2010年04月01日

●ヴァチカン市国の誕生(EJ第2243号)

 イタリアの地図を見ていただくと分かりますが、サルディニア
島というのはかなり大きな島です。
 その島の港からガリバルディ率いる赤シャツ隊は、2隻の船に
乗ってシチリア島を目指したのです。そのシチリア島からナポリ
王国軍を追い払った赤シャツ隊はその勢いで、対岸のイタリア半
島の先端に上陸、半島を北上し、ナポリ王国を攻め、滅ぼしてし
まったのです。
 「いざ、ローマへ」――ガリバルディ率いる赤シャツ隊はロー
マを目指して北上します。ローマは、ちょうどイタリア半島の中
央部にありますが、そこはローマ教皇の領地になっていて特殊な
場所です。ガリバルディは、そのローマ教皇領に攻め込もうとし
て北上したのです。
 カブール首相は「これはまずい」と考えたのです。何しろロー
マは教会の領土なので、単純に武力で征服するわけにはいかない
のです。というのは、ローマ教会の信者はイタリア人だけでなく
全ヨーロッパにいて、ローマには特別な感情を持っており、ここ
を武力征服してローマ教皇を敵に回せば、国際問題に発展しかね
ないと考えたからです。しかも、フランス軍もローマに駐留して
おり、武力衝突も懸念されたのです。
 「もし、ガリバルディが教皇領に攻め込むとフランスとの武力
衝突が起きる」――これは絶対に阻止しなければならないと、カ
ブール首相は考えたのです。しかし、自分ひとりでは、ガリバル
ディの進撃を止めることはできないと判断し、サルディニア国王
エマヌエーレ2世自身に出陣を願い、サルディニア軍を率いてイ
タリア半島を南下したのです。
 エマヌエーレ2世は、ナポリの北にあるテアノという場所まで
やってきてガリバルディと会見します。ガリバルディは、この直
前に行われた住民投票で、ナポリ王国のサルディニア王国編入が
決まったことを王に報告し、自分が占領した土地をすべて王に献
上し、ローマ進撃の許可をもらおうとしたのです。
 しかし、王はこれを許さず、ガリバルディの義勇軍をサルディ
ニア正規軍に編入してしまったのです。王はガリバルディに冷た
かったのです。おそらく青年イタリア党出身で民衆に人気のある
ガリバルディは、危険人物に見えたのでしょう。
 それを察知したガリバルディは、これを機に政治の表舞台を去
り、カプレラ島という小さな島で畑を耕しながら余生を送ったと
いわれます。
 この思いもかけないガリバルディの活躍によって、ローマ教皇
領とオーストリア支配下のヴェネツィアをのぞいて、イタリアの
大部分がサルディニア王国によって統一されたのです。そして、
1861年にエマヌエーレ2世は、1861年イタリア王国の成
立を宣言し、初代イタリア国王に即位したのです。
 しかし、ローマ教皇領だけは簡単に解決できなかったのです。
1870年にイタリア軍はローマを占領し、住民投票で教皇領は
イタリア王国に併合されることになります。同時に、ローマ市街
も王国へ明け渡し、残る教皇領は1万8000平方キロになった
のです。
 しかし、教皇ピウス9世は王国側が提案したヴァチカンの「保
障法」を拒否し、イタリア政府に関わる者すべてを破門するとい
う厳しい処置をとったのです。このため、ヴァチカン独立までの
間、イタリア国家と教皇庁は鋭く対立することになります。ヴァ
チカンはカトリックの総本山であるため、この対立はヨーロッパ
全体を巻き込む深刻な問題となり、それがゆえに「ローマ問題」
と呼ばれたのです。
 教皇領を奪われたローマ教会は、深刻な財政難に陥っていたの
です。それまで教皇領から得ていた収入を絶たれたことが原因で
すが、これを救ったのはあのムッソリーニです。
 月日が流れて教皇ピウス11世が即位すると、イタリア政府と
教皇庁は大きく歩み寄りを見せはじめます。1929年2月11
日、当時のイタリア政府の政権を担っていたムッソリーニは、教
皇庁の権利を定めた「ラテラノ(ラテラン)条約」を提示します。
 その内容は、教皇はイタリア王国を承認し、その代わりにイタ
リア王国は教皇主権のヴァチカンを独立国と認め、さらにカトリ
ックがイタリアにおける唯一の宗教であることを確認する、とい
うものです。条約は受け入れられ、ローマ市内にある世界最小の
ヴァチカン市国が誕生したのです。イタリア統一から実に59年
後のことなのです。
 ヴァチカンの歴史をこのように詳しく見てきたのは、ローマ・
カトリック教会が中世から現代までのさまざまな時代の政治とい
かに結びつき、その権力と組織を拡大・強化してきたかを認識す
ることが目的です。
 ヴァチカンは、東京ディズニーランドよりも小さい地域ではあ
るものの、主権を持つひとつの国家であり、ひとつの宗教団体と
してのレベルを超えています。ヴァチカン市国の国家予算は20
03年度のデータですが、歳入は277億円、歳出は290億円
になっています。
 基本的には利益追求の産業活動は行っていないので、「ペテロ
の募金」と呼ばれる世界中のカトリック信徒からの募金や切手の
販売、ヴァチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などの収入
を「宗教活動協会/IOR」を経由して投資運用することによっ
て国家財政を賄っているのです。それに独自通貨を持たないので
以前はリラを使っていたのですが、2002年1月からは、ユー
ロを使っています。
 実はラテラノ条約によってヴァチカンは巨額の資金を手にして
いるのです。イタリア政府は条約調印とともに教皇庁に対して、
7億5000万リラを支払うとともに額面10億リラの整理国債
を交付しているのです。これによってヴァチカンが獲得した金銭
は当時のレートで8500万ドル、現時価に換算しておよそ10
億ドル――1500億円です。これらの資金の運用に関してはい
ろいろなことがいわれています。−[ニュートンの予言/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義のようだが、微妙に同
  義ではない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁
  長官がが存在するが、ローマ教皇庁の実質的な責任者は国務
  長官が務めている。国務長官はバチカン市国の外交部門の最
  高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国
  委員会が持っている。委員会のメンバーの任期5年となって
  いる。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジュセッペ・ガリバルティ.jpg
ジュセッペ・ガリバルティ
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2010年04月02日

●『死海文書』はどのような文書か(EJ第2244号)

 キリスト教を研究していけば行くほど、イエス・キリストの具
体像が見えなくなっていくことに気がつきます。クリスチャンで
はない一般の人は、「キリスト教はイエス・キリストの興した宗
教である」と単純に考えていますが、どうやら違うようです。
 結論を先にいうようですが、ニュートンは次のようなおどろく
べきことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 獣の国と獣の宗教が終わりの日に打ち倒され、そしてイエスは
 再臨する。ここでいう獣の国は西ローマ帝国。そして獣の宗教
 とは三位一体のキリスト教。これが鉄のトライアングルを組む
 ときこそ終わりのはじまりの日なのであると。−−ニュートン
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 断っておきますが、これは過去の話ではなく、これから起きる
話なのです。西ローマ帝国の系譜を引く三位一体のキリスト教と
いえば、ヴァチカンのこと。そのヴァチカンがイエスが再臨する
日に打ち倒されるといっているのです。そのため、キリスト教を
中心にローマ帝国の興亡を追い、どのようにしてヴァチカンが興
ったかを見てきたのです。
 この予言を唱えているのがいまひとつ正体のはっきりしないノ
ストラダムスのような予言者ではなく、世界的な科学者として名
高いニュートンなのですから、荒唐無稽な妄言として片付けられ
ない緊張感がそこにあります。
 謎を解く鍵は、あの「死海文書」なのです。この死海文書をカ
トリック教会は必死になって隠そうとしてきたのです。なぜ、隠
そうとしたのかというと、それはキリスト教会の存立の基盤を根
底から崩壊させる起爆力を秘めていたからです。
 イエスの誕生当時(紀元前6年/推定)、イスラエルに存在し
た最大の勢力は、ユデアの丘にあったクムラン宗団であったので
す。人数こそ2OO人程度でしたが、のちの世界に対するその影
響力は絶大なものがあったからです。
 クムラン宗団は既に述べたようにエッセネ派です。このクムラ
ン宗団とナザレ教徒、エルサレム教会といわれるものは、いずれ
も同じ集団なのです。クムラン宗団の源は古代エジプトにあると
いわれます。
 イエスは紀元27年から3年間、クムラン宗団に参加していま
す。そのため、この死海文書にはイエスという男の真の姿が正確
に記述されているのです。
 「死海文書」の公表をヴァチカンが差し止めているという疑惑
を発表したのは、マイケル・ペイジェントとリチャード・リーの
共著の次の本です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本は大型本349ページに及ぶ大書ですが、「死海文書」
の研究においてヴァチカンがそれをどのように隠蔽し、いかに研
究を妨害したかについて詳細に記述されています。
 本書は「死海文書」を調査する学者のプロジェクトである「國
際チーム」の中には多くのヴァチカン関係者がいて、ヴァチカン
の教義にとって不都合なものがあれば、その国際チームがほとん
ど潰して隠蔽してきた事実が明らかにされています。
 この國際チームのメンバーの選任の権限を持っていたのは、ロ
ラン・ドゥ・ヴォーという名の神父だったのです。彼と面識のあ
った人にいわせると、忘れられない印象を与える人であり、いく
分“変人”であったというのです。
 彼は、1903年にパリで生まれ、1925年から聖シュルピ
ース神学校で神父になるための勉強をして、その間にアラビア語
とアラム語をマスターしています。1929年にドゥ・ヴォーは
ドミニコ修道会に入り、その修道会の後援によってエルサレムの
聖書学院に派遣、やがてその学院の学院長を勤めた経験を持つ聖
書の専門家です。
 このドゥ・ヴォー神父によって、ほとんどの委員が選任された
のですが、このチームに専門家ではないアウトサイダーの委員と
して参加していた一人にエドモンド・ウイルソンという米国文学
および文化批評家がいたのです。彼は、この國際チームについて
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『死海文書』によって惹き起こされた諸論争を研究始めるや否
 や、ある「緊張」に気づくようになる。・・・だが、その緊張
 は、最初大いに論じられた年代の問題や、年代決定そのものに
 ついての争いに起因しているのではなく、おそらくその背後に
 純粋に学問的ではない他の不安に起因しているのである。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウイルソンは、國際チームの学者――彼らのほとんどはキリス
ト教の聖職者であったり、ユダヤ教のラビ的伝統の訓練を受けた
人たちであったが、クムランの資料を研究するのに際して、学者
としてではなく、彼らの種々の宗教的信念によって、多くの制約
を受けているのではないかと疑うようになったといっています。
 このエドモンド・ウイルソンは、1969年になって『死海か
らの巻物』という書物を出版しています。この本は、今日にいた
るまで、アウトサイダーの観点によるクムラン文書についての基
本的にして、最もポピュラー研究書の一つであり、貴重な文献と
なっているのです。
 それでは、ヴァチカンはなぜ「死海文書」を隠そうとするので
しょうか。これについては、もう少し周辺の事情を調査してみる
必要があります。      ――[ニュートンの予言/22]


≪画像および関連情報≫
 ・『死海文書の謎』の書評より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「銅の巻物」で述べられた財宝は、侵入してくるローマ軍よ
  り守るために神殿から運び出されてきた。また、その宝の一
  部と考えられるバルザム油が見つかったこと。「銅の巻物」
  が発見された洞窟のちょうど北にある洞窟で水差しが見つか
  り、それはヘロド王とその後の彼の後継者の時代に由来する
  品であった。棕櫚の繊維の保護カバーで守られ、中には濃い
  赤い油が入っていた。科学的分析では、今日知られているい
  かなる油とも違うもので、一般にバルザム油と信じられてい
  る。バルザム油は伝統的にイスラエルの王に注がれるための
  貴重なものであるが、バルザムの木はほぼ1500年前に絶
  滅しており、確認されていない。これは、クムラン共同体が
  砂漠に孤立した存在ではなかったことを示している。
   ――http://library666.seesaa.net/article/2371988.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

『死海文書の謎』.jpg
『死海文書の謎』
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2010年04月05日

●『死海文書』をめぐる暗闘(EJ第2245号)

 「死海文書」を研究する國際チームの学者の一人にジョン・M
・アレグロ――英国代表という学者がいます。彼は言語学者で、
特別な宗教的関係を持っていない学者の一人であり、聖書の解釈
を担当していたのです。彼もヴァチカン系の國際チームの委員が
資料や事実を隠蔽しようとすることに強くに反発したのです。
 1956年のことですが、アレグロはイギリス北部のラジオ番
組で、「死海文書」に関して3回の講話を行っています。最初の
2回の講話は大した反響は呼ばなかったのですが、3回目の講話
は「ニューヨークタイムズ」に取り上げられ、それが以後かなり
のコダゴタが続く原因になります。
 その「ニューヨークタイムス」の見出しと記事――1956年
1月30日――は次のようなものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエス・キリストの誕生の百年以上も前に存在していた極端な
 ユダヤ教のセクトの諸文書のなかに、キリスト教の儀礼や教養
 の或るものの起源が見出されうる。『死海文書』という「信じ
 難いほどの」文書群について、7人の学者から成る國際チーム
 の一人、ジョン・アレグロが、こういう解釈を下した。・・彼
 は・・昨夜の放送で、「主の晩餐」や「主の祈り」や新約聖書
 のなかのイエスの教えの少なくとも一部が、クムラン共同体に
 帰されうると述べた。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに関してドゥ・ヴォー神父をはじめとするヴァチカン系の
國際チームの委員たちは署名入りで、次のような反論文書を「ザ
・タイムス」に発表したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれが仕事をしているパレスティナ考古学博物館に現在存
 在しているもののほか、アレグロ氏の自由になるような未出版
 のテクスト原本など存在していない。アレグロ氏の放送から引
 用された記事が公表されたが、われわれは原本のなかにアレグ
 ロ氏の「発見」なるものを見つけることはできない。(中略)
 アレグロ氏がある報告のなかで言ったとされるような「ナザレ
 のイエスがぴったり当てはまるような明瞭なエッセネ派」など
 は存在しないのである。彼がテクストを読み間違えたか、ある
 いは資料によっては支持されない一連の憶測を彼がでっち上げ
 たかであると、われわれは確信する。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著/高尾利数訳
             ――『死海文書の謎』より 柏書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 このドゥ・ヴォー神父らの署名入りの反論を契機にカトリック
教会の宣伝機関はフル回転をはじめたのです。アレグロの品位を
落とすための誹謗中傷がはじまったわけです。
 1956年6月の「アイリッシュ・ダイジェスト」に「『死海
文書』についての真実」と題された記事がイエスズ教会の注釈者
によって公表され、アレグロとウイルソンを攻撃し、次のような
途方もない声明を明らかにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 巻物が、紀元前2OO年頃からキリスト教の時代まで、ユダヤ
 人の間に広がってきた諸教義についての知識に付け加えるもの
 は驚くほど僅かである。
          ――「『死海文書』についての真実」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そうこうしているうちにアレグロはもうひとつの論争に巻き込
まれたのです。それは1952年にクムランの洞窟から発見され
た「銅の巻物」なのです。國際チームはなぜかこの巻物について
はあえて3年半もの間、手をつけなかったのです。
 しかし、アレグロは自分が管理していた2つの断片について、
マンチェスター工業大学のH・ライト・ベイカー教授の協力を得
て、翻訳に取りかかったのです。ところが、その内容は途方もな
いものであり、アレグロはそれを秘匿したのです。それは、エル
サレムの神殿の宝物や諸文書が埋められている秘密の場所を示す
リストを含んでいたからです。
 ドゥ・ヴォー神父と國際チームは、この「銅の巻物」の内容の
公開に危機感を感じていたのです。だからこそ、あえて手をつけ
ないでいたのです。その内容については、それが宝物のありかを
示すものであるらしいという情報は把握していたのです。
 ヴァチカン系の國際チームの委員たちは、実際に何らかの宝物
が出てきてしまうと、それがイスラエル政府の注意を喚起し、彼
らがその所有権を主張することを恐れたのです。
 しかし、アレグロは巻物についてBBCで映像化することにし
その制作を進め、1957年末までに完成させます。しかし、こ
の番組は1959年まで放映されることはなかったのです。カト
リック教会の圧力によって放映が延期されたのです。これについ
て、アレグロはこれに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らはまたもややらかしたのです。BBCは巻物に関するテレ
 ビ番組の放映をこれで5回引き延ばした。ドゥ・ヴォー神父は
 巻物の資料をコントロールするためなら何事も辞さないのだ。
 どうにかして彼を現在の支配的地位から外さねばならない。私
 は確信している。ローマ・カトリック教会の教義に影響を与え
 るようなものが何か出てきたら、世界はそれを決して目にする
 ことはないであろうと。ドゥ・ヴォーは、最後に残った手段を
 使って、それらを全部ヴァチカンに送り、隠すか破壊するかし
 てしまうだろう。
 マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これが原因でアレグロは國際チームの委員を解職させ
られてしまいます。     ――[ニュートンの予言/23]


