2010年06月01日

●ステファンにまつわる大麻疑惑(EJ第1629号)

 テレサ・テンの足跡をたどると、ステファンと交際をはじめる
前と後とでは大きく運命が変わっていることがわかります。ステ
ファンと会う前は運気が非常に強く、多少の障害があっても跳ね
返して伸びる力があったのです。実際にテレサ・テンはステファ
ンに会う時点では世界的な歌手になっていたのです。
 しかし、ステファンと会ってからはしだいに運気が弱くなり、
仕事も少なくなっていったのです。持病の喘息もひどくなり、体
調は必ずしも万全ではなくなっています。さらに、テレサ・テン
にまつわる疑惑というものもこのステファンと無関係ではないの
です。
 1990年1月16日――あの勝新太郎が大麻不法所持で逮捕
されています。それからしばらく経って、トーラスレコードにと
んでもない情報が飛び込んできたのです。「テレサ・テンが大麻
を吸っている」というウワサです。
 この件についてトーラスレコードの舟木社長は、即座にパリに
飛んでテレサ・テンに会い、その疑惑について聞いています。し
かし、テレサ・テンはこれについて「絶対にやっていない」と強
く否定しているのです。
 ところが、ステファンには強い疑惑があるのです。それは、テ
レサ・テンが亡くなった年のチェンマイのメービンホテルにおけ
るステファンの不審な行動がそれを物語っています。
 テレサ・テンとステファンは、1994年の年末から1995
年にかけてチェンマイのメービンホテルに宿泊しています。既に
述べたように、そのときのテレサ・テンの体調は思わしくありま
せんでした。事実、1994年の年末にテレサ・テンは喘息の発
作を起こし、チェンマイラム病院に入院しています。
 実はそのときステファンは不思議な行動をとっているのです。
1994年8月に2人でチェンマイに行ったとき、テレサ・テン
はつねにステファンと行動をともにしており、どちらかが1人で
出かけることはなかったのです。
 しかし、1994年の暮れに行ったとき、テレサ・テンはほと
んどホテルに閉じこもっていたのに対し、ステファンは夕方にな
ると、1人でよく外に出かけていたのです。
 1995年4月にチェンマイに行ったときは、外に出かけるの
はステファンだけであり、それも出かけるのは夕方以降に限られ
ていたのです。ステファンは一体何のために、どこに行っていた
のでしょうか。
 既出の『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)の著者は、4回
にわたりチェンマイに取材をかけ、そのときのステファンの行動
を追跡しています。同書によると、ステファンが夜になると行っ
ていたのは、メービンホテルの近くのナイトバザールに店を出す
屋台だというのです。この屋台は、30代の女性と20代の小柄
な男性がやっていたといいます。
 屋台を見張っていると、外国人のツーリストたちがよくその屋
台に立ち寄っており、外国人が何かを話すと小柄な男がバイクで
どこかに出かけて、20分ほど経つと戻ってきてタバコのような
ものを渡すのを目撃したというのです。
 屋台の男女にステファンの写真を見せると、ステファンが屋台
によく来ることは認めたのです。それに彼らは、テレサ・テンも
一緒に来たことがあり、青物の野菜炒めをよく食べていたといっ
ています。
 この屋台について同書には、次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あの客に渡したタバコ(?)は、本当は何だったのか。調査
 を進めた。チェンマイの麻薬捜査局によれば、この屋台は麻薬
 組織の末端の販売ルートの一つになっており、とくに外国人観
 光客が利用しているという。屋台には常備しておらず、注文が
 あるとバイク便で指定の時間、場所に届ける。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はステファンが大麻を吸っていたことをホテル側は知ってい
たと思われるのです。かつてメービンホテルに勤務していたとい
うスタッフの一人は次のように証言しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨年(1994年)15階のルームボーイとして働いていまし
 た。テレサさんの部屋のクリーンアップをしながら、ああ、こ
 の臭いは大麻だと直感しました。ほかの場所から臭ってきたな
 んてことはありません。とっても強い臭いですから。
                      ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホテル側はステファンが大麻を吸っていた事実について従業員
に厳重に口止めしています。それでいて、従業員に次の命令を出
しています。これはテレサ・テンの死亡当日の作業記録です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   REMARK (テレサ)の夫の動静を注意して観察すること
                    ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これで、ステファンがホテルに戻ってきて、なかなか病院に行
かなかった謎が少し解けるのです。それは、部屋にあったと見ら
れる大麻の処分と部屋にこもる大麻の臭いを何とかするため、時
間がかかったのではないかと考えられるのです。
 推測ですが、この件に関してはホテル側も関与している疑いが
あります。ホテルとしては、テレサ・テンはホテルの部屋で死亡
したのではなく、病院への移送中に死亡したことにしたかったの
です。それは、警察側の捜査が15階1502室に及ぶのを何と
しても避けたかったからです。
 それにホテル側はステファンの帰国を助けています。とにかく
ステファンには一刻も早く、ホテルをチェックアウトしてもらい
たかったわけです。      ・・・[テレサ・テン/24]


≪画像および関連情報≫
 ・ナイトバザールはメービンホテルの裏側にある。
 ・ナイトバザールは、市の中心部、チャーンクラーン通りの両
  脇の歩道に約900メートルに渡って夜のみ出現するショッ
  ピングスポットで、ここでの買い物はチェンマイ観光のハイ
  ライトのひとつと言ってもいいだろう。店は、移動式の屋台
  のような造りの幅2〜3メートルの小さなものが中心で、そ
  の数は膨大だ。扱っているものは、基本的にお土産用に大量
  生産された民芸品が多く、洋服なら洋服、銀製品なら銀製品
  というようにひとつのカテゴリのみを販売しているところが
  多い。同じものを売っている店が多数あるので、買い物をす
  る時には何軒かで値段を聞いて相場を確認してからにした方
  がいいだろう。
   詳細は−−−−−−−−−−−−
   http://www.sawadeechao.net/cnxgoods/goods.htm

ナイトバザール.jpg
ナイトバザール
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2010年06月02日

●テレサ・テンの死因についての小説(EJ第1630号)

 テレサ・テンにまつわる疑惑のなかで一番大きな疑惑は、やは
り、その死因ということになると思います。テレサ・テンの死因
は「喘息の悪化による呼吸不全」となっていますが、42歳の若
さであり、それがあまりにも突然なことであったために疑惑がふ
くらんだのです。
 ここに一冊の本があります。発刊されたのは、2004年12
月30日です。明らかにテレサ・テンの死後10周年を意識して
の発刊と思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』
     ―いつの日きみ帰る/ある大スターの死−
      平路【著】 池上貞子【訳】 風涛社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このタイトルを見ると、誰でもこれがテレサ・テンのことを書
いていることはわかります。確かに本に書かれていることは、テ
レサ・テンのことそのものであり、それも彼女の死の原因に絞ら
れているのです。しかし、本のなかには「テレサ・テン」とは一
語も書かれていないのです。
 平路(ピン・ルー)は、1953年に台湾の高雄で生まれた女性
作家です。父親は山東省出身の外省人であり、境遇はテレサ・テ
ンと似ています。一応この本は「小説」というスタイルをとって
います。もう少し正確にいえば、テレサ・テンという大歌手の死
を題材とするミステリータッチの小説というべきでしょう。
 しかし、私の読んだ限りでは、小説というかたちをとっている
ドキュメンタリーという感じです。この本の訳者の池上貞子氏は
本書の構成について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  本書『何日君再来』は、テレサ・テンの死のなぞについて、
 彼女についていた監視(スパイ)が、親しい上司へ推測を入れて
 報告するという設定で、所々に真偽の不確かなテレサ本人の手
 記と称する文章が入っているという設定だ。これは、男と女の
 言葉(文章)が入り乱れて放たれているという点では前作の『行
 道天涯』(邦題『天の涯までも――小説・孫文と宋慶齢』)と同
 じ手法であり、着眼点も表向きは華やかさや権威に包まれ、ス
 ポットライトを浴びた人の、活躍の場を失った後の女性として
 の孤独や寂しさなどにある。   ――池上貞子氏のあとがき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「彼女についていた監視(スパイ)」というのは、本を
読む限り台湾当局の監視員であるようです。本当にテレサ・テン
はこのようにつねに国から監視されていたのでしょうか。
 この本の著者である平路は、その冒頭でテレサ・テンの死には
次の3つの疑問点があるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  第1の疑問点:フランス人の男のアリバイが疑わしいこと
  第2の疑問点:遺体の首には、小さな針の穴があったこと
  第3の疑問点:テレサ・テンのパスポートについての疑惑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「フランス人」というのは、もちろんステファンのことです。
彼の本名はステファン・ピュエールというのですが、本書のなか
では「ピュエル」と本名が使われています。著者は、暗に「ステ
ファンがテレサ・テンの死にかかわっている」ことを強調してい
るような感じです。
 これらの3つの疑問点については、ここで改めて繰り返すこと
はしませんが、この本を読んでわかることは、テレサ・テンとス
テファンの人間関係は相当ひどい状態になっていたことが鮮明に
わかるのです。もちろん、本の内容が真実であるという保証はあ
りませんが、他の情報源と照らしてみてもそういう状態になって
いても不思議ではないのです。
 いくつかの記述をひろってみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしはいつも彼女に「あの人を門口で待たしていていいんで
 すか」と言っていたのですが、彼女は全然気にしないで「ほっ
 とけばいいのよ、あんな人」と言っていました。
                  /ビデオ屋のおかみさん
 その後、物音が聞こえました。男性客がドアをたたいていて、
 キーを使っても開けられませんでしたから、おそらく、中から
 ロックしていたのでしょう。男性客は口汚くののしっていまし
 た。英語のスラングのようなものです。靴の先で荒々しくドア
 を蹴っていました。しばらく大騒ぎをしたあと、男性客はまた
 エレベータに乗り込んでいきました。
                    /最上階のフロア係
 ピュエルのあとについているとき、彼女は自分がしょっちゅう
 緊張していることに気がついた。あんた、自分がどんな罪を犯
 しているか、知っているの?彼女はピュエルに目配せし、そっ
 と壁に貼られた告示を指し示す。
 <麻薬は死刑、銃殺刑に値する罪である>
     ――『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述を読むと、チェンマイでもテレサ・テンとステファン
はよく喧嘩して、部屋に鍵をかけてステファンを入れなかったり
していた様子がよくわかります。それもステファンが大麻をやっ
ていることをテレサ・テンは知っていて、そのことを巡っていつ
も喧嘩をしていたのではないかと思われます。
 『何日君再来』――ちょっと変わった小説です。テレサ・テン
の死について関心のある人は読む価値があると思います。さて、
6月6日から7月8日まで、25回にわたって続けてきたテレサ
・テンのテーマ――いかがでしたでしょうか。
 『何日君再来』という歌については書いてみたいことが残って
います。しかし、それは改めて取り上げるとして、明日からは新
しいテーマを取り上げます。ご愛読感謝いたします。
               ・・・[テレサ・テン/25]


≪画像および関連情報≫
 ・『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』風涛社刊
  平路(ピン・ルー)/略歴
  本名は路平。1953年台湾高尾生まれ。台湾大学心理学部
  卒業後、アメリカに渡り、アイオワ大学で統計学の修士号を
  とり、しばらく働きながら創作活動を行う。1994年に正
  式に台湾に戻り、執筆活動に励む。著書に『玉米田之死』、
  『何日君再来』ほか多数

ある大スターの死.jpg
ある大スターの死
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2010年06月03日

●『吾妻鏡』の記述は正しいか(EJ第1631号)

 今日から歴史のテーマ「源義経」を取り上げることにします。
しかし、まともに義経物語をやろうというのではないのです。
「源義経=成吉思汗論」をやろうというのです。なお、この記事
は2005年7月11日から2005年8月22日までの30回
にわたって連載したものであることをお断りしておきます。
 実はEJでは一度この問題を取り上げています。私にとってこ
れは、昔から関心のあるテーマであり、次の期間、EJでは、4
回にわたって取り上げているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1999年4月6日/EJ第113号
        〜1999年4月9日/EJ第116号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、6年も経っておりますし、その頃EJを読んでいない
読者もたくさんおられるので、リニューアルし、内容を大幅に増
強して再び取り上げたいと思います。初期の頃からの読者も、ぜ
ひリニューアル版を読んでいただきたいと存じます。
 それに何よりも今年のNHKの大河ドラマは「義経」ですし、
同時進行すればイメージも湧くと思います。ところで、既に日本
がドイツ行きを決めている「サッカー・ワールドカップ2006
年ドイツ大会」――この応援歌(正確にいうと、ドイツに行くた
めの応援歌)をご存知でしょうか。
 実は「成吉思汗/ジンギスカン〜ドイツに行こう」というので
す。これは、日本代表のドイツ行きをバックアップしようと、日
本代表サポーターであるUTRUSが応援歌に選んだのが、ディ
スコ世代にはおなじみの楽曲「ジンギスカン」のカヴァーなので
す。ちなみにこの歌は、1980年に旧西ドイツのグループ「ジ
ンギスカン」の大ヒット曲です。
 このように直接は関係ないのですが、今年は義経と成吉思汗が
揃っているのです。そういうこともあって、「源義経=成吉思汗
論」を取り上げたいと思います。今日はその予告編のようなこと
からはじめたいと思います。
 源義経は、猜疑心の強い兄頼朝の不興を買って逃げ落ち、奥州
藤原氏に身を寄せます。しかし、義経の理解者である秀衡が亡く
なると、その子泰衡は頼朝のきびしい追及に屈して、自分が匿っ
ている義経とその一族に奇襲をかけるのです。これが世にいうと
ころの「衣川の戦い」です。
 義経とその一族は泰衡の奇襲に破れ、義経は妻子とともに自害
を遂げる――文治5年(1189年)4月30日のことです。こ
れは歴史上動かし難い史実として記述されており、どのような歴
史書もそうなっています。「源義経=成吉思汗論」は、その動か
し難い史実を正面から否定しようというのですから、それは容易
ならざることです。
 正史に反することを唱えるのは異説ということになります。学
問の世界に限らず異説を唱える者に対しては、世間の目は厳しく
なるものです。しかし、正史をアタマから信じ、異説を検証しよ
うともしない学者よりも、正史に疑いを持ち、その疑いを解決す
るために異説を立てる――そういう学者の方が真実をつかめるの
ではないかと考えます。
 義経自殺の根拠は『吾妻鏡』とされています。『吾妻鏡』は、
鎌倉幕府の手によって編纂されたれっきとした正史であり、数多
い史書の中でも一級史料とされているのです。ここに書かれた以
上、それは正しいのだというのが歴史学者の考え方なのです。日
本の学者は公文書に弱いのです。
 『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から文永3年までの87年間の事
件を日記風に記録しているのです。それでは、文治5年4月30
日はどう書いてあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今日、陸奥の国に於いて泰衡が源予州を襲う。予州、持仏堂に
 入り、まず妻(22歳)と子(女子4歳)を害し、ついで自害
 す。                 ――『吾妻鏡』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「予州」とは義経のことです。伊予守だったのでそう呼ばれて
いたのです。義経は「判官」といわれますが、それは彼が検非違
使をしていたからです。検非違使とは、簡単にいうと、現代の裁
判官のような役職と考えればよいと思います。平安初期,嵯峨天
皇のとき設置された令外の官で、京中の治安維持のため置かれた
のが最初です。
 それはさておき、『吾妻鏡』の記述――ばかにあっさりしてい
ると思いませんか。実は、この『吾妻鏡』は、義経の死より80
年のちの文永年間に編纂されているのです。何しろ今から800
年も前の話です。それが本当に信じられる根拠というか、証拠が
あるのでしょうか。
 義経を討ったという報告は、当の泰衡が鎌倉に対して行ってい
ます。泰衡の飛脚は5月22日に鎌倉に着いており、この使者は
次のような泰衡の言葉を鎌倉に届けているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 4月晦日、民部少輔の館に於いて、予州を誅す。その首は追っ
 て送りまいらせます。              藤原泰衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に義経の首は6月13日に頼朝のところに届けられていま
す。これについては改めて分析しますが、4月30日に起こった
事件を5月22日に報告し、首が6月13日に届くのは、当時と
しても非常に遅いのです。
 この報告がそれから80年後に編纂された『吾妻鏡』では「民
部少輔の館」が「持仏堂」に変わり、「予州を誅す」が義経自害
に変わってしまっているのです。これは果たして信じられること
なのでしょうか。
 泰衡にとって義経は少年時代に一緒に文武を学んだ仲であり、
亡父秀衡がこよなく敬愛していた人物なのです。しかも、泰衡は
父から、私の死後に鎌倉殿が攻めてくることがあれば、判官殿を
総大将にして戦うべしと遺言を授けられているのです。その泰衡
が果たして義経を裏切るでしょうか。 ・・・[義経の謎/01]


