年の期限をもって遅滞なく当ヴィ
 ーンにて支払います。元金および利子の担保として私は私の全
 ての家財を貸主に差出します。私及び指定の証人の自署による
 証書と致します。     証人 マティアス・ブリュンナー
              証人  アントーン・ハインドル
――既出/藤澤修治氏論文より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この借用書によると、モーツァルトの動産が抵当に入っている
ことがわかりますが、それはモーツァルトが所有していたとみら
れる膨大な銀製品ではないかと思われます。モーツァルトは宮廷
や貴族の屋敷などで演奏会を開いたとき、贈り物として、銀の食
器などを大量に拝領していたのです。
 しかし、モーツァルトの死後作成された遺産目録には、それら
の銀製品は一切なかったのです。そして何よりも不思議なのは、
債権者リストにラッケンバッヒャーの名前はなかったのです。こ
れはおそらくこの借金が自分たちに及ぶことを知っていたコンス
タンツェによって返済されたと考えられるのです。
 それからもうひとつ、既に述べたように証文などは一切ないが
モーツァルトはプフベルクに対して、全15回――計1415フ
ローリンを借りていたことがわかっています。プフベルクはモー
ツァルトよりも15歳年上の裕福な織物商人であり、大変な音楽
好きだったのです。そういうこともあってか、モーツァルトは何
回もプフベルクに金の無心をしているのです。
 これに対してプフベルクは、モーツァルトの要求額よりも小額
ではあったが、そのつど用立てていたことがモーツァルトが彼に
宛てた手紙でわかっています。モーツァルトはプフベルクの他に
も裕福な友人を多くもっていたのに、なぜプフベルクばかりに無
心をいったのでしょうか。
 推測の域を出ないものですが、おそらくリヒノフスキーとプフ
ベルクの2人はモーツァルトが「洞窟」を設立しようとしていた
ことを知っており、そのための融資であったと思われるのです。
なぜなら、リヒノフスキーとプフベルクは、フリーメーソンの同
志だったからです。
 当時の秘密結社への厳しい管理下においては、よほど信頼でき
る人でないと、真実を打ち明けるのは危険であったのです。当時
は秘密警察によって、市民の手紙の検閲も行われていたのです。
そうであるとすると、いわゆる「プフベルク書簡」の奇妙な書き
出しの謎が解けてきます。
 既出の藤澤修治氏は、プフベルクへの書簡の冒頭はフリーメー
ソン特有の言葉が使われていることを指摘しています。モーツァ
ルトは、手紙の書き出しに「尊敬する最愛、最上の友よ!」とか
「この上なく尊敬する盟友」とか、「真の友人」とかいう言葉を
使っていますが、これはフリーメーソン結社員同士の挨拶でよく
使われる言葉なのです。
 こういう書き出しで始まるプフベルクへの借金の申し入れの手
紙についてはその使途を一切書いていないのです。それは、新支
部設立のための資金であるという暗黙の了解があったのではない
かというのです。
 モーツァルトがプフベルクに出した手紙は20通ほどあるので
すが、そのうち借金の使途について書かれたものは3通しかない
のです。そして使途の書かれた借金は、10〜30フローリンの
小額のものだったのです。
 リヒノフスキーとプフベルク――この2人からの借金は、モー
ツァルト自身が返済したものを含めると、3500フローリンほ
どになったものと思われます。そして、その資金は、新支部「洞
窟」の設立資金に使われたとみられるのです。
 モーツァルトはなぜフリーメーソンの新しい支部を作ろうとし
たのでしょうか。それは、音楽家の地位を向上させることにあっ
たのではないかと思われます。当時はモーツァルトのような才能
のある音楽家ですら、地位が安定せず、不安定な収入に甘んじざ
るを得なかったからです。   ・・・[モーツァルト/65]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとカトリック信仰
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトはたしかに、一度も公然とカトリックの信仰を
  否認しているわけではない。しかし、彼の最期にさいし、臨
  終の儀式をとりしきる司祭を探し出すことは困難だった。・
  ・・モーツァルトの考えは、明らかに異教的と見なされてい
  た。彼が啓明団の結社員たちと親交があるだけで、司祭たち
  の眼には、彼を非難するのに十分だった。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

王宮公園/モーツァルトの記念碑.jpg
王宮公園/モーツァルトの記念碑

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2009年07月02日

●3大交響曲も資金繰りの一環か(EJ第1988号)

