2010年05月24日

●ハッピー・ヴァレーでのテレサ・テンの歌(EJ第1623号)

 テレサ・テンがハッピーヴァレーに行って歌おうと決意したの
は、会場で3人の歌手が歌い終わった直後です。彼女は鐘肇峯の
了解をとりつけると会場に電話をして歌うことを告げています。
 会場の関係者は非常に喜び、「漫歩人生路」を歌ってくれませ
んかと曲をリクエストしてきたのです。この曲は中島みゆき作詞
・作曲の「ひとり上手」の中国語バージョンであり、香港でヒッ
トしていたのです。主催者はテレサ・テンが当初出演を断ったに
もかかわらず、多くの人を動員するため、勝手にテレサ・テンが
出演してこの歌を歌うことを発表していたのです。
 しかし、テレサ・テンはこれを拒否し、支度をしてすぐ家を出
るのです。決意してからというものテレサ・テンは泣きっぱなし
で涙を流しており、化粧をしないで、ジーンズにTシャツを着て
サングラスをかけたのです。テレサ・テンとしては異様ないでた
ちで、ベンツ280に乗って出かけたのです。
 テレサ・テンは途中で鐘肇峯をひろって、ピアノが弾けるとこ
ろを探しまくっています。短い時間でも練習したいと考えたから
です。しかし、あいにく使えるピアノはなく、そのままハッピー
ヴァレーにある亜細亜酒店(アジアホテル)に行ったのです。こ
のホテルは出演者の衣装替えに使われていたからです。
 テレサ・テンはそこで、主催者から集会のために制作されたT
シャツを渡されるのです。そこには「民主歌声献中華」と書いて
あったのです。
 テレサ・テンはそのTシャツには着替えたのですが、化粧はせ
ず、そのまま主催者のバンに乗って会場に向ったのです。そして
出番がきたとき、テレサ・テンは「民主萬歳」と赤い文字で書い
たハチマキをして、胸と背中に2枚のプラカードをぶら下げてい
たのです。前面には「反対軍管」、背中は「我愛民主」とテレサ
・テン自身の字で書かれていたのです。
 司会者の若者に紹介されてテレサ・テンが舞台に登場すると、
彼女の異様ないでたちに一瞬会場は静まり返り、そのあと大歓声
が湧いたのです。テレサ・テンはマイクを取ると、次のように挨
拶しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ありがとう。みなさん本当にありがとう。これほど熱心に民主
 を打ち立てようと努力している。そんなみなさんと香港で一緒
 にいられることをとてもうれしく思います。わたしはある一つ
 の歌を練習してきました。その歌をわたしはこれまで歌ったこ
 とはありません。この歌を耳にしたことのあるひとも少ないは
 ずです。みなさん、この歌を聴いて、わたしのこころがいった
 い何を叫びたかったのかわかってください。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 テレサ・テンはこういうと鐘肇峯のピアノを伴奏に歌い始めた
のです。
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       わたしの家は山の向こう
       そこには豊かな森があり
       そこには果てしない草原がある
       ・・・・・・・・・・・・・・
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 驚くべきことに、有田芳生氏の本にはテレサ・テンがハッピー
ヴァレーの競馬場の集会で歌った「我的家在山的那一邊/私の家
は山の向こう」が収録されているCDが付いているのです。おそ
らく会場で誰かが録音したカセットテープをダビングしたものと
思われます。そこには、歌う前にテレサ・テンが話した小さな演
説――(前述)も入っています。聴いてみると、感情がこもって
おり、胸を打ちます。
 そもそもこの歌は、1936年、日中戦争当時に「松花江上」
のタイトルで流行した歌であり、かつての日抗歌なのです。この
歌は1960年代に入り、共産党政権に追われて家を失い、故郷
を後にした外省人の望郷歌として再現されているのです。昔の台
湾の人々なら誰もが知っている歌ですが、大陸では絶対に歌われ
ない歌なのです。したがって、テレサ・テンはこの歌を歌うこと
によって北京政府に対して明確に抗議したのです。
 このとき舞台の袖には候徳鍵(ホウ・ドウチエン)という台湾
出身のシンガーソングライターがテレサ・テンの歌を聴いていた
のです。この候徳鍵は、6月4日未明のいわゆる天安門広場の虐
殺のあと、姿を消すのですが、これについては改めてお話しする
ことにします。
 テレサ・テンが「我的家在山的那一邊」を歌った直後から資金
カンパが激増し、この日だけで1200万香港ドル(約2億16
00万円)を超えたといいます。香港においてテレサ・テンの影
響力がどんなに大きいかを示すエピソードです。
 5月27日のマラソン・コンサート(30万人参加)の次の日
は「全世界華人抗議デー」と名づけられたのですが、香港では民
主化支援デモが行われ、約200万人が参加しています。
 しかし、北京では政府の圧力によってデモは徹底的に押さえ込
まれ約5万人、上海では1万人、南京では3万人がデモに参加す
るにとどまっています。
 こういう状況を見て、天安門広場に座り込みを続ける学生指導
部の間では占拠継続か撤退かの意見の対立が生じていたといわれ
ているのです。
 1989年6月2日――そのとき天安門広場にいた学生は、約
3000人、そこに新たに知識人や有名歌手ら4人が「李鵬政権
の高圧的政治に反対する」として、72時間の時限ハンストに突
入したのです。その4人の中に前述の台湾のシンガーソングライ
ター候徳鍵も入っていたのです。
 このことが天安門広場にいる学生たちに大きな心の支えになっ
たことは確かです。そして、運命の6月4日未明を迎えることに
なります。
               ・・・[テレサ・テン/18]


≪画像および関連情報≫
 ・「我的家在山的那一邊/私の家は山の向こう」
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 私の家は山の向こう       私の家は山の向こう
 そこには豊かな森があり     張おじさんは喜びを失い
 そこには果てしない草原がある  劉おじさんは笑顔をしまい込んだ
 春には稲や麦の種を撒き     鳥は暖かな巣を飛び立ち
 秋には刈り取り新年を待つ    春は冷え冷えとした冬に変わった
 張おじさんは愁いなく      親しい友らは自由を失い
 劉おじさんは永遠に明るい    麗しい団欒を捨て去った
 地底から飛び出した狸鼠によって 友よ一時の歓楽を貪るなかれ
 全てがすっかり様変わり     できるだけ早く帰って
 それは山脈を孤独にし      民主の火を燃やそうよ
 人間的な善良を飲み込んだ    私の育った所を忘れちゃいけない
          それは山の向こう
          山の向こうなの        (館野雅子訳)
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     ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン.jpg
パッピー・ヴァレーでのテレサ・テン


posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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