2008年03月24日

●構造改革しても景気は回復せず(EJ第651号)

 このテーマは、2001年7月4日から断続的に9月4日まで21回にわたって連載
されたものです。現在、日銀の総裁が空席になっており、話題を集めているので、再現
します。途中に小泉政権下の参院選のことなども出てきますが、文章は変更しないでそ
のまま掲載します。
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 「構造改革なくして景気回復なし」――いわずと知れた小泉内閣のスローガンです。
これが参議院選挙用のスローガンであるなら問題はないのです。しかし、小泉首相が本
気でこれを考えているとしたら困ったことになります。
 このスローガンの意味は、ちょっと考えると、「構造改革をすれば景気が回復する」
というように解釈できますが、そういう意味でないと思います。「構造改革をしなけれ
ば日本経済がだめになる」ことは確かですが、そうしたからといって別に景気が回復す
るわけではないのです。
「ニュースステーション」のコメンテータとして著名な森永卓郎氏はこういっていま
す。
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      『「構造改革なくして景気回復なし」という議論には致命的な
     論理矛盾がある。構造改革というのは、生産性を上げて供給力
      を増やす政策だ。しかしいまの不況は、供給力が少ないから成
      長できないのではなく、需要が少ないから成長できないのであ
      る。だから、構造改革をいくら進めても、景気回復はできない
      のだ』。(森永卓郎著、『日銀不況』より)
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 小泉首相とブッシュ大統領による日米首脳会談でブッシュ大統領は、「日本の不良債
権問題を憂慮している。小泉首相の積極的な取り組みを期待したい。米国としてもこの
問題を解決するためにあらゆるサポートをしていきたい」と表明しましたが、それは米
国にとって当然のことといえます。
 というのは、日本の金融機関がバタバタ潰れると、それらの金融機関がかかえている
膨大な米国債が投げ売りされることになります。そうすると、米国債は暴落し、米国の
金融機関は深刻な影響を受けることになるのです。そのため、米国としては不良債権の
早期処理を強く日本に求めるわけです。
 日本経済の問題を考えるとき、このあたりの理解がとても大切なのです。「失われた
10年」といわれる1990年代の日本経済の低成長の原因は、構造改革ではなく需要
の不足が引き起こしたものなのです。したがって、この問題を解決しないで景気が回復
するはずがないのです。
 日本の現在直面している課題はデフレ、それも資産デフレであり、倒産であり、失業
なのです。これは、景気の悪化によって引き起こされる現象です。それは、基本的には
日本経済に大きなデフレ・ギャップが存在していることを意味しているのです。どうい
うことかというと、経済全体の総需要が総供給より小さいことを意味しているのです。
 ですから、とにもかくにも総需要を増やす政策を実行することが急務なのです。とこ
ろが日本は構造改革をやろうとし、米国もそれを求めているのですが、先に述べたよう
に、構造改革は経済のムダをなくし、総供給を拡大する政策なのです。
 総需要の拡大が求められているのに、総供給を拡大する政策を実施したら、一体どう
なるでしょうか。デフレギャップがさらに広がってしまうことは明らかではありません
か。それでは、なぜ総需要が増えないのでしょうか。
 その原因はデフレにあります。それでは、なぜ、デフレになってしまったのでしょう
か。それは、金融政策に原因があります。金融当局が政策に失敗してデフレになってし
まったのか、それとも誰かが意識してそういう政策をとったのかです。
 「意識してデフレ政策をとるはずがない」という反論もあると思いますが、あながち
否定はできないのです。どのように考えても日本の金融当局はあまりにも愚かな金融政
策を長い間にわたって取り続けているからです。
 リチャード・A・ウェルナーという人が書いて、このほど邦訳の出た『円の支配者/
誰が日本経済を崩壊させたのか』(吉田利子訳、草思社刊)という382ページにおよ
ぶ大著があります。これによると、日銀はあえて明確な意図をもってそういう政策をと
り続けたと書かれています。
 そういうわけで、これらの資料を駆使してEJでは、断続的にその真相に迫ってみた
いと思います。
 2000年4月、森前政権が発足した当時、株価は2万円を超えていました。それか
らというもの株価は下落する一方で、2001年3月には一時1万143円まで売り込
まれたのです。1万円割れ寸前まで行ったのです。
 そして、3月19日、日銀の量的緩和策の発表、小泉政権の誕生などで一時小康状態
を保っていましたが、ここにきて再び株価は下げています。
 12チャンルのWBSに登場するエコノミストの一人であるモルガン・スタンレー・
ディーン・ウィッター証券のロバート・フェルドマン氏は、かなり早い時期から200
0年8月が景気の山であることを指摘していました。
 フェルドマン氏は、例のエコノミストベスト10の第7位にランクされる優秀なエコ
ノミストです。そうであるとすると、日本経済は去年の8月から景気後退局面に入り、
それから1年近くになろうとしていることになります。
 問題は日銀の発表です。日銀の発表はその間次のようになっているのです。
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      2001年2月  「景気は緩やかな回復を続けている」
      2001年3月  「景気は足踏み状態」
      2001年4月  「景気は調整局面」
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 現在、日本経済は企業部門を中心に調整局面に入っていますが、なぜ日銀は8ヶ月も
不況を認めようとしなかったのでしょうか。    ・・・[円の支配者日銀/01]

3月24円の支配者.jpg

               
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2008年03月25日

●日銀はなぜ資金供給を絞り込んだのか(EJ第652号)

 株価が2万円を超えていた2000年4月頃のことですが、日銀の速水総裁は、ゼロ
金利解除の時期を慎重に窺っていました。そして、ゼロ金利解除のXデーを7月17日
とひそかに決めていたのです。ちなみに、ゼロ金利政策を開始したのは1999年2月
のことです。
 速水総裁としては、1998年4月から施行された新日銀法によって、日銀として念
願の強い独立性を手に入れたあとの最初の大きな金融政策が、ゼロ金利政策であっただ
けに、その解除も日銀主導で行いたいと考えていたのです。
 新日銀法が施行される1998年3月までは、日銀総裁は大蔵大臣が罷免できる権限
を有しており、日銀の権限は限定されたものだったのです。そのため、グリーン・スパ
ンFRB議長が機動的・弾力的な金融政策を行っている米国や、強い権限を行使できる
欧州の中央銀行に、日銀としては長くから憧れを抱いており、独立を勝ち取ることは日
銀の悲願だったのです。
 日銀法改正は、1997年に橋本首相の行政改革の一環として提案されています。当
時日銀副総裁であった福井俊彦氏がマスコミや政治家に働きかけ、新日銀法によって、
「金融政策の決定がより迅速かつ柔軟になり金融市場の信頼を高めることにも役立つ」
とさかんに主張したのです。
 福井氏のいうことが本当であったかどうかは後から詳しく論評するとして、速水総裁
が、迅速、柔軟、機動性にこだわったことは確かだと思います。しかし、速水総裁が最
良のタイミングとして狙っていた7月14日のXデーは実現しなかったのです。そごう
が破綻してしまったからです。
 しかし、日銀は8月11日にゼロ金利解除を断行します。何が何でもやらなければ…
という速水総裁の決断からです。しかし、8月は7月に比べてさまざまな経済指標が悪
化し、経済環境が最悪のときにゼロ金利解除を断行したのです。しかも、今から考えれ
ば、7〜9月期のGDPは前期比マイナス0.6%という大幅なマイナス成長だったの
ですから、経済に対して猛烈な逆噴射をかけたことになるのです。大蔵省としては必死
になって止めに入ったのですが、速水総裁はこれを断行してしまうのです。
 このときマスコミの反応は日銀に好意的であったといえます。当時大蔵省が悪者にさ
れていましたから日銀はよく自らの意思を貫いたと賞賛されたのです。このとき中原伸
之審議委員、植田和男審議委員は反対したと伝えられています。これについては、昨年
の8月8日のEJ438〜441で詳しく伝えています。
 しかし、皮肉なことに日銀がゼロ金利を解除した8月から景気は減速し、調整局面に
入っていったのです。日銀もそのことに気がついてはいたのですが、強引にゼロ金利を
解除したこともありそれを素直に表明できなかったのです。
 ところで、いわゆるオーバーナイト金利を0.25%上げたことがなぜ大問題なので
しょうか。当時の新聞紙上では、その程度の利上げで企業収益に大きな影響が出るとこ
ろは市場から退場すべしという勇ましい意見まで出たのです。
 これに対して森永卓郎氏は、あるシンクタンクの試算を紹介しています。
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      『中長期的な成長径路、消費者物価1%の目標インフレ率、
      需給ギャップ等を勘案したテイラー・ルールに基づいて試算す
      ると、適正コールレートはマイナス4%にも達するという。つ
      まりいまのコールレートはかりにゼロでも極端に高過ぎるので
      ある。もちろんコールレートをマイナスにすることはできない
      が金利を引き上げる政策は明らかに誤っていたのだ』。(森永
      卓郎著『日銀不況』より。東洋経済新報社刊)
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 このようにゼロ金利解除は企業に大きな負担をもたらす結果となったのですが、もっ
と大きな問題は、このゼロ金利解除を実現するために日銀が資金を絞ってしまったこと
なのです。
 市場に流通している現金――これを「流通現金」というのですが、これと日銀当座預
金の残高の合計を「マネタリーベース」といいます。このマネタリーベースは日銀が完
全にコントロールできる資金なのです。
 このマネタリーベースは1999年12月以降、いわゆる2000年問題に備えるた
めもあって対前年比で2ケタ増が続いているのですが、2000年5月以降、低下しは
じめ、12月には前年同月比マイナス1.1%、さらに、2001年1月にはマイナス
5.6%と大幅な資金供給量の減少となったのです。
 これをどのように考えるべきでしょうか。森永卓郎氏は、たった0.25%のコール
レートを守るために、資金供給をマイナスになるまで絞り込まなければならなかったの
は、それだけ実体経済が悪化していたと考えるべきであるといっています。
 これだけ資金供給を絞れば当然株価に影響を与えます。日銀が資金供給を絞り始めた
2000年5月の時点では株価は2万円ぐらいの高値だったのですが、それからみるみ
るうちに株価は下落をはじめ、2000年の年末にはバブル崩壊後の最安値となり、2
001年3月中旬には日経平均株価が1万2000円を割り込む深刻な事態となったのです。
 それでも日銀は「景気は足踏み状態」と不況を認めようとしませんでしたが、遂に金
融引締めを断念し、3月19日に金融緩和に踏み切るのです。何とちくはぐな対応では
ありませんか。
 そもそも2000年の春にわずかに出かかった景気回復の芽は、小渕政権が100兆
円もの公的資金をはたいてやっと手にしたものだったのですが、速水総裁は日銀の権威
や面子を守るために、それを台無しにしてしまったことになります。
 3月19日の日銀の決定にはいろいろな疑問があります。それは今までと180度違
う決定内容であったこと、それにそれは、日銀審議委員の中原伸之氏の年来の意見をそ
のまま取り入れたものだったからです。クーデターが起こったのではないかという意見
すらあるほどなのです。             ・・・[円の支配者日銀/02]
               
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2008年03月26日

●日銀はなぜ金利を量に変更したか(EJ第653号)

 2001年3月19日、日銀は次のことを決めています。
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      1.金融市場調節の主たる操作目標をコールレートから日本銀
        行当座預金残高に変更する。
      2.新しい金融市場調節方式を消費者物価指数の前年比上昇率
        が安定的にゼロ%以上となるまで継続する。
      3.必要と判断される場合は長期国債の買い入れを増額する。
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 この内容は、1年以上前から中原伸之日銀審議委員が何度も提案し、そのつど否決さ
れてきたものです。とにかく日銀首脳は量的緩和に関して強い抵抗感を持っているので
す。
 日銀のこの決定を報道機関は「実質的なゼロ金利の復活」と表現して報道したのです
が、これは日銀の意に沿った報道姿勢といえます。しかし、ゼロ金利復活と量的緩和と
は基本的に異なるものであり、似て非なるものなのです。
 そもそも市場にお金の量を増やす――すなわち、マネーサプライを増やすには、次の
2つの方法があります。
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      1.金利ターゲッティング
        オーバーナイト・レートのようなコール・レートを手段と
        してそれを低めに誘導する方法である。
      2.マネタリーベース・ターゲッティング
        マネーサプライの基礎となるマネタリーベースを増やす方
        法である。
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 昨日も述べましたが、マネタリーベースとは、市場に流通している現金と、日銀当座
預金の残高の合計のことをいいます。日銀はマネタリーベースをコントロールできるの
です。
 これら2つの方法のうち、日銀が伝統的に採用してきた金融調節手段は「金利ターゲ
ッティング」なのです。しかし、中原日銀審議委員の主張は「マネタリーベース・ター
ゲッティング」であり、今まで一度として採用されることがなかったのに、今回は採用
されたことになります。
 日銀は、「金利」に注目する政策とマネーサプライとか、マネタリー・ベースのよう
に「量」に注目する政策との間には本質的な違いはないことをしきりにアピールしてい
ます。
 日本銀行のホームページに、「わかりやすい金融経済」というコーナーがあるのです
が、そこにそういう趣旨の説明が行われているので、読んでみていただきたいと思いま
す。