 1788年――この年は、父のレオポルトが亡くなった次の年
であり、モーツァルトが「洞窟」の設立に向けて具体的な準備に
入ったとみられる年です。
 1787年から88年にかけてのモーツァルトの懐具合は決し
て悪くなかったはずです。1787年は、プラハで歌劇『ドン・
ジョバンニ』が大当たりし、ウィーンに帰ってくると、皇帝ヨー
ゼフ2世から呼び出され、同年12月1日付で宮廷作曲家の地位
を与えられているのです。
 それに父のレオポルトがモーツァルトのために残した1000
フローリンのお金も入っているのです。このお金のいきさつにつ
いては、EJ第1938号に書いてあります。
 しかし、モーツァルトはこの年にウィーンの聴衆には冷たくさ
れ、ほとんど演奏会を開くことはできなかったのです。もちろん
サリエリらの宮廷音楽家たちの陰謀によるものです。
 そのためモーツァルトはプラハで稼ぎ、その後もプラハで作曲
活動を続けてくれれば、『ドン・ジョバンニ』と同じ条件で報酬
を支払うという良い提案を受けていたのに、それを断って仕事に
ならないウィーンに戻っているのです。もし、プラハで仕事を続
けていれば間違いなく1000フローリンを手にすることができ
ていたのに、あえてウィーンに戻ってきているのです。
 どうして、ウィーンに戻ってきたのでしょうか。
 一説によると、モーツァルトがウィーンに戻ったのは、グルッ
クが死亡したためといわれています。しかし、モーツァルトとグ
ルックとの付き合いはハイドンほど深くはなく、稼ぎの良い仕事
を放り出してまで戻るほどのことはなかったのです。もっとも、
グルックが死んだおかげで、モーツァルトは宮廷作曲家の地位を
手にすることができたことは確かなのですが・・・。
 そして、1788年からモーツァルトは、巨額の借金を最期の
年である1791年まで積み重ねるのです。これらの借金は、明
らかに「洞窟」設立のための準備資金と見ることができます。当
時生活には困っていなかったからです。そして、あえてウィーン
に戻った理由も新支部設立のためだったと考えられます。
 1788年6月にモーツァルトは、プフベルクに対して次のよ
うな手紙を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もしあなたが1年か2年、1000もしくは2000フローリ
 ンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛
 と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けになる
 でしょう!        ――1788年6月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうみてもこれは生活資金のための借金申し込みとは思えない
のです。金額が大き過ぎるからです。しかし、「洞窟」設立のた
めの資金と考えると、納得がいくのです。
 しかし、これに関してプフベルクは、200フローリンしか用
立てませんでした。プフベルクは、モーツァルトの要求に対して
誠実に応えているのですが、つねに要求よりも控え目の資金しか
用立てていないのです。その代りそのお金が返済されなくても請
求しないし、重ね貸しを許しているのです。
 1000〜2000フローリン必要なのに200フローリンし
か入らない――モーツァルトはどう対応したのでしょうか。
 確かな証拠はないのですが、そのとき、もうひとつの借り手で
あるリヒノフスキー侯爵から借りたことは十分考えられます。そ
れは、それから1年間というものモーツァルトはプフベルクに金
の無心をしていないからです。
 このリヒノフスキー侯爵からの借り入れのほかに、モーツァル
トは自分の能力を使って資金作りをした可能性があります。それ
が、あの3大交響曲の作曲なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交響曲第39番/KV543 ・・・ 1788.6.26
 交響曲第40番/KV550 ・・・ 1788.7.25
 交響曲第41番/KV551 ・・・ 1788.8.10
―――――――――――――――――――――――――――――
 後世に完成度の高い交響曲として残っているこれら3曲の交響
曲は、1788年6月26日から8月10日までの3ヶ月ですべ
て完成しているのです。そのためこれら3曲は明らかにワンセッ
トであると考えられるのです。
 「3」という数字がフリーメーソンにとって重要な数字である
ことは既に述べていますが、交響曲3曲を3ヶ月で完成させて、
それによる資金を「洞窟」設立のために使おう――モーツァルト
はそのように考えたのではないかと思われます。
 このように考えてくると、リヒノフスキーの申し出で1789
年4月に奇妙な旅に出る理由が推察できるのです。これについて
EJ第1939号では、サリエリらの陰謀によるものと書きまし
たが、どうもそうではないようなのです。
 おそらくリヒノフスキーは1788年にモーツァルトに貸した
お金が約定通り戻ってこないので、その返済資金をモーツァルト
に作らせるため、リヒノフスキーが土地勘のあるドイツ旅行を提
案したのではないかといわれているのです。現地でモーツァルト
に演奏会を行わせ、返済資金を稼がせようというわけです。
 しかし、この旅行は準備不足のためか、ほとんど所期の目的を
達成することなく終っているのです。そのためかえってモーツァ
ルトの借金の総額は増えてしまっています。いずれにしても、リ
ヒノフスキーとモーツァルトの北ドイツ旅行は多くの謎に包まれ
ており、真相はわかっていないのです。
 結局、リヒノフスキーへの返済は一部はモーツァルトから返済
があったものの、1791年になっても完済されず、リヒノフス
キーは、1791年春に裁判所にモーツァルトに対する貸金返還
訴訟を起こすのです。そしてその判決が1791年11月に出さ
れたのです。しかし、その直後にモーツァルトが急死してしまう
ことになります。       ・・・[モーツァルト/66]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの6大交響曲について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーノンクールが38番以降を指揮したこのセットは、モー
  ツァルト没後200年追悼演奏会のライブ録音だ。4曲とも
  各主題の性格を明確に浮き上がらせ、強弱や明暗などのコン
  トラストも鮮烈な革新的演奏。伝統的な演奏ならレナード・
  バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤やカール・ベーム指
  揮ベルリン・フィル盤を。
  http://music.jp.msn.com/special/classic/harnoncourt.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトの肖像.jpg
モーツァルトの肖像
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2009年07月03日

