2010年07月01日

●義経/成吉思汗/その性格と人物(EJ第1651号)

 平泉で自害したという義経が大陸に渡り成吉思汗になる――こ
のような壮大なロマンを追って分析してきましたが、今度は源義
経と成吉思汗がそれぞれどのような性格の人物であり、何を好み
何を嫌ったかについて考えていくことにします。
 源義経については、『扶桑見聞私記』にその性格を記述した次
の一文があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (九郎殿は)第一は才智なり、第二は博学なり、第三は大勇に
 して威あり、第四は奢心ある人なり、第五には威高に見ゆるな
 り、第六にはよく人を被馴、第七には謀計あり、第八にはよく
 諸人の心底を察し知る、第九にはよく勇士の剛臆を知り給ふ、
 第十に剣術の名誉を得られたり、此の十種は皆凡人の及ぶとこ
 ろにあらず・・・
                 ――『扶桑見聞私記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗については、既出の『鉄木真用兵論』において、ロシ
アの学者イワニンが次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗、己を処するに方正、人を遇するに寛大、かつ臣下を
 愛し厚く勲労を賞せしをもっておおいに名望を博し、彼に心服
 して従う者日にますます多く、兵勢従って奮起するを得たり。
 また成吉思汗は政略と兵力とを並用し、徳義をあつくして同盟
 を結び、勇敢不屈、みずから士卒の標準となり、よく法を守り
 措置公平、号令厳粛をもって強兵を編成し、四隣ついになびか
 ざる者なきに至れり・・・
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。きわめてよく似ています。名前を外せば、ど
ちらが義経で、どちらが成吉思汗かわからなくなるほどです。と
くに人心の掌握術においては、義経、成吉思汗ともに天賦の才能
を持っていたようです。
 現在、放送されているNHKの大河ドラマ『義経』において、
頼朝の妻である北条政子が、義経の人の心を掴む不思議な魅力に
は警戒しなければならないと頼朝に告げるシーンが再三出てきま
すが、成吉思汗についても同様の才能があったようです。
 偶然とはいえない一致点はまだあります。成吉思汗は兵士の訓
練の一環として、巻狩りをよく実施しています。成吉思汗の実施
した巻狩りを小谷部氏は次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (巻狩りを)挙行する前にはあらかじめ人を派遣して一定の区
 域に野獣を追い込んでおく。当日、武装した者たちが、美しく
 装った馬に乗り、征矢と鏑矢を添えた箙を負い、猟犬多数を引
 き連れて山野におもむく。巻狩りの指揮者は勢子に鳥獣を駆り
 出させ、獲物は必ず一人で射止めなくてはならない。名誉の獲
 物を射止めた者は、それを高く捧げて名のりをあげる・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは鎌倉時代に盛んに行われていた巻狩りそのものといえま
す。NHKの大河ドラマ『義経』において、奥州の藤原秀衡が一
門の武者と義経を伴って巻狩りをするシーンがありますが、まさ
にこの記述と同じことをやっているのです。
 また、成吉思汗は、巻狩りのさい、高い櫓にのぼって将兵の猟
の状況をチェックし、間違って鳥獣を逃がした士卒には罰を与え
たといわれています。
 これなどは、『源平盛衰記』に出てくる宇治川の合戦のさい、
義経が高い櫓の上に上がって、宇治川の先陣と剛者を矢立の筆を
取り寄せて明記するシーンを彷彿させるものがあります。
 相撲についても述べる必要があります。相撲の起源は非常に古
く、『古事記』にも相撲を思わせる記述があり、日本に古来から
伝わるものです。モンゴルで相撲が盛んなのは、改めていうまで
もないことですが、どのように考えても、モンゴルの相撲は日本
から伝わったものと考えるのが自然であると思います。
 しかし、不思議なことにモンゴルに関して書かれたどの本にお
いても、モンゴルの相撲は日本のそれが伝わったものとは一切書
いていないのです。憶測ですが、それをいうとどうして伝わった
かをいわなければならなくなり、義経=成吉思汗説が出てきてし
まうからではないでしょうか。
 それはさておき、相撲は鎌倉時代において武芸の一つとして盛
んに行われていたのです。したがって、当然義経はやっているし
好きであったといわれています。大河ドラマでは、牛若時代の義
経が平家の子供たちと庭先で相撲をとるシーンが登場します。
 モンゴルと日本の相撲の共通点は、武芸のひとつとしてそれが
行われていたことです。鎌倉時代において相撲は武芸のひとつと
して教えられており、勝者には褒美を与える慣わしがあったので
す。『元朝秘史』によると、相撲は成吉思汗とその子オゴタイが
とくに愛好したといわれています。
 さらに、モンゴル人は緑茶を愛好しています。成吉思汗が愛用
し、伝えたとされているのです。もちろん日本では緑茶の起源は
古く、鎌倉時代には茶室、茶会などが流行しており、緑茶の愛好
者が多かったのです。
 また、成吉思汗と義経は酒嫌いであり、成吉思汗は酒好きの従
臣に次のようにいっていたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 酒を飲むと、理性を失う。心を平静に保つことができず、まる
 で頭を打たれたようにめまいを感じる。知識も才能も用をなさ
 ぬ。帝王が酒をたしなむときは堂々たる王業をほどこすことが
 できぬ。将軍が酒をたしなむときはその部隊を統御することが
 できぬ。もし酒をやめることができないなら、節酒して一ヶ月
 三回にせよ。一回ならさらによい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/21]


≪画像および関連情報≫
 ・義経が酒嫌いであった証拠
  『義経記』には、山伏姿で北走中、越前国府の代官から酒を
  贈られたが、「酒は下向の間禁酒にて候」としてこれを断っ
  たという記述がある。伊勢三郎が義経の臣下になるときも酒
  をすすめるが、「少しもきこし召し給はず」と記述されてい
  る。しかし、大河ドラマでは何度か義経が酒を飲むシーンは
  出てきている。

モンゴル相撲.jpg
モンゴル相撲
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月02日

●義経と成吉思汗の容姿を探る(EJ第1652号)

 ところで、源義経と成吉思汗はどのような容姿をしていたので
しょうか。
 実はこれが意外に難問なのです。現代のようにマスコミがある
わけではないので、いかに著名人といえども実際に会った人以外
は本人の容姿を知る方法はないのです。
 義経はどのような容姿をしていたのか――義経は当時美人の誉
れの高い常盤御前の子供ですから、眉目秀麗の男子と勝手に決め
ていますが、実際にはどのような容姿をしていたのかを知る手段
が乏しいのです。
 そこで見つけてきたのが、添付ファイルの絵画ABCです。い
ずれも源義経なのですが、イメージに合うでしようか。
 一番知られているのはBの絵です。これは平泉の中尊寺にある
ものですが、正直いってこれほど義経のイメージに合わない絵も
ないと思います。この肖像画は俗に義経の「失意の肖像」といわ
れており、沈痛な表情をして肩を落として失意のどん底にいる義
経を描いています。しかし、衣川の戦いで死んでいるとすれば義
経は31歳――肖像画は50歳以上に見えます。
 Aの絵は「義経参着の図」といって、黄瀬川において、義経が
平家打倒の旗揚げをした兄頼朝に初対面するときの緊張の面持ち
の場面を描いたものです。義経22歳のときの肖像とされていま
す。昭和15年の安田靫彦(ゆきひこ)氏の作品で、東京国立近
代美術館が所蔵しています。Bの「失意の肖像」に対してAの方
は「希望の肖像」といわれています。
 義経に関して一般の人が描いているイメージはほとんどが「希
望の肖像」の方であると思います。安田氏によると、義経の顔は
藤原時代の毘沙門天像からヒントを得たということで、あくまで
想像の産物なのです。なお、Cの絵の作者は狩野探幽であり、江
戸時代に描かれた「義経図」です。現在、茨城県立歴史館の所蔵
になっています。
 それでは、成吉思汗の方はどうでしょうか。
 チンギス・カーンの肖像としてわれわれが目にする肖像といえ
ば、Dの肖像画しかありません。成吉思汗に関しては義経以上に
その容姿を伝える情報がないのです。『元朝秘史』などにも容姿
については何も説明されていないのです。
 Dの肖像画は「中国歴代帝后像」に収められているものであり
想像画であって、しかも多分に中国化されています。よく見ると
クビライ像とほとんど同じであることに気がつきます。要するに
実際の容姿を伝えるものでないことは確かです。
 成吉思汗の容姿について唯一伝えている本があります。バント
ルドという人の書いた『モンゴル侵入までのトルキスタン』とい
う書物です。しかし、著者のバントルド氏によると、他の文献か
らの引用であると断っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗は、身長は高くて体格は頑丈。ひたいが広く、ひげは
 長く、人物雄壮である。なお、一般のモンゴル人は、最長のも
 のでも五尺二、三寸を過ぎず、ひげは少なくて、顔すこぶる醜
 なり。    ――『モンゴル侵入までのトルキスタン』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが正しいとすると、成吉思汗は義経とはまったく似ていな
いことになります。バントルド氏が引用した文献は南宋の趙こう
という人が書いた著作といわれています。彼は北京で成吉思汗の
軍隊と接触していますが、そのとき成吉思汗は西征に出かけてい
て本人には会っていないのです。おそらく将軍ムカリに会って、
成吉思汗のことを聞いて書いたものと思われます。
 源義経は『平家物語』によると、五尺たらずの小男とされてい
るのです。義経、成吉思汗ともにその容姿は想像の産物とはいえ
決定的な違いがあるといえます。
 高木彬光氏は、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)において、神
津恭介の主張する義経=成吉思汗説に反論する歴史学者である井
村博士の言葉として次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは絶対にこの一人二役説が成立しえないという証明をし
 てみせよう。成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大といわれている。
 もちろん、むかしのことだから身長一メートル何十センチ、体
 重何十キロというような正式な記録は残っていないが、一方源
 義経のほうは、五尺そこそこの小男だったことが、日本の記録
 に残っている。小人国に漂流したガリバーでもあるまいし、五
 尺そこそこの小男では、いくら蒙古人の中にまじっても、身長
 巨大とはいえないだろう。顔の人相なり、体重の変化というこ
 とは当然ありうるとしても、人間の身長が30歳過ぎてから急
 に伸びるということが、いったい医学的にありうるものなのか
 ね。 ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは源義経=成吉思汗説にとっては、大変な難問と思われる
のですが、決定的なものではないのです。なぜなら、義経が小男
で、成吉思汗が大男であるからです。これが逆――すなわち、義
経が大男で、成吉思汗が小男であったら、完全にお手上げになっ
てしまうのですが、そうでないからです。
 そもそも英雄といわれる人は、その容貌、外見、住居などのあ
らゆる面で人を威圧することを考えていたといわれます。ナポレ
オンは、かなり痩せていたので、服の中に綿を入れて肥満を装っ
ていたし、あのジュリアス・シーザーは禿頭であったので、たえ
ず鬘を使っており、加藤清正は実は小男であったので、つねに長
烏帽子をかぶっていたといわれます。
 成吉思汗がそういう細工をしていたことは考えられるのです。
戦国時代の日本の武将でもそうですが、自分の本当の姿を側近を
除いてみだりに見せないようにしていたからです。だからこそ、
影武者が可能だったのです。本当の義経がどのような顔をしてい
たのかは義経軍にあっても、一部の側近しかわかっていないとい
うことは十分あり得るのです。   ・・・[義経の謎/22]


≪画像および関連情報≫
 ・義経/成吉思汗の容姿を示す絵画
   A ・・・ 希望の肖像/義経参着の図
   B ・・・ 失意の肖像
   C ・・・ 狩野探幽の義経図
   D ・・・ 成吉思汗の肖像画

義経/成吉思汗肖像画.jpg
義経/成吉思汗肖像画
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

●義経主従における弁慶の役割(EJ第1653号)

 義経が本当に小男であったとして、何らかの方法で大男になり
すます――そんなことが可能でしょうか。
 それよりも可能性があるのは、ある大男が義経の代わりを務め
る――この方がよほど現実的な話ではないかと思います。しかし
その大男は常に義経の身近にいて、秘密の守れる信用ある人物で
なければならないのです。そういう人がいれば、身代わり説は現
実のものとなります。
 義経の場合はそういう条件に当てはまる大男がいたのです。そ
うです。武蔵坊弁慶その人です。弁慶ならば義経の身代わりは十
分務まるのです。考えてみると、京都から平泉への逃避行におい
てもつねに弁慶が主役になっていたのです。
 歌舞伎十八番『勧進帳』――義経一行は、山伏に姿を変えて安
宅の関(石川県小松市安宅町)にさしかかります。ここではあく
まで弁慶が主役で義経は強力に姿を変えています。
 関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見咎められ、詮
議の問答が始まるのです。勧進帳とは寺院建立などの資金集めの
ためにその趣意をしたためたものであり、弁慶は白紙の勧進帳を
読み上げ、怪しい者ではないことを力説します。
 しかし、富樫は「お顔が似ている」と強力に疑いの目を向ける
のです。そうすると弁慶は、義経に似た貴様が憎いとして、主人
を棒で打ちすえます。そこまでして主君を守ろうとする忠義の心
に感心した富樫は、義経と知りながらも一行を解放し、関を通し
てしまうという話です。このように逃避行ではあくまでも弁慶が
主役であって、義経の出る幕はないのです。
 若干横道にそれますが、富樫が通り過ぎようとする強力を「お
顔が似ている」として引き止めたということには少し疑義がある
のです。なぜなら、富樫が義経の顔を知っているはずがないから
です。当時のことですから、まさか義経の似顔絵が関所に配られ
ていたとは思えないからです。赤穂浪士の討ち入りのときでさえ
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、吉良上野介の顔を確認す
るのに大変な苦労をしているのです。名前はよく知られていても
顔までは知らないケースが当時は圧倒的に多かったのです。
 推測ですが、平泉から蝦夷地に落ちのびるときもこの手を使っ
たものと思われます。つまり、成吉思汗は六尺豊かの弁慶がなり
すまし、義経は裏で采配を振るったのではないかと思われるので
す。そうであるとすると、「成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大」は
何の不思議もないことになります。
 『成吉思汗伝』を書いたドルジという学者がいます。彼はその
中で、成吉思汗の死について次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の崩御の際には、その玉体は漸次縮小した。まことに
 奇異にたえなかったが、古今未曾有の大英雄の最後には、この
 ような奇跡も当然起こりうるとものと信じ、遺体はそのまま黄
 金の棺におさめ・・・。
    ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「玉体は漸次縮小」とは、裏の成吉思汗である義経が死んだと
考えれぱ、何も不思議はないのです。これについて小谷部全一郎
氏は、面白い推理をしているのです。
 小谷部氏は、成吉思汗がテムジンと名乗っていたときは弁慶が
その役を演じ、成吉思汗になってからは義経に代わったのではな
いかと考えているのです。テムジンのときは、モンゴル軍はそれ
ほど大軍ではなく、兵士と一緒に戦場に出て戦っていたので、テ
ムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」というイメージが定着した
のです。しかし、成吉思汗になってからは、義経に代わって、あ
まり人前に姿を現すことはなくなっていたのです。そのときモン
ゴル軍は巨大化しており、そのようにしても誰も不審に思われる
ことはなかったと考えられます。
 実は成吉思汗は、次のように2回にわたって即位しているので
す。これは今まで謎とされていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     第1次即位 ・・・ 不   明
     第2次即位 ・・・ 1206年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1次即位とは、テムジンが諸部族を統一し、部族長に推され
たときをいうのです。そのとき「カン」の位を得たのです。つま
り、各部族がテムジンを長として認めたことを意味します。これ
に対して第2次即位とは、「九旒の白旗」を掲げて、全モンゴル
の王となったときをいうのです。
 『元朝秘史』は、第1次即位の年代を記していないのです。し
かし、一部史料には1189年となっています。今までの分析で
は、義経一行はその1年前に平泉を脱出していますが、第1次即
位のときのテムジンを義経と考えることには無理があります。義
経は八戸や蝦夷において、かなりゆっくりと滞在しており、時間
的に間に合わないと考えられるのです。ここで実は弁慶が問題に
なってくるのです。
 北海道の日本海沿岸に寿都という町があります。その寿都町の
寿都湾の西口に「弁慶岬」というのがあるのです。北海道の地図
で調べていただきたいと思います。強風と日本海に沈む夕日の美
しさで知られるところです。弁慶岬には3.6メートルの弁慶像
が海を向いて立っています。
 なぜ、このようなところに弁慶がいるのでしょうか。ここには
「弁慶別れの宴」という伝説が残っているのです。弁慶は二ツ森
という小高い山の頂上で、秘蔵の金の銚子と金の盃とで別離の宴
を開いています。宴が終わると、弁慶はいつかまたこの町に戻っ
てくると約束して、金の銚子と盃とを白桔梗の根元に埋めたとい
うのです。
 この伝説は何を意味するのでしょうか。ここでは弁慶が主役で
あり、義経は脇に追いやられているのです。別れていく主人公は
なぜか弁慶なのです。       ・・・[義経の謎/23]


