2008年05月29日

●『神』の字のつく3天皇は実在天皇(EJ第587号)

 EJでは日本人のルーツについてメスを入れています。今日から連載するレポートも
そのひとつです。なお、このレポートは、2001年4月2日から4月16日まで、1
1回にわたって連載したものであることをお断りしておきます。
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 今朝から古代史の話をします。古代史の話といっても漠然としていますが、EJで取
り上げているのは日本人のルーツにマトを絞っています。自分の国の歴史がはっきりし
ない国は先進国では日本くらいのものです。また、他国から抗議されて教科書の歴史的
事実を書き替えることを繰り返す国もおそらく日本しかないでしょう。
 なぜ、そうなってしまうのでしょうか。本来であれば重要な手がかりになるべき「古
事記」や「日本書紀」などの国の歴史書に大きな謎と意図的なウソの記述があり、本当
のことがわかりにくくなっているからです。国際化時代になって、諸外国の人と接する
機会の多い世の中では、自分の国についてきちんとした歴史観を持っていることは大切
なことであると思います。
 「日本書紀」は、一般には神武天皇以来連綿と続く万世一系の皇統の歴史を綴った書
物といわれています。「万世一系の皇統」とは戦前までよく聞かれた言葉ですが、要す
るに天皇家は世襲制で連綿としてつながってきたということを意味しているのです。
 しかし、「日本書紀」の内容を仔細に検討すると、一方で万世一系の皇統といいなが
ら、他方で王朝交代の可能性を認めているところがあるのです。
 実は、「日本書紀」には、2つの大きな物語というか2つの世界があるのです。その
1つは、初代の神武天皇に始まり、応神天皇に終る物語です。もう1つは、仁徳天皇に
始まり、武烈天皇に終る物語です。
 一応「日本書紀」では、前半の最後の天皇である応神天皇と、後半の最初の天皇であ
る仁徳天皇は父子関係で結んでいるので、皇統はつながっているようにみえます。しか
し、応神天皇と仁徳天皇は父子関係ではないとする説が多いのです。
 『天皇誕生』(中公新書刊)の著者である遠山美都男氏によると、「日本書紀」の後
半の世界では、前半の世界のような世襲ではなく、中国のように天命を受けて成立し、
天命が離れることによって崩壊する王朝が、日本にもあったという事実を示していると
いうのです。大和朝廷の成立の謎を解くには、天皇がどのようにして誕生し、続いてき
たかということを明らかにする必要があると思うので、そういう角度から考察して見る
ことにします。
 初代の天皇は神武天皇です。神武天皇以下、15代までの天皇を並べてみます。
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        1.神武天皇*  6.孝安天皇  11.垂任天皇
        2.綏靖天皇   7.孝霊天皇  12.景行天皇
        3.安寧天皇   8.孝元天皇  13.成務天皇
        4.懿徳天皇   9.開花天皇  14.仲哀天皇
        5.孝昭天皇  10.崇神天皇* 15.応神天皇*
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 戦前は「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、
こうげん・・・」というように暗記させられたということです。国として「万世一系の
皇統」というものを国民に意識づける狙いがあったと思いますが、実際にはこれだけの
数の天皇が本当にいたかどうかは非常に疑問なのです。
 この15代の天皇のうち、名前に「神」が入る天皇は3人――神武、崇神、応神――
います。これら3人の天皇の業績や記述は非常に多いのです。したがって、これら3人
の天皇は実在したとみられていますが、他の天皇に関しては実在したかどうかについて
さまざまな意見があります。
 はっきりしていることは、第2代の綏靖から第9代の開花までは、その歴史的な記述
がほとんどなく、実在しなかったのではないかといわれています。これは「欠史8代」
といって専門家も認めている事実です。
 神武天皇は、その生まれも育ちも九州であり、彼にとって九州以外の国は未知の世界
だったのです。「魏志倭人伝」によると、当時九州にはいくつか大きな国があったとさ
れており、神武天皇は、それらの国を束ねる大王ではなかったかと思われます。
 その神武天皇の前に「塩土老翁」なる人物が現れ、「東の方によい土地があり、青い
山脈が取り巻いている。その中に「天磐舟(あまのいわふね)」に乗って下ってきた者
がいる」ということを伝えたのです。
 ここで「東方」とは、具体的には「畿内」のことを意味しています。畿内とは、現在
の京都、奈良盆地一帯を指します。神武天皇の関心は東方に向けられ、そこに都を作ろ
うと大軍を率いて東に向かうのです。これが有名な神武天皇の東征です。
 ところが当時畿内には既にニギハヤ命(ニギハヤのみこと)という人が畿内を制覇し
ており、畿内王朝を形成していたのです。そこに神武天皇軍が攻めてきたのですから、
王朝をかけた戦争になったのです。
 ニギハヤ命にはナガスネヒコという武将がおり、神武天皇軍を相手に獅子奮迅の活躍
をするのです。そのため神武天皇軍は大苦戦を強いられます。神武天皇は太陽の国であ
るわが軍が太陽に向かって戦うのは不利と悟り、いったんは兵を引きます。そして、紀
伊半島をぐるりと回り、熊野地方から上陸して紀伊半島を北上し、吉野を超えて再びナ
ガスネヒコ軍と対峙します。
 今度は、太陽を背にしての戦いであり、ナガスネヒコ軍を圧倒します。このときどこ
からともなく金色の鴉(とび)が飛来して神武天皇の弓の先に止まり、あたり一面に金
色の光を発光します。これがナガスネヒコ軍の戦意を喪失させて神武天皇軍を勝利に導
いた話はあまりにも有名です。神武天皇は大和に入ると、橿原宮を建立して正式に初代
天皇に即位したのです。
 歴史的記述を調べると、神武天皇については、いま述べたようにその即位までの記述
は豊富であるのに天皇に即位してから業績は不明なのに対して、崇神天皇の場合は天皇
に即位してからの業績は詳細なのです。つまり、両者を合わせて1人前なのです。この
ことから神武天皇は架空であり、崇神天皇が初代の天皇であるという説があるのです。                 ・・・[日本人のルーツ/01]
         
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2008年05月30日

●天照大神は男性神である?(EJ第588号)

