島というのはかなり大きな島です。
その島の港からガリバルディ率いる赤シャツ隊は、2隻の船に
乗ってシチリア島を目指したのです。そのシチリア島からナポリ
王国軍を追い払った赤シャツ隊はその勢いで、対岸のイタリア半
島の先端に上陸、半島を北上し、ナポリ王国を攻め、滅ぼしてし
まったのです。
「いざ、ローマへ」――ガリバルディ率いる赤シャツ隊はロー
マを目指して北上します。ローマは、ちょうどイタリア半島の中
央部にありますが、そこはローマ教皇の領地になっていて特殊な
場所です。ガリバルディは、そのローマ教皇領に攻め込もうとし
て北上したのです。
カブール首相は「これはまずい」と考えたのです。何しろロー
マは教会の領土なので、単純に武力で征服するわけにはいかない
のです。というのは、ローマ教会の信者はイタリア人だけでなく
全ヨーロッパにいて、ローマには特別な感情を持っており、ここ
を武力征服してローマ教皇を敵に回せば、国際問題に発展しかね
ないと考えたからです。しかも、フランス軍もローマに駐留して
おり、武力衝突も懸念されたのです。
「もし、ガリバルディが教皇領に攻め込むとフランスとの武力
衝突が起きる」――これは絶対に阻止しなければならないと、カ
ブール首相は考えたのです。しかし、自分ひとりでは、ガリバル
ディの進撃を止めることはできないと判断し、サルディニア国王
エマヌエーレ2世自身に出陣を願い、サルディニア軍を率いてイ
タリア半島を南下したのです。
エマヌエーレ2世は、ナポリの北にあるテアノという場所まで
やってきてガリバルディと会見します。ガリバルディは、この直
前に行われた住民投票で、ナポリ王国のサルディニア王国編入が
決まったことを王に報告し、自分が占領した土地をすべて王に献
上し、ローマ進撃の許可をもらおうとしたのです。
しかし、王はこれを許さず、ガリバルディの義勇軍をサルディ
ニア正規軍に編入してしまったのです。王はガリバルディに冷た
かったのです。おそらく青年イタリア党出身で民衆に人気のある
ガリバルディは、危険人物に見えたのでしょう。
それを察知したガリバルディは、これを機に政治の表舞台を去
り、カプレラ島という小さな島で畑を耕しながら余生を送ったと
いわれます。
この思いもかけないガリバルディの活躍によって、ローマ教皇
領とオーストリア支配下のヴェネツィアをのぞいて、イタリアの
大部分がサルディニア王国によって統一されたのです。そして、
1861年にエマヌエーレ2世は、1861年イタリア王国の成
立を宣言し、初代イタリア国王に即位したのです。
しかし、ローマ教皇領だけは簡単に解決できなかったのです。
1870年にイタリア軍はローマを占領し、住民投票で教皇領は
イタリア王国に併合されることになります。同時に、ローマ市街
も王国へ明け渡し、残る教皇領は1万8000平方キロになった
のです。
しかし、教皇ピウス9世は王国側が提案したヴァチカンの「保
障法」を拒否し、イタリア政府に関わる者すべてを破門するとい
う厳しい処置をとったのです。このため、ヴァチカン独立までの
間、イタリア国家と教皇庁は鋭く対立することになります。ヴァ
チカンはカトリックの総本山であるため、この対立はヨーロッパ
全体を巻き込む深刻な問題となり、それがゆえに「ローマ問題」
と呼ばれたのです。
教皇領を奪われたローマ教会は、深刻な財政難に陥っていたの
です。それまで教皇領から得ていた収入を絶たれたことが原因で
すが、これを救ったのはあのムッソリーニです。
月日が流れて教皇ピウス11世が即位すると、イタリア政府と
教皇庁は大きく歩み寄りを見せはじめます。1929年2月11
日、当時のイタリア政府の政権を担っていたムッソリーニは、教
皇庁の権利を定めた「ラテラノ(ラテラン)条約」を提示します。
その内容は、教皇はイタリア王国を承認し、その代わりにイタ
リア王国は教皇主権のヴァチカンを独立国と認め、さらにカトリ
ックがイタリアにおける唯一の宗教であることを確認する、とい
うものです。条約は受け入れられ、ローマ市内にある世界最小の
ヴァチカン市国が誕生したのです。イタリア統一から実に59年
後のことなのです。
ヴァチカンの歴史をこのように詳しく見てきたのは、ローマ・
カトリック教会が中世から現代までのさまざまな時代の政治とい
かに結びつき、その権力と組織を拡大・強化してきたかを認識す
ることが目的です。
ヴァチカンは、東京ディズニーランドよりも小さい地域ではあ
るものの、主権を持つひとつの国家であり、ひとつの宗教団体と
してのレベルを超えています。ヴァチカン市国の国家予算は20
03年度のデータですが、歳入は277億円、歳出は290億円
になっています。
基本的には利益追求の産業活動は行っていないので、「ペテロ
の募金」と呼ばれる世界中のカトリック信徒からの募金や切手の
販売、ヴァチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などの収入
を「宗教活動協会/IOR」を経由して投資運用することによっ
て国家財政を賄っているのです。それに独自通貨を持たないので
以前はリラを使っていたのですが、2002年1月からは、ユー
ロを使っています。
実はラテラノ条約によってヴァチカンは巨額の資金を手にして
いるのです。イタリア政府は条約調印とともに教皇庁に対して、
7億5000万リラを支払うとともに額面10億リラの整理国債
を交付しているのです。これによってヴァチカンが獲得した金銭
は当時のレートで8500万ドル、現時価に換算しておよそ10
億ドル――1500億円です。これらの資金の運用に関してはい
ろいろなことがいわれています。−[ニュートンの予言/21]
≪画像および関連情報≫
・ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義か
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ヴァチカン市国とローマ教皇庁は同義のようだが、微妙に同
義ではない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁
長官がが存在するが、ローマ教皇庁の実質的な責任者は国務
長官が務めている。国務長官はバチカン市国の外交部門の最
高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国
委員会が持っている。委員会のメンバーの任期5年となって
いる。 ――ウィキペディア
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ジュセッペ・ガリバルティ