●新支部『洞窟』設立の断念(EJ第1989号)

 モーツァルトのテーマは今日を含めてあと4回になります。い
よいよ大詰めです。
 1788年6月にモーツァルトはプフベルクに1000〜20
00フローリンの借金を申し込み、200フローリンを送金して
もらっています。それから1年というものモーツァルトはプフベ
ルクに対してお金の無心をしていないのです。
 しかし、ちょうど1年後の1789年7月12日にモーツァル
トは、またプフベルクに500フローリンの借金を申し入れる手
紙を書いています。その手紙には次の奇妙な一文があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 とろこが、別の面で不幸な状況が見えてきました。――もちろ
 ん、ほんの一時だけのことです!――最愛、最上の友にして盟
 友よ。あなたは私の目下の状況をご存知です。でも、私の今後
 の展望もご承知です。私たちが話し合った例のことについては
 そのまま変わっていません。あれやこれや、お分かりのことと
 思います。      ――1789年7月12日の手紙より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既出の藤澤修治氏の論文によると、「別の面で不幸な状況」と
は、その時点から3ヶ月前に「真理」支部が解散届けを出したこ
とを指しているというのです。
 モーツァルト自身は「新・授冠の希望」支部に属していたので
すが、2つしかないもう一つの支部である啓明結社系の「真理」
の方に惹かれていたのです。「新・授冠の希望」はもともと薔薇
十字団系であり、所属している会員には貴族が多く、モーツァル
トには合わなかったからです。
 その「真理」支部が解散に追い込まれたことにより、フリーメ
ーソンに動揺が走ったのです。そのため、モーツァルトの作る新
支部「洞窟」に参加しようとしていた人まで、フリーメーソンを
脱会する動きが起こったのです。
 さらに藤澤氏は7月12日の手紙の中の「私の今後の展望」と
はモーツァルトが新支部を作る決心を指し、「私たちが話し合っ
た例のこと」は、新支部「洞窟」の設立であると述べています。
つまり、「真理」が解散ということになっても、「洞窟」という
新支部を作る決意は揺らいでないので、500フローリン貸して
欲しいとモーツァルトはプフベルクに懇願しているわけです。
 モーツァルトは秘密警察による手紙の検閲を恐れて、こういう
言い回しの手紙をプフベルクに送ったのです。しかし、これに対
してプフベルクはモーツァルトに返事をしなかったのです。
 そこでモーツァルトは、プフベルクに7月17日に再度手紙を
送って次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あなたの友情の数々の証しとこのたびの私のお願いとを考え合
 わせますと、あなたのお怒りもまったく当然だと思います。し
 かしまた、私の不幸な状況――これは厳密にいえば私の責任で
 はありませんが――とあなたの友情にあふれたお気持ちとを考
 え合わせますと、やはり私が弁解するのも理のあることだと思
 います。       ――モーツァルトの7月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手紙の中の「私の不幸な状況」とは、「真理」支部が解散
届けを出したことを指しています。そして、モーツァルトは、そ
のことは自分の責任ではなく、それを弁解するのは理のないこと
ではないといっているのです。これだけ見ても、この手紙が単な
る借金の依頼状でないことがわかります。
 この手紙を受けたプフベルクは、モーツァルトの窮状を察して