http://www.boj.or.jp/

 日銀はこの論法で、金融の量的緩和の要請が強くなるとゼロ金利政策のような金利タ
ーゲッティング政策を取り、マネタリーベース・ターゲッティングは決して取ろうとは
しなかったのに今回それをとったのは、3月19日の金融政策決定会合では何かクーデ
ターのようなことがあったのではないかと考えられるのです。
 EJで何回かにわたって説明しますが、現在の日本経済を救うには金融の量的緩和し
かないのです。しかし、日銀はこの期に及んでもそれをなるべくやりたくないと考えて
おり、その結果、政策が小出しになって効果が上がらないことが考えられます。
 しかし、日銀が強い独立性を持っている現在では、政府といえども日銀に強制してや
らせることはできないのです。つまり、金融政策は完全に日銀の手の内にあるのです。
 少し、ややこしい話になりますが、ゼロ金利政策と量的緩和政策の違いを説明しまし
ょう。
 日銀がオーバーナイト・レートをほぼゼロに設定すると、銀行の日銀当座預金(準備
預金といいます)に対する需要は増加します。そこで日銀はこの需要の増加に応じて、
準備預金というマネタリーベースの供給を増大させます。
 この準備預金をどんどん増やしていくと、やがてオーバーナイト・レートはほぼゼロ
になります。したがって、オーバーナイト・レートをゼロに誘導する方法をとっても、
マネタリーベースの供給を増やす方法をとっても、ゼロ金利とマネタリーベースの間に
は1対1の関係があり、いずれの方法をとってもマネタリーベースの供給量には変わり
はないことになります。
 しかし、オーバーナイト・レートがゼロになってしまうと、そこに限界が生じてしま
うのです。銀行はゼロ金利によって十分な準備預金を保有することが可能になり、日銀
がそれ以上お金を供給してマネタリーベースを増やしても、そのお金は仲介業者である
短資会社に積み上げられ、銀行には届かないのです。短資会社というのは、コール市場
において、資金の余っている金融機関と、それが不足している金融機関とを仲介して需
給を一致させる仕事をする会社のことです。しかし、短資会社の日銀当座預金はマネタ
リーベースには含まれないので、マネタリーベースの増加はここで行き詰まってしまう
ことになります。
 オーバーナイト・レートをゼロ以下、つまりマイナスにしない限り、マネタリーベー
スをそれ以上増やすことはできなくなります。また、銀行がその資金を貸し出しや証券
投資のために使わない限り――そういうことが実際に起こっている――マネーサプライ
の増加につながらないのです。
 このようにゼロ金利政策は、マネーサプライを増やす手段としては限界があるのです
が、この限界を打破するには、中原日銀審議委員のいうように金利ターゲッティングを
捨てて、マネタリーベース・ターゲッティングに切り替えるしかないのです。
 その具体的な手段としては、第1に短期国債現先買いオペを実施し、状況を見て長期
国債買い切りオペを実施することです。これが何を意味するかについては次回に説明し
ますが、3月19日の日銀の発表には、「長期国債の買い切りオペ」をやるといってい
るのですから、今までの日銀とは明らかに違います。 ・・・円の支配者日銀/03]

3月26中原審議委員.jpg
               

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2008年03月27日

●短期金融市場はどういう市場か(EJ第654号)

 日銀の問題を考えるとき、短期金融市場(以下、コール市場)についての理解が必要
になります。EJでは何度かやっていますが、今朝はこれをもう少し詳しく説明するこ
とにします。
 コール市場とは金融機関の間で資金を融通し合う市場のことです。コール市場の「コ
ール」という言葉は、呼べば直ちに戻ってくる資金(money at call )という意味で、
ごく短期の資金を意味しているのです。
 1997年11月17日に北海道拓殖銀行が、26日には徳陽シティ銀行が破綻した
のですが、直後に取り付け騒ぎが起こっています。実は、その破綻の前にコール市場と
いうプロの市場で取り引き停止が起こっていたのです。コール市場で破綻両行は企業と
しての信用を失い、資金繰りがつかなくなりそれが破綻の直接の原因となったのです。
 それでは、コール市場と日銀はどういう関係にあるのでしょうか。これを明らかにす
る必要があります。
 銀行は日銀に当座預金口座(日銀当座預金)を持っています。日本の銀行は、銀行の
銀行である日銀の当座預金に「準備預金」というかたちで、一定のお金を預けることを
義務付けられているのです。これを準備預金制度といいます。
 準備預金は、銀行の預金量の割合に応じて決められています。準備預金に金利はつか
ないので、各銀行は決められている額ぎりぎりしか積みません。毎月16日から翌月1
5日までの平均残高でいくらというかたちなので、平均的に積むのか最初はあまり積ま
ずあとからたくさん積むのか、あるいはその逆で行くのかは銀行にまかされています。
もし、所要額に達しないと「過怠金」を納めさせられることになっています。
 われわれが銀行から預金を取り崩して現金を引き出すと、その銀行は日銀当座預金か
ら準備預金を引き落として対処します。年末には多くの預金が引き出されるので、銀行
は多額の現金を用意する必要があります。
 日銀の地下の大金庫から各銀行に向けて紙幣が大量に運び出されるのですが、これに
より各銀行の準備預金は減少します。一定の準備預金を積むことを義務づけられている
銀行にとっては「資金不足」の要因になります。
 さて、個人や企業が銀行預金を取り崩して税金を政府に納めれば、銀行の準備預金は
減少し、その代わり政府が日銀に預けている預金が増加します。逆に政府が公共事業費
などを民間に支払えば、政府預金が減少して、準備預金は増加します。
 経済全体の資金の過不足は、このように民間と銀行との現金のやりとりと、税金の支
払いによって変化するのです。こういう資金の過不足は個々の銀行によって違いがあり
銀行同士での頻繁な資金の融通が必要になります。この資金繰りを毎日行っているのが
ール市場なのです。
 このコール市場の金融コントロールを行うのは日銀です。市場の資金過不足の状況を
把握し、市場に資金を供給したり、回収したりするのです。この行動を「金融調節」と
いいます。法人税などの納付期限やボーナスの支給などの季節的要因による資金量の変
動を最小限にコントロールのも金融調節です。
 市場関係者が注目しているのは日銀の金利政策です。日銀は資金供給を意図的に絞っ
たり、緩めたりして、政策意図を市場に伝えます。日銀が短期金利を高くしようと思え
ば、資金供給の量を絞り、銀行が準備預金を積み立てるペースを遅らせます。そうする
と、銀行の資金繰りは苦しくなり、コール市場の需給は逼迫し金利は上昇します。
 この金融調節で日銀が直接の誘導対象としているのは、翌日物の「無担保コールレー
ト」(オーバーナイトレート)です。この金利を調節することによって銀行の貸出しを
増減させることができるのです。
 日銀による金融調節には、公定歩合での「日銀貸し出し」という手段もあります。こ
の「銀行貸し出し」は、銀行が金融市場から調達するコールレートよりも公定歩合が低
いときは銀行としてうまみがあったのです。例えば、公定歩合がコールレートよりも1
%低いとき、1000億円の貸し出しを受けると、年間10億円儲かるのです。これは
銀行の収益支援となります。
 日銀はそういう意味で銀行の生殺与奪の力を握っており、日銀に協力的でない銀行は
「日銀貸し出し」が受けられなかったり、「日銀貸し出し」を引き上げられたり、準備
預金が積み立て不足のときに貸してくれなかったり、いろいろいじわるをされることが
あるそうです。こういうぎりぎりの嫌がらせのことを日銀内では「焼き鳥」と呼んでい
るのです。「東海銀行を焼き鳥にする」などというのです。こういうところが日銀の不
正の温床となっているのです。また、日銀と短資会社との癒着も取り沙汰されています
が、これについては明日お話しします。
 さて、北海道拓殖銀行破綻のさいの日銀の行動をチェックしてみます。1997年1
1月15日が土曜日であったこともあり、14日の金曜日が日銀への準備預金の積み上
げ最終日に当ってたのです。ところが拓銀は資金の調達はできず、100億円を超す積
み不足が生じていました。普通ならコール市場で金融機関から融通できるのですが、す
でにこの時点で、コール市場において拓銀向けに資金を出す金融機関はなくなっていた
のです。
 しかし、日銀は14日の時点で拓銀が実質上債務超過にあることが分かっていたので
日銀は何もせず、翌15日に拓銀経営陣は自力再建を断念するのです。拓銀が破綻を発
表したのは17日のことです。拓銀はすでにコール市場において破綻を宣告されていた
のです。                    ・・・[円の支配者日銀/04]
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2008年03月28日

●短資会社は日銀の天下り業界(EJ第655号)

 先週のEJで日銀の隠語「焼き鳥」についてお話ししましたが実際に行われた「焼き
鳥」の例をひとつご紹介しましょう。
 1995年12月のことです。かねてから三和銀行は、他行が準備預金の積み立てが
終り、コールレートが下がった頃を見計らって資金調達を繰り返していることについて
他行から「金融村の秩序を乱す」とクレームがきているので、日銀は三和銀行を「焼き
鳥」にしたことがあるのです。
 さんざんいじわるをして「日銀貸し出し」をしたのですが、貸し出しにさいして担保
の積み増しという制裁を課したのです。三和側は、制裁の早期解除を目指して接待を繰
り返し、その見返りとして何とか早期解除を認めてもらったそうです。
 1991年、東海銀行の不祥事にからんで日銀OBの幹部が処分されたのを不満に思
った日銀が、東海銀行に対する「日銀貸し出し」を1000億円程度回収した例もある
のです。旧大蔵省といい、日銀といい、外務省といい、この国は本当におかしくなって
いると思います。
 コール市場における資金の貸し手と借り手は、短資会社によって結びつけられます。
つまり、資金を借りたい銀行と貸したい銀行を結びつける仲介の働きをする会社が短資
会社です。短資会社は、どの都市銀行にどけだけカネを配分するかの事実上の決定権を
握ります。
 それでは、短資会社というのはどういう会社でしょうか。
 短資会社は、国内で6社しかないのです。コール市場は東京、大阪、名古屋の3ヶ所
あります。とっても別に証券取引所のような場所があるわけではなく、電話によって取
引が行われる、いわゆるテレフォン・マーケットです。
 短資会社の名前と場所、それにランクは次の通りです。
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          ≪東 京≫      ランク
           東京 短資      上位
           日本 短資      中位
           山根 短資      中位
          ≪大 阪≫
           上田 短資      上位
           八木 短資      下位
          ≪名古屋≫
           名古屋短資      下位
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 長い間、国内6社独占でやってきたのですが、1993年に日英合弁の外国為替ブロ
ーカー、ハトリ・マーシャルが参入して国内独占に風穴が空いたのです。
 東京短資と上田短資は上位短資とランクされていますが、儲け過ぎているという批判
があります。上位短資は、会社の規模からすると、異常に大きな内部留保を積み、みか
けの利益をわざと小さく操作しているという批判があります。
 この国内6社すべてに代表権を持つ役員に日銀OBがいるのです。日銀は平取締役ま
で含めれば、1社2、3人もOBを送り込んでおり、短資業界は日銀の天下り業界と化
しているのです。
 これら6社がどのくらいの営業収益(手数料収入)を上げているか、なるべく近い決
算月で比較してみます。
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                 営業収益       決算月
       東京 短資  260億3700万円  1996.11
       日本 短資  212億1400万円  1996. 9
       山根 短資  267億3100万円  1996. 5
       上田 短資  219億1300万円  1997. 2
       名古屋短資   74億2500万円  1997. 1
       八木 短資  106億2300万円  1996.10
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 これら6社の資本金がいずれも1億〜3億円であることを考えると、莫大な利益を上
げていることがわかると思います。コール市場の手数料は固定されていて、弱小短資が
赤字にならない程度に設定されているのです。
 日銀の短資会社に対する保護措置は目に余るものがあります。
 信用金庫関係者の話によると、愛知県の信用金庫は名古屋のコール市場にしか資金を
出せないのであるといいます。弱小の名古屋短資を助けるための措置です。それでいて
静岡県の信用金庫は、東京のコール市場に資金を出せるのです。
 また、1997年11月に日銀は「債券貸借オペ」という新方式のオペレーションを
導入するさい、対象として30の金融機関を選定したのですが、多くの都市銀行が選定
から外れているのに短資会社は6社とも全部対象になっているのです。債券貸借オペの
実績のある都市銀行から不満が強まり、基準の公開が求められていますが、日銀は基準
を公表していないのです。
 短資会社幹部が日銀幹部の接待をすることは日常茶飯事となっており、その狙いは日
銀の金融調節の情報の入手にあるとされています。収賄容疑で逮捕された吉沢容疑者の
容疑事実の中にも接待の見返りとして、「日本銀行の金融調節、他の市中銀行の動向に
関する機密情報の漏洩」が上げられていますが、金融市場の公正さを守る日銀にとって
考えられない不祥事といえます。
 大蔵省の金融行政は護送船団方式として批判されましたが、日銀も自分の庭先で似た
ようなことをやっているのです。外からよく見えない分、大蔵省よりも日銀の方がタチ
が悪いといえると思います。その日銀が独立性を手にして、日本の金融政策は日銀が握
っているのです。                ・・・ [円の支配者日銀/05]
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2008年03月31日

●2つのMが日本経済をおかしくさせた(EJ第656号)