 古代の天皇系譜の話をするとき、神話の話を避けては通れません。しかし、神話の話
をすると、かなり難しい漢字を使うことになります。一応テスト送信して表示されるこ
とを確認してはおりますが、EJを受け取るPCの環境によっては、文字が正しく表示
されなかったり、印刷をすると文字が欠落することもありますのであらかじめご了承願
います。
 昨日のEJで、神武天皇に続く第2代の綏靖天皇から開花天皇までの8代は、架空の
天皇であり崇神天皇が初代の天皇である、という説があるということについて述べまし
た。問題は、神武天皇の扱いです。
 アカデミズムでは、神武天皇を含む9代の天皇はすべて架空の天皇であり、崇神天皇
が初代の天皇であって天皇即位までの神武天皇に関する記述は、すべて崇神天皇のそれ
であるという立場に立ちます。
 これに対してもう少し大胆な意見があるのです。それは、神武天皇と崇神天皇は同一
人物であるという説です。確かに両天皇について伝えられていることは、2人分合わせ
て1人分であり、同一人とみると納得がいきます。
 それを証明するのは、両天皇のもうひとつの名前なのです。
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      神武天皇=始馭天下之天皇 ・ ハツクニシラススメラミコト
      崇神天皇=御肇国天皇 ・・・ ハツクニシラススメラミコト
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 これらの難しい言葉は、どちらも「初代天皇」の意味であり、同じ呼び方をするので
す。したがって、両天皇は同一人物であるという説です。アカデミズムは、神武天皇も
架空であるとするのが定説になっていますが、神武天皇を架空と決め付けるのはやや問
題があります。どうしてかというと、神武天皇がさまざまな名前で全国の神社に祀られ
ており、その存在を否定することは困難であるからです。
 古事記と日本書紀には多くの神話が載っています。その解釈は難解であり、それを解
くかぎは実は神社にあります。神社に残る神々の伝承の研究こそ、日本神話の深層に迫
る方法といえます。こういう神社の伝承から古代史を調べ直す方法を神社伝承学という
のですが、こういう観点からのアプローチも必要なのです。
 全国の神社にはいくつかの種類があることがわかります。村の鎮守の神社、多くの人
の崇敬を集める大社、そしてかつて国を挙げて祀っていた神宮――いずれも格が違いま
すね。
 中でも、日本において最も重要な神社というと、やはり伊勢神宮ということになりま
す。この伊勢神宮は日本の神社の頂点に君臨しているのです。
 一口に伊勢神宮といいますが、別宮と摂社、末社、諸管社などを含めると、全部で1
25社から成るのです。伊勢神宮とはそういう神社の総合体なのです。しかし、中心と
なる神社は次の2つなのです。
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       内宮 ・・・・・・ 天照大神(あまてらすおおみかみ)
       外宮 ・・・・・・ 豊受大神(とようけのおおかみ)
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 両祭神は同列ではなく、豊受大神は天照大神の食事を用意する役割を担っているとい
いますから、中心は内宮にあります。つまり、伊勢神宮の内宮は日本の神社の頂点であ
り、その祭神である天照大神は神道における最高神とされているのです。
 また、天照大神は「皇祖神」ともいわれます。皇とは「皇室」のことですから、天照
大神は天皇家のご先祖様ということになるのです。しかし、この天照大神――実に大き
な謎につつまれているのです。
 実は、この天照大神、古事記と日本書紀ではその表現のしかたが違うのです。古事記
には、「天照大御神」とあり、日本書紀には「大日?貴(おおひるのむち)」とあります。
 ところでこのことばですが、そのまま訳すと「太陽神を祀る巫女」という意味になり
ます。そうすると、天照大神は、太陽神を祀る巫女にして高天原の支配者ということに
なります。これに該当する人物が、邪馬台国の女王といわれる「卑弥呼」なのです。し
かし、そう結論づけるにはいくつもの問題点があるのです。天照大神は果たして卑弥呼
なのでしょうか。
 記紀神話において天照大神は明らかに女性なのです。しかし、神社伝承学では別の立
場に立ちます。なぜかというと、神社で祀られている天照大神はいずれも男性神である
からです。
 天照大神を祀る神社は多くあります。奈良県桜井太田の「他田坐天照御魂神社」、奈
良県磯城郡田原本町にある「鏡作坐天照御魂神社」、兵庫県竜野市の「粒坐天照神社」、
京都府福知山市の「天照玉命神社」、京都府京都市の「木嶋坐天照御魂神社」などは、
いずれも男性神として天照大神を祀っているのです。
 これらの神社に祀られている天照大神の正式名を調べてみると、「天照国照彦天火明
櫛甕玉饒速日命」という非常に長い名前なのです。これは明らかに複数の神の複合体で
す。
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           天照国照彦 ・・・・ 天照大神
           天火明 ・・・・・・ 火明命
           櫛甕玉 ・・・・・・ 大物主命
           饒速日命 ・・・・・ ニギハヤヒ命
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 ここで重要なのは「ニギハヤヒ命」です。神社伝承学の立場では天照大神を太陽神を
祀る巫女とニギハヤヒ命を分けて、それぞれが別神としているのです。この考え方に立
てば、天照大神が男性であっても矛盾はないわけです。
 神話の世界に深入りすることは避けますが、いろいろな点から検証すると、天照大神
をあらわす上記の4神はどうみても同一人物なのです。そうすると、天照大神は男性神
ということになります。これについては明日検証したいと思います。
                        ・・・[日本人のルーツ/02]
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2008年06月02日

●なぜ同一神、別神が多いのか(EJ第589号)

 先週、「伊勢神宮は日本全国の神社の頂点」と説明したところある読者より事実と異
なるとの指摘がありました。「本当の神社の頂点は、大和にある三輪神社――正しくは
大和三輪山にある−大神神社(みわじんじゃと読む)が神々の中の神様で、伊勢神社も
大神神社の摂社、末社の一つである」ということです。
 確かに伊勢神宮は、昔から伊勢にあったわけではなく、とくに内宮に関していえば、
大和の笠縫邑(かさぬいむら)というところにあったのです。それがいろいろの事情に
よって移動し、各地を転々としながら、最終的に伊勢に落ち着いたのです。そのため、
かって伊勢神宮があった神社を「元伊勢」と呼ぶのです。
 「大神神社」は、日本最古と目される神社です。「大神」と書いて「オオミワ」と呼
ぶのは、そのある場所が奈良県の三輪山の麓だからです。大神神社の話が出ましたので
ついでに述べるとこの神社に祀っている主祭神は「倭大物主櫛み魂命」なのです。
「み」の字は特殊文字であり、ネットを通じて送ると昨日のようになりますので、あえ
てかなとさせていただきます。瓦ヘンに長という字を書くのです。「やまとおおものぬ
しくしみたまのみこと」というように読むのです。
 昨日、天照大神を正式にいうと「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」であるとお話し
しましたが、この中の「櫛甕玉」の部分に注目していただきたいのです。これも「くし
みたま」と呼称するのです。「櫛み魂」と同じですね。それに昨日は、これを「大物主
命」と説明しています。結論からいうと大神神社の主祭神はやはり天照大神なのです。
 実はこの三輪山には古代に強力な王権があって、ときの天皇家との争いがあったので
す。これについては改めて述べる予定ですが、三輪山の神が大和を代表する神であった
ことは「万葉集」の額田王(ぬかたのおおきみ)の次の歌でも明らかです。
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       『三輪山をしかも隠すか雲だにも、
     情(こころ)あらなも隠さふべしや』(巻一、一八番)
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 実は、この大神神社と並んで注目すべき神社があります。それは京都府宮津市にある
「籠(この)神社」です。実は伊勢神宮の内宮が大和から移動して最初に落ち着いた元
伊勢の神社です。この神社は、伊勢神宮の内宮のみならず、外宮の祭神である豊受大神
も籠神社から直接伊勢に移っているのです。
 籠神社の宮司は代々海部(あまべ)氏が継いできており、現在の宮司で82代を数え
るといいます。ちなみに元内閣総理大臣の海部俊樹氏は、この海部一族の末裔に当りま
す。海部氏の系図の正式名称は「籠名神社祝部海部直等之氏系図」といい、これは学術
調査の結果、本物と認定され、1976年に国宝に指定されているのです。
 この系譜のトップ、すなわち始祖は「彦火明命(天火明命/火明命)」という神なの
です。ここでもう一度思い出していただきたいのは、天照大神の正式名である「天照国
照彦天火明櫛甕玉饒速日命」です。籠神社の主祭神「彦火明命」は、この名称の中央に
あるのです。この4神はすべて天照大神と同一神ですから、彦火明命は、天照大神とい
うことになるのです。
 なぜ、このように同一神が多いのでしょうか。誠に複雑極まりない話ではありません
か。このあたりのことを籠神社の第82代宮司、海部光彦氏は次のように説明していま
す。
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      『神様の世界は現実の世界とは違います。神は空間も時間も超
      越することができます。ときには、御霊を分け、いわゆる分身
      をつくることもあります。まあ、SF的かもしれませんが、私
      はこれを「多次元同時存在の法則」と呼んでいます』。
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 海部氏のいう「多次元同時存在の法則」をもっと具体的にいうと、次のようになりま
す。
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          1.法則は神様にのみ適用される
          2.神ゆえ時間と空間を超越する
          3.神は分身をつくることがある
          4.神の分身は別名となって表現
          5.同じ名前の神は同一神である
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 何でこのようなことをしたのでしょうか。
 神話というのはそのベースに事実があったとしても基本的にはフィクションです。現
実の事件から神話を創作するとき、ひとりの偉大なる神を複数の神にすればそれだけ多
くのキャラクターを使うことができます。それに古代の豪族たちは自らの出自に非常に
こだわっており、そういう場合、神の分身をつくれば自分たちの出自を偉大なる神に結
び付けることが可能になります。このようにして編纂されたのが、古事記であり日本書
紀なのです。複雑なのは当然でしょう。
 神社の場合は、これらの神の分身、すなわち別名を個々に取り出して祀るのです。古
い神社になれば、その別名を知ったうえで祀ることによって、記紀を編纂した体制側の
政治的圧力から神社を守ろうとしたと考えられます。
 このことから記紀神話の裏に潜む真実を探ろうとする方法が見えてきます。まず、分
身を突き止め、それを元の神にまとめあげればよいのです。そうすれば、複雑なフィク
ションの中から真実が見えてくるはずです。
 そういう意味において天照大神の場合は、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」とそ
の正式名がわかっていますから、謎を解く重要なキーになります。これにより、天照国
照彦、天火明、櫛甕玉饒速日命の4神はすべて同一神であることは分かっています。こ
れを手がかりにして天照大神から天皇の系譜を解いて行くと、驚くべき事実が明らかに
なるのです。                  ・・・[日本人のルーツ/03]