≪画像および関連情報≫
 ・寿都に関わる史跡・伝承
  @弁慶の相場場
  A弁慶別離の地/二ツ森
  B弁慶岬

弁慶岬.jpg
弁慶岬
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月06日

●テムジン2回の即位の真相(EJ第1654号)

 義経一行は、蝦夷地に渡ってからは、松前、函館、乙部浦を経
て、西海岸を北上し、寿都にきています。その足跡は数多く残さ
れているのです。
 義経一行は寿都にはしばらく滞在していたと考えられます。義
経を慰めるため、弁慶がアイヌの人たちと相撲をとった土俵跡が
残されているからです。今では草に覆われていますが、土俵の大
きさは幅20メートル、周囲に30センチの土盛りがされており
あたりには4本の柱の跡、弁慶が力足を踏んだ跡、わらじばきの
足跡や義経の座った物見台まであるのです。
 しかし、寿都では義経よりも弁慶が主役であって、義経は脇に
追いやられているのです。現在でも、毎年8月14〜15日には
「寿都弁慶祭り」が盛大に行われており、依然として弁慶が主役
なのです。そして、なぜか、弁慶別れの宴(儀式)が伝説として
残されているのです。
 問題は、義経一行が寿都を去るときの別れの宴であるのか、弁
慶だけが寿都を離れるさいの別れの宴であるのかがはっきりしな
いことです。この場合、何らかの使命を担って弁慶が寿都を離れ
たと考えると、弁慶の別れの宴の謎は解けるのです。
 小谷部氏は、義経一行が寿都で義経の本隊と弁慶を長とする部
隊に分かれたと考えているのです。そして、弁慶の部隊は、おそ
らく安東水軍の力を借りて、先遣隊として大陸に渡ったのではな
いか――このように推理しているのです。
 この弁慶を長とする先遣隊は、サハリン島の西北端から大陸の
アムール川河口付近に上陸し、満州女直族のワンスン、高麗チャ
ガン軍を破ってウラジオストック近郊に達したと考えられるので
す。つまり、ここまでは、弁慶軍が攻め進んできたのであり、義
経軍は後から合流したのではないかと思われるのです。
 そして、第1次即位の時期は、高麗チャガンを破った1192
年頃ではないかと考えられます。そうであるとすると、第1次即
位のときのテムジンは、弁慶であると考えても不思議はないわけ
です。これがテムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という説を
生んだのです。
 テムジンの軍勢は、この時点でウラジオストック近郊に達して
おり、そこで約10年間を過ごしているのです。かなり長い期間
です。義経の本隊は、この間に合流したものと考えられます。
 10年後の1202年にテムジン軍は動き出し、タタール部族
とケレイト部族の攻略を開始するのです。これらの戦いからは義
経自身が全軍の指揮をとったものと考えられます。そして、ナイ
マン王国を攻略して、1206年にオノン河上流にてクリルタイ
を開催し、成吉思汗に即位するのです。これが第2次即位と呼ば
れるのです。
 問題は、第2次即位以降の成吉思汗が義経であるとして、その
義経が前面に出て指揮をとったのか、それとも依然として弁慶を
前面に立てて、義経は裏で指揮をとったのか――そのことははっ
きりしていないのです。
 しかし、テムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という記述が
残っているのですが、成吉思汗が大男であるという記述はないの
です。成吉思汗が大男であるというのは、テムジンがそうであっ
たからということからきているのです。
 これに関して、興味深い絵があります。添付ファイルを見てく
ださい。中公新書『元朝秘史』(岩村忍著)に出ているものです
が、これはラシードの『集史』から転載されたものであると思わ
れます。何の絵かというと、成吉思汗が降伏させた敵将と謁見し
ている絵なのです。
 5人の人物が描かれていますが、左側に降伏した3人の敵の武
将がうなだれるように立っています。そして、右から2人目の人
物が成吉思汗なのです。絵が鮮明ではないので、はっきりわかり
ませんが、ふっくらとした顔立ちで、口ひげのようなものも見え
ます。しかし、その背丈は敵将よりも明らかに低いのです。
 写真じゃないのだからという意見もありますが、逆に絵である
からこそ、成吉思汗の大きさを強調するのが普通です。このよう
に、成吉思汗が大男であったという説もあまり根拠のあるもので
はないといえます。
 さて、もう一度寿都に話を戻します。弁慶岬には遠く海原を眺
める弁慶の銅像が立っています。この弁慶像は1988年に建て
られたものですが、弁慶は一体何を待っていたのでしょうか。
 弁慶の像の台座には「想望」という文字が刻まれています。こ
の「想望」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。奥州を逃れた義経・
 弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。弁慶の舎弟
 ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷に向っ
 たという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って
 海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはでき
 なかった。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬を
 弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶
 岬と呼ぶようになったのである。    ――「想望」の由来
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、義経一行は援軍を待っていたのです。平泉を脱出した
義経一行には藤原忠衡の率いる軍、大河兼任率いる軍など、いろ
いろ挙兵の情報があり、常陸坊海尊の挙兵も、そのひとつである
と考えられます。
 ところでこの常陸坊海尊とは何者でしょうか。
 常陸坊海尊は、園城寺(三井寺)の僧兵で、義経の家臣のひと
りです。しかし、実在の疑われる伝説的な人物であり、その人物
像は明確ではないのです。なお、歴史学者の中には弁慶ですら実
在を疑っているほどです。常陸坊海尊は、衣川合戦当日も、近く
の山寺に参拝したまま戻らず、そのまま逃れて生き延びたとされ
ている人物です。NHKの大河ドラマては、常陸坊海尊は登場し
ていないはずです。        ・・・[義経の謎/24]


≪画像および関連情報≫
 ・サイタボウの碑
  チチハル駅と成吉思汗駅との中間にフラルジという部落があ
  る。ここに、昔、日本からやってきた僧の古碑があり、それ
  を「サイタボウの碑」と称している。「サイタボウ」は「西
  塔坊」であり、武蔵坊西塔弁慶を意味するといわれている。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊

降伏した敵将と会う成吉思汗.jpg
降伏した敵将と会う成吉思汗
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月07日

●成吉思汗は何を意味するか(EJ第1655号)

「源義経=成吉思汗説」のテーマは、本日で第25回目となり
ます。そろそろ終りに近づいてきています。しかし、このテーマ
で述べなければならないことはまだ残っています。今週はそうい
うことに絞って述べていくことにします。
 蒙古について書かれている本を調べると、その始祖の成吉思汗
については、カナで「ジンギスカン」か「チンギス・ハーン」な
どと表記され、「成吉思汗」という漢字が使われていないことに
気がつきます。しかし、日本の書物によると、「成吉思汗」の文
字が使われているのです。この「成吉思汗」という漢字は、誰が
つけたのでしょうか。
 1206年の第2次即位のとき、テムジン(鉄木真)は自らを
「成吉思汗」と名乗っています。当時のモンゴルには文字という
ものはなかったのですが、成吉思汗=義経と考えると、義経は自
らの意思で、この名前を選んだと考えてよいと思います。
 義経は京都で検非違使をしていたとき、公卿との付き合いがか
なりあったといわれます。そのため、当時公卿の間で流行してい
た文字遊びにもある程度は通じていたものと思われます。頼朝は
そういう義経の行動を苦々しく思っていたのです。
 文字遊びとは、例えば、在原業平が「かきつばた」という五字
を読み込んだ歌を作れといわれて、即座に次の歌を詠じたという
そういう高雅な遊びのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    「か」らころも、「き」つつなれにし、
    「つ」ま(妻)しあれば、「は」るばる来ぬる、
    「た」びをしぞ思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こんな話もあります。保元の乱に敗れて死んだ左大臣、藤原頼
長は、改元のとき問題になった「天保」という年号を「一大人只
十」と分解して、年号にふさわしくないので、止めることを進言
したといわれます。
 義経がそういう知識があったと考えると、自ら選んだ成吉思汗
という称号にはそこに何らかの思いをこめて作ったと考えるのは
不思議なことではないと思うのです。
 問題なのは「汗」という字なのです。「汗」とは王位を指す名
称であり、帝位は「大汗」と称する――この「大汗」の称号は、
成吉思汗が即位してはじめてできたものであり、成吉思汗自らが
創始したものと考えてよいと思います。
 「汗」は分解すると「サンズイに干」――スイカンと読むこと
ができるのです。「スイカン」とは白拍子の衣装です。『平家物
語』の「妓王」の段に次の文章があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞いければ男舞とぞ申しける
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 したがって、水干は白拍子――すなわち、静御前を指している
のではないかということです。つまり、「成吉思汗」とは漢文読
みをすると、次のように読めるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「吉」「成」りて「水干」を「思」う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「吉」とは「吉野山」であり、「水干」を静御前と考えると、
「成吉思汗」という称号は次の意味に取れるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      吉野山の誓い成りて、静(しずか)を思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 静に関しては有名な話があります。鶴岡八幡宮の堂が完成した
ときのことです。祝いの儀を執り行うことになって、鎌倉武士の
間から、名高い白拍子の静に祝いの舞を舞ってもらったらどうか
という声が出たのです。
 頼朝は政子に静に舞を披露するよう伝えるよう命じたのです。
政子はおそらく静は断ってくると考えたのですが、静は舞を舞う
ことを了承するのです。
 そのとき静は、この舞を通じて義経にメッセージを伝えたいと
考えたのです。そして、鎌倉若宮堂で、大将軍頼朝の権威に何ら
臆せず、次の自作の歌を詠じながら、舞を舞ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     しずやしず、しずのおだまきくりかえし、
      むかしを今に なすよしもがな
     吉野山 峰の白雪ふみわけて
      入りにし人の あとぞ恋しき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは明らかに義経を思う恋の歌だったのです。頼朝は謀反人
を偲ぶ歌を歌うとは・・と露骨に不快感を示したのですが、政子
は「見事!」と褒めたといわれます。
 実は「成吉思汗」という名前は、義経の静の歌に対する返しで
あるといわれているのです。それは「成吉思汗」を万葉仮名とし
て読み下せば、「なすよしもがな」になるからです。
 このように「成吉思汗」という名前は、和漢両様の読み方で、
静御前の歌への見事な「返し」となっているのです。果たして、
これが牽強付会のこじつけといえるでしょうか。
 ところで、今日は8月15日です。毎年8月15日には京都の
鞍馬山では「義経忌」という法要が行われるのです。実は、同じ
8月15日にモンゴルでは「オボー祭」という催しが行われてい
るのです。「オボー」というのは、郡境に立つ小塔という意味で
すが、成吉思汗の命日のお祭りといわれています。こんな偶然が
あるでしょうか。
 「われこの天命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、
故山に帰りたし」――これは成吉思汗の遺言として伝えられてい
ます。「ただ、故山に帰りたし」――まことに意味深なことばで
あると思います。         ・・・[義経の謎/25]


≪画像および関連情報≫
 ・「白拍子」
  切り絵作家・宮田雅之氏の作品

静御前の舞い.jpg
静御前の舞い
posted by 管理者 at 03:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月08日

●義経=清朝先祖説というものがある(EJ第1656号)

 「源義経=清朝先祖説」というのがあります。「源義経=成吉
思汗説」を述べるに当って、これに言及しないわけにはいかない
と思います。しかし、これは妄説中の妄説といわれるもので、歴
史論争としては既に「そのようなことはありえない」として決着
のついていることだそうです。
 そこで、コトの真偽は読者のご判断に委ねるとして、あえてご
紹介することにします。
 源義経=清朝先祖説は、もちろん、源義経=成吉思汗説をベー
スにしていわれるようになったものであり、源義経=成吉思汗説
の発展系といえます。
 『清国総録』という本があります。英国の公使をしていたデビ
スという人が書いた本です。この本に次のようなことが書いてあ
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は、明朝のために放
 逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ、長の娘と婚して、諸
 公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙
 して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝を成吉思汗の孫、忽
 必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。
              ――デビス著、『清国総録』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清国の建国については諸説があり、成吉思汗の誕生や蒙古の建
国と同様に伝説的なヴェールに閉ざされているのです。しかし、
英国の公使までやった人物がそうデタラメを書くとはとても思え
ないのです。
 清国というのは、1616年から1912年まで中国を支配し
た最後の統一王朝であり、満州に存在していた海西女真族(満州
民族)の部族、愛新覚羅氏が作った王朝です。
 1616年、ヌルハチ(太祖)が女真族(満州族)を統一し、
満州に「後金」を立てたのです。そして、1636年に「清」と
改めています。1644年には明の滅亡をきっかけに中国に侵入
し、都を北京とし、支配民族の満州人の八旗軍を中心に、15年
で全土を統一しています。第4代の康熙(こうき)帝から、第6
代の乾隆(けんりゅう)帝までは全盛をきわめています。
 清朝では、人口が急増し、商工業が盛んになって全国が1つの
市場になり、銀の流通が広がったのです。皇帝が学者を優遇する
政策をとり、『康熙字典』をはじめとする多くの書物の編纂が行
われ、絢爛たる文化を誇った王朝なのです。
 中でも『古今図書集成』一万巻は有名であり、中国最大の類書
(百科事典)といわれました。源義経=清朝先祖説はこの書物と
深い関係があるのです。
 さて、天明3年(1783年)に成立したという『国学忘貝』
という本があります。編者は森長見という人です。この書物の中
に次の驚くべき記述があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清王朝の編纂による『古今図書集成』一万巻中に『図書輯勘』
 一三○巻がある。清国皇帝は自身で序文を記し、『朕は源義経
 の末裔である。義経が清和源氏の流れをくむため、清和天皇の
 名をとって国号を≪清≫とした』と述べている。私は或る儒者
 の書物を見てこのことを知った。
              ――森長見編、『国学忘貝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は源義経の末裔であり、そのため「清」という国名は清和
源氏の「清」をとったものであるということを皇帝自身の筆で書
いているとすれば大変なことです。
 確かに、かつて北京の宮殿に「和」という字がついたものが多
いということがあったのです。大和殿、保和殿、中和殿、雍和宮
協和門などです。清朝時代には、日本のことを「和」と呼んでい
たのです。
 そのため中華民国が誕生したとき、袁世凱大総統はその名前を
書きかえるのに苦労したと伝えられています。大和殿は承運殿、
保和殿は建極殿、中和殿は体元殿、協和門は経文門というように
です。なぜ、袁世凱大総統は、ここまで「和」を外すことにこだ
わったのでしょうか。
 歴史学者たちは当然『図書輯勘』の存在を疑ったのです。『古
今図書集成』自体は、日本に八代将軍・吉宗の時代に絵図160
巻のみがきて、宝歴13年(1763年)に全巻がきているはず
なのです。時の老中・田沼意次は書物奉行に諮問したうえで、紅
葉山文庫に収蔵したとされています。
 何人かの歴史学者は、紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲
覧を申し出たのですが、なかなか許可にならなかったのです。そ
の中にあって、閲覧の許可が出たのが桂川中良という人です。彼
の兄が医師・蘭学者にして幕府の医学館教授をしていたことがも
のをいったのです。
 桂川中良は、『古今図書集成』のすべてを閲覧したのです。し
かし、肝心の皇帝の序が出ているという『図書輯勘』はなかった
というのです。総目録にもなかったそうです。そこで、桂川中良
は『図書輯勘』は存在しない書物と決めてしまい、次のように述
べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば『古今図書集成』という貴重な書物を見たうえに
 真実を知ったことこそ大きな幸福である。義経=清朝先祖説は
 『国学忘貝』に限らず、広く世に喧伝されているが、同好の士
 よ。義経と清朝のことに関しては、永久に懸念を絶つべきであ
 る。                    ――桂川中良
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂川中良は、このことばによって、義経は衣川の戦いで自害し
ており、清朝先祖説を含む義経=成吉思汗説などは妄説に過ぎな
いと断定したのです。しかし、最近になって、『図書輯勘』はや
はりあるという説も出てきているのです。 
                 ・・・[義経の謎/26]


