2009年01月08日

●テンプル騎士団はどこに逃げたか(EJ第1870号)

 世界最大の秘密結社といわれるフリーメーソン――その起源を
たどっていくと、神話の世界までさかのぼることができます。そ
して、必ず「ソロモンの神殿」にぶつかるのです。ソロモンの神
殿とフリーメーソンの間に何らかの関係があることは確かです。
 ソロモンの神殿といえば、テンプル騎士団です。既に述べたテ
ンプル騎士団について少し復習してみましょう。最初の結成メン
バーは9人のフランス人で、エルサレムの聖地に通う巡礼の護衛
をすることを目的に、騎士団の編成を当時のエルサレムの王ボー
ドゥアン2世に申し出て許されたといわれています。
 しかし、騎士団当初の9人のメンバーのままで、彼らはソロモ
ンの神殿の遺跡の上に建てられていた宿舎に立てこもり、9年間
にわたって、何かをしていたのです。もちろん、巡礼の護衛など
は何もやっていないのです。
 彼らはそこで一体何をしていたのでしょうか。
 彼らは、ひたすらソロモンの神殿の遺跡を長年にわたって調査
し、おそらく何かを発見したものと思われるのです。隊長のユー
グ・ド・バヤンスはボードゥアン2世が亡くなると直ちに政治的
な活動を開始して、教皇ホノリウス2世と取り引きをし、ある特
権を手に入れるのです。
 テンプル騎士団は、その特権を基にして大変な発展を遂げるの
です。信者や教会からの多額の寄付を受けて富を増やし、領土を
拡張し、フランス以外にもイングランド、ドイツ、シチリアなど
に拡大し、各国に支部が置かれたのです。
 一体彼らはソロモンの神殿で何を発見したのでしょうか。きっ
とそれは当時のヴァチカンにとって都合の悪いものだったに違い
ないと思われます。つまり、教皇ホノリウスは、ユーグ・ド・バ
ヤンスに恐喝されたのではないかと思うのです。そうでないと、
ヴァチカンがテンプル騎士団に対して、そのような特権を与える
はずがないのです。一体テンプル騎士団はどのような秘密をソロ
モンの神殿で手に入れたのでしょうか。
 それは、テンプル騎士団の総長であるジャック・ド・モレーが
いったという次の言葉に隠されていると思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 イエスは人に過ぎず、全能の神は天と地を作られた偉大な建築
 家であり、十字架に架けられたりはしていない。
                 ――ジャック・ド・モレー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 やがて、フィリップ4世は、大変な暗闘を経て教皇庁を自分の
支配下に置き、意のままになる教皇クレメンス5世と組んで、テ
ンプル騎士団を潰しにかかります。そして、テンプル騎士団にと
って運命の日、1307年10月13日(金)、テンプル騎士団
の団員は全員逮捕されてしまうのです。
 しかし、テンプル騎士団の団員のすべてが逮捕されたわけでは
ないのです。情報は意外に早く伝わっていたのです。かなりの数
のテンプル騎士団は莫大な財宝を持って逃亡していたのです。そ
のとき活躍したのは、テンプル騎士団船隊なのです。
 テンプル騎士団というと、その「騎士団」という名称から陸で
戦うイメージがありますが、かなり大規模な船隊――すなわち、
自前の船団も持っていたのです。彼らはその船団を使って、一般
人を運び、貿易も積極的にやっていたのです。
 そこで騎士団逮捕の情報をキャッチした団員は、一斉にフラン
スから船団を使って逃亡をはじめたのです。それでは、テンプル
騎士団はどこに逃げたのでしょうか。
 これについては、マイケル・ベイジェント/リチャード・リー
の本に次のように出ています。イスラム世界のどこか、スカンデ
ィナヴィアかを検討した後で次のように記述されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、ほかに場所があったのです。
 それはスコットランドで、この国ではテンプル騎士団がすでに
 親密な関係を築いていたし、ここの承認された国王は破門され
 ており、なによりもこの国では同盟者、とりわけ訓練された戦
 闘員が渇望されていた。テンプル騎士たちが理想的な避難場所
 を見つけるとすれば、スコットランドほど、最適の土地はあり
 得なかったのである。
 ―マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
   『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
       西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時イングランドとスコットランドは戦争の真っ最中だったの
です。しかも、スコットランドの国王、ロバート・ザ・ブルース
はヴァチカンから破門されていたのです。フランス国王とヴァチ
カンから追われていたのですから、テンプル騎士団にとってこん
なに都合のよい国はないわけです。しかも、スコットランドは、
イングランドと戦争中ですから、戦闘員はノドから手が出るほど
欲しい――条件が揃い過ぎていたといえます。
 それでは、どのようなルートで、フランスのラ・ロシェルやセ
ーヌ川河口を出帆したテンプル騎士団船団が、スコットランドに
行ったのでしょうか。
 イングランドのエドワードの船隊は、イングランドの東海岸を
本拠地とし、アバディーンやインヴァネスなどのスコットランド
の港とフランドル間の既存の海上交易経路を事実上封鎖していた
のです。したがって、テンプル騎士団の船団がイギリス海峡や北
海を通り抜けるのは困難であったと考えられます。
 結局、テンプル騎士団の船団が通ったとみられるのは、アイル
ランドの北岸を回ってロンドンデリーのフォイル川河口から、ブ
ルースの領土であるアーガイル、キンタイア、ジェラ海峡に至る
航路なのです。
 このようにして、テンプル騎士団の船隊はイングランド軍に何
も妨害されることなく、スコットランドに落ちのびることができ
たのです。        ・・・[秘密結社の謎を探る/44]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・ザ・ブルース1世について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロバート1世(Robert de Brus)は、ブルース朝を創始した
  スコットランド国王(在位/1306〜1329)。ロバー
  ト・ブルースはスコットランドの名門貴族の家に生まれた。
  彼の祖父(同名)はマーガレット女王が亡くなり、アサル王
  家の直系が絶えたさい、ジョン・ベイリャルら13人の候補
  者と王位を争っている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・地図の出典
  マイケル・ベイジェント/リチャード・リー共著/林和彦訳
   『テンプル騎士団とフリーメーソン/アメリカ建国に至る
       西欧秘密結社の知られざる系譜』より。三交社刊


テンプル騎士団はどのように逃げたか.jpg
posted by 管理者 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 秘密結社の謎を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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