≪画像および関連情報≫
 ・エッセネ主義について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  われわれが、エッセネ主義というものを、例えば排他的に死
  海のグループと同一のものとするようなあまりにも狭い定義
  を下すのではなく、当時広がっていた反エルサレム、反ファ
  リサイ主義の非妥協的な運動の一般的叙述と理解したならば
  どうであろうか。キリスト教が生まれてきたのは、そのよう
  な「エッセネタイプの」ユダヤ教からであったのである。
    ――マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著の
                        前掲書より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・アレグロ.jpg
ジョン・アレグロ
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2010年04月06日

●イエスはエッセネ派である(EJ第2246号)

 「死海文書」をめぐる一連の動きを調べていくと、ヴァチカン
――ローマ・カトリック教会は、なぜ「死海文書」を隠蔽しよう
とするのか、不思議に思います。何かを隠そうとするときは、そ
れが公表されたら困ることがあるからです。「死海文書」には、
カトリック教会の困る何が記述されていたのでしょうか。
 イエスがクムラン宗団に属していたことは、はっきりしている
のです。その当時ヨハネ――バプテスマのヨハネは、ガリラヤ湖
に接したヨルダン川で洗礼を施していたのです。
 ヨルダン川での水による洗礼が、当時としては画期的なもので
あったことは、「ダ・ヴィンチ・コード」をテーマとして取り上
げていたEJ第1906号などで詳しく書いているので、次のU
RLを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
http://electronic-journal.seesaa.net/article/22734882.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 それまでユダヤ教の洗礼は、はるばるエルサレムの神殿まで出
かけて行って、業者から購入した生贄の血によって行っていたの
で、とてもお金がかかったのです。それがヨルダン川の水ででき
てしまうのですから、大変な評判だったのです。イエスもヨハネ
から洗礼を受けているのです。
 このバプテスマのヨハネもエッセネ派であったといわれていま
す。しかし、エッセネ派が荒れ野での修行を重視していたのに対
し、ヨハネは大衆を救うために大衆の中に出ていったのです。
ヨハネの人気は上昇し、彼の教団の信徒は増えていったのです。
 しかし、これは、サドカイ派が守ってきた伝統とヘロデ大王が
築いた神殿の権威を踏みにじる行為でもあったのです。当時ガリ
ラヤの支配を任されていたヘロデ・アンティパス(ヘロデ王の子
息)は、かねがねヨハネを快く思っていなかったのです。
 31年にイエスはクムランを去り、イエスの教団ができるので
すが、ヨハネがイエスを認めたことによって、ヨハネの教団から
もイエスの教団に入る者も多くなっていったのです。しかし、そ
の時点ではイエスの教団よりもヨハネの教団の方が大きかったと
思われます。
 ヨハネは、ユダヤ教の伝統にしたがって民族主義的な考え方を
持っていたので、ローマ帝国の傀儡になり果てていたヘロデ・ア
ンティパスをつねに批判していたのです。さらにあろうことか、
ヘロデ・アンティパスは兄の妻を奪った不倫が原因で、政略結婚
でアラビアから迎えた妻が逃げてしまうという失態を犯したので
ヨハネはそれを容赦なく批判したのです。
 これに怒ったヘロデはヨハネを逮捕し、首を刎ねてしまうので
す。この話は、オスカー・ワイルドの名作『サロメ』であまりに
も有名です。32年のことです。ちなみに、サロメとは、ヘロデ
の不倫の相手であるヘロディアの連れ子なのです。
 イエスもヨハネと同じエッセネ派であり、修行を重ねているう
ちにエッセネ派の限界に気がつくのです。エッセネ派は自ら修行
して、グノーシスと呼ばれる叡智によって神の領域に近づこうと
するのです。しかし、修行の結果、神の領域に到達できても救わ
れるのは自分だけなのです。
 これではいけない。大衆を救済しなければ――とイエスは考え
てクムラン宗団を去ったのです。ヨハネも同様な理由で早くから
大衆救済に動いたのです。
 しかし、ヨハネがヘロデに殺されると、イエスはある決断をし
たのです。イエスは国家のために律法を破る必要があると考えた
のです。それまでどちらかというと、イエスはクムラン宗団の掟
にきわめて厳格であったのですが、一挙に急進派になったといえ
ます。イエスは自分の殺されることはわかっていたらしく、急ぐ
必要があると感じたのです。
 イエスの有名な教えに次のようなものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさ
 い。だれかが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリ
 オン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りよ
 うとする者に、背を向けてはならない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「目には目を、歯には歯を」というユダヤの教えを破っ
ているのです。ここで、頬を打つ者、下着を取ろうとする者、1
ミリオン行く者というのは、ローマ軍のことです。そのような横
暴なローマ軍のために祈ってやり、愛してやる――そういう精神
的優位に立てといっているのです。それがユダヤがローマに支配
されてるというこだわりから解放される道なのだと説いているの
です。聖書研究家の三田氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスが説いたのは、博愛や無抵抗主義ではない。むしろ精神
 的な暴力ともいうべき、ラディカルな発想の転換である。
            ――三田誠広著/NONブック424
                『ユダの謎/キリストの謎』
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスの武器は「言葉」なのです。「初めに言葉があった」と
は「ヨハネの福音書」の中の有名な言葉ですが、イエスにとって
言葉は武器なのです。
 年末になると、必ずといってよいほど、繁華街ではイエスの言
葉が流されます。街に出てこのメッセージを聞くと、「もう、今
年も暮れだな」と思うものです。昨年の暮れも私はイエスのメッ
セージを聞いています。
 イエスは、33年、磔刑になって殺されてしまいましたが、イ
エスの言葉は現在でも街を歩いていると、聞こえてくるのです。
考えてみると、これほど強力な武器はないといえます。
 ヨハネもイエスも殺されたとなると、その後彼らの教団はどう
なっていったのでしょうか。 ――[ニュートンの予言/24]


≪画像および関連情報≫
 ・バプテスマのヨハネについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエ
  リザベト。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも。正教会で
  はキリストの道を備えるものという意味の前駆の称をもって
  しばしば呼ぶ。日本ハリストス正教会での呼称は前駆授洗イ
  オアン(せんくじゅせんイオアン)。イエスの弟子である使
  徒ヨハネとは別人である。      ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

イエスに洗礼するヨハネ.jpg
イエスに洗礼するヨハネ
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2010年04月07日

●洗礼者ヨハネとイエス(EJ第2247号)

 日本ではイエスのことを「キリスト」といったり、「イエス・
キリスト」と呼びますが、この言葉の意味をはっきりさせておく
必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ギリシャ語のキリスト ・・・ 油で浄められた者
   ヘブライ語のキリスト ・・・ メシア/ 救世主
―――――――――――――――――――――――――――――
 「油で浄める」というのは、神によって選ばれた王を祝福する
儀式のことであり、「メシア」というのは一般的には「救世主」
といわれるが、この救世主はユダヤ教では「王」――それもただ
の王ではなく、ダビデ王のことを意味しているのです。このダビ
デ王――イスラエルの12部族を1つにまとめた偉大なる王であ
り、だからこそ「救世主」と呼ばれたのです。
 ところで、「死海文書」の多くに2人の「メシア」が登場する
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    祭司のメシア ・・・・・ レビ のメシア
    王 のメシア ・・・・・ ダビデのメシア
―――――――――――――――――――――――――――――
 早くから洗礼者ヨハネは多くの人からメシアではないかと考え
られていたのです。しかし、ここでいうところのメシアは「祭司
のメシア」なのです。
 イエスは、ヨハネから洗礼を受けると、その後あしかけ3年間
クムラン宗団で修行しています。実はイエスにはヤコブという名
前の弟がいて、彼もイエスと一緒にクムラン宗団に入って修行し
ているのです。
 戒律の厳しいクムラン宗団の修行においてもイエスの兄弟は傑
出した存在感を示すようになります。洗礼者ヨハネはイエスに対
し、「王のメシア」になるよう要請し、これでクムラン宗団は祭
司のメシアと王のメシアの2本柱が揃ったのです。
 しかし、西暦32年に洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺され
クムラン宗団は2つのメシアのうちの祭司のメシアを失うことに
なります。そしてクムラン宗団は直ちに洗礼者ヨハネの後任とし
てイエスの弟のヤコブを祭司のメシアに据えるのです。
 それからの約一年間――洗礼者ヨハネの処刑から自らの処刑ま
でイエスは急進的、政治的に動いたのです。ヨハネが殺され、さ
まざまな預言書を読んだことによって自分も同じように殺される
のではないかという危機感を抱いたからです。そういう「先がな
い」という思いがイエスを急進的に走らせたといえます。
 彼はユダヤの律法を破って、多くの一般人に洗礼を施し、信者
を増やし、側近たちの宗教的地位を引き上げ、彼らにモーセの秘
儀を伝えはじめたのです。そして、イエスは自分の身を守らせる
5人の親衛隊――ヤコブ、ヨハネ、熱心党のシモン、シモン・ペ
テロ、ユダの5人――を伴い、各地を伝道して回ったのです。わ
れわれがキリスト映画で見るイエスの伝道のシーンは、すべてこ
の頃のものです。その期間はわずか一年間だったのです。
 このときイエスに従っていた信徒たちの一団をイエスの教団と
か原始キリスト教団、ナザレ教団などと呼ぶことはありますが、
死海文書によれば、それらはクムラン宗団の別働隊であったと考
えられるのです。いうまでもなく現在われわれがキリスト教と認
識しているカトリック教会とは別のものです。
 死海文書をよく読むと、イエスは洗礼者ヨハネを師と仰ぎ、ヨ
ハネを祭司のメシアとみなしていたことがわかるのです。次の文
言は死海写本にある「レビの遺訓」といわれるものですが、これ
は、まるでイエスのことをいっているように思えますが、イエス
が洗礼者ヨハネに抱いていた深い尊敬の念をあらわしたものとさ
れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    彼は彼の時代の子らの罪を贖い、
    すべてのひとびとの子らのためにつかわされる
    彼の言葉は天の声に等しく、
    彼の教えは神の意を伝える
    彼の太陽は永遠に輝き
    その炎は遍く世を照らす
    暗黒は大地から消え、
    乾いた地から暗闇は去る
    ―ジェイムズ・D・テイバー著/伏見威蕃・黒川由美訳
          『イエスの王朝/一族の秘められた歴史』
              ソフトバンク・クリエイティブ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように死海文書には、いわゆるローマ・カトリック教会に
とっては都合の悪い内容を数多く含んでいたのです。そのため、
カトリック教会は死海文書の解読をカトリックの神父中心に行い
他の研究者には資料を自由に閲覧さえさせなかったのです。
 ヘロデ大王の時代、ユダヤ属州はローマ総督によって直轄され
ていたのですが、当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化
を尊重し、統治者として巧みな統治政策を取っていたのです。と
くにローマ帝国は、ユダヤには相当気を使っていたのです。
 属州でありながら、ユダヤ人を裁く権利をユダヤ側に与え、安
息日を尊重し、軍務につかないことも認めるというかなり広範囲
な自由を与えていたのです。
 しかし、地中海世界はこぞって多神教文化であり、その中で一
神教を奉ずるユダヤは、どうしてもローマとの距離は開く一方で
あったのです。ユダヤ人としては、エルサレムを中心とする神政
国家がないということ自体が不満だったのです。
 しかし、ローマ帝国は、後にキリスト教を国教とするまでは伝
統的に政教分離がはっきりしていた国であり、ユダヤ人が望むよ
うな宗教国家を認める気にはならなかったのです。しかし、西暦
66年になって、ローマ帝国とユダヤの間は険悪な情勢になり、
ユダヤ戦争が勃発します。  ――[ニュートンの予言/25]


≪画像および関連情報≫
 ・洗礼者ヨハネとイエス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で説教をしていた。そこにイエ
  スがあらわれる。ヨハネから洗礼を受けるためである。ヨハ
  ネはためらい、言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けな
  ければならないのに、なぜ私のところへ・・・・」イエスは
  「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々
  にふさわしいから」と言った。腰布をまとったキリストは川
  の流れの中に立ち、岸に立ったヨハネから頭に水をかけられ
  る。イエスに洗礼をほどこしたのである。/マタイ3、マル
  コ1、ルカ3            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

洗礼者ヨハネ/ドメニコ・ギルランダイオ.jpg
洗礼者ヨハネ/ドメニコ・ギルランダイオ
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2010年04月08日

●第1次ユダヤ戦争とクムラン宗団(EJ第2248号)

