2006年07月26日

●JFKジュニア/事故か謀殺か(EJ第1424号)

 1999年7月16日、米国で1機の自家用飛行機――6人乗りパイパー・サラトガUが消息を絶ったのです。この飛行機の操縦桿を握っていたのは、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア――同乗者はケネディ・ジュニアの妻キャロリンとその姉のローレンの2人だったのです。
 ケネディ・ジュニアが操縦する飛行機は16日午後8時38分にニュージャージー州フェアフィールドを離陸、目的地のマーサズ・ビンヤードに午後10時に到着する予定だったのです。ここは、ケネディ家の別荘があるのです。ケネディ・ジュニア一行は故ロバート・F・ケネディ司法長官の娘ロリーの結婚式に出席する予定だったのです。
 しかし、予定時間から4時間が過ぎても到着しなかったので、家族が連邦航空局に届け、事故が判明したのです。捜索の結果、7月21日に3人の遺体は収容されています。解剖の結果、ジュニアの妻は妊娠3ヶ月――結局4人の命がこの事故によって失われたことになるのです。
 ロバート・ケネディは、ケネディ・ジュニアにとって叔父にあたるのですが、彼が1968年、大統領選挙に出馬中にロサンゼルスで射殺されたとき、叔母のおなかの中にいたのがロリーなのです。ロバートの死後、5ヶ月して誕生したロリーの結婚式には275人が招待されていたのですが、不幸なことに、ケネディ・ジュニアの葬式と重なり、式は中止されたといいます。
 この事故に関して、米国の航空管制局は、夜、悪天候、操縦に慣れていない購入したばかりの飛行機といったいくつかのキーワードから、何らかの操縦ミスによる着陸の失敗という報告を公表しています。さらにジュニアは足をケガしており、ギブスが外れたばかりという事故を裏付ける情報も出ています。
 しかし、これに反する情報は多いのです。足のケガに関してはジュニアは飛行機に乗る前にジムで汗を流していたことがわかっており、操縦に支障はなかったと考えられます。
 また、このニュージャージーの海岸線一帯は霧で有名なところですが、ジュニアにとっては自分の庭のように飛び慣れており、まして妻が大事な赤ん坊をおなかに宿していることでもあるので慎重に操縦したことは間違いないと考えられます。
 着陸空港の管制官とのやりとりの記録でもジュニアは「これから着陸態勢に入る」ということばを交わしており、着陸寸前まで何も異常はなかったことがわかっています。
 あとになって判明したことですが、この事故には目撃者はかなりおり、飛行機は急スピードで海上に墜落したことがわかってきたのです。飛行機のトランクルームに爆薬が仕掛けられていたか地上からミサイルのようなものを撃ち込まれ、機体が爆発したという情報すらあるのです。
 公の報告書は操縦ミスによる事故死ということになっていますが、これとは別にこうした目撃情報のウラをとった事故報告書が存在するのです。しかし、奇怪なことに、その報告書の公開は差し止められ、国家の安全保障に関わるという理由で、2029年まで公開を差し止める封印措置がとられてしまったのです。
 これでは、父親であるジョン・F・ケネディ元大統領と同じ扱いになりますが、大統領と違い、ケネディ・ジュニアは一民間人なのです。その飛行機事故の報告を暗殺された大統領並みにそこまで封印する必要があるのか疑問に思います。
 しかし、このケネディ一族――不慮の事故があまりにも多過ぎるのです。飛行機事故だけを例にとっても、ジョセフ&ローズケネディの長男、ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアは、第2次世界大戦中の1944年、自ら操縦する爆撃機が爆発し、29歳で死亡しています。
 これは戦時中のことであり、仕方がないともいえますが、長男に続いて次女のキャサリーン・ケネディは4年後の1948年、フランスのセベンヌ山脈でチャーター機が墜落して28歳で死亡しています。
 飛行機以外の事故を含めると、たくさんあります。暗殺されたロバート・ケネディの長男のジョセフは、1973年に車で事故を起こし、同乗者の女性が負傷、重度の身体マヒにさせてしまっています。三男のデービットは1984年に麻薬の過剰服用で死亡。四男のマイケルは彼の子供のベビーシッターと関係を持ったことを非難されて精神がおかしくなり、1997年にコロラド州のスキー場で滑走中に木に激突して死亡しています。
 現在、連邦上院議員であるエドワード・M・ケネディは、1969年にマサチューセッツ州チャッパクディックで運転していた車が橋から落ち、本人は助かったものの、同乗していた女性を死亡させています。ところが、事故の通報が10時間も遅れたことでスキャンダルに発展し、これが原因でエドワードは大統領の夢が絶たれてしまうのです。
 しかし、逆の見方をすると、エドワードが現在でも上院議員を続けていられるのは、大統領への道が完全に閉ざされた結果であるともいえるのです。ケネディ一家では、大統領を目指そうとする者は確実に殺されてしまうからです。
 JFKジュニアといえば、3歳になったばかりの自分の父の埋葬の日、最敬礼をしながら父親の棺を見送るシーンが目に焼きついています。JFKとジャクリーン夫人との間には、流産と死産を繰り返したあとに生まれた子供が2人います。姉のキャロラインとJFKジュニアです。
 病院の保育器の中にいるジュニアを見つめるJFKに記者団が「将来、ご子息にも大統領になって欲しいですか」と聞いたところ、「無事に育ってくれればそれで十分」と答えたといわれています。しかし、JFKの願いは空しかったのです。まさか38歳でこの世を去るとは・・・。
 ジュニアの死は事故ではない疑いが濃厚なのです。だからこそ政府は事故報告書の公開を封印したのでしょう。そうであるとすると、ジュニアはなぜ殺されたのでしょうか。・・・・・・・・[JFK01]


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2006年07月27日

●JFKジュニアは何を目指したのか(EJ第1425号)

 20世紀最大のアメリカン・ヒーローとまでいわれたジョン・F・ケネディ大統領――彼の存命中はもちろんのこと、つい20年ほど前までは、女性をめぐるスキャンダルとは無縁の清潔な政治家であり、家庭人であると考えられてきたのです。
 ダラスで凶弾に倒れたとき、JFKは46歳――彼には一回り若いエレガントで貞淑なジャクリーン夫人と2人の子どもがいたのです。しかし、JFKの死から40年以上経った現在、JFKのイメージが、こと私生活に関する限り、大きく変化してきたことは否定できないのです。これは、私の集めたJFKに関する資料からもはっきりといえることなのです。
 JFK夫人のジャクリーン――彼女はJFKの死の5年後、ギリシャの海運王、アリストレス・オナシスと再婚しています。しかし、この再婚を世間一般はあまり好意的には受け止めているとはいえません。「随分あっさりとしたものなんだな」と考えた人も多かったからです。しかし、それはわれわれがそれだけJFKを神格化し、偶像化していたからなのであり、真実は別なところに
あるのです。
 JFKの死後、ジャクリーンは2人の子どもを連れて、ジョージタウンのタウンハウスへ移り住んだのです。しかし、当時この一家は悲劇の主人公であり、一家を一目見ようと観光客が連日押しかけて、ジョージタウンはちょっとした観光地の様相を呈したといわれます。
 ジャクリーンはこれに危機感を抱いたのです。このまま米国にいると、自分たちにいつ危害が及ぶかわからず、子どもたちを守り切れない――ジャクリーンはこう考えたのです。しかし、自分と子どもたちをオナシスに託そうと決断したのは、ロバート・ケネディが大統領選挙中に暗殺された1968年6月6日のことなのです。そして、その年の10月20日にジャクリーンは、オナシスと結婚するのです。
 大統領の未亡人や家族には一応シークレットサービスが付くことにはなっているのですが、あくまで建前であって、弟のロバートは殺され、四男のエドワードも何度も暗殺未遂に直面しており当てにならないのです。
 その点オナシス家では、オナシス軍団といわれるオナシス自身が雇った軍隊が、24時間体制で身の安全を保障してくれる――ジャクリーンは自分と家族の安全をオナシスに託したのです。しかし、単にそれだけではないことが次のジャクリーンの独白でもわかります。
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  わたしはオナシスと結婚したことで、ケネディ家の呪いから解放された。
 アリ(オナシスの愛称)のお陰で救われた。彼の力で、わたしは幸せや愛情
 を感じることのできる世界に連れていってもらうことができた。――ジャクリーン
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 幸せや愛情を感ずることのできない世界――それがケネディ家であるとジャクリーンはいいたかったのでしょうか。ケネディ家とはどのような一族なのかについては、やがて明らかにしていくことにします。
 1983年になって成長したジュニアは、ギリシャから米国に戻り、ブラウン大学を卒業します。法律家として身を立てようとしたのです。そして弁護士の資格を取ります。しかし、その心中ではひそかに政治家を目指そうとしていたのです。
 ジャクリーンは、1994年5月20日に死去しているのですが、つねづねキャロラインとジュニアには「政治には決して関わらないように」と申し渡していたのです。「これが私の遺言である」と。しかし、ジュニアは、その母の戒めにもかかわらず、父の死に不審を抱き、それを解明するために政治の世界に入ることをひそかに目指していたのです。
 そしてその1ステップとして、「ジョージ」という名前の政治雑誌の出版事業に乗り出します。彼は、この雑誌を通じて米国の政治のタブーといわれるものを明らかにしたいと考えていたのです。この出版事業はそれなりに成功を収めます。
 創刊号は50万部を完売し、その後も40万部をコンスタントに売るという上々の滑り出しです。ケネディ家にはさまざまなコネクションがあり、有力企業がこぞってスポンサーとしてバックアップしたからです。
 といっても、この雑誌「ジョージ」発刊事業は、有名人の御曹司による道楽とは一概にいい切れないのです。政治雑誌でありながら、雑誌の表紙にはロバート・デニーロ、ジョン・トラボルタトム・ハンクスなどのハリウッドの一流スターを使い、中身の読み物には、ノーマン・メイラーをはじめとする有名作家を起用して、中身の濃い読み物に仕上げているからです。
若い人に政治に関心を持って欲しいという願いがそこにあったからです。
 中でも注目すべきことは、JFKジュニア自身が毎号話題の人物にインタビューしていることです。その話題の人物の中には、JFKの暗殺にからんだとされるジョージ・ウォラス元アラバマ州知事やキューバのフィデル・カストロもインタビューの相手に含まれていたからです。
 明らかにジュニアは、父親の暗殺にかかわった米国政治の暗部に焦点を当て、それらの正体を「ジョージ」を通じて暴くというきわめて危険な賭けをやろうとしていたのです。それというのも米国政府自体がケネディ大統領暗殺の真相を国民に目にさらさないよう封印しているからなのです。
 2000年の大統領選挙――共和党のジョージ・ブッシュ(現大統領)と民主党のアルバート・ゴアによって争われた選挙ですが、その前年の1999年のはじめにJFKジュニアは大統領選挙に出る意思を固めて、当時のゴア副大統領に会っていたとする情報があります。2000年の大統領選挙に出馬することを同じ民主党のゴアに告げて、仁義を切ったものと思われます。ジュニアには民主党の指名をとる自信があったのでしょうか。・・・[JFK02]

JFK関連本.jpg


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2006年07月28日

●JFKジュニアの大統領選出馬(EJ第1426号)

 実は、JFKジュニアは民主党から出馬するのではなく、第3の政党を率いて立候補する予定だったのです。当時JFKジュニアは「第3世代のケネディ家のホープ」として大変人気があり、女性や若者からは圧倒的な支持を得ていたので、第3政党から出ても相当の票を集める可能性があったのです。したがって、もし本当に出馬となると、ブッシュ陣営にとっても、ゴア陣営にとっ
ても、大変な脅威になったはずなのです。
 そのため、ゴアはJFKジュニアに会ったとき、今回は自分の副大統領候補として協力してくれないかと頼んだといわれているのです。ゴアにしてみれば、そうすることによって彼の出馬を断念させ、選挙戦を有利に戦えると踏んだからです。
 しかし、JFKジュニアはこれを断っているのです。彼は、父親が暗殺された1963年当時から今日にいたるまで、米国政治は何も変わっておらず、既に国民の信頼を失っている――そして国民のほとんどは、JFK暗殺の真相を米国政府は不当にも国民に明らかにしていないと思っているはずである。だから、既成政党からではなく、第3政党から出馬して、国民の政治に対する熱き思いをつなぎとめたい――そう考えたのです。彼はそのためにこそ政治雑誌『ジョージ』を発刊したのですから。
 『ジョージ』の刊行にからめて、ジュニアはブッシュ陣営やゴア陣営が表に出せない秘密もほとんど掴んでいたと考えられるのです。ブッシュ陣営のうさんくささについては、映画「華氏911」をはじめ今や有名になっていますが、ゴア陣営にもいろいろあるのです。彼は、クリントン政権時代に中国政府から不当な政治献金を受けていたという情報があります。
 JFKジュニアは、それらの情報を自らの大統領選挙にからめて、順次公開していくことも考えていたと思われます。これについては、「JFKはなぜ暗殺されたのか」というテーマに大きくからんでくるので、追って明らかにしていきます。
 このように考えると、JFKジュニアには、父の暗殺の真相を明らかにしたいという熱き思いがあったのだと思います。しかしそれにしてもジュニアは、あまりにも性急にコトを急ぎ過ぎたと思います。いきなり、大統領選挙に出るのではなく、上院議員としてデビューする手もあったと思うのです。
 ところで、JFKジュニアの選挙基盤はヒラリー・クリントンのそれと重なっているのです。したがって、もし、ジュニアが上院議員を目指すとすれば、ヒラリーには大変な脅威になります。それにクリントン夫妻が表に出したくない秘密についてもJFKジュニアは掴んでいたと考えられるのです。
 それがジュニアの飛行機事故による死亡で、ブッシュ陣営も、クリントン夫妻も、ゴア陣営も、いずれも誠に都合よく秘密が闇に消えてしまったというのです。少し話がうまくでき過ぎていると思いませんか。
 実は、JFKジュニアが2000年の大統領選挙に出馬しようと決意する少し前に、ジュニアは米国の有名なテレビキャスターであるバーバラ・ウォルターズのインタビューを受けて次のように答えているのです。
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 ウォルターズ:もしあなたが将来お父さんの跡を継いで大統領を目指し、
        そして大統領になったら、何に一番力を入れてやりたい
        ですか。
 JFK ジュニア:一つは税金を減らして国民の税負担を極力少なくする。
        二つ目は情報を公開することです。
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 このときジュニアは具体的には述べませんでしたが、「情報を公開する」とは、明らかにJFK暗殺の真相ということを指しているのです。なぜなら、この情報を公開すると、現在の米国の政治の闇が晴れてくるからです。
 しかし、不思議なことに、この情報隠蔽疑惑には政府やCIAやFBIだけではなく、当のケネディ家自身も情報の隠蔽に深く加担していることです。当時、ケネディ政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディ自身が、真相を表に出さないようさまざまな工作をやっていることがわかっているのです。なぜ、このようなことをする必要があったのでしょうか。
 それは、ブッシュ家、ケネディ家、クリントン・ファミリーなどに共通する大きな秘密が存在するからです。
 ところで、2000年の大統領選挙のとき、フロリダで票の数え直しがあり、最終的には裁判所の決定で、3対2でブッシュ陣営の勝利が確定するという出来事がありました。ブッシュ大統領はそのときお世話になった人たちをホワイトハウスに招いて夕食会を開いているのですが、第1のゲストとして招かれたのが、エドワード・ケネディとその家族だったのです。これは、一体どう
なっているのでしょうか。そのエドワード・ケネディは、今年の大統領選挙ではケリー候補を応援しているのです。
 さらにブッシュ大統領は、凶弾に倒れたロバート・ケネディの名前を、ワシントンの司法省のビルにつけることを発表し、ロバート・ケネディの未亡人であるエセル夫人を式典に招いて次のように演説しています。
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  アメリカはいま、かつてない試練のときを迎えている。9.11テロと
 その以後のテロリズムとの闘いを勝利するためにもわれわれはロバート・
 ケネディの精神によりどころを求めなければならない。それは不正を許さ
 ず、悪魔を恐れぬという気概である。――ブッシュ大統領 
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 ブッシュ大統領のケネディ一族に対するこの気の使い方は何に基づくものでしょうか。これは、ブッシュ家とケネディ家が水面下でつながっていることを意味しています。そういう人たちによって、JFK暗殺の秘密は何としても封印しなければならないものであり、それを暴こうとする者には死が待っているのです。・・・・・[JFK03]

ブッシュ家とケネディ家.jpg       
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2006年07月31日

●単なる事故でない数ある証拠(EJ第1427号)

 JFKジュニアが一族の集まった席で大統領選出馬のことを話したのは、1999年の7月初旬です。そのとき、同席した親族が一斉に反対したのはいうまでもないことです。
 とくに姉のキャロラインは、母ジャクリーンの遺言を持ち出して必死に反対したのですが、ジュニアの意志は変わらなかったといいます。既にその時点ではジュニアの選挙準備はかなり進んでおり、ジュニアとしては、マスコミに表する直前に一族に打ち明けたものと思われます。
 その時点で、既に一部のマスコミにはジュニア出馬の情報は伝わっており、NBCテレビのニュース番組「デイトライン」では次のようなスクープ情報まで流していたのです。
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 JFKジュニアの考えや政治にかける思いは、7月26日付の「ニューズウィーク」誌に「ホワイトハウスを目指す第3の候補の登場」というタイト ルで掲載される予定である。――「デイトライン」
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 このニュースが流れたのは、1999年7月10日前後のことです。したがって、テレビがニュースでここまでいうからには、「ニューズウィーク」誌は既にその時点で特集記事を書き上げて印刷に入っていたことは間違いないと思われます。
 ところが、ジュニアは7月16日に飛行機事故を起こしているのです。しかし、奇怪なことに7月26日付の「ニューズウィーク」誌は発刊されず、そのまま廃棄処分になっているのです。一体「ニューズウィーク」誌に何が起こったのでしょうか。
 「ニューズウィーク」誌のような一流の出版社が、特定の号の発行を取りやめるのは異常なことです。結局、次に出た「ニューズウィーク」誌は8月2日号であり、その号には「JFKジュニアが飛行機事故で死亡」という記事は出ていましたが、大統領選のことは一言も触れられていなかったのです。
 国際未来科学研究所代表の浜田和幸氏の情報によると、これはJFKジュニアが大統領選に出馬しようとしていた痕跡そのものを消し去る作業の一環であるというのです。なぜ、そのようなことをする必要があるのでしょうか。
 確かに、あの2000年の米国の大統領選挙のとき、第3の候補としてJFKジュニアが出馬する意思を持ち、その準備をしていたということを、どのくらいの人が知っていたでしょうか。
 ほとんどの人は知らなかったと思います。共和党のブッシュ候補と民主党のゴア候補――この2人の対決しか見えていなかったはずです。それほど完璧にJFKジュニアの大統領選出馬の動きが根こそぎ消されたのです。
 既にJFKジュニアの飛行機事故から5年が経過しています。しかし、その後の調査によると、政府の公式発表を覆す情報が、次々と判明してきています。それをまとめておきます。
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 1.公式発表では事故当日は悪天候で荒れ模様ということだったのだが、実は晴れており、霧も出ていなかった。
 2.JFKジュニアは着陸態勢に入っており、管制官とも話しているが、その後その交信記録がなくなっている。
 3.JFKジュニアの飛行経験は未熟であるといわれているが実際は、300時間の飛行経験を有していること。
 4.しかも、JFKジュニアが操縦していた自家用飛行機は、緊急時の自動操縦機能がついており、安全である。
 5.引き上げられた機体や遺留品類は、「遺族の要請」という理由で一切公開されないことになったということ。
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 JFKジュニアの飛行機事故原因についての政府の公式発表は次の通りです。
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  悪天候とJFKジュニアの飛行経験未熟による操縦ミス
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 事実はこれと全く異なるようです。仮に100歩譲ってこの政府発表を受け入れるとしても、それならどうして「国家安全保障の理由」まで持ち出して、その調査資料を2029年まで封印するのでしょうか。
 JKFジュニアの大統領選への出馬――ジュニアとしては相当慎重にコトを運んだつもりでしょうが、その情報はCIAにかなり早い段階から漏れていたのです。この情報は、元大統領のジョージ・ブッシュ氏に伝えられ、ブッシュとゴアの両陣営の知るところとなったのです。
 それにしても、なぜ、両陣営はJFKジュニアの出馬を恐れたのでしょうか。選挙戦でのジュニアによる情報暴露を恐れたのでしょうか。それとも、ジュニアが出馬したら、負けると思ったのでしょうか。
 現在、米国の大統領選挙の投票率は、せいぜい50%行くか、行かないかなのです。ブッシュとゴアの戦った2000年の選挙でも51%だったのです。
 そこにジュニアが「新しい政治」を掲げて出馬したらどうなるでしょうか。おそらく、投票率は20%程度は上がり、70%程度になる可能性は十分あったのです。そうなると、選挙の勝敗は一挙に混迷をきわめるはずです。ここにJFKジュニアの勝機が出てくるのです。
 しかし、両陣営がもっと恐れたのは、JFKジュニアの2大公約のひとつである「情報公開」だと思われます。米国政府が「国家安全保障の理由」を楯にして、公開を阻んでいるJFKの暗殺の真相をはじめとする数々の国家機密――これをJFKジュニアが政権を取れば公開するはずです。そうなることだけは何としても防ぎたい――こういう強い意志が闇の強い勢力から働いたもの
と思われるのです。JFKもロバートも、そしてJFKジュニアまでもその勢力に抹殺されたものと思われます。・・・・・[JFK04]

映画「JFKジュニア」.jpg
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2006年08月01日

●JFKとキャメロット伝説(EJ第1428号)

 1963年11月20日の夜のことです。その夜は、ホワイトハウスの2階で、ケネ
ディ大統領が主催して最高裁判所判事たちをねぎらうパーティが開かれていたのです。
その席には海兵隊のバンドが入っていました。
 いつものことなのですが、大統領は海兵隊のバンドに2つのリクエストを出したので
す。1曲は「キャメロット」であり、もう1曲は「マイ・フェア・レディ」だったので
す。大統領はことのほか「キャメロット」という曲がお気に入りで、それまでに何度も
バンドにリクエストを出していたのです。
 しかし、これがホワイトハウスで演奏された最後の「キャメロット」になったので
す。なぜなら、それから3日後にこのパーティー会場の磨き上げられたフロアの上に、
木の棺に納められた大統領自身の遺体が安置されることになったからです。
 「キャメロット」――これはもともと中世ヨーロッパの英雄伝説で有名な英国のアー
サー王の宮廷があったといわれる場所の名称であり、その実際の所在地は今日も謎のま
まになっています。なお、「キャメロット」は、ミュージカル作品として、映画化もさ
れています。ずいぶん昔の話ですが、私はこの映画「キャメロット」を見たことを覚え
ています。
 実は、この「キャメロット」――わずか1000日で終わったケネディ政権のロマン
チックな別名なのです。今でも年配の米国人の多くは、この「キャメロット」という言
葉に出会うと、うっとりと目を細めて、楽しかった過去を振り返るような表情になると
いわれています。
 確かにあの時代、米国の経済力が世界を圧倒し、米国の文化が世界を席巻、米国の力
で世界の平和が保証された「パックス・アメリカーナ」の時代――こういってよいと思
います。政治が国民に心から信頼され、その頂点に立った大統領は、全国民に敬愛され
る、そんな時代だったのです。
 JFKの死後、JFKは伝説のアーサー王に擬せられ、彼を取り巻く忠実な側近たち
は、アーサー王の伝説になぞらえて「円卓の騎士」と呼ばれるようになっていったので
す。若き大統領と美貌のジャクリーン夫人、2人の幼い子供たち、そして彼らを補佐す
るスタッフたち――そういう一団が1000日を過ごした夢のようなひととき――それ
が次第に「キャメロット」と呼ばれるようになっていったのです。
 JFKが「キャメロット」の曲の中でとくに愛した一節があるのです。それは、最後
のところに登場する次の一節です。
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        ゆめゆめ忘るることなかれ
        かつてありにしこんな場所
        ただ、たまゆらのことなれど
        それが、かのキャメロット
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 調べてみてわかったことですが、リチャード・バートンとジュリー・アンドリュース
主演のミュージカル「キャメロット」が上演されたのは、1961年、すなわちケネデ
ィ政権が発足したときのことなのです。だから、ケネディ政権は「キャメロット」と結
び付けられるのでしょう。
 なぜJFKは神話となり、かくも美しく語られるようになっていったのでしょうか。
 それは、1972年にニクソン政権下で起こったウォーターゲート事件がきっかけだ
ったと思います。国民を信用せず、大統領権力の乱用によって、なりふりかまわず政権
の維持を図ろうとしたニクソンは、1974年8月に米国史上はじめての大統領辞任に
追い込まれてしまったのです。
 こういうニクソンに対してウソをつかなかった人物、国民と正面から向き合うのを恐
れなかった政治家としてのJFKの魅力が増幅されて高くなっていった――そのように
考えてよいと思います。かくしてケネディの神話はこのようにしてかたちづくられてい
ったのです。
 JFKが登場するまで、米国国民が最も偉大であると考える大統領のうち、上位3位
までは固定していたのです。
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  第1位 リンカーン ・・・・・・・・・・ 第12代
  第2位 ワシントン ・・・・・・・・・・ 初代
  第3位 フランクリン・ルーズベルト ・・ 第32代
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 リンカーンについてはいうまでもないことながら、南北分裂を回避し、国民の統一を
維持した実績があり、ワシントンは建国の父といわれる人物です。ルーズベルトは大不
況後の経済を再建し福祉政策を推進、そして第2次世界大戦を勝利に導いた大統領とし
て米国民の尊敬を集めています。
 これら3人の大統領は、いわゆる「ビック・スリー」であり、この3人を抜くことは
不可能とされてきたのです。ところが、JFKの登場で順位は次のように変化したので
す。
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        第1位 ケネディ
        第2位 リンカーン
        第3位 ルーズベルト
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 この順位は80年代から今日にいたるまで不変なのです。しかし、JFKは人気で第
1の座を確保しているのであって、実績ということになると話は違ってくるのです。
 生前JFKは「米国人が一番よく覚えている日は2つある。それは、真珠湾攻撃とル
ーズベルト大統領の死んだ日だ」といっていたそうですが、現在の米国人は「JFK暗
殺と真珠湾攻撃」といっています。しかし、これからは、9.11がそれに加わること
とは間違いないと思われます。大統領の実績による順位については来週に明らかにした
いと思います。 ・・・・・[JFK05]

DVD/キャメロット.jpg
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2006年08月02日

●歴史学者の下したJFKの評価(EJ第1429号)

