2010年02月01日

●エルヴィス・ザ・ペルヴィス(EJ第2202号)

 「ハート・ブレイク・ホテル」の評判は上々だったのです。ま
ず、ポップチャートの第1位、それからカントリーチャートでも
第1位をとっているのです。さらに、リズム・アンド・ブルース
(R&B)の部門でも第5位に入る健闘ぶりです。
 レコード発売はさらに続きます。この「ハート・ブレイク・ホ
テル」に続いて、次の2曲が発売されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       Hound Dog / 「ハウンド・ドッグ」
        Don't Be Cruel/「冷たくしないで」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これも大ヒットするのです。「ハウンド・ドッグ」は2つの部
門で、「冷たくしないで」は3つの部門で第1位に輝いているの
です。ここまでくると、もはやエルヴィスのロックンロールの勢
いを誰も止めることはできない状態になったのです。
 パーカー大佐は、全米ネットワークのテレビにエルヴィスを出
演させるためにテレビ局を飛びまわっており、彼の努力は少しず
つ実りつつあったのです。
 エルヴィスはニューヨークに行き、CBSテレビの「トミー・
ドーシー・ステージ・ショウ」を皮切りに、ABCテレビの「ミ
ルトン・バール・ショウ」などに複数回出演したのです。
 エルヴィスが「ミルトン・バール・ショウ」の2回目のショウ
で、「ハウンド・ドッグ」を歌ったときです。これが良識ある保
守層の人々の怒りに火をつけてしまったのです。そして、彼らは
次のような非難声明を出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスなる者によるロックンロールは、労働者階級特有の
 下品なしぐさをし、黒人文化による過度にセクシーな動作を伴
 うものであり、許し難いことである。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らは各地で一斉にロックンロール排斥運動を起こし、これが
全米に広がったのです。騒ぎは拡大し、ニューヨーク州、マサチ
ューセッツ州、カルフォルニア州においてはロックンロール・コ
ンサート禁止令が出され、多くの放送局がロックンロール放送を
中止し、警察、教会、PTA、婦人団体などまで出動して、エル
ヴィスを名指しで非難する事態になったのです。
 ある新聞は、次の見出しを付けて、エルヴィスを非難したので
す。どういう意味かわかりますか。
―――――――――――――――――――――――――――――
       エルヴィス・ザ・ペルヴィス
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ペルヴィス」というのは、骨盤のことであり、現在ではそう
いうダイエット・エクササイズもあります。つまり、この新聞の
見出しは、エルヴィスの腰を揺らして歌うスタイルを批判してい
るのです。
 実はこういうときにこそ、パーカー大佐は役に立ったのです。
エルヴィス一人であればおそらくすくみあがってしまったであろ
う事態も大佐の指示通りにやることによって、うまく乗り切るこ
とができたのです。
 エルヴィスがフロリダ州でコンサートをやったときの話です。
コンサートが始まる前から大勢の警官が会場に張り込んで、エル
ヴィスが例のスタイルで歌ったら逮捕する構えでいたところ、大
佐の指示でプログラムをゴスペル調のバラード中心に変更し、指
一本しか動かさなかったので、警察は、エルヴィスを逮捕できな
かったということがあったのです。
 海千山千のパーカー大佐が付いていたからこそ、こういう修羅
場を乗り切ることができたのです。収益金の50%という大佐の
のギャラはけっして高くはなかったのです。エルヴィスの両親は
賢明な判断をしたことになります。
 しかし、全員が批判していたわけではなかったのです。黒人は
もとより白人の若者はこぞってエルヴィスを支持したのです。そ
して皮肉なことに、殺到する非難や抗議はエルヴィスを全米の家
庭の茶の間に入り込ませることになり、かえって若者たちを中心
にエルヴィスのファンは急増したのです。
 こういう状況の中において、パーカー大佐は、エルヴィスを何
としても出演させたいテレビ番組があったのです。その番組は、
「トースト・オブ・ザ・タウン」といい、一般的には「エド・サ
リヴァン・ショウ」として知られていたのです。
 このエド・サリヴァンとはどういう人物なのでしょうか。既出
の前田絢子氏の本からご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エド・サリヴァンは、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ち
 で、南部文化に対する知識も理解も持ち合わせていなかった。
 実生活でも、画面の上でも、生真面目でユーモアに欠け、融通
 のきかない堅物だった。まるで、時代の裁判官のような威厳を
 もって、毎週日曜夜8時から1時間、一流スターを紹介しつづ
 けた。         ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エド・サリヴァンのような無骨な人物がどうして人気を勝ち得
たかについては、当時の米国の社会が伝統を重んじ、穏健にして
保守的であったことと無関係ではないと思います。彼のようなけ
っして羽目を外さない堅実さが、社会道徳の守護神として米国社
会に受けていたのです。
 エルヴィスが登場してきた1950年代の半ばにおいて、エド
・サリヴァンの人気は絶頂にあり、エルヴィスについて次のよう
にいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あのような下品な動作をする子供は私の番組には絶対に登場さ
 せない。              ――エド・サリヴァン
―――――――――――――    ―― [エルヴィス/14]


≪画像および関連情報≫
 ・エド・サリヴァン・ショウとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  エド・サリヴァン・ショウは、エド・サリヴァンがホスト役
  を務める、米国CBSで放映された、バラエティー番組。放
  映期間は、1948年6月20日〜1971年6月6日、当
  時の放送時間は日曜日:午後8時(現地)から。番組発足当
  時のタイトルは、'Toast Of The Town' (トースト・オブ・
  ザ・タウン、直訳すると「町の人気者」である。番組内容は
  ゲストとのトークと、その芸の披露とが主となっていて、出
  演したゲストは、コメディアン、バレエダンサー、曲芸師、
  クラシック音楽家、オペラ、ポピュラー音楽のシンガーなど
  である。              ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

エド・サリヴァン.jpg
エド・サリヴァン
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2010年02月02日

●エド・サリヴァンの敗北宣言(EJ第2203号)

 「ミルトン・バール・ショウ」の出演で、“良識ある”中産階
級保守層にブーイングを浴びたエルヴィスは、次は「スティーヴ
・アレン・ショウ」に出演することが決まっていたのです。
 道徳の擁護者たちは、アレンに対してエルヴィスの出演をキャ
ンセルせよと迫ったのですが、アレンは承知しなかったのです。
彼は当時米国で最もホットな出し物――エルヴィスを自分のショ
ウに組み入れ、エド・サリヴァン・ショウの視聴率を抜くことを
計算していたからです。
 しかし、エルヴィスをビッグ・スターとして自分の番組で紹介
すると、若者には受けるものの、“良識ある”中産階級保守層の
反発を買うことを恐れて、ひとひねりしたのです。
 ボビー・アン・メイソンは、アレンのひとひねりを次のように
表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アレンはエルヴィスを冴えないユーモアの標的にした。エルヴ
 ィスはタキシードを着て、バセット・ハウンド(短脚の猟犬)
 に向かって、「ハウンド・ドッグ」を歌わなければならなかっ
 た。田舎者が洗練を装うという撞着語法的ジョークだ。犬の方
 もタキシードを装っていた。エルヴィスはこだわらず、とりあ
 えず、協力したが、その効果はばかばかしく滑稽だった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、スティーヴ・アレンは、エルヴィスを愚かな田舎者の
プレズリー(プレスリーをわざと間違えて発音)に仕立て上げ、
彼のイメージ・チェンジを図って、批判をかわすというお粗末き
わまる演出をしたのです。
 この「田舎者」――ヒリビリーという言葉をエルヴィスは嫌っ
ていたのです。後に彼はこのときのことを非常に屈辱的な自分を
売った体験であると述べています。
 しかし、このようなばかばかしい演出をしたにもかかわらず、
エルヴィスを出演させたことで、スティーブ・アレン・ショウは
視聴率競争においてエド・サリヴァン・ショウを抜いてはじめて
トップになったのです。
 さすがのエド・サリヴァンもこの事態に愕然とし、「あんな下
品な動作をする子供は自分の番組には絶対に出演させない」とい
う前言を撤回して、パーカー大佐と連絡を取ったのです。そして
交渉の結果、3回の出演で5万ドルという当時としては超破格の
ギャラで、エルヴィスの出演が決まったのです。
 それでもサリヴァンは、エルヴィスの腰から下は撮影しないこ
とを徹底させるなど、辛うじて自分のメンツを保とうとしたので
すが、逆にそうしたことによって、カメラはエルヴィスの若々し
い顔の表情の動きをとらえることになり、それがさらなる人気の
上昇につながったのです。その結果、第1回目の視聴率は空前の
82.6%を記録したのです。
 しかし、サリヴァンはスティーヴ・アレンと違い、エルヴィス
をきちんとビッグ・スターとして扱ったのです。そうしたところ
彼がなかなかの好青年であることに気が付いたのです。見かけの
印象とは大きく異なっていると感じたのです。
 そして、1957年1月6日の第3回目の出演のとき――この
ときエルヴィスはゴスペルの「谷間の静けさ」を歌っているので
すが――サリヴァンは彼一流の敗北宣言をしているのです。第3
回目の出演の終わりにサリヴァンはエルヴィスに手を差し伸べて
次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス・プレスリーとアメリカ国民のみなさん、エルヴィ
 スは実に謙虚で立派な青年です。ビッグ・スターに接してこれ
 ほど気持ちの良い経験をしたことはありません。エルヴィス、
 君は、まったく申し分のない若者だ。 ――エド・サリヴァン
―――――――――――――――――――――――――――――
 既出の前田絢子氏は、サリヴァンがエルヴィスに対してこのよ
うにいったということは「市場経済の論理に敗れた男の負け惜し
みに過ぎない」と斬り捨て、このエルヴィスとサリヴァンとの一
連のやりとりについて、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスとエド・サリヴァンとの対決と和解は、いわばアメ
 リカの南部地方文化とアメリカ主流文化との関係を象徴するも
 のだった。       ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでわれわれは、なぜ南北戦争が起こったのか、なぜ同じ国
民同士で戦わなければならなかったのかについて改めて考えてみ
る必要があります。なぜなら、そうすれば、エルヴィスの音楽が
米国の文化をいかに変貌させたかがわかるからです。
 もともと米国の南部地方は「米国の中の外国」といわれている
のです。それは歴史的・文化的特殊性のためにそのようにいわれ
るのです。
 英国の植民地が最初に建設されたのは南部が先であり、こちら
は奴隷制を中心とする農業が、少し遅れて殖民が始まった北部で
は商工業が中心に発展したのです。このようにして、まったく異
なるプロセスを経て発展した南部と北部はやがてぶつかり、武力
衝突をするのです。これが南北戦争ですが、これについては文化
との関連において、いちどEJのテーマとして、取り上げてみた
いと思います。
 しかし、ジャズやゴスペルなどの黒人音楽、カントリー・ミュ
ージックにロックンロール、それにコーラやフライド・チキンな
ど、われわれが米国の文化であると考えているものは、すべて南
部の文化なのです。そうした中で、南部で育ったエルヴィスの音
楽は、渋々ながらではあるが、米国社会の中央に招き入れられ、
米国主流文化に影響を与えたのです。――[エルヴィス/15]


≪画像および関連情報≫
 ・「ハウンド・ドッグ」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  おまえはただのハウンド・ドッグ
  いつもうるさく吠えたてるだけ
  おまえはただのハウンド・ドッグ
  いつもうるさく吠えたてるだけ
  兎の一匹も捕まえられない奴なんか
  おれの友達じゃない
  おまえが上流だってみんなはいうが
  そんなことは嘘っぱち
  おまえが上流だってみんなはいうが
  そんなことは嘘っぱち
  兎の一匹も捕まえられない奴なんか
  おれの友達じゃない
  http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_10.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ハウンド・ドッグ.jpg
ハウンド・ドッグ
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2010年02月03日

●白人と黒人の壁を破るエルヴィス(EJ第2204号)

