2009年01月09日

●騎士団が来るまでのスコットランド(EJ第1871号)

 フリーメーソンの起源を追跡するシリーズは、舞台がフランス
からスコットランド−−英国に移りました。これは「ダ・ヴィン
チ・コード」と同じ展開ですね。ここでテンプル騎士団を受け入
れる前のスコットランドの状況を調べてみる必要があります。
 ローマ時代のスコットランドは、ピクト人が支配していたので
すが、5世紀の後半になると、アイルランドからケルト人が、ス
コットランドに移住してくるようになったのです。
 そして、9世紀頃まではピクト人とケルト人は、ときには戦争
したりはしましたが、いつも敵対していたわけではなく、文化面
で交流したり、相互協力したりして暮らしてきたのです。
 しかし、843年になると、ダルリアダ王国のケルト人が優勢
となり、スコットランドは、ダルリアダ国王のケニス・マルカピ
ン支配の下にケルト王国として統一が行われたのです。そして、
400年ほどはケルト王国は栄えたのです。
 ところが、1286年にアレクサンダー3世が世を去ると、ス
コットランドにおけるケルトの王統は絶え、それに伴い、スコッ
トランドの国力は弱体化してしまったのです。
 その機を狙っていたイングランド国王エドワード1世は、スコ
ットランド支配に乗り出し、1296年にはスコットランドの独
立の象徴である「スクーンの石」を奪い取ってしまったのです。
「スクーンの石」は小さな正方形の石ですが、スコットランドの
王が戴冠式のとき座る大事な石なのです。
 そしてイングランドは、スコットランドを支配する行政官――
つまり「代官」である――を置き、住民を苦しめたのです。この
とき、立ち上がったのは、愛国心に燃えるスコットランドの貴族
ウィリアム・ウォレスです。
 ウォレスは住民を苦しめる行政官を殺害するとともに反イング
ランド軍を結成し、スターリング・ブリッジの戦いにおいて、イ
ングランド軍を打ち破ったのです。1297年9月11日のこと
です。しかし、エドワード1世は直ちに反撃に転じ、反イングラ
ンド軍を破り、ウォレスはフランスに逃れるのです。
 そのとき、ウェレスが世話になったのがテンプル騎士団の総長
モレー家なのです。実はテンプル騎士団の初代総長ユーグ・ド・
バヤンスの妻は、ノルマン系のスコットランド人であるカトリー
ヌ・サン・クレアだったのです。テンプル騎士団とスコットラン
ドは最初からつながりがあるのです。
 そして、1303年、サー・ウィリアム・サン・クレア率いる
テンプル騎士団の加勢を得て、ロスリンの戦いで再びイングラン
ド軍を破ったのです。しかし、1305年にウォレスは裏切りに
よって捕えられ、処刑されてしまうことになります。
 この時点でスコットランドの王位継承権を持っていたのは、ロ
バート・ザ・ブルースとジョン・カミンの2人だったのです。ロ
バートはキャリックとアルスターの2つの爵位を持つ有力者であ
り、カミンもバカンとモンティースという2つの爵位を有する名
家であり、その勢力は拮抗していたのです。
 しかし、このうちジョン・カミンは、イングランドのエドワー
ドによる支配を受けていた時期があり、イングランドから見てカ
ミンの方が組みし易いと考えられていたのです。そのあたりを重
く見たブルースはある決断をするのです。
 ブルースはダムフリースの聖フランシスコ教会にカミンを呼び
出し、その祭壇でカミンを殺害してしまったのです。ロバートに
とってはこれがスコットランドの王位を手に入れる最も早い確実
な方法だったからです。
 神聖な教会で人を殺す――このことに激怒したのはエドワード
1世と教皇です。教皇は直ちにロバートを破門します。1305
年2月10日のことです。
 しかし、スコットランドの愛国者は、ロバートの行為をイング
ランドに対する勇気ある反抗であるとして絶賛したのです。そし
てロバートはスコットランドの王になります。
 この教会でのロバートによるカミン殺害について、マイケル・
ベイジェント/リチャード・リーの本には、次のような記述があ
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当然ながら、教皇は予想通りに反応した。ブルースは直ちに破
 門され、10年以上これが解かれることがなかった。ところが
 重要なことは、ブルースの行為がスコットランドの聖職者たち
 にはなんの影響も与えなかったことである。
 −マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
   『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
       西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時ローマ・カトリック教会から破門されることは国にとって
「死」を意味するほど重要なことだったのです。そうであるのに
国家の元首が聖なる教会で殺人を犯し、教皇から破門されるとい
う事態になっているのに、そのことがスコットランドの高位の聖
職者に「なんの影響も与えない」のは、尋常ならざる事態である
といえるのです。
 そのブルースがスコットランドの覇権を握ってイングランドと
戦っている、まさにそのときにフランスを逃れたテンプル騎士団
の船団がスコットランドにたどり着いているのです。
 その後、スコットランドとイングランドとは、うんざりするほ
ど戦いを続けたのですが、戦うごとにスコットランド軍は強くな
っていったのです。戦い方も騎兵隊を取り入れるなど、今までの
スコットランド軍と明らかに違ってきたのです。これは時期から
見てもテンプル騎士団がスコットランド軍に加わった影響が大き
いと見られているのです。
 とくに中世最大の戦いといわれ、スコットランド軍の大勝利に
終わったバノックバーンの戦いでは、戦いの終盤に謎の騎兵隊が
あらわれ、イングランド軍を蹴散らしたといわれています。それ
はテンプル騎士団といわれています。
            ・・・[秘密結社の謎を探る/45]


≪画像および関連情報≫
 ・「スクーン石」(The Stone of Destiny)について
  エジンバラ城で、最も大事に扱われている展示物は、ストー
  ンいう石である。この「運命の石」は、スクーンの石とも言
  われる。これは、エジンバラの北方50キロほどのところに
  ある、パース(13世紀から15世紀中頃までのスコットラ
  ンドの首都)にある、スクーン宮殿に置かれ、スコットラン
  ド王の戴冠式に使われていたことによる。しかし、1296
  年にイングランド王のエドワード1世がこの石を持ち去り、
  長い間ロンドンのウェストミンスター大聖堂のコロネーショ
  ン・チェア(戴冠式用の椅子、この大聖堂訪問時には必見の
  椅子)の下に置かれていた。それが、1996年、エリザベス女
  王によりスコットランドに戻された。まさに、運命の石であ
  る。この石が最後に使われたのはこのエリザベス2世の戴冠
  式の時であるが、「この石の役割は将来も続く」と書かれて
  あったので、チャールズ皇太子即位の時には、またこの石の
  上で戴冠式が行われるのだろう。
   ―http://www.mukogawa-u.ac.jp/~ushida/uk/edinburg.htm

スクーンの石.jpg


posted by 管理者 at 03:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 秘密結社の謎を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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