2006年08月16日

●JFKの最初にして最後の敗北(EJ第1439)

 1961年4月15日――キューバ・ピツクス湾侵攻開始2日前のことです。CIA
の立てた計画通りに亡命軍のB26はニカラグアから発進し、キューバの空軍基地を爆
撃します。
 実はこのキューバ空軍基地の爆撃にはキューバ亡命軍のB26以外に米軍機(尾翼に
米国旗なし)が含まれており、相当の成果を収めています。CIAはこの時点では、計
画通り第2波の攻撃を行えばキューバ空軍は全滅できると考えていたのです。
 さて、爆撃を終えたほとんどのB26は、ニカラグアの基地に戻ったのですが、2機
だけではフロリダに着陸したのです。これは、かねてからの計画でした。
 この2機はその尾翼にキューバ国旗が描かれており、フロリダ入国管理事務所は、2
機の飛行機はキューバ空軍に所属し、そのパイロットたちはカストロの圧制に耐えかね
て逃亡したものであるとの声明を発したのです。
 しかし、国連本部では、その日のうちに、キューバ大使が爆撃現場の写真を振りかざ
して米国を非難したのです。その写真には爆撃に使われたロケット弾の破片が写ってい
たのですが、そこには、はっきりとUSAのマークが刻まれていたのです。それにして
も、ラテン・アメリカ諸国の反応は異常なほどリステリックなものだったのです。
 これにJFKは動揺したのです。なぜなら、JFKはその3日前に「キューバに対し
て米国は決して介入しない」と公言したばかりだったからです。それに、モスクワと北
京は、この事態を受けて、ベルリン、ラオス、朝鮮半島で行動を起こすことをにおわせ
る行動をとりはじめていたのです。
 そのためJFKは、17日のピッグス湾侵攻と同時に行われる予定であった第2波の
爆撃中止を命令したのです。当然のことながら、これにCIAは猛反発します。しか
し、CIAもここで大きなミスを冒すのです。彼らは、第1波の爆撃でキューバ空軍の
飛行機のほとんどは破壊したと考えたからです。ところが結果論からいうと、キューバ
空軍はその時点でも相当数の飛行機を温存していたのです。しかし、もし、計画通り第
2波の爆撃が行われていたら、おそらく壊滅していただろうと思われます。
 こういう情勢の中で、4月17日の真夜中に1500人の亡命キューバ軍はピッグス
湾に上陸を開始するのです。しかし、ここに2つの誤算が生じたのです。
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 第1の誤算:ピッグス湾には、少ないという予想だったキューバ軍が2万人近くもい
       たこと。
 第2の誤算:残存のキューバ空軍の爆撃により、食糧、弾薬な どを積んだ船舶を失
       ったこと。
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 この2つの誤算によって、ピッグス湾に上陸した亡命軍は苦戦を強いられることにな
ります。この事態を重く見たCIAの幹部たちは、国務省にラスク国務長官を訪ねて、
今までの大統領の公けの誓約をくつがえして、米空軍と海軍をピッグス湾に投入して欲
しい旨大統領を説得して欲しいと訴えたのです。ラスク国務長官は、その場で大統領に
電話を入れてその旨を伝えたのですが、大統領の返事は「ノー」だったのです。
 そのため、その頃ピッグス湾で亡命キューバ軍はますます苦境に陥り、もはや亡命軍
が敗北するのは時間の問題だったのです。この事態に、ピッグス湾上陸の最高責任者で
あるCIAの副長官のチャールズ・カペル将軍は、午前3時頃にラスク国務長官の自宅
を訪ねて、大統領に電話を取り次いでもらい、せめて空軍の援護はさせて欲しいと大統
領を説得したのですが、やはり同意は得られなかったのです。
 かくして、CIA主導で進められたピッグス湾上陸作戦はみじめな失敗に終り、上陸
部隊は全員捕えられ、ハバナに連行されたのです。かくして、ベイ・オブ・ピッグス
はJFKにとって、最初にして最後の完璧なる敗北に終わったのです。
 この作戦の失敗の原因はすべてCIAにあるのです。CIAの作戦は、初めから米国
の空軍と海軍、それ加えて海兵隊まで投入することを前提としていたのです。そして、
そのことを亡命軍に約束していたのです。
 もともとこの作戦は、ニクソンが大統領選に勝つことを想定して決められたものだっ
たのです。しかし、接戦のすえ選ばれたのはJFKだったのです。それでもCIAと
しては、いかにJFKでも侵攻がはじまったら、CIAや軍部の圧力に屈して、米軍が
直接介入することを容認する――そう考えていたのです。
 当時の米国は、かつてのローマ帝国がそうであったように、圧倒的な軍事力の下での
平和を目指し、いわゆるパックス・アメリカーナ(米国による平和)を実現させようと
していたのです。当時の米国軍部は、陸、海、空、海兵隊、予備を含めて350万人の
人間を擁し、あらゆる近代兵器を有しており、そのメカニズムと力において、他に類を
見ない組織となっていたのです。
 さらに軍部は2万2000に及ぶ企業と組んで巨大な軍産複合体を形成し、急速に巨
大化していたのです。その軍産複合体の手先となって諜報活動を行っていたのがCIA
なのです。1953年の発足以来、とくにアレン・ダレスが長官になってからは、議会
や大統領府は、CIAの活動に関して何の疑問も抱かず、すべてめくら判を押してきた
のです。
 しかし、JFKは「パックス・アメリカーナではなく全人類の恒久的平和」という理
想を掲げ、それも口先だけでなく、本気で実現させようとしたのです。そういうJFK
とCIAを含む軍産共同体との最初の激突が、ベイ・オブ・ピッグスであったといえる
のです。
 このときのJFKはどちらかというと、どっちつかずの対応で敗北を喫しています。
そこでJFKは、このベイ・オブ・ピッグスの失敗を契機として、それ以降はCIAを
含む軍産複合体に対して挑戦的な政策を精力的に進めていくことになるのです。
                       ・・・・・ [JFK16]

現在のハバナ市内.jpg
posted by 管理者 at 04:43| Comment(0) | TrackBack(0) | JFK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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