 エルヴィス・プレスリーというと、多くの人はロックンロール
によって米国で若者革命を巻き起こした音楽文化の革命児――こ
の程度の印象しかないのではないでしょうか。
 エルヴィスに関して次のような解釈があり、それが一定の評価
を受けていることを前田絢子氏は紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かにプレスリーは革命的なことをやってのけたかも知れない
 が、それは偶然の産物に過ぎない。たまたま生まれ合わせた時
 代と場所と、ずば抜けた才能が重なった結果なのだ。彼の音楽
 は黒人文化と白人文化を融合し、主流文化を決定的に変える流
 れを、従来とはまったく異なる形で象徴していたが、プレスリ
 ー本人はそのような現象には少しも関心を持っていなかった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このエルヴィスに関する考え方が冒頭のエルヴィスのイメージ
を形成していることは明らかです。確かにエルヴィスは社会活動
家として行動を起こしていないし、政治意識をもって動いてはい
ないのです。かといって単なる歌手ではないのです。
 しかし、彼は黒人を対等の人間として受容する勇気を持って行
動していたのです。これは当時とくに南部社会ではなかなかでき
ることではなかったのです。なぜなら、白人が黒人と付き合うこ
となど考えられなかったし、白人が黒人にちょっとでも好意を示
しただけでも「ニガー・ラヴァー」というレッテルが貼られ、ひ
どい嫌がらせが行われたからです。
 そんなエルヴィスを象徴するある事件があります。
 1956年12月7日、メンフィスの黒人ラジオ局WDIA主
催の「グッドウィル・レビュー」の会場――エディス・オーディ
トリアムにエルヴィスは単身姿をあらわしたのです。この「グッ
ドウィル・レビュー」というのは、貧しい黒人の子どもたちのた
めに毎年開かれるチャリティ・ショウで、当日は9000人を超
える黒人が会場を埋め尽くしていたのです。このチャリティ・シ
ョウには、B・Bキングやレイ・チャールズといった黒人の大物
スターが協賛出演していたのです。
 当時エルヴィスは既に有名スターになっており、そういう会場
に、たった一人で出かけて行くのは異常なことだったのです。し
かも、9000人の黒人が詰めかける会場に、たった一人の白人
として姿をあらわしたのです。
 エルヴィスはステージの袖から見ていましたが、番組プロデュ
ーサーが発見して、彼を舞台に引っ張り上げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 レディース・アンド・ジェントルマン、エルヴィス・プレス
 リーです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 司会者がこういった瞬間、会場からは歓声が起こり、観客全員
が一斉に座席から立ち上がり、エルヴィスめがけて殺到し、会場
は大混乱に陥ったのです。そのあまりの熱狂ぶりにコンサートは
継続不能になり、エルヴィスを会場の外に連れ出すのが、やっと
だったというほどでした。その時点でエルヴィスの人気はそれほ
どまで黒人層に浸透していたのです。
 エルヴィスと親交があったとされるB・B・キングは、米国の
R&Bギタリストで、当時メンフィスを中心に活躍していたので
す。このキングらの話によると、エルヴィスは尊敬する黒人には
敬語を使い、若い黒人音楽家とは平気で肩を組み、普通の人間と
して付き合ったといいます。
 そして、つねづね黒人音楽に対しては次のようにいっていたと
いうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 リズム&ブルースやゴスペルの黒人パフォーマーは、心の底か
 ら魂の歌を絶唱します。彼らにはとうてい、かないません。
                ――前田絢子氏の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、黒人たちはエルヴィスの歌い方を見て、エルヴィスが彼
らの人生を肯定したと感じたといいます。これは黒人たちにとっ
てどんなにうれしかったことか想像に余りあるのです。エルヴィ
スは自分の歌い方について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 黒人の人たちは、僕よりずっと長い間、今僕がやっているよう
 に歌ったり、演奏したりしてきたのです。飲み屋でも、 ジュ
 ーク・ジョイントでも、あんなふうに演奏してきたのに、僕が
 始めるまで、誰も気がつかなかっただけ。僕のは彼らから、も
 らったのです。 ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年代というのは、米国のあちらこちらで、昔から存在
していた年長者や経験者を大事に扱う序列や、肌の色による人種
差別、その上に成り立っていた階級といったものが、内部崩壊を
起こしていたのです。
 黒人は劣っているという間違った認識で差別していても、黒人
たちは、豊かで奥行きが深く、躍動的で美しく、それまでの白人
たちのものとは明らかに異なる独自の文化を持っていること、そ
れらはけっして白人のそれに劣っているのではなく、別の価値観
を持つ存在であること――そういう考え方が50年代に入って、
大きな波になって動き始めていたのです。
 エルヴィスはそういう変化を敏感に感じ取ったのです。だから
こそ、自分が黒人歌を歌うことによって人種差別の障壁をあっさ
りと乗り越えてみせたのです。白人が黒人の曲を歌ってはいけな
い理由はないですし、それを聴いてはいけない理由もない。だか
ら、そういうエルヴィスの行動を誰も止めることはできなかった
のです。            ―――[エルヴィス/16]


≪画像および関連情報≫
 ・B・B・キングについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  世界一タキシードが似合うブルース・マン、B・B・キング
  ――よれよれのジーンズをはいた泥臭いブルース・マンのイ
  メージとは正反対とも言えるこの表現には、いろいろな意味
  が込められています。彼は奴隷制度の記憶が残るデルタ地帯
  で生まれ育ったブルース・マン最後の世代であると同時に、
  デルタ・ブルースとエレクトリック・ブルースをつなぎ、ブ
  ルースをポップスの一ジャンルに広めたアーティストです。
  そして、彼はブルース・アーティストとして初めてラスベガ
  スやテレビなど、ショー・ビジネスの世界に進出しました。
  それだけではなく、彼はブルース親善大使としてロシアやア
  フリカなど世界中を訪れて、ブルースを世界中に広める役割
  も果たしました。だからこそ、タキシードが最も似合うブル
  ース・マンなのです。
        http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/b-b-king.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィスとB・B・キング.jpg
エルヴィスとB・B・キング
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2010年02月04日

●エルヴィスの映画出演がはじまる(EJ第2205号)

 1956年4月2日のことです。エルヴィスはパラマウント映
画と契約を結んだのです。その契約は実に7年の長期契約だった
のです。なぜそんなに長い契約を結んだのかというと、パーカー
大佐はその時点でエルヴィスを数年で消え去るアイドル歌手の一
人に過ぎないと考えていたからです。
 しかし、エルヴィスは映画には強い思い入れがあったので、長
期間、映画漬けになることそれ自体はそれほど抵抗はなかったの
です。エルヴィスは、同時代の映画スターであるジェイムズ・デ
ィーンのファンであり、映画には興味があったのです。映画はそ
の当時最大の娯楽であったのです。
 ところで、ジェイムズ・ディーンについて、あなたはどのくら
いご存知でしょうか。
 ジェイムズ・ディーンは1931年生まれであり、エルヴィス
よりも年上に当たります。高校時代から演劇に興味を持ち、カル
フォルニア州立大学の演劇科で学んでいます。しかし、俳優とし
ての成功を夢見て大学を中退し、ニューヨークに出て、アクター
ズ・スタジオに入門するのです。
 このアクターズ・スタジオの創設者の一人が、あの有名なエリ
ア・カザン監督なのです。ジェイムズ・ディーンは、運よくカザ
ン監督の目に止まり、映画『エデンの東』の主演に抜擢されるの
です。その後、次の作品にも抜擢されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    『理由なき反抗』/主 役 ・・・ 1955年
    『ジャイアンツ』/順主役 ・・・ 1956年
―――――――――――――――――――――――――――――
 映画『エデンの東』でディーンは、主人公のキャル・トラスク
とその境遇が若干似ているところから、その思いを自然にぶつけ
た結果、なかなかの名演技となり、アカデミー賞の最優秀主演男
優賞にノミネートされたのです。
 次の映画『理由なき反抗』でも、ディーンは中産階級の凡庸な
父親と支配的な母親とを持つ、疎外され傷つく17歳の孤独な若
者を演じて評判になります。ディーンは当時の反逆的な若者の代
表格だったのです。
 1950年代の半ばになると、米国の若者は変わり始めたので
す。両親の世代と価値観に大きなずれが生じて、親の無理解と無
神経さに苛立つ若者が増えていったのです。ディーンはそういう
若者を見事に演じて若者たちの共感を呼んだのです。
 エルヴィスにとってこのジェイムズ・ディーンは、憧れの存在
だったのです。エルヴィスはとくに『理由なき反抗』が気に入っ
ていて、ディーンのセリフをすべて覚えていて、ハリウッドの映
画関係者を驚かせたのです。
 しかし、1955年9月30日、カルフォルニア州サリーナス
での自動車レースに参加するため愛車のポルシェを猛スピードで
飛ばして事故を起こし、死亡してしまうのです。
 1956年の8月22日、エルヴィスはハリウッド入りをする
のですが、翌日から最初の映画『やさしく愛して』の撮影に入り
10月8日に終了しています。これは、映画の撮影としては非常
に短い期間でしかないのです。まして主役のエルヴィスの最初の
映画であるにもかかわらずです。
 この映画は興行的には大ヒットしたのですが、映画は散々の出
来であったのです。しかし、パーカー大佐はエルヴィスの映画俳
優としての可能性には興味はなかったようで、ただ金儲けにだけ
こだわったのです。
 エルヴィスは立て続けに4本の映画を撮ったのです。1年半あ
まりの間にそれらは制作されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.『やさしく愛して』 ・・・・・ 1956公開
  2.『さまよう青春』  ・・・・・ 1957公開
  3.『監獄ロック』   ・・・・・ 1958公開
  4.『闇に響く声』   ・・・・・ 1958公開
―――――――――――――――――――――――――――――
 1957年12月に、エルヴィスはメンフィスの徴兵委員会か
らアメリカ合衆国政府の徴兵令状を受け取ったのです。そのとき
エルヴィスは『闇に響く声』を撮影中であったので、完成までの
2ヶ月の猶予を申し出て認められています。
 実は『闇に響く声』の台本は、ジェイムズ・ディーンに書かれ
た作品であり、ディーンの急死によってエルヴィスにまわってき
たのです。これについてエルヴィスは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この映画は、僕にとって大きな挑戦でした。というのも、これ
 は僕よりもずっと経験を積んだ俳優のために書かれた作品だっ
 たからです。      ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この作品の原作はハロルド・ロビンズの小説『ア・ストーン・
フォー・ダニー・フィッシャー』であり、主人公はボクサーだっ
たのですが、エルヴィスがやることになって、急遽歌手に書き換
えられ、舞台もニューヨークから、南部のニューオーリンズに変
更されているのです。
 エルヴィス自身は映画では歌を歌わず、演技で勝負したいと考
えていたのですが、映画の製作者は最初からエルヴィスの歌で売
る計画であったので、歌いっぱいの映画になったのです。
 しかし、『やさしく愛して』では「ラヴ・ミー・テンダー」、
『さまよう青春』では「ラヴィング・ユー」、『監獄ロック』で
は「ハウンド・ドッグ」、『闇に響く声』では「トラブル」とい
うように、エルヴィスのキャリア全体の中でも、最高の音楽が並
んだので、興行的には大成功だったのです。
 1958年3月10日に『闇に響く声』の撮影が終わると、エ
ルヴィスはメンフィスに戻り、一連の手続きを終えて3月24日
に陸軍に入隊したのです。    ―――[エルヴィス/17]


≪画像および関連情報≫
 ・デニス・ストック写真展/ジェイムズ・ディーン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今から50年前の1955年始め、フォトジャーナリストと
  してある程度成功していた写真家デニス・ストックは、出世
  作『エデンの東』に主演したばかりのジェイムズ・ディーン
  と出会い、すぐに意気投合しました。ジミーの魅力に魅せら
  れたデニスは、故郷のインディアナ州フェアマウント、ニュ
  ーヨークなどでジミーの様々な姿を写真に残します。ジミー
  は24歳の若さで亡くなってしまいましたが、演じることで
  若者の感情を代弁してきた永遠のヒーローは、いつの時代で
  も人々魅了し続けています。
  http://www.magnumphotos.co.jp/ws_exhibition/stdjd.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジェイムズ・ディーン.jpg
ジェイムズ・ディーン
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2010年02月05日

●エルヴィスを徴兵した米政府のの思惑(EJ第2206号)

 エルヴィスのような芸能人が兵役に就くさいには、いくつかの
特例が認められています。一定の免除金を支払えば徴兵を逃れる
ことも可能なのです。
 実際にエルヴィスは、海軍からは徴兵前に志願すれば特別に扱
うという申し出を受けていましたし、陸軍からは入隊後にエンタ
ーティナーとして特別部隊に参加したらどうかという誘いも受け
ていたのですが、エルヴィスはすべてを断って、単に2ヶ月の入
隊延期願いを出しただけだったのです。
 エルヴィスが軍隊での特別待遇を受け入れなかったのには諸説
があります。ひとつは、エルヴィスが国家権力に楯つくにはあく
まりにも謙虚な南部の労働者階級出身の青年であり、国民の義務
として通常の兵役に就きたいと考えて、軍隊での特別待遇は拒否
したという説です。
 もうひとつは、パーカー大佐の思惑によってあえて特別待遇を
拒否させたという説です。エルヴィスのファンの中心は若者であ
り、その若者の代表格のエルヴィスが一切の特別待遇のない通常
の兵役に就く方が愛国者としてファンのイメージとしては良くな
ると軍隊から復帰後のことまで考えて、大佐がエルヴィスに勧め
たのではないかという説です。
 そもそもその当時ペンタゴンは、なぜエルヴィスを必要として
いたのでしょうか。
 195O年代の末期において米国は冷戦の真っ只中にあり、軍
備拡張に熱心だったので、戦時体制に準ずる選抜徴兵制が敷かれ
ていたのです。したがって、米国人であれば誰でも徴兵される可
能性があったのです。
 しかし、それにしても米国政府は、なぜこの時期にエルヴィス
を徴兵したのでしょうか。
 エルヴィスのように未経験で、体力的にも、精神的にも兵士向
きではない人間を一兵卒として働かせるよりも、国内に残して広
報や慰問に使った方が国としてメリットがあるはずです。
 第2次世界大戦においても、米国政府は、有名映画スターやス
ポーツ選手を徴兵せず、彼らの日常活動を通じて戦時国債販売の
キャンペーンに使ったりしてきているのです。
 しかし、米軍司令部の勧めを断り、どうしても最前線に行きた
いと自ら申し出て、航空カメラマンとして何度も決死のドイツ爆
撃行に加わった映画俳優クラーク・ゲーブル――映画『風と共に
去りぬ』で主役――のようなケースもあります。
 もっともクラーク・ゲーブルの場合は、最愛の妻キャロル・ロ
ムバードを飛行機事故で亡くしたばかりであり、自殺願望もあっ
たのではないかといわれているのです。
 それでは、なぜエルヴィスに徴兵令が出されたのかですが、次
の2つの理由があったものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.今が準戦時体制であることを知らしめる
    2.反体制ムードの上昇にブレーキをかける
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の理由は、「今が準戦時体制であることを知らしめる」と
いうことです。
 エルヴィスは、徴兵令の出された1957年12月当時、人気
急上昇の歌手であり、超有名人だったのです。したがって、エル
ヴィスを徴兵すると、あのエルヴィスでも徴兵されたんだからと
いうわけで、かなりの募集宣伝になるのです。そのためにあえて
エルヴィスを徴兵したのではないかと思われます。
 第2の理由は、「反体制ムードの上昇にブレーキをかける」と
いうことです。
 エルヴィス自身はそのような気はなかったのですが、エルヴィ
スは「反体制の旗手」と世間からは見られています。そのムード
を沈静化させ、懲らしめ、内部に取り組んでしまおうという考え
方がペンタゴンにあったのではないかと考えられます。
 1950年後半のエルヴィスの印象について、既出の東理夫氏
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスの最初からの印象は、いつも世を拗ね、屈折したも
 のを胸に秘め、鬱積したはけ口をギラギラした目で探している
 ような若き日のトニー・カーティスやマーロン・ブランド、そ
 れにジェイムズ・ディーンに近かった。エルヴィスの内心はと
 もかく、外面上、唯々諾々とペンタゴンの言いなりに従った印
 象から、彼の持っていた反抗の姿勢、反逆児のイメージに裏切
 られたと感じた若者たちがいたことは確かだった。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 米政府が何らかの意図があってエルヴィスを徴兵したかどうか
はあくまで推測の域を出ませんが、少なくとも政府としてはエル
ヴィスが相当気になる存在であったことは確かだったのです。
 しかし、当のエルヴィスは有名芸能人のための一切の特別扱い
を拒否して、通常のかたちでの兵役を受け入れたのです。これに
よって彼の持っていた反逆の姿勢、反逆児のイメージを買ってい
たファンが離れたことは確かであり、そういう意味でエルヴィス
を徴兵したことはペンタゴンとして成功であったといえます。
 このように兵役は芸能人にとって最大の危機なのです。それは
兵役をどう受入れるかによってその後の人気が大きく左右される
からです。しかし、エルヴィスにはパーカー大佐という有能なマ
ネージャーがついており、そのあたりの対応は、万全であったと
いえます。
 パーカー大佐はエルヴィスが不在でもそのキャリアを維持する
ために、既に録音済みのシングルろレコードを時折リリースし、
彼の帰還を望む声が高まるよう、巧みにタイミングを計って手を
打っていたのです。そのために、入隊前に取った4本の映画も大
きな働きをしたのです。     ―――[エルヴィス/18]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスの兵役
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1957年12月に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通
  知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており
  陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けること
  なく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月
  5日に満期除隊した。彼は軍在籍中に空手の黒帯を取得し、
  軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に
  響く声」を製作中で、それによって徴兵を少し延期したこと
  でも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し
  入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝
  えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れ
  を行ったという。          ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

