2008年05月12日

●ウィーンにおけるオザワの評価(EJ第1011号)

 今回のテーマは小沢征爾論です。2002年にウィーン国立歌劇場音楽監督に就任し
た小沢征爾は病気療養のため、2006年度ウィーンでの活動を降板して日本で音楽活
動を再開しました。
 この記事は、2002年12月18日から2003年1月7日までの9回にわたって
連載したものの再現版であることをお断りしておきます。
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 年末年始になると、きまって話題になるのがウィーン・フィルというオーケストラで
す。元旦の夜には、NHKテレビでニューイヤーコンサートが放映されることも、この
オーケストラが年末年始に話題になる原因でもあります。
 まして、今年の元旦は、小沢征爾がニューイヤーコンサートの指揮者として初登場し
たこともあって、例年以上にウィーンフィルが話題になった年でもあったのです。
 ウィーン・フィルに関する本も多数出版されていますが、中でも、現在、音楽プロデ
ューサーとして活躍しておられる中野 雄(たけし)氏の著作『ウィーン・フィル/音
の響きの秘密』(文春新書279)は、ウィーン・フィルに関する情報満載の好著であ
るといえます。
 ところで、今年のウィーンの秋の音楽の話題は「オザワ」一色であったようです。小
沢征爾が国立歌劇場の音楽監督として指揮した初のオペラは、ヤナーチェク作曲の『イ
エヌ−ファ』だったのですが、これが大好評だったからです。
 今年のニューイヤーコンサートのオザワの指揮ぶりについては、EJでも取り上げた
通り、大変見事な演奏だったのですが、日本国内の批評家や演奏家によると、賛否両論
に分かれるのです。
 EJでも取り上げた音楽評論界の大御所的存在である吉田秀和氏は、2001年のニ
ューイヤーコンサートに登場したニコラウス・アーノンクールの指揮はつまらないと切
り捨てたうえで、オザワの指揮を絶賛しています。しかし、ウィーン・フィルの方はこ
のアーノンクールを大変高く評価しており、2003年のコンサートはアーノンクール
に決まっているのです。
 昨年のニューイヤーコンサートを現地で聴いたピアニスト西野真由さんは、次のよう
にいっているのです。
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       現地で聴いたのですが、アーノンクールとウィーン・フィル
      のコンビには、匂い立つような気品が感じられました。小澤さ
      んの指揮には、テレビで見た限りですが、あの気品は備わって
      いないみたい・・・/西野真由さん
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 今年のニューイヤーコンサートのリハーサルのときの秘密の情報があります。オザワ
は、ワルツ独特の微妙な揺れがうまくできずに、テレビが入っていない日は、一曲終る
ごとにコンサートマスターを隅っこに呼んで、険しい表情で指導していたそうです。と
ても険悪なムードで、廊下でオザワとすれ違った団員も肩をすくめる始末だったようで
す。本番の指揮者と団員の和やかなムードからは信じられないような話ですね。
 ヨハン・シュトラウスの作ったウインナワルツのリズムは、演奏のさい、2拍目が微
妙に長くなるのだそうです。楽譜には4分音符が3個並んでいるだけなのですが、あれ
を楽譜に忠実に演奏したら、ウィンナ・ワルツにならないし少なくともヨハン・シュト
ラウスの音楽にはならないのです。オザワはそれに悩んでいたのではないでしょうか。
 中野氏によると、今年のニューイヤーコンサートの最大のできは、ワルツ「ウィーン
気質」だというのです。この曲は、オザワの強い要望で加えられたプログラムだったそ
うです。
 中野氏が何をもって「最大のでき」と判定したのかというと、この曲の終了後、オザ
ワと握手を交わしているコンサート・マスター、ライナー・キュッヒルの表情がとても
満足しているように見えたからといっているのです。キュッヒルという人は、なかなか
こんな嬉しそうな顔はしない人だそうです。
 中野氏は、ウィーン・フィルのメンバーととても親しく、実際に会って話す機会も多
いので、そういうことがいえるのです。確かに、DVDで確認してみると、キュッヒル
は嬉しそうな表情を浮かべています。映像時代の音楽鑑賞は、こういうことがあとから
できるので、便利なのです。
 中野氏がこのライナー・キュッヒルにインタビューしたとき、「良い指揮者とは、ど
ういう指揮者をいうのですか」と聞いたのです。そうしたら、キュッヒルは間髪を入れ
ず、こう答えたというのです。
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        私たちの音楽を邪魔しない指揮者のことをいいます
                    ――ライナー・キュッヒル
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 とにかく、ウィーン・フィルというオーケストラは誇り高いのです。実際にそうであ
ったかどうかは闇の中ですが、今年のニューイヤーコンサートのリハーサルにおいて、
ウィーン・フィル対オザワは、決裂寸前までいったようなのです。中には、次のような
激しいことばも裏では囁かれたというのです。
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      古いウィーンの町。そこで暮らした人々の哀歓が染みついたア
      パートの壁紙とカーテン。そんなシミの意味も理解できないよ
      うな男にシュトラウスの音楽が振れてたまるか!
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                          ・・・ [小沢征爾論/01]

5.12中野 雄氏の本.jpg
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2008年05月13日

●ウィーン歌劇場は伏魔殿である(EJ第1012号)