6.2籠神社/海部光彦氏.jpg
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2008年06月03日

●ニギハヤヒ命は意図的に隠されている(EJ第590号)

 古代の神様の名前でだれでもよく知っているのは、天照大神、大国主命、ヤマトタケ
ル命、スサノオ命ぐらいのものではないでしょうか。この中で一番有名なのは、おそら
くヤマトタケル命ではないかと思います。
 ヤマトタケル命は、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を使ってヤマタノオロチを退治
したのですが、この話は『ヤマトタケル』という映画にもなっています。
 しかし、このヤマトタケル命――日本武尊というネーミングから見ても非常にウソっ
ぽい感じがします。実はこれとそっくりの神話が別にあるからです。その神話の主人公
は、スサノオ命であり、話はヤマトタケル命の話とまったく同じです。
 スサノオ命は、ヤマタノオロチを退治し、その体内から一振りの剣を取り出すのです
が、これが「天叢雲剣」(あめのむらくもの剣)です。ヤマトタケル命がオロチの退治
に使った「草薙剣」はこの「天叢雲剣」なのです。したがって、これから次の図式が成
立します。
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        ヤマトタケル命=草薙剣=天叢雲剣=スサノオ命
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 これにより、ヤマトタケル命はスサノオ命と同一人というこになり、一応矛盾は解消
します。
 続いて、大国主命(おおくにぬしのみこと)について考えましょう。大国主命といえ
ば、因幡の白ウサギを助けた神様で、ヱビス様と並んで庶民にもっとも親しまれている
神様です。「大国」をそのまま「ダイコク」と呼んで「ダイコク様」という呼称さえあ
るのです。
 大国主命と似た名前に「大物主命」があります。記紀神話によれば、大物主命は三輪
山に鎮座する大神であり、その正体は蛇とされています。日本書紀によれば、大物主命
=大国主命とされていますが、神社伝承学の立場からいうと、大物主命=大国主命とい
うかたちで伝えている神社は、昨日のEJでご紹介した奈良の大神神社だけであり、他
の神社は両者を別神として祀っているのです。どうして別神なのでしょうか。
 大国主命はいわゆる小物であり、たまたま大物主命とことばが似ているために同一視
されたか、あるいは体制側の何らかの思惑によって、あえてそうさせたとも考えられま
す。このことはあとで次第に明らかになります。
 大国主命にはいくつかの別名があるのですが、そのなかに「八千矛神」(やちほこの
かみ)というのがあります。「矛」とは武器のことで、いくつもの剣を持った神という
意味になります。
 全国に「八」という字のつく神社が多くあります。八剣神社、八雲神社、八坂神社、
八重垣神社・・・。問題は、それらの祭神がスサノオ命であることなのです。千葉県に
ある八剣八幡神社の伝承には、八剣大神はスサノオ命であると記されているのです。
 神社伝承学によると、八千矛神の正体はスサノオ命であり、それがあるとき、体制側
の策略によって大国主命の別名とされ、大国主命と大物主命が同一視されるようになっ
て、スサノオ命とニギハヤヒ命が同じ八千矛神という名称を持つようになったというの
です。それにしてもその存在の重要性にもかかわらず、ニギハヤヒ命は不当にその存在
が隠されているように思います。
 以上のことから、次の図式が得られます。つまり、スサノオ命はニギハヤヒ命のこと
であり、それは天照大神を意味することになるということです。
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       ニギハヤヒ命=大物主命=大国主命=八千矛神=八剣神
       =スサノオ命
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 だれでも知っている神様、天照大神、大国主命、ヤマトタケル命、スサノオ命の関係
については概略明らかになったはずです。そのうえで天皇の系譜に戻ることにします。
 ここでEJ587号で述べた神武天皇東征の記述を思い出していただきたいのです。
神武天皇は生まれも育ちも九州ですが、ニギハヤヒ命も九州に土台を置いていたことは
確かです。
 ニギハヤヒ命はあるとき畿内に進攻し、先住民の王族と同化して、畿内王朝を成立さ
せたと考えられます。そのあと、神武天皇が同じく東征し、その畿内王朝と戦います。
ナガスネヒコ軍が抵抗して苦戦はしますが、神武天皇は勝利を収めます。
 その後ニギハヤヒ命はどうなってしまったのでしょうか。はっきりしないのです。一
般的にいって、敗れた者の歴史は残らないはずです。そういう意味でニギハヤヒ命の業
績が歴史書から抹殺され、歴史に残らなかったのでしょうか。
 それにしても全国の神社において、さまざまな神の名をもってニギハヤヒ命は祀られ
ています。記紀などの歴史書からは抹殺したが、神社の伝承からは抹殺できなかったの
でしょうか。
 もうひとつの考え方があります。初代天皇はニギハヤヒ命ではないかという考え方で
す。ニギハヤヒ命は、畿内を制圧し、畿内王朝を立ち上げ初代の天皇になりましたが、
神武天皇はその畿内王朝を制圧して天皇位を継承したという考え方です。そうすると神
武天皇は2代目の天皇ということになるのです。
 しかし、ニギハヤヒ命の別名には「天照大神」が入っているのです。神武天皇は天照
大神を最高神としていただいており、抹殺した名前を最高神にすることは絶対にあり得
ないことです。このあたりのことはアカデミズムにおいても明確ではないのです。
 ところで籠神社の主祭神は「火明命」ですが、神社の極秘の伝承によると、籠神社は
養老元年(717年)までは「彦火火出見命」(ひこほほでみ命)を祀っていたという
のです。ある事情により、「火明命」を祀るようになったというのです。
 これは何を意味するのでしょうか。「彦火火出見命」とはどういう神様なのでしょう
か。明日から、これをキーワードとして天皇の系譜の謎を解いていきます。
・・・[日本人のルーツ/04]

