2010年03月01日

●エルヴィスの死(EJ第2221号)

 金曜日のEJでエルヴィスが1960年10月にRCAビクタ
ーのスタジオで、「スウィング・ダウン・スィート・チャリオッ
ト」をレコーディングした話をしました。実はその同じセッショ
ンでもう一曲レコーディングしているのです。それは、「ジェリ
コの戦い」という曲です。この歌もニグロ・スピリチュアル(黒
人霊歌)ですが、歌は次のようにはじまります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨシュアは エリコ(ジェリコ)の戦いで 大奮闘したとさ
 エリコ エリコ エリコ
 ヨシュアは エリコの戦いで 大奮闘したとさ
 すると エリコの要塞が がらがら崩れ落ちたとさ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 このニグロ・スピリチュアルは、聖書の歴史物語に沿っている
のです。「エリコの戦い」というのは、紀元前13世紀――エジ
プトで捕囚の身となり、奴隷状態にあった古代イスラエル人がエ
ジプトを脱出し、自由の地カノンに逃れるさい、最後に戦った戦
いなのです。
 イスラエル人をエジプトから連れ出したリーダーはモーセ――
彼はエジプトで過酷な生活にあえいでいたイスラエル人をエジプ
トから脱出させ、神の示した「約束の地――カナン」――ヨルダ
ン川の西の地域で、現在のレバノン南一帯を含む地方――を目指
したのです。
 しかし、モーセは旅の途中で死亡し、その後を継いで指導者に
なったのが歌に出てくるヨシュアです。ヨシュアはイスラエル人
を率いてカナンの地に入ったのですが、その前に立ちはだかった
のが堅固な城壁で固められた小国エリコだったのです。
 ヨシュアは強い統率力と的確な判断力を持つリーダーで、彼は
神の命を受けてエリコを攻撃し勝利を収めたのです。その結果、
イスラエル人はカナンの地にやっと定着できたのです。
 奴隷の黒人たちが「ジェリコの戦い」を歌うのは、やがて自分
たちにもエリコのような奇跡が起こり、自由になれることを願っ
てのことなのです。
 この「ジェリコの戦い」は、弾むような軽やかなリズムが特徴
です。私はこの歌が昔から大好きで、多くの音源を持っています
が、圧倒的に素晴らしいのは、やはりエルヴィスの歌う「ジェリ
コの戦い」です。
 エルヴィスは、「The Battle of Jerico」と歌うところに「ア
ラウンド/around」を入れて、「The Battle around Jerico」と
いうように歌っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Joshua fit the Battle around Jerico
     Around Jerico,around Jerico
     Joshua fit the Battle around Jerico
     And the walls come tumbling down
―――――――――――――――――――――――――――――
 「アラウンド」を入れると、音に弾みがつき、ぐるぐる回る感
じが表現できる――前田絢子氏はこのように解説しています。エ
ルヴィスは、こういう点は実にこまかくチェックして工夫を加え
ているのです。そのため、現在「ジェリコの戦い」を歌う歌手は
ほとんどこのエルヴィス・バージョンを使うということです。こ
のエルヴィスの「ジェリコの戦い」――お聴きになっていない方
はぜひ聴いていただきたいと思います。
 1977年8月15日のことです。17日からはメーン州ポー
トランドを皮切りにツァーが始まるので、エルヴィスはその準備
に追われグレイスランドの自宅であわただしく過ごしています。
 夜の10時頃になって歯が痛くなり、歯医者に行って鎮痛剤を
もらって飲んだのです。エルヴィスは何か身体がおかしくなると
医師に薬をもらって飲むという習慣がついてしまっているので、
明らかに彼は薬物依存症に陥っていたと思われます。
 夜中の12時過ぎに自宅に戻ったエルヴィスは、歯の痛みが治
まったので、ツアーで歌う予定の歌を何曲かピアノを伴奏に歌っ
て練習したのです。エルヴィスほどの歌手でも公演前はこうして
熱心に練習しているのです。
 結局、ベットに入ったのは翌16日の午前8時頃なのですが、
寝ようとしても寝られなかったのです。仕方がないので、バスル
ームに入って本を読んでいたときに、エルヴィスは心臓発作に襲
われて倒れたのです。
 救急車で病院に運ばれ、蘇生処置が行われたのですが、午後3
時30分に死亡が確認されたのです。解剖の結果、死因は「不整
脈による心不全」と判定されたのです。
 しかし、遺体からは14種類の処方薬が検出され、とくに鎮痛
剤については通常の10倍近い量が測定されたのです。したがっ
て、エルヴィスの死因は「心不全」というよりも「薬物依存によ
るショック死」であると考えられるのです。
 エルヴィスの主治医はニコポラスといい、エルヴィスは彼のこ
とを「ドクター・ニック」と呼び、家族ぐるみで親しく付き合っ
ていました。いわばニコポラスはエルヴィスの取り巻きの一人で
あり、ツァーなどにも同行していたスタッフなのです。
 また、ニコポラスはメンフィスの開発事業の投機に手を出し、
失敗して大きな借金を抱え込んだのです。そのことを知ったエル
ヴィスはニコポラスに30万ドルという大金を、無利子、無期限
で提供していたといいます。
 ニコポラスは、殺人的なツァーのラッシュで体の不調を訴える
エルヴィスに対して、死の直前7ヶ月の間に5600錠を超える
薬を処方していたのです。明らかにエルヴィスの急死の原因はこ
の薬物中毒にあるといえます。
 ニコポラスは、エルヴィスに不適切な処方をした罪で訴えられ
テネシー州医療厚生委員会から医師免許の取り消し処分を受けた
のです。             ――[エルヴィス/33]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスの死/東理夫氏のサイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  死ぬ前の7年間にエルヴィスは1000回以上のコンサート
  をおこなった。平均すれば1カ月に12回、3日に1回以上
  で、リハーサルとツアーの移動日を考えると、寝るひまもな
  いくらいであり、ワーカホリック状態だった。おそらく、過
  労と食事に起因する糖尿病となんらかの薬物ショックのため
  に(私の推測です)、エルヴィスは1977年8月16日、
  42歳で死んだ。
  http://www.soc.shukutoku.ac.jp/yokoyama/LIBRI/PRESLEY.HTML
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・「ジェリコの戦い」が聴けます!!
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  次のURLをクリックし、表示されたサイトにディスプレイ
  の画面が出るので、画面の中央の「→」キーをクリックする
  と、合唱団による「ジェリコの戦い」が演奏されます。
  http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/spirituals/jericho.htm
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ジェリコ攻略.jpg
ジェリコ攻略
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2010年03月02日

●永遠のアメリカン・ヒーロー(EJ第2222号)

 「エルヴィス死す」のニュースが流れた瞬間、米国のあらゆる
メディアは番組を変更し、特別番組を組んで、全米がエルヴィス
一色に染まったのです。そして、誰もがメンフィスに行こうとし
てメンフィスへの航空券は全部なくなったのです。さらに米国中
のレコード店からエルヴィスのレコードが姿を消し、書店ではエ
ルヴィスについて書いてある本が売れに売れたのです。
 8月17日、エルヴィスの死を知った時の大統領ジミー・カー
ターは、次のような異例の追悼メッセージを出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれアメリカ人は、エルヴィス・プレスリーの死によって
 国の一部を失ってしまった。彼は独創的で比類のない存在だっ
 た。彼は、20年以上も前に忽然と世に姿を現し、まったく先
 例のない、今後も二度と見ることのない大きな衝撃を巻き起こ
 した。彼の音楽とパーソナリティーは白人のカントリー・ミュ
 −ジックと黒人のリズム&ブルースを融合し、アメリカ大衆文
 化を永遠に変容させてしまった。彼の影響力は計り知れない。
 彼は、世界中の人々にとって、アメリカの活力と反骨精神、そ
 して善意の象徴であった。エルヴィスは逝ってしまったが、彼
 の名はわれわれの心のうちに永遠に生き続けるであろう。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて大勢の人がグレイスランドのエルヴィスの自宅にやって
きて収拾がつかなくなったのです。エルヴィスの父親のヴァーノ
ンは、いつもファンを大事にしていた息子の気持ちを思い、彼ら
に棺に眠るエルヴィスに最後の別れをすることを許したのです。
 翌日の1977年8月18日、C・W・ブラッドリー牧師の司
式によって、家族と友人だけのごく内輪の葬儀が執り行われたの
です。そして生前エルヴィスと一緒にショウに出演していた2組
のゴスペル・グループや歌手が、エルヴィスが心から愛したゴス
ペル・ソングや讃美歌を歌っています。
 その日はとくに暑い日で、米国南部の真夏の熱波が降り注ぐな
かをエルヴィスの遺体を乗せた白い霊柩車は17台の白いリムジ
ンを従えてグレイスランドの自宅から墓地まで移動したのです。
その長い車の葬列を8万人以上のファンが猛暑の沿道に立ちつく
して見送ったのです。
 普通の歌手であれば、生前にどんなに人気があったとしてもこ
れで終わりになるだけですが、エルヴィスの場合はむしろそれか
らはじまったのです。それは後に「エルヴィス現象」といわれる
社会現象がエルヴィスの死後はじまったからです。
 最初に起こったのは、暴露本の出版合戦だったのです。それは
大衆の貪欲な好奇心に応えるように執拗に出版が繰り返され、そ
れなりにビジネスになっていったのです。
 しかし、それと平行してエルヴィスのCDやビデオは大きな売
り上げを伸ばしていったのです。とくにエルヴィスの死の2ヶ月
前に発売された次のアルバムは、とくに売れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   エルヴィス最後のアルバム/『ムーディ・ブルー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このアルバムは、エルヴィスの生前に既に「ゴールド・ディス
ク」を達成していたのですが、死後さらにその売り上げを伸ばし
米国内で150万枚、世界では1400万枚に達したのです。ゴ
ールド・ディスクというのは、1OO万枚以上売り上げると与え
られる金製のレコードのタイトルのことです。
 さらにエルヴィスの死後に巻き起こったすさまじい暴露本や暴
露記事に対抗して、エルヴィスの名誉を守るために真のファンが
立ち上がったのす。それはエルヴィスが生前に行った善行を明ら
かにしようという運動です。
 貧しい家庭に育ったエルヴィスは、窮状にある人をそのままに
しておけず、個人や団体に数多くの寄付をしているのです。そう
いうエルヴィスの人道的な業績を公表することによって悪意の暴
露本に対抗しようとしたのです。前田絢子氏はこれについて次の
ように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (エルヴィスは)特に黒人たちには同情的だった。折りにつけ
 て、個人や団体に多額の寄付をしていたので、材料には事欠か
 なかった。チャリティ・ショーからの莫大な収益は、エルヴィ
 ス自身の口座からの寄付金と合わせて、宗教や人種に関係なく
 各種の施設に割り当てられていた。メンフィスのコマーシャル
 ・アピール紙に公表されただけでも、病院、学校、老人ホーム
 障害者施設など、おびただしい数に及んだ。それに加えて窮地
 を救われた多くの個人が次々と名乗りを上げた。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうしたいわゆるエルヴィス現象は、1990年代に入っても
終わらず、1993年には多くのファンの働きかけもあって、米
国郵便局からエルヴィスの記念切手が発行されています。その発
売日、メンフィスでは記念式典が行われ、その様子が全米にテレ
ビで放映されたのです。
 切手は即日完売し、増刷分を含めてその数は1億2000万枚
に達したのです。そして、1997年の没後20周年、それから
さらに10年後の2007年の没後30年には盛大なメモリアル
イベントが行われ、CDやDVDが発売され、エルヴィスについ
ての書籍も発売されています。今回のテーマで数多く引用させて
いただいた前田絢子氏の書籍も没後30周年を記念して2007
年7月31日に発売されたものです。
 34回にわたって書いてきたエルヴィス・プレスリーのテーマ
は今回を持って終了します。長い間にわたってのご愛読を感謝い
たします。        ――[エルヴィス/34/最終回]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスとの思い出
  ―――――――――――――――――――――――――――
  没後30周年を迎えるロックの王様エルヴィス・プレスリー
  は1958年に兵役に就き、ドイツのフリートベルクのにあ
  る米軍兵舎でジープのドライバーをしていた経験があり、没
  後30年を迎えた今もなおその場所に住む人々の記憶に残っ
  ている。米軍事区域の隣にあるクラブでは、当時14歳の少
  女が後に伝説となるロックの神様と腕を組むモノクロ写真が
  飾られている。その日からはや50年、アンジェリカ・スプ
  リンガルフさんは目を輝かせながらエルビスとの時間を回想
  する。少女はエルビスが父親、祖母、二人の友人と共にエル
  ビスが滞在していた町の近郊のバード・ナウハイムに住んで
  いた。――8月17日/AFP
  http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2268532/2026693
  ―――――――――――――――――――――――――――

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エルヴィスの死
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2010年03月03日

●2060年に世界は滅亡する(EJ第2223号)

 今日からのテーマは「ニュートンの予言」です。
 この記事は2007年12月11日から2008年2月5日ま
での36回にわたって連載したものであることをお断りしておき
ます。
 なぜここにきてニュートンなのかについては理由があります。
 2007年6月21日のことです。AP通信が次のような報道
を行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 英国の数学者・物理学者アイザック・ニュートン(1642〜
 1727)は「早ければ2060年に世界の終末が来る」と直
 筆文書に予言していた。旧約聖書を「解読」した結果といい、
 万有引力の発見などで知られる天才が宗教に強い関心を持って
 いたことを示す証拠として注目される。    ――AP通信
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手の世界の終末予言はノストラダムスをはじめ多くの人が
やっているのですが、いずれもマユツバの結果になっています。
そういうわけですから、このAP通信のニュースを知った人は、
「またか」と思った人が多いと思います。
 実は私もその一人なのですが、少し気になったのは、「なぜ、
アイザック・ニュートンなのか」ということです。ニュートンの
一生を振り返ってみると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1642年( 0歳)誕生
 1668年(25歳)学位取得
 1669年(26歳)ケンブリッチ大学ルーカス教授職に就任
 1672年(29歳)王立協会会員に就任
 1687年(44歳)『自然哲学の数学的諸原理』
           (プリンキピア)刊行
 1699年(56歳)造幣局長官に就任
 1701年(58歳)国会議員に選出
 1703年(60歳)王立協会会長に選出
 1705年(62歳)ナイト位授与
 1710年(67歳)グリニッジ天文台監察委員長に就任
 1727年(84歳)死亡
                    ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この経歴を見る限り、彼がこの世界の終末を予言する可能性は
ほとんどゼロに近いのです。しかし、晩年のニュートンには別の
顔があったのです。それを裏付ける証拠はたくさんあります。そ
の一つは、1754年、ニュートンの死後に刊行された次の論文
の存在です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートン著
 『2つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』(1754)
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はニュートンは、聖書の研究を実に50年以上かけてやって
いたのです。そしてそれを4500ページにも及ぶ文書にまとめ
「秘密文書」として保管していたのです。記述された時期は17
00年代の初頭と考えられます。
 なぜ、秘密文書にしたかですが、それは英国国教会の追及を逃
れるためです。その文書はポーツマツ伯爵の邸宅に220年間も
秘匿されていたのです。
 ところが、この文書が1936年にロンドンのオークションで
落札され、はじめてその存在がわかったのです。現在この文書は
ヘブライ大学図書館が保管しており、2007年6月から公開が
許されているのです。
 私はこの話は聞いていたのですが、何しろ情報が限られており
EJのテーマとして取り上げるのは困難と考えていたのです。と
ころが2007年10月になって次の書籍が発売されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  中見利男著/日本文芸社
  『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 早速手に入れて読んでみると、これが実に難解なのです。著者
の中見氏によると、ニュートンの論文は一筋縄ではないというの
です。18世紀の古典的英語に加えて、ヘブライ語、ラテン語、
そしてニュートン独自の記号があり、翻訳者泣かせであって解読
が難しいのです。それに加えて相当聖書の知識がないと理解でき
ない内容なのです。
 しかし、EJでは何回も聖書を取り上げていることであり、そ
の番外編として取り上げたら面白いと考えたのです。年をまたい
での連載になりますが、何とか謎の核心に迫ってみたいと考えて
おりますので、ご愛読のほどお願いします。
 ニュートンは50年間もかけて聖書を研究したといわれていま
すが、それが本当であるとすると、相当若い頃から聖書の研究に
没頭していたことになります。1700年度の初頭に一応の結論
を出しているとすれば、ニュートンが10代の頃からということ
になります。
 1700年の50年前というと、ニュートンがクランサムのグ
ラマースクールに入学していた頃になります。ニュートンはその
後ケンブリッジ大学トリニティカレッジに入学し、一気に才能を
開花させるのですが、聖書の研究はそれ以前からやっていたとい
うことになります。
 実はニュートンの学問的業績は1600年代で終わっており、
その後は、造幣局長官や国会議員、グリニッジ天文台監察委員長
を務めていますが、ほとんど職務には身を入れていないのです。
国会議員のときなどは議会でほとんど発言せず、議会での唯一の
発言は次のこと言葉だったといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         議長、窓を閉めてください
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは政治にはほとんど興味がなかったようであり、単
なる名誉職だったのです。  ――[ニュートンの予言/01]