≪画像および関連情報≫
 ・義経主従が住んでいた衣河館(高館)/前に衣川、東は秀衡
  の屋敷、西は金鶏山に接する城郭構えの居館

平泉/義経堂(高館).jpg
平泉/義経堂(高館)
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2010年06月04日

●基本的条件は成立するか(EJ第1632号)

 私が「源義経=成吉思汗論」に興味を持ったのは、高木彬光著
『成吉思汗の秘密』(角川文庫)を読んでからです。この本は推
理小説というスタイルをとっており、名探偵神津恭介が登場する
のですが、そこに何らの殺人事件も起こらないのです。
 この小説は、神津恭介が病気で東大病院に入院し、退院までヒ
マをもてあましているという設定で、「成吉思汗は実は源義経で
あった」ということをヒマつぶしに神津に推理させる――そうい
うかたちをとってかねてからの自らの研究を神津の口を通して発
表しているのです。したがって、内容は真面目そのものです。
 作家高木彬光は、青森中学時代から義経伝説に興味を持ち、研
究を重ねていたのです。そして、当時江戸川乱歩が編集に当って
いた雑誌『宝石』に原稿を持ち込んで連載をはじめたのです。昭
和33年5月号から9月号までの5回にわたる連載です。『成吉
思汗の秘密』はこのようにして完成したのです。
 当時高木彬光は既に人気作家であり、多くの注文原稿を抱えて
いたのですが、この小説だけは持ち込み原稿なのです。それだけ
に意気込みが違うのです。また、この小説は、後から何回も加筆
されており、ある別の作家の小説との結びつきもあるのです。
 私はその小説を当時偶然に読んでおり、驚愕したのを今でもよ
く覚えています。それは次の小説です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    仁科東子著、『針の館』――カッパ・ノベルス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今回のテーマも関連する書籍をほとんどすべて集めており、総
合的に書き進めますが、その中心は高木彬光説を中心に述べてい
くつもりです。最近『成吉思汗の秘密』が光文社から復刊されて
いますが、それを読まれるのはEJのこのテーマが終わってから
の方が興味深いと思います。
 そろそろ本題に入っていきましょう。
 「源義経=成吉思汗」が成り立つためには、次の3つの条件が
成立する必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経と成吉思汗の両者はほとんど同じ年に生まれている
 2.義経が活動しているときは、成吉思汗は活動していない
 3.成吉思汗が活動しているときは、義経は活動していない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1を検証してみます。
 源義経は平治の乱――すなわち、源平両族の勢力争いの時代に
生まれています。父は源義朝、母は常盤御前であり、3人兄弟の
3男として生まれています。歴史書によると、義経は平治元年の
生まれとされています。西暦では1159年です。
 問題は成吉思汗の方です。当時の蒙古は記録が完備しておらず
学者の推定でしかないのですが、1158年、1161年、11
62年という3つの説があるのです。はっきりしているのは、義
経と同年代であることです。したがって、1については、一応成
立すると考えてよいと思います。
 2と3を検証してみます。
 義経の命日は、文治5年4月30日――衣川の戦いのあった日
とされています。西暦では1189年です。年齢は31歳です。
それでは、成吉思汗はいつごろから活躍しているかについて調べ
る必要があります。
 大蒙古帝国は13世紀に突如として出現したのです。東は中国
全土を支配して元朝を開き、西はイラン、トルコから東ヨーロッ
パまでも呑み込んで世界最大の領土を誇ったのです。それを成し
遂げたのが成吉思汗なのです。
 その間日本では、鎌倉幕府が150年間続き、元弘3年(13
33年)をもって幕を閉じるのですが、幕府が倒れるキッカケに
なったのは、2回にわたる蒙古の来襲――文永の役、弘安の役で
あり、蒙古とは密接な関係があるのです。
 当時のモンゴル地方は、広大な草原地帯に多数の民族が入り乱
れて生活しており、遊牧民として移動するので、そこに統一国家
を築くのは至難のわざであったのです。
 成吉思汗という人物について記述されている書物は極めて限ら
れており、次の3つが根本史料とされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.『元朝秘史』 ・・・ 13世紀にモンゴル語で編纂
 2.『集史』   ・・・ 14世紀にペルシャ語で編纂
 3.『元史』   ・・・ 中国が明代(14世紀)編纂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの史料によると『元朝秘史』には生年月日は明記さ
れておらず、『集史』は1155年生まれとしています。しかし
これは死亡した年とされる1227年/72歳からの逆算であり
死亡年齢がはっきりしていないので、根拠のないものです。
 この1227年の死亡についてははっきりしているのですが、
死亡年齢は『元史』では66歳、『集史』は72歳と相違してい
ます。『元史』の66歳を基にして生年月日を算出すると、66
歳は数え年であるので、生年月日は1162年ということになり
ます。1159年生まれの義経と3年の誤差がありますが、ほぼ
同年代の人物と考えてよいと思います。
 『元朝秘史』は、歴史書というよりも壮大なる叙事詩的物語と
なっており、テムジンが蒙古の諸部族からカン(汗)の位に推さ
れて成吉思汗になる1206年にいたるまでの歴史の記述は伝説
と文学の世界といえます。しかし、ここまでの分析により、「源
義経=成吉思汗」が成立する基本条件はクリアできたようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

            前半生   後半生
       源 義経  史実    伝説
       成吉思汗  伝説    史実  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/02]


≪画像および関連情報≫
 ・作家/高木彬光について
  1920(大正9)年に青森市で生まれた高木彬光(たかぎ
  ・あきみつ)は、1948(昭和23)年、江戸川乱歩の推
  薦で『刺青殺人事件』を刊行し、推理文壇にデビュー。その
  後、『能面殺人事件』『妖婦の宿』などの傑作長短編を相次
  いで発表し、一躍、本格推理小説の第一人者となる。神津恭
  介をはじめ、百谷泉一郎、近松茂道、霧島三郎、大前田英策
  墨野隴人の名探偵を登場させ、歴史推理小説『成吉思汗の秘
  密』、経済推理小説『人蟻』、法廷推理小説『破戒裁判』
  などの傑作を次々と発表、戦後の日本推理小説界を代表する
  作家として活躍。1995(平成7)年に逝去。

高木彬光.jpg
高木 彬光氏
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2010年06月07日

●最初から偽首とバレていた証拠(EJ第1633号)

 殺人事件において犯人を殺人罪で起訴するには、他殺死体が必
要です。鎌倉の頼朝の側から考えてみましょう。秀衡の死後、頼
朝は何回も藤原泰衡に対して「義経を差し出せ」とプレッシャー
をかけています。
 文治5年5月22日にその泰衡から、「4月30日に義経を誅
す」との飛脚が届きます。そして、6月13日、その証拠として
義経の首が酒を浸した黒い漆塗りの桶に納められ、鎌倉に送られ
てきたのです。
 4月30日に義経を殺害し、5月22日に鎌倉にそのことを知
らせる手紙を届ける――これは遅すぎます。そして、義経を殺害
してから43日後にその首を届ける――これも遅いです。
 現在の鉄道の計算では、平泉から鎌倉までは約500キロあり
ます。その内訳は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        東京――鎌倉   48キロ
        東京――平泉  450キロ
        ―――――――――――――
                498キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 500キロを里に直すと、130里です。当時の旅は歩くこと
が中心になるので、かなり早く歩いていたのです。平均して1日
8里〜10里は歩けたはずです。1日8里歩いたとして17日、
1日10里なら13日で平泉から鎌倉まで行けるのです。それが
実に43日もかかっている――誰が考えてもこれは遅すぎます。
 それに証拠の義経の首ですが、次の2つの理由によって義経と
判別不能と考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.義経の首は焼き首であったこと
      2.当時は太陰暦/2ヶ月遅いこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 泰衡が義経主従を襲ったとき、義経主従は屋敷に火を放ってい
るのです。そのため義経の首は焼き首になったのです。加えて、
当時の暦は太陰暦であり、現在の太陽暦で6月13日は8月の初
めに当るのです。炎暑のなかを43日――果たして焼き首は原型
を保っていられるでしょうか。おそらくそれは不可能であると考
えられます。
 異常に遅い報告と証拠の首のさらなる遅い到着――疑り深い頼
朝がそれをまともに信用するはずがないのです。その証拠に首が
届いてから1ヵ月後には泰衡討伐の大軍を平泉に差し向けている
からです。それは、泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜
いていた証拠といえます。
 これに関して『大日本史』は次のように記述しています。『大
日本史』は、水戸光圀以来、250年にわたって、歴代の水戸藩
主が各時代の大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作なの
です。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を
繰り返して生まれたものであり、重みがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ
 ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日
 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ
 て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど
 も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、
 よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり
 と偽り、しかして逃走せしらんか。
                   ――『大日本史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の首の検視の状況について、もう少し詳しく述べておくこ
とにします。
 泰衡の使者は新田冠者経衛、6月13日に首の入った桶を2人
の従僕に担がせて、鎌倉・腰越浦に到着したのです。頼朝は、和
田義盛、梶原景時に実検役を命じたので、義盛と景時は兜を着け
郎従20騎を従えて検視におもむいたのです。
 景時は「予州の首ではない。不審の点がある」と難色を示した
のですが、義盛はこれを制して「すでに焼き首となった以上は日
頃とは違って見える」として、それ以上の検視を行わず、その首
を藤沢に送って葬っているのです。
 これは、江戸末期に出た『義経勲功記』という本に出ているの
ですが、これから推察して、頼朝側は最初から偽首と知っていた
と考えられるのです。和田義盛は、智臣として名高い因幡守大江
広元から指示を受けており、偽首であることは想定内の出来事と
して処理したのです。頼朝側としては、目的は奥州平泉を取るこ
とにあったからです。
 私の推測ですが、頼朝としては、義経主従が蝦夷地に逃げて行
くのをあえて見逃したのではないかと考えます。頼朝が最も恐れ
たのは、秀衡が義経と組んで、義経を総大将として鎌倉に攻めて
くることだったのです。秀衡の率いる奥州平泉の財力と兵力に義
経の知略が加わると鎌倉が危ないと考えたのです。
 しかし、秀衡亡き後はたとえ義経が生き延びてもとくに恐れる
ことはないと考えたのです。したがって、首の検視にあえて異議
を唱えず首を葬れば、義経は正式に死んだことになり、鎌倉勢と
してはこれ以上義経を探し回る必要もなくなる――義経の兄とし
ての頼朝の本心はこんなところにあったのではないでしょうか。
 偽首にする以上、身代わりが必要になります。義経の身代わり
は、杉目太郎行信であるとされています。延宝年間の『可足記』
に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 九郎判官の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信
 が首、鎌倉の見参に入候          −−『可足記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杉目太郎行信、義経によくも似ていたのです。
                 ・・・[義経の謎/03]

≪画像および関連情報≫
 ・藤原秀衡について
  藤原秀衡は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三
  年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二
  代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極
  めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になって
  からも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とするよう
  遺言を残して没す。東北の王者して奥州に君臨。

藤原秀衡.jpg
藤原 秀衡
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2010年06月08日

●衣川の戦いは偽戦である(EJ第1634号)

 義経の身代わりといわれた杉田太郎行信についてはこういう話
があるのです。衣川の戦いにおいて、須賀川の城主である須賀川
刑部が手勢200騎を従えて敵を探していたのです。そのとき、
竜頭兜に緋縅の鎧を着た立派な武者が榎堂の方に行くのが見えた
のです。
 これぞ大将判官なりと考えた須賀川刑部が手柄にしようと追い
討ったのです。それほど義経に似ていたからです。しかし、捕え
てみると、杉田太郎行信だったというのです。『大木戸合戦記』
という本に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大将軍の首を頂戴しようとしてよくよく見れば、それは判官
 殿ではなく、母方の従弟である杉目太郎行信である。刑部おお
 いに驚くと同時に、判官殿にかわって討死する覚悟であるのを
 雄々しく思い、太刀を捨てて礼をなし、士卒を従えて引き返し
 た。              ――『大木戸合戦記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、義経を討ったとされる藤原泰衡という人物に注目する
必要があります。この泰衡は次の3つの点において大変評判が良
くないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.父である秀衡の遺言を守らず、朝廷や鎌倉に屈して義経を
   討っていること
 2.泰衡は義経だけでなく、義経擁護を主張した弟の忠衡まで
   殺していること
 3.頼朝の命を果たしたのに泰衡追討の院宣が出ると頼朝に命
   乞いをしている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上が正しいとされている歴史的事実ですが、よく調べると、
事実はかなり異なるのです。泰衡は父秀衡の遺言を忠実に果たし
ているという説があるのです。
 結論から先にいうと、「衣川偽戦」こそが秀衡の遺言だったの
です。自分の死期を悟った秀衡は一族を集めて次のようにいい遺
しています。なお、この席には源義経を呼んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.自分の死後、必ず鎌倉殿は「判官失い奉れ」といってくる
   が、日本の名将判官殿に叛いてはならない。
 2.鎌倉殿から使者がきたら、まず、和睦をすすめる。それで
   もお許しがないときは、使者を斬り捨てよ。
 3.判官殿を大将軍と仰ぎ、白河、念珠の関を固め、奥州2国
   の大軍をもって一致協力してこれに当たれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秀衡はこういうと、全員に起請文を書かせ、血判を押させてい
るのです。さらに秀衡は、錦の袋に納めた遺書2通を出して、1
通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、次のように述べているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退
 きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがご
 とくひらけるであろう。             ――秀衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、秀衡の死後、その子孫たちは秀衡の言いつけ通りにし
ていないのです。最初に義経を主君と仰ぐことに異議を唱えたの
は、長男でありながら側室の子であるということで嫡男になれな
かった国衡です。
 これに対して、三男の忠衡は父の遺言を守ることにこだわった
のです。困ったのは泰衡です。泰衡は兄と弟の板ばさみになって
しまったからです。そこに、朝廷や鎌倉からは何回も「義経を差
し出せ」という矢の催促――窮した泰衡は義経を討つことを決断
したというのが、巷間伝えられている説です。三男の忠衡はこれ
に反発したので、忠衡も討たれたのです。
 確かに話の筋は通っています。しかし、これに反対意見を唱え
ている人がいます。それは、「源義経=成吉思汗説」研究の第一
人者といわれる佐々木勝三という人です。佐々木氏は、同じ研究
家の2人とともに昭和52年に次の本を出しておられますが、こ
れは貴重な文献です。この本は現在では入手不能ですが、幸い私
は入手しております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
  『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍵を握るのは秀衡の遺した遺書です。この遺書の現物は発見さ
れていないのですが、佐々木氏は上掲書の中で、青森県八戸市の
小田八幡宮に秀衡の復元遺書があると述べています。そこには、
次のように書かれているというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵の首を焼け首となして、これを君のニセ首となすべき御心得
 なさしめたまへ。高館を御立ちのきなさしめたまわば、南部大
 崎明神へ御参籠の上、大般若経御書写なされて二世の安楽の御
 為に奉納なさしめたまうべし。(以下、略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し読みにくいですが、秀衡は明らかに偽戦を勧めています。
つまり、衣川の戦いという偽戦を行い、義経を討ったことにして
その焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経を落ち延びさせよと
いっているのです。
 おそらく国衡が義経を主君と仰ぐことに反対したのは事実と思
われます。藤原氏として一致結束できないことを悟った泰衡は、
義経とともに遺書を開き、そこに書かれていることを忠実に実行
したものと思われます。
 したがって、泰衡は、義経はもちろんのこと、忠衡も殺してい
ないのです。           ・・・[義経の謎/04]