 小澤征爾の正式な職名は「ウィーン国立歌劇場音楽監督」というものです。これと、
ウィーン・フィルハーモニー(以下、ウィーン・フィル)とはどういう関係にあるので
しょうか。
 ウィーン・フィルのメンバーは、すべてウィーン国立歌劇場の楽団員です。もっと、
具体的にいうと、ウィーン国立歌劇場付属の管弦楽団なのです。いうまでもないことな
がら、演奏する曲はオペラに限られます。
 しかし、世界有数の演奏家たちを抱えるオーケストラですからオペラしか演奏しない
のはあまりにももったいない話です。そこで、オペラ以外の曲も演奏することになり、
そのときだけ、オーケストラの名前をウィーン・フィルハーモニーと名づけることにし
たのです。
 しかし、このオーケストラ――本当に超保守的にして、超閉鎖的なオーケストラなの
です。それは、「自分たちのスタイル」に非常に強いこだわりを持っているからです。
 その「自分たちのスタイル」をあらわすのが、次のような基本ルールの存在です。
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       1.音楽監督や常任指揮者を置かない
       2.ウィーン音楽院出身の演奏家しか採用しない
       3.女性演奏家は採用しない
       4.使用する楽器は、オーストリア製のものを貸与する
       5.現在のメンバーに直接指導を受けたものを採用する
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 これらの基本ルールは、長い年月の間に少しずつ崩れてはいますが、基本線は守られ
ているのです。
 このように書くと、「音楽監督を置かないといっているけど、オザワがいるじゃない
か」と不審に思う人もいるかも知れませんね。ややこしい話なのですが、小澤征爾はウ
ィーン歌劇場の音楽監督であって、ウィーン・フィルの音楽監督ではないのです。しか
し、メンバーは同じなのですが・・・。
 ですから、ニューイヤーコンサートの指揮者選びなどについては、オザワには何の権
限もないのです。このことをアタマに置くと、このオーケストラの性格がよくわかると
思います。
 このたびオザワが手にしたウィーン国立歌劇場音楽監督という地位がどのような地
位であるか――少していねいに検証してみることにしましょう。
 歌劇場にはランクがあります。音楽関係者に聞くと、必ず次の2つをあげます。歌劇
場の双璧というわけです。
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      1.ウィーン国立歌劇場 ・・・ ドイツ・オーストリア
      2.ミラノ・ スカラ座 ・・・ イタリア
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 もちろん、これに異論のある人もいて、次のどちらかを加えて3大歌劇場とすべきだ
という人もいます。
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      3.コヴェントガーデン国立歌劇場 ・・・ イギリス
      3.メトロポリタン歌劇場 ・・・・・・・ アメリカ
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 しかし、歴史と伝統、音楽監督、指揮者、演出家の顔ぶれ、登場した歌手たちのレベ
ルという要素を勘案すると、「首位が2つあって3位なし」ということになってしまう
のです。
 ドイツ・オーストリアには、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス
などの名作がめじろ押しであるし、イタリアは、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニ
をはじめとして、綺羅星のごとく有名な作曲家群がいるのです。これには、イギリスや
アメリカも対抗不能です。
 ドイツ・オーストリア、イタリアは、それぞれの母国語のオペラだけでもプログラム
が組めるのです。それに加えて、ドイツにしても、オーストリアにしても、イタリアに
しても、優れた客層――質の高い鑑賞眼を持ち、優れた耳を持つ客層がおり、それに公
正な評論家とそれを正しく伝えるメディアが、歌劇場の水準の維持、向上に貢献してい
るのです。
 この点日本には、オザワのような傑出した音楽家はいるにしても肝心の客層が育って
いないことを痛感します。これは、私がクラシック・コンサートに通い出してから、4
0年以上になりますがいつも痛ずることです。
 このように考えると、ウィーン国立歌劇場は、ミラノ・スカラ座とともに歌劇場の双
璧であるといえるでしょう。オザワは、その一方の音楽監督なのです。これは、大変な
地位であるとともにその地位を維持し、長く続けるのがいかに大変であるかは歴史が物
語っているのです。
 ウィーン国立歌劇場の音楽監督の地位に就いた指揮者を上げると、グスタフ・マーラ
ー、ワインガルトナー、シャルク、リヒャルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス
、ベーム、カラヤン、マゼール、アバドなど、指揮界の巨匠の名がずらりと出てくるの
です。しかし、ほとんどは、ごく短期間でその名誉ある地位を投げ出し、あるいは放逐
されているのです。それほど、この地位を守り抜くことは難しいのです。
 この中にあってもっとも長くその地位にあり、帝王といわれたあのカラヤンでさえ、
「二度とこの街で指揮棒をとるつもりはない」という捨て台詞を残して、ウィーン国立
歌劇場音楽監督の座を降りているのをみても、オザワの手に入れた地位の維持は難しい
のです。
 日本の外務省のことではありませんが、歌劇場は「伏魔殿」といわれています。中野
氏の表現によれば、権力と金と、愛欲の色模様が華やかな舞台裏に展開し、指揮者、演
出家、歌手などが芸術家人生を賭けて競う合う場――まるでオペラそのもの――である
からです。しかし、私はオザワが何かをやってくれることを信じてはいますが・・・。
                          ・・・[小沢征爾論/02]

5.13ウィーン・フィルハーモニー.jpg
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2008年05月14日

●オーケストラが指揮者を拒否する事件(EJ第1013号)