150フローリンを送っているのです。さらにモーツァルトは同
じ年の年末にプフベルクに400フローリンの無心をしているの
ですが、この時点では「洞窟」の設立は困難な状況に追い込まれ
ていたもものと推定されます。
 新しい支部を設立するには、そのための打ち合わせに使う会議
室の賃料、そのさいの飲食代、会議資料の印刷代、会員を勧誘す
るための旅費を含む諸経費など、いろいろお金がかかるのです。
支部ができてしまえば、会費を徴収してこれらの経費を賄えるの
ですが、それまでは誰かがそれを立て替える必要があり、モーツ
ァルトがその資金を調達したのです。
 実はプフベルクは「真理」支部の会計を担当していたので、モ
ーァルトの要求してくる資金の見当がついたのです。したがって
プフベルクはモーツァルトの要求を冷静に判断していつも適切な
金額を送金していたのです。何といってもモーツァルトは不定期
には大金は入るものの固定収入がないので、どうしても一時の借
金に頼らざるを得ない財務体質なのです。
 そういうプフベルクは1789年の年末のモーツァルトの資金
要求――400フローリンに対して、300フローリンを送金し
ています。これはプフベルクがモーツァルトに送金した金額では
最高の金額ですが、これは「洞窟」設立断念のための幕引き整理
資金と見ることができます。
 そして、1790年という年はモーツァルトの作曲活動が最も
低調な年なのです。おそらく「洞窟」設立断念がモーツァルトの
作曲の足を引っ張ったものと考えられるのです。
 しかし、これを観察していたコンスタンツェとセシリアは、借
金が増えて人気が地に落ちたモーツァルトに早々と見切りをして
いたと考えられるのです。それは、1791年の春に起こされた
リヒノフスキーによるモーツァルトへの貸金返還訴訟でおそらく
確信に変わったと思えるのです。
 そう考えると、死の直前の歌劇『魔笛』の大成功とその後の音
楽家としてのモーツァルトの高い評価の定着は、1790年時点
では予測することがいかに困難であったかがわかります。フリー
メーソンを扱った『魔笛』の成功こそ、モーツァルトにとって一
発逆転さよなら満塁ホームランぐらいの価値があったといえると
思います。          ・・・[モーツァルト/67]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトは人に金を貸していたという話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ここでモーツァルトの金銭貸借に関してまだ解かれていない
  新しい謎について言及しなければなるまい。それは遺産整理
  の時に判明したのだが、彼はクラリネット奏者アントーン・
  シュタードラーに500フローリンもの金を貸していた。こ
  れは中流家庭の1年間の生計費に匹敵する大金だが、一方で
  恒常的に借金を続けたモーツァルトが、他方で貸金を持って
  いたというのは意外だ。これについて、いつ、どんな目的で
  これが貸されたかを解いた説は現在までない。
       ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの借金」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part1.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「夜の女王」のアリア.jpg
夜の女王」のアリア
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2009年07月06日

●新支部づくりの真の狙いは何か(EJ第1990号)