 JFKの死後20年が経過した1983年に、ペンシルベニア州立大学のロバート・
マレー教授が、学位を持つ全国1000人の歴史学者に対して、偉大なる大統領、偉大
に近い大統領、平均以上の大統領は誰かというアンケートを出したのです。その結果は
次のようになったのです。
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 ≪偉大なる大統領 ・・・・ 4人≫
  リンカーン、フランクリン・ルーズベルト、ワシントン、ジェファーソン
 ≪偉大に近い大統領 ・・・ 4人≫
  セオドア・ルーズベルト、ウィルソン、ジャクソン、トルーマン
 ≪平均以上 ・・・・・・・ 8人≫
  ジョン・アダムス、リンドン・ジョンソン、ポーク、ケネディ、マディソン、
  モンロー、ジョン・クインシー・アダムス、クリーブランド
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 これによると、JFKは、「偉大」でも「偉大に近い」でもなく、「平均以上」の第
4位、しかも、リンドン・ジョンソンよりも下位になっています。そして、総合順位で
は、38人の歴代大統領(カーターまで)のうちの第12位にランクされているので
す。確かに実績で評価されると、在位期間の短いJFKが不利になるのは当然のことで
すが、国民に「偉大なる大統領は誰か」と聞くと、依然としてJFKが第1位を占める
のです。
 米国国民から誕生日を記憶されている大統領は初代ワシントンと第12代のリンカー
ンの2人です。なぜなら、これら2人の大統領の誕生日は祝日になっているからです。
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    ワシントンの誕生日 ・・・・・ 2月22日
    リンカーンの誕生日 ・・・・・ 2月12日
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 しかし、JFKについては暗殺された日、いや暗殺された時間までも記憶している米
国国民が多いといいます。それは、いかにこのことが米国国民にとってショックであっ
たかを示していると思います。
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 1963年11月22日/中部標準時間/午後0時30分
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 毎年11月22日になると、バージニア州アーリントンの国立墓地の一画に特別に設
けられたJFKの墓所に今も数多くの人たちが訪れ、周囲の石垣に刻まれている有名な
就任演説の一節を口ずさみ、ジャクリーン夫人が夫に捧げた「永遠の炎」を凝視する
――そういう光景が見られるのです。墓所を訪れる人の数は、年間を通じて400万人
といわれています。
 また、暗殺現場であるダラスでも、毎年11月22日になると全国各地からJFKを
慕う人たちが訪れ、暗殺現場に花束を置いて祈りを捧げる光景が見られます。
 また、オズワルドがJFKを狙撃したとされるテキサス教科書倉庫ビルの6階は、
そのまま「6階」という名の一種の博物館となっており、大勢の観光客が訪れるのです。
それは、事故を調査したウォーレン委員会の報告書――「ウォーレン報告」に教科書倉
庫ビルの6階から、オズワルドが教科書を入れた紙の箱を土台にして狙撃したと書いて
あるからです。
 このように、JFKに関しては、600冊を超える本はもちろんのこと、テレビドラ
マ、ミュージカル、小説、戯曲、映画、講演会、大学の講義課目のテーマにまでなって
おり、この傾向は現在も続いているのです。こういうJFKをビジネスにする産業を
「ケネディ産業」と呼んでいます。
 JFKが何をやったのかについては、それが暗殺理由の解明につながるため、いずれ
詳しく述べることになりますが、それにしても現在にいたるまで、JFKが高い人気を
保ち続けているのはなぜでしょうか。既に現時点では、事件のあとに生まれた世代が全
体の半分以上になっているのです。
 それは、JFKが国民にウソをつかなかった点にあると考えられるのです。彼は国の
現状をフランクに国民に訴えて協力を要請したし、自分のあやまちを素直に認め、それ
をジョークのタネにするユーモアのセンスも持っていたのです。
 これに比べて後継のジョンソンは、ベトナム戦争が不利に展開していることを最後ま
で隠し、結局再選断念に追い込まれています。そのあとのニクソンは、ウォーターゲー
ト事件への関与を最後まで否定して結局大統領を辞任させられています。
 また、レーガン大統領はイラン・コントラ事件への関与を否定して人気を凋落させ、
当時副大統領を務めていたブッシュ大統領(父)もそれに深く関与していたにもかかわ
らず、それを認めていないのです。
 ちなみに、イラン・コントラ事件とは、1980年代の米国最大の事件なのです。簡
単にいうと、米国政府が敵国のはずのイランに密かに武器を売り、その代金を中南米ニ
カラグアの右派反政府武装組織「コントラ」に渡して武器を買わせていたもので、米国
では、イランやコントラに武器を売ることが違法とされていたため、大問題となったの
です。
 映画俳優から大統領になったレーガンはほとんどの実務を副大統領のブッシュに丸投
げしていたので、イラン・コントラ事件はむしろパパ・ブッシュに大きな責任があると
いえます。
 1961年1月に大統領に就任したJFKは、よほどのことがない限り2期8年の任
期は保障されていたと考えられます。それがわずか2年10ヶ月で中断されてしまった
ので、同情心と共にJFKが公約したことは「きっと彼ならやったであろう」という好
意的な評価がなされているといえます。これは、人々がJFKに見ようとした「大いな
る幻影」といえると思います。 ・・・・・[JFK06]

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2006年08月03日

●米国黄金時代の最後の大統領(EJ第1430号)

 JFK暗殺30周年の1993年11月、AP通信社は世論調査を実施しています。
 それによると、回答者の71%は、この事件がオズワルドもからむ陰謀説であるとし
その56%はそれにはCIAかマフィアがからんでいると指摘しています。さらに、
全体の78%の回答者は、「政府は意図的に真実を隠す工作をしている」と断じ、それ
でいて、56%の回答者が「暗殺事件の真相は知りたくない」として、暗殺事件の再捜
査を望んでいないことを明らかにしています。この結果をどう解釈すればいいでしょう
か。
 実は、世界の米国を見る目は、JFKの暗殺前と後とでは大きく異なるのです。ある
意味でJFKは米国黄金時代の最後の大統領であったといえるのです。
 第2次世界大戦前から戦時中、戦後を通して、米国という国は政府、議会、言論界、
財界、企業など、どれをとっても一定の秩序というものがあり、米国の自由と民主主義
の価値観を守るために国が一丸になっていたのです。戦後においては、大統領はルーズ
ベルト、トルーマン、アイゼンハワーと続き、そしてJFKにいたるのですが、ここま
では米国は世界中から理想の国であると思われていたのです。
 しかし、JFK暗殺後、状況は一変します。著名な経済学者であるアーサー・バーン
ズ氏――アイゼンハワー政権では大統領経済諮問委員会議長、ニクソン政権ではFRB
議長、さらにレーガン政権では西ドイツ駐在大使を務めた大物経済学者は、JFK暗殺
20年後に、ニューヨーク・タイムズ紙に次のように書いているのです。
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ケネディ暗殺は大変なショックを与え、アメリカのイメージを一変させた。多くのヨ
ーロッパ人は、これほど愚かな暴力行為をやってのける国が、一度は自分たちの理想
の国であったのが理解できなかった。ケネディ暗殺のあとに、ロバート・ケネディ
(上院議員)、マーチン・ルーサー・キング牧師の恐ろしい暗殺事件、ベトナム戦争、
公民権暴動、ウォーターゲート事件と続き、黄金のアメリカのイメージは粉々に打ち
砕かれたのである。――アーサー・バーンズ、1983年12月27日付
                         ニューヨーク・タイムズ紙より
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 冒頭のAP通信社の世論調査で、JFK暗殺の真相を知ることを望んでいない人が
56%もいたのは、この事件の背景を徹底的に解明すると、何らかのかたちで政府機関
が最高指導者の暗殺に関与していたという忌まわしい事実が明らかになるかもしれない
ということを国民は恐れたのでしょう。調査によれば、米国国民の78%は政府機関の
関与を疑っているからです。もしそのようなことになると、史上最大の民主主義国とし
ての米国のイメージは泥にまみれることになると考えたからです。
 よく知られているように、JFK暗殺に関する調査は、JFKの後任者であるリンド
ン・ジョンソン大統領の指示によって組織されたウォーレン委員会が中心になって行っ
たのです。そして作成された報告書が「ウォーレン報告書」です。
 このウォーレン報告書の結論は、JFK暗殺は、キューバの革命政治家カストロ首相
を支持する孤独な左翼青年オズワルドの単独犯行というものでした。しかし、この結論
は、年を追うにしたがって、国民のほとんどが疑問視するほど内容がずさんなもので
あることがわかってきたのです。
 ウォーレン報告書が発表された1964年の時点では、JFK暗殺はオズワルドの単
独犯行ではなく、オズワルドを含めた陰謀の結果であるとする人は31%でしたが、4
年後の1967年には、それが国民の3分の2の67%にふくれ上がってるのです。
 さらに、1993年11月にCBS放送が独自に行った調査によると、実に89%の
人がオズワルドの単独犯行説を疑問視していることがわかっているのです。
 ウォーレン報告書は、全文296000語、888ページのほか、26巻の膨大な資
料集がついています。その内容は、はじめに「オズワルドの単独犯行」という結論を先
に作り、その結論に対して都合の悪い事実はすべて抹消し、都合の良い事実だけを採用
して、ウソを含めて記述したものといってよいと思います。
 したがって、皮肉なことに、ウォーレン報告書は、事件の真相を知ろうとする米国国
民にとって、逆に大きな壁となって立ちはだかっているのです。それほど、その内容は
大きな矛盾に満ちたものであり、政治的色彩の濃い表面的な調査に過ぎない代物なので
す。これでは内容を疑問視する人が増えるはずです。
 ウォーレン報告書は、米国の政、財、官界、それに言論界のエリートたちが、史上最
大の民主主義国家、法治国家としての米国のメンツを守るための渾身の努力が凝縮され
たものなのです。
 犯人は、アメリカン・ドリームに背を向け、共産主義国ソ連や社会主義国キューバに
ゆがんだ関心を持つ世をすねた一匹オオカミ的存在でなければならなかったのです。そ
して、それに適合する人物が用意されたのです。それが、オズワルドなのです。
 ウォーレン報告書に付けられている26巻の膨大な資料集は、約10ヶ月にわたる調
査の間に、連邦捜査局(FBI)や大統領警備隊、ウォーレン委員会が行った面接や尋
問、種々の証拠品などをまとめたものであり、ウォーレン報告発表の3ヵ月後に公表さ
れています。
 しかし、事件に関連した人物、組織、問題別の索引が一切なく膨大なナマデータが国
民の前にドンと投げ出されたかたちになっているのです。これは、項目や索引が付いて
いない百科辞典のようなものであり、ほとんど使い物にならない代物なのです。
 しかし、そのような批判を浴びてもウォーレン委員会は索引は作らず、最終報告書を
提出するやいなや委員会をサッサと解散してしまったのです。委員会としては、そんな
資料集を丹念に読む人などいないという確信を持っていたからです。・・・[JFK07]

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2006年08月04日

●ウォーレン報告を否定したジョンソン(EJ第1431号)

 ウォーレン報告書の26巻、2万ページの資料集――これにはアルファベット順、問
題別などの一切の索引はなく、ある問題についての証言や証拠品を調べるには、2万ペ
ージを1ページずつ当るしかなかったのです。
 なぜ、そのような不親切な資料集を作ったのか――おそらく、わざと探しにくくする
というのが狙いであったと思われます。しかし、ウォーレン委員会の委員がそう考えて
資料集を作ったとすれば、それは大きな誤算だったというしかないのです。
 というのは、JFK暗殺以後、全米はもちろん、全世界に何百何千の暗殺研究者が誕
生し、それらの資料を丹念に読んで分析し数多くの矛盾やごまかし、改ざんなどを発見
したからです。
 その暗殺研究者の一人であるシルビア・ミーガー女史は、全ページを丹念にチェック
したうえで、次の7つの問題点を指摘しているのです。
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 1.資料を検討して不正確であるとわかったことが、報告では事実として記載されて いる。
 2.報告には記載されているのに、資料集ではその裏づけを十分とっていないものが ある。
 3.証言の趣旨を違えて、いやあえて都合の良いように勝手に解釈して結論を出して いる。
 4.報告の結論に、はっきりと反対する証言については、すべて削除処理をしている こと。
 5.オズワルドにとって有利になる証言や資料は、すべてカットされ、ボツにされて いる。
 6.疑問ある状況を徹底的に調査せず、自然に導かれる推論とは異なる結論を出して いる。
 7.きわめて重要な一部の証人からの証言が、資料集では全面カットされ出てきてい ない。
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 ここで、ウォーレン報告の結論をまとめておくことにします。全部で5つのポイント
があります。
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 1.ケネディ大統領を暗殺した犯人は、リー・ハービー・オズワルドであり、単独犯
   行であること。
 2.オズワルドは大統領のほかに、ダラス市警のティピット巡査を10番街で、射殺
   していること。
 3.オズワルドは、逮捕後護送される途中、ジャック・ルビーによって拳銃で殺害さ
   れていること。
 4.ケネディ大統領を撃ったすべての銃弾は、テキサス教科書倉庫ビルの6階から発
   射されている。
 5.銃弾の数は3発であり、1発は大統領の背中に、もう1発は頭部に命中し、1発
   は外れている。
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 歴代の米国政府は、このウォーレン報告を全面的に支持し、これまでにその結論を何
ひとつ訂正していないのです。しかし、ほとんどのJFK暗殺の研究者たちが疑問なし
に受け入れられるのは、上記5つのポイントのうちの「3」だけなのです。
 現在、オズワルドの単独犯行に疑問を唱える人は多いのですが中でも事件の渦中の人
物のひとりが単独犯行に対して疑問を呈しCIAの関与までほのめかしていることは注
目されます。その渦中の人物とは、ウォーレン委員会を設置し、JFK暗殺の調査を命
じたリンドン・ジョンソンその人なのです。
 殺人事件などで犯人がわからないとき、それによって一番利益を得る人物がまず疑わ
れますが、ジョンソンこそはJFKが殺されたことによって大統領の地位が転がり込ん
できたのですから、
一番疑われてもおかしくない人物です。事実、ジョンソン犯人説を唱える研究家も多い
のです。
 ジョンソンは、大統領を退任して4年後の1973年1月22日に64歳で亡くなっ
ているのですが、死ぬ少し前に評論家で作家のレオ・ジャノスと会見して、JFK暗殺
のことについて話しているのです。
 ジャノスは、この会見を1973年7月号の雑誌『アトランチック』に掲載している
のですが、ジョンソンは10年前のJFK暗殺に関して次のように述べています。
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  自分としては、オズワルドがケネディ大統領を撃ったライフルの引き金を引いた
 ことまでは承服できる。だが、委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかに
 は確信がない。私のカンだが、オズワルドはキューバ侵攻作戦への復讐をねらう親
 カストロ派キューバ人たちと関連があったのではあるまいか。
                           ――リンドン・ジョンソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョンソンは、ジャノスとの会見ではこのようにかなり抽象的に述べているのですが
1975年になって、米テレビ界の大御所的存在であるCBSアンカーマンのウェォル
ター・クロンカイトが既に故人となっていたジョンソン大統領をテレビに登場させて、
衝撃的な報道を行ったのです。彼は密かにジョンソンと単独インタビューを行い、その
模様を収録していたのです。
 それによるとジョンソンは「ケネディの暗殺には1人以上の人物が関係している。自
分としてはオズワルドが単独でケネディ大統領を暗殺したと考えたことは一度もない」
と明言しているのです。このクロンカイトの報道は、ウォーレン報告を正しいとする立
場をとる政府関係者を打ちのめしたのです。
 また、ジョンソンの長年の腹心といわれる郵政長官を務めたアービン・ワトソンは、
「ケネディ暗殺事件に関してジョンソン大統領は、陰謀が存在したと現在では感じてい
る」と述べたことを証言しているのです。
 死を前にしてジョンソンは、いろいろなことをしゃべっているのですが、それは果た
して真実なのでしょうか。・・・・・[JFK08]
                 
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2006年08月07日

●ジョンソンはなぜ副大統領になったか(EJ第1432号)

 リンドン・ジョンソンは、なぜ死ぬ間際になって「JFK暗殺には陰謀が存在してい
る」などということを評論家やキャスターにしゃべったのでしょうか。それは、彼自身
が命じたウォーレン委員会による報告の結論とは100%違う内容であったので、米国
民は衝撃を受けたのです。
 JFK暗殺にはジョンソンも一枚噛んでいるという説があるのです。なぜら、JF
Kが急死して一番トクをする人物がジョンソンであるからです。推測ですが、そのこと
をジョンソンは生涯気にしていたといわれます。そのため、死ぬ間際に本当のことをい
っておきたいと考えたのではないでしょうか。
 当時ジョンソンとケネディ兄弟はいろいろなことでもめており仲が良くなかったの
です。副大統領という役職は、大統領が若くやる気があって優秀な人物の場合は、名誉
顧問的な影のような存在でしかないのです。
 逆に大統領に実務能力がない場合――ちょうどレーガン政権のときのレーガン大統領
とブッシュ(父)副大統領のケースは、大統領が副大統領に実務を丸投げするので、副
大統領は実質的に影の大統領として力をふるうことができるのです。
 ジョンソンは、「どうしてJFK政権の副大統領を引き受けたのか」と親しい人に尋
ねられたとき、次のように答えたといわれています。
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 調べたんだが、アメリカの大統領のうち、4人に1人は在任中に死んでいる。私はギ
ャンブラーだから、残された唯一のチャンスに賭けたのさ。       
――リンドン・ジョンソン
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 ケネディ兄弟は、ジョンソンの副大統領の仕事ぶりに大きな不満を持っており、次期
大統領選ではジョンソンを副大統領職から外す計画を持っていたといわれています。そ
れには、ジョンソン副大統領が、全米の犯罪捜査を一手に指揮していたFBIのフーバ
ー長官と大変仲が良く、そのフーバー長官とJFKの弟のロバート司法長官が何かにつ
けて険悪な対立を繰り返していたことと無関係ではないと思います。
 もともと超保守派のフーバーは、JFKを「うわついた進歩派のインテリ」の代表と
して、非常に嫌っており、とくにその実弟のロバート・ケネディが司法長官として自分
の上司になったことにがまんがならず、ロバートとは険悪の間柄だったのです。
 不思議なことといえば、JFKは、宿敵フーバーの盟友、ジョンソンをなぜ副大統領
に選んだかということです。これには“ある取引”があったという説があるのです。
 1960年の大統領選を迎えたとき、フーバーFBI長官は公職にあり、特定の大統
領を支持できなかったのですが、彼は何としても30年来の友人であるジョンソンを、
大統領にしてやりたいと考えたのです。
 しかし、ケネディの人気は圧倒的でとても太刀打ちはできない――そこで戦略を変更
したのです。ジョンソンを副大統領に送り込み、そのうえで大統領を狙わせるという戦
略です。そのため、フーバーは、ケネディが民主党大統領候補の座を手に入れたときそ
れまでに地位を利用して手に入れていたJFKの多彩な女性関係についての内部情報
をJFK側にぶつけて、盟友ジョンソンを副大統領に指名するよう追い込んだというの
です。
 ジョンソン大統領自身も晩年になって「もし、フーバーFBI長官がいなかったら、
この私は大統領にはなれなかったろう」と述懐しているのです。そして、JFKが暗殺
され、ジョンソンが大統領になった結果、フーバーはFBI長官の地位に大統領の特例
措置によって、40年以上も座り続けることになります。
 このフーバーFBI長官――JFKが暗殺されたあとの行動が問題視されているので
す。それは、まるでJFKが暗殺されることを事前に知っていたかのような行動を行っ
ているのです。
 JFKが暗殺されたのは1963年11月22日の午後0時30分(中部標準時間)
のことですが、ダラス市警は、午後2時50分にオズワルドを逮捕しています。そのと
きの容疑はダラス市警のティピット巡査殺害容疑です。
 ところがそれから5時間後に、オズワルドはティピット巡査殺害容疑で起訴され、そ
れからさらに6時間近くたった翌23日の午前1時30分、今度はケネディ大統領暗殺
の容疑で起訴されたのです。これは、どう考えても早すぎると思います。まるで何かを
スケジュール通りに進めているように感じます。
 しかし、それよりも早い判断をした人がいたのです。その人はその時点でダラスから
遠く離れたワシントンにいたフーバーFBI長官なのです。フーバー長官は、22日午
後5時15分――オズワルドに対して、別件逮捕のティピット巡査殺害容疑で起訴もさ
れていない時間に早くもFBIに次の部内メモを回したことが確認されているのです。
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  ダラス市警は多分まちがいなくケネディ大統領の暗殺犯と思われる人物を逮捕し
た。この男は変人で、親カストロ極左の過激分子である。――フーバーFBI長官
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 オズワルドは、12時間に及ぶFBI、テキサス州司法当局、ダラス市警による取調
べに対して、ケネディ大統領とティピット巡査のいずれの件についても無実を主張し、
記者団の前に姿を現わしたときには「私ははめられた」と叫んでいるのに、その時点で
既にフーバー長官は、オズワルドを犯人と決めつけているのです。彼は異常であるほど
早く、オズワルドの単独犯行を主張していたことになります。
 その後のウォーレン委員会の真相調査においては、フーバー長官の主張するオズワル
ド単独犯行説が中心軸となって、結論が出されることになるのです。このフーバーFB
I長官――JFK暗殺事件に何か関係しているのでしょうか。・・・・・[JFK09]

フーバーFBI長官.jpg
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2006年08月08日

●ウォーレン委員会設立の経緯(EJ第1433号)

 JFKが暗殺され、思いもかけず大統領に昇格したリンドン・ジョンソン――彼が
まずやらねばならないことは、次のことだったのです。これに対してフーバー長官らの
助言があったことは、いうまでもないことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ケネディ大統領暗殺の調査を中央政府の手で1本にまとめ地方自治体などの独自
調査を封じ込めること。
 2.翌年−1964年の大統領選挙で、自分に不利なかたちでこの事件が取り上げら
れないように配慮する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョンソン大統領筋があわてたことは、米国内はもちろん外国において「ある噂」が
しきりと流されるようになったからです。その噂とは、次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ケネディ大統領の暗殺は、ジョンソン大統領の実現を欲していた政府内の一部の人た
ちの手によるクーデターである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 噂の中には、ジョンソン大統領自身が暗殺の首謀者であるというものまであったの
です。その根拠は次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.JFK暗殺の場所がジョンソンの本拠地であるテキサスで 起こっていること。
 2.副大統領の職務をめぐって、ケネディ兄弟とあまりうまくいっていないこと。
 3.ケネディ大統領が急死して一番トクをするポジションにいる人物であること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ジョンソン大統領首謀説は、ほとんど根拠のないものであるといえます。な
ぜなら、JFK暗殺事件はもっと根の深い事件だからです。
 ジョンソン大統領がまずやらねばならない2つのことについて精力的に動いたのは
フーバーFBI長官です。暗殺に関する陰謀説にストップをかける――この目的のため
に、7人の委員から成る中央政府としての調査委員会が設置されたのです。
 重要なのは、ジョンソン大統領にしても委員会のメンバーにしても、最初から真実を
追究しようなどという気持ちなど、さらさらなかったことです。このことは、後に発見
された委員会内部の次の極秘メモがはっきりと示しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  われわれの目的は、完全な正確さで事実を解明するのではなく
  オズワルドが単独で犯行を行ったという、仮定の結論に肉づけ
  することにある。        ――委員会内部の極秘メモ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ひどい話だと思いませんか。目的は陰謀説を打ち消すことにあり、そのためにすべての
真実を破壊してしまったといっても過言ではないのです。国家ぐるみで真実を隠そうと
していることになります。JFKジュニアは、この不正を暴こうとして殺されたのでは
ないでしょうか。
 そういう目的から、委員会のメンバーはいろいろなことを配慮して巧妙に決められて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 委員長:アール・ウォーレン最高裁判所長官
  委員:リチャード・ラッセル上院議員(民主党)
  委員:ジョン・シャーマン・クーパー上院議員(共和党)
  委員:ヘイル・ボッグズ下院議員(民主党)
  委員:ジェラルド・フォード下院議員(共和党)
  委員:アレン・ダレス前CIA長官
  委員:ジョン・マックロイ元世界銀行総裁
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 これは濃厚な政治的配慮のこらされた顔ぶれなのです。議会内部の多数派は、ラッ
セルとボッグズという強力なボスたちが押さえ、クーパーとフォードは共和党をなだめ
る――リベラル派は、ウォーレンの存在で安心させ、東部エスタブリッシュメントは、
エリート中のエリート、マックロイが代弁し、CIAやFBIなどの強力な官僚組織か
らは、理想的な代表として、アレン・ダレスがいるという配置です。
 こういうメンバーによって、議会内に設置の動きがあった暗殺調査のための特別委員
会の設置を封じ込めたのです。しかし、ここで知っておくべきことは、このメンバーが
とてもジョンソン大領やフーバーFBI長官のいいなりになるような人物たちではない
ということです。
 委員長のウォーレンは、かつてのアイゼンハワー大統領から密かに恐れられたほどの
人物であり、年齢を超えたケネディの盟友なのです。また、クーパー、ラッセル、ボッ
グズらの3議員はいずれも独立心の強い有能な議員であり、マックロイも公正で献身的
な人物として知られていたのです。
 問題のある人物は、フォード共和党下院議員とアレン・ダレス前CIA長官の2人で
す。結果的には、これらの2人がウォーレン委員会の調査の方向を大きく誤らせること
になったのです。
 このうち、アレン・ダレスは、ケネディ大統領に首を切られているし、後に大統領に
なったフォード下院議員は、ニクソン元副大統領(当時)が直接ジョンソン大統領に売
り込んで委員にしているのです。
 フォード議員がウォーレン委員会の委員になったことを一番喜んだのは、フーバー
FBI長官なのです。フーバー長官としてはれまでの捜査結果に批判が加えられるのを
非常に恐れていたのですが、既知の盟友フォード議員が委員になったことによって、
安心したといわれます。
 このフォード委員は、委員会での極秘の審議内容をフーバーに逐一伝えており、FB
Iは恩恵を蒙ることになります。・・・・・[JFK10]
                 
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2006年08月09日

●知られざるウォーレンとフーバーの仲(EJ第1434号)

 JFK暗殺事件の謎を解くには、ウォーレン委員会のメンバーをもう一度ていねいに
見直す必要があります。ウォーレン委員会は、委員長のアール・ウォーレンをはじめそ
れなりの人物が集められており、問題のある人物としては、アレン・ダレスとジェラル
ド・フォードの2人である――このようにEJ第1433号で指摘しています。
 しかし、ダレスとフォードがいかに画策しても、委員長をはじめ、他の5人の委員が
公正な措置をとっていれば、オズワルドの単独犯行説などという調査結果にはならない
はずなのです。そういう意味ではこれら5人の委員にも何か問題がある――そう疑って
も不思議はないと思います。
 まず、委員会の顔であるアール・ウォーレンから見ていくことにします。アール・
ウォーレンは、アメリカ合衆国の第14代最高裁長官を1953年から69年までの1
6年にわたって務め、歴史に残る名長官といわれた人です。
 大統領のジョンソンやフーバーFBI長官は、ウォーレンを委員長にすることによっ
て委員会の信頼性を高めようとしたわけです。しかし、ウォーレンは、なぜ委員長を引
き受けたのでしょうか。なぜなら、ウォーレンはこれによって後世から、善悪2つのま
ったく違った評価を受けることになったからです。
 最高裁長官をやっていることから、ウォーレンは根っからの法律家と思われています
が、もともとは共和党のリベラル派を代表する政治家なのです。地方検事をやったあと
1939年にカリフォルニア州司法長官に共和党から立候補して当選し、太平洋戦争が
はじまったあとにカリフォルニア州知事に挑戦し、全米あげての民主党ブームにもかか
わらず、当選しているのです。
 1948年に共和党に請われて、デューイ大統領候補の副大統領を引き受けたのです
が、このときはトルーマン大統領にデューイが負けて副大統領にはなれなかったので
す。しかし、今度は大統領候補として名乗りを上げるのです。
 しかし、そのとき共和党には最強の大統領候補者であるアイゼンハワーがいて、ウォ
ーレンは夢をかなえられなかったのです。逆に大統領に就任したアイクこと、アイゼン
ハワーは、与党リベラル派を代表するウォーレンをライバルとして警戒し、たまたまビ
ンソン連邦最高裁長官が急死したことをいいことに、ウォーレンを連邦最高裁長官のポ
ストに押し込んだのです。
 しかし、ウォーレンは最高裁に進歩的色彩を持ち込み、公立学校での人種差別教育を
違憲とする画期的な判決を下したのです。1954年のことです。しかし、1960
年の大統領選で共和党がアイクの子飼いの保守派、ニクソン副大統領を党の大統領候補
として選んだとき、ウォーレンは共和党を見限り、民主党候補のケネディを支持するの
です。ここにウォーレンとケネディは26歳の年齢差でありながら、心の通う友人同士
としての付き合いがはじまったのです。
 以上はウォーレンについてよく知られている表の情報です。裏の情報としては、ウォ
ーレンとフーバーの関係があり、これはあまり知られているとはいえないのです。
 最初の出会いは1932年、ウォーレンは41歳で故郷であるカリフォルニア州アラ
メダ郡の地方検事、フーバーは、37歳で司法省の検察局長を既に8年も務める中堅の
実力官僚だったのです。この検察局が3年後にFBIに改称されるのです。
 このフーバーという人物は肝胆相照らす友人・知人に対してだけ、自分が職務上知り
得た重要情報を定期的に提供していたのです。いかにもフーバーらしいやり方ですが、
ウォーレンもそのリストに入れて情報を流していたのです。
 1951年にはウォーレンはカリフォルニア州知事になっていましたが、フーバー
長官は部下に次のように命令していたといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウォーレン知事の要求には何であれ、迅速に対応せよ。――フーバーFBI長官
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 ウォーレン知事はまさに特別待遇で、知事が所用でワシントンにくるときは、FB
I長官差し回しの運転手付きの公用車が提供されていたといいます。それに甘えたのか
ウォーレンも自分の娘にいい寄ってくる男の身元調査をフーバーに頼んだり、後の最高
裁長官にしては、かなり公私混同の人間関係があったのです。
 このことと、後にウォーレンがジョンソン大統領の求めに応じて、当初気が進まなか
ったJFK暗殺事件に関する調査委員会の委員長を引き受けたことは無関係ではないの
です。当然、フーバー長官からも委員長就任の強い要請があり、断り切れなかったと
考えられるのです。
 そういうわけでウォーレンは、最初からFBIの捜査資料を重視する方針を取り、オ
ズワルド単独犯行説を支持せざるを得ない立場に追い込まれていったのです。
 しかし、ウォーレンは、7人の委員と捜査を担当するFBIやCIAの間を取り持つ
事務局長ともいうべき「首席顧問」にかねてからその手腕を熟知していたオルニー元司
法次官補を任命し、調査のリーダーシップを握ろうとしたのです。このオルニーとい
う人物は1953年から4年間FBIの刑事局長を務め、組織犯罪捜査の権威として有
名な人だったのですが、フーバーの独善的なやり方にはかねてから批判的だったのです。
 この動きを知ったフーバーは、委員の一人であるフォード下院議員に依頼して、たち
まち、この人事を葬り去ったのです。そして、中立派のランキン元司法次官を代わりに
送り込んだのです。
 このように、ウォーレンは委員長とはいいながら、フーバーとの永年にわたる人間関
係が災いして、自分の右腕になる首席顧問ですら自分で選べなかったのです。ウォーレ
ンとしては、FBIとCIAの引いた線路の上をただ、ひたすら超特急で突っ走るしか
なかったのです。 ・・・・・[JFK11]