 第1次ユダヤ戦争の詳細を後世に伝えたのは、フラウィウス・
ヨセフスという歴史家です。彼はユダヤ軍の武将であり、戦争の
途中でローマ帝国に降伏したのです。
 ユダヤ戦争の発端は、当時ユダヤを統治していたローマ総督フ
ロルスがエルサレム神殿の宝庫から財貨を持ち出したことにユダ
ヤ人が激怒し、エルサレムでユダヤの過激派が暴動を起こしたこ
とがきっかけになったと一般的にはいわれています。
 しかし、これは少しウラの話があるのです。クムラン宗団の祭
司メシアのヤコブ――義のヤコブはイエスの死後、教団をまとめ
てきた人物です。彼はエルサレムの初代教会の祭司として認めら
れており、信望は厚かったのです。何しろイエスの宣教は一年で
終わったのに対し、ヤコブは20年間も聖職にあったのですから
それだけその教えは伝わっていたのです。
 その義人ヤコブは、ローマ帝国の傀儡政権化しているヘロデ一
派とは敵対関係にあったのです。そのため、ヤコブは64年にそ
の一派とみられるグループに虐殺されてしまうのです。ローマ帝
国とのトラブルは、このヤコブの死と無関係ではないのです。
 フロルス総督は、暴動に参加した多くのユダヤ人を捕らえて十
字架刑に処し、事態を収拾しようとしましたが、これが火に油を
注ぐ結果となり、反ローマ運動がユダヤ全土に波及したのです。
そして66年に遂に戦争に突入してしまいます。
 強大なローマ帝国と戦争するとなると、宗派の違いなどはいっ
ていられなくなり、ユダヤ民族は一丸となって戦うことになった
のです。サドカイ派の神殿兵はもとより、パリサイ派も、クムラ
ン宗団のエッセネ派も加わって果敢に戦ったのです。その中心と
なったのは、神の国を再建するには剣の力が必要であると主張す
る熱心党です。
 当初ローマ側は、シリアの総督ガルルスが率いる第12軍団を
中心とする兵力で力でねじ伏せようとしたのですが、ベテホロン
の戦いでローマ軍は大敗を喫してしまうのです。
 事の重大さを認識した当時のネロ皇帝は、将軍ヴェスバシアヌ
スに命じてユダヤの鎮圧に向かわせます。将軍ヴェスバシアヌス
は3個軍団の約6万の兵を率いて、息子のティトゥスと共に出陣
したのです。
 将軍ヴェスバシアヌスは、直接エルサレムを攻撃するのを避け
周辺の都市をひとつずつ落として、エルサレムを孤立させる戦略
を取ったのです。そして、ガリラヤを攻略しているときに投降し
てきたのが、フラウィウス・ヨセフスなのです。このようにして
ローマ軍はガリラヤとサマリアを平定し、エルサレムの攻撃をは
じめようとしたのです。
 ところがここで、ローマ側に思いも寄らぬ出来事が起こるので
す。68年にローマで叛乱が起こり、皇帝ネロが自殺に追い込ま
れてしまったのです。やむをえず、ヴェスバシアヌスは急遽ロー
マに戻り戦線はこう着状態に陥ってしまいます。
 本当はここがユダヤ側にとってチャンスだったのですが、寄せ
集めのユダヤ軍は内部での抗争が起こってしまい、味方同士で犠
牲者を出す始末です。
 そうしているうちにヴェスバシアヌスはローマ皇帝となり、新
皇帝は息子のティトゥスに全軍の指揮をとらせ、再びユダヤに進
軍させます。ユダヤ軍は神殿やアントニウス要塞にこもって戦い
ますが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、夏には神殿に火がつけ
られ、秋にはエルサレムが滅亡してしまうのです。
 ティトゥスは、神殿の宝物を戦利品とし、反乱の指導者を捕虜
にしてローマに凱旋したのです。この凱旋のとき造られたのが、
現在も残るティトゥスの凱旋門です。そこには、エルサレムの神
殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれているのです。
 それでも一部のわずかなユダヤ兵たちは、ヘロデ大王が築いた
難攻不落の要塞――ヘロディオン、マカイロス、マサダにこもっ
て抵抗を続けましたが、74年にマサダ要塞に最期まで残ったユ
ダヤ兵が集団自決したことによって、ユダヤ戦争は完全に終結し
たのです。これが第1次ユダヤ戦争です。
 義人ヤコブが殺され、第1次ユダヤ戦争によって、エルサレム
教会は瓦解し、それを後に別の宗教組織、すなわち今日ローマ・
カトリック教会として知られる組織がそっくり奪ったのです。こ
れについて、ナイトとロマスは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 西暦70年のエルサレム陥落以後、キリスト教と呼ばれる宗教
 はユダヤ教と分離しはじめ、それと同時に、ヨシュアと呼ばれ
 た英雄の姿は異教の神話と伝説の中に消えていった。そして古
 い異教の物語が、ユダヤの王となろうとしたイエスという男の
 物語の上に積み重ねられていった。ローマでは、ロムルスとレ
 ムスの物語が、ペトロとパウロの語り直された。そして、イエ
 スの誕生日には、太陽神ソルの誕生日である12月25日がふ
 さわしいと考えられた。安息日は土曜日から太陽神の日である
 日曜日に移り、太陽の象徴は聖者の頭の後ろに後光として描か
 れるようになった。
        クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著
      /松田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究社
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまで見てきたように、イエスが属したクムラン宗団は基本
的には洗礼者ヨハネの教団です。これに対してローマ・カトリッ
ク教会はイエスを神格化し、ヴァチカンの丘で処刑されたペテロ
――初代ローマ教皇を中心とする教団です。
 したがって、イエスを中心とするいわゆるキリスト教団と現在
のカトリック教会は全然別のものということになります。したが
って、カトリック教会におけるイエス像は、実際のイエスと大き
く異なるものになっているのです。
 死海文書には、カトリック教会のそれとは違うイエスの教団の
すべてが詳細に紹介されており、だからこそカトリック教会はそ
れを隠蔽しようとしたのです。――[ニュートンの予言/26]


≪画像および関連情報≫
 ・『ユダヤ戦記』/ヨセフス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フラウィウス・ヨセフスは、古代イスラエルの著述家。紀元
  66年に勃発したユダヤ戦争において、はじめユダヤ軍の指
  揮官として戦ったが、ローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚
  としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛
  末を記した『ユダヤ戦記』をあらわして著述家としての名声
  を得ることになった。        ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

第1次ユダヤ戦争.jpg
第1次ユダヤ戦争
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2010年04月09日

●ダニエルとは何者か(EJ第2249号)

 ここまでニュートンの予言の前提となる知識について書いてき
ましたが、いよいよ予言の核心部分に入っていきます。ニュート
ンが聖書の解読作業――とくに世界の終末の日の特定に当って一
番参考にしたものは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.「ダニエル書」 ・・・・・ 旧約聖書
    2.「ヨハネの黙示録」 ・・・ 新約聖書
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ダニエル書」は、旧約聖書の外典のひとつです。他にも「ミ
カ書」、「イザヤ書」、「エゼキエル書」などがあります。「ヨ
ハネの黙示録」は新約聖書の中にあります。
 ところで、ダニエルとは何者でしょうか。
 ダニエルは、偶像崇拝を毅然とした態度で拒否し、それによっ
て生じたさまざまな危険を神が与えた智恵と力で切り抜けたこと
で知られる高名な預言者です。
 ご存知の人は多いと思いますが、ダニエルの有名な話を一つご
紹介します。ダニエルの予知能力がどんなに凄いかについて知っ
ていただきたいからです。
 ユダヤ、すなわちイスラエルは何回も他国に滅ぼされた歴史が
あるのです。ダビデ王が出現するまでは、ユダヤは12の小国に
分かれていたのです。これがイスラエルの12の部族です。これ
を本当の意味で統一したのがダビデ王であり、イスラエル王国と
して、さらに発展・繁栄させたのが、息子のソロモン王です。
 しかし、ソロモン王の死後、イスラエル国家は北と南に分割さ
れ、北イスラエル王国の方が宗教的堕落が早かったため、先に滅
びてしまいます。紀元前721年のことです。
 こうしてイスラエル王国は南だけが残ったのですが、バビロン
の王ネブカドネツァルによってエルサレムは陥落し、南の王エホ
ヤキンは支配階級の多くの者と一緒に捕虜として、バビロンに連
れて行かれたのです。これが世にいう「バビロンの捕囚」です。
紀元前598年のことです。
 このネブカドネツァル王の配下の預言者として若きダニエルが
いたのです。ダニエルは誰もできない予言を連発して王を驚かせ
王の側近を務めていたのです。
 時は紀元前2世紀半ば――ネブカドネツァル王の息子であるベ
ルシャツァル王の時代の話です。ある日王は王宮ですべての王族
や貴族を招いて大宴会を開催していたのです。そのとき王は酒の
肴としてエルサレム神殿の宝物――これはネブカドネツァル王が
エルサレムを陥落させたときの戦利品――を持ってこさせ、大勢
で宴会を楽しんでいたのです。そのとき突然空中から手が現われ
て、白い壁に何やら書きはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       メネ メネ テケル ウ パルシン
―――――――――――――――――――――――――――――
 王は恐怖に震え、宮殿にいた祈祷師、賢者、星占い師に言葉の
意味を解かせようとしたのですが、誰もできないので、最後にダ
ニエルが呼ばれたのです。
 ダニエルは即座に壁の言葉の意味を読み解き、これは神の怒り
であることを王に告げるのです。「メネ」は「数える」、「テケ
ル」は「量を計る」、「パルシン」は「分ける」という意味であ
り、次の意味になると伝えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神は王の治世を速やかに終了させ、国をメディアとペルシャの
 2つに分割する。              ――ダニエル
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際にダニエルの予言通りにベルシャツァル王はその夜のうち
に殺され、メディア人のダイオレスが王国を継いだのです。
 このダニエルが書いた預言書に終末預言が出ているのです。重
要なものは3つありますが、そのうちの1つを次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖
 なる者がその語っている者に言った。『この幻、すなわち、日
 ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが
 踏みにじられるというこの幻の出来事はいつまで続くのか』。
 彼は続けた。『日が暮れ、夜の明けること2300回に及んで
 聖所はあるべき状態に戻る』。
             ――「ダニエル書」8・13−14
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中の「2300回」に注目しましょう。2300回の日没
と日の出――つまり、2300日ということになります。これは
神の計画書ですから、神の世界の計算を行う必要があります。神
の世界では1日が人間の世界の1年に当たります。したがって、
「2300日」とあるのは、2300年ということになります。
これは、終末の日を予測する重要な数字のひとつになります。
 さて、重要な3つのうちの2つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打
 ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。
                ――「ダニエル書」12・7
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう「一時期」「二時期」は1年、2年、「半時期」は
半年と考えられるので、3年半ということになります。1ヶ月を
30日とすると、計算は次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
     30×(12×3+6)=1260日
―――――――――――――――――――――――――――――
 1260日は神の計算では1260年ということになります。
2300年と1260年の違いは、ダニエルが幻で見た出来事が
起こったかどうかにあります。2つ目には幻の出来事の記述があ
りません。         ――[ニュートンの予言/27]


≪画像および関連情報≫
 ・メネ メネ テケル ウ パルシン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたと
  いうことです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて
  目方の足りないことがわかったのです。『パルシン』とは、
  あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる
  ということです。」そこでベルシャツァルは命じて、ダニエ
  ルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国
  の第三の権力者であると布告した。その夜、カルデヤ人の王
  ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、62歳で
  その国を受け継いだ。
  http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2004msg/040904.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ネブカドネツァル王.jpg
ネブカドネツァル王
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2010年04月12日

●終末の日に関係のある4つの数字(EJ第2250号)

 前回のEJでご紹介したダニエル書の8・13−14に書かれ
ている「日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と
万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事」というのは、エ
ルサレムの陥落のことをいっているような気がします。
 さて、ニュートンはダニエル書から、もうひとつ次の部分を取
り上げています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらに「日ごとの供え物が廃止され、悩むべき荒廃をもたらす
 ものが立てられてから千二百九十日が定められている。待ち望
 んで千三百三十五日に至る者はまことに幸いである」。
              ――ダニエル書12・11−12
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここには、1290日と1335日という2つの数字が登場し
てきます。「待ち望んで千三百三十五日に至る者はまことに幸い
である」とあるので、あることが起こってから1330日経つと
神の国は実現していることになります。したがって、終末の日は
それよりも前にやってくるということになります。
 これで終末の日に関係する数字が4つ出てきたことになるので
まとめておきましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.2300日
      2.一時期、二時期、そして半時期
      3.1290日
      4.1335日
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上が、ダニエル書からニュートンが抜き出した部分ですが、
ニュートンは同じ作業を「ヨハネの黙示録」についてもやってい
るのです。「ヨハネの黙示録」は、新約聖書の中で唯一預言的性
格を持つものですが、内容が難解であり、内容をめぐってさまざ
まな解釈が存在するのです。
 ニュートンが上げた4つのうちの1つは次の部分です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の
 間養われるように、神の用意された場所があった。
              ――「ヨハネの黙示録」12・6
―――――――――――――――――――――――――――――
 似たような数字がまた登場します。1260日です。これは、
3年半――42×30のことであり、ダニエル書の数値と一致し
ます。不思議なことです。2つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある
 自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れ
 て、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることに
 なっていた。      ――「ヨハネの黙示録」12・14
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことですが、ここにも「一年、その後二年、またその
後半年の間」という表現が出てきたことです。これは「日」では
なく「年」になっていますが、3年半(1260日)という同じ
数字ができているのです。3つ目は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけな
 い。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か
 月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分
 の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、予言させ
 よう。        ――「ヨハネの黙示録」11・2−3
―――――――――――――――――――――――――――――
 またしても42か月と1260日という同じ数字が出てきてい
ます。42か月と1260日は同じ数字です。ちなみに、「二人
の証人」とは、ペテロとその後継者のことを指しており、これか
ら転じてヴァチカンの歴代ローマ教皇のことを指しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この獣にはまた、大言と冒とくの言葉を吐く口が与えられ、四
 十二か月の間、活動する権利が与えられた。
              ――「ヨハネの黙示録」13・5
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの黙示録」では、この世の終わりは、最強の獣が現れ
て、42か月(1260年)後にやってくるということを暗示し
ているようです。4つ目にその42か月が出てきます。
 ダニエル書とヨハネの黙示録に出てくる神の計画のカレンダー
に関わる数字は次の4つということになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.1260年
           2.1290年
           3.1335年
           4.2300年
―――――――――――――――――――――――――――――
 この数字は、ある出来事が起きてから、それぞれの年数後に終
末の日がやってくることを示しているのです。問題は、そういう
出来事の起きる「Xデー」はいつなのかということです。
 実は、ニュートンはこの「Xデー」について、膨大なページを
割いて論じているのです。そのうえで、彼は「2060年に終わ
りがくる」と予言しています。偉大なる天才的科学者であるニュ
ートンらしい緻密さをもって、2060年を割り出しているので
す。それがこの予言の恐ろしい点であるといえます。
 ダニエル書やヨハネの黙示録はこういっているのです。この世
の終わりには、竜、獣、偽預言者があらわれ、悪の三位一体を形
成し猛威を振るうが、その獣の活動期間は42か月、3年半、す
なわち1260日であり、この後に終わりの日がやっている――
ところで、これらの竜、獣、偽預言者とは一体何を意味している
のでしょうか。      ―― [ニュートンの予言/28]


≪画像および関連情報≫
 ・「ヨハネの黙示録」の解釈について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『黙示録』は歴史の中でさまざまに論じられてきた。とくに
  『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊
  性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を
  巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまと
  めると以下の三つの見方に集約することができる。
   「預言書」(予言書)としての解釈
   「文学類型(ジャンル)」としての解釈
   「普遍的テーマのイメージ化」としての解釈
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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アイザック・ニュートンの立像
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2010年04月13日

●紀元800年が終わりの始まりの年(EJ第2251号)