6.3大神神社.jpg
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2008年06月04日

●神武天皇は穂穂出見命の子供である(EJ第591号)

 昨日のEJでご紹介したスサノオ命には「牛頭天王」という面白い別名があります。
「牛頭」については、いろいろ面白い話があるのですが、ここでは「天王」に注目して
いただきたいのです。というのは、スサノオ命を祀る神社、例えば愛知県の津島神社な
どでは、神社の別名を「天王社」といっているのです。
 「天王」は一応「テンオウ」と読みます。太陽系第7番惑星である天王星などは「テ
ンオウセイ」と読みますね。しかし、連音で「テンノウ」と変化することは十分考えら
れます。つまり、天王は「天皇」に通じるのです。天王がスサノオ命をあらわすのであ
れば、天皇もスサノオ命をあわわすはずです。スサノオ命が古代の天皇であったとは考
えられないでしょうか。
 810年、平安時代のことです。時の最高権力者である嵯峨天皇は、津島神社につい
て次のように述べています。
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      『素尊(スサノオ命)は則ち(すなわち)皇国の本主なり。ゆ
      えに日本の総社と崇め給いしなり』。
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 皇国とは天皇の治める国であり、その本主というのですから、スサノオ命は日本の神
道における最高神であり、それを祀る津島神社は、あらゆる神社の中でも最高の神社で
あるといっているのです。これは、スサノオ命は皇祖、すなわち天皇家の直接的な先祖
であるということを意味しているのです。
 さて、古事記によると、天照大神の孫であるニニギ命には3人の子供があったと記述
されております。
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      1.火照命(ほでりのみこと)
      2.火須勢理命(ほすせりのみこと)
      3.火遠理命(ほおりのみこと)→ 天津日高日子穂穂手見命
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 このうち最後に生まれた「火遠理命」の別名が「天津日高日子穂穂手見命」(あまつ
ひこひこほほでみのみこと)なのです。
 神道の最高神である天照大神から初代の天皇である神武天皇までの系譜を、記紀を基
にして描くと次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→火遠理命→
        ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち「火遠理命」は「穂穂手見命」とイコールですから、系譜は次のようになり
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→穂穂手見命→
        ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、天照大神の正式名称は「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」であり、この中
の「天火明」は「火明命」を意味しておりこれは天照大神の別名です。また「火明命」
は「火遠理命」と同義語でありしたがって「穂穂手見命」とも同義語になります。系譜
は次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→ニニギ命→穂穂手見命→
       ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて着目すべきは「ニニギ命」です。天照大神の孫ということであり、正式名は、
「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」(あめにぎしくににぎしあまつひこひ
こほのににぎのみこと)と非常に長いのです。
 これは、天邇岐志国邇岐志=天津日高日子=番能=邇邇芸命という4つの神に分解で
きます。このうち「天津日高日子」は「穂穂手見命」の正式名ですから系譜は次のよう
になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに、記紀によると「ウガヤフキアエズ」の正式名は「天津日高日子波限建鵜葺草
葺不合命」(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)となります。
 これは、天津日高日子=波限建=鵜葺草葺不合命という3つの神に分解できますが、
天津日高日子=穂穂手見命ですから、系譜はさらに次のように変化します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       穂穂手見命→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最後は「オシホミミ命」ですが、この正式名は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」(ま
さかつあかつかつはやびあまのおしほみみのみこと)となります。
 これは、正勝吾勝=勝速日=天之忍穂耳命の3つの神に分解できるのですが、注目す
べきは「勝速日」です。これを独立した神とみなすと「勝速日命」となります。これは
「饒速日命」と非常に似ています。
 これを「勝・速日命」「饒・速日命」と分解すると、「勝」と「饒」は美辞句と考え
られ、「速日命」は共通しているので、同じと考えてよいと思います。そうすると、オ
シホミミ命=速日命=ニギハヤヒ命=火明命=穂穂手見命となって、系譜は次のよう変
化することになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→穂穂手見命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       穂穂手見命→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同一名は同じ神ということで、「穂穂手見命→神武天皇」ということになります。こ
れは何を意味するのでしょうか。         ・・・[日本人のルーツ/05]
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2008年06月05日

●ニギハヤヒ命は神武天皇である(EJ第592号)

 前回の分析の結果、「天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→火遠理命→ウガヤフキア
エズ→神武天皇」という系譜が、「穂穂手見命−神武天皇」になってしまうことを実証
しましたが、これは何を意味するのでしょうか。
 穂穂手見命はニギハヤヒ命のことですから、「ニギハヤヒ命−神武天皇」という系譜
が成立することになります。これは、すなわち、ニギハヤヒ命の子供が神武天皇である
というわけです。EJ590号で述べた初代天皇=ニギハヤヒ命であり、神武天皇は2
代目であるという説を裏付けることになるのです。
 しかし、本当は2代でしかないのに、なぜ架空の名前を使って5代までに水増しした
のでしょうか。それは、ズバリ天皇家が昔から連綿と続いていることを強調したかった
のです。長く続いているということは、自国民の誇りであり、他国への威圧にもなった
からです。
 ここで記紀に掲載されているある神話をご紹介しましょう。
 高千穂の峰に降り立ったニニギ命は、土地の神であるオオヤマツミ命の歓待を受けま
す。そして、2人の娘が差し出されるのです。姉は、イワナガ姫といい、妹は、コノハ
ナサクヤ姫といったのですが、姉は醜く妹は容姿が美しかったといいます。
 ニニギ命は、イワナガ姫を退け、コノハヤサクヤ姫を召して子供を産ませるのです。
イワナガ姫は大いに恥じて「今後ニニギ命の子孫は木の花のように命が短くなる」とい
う呪いをかけるのです。ニニギ命の子孫とは人間のことであり、この呪いによって人間
は、有限な命しかもてなくなったといいます。
 一方コノハナサクヤ姫はニニギ命と一夜を共にしただけで妊娠します。ニニギ命は子
供の父について疑いを持ったので、コノハナサクヤ姫は自分の潔白を証明するとして、
戸のない八尋殿に閉じこもり、その室に火をかけて3人の皇子を出産したのです。
 そのさい、最初に火焔が燃え立つときに生まれた皇子をホスセリ命(火須勢理命)、
次に火が盛んに燃えているときに生まれた皇子をホデリ命(火照命)、最後に炎が収ま
るときに生まれたのがホオリ命(火遠理命)なのです。これらの3皇子の名前は記紀に
よってそれぞれ違うのですが、3人とも「火」がついており、これら3兄弟は「炎の中
から生まれた3火神」と呼ばれているという点では一致しています。
 ここで話を整理しておきたいと思います。
 EJで古代史を取り上げているのは、日本人の先祖がユダヤ人ではないかという「日
ユ同祖論」の解明にあります。そのためには、日本人のルーツ、具体的には大和朝廷が
どのようにできたかを明らかにする必要があります。その手がかりを得るため、天皇の
ルーツを探索しているわけです。
 大和朝廷や天皇家のルーツをたどるためには、記紀の膨大な神話の森の中に分け入ら
なければなりません。神話は虚々実々ですから、不用意に多くの学説を読んだりすれば
わけがわからなくなります。そこで、独特のアプローチと手法で真相に迫ろうとしてい
るのです。
 天照大神の正式名は、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」です。このことから、天
照国照彦、天火明、櫛甕玉、饒速日命の4神は同一神ということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          天照国照彦 ・・・ 天照大神
          天火明 ・・・・・ 火明命=穂穂手見命
          櫛甕玉 ・・・・・ 大物主命=スサノオ命
          饒速日命 ・・・・ ニギハヤヒ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまで登場した神の中に、「天皇」という称号と深い関係を持っている神は「スサ
ノオ命」だけです。津島神社には、「素尊(スサノオ命)」を祀り、「皇国の本主」と
伝えています。
 ここで思い出していただきたいのは、例の籠神社の主祭神が、かつては「彦火火出見
命(穂穂手見命のこと)」であったのに、養老元年から、なぜか「火明命」に変更にな
っており、それが極秘の扱いになっていることをです。ホホデミ命をなぜか隠そうとし
ていることです。
 EJ590号では、すでに次の図式を得ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニギハヤヒ命=大物主命=大国主命=八千矛神=八剣神
       =スサノオ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ニギハヤヒ命=スサノオ命なのです。そうすると、これから次の式が得られ
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニギハヤヒ命=スサノオ命=天皇=火明命=ホホデミ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本書紀に「神日本磐余彦火火出見尊」(かむやまといわれびこほほでみのみこと)
とあり、天皇名で呼ぶときは、「神日本磐余彦火火出見天皇」または「神日本磐余彦天
皇」と称するのです。
 これは、何を意味することになるのでしょうか。
 これは「ホホデミ命=天皇」を意味するのです。要するにホホデミ命は初代天皇であ
る神武天皇ということになるのです。そうすると、次の驚くべき図式が明らかになりま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          天照大神=ニギハヤヒ命=神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 籠神社の主祭神を変更したのは、「ホホデミ命」というキーワードが分かってしまう
と、すべてが分かってしまうので、これを隠そうとしたものと思います。
 天照大神から神武天皇にいたる系譜は、すべて神武天皇の分身の列挙に過ぎなかった
のです。連綿と続く神の名前や天皇の名前はすべてが実名とは考えないものの、まさか
こんな結論になるとは誰も考えないでしょう。これだけではないのです。神武天皇以下
の天皇も実在しない天皇が非常に多いのです。   ・・・[日本人のルーツ/06]
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2008年06月06日

