2007年09月11日

●最高司令官が隠蔽の指揮をとる?(EJ第1067号)

 もく星号事故の起こった1952年4月の時点における連合軍総司令部(GHQ)最
高指揮官はマッカーサーではないのです。マッカーサーは、朝鮮戦争において仁川上陸
作戦を成功させてソウルを奪還しピョンヤンも占領します。しかし、中国軍の参戦によ
りソウルを奪い返されてしまいます。
 その時マッカーサーは、トルーマン大統領に中国に対し原爆攻撃を行うよう主張し、
罷免されてしまうのです。代わってマッカーサーの後任として日本にやってきたのは、
M・リッジウェイ大将――1951年のことです。それから、リッジウェイは1952
年までの2年間、第一生命ビルの主人公だったのです。このとき、もく星号事件が起こ
るのです。
 松本清張氏は、このとき事故の原因が米軍機の銃撃によって起こったことをいち早く
見抜いて、真相を隠すための一連の指揮をとったのは、リッジウェイ連合軍最高指揮官
だといっています。リッジウェイは、太平洋戦争中は空輸部隊司令官として参加してお
り、1950年にはマッカーサー国連軍司令官の隷下に属する第8軍団国連軍司令官と
して朝鮮戦争に従軍していたのです。
 このとき、もく星号の日本側捜索の目を1日間、遠州灘に釘づけにするために、米軍
は多数の軍用機や海軍の艦艇を出動していますが、このような命令を出せるのは、GH
Qの最高司令官しかいないからです。多くの艦艇と米空軍機が遠州灘に集結し、救出の
大作戦を演出したわけです。これを見れば、日本人としては、米軍は真剣に救出活動に
当っていると誰でも思ったはずです。
 改めて考えるまでもなく米国側は、もく星号が事故を起こし、どこに墜落したかにつ
いてかなり早い時点でわかっていたはずです。というのは、米軍はボイスレコーダを回
収し、もく星号の機長と入間のジョンソン基地の管制官との交信記録を掴んでおり、そ
の記録によってどこに墜落したかは明らかであるからです。
 添付ファイルを見てください。当時の民間機はまだレーダーが装備されておらず、ラ
ジオビーコンだけを頼りに飛行していたのです。ビーコンについて簡単に説明しておく
と、ビーコンには次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         レンジ・  ビーコン ・・・ 指向性あり
         ホーミング・ビーコン ・・・ 指向性なし
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本では、山岳・海岸線の多い地形であるため、指向性の電波は誤差を生じやすいの
で無指向性ビーコンを使っています。これらのビーコンは空路の拠点に置かれており、
その上を飛行機が通過すると操縦士にはわかるようになっているのです。
 当日もく星号は、羽田を出て館山のビーコンをチェックして、大島の差木地のビーコ
ン、次に焼津のビーコンを通過して大阪に向かう空路をとっています。しかし、館山の
ビーコンはチェックしたものの、次の差木地のビーコンはチェックしていないのです。
 墜落後の調査ではビーコンの受信装置には異常がなかったことはわかっているので、
もく星号は館山から北側の空路をとったものと考えられるのです。
 機長とジョンソン基地の管制官との交信記録でも、左旋回しなければならないのに右
に傾いているというやりとりがあったので米国側としては、墜落したとすれば、大島周
辺しかないことは最初から明白であったのです。
 それを知りながら、米国側はあえて「舞阪沖で発見」というウソの情報を流し、日本
側の注意を遠州灘に釘づけにして1日時間を稼ぎ、その間に三原山のもく星号の残骸の
中から、日本側に渡したくない都合の悪いものと、「ある物」を回収したのです。「あ
る物」にらついてはいずれ述べます。
 そのため、米空軍側は事故調査委員会に最初から参加せず、ボイスレコーダも遂に最
後まで出さなかったのです。いや、出せなかったというのが本音であると思います。本
来なら、米国側はすべての航空管制を握っていたのですから、日米合同の事故調査委員
会が組織されるべきなのです。
 それでは、米国側が真相をありのままに告げたらどうなっていたかというと、これは
米国側にとって誠に具合の良くないことになっていたはずです。
 まず、連合軍総司令部としての米軍の権威は失墜し、補償などの問題が巻き起こり、
日本人の国民感情に火をつける恐れもあったと考えられます。マッカーサーの失脚によ
って、図らずも連合軍最高指揮官という地位を手に入れたリッジウェイとしては、面倒
は極力起こしたくなかったものと考えられます。
 このように、もく星号事故に関しては、米軍の隠蔽工作は明らかですが、それにして
も、いろいろなに謎があるのです。事実関係を整理しておきましょう。
 その当時民間機がどのような手続きで飛行していたかというと、次のような手順にな
ります。
 航空機の機長は、羽田出発前に空港にいる中央気象台の駐在員(日本人)から空路間
の当時の気象図をもらうのです。機長はその航空路の気象図を見て、どの区間はどの高
度を保っていくか、どの場所では定められたルートから若干異なったルートをとる必要
があるかなどを検討し、その気象図に自分の飛ぼうとする路線を書き込むのです。そし
て、それを機長は、ノースウエスト社のディスパッチャーに渡すのです。
 ディスパッチャーは、これを受け取ってその気象図と機長が選定した空路との関係が
正しいかどうかを検討します。そして、両者の意見が一致した上で、羽田空港の管制官
(米側技術官)に提出して許可をもらいます。
 羽田の管制官は、これをさらに入間にあるジョンソン基地の航空管制官に届けるので
す。ジョンソン基地の管制官は内容を検討し、ジョンソン基地として最終的決定を下し
羽田の管制官に伝えます。これで、やっと羽田の管制官は機長に出発命令を出せるので
す。気象図の作成以外はすべて米国人が決めていたのです。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/17]
 
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posted by 管理者 at 04:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 御巣鷹山事故の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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