 昨日のEJで述べたように、オザワはウィーン国立歌劇場の音楽監督ですが、ウィー
ン・フィルにとっては、単なる客演指揮者に過ぎないのです。したがって、たとえオザ
ワであってもウィーン・フィルが演奏を拒否することはあるのです。もちろん、そんな
ことをすれば、人間関係は一気に悪化してしまいますが・・。
 ウィーン・フィルほどの一流オーケストラになると、指揮台に立つ音楽家の、現在の
実力を瞬時に見破ってしまいます。彼らに対しては過去の名声や地位はまったく通用し
ないのです。したがって、高名な巨匠といえども、ウィーン・フィルの指揮台に立たせ
てもらうためには、今日の自分の実力が昨日のそれと同じであってはならないのです。
大変な勉強が必要なのです。
 ウィーン・フィルのコンサート・マスターであるライナー・キュッヒルは、「あの人
は勉強しなくなった。だからもう招(よ)びません」とよくいうそうです。ウィーン・
フィルを振るというのは、それほど難しいのです。
 ウィーン・フィルの演奏拒否事件としては、1869年の「ブラームス事件」が有名
です。ブラームスは、1862年にハンブルグからウィーンに移住してきたのです。
 当時ウィーンは、フランツ・ヨーゼフ一世が軍部の強硬な反対を押し切って城壁を撤
去し、首都の再開発を行っていたのです。宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめ、
豪壮華麗な公共建築物が次々と建築され、街全体が活気にあふれていたのです。
 ブラームスは移住の翌年にはウィーン・フィルと演奏会を行うなど、ウィーンで上々
スタートを切っています。この演奏会でブラームスが取り上げたのは自身の2つの「セ
レナード」――第1番ニ長調と第2番イ長調の2つです。これを皮切りにブラームスは、
着実にその評価を高めていきます。
 しかし、ウィーンへの移住7年目の1869年12月のコンサートで、ブラームスは
再び「セレナード第1番ニ長調」を取り上げようとします。ところが、ウィーン・フィ
ルの数人の楽員がリハーサルのさい、「こんな作品は弾きたくない」と拒否宣言をした
のです。
 ブラームスは激怒し、ウィーン・フィルとの契約解除を宣言します。しかし、中に入
った人たちの努力によって決裂はまぬがれコンサートは無事に終了したのです。ブラー
ムスにして、この有様ですから、多くの著名な音楽家も似たような目にあっているので
す。練習再開に当ってブラームスは、楽団員に対して次のようにいったそうです。
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      あなた方は私の作品の演奏を拒否されました。あなた方が私の
      曲をベートーヴェンのそれと比較してそのようなことをおっし
      ゃるなら『あのような高さにある作品は二度と創造されること
      はないであろう』と申し上げるしかないでしょう。しかし、私
      の作品は、私のベストを尽くした芸術的信念から産み出された
      ものです。この曲が、あなた方の演奏に値いしないものではな
      いことを、ぜひ、お解りいただきたい――ブラームス
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 18日夜、NHKテレビでベートーヴェンを取り上げていましたが、この当時すでに
ベートーヴェンの評価は絶対的だったのです。ブラームスはそのベートーヴェンが名作
を書き続けた同じウィーンで、作曲家として個を確立するのは大変だったと思います。
そのプレッシャーからか、ブラームスは、ベートーヴェンが得意とするピアノ・ソナタ
や弦楽四重奏の分野では、名作を生み出せていないといわれています。
 このように、ウィーン国立歌劇場や、ウィーン・フィルというオーケストラは、指揮
者にとって大変やっかいで扱いにくいオーケストラなのです。音楽家といっても、オケ
の楽員は昔かたぎの職人であり、頑固一徹者が多いのです。指揮者はそういう人たちを
まとめなければならないのですから大変なのです。
 ところで、実は小澤征爾も若いとき、演奏拒否の洗礼を受けているのです。演奏拒否
をしたのはウィーン・フィルではなく、NHK交響楽団です。
 1962年6月、オザワは、N響と半年間の指揮契約を結んでいます。その当時オザ
ワは、1959年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、1960年にはベルリン
でヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選出するコンテストで優勝、同じ年の7月に
は、タングルウッド音楽祭の指揮者コンクールに優勝、そして1961年4月には、レ
ナード・バーンスタインが率いるニューヨーク・フィルの副指揮者に就任しています。
 N響との指揮契約もそういう実績をふまえてのものだったのです。そして、1962
年7月にはオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリラ交響曲」を作曲家立ち会いのもと
でN響を指揮し日本初演をやっているのです。
 この年の秋、オザワは、N響と東南アジア演奏旅行を行うなど旺盛な活動を行ったの
ですが、なぜか楽員との対立が激化してしまうのです。そして、遂にN響の楽員代表か
ら成る演奏委員会が「オザワとの演奏会や録音には今後一切協力できない」という申し
入れを事務局に提出する事態になってしまうのです。
 その後も話し合いは行われましたが、1962年12月に予定されていたベートーヴ
ェンの「第九」公演が中止に追い込まれ、オザワとN響の関係は決裂してしまいます。
きっと、オザワにも問題があったのだと思いますが、N響も少し大人げないふるまいと
いわれても仕方がないでしょう。何が原因なのか今もってわかっていないのです。私は
1958年にはN響の定期会員になっていましたので、このことをよく覚えています。
 オザワが再びN響の指揮台に立ったのは、それから32年後の1995年1月のこと
です。公演の一週間前に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者追悼、被災者救済の意味合
いもこめられていたのです。32年後の歴史的な和解のコンサートは、バッハの祈りで
始まり、バッハの祈りで閉じられたのです。      ・・・[小沢征爾論/03]

5.14若き日のオザワ/バーンスタイン.jpg
                 
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2008年05月15日

●オザワとウィーン・フィルの歴史(EJ第1014号)