≪画像および関連情報≫
 ・アイザック・ニュートンとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アイザック・ニュートンは、自然科学(物理・数学)史上空
  前の大天才である。ニュートンに匹敵するのは、ニュートン
  以前ではアルキメデスくらい、ニュートン以後にはまだ出現
  していないのではないか。もっとも大天才といっても、それ
  は物理・数学の天才ということであって人格までが「天才」
  ではないのは当たり前のことである。
   ――http://www.s-yamaga.jp/nanimono/sonota/newton.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

『ニュートンの予言』/中見利男.jpg
『ニュートンの予言』/中見利男
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2010年03月04日

●ニュートンは最後の魔術師である(EJ第2224号)

 ニュートンというと思い出すのは、映画『ダ・ヴィンチ・コー
ド』で、主人公のラングドンとソフィーが暗号に導かれて、ウェ
ストミンスター寺院を訪ねるシーンです。
 この壮麗なゴシック建築のウェストミンスター寺院は、ユネス
コ世界遺産にも登録されている歴史的建造物であり、1065年
の聖別式以来、国王の戴冠式が執り行われ、ダイアナ元王妃の葬
儀もここで執り行われています。
 ここにはアイザック・ニュートンの墓の他にチャーチルなど著
名人を始め、イギリス歴代の王族が眠る埋葬地としても知られて
いるのです。
 ニュートンの墓がどのような墓であるか、ダン・ブラウンの原
作からご紹介しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その墓は大きな黒大理石の石棺と、そこに載ったニュートンの
 彫像からなっていた。古めかしい衣装に身を包んだニュートン
 が積み重ねられた自分の著書に誇らしげに寄りかかっている。
 『神性』、『年代記』、『光学』、そして『プリンキピア――
 自然哲学の数学的原理』。その足もとには、背中に翼のついた
 ふたりの少年が巻く物を持って立っている。斜めにすわったニ
 ュートンの後ろには簡素なピラミッドがそびえている。
             ――ダン・ブラウン著/越前敏弥訳
          『ダ・ヴィンチ・コード/下』 角川文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は映画『ダ・ヴィンチ・コード』の撮影では、ウェストミン
スター寺院に拒否されたので、実際の撮影はイングランド東部の
リンカーン大聖堂で行われたのです。そして、ニュートンの墓は
セットで完全に再現されたのです。
 ついでにニュートンの墓の碑文には、次のように書かれている
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートンここに眠る。ナイトにして、神のごと
 き精神の力と独自の数学原理により、惑星の進行とその形、彗
 星の進路、潮の満ち引き、光線の不同性、そしてどのような学
 者も考えつかなかったこと、つまり作られた色の特質を探求し
 た。勤勉で、思慮分別があり、自然、古雅、聖書の叙述に対し
 て忠実であった彼は、自身の哲学によって全能かつ善なる神の
 威厳を擁護し、独自の方法で単純明快さを示した。これほどに
 偉大なる人類の誇りが存在したことは喜ばしき限りである!
   1642年12月25日誕生、1726年3月20日逝去
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほどの賛辞を贈られるほどの偉人が終末予言などというリ
スクのある行為をなぜしたのでしょうか。ましてニュートンは科
学者中の科学者と多くの人から思われており、予言者というイメ
ージからはほど遠い感じがします。
 しかし、ニュートンをそのように見ていない英国の有名人がい
たのです。その名前はジョン・メイナード・ケインズ――そう、
あの有名な経済学者のケインズなのです。
 実は、1936年のオークションでニュートンの秘密文書をせ
り落としたのは次の2人であり、その1人はジョン・メイナード
・ケインズだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ジョン・メイナード・ケインズ
       アブラハム・ヤツダ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケインズは、ニュートンの秘密文書を読んだ感想について生前
次のように語っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは後世の人々が考えたような「近代に属する最初の
 科学者」ではなく、「最後のシュメール人、バビロ二ア人であ
 り、最後の魔術師」であった。なぜ、私は彼を魔術師と呼ぶか
 ――それは彼が全宇宙をその中にあるものを秘密と考えていた
 からである。(中略)ニュートンは宇宙を全能の神によって課
 せられた暗号と見なしていた。        ――ケインズ
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケインズは早くからニュートンには注目しており、ニュートン
に関する情報を集めていたのですが、1946年のケインズの死
後に遺言によってニュートンの文書類はすべて彼の母校であるキ
ングス・カレッジに寄贈されたのです。
 一方、ニュートンの文書をせり落としたもうひとりの人物、ア
ブラハム・ヤフダ氏は1951年の死にさいして、新しく建国さ
れたイスラエルにニュートンの文書類を一任し、それは1969
年に国立図書館に寄贈され、現在はヘブライ大学に保管されてい
るのです。
 ところで、ニュートンに関しては聖書の研究に加えて錬金術の
研究も行っていたといわれています。しかも、ニュートンはそれ
を造幣局長官時代にやっていたことがわかっています。ケインズ
の文書の中には錬金術の資料も多く含まれていたのです。
 20世紀になって、ニュートンの遺髪の分析により、水銀が検
出されたのですが、これはニュートンが錬金術の実験をしていた
ことを実証する結果となったのです。
 注目されるのは、こうしたニュートンの文書類の中の聖書に関
する記述なのです。「7つのトランペットと7つの鉢の同時性に
ついて」と「黙示録T」、そしてこの世の終末に関する「黙示録
U」の中の「2060年に関して」、「黙示録V」など、興味深
い内容が満載されているのです。中でも「黙示録U」は重要な部
分なのです。        ――[ニュートンの予言/02]


≪画像および関連情報≫
 ・錬金術とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  錬金術とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から
  金属――とくに金を精錬しようとする試みのことである。広
  義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対
  象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。
  錬金術の発達の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学
  薬品の発見が多くなされ、その成果は現在の化学にも引き継
  がれている。――ウィキぺディア 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93
  ―――――――――――――――――――――――――――

アイザック・ニュートン.jpg
アイザック・ニュートン
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2010年03月05日

●『ヨハネの黙示録』のヨハネとは(EJ第2225号)

 今回のテーマは「ニュートンの予言」です。最初に「預言」と
「予言」の違いについて述べておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         神がするのは「預言」
         人がするのは「予言」
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」の2つがありますが、ど
う違うのかをおさえておく必要があります。キリスト教の本質を
なすものは「新約聖書」です。これに対して「旧約聖書」はユダ
ヤ教の経典ですから、すべてがイエスの教えに合致するとは限ら
ないのです。
 しかし、イエスは旧約聖書の世界観を持つユダヤ教徒たちを相
手に教えを説いており、旧約聖書の知識を前提にしています。で
すから、キリスト教を理解するには、旧約聖書の知識を持ってお
くことが求められるのです。
 なお、「旧約」や「新約」の「約」というのは、「契約」とか
「誓約」の「約」であるということです。日本の場合は、島国で
あり、神は日本の国土から生まれたものであって、契約などをし
なくても神は神なので、日本人にとっては「神と契約する」とい
う概念はわかりにくいと思われます。
 ニュートンは聖書を解読するに当たって、旧約聖書と新約聖書
のそれぞれから次のものを研究の対象としているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪旧約聖書≫
  ・「ダニエル書」「ミカ書」「イザヤ書」「エゼキエル書」
 ≪新約聖書≫
  ・「ヨハネの黙示録」その他いくつかな書簡
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンは、歴史的事実を分析し、聖書に登場する言葉や暗
喩の解釈をし尽くしたうえで、その終わりの日、すなわち、Xイ
ヤーは、いつなのかについて解明する作業に入っています。これ
らの中でニュートンがとくに注目していたのは「ダニエル書」で
あるといわれます。そして、そのXイヤーは次のときであるとい
うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヨハネの黙示録がいうところの「竜」と「獣」が一体になり、
 その力がピークに向かい始めるときをいう。 [「」は平野]
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ダニエル書」と「ヨハネの黙示録」には、それぞれ複数の怪
物が登場します。問題は、それらの怪物が何をあらわしているの
かについての解釈のしかたです。これらの「竜」と「獣」が何を
あらわすかについてはこれから考えていきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「ヨハネの黙示録」 ・・・・・ 1匹の竜と2匹の獣
  「ダニエル書」 ・・・・・・・ 4匹の獣
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの黙示録」には謎がたくさんあります。これは新約聖
書の最後に配置された書であって、新約聖書の中では唯一預言書
的性格を持つ書であるといえます。
 というのは、この「ヨハネの黙示録」は「この世界はやがて確
実に破滅する」と述べており、その時期についても、いろいろ解
釈の違いはあるけれども、明確に示しているからです。
 それに新約聖書には4つの福音書があり、その中に「ヨハネの
福音書」というものもあります。これら4つの福音書に加えて、
「ヨハネの黙示録」があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.マタイの福音書
          2.マルコの福音書
          3.ル カの福音書
          4.ヨハネの福音書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、「黙示」というのは、ギリシャ語で「アポカリュプ
ス」を訳したものであり、その原義は「覆いを取る」ということ
です。つまり、「隠されていたものが明らかにされる」という意
味なのです。
 ところで、「ヨハネの黙示録」のヨハネというのはどういう人
物なのでしょうか。
 ところがこれがはっきりしていないのです。何しろ聖書に登場
する人物には「ヨハネ」という名前の人が多いので、実に紛らわ
しいのです。まず、バプテスマのヨハネがいます。洗礼者ヨハネ
ともいわれています。
 イエスはこのヨハネから洗礼を受けたのです。そのとき、ヨハ
ネには多くの弟子がおり、ヨハネ教団を有していたのです。彼ら
の多くは後にイエスの教団に合流しています。
 ヨハネはつねづねいっていたそうです。「わたしよりも優れた
方が後から来られる。わたしはかがんでその方の履物のひもを解
く値打ちもない」と。
 それでは、このヨハネ――バプテスマのヨハネが「ヨハネの福
音書」のヨハネなのか、それても「ヨハネの黙示録」のヨハネな
のかというと、それは明らかに違うのです。
 ただわかっているのは、「ヨハネの福音書」の作者は明らかに
他の3つの福音書――マタイ、マルコ、ルカの作者に比べて、違
う観点、異なる思想を持ってイエスを描いていることは、はっき
りしており、現在では使徒ヨハネ――イエスの12使徒の1人の
ヨハネといわれています。洗礼者ヨハネと区別するため、使徒ヨ
ハネ、またはゼベダイの子ヨハネと呼んでいるのです。しかし、
このヨハネが黙示録のヨハネかというと、そうではないと考えら
れるのです。        ―― [ニュートンの予言/03]


≪画像および関連情報≫
 ・「ヨハネ」とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  旧約・新約をとおしても『黙示録』は聖書の中で最もその扱
  いが議論され、(歴史的にさまざまな理解が示されてきたこ
  とからもわかるように)人々が理解に苦しんだ書である。著
  者「ヨハネ」に関してもほとんど知られていない。伝統的な
  理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙1・2』
  『ヨハネの黙示録』の著者をすべてすべて使徒ヨハネである
  と考えてきた。           ――ウィキペデイァ
  ―――――――――――――――――――――――――――

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使徒ヨハネ/福音書作者
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2010年03月08日

●黙示録は見せながら隠している(EJ第2226号)

 「ヨハネの福音書」の作者であるヨハネは、使徒ヨハネ(ゼベ
タイの子)であることは間違いないといわれていますが、「ヨハ
ネの黙示録」のヨハネが使徒ヨハネと同一人物であるかどうかに
ついては意見が分かれています。
 ところで、キリストの使徒は次の12人です。イエスは自分を
含めて13人になるよう12人を選んだといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ペテロ(シモン)   
       2.アンデレ       
       3.ヤコブ(ゼベタイの子)
    →  4.ヨハネ(ゼベタイの子)
       5.ピリポ        
       6.バルトロマイ     
       7.トマス
       8.マタイ(アルパヨの子レビ)
       9.アルパヨの子ヤコブ
      10.タダイ(ヤコブの子ユダ)
      11.熱心党のシモン
      12.イスカリオテのユダ
―――――――――――――――――――――――――――――
 伝統的な解釈では、「ヨハネの福音書」も「ヨハネの黙示録」
もすべて使徒ヨハネの作であるとしています。西暦2世紀の殉教
者ユスティヌスは、自著の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 キリストの使徒の一人で名をヨハネという人がわたしたちと共
 にいた。彼は自分の受けた啓示によって預言した。
        ――「ユダヤ人とトリュフォンとの対話」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ヨハネの福音書」は預言ではないので、ユスティヌスが上記
の自著の中で「預言」といっているのは「ヨハネの黙示録」のこ
とであると考えられるのです。
 どうして、「ヨハネの黙示録」の著者が使徒ヨハネでないとい
われるのかというと、「ヨハネの福音書」が平易でわかりやすい
のに対して「ヨハネの黙示録」は内容が不気味で、難解であるか
らであり、とても同じ作者であるとは考えられないからです。
 これについては、面白い意見があります。黙示録は「内容を見
せながら隠している」という意見です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 見せながら隠すとは妙な表現だが、隠したい相手には表面的な
 意味しか分からないようにする一方、伝えたい相手には記述以
 上の意味が読み取れるようにするということだ。たとえば、地
 中に宝を埋める場合、そのに上に目印を置くが、あからさまに
 宝のありかを示すような目印では困るし、目印と分からなくて
 も困る。そこには絶妙な匙加減が必要で、黙示録にはそれが仕
 掛けられているのである。
      ――飛鳥昭雄著、『[言霊でしか解けない]聖書』
                        徳間書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 あえて分かりにくくしているのであれば、黙示録の作者はヨハ
ネであっても不思議はないといえます。問題はその隠されたもの
をどうようにして読み解くかということです。
 ノンフィクション作家の神代康隆氏によると、「ヨハネの黙示
録」には次の4つの解釈があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.過去主義的解釈
          2.歴史主義的解釈
          3.未来主義的解釈
          4.象徴主義的解釈
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「過去主義的解釈」です。
 黙示録は、当時のキリスト教会とローマ帝国の闘争の歴史的事
実を象徴的な表現で書いたものであって、そこに示されているこ
とは既に終わっているという考え方です。
 第2は「歴史主義的解釈」です。
 黙示録はヨハネの時代からこの世の終りまでの人類の歴史を一
般的に眺望した書物であるという考え方です。黙示録には既に終
わったこともこれから起こることも含まれているのです。ニュー
トンはこの考え方に立って、黙示録を読み解き、この世の終わり
の時期を予測したのです。
 第3は「未来主義的解釈」です。
 この考え方は、黙示録預言は今後未来において起こると説いて
いるのです。未来に起こるといってもそんなに先のことではなく
この世の終りの時期のことです。その大破局がどのようにして起
こるのかについて描いているというのです。
 第4は「象徴主義的解釈」です。
 これは、黙示録が字義通りの意味のほかに、別な意味が隠され
ているとする考え方です。その謎を説くには、ある特別な方法が
必要であるというのです。この「特別な方法」についてはいずれ
詳しく述べる予定です。
 それでは、現代の聖書学者や黙示録研究家は、この「ヨハネの
黙示録」をどのようにとらえているのでしょうか。
 米国の聖書学者であるヘンリー・H・ハーレイ氏は、次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ことばをその最も明白な意味に取ると、最も単純で、最も明瞭
 で、最も自然で、最も合理的な解釈は「歴史派」と「未来派」
 の解釈を結合させたものである。      ――神代康隆著
     『神の計画書[黙示録]大預言』より/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
              ――[ニュートンの予言/04]