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2006年08月10日

●委員会結論に反対した3人の委員(EJ第1435号)

 ウォーレン委員会の委員でありながら、委員会の結論に対して反対の立場をとった委
員が3人いるのです。その3人の委員を上げておきます。
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   リチャード・ラッセル上院議員(民主党)
   ジョン・シャーマン・クーパー上院議員(共和党)
   ヘイル・ボッグズ下院議員(民主党)
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 リチャード・ラッセルは、上院軍事予算委員会委員長という要職にあり、その強力な
地位を利用して、地元のジョージア州に多くの軍事基地を建設させた実力議員です。ラ
ッセルは、ウォーレン報告に疑問を抱き、それを公にした最初の人物です。
 ラッセルが報告に関して疑問を持ったのは、主にFBIとCIAが重要情報を委員会
に提出せずそれらを次々と抹殺してしまった点にあります。そして、1970年1月1
9日付の「ワシントンポスト」紙上で、ラッセルはJFK暗殺が陰謀であったことをウ
ォーレン委員として書いているのです。
 しかし、その後、間もなくして彼は他界しているのです。詳細な情報は不明ですが、
普通の死にかたではなかったという情報があるのです。
 続いて、ジョン・シャーマン・クーパーは、委員会の中においては、多くの反対意見
を出しているのです。とくにJFKの首に当った弾丸とコナリー知事の胸を貫通した弾
丸が同一であるとする「単発説」には、最後まで反対の立場を貫き通したといわれてい
ます。
 しかし、報告書が出たとたん、なぜかそのことに関してはまったく喋らなくなってし
まったのです。そして、クーパーは後にインド大使に任命されます。その任命者は、ほ
かでもない、あのリチャード・ニクソンだったのです。クーパーは地位で取引きしたの
でしょうか。何ともすっきりしない話なのです。
 最後は、ヘイル・ボッグズです。ウォーレン報告書にサインはしたものの、最後まで
委員会の結論に疑問を抱いていたのです。とくに委員会に提出されたFBIの報告書は
デタラメであると主張したのです。
 ウォーレン委員会が解散して7年後のことです。ボッグズは突如として、FBIの批
判をはじめたのです。ウォーレン委員会で委員をしていたとき、彼の電話がFBIによ
って盗聴されていたことがわかったからです。実は、他の委員に関しても同様の盗聴が
行われていたことが、あとで明らかになっています。
 ボッグズの批判は、FBI長官のフーバーに集中し、それについて彼は議会内で特別
演説を行い、フーバーを「無能な老害」と決めつけ、その辞職を迫ったのです。永年に
わたって「アンタッチャブル」といわれていたフーバー長官を攻撃し、議会から彼の辞
職を迫ったのは、後にも先にもボッグズ一人だったのです。
 下院で最も雄弁家といわれるボッグズの演説は迫力があり、法を守るべきFBI自
身が法を無視し、人権を抑圧していると指摘して次のようにいっているのです。
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  ミッチェル(当時司法長官)は、法と秩序の信奉者を自認している。しかし、その
法と秩序が、基本的人権を抑圧し、個人の自由を剥奪するようなものであるなら
ば、私には「神よ、我々を助け給え」というほかにいうべき言葉がない。
                  ――国家記録保存所・合衆国下院演説記録より
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 この演説は、ワシントンを引っくり返すような反響を巻き起こしたのです。この演説
の直後に、ボックズが救いようのないアル中患者であるという噂がワシントン中に流れ
たといいます。これを流したのは、もちろんフーバーのFBIだったのです。
 それから約1年後の1972年10月のことです。ボッグズの乗った飛行機
がアラス
カ上空で行方不明になります。事故か、それとも謀殺か――ボッグズの死体はもとより
飛行機の機体さえも発見されなかったのです。
 そして、第2次ニクソン内閣のインディアン問題委員会に、ローラ・バークトという
女性が起用されたのです。この人は、別にインディアンの専門家ではなく、多くの人が
首を傾げたといわれます。調べによると、この女性は、ボッグズが乗って行方不明にな
った飛行機の持主であるアラスカ・インターエア社の社長夫人であることがわかったの
です。
 一体、これはどうなっているのでしょうか。JFKジュニアも飛行機事故――あま
りにも変死が多過ぎると思いませんか。
 ボッグズはもし生きていれば、下院議長には就任したであろうといわれています。も
し、彼が下院議長になったら、その強力な地位を利用して、真のJFK暗殺調査委員会
を設立していると思われるのです。FBIやCIAがそれを恐れたとしたら、飛行機を
操作して墜落させるぐらいやりかねないのです。
 このように、ウォーレン委員会において、委員会の結論に疑問を抱いた委員のうち3
名に関してはクーパーをのぞいて変死しています。これは実におかしなことであると思
います。
 あとの4人――委員長のウォーレン、マックロイ、フォード、ダレスについては、い
ずれもFBIかCIAと深い関係があることがわかっています。それも何らかなかたち
で、ニクソンとつながっていることがわかっているのです。
 委員は7人中5人(クーパーを含む)がニクソンにつながっていることから、その
ことを15人の専門スタッフ――関連資料を分析したり、証人を選んだりする実務スタ
ッフについて調べてみると、実にその12人までが、なんらかのかたちでニクソンにつ
ながっていることが判明したのです。そして、そのうちの多くが後にニクソンが大統領
になったとき、いろいろな政府委員会の委員長や委員などに任命されているのです。
「ウォーレン委員会」ではなくて「ニクソン委員会」になっているのです。
                       ・・・・・ [JFK12]

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2006年08月11日

●トロイの木馬/フォードとダレス(EJ第1436号)

 ウォーレン委員会の7人の委員のうち、委員長と委員会の結論に反対の立場をとった
3人の委員――ラッセル、クーパー、ボッグズについては分析を終わっています。
 続いて、委員会の結論を支持した3人――マックロイ、フォード、ダレスの3人につ
いて述べていくことにします。
 ジョン・マックロイ元世界銀行総裁――この人物についての情報は多くないのですが
はっきりしていることが2つあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.ロックフェラー家に非常に近い
      2.CIAとの結びつきが強いこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョン・マックロイは、1920年代にスタンダード・オイルの顧問弁護士をしてい
ます。スタンダード・オイルはロックフェラー家の所有なのです。また、マックロイは
チェースとマンハッタンの合併を成功させ、ロックフェラーに高く評価され、非常にそ
の信頼は厚かったといわれます。
 それと同時に、このマックロイはCIAとの結びつきも強いのです。もともとマック
ロイはCIAの前身であるOSS――オフィス・オブ・ストラテジック・サービス/戦
略情報事務局)の幹部をやっていたことがあるのです。このOSSには、同じウォーレ
ン委員会の委員であるアレン・ダレスも第2次大戦中にスイス支局長を務めており、マ
ックロイとは関係が深いのです。
 マックロイは、チェ−ス・マンハッタン銀行会長を務めるかたわら、ユナイテッド・
フルーツ社の理事もしています。このユナイテッド・フルーツ社はもちろんロックフェ
ラー系の企業です。
 1954年にユナイテッド・フルーツ社はCIAと組んでグァテマラの左翼政権アル
ベネス政府転覆を成功させるという荒っぽいこともやっているのです。さらに、マック
ロイは、あのベクテル社の顧問も務めているのです。ベクテル社については、昨年6月
16日のEJ第1128号で詳しく紹介しております。
 まだあります。マックロイは、ニクソンにも近いといわれています。こんな話があり
ます。ウォーターゲート事件の最中のことですが、ニクソンがウォーターゲート特別調
査委員会検事としてこのマックロイを任命するよう指示したことをニクソンによってク
ビにされた元司法長官エリオット・リチャードソンが明かしているのです。
 このマックロイは、ウォーレン委員会の結論を最初から最後まで強力に支持したこと
で知られています。いずれにしてもマックロイも、JFK暗殺には何の陰謀も存在しな
かったとしなければならない一派を代表する人物であったようです。
 さて、残るはフォード委員とダレス委員です。実は、この2人――トロイの木馬とい
われているのです。なぜ、トロイの木馬かというと、委員会の結論を一定の方向に内部
から誘導し、委員会内部で行われた審議、尋問、証言などの情報をそれぞれの組織に対
して情報伝達する任務を負っていたからです。フォードとダレスにおけるそれぞれの組
織とは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ジェラルド・フォード ・・・・・ FBI
    アレン・ダレス ・・・・・・・・ CIA
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 ウォーレン委員会は、ジョンソン大統領から任命され、JFK暗殺事件の真相を究明
するという重大任務を負っていたにもかかわらず、委員たちの出席率が低いことで、歴
史に名を残したのです。その中にあって、フォード委員とダレス委員の出席率はズバ抜
けて高かったのです。そのことも、フォードとダレスが、情報内通をやっていた証拠と
されています。
 とにかくウォーレン委員会に与えられた期間は次のようにわずかであり、委員の出席
率がよくなければ真相に迫ることなど最初からできなかったはずなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スタッフの編成 ・・・・・・・・ 1964年1月末日
 調査(聴聞会を含む)完了 ・・・ 1964年5月1日
 報告書の起草完了 ・・・・・・・ 1964年6月1日
 大統領に提出/報告書発表 ・・・ 1964年7月1日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 委員会では、このきつい日程の中で94人の証人を尋問しているのですが、その尋問
に7人の委員が全員出席したことは一度もなかったのです。しかし、フォードとダレス
の出席率は次のように、際立って高かったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フォード 94人中70人の証言聴取 ・・ 74.5%
 アレン  94人中60人の証言聴取 ・・ 63.8%
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 ジェラルド・フォードは、数ある米議員の中でも、FBIやCIAに理解のある人物
であり、副大統領時代のニクソンの友人だったのです。そのニクソンがジョンソン大統
領にフォード議員を委員として売り込んだことは既に述べました。
 フォードとニクソン――ニクソンが陰湿で陰謀めいたイメージであるのに対して、フ
ォードはネアカのスポーツマンタイプであり、爽やかなイメージの持主であって、性格
は好対照であるといえます。
 そのことを意識していたニクソンは、何かにつけてフォードを重用したのです。フォ
ードもニクソンについていったことで彼は一度も選挙を経験しないで、副大統領、大統
領へと上りつめた唯一の人物となったのです。
 最初は、1973年にニクソン政権下のスピロ・アグニュー副大統領が収賄疑惑で辞
任したときに副大統領となり、続いてニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し
たあと、そのまま押し出されて大統領に就任するという信じられないような幸運がフォ
ードに舞い込んだのです。           ・・・・・ [JFK13]

マックロイ/ダレス/フォード.jpg
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2006年08月14日

●ダレス兄弟の正体を探る(EJ第1437号)

 いよいよ、アレン・ダレス委員について述べるときがきたようです。アレン・ダレス
は、フォード議員とともにウォーレン委員会の結論を一定の方向に誘導する働きをした
人物です。
 私たちは「ダレス」という名前を聞くと、日本になじみの深いかつての米国務長官の
ダレスを思い浮かべてしまうのですが、それは、ジョン・フォスター・ダレスのことな
のです。アレン・ダレスはジョン・フォスター・ダレスの実弟に当たります。
 このダレス兄弟は、第1次世界大戦〜第2次世界大戦にかけて外交面で大活躍をして
いるのです。JFKの問題を考えるときアレン・ダレスについて詳しい知識があると、
いろいろなことが見えてくるので、お話しておきたいと思います。
 1933年1月4日のことです。ドイツのシュローダー男爵はケルンにある自分の大
邸宅に、4人の人物を招いていたのです。シュローダー家というのは、ロスチャイル
ド家やハンブロー家と並び称される古くからマーチャント・バンカーとして活動してき
た名門です。
 そのとき、シュローダー邸には男爵の他に政権をとる前のヒットラーとパーペン元首
相、それに加えて、ニューヨークの法律事務所「サリヴァン&クロムウェル」のジョン
・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟がいたのです。このときダレス兄弟は、
シュローダー銀行を代表して出席していたのです。
 この日の会談の目的は、ヒットラーを首相に就任させるために必要な資金を確実に提
供する確約を与えるためだったとされているのです。このとき得られた巨額の資金を使
って、ヒットラーは選挙に勝利して政権をとることができたのです。ダレス兄弟は、ヒ
ットラーが第2次世界大戦を起こすまで、ナチス・ドイツと米国を結ぶ資金ルートに
深く関与していたのです。
 少し余談ですが「シュローダー男爵」というと、何かを思い出さないでしょうか。
実は、『サウンド・オブ・ミュージック』という映画に登場してくるのです。
 といっても、シュローダー男爵自身が登場するのではなく、男爵夫人が出てくるので
す。映画の中間部分です。『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台1939年のオー
ストリアです。その時点で男爵は亡くなっていて、男爵夫人はトラップ大佐と結婚
の話が出ていたのです。男爵夫人を演じていたのは、エリノア・パーカーという女優だ
ったと思います。
 アレン・ダレスはハーバード大学出身の法律家・弁護士出身であり1916年から外
交官の職にあったのです。1920年にベルリンの米国大使館第一書記に選ばれ、第1
次大戦のドイツ賠償問題など、多数の軍事外交に関与しているのです。そして長年にわ
たってシュローダー男爵の銀行である「J・H・シュタイン銀行」の理事を務めていま
す。
 さらに、重要なことは、米国のスタンダード・オイルの顧問弁護士も務めているので
す。スタンダード・オイルといえば、ロックフェラーの所有であり、ウォーレン委員会
の委員であるマックロイも同社の顧問弁護士なのです。ここで、マックロイとアレン・
ダレスは完全につながっていることがわかります。
 ちなみに、兄のジョン・フォスター・ダレスもハーバート大学出身の優秀な弁護士と
して鳴らし、ウォール街の法律顧問を務め「BIS(国際決済銀行)」の創立者の一人
として活躍。米国が参戦する前は、ドイツの「I・G・ファルベン社」の重役陣に名を
連ねる米国きってのドイツ通の一人であったのです。
 第1次大戦のパリ講和条約では叔父の国務長官ロバート・ランシングの秘書官を務め
ジャネット・ポムロイ・エーヴリーとの結婚によって、ロックフェラー家の一員となり
ロックフェラー財団の理事長も務めています。兄弟ともにロックフェラー家とは近い関
係なのです。
 1942年11月、アレン・ダレスは、スイスの米国大使補佐官という外交上の地位
を与えられ、OSSのスイス支局長に就任したことは昨日のEJで述べた通りです。
 アレン・ダレスに与えられた任務はナチス・ドイツ内における反ヒットラーの動きを
探り、その進展具合を分析するという広範なものだったのです。そのため、彼は第2次
世界大戦中のスイスで活動する多くのスパイ組織とパイプを作る機会に恵まれスイスに
彼の情報帝国が誕生するまでになったのです。
 米国の歴史学者であるマーク・マスロフスキーは、アレン・ダレスについて、次のよ
うに述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  彼は非常に自己中心的な男で、スイスから戦争を指揮しようと考えていた。企業弁
護士としての実績は相当なもので、ドイツの実業界や法曹界の友人は数え切れないほど
であった。親ナチスではないものの親ドイツで、保守派の抵抗運動にかなり肩入れして
いて、無条件降伏を画策していた。ヨーロッパ各地の社会の奥深くまで潜入して情報活
動を展開し、人脈を築いていたのである。終戦後に予想される冷戦時代に備え
て、彼の
アンテナは、はっきりソ連の方向に向けられていたのである。
                          ――マーク・マスロフスキー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1947年にOSSはCIAに再編され、アレン・ダレスは3代目CIA長官に就任
しています。そして、兄のジョン・フォスター・ダレスも米国の国務長官に就任し、第
2次大戦後も幅広い活躍をしているのです。
 ところで、このアレン・ダレス――ケネディ大統領就任直後にピッグス湾事件にかか
わり、JFKからCIA長官を解任されています。ピッグス湾事件というのはCIAを
中心にアイゼンハワー大統領時代に計画されたものであり、JFKはそれを引き継いだ
のです。そして、JFKは手痛い失敗をするのです。
 ピッグス湾での米国の敗北――これはJFK暗殺の背景のひとつとなっており、避け
て通ることはできないのです。ピッグス湾事件については明日のEJで取り上げます。
                        ・・・・[JFK14]

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2006年08月15日

●ピッグス湾侵攻作戦計画(EJ第1438号)

 1959年1月1日、フィデル・カストロが率いるハバナ大学生たちの革命評議会や
労働組合がバチスタ政権を打倒したとき、米国の世論は、双手をあげてそれを歓迎し、
『ニューズ・ウィーク』誌などは、カストロを英雄と呼んだほどです。
 しかし、その後急速にキューバと米国の関係は悪化します。カストロが米国からの経
済支配、軍事支配を嫌ったからです。そこでカストロ政権は、ヨーロッパ諸国とソ連と
の連携を深める政策を推し進めようとします。
 英国とジェット戦闘機購入計画を締結したり、ソ連人の記者を国内に受け入れたりす
るなど、米国を挑発するような行動をとるようになったのです。このソ連人の記者は、
タス通信のアレクセーエフと名乗っていたのですが、CIAはアレクセーエフがKGB
幹部であることを掴んでいたのです。
 ソ連に対しては、弟のラウルをモスクワへ訪問させ、1960年2月には、「ソ連産
業貿易展」を開催――その開会式にソ連の第一副首相のミコヤンを招き入れるという、
かなり米国を刺激させることを連発します。
 カストロとしては、こうすることによって米国の妥協を引き出そうとしていたのです
が、これはキューバにとって、極めて危険なカケであったといえます。
 米国はこれに対抗して英国に圧力をかけて契約を破棄させるなどの妨害し、さらに砂
糖の輸入をストップし、経済制裁を強化します。そうすると、キューバは国内の米企業
を接収するなどの報復を行い、その関係はドロ沼化していったのです。これにより、キ
ューバからの避難民は続々とフロリダ州のマイアミに集結し、その数は実に10万人
に達しつつあったのです。
 こういうキューバとの状況の中で、米国ではケネディとニクソンの間で激しい選挙戦
が行われていたのです。両陣営のキューバに対する公約では、「必要とあればキューバ
を侵攻する」という点では一致していたのです。
 時の政権であるアイゼンハワー政府内では、キューバをめぐって次の2つの意見があ
ったのです。
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 1.平和的解決 ・・・ アイク大統領を中心とする国務省
 2.軍事的解決 ・・・ 副大統領ニクソンとCIAの主張
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 アイゼンハワー大統領は、万一の場合に備えて、亡命キューバ人をグァテマラにある
CIAの秘密基地においてゲリラ戦に対応する訓練を受けさせ、解放軍を結成しつつあ
ったのです。これを主張したのは、もちろん副大統領ニクソンとCIAです。
 しかし、既にアイクはキューバ問題に関しては、この時点で手を引き、すべては彼の
任命したスペシャルグループ――CIA、国防省、国務省に委ねられていたのです。こ
のグループの最高責任者は副大統領のニクソンだったのですが、この時点ではCIA関
係者はニクソンが負けるとは考えていなかったのです。
 その時点での亡命キューバ人の軍団は、1000人程度であるのに対して、カストロ
の正規軍はそのサイズにおいて、前バチスタ政権時の10倍以上に達しており、軍事
物資も東欧やソ連から2万8000トンも流れ込んでいたのです。
 このように強力なカストロの正規軍に対して、1000人規模のにわか仕立ての軍隊
では常識的には対抗できるはずがないのです。キューバ侵攻を成功させるには、何ら
かのかたちで米軍が介入するしかないですが、正面きって下手に米国が介入すると、ソ
連を巻き込むことになってしまいます。
 しかし、CIAは、何らかのかたちで米空軍の援護が受けられれば、キューバ侵攻は
成功すると考えていたのです。しかし、そのことの前提は、あくまでニクソンが当選し
て大統領になるということだったのです。
 しかし、当選したのはケネディ大統領だったのです。1961年1月、就任式が終わ
るとCIAは直ちにJFKを説得にかかったのです。実は、ケネディは就任前にパーム
ビーチの別荘でCIAからキューバの件は聞いていたのですが、彼はことの重大さと作
戦の大胆さに言葉を失ったといわれています。
 CIAの大統領説得のポイントは次の2点です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.カストロ正規軍はソ連の支援を受けて強化されつつあり、カストロを倒すなら、
   今しかチャンスがないこと。
 2.CIAの基地には1500人の亡命キューバ人による武装集団がおり、空軍の
   支援によって侵攻は成功する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CIAによる具体的な作戦は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.1961年4月17日の真夜中に1500人の武装した亡命キューバ人グルー
   プが、海からカストロ軍が少ないとされているキューバのピッグス湾に侵攻す
   る。
 2.亡命軍がピッグス湾に上陸した時点でキューバ革命協議会が武装亡命政府樹立
   を宣言し、キューバ国内にいる反カストロ派キューバ人民の一斉蜂起を促すこ
   と。
 3.侵略前と侵略時の2回、亡命軍空軍はカストロの空軍基地を爆撃してカストロ
   空軍を無力化する。もし、失敗の場合近くの山に逃げ込み、ゲリラ戦を展開す
   る。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この作戦が成功するかどうかは、亡命軍空軍の2波にわたる爆撃で、カストロ空軍を
完全に破壊し、制空権が握れるかどうかにかかっています。カストロの空軍には経験豊
富なパイロットもおらず、まったく組織化されていないので、勝算は十分にあるという
CIAの説明だったのです。
 この説明に対して、JFKはとくに反対はしなかったのですが「どのような状況でも
米軍は決して投入してはならない」という条件を出したのです。CIAもこれを了承し
たのです。・・・・・ [JFK15]

最初はよかったのだが・・・.jpg
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2006年08月16日

●JFKの最初にして最後の敗北(EJ第1439)

 1961年4月15日――キューバ・ピツクス湾侵攻開始2日前のことです。CIA
の立てた計画通りに亡命軍のB26はニカラグアから発進し、キューバの空軍基地を爆
撃します。
 実はこのキューバ空軍基地の爆撃にはキューバ亡命軍のB26以外に米軍機(尾翼に
米国旗なし)が含まれており、相当の成果を収めています。CIAはこの時点では、計
画通り第2波の攻撃を行えばキューバ空軍は全滅できると考えていたのです。
 さて、爆撃を終えたほとんどのB26は、ニカラグアの基地に戻ったのですが、2機
だけではフロリダに着陸したのです。これは、かねてからの計画でした。
 この2機はその尾翼にキューバ国旗が描かれており、フロリダ入国管理事務所は、2
機の飛行機はキューバ空軍に所属し、そのパイロットたちはカストロの圧制に耐えかね
て逃亡したものであるとの声明を発したのです。
 しかし、国連本部では、その日のうちに、キューバ大使が爆撃現場の写真を振りかざ
して米国を非難したのです。その写真には爆撃に使われたロケット弾の破片が写ってい
たのですが、そこには、はっきりとUSAのマークが刻まれていたのです。それにして
も、ラテン・アメリカ諸国の反応は異常なほどリステリックなものだったのです。
 これにJFKは動揺したのです。なぜなら、JFKはその3日前に「キューバに対し
て米国は決して介入しない」と公言したばかりだったからです。それに、モスクワと北
京は、この事態を受けて、ベルリン、ラオス、朝鮮半島で行動を起こすことをにおわせ
る行動をとりはじめていたのです。
 そのためJFKは、17日のピッグス湾侵攻と同時に行われる予定であった第2波の
爆撃中止を命令したのです。当然のことながら、これにCIAは猛反発します。しか
し、CIAもここで大きなミスを冒すのです。彼らは、第1波の爆撃でキューバ空軍の
飛行機のほとんどは破壊したと考えたからです。ところが結果論からいうと、キューバ
空軍はその時点でも相当数の飛行機を温存していたのです。しかし、もし、計画通り第
2波の爆撃が行われていたら、おそらく壊滅していただろうと思われます。
 こういう情勢の中で、4月17日の真夜中に1500人の亡命キューバ軍はピッグス
湾に上陸を開始するのです。しかし、ここに2つの誤算が生じたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の誤算:ピッグス湾には、少ないという予想だったキューバ軍が2万人近くもい
       たこと。
 第2の誤算:残存のキューバ空軍の爆撃により、食糧、弾薬な どを積んだ船舶を失
       ったこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2つの誤算によって、ピッグス湾に上陸した亡命軍は苦戦を強いられることにな
ります。この事態を重く見たCIAの幹部たちは、国務省にラスク国務長官を訪ねて、
今までの大統領の公けの誓約をくつがえして、米空軍と海軍をピッグス湾に投入して欲
しい旨大統領を説得して欲しいと訴えたのです。ラスク国務長官は、その場で大統領に
電話を入れてその旨を伝えたのですが、大統領の返事は「ノー」だったのです。
 そのため、その頃ピッグス湾で亡命キューバ軍はますます苦境に陥り、もはや亡命軍
が敗北するのは時間の問題だったのです。この事態に、ピッグス湾上陸の最高責任者で
あるCIAの副長官のチャールズ・カペル将軍は、午前3時頃にラスク国務長官の自宅
を訪ねて、大統領に電話を取り次いでもらい、せめて空軍の援護はさせて欲しいと大統
領を説得したのですが、やはり同意は得られなかったのです。
 かくして、CIA主導で進められたピッグス湾上陸作戦はみじめな失敗に終り、上陸
部隊は全員捕えられ、ハバナに連行されたのです。かくして、ベイ・オブ・ピッグス
はJFKにとって、最初にして最後の完璧なる敗北に終わったのです。
 この作戦の失敗の原因はすべてCIAにあるのです。CIAの作戦は、初めから米国
の空軍と海軍、それ加えて海兵隊まで投入することを前提としていたのです。そして、
そのことを亡命軍に約束していたのです。
 もともとこの作戦は、ニクソンが大統領選に勝つことを想定して決められたものだっ
たのです。しかし、接戦のすえ選ばれたのはJFKだったのです。それでもCIAと
しては、いかにJFKでも侵攻がはじまったら、CIAや軍部の圧力に屈して、米軍が
直接介入することを容認する――そう考えていたのです。
 当時の米国は、かつてのローマ帝国がそうであったように、圧倒的な軍事力の下での
平和を目指し、いわゆるパックス・アメリカーナ(米国による平和)を実現させようと
していたのです。当時の米国軍部は、陸、海、空、海兵隊、予備を含めて350万人の
人間を擁し、あらゆる近代兵器を有しており、そのメカニズムと力において、他に類を
見ない組織となっていたのです。
 さらに軍部は2万2000に及ぶ企業と組んで巨大な軍産複合体を形成し、急速に巨
大化していたのです。その軍産複合体の手先となって諜報活動を行っていたのがCIA
なのです。1953年の発足以来、とくにアレン・ダレスが長官になってからは、議会
や大統領府は、CIAの活動に関して何の疑問も抱かず、すべてめくら判を押してきた
のです。
 しかし、JFKは「パックス・アメリカーナではなく全人類の恒久的平和」という理
想を掲げ、それも口先だけでなく、本気で実現させようとしたのです。そういうJFK
とCIAを含む軍産共同体との最初の激突が、ベイ・オブ・ピッグスであったといえる
のです。
 このときのJFKはどちらかというと、どっちつかずの対応で敗北を喫しています。
そこでJFKは、このベイ・オブ・ピッグスの失敗を契機として、それ以降はCIAを
含む軍産複合体に対して挑戦的な政策を精力的に進めていくことになるのです。
                       ・・・・・ [JFK16]