 オザワがはじめてウィーン・フィルにデビューしたのは、1966年8月のザルツブ
ルグ音楽祭のときです。プログラムはシューベルトの交響曲第5番、シューマンのピア
ノ協奏曲(ソロはアルフレッド・ブレンデル)、ブラームスの交響曲第2番だったので
す。当時オザワは30歳の新進指揮者でした。
 ウィーン・フィルが新しい指揮者を起用するときは、いきなり定期公演(年10回)
に招くことはなく、とりあえずザルツブルグ音楽祭でその実力のほどをテストするのが
しきたりです。クラウディオ・アバド、ズービン・メータも同様だったのです。
 これはウィーン・フィルに限ったことではないのですが、若い指揮者はオーケストラ
から各種のいじめを受けます。わざと棒に逆らった演奏をしてみたり、わざと間違えて
反応を試してみたり解釈に異議を唱えて指揮台で立往生させたり、いろいろやられるそ
うです。伝統あるオーケストラにはそういう楽員が必ず何人かいるのです。
 オザワは、1969年7月のザルツブルグ音楽祭で、ウィーン・フィルを指揮してモ
ーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」を演奏しています。ウィーン・フィルと
のオペラ初デビューです。しかし、このときは、声楽陣、演出・美術・衣装が冴えず不
評を買っています。これによって、オザワとウィーン・フィルとの関係は10年以上遠
のくのです。
 1973年のシーズンからオザワはボストン交響楽団第13代音楽監督に就任し、世
界の音楽界での地位を向上させていったのですが、ウィーン・フィルを再び指揮したの
は、1982年8月のザルツブルグ音楽祭でのことです。このときは、ヨーヨー・マと
ハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調、チャイコフスキーの交響曲第4番などでした。
 そして、オザワとウィーン・フィルとの友好関係が完全に築かれたのが、1984年
5月のウィーン音楽祭での演奏なのです。このとき演奏されたストラビンスキーの「春
の祭典」が大きな賞賛を博したからです。
 このときのオザワの逸話が伝わっています。オザワはウィーン・フィルがかつて演奏
した「春の祭典」のテープを繰り返し聴きうまくいっていない部分を発見します。それ
は、ウィーン式管弦楽器の構造や演奏者の不慣れに起因するそのオーケストラの泣き所
だったのです。
 オザワは、練習のさい、その部分から練習をはじめたところ、ウィーン・フィルの楽
員はそのオザワの下調べには舌を巻いたといわれます。そして、その結果、今でも語り
草になるほどの歴史に残る快演につながったのです。
 そして、1988年5月、オザワはウィーン国立歌劇場へのデビューを果たします。
作品は、チャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」です。この演奏も大成功
で、ウィーンのオペラ・ファンの間でオザワの評価は一気に上がったのです。
 このときオザワは、オペラの公演が終った深夜にザルツブルグに移動し、翌朝11時
のベルリン・フィル・コンサートに備えるという超ハード・スケジュールをこなしてい
ます。
 そして、1989年の夏にカラヤンが亡くなるのです。カラヤンはつねにオザワの良
きアドバイザーとして、よく面倒を見ており、オザワはカラヤンを深く尊敬していたの
です。カラヤン死すとの報が届いたとき、オザワはタングルウッド音楽祭で指揮をして
いたのですが、オザワは1日だけザルツブルグに飛び、カラヤンの追悼式に参加してい
ます。そして、バッハの「アリア」を演奏しているのです。
 カラヤンとオザワについてこんな話があります。1961年2月にオザワははじめて
ベルリン・フィルを指揮しています。曲はブラームスの交響曲第1番だったのですが、
その会場にはカラヤンは姿を見せていたのです。
 演奏終了後、カラヤンはオザワを車で自宅に連れて行き、第1楽章の冒頭から最終楽
章のコーダまで、すべての小節について講義をしたのです。「このフレーズは君の指揮
に問題がある」とか「これはオケがわるい」というように、すべての楽句、すべての楽
器について詳細に批評してみせたといわれます。その講義は、実に3時間にも及んだの
です。
 そして、1990年1月、ウィーン・フィルははじめてオザワを定期公演に招くので
す。これは、オザワが名実ともにこのオーケストラからファミリーとしての待遇を得る
ことになったことを意味しているのです。曲はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」
だったのです。
 ウィーン・フィルを初演して実に25年後にしてはじめて、ウィーン・フィルはオザ
ワを認めたことになります。そして、次の年、1991年5月に、オザワとウィーン・
フィルとの初レコーディングが行われます。曲はドヴォルザークの交響曲第9番「新世
界より」だったのです。ウィーン・フィルの場合、オケの方から録音の申し入れが行わ
れるのが普通のようです。
 レコーディングについては不思議なことがひとつあります。というのは、オザワは、
ベートーヴェンとブラームスの交響曲全集のCD録音をしていないことです。どうして
なのでしょうか。
 オザワがウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した今年の9月には、次期ベルリン・
フィルの音楽監督が内定している英国生まれのサイモン・ラトルとウィーン・フィルに
よるベートーヴェンの交響曲全集が発売されているのです。
 この企画はウィーン・フィルの方から提案があったそうですがラトルは「私でいいの
か」と聞き返したといわれています。ラトルとしてはそれほど意外だったのでしょう。
どうしてオザワにはそういう話がこないのでしょうか。それともオザワが時期を見てい
るのでしょうか。現在、CDショップでは、オザワとサイトウ・キネン・オーケストラ
の「第9」が売れに売れています。           ・・・[小沢征爾論/04]

5.15オザワの「第9」.jpg
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2008年05月16日

●まるで亡命音楽家のような小澤征爾(EJ第1015号)