 2001年3月になって内閣府は「緩やかなデフレ」と初めて認定しましたが、デフ
レは昨日今日なったのではなく、1990年代全部がデフレであったといえます。とい
うのは、最も包括的な物価動向を示すといわれるGDPデフレータは、1994年〜2
000年度まで、消費税の引き上げのあった1997年をのぞいてすべてマイナスであるからです。
 問題はなぜデフレになったかです。そこで、とくに「失われた10年」といわれる1
990年代に大蔵省や日銀が行った金融政策を中心に見ていきたいと思います。
 1985年9月――ニューヨークのプラザホテルで開催された先進5ヶ国蔵相・中央
銀行総裁会議(G5)で、米国は「強いドル」路線を放棄して、ドル高是正のための協
調介入に同意すると提案し、各国、とくに日本はこれに同意したのです。これが「プラ
ザ合意」ですが、今考えると、この「プラザ合意」からすべてがはじまっていたといえ
ると思います。
 1985年――米国は膨大な貿易赤字で苦しんでいたのです。これを解決するには、
米国の輸出を増やして輸入を減らす必要があるわけですが、そのためには「ドル安」に
することが必須の条件になります。
 これを実現するにはどうすればよいかというと、日銀が外国為替市場で持っている大
量のドルを円に替えればよいのです。そうすれば市場に大量のドルがあふれるのでドル
の価値は下がり、ドル安になります。しかし、それに応じて円の価値は逆に上がること
になります。つまり、「円高/ドル安」に向かうことになるわけです。
 プラザ合意直前の円は、1ドル=240円だったのですが、わずか2ヶ月で円は20
0円を割り、翌1986年7月には1ドル150円という急激な円高となってしまった
のです。
 この1986年7月に宮沢喜一氏は大蔵大臣に就任するのですが、大臣になるやいな
や宮沢氏は次々と大胆な金融政策を打ち出したのです。まず、急激過ぎる円高を是正す
るため、強力なドル買い介入を行うとともに11月には公定歩合を0.5%下げて3.0
%とし、1987年2月にはさらに公定歩合を2.5%まで下げてしまったのです。
 金融政策は日銀の専管事項のはずですが、このときは事実上の決定権限は大蔵省が握
っていたのです。この宮沢蔵相の打った金融緩和策は劇的な効果をもたらし、景気は1
986年11月を底に一転回復に向かうことになったのです。
 宮沢蔵相はさらにこれに加えて1987年5月には6兆円を超える「緊急経済対策」
を決定し、それに上乗せしたのです。景気が回復しかけているときに大きな財政政策を
打ったのですから、景気が過熱するに決まっています。しかも、公定歩合の方は2.5
%に据え置いたままであったので、やがてバブルが発生してくることになります。
 そのとき日銀は何を考えていたかです。時の日銀総裁は三重野康氏です。三重野総裁
は何とか金融を引き締めたいとチャンスを窺っていたのです。そこに地価暴騰という現
象が出たのを機に日銀は2.5%に据え置かれていた公定歩合を3.25%に引き上げ
たのです。1989年5月のことです。
 三重野総裁はその後何かに取りつかれたように1年ほど間に公定歩合を引き上げ、1
990年8月には公定歩合は6.0%に達したのです。
 さらに日銀は1990年4月まで2ケタ増だったマネタリーベース――すなわち、流
通現金と日銀当座預金の残高の合計のことですが、これを対前年同月の伸び率を199
1年2月の2.7%まで一貫して絞っていき、さらに1991年11月から1992年
10月までの1年にわたり、資金供給量を前年同月比マイナスに引き締めたのです。
 このあと実証していきますが、歴代日銀首脳はひどいインフレ恐怖症であり、何かと
いうとすぐ金融を引き締めるのです。何がそんなに心配なのでしょうか。当時一般物価
は別に上昇してはいないし、むしろ1990年3月に実施された不動産関連融資総合規
制と、いわゆる3業種規制で地価が下がりはじめており、むしろ経済はデフレ基調にあ
ったのです。景気は明らかに減速しつつあったのです。ちなみに3業種とは、ノンバン
ク、不動産、建設業のことをいいます。
 積極的な金融緩和策のやり過ぎで、景気を過熱させた宮澤蔵相と徹底的な引き締め策
の三重野日銀総裁――この2つMが日本経済を根底からおかしくさせてしまったので
す。このようにして失われた1990年代がはじまることになります。
 1991年7月に景気後退がだれの目にも明らかになると、日銀はやっと公定歩合を
6.00%から5.50%に引き下げます。
しかし、明らかにタイミングが遅れていたのです。しかも、マネーサプライを増加させ
る手を何も打っていないのです。
 1992年の経済状況において、金融緩和が必要だったということは誰の目にも明ら
かで、当時故金丸信自民党副総裁までが金融緩和を叫んでいたのです。それから、上智
大学の岩田規久男教授(現学習院大学)をはじめとする優れたエコノミストたちも日銀
は、手形や国債の買いオペによって積極的にマネーサプライを増やすべしという主張を
展開していたのですが、日銀は聞く耳をもたなかったのです。
 日本経済は、1992年には2四半期にわたりマイナス成長となり、株価は1万40
00円台に落ち込み、マネーサプライの伸び率は戦後初のマイナスになっていたにも関
わらず、日銀は危機の認識が遅れていたのです。
 なぜ、日銀は金融を引き締めようとするのでしょうか。それはインフレに対する強い
恐れとデフレに関する知識が不足しているためです。だから「デフレを愛する日銀」な
どと揶揄されるのです。むしろすべてが分かっていて、あえてデフレに誘導しているの
ではないかとさえ考えてしまいます。デフレになると何か日銀にとってよいことがある
のでしょうか。                 ・・・[円の支配者日銀/06]
                             
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2008年04月01日

●3つの強者はデフレを愛する(EJ第657号)

 デフレになると、誰がトクをするか考えてみます。森永卓郎氏によると、次の3つの
強者がトクをするというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.第1の強者/日銀とそれに結託する富裕層
       2.第2の強者/経営者
       3.第3の強者/構造改革派エコノミスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の強者は「日銀とそれに結託する富裕層」です。
 1万円札の原価は17円だそうです。それが1万円として流通するのです。それは皆
が1万円だと思っているからこそ、市場では1万円として流通しているわけです。
 デフレになると、何もしなくてもその1万円の価値が上昇するのです。逆にインフレ
になると、1万円の価値は下がってしまいます。紙幣はいわば日銀の製品ですから、そ
の紙幣の価値が上がるのがいいのか、下がるのがいいのかといったら、上がるのがいい
に決まっていますね。
 日銀が金融引締めをするのは、紙幣の価値を下げないというより上げたいと考えてい
るからではないかと思われます。日銀のこうした対応につけこんだのが現代の強者――
能力の高い人、既得権益に守られて所得を確保できた人なのです。そういう人たちは、
下がり続けるモノ、株式、不動産などを買い占めてますます強者になっていきます。彼
らにとって、デフレは大歓迎といえると思います。
 第2の強者は「経営者」です。デフレで失業率が高まれば、経営者はいろいろな面に
おいて強くなります。賃金引下げ、労働強化、リストラなど、やりたい放題何でもでき
ますね。今まで解雇権の乱用を厳しく戒めてきた日本の労働市場で「希望退職」という
名の首切りを自由にできるようになっているのも、デフレのおかげといえないでしょう
か。
 第3の強者は「構造改革派のエコノミスト」です。
 構造改革派のエコノミストといってもピンとこない向きもあると思うので、実名をひ
とり出しましょう。竹中平蔵経済財政担当相はまさにその筆頭といえるでしょう。
 彼らはグローバルな競争に勝ち抜くためには経済の構造改革は不可欠であり、その中
で多少のデフレ圧力が起こるのはやむを得ないという考え方に立ってデフレを正当化し
ています。経済がこういう状況でなければ、竹中氏が大臣になることはまずなかったと
思われます。
 また、構造改革派のエコノミストたちの巧妙なことは、デフレで国民を不安な状況に
陥れると同時にIT革命というバブルを作り出して、それに乗るかたちで自己の資産を
増やしていることです。そのこと自体は別に悪いことをしている訳ではありませんが、
そういうことができるからこそ強者といえます。構造改革派のエコノミストたちはまさ
にこの世の春でしょう。
 さて、米国でも1990年代のはじめには、日本と同様に大きな金融システム上の困
難、不良債権による銀行のバランスシート問題をかかえていたのです。その米国を救っ
たのは、日本の日銀に当るFRBの議長であるグリーンスパン氏のとった金融政策であ
るといってよいでしょう。グリーンスパン議長は、1992年〜93年にかけて大胆な
金融緩和政策を行い、銀行のバランスシートを回復させると同時に金利低下やドル安に
よる景気回復を実現させたのです。
 そのグリーンスパン氏も昨今の米国のバブル・マーケットの崩壊によって、その評価
は大幅にダウンしています。それは、1997年〜2000年までの4年間、資産バブ
ル(インフレといってもよい)を放置してきたからです。
 ある情報によればグリーンスパン氏は、クリントン前大統領とゴア前副大統領から、
大統領選の行われる2000年まで、何とか高値の株式市場と低失業率をサポートして
くれと頼んでおり、グリーンスパン氏はそれを受け入れたのではないかといわれている
のです。
 そして、グリーンスパン氏はこの4年間にわたるバブルの放置を正当化するため「ニ
ューエコノミー論」なる理論を持ち出して説明してきたのです。その是非については、
いずれEJで取り上げますが、とにかくこのグリーンスパンなる人物、調べれば調べる
ほど凄い人であると思います。
 テレビによく映るグリーンスパン氏というと、道路を歩いてくる映像やビルに小走り
に駆け込む映像が多いですが、FRB本部議長室でPCを操作するグリーンスパン氏の
写真を添付ファイルでご紹介しましょう。これは大変珍しい写真です。
 彼は30分ごとにPCで米国債、ダウ平均株価、外国為替、原油、金など、金融市場
の状態を示すデータのチェックをしているということです。わが速水日銀総裁はどうな
のでしょう。速水総裁はPCを使えるのでしょうか。
 基本的には、現在の日本の経済を回復させるためには、グリーンスパン氏が1992
年〜93年にかけてとった金融緩和策をとるしかないと思われます。要するに金融緩和
策、具体的にいえば円安誘導と日銀国債引き受けしかないといえます。
 しかし、それをやる前提として日銀がインフレを調整できるということが必要になり
ます。しかし、日銀はかねがねそれはできないといっています。確かに物価を上げて、
それを一定の水準で止めるということはやさしいことではありません。しかし、それを
やるのが中央銀行の役割のはずです。そんなことはできないとする日銀は能力がないと
いっているのと同じです。
 構造改革派のエコノミストたちは、金融緩和は「モルヒネ」に過ぎないといっていま
すが、量的緩和こそ構造改革を前進させるのです。というのは、量的緩和が進むとデフ
レが止まりますが、逆に金利が上昇します。そうすると、金利が払えない企業が淘汰さ
れます。デフレが止まれば担保が減額しないので、銀行は追い貸しせず、担保を処分し
て資金を回収できるのです。            ・・・[円の支配者日銀/07]

4月01日グリーンスパン.jpg

               
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2008年04月02日

●2〜3%のインフレで日本経済は再生する(EJ第658号)

 日銀がゼロ金利政策をはじめたのは、1999年2月のことです。そのとき速水日銀
総裁は次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまで、ゼロ
      金利政策を継続する』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この発言の問題点は経済の現状には「デフレ懸念がある」ことを認めている点です。
しかし、この時点で政府はもとより、日銀でもデフレであることを公式には表明してい
ないのです。
 そういう状況において、「デフレ懸念」ということばは非常に微妙なニュアンスを帯
びています。そういうものがあるともいえるし、ないともいえないというあいまいな表
現です。
 そして、2000年8月11日に日銀はゼロ金利政策を解除したのですが、多くのエ
コノミストたちは、解除の時期は少なくとも「デフレ懸念の払拭が展望できる情勢では
ない」として日銀の判断を批判しています。
 日銀としては、ゼロ金利解除時期を当初2000年7月17日に予定していたのです
が、そごうの破綻が起こってゼロ金利解除を見送ってしまったのです。
 このとき多くの金利トレーダーたちは、「当面ゼロ金利解除なし」として安心して夏
休みに入ってしまったといいます。そごう破綻の影響は決して小さくはないですが、た
かが一企業の問題で国の金利政策が影響されるはずはないと考えて「当面解除なし」と
考えたわけです。当然の判断であると思います。
 それをいきなり8月11日にゼロ金利を解除したのですから、金利トレーダーたちは
大混乱です。彼らは「7月解除間違いなし」と読んで金利高に賭けたら裏切られ、8月
は「低金利持続」と判断したら今度は解除ですから、大損をする羽目になったのです。
日銀の判断は常識的ではないということです。
 そして日銀は、おそらく不本意ながら2001年3月19日に量的緩和策をとること
を表明します。いや、表明せざるを得なかったというべきでしょう。しかも、今回の目
標は「物価がマイナスからプラスに転ずるまで」というものであり、相当長期にわたる
ことも考えられます。物価がそう簡単にプラスになるはずがないのです。そのため、相
当長期にわたって20兆、30兆という巨額な資金の投入が不可欠になってきます。そ
れを日銀はキチンとやれるのでしょうか。
 森永卓郎氏をはじめとする多くのエコノミストは、日銀の適切な量的緩和による解決
策を示唆しています。概略を述べると次のようになります。
 日銀が本気で量的緩和に取り組むと、物価は上昇に転ずるはずです。そしてその後か
ら金利が上昇していけば、今までデフレの障害であったいろいろな事象がよい方向に回
転をはじめ、日本経済を安定成長軌道に乗せることは理論的には可能です。
 デフレが止まって地価の下落が止まれば、銀行は中小企業にも融資を復活するはずで
す。そして、地価の下落が止まれば、銀行の不良債権の増加は抑えられることになりま
す。さらに金利が上昇することによって、長年低金利で苦しめられてきた生保各社も逆
ざやを解消することができるようになります。
 いいことずくめですが、これがうまく行くかどうかは日銀が本気になって量的緩和に
取り組むかどうかにかかっています。日銀は、今まで決してやらなかった長期国債の買
い切りオペを行わざるを得ませんが、おそらく日銀はおそるおそる小出しにやる可能性
が高いと思います。しかし、このやり方では、デフレはさらに継続し、深刻な事態にな
ってしまいます。
 この日銀の姿勢は、量的緩和策に転じてからのマネタリーベースの動きを見ることに
よって判断できます。しかし、3月のマネタリーべースは前年同月比1.2%のプラス、
4月のマネタリーベースは前年同月比1.4%のプラスですから、何も変化はないと判
断できます。
 しかも日銀が、4月26日に発表した「経済・物価の将来展望とリスク評価」を見る
と、2001年度の消費者物価の見通しはマイナス1.0%〜マイナス0.3%なので
す。つまり、物価がプラスになるまで量的緩和を続けるといいながら、2001年度中
は無理であるという結論を早くも出していて、完全に腰が引けてしまっているのです。
これを見れば、日銀が本気で量的緩和に取り組む姿勢は、今のところ皆無といえるので
す。
 7月12日と13日の両日、金融政策決定会合が開かれます。この決定会合に財務省
の代表が出席し「一段の金融緩和が望ましい」という政府の意向を伝えるはずですが、
日銀としては現在の景気情勢は「3月19日に金融の量的緩和策を決めた時点での想定
範囲内」というのんびりした見解を持っているのです。しかし、株価が1万2000円
割れ寸前まで売り込まれているだけに、日銀としてはきちんとした対応をする必要があ
ります。
 木村剛氏という優秀なエコノミストがおります。木村氏は足元のデフレよりもインフ
レの方がはるかに怖いといっています。木村氏は日本経済について、過剰流動性が発生
しているといっています。マネーサプライで見ると、名目GDPの120〜130%に
達しており、バブル期の110%を上回っています。つまり、バブル期よりもお金が余
っているというのです。
 しかし、このお金は銀行融資を通じて経済活動の拡大に向わず滞留しているというの
です。現在、銀行貸出しは前年比マイナス4%で推移していて、減少傾向が続いている
からです。お金自体は余っているのですから、何かのキッカケで動き出し、急激な勢い
で物価を押し上げる力となるというのです。そして、インフレが襲ってくるというので
す。彼は、構造改革派エコノミストですが、その所説は一理ありEJで改めて取り上げ
るつもりです。                 ・・・[円の支配者日銀/08]
               