現在のハバナ市内.jpg
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2006年08月17日

●誰がパレードルートを変更しか(EJ第1440号)

 デタント――緊張緩和という意味です。JFKが大統領になってから、このことばが
使われるようになったのです。ピッグス湾上陸作戦の失敗後の1962年、いわゆる
「キューバのミサイル危機」が起こります。これは、映画『13デイズ』で詳しく知る
ことができます。DVDで入手可能です。
 映画『13デイズ』については、かつて4回にわたってEJで取り上げています。
2000年12月25日のEJ第525号〜12月28日のEJ第528号までの4回
です。
 さてJFKは、CIA長官のアレン・ダレスと副長官のチャールズ・カベルの2人を
ピッグス湾上陸計画失敗の責任をとらせて解任しています。そして、親友のジョン・
マッコーンをCIA長官に任命し、CIAの改革に着手しようとします。
 しかし、ダレスは辞めていくとき、自分の腹心のCIAマンを重要地位に配置してお
くことを忘れていなかったのです。その代表格は次の3人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        リチャード・ビッセル
        リチャード・ヘルムズ
        ジェームズ・アングルトン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ダレスは、リチャード・ビッセルにIDA局長の地位を与えています。IDAと
「防衛分析研究所」といって、直接国防長官と統合参謀本部につながるシンクタンクで
す。リチャード・ヘルムズは、JFKの死後、ジョンソン内閣でCIA長官に任命され
ています。これでダレスはCIAを完全に操れるわけです。
 ジェームズ・アングルトンは、国内諜報を担当し、オペレーション・ケイオスの総責
任者を務めたのです。オペレーション・ケイオスとは、国内の反政府活動家の情報を集
め、それに対処する
職務です。そして、あのウォーレン委員会に対してCIAの窓口になったのは、ヘル
ムズとアングルトンだったのです。
 キューバ危機のあと、JFKはソ連のフルシチョフと急接近し米ソ間にホット・ライ
ンを敷いて、両首脳の間で個人的なコミュニケーションが行われるようになったので
す。そして、1963年7月、米ソ間で部分的核実験停止条約が締結されたのです。こ
れは見事な外交成果というべきでしょう。
 それだけではないのです。JFKはキューバ危機から1年後にキューバとの国交正常
化に取り組んでいるのです。JFKの命を受けて動いたのは、米国の国連代表団の一員
であるウイリアム・アトウッドという人です。
 1963年11月18日、アトウッドは電話でカストロの側近と話し、正常化交渉の
下話を国連で開始するところまでこぎつけたのです。カストロ側の手ごたえは十分あっ
たのです。
 時を同じくして、JFKはジャン・ダニエルというフランスのジャーナリストがカス
トロにインタビューするという話を聞き彼をホワイトハウスに招いたのです。そして、
JFKは正常化に関する自分の熱意をカストロに直接伝えて欲しいとダニエルに頼んだ
のです。
 そして、11月22日にダニエルはカストロに会ってJFKの伝言を伝えています。
しかし、奇しくもまさにその日にJFKはダラスで暗殺されているのです。
 その後もダニエルとアトウッドはキューバと接触を続けたのですが、ジョンソン内閣
はまったく興味を示さなかったので、1964年には話は完全に立ち消えにてなったの
です。
 このように、ピッグス湾上陸作戦からはじまってキューバとの和解工作までJFKの
政策は一貫して軍やCIAの考え方とは相容れなかったのです。それに加えてJFKは
軍事予算の削減を行い、数々の軍事プロジェクトの解体をしています。これらの一連の
JFKの政策は、CIAや軍産複合体からは、重大な挑戦行為のように見えたのです。
 不幸なことに、JFKが自分の信念に沿って政策を進めれば進めるほJFKを憎む敵
が増えるという結果になっていったのです。とくにCIA幹部によるJFKの憎しみは
異常なほど高まっていたのです。JFKは彼らの知っていた大統領とはまったく違うタ
イプの大統領だったというわけです。
 とくにJFKにクビを切られたチャールズ・カベル元CIA副長官などは、JFKの
ことを公然と「裏切り者」呼ばわりするほど憎んでいたのです。
 このチャールズ・カベルには、アール・カペルという弟がいるのですが、このアール
・カベルは、JFKが暗殺されたダラスの市長をしていたのです。実はこのダラス市長
には重大な疑惑があるのです。それはダラスでのケネディ大統領のパレード・ルートに
関してのものです。
 添付ファイルにあるように、大統領のパレードはメイン通りを行き、ヒューストン通
りを右折しています。このヒューストン通りは普段は逆方向への一方通行なのですが、
大統領パレードのときは特別通れるようにしたというのです。
 パレードは、そのヒューストン通りを逆方向の北に走り、それから左折してエルム通
りに入るように設定されているのです。その右側の角にオズワルドが6階から撃ったと
いうTSBDビルがあるのです。
 しかし、この左折はかなり鋭角であり、スピードを落とす必要があるのです。まして
や大統領を乗せた車であれば、ほとんど停止状態になるはずです。これは、大統領を撃
とうとする立場からは都合がよいことになります。
 しかし、ここで重大な疑惑があるのです。それは、なぜヒューストン通りを右折する
必要があるのかです。そのままメイン通りをまっすぐ行けばよいはずです。 調べて見る
と、大統領がダラスをパレードするときはメイン通りをまっすぐ南東に走ることが伝統
となっており、JFKのときはその慣習を破っているのです。パレード・ルートはカベ
ル市長命令で変更されていたのです。・・・・・ [JFK17]

JFKのパレード・ルート.jpg
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2006年08月18日

●弾丸は全部で5発発射されている(EJ第1441号)

 確かな筋の調査によると、ダラスにおいて行われた1963年11月22日のケネデ
ィ大統領のパレードのルートは、前日になって突然変更されているのです。前日までは
伝統的なルート――メイン通りをまっすぐ突っ切るルートを使う予定だったのです。
 ことは大統領のパレードなのです。当然警備の問題があるのでルートが前日に変更さ
れるなど前代未聞のことです。といっても現在わかっていることは、この暗殺事件は場
当たり的に実行されたものではなく、十分計画的であり、十分練られたものであること
は確かなのです。
 そうであるとしたら、パレードのルートについても実際に使われたルートが最初から
の前提であったことは間違いないのです。したがって、ルートは決まっていたのだが、
それが前日まで伏せられていたことになるのです。そこまで計画的であったとすれば恐
るべき陰謀であるということになります。
 ところで、パレードのルートを変更する権限を有するのは市長です。当時のダラスの
市長はアール・カベル。常識から考えても前日になってルートの変更に応ずるはずはな
いのです。しかし、ルートは現実に変更されている。アール・カベル市長がそれに応じ
たとすれば、彼も陰謀に深く加担していたことになります。
 昨日のEJで述べたように、アール・カベル市長はアレン・ダレスCIA長官の下で
副長官を務めていたチャールズ・カベルの弟なのです。このリチャード・カベル――ピ
ッグス湾上陸作戦の総指揮官でしたが、その失敗の責任を問われてJFKからダレスと
共にクビになっているのです。
 リチャード・カベルとしては、ピッグス湾上陸作戦の失敗の責任は途中で計画を変更
したJFKにあり、それは裏切り行為であり、反国家行為であり、それにJFKのやっ
ているのは容共政策であると、口を極めてJFKを批判しているのです。
 そういうリチャード・カベルが弟を陰謀に巻き込んだとしても不思議はないと思いま
す。それなら、なぜ、パレードのルートとして伝統的なルートが選ばれなかったのでし
ょうか。
 ここでウォーレン委員会の報告とは関係なく、ダラスにおけるJFK暗殺の一部始終
をパレード・ルートとの関連において検証していくことにします。ルートに関しては、
添付ファイルを参照していただきたいと思います。
 1963年11月22日、午後12時30分――大統領の車はゆっくりとヒュースト
ン通りをエルム通りに入ろうとしていたのです。この角は鋭角であり、車はほとんど停
止に近いスピードになっていました。
 ここを曲がるとパレードはそろそろ終りに近づくのです。なぜなら、エルム通りを通
って、ステモンズ・フリーウェイに入れば昼食会場のトレードセンタービルには、5分
もあれば到着するからです。それが終われば、ラブ・フィールド空港から専用機でワシ
ントンに帰ることになっていたのです。
 エルム通りに入ってから、その緩やかな下り坂を大統領の車はすべるように走って行
ったのです。しかし、そのとき大統領の車にぴったりとついていなければならないシー
クレット・サービスの護衛車はなぜか20メートル後方に離れていたのです。
 大統領の車がエルム通りに入って40メートル進んだときのことです。ここでバーン
という銃声が聞こえたのです。その瞬間、JFKは両手を胸のあたりにもってくる動作
をしたのです。1発目が、前方の木の茂った丘の後ろ側から発射され、それがJFKの
首に当たったからです。
 次の瞬間、ちょうど真後ろにあるダル・テックス・ビルから2発目が発射され、その
弾はJFKの右肩下に命中したのです。このときほとんど同時にTSBDからも第3弾
が発射されたのですが、これはJFKには当たらず、前に座っていたコナリー知事の胸
を貫通したのです。
 重要なことは、この2発目と3発目はほとんど時間の差がないことから、多くの人は
1発の銃声に聞こえたということです。しかし、2発発射されたことは事実なのです。
この時点でJFKはまだ致命傷を負っていなかったのです。
 続いて、再びダル・テックス・ビルから4発目が発射されたのですが、弾は完全にそ
れて道路に当たっています。そのとき砕けたコンクリートの破片で頬をケガした人がい
るので、それは確かなことです。ジェームス・テーグという人です。
 2発目がJFKの右肩下に命中したとき、後続車に乗っていたシークレットサービス
の1人、クリント・ヒルは大統領車に近づこうとしており、後方5メートルまで迫った
のです。
 そのとき、右手の丘の上から発射された第5発目が大統領の右後頭部を打ち抜くので
す。これが致命傷になったのです。そのときヒルは大統領車に飛び乗り、ジャクリーン
夫人に覆いかぶさったのです。第6発目の発射を恐れたからです。この間、わずかに6
秒の間なのです。6秒間ですべてが終ったのです。大統領車はパニックに陥っているデ
ーリー広場を後にして、猛スピードでパークランド病院に向かったのです。
 警官が真っ先に駆けつけたのは、木の茂った丘の後ろの駐車場だったのです。最初に
そこに着いたのはセイモア・ワイズマンという巡査です。そこには、多くの足跡とタバ
コの吸殻が多数あったというのです。何人かの人間がその場所に長い時間いたことは確
かなのです。
 そのとき駐車場には1人の不審な男がいたのです。ワイズマンがピストルを構えて近
づくと、その男はシークレット・サービスの証明書を見せて次のようにいったというの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ここは大丈夫です。何事もなかったです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、後になってこのシークレット・サービスマンはニセ者であることがわかりま
す。ウォーレン委員会は「ここでは何事もなかった」として捜査を打ち切っています。
                      ・・・・・ [JFK18]

ダラスの暗殺現場.jpg
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2006年08月21日

●ザプルーダー・フィルムの存在(EJ第1442号)

 今回のテーマを選ぶに当たって映画「JFK」のDVDを入手し、何回も繰り返し見
ているのですが見るたびに驚くべき発見があります。あの映画の制作者がギャリスン検
事を通して訴えていることは、ケネディ大統領の暗殺は軍産複合体の手先である連邦政
府の組織――CIAとFBIが引き起こした犯罪であるということです。
 それはこの映画「JFK」が、次のアイゼンハワー大統領の辞任演説ではじまること
からも明らかです。1961年1月17日のことです。この3日後にケネディが大統領
に就任しているのは運命的なことといえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    軍産複合体の経済的そして精神的とまでいえる影響力は、すべての市
   すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。われわれは一
   応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味
   合いも理解しなければならないのである。<中略>軍産複合体が、不当
   な影響力を獲得し、それを行使することに対して政府も議会も特に用心
   しなければならない。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在す
   るし、今後も存在し続けるだろう。この複合体が、われわれの自由と民
   主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない。
            ――アイゼンハワー・フェアウェル・スピーチより
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 JFKは、この巨大な軍産複合体という怪物に真っ向から挑戦し、そして敗れたので
す。アフガン戦争もイラク戦争も、この軍産複合体が深く関与して引き起こされている
のです。そしてその原因となった9.11自体にも、これが深く関与しているという疑
惑があるのです。これは、いずれEJでテーマとして取り上げたいと考えております。
 さて、ダラスでJFKを撃った弾丸はウォーレン委員会の結論としては全部で3発で
あり、すべてTSBDの6Fからオズワルドが発射したものであるというのです。TS
BDとは、当時テキサス教科書ビルといわれていたビルであり、現在では「ダラス郡役
所ビル」に名称が変更されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        TSBD = Texas School Book Depository
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画「JFK」ではそのTSBDの6Fからケヴィン・コスナー演ずるギャリソン検
事自身が3発銃を構えて撃つシーンがあります。TSBDの6Fからは街路樹が邪魔を
しており、パレード中のJFKを狙って命中させるのはプロの狙撃手でもかなり困難だ
というのです。
 それに、ウォーレン委員会が特定したオズワルドが使った銃はマンリカ・カルカーノ
というライフルであり、この銃はいかなるプロフェッショナルでも連続発射するために
は2.6秒はかかるのです。映画でギャリソン検事がやっていましたが、ボルトを返し
て引き金を引くまでに2.3秒、狙いを定めるのに0.3秒かかるからです。この銃で
3発を5秒間に連続に発射するとすればロクに狙いもせずに発射するしかないことに
なります。
 しかし、暗殺事件から15年後に事件を再調査した上院委員会では、暗殺時の発射は
4発であるとする新説を発表したのです。4発のうちの3発はTSBDの6Fから発射
されているが、もう1発は別の場所から発射されているというのです。そうなると、こ
れはオズワルドの単独犯行ではなく、陰謀説があることになるわけです。
 しかし、種々のデータを調査した結果では、EJ第1441号で述べたように、弾丸
は5発発射されているのです。というのは第2発目と第3発目がほとんど同時に発射さ
れているために、音は4発に聞こえたのではないかと説です。5発の弾丸が発射された
場所をまとめておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1発目:前方木の茂った丘の後ろから発射
     2発目:ダル・テックス・ビルから発射
     3発目:TSBDから発射
     4発目:ダル・テックス・ビルから発射
     5発目:右手の丘の上から発射
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうして、ウォーレン委員会の結論が覆されるような説が出てきたのかというと、そ
れは「ザプルーダー・フィルム」の存在なのです。ザプルーダー・フィルムはダラス市
で既製服製造会社を経営しているアブラハム・ザプルーダーさんが撮影したフィルム
なのです。彼は、JFKがダラスに来るというので記念にフィルムに収めておこうとし
て撮影したのです。
 映画「JFK」では、このザプルーダー・フィルムがふんだんに使われています。こ
の映画の裁判のシーンでギャリソン検事はこの映画を法廷で上映するのですがそのとき
次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  クレイ・ショーが関わった共同謀議を立証するには、複数の人間が暗殺に絡んで
 いたことを証明する必要があります。そのためにわれわれが入手したザプルーダー
 ・フィルムを見ていただきたい。アメリカの市民はまだそれを見ていません。5年
 間ずっと金庫の中に眠っていたからです。ニューヨークのタイムライフ社のビルで。
                           ――ギャリソン検事の発言
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                          ・・・・ [JFK019]

DVD/JFK.jpg
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2006年08月22日

●3発にこだわると大きな矛盾発生(EJ第1443号)

 映画「JFK」の話を続けます。ギャリソン検事は、ザプルーダー・フィルムを見せ
たあと、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  多くのことを語っているフィルムです。ウォーレン委員会は単純な事件と考えま
 した。弾3発、犯人1人。ところが、予期しない不都合なことが2つ出てきたので
 す。
  そのひとつは、芝生の丘に立ってザプルーダーさんが撮っていたこの8ミリフィ
 ルム。もうひとつは3人目の負傷者、テーグさんです。彼は立体交差の近くで飛ん
 できた弾に当たって負傷しました。――ギャリソン検事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ギャリソン検事は、ウォーレン委員会の結論――弾3発、犯人1人、発射場所はTS
BD――を前提として、それがいかに矛盾に満ちているかを立証するつもりなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あのフィルムが証明する時間は5.6秒です。4発目の可能性はありません。です
 から弾か破片か、テーグさんの頬をかすって傷つけたのは教科書ビルの窓から撃っ
 た3発のうちの1発です。残りはあと2発。1発はケネディの頭に 命中し、致命
 傷となりました。さて最後の1発ですが、この1発がケネディとコナリー知事に同
 時に7つの傷を与えたことになる。共同謀議の線などの捜査を続けるのではなく、
 ウォーレン委員会はある理論を採用しました。その理論というのは若い弁護士スペ
 クターの立てた説で、このとてつもない嘘が市民に押し付けられたの です。いわ
 ゆる魔法の弾理論というやつです。            ――ギャリソン検事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「魔法の弾理論」とは何でしょうか。TSBDからオズワルドによって発射された3
発の弾丸のうち1発はケネディの頭に命中し、もう1発は大きく外れて道路に当たって
コンクリートが砕け、その破片で近くにいたジェームス・テーグという人が怪我をして
いるのです。これで弾丸は2発使われ、残りは1発となります。
 この1発で、JFKとコナリー知事の2人に怪我をさせなければならない――そこ
で出てきたのは単発説です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  魔法の弾は、大統領の背中から入って17度の角度で下へ行き、それから上へ向
 きを変え、ケネディの首の前部から外へ飛び出した。第2の傷です。
  弾はここで1.6秒待ち、おそらく空中で急に右折してさらに左へ、それから右
 へ、また左へ。そして今度は知事の右脇後ろから体内へ。第3の傷です。
  その弾は27度の角度で下の方向へ進み、知事の第5肋骨を砕いて、そのあと右
 の胸から出てきた。第4の傷。
  次に弾は右折して知事の右手首から再突入。第5の傷。手の骨を砕いて、また手
 首から出てきて、第6の傷。
  そこで劇的なUターンをして知事の左太股にめりこんだ。第7の傷です。そして
 後ろで落ちた。その弾はほとんど無傷の状態で、パークランド病院のストレッチャ
 ーの上で見つかったのです。               ――ギャリソン検事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 委員会証拠物件399号というのがあります。これはTSBD6Fから発射されたカ
ルカーノ銃の弾丸です。この弾丸は被弾直後のJFKを診た医師が発見したものではな
く、後になってパークランド病院の担架の上で発見されたものなのです。しかし、確か
にカルカーノ銃から発射された弾丸には違いはないのです。
 ギャリソン検事がいうように、この弾丸は2人の人間――JFKとコナリー知事に当
たって7つの穴をあけているのですが、それにしては弾はゆがんでもおらず、ほとんど
傷がない状態で発見されています。そのようなことはあり得ないのです。
 一般的に人間の骨に当たった弾丸は大きな傷がつき、発射前とはその重さ自体が違う
ものなのです。事実、コナリー知事の手首からだけでも委員会証拠物件399号が失っ
た以上の鉛の量が発見されているのです。これにJFKの胸部から出たものを加えると
体内残存鉛はもっと大量になるのです。
 実は、ウォーレン委員会は単発説――1個の弾丸で7つの穴をあけることを実証する
ため、同じ銃で死体を撃って実験しているのです。結果は弾丸の先が完全にへこみ、大
量の金属破片が手首の中に残されたのです。手首だけでも弾はへこむのですから、ほか
に首と胸を貫通したのであれば、弾の変形はもっとひどくなるはずです。しかし、ウォ
ーレン委員会はこの実験結果を無視しています。この委員会では、彼らが最初から持っ
ている結論にとって都合の悪いものは一切採用しないのです。
 ここで単発説がいかに矛盾に満ちているかについて論点を明確にしておきます。まず
角度の問題があります。TSBDの6Fから撃ったとすれば、上から下に突き抜けるは
ずです。弾はJFKの背中に当たっています。弾は脊髄の右側、シャツの襟の部分から
約10センチ下から入っているのです。しかし、その弾はノドボトケのわずか1センチ
下に出ているのです。
 もし、上から撃ったのであれば、こんなことは絶対に起こりえないのです。弾が進入
口よりも上に出ているからです。これを可能にするには、車よりも低い位置から撃たれ
たということになるはずです。
 もし、これが可能だったとしても、委員会の結論では、もっとおかしなことが起こっ
ているのです。JFKの右肩下、約10センチのところから進入した弾丸は上に向かっ
て進み、ノドボトケの下に出る――出たとたん空中で急停止し、角度を右に変えて、そ
こから90度変化して真ん前に座っていたコナリー知事の右肩口から進入したことに
なるのです。このような馬鹿げたことが起こるとあなたはお考えですか。
・・・ [JFK020]


魔法の弾丸.jpg
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2006年08月23日

●潜んでいた4人のヒットマン(EJ第1444号)

 TSBDの6Fから本当にオズワルドが撃ったとすると、その3発の命中率は驚くべ
きものになります。1発はJFKの肩口から入ってノドを抜けてコナリー知事に命中し
ています。続く2発目はJFKの頭に命中し、これが致命傷となる――さらに1発は外
れたが破片で人を傷つけています。オズワルドはそんなに射撃の名手なのでしょうか。
 既に述べたように、オズワルドが使った銃は、イタリア製のマンリカ・カルカーノで
す。このライフルは第2次大戦中イタリア軍によって、使用されていたといわれていま
す。
 その製造は1941年でストップされ、それに使われる弾丸は1944年以来製造さ
れていないというのです。そうすると1963年11月22日に大統領を撃ったのは、
23年前の銃と19年前の弾丸を使ったことになるのです。かりそめにも大統領を狙う
銃としては、極めてお粗末な銃を使ったことになるのです。
 マンリカ・カルカーノ銃というのは、精度は極めて悪く、使い勝手が良くないので
す。一番面倒なのは引き金がややこしいことです。普通のライフルであれば、引き金を
一度引けば発射されますが、この銃は引き金が2段式なのです。最初に浅く引いて一時
ストップ――それからもう一度引かなければならないのです。そのため、目標からそれ
る原因となります。よりによってどうしてこんな銃を使ったのでしょうか。
 ウォーレン委員会は、3人の銃のエキスパートにマンリカ・カルカーノ銃を撃たせる
実験を行っています。現場実験というわけです。しかし、その条件は大きく違ってい
たのです。
 発射場所はTSBDの6Fではなく、3Fだったのです。6Fは街路樹が邪魔になっ
たからです。それにターゲットは移動しておらず、静止したままのものが選ばれており
しかも実際よりも大きかったのです。そして、狙いを定める時間は自由に与えられてい
たのです。
 6FからJFKを狙ったとすると、ビルの前に並んだ大木のうち、一番右側の木の枝
が窓をブロックしているのです。その枝葉の間から撃ったとしても、その狙いを定める
のに6分の1秒しかなかったのです。
 オズワルドに比べて、これだけの好条件を与えられていたにもかかわらず、3人の銃
のエキスパートはことごとく失敗しているのです。それにもかかわらず、これに対して
委員会は次の結論を下しています。意味不明のデタラメの結論です。それに「これらの
発見」とは一体何を意味しているのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       3人のエキスパートたちは、カルカーノ銃を使ったことがない
       にもかかわらずよくやっている。これらの発見に基づいて、当
       委員会は、リー・ハーベイ・オズワルドがケネディ大統領の暗
       殺者であると決定した。       ――ウォーレン委員会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オズワルドの射撃技術を判定する材料は海兵隊時代のライフル・テストの結果しかな
いのです。これによるとオズワルドは合格はしたものの、最低のラインだったのです。
 プロの銃の狙撃手さえ狙いを外すカルカーノ銃を使って、射撃の上手ではないオズワ
ルドが、街路樹が邪魔になるTSBDの6Fから動く標的を3回狙い、2発を命中させ
る――そんなことが可能でしょうか。それどころか、オズワルドは一発の弾も撃ってい
ないという説もあるのです。彼は何もしていないというのですが、これについては後で
述べることにします。
 そうだとするとJFKを撃ったのは誰なのでしょうか。これについて映画「JFK」
において、ギャリソン検事は次のように法廷のシーンで述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       この魔法の弾が7つの傷をつくることはありえないと結論すれ
       ば当然4発目があったということになる。2人目の犯人も。
        2人目の犯人がいたということはとりもなおさず、共同謀議
       があったということです。我々はクレイ・ショーがそれに荷担
       したと信じています。
        現に51人の証人がその時、芝生の丘から銃声が聞こえたと
       いっています。大統領から見て右前方です。カギを握る証人は
       退役軍人のチャールズ・グレコさん、すぐ後ろにジーン・ヒル
       とメアリー・モアマンさん。ホランド、ドット、シモンズさん
       の3人は陸橋の上にいた。J・Cプライスさんは広場が見渡せ
       るところ。ウィリアム・ニューマンさんは2児の父親ですが、
       エルム通りの北側にいてとっさに身を伏せた。ザプルーダーさ
       んはここです。            ――ギャリソン検事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 JFKの暗殺が行われた当日、オズワルドはいつものように仕事場であるTSBD
に行ったのです。しかし、6階ではないのです。その6階にはヒットマンが2名いたの
です。これは目撃者がいるのです。パレードのはじまる数分前のことです。
 さらにダル・テックス・ビルの6階にもヒットマンが1人、それから、エルム通りを
臨む木の生い茂った丘の後ろにも1人――このようにヒットマンは配置されていたので
す。
 ギャリソン検事のことばにある「芝生の丘」とはここでいう「木の生い茂った丘」の
ことです。これについては、パレードがはじまる約1時間前に、ジュリア・アン・マー
サという女性がエルム通りで一台の小型トラックを目撃しているのです。
 そして、そのトラックから一人の若者が小型トラックから飛び出してきて、木の茂っ
た丘にかけて行ったのです。その手には茶色の紙に包んだ細長いものを持っていたので
すが、マーサによると、それはライフルのように思えたというのです。
 マーサはそのこの小型トラックの運転手の顔を覚えているというのです。この男こそ
オズワルドを射殺したジャック・ルビーとそっくりだったというのです。ところで、オ
ズワルドは、JFK暗殺事件においてどういう役回りだったのでしょうか。
                          ・・・・ [JFK021]

マンリカ・カルカーノ銃.jpg
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2006年08月24日

●オズワルドとはどういう人物か(EJ第1445号)