 ここまで主としてオザワとウィーン・フィルとの関係について書いてきました。しか
し、現在のオザワを語るに当って、29年に及ぶボストン交響楽団との関係と、オザワ
が今一番大切だと考えているサイトウ・キネン・オーケストラとの関係について述べる
必要があると思います。27日までのEJはそのことについて述べることにします。
 米国が、音楽の世界で、なぜ覇権を握ることができたのでしょうか。それは、191
9年に起こったロシア革命、1930年代にヨーロッパに覇権を確立したナチスとイタ
リアのファシズムを抜きには考えられないことなのです。
 まず、ロシア革命を契機に故国を見捨てたロシアの著名な音楽家が続々と亡命し、米
国を第2の故郷として、そこに西欧のクラシック音楽を定着させるということが起こっ
ています。
 名前をあげると、ストラヴィンスキー、プロコイエフ、ラフマニノフ、クーセヴィツ
キー、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ピアティゴルスキー――こ
ういう音楽史に不滅の名を刻むことになる巨匠・名人が続々と米国に乗り込んできたの
です。これは、大変な影響力であるといえます。
 それから1930年代には、トスカニーニ、ワルターといった大指揮者、シェーンベ
ルク、バルトーク、クライスラーなどの大作曲家が米国にやってきて、終生の居を定め
たのです。
 これらの大音楽家たちは各地のオーケストラに入団したり、音楽大学などで教職に就
くなどして、その影響力を徐々に拡大していったのです。そして、数十年を経て米国の
地に、いわば「国籍不明の音楽文化」を創り上げ、それが全世界的に大きな影響を及ぼ
していったのです。
 もし、日本の音楽家が1人も海外に行かなくなったとしても、世界の音楽界には何の
影響も与えないでしょう。しかし世界の音楽家たちが1人も日本にこなくなったら、日
本の音楽界は数年でダメになることは確実である――といった人がいます。幸いにして
日本には世界の多くの音楽家がやってきますが、これは日本の音楽界に多くの影響を与
えているのです。亡命音楽家が米国の音楽界に与えた影響はきわめて大きいのです。
 現在、米国――とくに北米では、どのような大都市でも原則としてその都市を代表す
るオーケストラが1つ置かれ、その地域で音楽に関心のある企業や市民の献金によって
オーケストラは運営されているのです。その点、東京やロンドンやパリなどのように官
民放送メディアなどの大スポンサーを持つオーケストラが乱立している現状とは大きく異なるのです。
 ボストン交響楽団は、デビュー当時からオザワに目をつけ、高い評価を与えていまし
た。そして執拗にオザワの獲得に走ったのです。その熱心さは異常ともいえるものだっ
たのです。
 それに比べて日本の音楽界は、オザワに対してあまりにも冷たかったといえます。1
962年オザワと指揮契約を結んだN響はオザワとトラブルを起こし、その年の12月
の定期と「第9」の公演を一方的にボイコットしたことは既に述べました。
 当時のN響は、日本のトップ・オーケストラであることを鼻にかけ、きわめて官僚的
だったのです。とくに新進気鋭の若手の音楽家には厳しく当る傾向が強く、欧米のコン
クールで優勝を連発していたオザワには含むものがあったと思われます。
 「第9」は、上野の東京文化会館で行われる予定であり、オザワは契約通り終演時間
までN響を待ったのですが、N響の楽員は誰一人として姿をあらわさなかったのです。
 これに対して、1963年1月15日、井上靖、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三
郎、一柳慧などの作家・文化人有志らが発起人となって「小澤征爾の音楽を聴く会」が
開かれたのです。そのとき協力したのが日本フィルハーモニー交響楽団だったのです。
日フィルはこれが遠因で1972年に解散することになるのですが、これはあとで述べ
ます。
 さて、N響に振られて失意のオザワに声をかけたのは米国のシカゴ交響楽団でした。
1963年8月にシカゴ交響楽団が出演する「ラヴィア音楽祭」にジョルジュ・ブレー
トルのピンチヒッターとして出演して欲しいという依頼がかかったのです。
 オザワは急遽米国に飛びシカゴ交響楽団を指揮してドヴォルザークの「新世界より」
を演奏します。これが賞賛を博し、1964〜68年までの5シーズン、同音楽祭の音
楽監督に就任することになります。
 これを指をくわえて見ていたボストン交響楽団は、ラヴィア音楽祭の音楽監督の期限
切れを狙って、1968年1月に同交響楽団の定期演奏会に招聘するのです。そして、
オザワを説得して、1970年6月からボストン交響楽団が主宰するタングルウッド音
楽祭の音楽監督の就任させることに成功します。
 当時のオザワはとくに米国では売れに売れていて、1970年9月にはサンフランシ
スコ交響楽団の音楽監督にも就任しているのです。そのオザワが、なぜ1973年から
ボストン交響楽団の音楽監督に就任したのにはワケがあるのです。
 1970年11月にオザワはボストン交響楽団で客演指揮をしていたのですが、そこ
に「父死す」との悲報が届くのです。その父は、その年の12月に開かれるサンフラン
シスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演に出かけるのを楽しみにしていたのです。
 これに対してボストン交響楽団は急遽スケジュールを変更し、オザワを帰国させるよ
うに計らったのです。義理固いオザワはこれに深く感謝し、1973年からボストン交
響楽団の音楽監督に就任することになったのです。
 一方、もともと日本で活躍したかったオザワは、1968年から日本フィルの主席指
揮者に就任して後進の育成に当ったのですが、これを不満として1972年にフジテレ
ビと文化放送がスポンサーを降りたために、日本フィルは解散の憂き目に遇うのです。
それでもオザワはひるまず、その結果生まれた新日本フィルハーモニーの首席として、
現在も指導を継続しているのです。          ・・・[小沢征爾論/05]

5.16新日本フィルとオザワ.jpg
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2008年05月19日

●ボストン響でのオザワの2つの改革(EJ第1016号)

 米国のオーケストラには、実に明確なランク付けがあります。一般的にいうと、オー
ケストラのランク付けとは、演奏の良し悪しとか、CDをどのくらい出しているとか、
観客動員数が多いとか少ないとかを考えますが、そうではなく、予算規模――年間総予
算によるランク付けのことなのです。
 ボストン交響楽団の年間総予算は、7000万ドル(約80億円)で、世界一です。
これは、クリーヴランド管弦楽団やフィラデルフィア管弦楽団の倍であり、ニューヨー
ク・フィルやシカゴ交響楽団の1倍半に該当します。
 米国ではこのボストン交響楽団を中心に、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィル、
フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団の5つが予算規模と伝統を兼ね備
えた「エリート・ファイブ」といわれているのです。
 オザワが就任した当時のボストン交響楽団の基金は180万ドル、それが現在では2
億5000万ドルになっています。また、聴衆は年間160万人に達しており、ボスト
ン交響楽団はオザワの時代に、財団の基金、年間予算額、年間聴衆数においていずれも
世界一を達成しているのです。オザワは音楽監督としてだけでなく、マネジメントにも
優れているといえます。
 ですから今回オザワが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任したことをもって「快
挙である」として大騒ぎをしていますが、ボストン交響楽団の音楽監督の実績を考える
と、その資格は十分過ぎるほどあるといえるのです。
 それでは、オザワはボストン響で何をしたのでしょうか。
 それは、次の2つに集約されると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.ボストン響のサウンドの再構築
        2.ボストンのマエストロ像の変革
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オザワが第一に取り組んだのは、ボストン響のサウンドを変革することでした。オザ
ワが音楽監督に就任した当時のボストン響は、サウンドがフランス的で、音色は美しい
が、重厚さに欠けるところがある――オザワはそう感じたのです。それは、ボストン響
がドイツ人とフランス人の音楽監督を交代させてきたことと関係があります。
 オザワは、13代目の音楽監督ですが、初代から音楽監督を並べると次のようになり
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.ジョージ・ヘンシェル  8.ピェール・モントウ
     2.ウイリアム・ゲリッケ  9.セルゲイ・クーセヴィツキー
     3.アルトゥール・ニキシュ 10.シャルル・ミンシュ
     4.アミール・パウアー   11.エーリッヒ・ラインスドルフ
     5.マックス・フィドラー  12.ウイリアム・スタインバーク
     6.カール・ムック     13.小沢征爾
     7.アンリ・ラボー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、初代から6代まではドイツ系の音楽監督、7代〜10代までは、9代
のクーセヴィツキー(露)をのぞきフランス系の音楽監督、そして、11代〜12代は
短期ながら、ドイツ系の音楽監督となっています。
 オザワ以前の12人の音楽監督のうち、一番ボストン響のサウンドに影響を与えた音
楽監督は、8代のピェール・モントウと10代のシャルル・ミンシュです。そのため、
重厚さはないが美しいフランス的なサウンドを創り上げていたのです。
 しかし、ボストン響の主要レパートリーは、ドイツ・オーストリア系のものが多いの
です。そこでオザワは、フランス的な特色を残しながらも、もっとパワーや音の深さが
必要であると感じたのです。とくに弦楽器は、もっと暗くて重い音が出せるように改造
しなければならないと考えたのです。
 最初のうちは、楽員の抵抗は相当強かったようですが、オザワは粘り強く説得を続け
ると同時に、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーといったドイツ的デパートリーを
何回も取り上げたり、クルト・マズアなどのドイツのベテラン指揮者を客演指揮者とし
て招き、練習と演奏を通じて自然にドイツ・サウンドや表現力を出せるようにしたので
す。
 そして、現在のボストン響は、フランス的特色を残しながらも深く重厚なドイツ・サ
ウンドも出せるオーケストラに変身しているのです。これはマエストロ・オザワの功績
といえます。
 もうひとつのオザワのやった改革、「ボストンのマエストロ像の変革」とは、何でし
ょうか。
 それはオザワが「アウトリーチ」に力を入れたことです。アウトリーチとは、音楽家
がホールの外に出向いて、直接音楽で働きかけることをいうのです。
 よく知られるように、ボストン響はタングルウッド音楽祭を主宰しています。193
7年のことですが、ボストン市民である2人の女性が、緑豊かな210エーカーの土地
「タングルウッド」をボストン響に寄贈したのです。ときの音楽監督は、セルゲイ・ク
ーセヴィツキーでした。彼はそこに仮設のテントを張って、ベートーヴェン・プログラ
ムのコンサートを開いたのですが、これが、タングルウッド音楽祭のはじまりです。
 オザワは、このタングルウッド音楽祭に力を入れ、そこにタングルウッド・ミュージ
ックセンターを作って、世界中からやってくる若い音楽家たちにオザワをはじめ、ボス
トン響のメンバーが手に手をとって教える――そのような教育面にとても力を入れたの
です。そしてオザワは、同じ試みを松本でもやっています。
 そして、もうひとつオザワはシェーンベルクやベルクを暗譜で振る一方で、ボストン
・ポップスを指揮しピープルズ・コンダクターとして慕われたのです。ボストン響の歴
代音楽監督が誰もやらないことをやったわけです。その結果、オザワが街を歩くと誰も
が気軽に声をかける、そんなマエストロになったのです。・・・[小沢征爾論/06]