 昨日のEJで述べた神の計画のカレンダーに関係する4つの数
字――この数字を歴史上のある出来事のあった年――Xイヤーに
加えると、終末の年が算出されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.Xイヤー + 1260年 = 終末の年
    2.Xイヤー + 1290年 = 終末の年
    3.Xイヤー + 1335年 = 終末の年
    4.Xイヤー + 2300年 = 終末の年
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは、このXイヤーをあらゆる角度から検討している
のですが、EJではニュートンが最終的に下した結論を先に示し
なぜそうなったのかについて述べることにしたいと思います。
 ニュートンは、終末の年を次のように結論づけているのです。
すなわち、Xイヤーを紀元800年にしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    800年 + 1260年 = 2060年
―――――――――――――――――――――――――――――
 紀元800年には何があったのでしょうか。
 これに答える前に述べることがあります。ニュートンはこの世
の終わりのときに次のことが起きるといっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 世の終わりのとき、ローマ帝国の流れを汲む「竜」とそこから
 派生した「獣」と、その獣を崇拝するように推進する「宗教の
 獣」が悪魔の三位一体となって世界に圧制を敷く。そのときキ
 リストによって彼らは打ち倒され、神の国が完成する。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ダニエル書でもヨハネの黙示録でも、世の終わりのとき、獣が
あらわれることを指摘していますが、ニュートンは聖書の分析に
よって、1つの竜と2つの獣があらわれるとし、それらは次のこ
とをあらわしているといっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   竜 ・・・・・・・・・・・・ 古代ローマ帝国
   海から上がってくる獣 ・・・ 西 ローマ帝国
   陸から上がってくる獣 ・・・   ローマ教会
―――――――――――――――――――――――――――――
 古代ローマ帝国と西ローマ帝国の2つが登場するところがわか
りにくいのですが、ここでは、古代ローマ帝国はキリスト教を国
教とする前の帝国、西ローマ帝国は既にキリスト教を国教とした
あとの帝国であり、現在のヴァチカンの系譜である――このよう
に考えておいていただきたいと思います。
 古代のバビロニア帝国は、ユダヤ教会――原始キリスト教会を
迫害し、エルサレムの神殿を蹂躙しています。このバビロニア帝
国は、ベル神という竜神信仰を持っていたのです。そのため、ヨ
ハネの黙示録では「竜」と名づけたものと思われます。
 このバビロニアの竜の系譜を継いだのが古代ローマ帝国です。
彼らはやはり原始キリスト教会を迫害しています。そして、ユダ
ヤ戦争でエルサレムの神殿を二度にわたって蹂躙しています。ま
さにシンクロニシティ(EJ第2227号参照)です。つまり、
バビロニア帝国と古代ローマ帝国は竜のシンクロニシティという
ことができます。
 聖書にこの世の終わりが預言されていることはあまねく知られ
ています。こういうハルマゲドンが起こったとき、イエスが再臨
し、最終的にキリスト教の真の信者が救われ、そうでない人はす
べて滅びるということもそれを信ずるかどうかは別として、よく
知られていることです。
 それでは真のキリスト教の信者とはどういう人たちかというと
イメージ的には、ローマ教皇を中心とするヴァチカンの偉い人と
いうことになる――多くの人はそう考えていると思います。
 しかし、ニュートンはその預言において、世の終わりのときに
滅びるのは、宗教の獣であるヴァチカンそのものである――しか
も、それは2060年であると予言しているのです。これは驚く
べきことであるといえます。
 紀元800年――この年にローマのサン・ピエトロ大聖堂にお
いて教皇レオ3世は、カロリング朝のカール大帝――カール3世
に王冠を授け、西ローマ帝国は復活を果たしています。ニュート
ンはこの歴史的出来事を重視し、その年に1260年を加えて、
終わりの年として2060年を割り出しているのです。
 それでは、教皇レオ3世がカール大帝に戴冠したことは、なぜ
それほど重要なことなのでしょうか。
 既に見てきたように、カール大帝はフランク王国の国王ですが
もともとフランク王国を作ったのは、メロヴィング家のクロヴィ
スなのです。ところで、フランク王国の源流をたどると、シカン
ブリア人にたどりつくのです。
 シカンブリア人の先祖はイスラエルを追放されたベニヤミン族
といわれています。そのベニヤミン族が逃亡先で近くに住んでい
たチュートン族と婚姻関係を結び、その結果生まれたのが、シカ
ンブリア人なのです。
 ベニヤミン族の宗教はユダヤ教であったので、シカンブリア人
はカトリックではなく、アリウス派に属していたのです。ところ
が、496年に当時のフランク国王クロヴィスは、利害のために
ローマ教会と結びつき、カトリックに改宗しているのです。
 当時のローマ教会は、西ローマ帝国が滅亡したことにより、そ
の基盤はきわめて脆弱であり、不安定な状況にあったのです。当
時ローマ教会では最上位の司教を教皇と自称していたのですが、
その実態は普通の司教と何ら変わらない立場であったのです。
 そのため、当時は異端であるはずのアリウス派よりもはるかに
弱い存在であり、教皇としては、フランク王国の軍事的後ろ盾が
欲しかったのです。     ――[ニュートンの予言/29]


≪画像および関連情報≫
 ・イスラエル民族とユダヤ人の違い/失われた10部族
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イスラエル人とはヤコブの十二人の息子たちの子孫のことで
  あるが、「十二部族」と呼ぶ場合には、祭司の部族であるレ
  ビ族を含まない。後にユダヤ人と呼ばれるようになるのは、
  ユダ、ベニヤミンの2部族にレビ族を加えた者たちのことで
  ある。不思議なことに、ユダ族が「ユダヤ人」として活躍し
  たのとは対照的に、ユダ族以外の選民、つまりエフライム族
  やガド族をはじめとする有力なイスラエル兄弟たちは、歴史
  上から姿を消してしまった。現在では彼らは失われてしまっ
  たとされている。
  ―――――――――――――――――――――――――――

教皇レオ3世.jpg
教皇レオ3世
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2010年04月14日

●鍵を握るメロヴィング朝の歴史(EJ第2252号)

 フランク王国の王――クロヴィスについて、もう少しお話しす
る必要があります。クロヴィスの父キルデリクスは、西ローマ帝
国と同盟を結んでおり、敵対する諸部族と果敢に戦ったのです。
 キルデリクスは若いときビザンティン帝国に滞在したことがあ
り、彼の妻でクロヴィスの母であるバシナもビザンティン帝国の
出身で、もともとローマ帝国とは近い関係にあったのです。
 そのような両親の子として誕生したクロヴィスが即位したのは
16歳のときだったのですが、そのとき西ローマ帝国は5年前に
滅亡していたのです。当時フランク王国の南にはシャグリウスな
る人物が、自ら「ローマ人の王である」と名乗ってその一帯を支
配していたのです。
 クロヴィスはまずこのシャグリウスを攻め落とすことを計画し
21歳になった486年にシャグリウスの本拠地であるソワソン
を攻めて占領し、パリ、ルーアン、ランスという当時の北ガリア
の諸都市を支配下に収めるのです。クロヴィスはソワソンに都を
移し、フランク王国の領国は490年にはロアール川の流域にま
で及んだのです。
 当時のガリアには、アタナシウス派のキリスト教――カトリッ
クが普及していたのですが、西ゴート族やブルグンド族といった
ゲルマン諸族はアリウス派のキリスト教を信じていたのです。し
かし、フランク王国では、キリスト教とは何も関係のない古来の
多神教を信じていたのです。
 しかし、クロヴィスの妻のクロチルドはアリウス派を信ずるブ
ルグンド族の王女でありながら、熱心なアタナシウス派のキリス
ト教(カトリック)の熱心な信者だったのです。当然その宗教的
影響はクロヴィスに及んでいたのです。
 そのクロヴィスに東ローマ帝国は目をつけたのです。彼こそロ
ーマ・カトリック教会の最良のパートナーになれると。このよう
な経緯で、ローマ教会側は、密かにランスの大司教をしていた聖
レミギウスにクロヴィスとの会談をもたせるのです。これについ
て、中見利男氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 496年、クロヴィスと聖レミギウスのあいだに秘密会合がも
 たれ、その直後、クロヴィスとローマ教会のあいだに、ある協
 定が成立したのである。この協定は、ローマ教会の存続を保証
 するもので、これによってローマ教会はコンスタンティノーブ
 ルを本拠地とするギリシャ正教に匹敵する地位を獲得したので
 ある。同時に政治的軍事的意味合いおいて無数の異端を根絶す
 る権利を得たのである。ローマ教会とクロヴィスが結んだこの
 協定は、旧約聖書で神とダビデ王が結んだ契約と似たものであ
 り、修正はできても、取り消したり、破棄したり、裏切ったり
 できないものであった。   ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この協定によって、クロヴィスは聖レミギウスによって洗礼を
受けたのです。これによりフランク王国はローマ教会のために力
を行使し、西ゴート族とヴァンダル族によって破壊された西ロー
マ帝国を統治するということが約束されたのです。
 実際にクロヴィスは、異端のケルンのシゲベルトを謀略によっ
て滅ぼし、アリウス派キリスト教を信奉していた西ゴート族と戦
い、507年に最終的に西ゴート族を撃破したのです。その結果
フランク王国は中・南部ガリアを支配下に置いたのです。
 ちなみにフランク王国に追い詰められた西ゴート族は後退し、
あのレンヌ・ル・シャトー村を首都に定めるのです。彼らは異端
のアリウス派を奉じていたのですが、信仰に厚く、それにローマ
の文化や法に対して好意的であり、その点野蛮なフランク族とは
対照的であったといいます。何やらあのダ・ヴィンチ・コードと
接点が出てきています。
 このようにしてメロヴィング朝フランク王国は、ライン河の東
海岸から現在のベルギーとフランスの大部分を傘下に収める王国
を実現し、正式に東ローマ帝国から「執政官」を命ぜられたので
す。フランク王国は後に神聖ローマ帝国といわれる広大な領地を
治めることになります。
 511年にクロヴィスが45歳で没するのですが、その後も長
くメロヴィング朝が続くのです。なお、メロヴィング朝では、王
位継承権のある王の息子が12歳の誕生日になると、必然的に王
になるという慣習があるのです。しかし、統治の役割は「大宰相
――宮宰」に任されるのです。そして、王はただ象徴的な存在が
求められていたのです。
 クロヴィスが死ぬと、フランク王国は4人の息子たちによって
次のように分割相続されたのです。これもフランク王国の慣習な
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      テウデリク  ・・・・・ ランス
      クロドミール ・・・・・ オルレアン
      キリデベルト ・・・・・ パリ
      クロタール  ・・・・・ ソワソン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら4人の息子たちがその後どうなるかについては、ニュー
トンの予言とは関係がないので省略しますが、メロヴィング朝を
継ぐ王が、あのレンヌ・ル・シャトー村に首都を構える西ゴート
王国の王族と婚姻関係を結ぶようになるという数奇な事実につい
ては知っておいていただきたいと思います。
 結局、4人の息子の中でクロタールが父王クロヴィスの遺領を
すべて継ぐことになります。そして、561年にクロタール1世
が亡くなると、メロヴィング朝は、その息子たちに引き継がれる
のです。さらに、628年にクロタール2世が亡くなると、遺領
は、長男のダゴベルトが引き継ぐのです。メロヴィング朝フラン
ク王国は、このダゴベルト1世の時代に名実共に全盛期を迎える
ことになるのです。     ――[ニュートンの予言/30]


≪画像および関連情報≫
 ・西ゴート王国について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  500年年頃の西ゴート王国の領域はダキアを経てローマ領
  内に移動した西ゴート族は、5世紀初頭の指導者アラリック
  1世のもとイタリア半島に侵入した。すでに、首都ではなく
  なっていたローマを一時的に包囲するが、西ローマ皇帝の説
  得に応じガリアへと撤退した。このとき、すでにローマ帝国
  の支配権が及ばなくなっていたガリアとヒスパニアの防衛を
  条件に、領有を認められたとされている。415年にバリア
  王は南ガリアのトロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴー
  ト王国が建国された。またイベリア半島を征服していたヴァ
  ンダル族、スエビ族らを討ち、褒賞として418年にホノリ
  ウス帝から正式に属州アクイタニア(アキテーヌ)を与えら
  れた。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

クロヴィスの墓碑.jpg
クロヴィスの墓碑
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2010年04月15日

●ローマ・カトリック教会の裏切り(EJ第2253号)

 メロヴィング朝のクロタール2世の長男であるダゴベルト1世
は、父が存命中に既にアウストラシア地域を治めていたのです。
その分王国ではピピンなる貴族が宮宰として権勢を振るっていた
のです。この「宮宰」という職務は、もともと内廷の差配職に過
ぎなかったのですが、ピピンによって次第に王国内における行政
・司法・軍事全般を司る重要な職務になっていくのです。
 前回のEJで述べたように、メロヴィング朝では王は基本的に
は象徴的な存在であり、統治の役は大宰相が務めることになって
いるのですが、ピピン以後宮宰職が事実上その大宰相の役を務め
るようになるのです。
 ダゴベルト1世が亡くなると、王国は2人の息子に次のように
分割されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   長男/クロヴィス2世 ・・・ ネウストリア 王
   次男/シギベルト3世 ・・・ アウストラシア王
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうちアウストラシア王のシギベルト3世の宮宰として登場
したのが、ピピンの孫のピピンなのです。2人ともピピンなので
ダゴベルト1世のときのピピンを「大ピピン」、シギベルト3世
のときのピピンを「中ピピン」と称するのです。
 実はこのシギベルト3世の子として生まれたダゴベルト2世の
ピピンによる暗殺劇があるのですが、これについてはEJ第19
09号に書いたので、そちらを参照してください。
―――――――――――――――――――――――――――――
http://electronic-journal.seesaa.net/article/22955231.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、ネウストリア王の宮宰にエブロインという人物がいたの
です。エブロインは権勢を振い、彼はアウストラシアに攻め込み
いったんは勝利を収めます。しかし、680年に中ピピンが放っ
た刺客によって暗殺されてしまうのです。この事件によって、中
ピピンはますます権勢を強めるのです。
 そして、687年に中ピピン率いるアウストラシア軍がネウス
トリア軍を破り、中ピピンは全フランク王国唯一の宮宰になり、
その後ライン河東岸の諸族を征服して、そこへのキリスト教の普
及に尽力したのです。
 中ピピンは714年に亡くなるのですが、中ピピンの正妻の子
は父よりも早くして死亡しているので、6歳の嫡孫を宮宰に立て
たのです。しかし、ネウストリアの貴族たちは不満を表明し、そ
れぞれ独自に宮宰を立て反乱を起こす騒ぎになります。
 中ピピンの庶子のカール・マルテルは、717年に軍をまとめ
て反乱軍を破り、翌年にはパリに入城して北ガリアのほぼ全域を
手中に収めたのです。さらに719年には南ガリアのアキタニア
公ウードの軍勢を破り、ライン河東岸の諸民族を制圧し、これに
よりカール・マルテルは全ガリアの支配権を握ったのです。
 741年にカール・マルテルが52歳で亡くなると、メロヴィ
ング朝のキルペリク3世のもとで、カール・マルテルの長男であ
るカールマンがアウストラシアの宮宰として、次男の小ピピンが
ネウストリアの宮宰としてフランク王国を治めることになったの
です。もはや国王は何の力もないお飾りになっていたのです。
 これに対して、ライン河東岸の諸侯のいくつかが反乱を起こし
たので、カール・マルテルの死後6年をかけて、兄弟力を合わせ
これを鎮圧したのです。ところが、その直後、長男のカールマン
が出家してしまったので、弟の小ピピンが全フランク王国の宮宰
として君臨することになります。
 もはや小ピピンは事実上のフランク王国の王そのものであった
のですが、それでも王位を簒奪することにはためらいがあったの
です。王家のメロヴィング家と宮宰のカロリング家ではあまりに
も身分が違い過ぎたからです。
 そこで小ピピンはローマ教皇のお墨付きを得ようとして、時の
教皇ザカリアスに使者を送って次の質問状を届けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 王の名ありて実なき者と実ありて名なき者と、いずれ真の王
 たるべきや?               ――小ピピン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、ザカリアス教皇の返事は次のようなものであっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     よろしく王の実権ある者に王の名を与うべし
                ――ザカリアス教皇
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて、ローマ教皇はフランク全土の有力諸侯・聖職者
を集めた「ソワソン会議」を開き、小ピピンの王位について打診
したところ反対者はなかったというのです。
 そこで、751年3月、小ピピンはフランク王国の王座に登り
つめたのです。そして新王朝カロリング朝がはじまったのです。
これに伴いメロヴィング朝の最後の国王キルデリク3世は出家し
て聖シシュー修道院に幽閉されて生涯を終えます。
 そのカロリング朝の第2代目のフランク国王が、小ピピンの子
であるカール大帝なのです。カール大帝は768年の父王の死に
より、まず王国の北半分を統治し、771年にフランク全国を統
治するにいたるのです。
 そして、遂に800年――王冠が準備され、ローマに来て特別
ミサに出るよう指示を受けて教会にやってきたカール大帝の頭に
教皇は予告なく王冠を載せ、ローマ皇帝に任命するのです。この
瞬間にローマ教皇とメロヴィング家のクロヴィスとの間に結ばれ
た決して破られてはならない協定は破棄されてしまったのです。
 このローマ教会による裏切り行為は、メロヴィング家の保護を
目的として結成されたシオン修道会にとって、絶対に許すことの
できないものであったのです。そしてニュートンはそのシオン修
道会の総長だったのです。  ――[ニュートンの予言/31]