≪画像および関連情報≫
 ・「福音書」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  福音書とはイエス・キリストの言行録のこと。通常は新約聖
  書におさめられた福音書記者による四つの福音書(マタイに
  よる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハ
  ネによる福音書)を意味する。その他にトマスによる福音書
  などがあるが、正典として認められず、外典となっている。
  福音とは本来、「良い知らせ」という意味である。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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言霊でしか解けない/聖書
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2010年03月09日

●黙示録のシンクロニシティ(EJ第2227号)

 聖書――黙示録の預言などというと、頭から信じない人がたく
さんいます。しかし、世の中に不思議なことがたくさんあるとい
う事実は否定できないでしょう。「世にも不思議な物語」という
テレビ番組もありますね。
 ひとつの例を上げます。これは実話です。
 ある大学の教授が学会のため北海道に出張することになったの
です。そのとき、北海道に住んでいる2人の教え子に会いたいと
思い、2人に電話を入れたのです。教え子の一人とは連絡がつき
ある場所で会うことにしたのですが、もう一人の教え子とはどう
しても連絡がとれなかったのです。
 仕方がないので、北海道に着いて、アポが取れた教え子との待
ち合わせの場所に行ったのですが、少し早く着いてしまったので
近くをぶらぶらしているといきなり後ろから声をかけられたので
す。「先生!どうされたんですか!?お久しぶりですね!」と。
 驚いて振り向くと、なんとどうしても連絡のとれなかったもう
一人の教え子が立っていたのです。やがて約束した教え子もやっ
てきて、教授は3人で食事をすることができたのです。
 ちなみにこの教授は、このような出来事によく遭遇するそうで
「人間というのは、不思議な事だが、会いたいと思っている人に
は会えるようになっているんだなぁ」といっています。
 このような話をすると、多くの人は「そんなの偶然の一致」と
片付けてしまいます。しかし、こういう不思議な偶然に注目した
スイスの心理学者がいたのです。その心理学者こそカール・グス
タフ・ユングなのです。
 彼はこの不思議な現象を「偶然の一致」とは呼ばず、「意味あ
る偶然」と名付けたのです。そして彼は、世界に溢れるこの「意
味のある偶然」に注目して、それを「シンクロニシティ」と命名
したのです。「シンクロニシティ」は直訳すると「共時性原理」
――意味のある偶然」という意味になるのです。
 ユングは、「この世の中のもの全ては繋がっていて連動してい
る」といっています。この繋がりは目に見えるものではなく、普
段は意識の底の底に沈んでいて、人間だけでなく、動物、植物、
鉱物から、この世にあるもの全てを繋がっているのです。そして
互いに影響を与え合い、互いに連動して動くのです。世の中にあ
る何かが動けば、他のものも影響を受けて動く、といった感じに
影響力が広がっていきます。
 世の中の動きは、この意味ある偶然の積み重ねによって、直線
的ではなく、らせん状に出来事を繰り返して進んでいくと考えら
れるのです。同じようなことが何回も繰り返されながら、進行し
ていくというわけです。「ヨハネの黙示録」にはそういうシンク
ロニシティが多くみられるのです。
 念のため、シンクロニシティを次のように定義しておくことに
きます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近
 接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で
 規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係
 も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、
 シンクロニシティの作用とみなす。   ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国の16代のリンカーン大統領と35代大統領のケネディ大
統領には驚くべきシンクロニシティがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ●リンカーンが下院議員に初当選したのは1846年。一方の
  ケネディが下院議員に初当選したのは100年後の1946
  年。リンカーンは1856年に大統領選で副大統領候補とな
  り、大統領になったのは1861年。ケネディは1956年
  に大統領選で副大統領候補、大統領になったのは100年後
  の1961年。
 ●リンカーンの後任大統領アンドリュー・ジョンソンは、18
  08年生まれでリンカーン暗殺の10年後に死亡。ケネディ
  の後任大統領のリンドン・ジョンソンは1908年生まれで
  ケネディの暗殺のやはり10年後に死亡している。
 ●リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、18
  39年生まれ、ケネディを暗殺したリー・ハーヴェイ・オズ
  ワルドはやはり100年後の1939年生まれ。
 ●リンカーン暗殺後、犯人のブースは劇場から逃走し、倉庫で
  身柄を確保されている。一方、ケネディ暗殺後、オズワルド
  は倉庫から逃走し、劇所で身柄を確保されていいる。そして
  ブースもオズワルドも裁判が行われる前に、第三者によって
  暗殺されている。
 ●リンカーンもケネディも金曜日に妻の目の前で銃で頭を撃た
  れている。           中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにリンカーンとケネディの周辺では、100年単位で
まったく同じことが起こっているのです。これは、単に個人だけ
ではなく、かつてのローマ帝国でもこういった奇妙な一致が起き
ているのです。
 「ヨハネの黙示録」においては、古代、中世、未来の3つの時
代について預言が行われており、それがシンクロニシティに基づ
いていることをニュートンは発見したと思われるのです。そこで
ニュートンは、シンクロニティを使って、「ヨハネの黙示録」の
中に登場するさまざまな暗号がどの時代のどういう事件を預言し
たものかを判断して絞り込んでいったものと思われます。
 2060年に世界は破滅する――単なる予言ではないのです。
世界的に有名で知らない人はいない天才科学者であるアイザック
・ニュートンが50年もの歳月をかけて計算して出した結論なの
です。そこには確固たる裏付けがあっての結論のはずです。来週
も謎を追います。      ――[ニュートンの予言/05]


≪画像および関連情報≫
 ・シンクロニシティ関連サイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  私がシンクロニシティで大切だと思っていることは意味ある
  偶然です。人は何か偶然の体験をした時、何も気にすること
  はないかもしれません。または、たまたまだ、運が良かった
  だけだよ、こういうこともあるんだな、と思うぐらいかもし
  れません。偶然が偶然を呼ぶことに驚かされることは、多々
  あるのではないでしょうか。この偶然が重なる体験のことを
  私は「意味ある偶然」として、人生において大変意味がある
  考えています。そして、大切なことは、何回も連続して起こ
  る、シンクロニシティ、意味ある偶然の示す意味、方向性、
  テ−マを理解することです。それが、私達がこれから進むべ
  き人生の目標、生まれてきた目的に対するメツセ−ジでもあ
  るからです。
     http://www.office-stella.com/synchronicity.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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リンカーン/ケネディ
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2010年03月10日

●対抗心が強い権威主義者/ニュートン(EJ第2228号)

 アイザック・ニュートン――私たちはニュートンについてどの
くらいのことを知っているでしょうか。
 庭でぼんやりとリンゴの木を見ていたら、リンゴが落ちてきた
ことから引力についてのインスピレーションが湧き、万有引力の
発見をした英国の科学者にして偉人――このぐらいのイメージし
かないのではないでしょうか。
 そこで「ニュートンの予言」の内容に入る前に、ニュートンが
どういう人物だったのかについてご紹介したいと思います。彼は
かなり対抗心の強い人物であったといわれます。
 ニュートンについて、科学者として現在定まっている評価は、
次のようなものであり、評価は妥当であると思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートンは、自然科学(物理・数学)史上空前
 の大天才である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートン以前でニュートンに匹敵するのは、アルキメデスぐ
らいなものであり、ニュートン以後にはニュートンに匹敵する科
学者は出ていないといってよいと思います。それほどの大天才で
あることは確かなのです。
 しかし、その人格はどうであったかというと、かなり自己中心
で対抗意識が強く、猜疑心の強い性格の権威主義者であったとい
われているのです。それは、次の3人の科学者との先取権争いに
よくあらわれていると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.ロバート・フック
     2.ゴットフリート・ライプニッツ
     3.ジョン・フラムスティード
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回は、ロバート・フックとの争いについて述べます。
 ロバート・フックは英国の物理学者で生物学者であり、科学の
さまざまな分野で活躍した人です。彼はどのようなことでニュー
トンと対立したのでしょうか。
 1669年〜1672年にかけて、ニュートンは光に関しての
理論を講義録としてまとめています。そのかたわら、反射望遠鏡
を自ら開発したのです。
 この反射望遠鏡はとても評判になり、これがきっかけとなって
1672年にロンドン王立協会の会員に選出されることになった
のです。そこで、ニュートンは自分の光学に関する理論を王立協
会で発表しようとしたのです。
 しかし、ニュートンの論文を読んだロバート・フックは、ここ
に書かれていることは既に『顕微鏡観察誌』で自分が発表済みの
ことであり、目新しいものは何もないと発表に反対したのです。
ロバート・フックは王立協会の創立者の一人であり、初代事務局
長でもあったので、ニュートンの発表は中止になったのです。
 この一件があってから、ニュートンはそれ以後の学会での発表
には非常に慎重になったのです。彼はその頃既に万有引力の法則
を発見していたのですが、その発表の時期をその後慎重に探るこ
とになります。
 よく知られているように、天動説を覆して地動説を唱えたのは
ニコラウス・コペルニクスです。これは「コペルニクス的転換」
といわれるように、当時としては驚天動地のことだったのです。
 しかし、ひとつだけコペルニクスは大きな間違いを冒していた
のです。その間違いとは、惑星が円軌道を描いて運行するという
点です。
 これを修正したのは、ヨハネス・ケプラーなのです。ケプラー
は、惑星の運動を歪んだ円、もしくは楕円であるとしたのです。
もし、惑星の運動を楕円とすると、他の観測結果とも一致するこ
とが証明され、後に「ケプラーの法則」と名付けられたのです。
 ただ、そのときケプラーは「太陽と惑星の間に磁力のような力
が存在する」ことを確認していたのですが、その正体が何である
かはわかっていなかったのです。
 「距離の2乗に反比例する力によって、惑星は太陽に引かれて
いる」――これはケプラーの法則によって導かれる結論です。こ
の力の正体を突き止めたのはアイザック・ニュートンです。ニュ
ートンはその力を「リンゴが落ちる力と同じである」とし、万有
引力と名付けたのです。しかし、この内容にもロバート・フック
は自分が先であるといい出してニュートンを怒らせます。
 ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーは、ニュートンよりも
14歳も若いのですが、ニュートンをしばしば訪ねて指導を受け
ていたのです。ハレーは、ロバート・フックとの対応でいら立つ
ニュートンをなだめ、資金を提供するからニュートンに万有引力
の法則を論文にまとめるよう働きかけたのです。
 そのようにして完成したのが、『自然的哲学の数学的諸原理』
――「プリンピキア」なのです。「プリンピキア」は1687年
に刊行されたのです。
 その後もロバート・フックは、ニュートンに対し、いろいろ反
対を唱えていたのですが、1703年に死亡してしまい、フック
との先取権争いはニュートンが勝ったのです。そして、フックの
死亡した年にニュートンは王立協会の会長に就任するのです。
 ニュートンが王立協会の会長になり、1705年に爵位を受け
て、サー・アイザック・ニュートンになると、彼は死ぬまでその
地位に居座り続けたのです。ニュートンは権威主義者であり、彼
が会長になると、王立協会には自由な雰囲気がなくなってしまっ
たといわれているのです。
 何もかも規則づくめで堅苦しいものになり、協会の細部の決定
――例えば引越しのことまで、ニュートンは会長として自分の意
見を通したのです。ニュートンは最後まで自分の業績にケチをつ
けたフックの決めた規則をすべて変更するということまでやった
のです。ニュートンの死後、協会長になったハンス・スローンは
その規則を全廃しています。 −−[ニュートンの予言/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・フック(1635〜1703)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロバート・フックは、イギリスの物理学者、生物学者。オッ
  クスフォード大学に学び、ロバート・ボイルの助手となる。
  科学の様々な分野で活躍した。オックスフォード大学の科学
  者たちは、王政が復古した1660年、ロンドンに移り王立
  協会を作る。フックもこれに参加し、1662年に実験係と
  なる。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ロバート・フック
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2010年03月11日

●ライプニッツやフラムスティードとの確執(EJ第2229号)

