2008年06月18日

●『ハウルの動く城』には原作がある(EJ大1509号)

 本日から掲載する13本の記事は、2005年1月12日から
28日までEJとして公開した映画評論です。最近は、宮崎作品
をテレビでもやるようになっており、DVDなどでも観る機会は
多くなっておりますので、再録することにしました。
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 2004年の暮れに話題のアニメーション映画『ハウルの動く
城』を観ました。『千と千尋の神隠し』に続く最新の宮崎駿監督
作品です。EJで映画をテーマに取り上げることは今まで何回も
ありますが、そのときいつも思うことは次のことです。
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   1.既にこの映画を観た人を対象にして書くのか
   2.まだ映画を未鑑賞の人を対象にして書くのか
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 宮崎駿監督作品には多くの謎が散りばめられています。ですか
ら、それらについてああでもないこうでもないといろいろ論評す
ることができます。しかし、こういう論評が面白いのは、映画を
観た人に限られます。映画を観ていなければ、何のことだか全然
わからないからです。
 それでは、映画を観ていない人に対して上映中の映画について
あまり書くと「ネタバレ」といって、映画の面白さを奪ってしま
う恐れがあります。しかし、宮崎作品については、「ネタバレ」
についてあまり心配しなくてもいいと思います。むしろ作品に関
してある程度知識を持っている方が楽しめると思うからです。
 そこで、しばらく『ハウルの動く城』をテーマに書いてみたい
と思います。この映画を観た人も観ていない人も楽しめる内容に
することを目指し、これからこの映画を観ようと考える人のガイ
ドになればよいと考えています。
 しかし、かくいう私は『ハウルの動く城』を何の予備知識なし
に観たのです。その直後の感想は次の2つです。
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 1.2時間の作品であるのに飽きずに楽しく最後まで観ること
   ができたこと。
 2.『千と千尋の神隠し』に比べ宮崎作品にしては迫力不足の
   感があること。
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 上記の2に関しては理由があります。それは、『千と千尋の神
隠し』はオリジナルであるのに対して、『ハウルの動く城』には
次の原作があるということです。「迫力がない」と考える原因の
一端はそのあたりにある考えられます。
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   ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作/西村醇子訳
   『魔法使いハウルと火の悪魔』
   徳間書店刊
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 この本は現代英国を代表するファンタジー作家ダイアナ・ウィ
ン・ジョーンズが1986年に出版した作品です。英国にはファ
ンタジー文学の長い歴史がありますが、何といっても、ファンタ
ジー文学に熱い注目が集まるようになったのは、J・K・ローリ
ングの『ハリー・ポッターと賢者の石』(1997年)からであ
ると思います。そして、先輩格のダイアナ・ウィン・ジョーンズ
も注目されるようになったのです。
 原作は300ページを超える大作ですが、映画を観たあと、購
入して読んでみたのです。原作がどのような話であるかをごく簡
単にまとめると次のようになります。
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 物語は魔法が実際に存在している国の話。そこに住む強い力を
 持つ魔法使い「荒地の魔女」によって90歳の老婆に変身させ
 られた18歳の帽子職人ソフィーは、子供なのか大人なのかわ
 からない青年魔法使いハウルの動く城に入り込み、勝手にお手
 伝いとして居候をはじめ、その中でハウルを支えながら最後に
 「荒地の魔女」をやっつけるという話である。
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 注意していただきたいのは、これは原作の話であるということ
であり、映画の方は原作のように必ずしもわかりやすくはないと
いうことです。というのは、映画は、前半については原作にほぼ
忠実ですが、後半はかなり違っているからです。
 それにしても宮崎監督は、どういう理由でこの原作を選んだの
でしょうか。これについては、スタジオジブリ・プロデューサー
鈴木敏夫氏が社会思想史の稲葉振一郎氏の対談で次のように述べ
ています。
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  それはもう端的に「動く城」という言葉です。その原題を見
 つけた時に彼は興奮したのですね。彼は児童書を本当に丹念に
 読む人ですが、たとえば、タイトルに「庭」とついている本、
 全部に感動するんです。
  どういうことかといえば、そこに登場する庭というものが自
 分の中で膨らむわけです。どのくらいの広さで、どういう建物
 があって、木々はどんなのが生えていて、今の季節はいつごろ
 である。と、その庭が読んでいくうちに完成して、素晴らしい
 話になっていくわけです。         ――鈴木敏夫氏
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 つまり、宮崎氏は原作を読んでいくうちにいろいろなイメージ
が頭の中に自分のイメージとして膨らんできて、作品の骨格がで
きてしまうのです。したがって「動く城」の一語で、半分くらい
はできてしまうのです。
 そして、残りの半分は18歳のソフィーが90歳の老婆にされ
てしまうという部分を描くことになります。宮崎監督作品には必
ず少女が登場しますが、『ハウルの動く城』では90歳の老婆が
最初から最後まで登場する――宮崎監督にとっては、原作のこの
2つだけあれば、十分それで作品ができてしまうのです。ですか
ら結果として、原作とは内容的に大きく違ってくることはあり得
る話なのです。
 しかし、宮崎監督は、90歳の老婆が終始画面に登場すること
には相当頭を痛めたようです。そこで、映画では、宮崎流のテク
ニックでこれを見事に克服しているのです。
               −− [ハウルの動く城/01]


≪画像および関連情報≫
 ・原作者/ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
  1934年イギリス生まれ。オックスフォード大学セントア
  ンズ校ではトールキンに師事。大学卒業と同時に結婚。3人
  の子供に読み聞かせをするうちに、自分でもファンタジーを
  を書き始める。英国では「現代の英国児童文学界で最も独創
  性と意外性に富んだ作家」として評価が高い。

『ハウルの動く城』の原作.jpg
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2008年06月19日

●話の方向性がない『ハウルの動く城』(EJ第1510号)

 映画『ハウルの動く城』を観て感ずるのは、話が発展していか
ないということです。つまり、この映画はどこに向かって話が進
んでいくのかよくわからないのです。
 スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏と映画監督石井克
人氏との対談で次のようなやりとりがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鈴木:この映画は1時間観ていてもまだ話が始まらない。1時
    間半観ていても、まだ始まらない(笑い)。
 石井:「話が始まる話」みたいなものですよね。
 鈴木:だからさすがに、宮崎本人も「困ったな」って。「鈴木
    さん、どうやって進めたらいいんだろう」っていうんで
    すから(笑い)。
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 話が進まないように感ずるのは、荒地の魔女によって、90歳
の老婆にされてしまったソフィーの魔法を解く方向に話が進んで
いかないからです。この点『千と千尋の神隠し』では、湯婆婆に
よって豚に変えられてしまった両親を元のに人間に戻すという目
的があって、話がそれに向かって進んでいて、さすがにそれは最
後に達成されています。
 しかし、湯婆婆によって多くの豚の中でどれが両親か当てよと
いわれて千尋はそれを見事にクリアするのですが、彼女になぜそ
れができたのかは明らかにされていないのです。宮崎作品ではそ
ういうことは少なくないのですが、『ハウルの動く城』ではとく
にそうことが多いように感じます。
 『ハウルの動く城』では、90歳の老婆にされたソフィーにか
かった魔法が解けたのかどうかがはっきりしないのです。しかし
ソフィーはいつも老婆の顔ではなく、寝ているときは元の18歳
に戻りますし、そのときどきの状況において、元の顔に戻ったり
顔は老婆でも姿勢が伸びてシャンとしたりするのです。つまり、
年齢が行き来するわけです。
 これに関して宮崎監督は次のようにいっています。
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  63歳になったとき自分にもそういう経験があるけれども、
 人と話をしていて、自分が20代の若者になっている時もある
 し、少年になっている時もある。そうかと思えば、自分がまだ
 達していない80歳のおじいちゃんになっている時もあって、
 それを絵にしたに過ぎない。        ――宮崎駿監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、映画『ハウルの動く城』の時代背景について述べておく
ことにします。
 物語の舞台となる王国は「インガリー」――首都は「キングズ
ベリー」といったのです。この王国にはごく普通に魔法が存在し
それ自体が異界だったのです。魔法使いもたくさんいたのです。
蒸気機関は既に存在していたものの、電気はまだなく、発展途上
の国で、周辺諸国と戦いが盛んでした。国には愛国主義者があふ
れている――映画の舞台はそんな王国だったのです。
 そういう魔法が存在する国で長女に生まれるのは、非常につい
ていないことだったのです。もし、兄弟で運試しに出れば長男や
長女は真っ先に失敗する――そういういい伝えが存在したからな
のです。
 そういう国にソフィー・ハッターは三人姉妹の長女に生まれた
のです。両親は比較的裕福で、女性向けの帽子専門店を営んでい
たのです。しかし、三人姉妹が幼いときに母親が死に、父親は若
くて美人のファーニーという店員と再婚――やがてその父親も死
んで、結局、帽子店は長女のソフィーにまかされることになった
のです。ソフィー18歳のときのことです。
 その頃、巷では荒地の魔女の噂がさかんに聞かれるようになり
ます。それに町の丘陵地帯に背の高い奇怪な形をした城があらわ
れ、あちらこちらに移動するようになったのです。城には4本の
足があり、どこへでも移動できたのです。
 人々はその城も荒地の魔女の一味であり、一緒になって国に攻
めてくると恐れたのですが、その城は丘陵地帯をうろつくだけで
けっして町には下りてこなかったのです。そして、その城の持主
は、魔法使いハウルだとわかります。ハウルは若い女性の心臓を
食べるといわれており、非常に恐れられていたのです。
 映画『ハウルの動く城』は、こういう舞台から始まることにな
るのです。実は、原作者のダイアナ・ジョーンズは1934年に
ロンドンで、ソフィーと同様三人姉妹の長女に生まれたのです。
そういうわけで、ジョーンズは自分を擬して小説の主人公を決め
たものと思われます。
 映画『ハウルの動く城』と原作とでは舞台背景は同じですが、
敵となる魔女の設定に大きな違いがあります。映画では、キング
ズベリー王国では、王室付きの魔女であるサリマンが一番強力な
魔女であり、戦争などはすべてこのサリマンが起こしていたので
す。そして、荒地の魔女はサリマンによって魔力を奪われ、ハウ
ルの城の居候の一人になってしまうという設定です。
 これに対して原作では、一番強力な魔女は荒地の魔女であり、
王様はサリマンに命じて荒地の魔女を退治させようとしたのです
が、返り討ちにあって逆に殺されてしまっています。したがって
原作では荒地の魔女退治が目標となるのです。
 もうひとつ城は映画では4本の足があり、歩き回るのですが、
これは宮崎流なのです。原作の城には足がなく、空中を浮遊して
移動しているのです。したがって、原作があるといっても、その
内容はかなり大幅に変えられているのです。このため映画の意味
がわからなくて原作を読んでも、かえってわからなくなることが
多いのです。
 映画における最初の謎は、なぜ、ソフィーが荒地の魔女に魔法
をかけられ、90歳の老婆にされてしまうのかということです。
最初の時点でその意味がよくわからないまま映画は進行するので
方向性がなくなってしまうのです。
               −− [ハウルの動く城/02]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『ハウルの動く城』のコピー