 それにしてもモーツァルトは、巨額の借金までして、なぜ、フ
リーメーソンの新支部を作ろうとしたのでしょうか。これについ
て、アルフレート・アインシュタインは、その著書において次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトを結社に飛び込ませたのには、おそらく彼の芸術
 家としての深い孤独感と、心からの友情への欲求も、あずかっ
 て力があったのだろう。アルコ伯爵によって足蹴にされ、大司
 教コロレドによって召使あつかいされたモーツァルトは、結社
 においては、天才を持つ一人の人間として貴族と同列であり、
 同権であった。   ――アルフレート・アインシュタイン著
           『モーツァルト/その人間と作品』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既に述べたように、モーツァルトが生きていた時代は、音楽家
の地位は低く、王侯・貴族の召使いでしかなかったのです。しか
し、フリーメーソンではそういう音楽家でも貴族と同じように扱
われる――モーツァルトの求めたのはこれであるとアインシュタ
インはいっているのです。
 しかし、モーツァルトは自分自身が貴族と同列に扱われたいと
いう考え方のみで新支部「洞窟」の創設を目指したのではなく、
フリーメーソンという組織に力を与えて、当時の封建領主体制を
改革したいと考えたのではないかと思われます。モーツァルトと
しては、フリーメーソン活動を今後強化していけば、きっとそれ
は実現されると考えたのです。
 この考え方は決して間違っていなかったと思うのです。どうし
てかというと、体制側がフリーメーソン活動を禁止したり、制限
するようになったからです。それは裏返すと、フリーメーソン活
動をそのままに放置すると、それが体制転覆につながる恐れがあ
ると体制側が判断したからでしょう。
 モーツァルトにとっては、音楽が貴族たちの占有物になってい
る現実はどうしても受け入れることができなかったのです。音楽
は身分に関係なく万人のためのものでなければならないと考えた
からです。しかし、これが実現するには封建領主体制が変わらな
ければならないのです。
 ちょうどそういう旧体制を否定する啓蒙主義運動が盛んになり
その思想を受け継いだフリーメーソン――とくに啓明結社系のフ
リーメーソン活動にモーツァルトは光を見出したのです。
 しかし、そのフリーメーソン活動が体制側の弾圧政策によって
制限され、支部が解散に追い込まれて力を失っていく――これで
はいけないとモーツァルトは思ったのです。そこで、音楽家であ
る自分が中心となって理想的な支部を作ろうと考えて、「洞窟」
設立に動いたのです。理想的な支部を作り、体制を変えようとし
たのですが、頼みの綱ともいうべき「真理」支部が解散し、資金
づくりの面も万策尽きたという感じです。
 モーツァルトは「真理」を率いていたイグナーツ・フォン・ボ
ルンを心から尊敬していたのです。ボルンとは、どういう人物で
あったのでしょうか。同時代のある著名人はボルンについて次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほど会って話を聞きたくなる人物は他にはいまい。余り書
 かなかったけれども、彼の語ることはすべて公刊されるべきで
 ある。というのは、それは必ず機智があって有意義であり、彼
 の風刺に悪意はないからである・・・彼は教父たちの著作から
 おとぎ話にいたるまで何でもよく読んでおり、調べてもいる。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンは1785年の啓明団への迫害のさなかに、パヴァ
リア科学アカデミーへ辞表を提出し、公然とパヴァリア政府のと
った行動に抗議する次の声明を発表しているのです。これは大変
勇気のいる行為であったといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は自分が無知な坊主(教会の祭司)どもと真っ向から対決す
 る人間であることをはっきり言っておきたい。・・・彼等に若
 者たちの教育をけっしてゆだねるべきではない。ジェスイット
 リー(イエズス会の教説)とかファナティシズム(狂信主義)
 という用語は、詐欺、無知、迷信、愚昧と同義語でありうると
 断言しておく。要するに、私の見解は、パヴァリア政府の公式
 見解と思われるものと全面的に対立しているのである。
           ――キャサリン・トムソンの上掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンが率いる「真理」が解散したのです。いや、強権で
解散させられたというのが正しいかもしれないのです。それほど
当時は、フリーメーソンであり続けることは大変なことだったの
です。そのため多くのフリーメーソンたちは、フリーメーソンで
あることを断念し、会員が減って、支部というものが成り立ちに
くい状況になっていたのです。
 そんな時代にモーツァルトはフリーメーソンをやめるどころか
新しい支部を作ろうとしていたのですから、「音楽を万人のもの
にする」という彼の情熱は強いものがあったのです。しかし、結
局のところ新しい支部「洞窟」の設立は幻に終わったのです。
 このように考えると、そのショックから立ち直ったモーツァル
トの最後の年1791年の後半に作り上げた歌劇『魔笛』の評価
が違ったものになるといえます。
 既に述べたように、『魔笛』の基本構成については、ボルンが
深くかかわっていると見られており、表面的にはたわいないおと
ぎ噺のかたちを取りながら、そこにフリーメーソンの思想が盛り
込まれている作品になっているからです。モーツァルトは音楽に
よってフリーメーソンの思想を伝えようとしたのではないでしょ
うか。            ・・・[モーツァルト/68]