 リー・ハーベイ・オズワルド――ウォーレン委員会から公的にケネディ大統領暗殺の
真犯人とされた人物です。彼は一体どのような人物なのでしょうか。
 結論からいうと、オズワルドはCIAの下部情報員なのです。CIAにはたくさんの
工作員がおり、彼らは任務をまかせるに足る人物をつねに探しているのです。
 オズワルドは、ニューオーリンズ生まれです。ニューオーリンズはかつてはフランス
系の町として栄えたのですが、現在では、港湾と観光が大きな収入源になっています。
実はこのニューオーリンズはCIAの活動拠点のひとつであり、JFKの暗殺計画はこ
こで練られているのです。米国で唯一JFK暗殺事件の真相に迫ったギャリソン検事は
このニューオーリンズの地方検事です。
 さて、オズワルドは4歳でテキサスのダラスに移り、その後、ニューヨークで中学に
入学しています。しかし、卒業前に家族と一緒に再びニューオーリンズに戻って中学を
終えます。そして、卒業後1年ほど働いたあと、海兵隊に入隊しています。
 オズワルドは知能指数117、平均的米国人が90〜100であることからかなり高
かったのです。CIAはおそらく海兵隊のときにオズワルドに目をつけていたのでしょ
う。CIAが使える人物の基準は次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            1.知能指数が一定以上のレベルにある
            2.社交性に欠け、つねに欲求不満人間
            3.自分の環境や地位に満足していない
            4.口が堅く、無口で秘密を守れること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オズワルドはまさしくこれらの4項目に該当しており、いつしかCIAの仕事をやる
ようになったのです。やがて、オズワルドは日本の厚木基地で情報部員としての訓練を
受け始めます。レーダー部隊に配属され、ロシア語を叩き込まれるのです。
 1959年5月に国務長官ジョン・フォスター・ダレスが死ぬと、世界中にデタント
――緊張緩和のムードがただよいはじめるのです。ジョン・フォスター・ダレスといえ
ば、「大量報復による抑止策」をかかげる軍産複合体の手先的存在のCIAにとって政
府に対する最大の代弁者であったからです。
 突然ソ連との緊張が解けて、1959年9月にフルシチョフの訪米が実現、フルシチ
ョフとアイゼンハワーの関係は、キャンプ・デービットの精神と呼ばれるまでになった
のです。そして、翌1960年にパリで首脳会談を開くことが決まったのです。
 こういう状況は軍産複合体にとってもっとも都合がよくないのです。戦争がなくなり
兵器が売れなくなり、軍事予算が減るからです。そうすると軍産複合体としての利益が
激減してしまいます。それに、アイゼンハワーの後の大統領であるJFKも、このアイ
ゼンハワーの引いた緊張緩和の雪解け路線をさらに強力に推進したのですから軍産複合
体とCIAは大いに危機感を抱いたのです。
 何とか米ソの蜜月関係をぶち壊す必要がある――CIAはこう考えたのです。この
ための政治的工作を行うため、オズワルドはソ連に渡ることになるのです。
 CIAはオズワルドに、CIAのスパイ飛行機U−2についての情報を持たせ、ソ連
に亡命させたのです。もちろんU−2の情報は本物ですが、そのくらいのことをしない
と、ソ連が信用しないからです。
 オズワルドは、1959年7月にCIAに指示にしたがって、ソ連に渡り到着早々再
び米国に帰る意志はないこと、重要なレーダー情報をソ連に提供する用意があること最
終目的は亡命であることを宣言したのです。CIAのこうした任務を「スリーパー」
――忍者といっているのです。
 このオズワルドのソ連亡命から8ヶ月後の1960年5月1日のことCIAのスパイ
飛行機U−2がスヴェドロブスク上空でソ連のミサイルによって撃墜されたのです。こ
れによって、その16日後にパリで開催予定であった米ソ首脳会談は決裂してしまうの
です。CIAの工作が成功したのです。
 問題は、このU−2撃墜が、オズワルドがソ連に提供した情報によるものであったか
どうかです。オズワルドがソ連に流したのは、U−2の飛行スケジュールとフライト・
プログラム(スピードとコース)だったのです。これだけの情報があれば、ミサイルを
セットできたはずです。
 1964年に米国に亡命したユーリ・ノセンコ元KGB少佐が明かしたことによると
KGBとしては、オズワルドを必ずしも信用しておらず、CIAのスリーパーではない
かと疑っていたといわれます。
 その証拠に、オズワルドがモスクワの大学で仕事をしたいと申し出たのに対し、ソ連
当局はその申し出を拒否していることが上げられます。大学は情報収集するには最適の
場所であり、オズワルドを信用しているのであれば、U−2撃墜の手柄もあるので、承
認したはずなのです。
 結局彼はミンスクに送られ、そこの電気工場で働くことになるのです。そのミンスク
でオズワルドは、マリア・プルサコーバという女性に会い、結婚することになります。
何となく運命的な出会いのようですが、しかし、これにはウラがあるです。
 ウラとは、マリア・プルサコーバはコムソコル(青年共産党)のメンバーであり、K
GBのスリーパー・エージェントではないかという疑いのことです。マリアと結婚した
オズワルドは、1962年6月13日にマリアと一緒に米国に帰ってきたのですが、普
通ならソ連が出国を認めるはずがないのです。
 このミセス・オズワルド――彼女は、ウォーレン委員会において、夫のオズワルドに
対して最も破壊的な証言をすることになるのです。夫がジャック・ル−ビーに殺される
や、今までの発言を一変させたて、夫が犯人であると認めたのです。
                       ・・・・ [JFK022]

オズワルド.jpg
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2006年08月25日

●ソ連帰り、親カストロのイメージづくり(EJ第1446号)

 オズワルドがCIAの情報員であったことは、1962年6月13日にオズワルド夫
妻が米国に帰ってきたとき、FBIやCIAから何のチェックも受けていないことから
も明らかです。
 当時CIAは、共産圏から帰ってきた旅行者全員をチェックし細部にわたる質問をす
るのがつねであったのに、オズワルド夫妻に関しては何もしていないのです。それは、
オズワルド自身が、CIAの要員であったからなのです。
 オズワルドは、1962年8月にはダラスに戻り、FBIの下でインフォーマーとし
て働くよう指示されています。CIAは同じ人間を長期的に使うことはしないのです。
オズワルドのように3年がかりの仕事をしてきた者には別の仕事につけて、しばらくク
ーリング・オフの期間を置くのです。
 このときオズワルド夫妻はダラス市において、ジョージ・デ・モーレンシルツによっ
て温かく迎えられます。彼は石油業界の実力者であり国際的なビジネスマンなのです。
やがてオズワルドはモーレンシルツのいうことであれば何でも聞くようになっていきま
す。
 実はこのモーレンシルツもCIAの要員なのです。共産主義者から祖国ソ連を追われ
第2次世界大戦中はフランスの情報部員として働き、米国の市民権を取ってからは一貫
してCIAの要員として働いてきた筋金入りの諜報員なのです。したがって、モーレン
シルツとオズワルドとの関係は、上司と部下の関係であったと考えられます。
 1963年4月にオズワルドには新しい任務が与えられ、彼は妻をダラスに残したま
ま、生まれ故郷のニューオーリンズに行くことになります。JFK暗殺計画はこの頃に
は実行段階に入っていくのです。もちろん、オズワルドを真犯人とするJFK暗殺計画
の第1幕がはじまったのです。
 ニューオーリンズに戻ったオズワルドは、ライリー社というコーヒー製造会社に籍を
置いて働き始めます。もちろん表向きのことです。この会社のオーナーであるウイリア
ム・ライリーは「自由キューバ委員会」という右翼団体に関係していたのです。実は
この自由キューバ委員会は、数多い反カストロ・グループの中でも最も好戦的な性格を
持っており、CIAとは強力なきずなで結ばれていたのです。
 オズワルドは2ヶ月ほどライリー社で働いて1963年7月19日に辞めています。
オズワルドは、その間、仕事の合間を縫って、ニューオーリンズのある古ぼけた3階建
てのビル―544キャンプ・ストリートの中にある探偵社によく通っていたことがわか
っています。
 その探偵社は。ガイ・バニスターという人物が開いていたのですが、彼は1956
年までFBIのシカゴ支局長をしていたのです。したがって、この探偵社にはFBIや
CIA関係者がよく出入りしていたのです。
 オズワルドがこの探偵事務所に来る目的も、そこにやってくるある人物の指示を受け
るためだったのです。その人物の名前は、デビット・フェリーというのです。彼はCI
AのエージェントでそもそもオズワルドをCIAに推薦したのはフェリー自身だったの
です。オズワルドは彼には頭が上がらなかったのです。
 このデビット・フェリー−−彼は優秀なパイロットなのです。そして彼は、つねにそ
の探偵社にいたという証言があります。とにかく、そこには素性の知れない連中がいつ
も出入りをしていたらしいのです。
 映画『JFK』の中には、この探偵社のシーンが出てきます。その探偵社で仕事をし
ていたバニスターの友人のマーティンが、競馬場でギャリソン検事の質問に答えて次の
ようにいうシーンがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      マーティン:デビット・フェリー、奴のことは知ってるね。
      ギャリソン:彼もあそこにちょくちょく行っていたのか?
      マーティン:ちょくちょくどころか、奴はあそこに住んでたも
            同然だ。あの連中のやってたことはまるでスパイ
            大作戦だった。その名もマングース作戦といって
            な。亡命キューバ人を訓練して、またキューバに
            侵攻させようって計画さ。バニスターの事務所は
            ニューオーリンズでダラスとマイアミを結ぶ補給
            ルートの中継点だった。それは武器弾薬を一時貯
            蔵してたんだ。――映画『JFK』のシーンより
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 会話からも想像できるように、探偵社は反カストロ派の拠点でキューバ人が大勢出入
りしていたのです。フェリーはそういう連中の指揮をとっていたと考えられます。
 さて、オズワルドがライリー社を辞めて20日後の8月9日のことです。オズワルド
は左翼アジテーターとして、カストロを支持するビラをニューオーリンズのど真ん中で
撒き始めたのです。主役であるオズワルドの再登場です。
 もし、オズワルドが本当の左翼アジテーターで、そういうビラを撒くのであれば、リ
ベラルなニューヨークかサンフランシスコでやるはずです。それを米国で最も保守的で
共産主義とカストロという名前に強いアレルギーを持つ南部の町でそれをやったのです
から当然大騒ぎになります。
 新聞社やテレビ局が駆けつけ、マスコミがオズワルドの名前と顔写真を報道したので
少なくともニューオーリンズの人たちの頭の中に、オズワルドの名前と顔は焼き付けら
れたに違いないのです。そして、オズワルドは実際に3人の反カストロ派のキューバ
人に襲われて、警察沙汰になっているのです。
 これで、ソ連帰りの共産主義者にして、親カストロ派のオズワルドのイメージがニュ
ーオーリンズの人たちの頭の中にはっきりと植えつけられたのです。もちろんビラ配り
はフェリーからの命令であり、オズワルドは仕事としてそれをやったのです。
                           ・・・・ [JFK023]

マーティンの証言.jpg
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2006年08月28日

●クレイショーとデビット・フェリーの関係(EJ第1447号)

 7月26日からはじめたJFK暗殺事件の真相――いよいよ核心に入っていきます。
JFK暗殺事件の解明は、あの9.11事件にも深くかかわっており、米国という国が
どのような国であるかを解明することにもつながってきます。これから米大統領選挙も
終盤に入ってくることもあり、そのためEJでは事実関係を詳しく調べて記述している
のです。
 なお、このテーマについては、多くの文献を参考にしていますが、事件の解明は一般
的には今まであまりいわれていない独自の推理に基づいて行われています。映画『JF
K』からは重要な情報が得られているので、もし機会があれば映画を見ていただくとE
Jで指摘している人物が実際に出てくるので(もちろん俳優ではありますが)理解しや
すいと思います。
 オズワルドの背後関係を整理しておきましょう。
 オズワルドはCIAの工作員であるデビット・フェリーとジョージ・デ・モーレン
シルツから何らかの指令を受けて行動していたことは確かです。この場合指令は、オズ
ワルドがニューオーリンズにいるときはフェリー、ダラスにいるときはモーレンシルツ
から出されているのです。
 ニューオーリンズの拠点は、544キャンプ・ストリートのビルの中にある探偵社で
ありガイ・バニスターという人物がオーナーです。ガイ・バニスターはFBIから指令
を受けている工作員です。CIAとFBIが密接に絡んでいるのです。
 さて、デビット・フェリーの上にはもうひとり重要人物がいるのです。もちろんCI
Aの工作員です。映画では検事がマーティンに尋問しているシーンで次の会話がありま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ギャリソン:他に誰かバニスター程度の人物は来ていなかった
            かね。
      マーティン:(肩をすくめて)一人いた。俺の知らない奴だが
            大柄な実業家で、白髪だった。あの事務所に来て
            いたのを一度見たんだ。場違いな感じで、上流階
            級の奴らしかった。名前は思い出せんな。(考え
            て)オズワルドもその時いて奴と会っていたよ。
            スポンサーか何かだな。いつも威張っていたガイ
            がぺこぺこしていた。・・・クレイ何とかだ。奴
            の名前、クレイ・・・。
      ギャリソン:バートランド。クレイ・バートランド?
                       ――映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マーティンのいうクレイ・バートランドは――クレイ・ショーの別称――ニューオ
ーリンズの地元の名士で実業家であり、CIAから指令を受けて、フェリーと一緒にJ
FKの暗殺に深くかかわっていた人物なのです。
 ギャリソン検事は、クレイ・ショーをJFK暗殺の犯人として起訴し、1ヶ月間に及
ぶ裁判を展開し、ギャリソン検事による最終弁論の末に陪審団はわずか50分でクレイ
・ショーの無罪を決定しているのです。
 話を少し前に戻します。オズワルドが指令でニューオーリンズに行き、ライリー社と
いうコーヒー製造会社で仕事をしたのですが、2ヶ月で辞めています。その間オズワル
ドは、ガイ・バニスター探偵社にたびたび行き、フェリーやクレイ・ショーと会って何
か打ち合わせをしたということがわかっています。
 そして、1963年8月9日にオズワルドはニューオーリンズの中心部でカストロを
支持するビラを撒き、新聞やテレビに大きく取り上げられます。これで、オズワルドは
ニューオーリンズで有名人になります。ソ連帰りの共産主義者で、親カストロ派の人物
としてです。彼をJFK暗殺の犯人に仕立てることを意図するグループは、ひとつの工
作に成功したことになるのです。
 さて、オズワルドが一時勤めていたライリー社では、オズワルドが辞めたあと、不思
議なことが起こっていたのです。それは、オズワルドと一緒に仕事をしていた彼の上役
や同僚が次々と辞めていることです。
 辞めたあとの行き先を探ると、すべてがNASA(米航空宇宙局)に再就職している
事実が判明したのです。まさかNASAが急にコーヒー製造に経験のある人物を必要と
したとは思えないので、その狙いはオズワルドと関係のあった人物を国防企業に移籍さ
せ、高い給与と引き換えにオズワルドに関して余計なことをいわせないようにしたと考
えられるのです。
 なぜ、国防企業かというと、その従業員は特別規定でかん口令を徹底させることがで
きるからです。情報・諜報の世界では、これを「消毒」と呼んでいるのです。
 オズワルドをさらにカストロ支持の共産主義者に仕立てたいグループは、オズワルド
にメキシコに行くよう命じます。オズワルドは、パスポートの申請を行ったところ、普
通の米国市民でも最低3日かかるのに24時間以内に交付されているのです。ましてオ
ズワルドはソ連に亡命経験があり普通であればパスポートは交付されないのですが、交
付されたということはCIAがセットアップしていることを意味しています。
 続いて、オズワルドはメキシコ領事館に行ってビザを申請し、交付されています。そ
して、1963年9月24日オズワルドはバスでニューオーリンズを出発し、メキシコ
に向います。メキシコに着いたオズワルドは、エベレット・ハワード・ハントという人
物に会い、指令を受けています。ハワード・ハントは、CIAで、キューバ革命委員会
の設立責任者です。
 その指令とは、メキシコ市のキューバ大使館に行って、キューバのビザを申請せよと
いうものでした。しかし、既にキューバ大使館にはKGBから情報が入っており、ソ連
からのビザを取れば交付するという条件をつけてきたのです。しかし、ソ連大使館から
は4ヶ月は必要と連絡を受けます。これでは11月22日に間に合わない――かくして
この工作は失敗に終わります。・・・・ [JFK024]

ビラを撒くオズワルド.jpg
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2006年08月29日

●巧妙に立ち回る偽者のオズワルド(EJ1448号)

 1963年11月になると、ダラスのあちこちでオズワルドと名乗る偽者が出没する
ようになります。11月9日には、ダラスのダウンタウンにある新車展示場にリー・オ
ズワルドと名乗る男が訪れ、セールスマンを同乗させ新車を試乗しています。セールス
マンの話によると、運転はかなり荒っぽかったといいます。
 ショールームに帰ってきてその男は、現在カネはないが近くまとまった金が入るので
そのとき手付金を支払うが、クレジットでは買えないのかと聞いたというのです。セー
ルスマンはクレジットの条件を伝えると、やや好戦的な態度でその男は、次のようにい
ったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  クレジットがそんなに難しいものなら、ソ連に帰った方がましだ。少なくとも
あの国では働く者を人間として扱う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 また、同じ日に市内の射撃場でもやはりオズワルドと名乗る男が現れ、イタリア製の
ライフルを使って、あたりかまわず撃ちまくっています。周りにいた人々を最も印象づ
けたのは、その速射の正確さだったのです。
 ところが、本物のオズワルドは、モーレンシルツの友人であるマイケル・ペインの屋
敷にいたのです。なぜなら、オズワルドの妻のマリアはペイン邸で寝起きをしていたか
らです。モーレンシルツがペインに、オズワルドのいない間、英語の話せないマリアの
面倒を見るように命じたからです。ペインの妻はロシア語を流暢に話すことができたか
らです。
 11月にダラスに戻ってきたオズワルドは妻に会いにペイン邸を訪れていたのです。
つまり、本物のオズワルドには、偽のオズワルドが出没している時間帯の完全なアリバ
イがあることになります。それに本物のオズワルドは、車の運転はできないし、射撃も
きわめて下手であり、速射などとても無理というウデだったのです。
 ところが、後日そのアリバイを立証してくれるはずのペインも妻までもその完全なア
リバイを否定するのです。車の運転ができないことも、射撃が下手であることもあいま
いにされてしまうのです。つまり、第3者から見ると、偽のオズワルドが本物のオズワ
ルドであるということになってしまったのです。
 ここまでに作られたオズワルドのイメージは、次のようなものになるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.何かというと「ソ連」を口にするソ連帰りの共産主義者であり、妻もソ連人で
   あること。
 2.親カストロ主義者であり、キューバ行きを希望し、しきりにビザの申請をして
   いること。
 3.イタリア製のライフルを持っており、その速射の命中率は高く、銃の使い手で
   あること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このオズワルドのイメージは、まさしくJFKの暗殺犯のイメージそのものであり、
オズワルドは知らず知らずのうちにJFK暗殺という歴史ドラマの主役にシステマテ
ィックにはめ込まれていったのです。恐ろしい話です。
 ダラスに戻ったオズワルドは、モーレンシルツの指示で、市内に部屋を借り一人住む
ように命じられます。そして、TSBDで仕事を与えられ、そこに毎日通っていたので
す。その間、オズワルドの妻マリアは子供と一緒にペイン邸に住んでいたのです。
 なぜ、こんなことをしたかですが、暗殺実行グループとしては真犯人に仕立てるオズ
ワルドのアリバイをなるべく消しておきたかったからと考えられます。
 こうして職場と住まいをセットアップしたうえで、モーレンシルツは、オズワルドに
次のように最後の指示を与えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.来る11月22日、いつものようにTSBDに出勤し、仕事をすること。
 2.その日は大統領のパレードがあるが、何が起こっても外には出ないこと。
 3.12時30分まではビルの中にとどまり、その後は早く自宅に帰ること。
 4.ピストルを持って近くのテキサス劇場まで歩き、切符を買わず入ること。
 5.後は地元の警察官が来るまでじっと待ち、後のことは上層部にまかせる。
   
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 重要なことは、オズワルドは、最終目的は聞かされていなかったことです。情報・諜
報の世界では、オズワルドのような下級情報員にはとりあえずやることしか知らされな
いのが普通です。もし敵につかまったとき目的を知られないためにもそうするのです。
したがってオズワルドはモーレンシルツに指示されたままに動くしかなかったのです。
 映画『JFK』で、ギャリソン検事が自宅の居間でオズワルドが逮捕されたシーンを
テレビで見ているシーンがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      新聞記者A:大統領を殺したのですか。
      オズワルド:その容疑ではありません。さっきホールで記者に
            はじめて聞いたんです。
      新聞記者B:その容疑なんですよ。
      オズワルド:えっ?
      新聞記者A:自由キューバ運動やら何かに参加したことは?
      ギャリソン:あんな立場にいながらひどく冷静じゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ギャリソンはさすが鋭いです。オズワルドの冷静さに違和感を感じたのです。オズ
ワルドはそのとき、上層部を信じていたのでしょう。きっと機関(CIA)が救い出し
てくれると・・・。               ・・・[JFK025]

逮捕されるオズワルド.jpg
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2006年08月30日

●ヒットマン4人の配置と射撃の詳細(EJ第1449号)

 客観的な分析によると、JFKを撃ったヒットマンは4人いたはずです。その配置関
係は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ダル・テックス・ビル ・・・・・・・・・・ ヒットマンA
       TSBDビル ・・・・・・・・・・・・・・ ヒットマンB
       エルム通り右手木の茂ったところ ・・・・・ ヒットマンC
       エルム通り右手前方の丘の上の柵 ・・・・・ ヒットマンD
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ケネディ大統領のパレード・ルートとの関連で少し捕捉説明をします。大統領の車は
ヒューストン通りを北に進み、ヘアピンカーブを左に曲がってエルム通りに入ります。
 JFKの車からみると、エルム通りに入る四つ角の斜め前方の角にはダル・テックス
ビルがあり、エルム通りとヒューストン通りの角にはTSBDビルがあります。その
それぞれにヒットマンは1人ずつ配置されていたのです。
 TSBDビルに配置されたヒットマンは6Fではなく、おそらく3Fにいたものと思
われます。6FからJFKの車を狙うと木が邪魔をして撃ちにくいからです。その点3
Fは車を狙い易いことと人目につかないという利点があるのです。
 それでいて6Fにも2人の男がいたのです。そのうち1人はライフルを持っていたと
証言する人は5〜6人いたのです。しかし、彼らはヒットマンではなく、6Fにライフ
ルを持った男がいたことを目撃させる目的で6Fにいたのです。
 ヘアピンカーブを曲がってエルム通りに入ると、JFKを乗せた車から見て右手前方
に木の茂ったところがあります。そこにヒットマンが潜んでいたのです。そのヒットマ
ンは、大統領の車がエルム通りに入って40メートルほど進んだとき、後方から第1発
目を発射しています。添付ファイルの@です。
 @の弾はJFKの首に当っています。大統領は胸をかきむしる動作をしています。続
いて、第2発目と第3発目がほぼ同時に発射されています。第2発目はダル・テックス
ビルのヒットマンが撃っており、これは大統領の右肩下に命中しています。添付ファイ
ルのAです。しかし、この時点で大統領は致命傷を受けていないのです。このまま病院
に運び込めば助かっていたはずです。
 第3発目はTSBDビルから発射されこれはコナリー知事に当っています。これがB
です。ここまではすべて命中しており、ヒットマンのウデは相当レベルの高いことがわ
かります。そして既に何度も述べているように、第2発目と第3発目は、ほとんど同時
に発射されているので、多くの人には銃声は1つに聞こえたと思われます。これが4発
発射説の根拠です。
 さて、第4発目はダル・テックスビルから発射されましたが、目標を大きく外れ、弾
はコンクリートを直撃しています。これがCです。そのとき飛び散ったコンクリートの
破片で、パレードを見ていた人がケガをしています。
 最後の5発目は、右手前方の丘の上の茂みから発射されています。今までの4発はす
べて大統領の背後から発射されているのに対し、第5発目は正面から大統領の頭部を狙
って発射されているのです。これがDであり、大統領の右後頭部を撃ち抜き、致命傷を
負わせています。大統領は後ろにのけぞっています。
 これら4人のヒットマンたちは、仕事が終わると、素早く持ち場を離れ、あらかじめ
約束していた場所に向かいます。その約束していた場所とはガルヴェストンです。ガル
ヴェストンとは、テキサス州南東部で、ヒューストンから約80キロ南下したところに
ある港湾都市です。
 こうした騒ぎの中でオズワルドは、指定された12時30分を少し過ぎてから、2F
の自販機でコーラを飲んでいたのですが、そこに飛び込んできた巡査に銃を向けられて
います。しかし、巡査に同行してきたビルのマネージャがこのビルで働く者であるとの
証言によって解放され、TSBDビルの裏口から外に出てノース・ベックレー通りの自
分の家に戻っています。TSBDビルは大統領が撃たれたあとにすぐ閉鎖されています
が、裏口は15分間なぜか空いていたのです。
 実は、TSBDビルを閉鎖したとき、3人が中に閉じ込められたのです。2人は新聞
記者で身元がはっきりしており、解放されています。もう1人は合衆国陸軍諜報部員ジ
ェームス・パウエル大佐であり、この役職ならどこでもフリーパスです。 おそらくイ
タリア製ライフルで撃った空薬きょうを3個、6Fに転がしておいたのは、このパウエ
ル大佐だったと思われます。これによって、弾はTSBDビルからオズワルドの撃った
3発であるというウォーレン委員会の結論が引き出されたのです。
 さて、自分の部屋に戻ったオズワルドは、指示されたようにピストルを持って、近く
の映画館テキサス劇場に向います。そしてテキサス劇場に着くと、10ドルの所持金が
あったにもかかわらず切符を買わないで映画館に飛び込んでいます。すべて、モーレン
シルツから指示された通りにオズワルドはやったのです。
 映画館に切符を買わないで入れば、当然警察に通報されます。ちょうどそのとき、テ
キサス劇場の近くの路上で、1人の巡査が何者かにピストルで撃ち殺されるという事件
が起こっていたのです。その巡査の名前はティピットというのです。
 つまり、警察には、ティピット巡査がピストルで射殺されたという情報と、テキサス
劇場で切符を買わないで入った男がおり、現在も映画館にいるという2つの情報が入っ
てきたのです。当然警察としては、現在テキサス劇場にいる男がティピット巡査を殺害
して、逃げる途中でテキサス劇場に飛び込んだと考えます。
 そこでダラス警察はテキサス劇場に急行し、劇場を取り囲んだうえで警察官が劇場の
中に入り、オズワルドを逮捕したのです。逮捕時間は午後1時53分――警察官に逮捕
されたとき、オズワルドは「イッツ・オール・オーバー・ナウ」といっています。彼と
しては「やれやれ、終わった」と考えたのでしょう。しかし逮捕の容疑「ティピット巡
査殺害容疑」だったのです。・・・・ [JFK026]

JFK暗殺現場.jpg
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2006年08月31日

●なぜ、ティピット巡査は殺されたか(EJ第1450号)