≪画像および関連情報≫
 ・『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』序文より
  ――佐々木勝三氏
   従来の日本の歴史は、皇室を中心とした朝廷の歴史、もし
   くは権力者を中心とした支配者側の歴史が絶対とされてき
   た。本書は、成吉思汗という世界史上の一大権力者に焦点
   を当てながらも、悲運の英雄源義経を見守りつづけてきた
   みちのくの庶民から生まれた歴史なのである。

佐々木勝三氏の本.jpg
佐々木 勝三氏の本
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2010年06月09日

●金色堂に祀られていた泰衡の首(EJ第1635号)

 平泉の金色堂といえば藤原家の廟所です。ここには、藤原家の
三代の将軍――清衡、基衡、秀衡の遺体が祀ってあるのです。し
かし、秀衡の遺言を守れず、藤原家を滅亡に導いた四代将軍泰衡
は、金色堂に祀ってもらえなかったとされています。
 しかし、これら3体の遺体のほかに首桶がひとつ入っているの
です。これは、秀衡の遺言を忠実に守ろうとして兄泰衡に殺され
た秀衡の三男忠衡の首と今までいわれてきたのです。
 明治18年に記述されたという『平泉志』の金色堂の章には次
のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三壇中に藤原氏三代の棺を納む、遺骸各厳然として存在す。中
 央清衡、左基衡、右秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
               ――『平泉志』金色堂の章より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この事実は、昭和25年までは誰一人疑う者はおらず
信じられてきたのですが、同年、朝日新聞社の学術調査団が、そ
れまで忠衡とされていた首を精査した結果、その首は泰衡である
ことがわかったのです。第四代泰衡はちゃんと金色堂に祀られて
いたのです。
 『吾妻鏡』によると、頼朝は泰衡の首を安倍貞任の例にならっ
て、泰衡の首の眉間部分に長さ八寸の鉄釘を打ちつけ、陣ヶ岡で
さらし首にしていますが、金色堂の中の首にはその傷口があった
のです。
 さらに、歯の消耗などから調べて、30歳程度の男性であるこ
とも判明しています。『吾妻鏡』によると、忠衡は23歳、泰衡
は31歳といわれているのです。したがって、首は泰衡のもので
あることが明らかになったのです。
 それでは、どうして首は忠衡といわれてきたのでしょうか。
 それは頼朝の怒りを恐れたからです。このことからも衣川の戦
いが偽戦であり、泰衡は忠実に父秀衡の命令を守ったということ
がわかります。
 それでは、忠衡はどうしたのでしょうか。
 佐々木勝三氏らの研究家たちは、義経の行方を追跡していく過
程で、藤原忠衡の子孫を発見しているのです。つまり、忠衡は殺
されていなかったのです。
 忠衡の子孫(長男)は久慈市の吉田に城を築いて吉田権之介奉
行と称し、その子孫は泉田を屋号としてきています。現在、岩手
県九戸郡野田村に「中野姓」を名乗っていますが、その屋号は、
「泉田」なのです。
 佐々木氏らは、同家を訪問して、その由緒書きを手に入れてい
るのです。その一部をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  我が大祖は元平泉の藤原清衡三代之孫秀衡の三男泉三郎忠衡
 なり。文治五年七月源九郎判官義経養匿のため、罪ありとして
 大軍を率いて来るは、鎌倉の兄源右兵衛頼朝なり。忠衡初め出
 羽にあり、のちに花巻に来たり、義経を守護し、死と称して義
 経の郎等の擬首を鎌倉に送った。(以下、省略)
 ――『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、忠衡は義経主従と一緒に平泉から北上し、久慈
地方に来ているのです。中野家には義経の書いたとされる大般若
経が掛け軸となって残っているといいます。やはり、義経は自害
などしていなかったのです。
 泰衡の首が金色堂の秀衡の遺体に寄り添うように置かれている
のは、泰衡が父秀衡の遺言を忠実に果たして義経を最後まで護り
非業の死を遂げたという同情の念が遺族にあったからと考えられ
ます。史実のように、秀衡の遺命に叛いて義経を討ち、頼朝に媚
びようとしてその頼朝に殺され、さらし首になったとしたら、遺
族は金色堂に祀ることを許したでしょうか。
 ひとつ不審なことがあります。
 義経が平泉入りしたのは文治3年秋ですが、それから5年まで
の間、朝廷や鎌倉から何回も使者がやってきて「義経を出せ」と
責めたてているのです。こういう事態に対して義経が何の策も立
てずに高館に潜んでいたとは考えられないことです。
 このまま平泉に居座れば、藤原家にとんでもない迷惑をかけて
しまうと考えたはずです。藤原家は、朝廷や鎌倉の使者が来るた
びに酒食を出して丁重にもてなしたのですが、絶対に屋外には出
さなかったといいます。
 しかし、そのとき実は義経主従は平泉には、いなかったのでは
ないでしょうか。なぜなら、もし、義経を高館にかくまいながら
朝廷や鎌倉の使者を饗応していたのだとしたら、あまりにも大胆
不敵な振る舞いということになると思うからです。そしてそれは
非常にリスクの多い行為です。
 佐々木勝三氏らは、文治4年5月には既に平泉を脱出していた
と考えています。このとき、朝廷より第4回の勅使一行が平泉に
到着していたのです。衣川の戦いよりも一年以上前の話です。
 ところで、自害したことになっている義経は、平泉に隣接した
衣川村の雲際寺という寺院に位牌が祀ってあるといいます。それ
は次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  損館通山源公大居士、文治五年閏四月二十八日源之義経
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この死亡日は『吾妻鏡』とは一致していないのです。それにこ
の法名は変わっています。法名には故人に何らかの縁のある文字
が用いられるのが通常ですが、そういうこととは無関係な文字の
羅列です。そこで、次の読み方があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 館を捨てて(損館)、山を通って(通山)、遁世(居士)す
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 ・・・[義経の謎/05]

≪画像および関連情報≫
 ・平泉/中尊寺金色堂
  奥州に覇をとなえた藤原一族の権力の源泉は黄金にあったと
  いわれる。金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊
  寺創建当初唯一の遺構である。

平泉/中尊寺金色堂.jpg
平泉/中尊寺金色堂
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2010年06月10日

●義経北行説はなぜ消えないのか(EJ第1636号)

 先日は、衣川の戦いが偽戦であって、源義経は郎党を引き連れ
平泉を後にして、蝦夷地に逃れている――多くの史料があり、こ
のことはもはや動かし難い事実であると考えられます。
 ちなみに「蝦夷地」とは、もともとは「アイヌ人の住む地域」
のことであり、北海道全般を指していたのです。当時北海道は、
まったくの未開の地であり、「蝦夷地に行く」ということは、異
域、異界――死の世界も異界である――に足を踏み入れることと
同意義だったのです。このことから、「義経生存説」は現代にい
たるまで、根強く生き続けることになるのです。
 しかし、この義経北行説を利用して名前を売る学者が横行した
のです。加藤謙斉という学者がいます。享保2年(1717年)
に出版された『義経実記』の著者です。
 この本で加藤謙斉は、義経の平泉脱出について具体的に述べた
あと、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経平泉脱出の経緯は、雑記小説などに記されているが、信用
 できない。しかし、義経が蝦夷地の方向に向ったことは、異国
 の文献によっても立証できるので確実である。
                     ――『鎌倉実記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「異国の文献」とは、「『金史』列将伝」(『金史』別
本)というのです。金国というのは、中国大陸の北方を支配して
いた実在の王朝なのです。その王朝を確立したのは女真族という
のですが、これも本当のことです。そして、『金史』はその女真
族の歴史書であり、これも実在するのです。
 しかし、『金史』別本というのは存在せず、その後多くの学者
によって、それが実際には存在しないことを指摘されています。
『金史』別本は、完全な捏造だったのです。
 こういうことが起こると、義経北行説そのものが疑わしい目で
見られてしまうのですが、義経北行説をまともに考察した学者も
たくさんいたのです。その中でも有名なのは、儒学者新井白石と
同じ儒学者である安積たん白との間で、享保6年から10年まで
の4年間にわたって行われたやりとりです。
 たん白が、「蝦夷地では内地の兜の鍬形によく似た物をアイヌ
たちが尊崇している」と問うと、新井白石は次のように答えてい
ます。現代ならメールで問答するところです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍬形の件、確かに不思議でございます。蝦夷地南方に「ハイ」
 なる場所がございまして、源義経の居館跡が残っているとかい
 ないとか。この地方の人々は蝦夷地中では「ハイグル」と呼ば
 れ、気性が荒く武を好むゆえ恐れられているとか。「グル」と
 は、「党」という意味と聞いております。昔から「智者は死な
 ず」とも申します。案外、義経衣川自害の話より、蝦夷脱出の
 話が本当かも知れません。          ――新井白石
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。新井白石は、加藤謙斉のウソを完全に見破っ
ており、その上での議論であることを強調しておきます。そして
加藤謙斉の『鎌倉実記』の出た後は、義経生存説の舞台は中国大
陸の北方に設定されるようになり、その内容も荒唐無稽のものが
多くなっていったのです。
 そして、大きなゆり戻しがきます。明和7年(1770年)に
半田道時は、『伊達秘鑑』の「義経秀衡事跡」の項において、次
のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  源義経、平泉高館で自害のことは『吾妻鏡』『源平盛衰記』
 『義経記』に見えている。近年、義経蝦夷渡海や義経金国入国
 をうたった書が出ているが、これらは皆、牽強付会の妄説であ
 り、信ずるに足りない。         ――『伊達秘鑑』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このほか多くの反対説が出てくるのですが、それでも義経北行
説そのものは消えることはなく、根強く生き残っていくのです。
それは、反対説のほとんどが『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などが
正しいと主張するだけで、数多い義経北行説の証拠を明確に否定
できないのにそれは妄論であり異説であると、どちらかというと
感情的な反対に終始したからです。
 江戸時代末期になると、ロシアの脅威が現実のものとなってき
ます。元文4年(1739年)に陸奥・安房の海上にロシア船が
あらわれています。これはおそらく偵察です。ロシアが正式に日
本に接触を求めてきたのは安永7年(1778年)のことです。
ロシア船がクナシリ島にやってきて、松前氏に対して通商を要求
してきたのです。
 ロシアの脅威が高まってくると、幕府にとって蝦夷地は国土防
衛上の重要な拠点となります。そのため、幕府は次の2つの対策
を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.探検隊による蝦夷地の正確な調査を実施
    2.アイヌを同化させ、蝦夷地を内地化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時蝦夷地は松前藩の管轄化に入っていたのですが、蝦夷地を
支配していたのはアイヌなのです。アイヌは自由の民であり、だ
からこそ自由に外国との交易に従事していたのです。
 しかし、国土防衛上、蝦夷地を自由の状態にはしておけないの
で、文化4年(1807年)に蝦夷地全体を幕府の直轄地化した
のです。これに伴い、アイヌを説得して和人へ同化させる政策を
実施することにしたのです。
 『義経伝説と日本人』の著者、森村宗冬氏は義経蝦夷渡海説は
アイヌの和人への同化手段として、また、和人の蝦夷地行きを促
すものとして利用されたといっています。
                ・・・・[義経の謎/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアの脅威
  天明6年(1786年)  ロシア船蝦夷地に来航
  寛政4年(1792年)  ロシア使節ラスクマン根室来航
  寛政7年(1795年)  ロシア人日本船の貨物強奪
  寛政9年(1797年)  ロシア人エトロフ島強行上陸
  文化元年(1804年)  ロシア通商を要求/レザノフ

新井白石.jpg
新井 白石
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2010年06月11日

●義経生存説が生まれた論拠(EJ第1637号)