≪画像および関連情報≫
 ・イグナーツ・フォン・ボルンと『魔笛』の関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ボルンの名前は、現存のモーツァルトの手紙には登場しない
  が、二人が親しかったことを示すたしかな証拠は存在する。
  『魔笛』を作曲する前年の1790年の夏にモーツァルトが
  ドロテーアガッセのボルンの家を訪れたことが現在では判明
  している。ボルンがザラストロの原型であったとみる伝説が
  あるし、彼がこの台本の企画に手を貸したという説もある。
  エジプトの秘儀にかんするボルンの論稿がその祭儀の場面の
  ための素材の一つであることは明らかだ。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

パパゲーノ/パパゲーナ.jpg
パパゲーノ/パパゲーナ
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2009年07月07日

●一般の印象と異なるモーツァルトがいる(EJ第1991号)

 今回のテーマ「モーツァルトをめぐる謎の解明に挑戦する」を
書き続けて今回でちょうど69回目です。このテーマは、明日の
8日に終了しますので、全70回になります。
 この間、同じ内容をブログでも公開していますが、このテーマ
になってから、次のようなアクセス数になっています。私のブロ
グは今まで一日来訪者500人は記録したことはないのですが、
491人を記録しました。あと一息です。世の中にモーツァルト
・ファンは多いものだと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  平均正味訪問者数 ・・・  350人〜 450人
  総ページビュー数 ・・・ 1000回〜1200回
      http://electronic-journal.seesaa.net/
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでモーツァルトについて書いてきて気がついたことが3
つあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.世間一般が認識しているモーツァルト像と実際のモーツァ
   ルトとはかなりのずれがあると思われること
 2.モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトの生きた時
   代背景を十分考えて彼を評価していないこと
 3.モーツァルトは音楽の万人解放をめざして当時の封建領主
   体制と戦った改革者としての側面があること
―――――――――――――――――――――――――――――
 世間一般が考えているモーツァルト像とは一体どのようなもの
なのでしょうか。
 それは、映画『アマデウス』に登場するモーツァルト――トム
・ハルス演ずる、あのモーツァルトではないでしょうか。時とし
て、奇妙な振る舞いをするあのモーツァルトです。
 トム・ハルス演ずるモーツァルトは、私がここまで調べてきて
分かったモーツァルトとは大きく異なっています。映画『アマデ
ウス』の脚本家、ピーター・シェーファーは、サリエリを中心に
モーツァルトをとらえています。つまり、サリエリを通して見た
モーツァルト像なのです。話の中心はなかば狂人化したサリエリ
の回想というかたちをとっており、真のモーツァルト像に迫って
いないのです。「クラシック・ジャーナル」の編集長である中川
右介氏は、サリエリについて面白いことをいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリは、モーツァルトが永遠に語り継がれる偉大な音楽家
 であることを認識していた。それに比べて自分はどうか?宮廷
 音楽家としてポストに就いていた頃はちやほやされていたけれ
 ど、晩年は忘れられていた。当然、死ねば完全に忘れられる。