   ヒロインは90歳の少女。
   恋人は弱虫の魔法使い。

   ふたりが暮らしたハウルの動く城。
   このばあさんがかなり元気!
  
   宮崎駿が描く
   生きる楽しさ愛する歓び。

   全世界注目の感動超大作。

ハウルの動く城.jpg

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2008年06月20日

●宮崎駿における制約的魔法の世界(EJ第1511号)

 宮崎監督が描く世界の多くには、われわれが住む人間世界と異
世界が登場します。『千と千尋の神隠し』では人間界と異界の境
はあのトンネルであり、そういう具体的な境が存在したことが話
を分かりやすくしていたと思います。
 しかし、『ハウルの動く城』では、その境ははっきりせず、人
間界と異界が一体化しているのです。人々が生活する普通の町が
あり、その町から見晴らせる丘陵地帯には異様な形をしたハウル
の城が闊歩している――そして、町にはときどき人間の形をした
荒地の魔女が姿を現すといった具合です。原作者による「魔法が
本当に存在する国インガリー」という表現はそれを意味している
のです。
 これが、あのハリー・ポッターの世界であれば、人々は初めか
らそこが異界であることを認識しているのでかえって分かりやす
いのですが、混然一体となっていると「ついて行けない」人も出
てくる可能性があります。
 ここで宮崎監督の魔法観といったものについて述べておきたい
と思います。宮崎作品はいずれもファンタジーあふれるものであ
り、そこでは人間界では絶対にできないことが簡単に実行されて
しまうことが少なくありません。
 しかし、それはディズニーやハリー・ポッターのそれとはまっ
たく異なるのです。宮崎アニメにおける魔法では、カボチャを馬
車に変えたりはしないし、コンクリートの壁をスルリとくぐり抜
けることはないのです。宮崎アニメの魔法には多くの制約がかけ
られており、せいぜい空を飛ぶことができるぐらいです。
 そして、宮崎監督自身は「魔法のダメさ加減」を随所で強調し
ているのです。映画『ハウルの動く城』において、ハウルが魔法
使いサリマンに対して次のようにいうセリフがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに、魔法のおかげでこの王宮には爆弾は当たらない。その
 かわり、まわりの町に落ちるのだ。魔法とはしょせんその程度
 のものだ。        −−映画『ハウルの動く城』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画批評家である南波克行氏は、宮崎駿の描く魔法について次
のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『魔女の宅急便』で修行中のキキがやることといえば、ホウ
 キで空を飛んで、荷物運びをする程度。キキの能力は、空を飛
 ぶだけなので、それ以外のピンチは生身の力で解決しなければ
 ならない。
  飛行機から落下しようとする、親友トンボのピンチに魔法の
 杖で対処できるわけではなく、結局はホウキにまたがり、「愛
 と勇気」の力で救出しなければならないものだ。
                      ――南波克行氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かかる制約の中で、なぜ、空だけは飛べるのでしょうか。
 それは宮崎監督自身が空を飛んでみたいと思っているからでは
ないでしょうか。とにかく宮崎アニメには空を飛ぶシーンが多い
のです。
 『千と千尋の神隠し』におけるハクと千尋の空中飛行、そして
今回の『ハウルの動く城』におけるハウルとソフィーの飛行シー
ン――いずれも印象に残るシーンです。宮崎作品の飛行シーンに
はスタジオジフリの高度な技術が使われており、いずれも美しく
描かれているからです。
 この飛行シーンについて、前出の南波克行氏は次のようにいっ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ソフィーを救出したハウルは、そのまま追っ手から逃げる。
 流れるような疾駆の後、逃れる先はもちろん空だ。その時、ソ
 フィーの手をとってふうわりと宙に浮くその空気感。息をのみ
 ながらも、失われた重力を全身で受け止めて、浮遊感たっぷり
 に身体を丸めるソフィーの姿。いつもながら、宮崎動画の技が
 冴えわたる。               ――南波克行氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は、このハウルとソフィーの空中逃避→空中散歩のシーンの
直前のシーンにも何気ない魔法が展開されているのです。映画の
冒頭に、ソフィーは町で兵士に執拗にからまれて困っているシー
ンがあります。
 そこに背後からハウルが現れて、ソフィーを後ろからそっと抱
きかかえて、兵士たちを魔法を使ってあらぬ方向に散歩に行かせ
ます。そのとたん、道の周りの壁から追っ手の化け物が続々とし
み出してくるのです。それから逃れるため、ハウルはソフィーの
手を取って空中散歩にいざなうのです。
 魔法がごく自然に展開・応酬されているのですが、それが流れ
るように進行しています。「魔法が自然に存在する世界」という
設定が守られているのです。
 もうひとつソフィーがハウルに助けられた日の夜、高価な衣装
に身を包んだ貴婦人がソフィーの帽子店を訪ねてきます。その貴
婦人は実は荒地の魔女であり、ソフィーは彼女の操る魔法によっ
て、その場でごく簡単に90歳の老婆に姿を変えられてしまうの
です。それはごく自然に行われており、いつ変えられたのか、当
のソフィーも気が付かなかったほどなのです。
 これに比べると『千と千尋の神隠し』における湯婆婆の魔法の
表現は過剰に眩惑的であって、いかにもこれから魔法を使うぞと
いう演出があったのです。したがってこれは、いわば魔法の技術
革新といえると思うのです。
 魔法といえば、火の悪魔カルシファーのことに触れないわけに
はいかないでしょう。カルシファーはハウルと契約を結んでおり
城の動力源を担っているのです。カルシファーはその契約に縛ら
れており、城の住人になったソフィーに働きかけて、契約をホゴ
にしようとしているのです。  −− [ハウルの動く城/03]

≪画像および関連情報≫
 ・ハウル・ジェンキンズ
  動く城の主。ペンドラゴンという名前をいつも使っている魔
  法使い。強力な力を持ちながら、王宮からの要請に応じず、
  毎日を無為に過ごしている青年。かつてキングズベリーの王
  室にいたことがあるらしい。

ハウルとソフィー.jpg
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2008年06月23日

●なぜ、ソフィーは90歳の老婆にされたのか(EJ第1512号)