軍服姿のエルヴィス.jpg
軍服姿のエルヴィス
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2010年02月08日

●最愛の母グラディスの死(EJ第2207号)

 1958年3月24日、午前6時35分――エルヴィスは陸軍
に入隊します。入隊すると、アーカンソー州フォート・チャフィ
の新兵訓練所に入るのですが、入隊の日、両親のヴァーノンとグ
ラディスはエルヴィスを徴兵センターまで見送っています。しか
し、その頃、母のグラディスの体調はよくなかったのです。
 そのとき、エルヴィス一家は、グレイスランドに立派な家を構
えていたのですが、米国の軍隊は、扶養家族がいる場合、基地の
近くに家を借りて家族と一緒に暮らすことができたのです。そう
いうわけで、基礎訓練が終わって、テキサス州フォート・ウッド
の基地に落ち着いたエルヴィスは、両親と一緒に住める3つの寝
室が付いたトレーラーハウスを見つけて、しばらくそこで一緒に
暮らしていたのです。
 エルヴィスが成功してエルヴィスの一家はお金に不自由するこ
とがなくなったのです。不自由どころかお金はひっきりなしに銀
行の口座に振り込まれ、使い切れないほどだったのです。
 エルヴィス一家は、メンフィスの郊外のグレイスランドに立派
な家を建て、当時ステータスのシンボルといわれたキャデラック
を何台も持つようになったのに、エルヴィスの両親であるヴァー
ノンとグラディスはけっして幸福ではなかったのです。
 とくに母親のグラディスは、あまりにも変化した生活にまった
くついて行くことはできなかったのです。既出のボビー・アン・
メイソンは、母のグラディスについて次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディスは貧乏だった頃に戻りたいと何度も言った。新しい
 贅沢は、エルヴィスがいないことや、夢中になったファンや怒
 りに駆られた両親たちや、凶悪なハリウッドの人種など、エル
 ヴィスを脅かしているとしか思えない危険の埋め合わせにはな
 らなかった。彼女はひたすらエルヴィスのことを思い、心配し
 た。酒を飲んで、体重が増えた。ひどく神経過敏になった。し
 かも慢性の肝炎だった。気分がすぐれなくても、適切な医療を
 受けようとはしなかった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディスがもうひとつ嫌ったのは、マネージャーのパーカー
大佐が、大スターエルヴィス・プレスリーの母親を良いイメージ
で演出しようとして、出かけるときに彼女の服装にまでいちいち
口を出してくることだったのです。
 母親が息子に執着するのは当然のことですが、グラディスのエ
ルヴィスに対する思い入れは尋常なものではなかったのです。小
さいときからいつも一緒であり、まるで母ひとり子ひとりの家庭
のようだったのです。逆にいうと、父のヴァーノンはエルヴィス
にとって遠い存在であったといえます。
 それはエルヴィスの双子の兄弟となるはずだった子――ジェシ
ー・ギャロン・プレスリーを死産で失っていることに原因があっ
たのです。グラディスはそのトラウマによって、非常に神経質な
性格になったといいます。
 この思いはエルヴィスにとっても同様であり、グラディスはエ
ルヴィスにいつも死んだ兄、ジェシー・ギャロンについて話して
聞かせたので、エルヴィスとしては自分が二人分の息子の役割を
務めなければならないといつも感じていたのです。
 グラディスはしっかりした女性でしたが、奔放な一面も持って
いたのです。彼女は「バック・ダンス」の名手だったのです。こ
のダンスは「牡鹿の求愛のダンス」といわれ、ジャズのジルバと
タップダンスに似た「グロッグ」というカントリーダンスを混ぜ
たような挑発的なソロダンスなのですが、グラディスはこのダン
スを得意としたのです。エルヴィスの激しいステージ動作はこれ
が受け継がれたものと思われます。
 グラディスについてふれたので、父親のヴァーノンについても
述べておくことにします。ヴァーノンについて、既出の東理夫氏
は、著書で次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラディス・ラヴ・スミスに比べると、ヴァーノン・エルヴィ
 ス・プレスリーはずっと薄っぺらな人間に見える。その一生を
 一言でいえば、結局は「行き当りばったり」の人生というしか
 ない。彼はただ毎日が安直に流れ去っていくにまかせる、その
 場しのぎの生き方しかできなかった。いつも人の尻に乗り、子
 分のようについていったため損をするというタイプだった。夫
 としても不甲斐なく、父親としても頼りなかった。むしろ家族
 や家庭というものから、一歩退いた姿勢でいようとしていた節
 がある。そのような生きることに対する積極的な姿勢の欠如と
 いった性格的欠陥は、その子エルヴィス・アーロン・プレスリ
 ーの心に大きな影響を与えることになる。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにエルヴィスの人生に大きな影響を与えた母グラディ
スは、1958年8月14日に心臓麻痺で亡くなってしまうので
す。エルヴィスが入隊して4ヶ月後のことです。
 エルヴィスは母の遺体にすがりつきながら、声を上げて泣き続
け、誰もそれを止めることはできなかったといいます。こうして
エルヴィスは最大の理解者である母を失ったのです。そのとき悲
嘆にくれるエルヴィスに夜を徹して付き添い、励ましたのは、あ
のサム・フィリップスだったのです。
 誕生のとき、双子の兄を失ったことがエルヴィスの子供時代の
基調を決めたとするならば、最愛の母親を失ったことによって何
かが壊れ、それが彼の残りの人生の基調を決めたということがい
えると思います。エルヴィスの専門家は、グラディスの死後、エ
ルヴィスは、まるで道徳のコンパスを失ったようであると述べて
いるのです。          ―――[エルヴィス/19]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『グレイスランド』というのがある
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「エルヴィスは生きている!」というニュースは、今も時折
  アメリカのタブロイド紙をにぎわせている。この映画は、そ
  んなエルヴィス伝説をそのままモチーフにした作品。エルヴ
  ィスが生きているとしたら、彼は20年間なぜ姿を消してい
  たのだろうか。20年もの長い間、何をして暮らしていたの
  だろうか……。タイトルの『グレイスランド』とは、エルヴ
  ィスが最後に暮らしていたメンフィスの自宅のこと。世界中
  のエルヴィス・ファンにとって、グレイスランドはまさに聖
  地。この映画では、劇映画としては初めて屋敷内にカメラが
  入っている。
      http://www.eiga-kawaraban.com/99/99080201.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィス一家.jpg
エルヴィス一家
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2010年02月09日

●音楽映画/サウンドトラック商法(EJ第2208号)

 母グラディスの死のあと、エルヴィスはドイツのフランクフル
トに赴任します。そして2年間の兵役を終えて、1960年3月
3日、エルヴィスは79名の仲間と共に、ニュージャージー州マ
クガイア空軍基地に帰ってきたのです。
 到着が早朝であることに加えて、当日は朝から猛吹雪であった
にもかかわらず、基地には大勢の記者やファンが詰めかけていた
のです。その歓迎ぶりは、内心、自分のキャリアは続かないので
はないかと思っていたエルヴィスの不安を完全に吹き飛ばすもの
でした。
 エルヴィスは、2年間の兵役を境にして完全に別のエルヴィス
になっていたのです。それは、次の3つが理由として考えられる
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.体制反逆児的イメージが消滅したこと
     2.母の束縛が解かれ、自らの意思で行動
     3.本格的アーチストを目指す目標を持つ
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1に、エルヴィスが素直に兵役――それも特別待遇なしの兵
役に従事したことによって、かつてのエルヴィスが持っていた体
制反逆児的アイドル的イメージが消滅したことです。
 もともとエルヴィスの評価は二極化していたのですが、反逆児
的イメージが消滅したことによって離れていったファンと変貌し
たイメージを歓迎するファンが入れ替わって、かえって安定的な
ファンが増えたのです。
 第2に、それまで精神的に大きく依存してきた母がいなくなり
自分の意思で行動するようになり、すっかり大人の顔になったこ
とです。エルヴィスは当時まだ25歳に過ぎなかったのですが、
軍隊の経験を経てたくましい大人に変貌したのです。
 第3に、エルヴィス自身が本格的なアーチストを目指そうとい
う気になったことです。永続的な歌手として生き残るにはどうす
べきか、本格的な俳優になるのはどうすべきかについて真剣に考
えるようになったことです。もし、エルヴィスにそういう気持ち
にならなかったら「かつて一世を風靡したロックンロール歌手」
としてキャリアを終えていたと思われます。
 除隊後のエルヴィスの最初の仕事は、フランク・シナトラのテ
レビ・ショウへの出演だったのです。当時人気が低迷していたシ
ナトラのショウは、エルヴィスがたった6分間出演しただけで、
今までの最高の視聴率を記録したのです。その6分間の出演で、
テレビ局がエルヴィス側に支払ったギャラは12万5000ドル
という法外なものでした。しかし、これによってエルヴィスの評
価は確定したといえます。
 これに自信をつけたエルヴィスは、レコーディングに意欲を燃
やし、RCAスタジオで数回にわたるレコーディング・セッショ
ンに取り組んだのですが、そこに集まったメンバーは入隊前とほ
とんど同じ顔ぶれが集まったのです。これはマネージャーのパー
カー大佐の努力によるものだったのです。
 この一連のレコーディング・セッションで誕生した曲は次の3
曲であり、たてつづけにビルボードのヒットチャートを襲撃し、
連続第1位を獲得したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「本命はお前だ/Stuck On You」
  「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー/It's Now Or Never」
  「今夜はひとりかい?/Are You Lonesome Tonight ?」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの曲は、エルヴィスの初期の作品に比べると、野性的な
パワーに欠けますが、その代わり完璧ともいえる絶妙な技巧と歌
唱力が加わっていたのです。伸びやかで独特の艶のあるビブラー
トのかかったエルヴィスのバラードがその後全米の音楽界を征服
することになるのです。
 とくに「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」は、エンリコ・カル
ーソーのスタンダード・ナンバーで、グラディスがかつて蓄音機
でエルヴィスに聴かせた「オー・ソレ・ミオ」のエルヴィスによ
るアレンジなのです。
 この「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」は、単なるカルーソー
のカヴァーではなく、完全にエルヴィスの歌そのものになってい
るのです。つまり、「オー・ソレ・ミオ」ではなく、名実ともに
「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」なのです。これは、彼の音楽
的感性の豊かさを証明するものであり、ぜひ聴いていただきたい
と思います。チャチャチャのリズムに乗った楽しい曲です。
 こうした歌のレコードがヒットする中で、パーカー大佐は新し
い金儲けの方法を考え出したのです。それはエルヴィスの人気を
利用して彼を多くの映画に出演させ、そのサウンドトラック盤を
製作して売るという方法です。
 しかし、エルヴィスは本気で映画俳優を目指し、演技に磨きを
かけたかったのです。そして歌の方はできるだけライブを増やし
て、良い曲を創り出していく――そういう方針で進みたかったの
です。ところが、これはパーカー大佐のプロデュースの考え方と
相容れなかったのです。
 エルヴィスの音楽いっぱいの映画を作り、それを世界的に上演
させる――大佐にとってエルヴィスの演技などどうでもよかった
のです。人気は絶頂にあり、エルヴィスの歌さえ入れば映画は大
ヒットするに決まっているのです。たとえその中に質的に問題の
ある曲が何曲か入っていても、サウンドトラック盤を出せば確実
に売れると考えたのです。
 ライブなんかをやるよりも映画の方が全世界で上演され、それ
に連動してサウンドトラック盤というレコードが売れる――商売
としてはなかなかのアイデアです。
 しかし、結果として、このライブを少なくして、音楽映画を多
産し、サウンドトラック盤を売る商売がエルヴィスの心身を蝕む
ことになるのです。       ―――[エルヴィス/20]