 ロバート・フックに続いてニュートンと先取権争いをした学者
は、ゴットフリート・ライプニッツとジョン・フラムスティード
の2人です。前者は微分積分の先取権争いであり、後者は月の観
測データを巡る争いです。
 ケプラーの逆2乗則――万有引力の法則の先取権争いについて
は明らかにロバート・フックに分が悪かったといえます。ただ、
そのときニュートンは王立協会の会員になったばかりであり、事
務局長のロバート・フックに抗すべくもなかったのです。
 しかし、微分積分の先取権争いのときのニュートンは高名な学
者になっており、かなり強引な争いをやっているのです。ニュー
トンは王立協会の協会長になると、その地位を利用して各大学に
自分の息のかかった人間を送り込み、やがて英国の科学界に君臨
するようになっていったのです。したがって、ニュートンの逆鱗
に触れると大変であり、多くの学者はニュートンを恐れるように
なったといいます。
 ライプニッツは1684年に微分積分法を発表しているのです
が、ニュートンは1687年にプリンピキアで発表しているので
す。したがって、発表はライプニッツの方が早いのです。しかし
ニュートンは何らかの方法で、ライプニッツが自分の微分積分法
を盗んだと主張したのです。ニュートンは既に1666年に微分
積分法を考案していたと主張したのです。
 ライプニッツの数学的業績としては、第一に微分積分法ですが
それ以上に重要な業績は今日の形式言語に該当するものを考案し
ていることです。この形式言語を利用することで、どのような推
論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることがで
きるのです。また、ライプニッツは2進法も研究しており、後の
コンピュータ開発の基礎になる技術を先取りしていたのです。
 そういうわけですから、ライプニッツがニュートンの微分積分
法を盗んだとはとうてい思えないのです。彼は微分積分法に対す
る適切な記号を考案しており、現在使われている微分積分の記号
は、ライプニッツの考案によるものです。
 それでは、ジョン・フラムスティードとはどういう争いがあっ
たのでしょうか。ジョン・フラムスティードは、英国の天文学者
です。彼は、1666年と1668年に起きた日食を正確に予測
した功績によって、1675年に初代の英国王室天文官に任命さ
れています。
 ニュートンは月についても研究しており、それを前進させるた
め、フラムスティードに月の観測データの提供を求めたのです。
しかし、フラムスティードとしては、もう少し観測精度を上げて
から発表は自分の手で行いたいと考えていたので、ニュートンの
要請を拒否したのです。
 ニュートンははじめのうちは丁重にデータを要求したのですが
拒否されると居丈高になり、その政治力にものをいわせて、子分
にしていたハレーを使って、フラムスティードの観測データを強
引に雑誌に掲載させる措置を取ったのです。
 それに加えて69歳のニュートンは王室協会長として、65歳
のフラムスティードを呼び出して問い詰め、フラムスティードの
言に怒り狂ったニュートンは公衆の面前でフラムスティードに罵
詈雑言を浴びせるということまであったのです。
 これが原因でフラムスティードは失意のうちに1719年に死
亡してしまうのです。このようにして、ニュートンは頑健な体力
で、フラムスティードにも勝ったのです。
 なぜ、ニュートンはかくもフラムスティードに冷たかったのか
というと、それはひとつだけニュートンがフラムスティードに負
けたことがあるからです。
 それは、1680年に現われた彗星をフラムスティードが正確
に1つの彗星であると指摘したのに対し、ニュートンは2つであ
ることに固執したのです。しかし、結局フラムスティードの方が
正しいことをニュートンは認めざるを得なかったのです。
 ニュートンやハレーとフラムスティードとは、天文台長の仕事
の認識が根本から異なっていたのです。ニュートンらは天文台長
は観測データを提供するサービス業であると考えていたのに対し
フラムスティードは観測家として誇りを持ち、少しでも誤差の少
ない観測データを自らの手で発表したいと考えていたのです。実
際にフラムスティードはそういうデータをまとめて、「英国天文
誌」に出版したのですが、生前は出版を差し止められ、出版され
たのは死後の1725年になってからだったのです。
 しょせん、ニュートンとフラムスティードとは学者としても地
位としても差があり過ぎて、争いにならなかっのです。それに加
えてニュートンは健康であり、死の直前まで元気そのものであり
長く英国の学会に君臨したのです。
 後日談ですが、1727年の最後の王立協会の席でもニュート
ンは元気そのものであり、そのとき、第2代の天文台台長になっ
ていた71歳のハレーを観測データの報告が遅いことを頭ごなし
に叱責したというのです。しかし、それから半月後にニュートン
は死亡しています。
 このように見ていくと、ニュートンという人物は科学者として
は一流の人物であったことは確かですが、尊大な権威主義者で、
強大な政治力を持ち、自分に歯向かう者には徹底的にねじふせる
ところのある人物だったようです。
 ニュートンが学者でも政治力が必要であると感じたのは、王立
協会での最初の論文発表が、ロバート・フックに潰されたことが
原因であったようです。もともと性格は臆病であり、自分の研究
発表には異常なほど慎重であったのです。
 このように学会を牛耳る政治力を得たニュートンでも聖書の研
究に関しては、文字通り用心深く秘密裡に行っていたのです。そ
れは、教会勢力を心から恐れていたからです。
 ニュートンの輝かしい業績のどれよりも時間をかけて取り組ん
だ聖書の研究――これに比べれば他の学問的業績は彼にとって附
加的なものに過ぎなかったのです。[ニュートンの予言/07]


≪画像および関連情報≫
 ・「プリンキピア」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『自然哲学の数学的原理』は通称「プリンキピア」とも言わ
  れ、初版は1687年に出たが、本書は1726年にロンド
  ンで出版された第3版である。ニュートンは、早くから無限
  級数を研究して1664年に2項定理を樹立し、流分法の思
  想を求積や接線の問題に応用して、その成果を論文で発表し
  ている。流分法の独立の展開―――微積分法の概念を示した
  『プリンキピア』の構成はエウクレイデスの『幾何学原理』
  の構成をそのまま採用している。『プリンキピア』では定義
  の次に運動の諸公理と題して3原理とそれを補足して6系を
  あげている。いわゆる「ニュートンの運動の3原理」として
  知られているもので、ニュートン力学の根本原理である。
   ――http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/166.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ライプニッツ&フラムスティード.jpg
ライプニッツ&フラムスティード
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2010年03月12日

●ニュートンの錬金術研究(EJ第2230号)

 ニュートンが親しく付き合い、影響を受けていたロバート・ボ
イルという人がいます。アイルランド・リズモア出身の貴族で化
学者、物理学者でもあった人です。
 ニュートンと対立したロバート・フックの師であり、フックを
王立協会――現在の英国国家科学アカデミーの会員にさせたのも
ロバート・ボイルなのです。彼は、フランシス・ベーコンなどと
共に王立協会の設立に関わっている大物の一人です。
 ロバート・ボイルは、1627年生まれであり、イートン校で
教育を受けたのですが、その学寮長のヘンリー・ウットン卿の影
響で、ボイルは秘密結社である薔薇十字団と関わりを持つように
なったのです。
 薔薇十字団というのは、17世紀のヨーロッパにおける話題の
秘密結社であり、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使し、人知
れず世の人を救うことを目的にしているのです。
 1639年にボイルはフィレンツェに行き、長く滞在している
のですが、メディチ家に身を寄せていたといわれます。メディチ
家は薔薇十字団と関係があり、教皇の圧力に対抗して、ガリレオ
らの科学者を保護し、支援していたといわれます。ボイルもその
庇護を受けていた一人なのです。
 薔薇十字団といえば、魔術、錬金術、カバラというものが連想
されますが、ニュートンはそういうものとの接点があったといわ
れるのです。とくに彼は錬金術に凝っていたといわれているので
すが、それを教えたのはロバート・ボイルなのです。
 ロバート・ボイルは、次の論文を書いており、彼の死後それら
はニュートンに預けられています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「水銀と金の加熱」 ・・・・・・・ 1675年
   「金の劣化に関する歴史的考察」 ・ 1677年
―――――――――――――――――――――――――――――
 錬金術とは、化学的手段を用いて卑金属から貴金属――とくに
金を精錬しようという試みのことです。現代から考えると、全く
の愚行として一笑に付することになりますが、歴史を通して見る
と、錬金術は古代ギリシャの学問を応用したものであり、その時
代においては正当な学問だったのです。それどころか、その研究
が、科学である今日の化学の基礎になったのです。
 重要なことは、ニュートンがこの錬金術に尋常ならざる関心を
持ち、錬金術に関する膨大な文献を残していることです。錬金術
は広義に解釈すると、一般の物質を完全な物質に変化・精錬しよ
うとする技術ですが、さらには人間の霊魂をより完全な霊魂に変
性して神に近づける、神と一体になる方法でもあるのです。そう
なると、聖書にも関係してくることになります。
 錬金術は、相対立する物質をフレスコの中で溶解させることで
新たな物質を作り出し、相異する2つの卑金属を合成して黄金な
どの成果を生み出す技術であり、神秘主義や魔術などの異教・異
端に深く関わっているのです。
 したがって、ニュートンが錬金術の研究に尋常ならざる意欲を
もって取り組んでにいたということは、いわゆる異教・異端に関
わっていたことを意味します。ましてニュートンは、英国の造幣
局長官の要職にあり、死ぬまでその職にあったのですから、錬金
術を研究するのは明らかに問題があります。
 聖書は「神の計画書」といわれます。その神の計画を実行に移
すのは、謎の団体――秘密結社であるといわれています。秘密結
社というと、ニュートンはフリーメイソンなのかと考える人がい
るかも知れませんが、ニュートンとフリーメイソンを結びつける
事実はないのです。
 しかし、驚くべき事実があります。それは、ニュートンとシオ
ン修道会との関係なのです。シオン修道会とは、あの映画『ダ・
ヴィンチ・コード』にも出てくる秘密結社です。
 シオン修道会とはどういう団体なのでしょうか。
 次の記事は1981年1月22日付のフランスの新聞に掲載さ
れたものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 121名の著名人で構成される紛れもない秘密結社プリウレ・
 ド・シオン団は、1095年、エルサレムでゴドフロワ・ド・
 ブイヨンが設立したもので、それにはレオナルド・ダ・ヴィン
 チ、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーなどが総長として
 名前を連ねてきた。この結社が1981年1月17日、ブロワ
 で総会を開いた。このブロワの総会で、ピエール・ブランター
 ル・ド・サン=クレールが三度目の投票で92票中83票を獲
 得して総長に選ばれた。総長の選出は、この結社の世界に対す
 る思想と方針に決定的な影響を与えることになる。なぜなら、
 プリウレ・ド・シオン団の121名の幹部は、財界や國際政界
 思想界で隠然たる勢力を誇っているからで、さらにピエール・
 ブランタールは、ダゴベルト2世を経るメロヴィング王家直系
 の子孫にあたっているといわれている。彼の系統は、1891
 年にレンヌ・ル・シャトーの教会でソニエール神父が発見した
 カスティーリャのブランシュ女王の羊皮紙によって法的に証明
 されている。これらの文書は、1965年に神父の姪がローラ
 ンド・スタンモア長官とトーマス・フレイザー卿に売却し現在
 有限会社ヨーロッパ・ロイド銀行のロンドン支店の貸金庫に保
 管されている。        ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 シオン修道会は、11世紀の中世に遡る歴史があるといわれて
います。その根拠としては『秘密文書』といわれる冊子の記述に
あるのですが、この文書については、最後の総長を自認するピェ
ール・プランタールが、自ら捏造であることを1993年に告白
したことによって、現在ではそれが信じられています。しかし、
果たして本当に捏造なのかについては、その根拠というものがな
い状況です。        ――[ニュートンの予言/08]


≪画像および関連情報≫
 ・薔薇十字団とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1614年にヘッセンのカッセルで、匿名の1冊の小冊子が
  出版された。いわゆる「友愛団の名声」である。より正確に
  は「世界の改革」なる小説、「友愛団の名声」、およびアダ
  ム・ハーゼルアイマーの署名のある「尊敬すべき薔薇十字友
  愛団への短い返答」の3文書を収録した小冊子だ。このドイ
  ツ語の冊子は大成功を収め、あっというまに版を重ね、オラ
  ンダ語および英語に訳された。この成功に気を良くしたのか
  翌15年には、「友愛団の名声」の第二版が出た。これには
  「薔薇十字団の告白」なる、新たな文書が収録されていた。
  さらに16年には、3冊目の薔薇十字文書の「化学の結婚」
  が出版された。
    http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/barakigen.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・ボイル.jpg
ロバート・ボイル
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2010年03月15日

●シオン修道会とニュートンの関係(EJ第2231号)

 なぜ「ニュートンの予言」の話にシオン修道会が出てくるのか
というと、ニュートンがシオン修道会の第19代の総長であった
といわれているからです。
 しかし、シオン修道会――プリウレ・ド・シオン団は、現在表
面上は実在しない組織であったということになっています。その
理由は、シオン修道会のことを後世に伝える文書――アンリ・ロ
ビノーの秘密文書が、シオン修道会の最後の総長であると自称し
ていたピエール・プランタール自身がそれらは捏造文書であると
告白したからです。
 このアンリ・ロビノーの秘密文書は、1964年〜67年にか
けて、パリのフランス国立図書館に「アンリ・ロビノーの秘密文
書」と題して6バージョン、匿名者――アンリ・ロビノーからの
寄贈というかたちで登録されたのです。
 それら6つの文書は、メロヴィング朝フランク王国について記
述されたもので、その概要は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.メロヴィング朝フランク王国の家系は現在も続いている
 2.レンヌ=ル=シャトーの謎/別人の名の署名
 3.レンヌ=ル=シャトーの謎/別人の名の署名
 4.第1文書の内容を補う記述
 5.奇妙な詩――「赤い蛇」の署名
 6.「アンリ・ロビノーの秘密文書」というタイトルがある
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1文書の署名は、ピエール・プランタール自身であり、彼は
自らダゴベルト2世の隠された血筋の末裔であるとそこで名乗っ
ているのです。この中で注目すべきは第5文書なのです。
 第5文書は「赤い蛇」という奇妙な名前で登録されているので
すが、この文書の作者は3人いるのです。これら3人は実在の人
物ですが、文書が登録される直前に全員死亡しているのです。ち
なみに文書が登録されたのは1967年のことです。
 これら3人は秘密の記録を残した後、全員が暗殺されたか、自
殺したということをピエール・プランタールは暗示したかったの
ではないかと思われるのです。
 ここまで書くと、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』
を読んだ方は気が付くと思います。そうです。話が非常に似てい
るからです。もしかしたら、ダン・ブラウンは、この第5文書を
読んでシナリオを書いた可能性もあると思います。
 ところで、ピエール・プランタールは、これらの文書は捏造で
あると告白したので、そのため、シオン修道会そのものも実在し
ないものとされてしまったのですが、これは明らかに間違いであ
ると思うのです。
 というのは、フランス政府の官報によると、シオン修道会は実
際に存在した組織であり、1956年6月25日に発足の届け出
が出されているのです。それには届け人として次の2人の名前が
あるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   『カトリック制度と戒律での独立伝統主義騎士団』
   会長  /アンドレ・ボノム
   事務局長/ピエール・プランタール
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところが、この組織の活動の痕跡はほとんどなく、1993年
まで継続したもののその時点で解散しています。この経過から考
えられることは、ピエール・プランタールなる人物がメロヴィン
グ朝フランク王国の末裔を名乗り、『カトリック制度と戒律での
独立伝統主義騎士団』という組織を立ち上げたが、それが実はシ
オン修道会であることを証明するため、秘密文書を捏造してフラ
ンス国立図書館に登録したのではないかということです。
 しかし、この文書が捏造であるといっても、それがシオン修道
会の存在を否定することにはならないのです。それにピエール・
プランタールなる人物、国際社会の中枢を知る人の間では有名な
存在だったようです。彼はあのド・ゴール大統領とも懇意であり
ある意味でフランスを動かせる大物の1人だったといいます。
 フランス政府は、ピエール・プランタールを反政府活動分子と
見ていたようであり、そのバックグラウンドになっているシオン
修道会を別件の裁判を利用して潰しにかかったのではないかとも
いわれているです。
 ところで、このシオン修道会とは何なのでしょうか。ダン・ブ
ラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』でもこの秘密結社が今いちわ
からない存在であり、話の筋がよく読めなかった人が多いと思う
のです。それに、ニュートンがその19代の総長であるというの
は本当のことなのでしょうか。
 メロヴィング朝の家系に関わる資料には「シオン修道会歴代総
長」のリストがあるのです。そこから、第1代から第7代をピッ
クアップしてみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1代 ジャン・ド・ジゾール     1188〜1220
 2代 マリ・ド・サン=クレール   1220〜1266
 3代 ギョーム・ド・ジゾール    1266〜1307
 4代 エドアール・ド・バール    1307〜1336
 5代 ジャンヌ・ド・バール     1336〜1351
 6代 ジャン・ド・サン=クレール  1351〜1366
 7代 ブランシュ・デヴロー     1366〜1398
―――――――――――――――――――――――――――――
 シオン修道会の初代の総長であるジャン・ド・ジゾールは、ノ
ルマンディのジゾール要塞の領主です。なお、2代、5代、7代
は女性の総長です。
 ところで、初代から7代までを見ると、「ジャン」か「ジャン
ヌ」を名乗る人が3人もいますが、これには意味があります。と
いうのは、「ジャン」または「ジャンヌ」は「ヨハネ」のフラン
ス語表記であるからです。  ――[ニュートンの予言/09]


≪画像および関連情報≫
 ・メロヴィング朝とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世が勢力を
  伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴ
  ィング朝を開いた。496年、クローヴィスはカトリック教
  徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたア
  リウス派キリスト教(異端宗派)より家臣4000名ととも
  に正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗
  した。これを「クロヴィスの改宗」という。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

映画『ダ・ヴィンチ・コード』より.jpg
映画『ダ・ヴィンチ・コード』より
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2010年03月16日

●ニュートンは異端の神学者である(EJ第2232号)

