う人は、騎士道精神にのっとった行動をする立派な人物であった
といわれます。
フィリップ4世がモレーらにかけた容疑は異端を取り入れよう
としたということだったのですが、彼らは容疑を認めず、無実を
訴え続けたのです。しかし、あくまで容疑は逮捕の理由を作るた
めだったのですから、無実の訴えが通るはずがありません。
フィリップ4世はテンプル騎士団の隊員へ徹底的な拷問を行わ
せたのですが、ジャック・デ・モレーを始めとする隊員たちは容
疑を認めなかったというのです。とくにモレーは隊長としての尊
厳を重んじ、最後まで全面否認を貫いたのです。
そして、1314年3月14日、モレーはセーヌ河の中洲で火
あぶりの刑に処せられたのですが、彼は最後の最後まで無実を訴
えたのです。そして処刑直前、モレーはフィリップ4世とクレメ
ンス教皇に対して、次のようにいって死に臨んだといわれます。
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余は国王と教皇を決して許さない。一年以内に、必ずや神の法
廷に引きずり出す。
――加治将一著、『石の扉/フリーメーソンで読み
解く歴史』 新潮社刊行
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実はこの予言は当たったのです。まもなくフィリップ4世は、
46歳で唐突に死亡し、クレメンス教皇も同じように死亡してし
まったのです。いずれも一年以内だったといいます。
そのため、これは「ジャック・デ・モレーの呪い」として後年
有名になり、フランスにおけるテンプル騎士団全員が逮捕された
1307年10月13日――その日が金曜日であったことから、
以来「13日の金曜日」は、欧米諸国で不吉な日といわれるよう
になったのです。
フィリップ国王は、騎士団を始末すると、彼らの隠し持ってい
るはずの金銀・財宝を探したのですが、どこにも見つからなかっ
たといわれます。騎士団の金銀・財宝はどこかに運び去られたあ
とだったようです。
中でも騎士団がソロモンの神殿から「聖杯」――最後の晩餐で
使徒と回し飲みしたときの盃、もしくは十字架にかけられたキリ
ストから流れる血を受けた盃――を探し当て、それを持ち去った
のではないかという噂が流れたのです。これが以後、聖杯伝説と
して伝えられるようになります。映画『ダヴィンチ・コード』も
結局は、この聖杯伝説をアレンジしたものであるといえます。
ここで触れておかなければならないことがあります。フィリッ
プ国王は、テンプル騎士団を逮捕するに当たって、周辺諸国であ
る英国やドイツに対してテンプル騎士団を逮捕するよう呼びかけ
ています。英国やドイツは一応テンプル騎士団を逮捕して裁判に
はかけますが、ほとんどが無罪になっていることです。
このように国によって対応が異なるのですが、テンプル騎士団
は、フィリップ4世の指示を受けたクレメンス教皇によって13
12年に解散させられているのです。これによって歴史上はテン
プル騎士団は200年の歴史の幕を閉じています。
さて、テンプル騎士団が運び去ったといわれる金銀・財宝はど
うなったのでしょうか。
フィリップ国王がテンプル騎士団を逮捕するという情報をいち
早く掴んだ騎士団の一部があるのです。そこでその騎士団は、財
宝とともにイングランドの北部のスコットランドに逃れたという
説があります。1307年のことです。
当時、スコットランドはイングランドからの独立を目指して戦
争を展開していたのです。ときのスコットランドの国王は、ロバ
ート・ド・ブルース(ロバート1世)――彼はマーガレット女王
の死後に王位継承に名乗りを上げた13人のうちの一人の孫なの
です。しかし、戦争はきわめて劣勢だったのです。
ところが、1307年の後半からはカコットランド軍は急に強
くなり、次々と各地でイングランド軍を打ち破り、イングランド
を追い詰めていったのです。そして、1327年にスコットラン
ドは正式に独立国として認められることになります。
興味深いのは、ロバート1世の率いるスコットランド軍がなぜ
突然強くなったのかです。ここにフランスから脱出したテンプル
騎士団の一部とつながってくるのです。
とにかく当時のスコットランドは問題山積だったのです。12
98年にはフォールカークの戦いでイングランド軍に大敗し、愛
国者でナイトのウォレスは、その後7年間にわたってゲリラ戦を
行い、イングランドに抵抗したのですが、1305年には捕らえ
られます。そしてウォレスは八つ裂きの刑に処せられたのですが
国王はそれを見殺しにしたり、1306年2月には別の反乱軍の
首領でライバルのジョン・カミンを教会内で殺害して、クレメン
ス教皇に破門されるなど、散々だったのです。
ところが、フィリップ4世の暴挙に追われたテンプル騎士団の
一部がフランスからスコットランドに行ったとされる時期は、ス
コットランドのロバート国王がイングランド軍との戦争において
劣勢となっていた時期と一致するのです。
推測ですが、フランスのテンプル騎士団の一部――どの程度の
規模であるかはわからないが、ロバート1世の率いるスコットラ
ンド軍に加わって、それによってスコッドランド軍が強くなった
のではないかと考えられるのです。
当時のテンプル騎士団は、鉄の規律に基づく卓抜の軍事力を有
しており、軍の指揮能力も当時のスコットランド軍よりも数段上
をいっていたのです。軍隊というものは、そういう一団が加わっ
ても軍全体の戦闘能力は大きく上がるものなのです。
もちろん当時、スコットランドにも、テンプル騎士団の支部が
あったのであり、フランスを脱出したテンプル騎士団の一部がス
コットランドに向った可能性は高いのです。なぜなら、イングラ
ンドはフィリップ4世寄りだったからです。
・・・[秘密結社の謎を探る/18]
≪画像および関連情報≫
・スコットランドについて
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「スコットランド」という国を知っていますか? 多分、多く
の日本人が、ウィスキーを思い浮かべ、何となくヨーロッパ
の北の方をイメージすることでしょう。「ザ・ユナイテッド
・キングダム」を日本語ではイギリスと呼び、イギリスに対
応する英語は「イングランド」と習う。これでイギリス人=
イングリッシュ、スコットランド=イギリスの一部=イング
ランドの北の方、という間違った等式を作ってしまう。多く
のスコットランド人が「イギリス人」と呼ばれるのを嫌う。
私の夫は日本語が全く話せないが、「私はスコットランド人
です、イギリス人ではありません」だけは言える。このペー
ジは、スコットランドの実情を日本の人々に理解してもらう
ことを目的に、何の計画もなく、ただただ思いつくことを書
くつもりである。
http://www.holyrood.org.uk/nihongo/index.html
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