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2008年04月03日

●マネタリーベースとマネーサプライの違い(EJ第659号)

 現在、日本を襲っている深刻な不況――これを克服するカギを握るのは日本の中央銀
行、日銀であると思います。しかし、われわれは、あまりにも日銀のことについて知り
ません。そこでEJでは、日本の本当の伏魔殿である日銀にメスを入れております。も
う少しお付き合い願います。大事な情報がこのあと出ます。
 「マネタリーベース」と「マネーサプライ」ということばを一緒に使ってきておりま
すが、その違いを明らかにしておく必要があります。これら2つはかなり紛らわしいこ
とばだからです。
 マネタリーベースとは、何度も述べたように、市場に流通している現金(流通現金)
と日銀当座預金の合計をいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          流通現金+日銀当座預金=マネタリーベース
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して「マネーサプライ」とは、市中銀行を除く公衆によって保有されている
現金通貨と預金通貨の合計量のことをいうのです。金融機関が除かれているのがポイン
トです。なお、日本の場合はこれに譲渡性定期預金(CD)を加えるのが慣行となって
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         マネーサプライ=現金通貨+預金通貨+CD
         ただし、金融機関をのぞく
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もう少し覚えておくべきことがあります。というのは、この定義では「預金通貨」の
範囲が明確ではないのです。そこで次の次の記号を意味を知っておく必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            M1=現金通貨+要求払預金
            M2=M1+定期性預金
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要求払預金というのは、要求によって支払われる当座預金、普通預金、通知預金など
のことです。経済雑誌などでマネーサプライについて述べるときは「M2+CDによ
れば・・」というように表現するのはこういう意味があるのです。
 それでは、郵便貯金はどこに属するのでしょうか。
 郵便貯金は、M1同様の高い流動性を持っていますが、M2には含められていないの
です。それは、郵便貯金までは日銀のコントロールが及ばないからです。そこで、別途
M3というものを設けたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            M3=M2+郵便貯金など
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、銀行預金から郵便貯金へのシフトが起こると、M2は減少するのにM3は伸
びるという事態が起きるので、金融状態に対する判断をするさいに混乱が生ずる恐れが
あります。
 さて、日銀は現在不況を克服するため現在量的緩和策をとっています。その目標は当
座預金残高5兆円に置いていますが、この目標はほとんど達成されているはずです。し
かし、この12日、13日に開かれた日銀政策決定会合で決まったことは、日銀のホー
ムページによると次の内容であり、何も変化はないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.日本銀行当座預金残高が5兆円程度となるよう金融市場調
        節を行う。
      2.なお、資金需要が急激に増大するなど金融市場が不安定化
        する恐れがある場合は、上記目標にもかかわらず、一層潤
        沢な資金供給を行う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかも、日銀は量的緩和をやる前には、ゼロ金利政策もとっており、日銀としては前
例がないほど超金利緩和政策を続けてきているのです。そのため資金はもうジャブジャ
ブに市場に溢れているはずなのです。しかし、お金が余っているのは短期金融市場の中
だけであり、資産市場にはお金は回っていないのです。
 マネタリーベースで見ると、1990年代半ば以降増加ペースが高まっています。今
年の5月時点の平均残高は約67兆円ですが、この数字はバブルの最盛期に比べて1.
7倍も増加しているのです。マネタリーベースは増えていることは確かです。
 しかし、マネーサプライはどうかというと、前年比2〜3%程度で推移しており、あ
まり伸びていないといえます。そうするとコール市場ではお金が余っているけれども、
それが貸し出しなどで資産市場に出回っていないということになります。
 しかし、金融機関としては、日銀当座預金に置いていても利子はつかないので、何か
に投資しているはずです。実はその資金は国債市場に向けられているのです。銀行をは
じめとする金融機関は潤沢な資金を企業や個人への貸し出しに使わず、ひたすら国債を
購入しているのです。
 1997年末から2000年末にかけて、預金取扱機関が保有する国債残高は36%
増えており、保険・年金基金については49%も増えているのです。財政赤字が深刻に
もかかわらず、この債券市場への資金流入が長期金利を歴史的低水準にとどめていると
いうわけです。
 このことから分かるように、資金が不足しているのではなくて資金が循環していない
ことが問題なのです。ですから、日銀にいくら一段の金融緩和を望んでも滞留する資金
が増えるだけのことであり、問題の解決にはならないのです。
 それでは、どのようにしたら資金は循環するのでしょうか。
 資金を投資機会に結び付ける手段としての施策がいま求められているのです。その前
提となるのが構造改革です。
 経済アナリストの木村剛氏は、日本経済を水道管に例えて、不純物で水道管が詰まっ
ているときには蛇口をいくらいっぱい開いても効果が乏しいといっています。まずは水
道管(=日本経済)から、不純物(=不良債権)を取り除くことが肝要であるというわ
けです。                     ・・・[円の支配者日銀/09]
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2008年04月04日

●日本の命運を握る数人のプリンス(EJ第660号)

 現在の日本経済の不況は意図的に作り出され、わざと長引かされているといったら、
あなたは信用しますか。そんな馬鹿な――と一応は思いますが、残念ながらこれは事実
のようです。それでは誰がそんなことをしたのでしょうか。
 それは、政府でも大蔵省(現財務省)でもなく、日本の中央銀行である日本銀行であ
り、しかも、その日銀の、ごく少数のプリンスたちがやったことなのです。
 こうはっきりといい切るのは、リチャード・A・ヴェルナー氏です。現在、話題を呼
んでいる『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』(吉田利子訳/草思社刊)の
著者がリチャード・ヴェルナー氏です。
 なぜ外国人が日銀の内幕を知っているのかという疑問を持つ人が多いと思いますが、
ヴェルナー氏は10年前、日銀の客員研究員として日銀に在籍し、バブル期の日本経済
の研究を続けていたことがある人なのです。また、この本は、外国人でないと絶対に書
けない本であるといわれており、日銀の知られざる秘密に迫るものとして貴重な本とい
えます。
 EJでは、しばらく同書に基づいてその驚くべき事実をご紹介していきたいと思いま
す。一番の焦点は、誰がバブルを生み出し誰がそれを潰したかにあるのです。このこと
が現在の深刻な日本経済の現状につながってくるからです。
 よく知られるように、日銀の総裁は日銀出身者と大蔵省出身者が交替で就任すること
になっています。一般論ですが、日銀出身の総裁は金融引締め政策寄りで財政による景
気刺激策を望み、大蔵省出身の総裁は財政政策を引き締めて金融政策を緩和したがる傾
向があります。
 そのため、日銀出身者と大蔵省出身者が交互に総裁を務めるこの人事システムは、ち
ょっと考えるとどちらにも偏らない政策を実施するうえで、理想的であるようにみえま
すが、実は決してそうではないのです。
 大蔵省出身の総裁は、日銀にとって重要な意思決定、すなわち信用創造量にかかわる
決定からは一貫して排除されていたといってよいのです。通常大蔵省出身の総裁のとき
は日銀出身者が副総裁となり、総裁が日銀路線を逸脱しないようにコントロールしてい
るのです。
 それに加えて、日銀以外の総裁を迎えるときは、総裁を補佐する職に日銀幹部が一人
つくのです。この補佐役についてある日経記者は、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『「副総裁以上のキーマン」が総裁秘書役。内外どこに行くに
      も総裁にぴったり寄り添って行動し、総裁に関する諸事万端を
      さばく「黒子」でもある。・・日銀は否定するが、総裁が日銀
      路線から逸脱しないように「監視」する役割を担っている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように日銀出身者以外の総裁は、ほとんど力を発揮できないシステムになってい
るのです。日本は、敗戦から2001年の春まで首相は26人に変わっています。しか
し、日本の本当の支配者は6人しかいないのです。
 その6人の支配者とは、日銀出身の日銀総裁を務めていた次の6人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.新木栄吉        4.前川春雄 ◎
        2.一万田尚登       5.三重野康 ◎
        3.佐々木直 ◎      6.福井俊彦
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに過去50年間では5人、1962年〜1994年のとくに大事な時期に国家の
操縦桿を握っていたのは、佐々木直、前川春雄、三重野康の3人なのです。
 政治家は選挙によって選ばれますが、日銀総裁はどのようにして選ばれるのでしょう
か。少なくとも国民は一切それに関与することはないのです。
 日銀出身者の総裁に関しては、必ず副総裁になっていることが条件となります。その
副総裁は理事から選ばれますが、日銀出身の理事は6人しかいないのです。大学を卒業
して日銀に入行する人は毎年約60人といいますから、そのうち1人が理事になれるこ
とになります。確実に総裁になれる副総裁になるのはそれこそ大変な確率ということに
なれます。
 このように考えると、厳しい競争があってそれに勝ち抜かなければならないのである
から、それなりの人物が選ばれると考えてしまいますが、日銀に限ってはそうではない
のです。
 日銀トップの選抜手続きは、独裁者が後継者を選ぶのに似ています。支配者は自分に
忠実で目標も目的も同じくする人物にしか権力を渡したがらないものです。
 つまり、後継者を選ぶにあたって最優先される規準は、自分への忠誠度と目標を同じ
くするかどうかであって、必ずしも能力ではないのです。こういう選抜方法では、かな
り前から後継者は決められており、どうしても前任者の政策を踏襲するかたちになって
しまうことになります。こういう人たちに日本という国家の命運が託されてしまうので
すから問題です。
 さて、バブルを作り出したのは、大蔵省出身の澄田智総裁であり、それを強引に潰し
たのは、次の総裁である三重野康総裁であると一般的にいわれています。しかし、これ
は事実とかなり異なる話なのです。
 澄田総裁は表向きは日銀総裁ではあったのですが、重要な決定は三重野副総裁中心に
ことごとく決められており、お飾り的な存在に過ぎなかったといわれます。
 いや澄田総裁に限らず、やはり大蔵省出身の松下康雄総裁のときも日銀幹部は総裁に
重要な情報を流さず、政府の政策とは逆のことをやって、1ドル80円という事態を招
いたのは記憶に新しいことといえます。      ・・・ [円の支配者日銀/10]

4月04日リチャード・ヴェルナー.jpg
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2008年04月07日

●すべては日銀と大蔵省との暗闘にある(EJ第661号)

