バノックバーンの戦いについて、もう少し詳しくご紹介する必
要があると思います。というのは、この戦いがスコットランドに
独立をもたらすことになったからです。
1313年のことです。ロバート・ブルースの弟であるエドワ
ード・ブルースが、スターリング城に立てこもる少数のイングラ
ンド兵を包囲したのです。投降を呼びかけるエドワード軍に対し
スターリング城からは次のような奇妙な調停案が出され、スコッ
トランド軍は、それを受け入れたのです。
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翌年(1314年)の夏までにスターリング城の5キロ以内に
イングランド軍が救出にやってこないときは降伏する。
――スターリング城のイングランド軍
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ちょっと考えると、馬鹿馬鹿しい条件のようですが、イングラ
ンド王のプライドを考えた場合、そのままスターリング城の兵士
を見殺しにすることはプライドが許さないはずだったのです。
したがって、イングランド軍がスターリング城の救出にやって
くることはわかっていたのですが、イングランド軍は途方もない
大軍を率いてやってきたのです。明らかに、このさい、スコット
ランド軍を殲滅し、スコットランドを占領するという考え方によ
る動員兵力だったといわれています。
歴史書の記述によると、その兵力は10万人と記述されていま
すが、これは明らかに誇張があって、兵力はせいぜい2万人ぐら
いであったといわれています。対するスコットランド軍は約7千
人程度−−つまり、イングランド軍はスコットランド軍の3倍の
戦力だったのです。
バノックバーンというのは、スターリング城から4キロの地点
にあるのですが、そこで歴史に残る死闘が行われたのです。その
とき、明らかにスコットランド軍とは違う異色の騎兵隊が、軍旗
をたなびかせて突撃してきたというのです。マイケル・ベイジェ
ント/リチャード・リーの本に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イングランド軍、スコットランド軍双方が終日の戦闘で疲れ切
っていたとき、新たな援軍の唐突な到来が勝敗の帰趨を決した
のである。これによって、イングランド軍がパニックを起こし
エドワード王は500名の騎士を随えてあわてて戦場から逃げ
出した。王が逃げるのを見て士気沮喪した歩兵たちも、ただち
にそのあとを追いかけた。この退却によってイングランド軍は
全軍総崩れになり、糧食、軍事行李、貨幣、金銀の皿、武器、
鎧兜、兵装を投げ捨てて逃げ去った。
−マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊
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これは明らかにテンプル騎士団であると考えられます。しかし
その真偽については、確実な証拠がまったくないのです。イング
ランド側もスコットランド側も、記録上はこのことにあえて触れ
ていないからです。
おそらくイングランド側から見れば、屈辱的なことは書きたく
ないでしょうし、ブルースとしてはテンプル騎士団が加わってい
ることは伏せておきたかったからであると思われるのです。
このバノックバーンの戦いの結果により、イングランドによる
スコットランド占領の野望は完全に潰えたといえます。しかし、
ブルースの残りの15年間の統治期間は依然として激動の時代が
続いたのです。それは、教皇の破門が依然として解けなかったこ
とに原因があります。
イングランド王は、何とかしてスコットランドの高位聖職者を
スコットランド教会から排除したいと考えていたのです。代表的
なのは次の3人の司祭です。
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セント・アンドルーズのラムバートン
グラスゴーのウィシャート
ダンケルドのウィリアム・シンクレア
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しかし、ブルースはこれらの司祭たちとがっちりと手を組んで
教皇の働きかけに公然と反抗したのです。教皇は、これらの3司
祭に対し、釈明のため出頭するよう命じてきたのですが、彼らは
この命令を無視したため、ブルースとともに全員が追加の破門の
通達を受けたのです。1320年のことです。
時の教皇ヨハネス22世は、ブルースに対しては「王」という
呼称を使うことを断固として拒み、あえて「スコットランド王国
の支配者」と呼んで蔑んだというのです。教皇がブルースを国王
と呼ぶようになったのは、1324年になってからのことですが
それでも破門は解けなかったのです。
1320年4月6日、スコットランドの貴族たちは、アーブロ
ースにおいて、「スコットランド独立宣言」を出しています。こ
の文書は、シートン家、シンクレア家、グレアム家の代表者を含
む総計8名の伯爵と31名の貴族に託され署名されています。
この「スコットランド独立宣言」は、王と臣民の関係を規定す
る、きわめて洗練された現代的なものだったのです。
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貴族らは栄光や富、名誉のためでなく、自由のためにのみ戦っ
た。それは真の人間ならば、命に代えても明け渡すことのでき
ない権利である。 ――「スコットランド独立宣言」より
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1328年10月、ロバートは遂に破門が解かれ、スコットラ
ンドは、キリスト教世界に復帰することになったのですが、ロバ
ートはその翌年6月3日にこの世を去っています。これによって
テンプル騎士団は秘密結社となって、社会の表舞台から姿を隠す
ことになります。 ・・・[秘密結社の謎を探る/46]
≪画像および関連情報≫
・スコットランド独立宣言
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戦に負けたイングランドは政治戦に出る。1319年にロー
マ教皇John XXIIに対してイングランドは、「スコットラン
ドは謀反者であり独立を認めるべきでない」と訴えた。教皇
は、スコットランドの4人の司教にこの訴えに対するスコッ
トランド側の答弁を要求、ここにかの有名な”アーブロース
宣言“が書かれたのである。
http://www.ballantines.ne.jp/enjoy/inatomi/02_08/02.html
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2009年01月13日
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