 映画『ハウルの動く城』における魔法の話を続けます。映画の
冒頭で、ソフィーの帽子店を訪ねてきた荒地の魔女は、ソフィー
に魔法をかけて、彼女を90歳の老婆に変えてしまいます。それ
もさりげない方法であっさりとやってしまうのです。
 しかし、なぜ、ソフィーがそうされなければならないのか――
これがいまひとつはっきりしないのです。映画ではそれについて
ちゃんとした説明がないからです。
 映画の冒頭において、町で兵士に囲まれて困っていたソフィー
をハウルが助けるシーンがあります。その直後、得体の知れない
化け物が周囲の壁からしみ出してきて、ハウルに次々と襲いかか
ります。そこで、ハウルはソフィーの肩を抱いて空中に舞い上が
り、追っ手から逃れるのです。そのとき、ハウルはソフィーにこ
うささやくのです。「巻き込んでしまったようだね」と。
 この追っ手は荒地の魔女の手下なのです。ハウルと荒地の魔女
とは魔法使い同士で張り合っていて仲が良くない。そういうわけ
で、ソフィーはハウルの一味であるということで、荒地の魔女は
ソフィーの帽子店に押しかけ、彼女を90歳の老婆にしてしまう
――これが観客の一般的な解釈です。しかし、それにしてもあま
りにも過剰反応だと思いませんか。なぜなら、ソフィーはその日
ハウルにはじめて会っただけで、ハウルの一味なんかではないか
らです。そのことを荒地の魔女が知らないはずはないのです。
 何か別な理由があるに違いない――私はそう考えて原作をてい
ねいに読んでみたのです。ソフィーが90歳の老婆に変えられる
シーンは、原作ではどう書かれているでしょうか。
 その夜、ソフィーの店に馬車で乗りつけた荒地の魔女は、帽子
を吟味します。荒地の魔女は、ソフィーが差し出す帽子にいちい
ち難癖をつけます。ソフィーは最後にこれしかないとしゃれた白
黒の帽子を彼女に差し出します。なお、「ハッター」というのは
ソフィーの苗字です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  客は軽蔑もあらわにその帽子を見やりました。「誰にもなん
 の効き目もないじゃない。時間を無駄にしてくれるわね。ハッ
 ターさん」
  「そもそも、うちの店で帽子が見たいとおっしゃるからです
 よ」ソフィーは答えました。「奥様、うちはしがない帽子屋で
 す。なぜ、あなたみたいな方がわざわざうちへおいでになった
 のでしょう」――一部略
  「荒地の魔女にはりあおうとする者がいたら、ほっておかな
 いのがわたしの方針」と客が答えました。「おまえのことは聞
 きました。お前がはりあおうとしても、つべこべへりくつ言っ
 ても、あたしは平気。やめさせてやる、ほら」客はソフィーの
 顔に向けて手をぱっと動かした。
  「あなたが荒地の魔女ですって?」ソフィーは震え声でたず
 ねました。恐怖と驚きで声がへんになった気がします。
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 恐怖と驚きで声がへんになったのではないのです。そのとき、
ソフィーは90歳の老婆に変えられてしまっていたのです。
 ここで留意すべきは、「荒地の魔女にはりあおうとする者がい
たら、ほっておかないのがわたしの方針」と魔女がいっている点
です。つまり、ソフィーは荒地の魔女の気に入らないことをやっ
てしまったのです。本人は気づいていないのですが・・・。
 既に述べたように、ハウルやソフィーの住む異世界では、魔法
が本当に存在する国という設定です。魔法使いたちは魔法使いに
なるための特別訓練を受けた認定済みの身分なのです。ですから
ソフィーが魔法を使ったとしても不思議はないのです。
 実はソフィーの作る帽子には不思議な魔力があって、その帽子
をかぶると生命力が活発になって元気になるのです。これが荒地
の魔女にとっては気に入らないこと――つまり、自分とはりあっ
ていると感じたのです。ただ、ソフィーはそのことに気づいてい
ないのですが・・・。
 原作では、90歳のソフィーがハウルの母親と偽ってペンステ
モン夫人と会うシーンがあります。ペンステモン夫人は引退した
魔女の先生です。彼女は、サリマンやハウルに魔法を教えた先生
なのです。そこで、こんなやりとりがあるのです。なお、ペンド
ラゴンというのはハウルの仮名であり、ソフィーはハウルの母親
に成りすましているので、そう呼ばれるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杖にのせたペンステモン夫人の両手が少しゆらぎました。「そ
 れです。「ペンドラゴンさん、あなたが契約を破らなければ」
 「やり方さえわかれば、いたしますが」
 「あなたの母親としての愛情と、強い魔力をもってすれば、や
 り方はおわかりになるはずです。お気づきではなかったでしょ
 うが」
 「いいえ、気づいていました」
 「・・・私はあなたの魔力が好きですわ」夫人は続けます。
 「物に命を吹き込む力ですね。ほら、その杖もあなたに話しか
 けられたおかげで、世間で言う魔法の杖になっていますもの。
 あなたなら、契約を破るのだって難しくはないはずです」
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシーンは映画では、魔法使いの王サリマンとハウルの母親
に成りすましたソフィーとの接見のシーンになっています。しか
し、そこでの話は、たびたび戦争に参加するよう要請されている
ハウルの代理人として戦争などやめて欲しいと訴えるシーンに変
わっています。なお、このペンステモン夫人の話に出てくる「契
約」とは、ハウルとカルシファーとの間の契約の話です。
 このハウルとカルシファーの契約については、理解しておくと
映画の見方が変わりますので、明日のEJはこれについて述べる
ことにします。このところEJは異世界にいます。
               −− [ハウルの動く城/04]


≪画像および関連情報≫
 ・原作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズがイメージした「動
  く城」には足がない。イラストを参照。

足のない動く城.jpg
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2008年06月24日

●ハウルとカルシファーの契約の中身とは(EJ第1513号)

 荒地の魔女によって90歳の老婆に変身させられたソフィーは
自分の家である帽子店にはいられなくなります。荒地の魔女のい
う「(帽子を作るのを)やめさせてやる」は現実のものになった
のです。
 それからもうひとつ魔女は立ち去るときかに次のようなことも
いっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   そうそう、その呪いのことは誰にも話せないからね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ソフィーは「荒地の魔女によって老婆にされてしまっ
た」ことを誰かにいおうとすると口が開かないし、書いて伝えよ
うとすると今度は手が動かなくなるのです。しかし、相手がそれ
を見破ってくれれば、話は別なのです。
 ソフィーが自分の身の寄せ場所をハウルの城に決めたのは、ハ
ウルほどの魔法使いであれば、きっと自分の呪いを見破ってくれ
ると確信したからなのです。
 そういうわけでソフィーはかなり強引にハウルの城に入り込む
ことに成功します。幸いそのときハウルは外出していて留守だっ
たので、帰ってくるまで待たせてもらうという口実で入り込んだ
のです。そして、ソフィーは長いすに座り込んで、やがて眠って
しまいます。
 真夜中に目を覚ましたソフィーは、暖炉で燃えている火が人の
顔のように見えるのに気がつくのです。すると、いきなり炎が話
しかけてきたのです。「心臓を食われるのはいやかい?」と。
 そのあとの部分を原作から引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「あったり前じゃないの」とソフィーは答えました。「とこ
 ろであんた、誰なの?」
  「火の悪魔だよ」紫の口が答え、はぜる音よりすすりなくよ
 うなシュウシュウという音に近い声になって言いました。「契
 約で、ここの暖炉にしばりつけられているのさ。ここから動け
 ないんだ」。それからパチパチと力強い声になって、たずねま
 した。「あんたは、何者だい?何かの呪いをかけられているの
 はわかるんだけど」
  それを聞いてソフィーは夢心地からさめ大声で叫びました。
 「わかるんだ!あんた、この呪い、解くことができるの?」
  悪魔のゆらゆらした青い顔の中のオレンジ色の目がソフィー
 を見つめているあいだ、炎が音もなく燃えていました。「強い
 呪いだね」。とうとう悪魔が口を開きました。「荒地の魔女の
 呪いみたいだけど」。
 「そのとおり」と、ソフィー。「だけど、複雑な呪いだよ」。
 悪魔はパチパチといいました。「二重の呪いだね。それに、相
 手が先に見破ってくれないかぎり、自分からは誰にも話せない
 という呪いも、かかっている」。悪魔は、ほんの一瞬、ソフィ
 ーをじっと見つめました。「もっと研究しないと」
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この火の悪魔はカルシファーというのですが、彼のいう「二重
の呪い」とは、次の2つの呪いを指していると思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の呪い:寿命を60年ほど縮めて18歳の少女を90歳の
       老婆にしてしまう呪い
 第2の呪い:相手が先に見破ってくれないかぎり、自分からは
       一切話ができない呪い
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 火の悪魔カルシファーは、ソフィーに対して次のように提案す
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  おいらと取引するってのはどうだい?おいらをしばっている
 契約をほごにしてくれたら、こっちもあんたの呪いを解いてや
 るよ。                 ――カルシファー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対してソフィーは簡単にイエスとはいえないのです。悪
魔と取引するのは危険であり、うっかり話に乗れないと考えたか
らです。しかし、慎重なソフィーに対し、カルシファーは「寿命
は60年ほど縮められているので、そのままでいるとじきに死ん
でしまうぜ」といって脅しをかけたのです。
 「じきに死ぬ」といわれてソフィーは、自分がハウルとカルシ
ファーの契約を解消させることができるかどうか考えてみること
にしたのです。
 そこで、ソフィーはカルシファーに「どんな契約をしたのか」
と聞いたのです。すうすると、ソフィーが自分の呪いを話せない
ように、自分もハウルも契約の中身のことはしゃべれないという
のです。しかし、ソフィーがこの城にいて、われわれを観察して
いれば自然にわかるといいます。
 ソフィーにしてみれば、城に留まる格好の口実ができたことに
なるので心が動きます。そして、ソフィーが城に残ることをカル
シファーが協力してハウルを説得することを条件として、彼の話
に乗ることにしたのです。
 ところで、ハウルとカルシファーの契約の中身とは本当はどの
ようなものだったのでしょうか。
 カルシファーはもともと流れ星で、5年前にハウルに追い回さ
れたとき、ハウルから「人間みたいに生き延びさせてやろうか」
と話を持ちかけられたのです。
 それを受けてカルシファーの方が自分と契約を結ぶよう頼んで
しまったというのです。その結果、カルシファーは火の悪魔とし
て城に縛りつけられ、ハウルはその心臓をカルシファーに預ける
ことになったのです。したがって、この契約ではハウルとカルシ
ファーのどちらかが倒れると両方とも滅んでしまうことになるの
です。これが原作から読み取れる契約の中身です。
               −− [ハウルの動く城/05]


≪画像および関連情報≫
 ・カルシファーは、動く城の暖炉に縛りつけられ、動力源とし
  て働かされている。ハウルとの契約を解いて、自由になりた
  がっているが、一方でハウルとは古くから友人のような親密
  な関係も築いている。ただし、過去のハウルを知る人物は、
  その関係を「悪魔に心を奪われ、魔法を自分のためにだけ使
  うようになった。心をなくしたのに力がありすぎる」と評し
  ている。

カルシファーとソフィー.jpg
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2008年06月25日

●二重の呪いをめぐる新解釈(EJ第1514号)