 大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀スタッフとの関係は、
まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆頭とする、事務方官僚との関係に酷似してい
ます。そのため大蔵省出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといって
も過言ではないのです。
 とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力争いを繰り広げてきた
のです。その暗闘は敗戦直後からはじまっています。『円の支配者』の著者、ヴェルナ
ー氏は、現在、日本を苦しめている10年デフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意図
的に作り出したものであり、その陰謀は半ば成功しつつあるといえるのです。
 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀ではなく大蔵省である
と思っており、その結果として大蔵省はその名称を奪われ、解体の危機にあります。日
銀は不況を利用して大蔵省に勝利したのです。そういう意味で現在の日本の不況は「日
銀不況」といってよいのです。エコノミストの森永卓郎氏はこのタイトルで本を書いて
おられます。
 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって、念願の独立性を手に入
れ、金利政策や公開市場操作など、すべての中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、
そして6人の審議委員から構成される政策委員会で決定できるようになったのです。
 この決定にはたとえ、政府といえども異議を唱えることはできずこと金融政策につい
ては、日銀は政府よりも強い権力を手に入れることができたのです。現在の速水総裁の
弱々しい自信のない様子を見ているとだまされますが、金融政策は完全に日銀の手に握
られてしまっているのです。
 今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えているのか、日銀がどう
動けばデフレは解消するのかについて知るために、一番重要な時期、すなわち1962
年〜1994年における日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏に
ついて少し知っておく必要があると思います。なお、総裁などについては敬称を略させ
ていただきます。
 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁を務め、1969年1
2月から総裁に就任しています。佐々木に目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚
登と戦後初の日銀総裁である新木栄吉の2人です。
 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万田を戦時経済体制の指
導者として任命し、何かと援助を与えたのです。米国の占領体制が続いている間はGH
Qの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉したのです。そ
のため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には総裁になります。しかし
次の年の6月に公職追放となり、1951年まで蟄居を余儀なくされます。
 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登です。彼は優れた仕事をして
のちに「法王」と呼ばれるようになるのですが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀
マンです。
 公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されます。これはきわめて異例な人事であ
り、GHQの力が働いたのは明らかです。セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総
裁の一万田と連携をとらせて、ワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るとい
う米国の高等戦略です。
 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼の絶対的な指令は、戦
後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果
たしたのです。このように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたことに
なります。
 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は、日本に戻って再び日銀総裁にな
り、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるのです。日銀の出身者が蔵相に就任したのは
一万田をのぞいて他にはいないのです。
 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させ
ようとするのですが、このクーデターは、失敗に終ります。大蔵省はこのクーデター頓
挫から反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになります。
 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すこと
を提案し日銀に承知させるのです。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまるこ
とになります。
 クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を出すというシステムに
よって、新木や一万田は自らの意思で後継者を選ぶことができるようになります。そし
て、この二人によって選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと佐
々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。
 一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者として選んだことを日
銀内に伝えたのです。これによって、佐々木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを
得た「プリンス」といわれるようになります。日銀においては、早くから次の「プリン
ス」が決まっているようなのです。
 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総務部企画部長や人事部
長の要職に置き、営業局長を長くやらせます。この役職は一万田流のいろいろなノウハ
ウを知るうえで重要なポストだったのです。
 佐々木は1969年12月から日銀総裁になるのですが、彼のやり方は一万田流の容
赦のないやり方であったそうです。規則上は全理事が金融政策について自由に発言がで
きることになっていますが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかった
といわれています。
 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄なのです。そういうわ
けで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリンスが三重野康というわけです。佐々木が人
事部長をしていたとき目にとまったのが三重野康であったといわれます。
                        ・・・ [円の支配者日銀/11]

4月07日日銀不況.jpg
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2008年04月08日

●日銀の『窓口指導』とは何か(EJ第662号)

 佐々木直、前川春雄、三重野康――これら3人のプリンスの関係をもう少し調べてみ
る必要があります。佐々木が人事部長をしていたときのことです。一人の目立った学生
と面接したのです。それが三重野康だったのです。彼は野心家で上方志向があり、第一
志望は大蔵省で、日銀は第二志望だったのです。
 佐々木は本能的にこの男を大蔵省にやってはならないと考えて三重野を説得し、日銀
に入社させます。そしてほどなく、自分のはじめてのプリンスにすることを決意し、計
画的に重要なポストを歴任させていったのです。
 1958年から60年まで、三重野はニューヨーク日銀駐在事務所の勤務を命じられ
ます。そのときのニューヨーク事務所長が前川春雄だったのです。一万田が蔵相をして
いた時代のことです。佐々木、前川、三重野はこうように繋がっており、そのバックに
は一万田蔵相がいたのです。
 さて、日銀の政策について研究するさい「窓口指導」というものについて知っておく
必要があります。この「窓口指導」こそ、一万田が作り出した銀行の信用統制の方法で
あり、1991年7月にそれが突如廃止されるまで、この信用統制システムを佐々木、
前川、三重野らが引き継いでいくことになるのです。
 1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融資の申し込みは莫大にな
っていたのです。1946年6月から1954年6月までの8年間、一万田は日銀総裁
として、さらに1957年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に絶大な権
力を振るったのです。
 その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸び率を決定し、それから
営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てをして配分するのです。このときの営
業局長は、もちろん佐々木直です。
 そのさい銀行は、大口の借り手の氏名にいたるので細かい融資計画を毎月日銀に提出
するよう求められていたのです。営業局は、信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを
決める計画書)を作り銀行の融資計画と調整をして銀行に伝えるのです。その融資の配
分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字通り日銀のカウンター、つまり窓口で
融資割り当て額を告げられたので、誰がいうともなく「窓口指導」というようになった
のです。
 これは銀行間の過当競争を防ぐために、一万田が考案した銀行の競争を制限するシス
テムだったのです。このように、銀行の命運を握る信用統制の権限を一手に握っていた
のは、一万田と佐々木だったのです。佐々木は、1951年4月から54年9月まで元
締めである営業局長を務めていたのです。
 しかも、1962年4月から佐々木は副総裁になり、1969年からは総裁に就任、
以後5年間総裁として君臨するのです。つまり、佐々木は実に12年間にわたって、日
本経済の操縦桿をにぎっていたことになるのです。
 しかし、戦後一万田総裁を中心に信用配分を行う日銀の権力の阻止に動いたのは大蔵
省です。戦時中大蔵省は軍部と企画院に報告義務を負い、さらに内務省によってその持
てる力を大きく制約されていました。
 ところが戦後軍は消滅し内務省は解体、企画院は経済企画庁という下位官庁になり、
そこに権力の大きな空間がぽっかりと空いたのです。大蔵省は、そこにたちまち割り込
み、徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財務政策、金融政策を司るという政府機
関の中で最大の官庁になっていったのです。
 当時、日銀はその大蔵省に属する政府機関であり、大蔵省には頭が上がらなかったの
です。占領軍は1949年に日銀法を改正したのですが、金融政策は依然として大蔵省
の手の内にあったのです。しかし、一万田総裁は日銀ために巧妙な策をめぐらして日銀
に何とか金利のコントロールと市場資金量の調節機能を取り込むために活躍します。
 一万田総裁は大蔵省に金利の裁量権を委ねることを持ちかけると、大蔵省はそれに飛
びついてきたのです。しかし大蔵省が金利コントロールの政策について教えを乞うと、
一万田とその部下は専門用語を多用して素人にわかる代物ではないことを印象づける
ことに成功するのです。
 そして、一万田総裁は世間に対して次のようにPRを行い、金利と市場資金量の調節
機能の権限を握ることに成功します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問
      題である。これは日本銀行にまかせ、政治的な介入があっては
      ならないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場
      資金量の調節操作であり、技術的なことが多いので、日本銀行
      にまかせる方がよいと思われる』。
        (ヴェルナー著、『円の支配者』P114より。草思社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、ここでひとつクイズを出します。どこの国の話は当てていただきたいのです。
 この国は、まじりけのない資本主義が特徴。この国では企業が外部資金を調達する主
たる場は株式市場なのです。株主は非常に強力で、高い配当を要求します。そのために
経営者は短期的利益を求める傾向があります。
 経営役員の多くは社内から選ばれず、外部の者が任命されるのが通例です。強烈な企
業買収戦のために経営者はいつ企業買収の攻撃を受けるかわからないので不安です。も
し、業績を上げなければ、即座に地位を追われる可能性があるのです。
 この国の労働市場では採用・解雇が頻繁に行われ、従業員の転職率も高いのです。所
得と富の格差は巨大です。貯蓄率は低く、消費が80%と国内総生産の最大部分を占め
ています。
 政府の規制は少ないし官僚が経済に直接的な影響力を行使することは少ないのです。
政策課題については激しい論争があり、国民は政治に強い関心を持っているのです。
 さて、この国はどこの国でしょうか。      ・・・[円の支配者日銀/12]
               
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2008年04月09日

●戦前の日本と前後の日本は別の国(EJ第663号)

 EJ662号ではクイズを出しました。何人かの方から回答をいただきました。米国
という答えが多かったですが、中には正解の方もありました。
 答えは、「1920年代の日本」です。当時の日本は、自由放任の経済システムを有
し、純粋な自由市場資本主義の国だったのです。企業は必要に応じて中途採用を行い、
必要がないと判断したときは容易に解雇したのです。従業員の方もより良い職場があれ
ば躊躇なく辞め、条件の良い職場に移ったので、転職率は1980年代の日本に比べて
3倍以上になっています。
 それに1920年代には本物の資本家がいたのです。個人や一族が企業の株式の相当
部分を保有していたのです。どの株式でも個人株主が大半を占めたのです。1990年
代初期の個人株主の比率は15%以下であり、対照的です。
 また、大企業の取締役の大多数は社外重役であり、いずれも株主から送り込まれた人
たちです。これに対して1990年代は、大企業の取締役の90%以上が社内の企業経
営陣から選ばれていることはご承知の通りです。
 1920年代において株主の力が強かったのは、企業が資金の半分以上を株式市場で
調達していたからです。この時代の株主は高い配当を要求し、企業は利潤のできるだけ
多くを配当として支払わなければならなかったのです。
 貯蓄率についてはどうでしょうか。現在の国内総生産に占める消費の割合は、現在は
60%以下ですが、1920年代には80%であり、現在の米国とそっくりです。所得
の中で貯蓄に回される割合は現状は20%ですが、1920年代は5%に過ぎなかった
のです。
 このように戦前の1920年代の日本と1990年代の日本とはまるで別の国のよう
に変わってしまっているのです。どうしてこのように変わってしまったのでしょうか。
 その理由ははっきりしています。それは「戦争があったから」です。戦争によって日
本は戦時経済に移行することになり、1920年代の経済体制とは大きく変わらざるを
得なかったのです。それに1920年代が深刻なデフレ経済であったことも当時の経済
体制を変えようという方向に力が働いたことは確かです。
 また、1929年の株価大暴落が起こって世界中の経済が混乱し、失業者が街にあふ
れるという事態が発生し、資本主義体制というものに対する疑問が出てきたのもこの頃
なのです。政府があまり介入できない自由市場資本主義が果たしてうまくやっていける
のかという疑念が起こっていたのです。当時、ソ連は大恐慌の影響をほとんど受けず、
失業者も出ていなかったのです。
 さて、一般的な認識では、日本の戦前の体制はおかしかったが戦争に負けて日本は新
しい民主主義国家に生まれ変わったというとことになっています。
 しかし、よく調べてみると、それは違うようなのです。それは戦時経済体制と、戦後
に占領軍主導でとられた体制を調べてみるとわかるのです。そこには、ある意図によっ
て、戦後体制を1920年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、むしろ戦時
中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に維持する政策がとられていたとい
えるのです。
 どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り上げたエリート官僚た
ちが、戦後も引き続き指導的な地位に留まり、首相にまで就任するなど日本をコントロ
ールしたからです。日銀もその中で重要な役割を果たしているのです。
 1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反対を押し切って成立し
ます。この法律は国中のあらゆる物資の動員を許すというものであり、具体的な内容は
政令で定めるという事実上白紙委任状に等しいものだったのです。
 この時期国を動かしていたのは軍部ですが、その手足となって動いていたのはエリー
ト官僚たちです。国家総動員法によって彼らは何でもできる権限を手に入れたのです。
1940年にこれら日本の官僚は、新金融体制、新財政政策新労働体制という3つの柱
から成る新経済体制を宣言します。
 全体の調整機能は1937年に設立された企画院が握ることになったのですが、この
企画院はいわば軍事経済の参謀本部の役割を果たしたのです。
 この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業は利益を再投資する経
済機構を作ることにあったのです。そしてそのためのインセンティブを与えることもそ
の狙いなのです。
 株主の目標は利潤を多く得ることです。株主が一番関心を持つのが高い配当であると
すると、企業が再投資する資金はなくなり経済成長は遅れることになります。この論理
から株主は成長にとって邪魔な存在であるということになります。
 一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資源に対して大きな権限
をふるうことができます。株主と労働者の目的は経済成長には結びつかないものの、経
営者の目標は経済成長を促進する国家の目的と一致するのです。
 要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれば、経済成長を促進で
きる――1930年代の為政者はそのよう考えたわけです。しかし、労働者の力を収奪
しすぎると、その不満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の事
柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロギーを植え付けるべきで
あるというように考えたのです。
 結局、成長に一番の障害になるのは株主であり、大企業が優勢に立つ経済では、資本
家なしの資本主義が一番ベストであるという結論に達したのです。
 戦前の為政者たちはこれをひとつずつ実行に移します。経営者の地位は引き上げら、
株主の権限は縮小されます。企業は株主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であ
るということになり、配当の伸びに制約が加えられるようになったのです。
 このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に近い体制が作り上げら
れていったのです。                ・・・[円の支配者日銀/13]
               
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2008年04月10日

●小泉改革は戦時体制の改革となる(EJ第664号)