 それはいやだ。そこで、考えた。自分の名を永遠に残すために
 は、いっそ『モーツァルトの敵』になればいい。『モーツァル
 トを殺した男』になれば、モーツァルトが語られるたびに、そ
 の悲劇の最期をもたらした男として自分の名も永遠に残るであ
 ろう、と。そこで、自分がモーツァルトを殺した、と言い出し
 た。 ――中川右介著、『モーツァルト・ミステリーツアー』
                  ゴマブックス株式会社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリの狙いは見事に成功したといえます。モーツァルトの
死後200年以上経って映画『アマデウス』が制作され、そこで
多くの人がサリエリという音楽家がいたことを知る。そして、サ
リエリの音楽を聴いてみようというニーズが出てきて、CDまで
発売されているのです。
 それはさておき、モーツァルトは家族思いの大変真面目な青年
であって、映画のトム・ハルスが演ずるモーツァルト――奇妙な
クセのある大まかで浪費家のモーツァルトとは、大きく性格が異
なるのです。
 モーツァルトが几帳面な人間であったことは、彼の遺した膨大
な手紙によって知ることができます。現在のように電話もメール
もなかった時代において、手紙が唯一の連絡を取る手段だったと
はいえ、実に入念に書かれております。
 もうひとつ、1784年頃からモーツァルトは家計簿をつけて
いたことがわかっています。彼は金銭管理に気を配る人間だった
のです。そういう人間が浪費をするとはとても思えないのです。
浪費的性格の強いのは、むしろ妻のコンスタンツェの方であって
モーツァルトではないのです。
 ところが、そのコンスタンツェの方は、モーツァルトをどう見
ていたのでしようか。既出の藤澤修治氏の論文では、コンスタン
ツェの第2の夫であるニッセンによる『モーツァルト伝』の次の
一文を引用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・そして気だてのよい妻は大目に見ていたが、彼には数々
 の色恋沙汰があった。さらにくわえて、彼は極端から極端へと
 走った。また、決まった俸給はなく、詩人や巨匠にはごく普通
 のことだったが、よい夫とは言えず、お金儲けにはうとく、お
 金を数週間やりくりすることを知らなかった。彼にはお金の価
 値がまったくわかっていなかった。仕事が途切れているときに
 は、彼はしばしば妻や子供たちと苦しい生活を送らねばならず
 債権者の厚かましい催促に閉口していた。しかし、ルイドール
 (昔のフランス金貨)がいくらか手に入ろうものなら、事態は
 一変した。今や有頂天になってしまうのだ。モーツァルトは、
 シャンペンとトカワインに酔い、しまりのない生活をし、数日
 で以前と同じ経済状態になってしまった。
        ――ニッセン著、『モーツァルトの生涯』より
 ――――――――――――――――――――――――――――
 妻から見たモーツァルトの実像は、実際とは大きく異なってい
るのです。          ・・・[モーツァルト/69]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  経済状態が改善された後に彼女が行ったのは、嘗て母親が営
  んでいたような下宿開くことであった。そこに現れたのが、
  1793年2月に公使館参事としてウィーンにやって来たデ
  ンマーク人のゲオルク・ニッセンである。コンスタンツェは
  彼と同棲し、後に彼がウィーンjを離れる際に正式に結婚し
  ている。ニッセンは後にモーツァルトの伝記「モーツァルト
  伝」を書く人物であるが、コンスタンツェに残された2人の
  息子を母親以上に愛し良い父親となった。
 http://homepage3.nifty.com/classicair/feuture/fueture_41.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