 ファンタジー評論家の小谷真理氏は、ソフィーにかかったに二
重の呪いについて面白い解釈をされています。今朝は小谷説を中
心にお話しします。
 ソフィーの作る帽子は非常によく売れたのです。そのため、ソ
フィーは徹夜で帽子を作り続けたのです。そういうソフィーを描
写する原作の部分をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  その晩、帽子を作りながらソフィーは、毎日がつまらない、
 とはっきり思いました。そこで帽子に話しかけるかわりに、仕
 上げた帽子をかぶっては鏡をのぞいてみることにしました。で
 も、これはうまくいきませんでした。地味な灰色の服はソフィ
 ーには似合いません。根をつめすぎて、目のふちが真っ赤にな
 ればなおさらです。それに髪の毛が赤いので、青緑もピンクも
 似合わないのです。うす茶のプリーツはソフィーをさらに陰気
 に見せただけです。「まるでオールドミスみたい」と、思わず
 つぶやいていました。
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このソフィーの描写によると、ソフィーは若いのに老婆――ま
さか90歳は年の取り過ぎですが――そっくりの地味な生活をし
ていたといえます。
 荒地の魔女は、ソフィーの心象に合わせてその姿かたちを老婆
に変えたのです。世間一般の評価では、若さは善であり、年をと
ることは悪なのです。したがって、その心象はどうであれ、若い
人を年寄りに変えることは「呪い」ということになるのです。し
かし、老婆には老婆のよさというものがあるはずです。
 確かに老婆に変えられたあとのソフィーは、決然と帽子作りの
仕事を捨てて、恐ろしい魔法使いであるハウルの動く城に出かけ
ていきます。本当に人が変わったみたいです。このあたりのこと
を小谷真理氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ソフィーは老婆になるやいなや、突然別人かと思うほど行動
 的になる。しかも堂々として自信のある態度になる。若い娘の
 ままだったら、ぜったいに素で近づかないであろう若く美しい
 男性魔法使いのもとに居着いて、奉公と称してちゃっかり彼と
 暮らす。なんという大胆不敵な行動なのであろうか。
             ――ファンタジー評論家小谷真理氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように考えると、ソフィーにとっては、若い娘の身体の方
がいろいろな意味で彼女を縛っていたといえます。ある意味にお
いてこれは呪いであるといえます。そのソフィーを解き放ったの
は、皮肉にも彼女を90歳の老婆に変えた荒地の魔女だったので
す。身体の方は90歳の老婆になったのですが、心象はむしろ解
放され、若返ったのです。小谷氏は「二重の呪い」とはこのこと
を指しているというのです。
 小谷氏の考え方は少しうがち過ぎの観がありますが、面白い考
え方であると思います。おそらく宮崎監督もそれに近い解釈をし
ていたのではないかと思います。そのため、老婆になって、ハウ
ルの城に居着いたソフィーは、そのときどきの心象によって若く
なったり、年寄りになったりするのではないかと考えられるので
す。そういう現象は原作には一切なく、宮崎監督のオリジナルで
あるからです。
 映画の中でソフィーが若くなったり、年をとったりするについ
ては、次の3つの説があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.荒地の魔女のかけた呪いにムラがあり、完全にかかってい
   なかったという説
 2.荒地の魔女のかけた呪いは、ハウルが城に戻った時点で解
   いていたという説
 3.ソフィー自身が無意識のうちにほとんど解いていたが、ム
   ラがあっという説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どの説にも難点がありますが、第2の説にはナットクすべき点
があります。ソフィーは城でハウルに会ってから城の中の掃除を
はじめるのですが、その時点からソフィーは妙に元気になり、若
くなったり、戻ったりするようになったからです。
 これはハウルがソフィーにかかった魔法を解いていたからなの
ですが、ソフィー自身が自分の姿は老婆がふさわしいと思い込ん
でいたので、老婆の姿であったというものです。
 原作では、ソフィーはつねに老婆のままなのですが、原作の終
わりの方に、ソフィーにかかった魔法についてのハウルの見解と
みられる記述が出てくるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・この商売をしているぼくに、そんなこともわからないって。
  強力な魔法を見たら、気づくに決まってるだろうが。あんた
  が気づかないうちに、何度か呪いを解こうとしてみたんだ。
  しかし、どうしてもうまくいかない。そこでぼくとしては、
  あんたが好きで変装していると思うしかなかった。だって、
  そうだろう。あんた、自分の力を使ってんだよ。
 ・ソフィー、ぼくもできるかぎりのことはしたんだよ。気づい
  ていたかい?最近、あんたの節々も痛まなくなっていただろ
  う?それとも痛いほうが楽しかったとか?
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 前にも述べたように、ソフィーは自分では気づいていないので
すが、かなり強力な魔法を使えるのです。ハウルもカルシファー
も、それに荒地の魔女も、みんなそれを認めているのです。
 老婆になったソフィーの顔をよく見ていただきたいのです。わ
れわれが「魔法使い」という言葉からイメージする顔とそっくり
だと思いませんか。      −− [ハウルの動く城/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ソフィーの住むインガリーでは、魔法は科学技術とごく自然
  に同居していた。出帆前の船乗りが魔法使いに頼んで、いい
  風を呼ぶ薬を調合してもらうという光景などは、ごく日常的
  なものだったのである。

ソフィーの五変化.jpg
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2008年06月26日

●『千と千尋の神隠し』との類似点(EJ第1515号)

 映画「ハウルの動く城」は、宮崎駿監督の前作『千と千尋の神
隠し』と基本的なところで大変よく似ています。今朝は、この問
題について述べましょう。
 「ハウルの動く城」には原作があり、『千と千尋の神隠し』は
オリジナルなのですが、実は『千と千尋の神隠し』にも原作に近
い映画があるのです。いや、原作というよりもヒントというべき
かも知れません。その映画の名前は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   映画『ピクニック・アット・ハンギングロック』
   ピーター・ウィアー監督
   1975年/オーストラリア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この映画はアニメではなく、普通のサスペンス・ドラマになっ
ています。これは1900年にオーストラリアで実際に起きた神
隠し事件を基にして映画化されています。
 映画の筋をまとめると、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  時代は1900年、オーストラリアの全寮制女学校の教師と
 生徒が、野外研修に、ハンギングロック(エアーズロックの小
 型なもの)へ出かける。そこで3人の女学生と教師一人が行方
 不明になる。
  懸命の捜索にも関わらず、行方はようとして知れない。その
 後、女学生一名が奇跡的に生還するも、記憶を失っており、事
 実関係は依然として不明のまま。校長と行方不明になった女学
 生の友人の不慮死と謎は重なり、ここで唐突に映画は終わる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そんなこといったって失踪事件なんか別に珍しくないし、宮崎
監督が本当にこの映画を観て参考にしたかどうかわからないでは
ないかといわれるかも知れません。しかし、宮崎監督は間違いな
く、この映画を観ていると思われます。
 その証拠は、この映画の重要な役柄である女校長の風貌にある
のです。この女校長は明らかに湯婆婆のモデルであると考えられ
るからです。髪型はたまねぎスタイル、ヴィトリア調の衣装、執
務室のふんい気といい、そっくりなのです。
 この映画では、ハンギング・ロックという岩山で教師と女子学
生がどうして神隠しにあったのかについての謎解きに何も迫って
いないし、そこに興味を持ってこの映画を観た人はかなり不満を
持つはずです。
 宮崎監督も同じように考えたのでしょう。そこでこの映画では
描くことができなかった異界を『千と千尋の神隠し』の中に作り
出そうとしたのではないでしょうか。
 しかし、この映画では卓抜した映像美が見られるのです。普通
こういった映画であれば、いかにも不吉を連想させる絵柄でハン
ギングロックを撮るところを、ウィアー監督はただただ、そこに
ある自然の造形美を写しているのです。謎解きをしていないから
といって、この映画の価値が下がるというわけでないのです。
 さて、『ハウルの動く城』と『千と千尋の神隠し』は、どこが
基本的に似ているのでしょうか。
 第1に上げられるのは、どちらも「火」というものが原動力に
なっている点です。
 『千と千尋の神隠し』の舞台は異界の「油屋」ですが、油屋は
神々の湯治場であり、お風呂屋さんです。お風呂屋さんには、強
力なボイラーが必要であり、まさに火が油屋の原動力であるとい
えます。そして、そのボイラーを担当していたのは、「釜爺」と
いわれる蜘蛛男です。
 これに対して『ハウルの動く城』も城を動かしている原動力は
やはり火なのです。これは火の悪魔カルシファーが担当している
のです。釜爺は「風呂釜にこきつかわれとるジジイである」と自
称し、カルシファーは「ハウルとの契約によって暖炉に縛りつけ
られている」といっています。とてもよく似ています。
 それでいて、この釜爺とカルシファーは、それぞれの映画のヒ
ロイン――『千と千尋の神隠し』の千、『ハウルの動く城』のソ
フィーに対してとても協力的です。
 第2に上げられるのは、「働かざる者、生きるべからず」とい
うことの徹底です。
 千尋は無気力な現代少女です。そういう少女でも自らが抜き差
しならない状況に遭遇すると、油屋の主人である湯婆婆に対して
「働かせてください」と申し出て採用されるのです。
 これに対してソフィーは、無気力な現代少女ではありませんが
自分の姿が老婆に変えられてもひるまず、ハウルの城に乗り込み
掃除婦として働きはじめます。千は働きながら両親を救おうとし
ソフィーも城の掃除をしながら自分の魔法を解こうと努力するの
です。そこには、宮崎流の「働かざる者、生きるべからず」が徹
底されているのです。
 第3に上げられるのは、ヒロインの相手の青年が存在し、よく
似ていることです。
 宮崎アニメの主人公は少女と決まっています。そのヒロインの
相手役はいずれもハンサムな青年です。すなわち、『千と千尋の
神隠し』千に対してはハク、『ハウルの動く城』のソフィーに対
してはハウルが対応します。
 面白いのは、それぞれのカップルはいずれも映画の中で相当長
い空中飛行シーンがあることです。ともに映画の大きな見せ場に
なっていることです。そして、飛行シーンではハクは龍、ハウル
は鳥人になります。
 これらのヒロインの相手をする男性は、ともに魔女につけねら
われます。魔女の契約印を盗んだハクは、銭婆が放つ無数の紙の
形代に襲撃され、ハウルは王室付きの魔法使いサリマンから影の
ごとき化け物を大量に送り込まれるのです。
 2つの映画の類似点は、まだまだあります。これについては明
日のEJで取り上げます。   −− [ハウルの動く城/07]