 オズワルドの逮捕容疑が「ティピット巡査殺害」であることには注目する必要があり
ます。なぜ、オズワルドはティピット巡査を殺さなければならないのでしょうか。
 EJ第1449号でご紹介したオズワルドの22日の行動は事実なのです。つまり、
オズワルドは1発も撃っていないし、誰も殺していないのです。それなのに、彼は大統
領を撃ち、ティピットも殺した容疑をなぜかけられたのでしょうか。
 それにしても、大統領が撃たれて、ダラス警察の大部分のパトカーがエルム通りに集
結しているときに、ティピット巡査の乗るパトカーは、オーク・クリフ地区を巡回して
いたのです。オーク・クリフ地区は、暗殺現場のエルム通りから6キロも離れておりパ
トカーがなぜそこにいたかについては、今でもわかっていないのです。ちなみに、この
オーク・クリフ地区の近くにテキサス劇場があるのです。
 ティピット巡査が撃たれたのは、大統領が撃たれてたら45分後のことですから、午
後1時少し前ということになります。距離と時間の関係でいうと、オズワルドが家に戻
り、ピストルを持って家を出て、テキサス劇場に向かう途中でティピット巡査を殺害す
ることは時間的には可能なのです。
 このティピット巡査――調べてみると、ダラス市警に11年間勤めている模範的な警
察官だったのですが、その背後関係を洗ってみると、興味深いことが浮かび上がってき
たのです。
 J・ティピットは、ジョン・バーチ・ソサエティのメンバーであったことです。ジョ
ン・バーチ・ソサエティとは秘密結社のひとつですが、その思想は、あのアイゼンハワ
ー大統領をも共産主義者と決めつけるほどの狂信的右翼団体だったのです。したがって
ケネディなどは共産主義者そのものということになります。
 ところで、オズワルドがテキサス劇場で逮捕された瞬間、ワシントンはそれを待って
いたかのように「暗殺は陰謀ではない」と発表しています。容疑者の取り調べも、証拠
物件も何も集まっていないこの時点で、現場から遠く離れたワシントンから早々に犯人
単独説を打ち出しているのです。
 さらにおかしなことに、ティピット巡査を撃った犯人もオズワルドであるとこの時点
で決めつけていることです。つまり、オズワルドがTSBDビルで大統領を狙撃し、い
ったん家に戻ってさらに逃走しようとしたときに、ティピット巡査が尋問しようとした
のでピストルで射殺し、逃げ場を失って、あわててテキサス劇場に逃げ込んだと判断し
たのです。
 しかし、オスワルドがティピット巡査を撃ったという証拠は何もないのです。ダラス
警察からの発表は次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.ティピット殺しの犯人は、黒いウェーブのかかった髪の男であること。
   2.ティピット殺しの犯人は38口径のオートマティック銃を使っている。
  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オズワルドの髪は茶色であり、額が少々薄くなっているので、警察発表の情報とは一
致しないし、オズワルドの所持していたピストルは38口径のスミス&ウェッソンの回
転式であって、これも一致しないのです。しかし、この矛盾についてダラス警察は何の
発表もしていないのです。
 しかも、ティピット巡査殺害の現場を目撃した証人は2人いるのですが、2人とも犯
人はオズワルドではないと断言しているのですが、警察は2人とも事情聴取していない
のです。
 2人の証人がいう犯人の人相、体格を聞いてみると、それは、オズワルドをピストル
で射殺したジャック・ルービーに酷似しているのです。しかし、不可解なことに、ウォ
ーレン委員会はこれらの証人を尋問していないのです。彼らは、彼らの作った結論に矛
盾したことをいう証人を抹殺するか、いっさい証人として呼ばなかったのです。
 事実、証人の一人であるドミンゴ・ベナベデスという機械工の弟エディは、事件から
3ヵ月後に何者かに頭を撃たれて亡くなっているのです。兄ととてもよく似ていたそう
で、間違えられて殺されたものと思われます。
 つまり、ティピット巡査もこの歴史的大ドラマの登場人物の1人であり、オズワルド
に殺される役割だったと考えられます。大統領を殺した犯人が逃走する途中で警察官ま
でを射殺する――こういう筋書きだったのです。こうすることによって、犯人に対する
憎しみだけが増幅され、証拠もへったくれもなくなる――そういう効果を狙ったものと
思われます。
 オズワルドがケネディ大統領暗殺の犯人として逮捕されると、この事件の仕掛け人と
実行犯たちには、もうひとつ片付けなければならない重要な仕事が残っていたのです。
それは、一刻も早くオズワルドの口を永遠にふさぐことだったのです。
 FBIの動きも激しくなっていたのです。オズワルドが捕まった時点で、ダラスFB
I支局長であるゴードン・シャクリンは、部下のジェームス・ホスティをダラス警察に
直行させているのです。オズワルドの取調べに同席させるためです。
 大統領暗殺は法律的にいって連邦罪ではないので、FBIの管轄外なのです。しかし
シャクリンはダラス警察に強引にねじ込んで認めさせたのです。FBIとしては、オズ
ワルドとの関係がバレてはまずいことがあったからと思われます。
 その結果と思われるのが、次の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.取調調書がいっさい取られていないこと。
   2.弁護士をつけさせる便宜を認めていない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは異常なことです。取調べは20時間を超えていたのに何の調書もとらず、容疑
者にとって当然の権利である弁護士もつけていないのです。 ・・・ [JFK027]         

殺害されたティピット巡査.jpg
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2006年09月01日

●暗殺後の実行犯の行動の詳細(EJ第1451号)

 1963年11月22日――ケネディが暗殺された日の夕刻のことです。ニューオー
リンズから一台の車が夜を徹してヒューストンに向かっていたのです。運転していたの
は、あのデビット・フェリーです。折りしも天候は悪く、激しい雷雨をついてのドライ
ブだったのです。
 23日の午後、フェリーは、ヒューストンのウィンターランド・スケートリンクに着
いています。彼はスケート靴をはかず、公衆電話につきっきりで、四六時中電話をかけ
たり、受けたりしていたのです。なぜ、公衆電話なのかというと、通話記録を残したく
なかったと考えられます。その電話の主な相手とは、このあとオズワルドをピストルで
射殺することになるジャック・ルービーだったのです。
 ジャック・ルービーの方は、ダラス市内にあるガレージの中の公衆電話を使ったの
です。このときルービーが長い間公衆電話を使っていたことには目撃者がいるのです。
そして、ウォーレン委員会の記録にもこれは残っているのですが、電話で話していた相
手は地元の新聞記者になっています。
 これは明らかにウソです。なぜなら、もし、地元の新聞記者と話したのであれば、わ
ざわざ人目につく公衆電話を使わずに普通の電話を使うはずだからです。
 このルービーの会話の内容の断片は、ガレージのマネジャーが聞くともなしに聞いて
いたそうです。ルービーは通話の相手にオズワルドがダラス警察からダラス郡シェリフ
事務所に移送されることについて話していたというのです。一方、フェリーはヒュース
トンのスケートリンクの公衆電話から、クレイ・ショーとも連絡をとっています。おそ
らくこのプロジェクトの最終処理について指示を仰いだものと思われます。
 それが終わると、フェリーはヒューストンを発って75キロ南のガルヴェストンに向
かったのです。それからもう一人、連絡員としてウォールという男がガルヴェストン入
りしています。フェリーは何の目的でガルヴェストンに行ったのでしょうか。
 ガルヴェストンには4人のヒットマンたちがフェリーが来るのを待っていたのです。
4人のヒットマンは仕事を終えるとダラスから直接ガルヴェストンに向かったのです。
ダラスからガルヴェストンまでは車で6時間ほどしかかからないので、22日の夕刻ま
でには着いたはずです。
 23日の夕刻になって、フェリーはガルヴェストンに到着しま。そのとき連絡員のウ
ォールも同じ頃にガルヴェストン入りしています。フェリーは彼らとガルヴェストンの
どこかで落ち合いヒットマンたちに現金で報酬を支払っているのです。この現金は、ク
レイ・ショーからフェリーが預かっていたのです。
 これで終りではないのです。ヒットマンたちを米国内に残しておくわけにはいかない
からです。フェリーの役割は、ヒットマンたちを外国に逃がすことなのです。
 ここでフェリーのパイロットとしてのウデがものをいうことになります。フェリー
はその日にあらかじめ用意してあったプロペラ機に4人を乗せてメキシコに飛んだので
す。米国人の飛行機であれば、メキシコのローカル空港でも取り調べられることはない
からです。
 ガルヴェストンからメキシコまでは片道2時間であり、午後7時に発ったとすれば、
午後11時にはガルヴェストンに帰ってこれるのです。この仕事を完了して、フェリー
はガルヴェストンに残ってルービーからの連絡を待っていたウォールに会います。そこ
にダラスのルービーから連絡が入り、首尾がどうだったかを尋ねてきます。ヒットマ
ンたちが無事に国外に出たかどうかの確認です。もし、この逃亡が失敗していたら、次
の日、24日に実行しようとしていること――オズワルドの殺害がまったくの無駄に終
わってしまうからです。
 そして、11月24日、午前11時頃、2人のシェリフ助手に両側からかかえられる
ようにして地下室でエレベータをおりたオズワルドは、大声で質問を浴びせる新聞記者
の中を連行されたのですが、そのときは疲れの表情を見せてはいたものの、相変わらず
冷静そのものだったのです。
 しかし、人垣を分けてルービーが彼の前におどり出た瞬間、はじめてオズワルドの表
情が変わります。彼の顔には明らかに驚きと不可解さがまざった表情があらわれたので
す。その瞬間、ルービーが手にした38口径のピストルが火を吹いたのです。「オー!
ノー!」――これがオズワルドの最後のことばだったのです。
 ケネディ大統領暗殺犯の実行犯グループの仕事はこれですべて終わったのです。しか
し、ケネディ大統領暗殺直後から「この犯人は逮捕しなければ・・・」と意欲を燃やし
たギャリソン検事は部下である主任捜査官ルー・アイヴォンに22日の夜に電話して次
のようにいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ギャリソン:ルーか、こんな遅くにすまない。いつものことだ
             が、このオズワルドのニューオーリンズでの動き
             をすぐにも探って欲しいんだ。記録に当って、こ
             の夏以降の交友関係も調べてくれ。あさって捜査
             会議を開くから、その時までに・・・・そう、日
             曜だ。11時に・・・ありがとう。ルー・・・・
                        ――映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに11月22日は金曜日であり、ギャリソン検事が捜査会議を開くといってい
るのは、確かに日曜日になります。どうもこのギャリソン検事は、仕事熱心で日曜日に
もよく会議を開くので、あまり部下の評判はよくないのです。
 24日に開かれた捜査会議の結果、オズワルドとの関係でデビット・フェリーが浮
かび、直ちにフェリーに召喚状を出したのですが上記に述べた理由で不在――結局26
日の昼になって、ギャリソン検事のオフィスに出頭してきたのです。
                                 ・・・・ [JFK028]

フェリー&ギャリソン/本人.jpg
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2006年09月04日

●フェリーの死/ギャリソンの誤算(EJ第1452号)

 デビット・フェリーは、ギャリソン検事の尋問に対して、次の3つのことを供述して
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.オズワルドは知らない。少年のとき、市民航空パトロール隊にいたということだ
   が、覚えていない。
 2.JFKが暗殺された金曜日は、スケートをやりたくなって若い友人とヒュースト
   ンに行ったこと。
 3.土曜日の夜はガルヴェストンに行き一泊した。日曜日は雁を撃ちに行ったが、一
   羽も獲れなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、その時点でギャリソン検事は関係者から詳しく事情を聞いており、そのすべ
てがウソであると見抜いてFBIの尋問のため、フェリーを拘留するのです。
 しかし、FBIはフェリーを直ちに釈放してしまうのです。そして、FBIスポーク
スマンは、わざわざテレビで次のコメントを発表します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・フェリー氏はリー・ハーヴィー・オズワルドの知人ではなく、また大統領暗
 殺事件とは何の関連もないということが判明しました。ここで、明確にしておきま
 すが、フェリー氏は尋問のためオーリンズ郡の地方検事によって拘留されたのであ
 って、その拘留にFBIは関与しておりません。当局はその件でフェリー氏を煩わ
 せたことに対して遺憾の意を表し
          ・・・――FBIスポークスマン/映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ギャリソン検事は、このFBIスポークスマンのコメントで、FBIもケネディ暗殺
事件に関与していることを知るのです。そしてその後も執拗にフェリーをマークし続け
るのです。
 しかし、CIAもFBIもフェリーが非常に危険な人物であるとして、ある筋を通し
てフェリーに圧力をかけます。これによってフェリーは精神的に追い詰められギャリソ
ンに身の安全を求めてきます。これを受けてギャリソン検事はフェリーをホテル・フォ
ンテンブローに匿うのです。
 映画『JFK』にこのフォンテンブローのシーンが出てくるのです。オリバー・ス
トーン監督によると、このホテルのシーンはフェリーとギャリソン(ジム)それにルー
・アイヴォン主任捜査官が実際にかわした会話を基に書いたそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フェリー:俺はもう逃げられない。追手はそこまで来ているんだ。もうおしまいだ。
 ルー  :まあ、ディブ、ルーム・サービスでも頼もうじゃないか。何か腹に詰め
      て、くつろげよ。好きなだけここにいてやるから。≪一部略≫
 ジム  :ディブ、単刀直入に聞いていいかな?CIAに雇われたことがあるか?
 フェリー:(笑う)何だか遠い昔のことを聞いているような言い方だな。CIAから
      は抜けられないんだぜ。いったん入ったら死ぬまでな。
 ジム  :ショーは?
 フェリー:ショーは特別待遇だ。最高ランクさ。ショー、オズワルド、キューバ人、
      みんなCIAだ。
 ジム  :ルービーはどうだ?
 フェリー:ジャックか?ジャックはヒモさ。ダラスのマフィアの集金屋だ。よくカス
      トロ に銃を送ってたよ。 ≪一部略≫        
 ジム  :誰が大統領を殺したんだ?
 フェリー:おい、よせよ。そりゃ問題がデカすぎるぜ!誰がケネディをやったか?
      それは謎また謎に包まれたミステリーだ。狙撃した奴でさえ依頼人を知ら
      ないんだぜ。わかるだろう?こんなにしゃべってたら殺されてしまうよ。
      俺は死んじまうんだ!           ―――映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ことはフェリーが恐れていたようになったのです。フェリーは自分の家で死体になっ
て発見されるのです。明らかに何者かに殺害されたと考えられますが、検死官は自然死
――脳溢血と断定しています。JFKの死後、その重要証人はことごとくこのようにし
て殺されてしまっているのです。自然死を装って・・・。
 ギャリソン検事は、このデビット・フェリーの死について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この陰謀の件で、良心の呵責らしきものを表したのはフェリーだけだった。だから
 殺されたんだ。  −−ジム・ギャリソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、フェリーと関わりのあったキューバ人の友人、エラディオ・デル・ヴァレも
殺されたという情報がギャリソン検事のところに届けられます。ギャリソン検事が尋問
を予定していた人物なのです。
 フェリーの死によって、ギャリソン検事の真相究明のマトはクレイ・ショーしかいな
くなってしまったのです。そして、1967年3月2日、ニューオーリンズ検事局はク
レイ・ショーをケネディ大統領暗殺の犯人として逮捕するのです。そしてギャリソン検
事はクレイ・ショーを裁判に持ち込むのですがさまざまな妨害にあって、陪審団はクレ
イ・ショーを無罪にします。
 しかし、ギャリソン検事はその翌日、ショーが共謀者といわれる人々と知り合いだっ
たことも会ったこともないと否定したことについて、偽証罪で起訴するのですところが
連邦政府は、ギャリソン側に「背信」ありとする珍しい処置をとり、二度目の起訴を禁
じたのです。なお、ウォーレン報告書には、デビット・フェリーもクレイ・ショーも
一切登場しないのです。               ・・・・ [JFK029]

クレイ・ショー(本人).jpg
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2006年09月05日

●ミスターXの語るJFK暗殺のウラ(EJ第1453号)

 JFKが1963年11月22日にどのように殺され、どういう経緯でオズワルドが
・人にされたかという点について、詳しく述べてきました。
 ここまでの分析においてこの歴史的事件は、ウォーレン委員会の出した結論である
「オズワルドの単独・行」でないことは明らかです。それでは、一体誰が計画し、それ
を指揮した真の・人は誰なのでしょうか。
 この疑問を解明するためのひとつのキーは、映画『JFK』の後半に登場する「ミス
ターX」のことばです。ミスターXはギャリソンに電話を入れ情報を提供したいので、
ワシントンのリンカーン記念堂で会おうといってギャリソンを呼び出したのです。
 ミスターXは、大統領を迎える1963年11月22日のダラスの警備体制は基本的
なことが何も行われておらず、それは陰謀があったという他拠であるとして次のように
述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍がシークレットサービスを補助するのは本来の任務だ。特にダラスのような危険
 な町ではね。我々ならたとえリムジンに・護用屋根をつけさせていたとしても、少
 なくとも100人から200人の警備用具は歩道に配置する。それが当たり前だ!
 そして数日前に現地に行って、ルートや周辺のあらゆるビルを点検る・・・
 ディーリー・プラザを見下ろせるビルの窓を開けることなど絶対に許い・・・
 絶対に・・・こっちも狙撃手を一帯に配置させる。
 全員無線機を持ち、窓が開こうものなら即、連絡が入る。群集の監視も怠らない。
 手荷物や丸めた新聞、腕にかけたコートなど。ルート沿いでは傘を開くことも許さ
 ない。大統領のリムジンには時速16キロを保たせる。特にヒューストン通りから
 エルム・ストリートへ入る急カーブではね。だが何も実行されなかった。警備ルー
 トの基本が無視された。ダラスに大掛かりの陰謀があったという他拠だ。
                            ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにミスターXはケネディ大統領の暗殺には陰謀があったと指摘し、ギャリソ
ンに「君は近づいている。君が思っている以上に接近している」と、ギャリソンの捜査
の方向の正しさを賞賛したのです。
 そして、「ケネディは、体制にとってなぜ危険だったのか」と問うギャリソンに対し
てミスターXは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  61年、私はピッグス湾事件の後、国家安全保障覚書55、56、57の策定に
 参加した。これは極めて重要な文書で、最高の国家機密だったが、要するにケネデ
 ィが統合参謀本部のレムニッツァ将軍に指示したもので、今後は平和時の準秘密工
 作はすべて統合参謀本部長が責任を持つというものだ。これで、CIA支配は終わ
 ることになる。                    ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ケネディはCIAの解体を指示したのです。これによって、名状し難い衝撃
波がワシントン上層部に広まったのです。それまでは、平和時の準秘密工作はCIAが
やっていたのを軍にやらせる――これでは軍産複合体としては困るわけです。
 なぜ、困るのか。これについて、ミスターXは次のように続けるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それに、1963年にケネディの打ち出した予算削減案も見過ごせない。25遜の
 52の軍事施設、海外の21の基地を撤去するというものだ。これは大金だよ。
 ベトナムでどれくらいヘリコプターを失った?これまでに、3000機だよ。それ
 を作っているのは、ベル・ヘリコプター社だ。ベルの社長は?ベル社は破産寸前だ
 ったが、ボストンのファースト・ナショナル銀行がCIAに働きかけてベル社にベ
 トナム用のヘリコプターを開発させたために甦ったんだ。
 F−V戦闘機は?フォートワースのゼネラル・ダイナミックス社だ。その社長は?
 ベトナム開戦以来の国・費は?750億ドルから1000億ドルだ。終結までには
 2000億ドルは費やす。1950年は国・費130億ドルだ。戦争もなく、金も
 ない。社会を結束させる原則は戦争だ。
 JFKが暗殺されたほんの4日後にジョンソンは、国家安全保障覚書273に署名
 した。これはケネディの撤退政策を根本から覆すもので、北ベトナムへの謀略のゴ
 ーサインとなった。
 それがトンキン湾事件を誘発する。あの文書でベトナム戦争は本格化だ。
                            ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このミスターXは実在の人物といわれています。Xはケネディ政権時代を通じて、統
合参謀本部付きの特殊戦略局長を務めたフレッチャー・ブラウティ米国空軍大佐と思わ
れます。しかし、映画とは違い、ギャリソンがブラウティに実際に会ったのは、クレイ
・ ショー裁判の数年後ということです。
映画『JFK』では、ミスターXは最後にギャリソンに対して次のようにアドバイス
して去っていきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もう選択の余地はないんだよ。君は国家の安全保障に脅威を与える人物になってい
 る。本来なら殺されているところだが、君は脚光を浴びている。だから連中は殺す
 代わりに、君の信用を台無しにするつもりだ。連中はワシントンの随所でその手を
 使っている。≪一部略≫
 いいか。起訴に持ち込むしかないんだ。何としてもやれ。逮捕して波乱を巻き起こ
 せ疑問を抱いている連中の心を掴むんだ。そうすれば大衆もついてきて政府側も折
 れる。いいか、大衆は心の底では真実を求めている。そして真実は君の側にある。
 成功を祈る。                     −−ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                                     ・・・[JFK030]

〓〓〓[??.jpg
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2006年09月06日

●JFK暗殺とニクソンの関係(EJ第1454号)

 結局JFKの暗殺を計画し、推進したのは、軍産複合体の手先であるCIAとFBI
であり、実際に暗殺を実行したのはマフィアのシンジケートであるといわれています。
さらにもうひとつ陸軍諜報部という組織も一枚噛んでいるのです。
 軍産複合体を中心とするこういう諜報組織は、ちょうど日本の官僚組織のように堅固
な基盤が出来上がっていて、たとえ大統領といえどもその基盤を破壊して改革を進める
ことはきわめて困難なのです。彼らは自分たちにとって都合の良く動いてくれる大統領
をつねに求めているのです。つまり、本当に米国を動かしているのはCIAなどの「見
えざる政府」といっても過言ではないのです。
 しかし、ケネディ大統領は驚くべき不屈な実行力でその基盤を破壊しようとし、弟の
ロバート・ケネディとともに本気で取り組んだのです。それと平行して外交政策では、
ベトナム戦争からの撤退を行うとともにソ連とは融和政策を取り、キューバとさえ関係
正常化の努力を積み重ねて、戦争そのものをなくそうと緊張緩和に努力したのです。こ
れには軍産複合体は強い危機感を抱いたのです。「このままでいくとまずい」と…。
 ケネディ兄弟の父親であるジョセフ・ケネディは、一代で富を築いたやり手であって
息子たち以上にケネディ家から大統領を出したかった人なのです。そのため、目標を達
成するためには手段を選ばずで、JFKを大統領にするためにマフィアの支援をも積極
的に受け入れていたのです。
 ニクソンとの大統領選挙のさい、ケネディは米国史上初のテレビ討論で好印象を与え
たことが勝因であったといわれていますが実際には接戦となった各州においては、マフ
ィアによる力ずくの票の奪い合いが行われていたのです。
 そして、最終的には11万8000票の僅差でケネディが勝ったのです。もし、マフ
ィアが集めたとされる30万票がなければケネディ大統領は誕生していなかったもの
と思われます。
 しかし、大統領になったJFKにはやりたいことが山ほどあったのです。とくに「政
治の信頼性を回復すること」は彼にとって最大の政治課題であり、あの有名な「人民の
人民による人民のための政治」を何とかして実現しようとしたのです。
 そのために「見えざる政府」といわれるCIAを解体させるとともに、時の政権との
癒着を深めようとするマフィアとの関係も断絶するため、弟のロバートを司法長官に任
命して、本気で「マフィア一掃キャンペーン」を推し進めたのです。これではマフィア
としては、裏切られたと思って当然でしょう。
 子供の頃から金に不自由なく育ち、ハーバードで磨き上げられて政界入りしたJFK
には根になる思想というものがあったのです。それが「グレース・アンダー・プレッシ
ャー/圧力の下でも優雅さを保つ」という独特のケネディ・スタイルを生んだといえる
のです。
 歴代の大統領を見ても、そういう独自のスタイルを持っている人が多いのです。フラ
ンクリン・ルーズベルトには東部のエリート社会が背景についていたし、アイゼンハワ
ーには軍部が、ジョンソンでさえもテキサスの封建社会がバックにあったのです。
 しかし、ニクソンにはその生い立ちからいってもそういうもの何もなかったのです。
カルフォルニアで生まれ育ち、ノース・カロライナで教育を受け、ニューヨークで職に
つくというごく普通の人だったといえます。
 そういう人が熾烈な政界で厳しい生存競争に勝ち抜くには、強力なサポートが不可欠
だったのです。そのため、ニクソンはマフィアでも何でも利用できるものはすべて利用
したのです。そういう点では、ケネディの父親ジョセフ・ケネディにその考え方は似て
いるといえます。
 ところで、JFKの暗殺にはニクソンがかかわっているという説があるのです。JF
Kの暗殺をオズワルドの単独犯行であると決めつけたウォーレン委員会のメンバーは、
いずれもニクソンと近い関係の人物で占められ、シンジケートとの仲も古いのです。ニ
クソンは、明らかにマフィアであることがわかる人物からも平気で献金を受けるダーテ
ィーな政治家として知られています。
 このニクソンの評判はすこぶる良くないのです。以下は、米国の著名人によるニクソ
ン評です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ・ニクソンって奴はペテン師で、とんでもない嘘つきだ。誰でもわかってい
    ることさ。                  ――ハリー・トルーマン
   ・ヤツは絶対に大統領になれん。ヤツを好きな人間はひとりもおらんからだ。
                        ――ドワイト・アイゼンハワー
   ・数ある大統領候補の中でも彼を大統領にするほどキケンなことはない。
                        ――ヘンリー・キッシンジャー
   ・もし、私が大統領として、この国のために何もできなかった としても、
    ディック・ニクソンからこの国を救ったことだけは確かだ。
                          ――JFKの選挙演説より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニクソンは、1960年の大統領選挙でケネディに破れ、1968年に大統領選に再
挑戦します。このときは、ロバート・ケネディが最後のカルフォルニア予備選でユージ
ン・マッカーシーを破り、民主党候補者の代表を勝ち取っていて、本番ではロバート・
ケネディの勝利は間違いないといわれていたのです。ところがロバートが暗殺され、ニ
クソンはヒューバート・ハンフリーを破って大統領になっています。
 その4年後の1972年は、ニクソン、マクガバン、ウォラスの3人の接戦となった
のですが、ニクソンにとって最大の敵は、彼と政治思想が似ているジョージ・ウェラス
だったのです。無党派層の36%がウォラス支持となり、ニクソンは苦戦を強いられま
す。しかし、ウォラスは選挙運動中に何者かに狙撃され、下半身が不随となって選挙か
ら降りざるを得なくなったのです。ニクソンは2回とも対抗候補への銃撃の恩恵を受け
たのです。                       ・・・ [JFK031]


リチャード・ニクソン元大統領.jpg
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2006年09月07日

●リチャード・ニクソン黒幕説もある(EJ第1455号)

 『大統領の死』――ウイリアム・マンチェスターという著名な伝記作家で歴史学者の
書いた本です。この本の中で著者は、1963年11月22日――グラスでJFKが
暗殺されたとき、他の政治家たちがどこで何をしていたかについて記述しています。
 それによると、リチャード・ニクソンは、その日の朝ダラスを発ってニューヨークに
向かっていたと書いているのです。しかしウォーレン委員会では、暗殺日前後の政治家
たちの所在を調べているのですが、マンチェスターの指摘とは異なるのです。
 ウォーレン委員会の証拠文献1973号によると、ニクソンは20日にダラスを発っ
てニューヨークに向かっていると記録されているのです。この記録は暗殺の翌年の2月
28日にFBIニューヨーク支局がニクソンに会って事情を聴いており、本人からの回
答であるというのです。
 国際ジャーナリストである落合信彦氏は「JFK暗殺の主犯はニクソンではないか」
という説を立てておられます。落合氏は実際にJFK暗殺事件の関係者に可能な限り会
っており、その分析は実に緻密です。あのギャリソン検事にもインタビューをしている
のです。EJのここまでの記述も落合氏の調査とその分析を参考にさせていただいてい
ます。
 さて、マンチェスターが本に記述しているニクソンの足取りは暗殺日の11月22日
の朝ダラスを出発しているというのに対しウォーレン委員会の証拠文献1973号を
見ると、次のようになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪ウォーレン委員会の証拠文献1973号≫
 1963年にテキサス州ダラス市にいた唯一の日は、ケネディ大統領暗殺のあった
 2日前(の1日のみ)である。
              ――FBIニューヨーク支局副局長ジョン・マローン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どちらが正しいのでしょうか。本人がそういっているのであるから、20日が正しい
のではないかと普通は考えます。しかし、落合氏はニューヨークにあるアメリカン航空
本社に直接行き、事実を確かめているのです。その結果わかったのは次の事実です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           ダラス出発日:1963年11月22日朝
           アメリカン航空/ニューヨーク行き82便
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 やっぱりニクソンはウソをついていたのです。FBIが事情を聴取したのは暗殺の翌
年の2月のことですから忘れるはずがないのです。もちろん、ニクソンが暗殺日の22
日にダラスにいたとしても、それをもってニクソンが主犯であるとはいえないことは当
然のことです。しかし、それなら、なぜウソをついたのでしょうか。本当のことをいっ
ても別に問題はないはずです。
 このニクソンのウソを不思議に思った落合氏は、ニクソンのダラスでの足取りを徹底
的に調査しています。そうすると、ニクソンがダラスに来た日が暗殺日の2日前である
11月20日だったことがわかったのです。これでウォーレン委員会の証拠文献197
3号が事実と異なることが証明されたのです。
 それではなぜニクソンはダラスに来たのでしょうか。
 当時ニクソンは、ペプシコーラ社の顧問弁護士をしており、ダラスに行ったのは清涼
飲料業者の大会に出席するためだったのです。このときのニクソンは失意のドン底にあ
ったのです。
 というのは、ニクソンは1960年の大統領選でケネディに敗れただけではなく、1
962年にはカルフォルニア州知事選にも敗北していたからです。つまり、ニクソンは
このとき政治的空白期間にあったのです。
 暗殺日前後のニクソンの行動については別の情報があります。国際ジャーナリストの
浜田和幸氏の最近の著作『黒いホワイトハウス』(祥伝社刊)には次のように記述され
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ニクソン大統領は「ペプシコーラ」の社外取締役を務めており、ケネディの暗殺
 の当日、ペプシコーラの社外取締役会がダラスで開催されていた。
  取締役会のあと、引き続いてペプシコーラの全販売店の代表たちが集まる、年一
 回のペプシコーラ全国大会が開かれることになっていたが、それが暗殺事件によっ
 て中止を余儀なくされた。  ――浜田和幸著『黒いホワイトハウス』(祥伝社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、落合氏は22日のアメリカン航空に出向いて、搭乗記録を調べており、22
日の早朝に出発したことは間違いないと考えられます。
 さて、ペプシコーラ社の大会には、ニューヨークのクイーンズ地区にペプシコーラ販
売会社を所有しているエドワード・メイヤーズが来ていたのです。このことから、ニク
ソンとエドワード・メイヤーズは付き合いがあったと考えられるのです。
 エドワード・メイヤ−ズにはローレンス・メイヤーズという弟がいるのですが、その
弟とエドワード・メイヤ−ズの息子のラルフ・メイヤーズの3人がJFK暗殺日の前日
ダラス市内のカバナ・モテルに宿泊していたのです。
 それがなぜ問題かというと、ローレンス・メイヤーズは、あのジャック・ルービー
の友人であり、ラルフ・メイヤーズは陸軍の諜報員だったからです。しかも、暗殺前夜
にメイヤーズ兄弟とラルフ・メイヤーズ、それにジャック・ルービーがカバナ・ホテ
ルで夕食をとっているのです。
 それに加えて、暗殺の前夜そのカバナ・ホテルには、シンジケートのボス、ユージン
・ヘイル・ブレイディングが名前を変えて宿泊していたのです。このような状況から、
JFK暗殺を間接直接に指揮したと見られるグループがすべてダラスに顔を揃えていた
のは注目すべきことです。そして、疑惑の黒幕と見られるニクソンまでダラスにいたの
です。・・・ [JFK032]