≪画像および関連情報≫
 ・「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  除隊後のメガ・ヒット<本命はお前だ>に続く第2弾シング
  ルとして60年7月にリリース。8月1日から9月18日ま
  で連続5週ヒットチャート・トップになったこの曲は、成長
  著しいパフォーマンスを披露。華麗なる変身をリアルタイム
  で聴いた人には相当な衝撃だったと想像するのは容易だ。す
  でに駐屯中の西ドイツで、レコード化を希望していたエルヴ
  ィスの望みが叶ったものだけに、気合い十分、ニュー・エル
  ヴィスをアピールする野心も十分だっただろう。
    http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_37.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」.jpg
「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」
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2010年02月10日

●映画制作とサントラ録音の日々(EJ第2209号)

 映画の制作に関して、エルヴィスとパーカー大佐の意見は明ら
かに相違していたのです。エルヴィスは、ジェイムズ・ディーン
やマーロン・ブランドのような本格的な映画俳優になりたいと考
えていたのです。したがって、音楽だけを売り物にする映画ばか
りではなく、シリアスな内容の作品にも出演したい――エルヴィ
スはそう考えていたのです。
 しかし、パーカー大佐は、エルヴィスの最大の魅力は音楽であ
り、その音楽がいま大衆から受け入れられている以上、それでと
ことん売るべきである――映画はエルヴィスの音楽を普及させ、
世界中に浸透させる手段であると考えていたのです。
 その頃制作された映画に次の4本があるのです。これらは、エ
ルヴィスが求めるシリアスな作品と音楽を売り物にする音楽映画
に分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ≪シリアスな作品≫
   『燃える平原児』 ・・・・・ 1960.12
   『嵐の季節』・・・・・・・・ 1961.06
  ≪音楽を売り物にする作品≫
   『GIブルース』 ・・・・・ 1960.11
   『ブルー・ハワイ』 ・・・・ 1961.11
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見て驚くのは作品と作品の公開間隔の短かさです。19
60年11月と12月、1961年6月と11月――この調子で
制作していたのでは、ほとんど映画制作に時間をとられてしまう
ことになります。それに加えて、映画のサウンドトラック・アル
バムの制作もあるのです。
 結論からいうと、パーカー大佐の狙い通り、興行的には音楽を
売り物にする映画が圧倒的に好評だったのです。シリアスな内容
の2本の作品では、エルヴィスは好演したものの、興行的には今
ひとつの結果に終わったのです。
 『GIブルース』は復帰後最初の映画だったのですが、記録的
な興行成績を上げ、そのサウンドトラック・アルバムはビルボー
ド・アルバム・チャートでナンバーワンになっています。
 『ブルー・ハワイ』にいたっては、数年来の米国映画の空前の
ヒット作になったのです。その興行成績は1957年の『OK牧
場の決闘』をはるかに凌いだのです。
 この映画のサウンドトラック・アルバムは、ビルボード・アル
バム・チャートの第1位に輝き、その後1年間にわたって、売り
上げチャートの第1位を独占したのです。
 この映画は日本でも空前のヒットになったのですが、それは当
時一般の人々には手の届かなかったハワイ旅行に行った気分にな
れる映画として、人気を呼んだのです。
 ところでこの映画の主題曲『ブルー・ハワイ』という曲の由来
をご存知でしょうか。イントロからしてハワイのムードがダイレ
クトに伝わってくる名曲です。
 実は最初に歌ったのはビング・クロスビーなのです。1937
年の映画『ワイキキの結婚』のタイトルソングとして、レオ・ロ
ビンソンとライフ・レインジャーの2人によって作曲され、映画
の中でビング・クロスビーが歌ったのです。
 その後、クロスビー・バージョンはシングル・カットされ、全
米でヒットしているのです。さらに、1958年から59年にか
けて、ビリー・ボーン・オーケストラでリバイバル・ヒットし、
その後エルヴィスがレコーディングしているのです。
 そのほか、フランク・シナトラ、マントヴァー二・オーケスト
ラ、ベニー・グッドマン、レイ・アンソニー、そして『ハネムー
ン・ベガス』で、ウィリー・ネルソンがカヴァーしています。
 エルヴィスは、1961年3月、ハワイでチャリティ・コンサ
ートを開いています。このライブのあと、エルヴィスは7年間に
わたって聴衆の前に立つことはなかったのです。パーカー大佐の
指示に従い、一年に3本の割合でただひらすら映画とそのサウン
ドトラック・アルバムを作り続けたのです。
 短い期間で映画を制作すれば、どうしても粗製乱造になり、質
に問題が出てくるのは当然の結果です。売り上げ第一主義の二流
以下の映画のシナリオを与えられたこと、映画の画面にしか通用
しないサウンドトラックの歌の数々――それらがエルヴィスの才
能と意欲を押し潰していったのです。
 それでも彼のキャリアは隆盛を極め、人気の頂点に立っていた
のです。その頃のエルヴィスの心境を既出のボビー・アン・メイ
ソンは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼のキャリアは隆盛を極めていたが、さらに奥深いレベルでは
 大佐の操作は不幸をもたらすものだった。エルヴィスはツァー
 をやめ、60年代、スタジオでの大量の時間を質の疑わしいサ
 ウンドトラックのレコーディングに費やした。サウンドトラッ
 クは機械的で事務的な条件で、組合規定に従った休憩時間つき
 で行われた。それはエルヴィスの集中力とインスピレーション
 を粉砕する条件だった。エルヴィスの創造性はやりがいのない
 仕事に苦しみ、彼は自分がますますフラストレーションを感じ
 ていることに気づいた。彼は自分の映画が月並みなのを知って
 いた。またレコーディングするようにと頼まれる歌の多くに気
 恥ずかしい思いをした。しかし彼は映画でも音楽でも、もっと
 ましな演目の申し出があるだろうという希望にすがるしかなか
 った。     ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにして、エルヴィスはキャリアはパーカー大佐に依存
し、個人的な財政管理は父親にすべてまかせ、自分は気晴らしと
満足感を得る役割を自認するようになったのです。お金は使い切
れないほどあったのです。そんなとき、ビートルズがエルヴィス
を訪問してきたのです。     ―――[エルヴィス/21]


≪画像および関連情報≫
 ・添付ファイルの説明
  ―――――――――――――――――――――――――――
  映画『ブルーハワイ』のハワイ・ロケ中にエルヴィスを訪ね
  た雪村いづみ。この頃、エルヴィスは少しおなかの出っ張り
  を気にしていたといいます。
  ―――――――――――――――――――――――――――

雪村いづみとエルヴィス.jpg
雪村いづみとエルヴィス
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2010年02月12日

●エルヴィスがビートルズと会った夜(EJ第2210号)

 ビートルズがエルヴィスを表敬訪問したとき、エルヴィスはハ
リウッドの豪邸に住んでいたのです。この邸宅はエルヴィスがイ
ランの国王から借りたものだったのです。
 エルヴィスがハリウッドで愚にもつかない映画作りとサウンド
トラック・アルバムのレコーディングに明け暮れしていた頃、ビ
ートルズが放送電波を支配し、ビートルズを中心にロックンロー
ルのエネルギーは爆発しつつあったのです。
 ビートルズは、1964年に初めて「エド・サリヴァン・ショ
ウ」に出演していますが、そのときパーカー大佐は「アメリカ合
衆国にようこそ!」という電報を打っているのです。それは、米
国のロックンロールの世界では、今でもエルヴィス・プレスリー
というキングが活躍しているのだということをビートルズに思い
知らせることを意図していたのです。パーカー大佐とビートルズ
のマネジャーであるブライアン・エプスタインとは、いつも張り
合っていたからです。
 1995年8月のはじめのことです。ビートルズはニューヨー
クのシェイ・スタジアムに6万5000人集めて記録破りのコン
サートを行ったのです。エルヴィスにとって強敵の出現です。し
かし、エルヴィスは映画の仕事に縛られており、対抗したくても
できない状況にあったのです。
 そのビートルズがエルヴィスに会いたいといってきたのです。
エルヴィスは内心ビートルズに脅威を感じていたので、会うのを
避けようとしたのですが、表敬訪問ということもあって会うこと
にしたのです。
 1995年8月27日の午後、ビートルズはハリウッドのエル
ヴィスの邸宅に到着したのです。訪問は厳重に秘匿されたのです
が、到着したときは大勢のファンが集まっていたといいます。
 エルヴィスとビートルズとの出会いについては後日いろいろ語
られていますが、あまり雰囲気の良いものではなかったのが真実
のようです。当日は、若手の音楽家に対しては親しくやさしいエ
ルヴィスがなぜか苛立っており、ビートルズの方もかなり緊張し
てあまり和やかな雰囲気ではなかったようです。
 ビートルズは憧れのエルヴィスを前にして、畏怖のため口がき
けなかったのです。その気詰りな場面を変換しようとしたのか、
エルヴィスはギターを手に取ると、ジューク・ボックスから流れ
てくるチャーリー・リッチの「モヘア・サム」に合わせて軽くギ
ターをかき鳴らしはじめたのです。
 そうすると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが一緒
に演奏に加わってきたのです。歴史的なジャムセッションでした
が、数曲のセッションで終わってしまったといいます。ボビー・
アン・メイソンはその会談について次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 レノンがなぜもうロックンロールのレコードを作らないのかと
 聞いたとき、エルヴィスは苛立った。「サンのレコード好きだ
 ったんですよ」と、レノンは言った。エルヴィスは身構えた。
 すでに緊張していたその夕べはさらに緊迫し、そしてずるずる
 と過ぎていった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうやら、ジョン・レノンの態度はかなり傍若無人であったよ
うで、エルヴィスの神経を逆なでしたのです。無作法にエルヴィ
スを挑発したのです。後日エルヴィスは次のようにビートルズを
批判していますが、このときのレノンの態度が原因であると思わ
れるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ビートルズはアメリカの若者にとって不健全である
             ――エルヴィス・プレスリー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジョン・レノンは、あとで自分がエルヴィスに対して礼を欠い
たことに気がつき、エルヴィスの側近に対してエルヴィスに次の
ように伝えて欲しいと頼んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、エルヴィスがいなかったら、僕らはいなかったでしょ
 う。昨晩は僕の人生で最高の夜でした。
                   ――ジョン・レノン
―――――――――――――――――――――――――――――
 それにしてもエルヴィスはどうしてもっと鷹揚にビートルズに
接することができなかったのでしょうか。それはエルヴィス自身
が自分の置かれていた不幸なポジション――映画制作に縛られて
動けない――に苛立っており、焦っていたからです。
 しかし、エルヴィスがいたからこそビートルズが誕生したので
す。「もし、エルヴィスがいなかったら、僕らはいなかったでし
ょう」というジョン・レノンの言葉に偽りはないのです。
 もし、エルヴィス自身がビートルズの芸術とその強力な音楽の
展開に自分が果たした貢献に誇りを持つことができたら、もっと
ビートルズを丁寧に寛大に扱うことができたはずです。しかし、
そのときのエルヴィスには‘長老’としての役割を演じられなか
ったのです。エルヴィスは初期のビートルズの音楽のいくつかを
気に入っていたのですが、彼らと会って以来、ビートルズには興
味を失ってしまったといいます。
 ところで、1960年代というと、米国がひとつの時代から新
しい時代に突入したことを感じさせる現象が多く起こっていたの
です。エルヴィスは時代の変化に無関心ではなかったのです。
 その1960年代に最初に米国を揺さぶったのは黒人たちの起
こしたある事件だったのです。米国社会は、1954年のブラウ
ン判決後も黒人分離と差別の解消は一向に進まず、黒人たちは、
50年代の米国の経済的繁栄から取り残されていたのです。50
年代の豊かさの裏側にあった矛盾が一挙に表面に露呈し、それが
爆発したのです。        ―――[エルヴィス/22]


≪画像および関連情報≫
 ・ロック史のブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ビートルズはデビューしたての頃は、エルビス・プレスリー
  やチャック・ベリーといった、50年代のロックン・ロール
  からの強い影響が見て取れるバンドであり、熱狂的な支持の
  され方はエルビス・プレスリーに代わるものであった。そん
  なデビュー当時の彼等のトレードマークと言えば、あのマッ
  シュルームカットであり、当時は「男のくせに長髪にして女
  みたいに前髪を垂らしている」と言われ、エルビス・プレス
  リーの時代からあった「ロック=不良」というイメージに、
  新たに「ロック=長髪」というイメージを作り上げた。
        http://history.sakura-maru.com/beatles.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ビートルズとエルヴィス
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2010年02月15日

●60年代米国の社会的背景(EJ第2211号)

