2010年06月18日

●大河兼任の乱の裏にあるもの(EJ第1642号)

 史実によれば、源義経は1189年4月に自害したことになっ
ています。そして成吉思汗が歴史の舞台に登場するのは1206
年なのです。もし、源義経が成吉思汗であるならば、義経はその
17年の間、何をしていたのでしょうか。
 その前に、その当時の中国大陸の状況について知っておく必要
があります。成吉思汗があらわれる以前の大陸は、唐の時代から
五代の乱世を経て宋の時代になっていたのです。その宋の時代の
敵といえば、すべて北からやってきたのです。
 漢民族は自らは「中華」と称して、北方民族を「北狄」と呼ん
で軽蔑しながらも恐れていたのです。物資が乏しく生活が粗野な
北方民族は、物資豊富で文化の高い南方の農耕民族を狙って、絶
えず侵略戦争を繰り返していたのです。鮮卑、契丹、女真などの
民族がそうです。
 しかし、それらの民族の攻撃は、ことごとく撃退され、万里の
長城の外に追い返されていたのです。漢民族は敵を万里の長城の
外に追い出すと、深追いはしなかったのです。そのため、何回負
けても北方民族は生き残り、繰り返し攻めてきたのです。
 さて、義経一行は、現在のサハリン島(樺太)にいったん渡り、
それから、間宮海峡(タタール海峡)を渡ってアムール川の河口付
近に上陸していると考えられます。そして、その一帯を支配して
いた満州女直(女真系)ワンスンと戦闘をしています。1190年
のことです。
 当時の義経軍は義経主従と忠衡率いる100人程度の軍隊にア
イヌ人が加わっていたものと思われます。義経軍はこの満州女直
を打ち破り、沿海州の海岸に沿って南下します。そして、現在の
ウラジオストック近郊に達するのです。
 戦いというものは、勝ち進むにつれて敗者を軍に加えるので、
その人数が増えていくものですが、それに加えて義経軍にはさら
に200人ほどの援軍が加わっていた可能性があります。つまり
義経一行の後を追って、蝦夷地に渡り、義経軍と合流した一団が
あると考えられるのです。
 この、後から義経軍に加わったとされるのは、どういう一団な
のでしょうか。
 結論から先にいうと、それは大河兼任という秋田県北部の平泉
藤原氏直属の豪族であり、南秋田郡五城目町大川付近を本拠地に
して支配していた一族です。
 1189年12月、大河兼任とその一族は、奥州の同志を結集
し、7000騎の兵力で、出羽国海辺荘から河北、秋田城を経て
多賀城方面に向かい、一路鎌倉を目指したのです。1190年1
月のことです。そのとき大河兼任は自らを源義経と称して軍を挙
げているのです。情報が伝わりにくい当時のことであり、鎌倉方
から見れば、義経はまだ生きており、それが軍を率いて攻めてき
たと勘違いすることを見越しての戦略です。
 しかし、途中の八郎潟付近の志賀の渡しで、突然氷が解けると
いう事故により、多くの兵を水死させてしまうのです。それでも
進軍しながら兵を増強させ、約1万騎の軍勢で、鎌倉側と再三に
渡って合戦を行います。
 ところが、鎌倉勢の大軍に破れ、大河兼任は500騎ほど率い
て逃走し、平泉に陣を張って防戦するのです。しかし、衆寡敵せ
ず破れ、敗走します。そして、宮城県栗原郡にある栗原寺に逃げ
込むのですが、大内兼任はそこで討たれています。この栗原寺は
義経ゆかりの寺とされています。
 この大河兼任の乱は『吾妻鏡』に記述されています。大河兼任
が討たれた模様は、『吾妻鏡』の3月10日の項に次のように記
述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大河次郎兼任、ひとり進退に迫り、花山・千福・山本等を歴て
 亀山を超え、栗原寺に出づ。ここに兼任、錦の脛巾を着け、金
 作りの太刀を帯くの間、樵夫等怪しみをなし、数十人これを相
 囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正(千葉)以
 下に告ぐ。よってその首を実検す云々。
              ――『吾妻鏡』の3月10日より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、大河兼任は殺されています。しかし、この記述に
は不可解なところがあります。それは「錦の脛巾を着け、金作り
の太刀を帯く」の部分です。ずい分目立つ格好であり、逃亡中の
武士はそのような格好をするとは思えないのです。それになぜ樵
夫が登場し、斧で殺されなければならなかったのでしょうか。
 そのことから、これは明らかに大河兼任の替え玉であると思わ
れるのです。斧で殺されたのは、顔を潰してわからなくするため
ではなかったのでしょうか。
 しかし、『吾妻鏡』に「大河兼任死す」とあると、それは歴史
的事実とされてしまうのです。『東日流三郡誌』には次の記述が
残れているといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経一行が十三湊を離れた一年ほど後に、大河兼任の一族二百
 名が義経一行の後を追って、安東水軍の船で出航した。
                 ――『東日流三郡誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 断っておきますが、『東日流三郡誌』には歴史書としては問題
があるといわれています。別説として、栗原寺の僧侶が大河兼任
の頭を丸めさせ、密かに津軽方面に逃がしたという説もあるので
す。大河兼任については諸説があり、これも伝説化されているの
です。いずれにしても、史実上は問題があるのですが、そうかと
いって『吾妻鏡』に書かれていることがすべて真実であるともい
えないのです。
 大河兼任であるかどうかは別として、義経の後を追って200
騎ほどの軍勢が海を渡り、当時西蝦夷にいた義経軍と合流してい
るのです。そして、300騎以上になった義経軍は安東水軍の船
でサハリン島を経て大陸に渡ったのです。 [義経の謎/12]


≪画像および関連情報≫
 ・大河兼任
  極寒の奥州を縦横無尽に駆け抜け、幕府軍を翻弄した豪傑。
  出羽の豪族で、奥州藤原氏に従う。奥州藤原氏が滅亡すると
  旧主の仇を討つと称して、配下の伴党ら7000人を従えて
  橘公業の拠点を襲撃、敵軍を全滅させている。
  次いで由利維平を滅ぼすと、今度は素早く北上し、津軽の宇
  佐美実政を敗っている。しかし、一迫にて源頼朝の命を受け
  千葉常胤、比企能員、足利義兼ら討伐軍と結城朝光ら奥州在
  留の御家人による鎮圧軍が反撃を開始。以後は連敗し、花山
  の栗原寺にて味方の樵夫たち数十人に包囲されて斧で殺され
  ている。

大河兼任と八郎潟.jpg
大河 兼任と八郎潟
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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