 「義経=成吉思汗論」のテーマはスタートしたばかりです。ど
うやら、泰衡の仕掛けた衣川の戦いは偽戦であって、義経主従は
文治5年4月以前に平泉を離れ、蝦夷地に落ち延びている――こ
こまでを実証してきたところです。確かに平泉から北方方面には
数多い義経の足跡が残されているのです。
 しかし、現在の歴史書には源義経は衣川の戦いで自害したこと
になっています。そして、これは史実に基づくものであり、それ
以外のすべての説は妄論であり、異論であるとされています。し
かし、これには長い間にわたって数多くの議論があり、その議論
に現在でも何ら決着がつけられていないのです。
 これから、源義経が成吉思汗であることを多くの証拠を上げて
実証していきますが、その前に義経が平泉を脱出したことさえ認
めない歴史学者がいかに多いかということを知っておくのも無駄
ではないと思うのです。そこで少し脱線しているのです。
 明治38年2月1日――その日付の「読売新聞」に『「アルタ
イ山頭の神鏡」発見』という記事が出たのです。それは、バイカ
ル湖辺アルクスク約50里、アルタイ山頭に近いアラールス・ス
カヤステープの一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたこ
とを報じています。その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀
の紋、そして、次の文字が書いてあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          正三位藤原秀衡朝臣謹製
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、その記事は少し高揚感をこめて、次のようにしめくく
られているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神鏡がいかなる理由で彼の地にあるのか。だれもが源義経のこ
 とを想起するであろう。神鏡が発見された以上、近年提唱され
 ている義経=成吉思汗説もまったく事実無根といえないのでは
 ないか。未だ正確な検証をした人はいないが、『決して牽強付
 会の説とはいえない』と或る人は物語っている。
            明治38年2月1日付、読売新聞より
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「読売新聞」の記事に対して鳥居龍蔵という学者が、2月
4日付の「読売新聞」で否定しています。1日と4日では鳥居自
身は、その神鏡を実際に見て検証しているはずはないのに、自信
を持って次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鏡に「正三位藤原秀衡朝臣謹製」と記すのは、江戸時代に盛ん
 に行われたことです。アイヌを仲介とした北方交易によって大
 陸に入り、たび重なる交易によって彼の地に収まったのです。
            明治38年2月4日付、読売新聞より
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鳥居龍蔵をはじめとする、いわゆるアカデミズムの世界の歴史
学者たちは、あくまでも史実中心、文献を駆使して義経生存説の
誤りを指摘します。「文献にはこうある。史実はこうだ。したが
って、義経生存説は間違っている」という論法です。史実の主張
こそ任務と考えているからです。
 ですから、この「アルタイ山頭の神鏡」のように、少しでも義
経生存説を裏づけるものが出てくると、それを十分に検証するこ
となしに直ちに否定するのです。それはほとんどヒステリックな
反対ですらあります。
 確かに2月1日の「読売新聞」の記事には、義経=成吉思汗説
などは史実に基づかない妄論といわれているが、このような神鏡
のようなものが出てくると、一概に妄論とはいえないのではない
かとアカデミズムの頑迷固陋さを挑発するような高揚感があるこ
とは確かです。
 そこで鳥居龍蔵もカチンときて、ろくに検証もせずに即座に否
定したものと考えられます。これでは「ああいえば上佑」的な議
論といわれても仕方がないでしょう。『吾妻鏡』がいかに史実に
基づいているといっても、義経が死んだとされる日よりも80年
もあとで幕府によって編纂されたものなのです。そういうような
書籍に幕府にとって都合の悪いことを書くはずがないのです。
 金田一京助――義経生存説を明確に否定した国文学者です。金
田一も文献は駆使したが、自らアイヌへの実地調査を行い、その
研究を通して、どのようにして義経生存説が誤って伝えられたか
について、検証した学者です。鳥居のように頭ごなしに否定する
のではなしに、問題の根っこを明らかにすることによって、結果
として、義経生存説が間違いであると説いたのです。
 金田一京助は「義経に対する民衆の思いこみが、義経生存説の
勃興に寄与した」といっています。この金田一京助の主張に関連
して、『義経伝説――歴史の虚実』(中公新書)の著者である高
橋富雄氏は、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の戦いを通して、大衆がみずからの戦いをたたかい、義経
 を守ろうとして、実はみずからも守ることになったのである。
 だとすれば、義経の敗北はみずからの敗北である。義経におけ
 る英雄の挫折は、とりも直さず、大衆みずからにおける英雄へ
 のねがいの挫折とならざるをえない。義経の正当証明が、その
 理念化が、事実を曲げてもまかの通らねばならなかった理由は
 ここにあった。― 高橋富雄著、『義経伝説――歴史の虚実』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本来、義経生存説が間違いならば、それを裏付ける数多い例証
に対してきちんと反証するべきです。このような抽象的な論拠で
義経生存説は否定できないと考えます。それにしてもアカデミズ
ムは、なぜ頑なに義経生存説を否定しようとするのでしょうか。
 明日から、多くの例証を上げながら、源義経=成吉思汗説につ
いて、さらに深堀りしていきます。 ・・・[義経の謎/07]


≪画像および関連情報≫
 ・義経生存説が出てくる根源
  義経生存説運動とは、民衆の敗者復活戦であり、自己肥大化
  幻想なのである。絶対多数の敗者である民衆が現実を認める
  ことを拒否し、挫折した弱い義経に己を重ね、義経に想像上
  のサクセスストーリーを歩かせることで自尊心を満足させて
  いた、といえばよかろうか。
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より

森村宗冬氏の本.jpg
森村 宗冬氏の本
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2010年06月14日

●藤原家富貴栄華の秘密(EJ第1638号)

 藤原一族――奥州一帯を支配し、北の王者といわれていたので
すが、奥州一帯とはどこからどこまでを指すのでしょうか。この
ことをはっきりさせておく必要があります。
 奥州一帯――秀衡の時代には、陸奥国と出羽国を支配していた
のです。この陸奥国と出羽国は、現在の福島県以北青森県までを
指すのです。まさに北の王者です。
 ところで、秀衡は、1170年5月に朝廷から「鎮守府将軍」
に任命されているのです。鎮守府とは、陸奥と出羽、つまり奥州
を治める役所のことです。当時その役所は平泉にあり、秀衡は奥
州を支配する将軍に任命されたのです。EJ第1635号におい
て「四代将軍泰衡」という言葉を使いましたが、泰衡は紛れもな
く四代鎮守府将軍なのです。
 鎌倉の頼朝がどれほど秀衡を恐れていたかを示すエピソードが
あるのです。1184年のことです。奈良の東大寺を復興するさ
いに鎌倉の頼朝は1000両を寄進したのですが、鎮守府将軍の
秀衡は5倍の5000両を出したのです。鎌倉は秀衡の財力に圧
倒されてしまったのです。それにしても、藤原家はどうしてかく
も裕福なのでしょうか。
 藤原三代の栄華は、金色堂に代表されるように、莫大な黄金の
生産があってのことです。その黄金は、一体どこから採れたので
しょうか。
 奥州には大量の砂金を産出する河川があったといううわさはあ
ります。もし、それが本当であれば、その河川の上流には莫大な
量の山金が埋蔵されているはずです。しかし、金山の開発が進歩
した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたとい
う記録はないのです。
 金山の本格的な開発は、江戸時代になってから、能楽師あがり
の大久保石見守にはじまるといわれます。佐渡の金山、伊豆の金
山、石見の銀山などは有名です。
 藤原家の古い書物によると、秀衡は宋朝の天子に一万五千貫の
黄金を贈り、その見返りとして、大量の経文や仏像を手に入れて
います。一万五千貫の金――これは純金56トンに相当するので
すが、尋常ならざる量です。
 これほどの金を経文や仏像を手に入れるためにポンと投げ出す
ということは、藤原家にはその十倍二十倍の金の蓄積があったと
考えるのが自然であると思います。たとえ豊富な山金が埋蔵され
ていたとしても、当時の原始的な採鉱技術で採取されていたとは
考えにくいことです。
 さらに、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼
朝はもっと裕福になってもいいはずです。しかし、そういう気配
はないのです。一体藤原氏の黄金はどこから来て、どこに消えて
しまったのでしょうか。
 藤原氏の金に着眼したのは、高木彬光氏なのです。彼は、小説
『成吉思汗の秘密』の中で、神津恭介に次のように語らせている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「それではせっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産
 出していた黄金を手に入れることができなかったというという
 のは、どこに原因があるのでしょうか」
 「その理由は、僕にいわせれば、一つしかありませんね。鉱脈
 が枯渇したとも思えない。技術が滅びたとも思えない。原料の
 供給が絶えたとしか解釈はできないのです。これは、僕の大胆
 な推理だけれども、藤原三代の富貴栄華の源泉は、その莫大な
 黄金の原産地は、北海道、樺太――というよりも、大陸のシベ
 リア地方ではなかったかと思うんですよ」。
     ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは驚くべき推理です。藤原氏は秀衡の時代までに、当時は
まったく未開拓のシベリア方面まで勢力を広げていたという仮定
に立つからです。そのために藤原氏は、津軽海峡、宗谷海峡、間
宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしていなければならな
いということになります。
 もし、この仮定が事実だとすると、平泉から大陸にいたる北方
ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大
陸に渡ったことになるのです。秀衡が義経と泰衡に渡した錦の袋
には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと考
えられるのです。
 ところで、義経主従が大陸に渡ったという可能性が少しずつ出
てきていますが、そういうことを記述した文献があるのでしょう
か。それとも単なる推測なのでしょうか。
 それがあるのです。実は、『松前福山略記』という文書がある
のです。そこに次のように記述されています。さらに『新撰陸奥
国誌』にも似たような記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊
 海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡
 る。                ――『松前福山略記』
 文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し
 西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。
                 ――『新撰陸奥国誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことは、藤原忠衡が入っていることです。「主従百人
余」とありますが、これは奥州藤原氏一族と考えられるのです。
それに『新撰陸奥国誌』にある「十三」というのは、津軽半島の
半ばにある場所であり、ここは安東水軍で有名な安東氏の本拠地
なのです。実は、秀衡の弟の秀栄は十三に福島城を築いて城主に
なっているのです。壇林寺は秀栄が建造した寺なのです。
 「十三より海に航し」とは、安東水軍の船で蝦夷地に送り届け
ていることを示しています。このように大陸へはちゃんとルート
が存在していたのです。      ・・・[義経の謎/08]


≪画像および関連情報≫
 ・十三湖と安東水軍
  鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の
  青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」
  で有名な安東氏であるが、安東氏は、当時のえぞが島にも、
  えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられる。その後、安東氏
  は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが
  島に逃れている。また、安東氏を擁した武田信広――武田は
  若狭の国から流れてきたといわれている――は、その蠣崎氏
  の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれている。

津軽半島/十三.jpg
津軽半島/十三
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2010年06月15日

●一世を風靡した小谷部学説(EJ第1639号)

 データを整理して先に進みます。1188年2月21日――文
治4年2月21日に義経追討の院宣が出されています。朝廷はこ
の院宣を出すのは内心反対だったのですが、鎌倉の頼朝に屈する
かたちで出したのです。ここで朝廷はひとつの細工をしているの
です。平泉の藤原泰衡に対して早飛脚で密使を送り、院宣が出た
ことを知らせたのです。
 その一方で朝廷は鎌倉への使者はわざと非常に時間をかけて、
4月9日に鎌倉に到着しているのです。つまり、義経追討の院宣
が出たことを知ったのは、鎌倉の頼朝よりも平泉の泰衡の方が早
かったと思われるのです。
 朝廷の密使から義経追討の院宣が出たことを知った泰衡は、直
ちに義経にそれを知らせ、かねてからの手はずの通り、義経主従
を平泉から脱出させたのです。文治4年4月中旬のことです。こ
れは、文治5年4月30日に義経が持仏堂で自害したことになっ
ている一年以上前のことになります。
 泰衡は忠衡に命じて百名前後の兵を整えさせ、義経主従とは別
に平泉を出発させています。義経主従と行動を共にさせるために
後を追わせたのです。義経と忠衡の向った先は、安東水軍の本拠
地である津軽半島の十三です。義経主従は、十三の壇林寺に文治
5年5月に到着しています。やがて、忠衡の兵も十三に到着し、
安東水軍の船で、十三から蝦夷地に渡っています。
 この文治4年4月から翌年の文治5年4月までの一年間、泰衡
は朝廷や鎌倉の矢面に立って、金品を贈ったり、接待したりと、
のらりくらりと時間稼ぎをやったわけです。その間に義経主従と
忠衡たちは準備を整えて、蝦夷地に向けて無事に出発することが
できたのです。すべては泰衡のお陰でなのです。
 以上の考察により、義経主従が少なくとも文治5年4月には死
んでおらず、北を目指して落ち延び、やがて蝦夷地に渡っている
ことがわかってきました。あとは、具体的に彼らはどこに行って
何をしたかについて考えていきます。
 シベリア地方のウラジオストック市の北部に「ハンガン岬」と
いうところがあります。地名の由来ははっきりとしていませんが
「判官」と結びつけている人もいます。
 このハンガン岬から東北に120キロ離れたところに、「スー
チャン」という場所があります。この「スーチャン」は中国語で
あり、「蘇城」と書くのです。ここには古い城跡があるので、そ
う呼ばれています。シベリア(沿海州)は1858年のネルチンス
ク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったので、中国
語の地名が残っているのです。
 さて、この「蘇城」はどのような城であったのでしょうか。地
元民の間では次のいい伝えが残っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築い
 た。武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と
 命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に
 攻め入って強大な王国を建てた。      ――地元の伝承
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この蘇城について、実際に現地に行って調査し、そのことを本
に書いた人がいます。小谷部全一郎という人です。「源義経=成
吉思汗説」を最も普及させた人物として有名です。
 この本は『成吉思汗は源義経也』のタイトルで、冨山房から大
正13年に発刊され、ベストセラーになったのです。EJを書く
に当ってこの本は不可欠なので、中央区立京橋図書館から借りて
現在手元にあります。(添付ファイル参照)
 小谷部全一郎は、江戸時代初期からの、いわゆる義経生存説を
基本とし、問題によっては独自の解釈を加えて「源義経=成吉思
汗説」を展開しています。自ら現地に足を運んで調査をしている
ので、強い説得力があります。
 初版発行が大正13年(1924年)11月10日で、12日
には再版、12月5日には6版を出すというベストセラーを記録
したのです。
 彼は、同書の中で、次のように述べて、歴史学者たちを挑発し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はお
 たまじゃくしの後身ではすないと主張するようなものである。
 また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりと
 するようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史
 家の見解は、影を以って実体なりと強弁し、或いは形が少しば
 かり似ているからとして、鰌を指して「鯨である」というのと
 同じことである。            ――小谷部全一郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者は大同団結して反撃に出たのです。国史
学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語・言語学の第一級
の研究者がずらりと結集して、次の本によって、さまざまな角度
から小谷部説を批判したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『中央史壇』臨時増刊号
   『成吉思汗は源義経にあらず』――国史講習会発行
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中でも金田一京助と中島利一郎の批判は激しかったのです。金
田一京助は、小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述
されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」であると切
り捨てています。中島利一郎の反論はさらに激しく、小谷部論を
ひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑
稽」「児戯に等しい」という言葉を使って罵倒しています。
 小谷部全一郎は、8ヶ月後に『成吉思汗は源義経也――著実の
動機と再論』を出版し、反対論者たちに反論しています。
 しかし、どうして歴史学者たちはこの問題になると、かくも感
情的になってしまうのでしょうか。 ・・・[義経の謎/09]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部全一郎は、米国のエール大学に留学し、ドクター・オ
  ブ・フィロソフィーの学位を取得している。米国留学から帰
  国後、北海道でアイヌの子弟教育を行っている。博学で、努
  力家で、冒険家として有名な人である。金田一京助は、アイ
  ヌ語学の研究をしているので、小谷部とは面識があり、親し
  い間柄であるが、その所論はお互いに相容れない。

小谷部全一郎氏の本.jpg
小谷部 全一郎氏の本
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2010年06月16日

●ホンカイサマとクルムセ国(EJ第1640号)