≪画像および関連情報≫
 ・『古今図書集成』
  中国、清代に編纂された中国最大の百科事典。1万巻からなり
  1725年に完成。のち銅版印刷で60余部が印刷された。図
  は、1884年に上海で重版されたものである。

古今図書集成.jpg
古今図書集成
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

●清国は中国にあらず(EJ第1657号)

 清朝のことが出てきたので、若干脱線しますが、清朝と中国の
関係について述べておきます。源義経=成吉思汗説とも関係があ
るからです。
 一般的に清朝は最後の中国王朝であると思われています。した
がって、1894年〜1895年にかけて行われた日清戦争は、
日本が中国と戦った戦争であり、その結果、下関講話条約で日本
が獲得した台湾は、中国から割譲を受けたものである――そう思
い込んでいる人が意外に多いのです。
 しかし、これはとんでもない間違いなのです。清朝は中国では
ありません。日清戦争は日本と清帝国との戦争であり、日本と中
国の戦争ではないのです。なぜなら、中国という国家はその時点
でまだ存在していなかったからです。したがって、台湾について
は、中国の一部ではなく、清帝国の辺境だったのです。
 その理由としては、次の2つを上げることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.まず、人種が違うということである。清朝の皇帝は満州人
   であって、中国人(漢人)ではないのである
 2.清朝は中国の外の瀋陽で建国されており、確かに中国を支
   配したが、それ以外の国も支配していること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族なのです。清という国は、満州族の一部族
である愛新覚羅氏が建てた王朝なのです。考えてみると、テムジ
ンが当初活躍したのは、現在の中国の東北地区に当たる満州の地
域なのです。
 清朝は1636年に瀋陽で建国されており、中国に入って支配
したのは1644年からのことです。それから1912年までの
268年間、清朝は中国を支配したのですが、中国だけではなく
清帝国を構成する五大種族に君臨したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.満州族 ・・・・・・・・ 八旗の議長
  2.モンゴル族 ・・・・・・ 大ハーン
  3.漢族 ・・・・・・・・・ 明朝の皇帝
  4.チベット族 ・・・・・・ 大施主
  5.東トルキスタン族 ・・・ ジューンガルの支配権
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族に関しては、「八旗」と呼ばれる8部族の
部族長会議の議長であり、モンゴル族に関しては成吉思汗以来の
遊牧民の大ハーン、漢族にに関しては洪武帝以来の明朝の皇帝の
地位を引き継いで皇帝として支配したのです。
 チベット族に関しては、元の世祖フビライ・ハーン以来の、チ
ベット仏教最高の保護者である大施主、東トルキスタン族に対し
ては、最後の遊牧帝国ジューンガルの支配権を引き継いで、オア
シス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していたのです。
 これらの五大種族の中で漢族だけはどちらかというと低く扱わ
れていたのです。他の4つの種族は自治が認められていたのに対
し、漢族だけは清朝帝国の使用人である官僚を通して統治されて
いたからです。
 漢族は科挙の試験に合格して官僚にならない限り、中国の行政
には参加できず、辺境の統治にも帝国の経営にも参加することは
認められなかったのです。いわば、漢族は清帝国の二流市民であ
り、中国は清朝の植民地の一つだったのです。
 これに比べてモンゴル族は、清朝の建国に当初から参加した関
係で、新帝国では満州族に準ずる地位を与えられていたのです。
モンゴル人の貴族たちは、清朝の皇族と同じ爵位を与えられ、皇
帝から俸禄を支給されていました。それにモンゴル族の庶民は、
それぞれ自分の領主に治められていて、清朝に税金を払うことは
なかったのです。
 それにもかかわらず、清朝は中国王朝であり、清帝国は中華民
国であったという誤解がはびこっているのです。どうしてこうい
うことになったのでしょうか。
 これに関して、東京外国語大学名誉教授、岡田英弘氏は次の3
つの原因を上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.「国家国民」という新しい観念が世界中に広まったこと
 2.20世紀における中国人による政治的宣伝の結果である
 3.ヨーロッパ人やアメリカ人の勘違いがそれに加わること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは「国家」という言葉を何気なく使いますが、国家な
どという政治制度は18世紀の末まで、世界中のどこにも存在せ
ず、あったのは君主制と自治都市だけである――岡田氏はこのよ
うにいい、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アメリカ独立でも、フランス革命でも、国王の財産を市民が強
 奪して、国家がはじまったのだが、こんどは国家の正当な所有
 権者がだれかが問題になる。国家の所有権は「国民」に帰属す
 る、ということになると、こんどはその国民とはだれかが問題
 になる。そこで、「国土」に住んでいる者が国民だということ
 になる。そうすると、それまでにはなかった「国線」を引いて
 その内側の住民を国民と見なして、同じ「国語」を話し、同じ
 「国史」を共有することを強制するようになる。  
       ――岡田英弘著、『皇帝たちの中国』、原書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに乗じた中国の政治的な宣伝があるのです。中国人の国民
主義(ナショナリズム)は高揚して「大漢族主義」の主張により
満州人も漢人はもともと同じ中華民族であり、その清朝の皇帝に
臣属しているモンゴル人もチベット人も漢族であるという乱暴な
主張をしているのです。
 加えて、ヨーロッパ人やアメリカ人は海路を通って清帝国に入
ったので、清帝国支配権の中国部分しか見ておらず、清国イコー
ルチャイナと誤解してしまったのです。・・[義経の謎/27]


≪画像および関連情報≫
 ・「八旗」とは何か
  「八旗」とは、清の時代の、清の支配民族である満州族の社
  会組織・軍事組織のことである。8つの旗と呼ばれる社会・
  軍事集団が編成され、全ての満州族がこれに配属された。女
  真族を統一して清を興したヌルハチが、女真族固有の社会組
  織を元に創始した。また、この制度を指して八旗と呼ぶ。
 ・≪軍旗の色≫
   1.黄色の縁取りあり  3.紅色の縁取りあり
     黄色の縁取りなし    紅色の縁取りなし
   2.白色の縁取りあり  4.藍色の縁取りあり
     白色の縁取りなし    藍色の縁取りなし

八旗.jpg
八旗
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月12日

●清朝と満州国の関係を探る(EJ第1658号)

 清朝を建てた愛新覚羅氏は文化政策――文教の保護政策に大変
力を入れたのです。宮廷に多くの学者を集め、多くの書物を編纂
させています。出版が発達していない封建時代において、一般大
衆にあまりかかわりのない歴史的な記録の集成に力を入れるには
そういう政策が必要であったのです。
 その政策は代々の清朝の皇帝たちにきちんと受け継がれ、歴史
書の編纂は継続されていったのです。既出の『図書輯勘録』30
巻はその中のひとつなのです。この『図書輯勘録』に六代皇帝で
ある乾隆帝の序文があり、そこに皇帝自身が「朕の姓は源、義経
の裔なり」と書いているという言い伝えについては、既に述べた
通りです。
 この『図書輯勘録』という書物は、発見されなかったという事
実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまって
います。しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出
の文献なのです。
 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちによって、自分たちの大清帝国
の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔
などということを広く知られたくはなかったのは当然です。した
がって、それは北京の秘庫に深く収められ、専門の史官によって
厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。
 したがって、簡単に発見されるものではなく、見つからないか
らといって、そういう書物はなかったということにはならないと
思います。清朝の建国者である愛新覚羅家と日本とはいろいろな
つながりがあり、源義経=成吉思汗説とも深いかかわりがあると
いうことができます。
 このことに関連して、愛新覚羅溥儀という人物について少し述
べる必要があります。愛新覚羅溥儀は、ベルナルド・ベルトリッ
チ監督の映画『ラストエンペラー』の主人公その人です。彼は、
戦時中に日本の建設した「傀儡国家」である満州国の皇帝として
国家(中国)に反逆し、中国人民を抑圧したと言う理由で、19
50年に「戦犯」として、中国共産党によって撫順刑務所へ送ら
れています。そこで溥儀は「思想再教育」を受け、1959年に
「特赦」によって出所しています。
 しかし、溥儀が「満州国の皇帝として、国家(中国)に反逆し
中国人民を抑圧した」というのは事実でしょうか。
 結論からいうと、愛新覚羅溥儀は満州人として、日本の協力は
得たものの、自らの故郷である満州に独立国を建てただけのこと
であり、中国には関係がないのです。ここにも満州人も漢民族も
すべて中国にしてしまう中国の戦略があります。
 愛新覚羅溥儀は宣統帝といって、清朝最後の皇帝であることは
事実です。1911年の辛亥革命は大きく広がり、1912年1
月1日に孫文が臨時大総統に就任して、「中華民国」が成立した
のです。その後、袁世凱が清朝と中華民国との仲介をし、宣統帝
・溥儀の「退位」を引き出したのです。しかし、この「退位」は
「条件つき」だったのです。その条件の概要は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.宣統帝・溥儀は退位後も皇帝の称号は廃止しない
   2.大清皇帝は年金として毎年400万両を受領する
   3.大清皇帝は紫禁城内にそのまま居住し、後日移動
   4.大清皇帝の宗廟・陵は永久に奉祀し、慎重に保護
   5.先帝光緒帝の陵の工事は予定通り続行させること
   6.紫禁城内の各職員は従来通りそのまま使用できる
   7.大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する
   8.禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国に下に置かれる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、宣統帝・溥儀は、退位後も皇帝の称号を名乗る
ことが許され、紫禁城に住むことができ、高額の年金を与えられ
て、側近の職員もそのままという生活を保障されています。溥儀
としては、この協定と引き換えに退位をしたのです。1912年
2月20日、中華民国と清朝との間に「退位協定」が締結され、
宣統帝・溥儀は退位して、清朝は滅亡したのです。
 しかし、袁世凱は大統領に就任すると、1914年に大総統令
を出して、一方的にこの協定を破棄してしまうのです。そして、
溥儀を一国民に格下げし、紫禁城から追い出してしまうのです。
 溥儀は天津租界の日本公使館に保護されたのですが、中華民国
政府は紫禁城から清皇室の財産をことごとく没収し、さらに西太
后をはじめとする清朝歴代諸皇帝の御陵まで軍兵を差し向けて、
副葬品などを掠奪したのです。これは、明らかに契約違反以外の
何ものでもなく、これによって、中華民国は清朝から禅譲された
政権の正当性を自らの意思で放棄したことになるのです。
 その後、1934年に溥儀は、日本軍の力を借りて父祖発祥の
地である満州国の皇帝の地位につくのです。「退位協定」が破ら
れているので、清朝はそのまま残っていると考えれば、満州国は
後清朝というべき性格を持つといえます。
 満州国は古来より一度たりとも中国人によって征服されたこと
はないのです。しかし、満州国皇帝の溥儀は、国家に反逆し、中
国人民の抑圧などで罰せられているのです。これは明らかに冤罪
ということになります。
 もし、中華民国政府が「退位協定」を守っていたら、日本は満
州国など建国しなかったでしょうし、溥儀もその皇帝に就任する
こともなかったのです。
 満州は、日本の北方領土と同じようなものなのです。終戦のど
さくさにまぎれて併合され、中国東北部に改称されています。か
つての満州は歴史のかなたに埋没されつつあるのです。
 源義経=成吉思汗説について書くさいに、「満州」のことが多
く出てくるので、取り上げてみたのです。なぜなら、満州は年月
の経過とともに人々から忘れられ、単なる中国の東北地区になり
つつあるのです。
 このように愛新覚羅家と日本とは、密接なつながりがあるので
す。それは源義経とも密接に関係があるのです。
                 ・・・[義経の謎/28]


≪画像および関連情報≫
 ・満州について
  満州はさして古い地域名ではなく、この地域が清の支配民族
  マンジュ(漢字で「満州」)の居住地域であったことから、
  西欧語で「マンチュリア」と呼ばれるようになり、漢字圏で
  もこれに対応させて、「満州」と呼ぶようになったものであ
  る。中華人民共和国では過去の満州国の記憶を嫌い、地域名
  称としての「満州」はほとんど使われることはなく、抽象的
  な「中国東北地区」が使われる。民族名としての「満州族」
  すら使わせず、「満族」と呼称している。――出典: フリー
  百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラスト・エンペラー.jpg
ラスト・エンペラー
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月13日

●天城山心中と椿山心中(EJ第1659号)