 シオン修道会の総長に「ジャン」あるいは「ジャンヌ」を名乗
る者が多いことについては前回述べた通りです。この「ジャン」
あるいは「ジャンヌ」は「ヨハネ」のフランス語表記なのです。
これについて、シオン修道会関係者は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この襲名制度は明らかに、ペトロを原点とする教皇制度とは対
 照的な、ヨハネを原点とする秘教的・魔術的な教皇制度を意図
 したものと思われる。     ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについては、改めて詳しく述べますが、「ペトロを原点と
する教皇制度」とは明らかにローマ教会(カトリック)を指して
いると思われます。
 カトリックではペトロを初代のローマ教皇とみなすのです。こ
れは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与え
られ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなし
ているからです。
 そうであるとすると、シオン修道会は「ヨハネを原点とする教
皇制度」に立脚していて、ローマ教会に対立する組織ということ
になります。そして、その実体はメロヴィング家の子孫たちの組
織ということになるのです。
 しかし、シオン修道会の総長のリストをよく見ると、メロヴィ
ング家の子孫でない人たちも多く入っているのです。その中で誰
でも知っている有名人をピック・アップしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  8代 ニコラ・フラメル      1398〜1418
 11代 サンドロ・ボッティチェルリ 1483〜1510
 12代 レオナルド・ダ・ヴィンチ  1510〜1519
 18代 ロバート・ボイル      1654〜1691
 19代 アイザック・ニュートン   1691〜1727
 24代 ヴィクトル・ユゴー     1844〜1885
 25代 クロード・ドビュッシー   1885〜1918
 26代 ジャン・コクトー      1918〜1963
 27代 ピエール・プランタール   1963〜1984
                ――中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 8代のニコラ・フラメルは血族以外の最初の総長ですが、彼は
錬金術師です。11代のサンドロ・ボッティチェルリは画家であ
り、レオナルド・ダ・ヴィンチと親交があります。そのせいか、
第12代の総長はレオナルド・ダ・ヴィンチです。
 18代はロバート・ボイル、EJ第2230号で述べたように
ニュートンと親交があり、おそらくそのせいでアイザック・ニュ
ートンは第19代の総長になったのでしょう。つまり、前総長と
後継者の間柄です。
 24代から26代までの3人は、説明の必要がないほどの有名
人です。ヴィクトル・ユゴー、クロード・ドビュッシー、ジャン
・コクトー、いずれもシオン修道会の総長をやっているのです。
そして、最後の27代総長が昨日のEJで述べたピエール・プラ
ンタールなのです。
 さらに驚くべきことがあります。名前の横の数字は在任期間を
示しているのですが、それが実に長いことです。レオナルド・ダ
・ヴィンチ36年、ボイル37年、ニュートン34年というよう
に、30年以上やっている人はザラです。一体そんなに長期間何
をやっているのでしょうか。
 もちろん、このシオン修道会の総長リストが本物であるという
証拠はないのです。確かにピエール・プランタールの告白により
文書は捏造ということになっているので、シオン修道会も存在し
なかったことになるのです。
 しかし、後でわかるように、ニュートンのキリスト教に対する
考え方や聖書研究への異常なほどの傾倒ぶりを知ると、彼がシオ
ン修道会の総長であってもおかしくないとも考えられるのです。
 それどころか、いわゆる微積分、光学的発見、万有引力の法則
などの輝かしい業績を持つ数学・物理学者としてのニュートンは
あくまで表看板に過ぎず、本来たどりつくべき彼の本当の顔は異
端の神学者なのです。つまり真の神の声を聞き、それを人類に伝
えるシオン修道会の総長の顔であったのです。だからこそ、ニュ
ートンは予言書を残したのです。
 これについて、中見利男氏は自著において次のように述べてい
ます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 正確には数学・物理学者のニュートンが聖書を研究していたの
 ではなく、実際はその逆で、異端の神学者ニュートンが人生の
 ある時期に数学・物理学者としての顔を持ったに過ぎないとい
 うことだ。          ――中見利男氏の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このテーマは今回が10回目ですが、既にわからないことがた
くさん出てきています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.メロヴィング朝とは何なのか。メロヴィング朝とシオン修
   道会とはどういう関係にあるのか。
 2.ペトロを原点とする教皇制度とヨハネを原点とする教皇制
   度とはどこがどのように違うのか。
 3.キリスト教の「正統」と「異端」の違いは何か。アリウス
   派とアタナシウス派とは何なのか。
 4.シオン修道会という組織は何のために存在し、最終的には
   どのようなことを実施したいのか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらがわからないと、ニュートンの予言は理解することが困
難であると思います。    ――[ニュートンの予言/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ペトロとは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したこ
  とはすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福
  音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの
  墓にかけつけている。『使徒言行録』では、ではペトロはエ
  ルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエス
  の名によって奇跡的治癒を行っている。
                    ――ウィキペディア
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖ペトロ.jpg
聖ペトロ
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2010年03月17日

●メロヴィング家とフランク王国(EJ第2233号)

 「ニュートンの予言」を理解するためには、まず、メロヴィン
グ朝について知る必要があります。メロヴィング朝はフランスの
最初の王朝で、5世紀から8世紀にかけて、現在のフランスとド
イツにあたる領土を統治下に置いていたのです。
 西暦370年頃のことです。ローマ帝国の北方から黒海北岸に
多くのゲルマン人が住んでいたのです。彼らは部族単位で農耕牧
畜で生活をしていました。そこに、フン族という民族が移動して
きたのです。
 このフン族に追われるようにして、ゲルマン人は部族単位で西
に移動をはじめたのです。これが375年頃からはじまった「ゲ
ルマン民族の大移動」です。
 これらのゲルマン民族は、次々とローマ帝国の領地に乱入して
きたのです。現代流にいえば「難民」です。それまでもローマ領
に侵入してくるゲルマン民族は多かったのですが、東西ローマ帝
国は何とかそれを食い止めてきたのです。
 しかし、今回は規模が違っていたのです。それでも東ローマ帝
国は何とか国境の防衛に成功したのですが、西ローマ帝国は防衛
に失敗したため帝国は大混乱し、皇帝はゲルマン人の親衛隊長オ
ドアケルに殺されてしまったのです。
 西ローマ帝国に進入したゲルマン民族は、あちこちに勝手に建
国し、互いに争いをはじめたのです。そのときガリア地方北部に
侵入していた民族がフランク族なのです。
 もともとフランク族は、ライン河河口一帯(現在のオランダ、
ベルギー)に住んでいたのですが、北ガリアに移動してきたので
す。そして、481年にメロヴィング家のクロヴィスがフランク
族を統一し、フランク王国を建国したのです。
 507年にクロヴィスは南ガリアにいた西ゴート王国を破って
イベリア半島に追いやり、ブルグント王国を編入して、ライン川
以東の中小部族を服従させて、メロヴィング朝の版図をライン川
から大西洋・ガロンヌ川まで拡大したのです。
 東ローマ帝国の皇帝はフランク王国のクロヴィスに対して「執
政官」職を与えることにより、事実上西ローマ帝国を継承する代
理支配者として認めたのです。ローマ帝国として、フランク王国
の力を無視できなくなったためです。
 多くのゲルマン民族が建国したものの、長続きしなかったのに
対して、フランク王国は長期にわたって繁栄し続けたのです。そ
れには重要な理由があったのです。それは、フランク王国が早々
にカトリックに改宗し、ローマ教会にしたがったことです。
 ここで、フランク王国のカトリックへの改宗について説明する
必要があります。これについては、2006年7月24日から、
同年9月15日までの40回にわたって取り上げたEJのテーマ
「映画『ダ・ヴィンチ・コード』研究」でも詳しく解説していま
すが、この部分は以後の説明に重要なので、そのポイントについ
て繰り返し説明することにします。
 キリスト教においては次の2つの派があって、ローマ教会はア
タナシウス派に立脚しており、アタナシウス派が正統なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      アリウス派   ・・・・・ 異端
      アタナシウス派 ・・・・・ 正統
―――――――――――――――――――――――――――――
 もともとフランク王国のメロヴィング家のクロヴィスは、アリ
ウス派を信仰していたのですが、それをあえてアタナシウス派に
改宗したのです。政治的にそうした方が国にとってプラスという
判断でやったわけです。
 このアリウス派とアタナシウス派の違いに入る前にユダヤ人の
宗教について述べると、ユダヤ人の宗教には、次の3つがあった
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.サドカイ派
          2.パリサイ派
          3.エッセネ派
―――――――――――――――――――――――――――――
 「サドカイ派」というのは、宗教観は保守的であり、死後の世
界などは信じない現実主義者で、いわば宗教的・貴族官僚という
べき支配階級なのです。
 これに対して「パリサイ派」は、あらゆる事柄に律法を適用し
ようとし、現代の正統ユダヤ教の特徴となる律法遵守の規準を作
り出すなど、宗教に対してはひたむきな一派です。
 最後は「エッセネ派」ですが、この一派は1947年まではあ
まり知られていなかったのです。1947年に『死海文書』とい
うものが発見され、はじめてこの奇妙な集団――「エッセネ派」
のことがわかったのです。彼らは紀元前2世紀中頃から西暦68
年まで、エルサレムの東32キロのところにあるクムランという
砂漠で生活していたのです。
 「エッセネ派」については『封印のイエス』の著者、クリスト
ファー・ナイト/ロバート・ロマスが次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 律法を遵守することで有名なパリサイ派も、このエッセネ派の
 厳格さから比べれば、単に気楽な快楽主義者でしかない。ロー
 マ教会は、常にエッセネ派と初期キリスト教会のつながりを否
 定してきたが、多くの学者が、両者の間には数多くの共通点が
 あったことを認めている。なかでも最も明らかな特徴は、両者
 ともにこの世の終わりを待望する黙示録的ビジョンを持つこと
 である。  クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著/
       松田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究社
―――――――――――――――――――――――――――――
 このクムラン宗団は、イスラエルの民と神との「新たな契約」
を確立したと信じており、パリサイ派と同様に、天使の存在を信
じていたのです。そして、彼らこそ元来のエルサレム教会であっ
たと考えられます。     ――[ニュートンの予言/11]


≪画像および関連情報≫
 ・フン族とはどういう民俗か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  漢代に分裂した匈奴――現代中国語ではション・ヌーに近い
  発音であるが、古中国語では、HUNGNU/フンヌと発音
  すると推定されている――のうち北匈奴と同一の部族とする
  説もある。この説は非常に有名であり、フン族について語ら
  れる時大抵は言及される。      ――ウィキペディア
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F
  ―――――――――――――――――――――――――――

フン族の侵入を描いた絵画.jpg
フン族の侵入を描いた絵画
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2010年03月18日

●メロヴィング朝からカロリング朝へ(EJ第2234号)

 フランク王国は、カトリックに改宗したことによって、ローマ
貴族やローマ教会との関係が良くなり、それが王国維持・拡大に
寄与することになったのです。とくにローマ教会は、西ローマ帝
国以来の政治・軍事上の後ろ楯をフランク王国に望んでいたので
フランク王国は発展していったのです。
 しかし、511年にクロヴィスが亡くなると、男系血統重視の
慣習によって、フランク王国は4人の息子に分割されたのです。
その後王国は分裂と統一を繰り返して、だんだん国力が弱体化し
ていったのです。
 その結果、メロヴィング朝フランク王国は、6世紀の後半には
次の3つに分国されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.アウストラシア
          2.ネウストリア
          3.ブルグント
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃になると、王家は飾りのような存在になり、実権は王家
の執事役の「宮宰」が握っていたのです。そして、3国の中では
アウストラシア王家の宮宰であるカロリング家が実権を掌握する
ようになったのです。
 732年にイスラム教徒が初めてピレネー山脈を越えてフラン
ク王国に侵入してきたのです。このとき、アウストラシアの宮宰
であるカール・マルテルは軍を率いてこれを撃退します。これは
キリスト教世界を守ったとローマ教皇に高く評価され、カロリン
グ家の権威は一段と高まったのです。
 これによりローマ教皇から「適格者こそ王にふさわしい」とお
墨付きを得たマルテルは、751年にメロディング朝の王を退位
させ、息子のピピンを国王に即位させたのです。ここにメルヴィ
ング朝は滅び、カロリング朝が誕生することになります。
 ニュートンは「秘密文書」において、聖書をベースとして大国
の盛衰とローマ・カトリック教会がいかにして力をふるうように
なっていったかについて詳細に記述しているのです。ニュートン
はこうした歴史上の国家や政治的闘争を振り返ることによって、
世界の終末をあぶり出そうとしているのです。
 しかし、ニュートンの記述は論理的、解析的な文章で構成され
ているが、ひとつの概念を解説するために膨大な言葉を費やし、
非常に読みにくいのです。要するに、表現がくどく、理解しにく
いというわけです。そのため、原文をそのままご紹介するのは重
要部分の一部に止め、歴史上の国家や政治的闘争などの記述は、
EJの本文として書いていきます。
 カロリング朝の2代目のフランク王は、ピピンの後継のカール
大帝なのです。カール大帝は、771年にフランク王国全土の統
治者となり、カール大帝は、異教信仰と政治的独立を守り抜いて
いたザクセン族を平定し、773年にはイタリアに遠征。その翌
年、ランゴバルド王国を併合して王位についています。
 当時の北イタリア地域は東ローマ帝国の支配下にあったのです
が、ゲルマン民族の一派であるランゴバルド王国は東ローマ帝国
に敵対行為をとっていたのです。カール大帝はそのランゴバルド
王国を支配下に置いたのですから、フランク王国と連携している
ローマ教会は東ローマ帝国の支配や脅威から大きく解き放たれる
ことになったのです。
 これについて、ニュートンは「秘密文書」に次のように記述し
ているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの事件は773年と774年に起こった。教皇は今や絶
 頂期に達し、敵の脅威から解放され、以後、笏の代わりに2つ
 の王国の鍵を手中し、頭上の3つの王冠をもって繁栄せる治世
 を誇った。         ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中の「これらの事件」とは、カール大帝のランゴバルド王
国を併合して王位につく一連の行動をさしているのです。カール
大帝は、ほとんどのゲルマン系諸部族を統合して西ヨーロッパの
政治的統一を成し遂げたのです。
 時は800年のことです。カール大帝は、教皇レオ3世によっ
てクリスマスのミサに呼び出されます。教会の席に着くと、突如
教皇レオ3世はカール大帝の頭上に王冠を載せると、ミサに参加
していた群集が次のように口々に叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神が王冠を与えたシャルル皇帝(カール大帝のこと)、ローマ
 人の平和の愛する偉大なる皇帝!
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうして西ローマ帝国が復興されたのです。この西暦800年
という年代を記憶しておいていただきたいと思います。
 ローマ帝国が東西に分裂したのは395年のことです。しかし
宗教面に関しては同じキリスト教であり、そこに大きな差異はな
かったのですが、どちらかというと、東ローマの方が幾分優位に
立っていたといえます。教会は次の5つの教会を総本山として信
仰していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.コンスタンティノーブル
        2.アンティオキア
        3.アレクサンドリア
        4.エルサレム
        5.ローマ
―――――――――――――――――――――――――――――
 単に「ローマ帝国」といいますが、ここからは東ローマ帝国と
西ローマ帝国はきちんと分けて考える必要があります。それは、
宗教面における東西教会の分裂がこれから起きるからです。これ
については明日のEJで述べます。[ニュートンの予言/12]


≪画像および関連情報≫
 ・カール大帝について
  ――――――――――――――――――――――――――−
  カール大帝、あるいはシャルルマーニュは、フランク王国の
  国王。カロリング朝を開いた小ピピンの子で、カール1世と
  もいう。768年に弟のカールマンとの共同統治――分国統
  治として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早
  逝したため以後43年間、単独の国王として長く君臨した。
                    ――ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
  ―――――――――――――――――――――――――――