 古くからアイヌ民族のあいだに、次のような伝説が伝わってい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、ホンカイサマは金色の鷲が飛ぶのを見て、その鷲に従い、
 昔先祖が往来した海を渡って、大きな川のあるクルムセ国にお
 行きなされた。             ――アイヌの伝説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ホンカイサマ」とは何でしょうか。
 このアイヌの伝説は、佐々木勝三氏の本にも出てきますが、そ
こでは「ホンカンさま」となっていました。アイヌ語に詳しい人
の話によると、アイヌ語には濁音というものはなく、「サ」の音
が出る前に「ン」という音があれば「イ」と発音するのです。し
たがって、「ホンカイサマ」と書いてあっても、発音は「ホンカ
ンサマ」になるのです。
 「ホンカンサマ」は、その読み方からしても「判官様」に通じ
るものがあります。佐々木勝三氏は、平泉から義経主従が北に逃
れたとされる道を実地踏査しているのですが、釜石市の近くで、
「ホンカンサマ」と呼ばれる神社―――「法冠神社」を発見して
います。神社の正確な場所は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     法冠神社 ――― 釜石市大字片岸字室浜
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 法冠神社を建立したのは、室浜に住む山崎久右衛門氏の先祖と
いうことです。神社の由来は、山崎氏の説明によると、次のよう
なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この地は義経一行が、山越えに来て野宿、もしくは休息をした
 ところだと伝えられています。義経さまたちは、この山を越え
 て大槌のほうへ行かれたということです。その跡へ私の先祖が
 お宮を建てたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一口にアイヌ民族といっても、次の2つの種族があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  荒蝦夷(あらえぞ) ・・・ 北海道に留まっている種族
  熱蝦夷(にぎえぞ) ・・・ 北海道を脱出している種族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「荒蝦夷」というのは、ずっと北海道におり、現在は網走地方
に少し残っているだけです。「熱蝦夷」というのは、もともとは
東北地方に住んでいたのですが、日本民族の勢力が北にのびるに
つれて、しだいに北へと圧迫され、北海道に逃げ込んで、釧路か
ら西の日高地方に住むようになった種族です。この種族は昔は勇
猛さを誇ったのですが、現在は少数民族になっています。
 注目すべきは、ホンカイサマ伝説は熱蝦夷にだけに伝わってい
るという事実です。小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』に反
論するため、多くの歴史学者は実際にアイヌ種族を調べています
が、そのほとんどは荒蝦夷に会っていたのではないでしょうか。
荒蝦夷をいくら調べても義経の痕跡は出てこないのです。
 明治時代に熱蝦夷の酋長を調べたある学者によると、ホンカイ
サマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方を教え、それで
鳥獣を捕えたり、網で魚を取る技術を指導したのです。さらに手
工農作のことまで教えたので、ホンカイサマを命の親として神に
祭っているというのです。
 さらにその酋長の話では、やがてホンカイサマは蝦夷地から樺
太へ攻め入り、アイヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこか
ら海を渡ってクルムセの国に入ったというのです。そのさいに、
一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣してし
まい、戻ってこなかったために勇猛を誇ったアイヌ族は急速に衰
えたといわれています。
 さて、問題は「クルムセの国」はどこかということです。伝説
の部分をよく見ると、次の2つのヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.昔、先祖が往来したことがある
      2.その国の近くに大きな川がある
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、義経の時代には「契丹(きったん)」と呼ば
れていた地域ではないかと思われるのです。当時、新羅、高麗、
百済というのは現在の朝鮮半島のことであり、契丹は現在のウラ
ジオストックを中心とするシベリア地方をさします。
 大きな川とは、黒竜江であると思われます。この黒竜江の下流
は、昔から有名な砂金の産地なのです。したがって、秀衡時代の
藤原氏がこのシベリア地方と何らかの関係があるのではないかと
いうことは、あながち荒唐無稽なこととは思われないのです。藤
原氏の所有していたと思われる金は尋常ならざる量だからです。
 ホンカイサマがアイヌの大群を率いて大陸に渡ったとすると、
シベリアの原住民の中には、アイヌ民族と似た風俗が残っている
はずですが、その点はどうなのでしょうか。
 それがあるのです。シベリア西部に住んでいるウオグルという
民族がいるのです。この民族は男は多毛質であり、女は口のまわ
りに入墨をするなど、アイヌ族とよく似た風俗を持っています。
それに住居は丸太の掘立小屋であり、着ている着物の刺繍の模様
も、アイヌのものと酷似しているのです。
 ところで義経は、当時の大陸の状況についてどの程度の知識が
あったかです。推測ですが、私は義経は相当の知識を持っていた
と考えます。NHKの大河ドラマの『義経』の中に、屏風の絵を
前にして平清盛が、まだ幼い牛若に対して海の向こうの話を聞か
せるシーンがあり、印象に残っています。清盛は、都を一時福原
(神戸)に移してまで、海外との交易を考えていたのです。それ
が幼い義経の脳裏に刻み付けられたのです。[義経の謎/10]


≪画像および関連情報≫
 ・シベリア
  シベリアというのは、ロシア連邦のアジア地域、すなわち、
  ウラル山脈以東に広がる広大な地域をいい、シベリアという
  地名は単に地理的範囲を示すものであり、行政単位としては
  意味を持たない。
 ・黒竜江
  現・中国東北地方とソ連邦シベリアの国境を流れる大河。ロ
  シア人はアムール川と称している。全長は4350キロメー
  トルで世界第8位。流域面積は205万1500平方キロメ
  ートルで世界第10位。最上流部はモンゴル高原北東部のヘ
  ンテイ山脈で,ここよりオノン川とケルレン川の二つに分か
  れて流れ出す。オノン川は北東流してシルカ川に注ぎ,ケル
  レン川は東流してアルグン川に注ぎ,アルグン川は、北東流
  して漠河付近でシルカ川と合流する。この合流点より下流を
  黒竜江という。合流点からは大きな狐を描いて南東に流れ,
  松花江などの多くの支流を集めながら小興安嶺の北西端より
  北東流して間宮海峡に注いでいる。

黒竜江.jpg
黒竜江
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2010年06月17日

●末松謙澄の源義経=成吉思汗説(EJ第1641号)

 明治12年(1879年)のことです。英国で日本人の手にな
る次の英文の論文が発表されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 The Identify of the Great Conqueror Genghis Khan with
 the Japanese Hero Yoshitsune.
 − 大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること −
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 この論文を書いた人は、末松謙澄――当時、ケンブリッジ大学
で、文学・法学を学ぶかたわら、一等書記官見習としてロンドン
の日本大使館に勤務していた青年なのです。
 この末松謙澄という人物はただ者ではないのです。文学・和歌
・漢詩・芸術などの造詣が深く、世界ではじめて『源氏物語』を
翻訳出版するなど大活躍しています。さらに、明治23年には第
1回の衆議院議員選挙に当選して政治の世界でも活躍し、内務大
臣や逓信大臣を務めているのです。
 さて、「成吉思汗=源義経」の英文論文を末松は師の福沢諭吉
のところに持っていったのです。福沢諭吉はこれを読んで「これ
は面白いので、誰か翻訳して書籍として出版したらどうか」と塾
生たちに勧めたのです。
 それを引き受けたのは塾生の内田弥八です。早速それを翻訳し
『義経再興記』というタイトルで明治18年(1885年)に出版
したのです。しかし、著者は「内田弥八」として出版してしまっ
たのです。タイトルの題字は山岡鉄舟、序文は漢学者の石川鴻齋
と土田淡堂が書いて、立派な本にしたのです。
 『義経再興記』は発売されると、大センセーショナルを巻き起
こし、本は売れに売れたのです。明治20年には7版を印刷、最
終的には10版までいったと思われるのです。
 末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。末松が指摘して
いることの多くは、ことばの類似性です。例えば、「成吉思汗」
という名前は「源義経」からきているというのがあります。「源
義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、それが「ゲン
ギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。蒙
古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからで
す。「カン」は王位の総称です。
 さらに、成吉思汗は「ニロン族」の出身であること、父は「エ
ゾカイ」もしくは「エスガイ」と称し、母は「ホエルン・イケ」
と呼んでいたことを指摘しています。末松は、ここでいう「ニロ
ン」は「日本」のことであり、「エゾカイ」は「蝦夷の海からき
た」ことを意味しているというのです。
 この末松論文は当然のことながら、学問の世界からは激しい反
論の嵐がさらされたのです。確かに末松論文は内容的に不十分な
ところが多く、牽強付会の説として批判されたのです。牽強付会
とは、自説に都合の良いところだけをピックアップしてつじつま
合わせをするという意味です。
 しかし、この末松論文は決してムダなことではなかったといえ
ます。ひとつは、この論文が下敷きとなって、小谷部全一郎の本
が誕生したからです。小谷部に蒙古の実地踏査を決意させたのも
末松論文だったからです。
 もうひとつは、この末松論文が契機となって巻き起こった義経
生存説ブームに乗って、明治28年に博文館から『新撰日本小歴
史』という歴史教科書が発刊されたことです。同書の79ページ
に次の記述があります。これはまさに前代未聞のことといえるで
しょう。「義経、衣川で自害」という歴史の定説を覆しているの
ですから。
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    泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷に入る
            ―――『新撰日本小歴史』
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 末松論文で注目すべきは、成吉思汗の母の名前とされる「ホエ
ルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲と
いう意味です。
 これだけでは別にどうということはないのですが、後に成吉思
汗は母親に対して、「センシ皇后」という名前を贈っています。
「センシ」というのは漢字なのですが、字が難しくてメールで送
れないのでカナにします。正しくは「ホエルン・イケ・センシ」
となるのです。
 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。池ノ禅尼は、平
清盛の養母です。平治の乱の直後に捕えられた源義朝の男の遺児
は一人残らず、殺されることになっていたのです。ところが、そ
のとき清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅
尼です。結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少な
くとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。
 もし、義経が成吉思汗であったとしたら、成吉思汗の母となる
女性は何者かということになりますが、そういう母親的存在の女
性に池ノ禅尼の名前を贈ることは考えられることです。
 しかし、義経=成吉思汗説を証明するのに、単にことばの面か
らだけやろうというのは限界があります。幅広い歴史書の分析に
実地踏査などを加えて、さまざまな情報から総合的に判断すべき
です。しかし、学問の世界の反論はそれを守っているとはいえな
いと思うのです。最初に結論ありきであって、その結論を守るた
めに、必ずしも理をもってせず、馬鹿にしたり、罵倒したりする
など、あまりにも感情的になり過ぎる点があると思います。
 ここまでそういう検討を加えた結果、少なくとも「義経は衣川
で自害」という歴史的定説にはかなりの疑問があり、義経一行は
北へ逃れたというのが事実ではないかと考えられるのです。学問
の世界の反論はあまりにも抽象的であり、実証的とはいい切れな
いからです。海を渡って大陸に入った義経一行はどのようにして
成吉思汗といわれるようになったのでしょうか。明日からこの問
題を考えていきます。        ・・・[義経の謎/11]


≪画像および関連情報≫
 ・末松謙澄(1855〜1920)
  安政2(1855)年、行橋市前田生まれ。
  10歳の頃から仏山の私塾で漢学を学び、新聞社で活躍後、
  官界に入る。山縣有朋に文才を認めれて陸軍省へ。明治11
  年ケンブリッジ大学で文学・法学を修め、在学中、英訳「源
  氏物語」を出版。帰国後伊藤博文の次女と結婚。伊藤博文を
  支える要職(逓信大臣など)を歴任すると同時に、多くの著
  作を残している。特に「防長回天史」は維新の貴重な資料と
  されるなど、マルチな才能ぶりに驚かされる。

末松謙澄.jpg
 
末松 謙澄
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2010年06月18日

●大河兼任の乱の裏にあるもの(EJ第1642号)

 史実によれば、源義経は1189年4月に自害したことになっ
ています。そして成吉思汗が歴史の舞台に登場するのは1206
年なのです。もし、源義経が成吉思汗であるならば、義経はその
17年の間、何をしていたのでしょうか。
 その前に、その当時の中国大陸の状況について知っておく必要
があります。成吉思汗があらわれる以前の大陸は、唐の時代から
五代の乱世を経て宋の時代になっていたのです。その宋の時代の
敵といえば、すべて北からやってきたのです。
 漢民族は自らは「中華」と称して、北方民族を「北狄」と呼ん
で軽蔑しながらも恐れていたのです。物資が乏しく生活が粗野な
北方民族は、物資豊富で文化の高い南方の農耕民族を狙って、絶
えず侵略戦争を繰り返していたのです。鮮卑、契丹、女真などの
民族がそうです。
 しかし、それらの民族の攻撃は、ことごとく撃退され、万里の
長城の外に追い返されていたのです。漢民族は敵を万里の長城の
外に追い出すと、深追いはしなかったのです。そのため、何回負
けても北方民族は生き残り、繰り返し攻めてきたのです。
 さて、義経一行は、現在のサハリン島(樺太)にいったん渡り、
それから、間宮海峡(タタール海峡)を渡ってアムール川の河口付
近に上陸していると考えられます。そして、その一帯を支配して
いた満州女直(女真系)ワンスンと戦闘をしています。1190年
のことです。
 当時の義経軍は義経主従と忠衡率いる100人程度の軍隊にア
イヌ人が加わっていたものと思われます。義経軍はこの満州女直
を打ち破り、沿海州の海岸に沿って南下します。そして、現在の
ウラジオストック近郊に達するのです。
 戦いというものは、勝ち進むにつれて敗者を軍に加えるので、
その人数が増えていくものですが、それに加えて義経軍にはさら
に200人ほどの援軍が加わっていた可能性があります。つまり
義経一行の後を追って、蝦夷地に渡り、義経軍と合流した一団が
あると考えられるのです。
 この、後から義経軍に加わったとされるのは、どういう一団な
のでしょうか。
 結論から先にいうと、それは大河兼任という秋田県北部の平泉
藤原氏直属の豪族であり、南秋田郡五城目町大川付近を本拠地に
して支配していた一族です。
 1189年12月、大河兼任とその一族は、奥州の同志を結集
し、7000騎の兵力で、出羽国海辺荘から河北、秋田城を経て
多賀城方面に向かい、一路鎌倉を目指したのです。1190年1
月のことです。そのとき大河兼任は自らを源義経と称して軍を挙
げているのです。情報が伝わりにくい当時のことであり、鎌倉方
から見れば、義経はまだ生きており、それが軍を率いて攻めてき
たと勘違いすることを見越しての戦略です。
 しかし、途中の八郎潟付近の志賀の渡しで、突然氷が解けると
いう事故により、多くの兵を水死させてしまうのです。それでも
進軍しながら兵を増強させ、約1万騎の軍勢で、鎌倉側と再三に
渡って合戦を行います。
 ところが、鎌倉勢の大軍に破れ、大河兼任は500騎ほど率い
て逃走し、平泉に陣を張って防戦するのです。しかし、衆寡敵せ
ず破れ、敗走します。そして、宮城県栗原郡にある栗原寺に逃げ
込むのですが、大内兼任はそこで討たれています。この栗原寺は
義経ゆかりの寺とされています。
 この大河兼任の乱は『吾妻鏡』に記述されています。大河兼任
が討たれた模様は、『吾妻鏡』の3月10日の項に次のように記
述されています。
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 大河次郎兼任、ひとり進退に迫り、花山・千福・山本等を歴て
 亀山を超え、栗原寺に出づ。ここに兼任、錦の脛巾を着け、金
 作りの太刀を帯くの間、樵夫等怪しみをなし、数十人これを相
 囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正(千葉)以
 下に告ぐ。よってその首を実検す云々。
              ――『吾妻鏡』の3月10日より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、大河兼任は殺されています。しかし、この記述に
は不可解なところがあります。それは「錦の脛巾を着け、金作り
の太刀を帯く」の部分です。ずい分目立つ格好であり、逃亡中の
武士はそのような格好をするとは思えないのです。それになぜ樵
夫が登場し、斧で殺されなければならなかったのでしょうか。
 そのことから、これは明らかに大河兼任の替え玉であると思わ
れるのです。斧で殺されたのは、顔を潰してわからなくするため
ではなかったのでしょうか。
 しかし、『吾妻鏡』に「大河兼任死す」とあると、それは歴史
的事実とされてしまうのです。『東日流三郡誌』には次の記述が
残れているといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経一行が十三湊を離れた一年ほど後に、大河兼任の一族二百
 名が義経一行の後を追って、安東水軍の船で出航した。
                 ――『東日流三郡誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 断っておきますが、『東日流三郡誌』には歴史書としては問題
があるといわれています。別説として、栗原寺の僧侶が大河兼任
の頭を丸めさせ、密かに津軽方面に逃がしたという説もあるので
す。大河兼任については諸説があり、これも伝説化されているの
です。いずれにしても、史実上は問題があるのですが、そうかと
いって『吾妻鏡』に書かれていることがすべて真実であるともい
えないのです。
 大河兼任であるかどうかは別として、義経の後を追って200
騎ほどの軍勢が海を渡り、当時西蝦夷にいた義経軍と合流してい
るのです。そして、300騎以上になった義経軍は安東水軍の船
でサハリン島を経て大陸に渡ったのです。 [義経の謎/12]