 愛新覚羅家といえば、忘れられない出来事があります。それは
昭和32年に起こった天城山心中事件です。当時の新聞が伝える
事件の概要です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昭和32年12月10日、静岡県伊豆半島の天城山で若い男女
 の死体が発見された。地元警察が現場検証したところ、死体は
 2人ともピストルで頭を撃ち抜かれていた。遺品から男性は学
 習院大学2年生の大久保武道さん(当時20歳)で女性は同級
 生で元満州国皇帝・溥儀氏の姪で愛新覚羅慧生さん(えいせい
 ・当時20歳)であることが判明、2人の関係や状況から心中
 と断定された。            ――当時の新聞より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ピストル心中を遂げた男性の大久保武道さんは、八戸の出身で
あり、地元鉄道会社重役の父を持ち、学習院大学生であり、文京
区森川町の新生学寮に下宿していたのです。
 女性の方は愛新覚羅慧生さん――愛新覚羅溥儀の姪、溥儀の弟
である溥傑の長女です。この愛新覚羅溥傑のことを語るには、そ
の妻である愛新覚羅浩さんについてふれる必要があります。
 愛新覚羅浩さんは激動の昭和史の中での生き証人です。日本の
公家の嵯峨侯爵家に生まれながら、満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥
傑氏に嫁ぎ、満州国の興亡を体験しています。敗戦の満州での逃
避行から監獄での生活という辛苦を味わっているのは皇族、華族
のなかでは浩さんと近衛文隆だけだといわれています。
 心中の原因は「叶わぬ恋」――大久保としては、慧生の実家が
嵯峨家という名家であり、慧生との交際が快く思われていないこ
とから、このままいっても恋は成就しないと、心中を決意したも
のと思われます。大久保の一途さに慧生が魅かれ、大久保に引き
ずられる形で慧生も死を選んだというのが実状のようです。
 なぜこの話を取り上げたかというと、そのときから800年も
前に、天城山心中に酷似した事件が起こっているからです。それ
が椿山心中なのです。椿山心中とは、次のような話です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘
 は鶴姫を産む。義経が既に北へ旅立った後の話である。歳月が
 流れて、成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎とい
 う武士である。しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり、義経
 の遺児との結婚など不可能。思い余った2人は、話にだけ聞く
 義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。そして夏泊ま
 で来たとき、追っ手が迫った。2人は半島の絶壁で胸を刺し違
 えて、海に飛び込んだのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 阿部と鶴姫が自決した夏泊半島(青森県東津軽郡)の椿山は、
全山が1万数千本の椿でおおわれ、4月下旬から6月上旬にかけ
て、丘陵一帯が真紅に染まるのです。しかし、白椿は全然ないの
です。それは、阿部と鶴姫の血潮で染まったためであると言い伝
えられているのです。
 そして、冬になれば毎年、浅所海岸にシベリアから白鳥が飛来
し、純白の雪景色の世界に飛翔する白鳥の姿には、生命の輝きが
感じられます。これらの白鳥は、鶴姫の父・義経の霊魂が化した
もので、非業の死をとげた鶴姫をなぐさめるために毎年決まって
飛来するといわれています。
 天城山心中と椿山心中の男性は、いずれも八戸の出身であり、
女性はいずれも源義常につながるのです。愛新覚羅慧生さんは清
国の末裔ですし、鶴姫は義経の忘れ形見です。清朝は成吉思汗に
つながるのです。あまりにも酷似しているのです。しかも、伊豆
の天城山は、源氏のゆかりの土地なのです。
 このことに気が付いたのは、高木彬光氏です。そして『成吉思
汗の秘密』に書いたのです。彼はこれを「輪廻」といっているの
です。ソロモンの『伝道の書』に次の言葉があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 先に有りしものはまた後に有るべし。先に成りし事はまた後に
 成るべし。日の下には新しきものあらざるなり。見よ、これは
 世に新しきものなりとさしていうべきものありや。それは我ら
 の前にありし世に、すべて久しくありたるものなり。
              ――ソロモンの『伝道の書』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』――源義経=成吉思汗説を書
くに当たって、この本ほど役に立った本はないのです。ジョセフ
ィン・テイというイギリスの女流作家がいます。その人の書いた
探偵小説に『時の娘』という傑作があるのです。「真理は時の娘
なり」という格言からとった題名ですが、『成吉思汗の秘密』の
構想は明らかにこれからとられています。
 この小説の主人公は、ロンドン警視庁の警部――彼は犯人を追
いかけているうちにマンホールに落ちて大怪我をするのです。そ
れで、病院に入っているうちに、退屈でしょうがないものだから
推理を働かせて、いろいろな難問に挑戦するというものです。
 高木彬光氏は、もちろん『時の娘』を読んでいて、その構想の
実現の機会を狙っていたといいます。1957年8月のことです
が、ある易者に先祖のお墓参りをすれば、必ず大作のきっかけが
掴めるといわれたそうです。半信半疑で出発した高木氏は、不思
議な体験をするのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 途中北上川が氾濫して、夜中から朝まで平泉の駅に急行列車が
 立往生してしまったのである。その時、私は妙な夢を見た。白
 鳥の大群が海をわたり、一望千里の広野に飛んで行く光景だっ
 た。いつのまにか、私もその一羽になって空を飛んでいる――
 眼がさめたとき、私は子供の頃聞いていた椿山伝説を思い出し
 て、おやと思ったのである。 ――高木彬光著「前掲書」より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシリーズは明日で終了します。・・・[義経の謎/29]


≪画像および関連情報≫
 ・高木彬光著、『成吉思汗の秘密』についての批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  誰かがやりそうなものと、ひそかに期待していたが、とうと
  う高木さんが、ジョセフィン・テイの「時の娘」の手法を取
  り上げた。病院に臥床中の神津恭介は、ベッド・ディティク
  テヴとなって、「成吉思汗は源義経なり」の史上の大疑問を
  犯罪捜査の手法によって、一々証拠を示しながら、あくまで
  も論理的に解明して行くのである。テイ女史のリチャード・
  三世善玉説は、イギリス史学界の問題にもなった。高木さん
  のこの一篇も、日本史学界に一つの刺戟を与えるのではない
  かと思う。               ――江戸川乱歩
  ―――――――――――――――――――――――――――

天城山心中と椿山心中.jpg
天城山心中と椿山心中
posted by 管理者 at 03:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月14日

●これからも消えない義経生存説(EJ第1660号)

 源義経=成吉思汗説(義経の謎)今回の30回で終了します。
 俗にいう「源義経生存説」を信ずる人は、次の2つにわかれる
と思うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経は平泉では死んでいないが、北海道までは逃避行を続
   けたことは間違いないと考えている人
 2.義経は藤原氏の一部の武将と大陸に渡り、成吉思汗になり
   モンゴル帝国を築いたと考えている人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が今まで調べた限りでは、1に関しては、その可能性は80
%程度はあると考えます。それを証明する状況証拠が豊富に存在
するからです。しかし、2に関しては、何しろ大陸の話なので、
状況証拠は限られており、そういう意味からは、その可能性とし
ては20%程度ではないかと思われます。源義経が成吉思汗であ
るという決定的な証拠もない代わりに、そうではないという証拠
もない状況だからです。
 源義経生存説がはじめて登場したのは、江戸時代の中期ですが
それから昭和にかけて大きな話題となったことは、次の6回ほど
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.江戸時代/正徳 2年(1712)
   ・義経は蝦夷地に脱出し、アイヌに神として崇められる
 2.江戸時代/享保 2年(1717)
   ・蝦夷地に脱出後、金国に入り、皇帝として厚遇される
 3.江戸時代/天明 3年(1783)
   ・義経は蝦夷地から韃靼に渡り、やがて清国を建国する
 4.明治時代/明治18年(1885)
   ・義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗に
 5.大正時代/大正13年(1924)
   ・小谷部の『成吉思汗は源義経也』がベストセラーズに
 6.昭和時代/昭和33年(1958)
   ・高木彬光『成吉思汗の秘密』のベッドディテクティヴ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歴史上の出来事が本当にあったことかどうかを調べるにはいく
つかの方法があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.外国も含む史料や歴史文献を調べて、そのように記述され
   ているかどうかを確認する。
 2.実際に現地を実地踏査し、その出来事に関係のある遺跡や
   伝承・伝説などを調査する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、多くの歴史学者は上記の1しかやっていないのです。
確かに実地踏査するといっても、何百年も前のことですから、調
査には限界があります。伝承・伝説にしてもそれを額面通りには
受け取れない――それはよくわかります。
 そうはいっても、2を省略することは怠慢のそしりを免れない
でしょう。小谷部全一郎氏は、単に歴史書を調べるだけでなく、
平泉から北海道まで、義経一行が逃げたと思われるルートをすべ
て実地踏査し、さらに大陸まで足を伸ばして義経の足跡を探査し
たうえで、『成吉思汗は源義経也』を書いているのです。
 私は、今回のテーマを書くため、必ずしも読みやすくはない小
谷部氏の本を時間をかけて読んでみましたが、彼の示す数多い状
況証拠には説得力があり、よくぞここまで調べたものと感嘆した
しだいです。
 これに対して歴史学者は、あくまで史書に基づいて得られた判
断を歴史的事実としており、実地踏査などだれもやってはいない
と思われます。それでいて、実地踏査に基づく小谷部全一郎氏の
研究に関しても、最初から「そのような事実はない」と決めてか
かり、それでいて何らの証拠も示さず、牽強付会のこじつけとし
て葬り去っているのです。
 歴史学者たちはいったん確定した(と彼らが思っている)歴史
的事実に対して異見を唱える者を容赦なく弾劾します。そのすさ
まじさは、小谷部氏のケースを見れば明らかでしょう。
 それを恐れてか、歴史のウソを数多く指摘しているあの井沢元
彦氏ですら、義経に関しては衣川の戦いで自決したという、ごく
一般的な説を追認しているのです。
 歴史学者たちは「義経生存説」が消えない理由について、日本
人の「判官びいき」のためとしており、その考え方を基調として
あらゆる義経生存に関わる状況証拠を否定しています。
 確かに義経は「悲劇の主人公」といえます。幼くして父親を殺
され、敵将に預けられて、さらに母とも引き離されて鞍馬山に送
られる――親の愛を十分に受けられないで育っています。やがて
兄頼朝と会って、平家討伐という大功績を立てるが、頼朝から一
転逆賊扱いされ、追手に追われたあげく、31歳で自害――「薄
命」を絵に描いたような生涯です。
 こうなると「義経かわいそう」ということになり、判官びいき
が生まれ、「そうあって欲しい」という一念が義経生存説を生み
出したとするのです。そして、各地に残る義経の遺跡や伝説など
のすべては、こうした判官びいきから生まれたものであると学者
たちは考えているようです。
 何はともあれ、義経が衣川の戦いで死亡したという確たる証拠
がないことが生存説を生む原因なのです。それにしても、歴史学
者たちはこの問題になると、なぜ、かくも感情的になってしまう
のでしょうか。
 30回にわたる源義経=成吉思汗説(義経の謎)のテーマは、
これで終了します。長い間のご愛読感謝します。
              ・・・[義経の謎/30最終回]


≪画像および関連情報≫
 ・ある推理作家の想像する義経の最後
  ―――――――――――――――――――――――――――
  義経が大陸にわたったのだとしても、私は彼がジンギスカン
  になったのではないだろうと思っている。あるいはジンギス
  カンの軍団と戦って敗れ去ったか。あるいは平泉の滅亡を知
  って、帰るべき地を失った痛手を胸にどこかでのたれ死にし
  たか。いずれ悲運な最後を遂げたような気がしてならない。
  −中津文彦著『義経はどこへ消えた?』(PHP研究所刊)
  ―――――――――――――――――――――――――――

中津文彦氏.jpg
中津 文彦氏
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月15日

●ドルは基軸通貨を保てるか(EJ第2342号)

 今日から「金の戦争」をテーマに掲載します。なお、この記事
は2008年6月9日から2008年8月13日までの47回に
わたって掲載したものであることをお断りしておきます。
 原油の問題を書いてきて気がついたことがあります。それは原
油高騰の裏側で金も高騰していることです。それも相当急ピッチ
で値を上げてきているのです。
 実は金の国際相場の上昇は現ブッシュ政権成立直後の2001
年4月頃から始まっているのです。2007年秋頃からそれが急
ピッチになり、遂に2008年3月中旬に「1オンス=1000
ドル」を突破しているのです。もちろん史上はじめてです。
 エコノミストたちの分析によると、金の高騰はサブプライム問
題の影響で世界の過剰流動性マネーが金に流れ込んだことと、中
国やインドの実需の増加などによるものであるとしていますが、
これは原油高騰と同じ構図というようになります。しかし、本当
にそうなのでしょうか。
 原油はともかくとして、金相場の高騰に関しては相当深いウラ
があるようなのです。そこで、金相場を中心に国際経済を見ると
という視点があってもよいと考えて、少しずつ関連の本を集めて
きたのですが、金に関する本はきわめて少なく、果たしてどこま
で掘り下げられるかは不明ですが、今日から次のタイトルで金の
問題を追及していくことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「金」をコントロールする米国の長期金融戦略を探る
   ―― このままでは日本は3度の敗戦になる ――
―――――――――――――――――――――――――――――
 なお、今回のテーマに関連のあるテーマを過去にEJで取り上
げていますので、あわせて読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『日米経済関係の謎』/全20回
 2006年3月31日/EJ第1806号〜2006年4月
 28日/EJ第1826号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/15838071.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、原油高が止まらないということは「ドル安」が進んでい
るということを意味しています。一部のエコノミストによると、
米国のサブプライム問題はこの先一層深刻化してドルは暴落し、
米国のドル覇権は失墜するという論調が盛んです。しかし、本当
にそうなるでしょうか。
 産経新聞社編集委員の田村秀男氏は、ドルの暴落について次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ドル暴落」が実際に起これば、米国は全世界に張り巡らせた
 軍事基地を維持できなくなる。値打ちがどんどん下がるドル札
 を那覇、横須賀あるいは東京六本木のバーやホテルで受け取っ
 てもらえなくなったら、また、基地の家族がドル建ての給料で
 暮らせなくなったときどうなるかを想定すればよい。何よりも
 基地が物資を調達できなくなったとき、米国は海外での軍事力
 を事実上失う。そんな事態をだれも望んではいない。よくも悪
 くも、米国の金融・軍事パワーが世界を経営しないと、自国や
 周辺を安定させられない。         ――田村秀男著
   『経済で読む「日・米・中」関係/国際政治学入門』より
                    扶桑社新書/031
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ドル暴落」と簡単にいいますが、もし、いま起こったとした
ら大混乱になることは必至です。したがって、遠い将来のことは
別として現時点で「ドル暴落」を望む世界の指導者は一人もいな
いといってよいと思います。
 確かにロシアの新大統領メドベージェフ氏は「資源をルーブル
で決済すると宣言しましたが、基軸通貨のドル体制を崩そうとは
考えていないはずです。どこの国も目先の自国の繁栄を考えてい
るからです。中国にしてもインドにしても同様です。
 中国やインドは、できる限りドルに対して自国通貨を大幅に上
昇させまいとして、ドルを買い上げ、米国債の購入を続けていま
す。もちろん日本も同様です。いずれも自国通貨に対するドルの
安定を少なくとも現時点では強く望んでいるのです。したがって
そう簡単にドル暴落は起こらないのです。
 原油価格はドルで表示されています。これによってドルの力が
裏打ちされ、強くなっているといえるのです。つまり、原油はか
つての金本位制時代の金にも相当する存在なのです。
 これに正面から逆らった最初のアラブ産油国はサダム・フセイ
ンのイラクだけです。1999年にユーロが誕生すると、フセイ
ンは2000年に原油の決済通貨をユーロに変更します。そして
2003年のイラク攻撃のあと、米国はイラク原油の決済通貨を
ユーロからドルに戻しています。
 また、2007年にイランが、原油のドル決済完全に停止と宣
言し、現在のところユーロと円で決済しています。しかし、欧州
はそれに対応せずにドルを維持しています。現時点においても、
米国によるイラン攻撃の噂が消えないのはそのあたりにも原因が
あるといわれています。
 ここでわれわれは「基軸通貨」というものの持つ意味を改めて
考える必要があると思います。現在のドルは金の裏付けのない単
なる紙切れに過ぎないものです。しかし、その紙切れで米国は世
界中から必要なものを何でも買えるのです。
 原油はドルで決済することになっていますので、原油を購入す
るときは、自国通貨でドルを買い、そのうえで購入するという面
倒なことを強いられるのです。
 米国の場合、もし、ドルが足りなければ印刷すればよいわけで
米国はこれによって、世界中から巨大な富を集めることができる
のです。それはドルが基軸通貨であるからできることなのです。
 したがって、米国が一番恐れるのは、ドルの刷り過ぎによって
インフレになることです。インフレになるとドルの価値は下がっ
てしまうからです。したがって、FRBはそうならないようあら
ゆる手を打っています。       ――[金の戦争/01]