 エルヴィスが除隊して芸能界に復帰して、縦横無尽に活躍した
1960年代――この年代は50年代の「豊かな社会」に育った
若者たちが引き起こす過激な反社会的風潮というものがあって、
それが米国社会全体に、これまでにない激烈な意識革命を起こし
つつあった時代なのです。そういう社会背景を少し振り返ってみ
たいと思います。
 1960年2月1日に深刻な事件が起こったのです。米国南部
ノースカロライナ州グリーンズポロにあるウールワース百貨店内
のランチ・カウンターに4人の黒人学生があらわれたのです。
 しかし、このスポットは、黒人の立ち入り禁止区域であり、そ
こにいた白人たちは騒然となったのです。4人の黒人学生は平然
と椅子に座って、コーヒーを注文したからです。
 この黒人学生に対する白人客のやったことは、ひどいものだっ
たのです。頭からケチャップをかけたり、背中からジュースを流
し込んだり、悪態をついたり、椅子を蹴飛ばしたり、ひどいこと
をしたのです。しかし、4人の学生は何をされてもじっと我慢し
て椅子に座っていたといいます。
 しかし、それらの黒人学生は翌日もまたやってきて、同じこと
をやったのです。同じように白人客は嫌がらせをやったのですが
今回はテレビがやってきて、その模様を全米に報道したのです。
 黒人学生に加えられるひどい嫌がらせ、何をされてもじっと耐
える学生――これを見て、黒人ばかりか白人の学生まで熱い共感
を巻き起こして、南部以外からもこの運動に参加する黒人学生が
続々と集まってきたのです。そして、多くの黒人禁止区域で同じ
ことをはじめたのです。
 黒人学生たちのはじめた運動とは、黒人禁止区域に立ち入って
次のようなことをやる運動です。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.シット・ イン ・・・ 座り込み/喫茶店など
   2.プレイ・ イン ・・・ 入り込み/公 園など
   3.リード・ イン ・・・ 読み込み/図書館など
   4.スリープ・イン ・・・ 泊り込み/ホテルなど
―――――――――――――――――――――――――――――
 この運動はあっという間に南部全体に広がり、さらにそれは全
米に拡大していったのです。そして1960年の秋になると、米
国のムードは今までとは変わっていったのです。
 そういうさなかの1960年11月に行われた大統領選挙は、
こうした社会風潮をまさに反映する結果を生み出したのです。当
時まだ43歳だった民主党のジョン・F・ケネディが大統領選で
歴史に残る激戦の結果、共和党のニクソンを僅差で破り、第35
代米国大統領になったのです。
 ケネディは、秩序と安定を重視した共和党出身のアイゼンハワ
ー前大統領とはすべての面で対照的な大統領であり、しかも史上
はじめてのカトリック教徒の大統領だったのです。
 圧倒的にプロテスタントの多い米国で、カトリック教徒が大統
領になるなど、考えられなかったのです。ケネディは民主党の予
備選で7回も勝利しているのに、民主党の長老はカトリックであ
る限り選挙は勝てないと考えていたといいます。
 しかし、それでもケネディが大統領選に勝利したのは、米国国
民がケネディの中に、当時の米国社会を覆っていたどうしようも
ない停滞感を打破してくれるのではないかという可能性を見出し
たからにほかならないのです。
 また、ケネディは、公民権運動――黒人が公民権の適用を求め
て行った大衆運動に関しても明確な方向性を示していたのです。
当時黒人には選挙に当って識字テストが義務づけられ、事実上投
票を阻止されていたのですが、ケネディはその廃止を打ち出すな
どの進歩的な綱領を掲げて大統領選を戦ったのです。
 ケネディ大統領は、「ニュー・フロンティア」というスローガ
ンを使い、米国の世界的な威信の維持のためにその社会改革を強
く訴えたのです。それはケネディの有名な演説の次の一節にあら
われています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はアメリカ国民の一人ひとりに、この新しいフロンティアの
 新しい開拓者となるよう要請したい。 ――J・F・ケネディ
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、あまりにも僅差の勝利であったために、ケネディ大統
領の掲げる政策の実現は非常に困難だったのです。とくに南部で
は、南部の民主党と西部・中西部の共和党は保守連合を組み、議
会を握って、ケネディ大統領の改革推進をことごとく阻んだので
政権運営は妥協に妥協を重ねざるを得なかったのです。
 それに加えて、大統領に就任早々、ベルリン問題やキューバ危
機などの外交上の重要事件が頻発して、なかなか国内問題につい
て取り組むことができなかったのです。したがって、ケネディが
大統領に就任しても人種差別問題の解決は一向に進展しなかった
のです。
 そういうときに起こったのが「フリーダム・ライダーズ」と呼
ばれる運動です。1961年5月のことです。ケネディが大統領
に就任して4ヶ月目の出来事です。
 「フリーダム・ライダーズ」とは、白人、黒人の男女が作るグ
ループで、南部社会にやってきて、バス乗車のさいの人種分離を
あえて無視する行動を繰り返す――こうすることによって、人種
差別解決に突破口を開こうとしたのです。
 しかし、彼らがアラバマ州に入ったとき、白人の暴徒が彼らを
襲い、怪我人が出たのです。しかし、それを州政府は見て見ぬ振
りをしたのです。しかし、その衝撃的な映像がテレビで全世界に
流されたのです。
 ちょうどそのときケネディ大統領はウィーン首脳会談に出席し
ており、面目丸つぶれになったのです。しかし、早急には公約で
ある黒人の公民権を守る具体策は打ち出されることはなかったの
です。             ―――[エルヴィス/23]


≪画像および関連情報≫
 ・カトリックとプロテスタントはどう違うか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カトリックでは、司祭や神父といった聖職が、ローマ法王を
  頂点とし、司教、司祭、信徒というピラミッド型階層構造に
  なっています。そのため、聖書と並んでローマ法王の教えな
  どにも権威をおき、古くからの言い伝えや習慣などを重んじ
  ます。洗礼を受けたときにクリスチャンネームをつけるのも
  プロテスタントではあまり見られない習慣です。修道院があ
  るのもカトリックだけです。一方、プロテスタントは「聖書
  のみ」に従います。そのため、ローマ法王のような権威は認
  めず、階層構造を持つ組織もありません。このことが一因と
  なって、プロテスタント内にさまざまな宗派(教派)を生み
  出しています。プロテスタントには、教理のどの面を強調す
  るかとか、どういう方法で洗礼をするかなどで、多くの教派
  が存在します。でも、互いに認めあっています。
  http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/theollife/qanda01.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ジョン・F・ケネディ
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2010年02月16日

●キングの演説/私には夢がある(EJ第2212号)

 昨年の今頃のことですが、私は「モーツァルト」をテーマとし
てEJを書いていました。そのとき、ある若い人の会合で話す機
会があって、その人たちに次のように尋ねたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     みなさんはモーツァルトの音楽が好きですか
―――――――――――――――――――――――――――――
 この問いに関しては、かなり多くの人が「イエス」でした。続
いて次のように尋ねたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     モーツァルトはどんな時代に生きた人ですか
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに関しては誰一人として答える人はいなかったのです。私
が答えとして求めたのは、「フランス革命の直前の時代に活躍し
た音楽家」というものです。しかし、最近の若い人はとくに西洋
史は学校のカリキュラムの関係もあって弱いようです。
 モーツァルトの音楽を愛好する人は多いですが、彼が生きた時
代背景を踏まえて聴く場合と、そうでない場合とは感じ方が違っ
てくると思うのです。エルヴィスの音楽も、当時の米国の社会的
風潮と無関係ではないのです。
 1963年6月――リンカーン大統領による奴隷解放宣言から
ちょうど100年に当たるこの年、黒人たちは南部各地で一斉に
立ち上がったのです。
 これに合わせるかのように、ケネディ大統領は抜本的な公民権
法案の上程を決断し、6月11日にその考えをテレビ演説を通し
て国民に表明したのです。
 この大統領の演説に勇気づけられた黒人たちは、マーティン・
ルーサー・キング牧師を中心とする公民権運動活動家の指揮の下
で、非暴力のキャンペーン活動「ワシントン大行進」を実現させ
たのです。1963年8月28日のことです。
 キング牧師はこの日、20万人以上の大群衆を前に有名な演説
「私には夢がある」を行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面して
 はいても、私にはなお夢がある。それはアメリカン・ドリーム
 に深く根ざした夢なのだ。つまり将来、この国が立ち上がり、
 「すべての人間は平等である」というこの国の信条を真実にす
 る日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤
 色の丘の上でかつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者
 の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。
           ――マーティン・ルーサー・キング牧師
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/mlk.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 キング牧師のこの演説によって、公民権運動は南部の地域的問
題ではなく、全米の問題になっていたのです。第二次世界大戦が
終ると、黒人の多くは南部から北部に移動して、60年代には黒
人の多く――黒人人口の69%が都市に住むようになり、45%
が北部に住んでいたのです。しかし、生活は貧しく、失業者は白
人の2倍に達していたのです。
 しかし、大統領による公民権法案の上程や黒人運動の盛り上が
りに危機感を感じた白人の一部は、とくに南部において、公民権
法に過激に反対する「ホワイト・バックラッシュ」運動を巻き起
こしたのです。
 これによって、ケネディの人種政策に非難が集中し、ケネディ
打倒のスローガンが叫ばれるようになり、南部を中心に不穏な空
気が漂うようになっていったのです。
 そして、1963年11月22日、ケネディ大統領は訪問中の
テキサス州ダラスにおいて、オープンカーでパレード中に狙撃さ
れ、死亡したのです。しかし、ケネディ大統領の暗殺には多くの
謎があり、その真相は闇の中です。
 これに関して、詳しく知りたい方は、次のブログに42回にわ
たるEJのバックナンバー「JFK」を掲載しているので、参照
していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  http://intec-j.seesaa.net/category/1760916-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケネディの後を継いだのは、リンドン・ジョンソン大統領です
が、彼はケネディの遺志を受け継ぎ、公民権法を成立させ、その
他にもケネディが構想として打ち出していた社会福祉法案などを
成立させています。これらの法案――とくに公民権法はケネディ
の死と引き換えに実現されたといっても過言ではないのです。
 しかし、ケネディ政権から引き継いだものの中で、ジョンソン
政権が最大の重荷となったのはベトナムへの介入だったのです。
もともと1960年にベトナムに南ベトナム解放戦線が組織され
た時点でケネディは軍事顧問団を送り込み、あくまで限定的な介
入に止めるつもりだったのです。
 しかし、1964年になると、ジョンソン大統領は大規模な戦
争拡大に踏み切り、1965年には海兵隊をベトナムに上陸させ
米軍用機が直接北ベトナムを爆撃するようになったのです。いわ
ゆる「北爆」です。そして、1973年までにこの北爆に用いら
れた爆弾の量は、第二次世界大戦中に全世界で使った量と一致し
たといいます。
 しかし、予想を超える悪戦を強いられた米国は兵力を増強し、
1968年には54万人の陸上兵力をベトナムに送り込んでいる
のです。そして、1966年にはそれまで学生身分を徴兵猶予の
対象としてきた制度が改正され、学生でも徴兵されるようになっ
たのです。そうするとこれがきっかけになって、学生運度が高ま
りを見せ、若者を中心に反戦運動が盛り上がったのです。
 そしてこの運動が、黒人の公民権運動とつながり、大きなうね
りとなって、盛り上がっていったのです。そして一触即発、何が
起こっても不思議ではなくなったのです。[エルヴィス/24]


≪画像および関連情報≫
 ・キング牧師の公民権運動
  ―――――――――――――――――――――――――――
  キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」
  である。インド独立の父、マハトマ・ガンジーに啓蒙され、
  また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴
  力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違い
  されがちだが、キング牧師のそれは「非暴力抵抗を大衆市民
  不服従に発展させる。そして支配者達が『黒人は現状に満足
  している』と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中
  にハッキリと見せる。」という決して単なる弱腰姿勢ではな
  かった。                     以上
  ―――――――――――――――――――――――――――

キング牧師.jpg
キング牧師
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2010年02月17日

●キング牧師の暗殺とエルヴィス(EJ第2213号)