≪画像および関連情報≫
 ・大河兼任
  極寒の奥州を縦横無尽に駆け抜け、幕府軍を翻弄した豪傑。
  出羽の豪族で、奥州藤原氏に従う。奥州藤原氏が滅亡すると
  旧主の仇を討つと称して、配下の伴党ら7000人を従えて
  橘公業の拠点を襲撃、敵軍を全滅させている。
  次いで由利維平を滅ぼすと、今度は素早く北上し、津軽の宇
  佐美実政を敗っている。しかし、一迫にて源頼朝の命を受け
  千葉常胤、比企能員、足利義兼ら討伐軍と結城朝光ら奥州在
  留の御家人による鎮圧軍が反撃を開始。以後は連敗し、花山
  の栗原寺にて味方の樵夫たち数十人に包囲されて斧で殺され
  ている。

大河兼任と八郎潟.jpg
大河 兼任と八郎潟
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2010年06月21日

●ウラジオストックにある義経公園(EJ第1643号)

 義経と忠衡軍が津軽の十三湊から安東水軍の力を借りて蝦夷地
に渡り、西蝦夷に行ったこと、それに義経の後を追って大河兼任
率いる200騎が同じルートで蝦夷地に渡って義経・忠衡軍と合
流したらしいことは、これまでの分析でわかってきました。
 しかし、そこから先は義経軍がどのルートをたどって進軍した
かについては、当然ですが、ほとんど確かな資料はないのです。
そこで、既にご紹介している小谷部氏の著書2冊、それを解説し
た佐々木勝三氏他2氏の共著に加えて、次の著書を参照し、推理
してみるしかないのです。
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   ドーソン著/佐口透訳、『モンゴル帝国史』全6巻
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 著者のドーソンという人は、アルメニア人のフィンランドの外
交官で、この本は彼が中近東に赴任していたときに『蒙古史』の
タイトルで書き上げたものです。内容は公平・正確という評価が
高く、多くの読書人を魅了した名著なのです。この『モンゴル帝
国史』は、その新装版なのです。もちろん、この本の中でも「義
経=成吉思汗説」は、取り上げられています。
 旧版のドーソンの『蒙古史』は上下巻あわせて700ページの
大書ですが、成吉思汗の30歳前後から1193年頃までのこと
に関しては、たったの4ページしか費やしていないのです。それ
は情報がほとんどないことを示しています。
 1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族
の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイ
ト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女
直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんな
ところまで行って戦争しなければならないのでしょうか――これ
は大きな謎だったのです。
 しかし、源義経=成吉思汗と考えるとこの謎は一挙に解消して
しまいます。源義経率いる軍勢が、サハリン島の西北端から、大
陸のアムール川河口付近に上陸し、1190年〜91年にその地
を支配していた満州女直族のワンスンと交戦したと考えれば、話
がぴったり合うのです。
 この「満州女直」というのは、北東アジアの満州(現在の中国
東北地区)に住んでいたツングース系の民族で、「女真」ともい
うのです。この満州女直族を打ち破ったということは、その時点
で義経軍は、既に相当の規模であったことを意味します。
 もともと忠衡が率いていたのは、騎馬軍団で東北騎馬軍団とい
われていたのです。奥州は馬の産地であり、一戸から九戸までの
9つの牧場があったほどです。そういうわけで、藤原家の軍隊は
騎馬軍団なのです。
 この忠衡率いる100騎の騎馬軍団が義経に従っており、後か
ら合流したとみられる大河兼任率いる200騎の騎馬軍団、それ
にアイヌの一団を加えると、約300騎から〜400騎の軍勢に
なるのです。これが後にテムジン騎馬軍団になるのです。
 軍隊の人数は決して多くありませんが、これだけの手駒を持っ
ていれば、平家を相手にしてあれだけ見事な戦いをした義経であ
れば、十分に満州女直軍と戦えたであろうと推測できます。そし
て義経軍は打ち破った満州女直軍も加えて、沿海州(シベリア)
を海岸線に沿って南下し、現在のウラジオストック近郊まで達し
たと考えられるのです。
 ウラジオストック着いた義経軍は、1192年に休む間もなく
高麗チャガン軍と交戦し、これを破っています。その後、義経軍
はウラジオストック近郊に本拠地を築き、ここで兵を訓練し、体
制を整えています。義経軍はここで約10年の月日を過ごしてい
ます。次の飛躍のためには十分の期間です。
 ところで、現在「タタール海峡」といわれる海峡は、間宮林蔵
が樺太探検のさいに発見した海峡であり、日本では「間宮海峡」
と呼ばれています。
 調べによると、間宮林蔵の樺太探検の目的のひとつは義経伝説
の真偽の解明であったといわれているのです。彼は、アムール川
流域に住む人々に義経のことを聞いてまわっているのですが、そ
こに義経のいくつかの足跡を見つけているといわれています。
 間宮林蔵のこのときの実地踏査によって得られた情報は、ドイ
ツ人医師のシーボルトによる義経北行説と義経=成吉思汗説とし
て発表されています。シーボルトと間宮林蔵は友人関係にあり、
情報源は間宮林蔵であったことは間違いないと思われます。
 義経軍がウラジオストック近郊を本拠地にしたことを示す痕跡
は多く見られます。佐々木勝三氏は、ウラジオストックの北方に
あるニコラエフスクという町の商店で買ったという絵葉書を手に
入れています。大正7年に東部シベリアに出兵した人から贈呈さ
れたものであるというのです。
 その絵葉書には、「源義経墓」と書いてある亀形の台石のよう
なものが写っていたというのです。絵葉書の所有者は藤田伝助氏
といい、藤田氏は次のように述べています。
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 私は23歳の時、上等兵で伍長勤務、分隊長としてウラジオス
 トックに行きました。そして、ツルキンという地名の所に居り
 ました。ニコラエフスク市に行った時、商店で絵葉書を買いま
 したところ、義経(ぎけい)公園という公園の中に、「源義経
 墓」と書いてある亀形の台石が写真になっていたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏の本にもニコラエフスクにある義経公園の亀石の写真
が出ています。その亀石の上にかつて石碑が立っており、「源義
経墓」と書いてあったそうです。そのため、ここに居住する日本
人はこの公園のことを「義経公園」呼んでいたのです。帝政ロシ
ア時代にはまだ日本人が住んでいたのです。[義経の謎/13]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部氏の原文
  隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古
  碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は
  支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の
  碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民
  は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。
  ――小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』より 冨山房刊

ニコラエフスク/義経公園の亀石.jpg
ニコラエフスク/義経公園の亀石
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2010年06月22日

●義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ第1644号)

 義経軍はウラジオストック近郊までやってきて、そこを本拠地
にして約10年間を過ごしていると考えられます。そうであると
すると、ウラジオストック周辺にその痕跡はかなり残っているも
のと思われます。
 その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク
市にある義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足し
ます。昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、そ
の上に石碑があり、「源義経墓」と彫られていたというのです。
 この亀石と石碑を目撃した日本人が何人かいるのです。大正7
年――第一次世界大戦の末期の頃ですが、ロシア革命に呼応して
連合軍の要請で日本はシベリアに遠征軍を送っているのです。そ
の中で、東部シベリアに出兵していた人たちの中に目撃者がいる
です。その一人である宮古市の刈屋清右衛門氏は、佐々木勝三氏
に次のように語っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山
 があり、石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
 竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に
 割れていました。石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その
 3枚を合わせてみましたら、字が竿石いっぱいに彫られてあり
 ました。字は明らかに「大日本源義経墓」というようにつなが
 りました。              ――刈屋清右衛門氏
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、石
碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っていると
のことです。この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台
石は硬質であり、その磨減の古さから考えて、600〜700年
の星霜を経たものであるとのことです。
 ところで、ハバロフスクの博物館に運ばれたという石碑はどう
なったのでしょうか。
 小谷部氏は、ハバロフスク博物館まで行こうとしたのですが、
治安に問題があるとのことで断念し、当時ウラジオストック派遣
軍司令部の中岡中佐に博物館に行って確認して欲しいと依頼した
のです。その中岡中佐から小谷部氏に対する報告文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
 白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセ
 メントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
 土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過
 激派のなせることなりと。しかし、博物館長はこのしっくいが
 いずれのとき塗られしやおぼえなきと答えき。
               ――佐々木勝三氏の上経書より
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 ロシア人がしっくいを塗って文字を隠したのは明らかで、自国
に不利な文字がそこにあったものと考えられます。そこには「大
日本源義経」と書いてあったのですから。
 この地に義経公園があるということは、それはこの地に古くか
ら居留していた日本人にとって、義経がこの地に来たことを示す
何らかのあかしがあったからと考えられます。そして、おそらく
義経公園は古城跡の一部ではなかったかと思われます。
 それに、このニコラエフスク市は黒竜江のほとりにあり、それ
が、「大きな川のあるクルムセの国」の川ではないかと考えられ
ます。案外ニコラエフスクが「クルムセの国」ということも考え
られるのです。
 もうひとつ義経の城ではないかと思われるものに「蘇城(スー
チャン)」があります。EJ第1639号でご紹介した古城跡の
ことです。スーチャンもナホトカ、ウラジオストック、ニコラエ
フスクを結ぶ線の近くにあるのです。
 この地を支配していたのは、土着民のタモー族というのですが
このタモー族の伝説によると、蘇城は昔、イーポンの武将が築い
た城ということなのです。「イーポン」は「日本」を連想させま
すし、武将の名前はキン・ウ・チィというのですが、これは源義
経であると考えられます。
 さらに重要な痕跡と思われるものがあります。それは、既にご
紹介している「ハンガン岬」です。このハンガン岬――もう少し
正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であ
るらしいのです。ハンガンではなく、「ハングアン」と発音する
そうです。シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに
適当な地点が少ないのですが、そういう意味でこの付近では重要
な泊地になっているのです。
 もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確
認できないのですが、シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ば
れていたそうです。そういうところから、義経一行はこの泊地か
ら上陸したのではないかといわれているのです。なお、ハンガン
とスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞
に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフ
スクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で
役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であら
われたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっている
もので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったと
いわれます。
 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けてい
たことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居
にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考え
られるのです。
 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えている
のでしょうか。          ・・・[義経の謎/14]


≪画像および関連情報≫
 ・笹竜胆/ささりんどう
  民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
  向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

笹竜胆.jpg
笹竜胆
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2010年06月23日

●義経に似ているテムジンの戦い(EJ第1645号)

 果たして源義経は成吉思汗なのか――この一人二役説について
蒙古――モンゴルの側から見ていくことにします。果たしてうま
く繋がるのでしょうか。
 蒙古史によると、1202年からテムジンは部族を統合するた
めの大規模な戦闘を開始しています。この話に入る前に、当時の
モンゴル高原の諸民族について簡単に述べておきます。部族を言
語で分けると、次の2つの系統に分けられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.モンゴル語系統
    モンゴル部族 ケレイト部族 タタール部族
  2.チュルク語系統 
    ナイマン部族 メルキト部族 オングット部族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モンゴル高原において、最も豊かな土地とされる三河地方――
オルコン河、トゥラ河、セレンゲ河――にいたのは、最も強力な
部族といわれるケレイト部族であり、その北東方面を流れるケル
レン河の東岸地帯にはタタール族がいたのです。
 さらに西のアルタイ山脈の方面にいたのがやはり強大な勢力を
誇るナイマン部族であり、バイカル湖の南側にはメルキト部族が
いたのです。テムジンの属していたモンゴル部族はブルカン岳の
麓を流れるオナン河の流域を本拠地としていたのです。
 テムジンの属するモンゴル族は、次の3つの強力な氏族に分け
ることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             1.カタギン 氏族
      ニルン族   2.サルジウト氏族
             3.ボルジギン氏族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3大氏族は「ニルン族」といわれる格式高い部族なの
です。このニルン族の中で一番力が高く、モンゴル部族を実質的
に支配していたのは、ボルジギン氏族です。このボルジギン氏族
にも多くの氏があり、中心的な氏は「キャト氏」――テムジンは
このキャト氏に属していたのです。
 1202年にテムジンは、タタール部族を攻めることを決意し
ていますが、攻めるに当たって、はじめて「軍律」というものを
定めています。それは、次のような内容です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵人に打ち勝つも、財物(たからもの)のところに立ち停まる
 まいぞ。勝ち終うれば、その財物はみなわれらのものなるぞ。
 必ずやわれは分かち合うぞ。     ――『モンゴル秘史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時のモンゴルの戦いでは、敵を打ち負かした氏や氏族の長は
それぞれ略奪した財物を自分のものにできたのです。しかし、こ
れを認めると、戦いのさなかに略奪品の場所に留まって、戦いを
やめてしまうのです。全軍がひとつの目標に立ち向かって戦闘す
ることを求めるテムジンにとって、これを認めるわけにはいかな
かったのです。これにより日本の戦い方に近づいたといえます。
 このタタールとの戦いは、「ダラン・ネムルゲスの戦い」とい
い、この戦いによってタタール族は事実上滅びたのです。テムジ
ンは、この戦いで軍律に違反したアルタン、クチャル、ダリタイ
の略奪物をすべて奪い、処分しています。この軍律は、やがて、
モンゴルの法律の基になっていくのです。
 テムジンにとって次の標的はケレイト部族です。しかし、ケレ
イト部族は強大であり、まともに戦ったら、当時のテムジン率い
るモンゴル軍の兵力では勝てなかったのです。
 1203年、ケレイト部族のワンカン軍が、テントを張って酒
盛りをしているとの報告を受けたテムジンは、夜を徹して騎馬軍
団をそこに走らせます。この騎馬軍団には、その前年に傘下に置
いたタタール族も含まれているのです。
 テムジン騎馬軍団は、酒盛り後のケレイト軍を急襲します。そ
して彼らを山峡にを包囲したのです。テムジンは3日3晩攻撃し
て、ケレイト軍を降伏させてしまうのです。この戦いについて、
『鉄木真用兵論』という本に次のように記述されています。この
本はイワニンというロシア人の書いたものであり、1875年に
刊行されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力において劣れる鉄木真(テムジン)は尋常の手段をもって
 勝を制するの不可能なるを知り、まず諜者をして敵情を探らし
 む。その報にいわく、敵軍は金帳の内に盛宴を張る、急ぎ侵入
 して討ち給えと。鉄木真直ちにチュルチェ及びアルカイなどの
 武将を先駆となし、疾風のごとくに突進して懸崖を下り、山下
 に陣せる敵軍の不意を襲ってこれをおう殺せり・・・。
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述は一の谷の合戦を彷彿させるものがあります。まさに
ひよどり越えの蒙古版といえます。これ以外にもテムジンについ
て伝えられる話を調べていくと、義経を彷彿させる話がたくさん
出てくるのです。例えば、こんな話もあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鉄木真は少時父を喪い郎徒らにも見すてられたるにより、つい
 にメルトキ部の人々に捕えられ、敵の長老ワンカンに一身を依
 託せり。            ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これなどは、義経が子供のころ、敵将清盛のために命を助けら
れ、鞍馬山に預けられたこととそっくりの話です。
 話を元に戻しますが、このケレイト軍との戦いによって、テム
ジン率いるモンゴル軍は、モンゴル高原の東半分を傘下に収める
ことに成功したのです。当時、モンゴルの西半分はナイマン部族
が支配していたのです。テムジンにとって、最大の強敵はこのナ
イマン部族なのです。       ・・・[義経の謎/15]