映画『アマデウス』より.jpg
映画『アマデウス』より
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2009年07月08日

●コンスタンツェから見たモーツァルト像(EJ第1992号)

 「死人に口なし」とはよくいったものです。昨日のEJの最後
にご紹介しているコンツタンツェから見たモーツァルト像――死
後に最も近い関係にあった妻からあのようにいわれてしまったら
その評価が歴史的に定着してしまいます。それに対して、死んで
しまったモーツァルトは何もいい返すことはできないからです。
 妻のコンスタンツェが述べたモーツァルトの実像をまとめると
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.妻がいるのに、数々の色恋沙汰を抱えていたこと
  2.決まった報酬がないので、苦しい生活が長く続く
  3.お金儲けには疎く、金をやりくりする才覚がない
  4.金の入る予定があるとそれをあてにして浪費する
―――――――――――――――――――――――――――――
 1については後で述べるとして、「決まった報酬がない」とい
うのは事実に反するのです。1787年12月にモーツァルトは
宮廷音楽家の地位を手に入れ、年俸800フローリンを得ている
のです。この額はけっして多くはありませんが、これだけでも節
約すれば十分生活ができたのです。
 まして、モーツァルトには作曲などで別途収入があり、その額
は年俸にして2000フローリンを超えていたと考えられるので
す。これだけあれば、庶民レベルをはるかに超えた生活ができた
はずなのです。
 しかし、3の「お金儲けには疎い」ということについては、確
かにそういうところはあったと思います。コンスタンツェからい
わせると、一方に儲け話があるのに、わけのわからぬフリーメー
ソン活動などに金を注ぎ込むことに不満があったのでしょう。
 そのためかコンスタンツェはモーツァルトの死後、手紙を含め
て、フリーメーソンに関わる一切の資料を破棄してしまっていま
す。もっともこれは、秘密警察の摘発を恐れてやったことかも知
れませんが、少なくともコンスタンツェがこの運動に賛成してい
なかったことは確かなことなのです。
 しかし、4の浪費癖に関しては完全に事実と違う指摘をしてい
ます。むしろ浪費癖があったのは、コンスタンツェの方であると
いえます。それは、コンスタンツェが脚の治療と称してバーデン
に行き、連夜のパーティにふけっていたことで明らかです。前に
も述べましたが、コンスタンツェの病気は大したことはなく、も
しかすると仮病かもしれないという説もあるのです。
 もちろん妻のバーデンでの行状はモーツァルトの耳にも達して
いて、モーツァルトが注意を与えている次のような手紙も残って
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ぼくはきみがバーデンで楽しんでいるのはうれしい――もちろ
 んうれしいが、しかしきみはときどき安っぽく振る舞うけれど
 そういうことはぜひ慎んでもらいたいのだ。きみは××にあま
 りにもなれなれしくしすぎる。別な××とも、彼がまだバーデ
 ンにいたときだが同じだった。きみは以前、あまりにすぐ人の
 言いなりになる傾向があることをぼくに認めたことがあるね。
       ――1789年8月/モーツァルトの妻への手紙
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
−−―――――――――――――――――――――――――――
 手紙の中で「××」となっている部分は削除されており、人物
を特定できませんが、妻のバーデンでの行状にモーツァルトが悩
んでいたことは確かなようです。
 実は、コンスタンツェがバーデンでこのように振舞っていたの
にはわけがあります。それは、上記1のモーツァルトの「数々の
色恋沙汰」の件です。モーツァルトの女性関係についてはいろい
ろな説があるのですが、あったことは事実のようです。したがっ
て、コンスタンツェのバーデンでの行状は彼女の夫に対するあて
つけではないかといわれているのです。
 上記の手紙が出された1789年頃のモーツァルトとコンスタ
ンツェの夫婦仲は、かなり問題があったとする説が多く出てきて
います。これに対してモーツァルトはあれほど多くの手紙をコン
スタンツェに送っており、妻を気遣っているではないかという指
摘もあります。
 確かにコンスタンツェに対する手紙は数多くあり、モーツァル
トの妻に対する愛情を感ずるのは確かですが、これはむしろ気ま
ずくなってしまっている夫婦仲をさらに壊したくないというモー
ツァルトの気持のあらわれであるという見方もあるのです。
 その中に、コンスタンツェとして、どうしても許せない女性が
一人いたはずなのです。それが、コンスタンツェの姉でモーツァ
ルトの初恋の人、アロイジア・ランゲなのです。モーツァルトと
アロイジア・ランゲとの関係については、既出の藤澤修治の次の
論文に詳しいので、ぜひ参照されることをお勧めします。
―――――――――――――――――――――――――――――
  藤澤修治氏論文「モーツァルトの夫婦愛と永遠の恋人」
     http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトには謎がたくさんあります。モーツァルトの音楽
をこよなく愛するファンにとっては、そういうことをあからさま
にされることはけっして愉快なことではないでしょう。
 しかし、そういう事実に目を塞ぐことなく、歴史的背景を含め
てモーツァルトを取り巻く事情を十分掴んだ上で彼の音楽を聴い
た方が、一層モーツァルトの音楽が理解できると思います。まだ
まだ書くことはたくさんありますが、モーツァルトのテーマは、
これで終ります。長い間のご愛読を感謝いたします。
 明日からは「日露戦争」を掲載いたします。乞うご期待。
               ・・・[モーツァルト/70]


≪画像および関連情報≫
 ・藤澤修治氏の論文より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  探ってみれば、コンスタンツェがモーツァルトに対して腹に
  据えかねると思うようなことはいくつもあった。そんなとこ
  ろに自分の姉と夫に不倫があったと彼女は知ったのである。
  これでは、コンスタンツェの髪が逆立って、殺してやりたい
  ほどの感情を彼女が抱いたとしても不思議はない。こういっ
  たことも手伝って、やがて彼女は自分の母親にそそのかされ
  て夫の死に関与してしまうという、取り返しのつかない犯罪
  行為に手を染めたのである。
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

アロイジア・ランゲ.jpg
アロイジア・ランゲ
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