5.19タングルウッド/セイジ・オザワ・ホール.jpg
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2008年05月20日

●西欧音楽の異邦人/小澤征爾(EJ第1017号)

 2002年4月20日――この日はオザワがボストン響を音楽監督として指揮する最
後の日になりました。昼夜で2回のコンサートが行われ、マチネはベルリオーズの「幻
想」であり、これはオザワがボストン市民に感謝をこめた無料コンサートでした。
 夜はマーラーの「交響曲第9番」でした。午後8時過ぎにコンサートは始まったので
す。異例の3000人の聴衆総立ちで迎えられたオザワは、客席への挨拶もそこそこに
マーラーの世界に没入します。オザワとボストン響の29年間の総決算のような、すば
らしい演奏だったと翌日の新聞が伝えています。
 そして、最後のタクトが振り下ろされるや、嵐のようなスタンディング・オペレーシ
ョンがホールを揺るがしたのです。オザワは楽員の一人ひとりと握手すると、ティンパ
ニスト奏者のヴィック・ファースの手をとって舞台最前列に連れてきて、一緒に拍手に
応えたのです。
 ヴィック・ファースは、シャルル・ミンシュ時代から半世紀にわたってティンパニス
トを務め、引退をマエストロ・オザワが辞める日まで伸ばしてきて、この日に引退する
ことを決めたというのです。当日のプログラムにファースは次のような一文を寄せてい
ます。オザワがいかに敬愛されていたかを示す証でもありますので、ご紹介することに
します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      セイジさんと働くのは喜びであった。彼の並外れた指揮のテク
      ニックは、最も難しい音楽でさえも容易に理解しやすくした。
      彼の温かさと大きな音楽的才能を決して忘れないだろう。私は
      彼の音楽作りの技術に対する献身と熱愛に敬意を表する
                        ――ヴィック・ファース
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 翌日の新聞は、オザワへの賛辞と惜別で埋めつくされといってよいと思います。ボス
トン市には、ボストン・グローブ紙とボストン・ヘラルド紙という2大新聞があります
が、両紙ともにトップに大きなカラー写真で次のような見出しをつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪ボストン・グローブ紙≫
        「ブラボー・セイジ」
        「小澤 完璧な音とともに去る」
        「さよなら公演は感動的でかつ大胆」
       ≪ボストン・ヘラルド紙≫
        「セイジよ さようなら」
        「29年に渡る任期はマエストロの大勝利に終る」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。これほどの大指揮者であるオザワを日本の音楽界は今まで何と冷たく
扱ってきたことでしょう。確かにN響との関係は修復されたとはいえ、まだそこに大き
なわだかまりが存在するのです。
 こんな話があります。この話は悪の伏魔殿/外務省が登場するのです。誰もオザワを
知らなかったときの話です。
 1959年、フランスのブザンソン指揮者コンクールの願書出願の提出のさい、手続
き不備で締め切りを過ぎてしまったときのことです。オザワはフランスの日本大使館に
泣きついたのですが相手にされず、アメリカ大使館に駆け込むのです。
 アメリカ大使館は、文化担当者であるマダム・ド・カッサがオザワから事情を聞き、
指揮者コンクールの事務局と折衝をしてくれて、コンクール参加が特別に認められたの
です。何と親切なことでしょうか。日本の外務省は反省すべきです。
 そして、オザワはそのコンクールで優勝を果たすのです。そのときの審査委員長は、
あのシャルル・ミンシュだったのです。その後、オザワの才能を見抜いて大音楽家とし
て育てたのは、日本ではなく、戦後の米国だったのです。少なくとも、日本はオザワに
対して、嫉妬と無知のバッシングをしただけで、何もやってはいないのです。
 しかし、オザワはあくまで、日本人であろうとし、子供は日本にわざわざ戻して育て
ているのです。そして、彼がつねに次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      自分は日本人である。西欧クラシック音楽の世界における異邦
      人である――小澤征爾
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、オザワは超多忙にもかかわらず、タングルウッド音楽祭に似せて、信州・松
本で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を育て、今年で11回になります。
 桐朋学園に入学する前オザワは当初ピアニストを目指していたのですが、来日してい
た巨匠、レオニード・クロイツェルの弾き振りによるベートーヴェンの「皇帝協奏曲」
に接して、指揮者になろうと決意、新設の桐朋学園の指揮科に入学するのです。そのと
きの生徒はオザワただひとり。先生は、性格の激しさと、厳格な精神的姿勢で有名な斉
藤秀雄先生だったのです。
 世界のオザワの原点はこの齋藤式の音楽教育にあるといっても過言ではないのです。
オザワ自身もこれを受け継ぎ、サイトウ・キネン・オーケストラして、後進の指導に当
っているのです。                   ・・・[小沢征爾論/07]