≪画像および関連情報≫
 ・モンゴル騎馬軍団
  モンゴル騎馬軍団はユーラシア大陸全土にまたがる大規模な
  征服戦争によって、攻略した都市から職人を集め、兵器や甲
  胄を生産している。モンゴル騎馬軍団は軽装騎兵と重装騎兵
  に分かれている。
  ・軽装騎兵 ・・・・ 左
  ・重装騎兵 ・・・・ 中
  火器が発達によって鎧も変化。右に見るように、分厚い棉や
  絹布地の中に鉄の甲片を仕込み、表面に銅の釘で固定した棉
  甲が誕生する。

モンゴル騎馬軍団.jpg
モンゴル騎馬軍団
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2010年06月24日

●テムジンの四駿四狗(EJ第1646号)

 テムジンの戦いに関する記録(伝記)を読んでいると、テムジ
ンには信頼できる3人の武将がいたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.ジャムカ
           2.ムカリ
           3.ボオルチェ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テムジンとジャムカは宿命のライバルといわれています。テム
ジンとジャムカの部隊は一緒に宿営し、味方として共に戦うこと
を長く繰り返してきたのです。
 しかし、だんだん意見が合わなくなり、ある夜、テムジンは手
勢を連れて、ジャムカの陣営をひそかに去るのです。しかし、次
の朝、テムジン部隊が見たものは、あとに付いてくるかなりの数
の男たちだったのです。
 それは、ジャムカの部隊の兵士たちがテムジンを慕って付いて
きたのです。彼らは、ジャムカとテムジンを比較し、その人物の
違いを見抜いたのです。これにより、テムジンの部隊は労せずし
て、一挙にふくれ上がることになったのです。
 この経験を通じてテムジンは非常に重要な教訓を学ぶことにな
るのです。『モンゴル帝国の戦い』の著者であるロバート・マー
シャルは、この教訓について次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 旧来の族長への忠誠心はつねに条件づきであり、信頼できるも
 のではなかった。『秘史』によると、若きチンギス・ハンの人
 生形成においてもっとも重要だったのは、父の死後、家族が父
 の配下に見捨てられてしまった時期の経験だった。独力で生き
 る道を開拓しなければならなくなったチンギス・ハンが学んだ
 のは、唯一信頼できる支持勢力は彼の個人的資質への心酔者の
 なかから生まれる、ということだった。チンギス・ハンの軍事
 支配の、またその結果としての権力のバックボーンになったの
 は、この一団だった。
    ――ロバート・マーシャル著/遠藤利国訳/東洋書林刊
      『モンゴル帝国の戦い/騎馬民族の世界制覇』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ムカリとボオルチェについてはどうでしょうか。
 成吉思汗を支える側近には「四駿四狗」といわれています。四
駿四狗は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ≪四駿≫ ――― 側近中の側近
     ムカリ ・・・・・・・ ジャライル族
     ボオルチェ ・・・・・  アルラト族
     ボロクル ・・・・・・  フウシン族
     チラウン ・・・・・・  スルドス族
    ≪四狗≫ ――― 忠臣中の猛将
     ジェペ ・・・・・・・   ベスト族
     クビライ ・・・・・・  バルラス族
     ジェルメ ・・・・・・ ウリンカイ族
     スベェディ ・・・・・ ウリンカイ族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「四駿」はテムジンの側近中の側近であり、テムジンが最も信
頼していた将軍です。とくにムカイとボオルチェは四駿の中でも
とくにテムジンに信頼されていたとされています。
 これに対して「四狗」は、四駿と同様に成吉思汗のために戦っ
た将軍なのですが、主として危険な最前線に立って戦っている猛
将なのです。子供の頃からテムジンと行動を共にしたジェルメ、
かつて敵であり、成吉思汗を狙撃したが、許されて部下になった
ジェベ、特に力があったフビライ、最も若く、後にバトゥの西征
などで活躍するスブタイの4人です。ちなみに、フビライは蒙古
帝国の第6代大汗のフビライとは別人です。
 しかし、四狗は、とくにジェベなど、かつての敵であったため
四駿ほど成吉思汗と親しくはなれなかったようで、そのためいつ
も危険な前線を任されていたという見方もできます。
 東半分の覇権を手に入れたテムジンにとって、もはや最大にし
て最後の敵は、北西部を支配しているナイマン族だったのです。
そのナイマン陣営には、テムジンとの戦いに敗れたジャムカをは
じめとするテムジンに恨みを持つ部族の逃亡兵が大量に集結して
いたのです。
 したがって、人数的にはナイマン軍がテムジン率いるモンゴル
軍よりも圧倒的に上回っていたのです。しかし、テムジンはナイ
マンと戦い、雌雄を決しようと考えていたのです。この一戦に勝
利すれば、部族間の抗争に終止符が打たれ、積年の恨みを水に流
すことができると考えたからです。
 テムジンは戦いに備えて、いくつかの準備を行っています。そ
の1つは、既にタタール戦のときに発令し、定着させてきている
軍律のさらなる強化です。
 タタール戦の前に発令した軍律は、それ以降の2つの戦いで、
違反者への厳正にして厳しい処分に課すことによって定着しつつ
あったのをもう一回引き締めたのです。
 タタール戦のさい、この軍律に違反したアルタン、クチャル、
ダリタイの3人は、テムジンの近親者の有力者であったのです。
彼らは、われわれの協力があってテムジンはカンになれたのであ
り、われわれに命令するのはけしからんとして、戦利品を公然と
私物化したのです。
 しかし、テムジンはこれを知ると、ジェベ、クビライの2将軍
に命じて、彼らが勝手に私物化した馬や略奪品をことごとく没収
させたのです。
 テムジンが軍律を厳格化させたのは、既にこの時点でテムジン
がモンゴル統一を考えていたこと、それに人間にとってもっとも
大切なものの一つが「法」の尊重であることを徹底させたかった
のではないかと思われます。    ・・・[義経の謎/16]


≪画像および関連情報≫
 ・テムジンを描いたイラスト
  http://www.juno.dti.ne.jp/~tenchi/syokai/S-Mwb1.html

四駿四狗.jpg
四駿四狗
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2010年06月25日

●酷似している鉄木真と義経の戦法(EJ第1647号)

 源義経が果たして成吉思汗に結びつくかどうか――蒙古側から
の検証をしています。
 テムジンがナイマンを攻撃する準備として最初にやったのは、
部族長会議を開き、軍律を改めて厳格させたことです。部族とし
て「決めたことは守る」ことを徹底化させたわけです。これは、
全ての戦利品は後で公平に分配することにし、全軍が一丸となっ
て敵に当たれるような体制にしたことを意味します。
 続いてやったことは、軍事組織を整えたことです。すべての指
揮官はテムジンが任命することとし、指揮官を兵10人に1人、
100人に1人、1000人に1人任命したのです。それぞれ、
十人長、百人長、千人長というようにしたのです。10進法の軍
隊組織です。
 テムジンはこの指揮官の任命をすべて自分の手で行っているの
です。これによってテムジンは、モンゴル軍全体を完全に掌握し
てしまったのです。この10進法の軍隊組織は、誰にも非常に分
かりやすく、コントロールしやすいのです。テムジンは成吉思汗
になってからも、この軍隊組織を継続して採用しています。
 そして、テムジンは、1204年春にナイマン部族攻撃に踏み
切っています。これまでのモンゴル高原における部族間の戦いは
秋に行われるのが常識とされていたのです。なぜかというと、戦
闘の機動力である馬が夏草を食べて十分体力がついた時期が秋で
あるからです。春は馬が痩せているのです。
 ナイマン王のタヤンカンは、テムジンがいずれ攻めてくること
は分かっていたのですが、まさか春に攻めてくることは予想して
いなかったのです。テムジンはまさにその虚を衝いたのです。戦
争のための十分な備えのできていないナイマン軍は、統制がとれ
ないままモンゴル軍を迎え撃つことになります。
 モンゴル高原での戦いでは馬が不可欠です。そのためナイマン
との戦いのように遠征になると、兵士はそれぞれ替え馬を連れて
戦場に赴いたのです。その数は文献によってさまざまですが、1
兵士当たり平均5頭程度といわれます。このように馬だけでも大
変な数になってしまうわけです。
 ナイマン軍には、その替え馬の準備が整わないまま戦闘に入っ
たので、たちまち馬は疲弊してしまいます。それに対してモンゴ
ル軍は、次々と馬を替えながら、繰り返し波状的に攻撃をするの
で、ナイマン軍はあっという間に追い詰められたのです。
 テムジンはモンゴル軍をナイマン軍からよく見える丘陵に展開
し、ここでひとつの仕掛けを行ったのです。夜間に兵士一人ひと
りに5ヶ所ずつの篝火をたかせたのです。そのときのモンゴル軍
は約5千人と考えられるので、2万5千の篝火が一斉にたかれた
ことになります。
 これを見せられたナイマン軍はあまりの大軍に仰天します。そ
して一部の部族は戦線から次々と離脱をはじめたのです。それを
モンゴル軍の先鋒である4狗――ジュベ、クビライ、ジェルメ、
スプタイ率いる軍隊が追撃したのです。そして、オルホン河東岸
にあるナク崖(現在のラク山)にナイマン軍を追い詰め、激戦の
末、ナイマン軍を破ったのです。1204年夏のことです。
 この攻め方は、義経による一の谷の戦いに酷似しています。一
の谷の戦いというと、ひよどり越えの坂落としがあまりにも有名
ですが、これが成功したのは、その前夜に三原山に陣取る平家勢
を義経が策略を用いて蹴散らしたことにあるのです。
 義経は三原山麓の集落の人々をひそかに退去させ、夜になるの
を待って、火矢を放って無人となった集落に火をつけ、いくつも
の鉦や太鼓を鳴らして、「おう!おう!」と大声を上げさせたの
です。このときの義経軍の兵力は約3千人――その何倍かの兵力
に見せかけたのです。
 闇から迫る、炎、鉦、太鼓――てっきり源氏の大軍が攻めてき
たと思った平氏軍は大混乱をきたし、戦闘を交えぬままその夜の
うちに逃走してしまったのです。こうして、ひよどり越えの坂落
としが行われたのです。
 策略を用いて実際の兵力を何倍かの大軍に見せかける――こう
いう戦法を義経は得意としたのです。彼は屋島の戦いでも同じよ
うなことをやっています。
 暴風雨をついて阿波(徳島)勝浦に上陸した義経軍150騎は
起伏の激しい道程を丸一日かけて馬で踏破し、海上からの襲撃に
備えている平氏軍の背後から襲ったのです。しかし、このとき義
経軍はわずかに150騎であり、大軍を擁している平氏には勝て
ない――こう考えた義経は、屋島の周辺の村から極秘のうちに牛
を集め、そこに火を放ったのです。
 驚いた牛は一斉に走り出したのです。義経軍はそれを機に出撃
したのです。そのざわめきを源氏の大軍と勘違いした平氏軍は、
われ先に海上に停泊させていた船に逃げ込んだため、義経軍は少
ない人数で平氏軍に圧勝しているのです。テムジンの戦法は、こ
の義経のそれと酷似しているといえます。
 さて、勢いに乗ったテムジン率いるモンゴル軍は、ナイマンの
本拠のあったアルタイ山麓を攻撃して平定し、秋になるとセレン
ゲ谷のメルキト部族を攻撃して滅ぼしています。1205年には
逃げたメルキトの首領トクトアを追ってイルティシュ河を攻め、
遂にモンゴル高原において、テムジン率いるモンゴル軍にとって
敵はなくなってしまったのです。
 このナイマンとの戦いで捕虜にしたのがタタトンガなのです。
テムジンは征服した部族の中で、学者や職人など特殊技能を持つ
人物を非常に大事に扱い、国づくりに役立てています。テムジン
はタタトンガがウイグル文字に精通していることをよく知ってお
り、彼にモンゴル文字を創らせているのです。
 それまでモンゴル人は文字を持たなかったし、その必要性を感
じていなかったのです。テムジンは中央アジアに住むウイグル族
が使っていた古代文字を基礎にして、タタトンガにモンゴル文字
を考案させたのです。この「文字を書く」ということこそ、成吉
思汗が遺した最大の遺産といえます。・・・[義経の謎/17]


≪画像および関連情報≫
 ・白石典之新潟大学人文文学部助教授は、テムジンの侵略ルー
  トは、敗走者を追ったというよりも、鉱山確保の意味があっ
  たのではないかと推測している。アルタイ山脈、セレンゲ谷
  はいずれも鉄や銅などの鉱山のある場所である。
  図は、白石典之著、『チンギス=カンの考古学』より。同成
  社刊。

テムジンの侵略ルート.jpg
テムジンの侵略ルート
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2010年06月28日

●旗の色と紋所の一致(EJ第1648号)