 1937年に中国での紛争が激化して戦争が始まり、もっと大きな戦争も眼前に迫っ
ているときのことです。何としても日本経済を急成長させる必要がある、成長を促進す
るために成長率を可能な限り高め、あらゆる資源を総動員して失業というムダをなくす
必要がある――そのための理論構築をしたのは、軍部と大量失業時代に入省した革新官
僚であり、彼らが一体となって日本の構造改革が進められたのです。
 そのためにまずやるべきことは、当時強大な権限を有していた株主の力を奪うことだ
ったのです。1943年10月に会社法が改正され、新しい軍需会社法が成立したので
す。これにより企業経営における株主の影響力は消滅してしまうことになります。
株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報酬、従業員の給与、そ
れに生産性向上に対して与えられる褒賞に分配されることになったのです。
 このシステムによって経営者と従業員の報酬が増えたのですが、国家非常時にあまり
多額の報酬を受け取るのはまずいため、勤続年数に対応して報酬を受け取るシステムを
とり入れたのです。これが年功給の始まりなのです。その他、企業福祉制度としての健
康保険制度、労働者年金保険制度などもこの時期にできているのです。
そして企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併して軍需省が誕生します。
これにより株の大半を政府が持つ国策会社が、1937年の27社から1941年には
154社に増加することになります。
 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービスは著しく減少します。
そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯蓄奨励運動が開始されたのです。このように
して消費が巧妙に抑えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていったのです。
 この1937年から1945年までの構造改革によってほとんどの企業は、利益では
なく、成長を目指す半官の事業に変貌してしまうことになります。
 それに政治の面で軍部と官僚は政治家が口出しをすることを排除するため、1940
年に政党は廃止され、ほとんどの政治家はひとつの政党に統合されてしまうのです。こ
の政党が大政翼賛会です。この年に戦時動員に対応するため、隣組制度ができているの
ですが、戦後もこれらの制度はかたちを変えて存続することになるのです。
 先般来の田中外相と外務省のトラブルで判明したように、日本の省庁の実質的運営は
政治家ではなく官僚がやっているのです。これは、外務省に限らずどの省庁でも同じで
あり、そういう基礎は戦前においてすでに出来上がっていたということができます。
 この1937年から1945年にいたる国家の構造改革は、ほとんどそのままのかた
ちで戦後の日本経済を支えることになるのです。奇跡といわれた戦後日本の復興は戦前
にその基礎が築かれていたことになります。
 しかし、この経済システムの真の立案者は誰なのでしょうか。このシステムは驚くほ
ど一貫しており、論理的に整合性があり、無駄が一切ないのです。しかも、信じられな
いほど短期間で作り上げられている――どうしてそんなことができたのでしょうか。
 しかも、この改革プランの立案者たちは、当時すでに日本の傘下にあった満州でこの
経済システムの実験をやっているのです。そのうえで日本にその制度を導入し、さらに
戦後いくつかの変更を加えて戦後経済体制として定着させたのです。
 このように、戦後の経済システムや社会システム、政治システムが戦前に出来上がっ
ていたとすれば、米国の占領政策とは一体何だったのでしょうか。
米国の占領政策とは、日本を民主化し、非軍事化し、規制を緩和し、自由化するとい
う点にあったはずです。確かに、占領軍司令部はこの目標を達成するため、国家総動員
法などの戦時下の法律や規則を廃止し、軍部および戦時団体は消滅。軍需省、内務省は
1945年に廃止されています。
 また、GHQは3つの大改革――@財閥解体、A農地改革、B労働の民主化を掲げ
て、戦時経済体制はほぼ完全に解体したように見えたのです。しかし、1952年4月
に米国による日本の占領が終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対
の体制が日本に出来上がっていたのです。
 どうしてそのようなことになったのでしょうか。それを遂行する過程で米国側の事情
が大きく変化したのです。それはソ連との冷戦の激化によって、米国は日本を共産主義
に対する確かな橋頭堡とするため、日本経済を急速に成長させる必要に迫られていたか
らです。そこで米国の対日政策は急転換したのです。
 そのとき、ワシントンと日本側の官僚との間で何らかのやりとりがあったと思うので
す。その結果、1930年代の体制で行くのが一番良いという結論に達したのではない
か。これに合わせて日本の占領政策は、ドイツに対するよりもはるかに緩やかな占領政
策がとられることになったのです。
 占領軍はドイツでは直接支配をしましたが、日本では間接支配――つまり、官僚を通
しての支配を行ったのです。それらの官僚は、戦時経済体制を構築した官僚たちと同じ
であり、戦時中は彼らの権限を法的に保証していた国家総動員法などの法律がなくなっ
たとはいえ、占領軍のバックアップを受けて、むしろ彼らの権限は強化されたというこ
とがいえるのです。それにかつて彼らをけん制していた軍部と内務省がなくなっている
こともそれを後押ししたといえます。
 小泉首相は「構造改革」を唱えて参院選を戦っていますが、その改革は、戦時経済体
制、社会システム、政治システムの改革ということになるのですが、彼は本当にこうい
うことが分かっていてやっているのでしょうか。
 自由民主党はいくつかの政党が統合され、1955年に誕生しています。いわゆる5
5年体制は、官僚支配を前提とする翼賛会そのものであるとはいえないでしょうか。
                         ・・・[円の支配者日銀/14]

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2008年04月11日

●戦時経済体制の企画立案者は誰か(EJ第665号)

 橋本内閣における省庁再編は、名称こそ変わったものの実態は何も変っていませんが
戦後の占領軍司令部による戦時体制の解体もまさにそれだったのです。
 例えば、軍需省は、通商産業省と経済企画庁に分割されただけであり、その実態は戦
時中と何も変わっていないのです。また、戦時中全部門の業種団体を傘下に置いていた
中央統制会は経団連になるなど、戦時中の団体もほとんど名前を変えて復活しているの
です。日本生産性本部、全国銀行協会などみなそうです。
 省庁や団体だけではないのです。戦時法令も名前を変えてほとんど残っています。と
くに金融関係の法令は無傷なのです。1937年の臨時資金調整法、1940年の銀行
等資金運用令、1942年の日本銀行法もそのままです。
 1949年に制定された外国為替・外国貿易管理法は、1932年の資本逃避防止法
と内容はほとんど同じです。しかも、この外国為替・外国貿易管理法と日本銀行法は、
1998年まで改正されることなく効力を発揮していたのです。
 省庁、法律だけでなく、それに加えて、戦時経済を企画・運営してきた指導者や官僚
は、ほとんど同じ地位を維持して生き残っています。とくに戦時経済の立案者である指
導者や官僚はほとんど追放になることはなく、たとえなってもすぐ解除されて元の地位
に戻っており、中には首相にまで登りつめた者もいるのです。もちろん、占領軍司令部
の配慮によるものです。両者の利害が一致したからです。
 実は戦後の重要な経済および政治指導者の多くは、戦時中のエリート官僚であり、
“満州閥”といわれる人たちだったのです。その代表的な一人が岸信介です。今の若い
人に満州といってもピンとこないと思いますが、満州は当時日本が統治しており、そこ
には陸軍の主力が駐在していたのです。
 岸信介は満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省のトップ官僚だったので
す。戦時経済システムの重要な立案者の一人であるとともに戦後日本経済の立案者の中
心的存在なのです。岸は戦争中商工大臣を務めましたが、戦後は首相になり、そのあと
でやはり首相になる弟の佐藤栄作とともに1972年まで、あわせて10年も首相の座
を独占したのです。この岸、佐藤によって日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角
栄に受け継がれていくことになります。
 戦時中岸信介と同じ経済相を務めていたドイツのアルベルト・シュペーアがベルリン
のシュパンダウ刑務所に投獄されていたその時期に岸は首相になっていたのですから、
米国占領軍がドイツに厳しく日本に甘かったことがわかると思います。それは、共産主
義の進出を食い止めるために米国としては、日本の経済復興を急ぐ必要があったからで
す。
 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人誰でも知っている有名な人物
がいます。中曽根康弘です。彼は内務省出身の官僚であり、若くしてこのプロジェクト
に参加しています。岸にしても中曽根にしても若い頃からその優秀性は音に聞こえてい
たといいます。
 つまり、戦前に構築された戦時経済システムは、戦後に米国の意向を受けて戦後経済
体制として復活し、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、奇跡の経済成長
を成し遂げることに結びつくのです。そして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼
ばれ、米国に次ぐ経済大国の地位を占めるようになるのです。
 そしてこの体制を自民党という翼賛政党で、1993年までの40年にわたって守り
切ってきたのです。表面上はいくつかの野党も存在し、批判勢力に発散の場所を与えて
いますので、民主主義のように見えますが、その実態はかなり違うのです。
 しかし、この無敵の経済発展プランも50年を経過して制度疲労を起こしつつありま
す。あれほど優秀だった官僚も平時では質が下落してきています。小泉首相のいう「構
造改革」はこの体制を壊すことを意味しているはずですが、自民党の中にいて本当にや
れるのでしょうか。それに本当の改革は日銀という巨大な伏魔殿を変革しなければなら
ないのです。これについては少しずつ明らかにしていきたいと思います。しかし、これ
がどんなに大変なことであるか、本当に小泉首相はわかっているのでしょうか。
 戦時の経済官僚が戦後においてもっとも力を入れて取り組んだのは、1920年代の
ように市場から資金を集める直接金融を復活させないで、銀行融資による間接金融を常
態化させることだったのです。
 戦時中でもそうでしたが、その理由は株主よりも企業の経営者の力を強くしたかった
からです。直接金融では株主を強くしてしまうことになり、これでは急速な経済成長は
望めないからです。
 銀行融資であれば、その融資の使い方は銀行が監視し、その銀行を中央銀行である日
銀が監視する体制がとれるのです。しかし、その銀行にしても企業であるので、銀行の
所有者(オーナー)と銀行の経営者は厳しく分離されたのです。
 株についても他の銀行と相互に持ち合う方式を勧め、株主が強くならないよう慎重な
手が打たれたのです。日本企業に多い株の持ち合いはこうした理由により多くなってい
るのです。
 そして銀行経営者には、利潤よりも成長に関心を持たせるようモチベートして、銀行
を貸し出し競争に走らせたのです。これが、バブル期の信じられない貸し出しに結びつ
き、大量の不良債権をかかえる結果になるのです。
 経済官僚が、銀行融資を選んだもうひとつの理由は、資金調達が迅速に行えることで
す。とくに戦争中には、優先企業に迅速に大量の資金を調達しなければならないのです
が、銀行融資は市場調達よりも迅速さでは勝っているわけです。
 EJ664号で戦時中国策会社が多数作られたことをお話ししましたが、それらの国
策会社は、生産目標を達成させるための資金を大蔵省によって割り当てられた特定の銀
行から受け取るようになっていたのです。これがメインバンクの始まりであり、戦後も
この制度は踏襲されるのです。          ・・・ [円の支配者日銀/15]
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2008年04月14日

●前川レポートは何を狙っているか(EJ第666号)

 戦時経済体制は戦後の経済復興に驚くべき力を発揮したことは確かです。しかし、そ
の体制のまま50年以上も続ければ、制度疲労を起こすことはわかっていることです。
 そのような日本を変えようとしたあるレポートがあります。そのレポートは「前川レ
ポート」と呼ばれています。日銀のプリンスの1人、前川春雄が1986年に発表した
レポートです。
 このレポートは、日本の経済構造の改革を訴えています。製造業からサービス業へ、
輸出主導型から内需主導型に、大幅な規制緩和と自由化へと構造を変えるべきであると
訴えています。要するに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場経済に
するべきであると主張しているのです。
 しかし、この前川レポートは真剣に受けとめられなかったのです。当時日本経済は好
調であり、政治家やエコノミストの多くはそんな構造改革をする必要はないと考えてい
たからです。それに戦時経済システムの既得権者や大蔵省などの特権を握った者が、そ
んな改革に賛成するはずもなかったからです。
 現在の日本経済の真の性格が、戦時経済システムであることは一般にはあまり知られ
ておらず、ましてそれを公表した人は、少なくとも1997年までは一人としていなか
ったのです。
 しかし、それを最初に口にした2人の大蔵官僚がいます。大蔵官僚といっても、当時
大蔵省を離れて学者をしていた榊原英資氏と野口悠紀雄氏です。彼らは「中央公論」の
1997年8月号において『大蔵省・日銀王朝の分析』というレポートの中ではっきり
とそのことにふれています。
 彼らは、日本経済の特質を「戦時総力戦経済体制」といい切り次のように述べて、根
本的な構造改革が必要であることを訴えているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『われわれの観点に立てば、いままさに戦時総力体制が終焉し
      つつあるのであり、真の戦後処理が今後の課題でなければなら
      ない』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らのうち榊原英資氏はのちに大蔵省に復帰し、1997年に財務官にまでのぼりつ
め、現在は慶応義塾大学教授です。野口氏は以来一貫して学者の世界にとどまっており
文筆活動に力を入れています。
 前川レポートも基本的には同じことをいっているのですが、榊原・野口両氏の発言か
らほぼ10年が経過した1986年の時点でも、政治家や大蔵省、エコノミストは無関
心だったのです。そこで、日銀のプリンスたちは、ある目標を立てて戦時経済システム
を壊す計画を実行に移したのです。
 前川レポートを彼らは「10年計画」と呼んでいたのですが、ヴェルナー氏によると
その目標はちょうど12年後に達成されたといっているのです。
 1986年からスタートして12年後というのですから、1998年にすべての目標
は達成されたということになります。そういえば、1998年には日本銀行法が改正さ
れています。1986年から1998年までというと、バブルの5年間と不況の7年間
ということになりますが、この12年間に日銀は一体何をしたのでしょうか。
 前川レポートの実現の前提として彼らが掲げた目標とは次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.日本の消費者にお金を使う楽しさを堪能させること
      2.対外投資の波を送り出したこと/海外への工場移設
      3.銀行バブルは必ず破裂し、不況になるとの学習効果
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに1998年以降の状況を見れば、あらゆるもののシステムに変化の波が生じて
います。不況の深刻化によって企業は労働者の解雇を余儀なくされ、失業率が上昇し、
伝統的な終身雇用も年功制度も崩壊しています。
 かつての日本の商法はドイツをモデルとして作られていたのですが、政府は法制度を
米国のモデルにならって改革しようとしています。会社法の改正、企業の会計基準の改
正など相次ぐ改正により、前川レポートで述べられている改革が結局のところ実現しつ
つあるのです。
 日銀は、戦時経済体制を変革するために、意図的にバブルを創り出し、それを急激に
潰して日本経済を不況に誘導し、その結果として前川レポートで唱える改革が実現しつ
つある――リチャード・ヴェルナー氏はこういっているのです。
 バブルを意図的に創り出したり、それを潰したりする――そんなことを日銀といえど
もできるのかという疑問を持つ人も多いと思います。それは、日銀が紙幣を印刷すれば
可能なのです。
 添付ファイルを見ていただきたいと思います。これは名目GDPと日銀の信用創造量
との関連を示すグラフです。信用創造量というのは、日銀が紙幣を印刷して信用を創り
出すことを意味しています。
 これを見ると、日銀が信用創造量を増やすと、すぐそのあとから名目GDPが追っか
けていることが歴然としています。名目GDPは日銀の信用創造量の動きと比例してい
ます。
 日銀は1986年以降の1980年代に相当大量の信用創造、つまり紙幣を印刷して
いますが、1990年に入るとその逆の急激な信用破壊をやり、名目GDPも急降下さ
せています。名目GDPは、日銀の信用創造量と完全にリンクしているのです。
                        ・・・ [円の支配者日銀/16]