5.20ボストン響とのさよならコンサート.jpg
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2008年05月21日

●ニコラウス・アーノンクールとは何者か(EJ第1018号)

 ウィーン・フィルによる今年のニュー・イヤー・コンサートはニコラウス・アーノン
クールの指揮で行われました。昨年はオザワでしたが、アーノンクールは、2001年
のニュー・イヤー・コンサートに続いて2回目の登場です。指揮者を選ぶ権限は楽員に
あるということを考えると、アーノンクールはウィーン・フィルの楽員に人気があると
いうことになります。
 コンサートの雰囲気はオザワのときとは、かなり異なっていたと思います。会場に飾
られた花にしても、オザワのときは赤が目立っていたのに今年は白一色と様相が一変し
ていたのです。
 注目すべきは曲目です。このニュー・イヤー・コンサートではヨハン・シュトラウス
一家の作品を取り上げるのが基本原則なのですが、今回はウェーバーとブラームスの次
の作品が取り上げられているのです。これはかなり珍しいことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ウェーバー作曲、「舞踏への勧誘」作品65
      ブラームス作曲、「ハンガリー舞曲集」より第5番嬰ヘ短調
              「ハンガリー舞曲集」より第6番変ニ長調
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウェーバーのこの曲は、ワルツのお手本ともいうべき曲でありヨハン・シュトラウス
はこの曲をベースにワルツを作曲したといわれていること、それにブラームスはヨハン
・シュトラウスと親交が深く、ブラームスは彼の音楽を高く評価していたということ―
―これがアーノンクールが取り上げた理由なのです。
 しかし、残念なことがひとつありました。アーノンクールはコンサートの冒頭に「舞
踏への勧誘」を持ってきたのですが、曲が終る前に大拍手が入ってしまったことです。
この曲は、もともとはピアノ曲なのですが、ベルリオーズが管弦楽用に編曲してオーケ
トラで演奏されることが多いのです。
 最初に紳士が若い婦人に舞踏の相手を申し込む部分があり、オケではチェロがその部
分を担当するのです。そして、華やかに踊りがはじまり、終了するのですが、そのあと
紳士の感謝のことばをあらわす部分があり、ここもチェロで演奏されます。
 ところが、踊りが終ったところで大拍手が入ってしまったのです。アーノンクールは
まずチェロに停止を命じ、観客に手で拍手を制してから、チェロに演奏を指示していま
す。よく知られた曲であることに加え、由緒あるウィーンのニュー・イヤー・コンサー
トでの出来事であり、また、あとでCDやDVDとして商品化されることも考えると、
大変残念なことだと思います。
 しかし、その後の演奏は立派なものであり、オザワのときよりも、ウィーン・フィル
の楽員たちが大変楽しく演奏しているのが印象に残りました。アーノンクールといえば
ベルリン生れで、オーストリアを中心に活躍している指揮者であり、今やウィーンでは
飛ぶ鳥を落とすほどの人気指揮者なのです。
 また、アーノンクールはエキストラとしてですが、ウィーン・フィルでチェロ奏者を
していたこともあり、楽員にとってはいわばかつての仲間なのです。アーノンクールの
ように、ウィーン・フィルの内部で演奏をしたことのある音楽家が、ニュー・イヤー・
コンサートを指揮するのはボスコフスキー以来のことです。
 しかし、このアーノンクールという指揮者は、少し変わった人物なのです。それは、
あのカラヤンと比較してみると、まるで正反対の考え方の持ち主であることによってそ
ういわれます。
 アーノンクールは1929年生まれであり、カラヤンよりも、20年若いのです。彼
は飛行機が嫌いで、日本には一度しかきたことはないのですが、今後もくることはない
でしょう。それに対してカラヤンは、日本はもちろん世界中を飛び回っており、プライ
ベート・ジェット機まで持っているのです。
 カラヤンがクラシックの国際化を目指し、世界中の人に聴いてもらえるように努力し
たのに対し、アーノンクールは「クラシックはヨーロッパのローカル音楽である」と明
言しています。
 またカラヤンが現代の楽器に合わせて独自の解釈で曲を演奏したのに対し、アーノン
クールは古い楽器を修理して復元させ、昔ながらの音を再現しようと努力しています。
そのため、アーノンクールは「古楽の先駆者」といわれるのです。
 彼は、1957年にウィーン・コンツェントス・ムジクスというアンサンブルを結成
し、バッハやモーツァルトを作曲家の時代の流儀と称する演奏法で取り上げ、現在も続
けています。
 カラヤンはポピュラーな曲を積極的に取り上げて録音し、LPやCD化して販売し、
世界中を演奏旅行をして回ることによって、音楽産業として発展させるのに成功してい
ます。そして、このスタイルを多くの有名指揮者たちは踏襲しています。
 しかし、アーノンクールは指揮をするオーケストラを絞り込み飛行機が怖いというこ
ともあって、他の音楽家のように世界中を演奏旅行することなどしないのです。
 しかし、カラヤンの後継者というべき有名指揮者――クラウディオ・アバド、ズービ
ン・メータ、小澤征爾、リッカルド・ムーティたちを尻目に、アーノンクールは、いつ
のまにか、押しも押されぬ大指揮者としての地位を築きつつあります。
 アーノンクールの演奏はお世辞にも美しいとはいえないものですが、そのアーノンク
ールが甘美な音楽を愛好するウィーンにおいて受け入れられているのは注目すべきこと
です。
 2001年のニュー・イヤー・コンサートにおいて、アーノンクールは、プログラム
の冒頭において、コンサートの最後に演奏することになっている「ラデツキー行進曲」
のオリジナル版を演奏しています。こういうウィーン音楽に精通しているアーノンクー
ルをウィーン・フィルの楽員たちは尊敬しているのです。どうやら、この勝負、オザワ
の負けのようです。                 ・・・[小沢征爾論/08]