≪画像および関連情報≫
 ・『ピクニック・アット・ハンギングロック』のある批評
 ・ピーター・ウェアーの初期作品『ピクニック・アット・ハン
  ギングロック』は、しっとりした色調の映像でできているが
  この作品には、これが作られた1970年代に大多数のオー
  ストラリア人がいだいていただろう社会意識が――物語は、
  1900年に設定されているにもかかわらず――いたるとこ
  ろにみなぎっているのである。
   女学校の校長、教師、そして生徒たちはみんな英国人でで
  あり、そこで働く馬丁、給仕、女中たちは、現地人。この階
  級差は、映画のなかで言葉やものごしのちがいとしてはっき
  りと表わされている。着飾っている人々のあいだには英国人
  しかいないというのは、異常なくらいであり、オーストラリ
  アなまりの英語をしゃべる男女は下層階級に属す。当時オー
  ストラリアは英国の属国であり、校長室には  ヴィクトリ
  ア女王の肖像がかかっている。

ピクニック・アット・ハンギングロック.jpg
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2008年06月27日

●状況に合わせて姿が変わるハウル(EJ第1516号)

 ソフィーが自らの心象の変化に合わせて若くなったり年をとっ
たりするように、ハウルもそのときどきの状況に合わせて髪の色
や姿かたちが変貌します。
ごく普通に映画を観ると、自らの魔法によってそうしているよ
うに見えますが、私はそうではないと考えています。そうでなけ
れば、赤髪になってしまったとき、あんなに落ち込んで嘆き悲し
むはずはないからです。つまり、ハウルのとる行動によって髪の
色や姿が自然に変貌するのです。
 ハウルのもともとの髪の色は美しい金髪です。ハウルが優越感
にひたっているときや得意絶頂のとき、ぐうたらして何もせず、
無責任でいるとき――そういうときハウルは、最も美しい姿でい
られるのです。
 これに対して誰かと争うときや、戦場に偵察に行き、攻撃を加
えるとき、ハウルの髪の毛は黒く染まり、黒い羽毛で全身が覆わ
れて醜い姿に変わるのです。
 これは宮崎監督の戦争観を反映していると思います。どのよう
な理由であれ、誰かを攻撃するということは、それを行うのはも
ちろんのこと、それを止めようとするときでさえ醜いことである
と宮崎監督は考えているのです。宮崎監督にとって戦争はあくま
で否定の対象なのです。
 さて、『ハウルの動く城』と『千と千尋の神隠し』の大きな共
通点をもうひとつ指摘しておきたいと思います。その共通点とは
「ヘドロ」です。2つの映画にはヘドロが登場するのです。
 『ハウルの動く城』においては、ソフィーが汚い城の中をどん
どん片付けたためにハウルの魔法が効かなくなり、自慢の金髪は
黒から赤に変わってしまったのです。そのことでハウルが落ち込
むと、大量の緑のヘドロを出すのです。これは原作にもあるので
原作からその部分を引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  室内ではハウルがまだ椅子に座っています。すっかり絶望し
 た様子です。そしてハウルの体全体が、緑色のねばねばした物
 でおおわれていたのです。
  緑のへどろのてんこ盛りです。ものすごく、恐ろしく、すさ
 まじい量でした。ねばねばしたかたまりが頭や体からたれさが
 り、ひざや腕の上に山をなし、どろっとした液体が足を伝い、
 椅子からも粘っこく下へ流れ落ちていました。床のいたるとこ
 ろにじくじくした池と四方に伸びていく水たまりがあります。
 ひどい臭いです。水たまりのひとつが暖炉へと触手を伸ばして
 いました。   ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは、『千と千尋の神隠し』のヘドロとは何でしょうか。
 それはクサレ神です。それは、しのつく雨のシーンです。後か
ら後から湧き出してくるヘドロをまとってクサレ神はのそのそ歩
いていました。そして、カエル男たちの制止を振り切って、油屋
に入ってきます。ヘドロがボトボト落ちて、床のいたるところに
じくじくとした池ができる始末です。このあたりの描写は、『ハ
ウルの動く城』そっくりです。
 クサレ神は汚れた客専用の「大湯」へと導かれます。このとき
千は、湯婆婆からクサレ神の接客を命ぜられるのです。そこで千
は、釜爺に「札」を送り、湯船の中のクサレ神に薬湯のシャワー
を浴びせて、ヘドロを洗い流そうとするのです。
 このシーンは『ハウルの動く城』でソフィーが、カルシファー
に命じて大量の湯を出してもらい、ハウルの緑のヘドロを洗い流
すシーンによく似ています。
 しかし、『千と千尋の神隠し』の組み立てはきわめて緻密なの
です。実は、クサレ神は川の神であったのですが、多くのヘドロ
を飲み込んで元の名前を忘れてしまっており、自分でもクサレ神
だと思い込んでいたのです。
 ところが千はクサレ神のヘドロの中から自転車のハンドルを見
つけてそれを引っ張り出して、すべてのヘドロを吐き出させるこ
とに成功したのです。その結果、クサレ神は、自分の元の姿――
川の神を思い出し、千に感謝の意を込めて「ニガ団子」を贈り、
水竜のような姿に変身して、空のかなたに飛び去ります。そして
この団子がカオナシを救う薬になるのです。
 ちなみに、ハクは琥珀川という川の精であり、千尋はかつてそ
の川で溺れかかったことがあるのです。そして、川全体を支配し
ているのが川の神というわけです。千はハクとも川の神とも浅か
らぬ縁があるのです。その川の神を助けたことが、ハクを救い、
両親を豚から人間に戻すことができることにつながってくるので
す。すべてが緻密に連鎖しているわけです。
 このように『ハウルの動く城』は、前作である『千と千尋の神
隠し』と多くの点で共通しています。その要素を書き出してみる
と、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『ハウルの動く城』 ・・・ 『千と千尋の神隠し』
  90歳の老婆ソフィー ・・ 10歳の少女/千尋
  弱虫の魔法使いハウル ・・ 川の精ハク
  火の悪魔カルシファー ・・ 蜘蛛男のボイラーマン
  荒地の魔女 ・・・・・・・ 沼地の魔女/銭婆
  ハウルの動く城       湯婆婆の動かない天守閣
  温泉で維持される花畑    温泉宿「油屋」の和風庭園
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、映画の構成の精緻さという点においては、前作と比べ
ものにならないくらい劣っていると思うのです。映画批評家の南
波克行氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  これほど行き当たりばったりに作られたように思われる宮崎
 作品も初めてだ。エピソードの一つ一つが変にとっちらかって
 いるし、伏線らしい伏線のあまり見当たらない。―南波克行氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               −− [ハウルの動く城/08]


≪画像および関連情報≫
 ・ソフィーのせいでハウルの髪の毛は変色する。「美しくなか
  ったら、生きていたってしかたがない」とかんしゃくを起こ
  して、闇の精霊を呼び出すハウル。そんなハウルのの姿にソ
  フィーも感情を爆発させる。

変身するハウル.jpg
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2008年06月30日

●宮崎作品と久石譲の音楽論(EJ第1517号)