4月14日名目GDPと信用創造量.jpg
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2008年04月15日

●日銀は不況を創り出している(EJ第667号)

 かつての日銀の法王、一万田尚登はその体験から後輩たちに次のようにいっていたと
いわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは逆にいうと日銀の権力がいかに大きいかということを示していると思います。「力のある者は決してそれを誇示してはならない」というのが一万田尚登の教訓だった
のです。
 日銀とかつての大蔵省といえば、どうみても大蔵省の方が権力があるように見えます
法的にいえば、日本経済は明らかに大蔵省がコントロールしていたのです。
 国税庁と税務署を通じて税を、主計局を通じて国家予算を、理財局を通じて債券発行
を、国家金融局を通じて外国為替への介入と国際的な資本の流れを、税関を通じて輸出
入を、証券局と証券取引委員会を通じて証券取引を、銀行局を通じて銀行部門を支配し
ているのです。このように書いてみると大蔵省が、いかに凄い権力を持っていたかとい
うことがわかると思います。
 大蔵省に比べると日銀などは完全な黒子に見えます。日銀は金融政策を実施できます
が、大蔵省は法律によって日銀を監督する権限を与えられていたのです。しかし、それ
は日銀が独立性を勝ち取った1998年までの話ですが・・・。
 それに日銀総裁をはじめとする日銀関係者は、かの一万田教訓を守っていているせい
か、あまり人前には出てきません。速水総裁などはときどきテレビに出てきますが、印
象としては何となく弱々しい感じです。しかし、それはあくまでポーズであり、肝心な
ところは総裁は絶対に妥協していないのです。
 日銀のプリンスたちとしては、この強大な権力を持った大蔵省を何とかしたいと心の
中では考えていたと思うのです。日銀はそのため意図的にバブルを創り出し、それを潰
して不況を長期化させた疑いが濃厚なのです。そういう状況になって一番困るのは大蔵
省だからです。
 大蔵省にとって不況はその存立基盤を脅かすのです。不況は法人税や所得税、消費税
の減少を招きますし、失業給付や社会保障給付も増大するからです。それに不況が長引
けば政治家が政府に総合景気対策費の支出を要求してくるに決まっています。
 入ってくるものが減少して出ていくものが多くなれば、予算は赤字になります。赤字
は国債発行で賄うことになりますが、これも大蔵省の責任になってしまいます。だから
大蔵省は不況を嫌うのです。日銀はこれを狙って長期不況を創り出したのではないかと
いう推理です。
 ここで疑問が出てきます。法的に大蔵省に監督されているはずの日銀が長期不況を創
り出すことができるのでしょうか。
 結論からいうと、それは可能なのです。しかし、これを説明するにはいくつかの前提
的な知識が必要です。そういうわけで、これについては、少し間を置いてご説明するこ
とにします。来週からは少しの間別のテーマを取り上げます。
 しかし、日銀がどのようなことをしているのかということは、少し触れておきましょ
う。1992年〜1994年まで政府は4回にわたって45兆円という総合経済対策費
を投入しています。1990年度後半には一連の景気対策としてさらに60兆円以上が
使われています。とんでもない巨額な資金投入です。
 しかし、景気は回復しなかったのです。なぜでしょうか。
 それは、財政支出が国債発行でまかなわれたからです。国債を発行すれば民間部門か
ら資金を吸い上げることになるからです。そういうときこそ日銀は信用創造拡大をやる
べきなのです。要するに、通貨を印刷してマネーサプライを増やすことです。
 そのとき日銀が何をやったかは、昨日のEJ666号に添付したグラフを見ればわか
ります。昨日と同じものですが、添付しておきます。このグラフは名目GDPと日銀の
信用創造量(日銀が紙幣を印刷した量)の関連を示すグラフです。
 1980年代に日銀は信用創造量を大量に増やしているのがわかります。これはバブ
ルの時期ですから、バブルのときにせっせと通貨の量を増やしてバブルを過熱させる結
果となっています。
 しかし、1990年代に入ると日銀は一挙に信用創造量を減少させています。それも
急転直下です。そして政府が総合経済対策費を投入しはじめた1992年にはほとんど
ゼロになり、1995年にはマイナスの領域に入っています。これは、日銀が購買力を
経済から引き上げたことを意味します。
 本来であれば、信用創造量を増加させなければならないときに逆のことをやっている
のですから、せっかくの総合経済対策費、45兆円が効くはずがないのです。1995
年5月から1997年のはじめまで信用創造量は少し増大に転じますが、その年の後半
にはまた減少しています。要するに、日銀は1990年代を通じて積極的に通貨を印刷
しようとしていないのです。
 大蔵省はなかなか不況から抜け出すことができないため、円安政策をとろうとします
その場合、大蔵省は額を指定してドルを買えと日銀に命令します。日銀はその命令にし
たがって素直にドル買いを行うのです。
 この場合、大蔵省としては日銀がドルや米国債を買うのに必要となる円を印刷すると
思っています。市場から大量のドルを買い円が市場に増えれば当然円の価値が下がるか
らです。
 しかし、日銀は国債その他の債券を国内投資家に売り、その代金で外国為替市場介入
を行ったのです。つまり、通貨を印刷しないで円を国内経済から吸い上げたのです。こ
れでは、ドルが減っても円が少なくなりますから、円安にはならないのです。
 「通貨を印刷する」というと、すぐインフレになるとわれわれは考えます。しかし、
今の日本の経済状態では少しぐらい通貨を印刷しても、インフレなどにはならないので
す。インフレになるぞというのは、日銀がそれをしないための断り文句なのです。明ら
かに日銀は不況を創り出しているといえます。   ・・・[円の支配者日銀/17]
               
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2008年04月16日

●日銀の狙いは日本経済の構造改革(EJ第691号)

 構造改革や景気回復の問題を考えるとき、過去の日本の景気循環がどうであったかに
ついて知っておく必要があります。
 1970年代のはじめに大規模な投機ブームがあり、それが、1974年以降の不況
につながっています。70年代後半には経済成長が加速したのですが、80年代のはじ
めに失速します。それから80年代後半には空前のバブル経済が発生します。このバブ
ルがはじけて、90年代の10年はずっと不況と記録的な失業が続き、2000年以降
もこの傾向が続いています。そして、ついに失業率は5%に達してしまっています。
 その間日本はインフレとは無縁だったのです。1976年から96年までの20年間
消費者物価の上昇率(インフレ率)は、平均して2.9%、1986年から96年まで
の10年間でみると、1.2%という低さです。
 同じ20年間を米国は5.3%、ドイツは3.1%、10年間では米国3.5%、ドイ
ツ2.4%ですから、日本のインフレ率は、1986年から96年までの10年平均に
ついては、低インフレのお手本といわれるドイツの半分なのです。
 それほど、インフレコントロールに優れている日銀が、なぜ、デフレを放置したので
しょうか。とくに1900年台以降10年以上にわたる不況において、日銀はなぜ信用
創造量を大幅にダウンさせたままにしたのでしょうか。日本の中央銀行の実力からみて
これは明らかに意図的な“事件”といえます。
 1970年のはじめに起こった投機ブームによって、起こされた小さなバブルがはじ
けて不況になりますが、1975年に日銀は積極的に信用創造量を増加させて不況を克
服し、日本経済を経済成長の波に乗せることに成功しています。要するに、紙幣を積極
的に印刷して経済を急回復させているのです。
 このときの日銀総裁は森永貞一郎という大蔵省出身の総裁だったのですが、事実上日
銀をコントロールしていたのは副総裁の前川春雄であり、信用創造の量を決定する権限
を有する営業局長の地位いたのが三重野康なのです。この75年の経済回復は、前川―
三重野コンビによる鮮やかな経済コントロールの手腕といえるのです。
 その三重野康は1989年12月に日銀総裁になるのですが、以来日銀は、信用創造
量を大幅にダウンさせ、今日の不況の原因をあえて作っているように見えるのです。ヴ
ェルナー氏によるとその不況によって今まで目の上のタンコブだった旧大蔵省から、日
銀は金融政策の権限を事実上奪取し、独立性を勝ち取ることに成功したのです。
 その権限を手にしたうえで、日銀としてはもっと大きな目標があったのです。それは
三重野康が総裁時代に発言した次のことばによくあらわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『(経済の構造調整を完成させるには)金融政策を運営するに
      当たっても、中長期的な課題を十分に念頭に置いておくことが
      重要である。この点、もう少し具体的に申し上げれば、私ども
      がこの調整過程のなかで、政策運営の最大のよりどころとして
      きた判断基準は、単に目先の景気をよくするという短期的な物
      差しではなく、やや長い物差しでみて、日本経済をインフレな
      き、バブルなき、長続きする成長過程に、いかにしてつないで
      いくかということである』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、三重野元総裁は、日本経済の体制の変革を成し遂げる必要があると考えて
いたのです。しかし、構造改革の重要性は不況にならないと認識されないこともよく知
っていたのです。そこで、金融政策によって危機を深刻化させ、それによって国を構造
改革に向かわせることを考えたのです。
 ひとつわからないことがあります。佐々木、前川、三重野の流れからいうと、次の総
裁は、福井俊彦氏でなければならなかったはずです。今までの日銀出身の総裁は、総裁
になる何年か前には営業局長を経験し、それから副総裁として事実上の日銀総裁を務め
たのち、総裁の座につくという流れがあったのです。
 そうであるとすれば、1994年から副総裁を務めた福井氏が次の総裁になるはずな
のに、なぜか、速水優氏が総裁となって現在も総裁の座にあることです。日銀法の改正
に関係があると思いますが、それだけに次期総裁に福井俊彦氏の名前が取りざたされて
いるのだと思います。
 日銀のプリンスたちの狙いが経済の構造改革にあることは、わかってきましたが、そ
れにしてもデフレの現況をそのままにして、構造改革を進めることはできないと思いま
す。そういうわけで、インフレターゲット論が出てきたのですが、なぜ日銀は信用創造
に踏み切らないのでしょうか。経済回復の必要十分条件は新たな購買力の創造しかない
のです。これをやれるところは、銀行か日銀なのですが、大半の銀行は不良債権がネッ
クとなってほとんど貸出しができない状況にあるので、日銀がやるしかないのです。
 日銀による信用創造は、何らかの対価となるものを日銀が買い上げることによって行
われます。買い上げるものは金融資産でも何でもいいのです。銀行の貸出しが機能して
いないのですから企業に社債やCP(コマーシャルペーパー)などの債務証書を発行さ
せて、それを日銀が買い上げて新たに印刷された紙幣で支払うという方法もあります。
 もし、零細企業であれば、社債を発行する大企業からの信用取引というかたちでも資
金を入手できる方法があります。銀行が貸出しという本来行うべき仕事をしていないの
ですから、日銀がそれに代わるしかないのです。
 もうひとつ方法があります。財政政策を信用創造で裏づける方法です。国債を民間
部門に売ったのでは量的クラウディング・アウトによって効果がありませんが、日銀が
それを引き受ければ、新たなお金を経済に注入できるのです。しかし、速水総裁は、か
ねがね「それだけは絶対にやらん」といっており、リスクも確かに大きいのですが・・・。                 
                        ・・・[円の支配者日銀/18]                  
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2008年04月17日

●金融緩和策はインフレターゲッティング(EJ第692号)

