ほぼ1週間に1度の割合で野村氏と会っています。日本の文化や日本人のこと、日本の
朝鮮統治の歴史とそれがなぜうまくいかなかったかということなど――いろいろなこと
を野村氏はバーク氏に教えているのです。
海上自衛隊の誕生は、もちろんバーク氏の好意だけで実現したわけではないのですが
バーク氏が日本の理解者としてあらゆる面でバックアップしてくれたことが実現に結
びついたといえるのです。これは、バーク氏が野村元海軍大将から教えを受けた日本と
日本人についての理解が大きく影響しているのです。
もともとダレス特使が日本に再軍備を提案したさい、そのプランは陸上兵力増強が中
心であって、海上警備に関してはコーストガード(沿岸警備隊)的なものしか想定して
いなかったといわれます。米海軍は、西太平洋の制海権を確保する方針があり、この海
面を去る意思はなく、日本についてはコーストガードで十分という考えであったといわれます。
これに対して、野村元海軍大将を中心とする海軍再建派の考えていた日本海軍の規模
は、「護衛艦4隻、潜水艦8隻、巡洋艦4隻を含む総隻数341隻、総トン数29万2
000トン、海空軍機750機であったのです。これは、ぎりぎり海軍と呼べる規模と
いうことができます。
『海上自衛隊25年史』に寄せた序文の中でバース氏は次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私の生涯でもっとも楽しかった経験の一つは、多大なる尊敬
を寄せるようになった人々と一緒に、日本に適した海上防衛戦
力の概要につき議論したことである。そのなかには、野村吉三
郎大将、保科善四郎中将、長沢浩海将、中山定義海将、そして
大久保武雄氏がいる。
――アーレイ・バーク氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名前のあがった5人のうち、保科善四郎元中将は、具体的な海軍再建プランをめぐっ
てバーク氏と何回も話し合い、具体的な指摘を受けて修正案(野村修正案)を作成して
います。
バーク氏は、この野村修正案をジョイ極東米海軍司令官名で、自らの書簡と一緒にシ
ャーマン作戦部長に送っています。その後バーク氏は実際にシャーマン作戦部長に会い
「日本海軍の再建は、日本の利益だけではなく、米国の利益にもなる」ことを力説し、
同意を取り付けてくれたのです。
このように、シャーマン作戦部長の同意を取りつけたバーク氏は、保科元中将に、日
本政府が野村修正案に同意ならば、米海軍は「野村・バーク案」で日本海軍再建を進め
るというシャーマン作戦部長の意向を伝えます。
しかし、・・です。これに大蔵省が反対したのです。おそらくこの案で海軍再建を進
めると、発足後の維持費に問題が出ると考えたものと思われます。これでせっかくのバ
ーク氏の尽力を無にしてしまうことになったのです。保科元中将は、「わが国の将来を
考え遺憾極まりなし」として憤慨したといわれます。
しかし、それにもかかわらずバーク氏は、野村元大将たちの支援をその後も続けたの
です。ソ連から返還されたフリゲート艦を日本に貸与することに尽力したり、保科氏ら
に対し「船舶の護衛哨戒、掃海および漁船の保護などの業務を計画し、かつ実施するた
めの機構制度に関する研究」をするよう要請するなどしたのです。いうまでもなく、日
本海軍再建のための理論武装です。
フリゲート艦の受け入れについては、1951年9月8日に対日講和条約と日米安全
保障条約がサンフランシスコで調印された1ヵ月後の10月19日、吉田首相は最高司
令官リッジウェイ陸軍大将に対し、フリゲート艦受け入れの意思があることを正式に伝
えたのです。これは、日本海軍を再建する前提での申し入れであり、海上保安庁とは別
の新組織を作ることを意味するのです。
そして、貸与船艇の受け入れと運用体制を検討するため、旧海軍から8人、海上保安
庁から2人の計10人から成る委員会を作るのです。これがY委員会です。この委員会
において、検討が行われ、1952年8月に海上保安庁から独立する海上警備隊が発足
し、講和条約発効後の1954年7月に海上自衛隊として再発足します。これによって
日本海軍再建は一歩を踏み出したことになります。
なお、1955年に米海軍作戦部長に就任したバーク大将は、さらに海上自衛隊に対
して支援を行っているのです。その支援のひとつに次の2つの護衛艦(駆逐艦)の供与
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
護衛艦「あきづき」DD960 ・・ 三菱造船長崎造船所
護衛艦「てるづき」DD961 ・・ 三菱造船神戸造船所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この2つの護衛艦は、1993年に既に退役していますが、両艦とも米国の1957
年度の米海軍建造予算によって域外調達されたものなのです。つまり、米国政府は日本
の造船所に艦艇の発注をし、艦の設計などは日本が行い、完成と同時に海上自衛隊に供
与されたのです。したがって、艦艇は米国のものであり、DD960とDD961とい
う米海軍艦番号が付いています。
確かに当時は冷戦のさなかであり、共産主義と対峙する同盟国を増強するのは米国の
国益にかなっていることではありますが、このようなかたちの発注の支援に対しては、
米国議会でも反対が多かったのです。
日本の造船所に発注したのは、日本の造船能力を高めるためであり、議会の反対を押
し切ってこれを強力に進めてくれたのは、アーレイ・バーク大将その人だったのです。
バーク氏は、これ以外にも、当時最新鋭対潜哨戒機P2V−7を16機、小型の対潜哨
戒機S2F−1を60機、無償貸与してくれているのです。本当にバーク氏は日本の大
恩人といえると思います。 ・・・[自衛隊の実力/05]