●15代応神天皇が初代天皇である(EJ第593号)

 前回「天照大神=ニギハヤヒ命=神武天皇」という衝撃的な事実をご紹介しました。
これによると、「天照大神は神武天皇である」ということになります。ところで「天照
大神=神武天皇」とは、何を意味するのでしょうか。
 古代の神話の中には、さまざまな神や人間が登場します。天照大神は神ですが、神武
天皇は人間なのです。神武天皇という人間の中に皇祖神としての天照大神が存在するの
です。つまり、天照大神には、2つの意味があるのです。1つは神としての天照大神で
あり、もう1つは、人間としての天照大神です。この人間としての天照大神が神武天皇
なのです。天皇が現人神といわれた時代がありましたが、このような考え方からきてい
るのです。
 さて、天皇の系譜では、神武天皇からはじまって崇人天皇までが10代ですが、第2
代の綏靖天皇から第9代の開花天皇までの8代は「欠史8代」といって実在しないこと
が明らかになっていることは既に述べました。
 このことから、次の式が成立し、初代天皇は崇人天皇ということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            天照大神=神武天皇=崇人天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは、この崇人天皇はどういう天皇だったのでしょうか。
 崇人天皇については、朝鮮半島から日本列島に侵入してきた騎馬民族の大王であると
いう説があるのです。しかし、この詮索はここではふれないことにします。
 昨年末に中公新書から刊行された遠山美都男氏の著作、『天皇誕生/日本書紀が描い
た王朝交替』の冒頭に興味深い逸話が紹介されているので、ご紹介しましょう。
 日本人のある僧侶が中国第2代皇帝、太宗に謁見したという話があります。時は中国
、北宋の時代、日本では平安時代の前期に当ります。そのときその僧侶は「王年代記」
なるものを太宗に提出したというのです。「王年代記」には、天御中主に始まる神々の
系譜に続き、神武天皇から円融天皇(第64代)までの名前が連綿と書き連ねられてい
たといいます。
 引見のあと、太宗はある宰相を前に深い嘆息をもらし、次のように語ったというので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『日本など、所詮は島国の夷人にすぎぬ。それなのに、王位を
      代々世襲してはるかに長く、その臣下もみな世襲して絶えるこ
      とがないという。・・島国の夷人とはいえ馬鹿にはできぬぞ。
      これぞ古の道にかなうものだからだ』。(前掲書より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読むと、架空の神や天皇を多くはさんだ意味がよくわかると思います。万世一
系の系譜には大変な価値があったのです。さて、天皇位に就くまでの記録は残っている
が、そのあとの記録のない神武天皇と、就任までの記録はないが、就任してからの記録
がある崇人天皇とは、2人の天皇を合わせると、ぴったりと1人分になります。そのた
め「神武天皇=崇神天皇」という式が成立することになります。
 ところで、名前に「神」がつく天皇がもう1人います。第15代応神天皇です。現在
の天皇、今上天皇は125代になりますがその125天皇中「神」のつく天皇は神武、
崇神、応神の3人しかいないのです。
 応神天皇は九州の筑紫で生まれたとされています。成人になると応神天皇は九州を出
て畿内へと進出し、そこで王権を確立します。九州から畿内へ騎馬民族の大集団が侵攻
し、先住民を征服して大和朝廷を開いたとされているのです。また、応神天皇の拠点が
河内地方にあったので、この王朝を「河内王朝」と呼ぶこともあります。
 しかし、この話は何かに似ていると思いませんか。そうです。神武天皇の東征とそっ
くりです。神武天皇は日向で生まれ、一時筑紫にも住んでいます。その宇佐を経て、や
がて畿内へと侵攻しているのです。まさにそっくりです。アカデミズムも神武天皇と応
神天皇の伝説が非常に似ていることを認めています。この関係から次の式が成り立ちま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           神武天皇=東征ルート=応神天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神社伝承学の立場からも検証してみます。応神天皇という人は非常に多くの神社で祀
られているのです。その神様の名前は「八幡神」です。どこにでもある八幡神社です。
 八幡神信仰の発祥の地は北九州です。現在、八幡信仰の中心地には、宇佐八幡宮があ
ります。宇佐八幡宮の「宇佐」は神武天皇が住んでいたとされる土地です。
 また、鹿児島に鹿児島神宮という神社があります。この神社は別名「本八幡宮」とい
うのです。この本八幡宮の主祭神はあの「天火火出見尊(あまのほほでみのみこと)」
なのです。
 また八幡神の「八」に注目すべきです。八坂神社、八雲神社八重垣神社、八剣神社、
八千矛神社とくれば、スサノオ命です。八幡神の正体はスサノオ命と考えられます。
 このことから、次の式が得られます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      応神天皇=八幡神=スサノオ命=ニギハヤヒ命=ホホデミ命
      =神武天皇=崇神天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これにより、神武天皇、崇神天皇、応神天皇の3天皇は同一人物であることがわかり
ます。天皇の系譜は、第2代から第9代の「欠史8代」だけではなく、第11代〜第1
4代についても存在しない天皇だったのです。   ・・・[日本人のルーツ/07]
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2008年06月09日

