2010年03月11日

●ライプニッツやフラムスティードとの確執(EJ第2229号)

 ロバート・フックに続いてニュートンと先取権争いをした学者
は、ゴットフリート・ライプニッツとジョン・フラムスティード
の2人です。前者は微分積分の先取権争いであり、後者は月の観
測データを巡る争いです。
 ケプラーの逆2乗則――万有引力の法則の先取権争いについて
は明らかにロバート・フックに分が悪かったといえます。ただ、
そのときニュートンは王立協会の会員になったばかりであり、事
務局長のロバート・フックに抗すべくもなかったのです。
 しかし、微分積分の先取権争いのときのニュートンは高名な学
者になっており、かなり強引な争いをやっているのです。ニュー
トンは王立協会の協会長になると、その地位を利用して各大学に
自分の息のかかった人間を送り込み、やがて英国の科学界に君臨
するようになっていったのです。したがって、ニュートンの逆鱗
に触れると大変であり、多くの学者はニュートンを恐れるように
なったといいます。
 ライプニッツは1684年に微分積分法を発表しているのです
が、ニュートンは1687年にプリンピキアで発表しているので
す。したがって、発表はライプニッツの方が早いのです。しかし
ニュートンは何らかの方法で、ライプニッツが自分の微分積分法
を盗んだと主張したのです。ニュートンは既に1666年に微分
積分法を考案していたと主張したのです。
 ライプニッツの数学的業績としては、第一に微分積分法ですが
それ以上に重要な業績は今日の形式言語に該当するものを考案し
ていることです。この形式言語を利用することで、どのような推
論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることがで
きるのです。また、ライプニッツは2進法も研究しており、後の
コンピュータ開発の基礎になる技術を先取りしていたのです。
 そういうわけですから、ライプニッツがニュートンの微分積分
法を盗んだとはとうてい思えないのです。彼は微分積分法に対す
る適切な記号を考案しており、現在使われている微分積分の記号
は、ライプニッツの考案によるものです。
 それでは、ジョン・フラムスティードとはどういう争いがあっ
たのでしょうか。ジョン・フラムスティードは、英国の天文学者
です。彼は、1666年と1668年に起きた日食を正確に予測
した功績によって、1675年に初代の英国王室天文官に任命さ
れています。
 ニュートンは月についても研究しており、それを前進させるた
め、フラムスティードに月の観測データの提供を求めたのです。
しかし、フラムスティードとしては、もう少し観測精度を上げて
から発表は自分の手で行いたいと考えていたので、ニュートンの
要請を拒否したのです。
 ニュートンははじめのうちは丁重にデータを要求したのですが
拒否されると居丈高になり、その政治力にものをいわせて、子分
にしていたハレーを使って、フラムスティードの観測データを強
引に雑誌に掲載させる措置を取ったのです。
 それに加えて69歳のニュートンは王室協会長として、65歳
のフラムスティードを呼び出して問い詰め、フラムスティードの
言に怒り狂ったニュートンは公衆の面前でフラムスティードに罵
詈雑言を浴びせるということまであったのです。
 これが原因でフラムスティードは失意のうちに1719年に死
亡してしまうのです。このようにして、ニュートンは頑健な体力
で、フラムスティードにも勝ったのです。
 なぜ、ニュートンはかくもフラムスティードに冷たかったのか
というと、それはひとつだけニュートンがフラムスティードに負
けたことがあるからです。
 それは、1680年に現われた彗星をフラムスティードが正確
に1つの彗星であると指摘したのに対し、ニュートンは2つであ
ることに固執したのです。しかし、結局フラムスティードの方が
正しいことをニュートンは認めざるを得なかったのです。
 ニュートンやハレーとフラムスティードとは、天文台長の仕事
の認識が根本から異なっていたのです。ニュートンらは天文台長
は観測データを提供するサービス業であると考えていたのに対し
フラムスティードは観測家として誇りを持ち、少しでも誤差の少
ない観測データを自らの手で発表したいと考えていたのです。実
際にフラムスティードはそういうデータをまとめて、「英国天文
誌」に出版したのですが、生前は出版を差し止められ、出版され
たのは死後の1725年になってからだったのです。
 しょせん、ニュートンとフラムスティードとは学者としても地
位としても差があり過ぎて、争いにならなかっのです。それに加
えてニュートンは健康であり、死の直前まで元気そのものであり
長く英国の学会に君臨したのです。
 後日談ですが、1727年の最後の王立協会の席でもニュート
ンは元気そのものであり、そのとき、第2代の天文台台長になっ
ていた71歳のハレーを観測データの報告が遅いことを頭ごなし
に叱責したというのです。しかし、それから半月後にニュートン
は死亡しています。
 このように見ていくと、ニュートンという人物は科学者として
は一流の人物であったことは確かですが、尊大な権威主義者で、
強大な政治力を持ち、自分に歯向かう者には徹底的にねじふせる
ところのある人物だったようです。
 ニュートンが学者でも政治力が必要であると感じたのは、王立
協会での最初の論文発表が、ロバート・フックに潰されたことが
原因であったようです。もともと性格は臆病であり、自分の研究
発表には異常なほど慎重であったのです。
 このように学会を牛耳る政治力を得たニュートンでも聖書の研
究に関しては、文字通り用心深く秘密裡に行っていたのです。そ
れは、教会勢力を心から恐れていたからです。
 ニュートンの輝かしい業績のどれよりも時間をかけて取り組ん
だ聖書の研究――これに比べれば他の学問的業績は彼にとって附
加的なものに過ぎなかったのです。[ニュートンの予言/07]


≪画像および関連情報≫
 ・「プリンキピア」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『自然哲学の数学的原理』は通称「プリンキピア」とも言わ
  れ、初版は1687年に出たが、本書は1726年にロンド
  ンで出版された第3版である。ニュートンは、早くから無限
  級数を研究して1664年に2項定理を樹立し、流分法の思
  想を求積や接線の問題に応用して、その成果を論文で発表し
  ている。流分法の独立の展開―――微積分法の概念を示した
  『プリンキピア』の構成はエウクレイデスの『幾何学原理』
  の構成をそのまま採用している。『プリンキピア』では定義
  の次に運動の諸公理と題して3原理とそれを補足して6系を
  あげている。いわゆる「ニュートンの運動の3原理」として
  知られているもので、ニュートン力学の根本原理である。
   ――http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/166.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ライプニッツ&フラムスティード.jpg
ライプニッツ&フラムスティード
posted by 管理者 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | ニュートンの予言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
≪画像および関連情報≫
 ・「プリンピキア」について

このタイトルを含めて、4箇所、プリンキピア
を間違って「プリンピキア」と表示しております。ご訂正を。

元ネタの誤りかも知れません。遡って点検すべ
きかも。
Posted by ryu nakajima at 2013年05月16日 10:01
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