 1966年――大学生の徴兵免除が廃止された年、ミシガン大
学では、ベトナム問題を討議する「ティーチ・イン」が行われ、
ベトナム戦争に米国が関与する意義を根本的に問い直す動きが学
生運動を中心にして全米に拡大したのです。
 ところで、当時もっとも人種差別の激しい州といえばミシシッ
ピ州だったのです。そのミシシッピ州で、1966年夏に黒人の
選挙権登録運動が起こったのです。地元の白人の抵抗は想像を絶
していて、3人の黒人の公民権運動家が殺害されるという事件に
まで発展したのです。
 この事件がキッカケになり、ミシシッピ州には全米各地から黒
人学生はもちろん白人学生まで結集して大騒ぎとなったのです。
カルフォルニア大学のバークレー校では、夏にミシシッピでの運
動に参加した学生が、大学の学生集会でその報告をしようとした
ところ学校当局からストップがかかったのです。
 この学校当局の命令を批判して「フリー・スピーチ運動」が起
こり、それが全学的なストライキに発展して、カルフォルニア大
学は窮地に陥ったのです。結局この事件については大学側が折れ
て解決したのですが、これを契機として学生運動は全米に拡大し
たのです。
 こうした学生運動は、その狙いとして学生の政治活動の自由や
学校運営への学生の参加などに加えて、ベトナム戦争反対や黒人
公民権の問題もその訴えに含まれていたのです。1960年代の
若者中心のこうした運動は、カウンター・カルチャーとして、若
者たちの間に定着していくことになります。
 若者たちは、既成の文化に対抗するための対抗文化――カウン
ター・カルチャーを創り上げるのに対して、1950年代に社会
のはみ出し者であったビート族に共鳴し、その風体を真似するよ
うになったのです。
 ひげを伸ばし、長髪で、破れた穴の空いたジーンズといった自
由のスタイルーー彼らはこういうスタイルで、既成文化に対抗し
ようとしたのです。これは、多くのものを求め豊かになろうとす
る当時の物質万能主義に対する抵抗でもあったのです。彼らがい
わゆるヒッピー族といわれる若者たちのはじまりなのです。彼ら
はそれまでの既成文化が戦争や人種差別を生み出した元凶である
という観念にとらわれていたのです。
 こうした学生運動と平行して、黒人たちの間には不満が充満し
ていたのです。公民権法が成立しても一向になくならない人種差
別と経済差別――こうしたものへの強い不満が爆発寸前にまで高
まっていたのです。
 それは、1964年から4年続けて、いずれも真夏の最中に人
種間衝突という形で爆発したのです。それは暴力と憎悪の人種間
対立であったのです。この暴動は米国各地できまって真夏に勃発
し、多くの死者と大勢の逮捕者を出したのです。とくに白人暴徒
の暴力はひどいもので、多くの黒人が殺されています。そのため
これを「ロング・ホット・サマー」といわれたのです。
 このロング・ホット・サマーで、黒人の先頭に立ったのは、若
き黒人指導者、ストークリー・カーマイケルです。彼は白人の暴
力に対抗するには、黒人も武器を持って立ち上がるべきであると
説いたのです。そして、その結果、黒人コミュニティの自主管理
と武装化を主張する「ブラックパワー党」が結成され、ブラック
パワー運動が展開されるようになります。
 これに対して反対したのは、キング牧師です。キング牧師は一
貫して非暴力を掲げていて、白人黒人共同の敵としての「貧困」
を絶滅することを目的とする平和運動を推進し、ブラックパワー
運動をそれに巻き込もうとしたのです。
 当時の米国はベトナム戦費が拡大したことによって、福祉予算
が圧縮され、とくに黒人の生活を悪化させていたのです。そのた
め、キング牧師は「反戦」をスローガンとして訴えて、その中に
同じ考えを持つ白人も闘いの中に巻き込もうとしたのです。
 しかし、1968年4月4日、清掃人組合のストライキを支援
するために訪れていたテネシー州メンフィスにおいて、キング牧
師は、白人の人種差別主義者によって暗殺されたのです。39歳
の若さでした。
 このキング牧師の暗殺は、全米の黒人社会で憤激を巻き起こし
全米168の都市で激しい暴動が起こったのです。それは、米国
社会が分裂しかねない危険をはらんでいたのです。
 キング牧師の暗殺から2ヵ月後の6月6日、あのロバート・ケ
ネディ上院議員が暗殺されたのです。ロバート・ケネディは民主
党大会での大統領指名に向かって着実に支持層を広げつつあった
矢先だったのです。まさに1968年、米国社会は本当に崩壊の
危機にあったといえるのです。
 米国社会がこうした危機を迎えている間、エルヴィスはハリウ
ッドの豪邸に住んで、ひたすら愚にもつかない映画づくりに縛ら
れていたのです。しかし、エルヴィスはかたちは体制側の人間と
して振舞っていたものの、全米で起こっている出来事には深い関
心をもって見守っていたのです。
 しかし、エルヴィスはけっして政治的には行動せず、自分なり
の方法で、何らかの支援が出来ないかと考えていたのです。エル
ヴィスの映画の契約は1967年までであり、その変わり目に自
分としてやれることを考えていたのです。
 その第一弾は、1966年5月に録音され、1967年3月に
発売された次のアルバムです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『ゴールデン・ヒム』/RCA LPM/LSP−3758
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは28ヶ月ぶりに、ナッシュヴィルのRCAスタジ
オにおいて、サウンドトラックでないアルバムをレコーディング
しているのです。A面6曲、B面7曲、全13曲はすべてゴスペ
ルで綴ったアルバムであり、エルヴィスの別の一面を示す音楽ア
ルバムといえます。        ――[エルヴィス/25]


≪画像および関連情報≫
 ・キング牧師の監獄からのメッセージ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  自由への大きな一歩を踏み出すのに、ニグロにとっての大き
  な躓きの石となっているのは、・・・正義よりも<秩序>の
  維持に執心している穏健派の白人である。このような人物た
  ちは、黒人を子供とみなし、家父長主義的に、人が自由を獲
  得するまでのタイムテーブルを定めるのは自分たちの役割だ
  と勝手に思いこんでいるのだ。・・・」
   ――キング牧師の「バーミングハム監獄からの手紙」より
       http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/m-l-king-2.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゴールデン・ヒム/エルヴィス.jpg
ゴールデン・ヒム/エルヴィス
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2010年02月18日

●明日への願い/エルヴィス復活(EJ第2214号)

 ゴスペル・アルバム『ゴールデン・ヒム』に続いてエルヴィス
は何かをやらなければならないと考えていたのです。というのは
エルヴィスの映画の人気は下がり気味であり、ロックンロールも
ビートルズをはじめとする新興勢力が台頭しつつあったからなの
です。映画からの離脱は、エルヴィスだけでなく、当のパーカー
大佐自身もその必要性を感じていたのです。
 エルヴィスとパーカー大佐がそのように考えていた1967年
秋にNBCテレビから特別番組『エルヴィス』の企画の話が舞い
込んだのです。エルヴィスの復帰イベントとして最適であるので
エルヴィスとパーカー大佐はこれに乗ることに決めたのです。
 早速1968年1月から打ち合わせがはじまったのですが、実
施時期については、その年のクリスマスの季節に1時間番組を組
むことになったのです。問題はどういう内容にするかですが、こ
れを巡って、パーカー大佐とNBCテレビのプロデューサーであ
るスティーブ・ビンターの意見が真っ向から対立したのです。
 パーカー大佐の考え方は、エルヴィスによる単なるクリスマス
の音楽ショーであり、エルヴィスはタキシードを着て、クリスマ
ス・ソングを2O曲ほど歌って、挨拶して引き上げるという単純
なものだったのです。
 しかし、スティーブ・ビンターは、この番組をパーカー大佐の
いうような単なるクリスマス番組にせず、非凡な才能を持つエル
ヴィスという大歌手の劇的な2度目の復帰イベントになるように
すべきであると考えたのです。
 そのためには、リズム&ブルースとカントリーとゴスペルが融
合されたものが真のロックンロールであることを視聴者にはっき
りと確認させる必要があるとビンダーは考えていたのです。エル
ヴィスが映画作りをしている間にまがいもののロックンロールが
流行していたからです。
 エルヴィスは大佐の目の前では大佐の意見に楯つくことはしな
かったですが、大佐のいないところではビンダーの意見に賛成で
あり、全面的に協力することを約束していたのです。そのさい、
エルヴィスは自分の希望として、何らかの方法で世相を反映させ
たいとビンダーに伝えていたのです。
 ビンダーは久しぶりの大型番組なので、エルヴィスにのびのび
と歌ってもらうためにある工夫をしたのです。それは伴奏者にエ
ルヴィスの昔の仲間を集めたのです。スコティ・ムーア、D・J
・フォンタナ、それにドラムのハル・ブレイン、ベースのラリー
・ネクテルなど、これによってエルヴィスは思う存分歌うことが
できたのです。
 最大のポイントは、何らかの方法で世相を反映させたいという
エルヴィスの希望をどう実現させるかでした。ビンダーは、パー
カー大佐には内緒で作曲家のアール・ブラウンに依頼して次のメ
ッセージソングを作曲させたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       アール・ブラウン作曲
       『明日への願い/If I Can Dream』
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスはこの歌を6回ほど黙って聴いていましたが、「ぜ
ひ、歌おう」と快諾したというのです。この歌は次のようにはじ
まるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   『明日への願い』
   きっとどこかに
   もっと明るく灯る光があるはず
   きっとどこかに
   もっと青い空高く飛ぶ鳥がいるはず
   兄弟たちが手に手をとって
   歩める地を夢見ることができるなら
   教えて、なぜ、ああ、なぜ、なぜに
   僕の夢は叶わない、なぜなんだ
    http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_46.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 歌詞は長いので、すべての歌詞は上記URLをクリックして見
ていただきたいが、その内容は故キング牧師の有名な演説『私に
は夢がある』に応える内容になっていることは明らかです。
 ビンダーがパーカー大佐に対してエルヴィスがこの歌を番組の
最後に歌うことを隠したのは、エルヴィスがキング牧師の死に心
を悼めていたことを知り、大佐がそういう問題に対するいかなる
コメントも出すことをエルヴィスに禁じていたことを情報として
掴んでいたからです。
 キング牧師が暗殺されたのは、1968年4月4日のことであ
り、そのキング牧師に対するメッセージソングをその年の暮れの
12月3日に放映するのですから、相当きわどい話です。
 この放映はビデオ収録だったのですが、この番組の最後の曲で
ある『明日への願い』を歌ったエルヴィスについて、既出の前田
絢子氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 けれどもエルヴィスは、ゴスペル歌手が着るような純白の正装
 に着替えて、歌の言葉の一つずつに確信をこめて、全身全霊を
 こめて力強く歌い切った。それは、エルヴィスの偽りのない思
 いを率直に伝えていた。それは志半ばにしてあえなく凶弾に倒
 れたキング牧師に捧げる哀悼の歌であり、エルヴィス自身の祈
 りであった。そこには、60年代を通じてエルヴィスが没頭し
 てきた霊的探求の結晶がこめられていた。未来が見えない混乱
 の時代のクリスマスに捧げる、反体制でも、怒りでもない、探
 求者エルヴィスが到達した一つの答だった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ――[エルヴィス/26]


≪画像および関連情報≫
 ・カムバック・スペシャルについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「いよいよ今夜ね」「今夜エルヴィスがテレビに出るのよ」
  「早く帰らなくては」「今夜9時からだったな」1968年
  12月3日全米で交わされた会話はこんなだっただろう。1
  956年に一大旋風を巻き起こし、かってない過激なスタイ
  ルゆえに空前の人気を得ながらもパッシングを受け、82.
  6%という驚異的な視聴率を残しテレビから姿を消した。そ
  の後は1960年のフランク・シナトラショーに除隊を記念
  してゲスト出演しただけだった。テレビの前に座る人は期待
  した。アメリカが世界に誇る稀代のアーティストのピュアな
  姿を。永く目にしたことのない本当のエルヴィスの登場を待
  った。その予感はメディアを通じて伝えられていた。その視
  聴率70.2%。
     ――http://www.genkipolitan.com/elvis/best50.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

明日への願い.jpg
明日への願い
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2010年02月19日

●2度目のラスヴェガス公演大成功(EJ第2215号)

