たどっていくと、神話の世界までさかのぼることができます。そ
して、必ず「ソロモンの神殿」にぶつかるのです。ソロモンの神
殿とフリーメーソンの間に何らかの関係があることは確かです。
ソロモンの神殿といえば、テンプル騎士団です。既に述べたテ
ンプル騎士団について少し復習してみましょう。最初の結成メン
バーは9人のフランス人で、エルサレムの聖地に通う巡礼の護衛
をすることを目的に、騎士団の編成を当時のエルサレムの王ボー
ドゥアン2世に申し出て許されたといわれています。
しかし、騎士団当初の9人のメンバーのままで、彼らはソロモ
ンの神殿の遺跡の上に建てられていた宿舎に立てこもり、9年間
にわたって、何かをしていたのです。もちろん、巡礼の護衛など
は何もやっていないのです。
彼らはそこで一体何をしていたのでしょうか。
彼らは、ひたすらソロモンの神殿の遺跡を長年にわたって調査
し、おそらく何かを発見したものと思われるのです。隊長のユー
グ・ド・バヤンスはボードゥアン2世が亡くなると直ちに政治的
な活動を開始して、教皇ホノリウス2世と取り引きをし、ある特
権を手に入れるのです。
テンプル騎士団は、その特権を基にして大変な発展を遂げるの
です。信者や教会からの多額の寄付を受けて富を増やし、領土を
拡張し、フランス以外にもイングランド、ドイツ、シチリアなど
に拡大し、各国に支部が置かれたのです。
一体彼らはソロモンの神殿で何を発見したのでしょうか。きっ
とそれは当時のヴァチカンにとって都合の悪いものだったに違い
ないと思われます。つまり、教皇ホノリウスは、ユーグ・ド・バ
ヤンスに恐喝されたのではないかと思うのです。そうでないと、
ヴァチカンがテンプル騎士団に対して、そのような特権を与える
はずがないのです。一体テンプル騎士団はどのような秘密をソロ
モンの神殿で手に入れたのでしょうか。
それは、テンプル騎士団の総長であるジャック・ド・モレーが
いったという次の言葉に隠されていると思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イエスは人に過ぎず、全能の神は天と地を作られた偉大な建築
家であり、十字架に架けられたりはしていない。
――ジャック・ド・モレー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
やがて、フィリップ4世は、大変な暗闘を経て教皇庁を自分の
支配下に置き、意のままになる教皇クレメンス5世と組んで、テ
ンプル騎士団を潰しにかかります。そして、テンプル騎士団にと
って運命の日、1307年10月13日(金)、テンプル騎士団
の団員は全員逮捕されてしまうのです。
しかし、テンプル騎士団の団員のすべてが逮捕されたわけでは
ないのです。情報は意外に早く伝わっていたのです。かなりの数
のテンプル騎士団は莫大な財宝を持って逃亡していたのです。そ
のとき活躍したのは、テンプル騎士団船隊なのです。
テンプル騎士団というと、その「騎士団」という名称から陸で
戦うイメージがありますが、かなり大規模な船隊――すなわち、
自前の船団も持っていたのです。彼らはその船団を使って、一般
人を運び、貿易も積極的にやっていたのです。
そこで騎士団逮捕の情報をキャッチした団員は、一斉にフラン
スから船団を使って逃亡をはじめたのです。それでは、テンプル
騎士団はどこに逃げたのでしょうか。
これについては、マイケル・ベイジェント/リチャード・リー
の本に次のように出ています。イスラム世界のどこか、スカンデ
ィナヴィアかを検討した後で次のように記述されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ところが、ほかに場所があったのです。
それはスコットランドで、この国ではテンプル騎士団がすでに
親密な関係を築いていたし、ここの承認された国王は破門され
ており、なによりもこの国では同盟者、とりわけ訓練された戦
闘員が渇望されていた。テンプル騎士たちが理想的な避難場所
を見つけるとすれば、スコットランドほど、最適の土地はあり
得なかったのである。
―マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
当時イングランドとスコットランドは戦争の真っ最中だったの
です。しかも、スコットランドの国王、ロバート・ザ・ブルース
はヴァチカンから破門されていたのです。フランス国王とヴァチ
カンから追われていたのですから、テンプル騎士団にとってこん
なに都合のよい国はないわけです。しかも、スコットランドは、
イングランドと戦争中ですから、戦闘員はノドから手が出るほど
欲しい――条件が揃い過ぎていたといえます。
それでは、どのようなルートで、フランスのラ・ロシェルやセ
ーヌ川河口を出帆したテンプル騎士団船団が、スコットランドに
行ったのでしょうか。
イングランドのエドワードの船隊は、イングランドの東海岸を
本拠地とし、アバディーンやインヴァネスなどのスコットランド
の港とフランドル間の既存の海上交易経路を事実上封鎖していた
のです。したがって、テンプル騎士団の船団がイギリス海峡や北
海を通り抜けるのは困難であったと考えられます。
結局、テンプル騎士団の船団が通ったとみられるのは、アイル
ランドの北岸を回ってロンドンデリーのフォイル川河口から、ブ
ルースの領土であるアーガイル、キンタイア、ジェラ海峡に至る
航路なのです。
このようにして、テンプル騎士団の船隊はイングランド軍に何
も妨害されることなく、スコットランドに落ちのびることができ
たのです。 ・・・[秘密結社の謎を探る/44]
≪画像および関連情報≫
・ロバート・ザ・ブルース1世について
―――――――――――――――――――――――――――
ロバート1世(Robert de Brus)は、ブルース朝を創始した
スコットランド国王(在位/1306〜1329)。ロバー
ト・ブルースはスコットランドの名門貴族の家に生まれた。
彼の祖父(同名)はマーガレット女王が亡くなり、アサル王
家の直系が絶えたさい、ジョン・ベイリャルら13人の候補
者と王位を争っている。
――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
・地図の出典
マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