≪画像および関連情報≫
 ●「基軸通貨」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  英ポンドは19世紀半ば以降、国際金融の中心地としてのイ
  ギリスの強力な立場を背景に基軸通貨としての役割を担って
  いたが、第一次世界大戦で欧州各国は経済が疲弊し逆にアメ
  リカは戦争特需で経済が急成長したため、基軸通貨が機能面
  で英ポンドから米ドルへ移り、第二次世界大戦後はアメリカ
  がIMF体制の下で各国中央銀行に対して米ドルの金兌換を
  約束したこと及びアメリカの経済力を背景に米ドルが名実共
  に基軸通貨となった。欧州単一通貨・ユーロが将来的に米ド
  ルと並ぶ基軸通貨に成長するとの見方もあるが、対外取引の
  80%以上が米ドルで行われていることから、現在のところ
  の実質的な基軸通貨としての地位は揺らいでいない。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

田村秀男氏の新刊書.jpg
田村 秀男氏の新刊書
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

●金の動きにかかわる3つの年(EJ第2343号)

 次の3つの年が何を意味しているかわかるでしょうか。それは
「金」をめぐる重要な動きに関係があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1933年
            1944年
            1971年
―――――――――――――――――――――――――――――
 1933年3月8日のことです。フランクリン・ルーズベルト
米大統領は就任最初の記者会見で次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   金本位制には手をつけない。金本位制は安泰である
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルト大統領は、直ちに緊急銀行法を上下両院で可決・
成立させたのです。そしてこの法律に基づき、大統領は経済を支
配できる次のような強力な権限を得ているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.財務長官に、金貨、金塊、証券の引き渡しを要求する権限
   を与える
 2.大統領に、金銀の輸出・退蔵を規制あるいは禁止する権限
   を与える
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうしてこのような法律を成立させたのかについては理由があ
ります。当時大恐慌が米国全土を襲い、経済の崩壊に怯えた米国
人は資本を海外に移したり、金に換えたりしており、物凄い勢い
で米国から金が流出していたからです。
 1933年2月の最後の10日間で8000万ドル、3月の最
初の4日間で2憶ドル以上の金が消失していたのです。ルーズベ
ルト大統領が3月初めの記者会見で「金本位制は安泰である」と
いったのも、このような深刻な事態を何としても乗り切りたいと
考えたからなのです。
 1933年4月18日、ルーズベルト大統領は次のような大統
領令を発したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 全国民はすべての金貨、金証券、金塊を銀行へ提出し、紙幣
 または銀行預金と交換すべし        ――大統領令
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点で金の価格は、それまでの「1オンス=20.67 ド
ル」から「1オンス=35ドル」に引き上げられたのです。金の
単位は正確には「トロイオンス(単にオンスと略す)」というの
ですが、質量は約31グラムです。ちなみにトロイとは、中世に
おいて重要な商都であったフランス・シャンパーニュ地方の町ト
ロイに由来するのです。
 フェルディナント・リップスという人がいます。実はこの名前
はこれから何度も登場してくることになりますが、「金の戦争」
という言葉を最初に使った人がこのリップスなのです。
 リップスは1931年にスイスで生まれた銀行家であり、19
68年にチューリッヒ・ロスチャイルド銀行の設立にかかわった
人物といわれています。
 リップスによると、金の戦争はルーズベルト大統領の1933
年の大統領令からはじまったというのです。それではなぜ、金の
戦争なのでしょうか。
 米国は米国市民からこの大統領令によって金を押収し、以後の
個人による金保有と売買を禁じています。つまり、これは国家に
よる金の管理そのものであり、まさに非常事態であって、戦争と
いってよいといえます。なぜ、金の戦争なのかはこのあと次第に
明らかになっていきます。
 戦争には武力によるものだけではなく、政治による政治戦争、
経済による経済戦争もあります。なお、ここでいう金の戦争――
これは政治および経済の戦争をミックスしたものといえます。
 第2の1944年とは何でしょうか。
 1944年は、米ニューハンプシャー州の保養地のブレトン・
ウッズにおいて、英国のジョン・メイナード・ケインズと米財務
長官であるハリー・デクスター・ホワイトによる迫真の協議を通
じて生まれた新しい通貨体制――ブレトン・ウッズ体制が誕生し
た年なのです。
 このとき、英国のケインズは、圧倒的な国力を背景とする米国
のホワイトに完敗したのです。これに関する詳細は、EJ第18
11号とEJ第1812号の次の記事をご覧ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
◎EJ第1811号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/16254304.html
◎EJ第1812号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/16372704.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 このブレトン・ウッズ体制によって、「世界銀行」と「IMF
/国際通貨基金」が誕生しています。この新しい体制を支えたの
は、世界の貨幣用金の75%を占める米国の金保有量――2万ト
ンをはるかに超える量――であったのです。
 この体制によって米国のドルが固定レートとなり、自由に金へ
と交換できることになったのです。この新体制は1946年5月
に正式に発足しています。
 それでは、最後の1971年とは何でしょうか。
 1971年8月15日のことです。基軸通貨国として世界に君
臨していた米国は、ドルと金とのリンクを断ち切ると宣言したの
です。いわゆる「ニクソン・ショック」が起こった年です。
 ブレトン・ウッズ体制からニクソン・ショックまでの27年間
に一体何があったのでしょうか。それと、さらにそれから37年
間――米国はどのように変化したのでしょうか。
 それを「金の動き」という視点から追跡して行きたいと考えて
おります。             ――[金の戦争/02]


≪画像および関連情報≫
 ●金の単位――トロイオンスについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  トロイオンスは、貴金属や宝石の原石の計量に用いられるヤ
  ード・ポンド法の質量の単位である。金衡オンス(きんこう
  オンス)ともいう。トロイオンスは480グレーンに等しく
  常用オンス――487.91 グレーンよりも少しだけ重い。
  現在は1グレーンが正確に64.798 ミリグラムと定めら
  れているので、1トロイオンスは、正確に31.1035 グ
  ラムとなる。常用オンスは28.349 グラムである。貴金
  属(金や銀)の価格設定においてはトロイオンスのみが用い
  られる。日本の計量法でも、金貨の質量の計量に限定してト
  ロイオンスの使用が認められている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

フランクリン・ルーズベルト大統領.jpg
フランクリン・ルーズベルト大統領
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月20日

●基軸通貨システムは長続きできない!?(EJ第2344号)

 ブレトン・ウッズ体制がスタートした1940年代――その頃
の米国には世界の金のほとんどが集まり、経済も絶好調であった
のです。何しろ圧倒的な金をベースにして発行されるドルは、金
と同等の価値があったのです。そのため、このブレトン・ウッズ
体制のことを「金・ドル本位制」と呼ぶのです。
 しかし、それまでの基軸通貨であるポンドを押しのけてドルを
世界に、とくにヨーロッパにおいて広げるのは、そう簡単なこと
ではなかったのです。
 そこで、1940年代から50年代にかけて、それまでに貯め
込んだ膨大な貿易収支の黒字をヨーロッパ中心に対外投資に注ぎ
込むことによって、米国は資本輸出国として絶対的な地位を築い
て行ったのです。
 この経験を通じて米国は対外投資が一定の政治的パワーを生み
出すことを学習していたのです。1956年に勃発したいわゆる
スエズ戦争において、そういう米国のパワーを垣間見ることがで
きます。
 第2次中東戦争/スエズ戦争は、普通の歴史のテキストでは次
のように記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1956年、国民投票で大統領に就任したナセルは、スエズ運
 河会社の国有化を宣言。これに対して英仏などの西欧圏やイス
 ラエルは動揺する。英仏は運河の無料通航を要求してエジプト
 侵攻を決意。この危機に対して国連安保理事会は英仏の拒否権
 で機能せず、英仏は10月29日、ナセル打倒に向けてエジプ
 トに軍事侵攻、続いて英仏両軍がスエズ地区に出兵した。11
 月1日の国連緊急総会はスエズ運河国有化の正当化と即時停戦
 を決議、英仏のエジプト侵攻を非難。国際世論に屈した英仏と
 イスラエルは遂に侵攻を断念し、1957年3月までに撤退し
 た。ナセル・エジプトを代表とするアラブ民族主義の大勝利で
 あった。これによりスエズ運河国有化は完成し、スエズ運河は
 エジプトのもとで運営されることが決まった。これが第2次中
 東戦争、すなわち「スエズ戦争」の概要である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦争の顛末を見ると、英仏軍がいかにもあっさりと撤退し
たことが奇異に感じられます。しかし、これには歴史の表面には
出ないウラの事情があるのです。
 英仏軍が撤退した本当の理由は米国の働きかけによるものなの
です。このとき米国は英仏によるエジプトへの干渉に強硬に反対
し、もし英国が応じないときは、米国が保有する英国債を全額売
却すると警告したのです。
 そのとき米国は膨大な額の英国債を保有しており、それが売却
されると、どのような恐ろしいことになるのか英国はわかったの
で、フランスを説得して軍を引いたのです。そのとき米国は軍事
力のみならず、マネー・パワーもまた国際的政治力を発揮する有
効な手段になり得ることを確認したのです。
 しかし、ブレトン・ウッズ体制には大きな欠陥があり、いずれ
破綻をきたすことを英国を代表してあのブレトン・ウッズで米国
のホワイトと交渉したケインズは早くからそれを見抜いていたと
いわれます。ケインズに関しては次のような話があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国での難しい交渉と長い船旅を終え英国に降り立ったケイン
 ズと、取り巻いた新聞記者の間で交わされたというやり取りが
 今に伝えられている。
 「ケインズさん、あんたは英国を、アメリカの49番目の州に
 しちゃったって、もっぱらの噂です。ほんとなんですか」
 アラスカ、ハワイが連邦入りし州になるのは1959年のこと
 だから、当時のイギリスが合衆国に組み入れられるとしたら、
 「49番目」の州となる計算である。ケインズは聞かれてあっ
 さり、こう答えたそうだ。
 「ああ、そういう幸運には恵まれないね」――ずいぶんと皮肉
 がきいている。――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 新聞記者の質問に対して「ああ、そういう幸運には恵まれない
ね」と答えたケインズ――英国が米国の49番目の州になるとい
う「幸運」は訪れないという意味をこめてそういったのです。既
にこの時点でケインズはこの制度が長く続かないことがわかって
いたのです。
 ブレトン・ウッズ体制は、誰もが予想しなかったほどその失墜
は早く訪れたのです。この点に関して、ブレトン・ウッズ体制に
は基本的な制度設計に欠陥があると見るのが、今日まで世界の学
界における通説となっています。
 その基本的な制度上の欠陥とは、基軸通貨国というのは必然的
に国際収支が赤字とならざるを得ない仕組みになっているという
ことであり、俗に「トリフィン・ジレンマ」という理論で知られ
ているのです。要約すると次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 基軸通貨は基軸通貨国の国際収支赤字によってのみ外国人に供
 給され、その国際収支赤字は基軸通貨の信認を低下させるから
 基軸通貨の供給量(対外供給残高)拡大と信認継続とは両立し
 えない。   ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、ドル紙幣を刷ることは世界経済の規模を拡大するた
めに不可欠なことであるけれども、それをすればするほど赤字の
垂れ流しが起こり、ドルの信認に傷がつく――したがって、その
ような制度は長続きしないというものです。これが「トリフィン
・ジレンマ」です。
 しかし、この学説には強い反論があり、大きな議論になってい
るのです。             ――[金の戦争/03]


≪画像および関連情報≫
 ●トリフィン・ジレンマとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  トリフィン・ジレンマ――「アメリカの双子の赤字の拡大」
  と「基軸通貨ドルの下落傾向」の矛盾は、益々拡大している
  といわざるを得ません。それどころか矛盾解消の処方箋とし
  てトリフィンが為替調整策とともに嫌った外国為替国際市場
  に身を任せる、所謂市場原理主義が幅を利かせ暴走する「変
  動相場制」が採用され、その弊害がトリフィン・ジレンマの
  矛盾を拡大再生産しているのが現状です。「サブプライムロ
  ーンの焦付き」と「原油高の高騰」が、ヘッジファンドなど
  投機マネーの暴走に力を借り、トリフィン・ジレンマは益々
  加速しています。
    http://kerukamo.blog115.fc2.com/blog-entry-108.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレトン・ウッズでのケインズ.jpg
ブレトン・ウッズでのケインズ
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月21日

●『トリフィン・ジレンマ』と松井理論(EJ第2345号)