5.21ニコラウス・アーノンクール.jpg

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2008年05月22日

●21世紀を代表する3つの『第九』(EJ第1019号)

 今朝は、日本の年末の風物詩である「第九」について書きます。昨年末には例年にな
く、次の3つの「第九」がほぼ同時にリリースされたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ベートーヴェン作曲 交響曲第9番二短調作品125≪合唱≫
       1.佐渡 裕指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
         ワーナー/WPCS―11420
       2.小沢征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
         フィリップス/UCCP−9424
       3.ラトル指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
         EMI/TOCE−55505
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの「第九」は、いずれもライブ録音であり、しかも特別価格1980円で
手に入れることができます。私は3つとも購入して聴いてみましたが、演奏はいずれも
満足すべきレベルに達しています。3枚とも購入してもソンはないと思います。
 3人の指揮者の中で一番年齢が若いのは、佐渡裕の41歳です。佐渡の「第九」の録
音は、2002年8月17日に横浜のみなとみらいホールにおいてライブで行われてい
ます。そのため「真夏の第九」といわれているのです。
 「佐渡の指揮は熱い」といわれるので、若さにあふれた豪快な第九を予想する人が多
いかも知れませんが、実際は和声が重層的に耳に届くように全体の音量はバランスがよ
く制御され、緊張感をはらんで曲が展開されていきます。
 第3楽章のカンタービレも十分美しく最近の佐渡の進境ぶりをよく表わしています。
そして、佐渡の真骨頂ともいうべき第4楽章もよく全体が抑制され、バリトンの福島明
也をはじめとする独唱陣の健闘によってスケールの大きい演奏となっています。
 印象に残ったのは、第4楽章で最初に歓喜の主題があらわれる前の異常に長いゲネラ
ルパウゼ――総休止です。オーケストラで第1楽章の主題、第2楽章の主題、第3楽章
の主題の断片が次々とあらわれては否定され、最後に歓喜の主題が低弦部からあらわれ
る直前の休止のことです。このゲネラルパウゼは明らかに長く7秒ほど静寂が続くので
す。
 これは練習のときには起こらず、本番のときに起こった現象なのです。直前の和音が
完全に消えて、歓喜の旋律があらわれるまでの自然な呼吸の発露として生じたもので、
この演奏に関してはきわめて効果的であったといえます。
 3人の指揮者の中で最年長者はもちろん小澤征爾の66歳です。既に述べたように、
オザワにはベートーヴェンの交響曲全集がまだないのですが、今回の「第九」の録音に
よって、サイトウ・キネン・オーケストラによる全集が完成したことになります。
 サイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの交響曲チクルスは、199
3年の交響曲第7番からスタートし今年の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」
における「第九」で遂に完結したのです。
 オザワの「第九」は、基本的には佐渡の「第九」に通じるものがあります。佐渡が指
揮している新日本フィルハーモニー交響楽団は、オザワの育てたオーケストラであり、
当然といえば当然のことです。
 しかし、そうはいっても佐渡の演奏には良い意味での「若さ」があり、オザワの演奏
には年齢による「渋さ」を感じます。演奏は、不自然な誇張感を徹底して排除し、あく
までも響きの美しさとアンサンブルとしての緻密さを背景に、作品に盛り込まれたメッ
セージを高らかに、熱く歌い上げた質の高い「第九」として仕上がっています。
 ちなみに「ライブ録音」といっても、コンサートで演奏したままをCD化するのでは
ないのです。オザワの演奏にしても、特定の部分を録音する「セッション録音」を何度
かやっています。ライブ録音部分を中心として、それにセッション録音部分を編集して
CDを完成するのです。
 3番目の「第九」は、サイモン・ラトル指揮によるウィーン・フィルハーモニー管弦
楽団の演奏です。サイモン・ラトルは47歳の現在最も注目されている英国の指揮者で
あり、2002年9月7日にベルリン・フィルの首席指揮者(芸術監督)に就任したば
かりの新しい「ベルリンの顔」ともいうべき存在です。
 ラトルの「第九」は、佐渡やオザワの「第九」とは、全く異質の「第九」になってい
ます。この「第九」は、2002年の5月12日と14日の両日、ウィーンのムジーク
フェラインザールでライブ録音されています。
 ここ数年にわたりラトルは、ウィーン・フィルの方から申し出のあったといわれるベ
ートーヴェンの交響曲全集の録音をやってきており、この「第九」ですべて完結したこ
とになります。
 とにかく、ウィーン・フィルのラトルに対する熱の入れ方は大変なものであり、絶対
に置かないという慣例を破って、首席指揮者として迎えようかという検討まで行ったと
いわれているのです。
 ラトルはベートーヴェンの交響曲全集の録音に当って、ウィーン・フィルにベートー
ヴェンの演奏方法を変えるよう説得しています。そういうこともあって、ラトルの「第
九」は、非常に表情の濃厚な「第九」として仕上がっています。その解釈にしても響き
にしても佐渡やオザワの「第九」とは一線を画す新しい「第九」の顔が見えます。
 とくに、第3楽章について音楽評論家の小石忠男氏は「この楽章の最高の名演のひと
つ」と折り紙をつけています。第4楽章についても、ラトルが手塩にかけて育てたバー
ミンガム市交響合唱団の合唱が際立っており、力に満ち溢れた名演となっています。
 これら3つの「第九」は、それぞれに個性があり、とくに佐渡とオザワの「第九」の
あと、ラトルの「第九」を聴くと、その違いがとてもよくわかります。    
・・・[小沢征爾論/09]

5.223つの「第9」.jpg
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