≪画像および関連情報≫
 ・ピピン3世(小ピピン)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ピピンは王位承認の見返りの一環として754年から755
  年にかけてランゴバルト王国のアイストゥルフスと戦い、ラ
  ヴェンナを奪ってローマ教皇ステファヌス3世に献上した。
  これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった。ま
  た759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人をフランス
  人をから駆逐することに成功し、さらにアキテーヌも王国に
  組み入れた。768年にピピンはサン・ドニで死去し、サン
  =ドニ大聖堂に葬られている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94%E3%83%B33%E4%B8%96
  ―――――――――――――――――――――――――――

ピピン3世.jpg
ピピン3世
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2010年04月16日

●聖マラキの予言というものがある(EJ第2254号)

 ニュートンは、ローマ教会が西ローマ帝国を復活させた日から
1260年後に大惨事が人類を襲い、世界の終わりが来る――そ
のときイエスが再臨するといっています。ヨハネの黙示録でも、
「新しいエルサレムが訪れる」といっており、一致しています。
 ニュートンのいう「この世界の終わり」には、何が起きるので
しょうか。ニュートンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この世界の王国は我々の神、キリストの統治する王国となる。
 そして、その統治は永遠に続く。そして永遠に続くという意識
 からすれば、従来のキリスト教の王国や世界の終わり以前のも
 のとは違うものになる。あえていえば使徒の時代のキリストの
 王国に似ている。      ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題は、「使徒の時代のキリストの王国」が何を意味するかで
すが、死海文書で明らかになったエッセネ派のクムラン宗団――
キリストによる原始キリスト教を中心とする時代が来ることを意
味しているのではないかと考えられます。
 「従来のキリスト教の王国」とは、三位一体の教義を掲げる現
在のキリスト教であり、ローマ・カトリック教会――すなわち、
ヴァチカンのことです。そのヴァチカンが、終わりの日――20
60年に倒されるとニュートンは予言しているわけです。
 ヴァチカンといえば、カトリックの総本山です。そんなことは
起こり得ない――このように考える人は多いでしょう。
 しかし、現在ヴァチカンには多くの問題があり、外部的、内部
的に大きく揺らいでいるのです。まさに内憂外患そのものです。
実はヴァチカンがやがて滅びるということは、いろいろなところ
でいわれているのです。
 実は「聖マラキの予言」といわれるものがあるのです。実際に
聖マラキが書いたという確証はないのですが、それには1143
年に即位した165代ローマ教皇ケレスティヌス2世以降112
人の歴代教皇を実際の名前ではなく、短いラテン語の文章で予言
しているのです。正式には次のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「全ての教皇に関する大司教マラキの預言」
   Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis
   Pontificibus
―――――――――――――――――――――――――――――
 あまねく知られているように教皇は、コンクラーベという複雑
な選出方法で選ばれ、事前に予測するなど不可能です。それがな
んと現在の教皇にいたるまで、正確に予言されているというので
すから、驚きです。いくつかご紹介しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2代:「追い払われた敵」 ・・・    ルキウス2世
 第4代:「スプッラ神父」  ・・・ アナスタシウス4世
 第6第:「耐え難い牢獄から」 ・・   ウィクトル4世
 第9代:「守護者たる雁から」 ・・ アレクサンデル3世
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2代のルキウス2世は「追い払われた敵」と書いてあるので
すが、彼の姓「カッチャネミチ」は「敵を追い払う」という意味
があるのです。
 第4代のアナスタシウス4世は「スプッラ神父」と表現されて
いるのですが、彼はまさにそのものずばりスプッラ家の出身だっ
たのです。
 第6代のウィクトル4世は「耐え難い牢獄から」とありますが
実際に彼はトゥリアノ牢獄で聖ニコラスのタイトルを持つ枢機卿
だったのです。
 第9代のアレクサンデル3世は「守護者たる雁から」と書いて
あるのですが、アレクサンデル3世の家紋には雁があしらわれて
いたのです。
 このように、まだ就任していない100人以上の教皇の特徴を
教皇の登位前の姓名、紋章(家紋)、出自、性格、在位機関の歴
史的背景や特徴的な事件など、短い言葉で書かれており、そのほ
とんどが的中しているのです。もっともどっちともとれるものも
あり、こじつけ説やインチキであるという説もあります。
 それでは、最近の事例ではどうでしょうか。
 例えば、第110代の教皇ヨハネ・パウロ2世と現在の教皇ベ
ネディクト16世は次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  第110代:太陽の労働によって:ヨハネ・パウロ2世
  第111代:オリーブの栄光  :ベネディクト16世
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨハネ・パウロ2世については、世界中を回った教皇として有
名ですが、教皇自身を「全地をあまねく照らす太陽」であるとす
る説が有力です。それが「太陽の労働」であると。
 現教皇ベネディクト16世の「オリーブの栄光」については次
の説が有力です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベネディクト16世が襲名したベネディクトはベネディクトゥ
 スと結びつきが深く、このベネディクトゥスはオリーブの枝を
 シンボルとするベネディクト会の設立者である。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 その真偽はともかくとして、マラキの予言は第111代で終っ
ているという説と113代まであるという2説があります。もし
第111代で終っているとすると、現教皇ベネディクト16世を
もって教皇制度は終るということになります。これはニュートン
の予言にとって重要な意味を持つので、明日のEJで検討してみ
たいと思います。      ――[ニュートンの予言/32]


≪画像および関連情報≫
 ・聖マラキの予言は本物か偽物か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1595年にベネディクト会修道士アルノルド・ヴィオンが
  ヴェネチアで刊行した著書『生命の木』 の中で言及したの
  がこの予言の初めての公刊であった。聖マラキが執筆したと
  みなせる史料が現存しない上、1590年以前には伝聞すら
  存在しなかったことから、(今なお信奉者の根強い支持はあ
  るが)偽書と見なすのが一般的である。――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベネディクト16世.jpg
ベネディクト16世
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2010年04月19日

●ヨハネ・パウロ1世の33日目の死(EJ第2255号)

 聖マラキの予言の話を続けます。昨日のEJで述べたように、
聖マラキの予言では、第111代の教皇――既に現教皇ベネディ
クト16世が着座している――までしかないという説が一般的に
なっています。
 しかし、そうすると、現教皇でローマ・カトリック教会の教皇
制度は終わってしまうことになります。これは、その時点でのロ
ーマ・カトリック教会の崩壊を意味しています。
 しかし、聖マラキの予言には別説があるのです。教皇制度は第
113代まで続くと予言されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    第112代:「極限の迫害の中で」
    第113代:「ローマびとペテロ」
             ―― 中見利男著/日本文芸社
   『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 第112代の「極限の迫害の中で」というのはどういう意味で
しょうか。
 これから何年か経って、何らかの事情でローマ・カトリック教
会が非難の的になる事件が起こる――これによって、カトリック
教会は世間から批判を浴び、そういう渦の中で第112代教皇が
着座するということを意味しているようです。
 次の第113代の「ローマびとペテロ」とは、どういう意味で
しょうか。中見利男氏によると、「備考」として次の記述がある
というのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ローマびとペトロ、彼はさまざまな苦難の中で羊たちを司牧す
 るだろう。そして、7つの丘の町(ローマ)は崩壊し、恐るべ
 き審判が人々に下る。終り。 ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 仮に教皇が第113代まで続いたとして、それぞれの教皇が最
長で15年ずつ務めたとすると、全部で45年――この45年と
いう数字をヨハネ・パウロ2世が退位した2005年に加えると
2050年という数字になります。
 もちろんそれぞれの教皇の在任期間は違ってくるので、正確な
予測はできませんが、いずれにせよ2060年に限りなく近づく
ことになります。つまり、聖マラキの予言からもヴァチカンの終
わりの時は暗示されているのです。
 もうひとつヴァチカンについてどうしても触れなければならな
いことがあります。それは「P2」という事件についてです。こ
れはイタリアだけではなく、ヨーロッパ全体を震撼させた20世
紀最大のスキャンダルのことです。ところで「P2」とは、次の
言葉の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        P2 = プロパガンダ2
―――――――――――――――――――――――――――――
 「プロパガンダ2」とは、フリーメイソンのロッジ名です。な
ぜ「2」なのかというと、もともと19世紀に「プロパガンダ」
というロッジがあったので、それとの重複を避けて「プロパガン
ダ2」としたのです。
 ヴァチカンとフリーメイソン――これはお互いに対立組織であ
り、古くから敵対関係を繰り広げてきたのです。そのため、カト
リック教会はフリーメイソンのことを「悪魔の集団」とみなして
きた歴史があります。
 そもそも秘密結社というのは、時の権力がある活動に対して強
い迫害をしたり、取り締まりや規制を強めた結果、それらの行動
を起こす団体が地下組織化して結成されることが多いのです。
 ガリレオを迫害し、宗教裁判にかけたように、かつてのヴァチ
カンは科学を敵視したので、多くの科学者たちはフリーメイソン
に逃げ込み、そのネットワークを維持してきたのです。
 フリーメイソンは科学の追及を思想信条としているのに対し、
カトリックは科学的検証や仮説を立てての実験を行う科学者たち
を神への挑戦者とみなし、宗教世界の最大の敵として迫害してき
た歴史があります。そのフリーメイソンによって、現在ヴァチカ
ンの存続基盤が大きく揺らいでいるのです。
 米国映画に『ゴットファーザーPartV』というのがあります。
1989年に公開された映画であり、ご覧になった方も多いと思
います。この映画は、教皇就任後33日目に死亡したヨハネ・パ
ウロ1世の突然死を長年にわたるヴァチカン、イタリア政界、マ
フィアの3者の癒着を象徴するものであるというプロットで描い
た作品です。
 しかも、この映画の公開された1989年はヴァチカンの問題
で世間が騒然としていた時期だったのです。というのは、ヴァチ
カン銀行の総裁であったマルチンクス大司教――1983年に同
司教に対し、アンブロシアーノ銀行の破綻に関係したとして逮捕
状が出されたのですが、その後なぜか逮捕状は無効とされてしま
う――そのマルチンクス大司教が、ヴァチカン銀行の総裁を退任
したのが1989年なのです。おそらく映画の上映もそういう時
期を狙って行われたものと思われます。
 ヨハネ・パウロ1世という人物はどういう人で、一体何をやろ
うとしたのでしょうか。それになぜ教皇は着座後33日目に急死
することになったのでしょうか。
 ヨハネ・パウロ1世の死については、明日のEJで述べること
にしますが、ヨハネ・パウロ1世は教皇になってから、友人に次
のようにいっていたといいます。
 「ヴァチカンには2つのものが欠けている。『正直』と『うま
いコーヒー』がね」――コーヒーはともかくとして、『正直』と
は何のことでしょうか。   ――[ニュートンの予言/33]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨハネ・パウロ1世とは・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1978年にパウロ6世の死去を受けておこなわれたコンク
  ラーベは1日目の3回の投票で終了した。選ばれたのは65
  歳のアルビノ・ルチアーニであった。彼はさまざまな意味で
  型破りな教皇であった。たとえば、教皇演説の中で伝統的に
  自らを「われわれ」と呼んでいたスタイルをはじめて「私」
  に変えた。豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の
  興の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるをえな
  かった。そして教皇名にも「ヨハネ・パウロ」という複合名
  を初めて採用した。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヨハネ・パウロ1世.jpg
ヨハネ・パウロ1世

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2010年04月20日

●ヴァチカンをめぐるミステリー(EJ第2256号)