落合氏と浜田氏の本.jpg
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2006年09月08日

●すべてのキーワードはキューバにある(EJ第1456号)

 2004年の米国の大統領選挙――どのような状況になってもブッシュ再選は揺るが
ない――こういわれてきたのですが、終盤において「無線機疑惑」が報道されブッシュ
陣営は一層追い込まれたように見えたものです。
 それでもブッシュ大統領は、自分は必ず再選されるという確信を持っており何ら動揺
を見せませんでした。軍産複合体、ネオコン一派、キリスト教原理主義などなど――
ブッシュ大統領が再選されないと困る団体がたくさんあるからです。このブッシュ陣営
を支える勢力は、かつてケネディに対抗してニクソンを支持した勢力と通じるものがあ
るのです。そして、結果はブッシュ陣営の圧勝でした。
 JFK暗殺に関して書かれている多くの本は、どの本も真実に迫っていないと感じま
す。何しろJFK暗殺の犯人としてオズワルド以外に逮捕されたのはクレイ・ショーだ
けであり、しかも彼は無罪になってしまったからです。
 ケネディ本といわれるほとんどは、ウォーレン報告書をベースにしてその真偽を論じ
たものです。しかし、ウォーレン報告書は真実を伝えていないのです。真相に迫る証拠
はすべて抹殺し、供述調書の改ざんなどもかなり行われているのです。そのようなもの
を下敷きにしても何も見えてこないと考えます。
 その中にあって、一番真相に迫っていたと考えられるのは、落合信彦氏の説だけであ
ると思います。落合氏は、ケネディ暗殺はミクロ的に見つめても、決して究明されない
といっています。彼は、ケネディ暗殺を含む次の3つの事件をつなぎ合わせて初めてそ
の全体的な構図が見えてくるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ジョン・F・ケネディ 暗殺事件 ・・・ 1963年
         ロバート・ケネディ  暗殺事件 ・・・ 1968年
         ジョージ・ウォラス暗殺未遂事件 ・・・ 1972年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 落合氏は、これら3つの事件すべてにニクソンがからんでいるのではないかと見てい
るのです。
 ニクソンの立場から考えてみましょう。
 彼は1960年の大統領選挙で負けるとは露ほども考えていなかったのです。19
46年に初めて下院に当選して以来、順風満帆に政界のはしごを登り続けてきていたか
らです。
 しかし、相手は当時無名のJFKです。ニクソンが負けるはずはないと考えても不思
議はなかったのです。とくに激戦だったのはイリノイ州です。その差わずか9000
票――この僅差でケネディにイリノイ州を取られたのです。納得できないニクソンは、
選挙管理委員会に提訴して票の数え直しを求めたのです。委員会ではニクソンの求めに
応じ、票の数え直しをしたのですが、それでも結果は変わらなかったのです。
 ニクソンは次のような人生感を持っていたといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        大切なことは、闘技場の外にいる批評家たちや見物客の言葉で
        はない。大事なのは、そこに出て闘い、ノックアウトされても
        最後まで戦い抜く勇気と闘志を持つということである。
                         ――リチャード・ニクソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ニクソンは「人生は闘技場である」と考えているのです。そこには勝利しか
価値はないのです。いかなる方法で相手を倒そうが、また、そのさいに自分が血だらけ
になろうが、勝ちさえすれば、それらはすべて正当化されると考えていたのです。
 こういう人生感を持つニクソンが、勝つために軍産共同体やマフィアやシンジケート
の力を借りても何も不思議はないのです。もし、それでも破れれば、それは選挙の敗北
にとどまらず、人生の敗北につながったのです。
 1960年の大統領選に敗れたニクソンは、その2年後の1962年にカルフォルニ
ア知事選に出馬し、起死回生を図ったのですが、ここでもケネディは現職大統領の人気
と実力をフルに生かして、ニクソンの対立候補であるパット・ブラウンを当選させ、ニ
クソンはケネディに二度にわたって敗れているのです。このような経過を知ると、ニク
ソンとしてはケネディは自分の人生の敵と考えても不思議ではないと納得できます。
 しかし、大統領暗殺などという大それた犯罪をニクソンが一人でやれるはずはないの
です。それにはCIAやFDI、そしてその背後にいる軍産複合体、それにマフィアや
シンジケート――それらの利害が一致したからこそ、JFK暗殺という途方もない国家
的完全犯罪が成立したのです。ニクソンはそれに乗ったに過ぎないのです。
 それにしてもJFKは、国家やマフィアまでを、なぜ、敵に回してしまったのでしょ
うか。ここまでにもその理由についてある程度は述べてきていますが、まだ、十分では
ないと思います。そもそもなぜマフィアが、からんできたのでしょうか。
 JFKのテーマは近く終了しますが、最後にこの点を明らかにしておきたいと思うの
です。結論からいうと、すべてのキーワードは「キューバ」なのです。とくにこの事件
にマフィアが深くからんできた原因はキューバにあるのです。
 1957年のことです。合衆国上院にはマクレラン委員会というものがあり大がかり
な組織犯罪の調査を行っていたのです。この委員会のメンバーの中で最も積極的に動い
たのが、ジョン・F・ケネディ上院議員だったのです。そして、この委員会の首席顧問
として検事役を務めたのが、司法省から派遣されたロバート・ケネディだったのです。
                        ・・・ [JFK033]

暗殺されたロバート・ケネディ.jpg
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2006年09月11日

●労働組合IBTとマフィアの関係(EJ第1457号)

 マクレラン委員会が最初に手をつけたのは、労働組合の腐敗を調査することでした。
最大の標的は米国一のメンバーシップを誇るチームスター・ユニオンであり、そのトッ
プに君臨するジミー・ホッファ委員長だったのです。
 チームスター・ユニオンは正式には国際トラック運転手労働組合――IBTというの
ですが当時のメンバー数は250万人をはるかに超えていたのです。IBTは次の省略
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         IBT=International Brotherhood of Teamsters
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうして労働組合がマクレラン委員会の標的になったのでしょうか。それはマクレラ
ン委員会の目的が組織犯罪の撲滅にありIBTがマフィアとひどく癒着していたからで
す。
 なぜ、労働組合がマフィアと癒着するのでしょうか。それは、IBTの持つ巨額な資
金――そのほとんどは年金基金にあったのです。
 ジミー・ホッファが委員長のときにIBTは年金制度を導入し雇用者は労働者一人当
たり2ドルを毎週払い込むようになったのです。当初は1ヶ月当たり払い込み額は80
万ドル程度だったといわれていますが、組合員の増加によってその額は急激に膨れ上が
り、1960年代半ばには月に600万ドルを超えるレベルに達していたのです。
 一般的にいってこの種の基金は銀行に委託され、公債の購入などによって利子を積み
重ねるという堅実な運用が行われるのがつねなのですが、ホッファは自らが銀行になっ
て、直接IBTの利益につながる企業や個人に貸し付ける方が有利であると判断したの
です。当初ホッファの運用は好調で組合員の多くは「ジミーにまかせておけば安心」と
いう信用が生まれたのです。ホッファは典型的なカリスマ型のリーダーだったといえま
す。
 当時ホッファにはアレン・ドーフマンという忠実な専従がおり、彼はIBTの健康保
険や障害保険の保険料管理と運用をまかされていたのです。このドーフマンが関与する
保険企業――アマルガメイテッド・インシュアランス・エイジェンシーが莫大な年金基
金の投資先に選んだのがラスベガスなのです。
 ここからIBTとマフィアの親密な関係が生まれることになるのです。ラスベガスの
カジノ・ホテルの建設資金をIBTが融資して、仲介のドーフマンは多額のリベートを
受け取り、そのかなりの部分が裏金としてホッファに還流するかたちの腐敗の回路が形
成されていったのです。
 スターダスト、フリーマント、デザート・イン、デューンズ、アラジン、シーザース
バレス、サーカス・サーカスなどの有名なガジノ・ホテルは、すべてIBTの年金基金
からの融資を受けていたという事実があるのです。
 マクレラン委員会を通じてのケネディ兄弟とIBTのジミー・ホッファとの因縁の対
決は、ケネディが大統領になったときに頂点に達するのです。
 ロバート・ケネディは、マクレラン委員会で得た情報に基づきホッファを法廷に引き
ずり出すことに成功します。そして、ホッファを背任横領罪で起訴するのですが、もち
ろん、ホッファも全力で防御したのです。結果は陪審員の意見が分かれて未決となりホ
ッファは放免されます。しかし、こんなことであきらめるようなロバート・ケネディで
はないのです。
 ロバートは陪審員の意見が分かれた原因を追究し、その裏に陪審員へのホッファの脅
迫と猛烈な買収工作があったという事実を掴み、再び彼を法廷に引きずり出したので
す。そして、陪審員工作罪で8年間刑務所に送ったのです。
 日歯連事件で甘さを見せる日本の検察と違って、ロバートの追求は「悪は絶対に許さ
ず」という強い信念に基づいており、一般米国民からは大喝采を浴びたのですしかしそ
の一方で、ホッファをはじめとするIBT幹部やマフィアからはケネディ兄弟は憎悪の
対象となったのは当然といえるでしょう。
 しかし、このホッファは1971年に恩赦で解放されてしまうのです。この決定をし
たのは他ならぬ当時の大統領リチャード・ニクソンだったのです。
 しかし、悪いことはできないもので、ホッファは1975年7月30日に行方不明に
なり、今もってそのままです。また、そのホッファの下でエージェントとして縦横にウ
デを振るったアレン・ドーフマンは、1983年1月に何者かにピストルで射殺されて
いるのです。マフィアと付き合う者の末路はこうなるのです。
 続いて、マフィアのことを述べなければならないと思います。EJのテーマとしてJ
FK暗殺事件を取り上げようとしたとき、次の2つの方針を立てたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.マフィアやシンジケートのことには触れない。
        2.JFKにまつわる女性の問題には言及しない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、分析を進めるうちに、1のマフィアに関してはそれを避けると、なぜ、ケネ
ディ兄弟が暗殺されたのかについての謎を解明できないことがわかったのです。
 国家権力が存在するためには、洋の東西を問わず、国家権力は裏の世界の実力者とつ
ながるものなのです。日本においてもよく「影の実力者」という言葉が使われています
が、この影の実力者が裏社会の実物であることは多いのです。
 1940年代初頭の米国の場合、マフィア組織と国家権力――とくにCIAとのつな
がりはかなり古く、それはCIAの前身であるOSSの時代までさかのぼるのです。
 1950〜60年代のマフィアやシンジケートについて述べるとき、キューバを抜き
には語れないのです。そして、このキューバ問題が結果とてしてケネディ兄弟の命を奪
ったのです。                     ・・・・ [JFK034]

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2006年09月12日

●キューバ問題がマフィアに与える影響(EJ第1458号)

 キューバは1492年にコロンブスの第1回の航海のときに発見された島です。以来
1902年までスペインの植民地だったのですが、米西戦争の米国勝利によって190
2年5月20日に独立しています。しかし、それはスペインに代わる米国による支配の
はじまりだったのです。
 米国は、独立は認めるが、米国による内政干渉権やキューバ各地に米国の軍事基地を
置くことを認めさせたのです。これでは本当の独立とはいえず、実質的な米国支配が続
きます。そして米国支配はフルヘンシオ・バチスタがクーデターで政権を奪取した19
52年に頂点に達するのです。
 このバチスタ政権は、米国政府、米国企業、マフィアと組んで富を独占し、大量の富
が米国に流れる仕組みを作ったのです。このバチスタのバックにいて、政権奪取を支え
たのがメイヤー・ランスキーという人物です。
 1920年代から30年代にかけて米国のマフィア組織はファミリーと呼ばれるグル
ープに分かれてお互いに反目し合っていたのです。これを強烈なリーダーシップでひと
つにまとめて組織化したのが犯罪組織の帝王と呼ばれるメイヤー・ランスキーだっので
す。
 ランスキーが組織化したマフィア組織は、防諜工作や港湾設備の共同作業においてC
IAに接近しCIAも各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになっていった
のです。そういう背景もあって、CIA(米国政府)はキューバのバチスタ政権樹立と
いう功績のあるメイヤー・ランスキーにキューバにおける利権のほとんどをまかせたの
です。かくして、カジノ、麻薬、売春などマフィア組織にとってはキューバは「金の成
る木」になったのです。しかも、メイヤー・ランスキーはそれを一人占めにせず、当時
国外追放の身であったラッキー・ルチアノや南部を押さえていたカルロス・マルセロ、
マイアミのボスであるサントス・トラフィカンテにも参加するよう呼びかけたのです。
 このようにキューバはランスキーによってギャンブル天国化したのですが、彼はさら
にキューバをヘロインの中継基地としても育て上げているのです。それまでヘロインは
フレンチ・コネクションといわれるフランス経由が中心だったのですが、取り締りが厳
しくなっており壊滅寸前だったのです。そのため、このハバナ・マイアミルートは脚光
を浴びたのです。
 1957年の段階で、ハバナの裏社会はランスキーを頂点とする強力なシンジケート
によって独占され、彼らに驚くべき利益をもたらしたのです。つまり、マフィアにとっ
てキューバ問題とは自らの死活を制する問題だったのです。
 このようなキューバの状態を憂い、半植民地化の克服を夢見てある若き弁護士が立ち
上がります。その弁護士こそフィデル・カストロであり、一時は逮捕・投獄されますが
恩赦によって出獄すると今度は反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成し、メ
キシコに亡命します。
 このメキシコの地で、カストロはアルゼンチンの医師チェ・ゲバラと出会うのです。
そして高度なゲリラ戦闘訓練を受け、1956年12月にヨット「グランマ」号に乗っ
てキューバに上陸し、シエラ・マエストラ山脈を拠点として政府軍を相手に2年間にわ
たってゲリラ闘争に明け暮れたのです。
 マフィアたちは、はじめはカストロによる政権転覆行動を軽く見ていたのです。まさ
か、バチスタ政権が倒れるはずがないと考えていたのです。しかし、1959年1月に
そのまさかが現実化してしまうのです。
 カストロによる革命政権ができる直前、危険を感じてメイヤー・ランスキーは米国に
逃れたのですが、キューバ利権を温存するため、弟のジェーク・ランスキーとサントス
・トラフィカンテはあえてキューバに残しておいたのです。
 そして予想通りカストロはジェークとトラフィカンテを投獄したのですが、その理由
は彼らがシンジケートのボスであったことではなく、バチスタと親密な関係ということ
で捕えたのです。そのためか、キューバの刑務所での待遇はかなり良好であったといい
ます。キューバを制圧した時点でカストロは、キューバを共産化するつもりはなかった
のです。したがって、シンジケートに対して寛容な態度で望み、彼らの商売は自由に続
けられていたのです。それどころか、カストロは部下のひとりをギャンブル監督官とし
て任命して何かと便宜をはかったのです。この監督官に任命された人物はフランク・ス
タージェスというのです。このフランク・スタージェス――のちにウォーターゲートの
犯人の一人として逮捕されているのです。カストロの部下がなぜニクソンの腹心なので
しょうか。一体ウォーターゲート事件とは、何だったのでしょうか。これについてはあ
とで触れます。
 もうひとつカストロにとらわれていたサントス・トラフィカンテとジェーク・ランス
キーのところに頻繁に訪れていた人物がいるのです。その人物こそJFK暗殺事件の実
行犯の一人ジャック・ルービーだったのです。このようにキューバ問題に登場する人物
は、何らかのかたちでJFK暗殺事件にからんでいるのです。
 メイヤー・ランスキーは全米のシンジケートを集めてカストロの首に100万ドルの
賞金をかけ、亡命キューバ人に対し、武器、弾薬、財政援助などの積極的な支援を行い
ます。これにCIAがからんでいることについて既に述べた通りです。
 この支援を受けて亡命キューバ人たちはそれらの武器を使ってキューバに対し、連日
のように攻撃を行ったのです。しかし、この作戦は裏目に出てしまうのです。カストロ
は、この攻撃のバックには米国がいると見抜き、当初は考えていなかった共産化を急速
に進めようとします。そして国内の外国企業の共有化を推進したのです。これは、シン
ジケートにとって、キューバ利権のすべてを失う大打撃となったのです。  ・・・
[JFK035]

キューバ共和国.jpg
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2006年09月13日

●なぜ、3者の利害は一致したのか(EJ第1459号)

 共産化をはじめたキューバ政府は投獄していたマフィア幹部――サントス・トラフィ
カンテやジェーク・ランスキーを合衆国に強制送還し、永久追放処分にします。これ
にメイヤー・ランスキーは激怒し、全米のシンジケートのドンを集めて会合を開き、カ
ストロの首に100万ドルの賞金を賭けたのです。
 さらに、キューバ政府は、国内からの米国企業の排除を加速させたのです。米国資本
の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を続々と国有化をは
じめたのです。さらに、コカコーラ、グッドイヤー、ユナイテッドフルーツ、ジェネラ
ルフーズ、プロクター&ギャンブル社などの財産も国有化されてしまったのです。
 これらは軍産複合体の中堅を占める企業なのです。軍産というと、ロッキードやジェ
ネラル・ダイナミックスを想像しがちでですが、タイヤ会社や食糧、飲料会社にとって
軍はつねに安定した消費を提供する最高の市場なのです。これらの大企業がカストロに
よって没収された財産は7億ドルに近かったのです。
 しかし、シンジケートにとっては7億ドルどころではなかったのです。シンジケート
が蒙った損害はギャンブルの上がりだけでも年間1億ドル、全カジノの没収、売春やヘ
ロインからの上がりを入れると年間数十億ドルの額にのぼったのです。
 これらの額もさることながら、ランスキーやマルセロにとって最も痛かったのは、せ
っかくの東南アジアからのヘロインの中継基地としてのハバナが使えなくなってしまっ
たことなのです。麻薬ルートを再検討しなければならなくなったからです。
 さて、数多くの企業を国有化されるという事態に、米国政府もキューバとの外交を断
絶したり、輸入を禁止するなどの対応策をとることになります。この時点で、米国政府
とマフィア組織との利害は一致してくるのです。
 ときあたかも大統領選の最中であり、ニクソンとケネディが激しい選挙戦を展開中だ
ったのです。ニクソン、ケネディ両候補ともスローガンとして「カストロ打倒!キュー
バ解放」を掲げていたので、シンジケートとしては、ニクソン、ケネディのどちらが勝
ってもよかったのです。キューバ進攻を実現し、自分たちが築いた利権を取り戻してく
れる政権を心から望んでいたのです。そのため、この大統領選挙へのマフィア組織の肩
入れは、それこそ尋常ではなかったのです。
 その一方でCIAが主導して、カストロ暗殺計画の推進とともに、ピックズ湾進攻作
戦の準備は着々と進められていたのです。もちろん、ニクソン勝利の前提ではありまし
たが・・・。しかし結果はケネディの勝利――それでもCIAも、マフィア組織も、ス
ローガン通り、ケネディ大統領は作戦遂行の先陣に立って作戦を推進してくれると思っ
ていたのです。
 しかし、既に述べたように、ピッグス湾作戦でケネディは先陣に立つどころか、正規
軍の投入を拒否して作戦は失敗してしまう始末です。これはCIAやマフィア組織にか
ら見ると、大統領の完全な裏切り行為であると感じたはずです。
 それだけではないのです。こともあろうにJFKはキューバを支援するソ連と融和策
を取り、それをキューバにまで適用しようとしていたのです。ケネディにこの決心をさ
せたのは1962年10月のキューバ危機だったといわれています。フルシチョフとの
ぎりぎりの折衝でこの危機を乗り切ったJFKはソ連との平和共存を画策したのです。
全世界はこれを歓迎し、恒久的平和の到来を夢見るようになったのです。
 さらにJFKは本気でベトナムからの撤退を検討しはじめるのです。これはメイヤー
・ランスキーを頂点とするシンジケートにとってとうてい耐えられるものではなかった
のです。なぜならキューバに戻る夢を絶たれ、ヘロインのハバナルートも使えなくなり
さらにベトナムからの撤退によって、密輸の母港であるサイゴンまで手離すことになる
かもしれないのです。
 さらに、マクレラン委員会で得た情報をベースにして、JFKは弟のロバート・ケネ
ディ司法長官と組んで、マフィア組織の壊滅にまで乗り出したのですから、ケネディ兄
弟が彼らの憎悪対象となっても不思議はないといえます。
 別の意味において、軍部、CIAにとっても同じ思いだっといえます。彼らにとって
ソ連と融和政策を取るなどの共産主義を容認するがごとき政策は絶対容認できないこと
に加えて、産業界にとっても平和は好ましい事態ではないのです。同じ平和といっても
自国の平和が揺るぎない条件下での緊張状態が好ましい事態なのです。かくして、シン
ジケート、軍産複合体、CIAの利害は完全に一致したのです。ケネディが大統領にな
る前CIAとシンジケートのジョイント・オペレーション「カストロ暗殺画」が練られ
ており、実行に移されたのですが、成功していなかったのです。この計画ではカストロ
を射殺するのではなく、毒殺する計画であり、実際に薬まで用意されていたのです。
 軍産複合体のトップの間で密かにJFK暗殺の計画が練られたとき、その具体的な実
現手段として浮上したのは、既に出来上っていた「カストロ暗殺計画」だったのです。
そのとき、アレン・ダレスは既にCIAを去っていたのですが、彼の腹心のリチャード
・ヘルムズがCIAの作戦部長を務めており、ヘルムズがこの作戦遂行の中心になった
と考えられるのです。時のCIA長官はケネディが任命したマコーンが務めていたので
すが、彼はつんぼ桟敷に置かれていたのです。
 「カストロ暗殺計画」を使ってJFKを暗殺する――計画のターゲットをキューバ
首相からJFKに切り換えれば、計画はそのままで機能するのです。この計画は、軍産
複合体の企業のトップであるハワード・ヒューズとダラスの石油成金H・L・ハントに
も伝えられているはずです。ハワード・ヒューズとH・L・ハントはいずれもその政策
によってケネディ政権に強く反発していた人物なのです。 ・・・ [JFK036]


フィデル・カストロ.jpg

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2006年09月14日

●ニクソンとジャック・ルービーの関係(EJ第1460号)

 JFK暗殺、いやケネディ兄弟暗殺といいかえましょう。このケネディ兄弟暗殺にニ
クソンが深くからんでいる――この説を公式に発表しているのは、私の知る限り落合信
彦氏だけです。しかし落合氏もニクソンを主犯と断定しているわけではなく、その可能
性があるという表現にとどめています。
 そこで、ニクソンについて情報を集めてみたのです。そうすると、ニクソン関与説を
裏付ける事実が明確に浮かび上がってきたのです。もちろんニクソンが直接暗殺計画を
立てたわけでも、手を下したわけでもないのですが、ニクソンは少なくともケネディ兄
弟暗殺に無関係であるとはいえないのです。
 10月15日のEJ第1455号で、1963年11月22日にニクソンがダラスに
いたことについて述べています。その前日の21日、エドワード・メイヤーズと弟のロ
ーレンズ・メイヤーズ、息子で陸軍諜報員であるラルフ・メイヤーズの3人とジャック
・ルービーがカバナ・ホテルで夕食の卓を囲んでいるということも書いています。これ
は、落合氏の情報です。
 ニクソンはペプシコーラ社の役員ですからペプシ社の大株主であるエドワード・メイ
ヤーズを知らないはずはないのですが、オズワルドを射殺したジャック・ルービーを知
っていたとは思えないのです。まさか、副大統領であり、大統領候補であるニクソンが
シカゴのギャングに過ぎないジャック・ルービーと面識があるとは思えないでしょう。
 ところが、それがあるのです。
 その関係を発見したのはマサチューセッツ州ウスターにあるホーリーカレッジ政治学
部のトローブリッジ・フォード助教授なのです。彼が1975年に機密解除された膨大
なFBI資料を点検していたところ、面白い文書を発見したのです。
 それは1947年のFBIの文書の中にあったのです。マフィアの行動を調査してい
たFBIの係官が、ニクソン共和党下院議員のワシントン事務所に、シカゴのジャック
・ルーベンシュタインなる人物が頻繁に出入りし、情報を提供している事実を報告して
いるのです。このユダヤ系の名前を持つチンピラやくざは、その年の暮れにはシカゴを
引き払ってダラスに移り住んでおり、通称ジャック・ルービーと名乗るようになったと
いうのです。
 フォード助教授がFBIに照会したところ、FBIから「これは偽造文書であった」
との回答が寄せられたそうです。これはおかしな話です。当時のFBI係官の宣誓まで
ついた報告書を、十分審査のうえ機密解除しておきながらそれを「偽造文書」とはよく
いったものです。
 おそらくニクソンは、共和党の下院議員のときからルービーのような人間を使って、
さまざまな情報を探らせていたものと思われます。そのような体質の人間であるからこ
そ、あのウォーターゲート事件を引き起こしたのです。
 ちなみに、フォード助教授は、その後も調査を続け、この報告書は本物であるとの確
証を得ているそうです。1946年に33歳で下院議員に当選してから1974年8月
の大統領辞任までの28年間に及ぶニクソンの政治経歴を調べた結果、政治献金とそれ
に対する見返りといったかたちでの暗黒街との関係が色濃く浮かび上がってきたとフォ
ード助教授はいっているのです。
 ニクソンが下院にはじめて打って出たとき、多額の政治献金を贈った人物がいます。
その人物の名はミッキー・コーエン――ロサンゼルスを根城とするマフィアのドンなの
です。ニクソンとコーエンを結びつけたのは、マレー・チョットナーという弁護士であ
り、のちにニクソンの側近の一人となっています。この弁護士が取り扱うケースのほと
んどは、マフィア・メンバーの弁護だったというのです。
 1960年の大統領選――ニクソンとケネディの対決のときはマフィアのシンジケー
トとしては、どちらが大統領になってもよいように両方とも支援したのです。ケネディ
に対しては、シカゴ地区のマフィアの巨頭サム・ジアンカーナが共通の友人であるフラ
ンク・シナトラを通じて、JFKの父ジョセフ・ケネディに巨額の政治献金を行うとと
もに集票に全力を尽くしたのに対し、ニクソンに対しては、ニューオーリンズの首領カ
ルロス・マルセロがその役割を担当したのです。
 ニクソンの場合はチームスター・ユニオンの委員長であるジミー・ホッファが一枚噛
んでおり、彼の腹心で後に重要な告発者になるエドワード・パーティンという人物が次
のように証言しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私はこの話し合いに出て会話を聞いていた。マルセロは50万ドルの現金をスーツ
 ケースに詰めており、この金はニクソンへ行くことになっている。ニクソンに対して
 は全部で100万ドルの政治献金が行われることになっていて、残金ニュージャージ
ーとフロリダの連中から出る予定である。
                          ――エドワード・パーティテン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 集票に関しては、チームスター・ユニオンが全面的に支援に動いています。ホッファ
の指揮のもと、労組副委員長のトニー・プロベンザノ、労組の財政担当のアレン・ドー
フマン、南部カルフォルニアのマフィア幹部ジョン・アレッシオがニクソン支持で動い
たのです。まさに、労組、マフィア一体の選挙です。
 1960年の選挙のときはニクソンは敗れましたが、1969年1月にニクソンがホ
ワイトハウス入りすると、選挙参謀でニクソン腹心のチョットナーは大統領特別補佐官
として大統領官邸に部屋を与えられています。
 このようにして、チョットナーの顧客でもあったマフィアの巨頭たちは彼を通じてニ
クソン政権に深く食い込むことになったのです。しかも、ニクソンはJFKと違って、
彼らにあらゆる面で協力してくれたマフィアの巨頭たちに対して、公然と「義理」を果
たしたのです。                 ・・・[JFK037]