カール大帝の胸像.jpg
カール大帝の胸像
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2010年03月19日

●ニケーア信経が後世に残したもの(EJ第2235号)

 「ローマ帝国」という名前の国は、紀元前27年から1453
年まで確かに存在していきす。必ずしも同一の国家を指すわけで
はないので、単に「ローマ帝国」といっただけでは具体的にどの
国を意味するのかわからないといえます。
 ヨーロッパの歴史を区分する場合、次の基準で「古代」と「中
世」を分類するのです。古代、中世ともにおよそ1000年単位
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    紀元前5世紀〜紀元 4世紀 ・・・ 古代
    紀元 5世紀〜紀元15世紀 ・・・ 中世
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、古代と中世を分ける出来事とは何でしょうか。それ
は次の4つの出来事を上げることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.4世紀のキリスト教公認
        2.ゲルマン民族大移動開始
        3.ローマ帝国の東西の分裂
        4.5世紀西ローマ帝国滅亡
―――――――――――――――――――――――――――――
 一般にローマ帝国というと、中世におけるローマ帝国――すな
わち、東ローマ帝国を意味しています。紀元395年から145
3年にまでの約1000年続いた国家です。この国家は「ビザン
チン帝国」、あるいは「中世ローマ帝国」ともいうのです。
 そもそもどうしてローマ帝国は東西に分割されることになった
のでしょうか。
 4世紀にコンスタンティヌス1世の治世のときの話です。コン
スタンティヌス1世は首都をローマからビザンテュオン(現在の
トルコのイスタンブール)に移し、コンスタンティノポリスと改
称して国の建て直しを図ったのです。このとき、ローマ帝国はひ
とつであり、独立の帝国だったのです。
 コンスタンティヌス1世自身は不敗太陽神を信仰していたので
すが、ローマ帝国をまとめるために新しい宗教が必要であると考
えており、その宗教にキリスト教を選んだのです。しかし、当時
そのキリスト教自体が内部抗争をしており、教義を統一すること
が必要だったのです。そのため後世に「ニケーア公会議」と呼ば
れる宗教会議を開き、教義の統一を図るのですが、その内容につ
いては後から詳しく述べることになります。
 コンスタンティヌス1世の後を継いだテオドシウス1世は、キ
リスト教を国教に定めます。テオドシウス1世は、死に際して帝
国を2分割し、次のように長男と次男に分治させたのです。西暦
395年のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      長男アルカディウス ・・・・・ 東
      次男ホノリウス   ・・・・・ 西
―――――――――――――――――――――――――――――
 これ以後、東は東ローマ帝国、西は西ローマ帝国と名付けられ
対照的な運命をたどることになるのです。
 さて、コンスタンティヌス1世がキリスト教を国教とすること
を考えたとき、キリスト教は内部抗争をしていたと述べましたが
どのような抗争をしていたのかについて考えます。
 それは「イエスは神か人間か」についての論争です。「ニケー
ア公会議」では、コンスタンティヌス1世の臨席のもと、司教ア
リウスと宗教学者アタナシウスは、このテーマについて宗教論争
を戦わせたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 司教アリウスは、イエス・キリストは人間であるのだから、神
 ではないと唱えた。神は神であり、イエスが元来、神であった
 とするのは神への冒涜である。イエスはその行動によって聖な
 る者となったに過ぎない。これに反対したアタナシウスは、父
 と子は(奇妙なことだが)同じ実質なのだと唱えた。投票の結
 果、アリウスは破れ、以後、彼の名は異端者の代名詞とされる
 こととなった。
      クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス著/松
        田和也訳、『封印のイエス』より/学習研究者
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会議は宗教会議ですが、きわめて巧妙に仕掛けられた政治
的な会議であったのです。ローマ教会としてはイエスが神でない
と絶対に困るわけです。コンスタンティヌス1世としてはキリス
ト教にはあまり関心がなかったのですが、母親の聖へレナが熱心
なキリスト教信者であったので、ローマ教会の望む方向に一本化
を図ったのです。その方が国の基盤は磐石になるからです。  
 それまで「異端」という意味は、はっきりとしていなかったの
ですが、コンスタンティヌス帝はこのニケーア信経――ニケーア
公会議で制定されたもの――を根拠にして皇帝のいうことが真実
であり、それ以外は異端として正統と異端を明確にしたのです。
 これに基づき、多くの文書が正典から外され、それらには「グ
ノーシス的」というレッテルを貼ったのです。コンスタンティヌ
ス帝とローマ教会は、これによって大きな力を得たのです。
 それは、自らの都合によって仕上げた教義に合わないものは何
でも破壊することができたからです。そこには何が真実かという
ことは重要ではなかったのです。それが、イエス・キリストに関
しては新約聖書の貧弱な記述以外はほとんどわかっていないとい
う現状を生んだのです。
 とくにローマ教会は、イエスが神ではなく、人間であったとい
う証拠になるものは徹底的に隠蔽し、消滅を図ってきたのです。
その最たるものは、エジプトのアレキサンドリアの図書館を焼き
討ちし手かがリとなる貴重な資料を焼いてしまったことです。ま
た、ニケーア信経に違反することを述べたり、書いたり、説いた
ものは死刑にするというようなこともやったのです。目的には手
段を選ばなかったのです。  −−[ニュートンの予言/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ニケーア公会議とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ニカイア公会議(ニケア、ニケーアとも)は、325年3月
  20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現ト
  ルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教のの歴
  史で最初の全教会規模の会議(これを公会議という。正教会
  の一員たる日本正教会の訳語では全地公会)
                    ――ウィキペデイア
  ―――――――――――――――――――――――――――

コンスタンティヌス1世像.jpg
コンスタンティヌス1世像
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2010年03月23日

●死海文書とクムラン宗団(EJ第2236号)

 初期のキリスト教について知る手ががりとなる「死海文書」と
いうものがあります。1947年から1956年にかけて、イス
ラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くにある11の洞窟の
中から発見されたのです。
 この文書の発見によって、クムラン周辺で宗教生活を送ってい
た奇妙な集団――クムラン宗団のことがわかったということにつ
いては既に述べた通りです。このクムラン宗団が、これらの死海
文書を著したのではないかといわれているのです。
 この文書は、紀元前2世紀から西暦68年までに書かれたもの
ですが、約800巻の断片から成り立っており、その中には「写
本」というかたちをとっているものが多くあります。そのため、
「死海写本」とも呼ばれているのです。
 この文書が「写本」といわれるのは、線が細く、少ないインク
の量で文字が流れるように書かれており、単語綴りに間違いがな
く、行間が狭いことから考えて、プロの筆記者によるものである
ことは間違いがないといわれています。筆耕分析によると、数百
人の異なった筆跡であることが確認されており、相当大勢の人に
よって記述されたものといわれています。
 このことから考えてこれらの写本は、紀元70年のユダヤ戦争
以前にエルサレム神殿図書館から流出したものではないかと考え
られるのです。一説によると、エルサレム神殿祭司たちはユダヤ
戦争中、ローマ軍が神殿に入って図書館を検査して、ユダヤ戦争
の原因となったユダヤ過激派たちに関する文書が見つかると神殿
の立場が危なくなると心配して、書類を持ち出して隠したのでは
ないかといわれているのです。
 そんなに危険な文書なら焼いてしまえばよいと考えるかも知れ
ませんが、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ
渦激セクトによって書かれたものであっても、焼くことは禁止さ
れていたのです。
 もともとクムランは要塞都市といわれるように、ユダヤ軍の基
地の一つだったのです。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ち
こたえたほどの要塞だったのです。エルサレム神殿図書館から写
本を持ち出した一行はクムラン要塞の軍人に文書保管を依頼した
が断られ、要塞の下のヨルダン川に無数に点在する天然の洞窟に
文書を隠したのではないかと考えられているのです。死海文書は
次のような文書で成り立っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ヘブライ語聖書 ・・・・・・・・・・・・ 30%
 2.伝統的なユダヤ教の宗教文書 ・・・・・・ 25%
 3.クムラン宗団と思われる宗教活動 ・・・・ 30%
 4.ヘブライ語で記述された不明の文書 ・・・ 15%
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、このクムラン宗団は、死海の周辺で厳しい修行をしてい
たのですが、その修行場がどんな場所であるかについて次の記述
が参考になるので、ご紹介しておきます。ここは、イエスが宗教
活動の拠点としたガリラヤ湖とも近い場所なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヘルモン山の雪解け水が死海のある南に向かって流れているの
 がヨルダン川で、その途中にあるのがガリラヤ湖である。そこ
 でヘルモン山からガリラヤ湖までを上ヨルダン川、ガリラヤ湖
 から死海までを下ヨルダン川と呼ぶことがある。死海は、まさ
 に地の果てである。ここでヨルダン川は行き止まりになってい
 る。雨の多いところなら水がたまり、やがて海につながること
 もあるのだろうが、何しろ周囲は砂漠であるから、死海の水は
 どんどん蒸発する。川は谷を削って地中の塩分を溶かし込むの
 で死海の塩分はどんどん濃くなっていく。その死海を見下ろす
 クムラン僧院の洞窟は、死海から見れば高い崖の上だが、標高
 800メートルの山地にあるエルサレムから見れば低い土地に
 ある。このあたりはカルスト地形で、鍾乳洞が多い。その洞窟
 の中で数多くの修行者が肉体と精神の鍛錬を続けていた。これ
 が、エッセネ派なのであ
 る。   ――三田誠広著、『ユダの謎/キリストの謎』より
                NONブック/祥伝社424
―――――――――――――――――――――――――――――
 「死海文書」研究の専門家であるロバート・アイゼンマン教授
によれば、西暦40〜50年頃のクムラン宗団の指導者は「義人
ヤコブ」であるといっています。ローマ教会も、この「義人ヤコ
ブ」なる人物がエルサレム教会の初代司教であることは認めてい
るのですが、カトリック教会としては、エルサレム教会とクムラ
ン宗団とは別の存在であるようにしようとしています。
 しかし、クムラン宗団は、エルサレム教会と同じ世界観を持ち
同じ用語を使い、そして同じ終末思想を持っている――それは新
約聖書にも通じているのです。もっと重要なことはこの義人ヤコ
ブがイエスの弟であるといわれている点です。そうであればこの
クムラン宗団は初期キリスト教会――すなわち、イエスの教団そ
のものであるという考え方が成り立つからです。
 それでは、カトリック教会にとって、義人ヤコブがイエスの弟
であっては、なぜいけないのでしょうか。普通ならば、兄弟がい
るのは当然のことですが、イエスを神の子とするカトリック教会
にとっては困るのです。実はニュートンもイエスを神の子と認め
ていないのです。これについては改めて詳しく述べますが、ニュ
ートンは次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神と人の仲介者について結論を言えば、神は唯一の存在であり
 神と人の仲介役もひとり。つまり、仲介役のイエス・キリスト
 は人間なのである。            ――ニュートン
―――――――――――――――――――――――――――――
         ――[ニュートンの予言/14]


≪画像および関連情報≫
 ・「死海文書」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クムランの宗教共同体の人々は、初期のキリスト教徒と同じ
  く、終末の時期は差し迫っていると信じていた。また、クム
  ラン共同体が存在した時代はユダヤ・キリスト教世界で終末
  論が流行した時代でもある。それだけに死海文書の中には終
  末に関連した内容を持つものが数多く含まれているが、特に
  「戦いの書」および「宗規要覧」と呼ばれている文書などに
  死海文書独自の内容が含まれている。
  http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-293-7p.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

死海文書の発見場所.jpg
死海文書の発見場所
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2010年03月24日

●ニュートンは異端である(EJ第2237号)

 前回、ニュートンは「イエス・キリストは人間である」という
考え方を持っていたことをお伝えしましたが、これは明らかにキ
リスト教の基本教義に反するのです。つまり、ニュートンは異端
の考え方を持っていたのです。
 そういうわけで、ここでどうしても「三位一体」の議論をしな
ければならないのです。三位一体とは次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 三位一体(トリニタス)とは、カトリック・正教会などの伝統
 的教会およびプロテスタントなどのキリスト教の大多数派にお
 ける中心的教義のひとつである。    ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 キリスト教徒でない人にとっての三位一体という言葉は、最近
では小泉元首相の「三位一体改革」であるとか、あの映画『マト
リックス』のキャリー=アン・モスが演ずる「トリニティー/三
位一体の意」、またはソニーの「トリニトロン」を思い出す人が
いるかも知れません。「トリニトロン」は、三位一体を表すトリ
ニティと電子を意味するエレクトロンの合成語なのです。
 しかし、ここではキリスト教の中心的教義である「三位一体」
を真面目に読み解かないと、ニュートンの予言を解明することは
できないのです。「三位一体」とは次の3つが「同質」かつ「不
可分」であるという考え方です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.父なる神
        2.子なる神イエス・キリスト
        3.聖霊である神
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「三位」とは、「父」「子」「聖霊」を指すのですが、
これら3つは一体であり、3つの間に上下はなく、3つにはそれ
ぞれ次の位格(ペルソナ)というものがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「父」  ・・・・・ 世界を創造し、統治する
   「子」  ・・・・・ 人間を救い、助ける役割
   「聖霊」 ・・・・・ 人間をを正しく導く役割
―――――――――――――――――――――――――――――
 この三位一体の教理にはいろいろな矛盾があります。一番大き
な矛盾は、もし、3人の神がいるなら、一神教であるはずのキリ
スト教は多神教になってしまうのです。旧約聖書の中で神は、自
らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っている
のです。
 歴史的経過について述べると、2世紀の前半で新約聖書の中で
「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊」が並記され、
3世紀になって西方教会の教父テルトゥリアヌスがはじめて「三
位一体」という表現を使ったのです。
 そして、4世紀のはじめに、イエスが神か人間かをめぐって、
神とするアタナシウス派と人間であるとするアリウス派に分かれ
て、大論争に発展したのです。
 313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコン
スタンティヌス帝は、このような教義の分裂論争が続くと、ロー
マ帝国の混乱につながるとして、教義の統一を図ろうとしたので
す。これがニケーア宗教会議です。つまり、コンスタンティヌス
帝の政治的思惑から、キリスト教の教義の統一性が図られたとい
えます。そして、それでも三位一体に異議を唱える者に対しては
死刑という厳罰をもって臨んだのです。
 それでもこの問題は決着がつかなかったのです。4世紀後半か
ら5世紀の初めに聖霊に関して新しい考え方が出てきたのです。
それは、「聖霊は神性を持たない」というもので、ヘレスポント
スに隣接している国々のマケドニア人の間で普及したのです。
 そして父と子と聖霊の実体は同質ではなく類似であるとする類
似派、父と子と聖霊は一つの神の性質に過ぎず、御父みずから受
肉してキリストとなった」と考えるサベリウス派などが現われて
混乱したのです。
 しかし、381年のコンスタンティノポリス公会議で、これら
の考え方はすべて異端として排斥されたのです。そして、ニケー
ア信条の内容は拡張され、ニケーア・コンスタンティノポリス信
条が採択されたのです。これによつて、三位一体の教理はほぼ完
成に達したといえます。
 ところが聖霊の解釈に関しては、なおやっかいな問題が生じた
のです。ニケーア・コンスタンティノポリス信条の原文は「聖霊
は父なる神から発する」となっていたのに、ローマ・カトリック
側がそのラテン語訳に9世紀になって一方的に「子からも(発す
る)(Filioque/フィリオクェ)」と付け加えたからです。そし
て、これを正文であると主張したため、コンスタンティノポリス
教会側が反発したのです。
 さらに当時のコンスタンティノポリス総主教フォティオスと前
総主教イグナティオスをめぐるコンスタンティノポリス教会内部
の政治的争いにローマ教皇が介入し、イグナティオスを支持した
のです。こうして、東西のキリスト教会を二分する深刻な対立状
態がもたらされたのです。
 このように三位一体の考え方はキリスト教においてさまざまの
問題を巻き起こしたのです。アリウス派は救世主イエスを人であ
るとし、神は完全な唯一の存在で、自己のみで存在できるとした
のです。これは、明らかにユダヤ教的な一神教に重点を置く考え
方といえます。
 これに対してアタナシウス派の三位一体の考え方はギリシャ哲
学、新プラトン主義に立脚し、3柱の神を置く古代エジプトやバ
ビロンの神学や古代アーリアの神話まで遡る多神教の流れをくん
でいるような気がします。ニケーア公会議におけるキリスト教の
純化はギリシャ化なのです。 ――[ニュートンの予言/15]