 ヴァチカンの最大の敵対勢力は、秘密結社のフリーメイソンな
のです。実はカトリック教会の内部は長い間にわたっていろいろ
な点で腐敗し、堕落していたのです。
 そういうカトリック教会――ヴァチカンに対し、フリーメイソ
ン側はフリーメイソン寄りの枢機卿を送り込み、何とかフリーメ
イソンによる教皇を誕生させようと、あらゆる手段を駆使してい
たのです。
 生え抜きのフリーメイソン枢機卿をつくるため、優秀な若手を
神学校に入れ、司教、大司教と出世させて枢機卿にする――こう
いう工作が着々と行われたといわれます。
 つまり、1960年代から70年代にかけて、ヴァチカン内部
は権謀術数が渦巻くぐちゃぐちゃの状態にあったと考えられるの
です。こういうヴァチカンの体質があとで「P2事件」という一
大スキャンダル事件を引き起こすのです。
 カトリック教会内部の腐敗については、何とか改革しようと真
剣に取り組んだ教皇もいたのですが、いずれも失敗に終わってい
るのです。
 そうしたカトリック教会改革の旗手の一人が教皇ヨハネ23世
なのです。ヨハネ23世は、1962年に公会議史上初めて世界
5大陸から参加者を集めて会議を行ったのです。これが第2ヴァ
チカン公会議です。
 この公会議ではアジョルナメント――教会の現代化が話し合わ
れたのですが、なかなかまとまらなかったのです。途中で会議の
前途に不安を感じた教皇ヨハネ23世は会議をやめようとしたの
ですが、うまくいかず会議招集後6ヶ月後に教皇は急死してしま
います。死因は「心筋梗塞」だったのです。
 このヨハネ23世の遺志を継いだのは、教皇パウロ6世です。
パウロ6世はヨハネ23世の遺志を継ぎ、第2ヴァチカン公会議
を3年間3期続けて行い、必要な改革は成し遂げています。しか
し、それは表向きのことであり、実際にはフリーメイソンのヴァ
チカン深耕は一層進んだとされているのです。
 この第2ヴァチカン公会議以降、「聖」の俗化がはじまり、修
道会などの規律や戒律が緩み、典礼や礼拝や祈りが軽視され、教
会に霊的活力や敬虔さが失われたといいます。
 この時点で教皇を操る3人の枢機卿がいたといわれます。それ
は次の3人です。これらの3人はいずれもフリーメイソンである
といわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ジャン・ヴィロ枢機卿
       2.ジョバンニ・ベネリ枢機卿
       3.アゴスチノ・カザロリ枢機卿
―――――――――――――――――――――――――――――
 この教皇パウロ6世の後を継いだのが、ヨハネ・パウロ1世な
のです。1978年8月26日のことです。この教皇は物静かな
人物で、とても大それた事はできないと思われていたのです。
 1978年9月28日、ヴァチカンナンバー・ワンの実力者で
あるヴィロ枢機卿は教皇から呼び出されたのです。そして教皇か
ら一枚の資料を手渡されます。その資料は、教会史上例のない大
改革の人事異動名簿だったのです。
 名簿には、ヴィロ枢機卿本人はもちろんのこと、ヴァチカン内
のメーソン聖職者、職員などの100人近い解職者の名前が連ね
てあったのです。驚愕したヴィロ枢機卿は、何とかこの改革を留
ませようとしたのですが、教皇ヨハネ・パウロ1世は「只キリス
トの意志に従うままです」と語り、頑として聞き入れなかったと
いうのです。
 その次の日、すなわち9月29日の朝4時45分――ベットで
亡くなっている教皇ヨハネ・パウロ1世をコーヒーを運んできた
修道女が発見します。直ちに駆けつけたヴィロ枢機卿は、教皇の
主治医ではないブジネット医師を呼んで検死されています。死因
は「心筋梗塞」――教皇ヨハネ23世の死因と同じです。
 ところが、教皇は酒もタバコも飲まず、心臓は一度も病んだこ
とがないのです。しかも、3週間前に健康診断で健康体と診断を
受けたばかりなのです。
 1978年8月26日の教皇着座からちょうど33日目――教
皇ヨハネ・パウロ1世はこの世を去ったのです。誰が見ても内部
の誰かに毒殺されたとしか考えられない急死だったのです。
 しかも、死後24時間経たないと防腐処理をしてはならないと
法律で決められているのに、ヴィロ枢機卿は防腐剤をそのまま血
管内に流し込み、迅速に葬儀手続きを進めたのです。これによっ
て、血液検査は不可能になったのです。
 映画『ゴットファーザーPartV』は、この教皇謀殺をプロット
として制作されているのです。また、教皇ヨハネ・パウロ1世の
死を扱った次の小説もあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ジョン・コーンウェル著/林 陽訳
     『バチカン・ミステリー』/徳間書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように書くと、フリーメイソンが悪の巣窟や悪魔集団のよ
うにとられてしまう恐れがあります。事実そういう書き方をして
いる著者もいることは確かです。しかし、それは多くのロッジの
中の一部であって、フリーメイソンのすべてがそうであるという
ことではないのです。
 このヴァチカン内部に巣食っていたフリーメイソンは、このあ
と述べる「P2」というとくに問題のあるロッジだったのです。
しかし、そういう一派の侵食を許すヴァチカン内部も腐敗化が進
行していたのです。
 なお、真偽のほどはわかりませんが、ヨハネ・パウロ1世の前
任者パウロ6世は偽者であり、本物のパウロ6世は密かに殺され
ていたという恐ろしい話も伝わっています。来週は「P2事件」
についてお話しします。   ――[ニュートンの予言/34]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『ゴットファーザーPartV』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コルレオーネ・ファミリーを描いた壮大なドラマの最終章。
  ファミリーのドンとなったマイケル(A・パチーノ)はバチ
  カンの加護を得て一切の犯罪から手を引くことを宣言した。
  だが後継者に甥のビンセント(A・ガルシア)を立てたこと
  から内部抗争に火がついてしまう。自身も病に蝕まれるマイ
  ケルは何とか事態の収拾を図ろうとするのだが……。名作・
  傑作の誉れ高い前2作の後という想像しがたいプレッシャー
  を考えるなら、これはこれで<サーガ>の締めくくりには相
  応しい完成度と言ってもよいだろう。オペラ劇場で迎えるク
  ライマックスと、その後に続く幕切れも充分な感動を与えて
  くれる。過去の因縁によって再び暴力の世界に引き戻される
  マイケルを、老け役で熱演するパチーノや、血気盛んなガル
  シアなどキャスト陣の頑張りも悪くない。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヨハネ23世.jpg
ヨハネ23世
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2010年04月21日

●P2事件とは何か(EJ第2257号)

 1976年のことです。シンドーナというイタリアの有力な銀
行家が、金融破綻を起こして米国に逃亡し、4年後の1980年
にニューヨークで逮捕されます。
 このシンドーナはフリーメイソンのロッジ「P2」のメンバー
であり、マフィアの金を扱っていたのです。シンドーナは、アン
ブロジアーノ銀行の頭取であるロベルト・カルヴィとつながって
おり、そのカルヴィもP2のメンバーだったのです。
 実はアンブロジアーノ銀行というのは、ヴァチカンが援助して
設立させたヴァチカン銀行――正式名称は「宗教活動協会」IO
Rの資金管理を行う銀行なのです。シンドーナが逮捕されたこと
によって、シンドーナとマフィア、それに、ヴァチカン銀行との
つながりが明らかにされることを恐れたP2のロッジマスターで
あるリチア・ジェッリは、とんでもないことをやったのです。
 それは、1981年に白昼のマンハッタンでシンドーナを奪還
したのです。まるで映画のようにです。しかし、この奪還劇の黒
幕がジェッリであることはFBIの知るところとなり、直ちに國
際警察を通じてイタリア警察はジェッリ逮捕のための緊急配備を
敷いたのです。
 しかし、逃げ足の早いジェッリは、間一髪で海外に逃亡してし
まいます。ところが捜査陣がジェッリの家の内部を捜索したとこ
ろ、とんでもないものが見つかったのです。それはフリーメイソ
ン「P2」の全メンバー・リストだったのです。1981年2月
17日のことです。
 このリストがどういうものであったのかは、中見利男氏の著書
からを引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはパワーを秘めたフリーメーソン「P2」の全メンバーリ
 ストだった。そこには、なんとイタリアの法務大臣を含む3閣
 僚、そして数人の首相経験者、50人以上の高級官僚、200
 人以上に上る軍部将校、金融界の大物、20人近くの司法関係
 者と一流紙のジャーナリスト、さらに各政党の指導者、大学教
 授、諜報機関の幹部、メンバーはイタリアのまさに権力、財力
 知力を凝縮したような人物が962人、リストは内閣を凌駕す
 るパワーを秘めていた。   ――中見利男著/日本文芸社刊
     『ニュートンの予言/2006年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第2256号で述べたヨハネ・パウロ1世は、ヴァチカン
にP2が根を張っていることを早くから察知して、一大改革に乗
り出そうとしたので、暗殺されてしまったものと思われます。
 この一大スキャンダルによってフォルラニ内閣は総辞職に追い
込まれ、シンドーナの逮捕されます。これを契機に、イタリアの
政財界、ヴァチカンに根を張ったP2の人脈と不正行為が次々と
暴かれるはずだったのですが、なぜか、捜査の手は、ピタリと止
まってしまったのです。
 アンブロジアーノ銀行頭取のカルヴィにも銀行の資金を不法に
輸出したとして逮捕状が出たのですが、なぜかそれは後で撤回さ
れてしまうのです。そして、カルヴィはシンドーナが逮捕された
ことを受けて、P2のトップに立ったのです。
 カルヴィは、ヨハネ・パウロ1世の後を継いだポーランド出身
のヨハネ・パウロ2世の意向により、アンブロジアーノ銀行から
ワレサ率いる自主管理労働組合「連帯」に米CIAと連携して、
10億ドル以上の資金を提供していたのです。このように、ヴァ
チカンは、アンブロジアーノ銀行の庇護の下に、全世界の反共産
主義の活動組織に対して資金を提供していたのです。
 これに危機感を強めたのは当時のソ連です。ヨハネ・パウロ2
世の行動を「教皇の東方戦略」と呼び、それを一大脅威として警
戒したのです。1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はサ
ンピエトロ広場で、イスラム教徒のトルコ人マフィアに銃撃され
ましたが、未遂に終わっています。
 犯人は逮捕されましたが、事件はKGBが計画したものである
との報道が行われ、2005年になって教皇自身も共産党員によ
るものと自著で発表しています。しかし、真偽については現在も
判明していないのです。
 本当であるとしたら、当時社会主義圏における反体制運動の精
神的支柱となっていたローマ教皇の絶大の影響力を排除しようと
したものと推察されます。ヨハネ・パウロ2世は高徳な人柄の教
皇として有名ですが、その一面においてきわめて政治的で人物で
あったことも確かなのです。
 ヴァチカン銀行はマフィアとの関係も明らかになっているので
す。ヴァチカン市国は主権を持つ独立国家であり、イタリアの司
法権が及ばないので、ヴァチカン銀行をイタリアのマフィアが資
金洗浄の目的で使うので、マフィアとの結びつきが取り沙汰され
ているのです。
 1982年5月にアンブロジアーノ銀行は10億ドルから15
億ドルの使途不明金を抱えて倒産します。それと同時にロベルト
・カルヴィは国外に逃亡します。しかし、その直後にカルヴィは
英国の首都ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋
の下で首吊り死体の姿で発見されたのです。
 しかし、当時は自殺と判断されたのですが、2003年7月に
カルヴィの遺族からの依頼で遺体を堀り起こして再鑑定をした結
果、改めて他殺されたものと判断されたのです。
 また、カルヴィの暗殺前の1979年には、ヴァチカン銀行と
アンブロシアーノ銀行の関係と、その投資内容を調査していたイ
タリア警察の金融犯罪担当調査官のジョルジョ・アンブロゾーリ
が自宅前で銃撃され暗殺されてこと、カルヴィが殺された同月の
1982年には、アンブロシアーノ銀行頭取の秘書を勤めていた
グラツィエラ・コケルも投身自殺しているなど、不可解な死が続
いているのです。
 このようにヴァチカンは内部的に大きく崩壊の危機を迎えてい
るといえます。       ――[ニュートンの予言/35]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨハネ・パウロ2世と狙撃犯との対話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1983年ののクリスマスの2日後、ヨハネ・パウロ教皇は
  狙撃犯人のアジャが収監されている刑務所を訪れた。2人は
  面会し短時間の会話を行ったという。ヨハネ・パウロ2世は
  「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなけれ
  ばならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟
  として話しました」と語った。2005年4月、アジャは教
  皇の訃報を聞き、深い悲しみを覚え、喪に服したことが家族
  により伝えられている。

ブラックフライアーズ橋/英国.jpg
ブラックフライアーズ橋/英国
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2010年04月22日

●西ローマ帝国は現在もある/最終回(EJ第2258号)

 36回にわたって連載してきた「ニュートンの予言」は今回で
終了します。謎のすべては解明されていませんが、資料が十分で
はなく、もっと事実を突き止めるには、さらに多くの情報を集め
る必要があるからです。
 「ニュートンの予言」の核心部分をもう一度整理してみること
にします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2匹の獣と竜が暴れ始めてから、1260日(年)後のそのと
 き彼らは神によって打ち倒される。それは2060年のことで
 ある。           ――中見利男著/日本文芸社刊
     『ニュートンの予言/2006年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここに2匹の獣が登場していますが、それらの獣は次のことを
意味しています。海から上がってくる獣と陸から上ってくる獣の
2匹です。
―――――――――――――――――――――――――――――
     第1の獣(海) ・・・・・ 西ローマ帝国
     第2の獣(陸) ・・・・・  ローマ教会
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2の獣である「ローマ教会」、すなわちヴァチカンについて
は既に詳しく述べています。こちらは間違いなく現在も存在して
います。しかし、第1の獣である「西ローマ帝国」とは何を指し
ているのでしょうか。
 第1の獣である「西ローマ帝国」――カロリング朝は911年
のルートヴィッヒ4世で絶えているのです。それなら、西ローマ
帝国は既に存在しないことになります。
 しかし、考えて欲しいのです。かつての西ローマ帝国は、現在
のドイツ、フランス、イタリア、そしてイギリス、ポルトガルの
規模を誇っていたのです。それに加えて、かつて東ローマ帝国の
首都であったコンスタンティノポリス――現在のイスタンブール
を古都に持つトルコ――そういう国が現在でもあるのです。
 そう、現在のEUこそ西ローマ帝国なのです。しかも、ドイツ
とフランスが牽引車になっている――両国ともローマ教会、ヴァ
チカンの教義が濃密に溶け込んだ国家です。
 EUはヨーロッパの複数の国から成る集合体ですが、ユーロと
いう通貨統合が実現されたとき、事実上EUは単一の国家となっ
たといえます。しかも、ユーロの中央銀行はかつての神聖ローマ
帝国の首都フランクフルトにあるのです。
 ちなみにフランクフルトはロスチャイルドの本家本元で、ここ
に中央銀行を置いたということは、ロスチャイルドグループの復
活という意味があります。ロスチャイルドグループは米国のロッ
クフェラ−に挑戦するグループです。
 先ごろ合意されたEU改革条約は、EUの憲法の締結ともいえ
るものです。したがって、今後西ローマ帝国の皇帝と同じように
EUの大統領が誕生する気配さえあります。
 このEU大統領を狙っているといわれる英国の元首相ブレア氏
は引退後直ちにカトリックに改宗しているのです。彼はローマ・
カトリック教会の権威を背景にして大統領の座を収めようとして
いるのでしょうか。
 そして、2007年には、EU統合の基礎になったローマ条約
締結50周年の節目に当るということで、加盟27ヶ国のすベて
の軍隊がパレードに参加しています。まさにEU軍です。これは
どう見ても西ローマ帝国の軍事力の復活そのものです。
 さらにEUの統合本部のあるブリュッセルのコンピュータ室の
コンピュータには、EU国民のあらゆる個人情報が保管されてい
るのですが、気になるのはそのコンピュータの名前なのです。な
んと「BEAST/ビースト」、すなわち「獣」なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    Battle Engagement Area Sumilator Tracker
―――――――――――――――――――――――――――――
 世界の終わりの日に何が起きるのかについては、聖書にいろい
ろ出ていますが、マタイの福音書には次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       その苦難の日々の後、たちまち
       太陽は暗くなり、月は光を放たず
       星は空から落ち、天体は揺り動かされる
       ・・・・・・・・・・
         ――「マタイの福音書24・29――31」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中に「星は空から落ち」とありますが、これは「彗星」と
とも考えられます。彗星といえば「ハレー彗星」が有名ですが、
ハレーはニュートンの弟子なのです。ハレーは彗星の周期計算を
ニュートンの力学をベースに行っているのです。
 ハレー彗星は76年周期で地球にもっとも接近しますが、最近
では、1986年に地球に接近しています。それでは次に地球に
接近するのはいつでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1986 + 76 = 2062
―――――――――――――――――――――――――――――
 ドンピシャリではないですが、2060年に非常に近い数字が
出ています。不気味な話だと思います。
 「ニュートンの予言」は、他の予言書とは大きく異なり、ニュ
ートンらしく、きわめて論理的、数学的に算出されています。何
しろあの天才が50年以上を費やして聖書を研究したというので
すから、その結果算出された結論には重みがあります。
 このレポートでは一部しか伝えていませんが、さらに細かく知
りたければ、中見利男氏の本を読んでいただきたいと思います。
予言は変えていくことは可能なのです。このまま何もしなければ
そうなるといっているだけです。何を変えればいいかは予言書を
見ればわかると思います。  ――[ニュートンの予言/36]