 1967年5月1日、エルヴィスはかねてから結婚することに
決めていた11歳年下で21歳のプリシラ・ポーリューとラスヴ
ェガスのアラディン・ホテルで結婚しています。
 プリシラとの出会いは、1959年にエルヴィスが西ドイツに
滞在しているときに知り合ったのです。その当時プリシラは14
の少女だったのですが、それ以来8年間の恋を実らせて、結婚す
るにいたったのです。
 結婚後エルヴィスとプリシラは、ハリウッドの邸宅で生活をは
じめたのですが、当時ハリウッドの邸宅にはエルヴィスの取り巻
きである12人の若者――メンフィス・マフィアと呼ばれるーー
が一緒に住んでいて、とても新婚生活といえるものではなかった
のです。したがって、プリシラの最初の仕事は彼らを整理して追
い出すことだったといわれます。きさにプリシラにとって前途多
難な結婚生活のスタートだったといえます。
 その後エルヴィスとプリシラは、メンフィスのグレースランド
の本邸宅に戻ります。1968年2月に長女、リサ・マリーが誕
生し、エルヴィスは父親になったのです。
 エルヴィスとプリシラとの結婚は意外だったのです。何しろス
ーパースターで億万長者にして独身、女性ファンの夢をかきたて
る相手として常にトップの関心を集めていたエルヴィスです。
 映画の共演女優とのゴシップもたくさんあったのです。アニタ
・ウッド、アン・マーグレットなど噂になった相手は100人以
上になるのです。もちろんプリシラの存在も話題になったのです
が、世間一般の評判ではプリシラはエルヴィスが過去に捨てた女
程度の認識でしかなかったからです。
 ところで、1968年といえば、長かった映画製作の終わりの
時期であり、新しいビジネスの面でエルヴィスは超多忙をきわめ
ていたので、グレースランドにプリシラをひとり残して家に帰っ
てこない日々が続いたのです。
 1969年7月31日、エルヴィスはラスヴェガスのインター
ナショナル・ホテルのショウ・ステージに立っていたのです。実
はエルヴィスは1956年にラスヴェガスでショウを行ったこと
あったのです。
 しかし、当時の観客からエルヴィスはまるで相手にされず、空
しく撤退した苦い経験があったので、エルヴィスはとても緊張し
ていたのです。ラスヴェガスのショウで成功しなければ、一流の
エンタテイナーにはなれないといわれていたのです。
 この最初のラスヴェガスでの失敗について、既出のボビー・ア
ン・メイソンは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 かつて1956年、大佐がエルヴィスにラスヴェガスで2週間
 の出演契約を取ったことがあった。しかし贅沢なギャンブラー
 やカクテル・ラウンジのしゃれ者たちは、当時、彼の呼び名に
 なっていたような「ヒルビリー・キャット」に用はなかった。
 エルヴィスは惨めだった。「最初の晩のあと、僕は外に出かけ
 ただ暗闇の中を歩き回った」と彼は言う。「まったくひどかっ
 た」と。    ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、1969年7月のときは劇場は満員で2OOO人の観
客が入っていましたが、緊張した面持ちのエルヴィスがステージ
の中央に進み出ると、全員が総立ちになり、口笛と絶叫と拍手が
巻き起こり、それは10分間鳴り止まなかったのです。
 エルヴィスは歌い出したのです。最初の曲は「ブルー・スエー
ド・シューズ」――エルヴィスは圧倒的な表現力で歌い出したの
です。これで、エルヴィスのラスヴェガスの成功は間違いなかっ
たのです。彼は一流のエンタテイナーとしても重要な第一歩を踏
み出したのです。
 2007年11月13日、小泉純一郎元首相がシンガポールを
訪問したときブルーの靴をプレゼントされましたが、それは小泉
元首相がエルヴィス・ファンであることを知っていて、「ブルー
・スエード・シューズ」――ブルーの靴が贈られたのです。
 このように、2度目のラスヴェガスは大成功だったのです。マ
スコミは一斉に「エルヴィス復活」を報じたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 メディアは一斉に、エルヴィス復活のニュースを大々的に報じ
 体制派のニューヨーカーも、反体制派のヴィレッジ・ヴォイス
 も、エルヴィスのステージを絶賛した。また、ニューヨーク・
 タイムズは、エルヴィスを野球界のヒーロー、ジョー・ディマ
 ジォと並べて、前人未踏の偉業をなしとげたチャンピオンとし
 てその復帰を称えた。エルヴィスは、観客動員の上でも、収益
 の上でも、断トツのラスヴェガス記録を達成した。このように
 エルヴィスは、最強のステージ・パフォーマーとして、よみが
 えったのである。    ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 簡単に「復活」という言葉を使うが、エルヴィスのようなアー
チストにとって、人気を維持するのはきわめて困難なことである
のに、エルヴィスの場合はかえって人気が拡大しているのですか
ら、驚きです。これは尋常なことではないのです。
 最初の転機は、人気が頂点に達したときの兵役による2年間の
完全引退です。凡庸なアーチストであれば、これで終わりのはず
ですが、エルヴィスは除隊後に復活し、さらに人気を高めている
のです。そして、これを映画の連作とサウンドトラック盤の制作
で7年間もライブ・コンサートをやめているのに、その後そのラ
イブでさらに大スターになって復活しています。
 すい星のごとく登場するスターたちが流れ星のように消えてい
くこの世界にあって、エルヴィスはなぜあのようにいつまでも自
分のポジションを保てるのでしょうか。このあたりのことも考え
てみる必要がありそうます。    ――[エルヴィス/27]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスのラスヴェガス公演に関するブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  プリシラと結婚したエルビスプレスリーは、娘、リサ・マリ
  ー・プレスリーも生まれ――ミドルネームのマリーはパーカ
  ー大佐の夫人の名前から取った――ますます仕事を精力的に
  こなしていきました。そんな時パーカー大佐がラス・ベガス
  のインターナショナル・ホテルにエルビスプレスリーを出演
  させる契約を結びました。
   映画「チェンジ・オヴ・ハビット」の撮影開始され、映画
  「殺し屋の烙印」が全米で一般公開された頃、エルビスプレ
  スリーは目前に迫ったインターナショナル・ホテル公演のリ
  ハーサルを始めるためメンフィスを出発し、ロサンゼルス入
  りしました。今度の公演を成功させるためにエルヴィスプレ
  スリーは、一流のスタジオ・ミュージシャンを集め、バック
  バンドを編成したのでした。
            http://am.gnk24.com/060/post_7.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィス結婚.jpg
エルヴィス結婚
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2010年02月22日

●3種類のエルヴィスがいる(EJ第2216号)

 7年以上に及ぶ長い空白にもかかわらず、エルヴィスはなぜ復
活し、人気を拡大できたのでしょうか。
 結論からいうならば、エルヴィスは時代とともに3種類の歌手
を演じていたからです。その本質は同じですが、シンガーとして
は、3種類のエルヴィスがいたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    50年代 ・・・ ロックンロール・シンガー
    60年代 ・・・ 映画中心ボップ・シンガー
    70年代 ・・・ セイクレッド ・シンガー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、エルヴィスをもって「ロックンロールの開祖」とす
ることに異議を唱える人もいます。確かに文献や音源を基にした
考証によると、エルヴィスが「ザッツ・オール・ライト」を歌う
以前から、ロックン・ロールという言葉自体が、黒人のブルース
やジャズや日常生活の中で、セックスを意味するスラングとして
使われていたのです。
 50年代のはじめに、黒人のリズム&ブルースをはじめとする
にぎやかな音楽が流行したのですが、これを白人のDJ/ディス
ク・ジョッキーであるアラン・フリードが「深夜のバカ騒ぎ」と
いう意味で、ロックンロールと名付けており、1952年頃には
一部の人たちから市民権を得ていたのです。これが、ロックがエ
ルヴィスの「ザッツ・オール・ライト」からはじまったわけでは
ないとするエルヴィス開祖説に異議を唱える人の根拠になってい
るのです。これについて、音楽評論家の湯川れい子氏は次のよう
にいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そしてそのリズム&ブルースは、やがてロックン・ロールと呼
 んでいいスタイルを持つようになっていったのだが、たとえば
 1952年にニュー・オルリンズ周辺で大ヒットした黒人シン
 ガーのロイド・プライスが歌った「ローディー・ミス・クロー
 ディー」や53年にヒットしたクライド・マックファーターと
 ザ・ドリフターズの「マニー・ファニー」などがそれである。
          ――「ポップス界の革命児」/湯川れい子
   『エルヴィス・プレスリー/流れる汗のきらめき――狂熱
             のシグナル』、シネアルバム/53
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、「エルヴィスの前にロックン・ロールなし」というこ
とで多くの専門家の意見は一致しているのです。なぜなら、エル
ヴィスの前のロッカーがエルヴィスのようなエネルギーとカリス
マ性によってロックン・ロールの起爆剤になり得たかというと、
それは明らかに「ノー」というしかないからです。
 それでは、そういうエルヴィスの持つカリスマ性の秘密とは一
体何なのでしょうか。
 湯川れい子氏は、エルヴィスのその秘密について、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず、声の良さでしょう。陰影があるのに、濁りがない、千変
 万化する声。プア・ホワイトとして、黒人居住区のすぐそばに
 育ち、ブルースやゴスペルを血と肉の中に取り入れていた天性
 のリズム感と野生。そして、愛情深い母親に育てられたことに
 よって、根底から人間を愛し、ヒトとしての尊厳を、すべての
 対象に対して抱くことができたという稀有な人間性。それらが
 実に重要だったと思うのです。 ――湯川れい子著「わが魂の
     讃歌」/別冊「太陽/エルヴィス・プレスリー」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 あのマイケル・ジャクソンは、白人が黒人の音楽を取り入れる
ことに対して、「白人はわれわれの音楽を盗んで儲けている」と
いって、白人の音楽をまったく認めなかったといわれます。しか
し、そういう彼でもエルヴィスに関しては別格であるとして批判
していないのです。エルヴィスが打算ではなく、心底から黒人の
音楽が好きであることを知っていたからです。
 メンフィスの黒人ミュージシャンで、ディスク・ジョッキーと
して有名なルーファス・トーマスは、エルヴィスについて次のよ
うにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自分の人生で、あれだけの強烈なマグネティズムを持った人間
 に会ったのは、エルヴィスともう一人、マーティン・ルーサー
 ・キング牧師だけだった。    ――ルーファス・トーマス
                  上掲・別冊「太陽」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 60年代のエルヴィスはひたすら三流映画づくりに縛られるこ
とになるのですが、その映画のサウンドトラック盤をていねいに
聴いてみると、意外に良い曲が多いのに気がつきます。
 映画のできは三流であっても、その挿入歌についてエルヴィス
は心を込めて歌っていからのです。そういう映画時代のエルヴィ
スの歌を聴いてエルヴィス・ファンになった人も多いのです。
 70年代のエルヴィスは、紛れもなくセイクレッド・シンガー
(宗教歌手)として生きたのです。それは、ゴスペル歌手という
よりも、エルヴィス流に昇華された歌であり、ある意味において
は、どんな曲もゴスペル・ソング化していたのです。これについ
て、湯川れい子氏も次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もはやエルヴィスの晩年の歌は、それが「明日に架ける橋」で
 あれ、「心の痛手」であれ、「ダニー・ボーイ」であれ、立派
 にゴスペル・ソングであり、セイクレッド・ソングだったので
 す。      ――湯川れい子氏/上掲・別冊「太陽」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、今回ご紹介した別冊「太陽/エルヴィス・プレスリ
ー」は、10年前のエルヴィス没後20年記念として制作された
特別号なのです。         ――[エルヴィス/28]


≪画像および関連情報≫
 ・エルヴィスと湯川れい子氏の関連ブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今日は私の師匠で、エルヴィスのファンとして知られる湯川
  れい子が昨年出した本『湯川れい子のロック50年〜見た!
  聞いた!会った!世界のスーパースターたち〜』からの文章
  で、エルヴィスのすごさを検証してみましょう。ちなみにこ
  の本の監修をしたのは不肖・私です。その本には、「わが心
  のスーパーアイドル・エルヴィス・プレスリー」という章が
  あります。そこにはエルヴィスについて湯川が書いたいくつ
  かの記事が掲載してあり、中でも、エルヴィスが亡くなった
  1977年8月直後に書かれた「エルヴィスへの挽歌」とい
  うのが、私個人的に、かつて読んだエルヴィスについての文
  章(あらゆる人が書いたもの)の中で、もっともエルヴィス
  という人のすごさを書き表したものだと思っています。
          ――http://www.actiblog.com/enter/9280
  ―――――――――――――――――――――――――――

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エルヴィスと湯川れい子氏
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2010年02月23日

●エルヴィスはなぜニクソンと会ったのか(EJ第2217号)

 エルヴィスは、ラスヴェガスでの仕事が成功し、仕事が非常に
忙しくなっていたのです。そのため、彼はグレースランドの邸宅
に妻のプリシラと娘を残して、長期間にわたってツァーに出るこ
とが少なくなかったのです。
 南部社会の習慣として、女性は保護されるべき存在であり、自
らのキャリアを追求するべきではなく、結婚して子供を育て家を
守る――これはごく当たり前のことであり、エルヴィスはそれを
問題があるとは思っていなかったのです。それでもラスヴェガス
の公演のときは、初日と最終日は妻の参加を認めており、それは
大変寛大な措置をとっていると思っていたようです。
 このように書くと、何事にもレディーファーストの国である米
国らしくないと考えるかも知れませんが、少なくとも5O年代の
米国の南部社会ではそれが当然のことだったのです。しかし、こ
れは明らかに差別であり、それがプリシラにとっては大いに不満
だったのです。
 人種差別撤廃運動が盛んになるのと平行して、それまで社会的
に一人前とは認められず、無意識のうちに差別を受け入れてきた
女性が自らのポジションに疑問を持って、少しずつ声を上げ始め
ていたのです。1963年には、女性の新しい生き方を説いた次
の本が話題になり、大勢の女性に読まれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベティー・フリーダン著、『新しい女性の創造』
 ――結局のところ女性たちは、家庭という「居心地の良い強制
 収容所」に囚われているだけなのではないか――
―――――――――――――――――――――――――――――
 それに、米国社会の混乱は収まる気配はなく、要人暗殺が繰り
返され、黒人たちによる暴動が頻発し、反戦運動がいたるところ
で起こっていたのです。
 さらにそうした不穏な動きは大勢の若者が集結する野外ロック
・コンサートと一体化して盛り上がることになります。1969
年8月、ニューヨーク州のウッドストックから40マイル南西の
べセルで開催された『ウッドストック音楽祭』は、1960年代
のヒッピー文化のクライマックスともいえる祭典だったのです。
 そこでは、既成社会の体制や秩序、モラルを否定して、反社会
的・脱社会的思想を持つ独自の政治的声を持つ集団が形成されつ
つあったのです。
 その数実に50万人――ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジ
ョプリン、ジョー・コッカー、ジョーン・バエズ、ザ・グレイト
フル・デッド、ザ・フー、ザ・バンドなど、反戦フォークのスー
パースターやヒッピー文化を象徴する大物ロッカーやグループが
参加したのです。
 彼らは昼夜ぶっとおしで演奏されるロックを聴きながら、マリ
ファナ、LSDなどのドラッグに酔いしれたのです。そしてこう
いう若者たちによる野外コンサートが各地で開かれ、それが次第
に政治的な色彩を帯びるようになっていったのです。
 こうした彼らに比べると、エルヴィスはまともな体制派の音楽
家であるといえます。そのため、エルヴィスのところには何者と
も知れぬ者から脅迫状が届けられたり、舞台で暴漢に襲われると
いうことも一度ならず起こり、彼を不安にさせたのです。
 エルヴィスは自分の身を守るため、自ら空手を習い、プリシラ
にも空手を習わせたのです。もっともこれがエルヴィスにとって
痛恨の極みともいうべきことに結びつくことになります。しかし
空手を習得したことで、それをラスヴェガスのショウにも取り入
れることを思いつき、これで大当たりをとっています。
 さらに、かつてやっていたようにメンフィス・マフィアを復活
させ、自分の身に回りに屈強の男を配置して、自分をガードさせ
るとともに、大量の拳銃を買い込み、異常なほど警戒心をつのら
せていたのです。
 こういうときにエルヴィスは突然突飛な行動を行います。それ
は、時の大統領ニクソンに対して手紙を書いて会見を申し入れた
のです。もともと政治的な行動をとらないエルヴィスなのに、一
体どういう心境だったのでしょうか。大統領宛の手紙の最初の部
分をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私の名はエルヴィス・プレスリー、あなたを崇敬し、あなたの
 政権に心より敬意を抱く者です。数週間前、パーム・スプリン
 グスでアグニュー副大統領と話をする機会があり、その際にこ
 の国の状況について私の懸念を申し述べました。ドラッグ・カ
 ルチャー、ヒッピー分子、SDS――民主社会のための学生運
 動、ブラック・パンサー党などですが、彼らは私を敵だとも、
 彼らが呼ぶところの体制だともみなしていません。実は、私は
 その体制なるものをアメリカと呼び、それを愛しています。閣
 下殿、私はこの国を助けることができるし、助けたいと思って
 います。        ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 意味がはっきりしない点がありますが、要するに、政府の反ド
ラッグ・キャンペーンに役立ちたいとということなのです。この
手紙を読んだホワイト・ハウスの関係者は、エルヴィスとニクソ
ンの面談をアレンジし、短時間ながらニクソン大統領と直接面談
させることに成功したのです。
 1970年12月30日、エルヴィスはワシントンD.C.に
行き、ニクソン大統領と会見したのです。さらにFBI長官エド
ガー・フーヴァーにも会っています。その結果、彼が手に入れた
のは、なんと「麻薬取締官のバッジ」なのです。
 これによってエルヴィスは、自分はある使命を与えられた選ば
れた人間であると思い込むようになったのです。いま考えると、
この頃からエルヴィスは、かなり精神的に追い詰められていたと
いうことがいえます。ニクソン大統領との会談はエルヴィスがこ
ういう精神状態のときに行われたのです。[エルヴィス/29]