 前回のEJでお話しした「トリフィン・ジレンマ」のトリフィ
ンとは、ロバート・トリフィンというベルギー生まれのイェール
の経済学者です。ブレトン・ウッズ会議でのケインズ理論に関連
する国際金融政策で有名になった人です。
 この世界の学界で通説となっているといわれる「トリフィン・
ジレンマ」について真正面から堂々と異を唱えている日本人の学
者がいます。この学者は、民間銀行出身で、途中から学界に入っ
た松井均氏――東京国際大学教授です。松井理論は今回のテーマ
にも深い関係があるので、既出の谷口智彦氏の著書をベースにし
てご紹介することにします。
 「トリフィン・ジレンマ」――正確には「流動性ジレンマ論」
というのですが、松井均氏はこれを「誤謬の学説」であるとし、
第2次大戦後の米国に、国際収支節度から逸脱する絶好の理論的
口実を与えたと批判しているのです。
 「流動性ジレンマ論」が展開されるトリフィンの主著とは、次
の書籍です。邦訳も出ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ロバート・トリフィン著/小島清・村野孝共訳
  『金とドルの危機/新国際通貨制度の提案』/勁草書房刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本の共訳者の小島清氏と村野孝氏といえば、斯界の大御所
的存在の人ですが、松井均氏は彼らの「流動性ジレンマ論」につ
いて、次のように批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 たとえば、小島氏は。基軸通貨米ドルが米国の経常収支赤字の
 みによって世界に供給され、しかもそれが基軸通貨制なかんず
 く単一基軸通貨の制度的必然であったと考えておられる・・。
 これは、国内金融にたとえて言うならば「国内で最も大手の市
 中銀行が毎期の損益計算書において営業赤字を記録しなければ
 預金通貨は市中に供給され得ない」と主張するに等しい。
        ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて松井均氏は、基軸通貨国は流動性(決済資金)を
供給する市中銀行のように、短期融資や貿易信用供与によって、
世界経済の成長に必要な通貨を供給できるし、それによって赤字
を計上しなければならない必然性など、どこにもないというので
す。松井理論を要約すると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 基軸通貨制とりわけ単一基軸通貨制であっても、基軸通貨国が
 国際収支の節度を守り、・・・基礎収支を均衡ないし黒字に保
 ち、派生的発行(短期貸付け)によって基軸通貨を対外供給す
 れば、基軸通貨の信認維持と対外供給量拡大とは両立可能であ
 り、ジレンマが生ずべき必然性は存在しない。
        ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・
         ユーロの同時代史』より/日本経済新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この松井理論――1990年代末〜2000年代初頭にかけて
日本で実施された金融の「量的緩和」政策の是非をめぐる議論に
おいても登場したのです。
 2000年の前後において、日本ではデフレが進行しており、
その対策として、大方のエコノミストは「マネーの総量を増やす
政策」をとるべきであると主張したのです。
 問題は、マネーの総量を増やす政策のマネーとは、どういうマ
ネーなのかということをめぐって、経済学者と日銀・銀行エコノ
ミスト意見は、次の2つに分かれたことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ここでいうマネーは「ベースマネー」のことであり、日銀
   がそれを行うべきである ← 通貨学派
 2.企業などの民間経済主体の経済行為によって生み出される
   マネーを増やすのである ← 銀行学派
―――――――――――――――――――――――――――――
 両学派の意見は噛み合わず、実際に行われたのは日銀当座預金
残高を積み上げる――要するにベースマネーの積み上げに目標を
定める「量的緩和」政策が長く続くことになったのです。しかし
その効果については今一つ不明確のままになっています。
 これに対して松井理論――銀行学派の考え方は、具体性であっ
てわかりやすいのです。松井均氏によると、近代的な金融市場に
おける通貨発行の順序は「まず、預金通貨が発行され、その後に
現金通貨――ベースマネーが発行されるのであって、その逆はあ
り得ない」というのです。
 しかし、実際に行われたのはその逆の方であり、預金通貨の発
行に結びつかなかったのです。松井均氏は、マネーの総量を増や
すには、例えば、市中銀行が積極的に必要な短期融資などを行い
持ち込まれた手形が銀行によって割り引かれ、手形を持ち込んだ
企業の預金口座に融資相当残高が増えたとき、預金通貨はつくら
れたのです。中央銀行からのベースマネーが供給されるのはその
後のことであるべきというのです。
 この松井理論に立つと、米国は基礎収支――いわゆるプライマ
リーバランスを健全に維持しながら、フルに銀行機能を発揮する
ことによって、世界に成長・決済通貨を供給する基軸通貨国とし
ての責任を果たせることになります。つまり、ニクソン・ショッ
クは防げたかもしれない――松井氏はこう主張するのです。
 しかし、これはあくまで学者の理論上の話であって、理論的に
どんなに誤りがあったとしても、当時の米国の指導者――すなわ
ち、政治家たちの間では、トリフィンの「流動性ジレンマ論」は
幅広く信じられていたのです。
 まして、ブレトン・ウッズ体制は、今と違って金の裏付けのあ
るドルを扱っており、堅実そのものと考えられます。それでも崩
壊した理由は何なのでしょうか。    ―[金の戦争/04]


≪画像および関連情報≫
 ●「ベースマネー」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイパワードマネーとは、現金通貨と民間金融機関が保有す
  る中央銀行の預け金の合計のこと。日銀の統計では、マネタ
  リーベースと呼ばれており、実際に金融業界でもこの名称が
  使われる。ベースマネーとも呼ばれる。現金通貨とは、日銀
  券と硬貨の合計であり、中央銀行の預け金としては、金融機
  関が保有している日銀当座預金残高がこれに当る。マクロ経
  済学の教科書では、中央銀行はこれをコントロールすること
  によって、間接的にマネーサプライを調節することができる
  ため、金融政策の一つの指標とされている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

谷口智彦氏の「通貨燃ゆ」.jpg
谷口 智彦氏の「通貨燃ゆ」
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月22日

●金本位制には3つある(EJ第2346号)

 経済でも技術でも現状を正確に把握するには、それぞれの歴史
を振り返ってみる必要があります。同様に、現代世界の通貨問題
を読み解くには、ブレトン・ウッズ体制にいたるまでの歴史的プ
ロセスとブレトン・ウッズ体制崩壊後の金市場の動向を理解する
必要があります。
 ひとくちに「金本位制」といっても、次の3つに分けて考える
必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.古典的金本位制
      2.ケインズ理論による金本位制
      3.金・ドル本位制
―――――――――――――――――――――――――――――
 3つの違いについて述べることにします。
 「古典的金本位制」とは、1816年に英国が採用した金本位
制のことです。その当時他の国では金ではなく、銀本位制もしく
は金銀本位制を採用しているところが多かったのです。しかし、
銀の価格は安定せず、金銀比価の変動が激しいため、結局、金本
位制が定着したのです。金本位制を定義しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金本位制とは、中央銀行が発行した紙幣と同額の金を常時保管
 し、金と紙幣との兌換を保証する制度である
―――――――――――――――――――――――――――――
 英国は、1816年に次のレートで金本位制をひき、この価格
が、金本位制を停止した1914年までの約100年間にわたっ
て続いたのです。第1次世界大戦前のことです。ちなみに、日本
も1897年に金本位制を採用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金/1オンス(31.1035グラム)=
             3ポンド17シリング10ペンス半
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1次世界大戦は1918年に終了し、各国は国際通貨制度と
して古典的金本位制にいったんは復帰するのですが、再度停止に
追い込まれます。世界恐慌が起こったからです。
 世界恐慌とは、1929年10月24日にニューヨーク株式市
場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界規模
の恐慌のことです。
 そのとき米国の舵取りをまかされたのは、1933年3月4日
に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト米大統領です。
昨日のEJでも述べたように、当時は恐慌のため、金が米国から
流失しはじめていたのです。
 ルーズベルトは、まずこれにストップをかけるために「金本位
制は安泰である」とのメッセージを出して米国国民の動揺を抑え
たのです。そのウラで経済を支配する一切の強権を大統領に集中
させる法律を通しています。
 実はこのときルーズベルト大統領に対して助言を与え、その経
済政策に対して理論的にバックアップした人物がいるのです。あ
のジョン・メイナード・ケインズその人です。彼は英国から大統
領のもとへ送り込まれたのです。
 ルーズベルト大統領としては、デフレを抑制し、企業の再雇用
を促進し、落ち込んだ生産水準を上昇させるためにドルの大量印
刷をする必要があったのですが、その政策についてアドバイスし
たのがケインズなのです。
 ルーズベルトは、金の価格を「1オンス=35ドル」に固定す
るとともに、米国の全国民から強制的にすべての金をドル紙幣に
交換させたうえで、金本位制をとったのです。これが「ケインズ
理論による金本位制」です。
 ケインズは自らの経済学について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政府が投資を直接間接に増加させ、完全雇用を実現する経済で
 ある。そのためには、自由放任主義も、均衡財政主義も、金本
 位制も否定されなければならない。そうなれば、新しい体制が
 古い体制に比して平和にとって好ましいものになる。
             ――ジョン・メイナード・ケインズ
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、ルーズベルトの経済政策――ニューディール政策は
実際上ドルと金の兌換を行わず、保証にとどめたのです。ドルに
金の価値を持たせたといえます。これはいかにもそれから米国が
隆盛を迎えるに当って都合の良い経済学であったといえます。な
お、「ニューディール」というのは、トランプの札の配り直しと
いう意味であり、契約の結び直しを意味するのです。
 「金・ドル本位制」というのは、いうまでもなく、ブレトン・
ウッズ体制のことをいうのです。この「金・ドル本位制」とルー
ズベルトが実施した金本位制とはどこが違うのでしょうか。その
どちらにもケインズがからんでいるからです。
 もともとケインズは国の命を受けて、ルーズベルトの指南役と
して、ドルの突出を抑えるべく乗り込んだのです。既に基軸通貨
としてのポンドの命脈は尽きてはいましたが、ブレトン・ウッズ
会議では、ひとつの提案をもって臨んだのです。
 その提案とは、新たに「国際決算同盟」を作り、その通貨単位
として、「バンコールを創設する」というものです。しかし、こ
れに対して米国の代表であるハリー・デクスター・ホワイトは、
基軸通貨はドルであることを前提に、IMF(国際通貨基金)を
いわばその分身として設立することを主張し、圧倒的な国力を背
景に押し切ったのです。
 しかし、基軸通貨としてのドルは中央銀行の間では、金とのリ
ンクを維持する――英国としてはこれを主張して押し通すのが精
一杯であったといえます。これが「金・ドル本位制」です。
 ケインズとしては、これによって将来のドルの暴走に歯止めを
かけたわけです。       ・・・・・[金の戦争/05]


≪画像および関連情報≫
 ●「バンコール」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「バンコール」とは、ジョン・メイナード・ケインズによっ
  て提案されたものの実現はしなかった国際通貨。第二次世界
  大戦までに各国が次々と廃止した金本位制に代わり、金など
  30種類の基礎財をベースにして国際的に通用する通貨を発
  行するというもの。しかしながらアメリカ合衆国の合意をと
  りつけることができず、実際には金の兌換性を維持した米ド
  ルを機軸として、ブレトン・ウッズ体制が1971年のニク
  ソンショックまで続くことになる。  ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレトン・ウッズ会議の行われたホテル.jpg
ブレトン・ウッズ会議の行われたホテル
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月23日

●最初のケインジアン/ジョン・ロー(EJ第2347号)

 金と通貨の問題をお話しするときにどうしても知っておいてい
ただきたいある事件があります。それは、英国が古典的金本位を
始めた1816年のちょうど100年前の事件です。
 1715年に太陽王という異名をとったフランスのルイ14世
が亡くなっています。この当時のフランスは、度重なる戦争の影
響で深刻な財政破綻に瀕していたのです。新しい王となったのは
ルイ15世ですが、わずか5歳の幼少であったため、オルレアン
公フィリップが摂政を行うことになったのです。
 フィリップは遊び人で、たびたびパリのカジノに出没していた
のですが、そこでジョン・ローなるスコットランド人と知り合い
意気投合したというのです。
 このジョン・ローなる人物は大変の頭の良い男であり、とくに
経済理論に通じていたのです。後に英国の新古典派の経済学を代
表するアルフレッド・マーシャルやあのカール・マルクスは、彼
のことを次のように批評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎アルフレッド・マーシャル
  向こう見ずでバランス欠如だが、実に魅力的な天才である
 ◎カール・マルクス
  詐欺師と予言者の性格を持つ面白い人格的な混合物である
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろん良い評判ではないですが、これらの著名な大経済学者
があえてローについて言及したのは、彼の経済に関する考え方が
ユニークであったことによります。
 カジノでオルレアン公フィリップと知り合ったローは、早速宮
廷にフィリップを訪れて、あるレポートを渡したのです。それは
フランスの経済の建て直しの提案だったのです。それは、とても
カジノの博打打ちとは思えない立派な内容の提案だったのです。
 ローの論文を要約するとこうなります。まず、フランスの経済
が深刻なのは通貨が不足しているからであると原因を指摘したの
です。金貨だけに頼っていたのでは、到底フランスの経済的要請
を満たすことはできないというわけです。
 それではそれをどのように解決するか――それは紙幣の発行以
外には考えられないというのです。何しろ当時は金貨中心の時代
ですから、紙切れの紙幣など信用されないという反論に対しては
英国とオランダを例に出して紙幣の利点を強調し、巧妙なる信用
理論を駆使して、土地を担保にして紙幣を発行することで、フラ
ンスの経済に活力を与えることができると説いているのです。そ
して具体的には次の2つのことを提案しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.自分が王家の財産と収入を管理する銀行を設立する
  2.その収入と土地を担保にして銀行券を発行すること
―――――――――――――――――――――――――――――
 このローの提案を見ると、まるでケインズ理論そのものであり
そのため、ジョン・ローのことを「最初のケインジアン」と呼ん
でも差支えないほどに、その内容は現代の管理通貨制度とよく似
ていたのです。
 フィリップはローの提案を取り入れ、1716年に「バンク・
ドゥ・フランス」が設立されたのです。ローは、続いて設立され
た「ミシシッピ」という会社を通して、金と兌換しない不換紙幣
の発行に乗り出したのです。西欧世界はじめてのことです。
 このローの政策によって、フランスの景気は上向きになり、通
商は活発になって、税収は急速に増大したのです。金融活動も盛
んになり、フランス経済は急速に拡大しはじめたのです。本当に
最初の3年間は、まさにローのいうよう通りになったのです。そ
してローは一躍フランス中の尊敬を集める存在になったのです。
 しかし、1720年に金融機関で取り付け騒ぎが起こると、そ
れをきっかけにフランス経済は音を立てて崩れたのです。それは
ヨーロッパ全体の経済危機にまで発展することになります。
 金の裏付けを持たない紙幣の発行は、どうしても加熱すること
になるのです。株取引は劇的に増加し、市場はまさに熱狂状態と
なったのです。市場のこの状況を仔細に分析した複数のベテラン
の投資家たちは、この好況をバブルと見抜いて、保有する株式と
銀行券を一斉に売却したのです。
 経済が崩れだすとローは国外逃亡を企てますが、国境で逮捕さ
れます。そのときに彼が携えていた荷物には金貨と銀貨で一杯で
あったといいます。つまり、ジョン・ロー自身が自分の理論を信
じておらず、ひたすら金貨と銀貨を集めていたのです。
 このようにジョン・ローは一種の詐欺師的存在であったけれど
も彼の経済の考え方は実にユニークであったといえます。彼の有
名な理論に「水とダイヤモンド」というのがあります。
 水は「利用価値」は高いが「交換価値」がなく、ダイヤモンド
はもの凄い「交換価値」を持つけれども「利用価値」はほとんど
ない――これを説明するのに、アダム・スミスは水とダイヤモン
ドでは生産の労働コストにその違いを求めたのに対し、ローは財
の相対的な希少性がその交換価値を作るとしたのです。
 水は自由財に近く、希少性が少ないことから、供給曲線は限り
なく右側にあるので、価格は安いのです。それに対して、ダイヤ
モンドは希少性を持たせるために供給を制限しているので、供給
曲線は左側に抑えられている――これにより、水の価格は安く、
需給点が限りなく右側にあり、ダイヤモンドの価格は高く、需給
点が限りなく左側にあるのです。
 ジョン・ローは、以上のような論法で、貨幣は信用であり、信
用は「取引ニーズ」によって決まってくる――したがって、存在
する貨幣の量は、金の輸入や貿易収支などによって決まるのでは
なく、経済への信用供給によって決まると主張したのです。そし
てマネーサプライは内生的なもので、「取引ニーズ」によって決
まると考えたのです。
 しかし、大失敗をしたフランスは、その失敗に懲りず、財政を
さらに悪化させることになります。   ― [金の戦争/06]


≪画像および関連情報≫
 ●ジョン・ローの貨幣論
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ローは貨幣としてそのモノ自体に希少性のある金貨銀貨が用
  いられる時代にあって、貨幣が価値をもつのはその交換性に
  おいてであり、交換の連鎖さえ引き起こせれば貨幣そのもの
  には価値は無くてもよいと考えた。これは貨幣が金や銀との
  交換機能を喪失した20世紀以降の貨幣制度と全く同じ考え
  方である。又、国富を増強するには国内外の交易を活発化さ
  せることであって、貨幣(金銀)を蓄積することそれ自身に
  意味はないとした。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・ロー.jpg
ジョン・ロー
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月26日

●ナポレオンと金本位制(EJ第2348号)