≪画像および関連情報≫
 ・元英国首相ブレア氏カトリックに改宗
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ブレアがカトリックに改宗したと報じられています。ブレア
  がカトリックである妻シェリーからの影響を受けていたこと
  政治の世界に身を投じることになったのも大学時代の友人で
  あった牧師の影響によるものなどが、これまでも指摘されて
  いました。
    http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/7157409.stm
  イラク戦争、その前のコソボ戦争などで、断固として軍事力
  を行使したブレアの決意の背景には、常に宗教の影響が指摘
  されていました。ブレア自身が首相になる4  年前、労働
  党党首になる1年前に書いた文章を見ると、その考え方が決
  して的外れとはいえないものであることがわかります。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブレア元英国首相.jpg
ブレア元英国首相
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2010年04月23日

●テレサ・テンと『何日君再来』(EJ第1606号)

 今日からのテーマは「テレサ・テン」です。この記事は200
5年6月6日から2005年7月8日まで25回にわたって掲載
されたものであることをお断りしておきます。

 1995年5月8日、月曜日、午後5時30分(タイ現地時間
による)――台湾出身の歌手テレサ・テンがタイのチェン・マイ
のホテルで気管支喘息のため急逝した日です。今年はテレサ・テ
ン没後10年目になるのです。
 今日から始まるテーマは「テレサ・テン」です。可能な限り資
料を集めましたが、量はあまりないので、どこまで書けるかわか
りませんが、やってみようと思います。最初は予告編のような話
からはじめることにします。
 私の場合、テレサ・テンといえばすぐ頭に浮かぶのは「何日君
再来」という歌です。テレサ・テンとこの歌が結びつく人は、か
なりの年配者のはずです。もっと若い人であれば「時の流れに身
をまかせ」とか「つぐない」という歌になると思います。
 この「何日君再来」という歌は、テレサ・テンのCDに収録さ
れているのはほとんど日本語バージョンです。しかし、この曲に
関しては中国語で聴かないとダメです。なぜかというと、ぜんぜ
ん響きというかニュアンスが違うからです。
 新宿3丁目に「香蘭」というスナックがあります。この店は中
国人のママが経営しているのですが、彼女の歌う中国語の「何日
君再来」は絶品。この歌を聴きによく通ったものです。
 今となっては、中国語でテレサ・テンが歌う「何日君再来」を
聴くことは極めて限られていますが、1985年12月15日に
NHKホールで行われたライブ・コンサートでは「何日君再来」
をフルに中国語で歌っています。私はこのレーザーディスク盤を
持っています。確認していませんが、このライブ版はDVD盤で
も発売されているはずです。
 なお、「何日君再来」を中国語で歌っているCDとしては、次
のものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『Top Ten/Teresa Teng/中国語編』
        Taurus TAC−2509
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、中国、台湾、日本において「何日君再来」はテレサ・テ
ンの歌として定着していますが、もともとこの歌はテレサ・テン
の持ち歌ではないのです。実はこの歌にはとても政治的なドラマ
チックな歴史があるのです。
 「何日君再来」は、第2次上海事変がおきた1938年に映画
『孤島天堂』の挿入歌として作られたのです。映画の内容は、あ
る抗日愛国青年が日本軍のスパイから情報を聞き出し、それに基
づいて行動に起こし作戦に成功する――そして、彼の所属する部
隊は次の任地に移動するという内容です。「何日君再来」は、そ
の青年に想いを寄せる酒場の踊り子が去りゆく恋人を想って歌う
歌なのです。つまり、愛する人との別れを歌った歌です。
 この曲はタンゴ調の切ないメロディの名曲で、まず、中国で爆
発的にヒットしたのです。この映画の主演女優リー・リリが歌い
時の上海歌謡のトップ・スターであったチョウ・シュアンが同じ
曲を歌って中国で大ヒットになったのです。
 これに目をつけたのは日本のレコード会社です。日本語の歌詞
をつけては渡辺はま子が「君いつの日帰る」のタイトルで歌い、
続いて「満映」の女優をしていた李香蘭(山口淑子)もこの曲を
レコーディングして、日本でも大変流行したのです。
 しかし、この歌はその後さんざん時の政情にもてあそばれるこ
とになるのです。
 最初は日本軍がこの歌を問題にしたのです。それはこの歌が抗
日映画『孤島天堂』の主題歌であったからです。直接的にはこの
歌の題名が問題にされたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「何日君再来」――ホー・リン・チン・ツァイ・ライ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「何日君再来」の中の「君」は、中国語で「チン」と発音する
のですが、これは「軍」も意味するのです。「軍」も「チン」と
発音するのです。そのため「軍」とは国民党軍の蒋介石を指して
いるのではないかと日本軍が疑ったのです。つまり、この歌の意
味を「いつかは蒋介石が帰ってくる」と解釈したのです。
 戦争が終わると、今度は「君」を日本軍を意味するものとして
台湾ではこの歌を禁止流行歌に指定してしまいます。台湾ではも
とから台湾に住んでいる人を「本省人」、中国大陸から蒋介石と
一緒に台湾に渡ってきた中国人を「外省人」と呼んでいるのです
が、外省人から成る国民党政府は、何かにつけて日本軍統治時代
を懐かしむ本省人を牽制したのです。
 もちろんこの時点の「何日君再来」は、テレサ・テンの歌でな
いことはいうまでもありません。チョウ・シュアンや李香蘭の歌
だったのです。テレサ・テンがこの歌をはじめて歌ったのは彼女
が14歳のときなのです。その最初の歌は、1967年9月に台
湾の宇宙レコードの出したLP――「テレサ・テン(漢字)之歌
第一集/風陽花鼓」に収録されたのです。
 ところが、このときは歌のタイトルを「何日君再来」とはせず
自主規制して名称を変更しています。当時の政情においてこの曲
を台湾で出すことははばかられたからです。しかし、その以後テ
レサ・テンは何回もこの曲を録音することになります。
 中国大陸では、1976年の毛沢東死去以降にテレサ・テンの
歌が流行しはじめるのです。中でも「何日君再来」はとくに人気
があったのです。その時点で「何日君再来」は禁止歌となってい
るのに効果はなく、中国政府は困り果てるのです。
 ところが、北京の音楽評論家が劉雪庵が新説を出します。この
歌は「チン」は軍、すなわち人民軍のことであり、台湾に行った
その軍が大陸にまた帰ってくる――すなわち、台湾が中国に帰っ
てくる歌であるとしたのです。
 結果としてこの歌は、台湾でも中国大陸でもそれぞれ勝手な理
屈をつけて禁止歌ではなくなったのです。これを契機にテレサ・
テンの歌は台湾でも中国大陸でも大流行することになります。
               ・・・[テレサ・テン/01]


≪画像および関連情報≫
 ・何日君再来/いつの日君帰る
   美しい花はいつも咲きはしない
   美しい景色はいつも在るわけではない
   愁いかさなっても笑みを浮かべ
   涙が胸につのる思いを濡らしているけれど
   今宵別れてのち
   いつの日貴方はまた帰って来るのでしょう
   この杯をあけてください
   この料理を召し上がって
   人生で心から酔えることなど何回もない
   いま楽しまなければ何を楽しみとすればよいのだろう
   「さあさ、もう一杯あけてください」
   今宵別れてのち
   いつの日貴方は帰って来るのでしょう
               ―――作詞・作曲/劉雪庵
   平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』より
   晶文社刊


テレサ・テン.jpg
テレサ・テン
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2010年04月26日

●『何日君再来』はなぜヒットしたか(EJ第1607号)

 「何日君再来」についてもう少し書くことにします。それはこ
の曲を最初に歌ったチョウ・シュアンに関することです。なお、
EJで中国や韓国のことを取り上げるときに一番苦労するのは漢
字です。テレサ・テンを漢字表記したとき、ウェブ上では表記で
きても印刷すると文字が欠落してしまったりします。そのため、
長くはなりますが、カナ字で表記することにします。
 「何日君再来」がどんな歌か知らない人も多いと思います。歌
の話をしているのに、肝心の歌を知らないのでは興味が湧かない
と思いますので、「何日君再来」のメロディを最初に聴いてくだ
さい。巻末のアドレスをダブルクリックすると、「何日君再来」
のメロディ(演奏のみ)を聴くことができます。聴いたうえで読
んでいただきたいと思います。
 「何日君再来」を最初に歌ったとされる上海歌手チョウ・シュ
アンについては、次の本で詳しく知ることができます。1988
年に出版された本です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      中薗英助著
      『何日君再来物語』河出書房新社
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本ではこの曲に関する昨日のEJで述べたいきさつが詳し
く述べられています。ところでこの曲の作者は誰なのか――これ
については長い間にわたって不明なのですが、中薗氏はその作者
を追求して突きとめ、その背後に潜むある黒い影の存在に気がつ
くといった興味ある内容になっています。
 この本には「何日君再来」を最初に歌ったチョウ・シュアンに
ついても知ることができます。
 チョウ・シュアンは、1918年生まれであり、中国の極貧の
の家に生まれ、上海の周家の養女になります。小さいときから舞
踊団に入って歌を歌うことをはじめるのです。1932年の「一
・二八事変(第一次上海事変)」の少し前、愛国歌「民族之光」
――歌詞に「敵を手玉にとって倒す」という部分がある――を歌
って時の政府から高い評価を受けるのです。
 それまでチョウ・シュアンという名前は「周旋」と書いていた
のですが、政府は「旋」に「王」という字をへんとして与えてい
るのです(添付ファイル参照)。
 しかし、チョウ・シュアンの名前を決定的に有名にしたのは、
やはり「何日君再来」を歌ってからです。この歌によって、チョ
ウ・シュアンは「中国のリリー・マルレーン」と呼ばれるように
なるのです。1987年11月にTBSテレビがチョウ・シュア
ンのドキュメンタリーを取り上げたことがあります。このときベ
ースになったのも中薗氏の『何日君再来物語』だったのです。
 私は残念ながらチョウ・シュアンの「何日君再来」を聴いたこ
とがないのですが、繊細な感じのソプラノであるといわれていま
す。その歌はまさに中国の歌そのものという感じですが、これに
対してテレサ・テンのそれは多くの楽器を使い、巧みな編曲が施
されてチョウ・シュアンの歌よりも「何日君再来」のメロディが
格段に美しく聞こえます。
 テレサ・テンは「何日君再来」を何回もレコーディングしてい
るのですが、そのたびに彼女はいろいろな工夫を施して歌ってい
ると香港のプロデューサーはいっています。中国の伝統的な歌唱
法を意識して艶のある声で歌い上げているのです。
 テレサ・テンによる「何日君再来」が、なぜ中国大陸に幅広く
普及し、多くの中国人からもてはやされ、親しまれたかについて
は、次の2つの理由があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本の録音技術により、制作されたカセットテープの音質
   が非常に優れていたこと
 2.文化大革命の混乱が収束しつつある中で、人々は政治色の
   ない歌を求めていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「何日君再来」に限らず、テレサ・テンの歌の録音には日本の
優れた録音技術が使われています。そのため、大量にダビングが
行われ、それがすさまじい勢いで市場に大幅に出回ったのではな
いかといわれるのです。
 平野久美子氏の著書である『華人歌星伝説/テレサ・テンが見
た夢』(晶文社刊)には、台湾淡江大学米国研究所のトーマス・
リー教授の次の意見が掲載されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンの歌が大陸に入ったのは、文化大革命の混乱がよ
 うやく収束に向かって、人々が平和で穏やかな社会をむかえた
 がっていた時期なのです。そこに政治色のない、ごく普通の人
 間の感情を歌った曲が、やさしく訴えるような調子で流れてき
 た。大陸の人々はそういう歌に飢えていたのだと思いますね。
                  ――トーマス・リー教授
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何しろ文化大革命といえば、死者1000万人、被害者1億人
経済的損失5000億元といわれるのです。テレサ・テンの歌は
この文化大革命の終焉と深く関与しているのです。
 誰でもイデオロギー色の強い歌ばかりを歌わされていれば、情
緒が枯れてしまうものです。そういうときに台湾や香港から流れ
てくる歌は中国の人にとって精神安定剤として機能したといえる
のです。テレサ・テンの歌い方は北京語の発音が明確であり、歌
の意味がよく聞き取れることに加え、攻撃性が皆無であることや
やさしく感性に訴えてくる特徴があり、誰でも受け入れられるも
のを持っていたといえます。
 このようにして、台湾の歌手テレサ・テンの名声は揺ぎないも
のになっていったのです。テレサ・テンが亡くなったとき、新聞
は一斉に「何日君再来」の見出しを掲げたといわれます。いうま
でもなく、この「君」はテレサ・テンを指しており、彼女がいつ
の日か帰ることを願ったのです。・・・[テレサ・テン/02]


≪画像および関連情報≫
 ・「何日君再来」の聴いてみよう/アドレスをダブルクリック
  音が出ないときは、もう一度やってみてください。
  
 http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~yamakiyo/BGM-heriqunzailai.htm

チョウ・シュアン.jpg
チョウ・シュアン
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2010年04月27日

●テレサ・テンが育った時代環境(EJ第1608号)

