2008年11月26日

●テンプル騎士団の歴史を探る(EJ第1842号)

 テンプル騎士団が生まれたのは1118年のことであり、発足
メンバーは9人といわれています。場所はフランスのボルドーと
いうところです。
 その中心人物はユーク・ド・パヤンスであり、その正式名称は
次のような長い名前が付いていたのです。
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    キリストとソロモン神殿の貧困同胞騎士団
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 この騎士団の目的は、地中海沿岸の港町ヤッファとエルサレム
間の巡礼を保護することです。エルサレムの総主教ボードゥアン
2世は、この新たな結社に対して宿営地を与えたのです。その土
地はかつてソロモン王の神殿があった土地なのです。ソロモンの
神殿は3つがあることは昨日のEJで述べましたが、これはヘロ
デ王が建てたソロモンの神殿の跡地なのです。
 この騎士団――これは騎士団であると同時に修道会であったと
いう特色があります。つまり、日本風にいえば、武士と僧侶が一
体になったものなのです。この騎士団に入ると、修道会なみの厳
しい戒律を守る必要があるのです。そのため、彼らのことを修道
騎士と呼んだのです。
 当時、彼らの敵は異教徒であるイスラム教徒です。彼らは小集
団でも強力な軍事力を持っていたのです。エルサレムがイスラム
教徒に占領されたりしたときは十字軍が出陣したのですが、エル
サレムに通う巡礼の保護まではしてくれなかったのです。
 したがって、その役を買って出たユーク・ド・パヤンスをはじ
めとする騎士団の申し出にエルサレムの総主教ボードゥアン2世
は感動して、ヘロデ王のソロモンの神殿の跡地を宿営地として提
供し、諸費用をすべて負担したのです。
 しかし、いくら記録を調べても、彼らが実際に巡礼を保護した
という証拠がまったく存在しないのです。一体彼れらの狙いは何
だったのでしょうか。
 結局、9人の騎士団は一向にメンバーを増やすことなく、9年
間にわたって、ボードゥアン2世の寄付に頼って、その宿営地で
ひたすら何かをやっていたわけです。
 1126年10月にボードゥアン2世が亡くなると、まるでそ
れを待っていたかのように、ユーク・ド・パヤンスは積極的に行
動しはじめたのです。ユーク・ド・パヤンスは同じ騎士団のアン
ドレ・ド・モンパールを通じて、教皇ホノリウス2世に接近しよ
うとします。モンパールの叔父がクレルヴォール大修道院長――
後の聖ベルナールだったからです。
 パヤンスの工作は成功し、パヤンスは教皇ホノリウス2世に会
うことができ、騎士団に「会憲」を与えて欲しいと要望したので
す。「会憲」というのは、キリスト教会内部において正当な地位
を与えることを意味していたのです。
 1128年1月31日――トロワで行われた評議会で、騎士団
は会憲を授与されたのです。ここにはじめて騎士団員は、自らの
マントを纏うことを許され、真の修道騎士となったわけです。
 会憲を手にしたテンプル騎士団は、積極的に新しいメンバーの
募集をはじめます。会員は国家の垣根を超えて増加を続けたので
す。反イスラムという旗印の下に、フランス、イギリス、イタリ
ア、スペインなどからも会員になる者が増えていき、やがてテン
プル騎士団は押しも押されぬ勢力となっていったのです。
 テンプル騎士団は、ローマ教会に承認された組織でありながら
組織としては独立しているのです。騎士団の中には独自の司祭が
いて、一般の司祭の指図を受けることはないのです。それに税の
免除という大変な特権も手にしたのです。さらに土地の取得や管
理、新しいビジネスをやることも認められたのです。
 テンプル騎士団に入るには、自らの財産をすべて騎士団に献納
することが求められます。加えて、新入会員はすべて貴族の出身
に限られるなど、厳しい条件があったのです。そして、入会に当
たっての財産は剣だけに限定されたのです。
 それに組織が大きくなるにつれて寄進も大きくなり、新会員の
寄進される財産もあるので、テンプル騎士団は自然にヨーロッパ
中に大変な財産を抱えるようになっていったのです。
 1139年にテンプル騎士団は、時の教皇インノケンティウス
2世から、修道士のための聖堂を建てることを許可されているの
です。さらに「軍事宗教組織」という地位も与えられたのです。
 そのため、テンプル騎士団は、フランス王のルイ7世による第
2回十字軍に参加し、大活躍をするのです。とくに1153年の
アスカロン占領にはテンプル騎士団は大いに貢献したのです。
 テンプル騎士団は十字軍と違い、エルサレムに常駐して警備し
て戦ったので、多くの尊敬を集めたのです。そのため寄進の額は
ますます増えていったのです。西欧には9000を超えるテンプ
ル騎士団の所領があったといわれます。プロヴァンスにはとくに
多くあったといわれます。
 そして、テンプル騎士団はビジネスとして銀行業務を始めたの
です。中世では教会や修道会は、すべて銀行の役割を果たしてき
ており、とくに珍しいことではないのです。貴族たちは自分の財
産を教会の金庫に預けておけば安全なので、教会は寄託というか
たちで財産を預かったのです。
 まして軍事力を持っているテンプル騎士団に預けておけば安心
と多くの貴族が財産の寄託をしたといわれます。テンプル騎士団
のパリの城館「タンプル塔」ではフランス王室の財産を預かった
のです。フランス王室はルーヴル宮に金庫を持っていましたが、
テンプル騎士団に預けた方が安心と考えたのでしょう。
 テンプル騎士団が発展したので、ユーク・ド・パヤンスは巨額
の冨を得て、スコットランドの地に初の騎士団の支部を設けてい
ます。これが後で重要な意味を持ってくるのです。そして、テン
プル騎士団は、1307年までは発展に次ぐ発展を遂げて拡大し
ていくことになります。そして、要するにテンプル騎士団は当時
の特権階級だったのです。・・・[秘密結社の謎を探る/16]


≪画像および関連情報≫
 ・テンプル騎士団について
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  「騎士」と聞いて、どんな人物像を思い浮かべるだろうか。
  ファンタジーや歴史物語が好きな方なら、「主君のために命
  を投げ出す忠節無比の勇者」「弱きを助け強きをくじく正義
  の戦士」といった答えを返すだろう。そして歴史をひもとき
  神に一生を捧げる「修道士」をも兼ねた騎士たちがいたこと
  を知れば、きっと胸が高鳴るに違いない。今回は、そのよう
  な騎士の一団、「テンプル(神殿)騎士団」の数奇な運命に
  ついての話である。第1回十字軍がイスラーム勢力から聖地
  エルサレムを奪い、王国を建ててから約20年後のこと。聖
  地をめざす巡礼者は増えたが、山賊・追いはぎが出没するそ
  の道のりは危険きわまりなかった。そんな中、齢60近いに
  もかかわらずまったくのボランティアで巡礼路をパトロール
  する剛の者がいた。その名をユーグ・ド・パイヤンという。
  http://homepage3.nifty.com/ryuota/templarii.html
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テンプル騎士団.jpg


posted by 管理者 at 03:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 秘密結社の謎を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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