 ジョン・ローの口車に乗って国家財政を破綻させたフランスの
その後の状況を少し追ってみます。ローの政策失敗の約50年後
の1775年に米国の独立戦争が起こりますが、まだ財政面での
回復が十分ではないのに、フランスは米国側について参戦し、財
政をさらに悪化させているのです。いうまでもなく米国の独立戦
争は、英国本国――グレートブリテン王国と、米国東海岸の英国
領13の植民地との戦争です。
 フランスの財政の深刻さは尋常ではなく、窮余の一策としてフ
ランス政府がやったのが増税なのです。しかし、この結果、勃発
したのがフランス革命なのです。
 フランス革命の結果誕生したフランス共和国政府は、経済・金
融面においても革命的な改革を実行したのですが、それも失敗に
終わるのです。その象徴は「アシニア紙幣」なのです。ジョン・
ローの失敗に何ら懲りていない証拠であるといえます。
 どういうことをやったのかについて説明します。
 1789年11月、フランス革命政府は教会財産を没収し、司
祭たちの生活費や貧困者救済にあてる財源にしたのです。そして
売却までの当面の措置として、これらの財産を担保として、紙幣
を発行したのです。教会財産は6億ルーブルあり、これは当時の
フランスの国家財政1年分を超えるものでした。
 当初は5%の利子つきの国家債券でしたが、90年からは強制
通用力を持つ不換紙幣となり、10ソル(スー)から1万フラン
(ルーブル)まで数十種類が発行されたのです。
 なぜ、「アシニア紙幣」といわれるかですが、「assigner(ア
シネ)」というのは「金を支払いに当てる」という意味です。国
有財産をアシニアするという意味になります。
 しかし、1992年になって、オーストリアをはじめとする諸
国との革命戦争が勃発すると、その戦費を捻出するため、紙幣が
乱発されるようになったのです。
 当然のことながら、金貨・銀貨とくらべての貨幣価値は大きく
下落したので、政府は、物価統制令や、紙幣を額面どおり使わな
いことの罰則などを出したのですが、インフレーションは進行し
アシニア紙幣の価値は10%を切るようになったのです。そして
1996年3月、遂にこの紙幣の使用を停止せざるを得なくなっ
たのです。
 紙幣は焼却され、印刷機は破壊されたのです。別に印刷機が悪
いわけではないのですが、そうでもしないと国民の怒りは収まら
なかったのです。
 フランス国民は、混乱した政治、進行するインフレ、諸外国の
圧力などで疲弊し、英雄の出現を心から渇望したのです。その結
果出現したのが、ナポレオンなのです。フランスは、秩序への反
動というかたちで、軍人ナポレオンによる政権を誕生させたこと
になります。
 しかし、ナポレオンはなかなかよくやっているのです。ナポレ
オンは、まず法制を改革し、続いて軍隊を再構築したのです。そ
して、急速に治安を回復させています。さらにナポレオンは、紙
幣発行の一切の助言を拒否しており、政府の支出は金もしくは銀
で支払うことに限定し、それを固く守ったのです。
 つまり、ナポレオンはフランスを金本位制に戻し、それは19
14年まで続くのです。こうしたナポレオンの「金を守る」とい
う姿勢はフランスの最も有名な金貨が今でも「ナポレオン」と呼
ばれていることにあらわれています。
 しかし、1914年に第1次世界大戦が勃発するのです。戦争
がはじまると各国政府は金本位制を中断せざるを得なくなるので
す。戦費を調達するには赤字国債に頼らざるを得ず、それだけの
国債を吸収するには金の準備高と関係なく、紙幣を増刷せざるを
得ないからです。また、戦争によって対外支払いは増大し、その
ために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止したり
通貨の金兌換を停止することになるのです。
 第1次世界大戦は大方の期待を裏切って4年間続き、世界経済
は大きなダメージを負ったのです。仮に金本位制が守られている
ならば、戦争はおそらく数ヶ月しか続けることはできなかったは
ずであり、世界大戦などにはならなかったでしょう。
 1918年に戦争は終結します。当然各国は金本位制に復活に
することになるのですが、何しろ参戦国は戦争で経済が弱体化し
ているので、それを反映して平価を切り下げ、そのうえでの復帰
が当然前提となります。
 しかし、プライドの高い英国は、ポンドの切り下げは国の威信
にかかわるとして、旧平価での復帰に執拗にこだわったのです。
その結果、1922年にイタリアのジェノアで開催された国際経
済会議の場で、「金為替本位制」という妥協的の産物である制度
を導入してお茶を濁すことになったのです。
 「金為替本位制」とは何でしょうか。
 金為替本位制は、米国のドルと英国のポンドが金と同様に準備
通貨としての価値を持つとする制度なのですが、ドルはともかく
として、ポンドは旧平価を維持する購買力を失っており、既に準
備通貨として通用するはずはなかったのです。
 第1次世界大戦の最大の利得国である米国も、1913年に設
立されたFRB――連邦準備制度理事会が当初から国債の引き受
けをやっており、ドルの価値をいつまで維持できるか不透明の状
態だったのです。
 金為替本位制になると、金を裏付けとしてドルやポンドが発行
され、そのドルやポンドを裏付けとして、その他の国々が通貨を
発行する――これは金が2倍に増えたのも同然だったのです。す
なわち、通貨の裏付けが二重に計算されるという不合理を抱えて
いたのです。
 このように制度は大きな矛盾をはらんでいたのですが、最初の
うち金為替本位制はうまく機能しているように見えたのです。し
かし、これはやがてとんでもないバブルを発生させ、世界恐慌を
引き起こすことになるのです。     ―[金の戦争/07]


≪画像および関連情報≫
 ●金為替本位制とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  古典的な金本位制のひとつ。金貨本位制国または金地金本位
  制国の通貨を外貨準備として保有する国が、自国の通貨に対
  して金貨(地金)本位制国の通貨を、平価の上下のせまいは
  ばの中で決められたレートで売り買いする制度のこと。金地
  金本位制とあわせて金核本位制ともいう。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ナポレオン.jpg
ナポレオン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月27日

●FRBはどのように設立されたか(EJ第2349号)

 第1次世界大戦が勃発する一年前の1913年に連邦準備法が
米議会を通過して成立しています。これによって、米国の中央銀
行に当たる連邦準備制度理事会/FRBが誕生したのです。
 このFRB――世界の基軸通貨であるドルを印刷できる機関な
のですが、何と世界に類のない民間の銀行が株主になっているの
です。しかも、このFRBの成立には多くの謎があるのです。と
いうのは、この連邦準備法は1913年の多くの上院議員が休暇
中の12月23日に議会を通過しているからです。
 そもそもFRBとは何でしょうか。
 米国には1776年の建国以来中央銀行はないのです。ニュー
ヨークやシカゴなど全国12の連邦準備銀行(下記)がそれぞれ
民間銀行の預金準備と紙幣の発券などを行っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ニューヨーク連銀     7.カンザス連銀
 2.アトランタ連銀      8.ミネアポリス連銀
 3.ボストン連銀       9.フィラデルフィア連銀
 4.シカゴ連銀       10.リッチモンド連銀
 5.クリーブランド連銀   11.サンフランシスコ連銀
 6.ダラス連銀       12.セント・ルイス連銀
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が
起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱したことがあるの
です。そんなことがこれからもあってはならないというわけで、
時のウッドロー・ウイルソン大統領がJ・Pモルガンやポール・
ウォーバーグやジョン・ロックフェラーの力を借りて、1913
年に独自の判断でオーウェン・グラス法――FRBを創設する法
律に署名して、なぜか上院議員がクリスマス休暇で休んでいる日
を選んで議会を通過させているのです。どうしても確実に成立さ
せたかったからです。
 FRBは、軍事費を調達する目的で1694年に英国で創設さ
れたイングランド銀行をモデルとして、米国の中央銀行を作ろう
という目論みであり、1910年12月に国際的資本家J・Pモ
ルガンが所有するジョージア州沿岸の「ジキル島」という小さな
島で密かに行われたのです。
 ちなにみに、そのとき島に集まった8人のメンバーをお知らせ
しておく必要があると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネルソン・W・オルドリッチ――ネルソン・ロックフェラーの
                   母方の祖父/上院議員
 秘書のシェルトン
 A・ピアット・アンドリュー――財務次官補であり全国金融委
                     員会の特別補佐官
 フランク・ヴァンダーリップ――ナショナル・シティ・バンク
                 ・オブ・ニューヨーク頭取
 ヘンリー・P・デーヴィソン――    J.P.モルガン商会
 チャールズ・D・ノートン ――モルガン系ファースト・ナシ
                      ョナル・バンク
 ベンジャミン・ストロング ――J.P.モルガン上級代理バン
                  カーズ・トラストの頭取
 ポール・ウォーバーグ   ――    クーン・ローブ商会
―――――――――――――――――――――――――――――
 このメンバーのなかで中央銀行の設立に関与した経験のあるの
は、クーン・ローブ商会(ロスチャイルド系)のポール・ウォー
バーグだけであったので、話はウォーバーグが中心になって進め
られたのです。
 このウォーバーグは、選挙で共和党のウッドロー・ウイルソン
を支援して大統領に当選させており、大統領としてはウォーバー
グに頭が上がらなかったのです。そして、初代のFRB議長の座
に座ったのは、「ジキル島会議」に加わったメンバーであるJ・
Pモルガンのベンジャミン・ストロングだったのです。
 FRBの創設のこのような経緯を知ると、FRBが一部の利権
が巣食う悪の殿堂のように見えてきます。われわれ日本人にとっ
てFRBとは米国の中央銀行――つまり、日銀のような存在であ
るという以上の何物でもないのですが、FRBにはいろいろな問
題があるのです。それに金の問題を語るとき、FRBを避けては
通れないのです。
 ここにとても貴重な映画があります。この映画を見ると、FR
Bがなぜできたのか、今までに何をしてきたかよくわかります。
全部で47分22秒という長編ですので、お時間のあるときに見
ていただきたいと思います。きっと興味深く鑑賞できると思いま
す。EJの今回のテーマにも深く関係があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 http://video.google.com/videoplay?docid=-845461387975920288&hl=en
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウッドロー・ウィルソン大統領は、晩年になって自分のやった
ことを深く後悔して、次のようにいい残しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。
 ・大きな産業国家はその国自身のクレジット・システムによっ
  て管理されています。私はそのクレジット・システムを一点
  に集結させてしまいました。
 ・したがって、国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんの
  わずかの人たちの手の中にあります。
 ・私たちは文明化した世界においての支配された政府、ほとん
  ど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。
 ・もはや自由な意見による政府、信念による政府、大多数の投
  票による政府はありません。
 ・小さなグループの支配によって、拘束される政府と化してし
  まったのです。       ――ウッドロー・ウィルソン
――――――――――――――     ―[金の戦争/08]


≪画像および関連情報≫
 ●ウッドロー・ウィルソン大統領について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1909年までプリンストン大学学長を務めていた。学長と
  して内紛の絶えなかった大学を改善し政治的な才能を着目さ
  れた。民主党からの勧めでニュージャージー州知事に立候補
  当選しそこでも数々の腐敗追及で有名となった。この間みせ
  た改革への推進、文章・演説の才は1912年の民主党大統
  領候補に押し上げた。この年の大統領選挙は共和党が現大統
  領タフト派と元大統領セオドア・ルーズベルト派に分裂した
  ため、民主党にとり予想外に楽な選挙結果となった。ウィル
  ソンは選挙人435人を獲得する圧勝だったが――次点は共
  和党から分離した進歩党をなのるセオドア・ルーズベルトの
  88人)民主党は1896年の大統領選に敗れてから政権に
  なく人的基盤は弱かった。
           http://ww1.m78.com/hito-2/wilson.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ウッドロー・ウィルソン.jpg
ウッドロー・ウィルソン
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月28日

●FRBとロスチャイルド一族の関わり(EJ第2350号)

 「目的のためには手段を選ばない」という言葉があります。こ
れを文字通り実行に移して巨大な権力を手に入れたのがロスチャ
イルド一族なのです。
 金/ゴールド――いやお金といってもいいですが、この種のテ
ーマを掘り下げようとすると、ロスチャイルド一族のことに触れ
ないで書くことは困難になります。
 FRBを設立するために彼らはウッドロー・ウィルソンをどう
しても大統領にする必要があったのですが、どのようにして彼を
大統領にしたのか――ロスチャイルド一族の凄さというか、怖さ
を知るためにご紹介したいと思います。まさに「目的のためには
手段を選ばない」そのものであることがわかります。
 当時米国では「中央銀行」という言葉に強いアレルギーがあっ
たのです。そこで、ポール・ウォーバーク――ジキル島での秘密
会の元締め的存在で、ロスチャイルドの代理人――彼は、中央銀
行の名称を避けて、「連邦準備制度」というわけのわからない名
前にしたのです。
 連邦準備制度を設立する法案は、最初は共和党のネルソン・オ
ルドリッチ上院議員が議会に提出したのです。このオルドリッチ
は、共和党の上院議員で院内幹事という高いポストにあり、ジョ
ン・D・ロックフェラー・Jrの義父に当たる人物です。そして
ジキル島での秘密会の参加メンバーです。
 この法案に対して民主党は猛烈に反対します。そうしているう
ちに共和党は選挙で野党に転落してしまったのです。ロスチャイ
ルド一族は、この時点で民主党の大統領候補ウッドロー・ウィル
ソンに白羽の矢を立てることにしたのです。しかし、彼はどうみ
ても泡沫候補のひとりに過ぎなかったのです。
 これは1912年の大統領選挙の話なのですが、次期大統領と
して有力な存在は、共和党のウィリアム・タフト候補だったので
す。まともに戦えば、ウッドロー・ウィルソン候補にとても勝算
はなかったのです。
 しかし、誰も予期しないことが起こったのです。人気者の元大
統領セオドア・ルーズベルトが共和党を離れて、革新党を結成し
て立候補したのです。こ れは誰も予想できなかったのです。
 その結果、共和党の票は大きく割れ、ウッドロー・ウィルソン
候補は地滑り的勝利を収めたのです。このセオドア・ルーズベル
トかつぎ出しには、オット・カーンとフェリックス・ウォーバー
クが尽力したのですが、彼らとウッドロー・ウィルソンを支援し
ていたポール・ウォーバークとジェイコブ・シフは緊密な連携を
取ってウッドロー・ウィルソンを当選させたのです。
 オット・カーン、フェリックス・ウォーバーク、ポール・ウォ
ーバーク、ジェイコブ・シフの4人は、いずれもクーン・ロープ
商会(ロスチャイルド系)の共同経営者なのです。なお、フェリ
ックス・ウォーバーク、ポール・ウォーバークは従兄弟同士であ
り、ロスチャイルド一族なのです。
 ウッドロー・ウィルソン大統領は、連邦準備制度を作るための
オーウェン・グラス法案――これは以前共和党のオルドリッチ議
員が提出した法案と名前以外はほとんど変わらない内容の法案な
のですが、年末で議員の多くがクリスマス休暇をとっている時期
にあえて上程して、議会を通過させてしまうのです。
 ウッドロー・ウィルソン大統領としては、大統領になるまでに
彼らにやってもらったことを考えると、やらざるを得なかったと
いうことになります。しかし、連邦準備制度はウッドロー・ウィ
ルソンの最後の告白により、大きな問題があることが明白になっ
たにもかかわらず、現在もなお、残っており、世界の金融経済に
少なからざる影響力を発揮しているのです。果たしてこれでよい
のでしょうか。
 ここで、連邦準備制度というのはどういう制度であるのかにつ
いて知識を整理しておきましょう。
 まず、FRSとFRBの違いを頭に入れておきましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 FRS/Federal Reserve System ・    連邦準備制度
 FRB/Federal Reserve Board  ・ 連邦準備制度理事会
 FRB/Federal Reserve Banks  ・    連邦準備銀行
―――――――――――――――――――――――――――――
 FRBは、「連邦準備制度理事会」と「連邦準備銀行」の2つ
の意味があることになりますが、一般的にFRBというときは前
者を指すことになっています。
 連邦準備制度理事会は連邦準備制度の統括機関であり、各国の
中央銀行に相当します。14年任期の理事7人によって構成され
理事の中から議長・副議長が4年の任期で任命されます。議長・
副議長・理事は大統領が上院の助言と同意に基づいて任命するこ
とになっています。FRBは、金融政策の策定と実施を任務とし
ており、また連邦準備制度の活動の最終責任を負うのです。
 FRBは日本銀行のように政府が株式を所有しておらず、ロス
チャイルド系、ロックフェラー系財閥ら国際金融資本が現在に至
るまで最大の株主となっているのです。米国よりもヨーロッパの
資本家の比率が高く、正式には公的機関ではなく民間銀行という
位置づけなのです。
 ロスチャイルド一族は世界中に網を広げており、日本もその例
外ではないのです。1904年に日露戦争がはじまったとき、日
本にはお金がなかったのです。当時日本がロシアに勝利するとは
誰も考えていなかったからです。
 しかし、日本はクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフから融
資を受けてロシアに勝利するのです。別に日本に同情したわけで
もなく、日本が勝つと信じていたわけでもない――勝てそうもな
いと思われているところに賭けることによって、勝った時により
多くの代償を得るといういわば博打ちなのです。
 シフは日本の恩人として天皇から勲章を授けられていますが、
日本人はお人良しです。彼らはこれによって、もっと大きな代償
を得ているのですから。        ―[金の戦争/09]