●騎馬民族征服王朝説は正しいか(EJ第594号)

 神武天皇、崇神天皇、応神天皇は同一人であるということを前提にして古事記から天
皇が何をやったかをクールに調べてみるとそれが「相次ぐ戦い」であったことがわかり
ます。それも圧倒的な戦力で、刃向う勢力を次々と制圧して行く、明確な目的をもった
戦いなのです。
 その侵攻ルートは、九州から畿内へと軍を進め、難波、河内地方にも王権を確立して
います。その目的は、日本列島の征服なのです。古事記は神武天皇をそういう侵略者、
征服者として描いているのです。神武天皇は日本列島の征服者であり、侵略者であり古
代の覇王だというのです。
 神武=崇神=応神のいずれの天皇もその出発点は九州ですが、イメージとしては、日
本の外から九州に上陸し、九州を平定してから畿内に攻め上ったと考える方が自然であ
ると思います。それなら神武天皇はどこから渡来してきたのでしょうか。
 応神天皇の時代に朝鮮半島から多くの渡来人がきているという事実があります。秦氏
、漢氏、呉氏、王仁氏・・・など、ほとんどの渡来人はこの時代にきているのです。し
かも、数が非常に多いのです。あの秦氏にいたっては、最終的には1万人もきているの
です。
 こういうことから、応神天皇自体も渡来人ではないかという説もあるのです。歴史学
者の井上光貞氏は、応神天皇は、朝鮮半島から直接渡来してきた大王であるとし、初代
天皇こそ応神天皇であるとする「応神天皇始祖論」を展開しています。
 そのことはさておき、「神武天皇=崇神天皇=応神天皇」の3人の天皇が活躍した時
代を中をとって崇神天皇の時代とすると、大体4〜5世紀に相当するのです。
 この時期が日本征服の時期であるとすると、非常に興味深いことがあるのです。ちょ
うど、その直前に歴史上から姿を消した国があるからです。それが邪馬台国なのです。
応神(神武)天皇が征服した国とは、邪馬台国のことではないでしょうか。
 中国の史書「魏志倭人伝」の記述が正しいとすれば、卑弥呼が魏に使者を送ったのは
239年のことです。その後、卑弥呼が死んで男王が立ったのですが、邪馬台国は大混
乱に陥ります。
 そこで、台与(とよ)という女王が王位をつくと、何とか混乱は収まったのです。こ
れが250〜260年ごろのことです。ところが、一方の中国が大混乱して魏が滅亡し
てしまうのです。そして、それに代わって覇権を握ったのは、西晋(せいしん)という
国なのです。
 邪馬台国の女王台与は、266年に西晋に使いを送り、正式に国交を樹立します。
「魏志倭人伝」は、この時期に完成しているのです。ところが、266年に台与が西晋
に使いを送ったという記録を最後に邪馬台国は歴史上から姿を消してしまうのです。そ
して邪馬台国はいまもってその行方は知れないのです。
 ここで注目すべきは、東京大学名誉教授江上波夫が唱える「騎馬民族征服王朝説」で
す。この説によると、4世紀頃、大陸の騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入
し、邪馬台国をはじめとする倭国を次々と征服して中央集権的な国家を作りあげたのです。これが大和朝廷だというのです。
 これについて少し研究してみましょう。
 紀元1世紀ごろに朝鮮半島に存在した国家というと、次の3つが上げられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.馬韓(ば かん) ・・
       2.辰韓(しんかん)  ・・・・ 古代朝鮮3韓
       3.弁韓(べんかん) ・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初は、「馬韓」があったのです。そこに秦(しん)の国の人が多くやってきたので
す。秦の役を避けてきたと文書に記されています。彼らは馬韓の人たちとは生活習慣が
違うので、別々に住むようになったというのです。
 彼らは万里の長城よりも外側に住む非漢民族の遊牧民であり、多くの民族からなって
いたのです。その中には騎馬民族も含まれています。彼らは朝鮮半島にやってきてから
「辰韓」と「弁韓」という2つの国家分かれるのです。その内実は、それぞれ12の国
(全部で24国)からなっており、その中にはあの謎の渡来人秦氏も含まれていたので
す。
 さて、辰韓と弁韓は、両国をあわせて「弁辰」と称するようになり、ひとりの大王を
いただくのです。これが幻の大王といわれる「辰王」なのです。彼は、騎馬民族出身の
大王であり、弁辰で朝鮮半島の3分の2を領土としたのです。
 当初は、馬韓の支配下にあった辰王ですが、徐々に勢力を拡大し、馬韓領内の「月支
国」(げっしこく)をその支配下に置くようになり、馬韓にも影響を与えるようになり
ます。
 紀元3世紀になると、朝鮮半島に異変が起こります。それまで国家の中の一民族の力
が拡大し、国全体を変化させてしまったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        馬韓 → 百済(くだら)
        辰韓 → 新羅(しらぎ)
        弁韓 → 伽耶(か や)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この異変に対して月支国にいた辰王はリーダーシップを発揮しそのまま百済の王に
なるのです。この時点で馬韓は騎馬民族国家に姿を変えるのです。そして、辰王の宗家
は、もともとの拠点であった弁辰の地へと移動します。そこは、かっての弁韓の地であ
り、当時伽耶の領地となっていたのです。記紀では、この地を、「任耶」(みまな)と読
んでいますが、この名前を覚えておく必要があります。そこは、朝鮮半島の南端です。
 このとき、中国にも異変が起こっていたのです。西晋の中国統一が崩れはじめたので
す。                     ・・・ [日本人のルーツ/08]


6.9朝鮮半島.jpg
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2008年06月10日

●紀元4世紀の日本に何があったか(EJ第595号)

