2010年05月26日

●なぜ、香港を捨ててパリに行ったのか(EJ第1625号)

 「歌で中国人の心をひとつにしたい」――こう考えるテレサ・
テンの希望は、天安門事件によって無残にも踏みにじられること
になります。ショックが大き過ぎて、1989年6月24日から
予定されていた日本でのキャンペーンは中止せざるをえなくなっ
たのです。しかし、21日に予定されていたテレビ朝日の「郷ひ
ろみ宴ターテイメント」への参加は中止するわけにはいかず、香
港からの中継で参加しています。
 そのときテレサ・テンは黒いチャイナドレスに真珠のネックレ
スをしていましたが、これは明らかに天安門事件の犠牲者に対す
る喪装だったと思われます。歌った歌は「香港」――この歌の二
番の歌詞「心だけが帰るところはきっとこの街」のところで涙声
になり、あとは泣きながら歌っているのです。
 天安門事件のあと、テレサ・テンは香港の自宅を紫一色に塗り
変えています。気分の一新ということもあるでしょうが、199
7年に香港が中国に返還されると、人民解放軍がやってくること
を非常に恐れており、それを防ぐという意味もあっての改装とも
いわれています。紫という色は運がついてきて、自分を守ってく
れる――これはつねづねテレサ・テンがいっていた言葉です。
 そのため、テレサ・テンの邸宅は「紫の館」と香港の人々にい
われるようになったのです。しかし、テレサ・テンは、内心ひそ
かに恐れていた1997年の香港返還まで残念ながら生きること
はできなかったのです。
 1989年11月20日――テレサ・テンは香港をあとにして
パリに旅立ちます。それは単なる旅ではなく、生活と音楽活動の
拠点をパリに移すための決意の旅立ちだったのです。
 彼女はこの突然のパリ行きについては母親にも相談せず、一人
で決断しているのです。とりあえずのパリでの生活の拠点は、凱
旋門から10分くらいの距離にあるフォブール・サン・トノレ通
り230番地の家具付きワンルームだったのです。そして一年後
にモンテニュー大通りのアパルトマンを購入しています。本気で
長く住むつもりであったことがこれでわかります。
 なぜ、気に入っていた香港での生活を捨てて、パリに移ったの
かについて、有田芳生氏はテレサ・テンに何回も尋ねていますが
彼女は次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 政府は全然信用できないですからね。もし、わたしが無視して
 自分のいい生活をそのままして(いたら)、多分そのあと大きな
 災難(が)来ると思います。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このテレサ・テンのことばを聞くと、やはり彼女はやがて中国
政府が自分に対して、何らかの関与をしてくるのではないかと考
えていたことがわかります。確かに中国政府から見ると、大陸と
台湾の両岸で高い人気を持つ有名な歌手テレサ・テンは、政治的
に一番有効に利用できる存在であるからです。
 「香港にいては危ない」――テレサ・テンがそう考えたのは間
違いないとしても、それではなぜ、フランスなのでしょうか。テ
レサ・テンはフランス語がまったく話せないのです。
 有田氏の本を読んでわかったことですが、天安門事件が起こっ
た1989年という年は、フランス革命から200周年に当る年
なのです。フランス政府は、パスポートや身分証明書を持たない
者であっても積極的に中国からの政治亡命者を受け入れる方針を
明らかにしていたのです。
 これによって、パリは中国からの政治亡命者を大量に受け入れ
「民主中国陣線」(FDC)が結成されたのです。海外から中国の
民主化を推進する――それが目的だったのです。
 この組織のリーダーとしては、学生リーダーのウアルカイシや
チヤイ・リン(柴玲)、経済学者のイエン・チアー・チー(厳家
其)などが就任し、活発に活動を始めたのです。
 テレサ・テンのパリ移住がこのことと無関係であるとは思えな
いのです。彼女としては、自分もパリに住まいを移し、「民主中
国陣線」を何らかのかたちでバックアップしたかったのではない
か――そう思われるのです。
 彼らはフランスのマスコミと連携して声明を出したり、「人民
日報」の海賊版をFAXで送りつけるなど、さまざまな活動をは
じめたのです。実際にパリに居を構えたテレサ・テンは、彼らと
食事をしたり、集会に参加したりしてお互いに中国の情報を交換
しています。
 さらに具体的にテレサ・テンは「民主化支援コンサート」を開
こうと提案しています。「民主中国陣線」では、野外でやるか、
劇場でやるかが話し合われ、劇場でやる方がベターであるという
ことになったのです。会場はブローニュの森の北東角にあるパレ
・デ・コングレでやろうということになったのです。
 実際にコストが計算され、全部で120万フラン(約2640
万円)かかることがわかったのですが、それを支援してくれる新
聞社や団体はどこもなかったのです。
 しかし、「お金の心配はいらない」といっていた頼みの綱のテ
レサ・テンは最終的に「民主中国陣線」のコンサートプランには
乗らず、天安門事件に抗議するコンサート構想は幻に終わってし
まったのです。
 テレサ・テン自身が話していないので、本当の理由は推測する
しかないのですが、次の2つの理由からであると考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンは屋外の無料コンサートを考えていたのに、
   民主中国陣線は劇場で有料開催にこだわったこと
 2.多数の死者が出た事件に対して、歌うという行為で抗議す
   ることに最終的に疑問を感じてしまっていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民主中国陣線は組織としてうまくいっておらず、資金不足で焦
りがあり、そこがテレサ・テンと折り合えなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/20]


≪画像および関連情報≫
 ・パリ時代のテレサ・テン
  平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より。晶文社刊

セーヌ川とテレサ・テン.jpg
セーヌ川とテレサ・テン


posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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