≪画像および関連情報≫
 ・アンドレイ・ルブリョフのイコン「至聖三者」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  正教会では、アンドレイ・ルブリョフが描いたものが代表的
  な、アブラハムを訪ねる三人の天使――『創世記』――に拠
  る『至聖三者』の聖像が、唯一正当な至聖三者の図像表現と
  して公認される。これは西方にも伝わり、聖像を用いる教派
  で使われている。西方ではルブリョフとともに「老人の姿の
  父、キリスト、鳩または火の姿で表される聖霊」の図像も広
  く用いられている。代表的な作例にマザッチオの『聖三位一
  体』がある。これは十字架上のキリストとともに父および鳩
  の形をした聖霊を描いたものである。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

至聖三者.jpg
至聖三者

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2010年03月25日

●『ニュートンの12の信条』の発見(EJ第2238号)

 1月3日に放映されたTBSの大型番組『新春超歴史ミステリ
ー/古代ローマ1000年史』は、今回のテーマにも関係がある
ので、最初から最後まできちんと見たのですが、なかなか見ごた
えのある番組だったと思います。
 しかし、肝心のキリスト教を取り入れることによって、ローマ
帝国が変貌していくところ――コンスタンティヌス皇帝の出てく
るシーンは最後のところで簡単にまとめられてしまっており、そ
こが残念であったと思います。
 ところで、三位一体の3つの位格のなかで、おそらく一番わか
りにくいのが「聖霊」であると思います。一般的には「聖霊」は
次のように解釈されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     聖霊とは神と人とを繋ぐとりなし手である
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖霊というのは、「この世のすべては神の御心のままである」
と考えるプロセスにおいて出てきた概念なのです。人間は聖霊に
よって内面から刷新され、それによって善行を積むようになると
考えるのです。
 例を上げると、新約聖書は明らかに人間によって記述されたも
のであり、旧約聖書の「モーセの十戒」のように、神が直接的に
人間に伝えたものではないのですが、なぜ宗教的権威を保ってい
るのでしょうか。
 これについて、キリスト教では、聖霊が新約聖書の作家たちを
霊的に感化させた結果であると考えるのです。つまり、聖霊が作
家たちに執筆を決意させ、執筆を貫徹させる――聖霊は神の位格
すなわち神と同格であり、したがって、新約聖書は「神自身が人
間に与えた言葉である」ということになるのです。
 キリスト教にもいろいろな流派がありますが、三位一体の考え
方は共通しています。キリスト教には、聖霊の概念を使って世の
中を次の3つに分ける考え方があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   父なる神の時代 ・・・・・ イエスが誕生する以前
   子なるイエスの時代 ・・・ イエスの時代 
   聖霊の時代 ・・・・・・・ イエスが昇天した以後
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスが誕生する前は、神が直接イスラエルの民と対話してい
たのです。したがって、その時代のことを「父なる神の時代」と
いうのです。
 キリストが誕生すると「子なるイエスの時代」となります。そ
してイエスが処刑され、昇天すると、現在の世の中になります。
それを「聖霊の時代」というのです。イエスは昇天してしまって
いるので、後は聖霊のみが人間に影響を及ぼしていると考えるわ
けです。なお、福音派の解釈では、世界の終末における最後の審
判の後、再び「父なる神の時代」が到来するといわれています。
 「父なる神」「子なるイエス」「聖霊」――そのそれぞれが、
神の格位を持っているというのが三位一体の考え方ですが、やは
り論理的に一番わかりにくいのが「聖霊」です。
 仮にもし「聖霊」ではなく「マリア」であったとしたら、素人
的には、「父なる神と子なるイエスと母なるマリア」となって一
番わかりやすいのですが、マリアには神の位格はないということ
で、異端ということになるのです。
 現在のカトリック教会の職階――中世以降――を見ると、三位
一体が厳然として生きていることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.「唯一絶対神」    7.「大司教」
    2.「聖霊」       8.「司教」
    3.「神の子イエス」   9.「司祭」
    4.「ペテロ」     10.「助祭」
    5.「歴代ローマ教皇」 11.「信徒」
    6.「枢機卿」
       ――『キリスト教と聖書の謎』/日本文芸社より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、1710年〜20年にかけて、ニュートンは次の文書を
書いているのです。この文書は現在ケンブリッジのキングス・カ
レッジに保管されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 神とキリストに関するアイザック・ニュートンの12の信条
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書が書かれた時期は、ニュートンがシオン修道会の総長
だった時期と重なっているのです。もともとケインズが入手して
いたものであり、ケインズの死後、ケンブリッジのキングス・カ
レッジに寄贈されています。
 この「ニュートンの12の信条」を読むと、そこにはニュート
ンの神に対する考え方がよくわかります。その第1条と第2条は
次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1条 父なる神はただひとり。永遠かつ偏在、全知全能の存
     在であり、天と地の創造者である。そして、神と人と
     の仲介者は、人間であるイエス・キリストただひとり
     である。
 第2条 父とは見えざる神のことである。まだ誰も見たことは
     なく、いまも見ることはができない。他のすべての存
     在は、見えるときがある。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの預言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでは、カトリックの教義である三位一体に明らかに反する
文章が並んでいます。「神と人との仲介者は、人間であるイエス
・キリスト」とはっきり述べています。イエスは神ではないと明
言しています。       ――[ニュートンの予言/16]


≪画像および関連情報≫
 ・唯一絶対神とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『ヤハウェ』とは知る人ぞ知る旧約聖書の絶対神の名前であ
  る。つまりは、ユダヤ教徒が崇拝する神、天地万物を創造し
  たとされる唯一絶対神である。しかし、ヤハウェと言われて
  も、一般的な日本人には馴染みのない名前であろう。という
  のは、日本語訳の聖書では、ヤハウェという固有名詞を全て
  「主」という一般名詞に読み替えているからだ。ゆえに、い
  くら聖書の中を探したからとて、その名前を見つけることは
  できない。ちなみに、新約聖書にも「主」という単語が出て
  くるが、あれはギリシア語の「キボトス」を訳したものであ
  るため、ヤハウェとは違い純粋に「主」という意味の一般名
  詞である。
   ――http://www.fitweb.or.jp/~entity/seisho/yhwh.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

イエス・キリスト.jpg
イエス・キリスト
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2010年03月26日

●イエスはなぜ神でなければならないか(EJ第2239号)

 「ニュートンの12の信条」の第12条は、次のように記述さ
れています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第12条 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がお
      られ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ
      帰って行くのです。また、唯一の王、イエス・キリ
      ストがおられ、万物はこの主によって存在し、わた
      したちもこの主によって存在しているのです。
             ――コリントの信徒への手紙8−6
      つまり、われわれは父のみを全能の神として崇め、
      イエスのみを救い主、偉大なる王、神の子羊として
      崇敬しなければならない。イエスがわたしたちのた
      めに殺されて、ご自分の血でわたしたちを罪から解
      放してくれたからこそ、われわれは王にも司祭にも
      なれるのである。 ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この第12条は何を主張しようとしているのでしょうか。
 結論からいうと、イエスを神として崇めてはならないと警告し
ているのです。崇めるべきは、唯一神ヤーウェであると。もし、
それをすると、「モーセの十戒」の次の3条に反してしまうとい
うのです。ニュートンの12の信条は明らかに「モーセの十戒」
を下敷きにして書かれているものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪モーセの十戒≫
  1.わたしのほかに何ものをも、神としてはならない
  2.いかなる像も造ってはならない
  3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
―――――――――――――――――――――――――――――
 イエスは神か人間かということがなぜ問題になるのかというと
それは教皇の権威に影響するからでです。カトリックでは、教皇
は「キリストの地上の代理人、人間よりも上に立つ」という考え
方に立っています。
 昨日のEJで述べたように、教皇はカトリックの職階の上から
5番目に該当します。第4位の「ペテロ」は初代ローマ教皇に位
置づけられているのです。したがって、もし、イエスが人間であ
るということになったら、教皇の権威は大きく失墜してしまうこ
とになります。したがって、カトリックとしては、どうしてもイ
エスは神でなければならないのです。
 しかし、ニュートンはこういう教皇の権威を真っ向から否定し
てかかるのです。ニュートンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「子」はすべてのものを「父」から受け取り、「父」に服し、
 その意志を行い、その玉座に就きながらも「父」を自らの神と
 呼ぶのであり、したがって、「父」ともども一なる神にほかな
 らず、それは王と副王とが一なる王にほかならないのと同じで
 ある。キリストは副王、つまりこの世界における神の代理者と
 して働く霊的存在である。  ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートンはイエスは人間ではあるが、その言葉は神から伝え
られたものであり、そういう意味でイエスは神の代理者であり、
預言者であると考えているのです。
 上記のニュートンの論拠は、王から直接発せられる命令もその
代理人である副王からの命令も、同じように王からの命令である
のと同じように、イエスの発する言葉は父なる神――唯一絶対神
の命令そのものであるというものです。
 したがって、イエスの名の前では、すべての膝が屈せられるべ
きであるが、あくまでその祈りはイエスの名において至高の絶対
者、神に向けられるべきであり、神の名においてイエスに向けて
はならないとニュートンは強調するのです。もし、神を王とする
なら、イエスは副王の立場である――ニュートンはこう考えてい
るわけです。
 これは、正統な三位一体論から大きく隔たっている考え方であ
るといえます。ニュートンはイエスを崇拝するのはそれ自体が偶
像崇拝そのものであり、「モーセの十戒」の戒律に反すると主張
しているのです。
 しかし、カトリックの正統な三位一体論に立つと、偶像崇拝が
容認される余地が出てくるのです。実は、この偶像崇拝に関する
論争は、ローマ帝国の歴史の中にあるのです。
 726年、東ローマ帝国ビザンチン皇帝レオ3世は偶像崇拝禁
止令を出し、それをローマ教皇が拒否するという事件があったの
です。レオ3世の息子であるコンスタンティヌス5世は反対者を
容赦なく弾圧・処刑したのですが、論争は一向に解決しなかった
のです。
 ローマ教会は、聖像(イコン)をゲルマン人への布教に使って
いたのです。そこに偶像崇拝禁止令が出たので、ローマ教会とし
てしては当然反対します。ローマ教会はその決定を不満として、
それまでコンスタンティノーブルに送っていた税の支払いを停止
し、これにより東西教会の対立が決定的となったのです。
 この論争はその後も決着がつかず、東ローマ皇帝・コンスタン
ティノーブル総主教とローマ教皇の関係は、決定的に悪化してし
まったのです。これによって、ローマ帝国は、フランク王国を後
ろ盾にしていくのです。800年にはローマ教皇がフランク王カ
ールを「ローマ皇帝」に戴冠し、ローマ教会は東ローマ帝国から
完全に独立したのです。これについては既に述べた通りです。
 実は、ローマ帝国における偶像崇拝に関する争いは、三位一体
論にからめて、宗教に関して大きな影響を与えたのです。偶像崇
拝――聖像崇拝については、明日のEJで詳しく述べることにし
ます。           ――[ニュートンの予言/17]


≪画像および関連情報≫
 ・「モーセの十戒」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーセの十戒の話は、『旧約聖書』の「出エジプト記」に載
  っています。イスラエル人の一部はカナーンの地に定着せず
  にエジプトに行ったのですが、エジプトにおけるイスラエル
  人の立場は奴隷でした(他国によってイスラエル民族が苦し
  められるというテーマが、実はユダヤ教成立に関する重要な
  キーワードになっていて、後に触れることになります)。そ
  んな苦境ゆえ、イスラエル人はエジプトを脱出することにな
  りますが、その時の指導者がモーセなのです。年代は紀元前
  13世紀頃のことです。
   http://xn--nckya8b3h.seesaa.net/article/51952716.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「モーセの十戒」.jpg
「モーセの十戒」
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2010年03月29日

●イコンはなぜ禁止されたのか(EJ第2240号)

 キリスト教においては、神や天使や聖人を描いた絵や像のこと
を「イコン」というのです。「イコン」はギリシャ語であり、中
世から現代までそのように呼ばれています。英語の「Icon/アイ
コン」もこれに由来するのです。
 ここで「ニュートンの12の信条」の第2条を再現しておくこ
とにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2条 父とは見えざる神のことである。まだ誰も見たことは
     なく、いまも見ることはができない。他のすべての存
     在は、見えるときがある。
               ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、唯一絶対神、すなわち神は「見えないもの」であると
しています。実際に見えないのであるから、神を絵に描いたり、
偶像にしようがないし、してはならないのです。旧約聖書――イ
スラム教とユダヤ教では神を描写することは「形像拒否」として
禁止されたのです。
 しかし、ユダヤ教における形像拒否は、イスラム教のそれより
も厳しくなかったようで、ケルビム(天使)や十二体の牛の像など
がソロモンの神殿に残されているのです。
 初期のキリスト教においては、イエスや使徒たちを描くことは
許されず、ユダヤ教美術やローマ美術に共通する植物イメージ、
燭台などのユダヤ教由来のモチーフが、イエスと象徴的に結びつ
けられて描かれています。その当時はもちろん三位一体の教義は
確立していなかったのです。
 しかし、4世紀になって三位一体の教義が取り入れられると、
イエスはたとえ神の子であっても人間として誕生したので、見え
る存在となっている――これはもともと描出不可能であったはず
の約束が、神の側から破られているとして、人として姿を表した
イエスに関する限り、それを描いたり、像として表現することが
許されるようになったのです。843年のことです。これについ
ては、もともと聖像禁止令を出した東方教会と西方教会とでは、
そこに大きな温度差があったのです。なお、西方教会はローマ・
カトリック教会、東方教会は正しくは正教会とも呼ばれます。
 東方教会では、イコンの形式について、教会の教義によって厳
格かつ細密な規範が与えられたのです。描くものは図像に限定さ
れ、立体化することは禁じられたのです。
 このように描く形式が限定されただけではなく、描く人、描く
場所などについても細かな規定が定められ、そこに芸術としての
自由度はほとんどなかったのです。イコンを描くことは、神に近
づく道のひとつとされ、祈祷のかたちのひとつとして位置づけら
れたからなのです。
 イコンを作成するときは、多くの場合、修道院の修道士や修道
女が教会の祝福の下で描き、それを司祭が成聖したものを聖像と
呼んだのです。さらに教会などにそれを置く場所についても厳格
な規定が定められていたのです。
 実はこの聖像製作者の拠点である修道院は、東ローマ帝国内に
かなり大きな修道院領を保有していたのですが、聖像禁止令を出
したレオ3世の息子のコンスタンティヌス5世は、843年に聖
像禁止令が解かれるまで、徹底的に修道院を弾圧し、修道院領を
没収し、皇帝領としているのです。
 その結果、皇帝の権力基盤が強化され、古代ローマ帝国後期か
らはじめられた皇帝の専制君主制が完成しているのです。そのた
め、ネオ3世らの聖像禁止令は修道院領の収奪が本当の目的では
なかったかともいわれているのです。
 さて、聖像に関して厳しい規範をかけた西方教会――ローマ教
会は、聖画像崇敬についてはほとんど何の規制もなく自由であり
描写の形式でも特に教会上の規範は何もないのです。しかし、聖
画像崇敬において間違った表現や展示がされないよう司教の管理
義務の強化が促されたといわれています。
 教会に行くと当然のようにあるイエス・キリストの絵画や彫像
――三位一体の教義では、イエスは神の子であり、イエス自身も
神と一体の存在であるので、その画像の下で祈りを捧げても一向
にかまわないことになります。
 しかし、ニュートンは、イエスは人間であり、その人間イエス
を描いた画像に対して祈りを捧げるのは、一種の偶像崇拝である
と考えているのです。そいう偶像崇拝を許しているローマ・カト
リック教会をどうしても許せなかったのです。ニュートンはこれ
に関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人間であるイエス・キリスト、神と人の仲介者であるイエス・
 キリストは、われわれのために殺された。そんな神の子羊に栄
 誉と栄光を授ける限りにおいては、偶像崇拝にあたらない。人
 間であるキリストが卑しい身分であったとしても、その事実に
 変わりはない。       ―― 中見利男著/日本文芸社
     『ニュートンの予言/2060年、世界は滅亡する』
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するにニュートンは、イエスは人間ではあるが、われわれの
ために自分の血で罪から開放してくれたのである――その栄譽を
称えるのは一向にかまわないし、膝を屈することもよい。しかし
イエスを神として崇拝することは偶像崇拝であり、モーセの十戒
に違反しており、絶対にやってはならないことであるといってい
るのです。
 ニュートンの12の信条の第12条で、われわれはイエスのお
かげで「王にも司祭にもなれる」といっています。これは、英国
国教会の首長である国王やローマ法王をはじめとする教会の権威
が全否定されたに等しいのです。
 ニュートンが彼の文書を厳重なる秘密文書としては、これが理
由なのです。        ――[ニュートンの予言/18]