 テレサ・テンが生まれたのは1953年1月29日、場所は台
湾です。テレサ・テンの両親は大陸出身のいわゆる外省人――母
親は山東省の出身、父親は河北省の生まれで国民党軍の陸軍中尉
だったのです。
 この台湾という国は、つねに島外の国によって統治されるとい
う不幸な歴史を持っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    オランダの植民地    1624〜1661
    チョン・チェンゴン王朝 1661〜1683
    清国          1683〜1895
    大日本帝国       1895〜1945
    中華民国        1945〜
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 台湾の本省人(台湾人)と呼ばれる人たちは、日清戦争の結果
日本統治が開始される1895年以前に福建省と広東省から移住
してきた人たちが中心を占めるのです。
 日本――当時の大日本帝国は50年に及ぶ統治によって台湾に
近代国家の基礎を築いているのです。なぜなら、清国は台湾の全
土を統治していたわけでなく、台湾西部の一部(全台湾島の3分
の1)しか実質支配していなかったからです。
 台湾の本省人がどちらかというと日本寄りなのは、統治時代の
日本のやったことを評価しているためです。それは、日本の敗戦
による台湾撤収後に大陸からわたってきた新しい為政者である外
省人たちのふるまいがあまりにひどかったからです。
 1949年に蒋介石は台北を暫定首都とし、北京語を正式に台
湾の国語と定め、台湾全土に戒厳令をしいて臨戦体制下に置くの
です。この戒厳令は実に38年間に及び、この間に知識層を中心
に徹底的な人権抑圧や言論統制が行われるのです。そして台湾が
正常化するのは、1987年に李登輝が総統に就任してからなの
です。テレサ・テン一家が台湾にやってきたのも1949年9月
のことなのです。
 テレサ・テン一家もいやおうなしに台湾社会を飲み込む激動の
渦に巻き込まれることになります。一家は慣れない台湾の各地を
転々とするという生活を強いられたのです。そういう引越しの連
続という生活において、テレサ・テンは成長していったのです。
 幼い頃のテレサ・テンは、よく美空ひばりの歌を歌っていたと
いいます。1950年代になると国民党政府は日本統治時代の影
響を何とか消そうと躍起になります。しかし、なぜか日本映画は
条件付きで上映が認められており、映画『君の名は』や美空ひば
りの映画は各地で大ヒットしていたのです。
 テレサ・テンは10歳くらいから素人のど自慢大会に出場し、
賞金を取ってくるようになります。この頃から彼女の名前は少し
ずつ台湾で知られるようになっていったのです。しかし、父親は
彼女が歌の大会に出ることに反対であり、カトリック系の金陵女
子中学に進学させるのです。
 しかし、1966年にテレサ・テンは学校に通うかたわら台湾
電視台――台湾唯一のテレビ局の専属になるのです。そして、月
に1回歌の番組に出演することになります。この頃、あのチョウ
・シュアンは香港に移り、台湾のテレビ局にも出演して懐メロを
歌っていたといいます。
 しかし、このことは学校に隠しており、何とか学校と両立させ
ようとしたのですが、やがて学校にわかってしまい、結局学校を
やめることになるのです。しかし、このことが契機となって娘が
歌の道に進むことに反対していた父親は、彼女が歌のプロを目指
すことをはじめて許すのです。
 そこでテレサ・テンは、テレビの出演に加えて、ライブハウス
(歌庁)にも出演するようになり、やがてテレサ・テン一家は彼
女の収入に頼るようになっていったのです。当時一家は小さな食
堂をやっていたのですが、収入は月に2000元ほどしかなかっ
たのに、テレサ・テンは月に6000元〜8000元も稼ぐよう
になっていったからです。
 1967年9月には、はじめてのLPが発売され、次々とLP
の数は増えていき、やがてテレサ・テンの名前は台湾では知らな
い人はいないほど有名になるのです。しかし、この頃のテレサ・
テンには自分の持ち歌はなく、他の歌手の持ち歌のカバーをして
いたのです。
 彼女がはじめて自分の歌を与えられたのは、4枚目のLPが発
売されたときです。「晶晶」(チンチン)というテレビ番組の主
題歌がテレサ・テンに与えられたのです。このLPの発売日には
多くの人がそのLPを買うために長蛇の列を作ったといわれてい
ます。
 ここで彼女の名前の変遷についてふれておきたいと思います。
本来であれば名前を漢字で表記したいのですが、表記できないの
で、ここまで「テレサ・テン」で通してきています。彼女に最初
につけられた名前は「リーイュン」です。そして教会ではクリス
チャンネームとして「テレサ」をもらったのです。
 テレビに出るようになって「リーチュン」と変えています。こ
こではじめて「君」という字を使ったのです。1970年になる
と、香港に進出して「香港LEEシアター」で歌うようになった
とき、クリスチャンネームと組み合わせて「テレサ・テン」と称
するようになったのです。
 香港の九龍(カオルーン)の「東方」という歌庁でも歌うよう
になります。10人くらいの歌手が一人2曲ずつ歌うのですが、
テレサ・テンには多くのアンコールがかかるので、だんだん順番
が後ろの方になり、いつもトリで歌うようになるなど、テレサ・
テンは押しも押されぬ大歌手への道を突き進んで行ったのです。
 1972年、19歳のとき、テレサ・テンは、香港の10大ス
ターに選出されます。そして「歌迷小姐」という映画で主役を演
ずるようになります。この映画の主題歌「千言萬語」という曲が
大ヒットするのです。     ・・・[テレサ・テン/03]

≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンと最初の出演映画

若い日のテレサ・テンと映画出演.jpg
若い日のテレサ・テンと映画出演
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2010年04月28日

●日本進出のいきさつを探る(EJ第1609号)

 テレサ・テンのテーマが3回進んだところで、今回なぜ、テレ
サ・テンを取り上げたのかについて述べておきます。取り上げる
きっかけは、今年がテレサ・テンの没後10年に当るからです。
EJはニュース性のある記事を取り上げていますので、ひとつの
節目を迎える今年は取り上げるに値すると考えたからです。
 そして何よりもテレサ・テンは謎の多い歌手だからです。偽造
パスポート問題、スパイ説、そして早過ぎる死――謎に包まれて
います。そのあたりを少しでも明らかにしたかったからです。
 これらのテレサ・テンの謎については、私なりに整理すると、
次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンという歌手については国によってその認識に
   おいて大きなギャップがある。とくに日本人の認識と、台
   湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)の人の認識に大
   きな差があること。
 2.テレサ・テンは単なる人気歌手ではなく、台湾と大陸の政
   治的なはざまにおいて、きわめて政治的に利用された歌手
   ではないかとの疑いがあるが、果たしてそうなのか。その
   疑惑を解明したい。
 3.2の問題とも関連するが、なぜ、テレサ・テンは台湾を出
   て香港、パリと住まいを頻繁に変えたのか。そして、なぜ
   タイのチェンマイのようなところで急死したのか。あまり
   にも謎が多いこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつ、テレサ・テンを取り上げようと思ったのは待望の
有田芳生氏の次の著作が出たことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  有田芳生著
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』
  株式会社文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンが急死した1995年といえば、日本はオーム事
件の真っ只中にあったのですが、有田氏はオーム事件を追跡する
かたわら、この本の執筆を早くから予告していたのです。
 私はそれをひたすら待っていたのですが、ようやく今年になっ
て発刊されたのです。この本が入手できたこともテレサ・テンを
テーマに取り上げる動機になったことは確かです。
 現在は上記の1の解明をはじめています。テレサ・テンが日本
ポリドールレコードと契約を結んだのは、1973年のことです
が、1972年の時点でテレサ・テンは香港10大スターに選ば
れていたのです。既にそのときテレサ・テンは、大歌手としての
一歩を踏み出していたのです。
 当時既に、テレサ・テンは華僑の世界ではよく知られており、
各地から声がかかるようになっていたのです。そのため、彼女は
母と一緒に香港、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インド
ネシア、タイなどの東南アジアツアーに出かけています。つまり
台湾だけでなく、東南アジア各国では幅広く知られる歌手だった
のです。しかし、当時日本で彼女の存在を知る者は誰もいなかっ
たのです。
 テレサ・テンに対する日本人のギャップとはこのことをいうの
です。今でも日本人の多くはテレサ・テンを演歌歌手として見て
おり、アジアの大歌手としてはとらえていないのです。このこと
がわかっていないと後に彼女に降りかかる数々の災厄が理解でき
ないと思うのです。
 テレサ・テンに一番最初に目をつけたのは、日本ポリドールレ
コードです。有田氏の本によると、このあたりの事情が詳しく書
かれていて大変興味深いのです。
 1973年3月のことです。日本ポリドールの幹部2人が3泊
4日の予定で香港に出張したのです。出張といっても、香港ポリ
ドールとの懇親を兼ねた旅行であり、とくに特定の仕事があった
わけではないのです。
 しかし、この出張がテレサ・テンを日本にデビューさせるきっ
かけになるのです。香港ポリドールの制作部長と食事をしたあと
彼に連れられて歌庁(ライブハウス)に行ったのです。時間は夜
の9時頃だったそうです。
 興味あるのは香港の歌庁のしきたりです。アルコールが入って
いるお客は、たとえ席が空いていても舞台の近くの席には座らせ
てもらえないのです。そこで、かなり後ろから舞台を見ることに
なったのです。
 そのとき、女性歌手が歌っていたのですが、日本ポリトールの
幹部は最後に3曲歌った歌手に注目したのです。ルックスもよく
歌は抜群にうまい。それに何となく光っている――何という歌手
かと聞くとテレサ・テンだという。日本ポリドールの社員は、当
時テレサ・テンをぜんぜん知らなかったといいます。
 しかし、席がはるかに後ろでよく見えない。そこで翌日もう一
度来ることにしたのです。昼間のうちにテレサ・テンのデータを
集め、酒を飲まないで出かけたのです。前から4番目の席でコー
ラを飲みながら、テレサ・テンの歌を聴いたのです。
 歌のうまいことは昨夜の段階でわかっていたのですが、近くで
見るとインテリジェンスを感じたといいます。これはいける!そ
う考えたポリドールの幹部は、香港ポリドールの制作部長にテレ
サ・テンとのコンタクトを頼んで日本に戻ったのです。
 日本に帰って検討した結果、契約してみようという話になって
日本ポリドールの制作部長舟木稔氏が再び香港に飛び、テレサ・
テン側と交渉をはじめたのです。
 しかし、簡単にいくと思われた交渉は意外に難航したのです。
結局、台湾で父親に会って交渉し、やっとOKをもらったという
のです。そして、1973年4月12日、日本ポリドールレコー
ドは、テレサ・テンと契約を締結するのです。初年度のギャラは
月25万円。大学卒の初任給が5万6千円の時代です。
               ・・・[テレサ・テン/04]


≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンの原稿を書きながら眼の前の書棚を見る。そこ
  に飾ってある写真は、若い頃から爛熟期、そしてうつろな顔
  をしたのもあれば、パリの寝室に貼ってあった貴重な一枚も
  ある。彼女の写真、ビデオなど、机の前後左右には資料や写
  真が積み重ねてある。こういう生活がもう何年も続いていた
  ――有田芳生氏
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』(文
  藝春秋社刊)より

有田芳生氏の本.jpg
有田芳生氏の本
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2010年04月30日

●日本でのヒットが生まれるまで(EJ第1610号)

 テレサ・テンがはじめて日本に来たのは、1973年11月の
ことです。年齢は20歳だったのです。テレサ・テンの日本での
活動は、営業を渡辺プロ、レコーディングはポリドールで行うこ
とになったのですが、彼女のデビュー曲をどのような曲にするか
は大問題だったのです。テレサ・テンの担当マネージャーは桜井
五郎氏(以下、敬称略)――いしだあゆみやアン・ルイス、大信
田礼子などを束ねる腕利きのマネージャーだったのです。
 いろいろ検討が行われた結果、アイドル路線で、ポップス調の
曲でいくことに決まったのです。当時は小柳ルミ子の「私の城下
町」や天地真理の「水色の恋」がヒットしており、ポップス調の
曲が流行していたからです。そのため、テレサ・テンの実際の歳
を1歳ごまかし、19歳でいくことにしたのです。つまり、ター
ゲットを10代に絞ったのです。
 ところで、テレサ・テンのデビュー曲をご存知でしょうか。ほ
とんどの人は知らないと思います。なぜなら、レコードはぜんぜ
ん売れず、売り出しは失敗に終わったからです。
 デビュー曲は、山上路夫と筒美京平の最強コンビによる次の曲
だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『今夜かしら明日かしら』
       作詞/山上路夫 作曲/筒美京平
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 渡辺プロのことですから、キャンペーンは相当力を入れている
のです。45回にわたるテレビ出演、それに加えて日劇での森進
一ショーでも歌う機会を作ったのですが、レコードはほとんど売
れず、オリコンチャートは第75位に終わったのです。
 実は日本ポリドールの舟木制作部長がテレサ・テンと契約をす
るために香港に行ったとき、香港ポリドールはテレサ・テンでは
なく、歌も女優もできる優雅(ユウヤ)というタレントではどう
かと提案したそうです。しかし、舟木氏はあくまでテレサ・テン
にこだわったのです。
 しかし、そのユウヤは既に日本でデビューしており、「処女航
海」というレコードも出していたのですが、このレコードはオリ
コンチャート第24位――テレサ・テンの惨敗だったのです。
 なぜ、売れなかったのか――桜井マネージャーはさんざん考え
た結果、原因は次の2つにあると考えたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.日本語に問題があり、情感が伝わらない
   2.アイドル路線にしたのが裏目に出たこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレサ・テンにとって日本語の修得は大きな壁だったのです。
まして来日直後は日本語をまったく話せず、これが情感を伝える
ことの障壁になっていたことは確かです。それにはっきりしてい
ることはアイドル路線をとって10代のファンからそっぽを向か
れたことです。
 むしろポップス路線よりも演歌の方がいいのではないか――桜
井はふとそう考えたのです。それも中高年層をターゲットとする
演歌ではなく、20代前半の女性向けに演歌にポップス調をプラ
スした曲にしたらどうかと考えたのです。
 こういう演歌を作れるのはあの人しかいない――そう考えた桜
井は、猪俣公章のところに行ってテレサ・テンのために曲を書い
てくれと頼み込んだのです。そのとき筒美京平がテレサ・テン用
の曲を既に4曲も完成させていたにもかかわらずです。
 さらに桜井は編曲にはポップス調で活躍していた森岡賢一郎を
起用してしています。演歌にどっぷりつからず、モダンな感じを
出すための配慮です。このようにして、山上路夫が詞を作り、そ
れに猪俣公章が曲をつけ、森岡賢一郎がアレンジして完成したの
が『空港』です。最初のタイトルは『雨の空港』だったのですが
既に『雨のエアポート』という曲があったために『空港』になっ
たのです。
 1974年7月、テレサ・テンの第2弾シングル『空港』は発
売されます。この曲は桜井の狙い通り、20歳〜25歳までの若
いOLにヒットして、実売で70万枚を超える大ヒットになった
のです。調査によると、中心層はあくまで若い女性だったのです
が、40歳代の男性にも好反応が出ていたのです。これがそのあ
と、20年以上にわたるテレサ・テンの日本での人気を支えるこ
とになるのです。
 この曲のヒットによってテレサ・テンは、1974年のレコー
ド大賞新人賞を獲得したのです。ちなみにそのときの最優秀新人
賞は、麻生よう子の『逃避行』だったのです。
 2曲目にして大ヒットを飛ばしたテレサ・テンではあったが、
日本での扱いはあくまで新人のそれだったのです。しかし、香港
に行くと美空ひばりクラスの扱いを受けるのです。当時はアグネ
ス・チャンの方が、日本でははるかに格が上だったのです。
 有田氏の本にこういう逸話が出ています。香港からリンリン・
ランランがやってきたときの話です。そのとき、控室がテレサ・
テンと相部屋であったので、日本の担当者に抗議したそうです。
彼女たち自身の扱いを怒ったのではないのです。アグネス・チャ
ンには個室を与えているのに、テレサ・テンのような大歌手をな
ぜこのように低く扱うのか――という抗議です。
 テレサ・テンはそういうことには一切クレームをつけなかった
といいます。しかし、最初のうち営業の一環としてのクラブやキ
ャバレーでの仕事にはクレームをつけたといわれています。テレ
サ・テンは、こういう社交場に来る客は歌を聴きにくるのではな
いことにこだわったといいます。
 彼女は台湾や香港でもクラブで歌っていますが、お客は歌を聴
きに来ており、お客のマナーは良かったのです。既に述べたよう
に、香港の歌庁では、酒の入っているお客は、前の席には座れな
いようになっていることからも明らかです。テレサ・テンは歌手
として強い誇りを持っていたのです。
               ・・・[テレサ・テン/05]



≪画像および関連情報≫
 ・『空港』について書かれているサイト

   http://www.megsweet.com/airport.html


今夜かしら明日かしら.jpg
夜かしら明日かしら
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