2010年05月21日

●テレサ・テンはなぜ決断したのか(EJ第1622号)

 香港島の最南端に海を望む高級住宅街があります。街の名前は
スタンレー――1987年、テレサ・テンはそこに二階建ての住
居を購入し、住むようになります。この住居は付近の住民からは
「紫の館」と呼ばれていたのです。(添付写真参照)
 スタンレーの中国語名は「赤柱」で、実は「泥棒の隠れ家」を
意味するのです。英国の植民地大臣のスタンレー侯爵にちなみ、
1845年にスタンレーと改名されましたが、中国人の多くは今
でも古い名前の「赤柱」と呼んでいます。
 中国人は住宅を購入するとき「龍が住めるかどうか」という奇
妙なことを必ず考えるといわれます。中国では皇帝から庶民まで
龍は「運を呼ぶ縁起の良い動物」として、とても尊重されている
からです。
 香港に住むとしたらどこを選ぶかということになると、それは
英国人の住んでいたところということになります。彼らは一番良
いところに住んでいたに決まっているからです。そこは、浅水湾
(レパルス・ベイ)――高級ビーチリゾートで、映画『慕情』の
舞台となったところです。(添付写真参照)
 テレサ・テンも浅水湾を最初は考えたのですが、「浅水湾では
龍が住めない」という理由でやめています。彼女は自分の生年月
日が旧暦では「辰年」に当るので、とくに龍にこだわっていたの
です。これが住居をスタンリーに決めた理由です。
 さて、香港の作曲家に鐘肇峯(ツオンツアーフオン)という人
がいます。鐘肇峯はテレサ・テンが新曲を録音するときにその編
集作業を手がけていたのです。未確認情報ですが、テレサ・テン
は、楽譜(スコア)が読めなかったといわれているのです。その
ために新曲を出すに当っては、その介添え役をする作曲家が必要
だったのです。鐘肇峯はこの面で香港におけるテレサ・テンのサ
ポートをしていた作曲家の1人なのです。
 余談ですが、作曲家の三木たかしは、テレサ・テンに歌を与え
るとき、歌の内容を説明し、中国語で完全に理解させます。その
うえで、ピアノを弾きながら自分で歌って聞かせるのです。この
ようにしてテレサ・テンに歌を覚えさせたといっています。
 テレサ・テンが亡くなったとき、三木たかしと荒川とよひさは
次のCDを出しています。
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    『ありがとう テレサ・テン/三木たかし』
    TACL−2407/taurus   
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 CDには三木たかしと荒川とよひさのコンビで作ったテレサ・
テンのヒット曲をすべて三木たかしが歌っているのです。作曲家
であり、自分の作った曲といっても歌は素人です。それでもあえ
て歌う――それがテレサ・テンへの感謝であり、思い出であり、
心からの追悼になると三木は考えたのだと思います。
 三木の歌はしみじみと聴く者の心に訴えてきます。私はこの三
木の歌とテレサ・テンの歌を交互に聞けるよう編集してみたので
すが、これがなかなかいいのです。それが、歌を歌いながら教え
たテレサ・テンへの三木・荒川コンビの心からなる追悼のメッセ
ージとなっているからです。
 天安門広場に座り込みをしている学生たちを支援する12時間
のマラソン・コンサートは、1989年5月27日に香港島にあ
るハッピーヴァレー競馬場で行われることになっていたのです。
 このコンサートの模様は、香港のテレビ各局――TVB、AT
V、RT香港、CR香港が中継することになったのです。そして
これとは別にコンサート前日の26日に20万人の若者がヴィク
トリア公園に集まって、天安門広場の学生支援を訴えたのです。
 テレサ・テンは、このマラソン・コンサートに最初は参加する
気はなく、出演呼びかけに対して明確に断っていたのです。しか
し、その心中は迷いに迷っていたのです。
 26日の朝、テレサ・テンは鐘肇峯に電話をかけて、実はコン
サートに出るかどうかいまだに決めかねているが、もし、直前に
なって出ようと思ったときはピアノを弾いてくれるかどうか確か
めています。鐘肇峯はこの申し出を了承しています。そして、何
を歌うのかと聞いたのです。
 そのとき、テレサ・テンは次のように答えているのです。その
歌は鐘肇峯が聞いたことのない歌だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   我的家在山的那一邊//私の家は山の向こう
   ウオダチアーツアイシャンダナーイーピエン
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 そうです。有田芳生氏の本のタイトルと同じです。26日にテ
レサ・テンは鐘肇峯とある教会で会い、そこにあるピアノでこの
歌を練習しているのです。
 このときもテレサ・テンは鐘肇峯にまだ歌うかどうか決めてい
ないと告げ、行くときは連絡するということを約束しています。
彼女はこの時点でも、大陸の方からコンサートの話を持ちかけて
きたことにこだわっていたのです。テレサ・テン自身がそのコン
サートが台湾と大陸との何らかのかけ橋になればそれこそ自分の
望むことであると考えていたからです。
 しかし、天安門広場で座り込みを続ける学生に対して、中国政
府は戒厳令をひき、北京の郊外に20万人の軍隊を待機させてい
るのです。軍隊の力で自由を圧殺するなんて・・・そんな国に平
和のためのコンサートが開けるはずがない――テレサ・テンはこ
う考えて、電話機をとって鐘肇峯に電話をかけるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   わたし、やはり行きます。よろしくお願いします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この時点では、6月4日未明にあんなひどいことが起
こるとは、テレサ・テンをはじめ誰も考えていなかったのです。
人民軍が人民にあんなひどいことやるとは!――それはとうてい
座視できることではなかったのです。
               ・・・[テレサ・テン/17]


≪画像および関連情報≫
 ・上の写真
  香港島のスタンレーにおけるテレサ・テンの家
 ・下の左の写真
  浅水湾――レパルス・ベイ
 ・下の右の写真
  スタンレーにある洒落たフランス・レストラン

スタンレーのテレサの邸宅.jpg
スタンレーのテレサの邸宅


posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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