 映画『ハウルの動く城』についての話も終わりに近づいてきま
した。そこで、今日からまとめに入ります。そもそもこの映画で
宮崎監督が訴えたかったこととは一体何でしょうか。
 この問題を解く前にこの映画の音楽について述べる必要がある
と思います。
 映画『ハウルの動く城』の音楽を担当しているのは、もちろん
作曲家にしてピアニストの久石譲氏――以下、敬称略――です。
宮崎監督と組んだ作品は、長編8本と短編1本の9本――その作
品は1984年の『風の谷のナウシカ』から最新作『ハウルの動
く城』まで実に20年におよび、今や宮崎作品といえば音楽は久
石譲なのです。
 久石譲は、国立音楽大学を卒業したれっきとしたクラシックの
音楽家なのですが、「ミニマリズム」として知られるテリー・ラ
イリーの音楽に心酔し、ミニマル音楽の作曲家になろうと決意す
るのです。
 ミニマル音楽とは、音の短いパターンが反復する音楽スタイル
であり、はじめがあって終わりがある普通の音楽とは根本的に異
なるのです。少し難しい表現になりますが、始まりが終わりでも
あり、過去が未来でもあるという独特の時間のとらえ方をする現
代音楽なのです。
 久石は食いつなぐためにCMの仕事をやりながらミニマル音楽
を追求していたのですが、ミニマル音楽は現代音楽のフィールド
にこだわる必要はなく、むしろポピュラー音楽やテクノ音楽の中
に自分が求める音楽があることに気がつくのです。そして、それ
を専門にしようと決心します。そして、生まれた初のソロアルバ
ムが「インフォメーション」(徳間ジャパン発売)であり、この
ソロアルバムが宮崎監督の目にとまったのです。
 そして、久石は『風の谷のナウシカ』のイメージアルバムを担
当することになったのです。イメージアルバムというのは、映画
を盛り上げるために制作するアルバムのことです。しかし、当初
の予定では、久石の担当するのは『風の谷のナウシカ』のイメー
ジアルバムだけであり、本篇は別の作曲家を使う予定になってい
たのです。
 しかし、イメージアルバムの圧倒的な仕上がりに感動した宮崎
監督は、もはや久石以外の作曲家に本篇はあり得ないと判断し、
そのまま久石の続投を決めたのです。それ以来、宮崎監督と作曲
家久石譲の関係は続いているのです。
 このイメージアルバムと本篇の音楽との関係(イメージアルバ
ムとサントラ盤)ですが、これはほとんど差がないのです。つま
り、久石はイメージアルバムの段階で、本篇の音楽の主要部分の
作曲は完成させてしまっているのです。
 久石は宮崎監督の映像に音楽を付けているのではなく、宮崎の
メモや絵コンテを見ながら作曲を進めており、それによって宮崎
監督の描きたい世界をイメージして曲を作っている――そう考え
てよいと思います。
 しかし、『ハウルの動く城』の音楽は、そういう従来のスタイ
ルとは違うかたちとなったのです。宮崎と久石が『ハウルの動く
城』の音楽の打ち合わせをやったのは、2003年8月のことで
す。そのとき久石は従来のスタイルでいくつもりで、10月には
イメージアルバム用の楽曲を完成させています。
 久石はこれを三菅編成の管弦楽のスコアにまとめ、2004年
1月にプラハまで出かけて、チェコ・フィルハーモニーとの録音
をやっています。これが現在販売されている『ハウルの動く城―
―イメージ交響組曲』なのです。
 ところが、2004年2月に行われた音楽の打ち合わせで、久
石は宮崎から注文がつけられたのです。宮崎監督は、どうやら今
回のイメージ交響組曲は気に入らなかったようなのです。宮崎監
督の要請とは次のようなものでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『ハウル』本篇のスコア全体をひとつのテーマ曲で作曲して
 欲しい。                 ――宮崎監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 久石は監督の要請を快く聞き入れ、新たに3曲のメインテーマ
候補曲を作曲して、久石自らがそれらの3曲を宮崎監督の前でピ
アノで演奏し、選択させたのです。その結果、2番目に演奏され
たワルツを監督が選択したので、久石はこのワルツを『ハウル』
本篇全体のメインテーマとして決定し、全体の音楽設計を進めて
いったのです。
 ところが、録音当日にもトラブルがあったのです。それは、第
1日目の録音がすべて終わったあとのことです。
 第2日目に久石としては、サントラ盤の「星をのんだ少年」で
一気にエンディングに入る構成を考えていたのですが、宮崎監督
はそれに待ったをかけたのです。宮崎監督は、久石に次のように
いったといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       メロドラマにならないんですよ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オーケストラの録音当日に大幅な路線変更をするのは、極めて
異例のことであり、今までにはなかったことなのです。それにこ
れは音楽監督にとってかなりショックなことなのです。録音ホー
ルは重苦しい雰囲気につつまれたといいます。場合によっては、
決裂もありうる――制作スタッフは、それを覚悟せざるを得ない
状況だったのです。
 楽屋で宮崎監督と久石は、サシの話し合いを続けたのです。宮
崎監督としては、最後にもっと強くテーマ曲の再現を求めていた
といわれます。久石譲は頑固な男といわれているのですが、この
ときは腹を立てず、宮崎の提案を受け入れたといいます。そして
極度に押している時間を使って、エンディングの再構築を行った
のです。このようにして、多少ギクシャクしながら『ハウル』の
音楽は完成したのです。    −− [ハウルの動く城/09]


≪画像および関連情報≫
 久石 譲のプロフィール
・国立音楽大学作曲科に在学中より、現代音楽の作曲家として活
 動を始め、多くのコンサートの作曲、演奏、プロデュース等を
 担当する。1982年、ファースト・アルバム「インフォメー
 ション」を発表。
・映画音楽家として「風の谷のナウシカ」以降、「Sonatine」、
 「水の旅人」「Kids Return」「もののけ姫」「HANA-BI」など
 数多くの映画音楽を手がける。1992年より3年連続、19
 99年「HANA−BII」、 2000年には「菊次郎の夏」
 で、5回目の日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。第48回
 芸術選奨文部大臣新人賞(大衆芸能部門)など数々の音楽賞を
 受賞。

『ハウルの動く城』録音風景.jpg
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2008年07月01日

●愛のテーマと円環運動を示すワルツ(EJ第1518号)

 映画『ハウルの動く城』において、宮崎監督が音楽監督久石譲
に対して突きつけた2つの注文――これはこの映画が何を表現し
ようとしているかを解くかぎであると思います。
 第1の注文は、『ハウル』全体を1つのテーマ曲で作曲して欲
しいというものです。久石はこれを受け入れ、3つのテーマを宮
崎に提案――宮崎は2番目のワルツを選んだことについては前回
述べました。
 宮崎監督はこのワルツのテーマを「人生のメリーゴランド」と
命名しているのですが、このテーマは映画において繰り返し登場
するのです。このテーマはピアノをはじめいろいろな楽器で演奏
されますが、とくに留意すべきはピアノのソロによる演奏のシー
ンです。『ハウル』の最初の17分間に絞って検証してみます。
 映画の冒頭です。タイトルが表示され、カメラは街の風景を写
してからソフィーの部屋にパンダウンします。そのときピアノの
ソロによるメリーゴランドのテーマが演奏されます。最初のシー
ンですから誰でもわかります。
 続いて、街中を行進する軽騎兵が写し出されますが、ここでは
行進曲が流れます。ソフィーは家を出て妹の店に出かけ、偶然に
ハウルと出会うシーンです。
 荒地の魔女の手下に襲われ、ハウルと空中散歩をすることにな
るのですが、ここでは、弦のピチカートによるメリーゴランドの
テーマが聞かれ、経過部を経てフルオーケストラでメリーゴラン
ドのテーマが演奏されます。サントラ盤のテーマは「空中散歩」
となっています。
 妹の店を訪ねたあと、路面電車で帰宅するソフィー――ここで
は再びピアノのソロによるメリーゴランドのテーマが演奏されて
います。このシーンは、ソフィーがハウルのことを思い出してい
るシーンであり、サントラ盤では「ときめき」というタイトルが
ついています。
 そのあと、荒地の魔女がソフィーの店を訪ねてきて、ソフィー
を90歳の老婆に変身させてしまうシーンになります。ここでは
クラリネットのソロによる荒地の魔女のテーマがバックに流れて
います。サントラ盤のテーマは「荒地の魔女」です。
 90歳の老婆に変身させられたソフィーは家を出て荒地に向い
ます。そこでかかしのカブと出会うシーンになります。このカブ
の勧めでソフィーはハウルの住む動く城に行くことを決意するこ
とになります。
 ここでもしきりにメリーゴランドのテーマが流れます。まず、
チェレスタの序奏に続いてオーボエのソロによるメリーゴランド
のテーマが流れ、経過部を経て、今度はアコーディオンのソロで
メリーゴランドのテーマが演奏される。そして、フルートによる
明るいテーマに移るといった具合です。サントラ盤のテーマは、
「さすらいのソフィー」です。
 サウンド・ビジュアル・ライターの前島秀国氏は、『ハウルの
動く城』におけるピアノのソロによるメリーゴランドのテーマは
ソフィーのハウルに対する恋愛感情と意識的に結びつけられてい
ると次のように指摘されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  映画の冒頭から「メリーゴランド」主題がピアノでわざわざ
 演奏されるのは、「メリーゴランド」主題が究極的に「愛のワ
 ルツ」だと宣言しているようなものである。ある特定の主題的
 要素を際立たせるため、こうした厳密な楽器用法を久石が試み
 た例は、これまでほとんどなかったのではないか。
       ――サウンド・ビジュアル・ライター前島秀国氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみると、映画の冒頭部分のあとにピアノのソロによるメ
リーゴランドのテーマが演奏されるのは、ソフィーがハウルの城
で眠りに落ちるシーンなのです。そのとき、90歳になったはず
のソフィーは18歳に戻っているのです。したがって、このテー
マはソフィーのハウルに対する恋愛感情をあらわしていることは
確かであると思います。
 ところで、ワルツという舞踊は、男女がペアになって円環運動
を繰り広げる踊りです。前出の前島氏は、ワルツには愛の要素に
加えて、この「円環の運動性」という要素があり、宮崎監督は、
その2つを意識しているという興味深い指摘をされています。
 確かに宮崎監督自身が『ハウルの動く城』の中心テーマを「メ
リーゴランド」と呼んでいることからしても、「円環運動」を意
識していることは確かです。メリーゴランドは円環運動をしてお
り、必ず同じところに戻ってくるからです。
 それでは『ハウル』における円環運動とは何でしょうか。
 それは、90歳にされたソフィーが18歳に戻り、契約によっ
てカルシファーに預けた心臓をハウルが取り戻すことです。つま
り、このワルツは愛のテーマであると同時に「回復」「回帰」の
テーマであるというわけです。
 実は、宮崎監督は前作の『千と千尋の神隠し』でも同じことを
やっているのです。終盤に展開される千尋とハクの空中シーンで
竜の姿になっていたハクが元の名前を取り戻す――つまり、名前
の回復が行われると、ハクは少年の姿に戻り、サントラ盤で「千
尋のワルツ」と名づけられたテーマがフルオーケストラで演奏さ
れるのです。DVDで確かめていただきたいと思います。
 ワルツに愛のテーマと円環性をこめる試みは、かつての名画で
ある『ドクトル・ジバゴ』で行われています。この映画の音楽監
督はあのモーリス・ジャール――彼はこの映画に、「ララのテー
マ」というワルツを使っています。
 このワルツは、ジバゴと愛人ララの関係を象徴する「愛のテー
マ」としての役割を果たすとともに、本篇全体がジバゴの異母兄
の回想ではじまり、終わるという物語の上での円環性を示してい
るのです。
 宮崎監督が久石音楽監督に出した第2注文のてんまつについて
は、明日のEJで述べることにします。
               −− [ハウルの動く城/10]