≪画像および関連情報≫
 ●ジェイコブ・シフとは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清による外
  債募集に応じ、2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援
  助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。このとき、バクー油田の
  利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドに融資を断ら
  れ、その紹介を受けてジェイコブ・シフより融資を受けた。
  その訳はロシアの伝統的な反ユダヤ主義に対する報復だった
  と言われている。結果として日本は勝利を収め、シフは一部
  の人間から<ユダヤの世界支配論>を地で行く存在と見なさ
  れるようになった。またこれ以後、高橋との親交を結んだ。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジェイコブ・シフ.jpg
ジェイコブ・シフ
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月29日

●ルシタニア号はなぜ攻撃されたか(EJ第2351号)

 日本が日露戦争のときにロスチャイルド一族からお金を借りて
いたように、ロスチャイルド一族は戦争を格好のビジネスにして
いるのです。したがって、彼らから資金援助を受けると、結果と
して戦争に導かれることになります。
 そういう意味で、米国のウッドロー・ウィルソン大統領は、ロ
スチャイルドの仕掛けによって第一次世界大戦に米国を巻き込ん
だといえるのです。米国は、第一次世界大戦のときも、第二
次世界大戦のときも国民の反対によって参戦していなかったのに
“ある巧妙な仕掛け“によって参戦させられているのです。
 第一次世界大戦が始まったのは1914年のことですが、その
前年の1915年のこと、アイルランド沖を航行していた英国船
籍の客船ルシタニア号がドイツ海軍のUボートから発射された魚
雷によって沈没するという事件があったのです。
 これによって米国人128人を含む1198人が犠牲になった
のです。この事件により、戦争とはいえこのドイツの“野蛮な”
攻撃に対して、中立であった米国議会が反ドイツのムードになっ
ていったのです。
 しかし、米国の参戦を決定づけたのは、ある電報の傍受に成功
したことによります。その電報は「ツィンメルマン電報」という
のですが、ドイツ帝国の外務大臣、アルトゥール・ツィンメルマ
ンからメキシコ政府に宛てた電報なのです。それは、次のような
内容です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、米国が参戦するなら、ドイツ帝国はメキシコと同盟を結
 ぶ意思がある。米国へのメキシコの先制攻撃はドイツがサポー
 トする。大戦でドイツが勝利した場合は、テキサス、ニューメ
 キシコ、アリゾナの3州はメキシコに返還する。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ドイツ政府にとって不幸だったことがもうひとつあります。そ
れはミュンヘンのメダル業者がルシタニア号の撃沈を祝うメダル
を制作してしまったことです。このことをドイツ政府は、英国の
新聞報道で知ったのですが、後の祭りだったのです。
 それにドイツは米国に対して無制限潜水艦攻撃を通告しており
当時の国際法としては、ルシタニア号は攻撃対象となっても仕方
がなかったのです。
 しかし、戦後になってとんでもないことがわかったのです。ル
シタニア号の積み荷には173トンもの弾薬が入っており、ドイ
ツは事前に米国に対して「船には乗るな」という警告をしていた
のです。そこには積み荷の目録も付いていたのです。
 ところが、ウィルソン大統領はあくまで積み荷の件は認めず、
目録は開封禁止にし、財務省の倉庫に隠したのです。つまり、大
統領は何もかも知っていて、米国人がルシタニア号に乗るのを禁
止しなかったことになります。
 1918年にドイツは、ウィルソン大統領の「14ヶ条の平和
原則」の提案を受け入れて、休戦が成立したのです。この提案の
中にあった国際平和機構が後に「国際連盟」になり、現在の国際
連合になるのです。しかし、ウィルソン大統領の提案であるとい
うことは、そこにもロスチャイルド一族の影が見え隠れすること
になるのです。
 1919年の戦後賠償問題を取り決めるパリ講和会議において
も不可解なことがあったのです。というのは、会議へ臨むウィル
ソン大統領の顧問団は、ウォール街の銀行家と国際共産主義者か
ら構成され、驚くことに米国の議員は民主党員さえ同行していな
かったからです。
 その講和会議において、この戦争の敗戦国であるドイツに課せ
られた戦時賠償金は実に1320憶マルク――当時のドイツのG
DPの約3倍という過酷なものでしたが、その支払い先はモルガ
ン商会だったのです。それは、英国が戦争のためにモルガン商会
から多額の借金をしており、ドイツからの賠償金はその返済に直
接あてられたからです。
 このような巨額の賠償金が戦争で疲弊したドイツに払えるはず
がないのです。賠償金を支払うため、ライヒスバンクは国債と交
換に通貨を乱発し、遂にハイパーインフレが起きてしまいます。
1923年になると、物価はなんと20憶倍に跳ね上がってしま
い、このインフレがヒトラー政権の誕生につながるのです。
 米国のシンクタンクの中でひときわ有名なものに外交関係評議
会――CFRというのがあります。このCFRの起源は、前期の
「パリ講和会議」――第一次世界大戦の戦後処理を目的として開
かれた会議に遡るのです。
 実はこの会議は、戦後処理のいくつかのオプションを提示する
目的で結成されたプロジェクトであり、実際にパリ講和条約にメ
ンバーは出席しているのです。しかし、そのときは彼らの提案は
ウィルソン大統領には取り上げてもらえなかったのです。
 一方、セオドア・ルーズベルト政権の時の国務長官エーリッヒ
・ルートが中心になって、外交関係評議会(CFR)という似た
目的を持つ組織が1918年6月に発足していたのです。結果と
して、パリ講和会議に出席したプロジェクトとこのCFRが合体
して、1921年7月29日に新生CFRとなったのです。
 そのCFRの初代会長はあのポール・ウォーバークであり、そ
の創設会議には、ジェイコブ・シフ、J・P・モルガン、アヴァ
レル・ハリマン、ジョン・D・ロックフェラー、ウォルター・リ
ップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリ
スチャン・ハーターなどの錚々たるメンバーが集結したのです。
 こういう重要な会議やプロジェクトのメンバーには、ロスチャ
イルド、ロックフェラー一族がちゃんと入っているのです。CF
Rは現在でも米国政権の国際・外交問題に大きな影響を与えてい
るのです。そして、米国政権の要職の多くに、このCFRのメン
バーが就いています。なお、CFRは「フォーリン・アフェアー
ズ」という外交評論誌を有しており、いつも大胆な議論がそこに
展開されています。         ― [金の戦争/10]


≪画像および関連情報≫
 ●豪華客船/ルシタニア号について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1907年の就航当時は世界最大最高速の画期的な豪華客船
  であった。大西洋横断を5日以下に縮め、平均速力が25ノ
  ットを越えた最初の船で、姉妹船のモーリタニア号は技術革
  新が猛烈なスビードで進んだ20世紀前半に大西洋横断速度
  記録(ブルーリポン)を22年間保持し続けた。また、主機
  に当時まだ実験段階の粋を出ていなかった蒸気タービン機関
  を採用した初めての大型船でもあった。建造に当たっては、
  国家有事の際に軍に徴用される事を前提に、政府から多額の
  補助金が交付されていた。そのため、高い防水隔壁や縦通隔
  壁など、当時の客船としては水密区画が整備されていた。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ルシタニア号.jpg
ルシタニア号
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月30日

●銀行はどうして誕生したか(EJ第2352号)

 ここまで米国の連邦準備制度とロスチャイルド一族との関わり
について述べてきましたが、過去150年間にわたるロスチャイ
ルド家の歴史は、西ヨーロッパの裏面史ともいえるものです。そ
れにロスチャイルドというと、すぐ陰謀論と結び付けられますが
歴史的事実を正確に把握しようとすると、その裏面史も読み解く
ことが必要なのです。
 ロスチャイルド一族といえば世界最大の富豪ですが、どうして
そのような巨万の富を手にすることができたのかといえば、それ
は、彼らがお金のことを誰よりもよく知っていたからなのです。
そこで、ロスチャイルド一族がお金に対してどのような考え方を
持っていたのかについてご紹介しましょう。
 かつてお金は、金、銀、銅などの金属だったのです。交換価値
の尺度となる重量や純度が一定の割合のコインは、権威と信用の
ある国王か政府が作る権利を持っていたのです。なかでも、最も
価値の高いお金は金貨だったのです。
 当時の金持ちは莫大な量の金貨を持っていたのですが、自分で
保管しているのは危険なので、立派な金庫を持つ両替商にそれら
の金貨を手数料を支払って預けていたのです。
 金貨を預けた人をAとし、両替商をXとします。Xは金貨の量
を記載した預り証をAに渡していたのです。金貨を預けていたA
は、Bからものを購入するためにXから必要な金貨を引き出し、
Bに支払います。もちろん、Xからは減額分を差し引いた金貨の
量の預り証をもらっていたことは、いうまでもありません。
 ところで、金貨を受け取ったBは、その金貨を同じXに預けて
その預り証を受け取っていたのです。その後、Aは再びビジネス
でBへ金貨を支払うことになったのですが、A、BともにXに金
貨を預けているので、実際に金貨をやり取りするのではなく、預
り証を交換して、それぞれの金貨の残額を書き換えた預り証をA
B両者が持つということで、決済ができたのです。この預り証が
紙幣のはじまりとなるのです。
 このようにして、両替商Xは多くの人から金貨を預かり、Xの
ところには多くの人の金貨が積み上げられていったのです。しか
し、多くの人は預り証の交換によってビジネス上の取引きを行っ
たので、金貨は眠ったままになったのです。このとき、どんどん
集積されて行く金貨を見ていて、Xはふと次のようなことを考え
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 預金者全員が一度に金貨を引き出しにくることなど考えられな
 い。したがって、この金貨を担保にして、紙幣を発行して金に
 困っている人に貸し利子を取る。これは良いビジネスになる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この考え方に立って銀行業がはじまったのです。考えてみると
Xは金貨を預かっているだけで、その金貨は自分のものではない
のです。したがって、それを基にして紙幣を発行することは詐欺
的行為になりますが、金貨を預けた人が金貨を引き出しに来たと
きはそれに応じていたので、問題は起きなかったのです。
 ここでいうXがロスチャイルドなのです。彼らは続々と銀行業
をはじめて、ロスチャイルド系銀行は増えていったのです。ある
とき、多くの人が多額の金貨を引き出しにきたのですが、同業者
の銀行同士が連携して金貨を集めての場を凌いだのです。これが
銀行家カルテルとして発達していきます。
 このように、ロスチャイルドの一族が銀行をやっているので、
たとえ一時的に多額の金貨が引き出されても、それらの金貨は巡
りめぐって再び銀行の手元に戻ってくることになります。
 これは何を意味するでしょうか。
 銀行がお金を作り出す権利を持つようになったことです。銀行
の発行する紙幣でものは買えたし、金貨を預けている人が金貨そ
のものを引き出しに行っても応じてくれるので、実際の金貨の量
以上の紙幣が発行されていたにもかかわらず、しだいに人々は銀
行家は相応の金貨を持っていると信じるようになったのです。
 このようにして、お金の主流が銀行が発行する紙幣に変わって
いき、銀行カルテルは、国家に対してもお金を貸すようになるの
です。国家がお金を必要とし、それに見合う税収がないときは、
銀行から借りるようになっていったのです。
 旧約聖書に「借りる者は貸す人の奴隷になる」と言葉がありま
すが、国家はお金を貸してくれる銀行カルテル――ロスチャイル
ド家に少しずつ支配されていったのです。
 1815年にロスチャイルド家はイングランド銀行を支配下に
置き、英国の通貨発行権と管理権を手中に収めているのです。そ
して、1913年にはその食指を米国に伸ばし、連邦準備制度を
設立し、事実上米国の通貨発行権と管理権を手に入れているので
す。驚くべきことといえます。
 連邦準備制度というのは、実に巧妙な制度なのです。1ドルは
連邦準備制度に対する1ドルの負債をあらわしています。国が資
金を必要とするとき、米国政府・財務省が発行する債券(国債)
を購入するかたちをとります。すなわち、FRBはその債券と同
額の金額を連邦準備銀行が財務省に対して信用供与――つまり、
その金額分の紙幣を印刷してドルで支払うわけです。これによっ
て、「無」から利息付きの負債が発生して、FRBはその利息を
手にし、その利息を支払うのが国民という構図になるのです。
 このようにして、FRBは信用(通貨)創造・信用収縮を操作
しているというわけです。しかし、このようなFRBによる通貨
創造・信用収縮操作の失敗によって、あの世界大恐慌が起こされ
ているのです。
 1920年代において銀行はFRBの指示により、信用創造量
を増大させたのです。いわゆる金融緩和政策です。融資の担保は
株券であり、その結果、株価は高騰し、バブルが発生してしまい
ます。そして、株価がピークを迎えると、FRBは一転して金融
引締政策に転じ、お金の流通量を減らしたのです。大恐慌はこれ
が原因で起こったのです。       ―[金の戦争/11]


≪画像および関連情報≫
 ●『マネーを生み出す怪物』/G・エドワード・グリフィン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2005年10月29日に出版されるというので、「連邦準
  備制度という壮大な詐欺システム」という文字に釣られ私は
  16日に予約しておいたのだが、さきほど本書『マネーを生
  みだす怪物』が届いた。700ページ超の大書である。届い
  たばかりなので目新しい情報が載っているのかさえわからな
  い。著者はエドワード・グリフィンという人物で、翻訳が吉
  田利子となっている。著者は知らない人物だ。吉田利子が翻
  訳した本は、私はリチャード・ヴェルナーの『円の支配者』
  や『不景気が終わらない本当の理由』などを読んでいる。
  http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200510240000/
  ―――――――――――――――――――――――――――

連邦準備制度のあるエクルズ・ビル.jpg
連邦準備制度のあるエクルズ・ビル
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 金の戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。