≪画像および関連情報≫
 ・「ウラジーミルの生神女」について
  ――――――――――――――――――――――――――
  美術研究の上では、多く板絵に金地を貼りテンペラ技法で書
  いたものがイコンと呼ばれ、実際に教会で使われる聖像も多
  くこの種類のものであるが、他にもフレスコやモザイク、ス
  テンドグラスなどが使われることもある。近代以降はリトグ
  ラフを始めとした印刷によるものが信徒の利用する食堂や信
  徒の家庭などで普及していった。幾つかの聖像は奇跡と結び
  付けられ、殊に崇敬される。特定の聖像のための祭日も存在
  する。キリストの顔を写したといわれている「自印聖像」、
  「ウラジーミルの生神女」などがよく知られている。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ウラジーミルの生神女」.jpg
「ウラジーミルの生神女」
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2010年03月30日

●カトリックのどこに問題があるか(EJ第2241号)

 ここまでの分析によって、ニュートンは明らかにローマ・カト
リック教会に対して異端の立場に立っていることがわかります。
しかし、キリスト教には教派が多くあり、その関係は複雑なので
少し整理してから先に進みます。そうすることによって、なぜ、
ニュートンがカトリック教会に怒りを向けたのか、その理由が分
かると思うからです。
 昨日のEJで、東方教会は正教会とも呼ばれると述べましたが
正教会は「ギリシャ正教」とも呼ばれるのです。日本にはロシア
正教から伝道され、現在、日本ハリストス正教会として結実して
います。日本語の「正教」の英訳は「オーソドックス」であり、
これは「正しい賛美」――すなわち、正しく神を賛美するという
意味になります。
 これに対して西方教会、すなわちカトリック教会はローマ教皇
を頂点に全世界に10億人以上の信徒を有するキリスト教の最大
教派です。カトリックは、ギリシャ語で「普遍的」という意味の
「カトリケー」やラテン語の「カトリクス」が語源になります。
 どうして東方教会と西方教会に分かれたのでしょうか。
 その契機になったのは395年のローマ帝国の東西分裂です。
キリスト教を国教に決めたテオドシウス1世は死に際して、2人
の息子にローマ帝国を分割したのです。長男は東ローマ帝国、次
男は西ローマ帝国を担当したのです。
 これによって、教会も東西に分裂したものの、あくまで同じキ
リスト教として教義の調整などを行ってきたのです。最初のうち
は、あくまで東ローマ帝国――ビザンチン帝国が中心で西ローマ
帝国に宗主権を及ぼしていたのです。
 キリスト教を国教とした東西ローマ帝国は、国内の安定性と一
体性の基盤としての宗教の役割を重視し、教会を庇護する一方に
おいて、教会の人事や教義にも、帝国が直接関わるようになって
いったのです。
 東西の教会では、たびたび教義をめぐる論争がおき、歴代皇帝
は、そのつどその調整を行うための会議を開催したのです。会議
には次の2つがあります。「公会議」といわれる会議は次の「全
地公会」のことをいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    全地公会 ・・・・・ 全教会が召集される会議
    地方公会 ・・・・・ 地方教会招集による会議
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、西ローマ帝国はゲルマン部族の相次ぐ乱入に抗し切れ
ずに滅亡してしまいます。その後西欧世界を支配したゲルマン部
族は必ずしもキリスト教を信仰しなかったため、西方教会はよっ
て立つ国家を失ってしまったのです。
 そこで、東ローマ皇帝は名目上は西方世界に対してもローマ帝
国皇帝の主権が及んでいることを利用して、西の滅亡後のローマ
教会の長である教皇に西方世界の行政権を与えたのです。しかし
この措置は西方教会の自立と組織化を促すと同時に、後の教会の
東西分裂の準備をすることになったのです。
 西方世界の行政権を得た西方教会は、フランク王国のメロヴィ
ング朝を後ろ楯にするようになり、そのメロヴィング朝がピピン
によって倒され、カロリング朝に変わると、教皇の権威が大きく
変わることになるのです。
 教皇という称号はもともと、西方教会唯一の司教座であるロー
マ教会司教の頂点に立つ者に与えられるものです。しかし、教皇
の権威はあくまで宗教的・霊的なものに限定されていたのです。
 しかし、ピピンが自らの王権の正当性を承認してもらうために
ローマ教皇に領地を献上し、すり寄ったのです。これが教皇領の
はじまりになります。
 さらにピピンの子であるカール大帝も教皇から帝冠を受けると
それ以後王位継承者の頭に教皇が冠を載せるという戴冠式が定着
していくことになります。かくして教皇は王の上の座に位置する
ようになったのです。
 ユダヤには、古代より王となる者に預言者が油を塗るという儀
式がありますが、聖職者が王に冠を載せるという戴冠式はそのユ
ダヤの儀式をキリスト教的に置き換えたものなのです。いずれに
せよ、これによって、教皇の権威は、宗教的・霊的なものに加え
て、政治にまで及ぶようになっていくのです。しかし、教皇がこ
のような絶大なる力を保持できる根拠は、新約聖書の中にはどこ
にも存在しないのです。
 さて、このようにカトリック教会の教皇の権力がとてつもなく
強大になって行った結果、それが現在のヴァチカン市国――カト
リックの総本山につながって行くのですが、これには次の経緯が
あるのです。
 イエスの12使徒の一人であるペテロは、イエスから教会設立
を命ぜられます。しかし、64年にペテロは皇帝ネロに捕われて
ヴァチカンの丘でイエスと同じ磔刑に処せられるのです。その墓
の上にミラノ勅令によってキリスト教を公認したコンスタンティ
ヌス大帝は寺院の製造を命じたのです。324年のことです。こ
のようにして完成したのが、サン・ピエトロ聖堂――旧聖堂なの
です。「サン・ピエトロ」とは、イタリア語で聖ペテロという意
味なのです。そういうわけで、ペテロは初代のローマ教皇といわ
れているのです。
 このようにして17世紀になると、教皇領は最大に達して、ほ
ぼイタリア全土を覆い、さらにシチリア島にまで及んだといわれ
ます。また、ルネッサン期には信者から集めた潤沢な資金によっ
て多くの聖堂の新改築を行っているのです。
 ニュートンは、こうしたローマ・カトリック教会の全盛期に活
躍した人であり、権勢を極めるヴァチカンの勢力に密かに怒りの
炎を燃やしたものと思われます。
 やがて、中世から十字軍を経てルネッサンス期に至る間、少し
ずつヴァチカンの力は衰えて行ったのですが、19世紀に入ると
大きな転機を迎えます。   ――[ニュートンの予言/19]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴァチカンとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  バチカンという名称はこの地のもともとの名前であった「ヴ
  ァティカヌスの丘」からとられている。ここに教会が建てら
  れ、やがてカトリック教会の中心地となったもともとの理由
  は、この場所で聖ペテロが殉教したという伝承があったため
  である。バチカンの公用語はラテン語であるが、すでに死語
  となっているため、ラテン語が用いられるのは教皇の手によ
  る公式文書などで、通常はイタリア語が用いられている。ス
  イス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・ピエトロ広場.jpg
サン・ピエトロ広場
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2010年03月31日

●イタリアはどのようにして統一されたか(EJ第2242号)

 1789年7月14日にフランス革命が起きて19世紀に入る
と、ヴァチカンの教皇領は少しずつ奪われて少なくなって行くこ
とになります。その経緯について知ることは、ローマ・カトリッ
ク教会の盛衰に深く関係してくるので、調べてみる価値はあると
思います。しばらく歴史の勉強をすることになります。
 イタリアは長く統一国家が形成されず、中世以来長期にわたっ
て分裂状態のままであったのですが、19世紀になるとようやく
独立の気運が高まってきたのです。
 ウィーン体制時代には、カルボナリ党、マッツィーニの青年イ
タリア党が独立・統一のための活動をしていましたが、当時イタ
リアはドイツの影響下に置かれており、独立は非常に困難な情勢
にあったのです。なぜなら、いわゆるハプスブルク家のオースト
リアに従属している国が多かったからです。
 ヴェネツィアやミラノにはオーストリア軍が駐屯していて、反
オーストリア的な政治運動を監視しており、自由主義的運動や統
一運動が活発化すると、必ずオーストリア軍が出動して弾圧に出
るというパターンが繰り返されてきたのです。
 また、フランスもイタリアに大きな政治勢力が出現することを
嫌って、何かとイタリアに干渉することが多かったのです。18
48年の2月革命時にイタリア各地で独立・統一運動が盛り上が
るのですが、この時もオーストリアとフランスの干渉によって、
すべての運動が失敗しています。ローマ共和国が成立したときは
フランスが直ちに軍隊を派遣してこれを潰し、以後ローマにはフ
ランス軍が駐屯していたのです。
 ところで、フランスと国境を接する半島北西部とサルディニア
島を領土に持つサルディニア王国という国があったのです。この
国はイタリアの中では比較的大きな国であり、ナポレオン1世時
代にはフランスに支配されて封建的な古い制度はなくなっており
イタリアの中では、最も近代的な国家だったのです。
 1849年、そのサルディニア王国に新しい王――ヴィットー
リオ=エマヌエーレ2世が即位します。この王はイタリアの統一
を考えて、首相にカブールという人物を選んだのです。彼はイギ
リスの議会を見学したこともある自由主義的立場の政治家であり
外交手腕に優れていたのです。
 カブール首相は、イタリアが統一を成し遂げるには、イタリア
からオーストリア軍を排除しなければならないと考えたのです。
それはまさにその通りなのですが、サルディニア王国の軍事力で
は、とうていオーストリア軍には勝てないのです。
 「フランスを味方にすれば勝てる。これしかない」――カヴー
ル首相はそう考えたのです。当時フランスは1849年以降、ル
イ=ナポレオンが支配していたのです。はじめは大統領に当選す
るのですが、やがて皇帝に即位してナポレオン3世と名のってい
たのです。
 といっても当然のことながらあの名将ナポレオン・ボナバルト
のことではないのです。ナポレオン3世は確かにあのボナパルト
の血を受け継いではいましたが、戦略的才能のない凡将だったと
いわれます。それでも彼はフランスの皇帝であり、どうやって近
づくかについてカブールは思案していたのです。
 そこに1853年にクリミア戦争が勃発します。カブール首相
はチャンス到来と考えて、サルディニア軍1万5000を派遣し
てクリミア戦争に参戦したのです。もちろん小国サルディニアに
とって大きな負担ではあったのですが、クリミア戦争に参戦する
ことがイタリア統一の第一歩になると激励して兵士を送り出した
のです。これによってナポレオン3世はサルディニア王国に好意
を抱いたのは当然です。
 カブールはこれを契機にフランスと外交交渉を行い、次の条件
を提示して、オーストリアと戦争することになったとき、フラン
スが援軍を送るという約束を取り付けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サルディニアは、フランス国境に近いサヴォイア、ニースとい
 う二つの地方をフランスに割譲する。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけの準備をして、1859年、サルディニア王国はイタ
リア統一戦争を開始するのです。サルディニア軍は東隣のロンバ
ルディアに攻め込みます。ここにはオーストリア軍が駐屯してい
るので、この戦争は、事実上オーストリアとの戦争です。オース
トリア軍22万に対して、サルディニア軍は7万、フランス軍は
12万8000の兵力です。ほぼ互角の兵力ですが、フランスの
援軍がなければ戦争にならないのです。
 サルディニア・フランス連合軍はオーストリア軍を破り、ロン
バルディアはサルディニアに併合されます。これに呼応して、パ
ルマ、モデナ、トスカナ各国で反オーストリアの反乱が起こり、
これらの国々では、住民投票によって、サルディニア王国への編
入が決まるのです。ここまではコトは順調に運んだのです。
 しかし、臆病なナポレオン3世は、サルディニア王国が強大に
なるのを見て怖くなったのです。フランスの南にいきなり巨大な
統一国家ができるのは得策ではないと考えたナポレオン3世は、
オーストリアと単独で講和条約を結び、兵を引いてしまったので
す。これによってフランスの援助がなければ戦えないサルディニ
ア王国は戦争を中断せざるを得なかったのです。
 この国家の危機に英雄が現れます。その名はジュセッペ・ガリ
バルディ――青年イタリアのメンバーとして以前から統一運動で
活躍していた人物です。1860年5月6日、ガルバルディは個
人的義勇兵1000人を集めて、2隻の船でサルディニアの港か
らシチリア島に向けて出発します。この彼の部隊が後に「赤シャ
ツ隊」と呼ばれるようになります。
 シチリア島はイタリア半島の南半分にあるナポリ王国の領土で
す。シチリアに上陸したガリバルディと千人隊は、ナポリ王国の
支配に抵抗する農民たちの支援をうけてナポリ王国軍を追い払い
島を占領してしまうのです。 ――[ニュートンの予言/20]


≪画像および関連情報≫
 ・ナポレオン3世とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランス軍を指揮する能力に欠けていたナポレオン3世は、
  困り果てた末に、自軍の本営にウィジャボードという霊応盤
  を持ち込んで降霊術を行ったという。このウィジャボードと
  は、長方形の板の上にアルファベットや数字が記入された文
  字盤のことで、降霊術などで霊魂と会話をする時に使われる
  代物である。降霊術の際は、この文字盤の上に、プランシェ
  ットという文字を指し示すハート型の指示器を置く。この指
  示器の上に霊媒師が手を置くと、あちこち動いて質問に答え
  るというものであった。要するに西洋版のコックリさんと思
  われるが、ほとんどその目的は興味本位中心で娯楽半分のゲ
  ーム感覚で行われることが多かったという。
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カブール/ナポレオン3世.jpg
カブール/ナポレオン3世
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