 インフレターゲット論を「経済をあえてインフレにして借金をチャラにする政策」と
いうようにいう人がいます。何やらそこには、お札を刷ることのうしろめたさというも
のがあるようです。何となくわるいことでもするような、そんなうしろめたさです。
 しかしそれはおかしな話です。必要なときにお札を刷って信用を創造して経済を活性
化させ、行き過ぎたときはお札を引き上げて金融を調節するのが日銀の仕事なのです。
 さて、日銀は、3月19日に「量的緩和」に踏み切り、「消費者物価指数が前年比ゼ
ロ以上になるまで、資金を金融市場に供給する」と言明しています。
 これは、「消費者物価指数がゼロになる」ことをターゲットとして、日銀があらゆる
手を打つというように解釈できると思います。インフレターゲット論を説く人は、この
目標をゼロではなく2〜3%に設定しろといっているだけのことであり、そういう意味
では日銀はすでにインフレターゲット政策をとっているともいえると思うのです。
 しかし、3月19日以来日銀のやっていることは、ゼロ金利政策と何も変わっていな
いのです。株価が下落して世間が騒がしくなると、日銀は量的緩和と称して短期金融市
場にお金を流すだけであり、その実態は、「金融緩和策をパッケージ化したゼロ金利政
策の改良版」そのものです。
 日銀は、今回の金融緩和策には、「消費者物価指数がゼロになる」という目標に加え
て「日銀当座預金の残高を5兆円にする」という目標も掲げています。このあたりに日
銀の巧妙な戦略が感じられるのです。
 というのは、日銀はまず、「日銀当座預金の残高を5兆円にする」に手をつけてこれ
を達成しています。これだけだと、ゼロ金利政策と変わりはないのです。ここで様子を
見て、問題があれば、さらに1兆円増やすというように政策を小出しにする作戦と思わ
れるのです。しかし、こんなやり方では、余剰資金が市場に向かわず、当座預金の中に
滞留するだけなのです。銀行が不良債権の処理などの関係で積極的に貸出しをしないの
ですから、日銀は他の方法をとって新しいお金を市場に流す方法を考えるべきです。
 「お金は供給しているが企業に資金需要がない」といい続けるだけでは、日銀は責任
転換しているといわれても仕方がないと思います。量的緩和とは、ずばりお札を印刷し
て市場に購買力を与えることなのです。
 仮に日銀がある人の家を買うとしましょう。日銀が銀行を飛び越して市場から直接、
しかも金融資産でない不動産を買うなんてとんでもないという人がいるかも知れませ
んが、べつに日銀がやってはいけないことことではないのです。
 買値を提示する必要がありますが、市場価格以上の値をつければ、その人は売る気に
なるはずです。日銀はお札を印刷してその人に代金を支払ったとします。支払いの方法
として日銀は、その人の取引銀行の日銀当座預金に振込み、そのうえで代金がその人の
口座に入ることになります。
 家の代金を入手できたその人は、購買力が増加したことになるので、そのお金を一部
使って何かを購入するはずです。家を売ってしまったのですから、前よりももっと広い
一戸建てを購入するか、マンションを購入するかも知れません。そして、その代金は売
り手に渡り、その人はまた何かを買って誰かにお金を渡すというように連鎖的に経済行
為がはじまるのです。これが大規模で起これば市場は間違いなく活性化します。
 日銀はまさに無から有を創り出したことになるのです。日銀が市場に直接手を出すの
は平時は避けるべきですが、現在は銀行が機能を果たしていないので、仕方がないので
す。
 日銀のやることはいくらでもあります。高利回りの不動産であるとか、その流動化証
券である不動産投信(REIT)、株式時価総額先物とそれに連動する投信を買い入れ
ることもできます。そして、日銀の一番嫌がる国債の直接引き受けなど、そのときどき
の情勢に応じて的確に手を打って、日銀自らが掲げた消費者物価指数をゼロに持ってい
くべきであります。そういう意味において、日銀は自ら掲げた目標を達成させるための
手をほとんど打っていないのです。他に責任を押し付けています。
 といっても日銀の意思決定は、速水総裁の独断で決まるわけではないのです。日銀の
政策委員会のメンバーは、速水総裁を含めて9人です。これら9人のメンバーは、次の
ように色分けすることができます。(添付ファイル参照)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪金融引き締め派≫
       速水優総裁、藤原作弥副総裁
      ≪ニュートラル派≫
       山口泰副総裁、武富将審議委員、三木利夫審議委員、
       須田美矢子審議委員
      ≪金融緩和派≫
       中原伸之審議委員、植田和男審議委員、田谷禎三審議委員
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在の政府と日銀のあつれきは、昨年8月11日の「ゼロ金利解除」のときの葛藤が
影響しています。2000年6月になると日銀はゼロ金利解除のサインを出しはじめた
のですが、7月12日にそごうが破綻すると、当時の宮澤喜一大蔵大臣は日銀に対して
「冷静な対応を」と釘をさします。
 これでゼロ金利解除は当分延びると誰もが思ったのです。しかも、8月に入って消費
者物価やGDPデフレータは低下し、解除の環境としては最悪になっていたからです。
9日になると、衆議院の山本幸三議員、渡辺喜美議員、深尾光洋慶応義塾大学教授ら7
人が日銀に対して、「ゼロ金利解除すべきではない」という緊急提言を突きつけたので
す。
 しかし、日銀は「これでは日銀の独立性を脅かされる」と判断して、面子でゼロ金利
解除を強行してしまったのです。          ・・・[円の支配者日銀/19]

4月17日日銀の政策委員会.jpg

               
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2008年04月18日

●インフレ目標の達成手段は2つある(EJ第693号)

 本当は今朝から話題を変えるつもりでしたが、日本経済がただならぬ状況になってい
るので、もうしばらく経済の話題を続けることにします。
 現在、日本経済は「3つのD」の複合的な危機に直面しているといわれます。
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      第1のD ・・ 不良債権と表裏一体の過剰債務(デット)
      第2のD ・・ 経済活動に水を差すデフレ
      第3のD ・・ 景気後退に伴う需要(デマンド)の不足
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 株安は、銀行、生保、企業年金に致命的な打撃を与えます。とくに生保会社は巨額の
逆ザヤを抱えており、株安によって含み益が消えると、その逆ザヤを埋める原資が不足
する事態に陥る恐れがあるのです。
 現時点における生保各社の株式含み損益が、ゼロになる日経平均株価を示しておきま
す。
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      1.日本生命  8600円  6.大同生命 11200円
      2.太陽生命  9970円  7.安田生命 11500円
      3.明治生命 10400円  8.住友生命 12900円
      4.第一生命 10800円  9.三井生命 13700円
      5.富国生命 10900円 10.朝日生命 14700円
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 日経平均株価は、8月31日時点で10713円であり、この時点で、日本生命、太
陽生命、明治生命を除く国内生保会社はすべて株式含み益はゼロになってしまっている
のです。
 とくに、8月6日、格付け会社ムーディーズに格付けを下げられた三井生命と朝日生
命は心配です。三井、朝日ともに「投資適格」の最下位の「Baa3」だったのですが、
今回、次のように三井生命は1ランク、朝日生命は2ランク下げられたのです。
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      三井生命 Baa3(投資適格最下位) ⇒ Ba1(投機的段階)
      朝日生命 Baa3(投資適格最下位) ⇒ Ba2(投機的段階)
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 解決策は、今までEJでもいろいろ検討してきたように、銀行と日銀にすべてがかか
っています。米連邦準備理事会(FRB)グリーンスパン議長は、次のようにいってい
ます。
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      『日本で金融仲介機能を営むのは、基本的には銀行だ。その銀
      行が自らの資本不足に恐れをなして信用を拡張できないと、日
      銀のできることにも限界がある』――グリーンスパン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 銀行の当座預金を積み上げる金融緩和策は既にとられていますが、効果が上がってい
ません。それは、巨額な不良債権を抱えている銀行の金融仲介能力が低下しているから
です。
 要するに、最近の銀行の行動原理は「儲からないから貸さない」のではないのです。
表面上の自己資本比率は10%以上あるのですが、それが実態とかなり乖離しているの
で、実態がばれることを恐れて貸し出しを増やせないのです。
 そこで、インフレターゲット政策が盛んにいわれているのですが、問題はインフレ目
標を達成する手段です。手段としては大別すると、2つあります。
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      1.日銀自身が信用リスクを覚悟で民間資産などを購入
      2.財政資金を日銀がサポートするマネタイゼーション
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 第1の手段としては、日銀自身が社債やCP(コマーシャル・ペーパー)などを、銀
行を経由しないで購入して企業に資金を流す方法があります。それでも足りなければ、
不動産だって引き受けるという覚悟が必要になります。
 ここでCPというのは、企業が長期資金を得るために社債を発行するように、機関投
資家や個人に対して発行できる資金調達手段のことです。日本では1987年に国内C
Pの発行が認められています。
 しかし、日銀が直接民間リスクを引き受けるのはきわめてリスキーなことであり、日
銀がどこまで信用リスクをかぶるかを決めていないと、問題企業を日銀資金で延命させ
るだけで終ってしまう恐れもあります。
 第2の手段としては、新たに発行する国債を最終的に日銀が引き受ける方法です。し
かし新たに発行する国債の日銀による直接引き受けは財政法で禁止されているのです。
 そこで、構造改革を使途とする「小泉ボンド」(国債)のようなものを発行し、日銀
がお金を印刷して流通市場でその分の国債を購入するという方法があります。
 現在のところ、2つの手段のどちらも日銀はやろうとしていません。日銀としてはや
るだけのことはやっており、あとは政府の責任であるという姿勢です。EJでは、リチ
ャード・ヴェルナー氏の『円の支配者』(草思社)を取り上げ、ヴェルナー氏の主張を
詳細にお伝えしてきましたが、これを読むと日銀は経済回復のカギを間違いなく握って
います。
 過去の日銀のプリンスたちが、長期計画を立てて宿敵である大蔵省支配を脱し、遂に
1998年に独立を勝ち取った経過が詳細に描かれています。日本の通貨の番人といわ
れる日銀が、いわゆる“省益”を守るためにこんなことをするとは信じられない思いで
すが、書かれていることはきわめて具体的であり、間違いないと思われます。この本に
ついて、日銀が何も反論しないのもそれが事実である証明でしょう。
 速水総裁が率いる日銀としては完全に守りに入っています。今までの日銀政策を見る
限り、政府などからいわれるとしぶしぶそれに従っています。そこに日銀としての強い
意思が感じられないのです。こんなことで日本経済はどうなるのでしょうか。
                         ・・・[円の支配者日銀/20]
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2008年04月21日

●構造改革の目指す姿とは何か(EJ第694号)

 日本に限らず中央銀行というものは、伝統的なやり方で失敗する方が非伝統的なやり
方で成功するよりもマシという考え方があるようです。それほど伝統的なやり方にこだ
わるということであり、革新的な手法はなかなか使われないということです。
 日銀がお札を刷って市場にお金を投入する場合、その投入する資金に見合う対価を銀
行から引き取ることになります。この引き取る対価として使われるのが国債です。日銀
は毎月約4000億円、年間にして5兆円の長期国債を引き受けています。
 インフレターゲット論者はこれを毎月6000億円以上、年間7兆2000億円にせ
よといっているのですが、日銀がこのようにして金融機関から国債をどんどん買い上げ
ていったらどうなるでしょうか。
 日銀が銀行をはじめとする金融機関からどんどん国債を買い上げていくとします。そ
うすると、銀行の手元には国債が減少して現金が増えていきます。現在銀行は国債で資
金運用を行っていますから、資産の組み替えをする必要が起こってきます。
 銀行は手元の現金でまた国債を買うかも知れませんが、それも買い上げてしまうとし
ます。そうすると、やがて国債の金利はギリギリのところまで低下してしまうのです。
 銀行としては、現金で持っていてもぜんぜん利益を生まないので、外国債券とか海外
市場に目を向けた投資をするか、株式に投資することになります。そのように考えると
量的緩和の効果は為替市場か株式市場にあらわれてくるはずです。
 しかし、海外にお金が流れただけでは意味がないのです。銀行が国内に融資先を本気
で見つけなければ、日本経済の活性化にはつながらないのです。最近の日本の企業経営
者は銀行を含めてリスクをとろうとせず、腰が引けていると思います。
 もっとも企業経営者としても、政府がビジョンを示し、どういう事業を助成しようと
しているのかはっきりさせない状態では、リスクの取りようがないことは確かですが。
 現在、政府は構造改革に取り組むといっていますが、その目指す姿はどのようになる
のか、どこに重点を置くのかについて政府は具体的に示すべきです。そうでないと、企
業も銀行も、ますます守りの姿勢を固めるだけだと思います。
 小泉内閣における経済の舵取りの司令塔、竹中平蔵経済財政担当相は経済政策には次
の4つがあって、それぞれを身体や病気に喩えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.不良債権の処理 ・・・・・・ 外科手術
       2.景気の回復 ・・・・・・・・ 痛み止め
       3.財政再建 ・・・・・・・・・ 糖尿病
       4.長期成長率の引き上げ ・・・ 基礎体力
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 不良債権の処理という外科手術は最優先で行われるべきであり景気対策はその痛み
止めとしての働きを持っています。しかし、病気の根本原因である財政再建という糖尿
病を放っておくと基礎体力が回復しないので、それを根気よく治療しながら、長期成長
率を引き上げようという計画であるというのです。なかなか分かりやすい説明だと思い
ますが、いま一番重要なのは不良債権処理という外科手術なのです。
 ところで、構造改革の「構造」とは何でしょうか。
 「構造を変革する」とは、かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた日
本的システムの構造を変革しようということを意味しています。そういう日本的システ
ムのひとつに「間接金融中心」ということがあります。
 今までの日本の企業の資金調達は、そのほとんどが間接金融、すなわち銀行からの融
資を受けて資金を調達する方法です。この日本の金融構造が大きな問題といえます。こ
の間接金融中心の資金調達システムに誘導したのは、日銀であることは既にお話した通
りです。
 このシステムが残っているからこそ現在のように銀行の貸し渋りが起こると、倒産が
起こってしまうことになるのです。この間接金融偏重を直接金融に切り替える――これ
こそ構造改革そのものといえます。
 銀行の融資は、その企業がどういうアイデアを持ち、どのように魅力的な事業計画を
持っているかということよりも、土地という担保を有しているかどうかによって決まっ
てしまいます。本来土地を担保にとってお金を貸すというのは、本当の意味でリスクを
とっていないのです。なぜなら、もし、回収できないのであれば、担保を処分して資金
を回収できるからです。
 それにこういう土地担保融資は、銀行の信用創造が担保である土地の評価額によって
制限されてしまうというマイナス点があるのです。しかも現在は地価が下がっており、
資産デフレになってしまっています。そうすると、土地の価格は毎年下がり、貸し出し
も鈍ることになります。そして、担保の土地の価値が下がることによって、その債権が
不良債権化するのです。
 もともと戦前の日本は、間接金融よりも直接金融のウエイトが高かったということは
既に述べましたが、戦後株式市場が育たなくなったのは、税制に問題があります。なぜ
なら、現在の税収はリスクに対する配慮がないからです。
 間接金融中心から直接金融中心に切り替えるのは、いろいろなことをやらなければな
りません。税制を変更し、起業の手続きを簡素化し、規制を撤廃し、株式市場を活性化
する――これこそ構造改革そのものであり、本気での取り組みが求められます。それに
最も大切なことは、リスクの意識を育てることです。
 実は金融の世界において、このリスクの意識が日本では欠如していると思います。そ
れは80年代まで日本の金融機関が護送船団方式によって規制でがんじがらめになり、
自由な競争ができていなかったことに原因があると思います。リスクの問題は改めてE
Jで取り上げます。               ・・・[円の支配者日銀/21]
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