≪画像および関連情報≫
・『ハウルの動く城』/サウンドトラック盤
  1.人生のメリーゴランド  14.90歳の少女
  2.陽気な軽騎兵      15.サリマンの魔方陣
  3.空中散歩        16.秘密の洞穴
  4.ときめき        17.引越し
  5.荒地の魔女       18.花園
  6.さすらいのソフィー   19.走れ!
  7.魔法の扉        20.恋だね
  8.消えない呪い      21.ファミリー
  9.大掃除         22.戦火の恋
 10.星の湖へ        23.脱出
 11.静かな想い       24.ソフィーの城
 12.雨の中で        25.星をのんだ少年
 13.虚栄と友情       26.世界の約束

空中散歩.jpg
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2008年07月02日

●修正が行われたエンディングの音楽(EJ第1519号)

 「メロドラマにならないんですよ」――これが宮崎監督がいっ
たことばです。ところで、「メロドラマ」というのはどういう意
味でしょうか。
 「メロドラマ」とは、ギリシャ語の「メロス」(旋律)と「ド
ラマ」(劇)が一緒になった合成語で、伴奏付きの演劇のことで
す。したがって、メロドラマでは音楽が演技と同等か、あるいは
それ以上に重要な役割を果たすことがあるのです。宮崎監督は、
『ハウルの動く城』をメロドラマにしたかったのです。
 そのためには、ドラマの最後のところで、メインテーマ「人生
のメリーゴランド」をもっと盛り上げて欲しい――これが宮崎監
督の願いだったのです。
 久石譲音楽監督としては、『ハウルの動く城』は「星をのんだ
少年」(元の名前/ケイブ・オブ・マインド)でしめくくる予定
でいたのです。そのため、この曲にはテーマ曲の断片をちりばめ
てあったのですが、宮崎監督はそれだけでは満足しなかったとい
うわけです。
 宮崎監督の話を聞いた久石は立腹することなく、素直に提案を
受け入れ、早速曲の改良に取りかかったのです。久石はこのとき
こういっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  むしろありがたいと思ったよ。それだけテーマ曲を大事に
  考えてくれたということだから。     ――久石 譲
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき久石の頭にあったのは「花園」と題した曲だったので
す。「花園」はハウルがソフィーに思いを伝える場面に流れるの
ですが、テーマ曲「人生のメリーゴランド」で彩られている曲な
のです。「これを最後にもう一度使おう」――久石はそう考えた
のです。
 久石音楽監督は、結論を語らないまま実験を始めたのです。既
に録音済みの「花園」のテープを用意させて、久石は演奏を始め
ます。クライマックス場面の映像とともに「星をのんだ少年」が
鳴り響きます。映画の場面は次のように進行していきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ソフィーが残骸と化した城の扉を開けると、ハウルの少年時
 代に迷い込む。そこでハウルに出会ったソフィーは、「未来で
 待ってて」と言い残すと闇に飲み込まれてしまう。やがて涙を
 流しながら歩くソフィーの前に再び扉があらわれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、久石は音楽を止めて、用意していた「花園」のテープ
のスタートを指示したのです。音楽が鳴った瞬間、スタジオに詰
めていたスタッフからどよめきがあがったのです。別の画面のた
めに作られた曲がピタリとフィットしたからです。宮崎監督もこ
ういったのです。「いいね」と。
 しかし、曲の長さが少し足りないのです。これに「星をのんだ
少年」の終盤部分をつなぎ込めばいい――久石はそう考えたので
す。しかし、「時間がないなぁ!」と久石がいったとき、宮崎監
督は久石の肩をたたいて、「ねぇ、2、3日徹夜しても死なない
よ」といったのです。「まったくもう」――そういい返した久石
の口元には、笑みがこぼれていたのです。
 2004年6月30日、録音第2日目――午後1時から録音が
開始されたのです。指揮台に立った久石音楽監督はオーケストラ
に対して次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  予定にはありませんでしたが、最初にちょっと試したいこと
 があります。            ――久石 譲音楽監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スクリーンに映像が流れて演奏がはじまります。久石は自分の
指揮だけを頼りにオーケストラを引っ張っていきます。「星をの
んだ少年」から「花園」へ、そしてそれを最終部分の「星をのん
だ少年」につなげる――これはまるではじめからそうであったよ
うにクライマックス場面に寄り添い、ソフィーとハウルの心情を
を歌い上げて終わったのです。
 演奏が終わったとき、宮崎監督が一番先に立ち上がって拍手し
たのです。演奏者たちも成功を喜んで足を踏み鳴らしてそれに応
じたといいます。
 「どうですか」――久石は振り返って宮崎に問いかけると、客
席中央の宮崎は立ち上がると、手で大きなマルを作ったのです。
久石は「それじゃ、分かりません」という表情をすると、宮崎は
大きな声で次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これでメロドラマになりましたぁ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この宮崎監督の応答に、演奏者、ホールにいたスタッフ全員が
立ち上がって拍手をしたそうです。これで、『ハウル』の録音は
終了したのです。
 この結果、『ハウルの動く城』のサウンドトラック盤(現在発
売中)と実際の映画の録音とは後半部分が異なるのです。サウン
ドトラック盤には、宮崎監督の指示によって変更した部分が入っ
ていないからです。
 もうひとつ、『ハウル』には正式な主題歌があります。それは
『千と千尋の神隠し』の「いつでも何度でも」の木村弓の作曲に
よる「世界の約束」です。歌手は倍賞千恵子です。
 この曲は、木村弓の『流星』というアルバムからとられており
谷川俊太郎が詞をつけています。曲に関する情報は、次のアドレ
スをクリックしてください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   http://www.vesta.dti.ne.jp/~youmi/cd_ryusei.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               −− [ハウルの動く城/11]


≪画像および関連情報≫
・「世界の約束」/歌・倍賞千恵子
 作詞・谷川俊太郎/作曲・木村弓/編曲・久石譲

  涙の奥にゆらぐほほえみは
  時の始めからの世界の約束

  いまは一人でも二人の昨日から
  今日は生まれきらめく
  初めて会った日のように

  思い出のうちにあなたはいない
  そよかぜとなって頬に触れてくる

  木漏れ日の午後の別れのあとも
  決して終わらない世界の約束

  いまは一人でも明日は限りない
  あなたが教えてくれた
  夜にひそむやさしさ

  思い出のうちにあなたはいない
  ささらぎの歌にこの空の色に
  花の香りにいつまでも生きて


ハウルの過去に迷い込む.jpg
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2008年07月03日

●『ハウル』はワースト4位の映画(EJ第1520号)

 いよいよ映画『ハウルの動く城』のテーマは、今日を含めて2
回で終りです。そこで、宮崎監督はこの映画で何を訴えたかった
のかに迫ってみたいと思います。
 『週刊文春』1月27日号に、2004年に日本で上映された
映画の中で最低の映画10本が発表されています。「2004年
文春版『最低映画ワースト10』」です。映画監督や評論家20
人が投票して決めます。結果は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1位:デビルマン     6位:コジラ FINAL WARS
  2位:CASSHERN  7位:サンダーバード
  3位:海猫        8位:2046
  4位:ハウルの動く城   9位:キューティーハニー
  5位:ヴィレッジ    10位:リディック
             ――『週刊文春』1月27日号より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何と『ハウルの動く城』は第4位に位置しています。ワースト
第4位なのです。専門家の批評によると、「声優もダメ、話も中
途半端、絵もスケール感なし。宮崎アニメのいいところが皆無」
というさんざんの評価です。
 確かに『ハウル』の評価が低いのは、すべてが淡白だからだと
思います。まず、主役であるはずのハウルとソフィーがあっさり
としています。どぎつい役どころは、美輪明宏が好演する荒地の
魔女ぐらいのものですが、その荒地の魔女もサリマンに魔法を抜
かれて、ただの要介護老人に化してしまっています。これでは、
盛り上がりようがないのです。
 映画評論家の樋口尚文氏は、『ハウル』を「童話絵本」である
として、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  人物たちの挿話がほとんど断片のように絡みあわずに散りば
 められ、童話につきものの設定の恣意性や象徴性もそのまま映
 画的に翻案されずに投げ出されている『ハウルの動く城』は、
 もはや映画と呼ぶよりも御伽の絵本に近いだろう。
                      ――樋口尚文氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ひとつ例を上げます。ハウルの城には「どこでもドア」のよう
なドアがあります。そのドアは人物を自在に時空を超えて往還で
きるのですが、映画ではこれが効果的に使われているとは思えな
いのです。このドアは、開ける前にダイヤルを回して開けると、
そこにはぜんぜん違った光景――実は時空を超えているのですが
この仕掛けに最後まで気がつかない観客もいると思うのです。
 映画『マトリックス』にもそういうドアがありましたが、この
ドアは開けるときにどきどき感を伴って観客をはらはらさせる効
果があったと思うのですが、『ハウル』のそれは恣意的に使われ
ていたに過ぎないと思うのです。
 もちろんこんなドアの話は原作にはないので、宮崎監督のオリ
ジナルなのに、それが効果的に生かされているとはとても思えな
いのです。せっかく凝った設定をしているのに、それを生かそう
とする意思が伝わってこない――そんな感じがします。そして見
せる側の論理で、「こんな話がありましたとさ」という感じで終
わっています。つまり、御伽噺の絵本なのです。
 それなら、『ハウル』は失敗作なのでしょうか。
 私はそうでないと思っています。確かに『千と千尋の神隠し』
のようなどきどき感はなかったかも知れないですが、観ている間
はぜんぜん飽きないし、楽しかったからです。
 起承転結が崩れているところが問題視されているわけですが、
これに関しては次の鈴木敏夫プロデューサーのことばをご紹介し
ておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  僕はこういうことだと思うのですよ。確かに、全体のストー
 リーは起承転結を崩している。だけど、シーンごとには、ちゃ
 んと起承転結がある。それを集めてあるわけでしょ。だから、
 そこの部分は忘れていないのね。二重構造になっているんです
 ね。宮さんはそういうのは絶対に外さない。ただし、全体は崩
 してもいいんだと。
  一つのシーンを見ている分には本当に楽しいの。それが全体
 として見た時に、どうやって有機的に繋がるのかというところ
 で変なわけですよね。だけど「それを含めて面白い」っていう
 人がいるのが現代であって。だから一方には「つまらない」と
 いう人が出てきても、おかしくない気はするんですけどね。
     ――スタジオ・ジブリ・プロデューサー/鈴木敏夫氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アニメ映画というのは大変なのです。なぜなら、すべてを描か
なければならないからです。たとえば、まばたきひとつとっても
すべて描くわけです。俳優を使って作る普通の映画の場合、俳優
のまばたきまで監督は指示しないでしょう。
 そういうものを含めてすべてを約1500カットに収めなけれ
ばならないわけです。2時間という制約があるからです。1カッ
ト5秒以下ですが、『ハウル』の前半は1カット10秒かかって
いるのです。だから、後半は凄く時間の経過が早くなってしまう
ことが多いのです。『千と千尋の神隠し』において千尋が「千」
として働くまでの時間――40分かかっている――その時間とそ
の後の時間の流れ方は大きく異なるのです。
 それでいて『ハウル』では、ソフィーが城の中で目玉焼きを作
るシーンなどは異常なほどディティールにこだわって描いている
のです。そういうシーンがあるから飽きがこないのです。
 全体の起承転結が崩れているのには何か宮崎監督なりの考えが
あるのだと思います。ですから、「観るべきかどうか」と問われ
たら、私は観ることをお勧めしたいと思います。不思議な2時間
を過ごせると思うからです。とくに1000円で観られるシニア
の方にはお勧めしたいと思います。
               −− [ハウルの動く城/12]