 日本の古代史に「4世紀の謎」というものがあります。今朝はこの話からはじめま
す。
 紀元2〜3世紀の中国といえば、戦国時代、「三国志」の時代です。魏、蜀、呉の3
国が覇権を争い、お互いに一進一退を続けていたのです。そして、結局は漢王朝を継承
する魏が勝利して、三国志の時代は終るのです。
 邪馬台国の女王、卑弥呼は魏とかねてから親交を深めていたのです。そのため史書
三国志」の中の「魏志」には「倭人の条」が設けられているのです。これが「魏志倭人
伝」です。
 卑弥呼が死んで、男王が何人か立ったのですが、国内が反乱し情勢が不安定になりま
す。しかし、女王台与が即位すると混乱は収まるのです。ちょうどその頃中国には異変
が起こります。西晋が魏を滅ぼして天下をとります。台与は直ちに西晋の皇帝に遣いを
派遣して親書を送るのです。これが266年のことです。
 邪馬台国にとってこれが歴史に残る最後の記録となります。以後中国の歴史書に「倭
国」の文字はないのです。つまり邪馬台国は歴史から消えてしまったのです。そして、
再び倭国の名前が登場するのは5世紀になってからです。その間ちょうど100年間、
倭国の歴史はスッポリ消えてしまったのです。
 3世紀までの記録はあるのですが、次に記録があらわれるのが5世紀ということです
から、世紀の記録が消滅してしまっているということです。しかし、これだけなら「謎
の4世紀」とはいわないのです。もっと大きな謎があるからです。
 それは、3世紀までの日本と5世紀以降の日本とでは、文化が劇的に変わってしまっ
ているからです。3世紀までの日本は小さな国単位の農耕文化だったのですが、5世紀
以降の日本は中央集権的な古墳文化へと姿を変えてしまったからです。そのため4世紀
を「謎の4世紀」と呼ぶのです。
 一体4世紀に何があったのでしょうか。
 紀元4世紀に最も変化したのは墳墓なのです。それまでは、全長が数メートルから大
きくても十数メートルほどの墳丘墓が中心だったのが、5世紀には一気に100メート
ルを超える古墳が出現しているのです。形も円墳、方墳などといった単純なかたちから、鍵穴の形をした前方後円墳が主流となっています。
 第16代の仁徳天皇の陵墓は、全長が475メートルもあり、世界的に見ても、面積
ではエジプトのピラミッドや中国の秦の始皇帝陵墓をも上回る超巨大墳墓なのです。
 これらの巨大な古墳をすべて発掘すれば古代史の重要な手がかりがつかめますが、巨
大古墳はそのほとんどが古代天皇の陵墓に指定されていて手が出せないのです。そのた
め、4世紀は一層謎につつまれたままです。
 しかし、天皇陵墓に指定されていない古墳からはいろいろな事実がわかってきていま
す。その特徴は次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.農耕儀礼で使われるものから黄金の装飾品
       2.馬具、鉄製の鎧、矢尻が多数出土している
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3世紀までの出土は、農耕儀礼で使われる鏡、勾玉、剣が中心だったのですが、巨大
墳墓からは黄金の装飾品、王冠、首飾り、腕輪、指輪などのきらびやかな品が多く出土
しています。
 もうひとつ特徴的で注目すべきことは、馬具が多く出土していることです。馬面の冑
(かぶと)、鞍、馬の埴輪など馬に関連した品々が数多く出土していることです。
 「魏志倭人伝」によると、倭国には、牛や馬などの家畜は存在しないと明確に記され
ているのです。それなのに、なぜ、馬に関する品が出てくるのでしょうか。
 馬だけが海を渡って日本に来るはずはありませんから人間も一緒に来ているのです。
それに巨大墳墓の数々の副葬品は朝鮮半島のものにとても似ているのです。
 ここで、ひとつの仮説が立てられます。朝鮮半島の何らかの勢力が馬と共に九州に侵
攻したちまち九州を平定、しかるのち畿内に攻め上ったのではないかという仮説です。
つまり、日本は朝鮮半島からのある勢力に征服されたという説です。
 この仮説を多くの資料から裏付けたのが、東京大学名誉教授である江上波夫氏が主張
する「騎馬民族征服王朝説」なのです。しかし、記紀の編纂者は、万世一系の天皇のか
たちを整えるため神武天皇にはじまって、応神天皇まで15代の天皇が続いたというウ
ソの記述をして真の歴史を隠したのです。
 江上氏の「騎馬民族征服王朝説」を検証するには、昨日に続いて当時の朝鮮半島の状
況についてもっと知る必要があります。朝鮮半島から海をわたってどういう民族が日本
を襲ったのか特定しなければならないからです。
 紀元3〜4世紀は、中国大陸の混乱を受けて朝鮮半島情勢も不安定になっていたので
す。北方の騎馬民族「高句麗」が南下して百済、新羅、伽耶に脅威を与えるようになり
百済の王の辰王は伽耶にきていたのです。伽耶は「任那」(みまな)と呼ばれ、日本と
は深いかかわりのある国なのです。
 しかし、北方の騎馬民族の脅威が日増しに強くなるに及んで、辰王は進路をさらに南
に向けて、倭国を目指すことを決めます。辰王は、以前から朝鮮半島と交流のあった北
九州の諸国と緊密な連絡をとり、朝鮮半島の南端から対馬、壱岐へと進み、九州に上陸し、瞬く間に騎馬民族の機動力を発揮して九州全土を平定してしまいます。
 辰王は、九州の倭国と連合国家というかたちで平定し、5世紀になって東を目指して
進軍、畿内に攻め入り、強大な王権を築くのです。これが大和朝廷であるとするのが江
上氏のいう「騎馬民族征服王朝説」なのです。
 実は「騎馬民族征服王朝説」の発表によって、神武天皇からの15代に大きなウソが
あることがはっきりしてきたのです。ところで辰王とは何者なのでしょうか。
                        ・・・[日本人のルーツ/09]


6.10馬の埴輪.jpg

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2008年06月11日

●騎馬民族軍団の辰王は応神天皇である(EJ第596号)

 4世紀において、朝鮮半島から日本列島に進入してきた騎馬民族の大王、辰王は果た
して何者でしょうか。
 騎馬民族征服王朝説の江上教授は、第11代崇神天皇こそ辰王であるというのです。
どうしてそう断定できるのでしょうか。
 そのカギは「任那(みまな)」にあります。任那とは朝鮮半島の南端の伽耶(かや)
のことです。古事記によれば、崇神天皇には「所知初国之御真木天皇」という名前があ
ります。この中の「御真木/ミマキ」という部分に注目していただきたいのです。日本
書紀では字が違うものの、やはり「御間城」とあり、これも「ミマキ」と読むことがで
きます。
 江上教授は「任那」を「ミマ・ナ」と分解。朝鮮語で「ミマ」は大王、「ナ」は国と
解釈し、「大王の国」の意味であるとしてこれが騎馬民族の大王、辰王の国であると考
えたのです。さらに江上教授は、「御真木/ミマキ」は「ミマ・キ」と分解し「キ」は
城であるとして、大王の城と解釈したわけです。
 どうして大陸の「任那」と自分の名前を関連づけたのでしょうか。そんなことをする
必要がどうしてあるのでしょうか。
 これについて作家の井沢元彦氏が、その著書『逆説の日本史』の中で興味深いことを
述べておられます。
 1066年にフランスの地方豪族であったノルマンディー公ウイリアムは、ドーバー
海峡を渡ってイングランドに侵入します。そして、先住民を征服して諸国を統一、自ら
「ウイリアム1世」と名乗ってノルマン朝を開いたのです。
 ウイリアム1世の子孫はイギリスの土地になじんでイギリス人になりましたが、ウイ
リアム1世はあくまでフランス人です。自分の故郷であるノルマンディーは重要な拠点
であり、そこに強い愛着を感ずるのは当然のことです。事実、ウイリアム1世は死後ノ
ルマンディーに埋葬されているのです。
 この井沢氏の説を江上教授の騎馬民族征服王朝説に当てはめると、崇神天皇にとって
朝鮮半島はフランス、伽耶=任那はノルマンディー、日本列島はイギリス、大和朝廷は
ノルマン朝に該当するといえます。
 さて、すでにEJでは、神武天皇=崇神天皇=応神天皇という結論を出しています。
これら3人の天皇は同一人であり、初代天皇は応神天皇であるという主張です。その結
果、2代から9代、11代から14代の12人の天皇はすべて架空の天皇ということに
なるのです。アカデミズムでは、2代から9代までについては「欠史8代」としてそれ
を事実と認めています。
 記紀では、この3人の天皇を巧妙に使い分けています。象徴としての神武天皇、九州
を平定した崇神天皇、畿内に攻め上り、大和朝廷を開いた応神天皇というように、本来
1人であるはずの天皇をこのように使いわけているのです。
 しかし、日本の初代天皇は応神天皇です。神武天皇、崇神天皇は応神天皇の投影に過
ぎないのです。このように考えると、朝鮮半島から日本列島に侵攻してきた辰王は、応
神天皇ということになります。
 応神天皇の率いる騎馬民族軍団は圧倒的な軍事力を持っていたのです。彼らにとって
当時の倭国などは、取るに足らない存在であったと思います。したがって先住民すべて
を虐殺して征服することも可能だったはずです。
 しかし、応神天皇はそういう方法は採らなかったのです。先住民を懐柔し、自らが倭
国の王家に婿入りすることによって倭国との連合をスムーズに果たし、そのうえで君臨
したのです。このようにして、九州王朝が確立するのを待って、その拠点を一気に畿内
に移したのです。
 それでは応神天皇の婿入りした王家とは、具体的にはどの王家を指すのでしょうか。
 結論からいうと、応神天皇が渡来してきた日本列島は物部王国だったのです。いずれ
EJでも取り上げますが、物部氏は、海部氏、尾張氏とイコールであることがわかって
います。また、この物部王国こそ邪馬台国であるという説があるのです。アカデミズム
もこれに肯定的です。
 3世紀までの倭国は、弥生文化といって小さな部族が連合した農耕中心の国家だった
のです。その当時日本列島を支配していたのが邪馬台国であり、女王卑弥呼が君臨して
いたのです。その卑弥呼が死んだあと、何人かの男王が王位を継ぐのですが混乱が続き
台与(とよ)という女王が、就任して混乱が収まったということを昨日のEJで述べま
した。
 台与は西晋が魏を滅ぼし、中国を平定したと聞くとその国交樹立のため動いています
が、4世紀になると邪馬台国は歴史上から姿を消してしまうのです。そして、5世紀に
なると、農耕国家であったはずの倭国の文化はガラリと変わっていたのです。それもま
るで別の国になってしまったような変わり方なのです。
 この4世紀に朝鮮半島から応神天皇の一族が海を渡り日本に侵入し、征服してしまっ
たというのが騎馬民族征服王朝説の考え方なのです。それなら、文化が変わっても不思
議はないですね。そうすると、応神天皇の一族が電撃的に邪馬台国を征服したことにな
るのです。
 実は、記紀の編纂者はあらゆる手段を駆使して抹殺しようとしていますが、邪馬台国
2代目の女王の台与には卑弥呼を殺害したという疑いがあります。記紀では台与の存在
とその行為を隠そうとして、台与の業績を「神功皇后」という天皇家の一員にかぶせる
ことによって事実を隠蔽したとされています。
 「神功皇后」については、ここまで言及していませんが、夫は仲衷天皇(第14代/
架空)、その子供が応神天皇なのです。したがって実在した人物であることは確かなの
ですが、その行動は謎につつまれています。彼女は天皇ではありませんが、その名前に
「神」が使われており、大和朝廷にとって重要な人物であることは確かです。・・・[日本人のルーツ/10]                       
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2008年06月12日