サム・ジアンカーナ.jpg
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2006年09月15日

●ケネディ研究家が疑うニクソン関与(EJ第1461号)

 7月26日のEJ第1424号からスタートした「JFK暗殺事件」テーマは今日で
38回目です。いままでの最長記録になると思いますが、このテーマは来週で終了しま
す。大詰めです。
 JFKは、1960年の大統領選挙において、シカゴ・マフィアのドンであるサム・
ジアンカーナから、父親のジョセフ・ケネディを通じてではあるが、多額の政治献金を
受け、選挙でも集票において多大の協力を受けています。
 このことをケネディ兄弟は当然知っていたはずです。しかし、大統領になると、ケネ
ディ兄弟は政治を人民の手に取り戻すため自らが正しいと信ずる政策を強力に推し進め
るとともに、マフィアやシンジケートの解体に着手したのです。たとえマフィアに裏切
り者として命を狙われようとも、敢然としてそれを実行したわけです。
 これに対してニクソンは、たとえマフィアであっても、助けてもらった義理はそれが
できるようになった時点で、きちんと返しているのです。いくつか例をあげてみましょ
う。
 ロバートケネディ司法長官の率いる司法当局によって逮捕され、2年間の刑に服して
いたカルロス・マルセロに対してニクソン大統領は、親しいフーバー長官に特別の要請
をして、マルセロの刑期を4分の1の6ヶ月に減刑させています。しかも、その6ヶ月
も健康上の理由ということで、連邦受刑者病院で優雅に過ごせるよう配慮しているので
す。マルセロには多額の政治献金をしてらっているからです。
 マルセロは、1971年3月に釈放されますが、彼はやはり司法当局によって捕らえ
られ、13年の刑に服していたジミー・ホッファの釈放をニクソン大統領に働きかけま
す。これに対してニクソンは、1971年12月、ホッファの刑期を5年に減刑したう
え、クリスマスに間に合うよう仮釈放の措置をとっているのです。ホッファには、チー
ムスター・ユニオンを挙げて選挙に協力してもらったからです。
 しかし、ニクソンがそういう政治家であったとしても、まさかニクソンがケネディ兄
弟の暗殺にかかわっているとはほとんどの人は考えていないはずです。しかし決定的証
拠はないものの状況的にはきわめて疑わしいのです。
 1972年になって、JFKの暗殺にニクソンがからんでいるのではないかという噂
が米国に多数いるといわれるケネディ研究家たちの間で突如出てきたのです。1972
年というと、あのウォーターゲート事件が発覚して世間が騒然としていた時期に当りま
す。
 それは、ウォーターゲート事件の実行犯として、次の3つの名前が取り沙汰されたこ
とによります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             1.フランク・スタージェス
             2.ハワード・ハント
             3.バーナード・バーカー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3人は、ウォーターゲート事件の逮捕者ですが、ケネディ研究家たちは、こ
れらの名前が出たとき驚愕したというのです。なぜなら、彼らはいずれもピッグズ湾作
戦に関わりがある人物であり、それはそのままJFK暗殺事件にも関係してくるからで
す。1人ずつ説明していきます。
 フランク・スタージェス――この名前は、EJ第1458号に既に登場しています。
そう、カストロによってギャンブル監督官に任命された人物です。スタージェスはカス
トロのゲリラ活動に参加して、カストロとともに革命を闘ったのです。
 しかし、カストロはソ連に接近し、米国に対抗するためにカジノを国有化したので、
スタージェスはギャンブル監督官の役職を失うのです。そのスタージェスに目をつけた
のがシンジケートです。カストロに近いことを利用してカストロの暗殺をひそかにスタ
ージェスに頼んだのです。
 しかし、これに気がついたカストロは、スタージェスを逮捕して処刑しようとするの
ですが、逮捕される直前にスタージェスは盗んだB25でキューバを脱出してフロリダ
に逃れます。彼はパイロットなのです。そこで彼は「カリブ海反共連盟」を結成し、反
カストロ運動を展開しはじめたのです。その運動のスポンサーがシンジケートとCIA
なのです。
 スタージェスは毎日のようにキューバ上空を飛び、反カストロのビラを撒き続けたの
です。そして、グァテマラで亡命キューバ人パイロットを訓練したのです。
 ここで思い出されるのがデビット・フェリーです。彼もその頃グァテマラでキューバ
人パイロットの訓練に当っていたので、スタージェスとフェリーは知り合いであったは
ずです。
 しかし、ピッグズ湾作戦は失敗に終わり、彼はこのときピッグズ湾に上陸した亡命軍
を手ひどくたたいたカストロと米空軍の援護助を与えなかったJFKをひどく憎んだの
です。そして、その後もスタージェスはカリブ海反共連盟の活動を続けます。
 ところが、1962年のキューバ危機で、ソ連がキューバから攻撃用ミサイルを撤去
する代わりに、JFKは、米国における反カストロ運動をやめるとフルシチェフに約束
します。そしてこの約束を履行するため、司法省はロバート・ケネディの指令のもとに
反カストロ運動をしている諸団体をかたっぱしから、たたきはじめたのです。
 その最初のターゲットになったのが、スタージェスのカリブ海反共連盟です。スター
ジェスは、パイロット・ライセンスを取り上げられ運動の継続はできなくなってなって
しまったのです。
 スタージェスの憎悪は当然ケネディ兄弟に向けられます。CIAがこれを見逃すはず
はないのです。その結果、スタージェスはクレイ・ショー、デビット・フェリーなどと
一緒にCIAの手先となって、ケネディ兄弟の暗殺に向けて活動をはじめることになる
のです。                        ・・・ [JFK038]

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2006年09月19日

●複数のハントが登場するJFK暗殺事件(EJ第1462号)

 ウォーターゲート事件の実行犯として逮捕された3人のうち、フランク・スタージェ
スについてについては説明を終わっています。続いて、ハワード・ハントについて述べ
ます。
 ケネディ大統領暗殺事件を調べていくと、「ハント」と名乗る人物が何人か登場しま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 E.H.ハント
                 H.L.ハント
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで問題としているのは「E.H.ハント」の方ですが最初に「H.L.ハント」
について説明します。H.L.ハントは、ミシシッピ川に浮かぶ遊覧船のギャンブラー
から身を起こし、石油によって世界で2番目の金持ちに成り上がった立志伝中の人物で
す。石油王といわれていた人です。
 それでは、H.L.ハントがJFK暗殺に無関係かというとそうではないのです。彼
の政治思想は自他ともに認める超保守主義であり、ダラスにある数々の右翼団体に財政
的援助を与えていたのです。ハントの本拠もダラスにあるのです。
 H.L.ハントは当然のことながらシンジケートともつながっており、あのジャック
・ルービーとも面識があるのです。ウォーレン委員会証拠書類2270によると196
3年11月21日――ニクソンをはじめペプシ社関係者JFK暗殺にかかわったとされ
るほとんどの人物がダラスに集結した日、ルービーはハントの本社を訪ねているので
す。したがって、H.L.ハントは明らかに、JFK暗殺に無関係ではないのです。
 E.H.ハント――この人物はJFK暗殺にはもちろんのことウォーターゲート事
件に深くからんでいます。ところでひとつ分からないことがあります。というのはE.
H.ハントのEは落合信彦氏によると「エベレット」であるとしているのに対し、私の
調べたデータでは「エドワード」となっていることです。どうでもよいことではありま
すが、同一人であることだけは間違いないのです。なお、E.H.ハントについてはE
J第1447号で取り上げていますがそのときは落合氏のいう「エベレット」と書いて
います。
 このE.H.ハントは、ニクソン大統領下のホワイトハウスで働き、ウォーターゲー
ト事件において、侵入、共謀および盗聴の有罪判決を受け、刑務所で33ヶ月にわたっ
て服役しています。
 ところで、このハワード・ハントはホワイトハウスで何をやっていたのでしょうか。
 彼のやっていた仕事は「鉛管工」なのです。といっても文字通りの鉛管工ではなく、
CIAの秘密工作班です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            鉛管工 = plumber ――情報漏れを防ぐ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このハワード・ハントはニューオーリンズに拠点を持っています。その拠点とは「5
44キャンプ・ストリート」です。この名前で何かを思い出しませんか。
 そうです。ガイ・バニスターが探偵社を持ち、キューバ革命委員会のあるあのビルで
す。そのビルには、フェリー、クレイ・ショー、オズワルドが出入りしていたのです。
ここは、CIA工作員の巣窟なのです。
 もともとニューオーリンズには、複数の反カストロ団体があったのですが、横の連絡
は一切なく、バラバラだったのです。そこで、そのための調整役としてCIA本部から
回されてきたのが、ハワード・ハントとバーナード・バーカーだったのです。そして作
り上げたのが、キューバ革命委員会です。このようにして、JFK暗殺事件とウォータ
ーゲート事件の実行犯は「544キャンプ・ストリート」というビルでひとつに重なる
のです。そして、そのウラのウラにはニクソンがいる――決して荒唐無稽な推理ではな
いと思うのです。
 ところで、このハワード・ハントは、CIAの仕事に加えてスパイ小説の作家として
も知られているのです。しかし、このハントは大変なワルでニクソンを恐喝しており、
ニクソンはそれに応じているのですが、これについてはあとで述べます。
 最後は、バーナード・バーカーです。しかし、バーカーについてはハントとともにホ
ワイトハウスの鉛管工の一人であり、ウォーターゲート事件の実行犯の一人であるとい
う以外には、あまりよくわかっていないのです。
 フランク・スタージェス、ハワード・ハント、そしてバーナード・バーカー――これ
ら3人について述べたのは、3人がJFK暗殺にかかわっているか否かの解明のためで
す。ポイントは、暗殺日当日に彼らがどこにいたか、つまりアリバイです。もし、当日
にダラスにいたとしたら、重大疑惑ということになります。
 なぜなら、これによってJFK暗殺事件とウォーターゲート事件はつながってしまう
ことになるからです。そうすると、これらの歴史的事件の黒幕としてリチャード・ニク
ソンが浮上してくることになります。
 バーナード・バーカーについては、JFK暗殺日に事件現場にいたことが確認されて
います。これについては、EJ第1441号の終わりの方を読み直していただきたいの
です。
 事件現場の木の生い茂った丘の方から銃声が聞こえたので、セイモア・ワイズマンと
いう警察官がそこに駆けつけたところ、1人の男がいたのです。その男はシークレット
・サービスの証明書をワイズマンに見せて「ここは大丈夫です。何事もなかったです」
といったのです。
 しかし、この男はシークレット・サービスではなく、ニセ者と判明します。そして、
後になってワイズマンはその男がバーナード・バーカーであると証言したからです。つ
まり、バーカーはきわめて疑わしいポジションに暗殺日当日いたことになります。他の
2人――ハントとスタージェスについては明日述べます。・・・・ [JFK039]

ハント/バーカー.jpg
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2006年09月20日

●第2のJFK裁判というものがある(EJ第1463号)

 ハワード・ハントとフランク・スタージェス――この2人が暗殺日の1963年11
月22日にダラスにいたかどうかです。このアリバイについて知られざる裁判が繰り返
し行われたのです。
 J・ウェーバーマンとマイケル・キャンフィールドという人がいます。彼らは熱心な
ケネディ事件研究家なのですが、1972年になって、ある写真と共に重大な声明を行
ったのです。72年といえば、ウォーターゲート事件がすべて表沙汰となり、実行犯が
起訴された年です。この写真については、添付ファイルを参照していただきたいと思い
ます。
 この写真は、1963年11月22日、事件直後にデイリー広場の裏手鉄道操車場に
止まっていた貨車の中から3人の浮浪者が発見され、不審人物として連行されたときの
写真です。しかし、この写真は、別に目新しいものではなく、事件関係写真のひとつと
してそれまでとくに注目されてはいなかったのです。
 それでは、ケネディ事件研究家たちは一体何を問題にしたのでしょうか。
 それは、この写真に写っている2人がウォーターゲート事件で逮捕されたハワード・
ハントとスタージェスに似ているという事実なのです。浮浪者の一番後方の帽子をかぶ
っているのがハントであり、真ん中の大男はスタージェスにそっくりです。
 それに加えて、一番前を歩く男は、暗殺前にダラス市のあちこちに出没したオズワル
ドのニセ者ではないかという証言まであらわれたのです。これが正しいとすると、やは
り、ウォーターゲート事件の実行犯であるハワード・ハントとスタージェスはJFK暗
殺の当日に現場にいたことになるのです。しかも、ニクソンまでダラスにいたことは確
実であり、ニクソン黒幕説は信憑性を帯びることになります。
 この写真の件は、ニクソンが辞任に追い込まれたあとちょっとした騒ぎになり、時の
フォード大統領は、ロックフェラー委員会に何とか噂を鎮めてくれるよう要請していま
す。このフォード大統領はニクソンに対し、「全面、自由、絶対的な恩赦」を与えた人
物であり、何とか穏便に幕引きを図りたかったのでしょう。
 その期待に応えてロックフェラー委員会は、FBIの報告をうのみにして、次の結論
を出して幕引きをしようとします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     この「浮浪者」のいずれかが、ハントあるいはスタージェス
     の名で通っているという証人はいないし、同一人物であること
     を証明しようと名乗り出る専門家もいない。
                     ――ロックフェラー委員会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、このロックフェラー委員会の決定にもかかわらず、これはある連続裁判を引
き起こしたのです。この裁判は、ギャリソン検事によるクレイ・ショー裁判以来の実質
的なケネディ暗殺事件裁判になったのです。
 2人のケネディ事件研究家による写真告発に対してハワード・ハントは直ちに訴訟を
起こしたのです。訴訟罪名は「名誉毀損」であり、この裁判は「サード・プレス裁判」
と呼ばれたのです。
 この裁判は1978年に原告ハントの一方的な勝訴に終わったのです。しかし、それ
を待っていたかのように1978年8月14日にマイアミの地方紙である「スポットラ
イト」に「CIAハントのケネディ暗殺関与を確認へ」という記事が出たのです。
寄稿者は、ビクター・マーチェッティ――約20年間米国の諜報活動に従事しそのうち
の14年間はCIAにその籍を置いており、しかも最後の3年間はリチャード・ヘル
ムズCIA長官の補佐官をしていたのです。
この記事の書かれた1978年3月〜8月という時期は、ちょうど1977年に発足し
た「米下院暗殺問題調査特別委員会」の活動がピークを迎えていたときだったのです。
この記事に対してもハワード・ハントは罪名「名誉毀損」で訴訟を起こしたのです。
そして、1981年12月、マイアミ地方裁判所は、またしてもハントに勝訴の判決を
出したのです。
しかし「スポットライト」を発刊している被告のリバティ・ロビー社は、直ちに高等裁
判所に控訴したのです。この控訴に対して、高裁は「裁判指揮に関しての重大な誤謬の
存在」を理由にマイアミ地方裁判所に事件を差し戻したのです。1985年1月に、こ
の名誉毀損裁判の差し戻し審が開かれています。この裁判は「マーチェッティ裁判」と
呼ばれたのです。
このマーチェッティの記事は長いのでご紹介できませんが、一言でいうと、次のように
なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ハワード・ハントはJFK暗殺事件に明確に関与しており、
      陰謀団の一員であったとCIAが近い将来暴露するであろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際にはそうはならなかったのですが、CIAは既にハワード・ハントを見放してい
たのです。差し戻し審の焦点は「ハントが1963年11月22日にダラスにいたか」
の1点に絞られ、これに対してハントは暗殺日当日はCIAに出勤していたと主張して
いたのです。きっとCIAが助けてくれると信じて・・・。
 しかし、CIAは今回ハントを見限って、彼をJFK暗殺に結びつけることに踏み切
ったのです。CIAとしては、この裁判はあくまで「名誉毀損裁判」であり、それ以上
にはならないことを知っていたからです。
 かくしてCIAの工作により、ハントのアリバイは崩れ、敗訴になります。事実上ハ
ントはJFK暗殺の実行犯の一人としてされたのですが、裁判の訴因が「名誉毀損」で
あったためにそれで裁判は結審したのです。
 ハントは1963年11月22日に暗殺現場にいたのです。これが何を意味するか
――ここまで読んでいただいた読者にはおわかりになると思います。これにより、ニク
ソン黒幕説は一層説得力を持つことになります。     ・・・ [JFK040]

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2006年09月21日

●2本の映画で見るニクソン大統領(EJ第1464号)

 JFK暗殺事件とウォーターゲート事件がつながっている――これは尋常ならざる事
態です。そもそもウォーターゲート事件とは何だったのでしょうか。
 その謎に少しでも迫るために、次の2つのDVDを入手して、鑑賞してみたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          オリバーストン監督、映画『ニクソン』
          アラン・バクラ監督、映画『大統領の陰謀』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2本の映画は、両方ともウォーターゲート事件を取り上げているのですが、その
取り上げる角度が対照的なのです。『ニクソン』は『JFK』のオリバー・ストーン監
督が膨大な記録や証言を基にして、あくまでニクソンを中心に内部からウォーターゲー
ト事件が原因で辞任に追い込まれるまでのニクソンの苦悩を描いています。
 これに対して『大統領の陰謀』は、カールとボブというワシントンポスト紙の記者が
あくまで外部からウォーターゲート事件の真相に迫るという筋立てになっています。ダ
スティン・ホフマン演ずるカール、ロバート・レッドフォード演ずるボブ、迫力満点に
敏腕記者を演じています。
 とくに映画『ニクソン』を観てわかったことは、ニクソンは卑屈なほど大衆の人気に
こだわり、思うように人気が出ないことを悩み、苦しみ抜いていたということです。ホ
ワイトハウスの中に飾られているケネディ大統領の肖像画を見ては、次のようにつぶや
くニクソンの姿がとても印象的でした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       国民は君(JFK)を見るとそこに理想の姿を見る。しかし、
       私(ニクソン)を見ると、そこに現実を見るのだ。 ニクソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それにニクソンという人物は猜疑心が強く、ホワイトハウス内のあらゆる会話を録音
しており、それが結局はニクソンの命取りになったということです。彼が大統領をして
いた期間の後半はこれらの録音テープを守ることに費やされたようなもの――そういっ
ても過言ではないと思うのです。
 ハワード・ハント――この名前は両方の映画に頻繁に出てきますが、ハントはことも
あろうにニクソンを恐喝していたのです。以下は、1973年3月21日の大統領執務
室におけるニクソンと側近ディーンとの会話です。これは明らかにハントの脅迫にどう
対処するかについて話しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ディーン:まず、第一の問題はハントやほかのウォーターゲー
            ト犯人たちによって引き続きなされるであろう脅迫
            です。金もかかるし、非常に危険だ。こういう問題
            にわれわれは慣れていない。きれいな金、きたない
            金、これらの問題はマフィアの連中の専門とすると
            ころです。
       ニクソン:その通りだ。
       ディーン:非常に難しい問題ですね。
       ニクソン:多分、ギャングにやらさなきゃならんかもしれん。
              ――ホワイトハウス・テープ記録146ページ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会話によると、ハントの脅迫に対してニクソン大統領は金を支払おうとしている
のです。それは、単にウォーターゲート事件のことだけで強請られているだけではなく
もっと大きな秘密があることを示唆しています。
 また、1972年6月23日のテープには、次の会話があります。側近ハルデマンに
ニクソン大統領が話しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        この、ハントという男がいることは非常にまずい。言ってお
       け。奴は知り過ぎている。もしこの話が外部に出たら、「キュ
       ーバのこと」がめちゃくちゃになる。CIAはまずい立場に置
       かれるし、ハントも同様だ。
        それに「ピッグズ湾についての事柄」が、すべて明るみに出
       されてしまう。そうなれば、国家にとっても、またアメリカの
       外交政策にとっても不幸だ。彼(ヘルムズCIA長官)に止め
       るよう言っとくことだな。 ――ホワイトハウス・テープより
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会話の中の「キューバのこと」と「ピッグズ湾についての事柄」というのは、文
字通りの意味ではないのです。この時期において、ピッグズ湾のことはすべて明るみに
出ていることであり別に表沙汰になってもどうということはなかったからです。
 したがって、この「キューバのこと」と「ピッグズ湾についての事柄」は、おそらく
「JFK暗殺についての秘密」を意味する符牒であると考えられます。このことは、上
記の2つの映画でも確かめられます。そういう会話が出てくるからです。
 前述の1973年3月21日のテープには次のような会話が録音されています。これ
によって、ニクソン大統領がハントというやくざに強請られて、金を渡していたことは
確かなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ディーン:私も出席した会議で、あいつらに支払う金は、ミッ
            チェル(司法長官)を通すことで合意がなされた。
            カルムパック(ニクソンの弁護士)が金を作った。
       ニクソン:キューバ委員会か。トンネルを通したろうな。
       ディーン:もちろん。キューバ委員会を通して、そのいくらか
            はハントの弁護士に回され、そこから分けられた。
            ハントの妻がその中から1万ドルを持ってシカゴに
            飛んだが、それをキューバ人の一人に、渡すつもり
            だったらしい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 JFK暗殺事件のテーマは、いよいよ明日で終了します。・・・ [JFK041]       

ウォーターゲート事件/2つの映画.jpg
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2006年09月22日

●ケネディとニクソン/対照的な大統領(EJ第1465号)

 1974年に入ると、巨大な軍産複合体は「ニクソンはもはやこれまで」と判断して
動き出すのです。ニクソンはこれまで軍産共同体にとっては便利な存在だったのですが
ウォーターゲート事件で次々とボロが出るに及んで、このまま付き合うことは危険であ
ると判断したからです。
 そのためニクソンに辞任を促す説得役として、アレキサンダー・ヘイグがニクソンの
第2期政権の特別補佐官として送り込まれたのです。ヘイグ特別補佐官は、ニクソン
の数々の疑惑――とくにシンジケートとのつながりや、東南アジアの麻薬を支配するマ
フィアのリーダーたちとの付き合いについて、証拠を握ろうと陸軍犯罪調査局の責任者
ヘンリー・タクト大佐に調査を命じます。
 実はニクソンには麻薬に関して大きな疑惑があるのです。それは、ニクソンが副大統
領の頃、ペプシ社に対してラオスに工場を建てるよう便宜を図ったことがあります。こ
ういう関係があってニクソンは無役になっとき、ペプシ社の役員として迎えられたので
しょう。
 しかし、その工場は1本のペプシも製造しなかったのです。そして2年も経たないう
ちに、そこは東南アジア第一のヘロイン工場と化してしまったのです。ペプシ社がいつ
の間にかシンジケートの出先工場となっていたわけです。このような事実をヘイグは、
少しずつ積み上げてニクソンに辞任の説得に当ったのです。映画『ニクソン』では、ウ
ォーターゲート事件への関与の責任をとって辞任したことになっていますが、それはあ
くまで表向きの理由であり、もっと大きな疑惑の証拠を突きつけられて、辞任せざるを
得なくなったのです。
 ヘイグは、特別補佐官の立場からニクソン大統領に辞任を迫りますが、ニクソンは聞
く耳を持たなかったのです。そこで、ヘイグは、今度は軍産複合体からの代表として、
強く辞任を要求したのです。そして、もし、それでも拒否すれば、ニクソンとシンジケ
ートとの腐れ縁や、ヘロインから吸い上げられた金がニクソンの懐に還流する仕組みな
どの一切を明るみに出すと文字通りの脅迫をしたのです。
 そして、最後にこういったのです。「いま、辞任されれば、次期大統領の特別恩赦を
約束できる」と。
 こういうとき必ずニクソンを救ってくれたかつてのFBI長官フーバーは、ウォータ
ーゲート事件が発覚する1ヶ月前に死亡していたのです。まさに孤立無援、絶体絶命で
す。ヘイグは、ニクソンに辞任の文書へサインを求め、こういったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        部屋の外でお待ちしております。サインをいただくまでは帰
        りません。 ――アレキサンダー・ヘイグ大統領特別補佐官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さすがのニクソンも自らが敗北したことを知って、辞任の書類にサインします。ヘイ
グが陸軍犯罪調査局に対して調査を命じてから2ヶ月後、1974年8月8日のことで
す。
 ニクソンは、約束通りフォード大統領によって特別恩赦を受けますが、ニクソンに仕
えた元補佐官や側近はことごとく法的・社会的制裁を受けたのです。しかし、ヘイグだ
けは、NATOの最高司令官に栄転しています。これを見ても、彼が軍産複合
体からの
ニクソンの刺客であったことは明らかでしょう。
 ケネディとニクソンは本当に対照的な大統領であったと思いま。1960年の大統領
選挙においてニクソンを追い続けたジャーナリストのセオドア・ホワイトは、その著書
の中でニクソンについて次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ニクソンの政治能力はすばらしく、その勇気は疑問の余地は
       なく、その忍耐力は相当なものであった。しかし、それは所詮
       潮の満引きや風の具合を知り、嵐をついて突き進む水夫の能力
       勇気、忍耐力でしかなかった。
        彼には、常に欠けている要素があった。それは星を知り、星
       に導かれ、嵐によって航路からはずれた場合、星と太陽が再び
       現れるのを待ち、それらをみつめながら進んでいく航海士の要
       素だった。このような哲学の欠如から、その政治生活を通して
       常に彼を悩ませた、あの有り難くないあだ名「トリッキー・デ
       ィックが生まれたのである。
          ――セオドア・ホワイト『大統領の誕生、1960年』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1975年に米上院では、「上院外国要人暗殺委員会」が設立されます。ここで「外
国要人」とはカストロのことです。カストロ暗殺計画について調査をはじめたのです。
その狙いはケネディ兄弟暗殺事件の真相を明らかにすることにあったのです。カストロ
暗殺計画を明らかにすれば、当然ケネディ暗殺も浮かび上がってくると考えたのです。
少し遅れて下院でも、「ケネディ暗殺調査委員会」の再設置を行っています。
 そして、次々と関係者が証人として呼ばれはじめたのです。それと時期を同じくして
次のマフィア側の重要3証人が次々に殺されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
              サム・ジアンカーナ
              ジョン・ロゼリ
              ジョージ・デ・モーレンシルツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは、FBIに厳重に包囲されているにもかかわらずやすやすと殺されています。
恐ろしい想定ですが、逃げられないようにして殺されたのではないかといわれているの
です。そこに巨大な軍産複合体の強い意志を感じ取ることができます。
 軍産複合体は現在の米国にも厳然として存在しています。これに立ち向かえる大統領
は果たして今後登場するのでしょうか。
 42回にわたって続けてきたJFK暗殺事件のテーマはこれで終わります。長い間の
ご愛読を感謝します。 ・・・・ [JFK042/最終回]

ケネディ大統領.jpg
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