≪画像および関連情報≫
・映画『ハウル』についてのある感想紹介
 圧巻の1時間59分である。魔法で老婆にされた少女ソフィー
 と国家と戦争から逃れる臆病な魔法使いハウル。宮崎監督は、
 溢れるイメージと渾身の作画力・演技力で2人の心理的解放を
 謳い上げる。そこに、片想いに身をやつす原作のハウル像はな
 い。今回も肉体を駆使したアクションや秀逸な飛行機械などが
 目白押しだが、「ハウルの城」以外は全て後景にとどめ、主軸
 は時間と空間を駆けめぐる純愛ファンタジーに絞られている。
 血縁でない新たな家族制、若さと老い、自由と契約、善と悪と
 いった両義的テーマを複雑にからめながら、大人から子供まで
 楽しめるエンターテインメントに仕上げている。老境に至って
 なお剛腕衰えぬ宮崎監督は、今回も未踏の新地点に巨歩を刻ん
 だ。全てが見事に閉じる至福の大団円は、苦い決別を伴った近
 作より、むしろ若々しい。

荒地の魔女.jpg
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2008年07月04日

●映画のキーワードは『家族』である(EJ第1521号)

 映画『ハウルの動く城』に登場する人物で、1人だけ原作と名
前が違う人物がいます。その人物とはハウルの弟子のマルクルで
す。マルクルは5〜6才の子供になっています。
 このマルクル――とてもかわいいのです。人が城を訪ねてくる
たびにフードをかぶってヘンな長老に化け、「待たれよ」といっ
て扉を開けるのです。食事のとき「ワシはイモはきらいじゃ」と
いったり、ソフィーの作ってくれた目玉焼きを本当においしそう
に食べる――どうみても子供です。
 しかし、原作では、マルクルはマイケル・フィッシャーといっ
て、ハウルよりは年下ですが、恋人もいるれっきとした青年の役
柄なのです。宮崎監督は、どうしてマイケルを子供のマルクルに
してしまったのでしょうか。
 これにはちゃんとしたわけがあるのです。ソフィーがハウルの
城にきたとき、城にはハウルとカルシファー、それにマルクルの
3人だけだったのです。ところが、ソフィーが城に住みつくと、
実に多彩な連中が城に集まってくるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  城の主人:ハウル      毒気を抜かれた荒地の魔女
  火の悪魔:カルシファー   案山子のカブ
  ハウルの弟子:マルクル   サリマンの使いの犬ヒン
  90歳の老婆ソフィー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いずれもややこしい奇妙な連中ばかりですが、城の主人である
ハウルは抵抗なく彼らを受け入れ、城の住人にしてしまっている
のです。これは何を意味するのでしょうか。
 結論をいうと、それは「家族」なのです。人間4人に限定して
いうと、ハウルがお父さんでソフィーがお母さん、荒地の魔女が
おばあさんで、マルクルが子供というわけです。これは、まさに
家族そのものです。
 宮崎監督は明らかにそうしようとしています。そのためにマル
クルをわざわざ子供にしてしまったのです。また、原作では荒地
の魔女は最後まで「呪いをかけた敵」という設定になっているの
に、映画では要介護のおばあさんにして城に入れています。これ
も意図的なものです。
 もうひとつ、映画は原作にはないキーワードを使っています。
それは「戦争」です。映画では、戦時中という設定になっており
ハウルは国王から呼び出しを受けて戦争に参加するよう求められ
るのですが、原作では戦争は関係がないのです。
 原作においてハウルが国王に呼び出されて要請されることとは
行方不明になっている王弟ジャスティンを探すことと、王弟を探
してこれまた行方不明になっている王室付きの魔法使いサリマン
の行方をつきとめることだったのです。ともに荒地の魔女がから
んでいる事件です。
 宮崎監督は、ここを大きく変えて「戦争」というキーワードを
導入し、サリマンをその戦争を起こしている張本人として設定し
ており、荒地の魔女を要介護老人にしてしまっています。これは
もうひとつのキーワード「家族」を強調するためのものだったの
ではないかといわれているのです。
 アニメ評論家の藤津亮太氏は、この2つのキーワード「戦争」
と「家族」について面白い分析をされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「戦争」とは、国家が1つの目的のためにあらゆるものを動
 員していく巨大なプロセスである。それは国家のもっとも純粋
 で合理的な姿を浮かび上がらせる。
  その過程で、その社会の周辺にいる他者・弱者は、大きく2
 つの道を選ばされることになる。1つは、他者・弱者であるこ
 とを捨て、あるいは反転させて国家の内部に入り、末端の協力
 員として戦争に参加する道だ。もう1つは、国家から異物とし
 て「折出」されてしまう道だ。 ――アニメ評論家藤津亮太氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして藤津氏は、「国家から異物として『折出』される」こと
を、映画の中に出てくるソフィーと荒地の魔女が王宮の長い階段
を上るシーンになぞらえています。このシーンについては、詳し
くお話しするスペースがないので説明は省きますが、映画の中で
異常なほど時間を割いて描写としているシーンであることだけを
強調しておきたいと思います。
 藤津氏は難しいことをいっていますが、要するに戦争になると
国民はふるいにかけられ、他者・弱者は何らかのかたちで社会か
ら折り出されてしまう――その結果、それらの他者・弱者による
擬似家族的共同体が生まれて、これらの者を受け入れる「開かれ
たアジール」が必然的に構築されるといっているのです。
 そして、藤津氏はハウルの城に集まった者はまさに他者・弱者
であり、ハウルの城は「開かれたアジール」になっているといっ
ているのです。「アジール」とは、法や権力の及ばない不可侵の
領域を意味しています。
 宮崎アニメには、家族の象徴ともいうべき干している洗濯物が
登場するのですが、『ハウル』にもそれは出てきます。藤津氏は
この白い洗濯物こそ、国家から折出された他者・弱者に向けての
「ここはアジールである」との旗印であるというのです。
 数年前に「ショー・ザ・フラッグ」という言葉が流行ったこと
があります。これは「旗幟を鮮明にせよ」という意味ですが、こ
れこそ国家としての折出しそのものであるといえます。
 宮崎監督は、こういう考え方に強く反発し、白い洗濯物を掲げ
ることによって、「そうでない世界がここにある」ということを
訴えているのではないか――この評論家はそういうのです。
 『ハウル』のラストシーンは、青空のかなたに消えていく城が
登場しますが、この城には白い洗濯物がはためいているのをぜひ
見逃さないでいただきたいと思います。
 『ハウルの動く城』のテーマはこれで終わりますが、この作品
は、十分鑑賞される価値がある映画であると考えます。
               −− [ハウルの動く城/13]


≪画像および関連情報≫
・「家族」を象徴するセリフから・・・
 その夜、町が空襲に見舞われる。町中が火に包まれる中、サリ
 マンの手下のゴム人間がソフィーたちを狙ってハッター帽子店
 に迫る。その時、ハウルは上空でハッター帽子店に落下しよう
 とする爆弾を必死に押しとどめようとしていた。不発弾となっ
 た爆弾は、店の中庭に落下する。
  鳥の姿になったハウルとソフィーが出会う。
  「逃げましょう。戦ってはダメ」というソフィーにハウルは
 答える。
  「なぜ?僕はもう十分逃げた。ようやく守らなければならな
 い者ができたんだ。君だ!」

「家族」のキーワード.jpg
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