●神社神道も騎馬民族の信仰である(EJ第597号)

 既にいろいろ述べてきたように、日本人の文化の深層には、南方系農耕文化と北方系
騎馬文化が混在しています。日本人は、この両方の文化の影響をもろに受けているので
す。
 それでは、日本古来の神道はどこからきたのでしょうか。神道の儀礼の中心は稲作で
あり、南方系農耕文化からきているという説はそれなりに説得力があります。
 しかし、神道で欠くことができないのは神社です。EJで取り上げてきた日本の古代
史の究明においても、神社というものを抜きには考えられないのです。
 ちなみに名前を知っている神社を上げてみてください。伊勢神宮、八幡神社、松尾大
社、日枝神社、氷川神社、出雲大社、諏訪神社、靖国神社、白山神社。少し年配の人で
あれば、最低でも10くらいの神社名をあげることはできるはずです。それほど、神社
は日本人の生活と切っても切れない関係にあります。
 その神社の主祭神はどうでしょうか。
 天照大神、八幡神、スサノオ命、大国主命、松尾大神・・、そのほとんどは、神武天
皇の別名です。神武天皇は騎馬民族であることは既に解明してきましたが、そういうこ
とから、神社は騎馬民族の文化であると考えざるを得ないと思います。
 それに、神社の創建者を調べると、秦氏、加茂氏、漢氏、辛嶋氏、三輪氏・・・とい
うように、渡来系が非常に多いのです。この中で特徴があるのは、古い神社でそれなり
の格式を持っている神社、例えば大神神社、籠神社、龍田神社、広瀬神社、熊野三山、
玉置神社、大和神社などのほとんどは崇神天皇の創建になっていることです。
 ここで思い出していただきたいのは、日本列島に侵入してきたと考えられる騎馬民族
は、先住民を虐殺したりせず、王家に婿入りするなどして、時間をかけて先住民との同
化政策をとったとみられることです。そうであるとすると、南方系の農耕文化と北方系
の騎馬文化が混合しても不思議はないのです。
神道は大別すると、次の3つがあるといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.縄文神道 ・・・・・ アミニズム
       2.弥生神道 ・・・・・ 稲作・農耕信仰
       3.神社神道 ・・・・・ 祈りの場所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 縄文神道とは、日本列島における最古の信仰といわれます。自然界におけるあらゆる
存在に神が宿っていると考えるのです。山の神、海の神、岩に宿る神など、日本人がも
っとも素朴に抱いている信仰といえます。
 これに対して弥生神道とは、稲作をはじめとする農耕に関連した神々の信仰のことで
す。畑作の豊作を祈念したり食物の神が対象となるのです。大嘗祭(だいじょうさい)
における稲作に関わる神々への信仰は弥生神道をルーツとするものです。
 縄文神道と弥生神道における神の祭場は基本的には自然そのもの、大きな樹木とか、
大きな岩に神が宿るという考え方です。以上は紀元3世紀までの神道なのです。
 神社神道は、祈りの場として建物を建立するということに特色があります。これが神
社です。いつ頃から神社が建立されるようになったかについては諸説がありますが、弥
生時代の後期から古墳時代にかけてということなので、やはり4世紀から5世紀という
ことになります。
 古い神社伝承によると、創建者は古代天皇が多いのです。中でも崇神天皇と応神天皇
が多いのです。既に述べたように、神武天皇=崇神天皇=応神天皇はですから、すべて
同一人なのですが、記紀では、3人の天皇を次のような役割づけをしています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       神武天皇 ・・・・・ 武力 ・・・ 軍事的な征服者
       崇神天皇 ・・・・・ 崇拝 ・・・ 宗教的な司祭者
       応神天皇 ・・・・・ 応答 ・・・ 政治組織統治者
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神社の創建者に古代天皇が多いというところから、神社神道は明らかに騎馬民族の信
仰といえます。この神社が遠くイスラエルにつながってくるのです。
 鎌田東二著『神道とは何か/自然の霊性を感じて生きる』(PHP新書)の冒頭に折
口信夫について次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『民族学者折口信夫の著書に「古代研究」がある。その第二巻
      「民俗学篇」の冒頭は「妣が国へ常世へ」と題されたエッセイ
      である。(中略)折口信夫は大王崎という、伊勢の志摩半島の
      岬の突端に立ったとき、自分の中にわき起こってきたノスタル
      ジーについての言及からこのエッセイをはじめている。私たち
      の祖先が悠久の過去に太平洋の荒波ほ渡ってこの島にやってき
      た。黒潮を前にしてはるかかなたの海上を望んだとき、なんと
      も名状し難い望郷の念、ノスタルジックな感情がわき起こって
      きたことを折口信夫は一つの驚異の体験として描いている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [日本人のルーツ/11] 
posted by 管理者 at 03:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人のルーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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