2010年05月27日

●果たせなかった4回目の紅白出場(EJ第1626号)

 「民主中国陣線」――テレサ・テンが自分の生活の拠点をパリ
に移してまで支援しようとしていた団体ですが、時間の経過と共
に彼女は次第に彼らと距離をおくようになっていったのです。
 それは「民主中国陣線」内部の度重なる内紛、腐敗などにある
のです。テレサ・テンをはじめ当初は大量に寄せられた資金を無
駄なことに費やしたり、持ち逃げする者まで現れ、メンバーは激
減してしまったのです。
 それにフランス政府自体が中国寄りの姿勢をとるに及んで、民
主中国を実現する運動は一層やりにくくなってきたのも事実なの
です。そもそも自らは海外の安全な場所にいて、そこから民主中
国を実現する運動をすること自体に無理があったのです。
 まして周りは中国の環境とはまるで違う自由の国フランス――
若者の中にはそれに目を奪われ、自分を見失ってしまう者も少な
からず出てきたのです。組織が衰退するのは時間の問題だったと
いえます。そして、こんなことがいわれるようになったのです。
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 共産党は40年かかって腐敗したが、パリの民主化運動組織は
 たったの4ヶ月で腐敗してしまった・・・と。
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 どうやらテレサ・テンは、パリに生活の拠点を構えて、資金は
日本で稼ぐことによって、民主中国化運動を支える計画を持って
いたようです。その時点でのテレサ・テンの音楽活動は、香港や
台湾でも年に1回程度しか歌っていないのですが、日本では年に
2曲程度の新曲を出しており、CM――金鳥の蚊取り線香/何日
君再来、メナード化粧品/あなたと共に生きてゆく――などにも
積極的に出るようになっていたのです。しかし、往時の勢いは既
になくなっていたのです。
 1993年10月24日――テレサ・テンはフランスを離れて
香港に戻ります。そのときパリで出会った14歳年下のステファ
ン・ピュエールなる恋人と一緒だったのです。そして、二度とフ
ランスの自宅に戻ることはなかったのです。
 このステファン・ピュエール――たいした人物ではなく、非常
に疑惑の多い男なのです。テレサ・テンはこの人物と出会ってか
ら、急速に運が傾き、生活自体が乱れていったのです。この頃の
テレサ・テンはしばしば体調を崩し、かなり痩せていたのです。
そして、ステファンとしばしばチェンマイに現れる頃には容貌が
一変し、相当老け込んでしまっています。
 有田氏の本によると、テレサ・テンはステファンと何度も別れ
ようとしたようです。本に次の一節があります。テレサ・テンと
ステファンの関係がよくわかります。
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  香港の自宅でのことだ。ある日の夜中、大喧嘩をした二人が
 二階から降りてきた。テレサは泣きながら「出ていけ」と叫ん
 だ。ステファンは家を出たが、十分ほどあとでチャイムが鳴っ
 た。外は大雨だったので、全身はすぶ濡れだ。その姿を見たテ
 レサはそれ以上怒ることはできなかった。激しい喧嘩が繰り返
 されるようになっても別れなかったのは、テレサが優しすぎた
 からである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 この時期になってもテレサ・テンは台湾に戻ると、軍への慰問
を無報酬できちんと続けていたのです。台湾政府はこの献身的な
テレサ・テンの軍への協力に非常に感謝していたのです。そのた
め、テレサ・テンスパイ説などが彼女の死後出てくる原因のひと
つとなるのです。
 テレサ・テンは寒さに弱いのです。そのため冬になると通常は
タイのプーケットで過ごすことが多かったのです。しかし、ここ
は雨が多く不満を持っており、代わりに見つけたのが北部のチェ
ンマイなのです。
 テレサ・テンが最初にチェンマイを訪れたのは、1994年8
月のことです。常用していたホテルは、インペリアル・メービン
ホテルであり、1995年までに3回利用しています。そして、
このチェンマイがテレサ・テンの最後の地になるのです。
 同じ1994年10月23日――テレサ・テンは日本に来てい
ます。24日に仙台市で行われるNHKの「歌謡チャリティコン
サート」に出演するためです。その目的は、その年の暮れに行わ
れる紅白歌合戦への出場を確実にするためといわれています。
 ここまでテレサ・テンは、1985年、1986年、1991
年と3回の紅白出場を果たしていますが、1994年の紅白にも
出場を狙っていたのです。この時点での日本におけるテレサ・テ
ンの人気には陰りが出ており、紅白出場で何とか劣勢を挽回した
いと考えていたのです。
 しかし、このときのテレサ・テンの体調は最悪であり、いつも
は決してわがままをいわないテレサ・テンは、この来日のときだ
けは決まっていたスケジュールを大幅に修正させたり、飛行機に
乗り遅れたりと、失敗の連続だったようです。後でわかったこと
ですが、テレサ・テンはステファンと大喧嘩して、日本に来てい
たのです。終始不機嫌だったのはそれが原因なのです。
 本番でテレサ・テンは「夜来香」と「時の流れに身をまかせ」
を歌ったのですが、いつもなら滑らかに出る声に張りはなく、明
らかに不調だったのです。そして、今考えると、これがテレサ・
テンの日本での最後の歌になってしまったのです。
 この最後の来日のとき、成田空港でラジオ番組用の収録が行わ
れています。このときの声は元気がなく、最後に「日本にまた来
たいです。テレサ・テンでした」としめくくっています。
 飛行機の出発時間がきたとき、トーラス・レコードの鈴木章代
さんは「身体に気をつけて。香港の空港にはステファンが迎えに
きているからね」と呼びかけています。
 これに対してテレサ・テンは、「ありがとう。行ってきます」
と言葉を返しています。これがテレサの見納めとなったのです。
               ・・・[テレサ・テン/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ステファンとのツーショット
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

テレサとステファン.jpg
テレサとステファン


posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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