 成吉思汗がきちんとしたかたちで歴史上に登場するのは、テム
ジンがナイマンを打ち破った後の1206年のことです。テムジ
ンは、この年にクリルタイと呼ばれる長老会議を開催し、自らジ
ンギスカンに即位しているのです。このときの模様を『モンゴル
秘史』では、次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かようにして毛氈の幕帳(とばりや)に住まいせる国民をば、
 ことごとく服(まつ)ろわせて、寅の歳、オナン河の源に集い
 して、九つの脚ある白いとくをうち立てて、大クリルタイを開
 き、チンギス・カハンの称号をここにおいて正式に捧げ奉った
 のであった。「将軍」のムカリには、「国王」の名をそのとき
 賜った。
  ――『モンゴル秘史/2ジンギス・カン物語』、村上正二訳
                      東洋文庫209
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「寅の歳」とは、丙寅の1206年のことですが、何月
であったかは、はっきりしていないのです。春という説と冬とい
う説があります。
 クリルタイを行った場所は「オナン河の源」とありますが、こ
れにも異説があり、これについては改めて述べます。問題なのは
「九つの脚ある白いとく」の部分です。なお、「とく」の字は非
常に難しい字であり、ウェブでは表示されませんので、かなで表
現しています。
 訳者の村上正二氏によると、「九つ」とはモンゴルの吉数であ
り、「白い」は聖なる色をあらわすそうです。「とく」とは旗と
いうよりも幟のようなもので、その尾が9つに割れている――九
つの吹流しの尾をつけた白い旒旗であると考えられます。つまり
これは「九旒の白旗」を意味しているのです。
 ドーソンの『蒙古史』――その該当部分は現時点でまだ入手で
きていないのですが、高木彬光氏の本では、次のように記述され
ているとあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (テムジンは)興安嶺上に麾下に従う各種族を呼び集め、総会
 議を召集し、九旒の白旗を嶺の上にひるがえした。
         ――ドーソン著、『蒙古史』上巻/岩波文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもなく「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎
判官を意味するものと考えられます。それに紋所の笹竜胆もから
んできているのです。戦術も同じ、戦い方もそっくり、旗印は九
旒の白旗、紋所は笹竜胆――すべて源義経と一致するのです。
 さらに分析を進めます。それまで将軍であったムカリには国王
の称号を与えたとあります。ムカリは四駿の一人であり、テムジ
ンにとくに重用された武将です。既出の佐々木勝三氏の本では、
次のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この即位のとき、功績のあった自分の武将95人をそれぞれ千
 戸の長に任命している。とくに功績の大きかったボオルチェと
 ムカリには万戸の支配権を与えた。十戸の長から、万戸の長ま
 で、ピラミッド型の統一組織がここに完成したのである。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既にEJ第1647号で述べたように、テムジンはナイマンを
攻める前に10進法で軍事組織を作っていましたが、このときの
クリルタイではじめて「万人長」を置いたわけです。
 それはさておき、テムジンが「九」という数字を非常に重視し
ていたことは、各書に出ています。『元朝秘史』には次の記述が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (成吉思汗が)西夏に遠征したとき、敵将ブルカンは成吉思汗
 のもとへ謁見に来て、黄金の仏像をはじめ、金と銀の皿を各九
 個、男児と女児を各九人、去勢馬とラクダを各九頭、九の数に
 合わせて献上した。         ――『元朝秘史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、万人長に任命されたムカリに関しては、興味ある話があ
るのです。それは「コオンゴアに関する話」です。義経=成吉思
汗説の研究家の一人である丘英夫氏は、その自著において、次の
ように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『元史』の「ムカリ伝」によると、テムジンは、昔、コオンゴ
 アに命を助けられたんだ。ムカリは、テムジンの恩人であるコ
 オンゴアの第三子なんだよ。コオンゴアはムカリの父親なんだ
 ね。ジンキスカンは、ムカリのお陰で帝位につくことができた
 と言ったあと、ムカリを1万戸の長にして、その上にムカリに
 王位を与えたのだよ。―― 丘英夫著、『義経はジンギスカン
 になった!/その6つの根拠』 アーバンプロ出版センター刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の丘英夫氏は、音韻学を専攻されており、モンゴル文字に
詳しい人です。本書は、2002年に叢文社から『新ジンギスカ
ンの謎』として出版されていますが、修正・増補され2005年
5月にアーバンプロ出版センターから出版されています。本の内
容は何人かの対話形式を採用しており、高木彬光氏の本のスタイ
ルに似ています。
 さて、ムカリという人物は成吉思汗の四駿の中心人物なのです
が、実際にどういう人物なのかについては詳しくわかっていない
のです。しかし、『元史』では、「コオンゴアの息子」であり、
テムジンはそのコオンゴアに命を救われているとしています。
 一体コオンゴアとは何者でしょうか。ムカリとはどういう人物
なのでしょうか。これについての分析は、明日のEJで行いたい
と思います。           ・・・[義経の謎/18]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗に即位するテムジン
  成吉思汗を描く画家たちは、モンゴル族が創建した中国やイ
  ランの宮廷風俗のなかに、皇帝やスルタンの姿で王座に座る
  成吉思汗を描くことが多かったのである。
  ――ジャン=ポール・ルー著/杉山正明監修/田辺希久子訳
       『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社刊より

成吉思汗に即位するテムジン.jpg
成吉思汗に即位するテムジン
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2010年06月29日

●コオンゴアとムカリの正体に迫る(EJ第1649号)

 コオンゴアの話です。コオンゴアはテムジンの命の恩人です。
ムカリはそのコオンゴアの第3子です。この事実から何かを連想
しないでしょうか。
 そうです。奥州の藤原氏です。源義経の命の恩人といえば、藤
原秀衡しかいないと思うのです。鞍馬山に押し込められていた遮
那王――義経の亡命を受け入れ、父代わりに育てたのは秀衡その
人であったからです。
 そして、義経が頼朝に追われ、奥州に逃げ込んできたとき、そ
れを温かく迎え入れたのも秀衡なのです。もちろん、戦国時代の
ことですから、単なる親切心だけではなく、秀衡なりの緻密な計
算があってのことですが、義経から見れば、秀衡は命の恩人その
ものといえます。
 義経主従が平泉に到着したとき、秀衡は義経を丁重に出迎えて
いるのですが、そのときの模様を『義経記』を基にして描くと次
のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「このように零落したわが身を、かくまで丁重にお出迎えいた
 だき、御礼の言葉もございません」。このように義経がいうと
 秀衡は次のように答えている。
 「なんの、なんの。わしは判官殿を主君とも息子とも思ってお
 ります。この秀衡の目の黒いうちは、判官殿に指一本触れさせ
 るものではありません」        ――『義経記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時点において、秀衡は平氏を滅ぼした源氏が京都に上がっ
て朝廷に戦勝報告をし、しかるべき官位を得て政治を動かしてい
くに違いないと見ていたのです。つまり、源氏は平氏にとって代
わり、平氏と同じようなことをやると考えていたのです。
 そうであればあわてることはないと秀衡は考えたのです。豊富
な経済力にものをいわせて、朝廷と公家をコントロールして、奥
州の主張を遠隔操作すればよい――それは平氏のときに秀衡自身
がやってきており、成功させてきているからです。
 しかし、その時点で秀衡は頼朝の本心が読めなかったのです。
頼朝は平家を倒しても一向に京都に上る気配を見せず、最初に手
をつけたことは、守護・地頭の全国への配備だったのです。そし
て、義経追討と称して各地で司法警察権と兵糧米の徴収権を行使
したのです。それでいて、本気で義経を捕まえようとしない――
何かおかしいと秀衡は考えたのです。
 つまり、頼朝は武士の支配する新しい世の中を作ろうとしてい
たのです。これに秀衡は気がつかなかったのです。これは知略家
である秀衡としては、千慮の一失というべきでしょう。
 しかし、その時点で頼朝の勢力は東国から北陸の一部ぐらいま
でしか、確かなものになっていなかったのです。そういうときに
義経が尾羽打ち枯らして飛び込んできたのです。
 頼朝の意図を理解した秀衡は、遅まきながら朝廷と連携して頼
朝の勢力が畿内・西国に伸びるのを防ぎ、鎌倉幕府内部にも手を
突っ込むことを考えていたと思われるのです。そのために、名将
義経は使える――秀衡はそう考えていたからこそ、義経を迎え入
れたのです。
 しかし、その肝心の秀衡が不治の病いにかかってしまったので
す。「もはやこれまで」と考えた秀衡は、かねてから、金の運搬
ルートとして確保してあった北方ルートを義経と泰衡に教え、一
族の一部を義経とともに平泉から落ちのびさせ、時期を伺う作戦
に切り換えたのではないかと思われます。
 おそらく当時未開の地であった蝦夷地まで落ちのびることがで
きれば何とかなる――そう考えていたと思います。いくら秀衡で
も、義経一行が大陸に渡って成吉思汗になるとまでは考えていな
かったはずです。
 さて、その秀衡には、長男の国衡、次男の泰衡、三男の忠衡と
いう3人の子供がいるのです。なぜ、泰衡に家督を継がせたかと
いうと、国衡は側室の子であることと、国衡は義経とそりが合わ
なかったからではないかと思います。
 しかし、泰衡は間違いなく父の言いつけを守ると秀衡は信じて
家督を継がせ、すべての計画を義経と泰衡に伝えて、それを忠実
に実行させたのです。
 このように考えると、コオンゴアは秀衡ではないかと思われる
のです。もし、コオンゴアを秀衡と考えると、その第3子は忠衡
ということになります。つまり、ムカリは藤原忠衡ということに
なります。「朕はムカリのお陰で帝位につくことができた」とい
う言葉の意味は、ムカリ=藤原忠衡と考えると、理解できると思
います。
 既に述べているように、忠衡は約100騎を従えて義経につい
て海を渡っていると思われる記録が残っています。そして、義経
一行が落ちのびるまでの時間稼ぎをかねてからの計画にしたがっ
て泰衡は忠実に果たしたのです。
 既に述べたように、藤原家の子孫が、郎従河田次郎に殺され、
頼朝によってさらし首にされた泰衡の首級を忠衡の首と偽って首
桶に収め、平泉金色堂に安置されている秀衡の棺の近くに置いた
のは、父の言いつけを守って立派にその務めを果たした泰衡をね
ぎらってのことと思われます。そして、この藤原家の秘密は、実
に800年以上もの間、守りぬかれたのです。
 国王となったムカリは、金を攻略している最中の1223年に
54歳で亡くなっています。一方、成吉思汗はその4年後の12
27年に66歳で死亡しているのです。そうすると、ムカリが亡
くなったとき成吉思汗は62歳であり、ムカリは成吉思汗よりも
8歳年下ということになります。ところが、これは義経と忠衡の
年齢差と一致するのです。これは、驚くべきことです。
 実はオナン河のクリルタイでムカリとともに1万戸をまかされ
たボオルチェも義経と共に大陸に渡った日本の武将という説もあ
るのですが、こちらは例証に乏しく、追求が困難であるので、あ
きらめることにします。      ・・・[義経の謎/19]

≪画像および関連情報≫
 ・作家・高橋克彦氏のインタビューより
  泰衡という人物が、これまで言われるように凡庸ではなかっ
  たと思われるようになったのは、義経北行伝説からです。こ
  の北行伝説にリアリティが出ると、はっきりしてくるのは、
  泰衡が義経を殺していないという事実なのです。そうなると
  殺していない義経のために、なぜ泰衡は殺したような言動を
  したかが問題となってくるのです。――『歴史読本/奥州藤
           原氏と源平争乱』1994年3月号より

高橋克彦氏.jpg
高橋 克彦氏
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2010年06月30日

●なぜ、成吉思汗駅ができたか(EJ第1650号)

 1206年に成吉思汗が即位したとき、95人の武将に千人長
を命じています。成吉思汗はこの千人長を非常に重視しており、
任命するさいには、さまざまな情報を集めて慎重に選任したとい
われています。
 もし、成吉思汗が源義経であるとすると、任命された千人長の
中には、日本人やアイヌ人の武将もいたと考えられるのです。大
陸に渡った義経の軍勢には、藤原忠衡、大河兼任率いる軍勢にア
イヌの軍勢も加わっていたからです。
 それらの千人長の集落は、現在のロシア、モンゴル、中国など
に点在していたはずです。これらの集落には、すべてがそうであ
るとは限りませんが、千人長である各武将の名前や出身地などの
名称がつけられるケースは少なくないと思われます。
 かつての北海道の開拓地にも、仙台藩がくれば伊達とか白石と
いう名前がつけられていますし、鳥取とか広島という地名もある
のです。このように、出身地の名前やとくに意味のある名称がつ
けられる可能性は高いといえます。
 現在の中国・黒龍江省の北西部に「チチハル」という都市があ
ります。そのチチハルの北西部に「成吉思汗」という名前の駅が
あるのです。これは、ロシアが東支鉄道を建設したとき、もとも
とあった名前をそのまま駅名にしたというのです。しかし、駅名
の由来などについては、中国の文献にはないそうです。
 小谷部氏は「成吉思汗」という名前がついているので、何かあ
るはずだと考えて、実際に現地を訪問しています。ロシアの案内
地図には城址があると書いてあったからです。
 しかし、現地の住民たちは「成吉思汗」という名前は一切知ら
なかったというのです。城址について尋ねると「クローの城であ
る」と答えているのです。小谷部氏はこれは「九郎判官の城」、
すなわち、義経の城ではないかと考えたのです。
 小谷部氏はこのことを本に次のように書いています。あえて原
文をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 此地の住人に成吉思汗と云うも、更に之を知る者なく、其れは
 此処の地名なりと答う。此土地の古城址拠りたる者の武将の名
 を、何というやと、土地の長老に訊うに、クローなりと言う。
 余之を聞き、愕然として驚き、而して又た成吉思汗の都址探検
 の徒爾ならざりしを心に感謝せり。
   ――小谷部全一郎著、『成吉思汗は源義経也』、冨山房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者の中島理一郎氏は、「小谷部氏の愚を憐
まない訳にはいかない」と前置きしたうえで、小谷部氏の聞いた
という「クロー」は部族の長を意味する「グルハン」のなまりに
過ぎないことを強調し、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏が名も無い一酋長の遺跡の上に立って、その辺を成吉
 思汗の都址と思っていたなどとは、とても他には見られない図
 である。『余之を聞き、愕然として驚き、而して』その後につ
 ぐべき言葉を知らぬ。
                      ――中島利一郎
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この反論を読んでどのように考えられるでしょうか。頭から相
手を馬鹿にし、加えて小谷部氏の著作のことばである『余之を聞
き、愕然として驚き、而して』と使って反論を結んでいる点は相
手に対して失礼であると考えます。彼はこれ以外にも小谷部氏に
対し、児戯に等しい妄説、珍説、粗忽屋などの言葉を使い、小谷
部氏を罵倒しているのです。
 なぜ、源義経=成吉思汗説になると、歴史学者はかくも熱くな
り、圧力をかけようとするのでしょうか。事実はひとつしかない
のです。中島氏もこのようにアタマから否定せず、小谷部氏のよ
うに実際に現地に行って事実を確かめる――この姿勢が必要であ
ると考えます。
 「源義経=成吉思汗」がウソだというのであれば、それがウソ
であるという証拠を示すべきです。状況証拠を含む証拠を何も示
さず、史書をあくまでも正しいとして、源義経=成吉思汗説をア
タマから否定して、そういう説を唱える者を社会的に抹殺するの
は間違いです。逆に状況証拠を数多く示しているのは、「源義経
=成吉思汗」肯定説の方であると思います。
 ところで「グルハン=酋長」説に関してはこういう意見もあり
ます。「グルハン」を地元民が発音すると「グラン」と聞こえる
というのです。「グラン」と「クロー」を聞き間違えることはな
いというわけです。
 問題は、それではどうしてこの地に「成吉思汗」という名前が
残っているかです。
 小谷部氏は、実際に成吉思汗駅周辺を訪れてみたことにより、
成吉思汗が成吉思汗に即位したのは、『元朝秘史』にあるように
「オノン河の源」ではなく、この成吉思汗駅のあたりではなかっ
たかという説を出しています。
 オノン河の源というのはハタ山の山頂に当たるのです。即位の
さい、成吉思汗は95人の千人長を任命していますが、その何倍
かの人間がそのときその場所に集結したことを意味します。山頂
にそれだけの人が集まれるとは思えないし、当然馬や食料の羊を
伴って行くことになるので、困難を極めるはずです。
 狼が襲ってくる危険もあるし、雨が降って雷が鳴ったとすると
馬や羊は一斉に林の中に逃げ出して探しようがなくなる――とこ
ろが、成吉思汗駅の周辺、とくにクローの城址付近には、それだ
けの人馬や羊が集まれる場所があるのです。そのため、成吉思汗
の即位の場所はここではないかと考えたのです。
 源義経=成吉思汗説をとる人は、非常によく現地踏査を重ねて
います。それに対して反対派の学者は、史書ばかりを重んじ、現
地を調べようともしていないのです。・・・[義経の謎/20]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗の即位の場所はどちらか
  ドーソンの『蒙古史』によると、「興安嶺上に麾下に従う各
  種族を呼び集め」とあるが、この場所に合うのは、成吉思汗
  駅の周辺の方である。

即位の場所を探る.jpg
即位の場所を探る
posted by 管理者 at 03:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 義経の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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