≪画像および関連情報≫
 ・『ウッドストック音楽祭』/1969年8月15日
  ―――――――――――――――――――――――――――
  67年のモンタレー・ボップ・フェスティバル以来、アメリ
  カだけでも何十という野外フェスティバルが開催されたが、
  その中でも最も記憶されているのは、ニューヨークの郊外で
  開催され、約30組のバンドが参加したウッドストック・フ
  ェスティバルで間違いあるまい。今でも野外フェスといえば
  誰しも「ウッドストック」を引き合いに出す。大がかりな野
  外フェスを企画するたびに主催者側は「第二のウッドストッ
  ク」とか「ウッドストックの再来」とか銘打って宣伝したが
  るのも、いかにウッドストックの影響力が強かったかを物語
  っている。
      http://rock-cd.info/history/1969woodstock.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ニクソン大統領とエルヴィス.jpg
ニクソン大統領とエルヴィス
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2010年02月24日

●コンサートに明け暮れるエルヴィス(EJ第2218号)

 私生活では、かなりおかしな言動が目立ちはじめたエルヴィス
ですが、コンサートの方は実に快調だったのです。どの会場も前
売券は即日完売し、超満員の盛況だったのです。どうしてこのよ
うに盛況だったのでしょうか。
 エルヴィスのコンサートの様相を既出の前田絢子氏は次のよう
に紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンサートは、『2001年宇宙の旅』のテーマ曲として知ら
 れる「ツァラストゥストラはかく語りき」の演奏ではじまる。
 オーケストラに大編成ロック・バンド、それにゴスペル・グル
 ープが二組入った大演奏が、王者の入場を告げる。きらびかな
 装飾がほどこされた豪華なジャンプスーツを身につけたエルヴ
 ィスが、歓声のなかを荘厳な音楽に押されるように登場する。
 オープニングの「シー・シー・ライダー」の単調で歯切れの良
 いリズムが、観客の気持ちを刺激して、エルヴィスが、会場全
 体を一つの熱狂的な感応体に変える。(中略) コンサートのハ
 イライト「アメリカの祈り」は分裂も対立も差別もない「美し
 いアメリカ」を舞台の上に実現して見せた。エルヴィスの力強
 いヴィジョンに圧倒されて、会場全体が絶叫と拍手で興奮と歓
 喜の渦に巻き込まれた。(中略) やがて、クロージング・ナン
 バー「好きにならずにいられない」でフィナーレを迎える頃に
 は愛の熱気が充満する会場で、エルヴィスと観客の一体化が実
 現する。        ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記述でわかるように、エルヴィスのコンサートは、単なる
人気歌手のコンサートのレベルを完全に超えており、政治的では
なく、分裂も対立も差別もない「美しいアメリカ」の実現への祈
りに貫かれていたのです。これは宗教に近いものです。
 さて、エルヴィスのコンサートのハイライトである「アメリカ
の祈り」の原題は次の通りです。これは1971年にカントリー
歌手のミッキー・ニューベリーがアレンジしたものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     アメリカの祈り/An American trilogy
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「トリロジー」というのは「3部作」という意味であり、
次の3つの歌が歌われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「ディークシー」 ・・・・・ 南軍マーチ
   「共和国の戦いの讃歌」 ・・  北軍讃歌
   「私の試練」 ・・・・・・・  黒人霊歌
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、これら3つ歌の持つばらばらの主張を劇的に融
合させて、情熱的に歌い上げたのです。このあたりのエルヴィス
の歌唱力は非凡なものがあり、当時の米国人の誰もが心の底には
南北戦争時の矛盾を抱えたままであると考えていたので、そうい
う分裂も対立も差別もないアメリカを作ろうと歌うエルヴィスに
共感したのです。エルヴィスの提示したのは「人類救済の歌」で
あり、誰でもが受け入れられるものだったのです。
 このように、エルヴィスは1969年のラスヴェガスの凱旋コ
ンサートから、1977年8月の死にいたるまでの8年間は、文
字通りコンサートに明け、コンサートで暮れる日々だったといっ
てよいのです。1970年から死の直前の1976年までのコン
サートの回数は次の通りになっています。これは異常という以外
の何ものでもない回数です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1970年 ・・・ 138 1974年 ・・・ 155
 1971年 ・・・ 156 1975年 ・・・ 108
 1972年 ・・・ 164 1976年 ・・・ 129
 1973年 ・・・ 169
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点でのエルヴィスのコンサートについてその全貌を見た
いと思うなら、次の2つのDVDを見ることを勧めします。
―――――――――――――――――――――――――――――
       『エルヴィス・オン・ステージ』
       『エルヴィス・オン・ツァー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの映像は、エルヴィスのコンサートの迫力をそのまま世
界に伝えて、大きな反響を巻き起こしたのです。『エルヴィス・
オン・ツァー』については、1972年ゴールデン・グローブ賞
の最優秀ドキュメンタリー賞を獲得しています。
 1972年6月に、エルヴィスにとって初めてのニューヨーク
公演が行われたのです。場所は、マディソン・スクエア・ガーデ
ンであり、満員の観客を集めたのです。その人気がいかに凄かっ
たかは、一ヶ月前のチケット発売日には、夜明け前から2000
人のファンが列を作り、4回のショウのすへてが即日完売だった
ことからわかります。ショウに詰めかけた観客の中には、ジョン
・レノン、ボブ・ディラン、デヴィット・ボウイなどの有名ミュ
ージシャンの顔もあったのです。
 ニューヨーク・タイムズは「別の星からやってきたプリンスの
登場」と題してエルヴィスのショウを絶賛しています。さらに、
1973年1月14日には、ハワイのホノルルにあるインターナ
ショナル・コンヴェンション・センター・アリーナで史上初の宇
宙衛星中継用のコンサートが行われています。
 このコンサートの模様は、衛星中継特別番組「アロハ・フロム
・ハワイ」としてまとめられ、日本、韓国、香港とオーストラリ
アを含むアジア地域とヨーロッパ28ヶ国で生放送され、世界中
で高視聴率を記録しています。
 こうした華やかなコンサートの成功の裏で、エルヴィスの私生
活は崩壊の淵に立っていたのです。 ――[エルヴィス/30]


≪画像および関連情報≫
 ・『アメリカの祈り』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  <アメリカの祈り>・・それは大きなキャンパスに渾身の思
  いで描かれた絵画に似て、「アーティスト」へ辿りついたエ
  ルヴィスが、人生の困難と格闘しながらも、プロフェッショ
  ナルはさらに前に進んでいること、それは類い稀な個性に溢
  れたものであることを世界中に示した曲である。
   あ、綿畑の広がる地に帰りたい
   古き良きあの故郷に
   見よ、はるか、はるか彼方のディキシーランドを
   帰りたい、はるか彼方のディキシー
   ディキシーに誓おう
   ディキシーで生き、骨を埋めることを
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   http://www.genkipolitan.com/elvis/best/best_45.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「アメリカの祈り」.jpg
「アメリカの祈り」
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2010年02月25日

●プリシラの決断/エルヴィスとの別れ(EJ第2219号)

 米国では1963年に「均等給与法」、1964年に「公民権
法」が相次いで成立しています。「均等給与法」では男女差別を
違法とし、「公民権法」では、性差別を禁止する条項が設けられ
ていたのです。さらに1971年には「アファーマティブ・アク
ション」によって、企業が女性を職場から締め出すことはできな
くなったのです。
 女性の社会進出は急増し、70年代の半ばには大学を卒業する
90%の女性は就職し、既婚女性の半数が働いていたのです。女
性の意識が大きく変わってきたのです。
 こういう時期において、プリシラ・ポーリューは何を考えてい
たのでしょうか。
 1985年に出版されたプリシラの回想録『私のエルヴィス』
には、当時のプリシラの心境が次のように記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 生まれて初めて、自分自身をまっすぐ見つめるようになった。
 内輪の人間以外の結婚生活を観察する機会があったが、そこで
 は日常の取り決めや将来の目標について、女性が男性に負けず
 に言うべきことを言っているのを知った。私は今までの自分の
 生き方がひどく不自然で、幸福にはほど遠いものであることを
 思い知らされた。自分の人生は自分で決めなければならないの
 だ。新たに得たこの考え方を振り捨てることはできなかった。
 外には広々とした世界が待っている。その中に私自身の居場所
 を見つけなければ・・。 ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1971年のクリスマス――いつもであれば、エルヴィスの邸
宅であるグレイスランドでは、盛大なクリスマス・パーティーが
開催されるのが通例であったのです。そのとき、プリシラはいつ
もパーティーの中心的存在だったのです。
 しかし、1971年のクリスマスはいつもと同じように開催さ
れましたが、その席にはプリシラも娘のマリーもいなかったので
す。さらに1972年1月のエルヴィスの誕生日パーティーにも
2人の姿はなかったのです。これで、エルヴィスとプリシラの仲
は決定的になったのです。
 そして、同年2月、プリシラは強い意思を持ってマリーを連れ
て、グレースランドの邸宅を出たのです。そして、カルフォルニ
ア州ハンティントン・ビーチにアパートを借りて、自分の空手教
師であったマイク・ストーンとの新生活をはじめたのです。覚悟
の離婚だったのです。そして、1973年10月に正式に離婚す
ることになったのです。
 このプリシラという女性は只者ではなかったのです。彼女は自
らのイメージを一新させし、ロサンゼルスに高級ブティック店を
オープンして成功させ、いくつもの事業を興し、見事な経営手腕
を発揮し、事業家として活躍をはじめたのです。
 そのかたわら、美貌を生かしてモデルや女優の仕事もするよう
になり、人気テレビドラマ『ダラス』をはじめ、映画にも出演し
てハリウッド女優としてのポジションも固めるという八面六臂の
大活躍をはじめたのです。
 エルヴィスの死後は、エルヴィス・プレスリー・エンタープラ
イジズを設立して、初代の会長に就任するや、グレイスランドを
一般公開して事業を飛躍的に拡大させています。さらに、ファッ
ションや化粧品分野にまで事業の幅を広げるなど、現在でもキャ
リアを拡大させているのです。
 2006年6月に、ブッシュ大統領と一緒にグレイスランドを
訪問した小泉純一郎元首相を出迎えたのは、このプリシラと娘の
リサ・マリーであり、世界中にプリシラの健在振りを見せつける
ことになったのです。
 このようにしてプリシラを失ったエルヴィスは、狂ったように
コンサートに打ち込んだのです。1972年から1976年まで
のコンサートの回数は725回にも及ぶのです。
 しかし、エルヴィスの身体は不規則な生活も祟ってボロボロに
なっていたのです。強い照明とカメラのフラッシュで痛めつけら
れていた眼は禄内障を起こしており、肝臓や腸、腎臓や心臓にも
障害が見られ、多くの薬剤を服用していたのです。
 しかし、エルヴィスはコンサートになると、不思議な活力が出
るのか甦り、立派にステージをこなしたあと落ち込むという状態
が続いたのです。それでも次のコンサートのためにまた大量の薬
を飲むということが続いたのです。
 プリシラと別れたあと、エルヴィスはリンダ・トンプソンとい
う女性に会い、一緒に暮らすようになります。リンダは美人であ
るばかりではなく、メンフィス大学で英文学を専攻するという大
変理知的で愛情深い女性だったのです。それに同じ南部の出身で
あって、宗教的にも同じ信仰を持ち、家族を愛し、両親を大事に
するという点も同じだったのです。
 エルヴィスは、このリンダ・トンプソンという女性に失った2
人の女性――母とプリシラとの面影を見たのです。そして、19
72年から76年にかけてエルヴィスはリンダとグレイスランド
で暮らすことになります。
 その間、何回も入院を余儀なくされたエルヴィスにいつも付き
添っていたのはリンダであり、エルヴィスの病室にはリンダの簡
易ベットが備えられていたといいます。
 しかし、エルヴィスに対する嫌がらせは相変わらずは頻発し、
グレイスランドの邸宅にはつねに何人もガードマンがいて警備に
当たるという状態でエルヴィスは家にいても精神的に落ち着くこ
とはなかったのです。
 しかし、エルヴィスは、ラスヴェガスの公演があると、ショー
ガールの美女と派手に遊ぶなど、自分を積極的に変えようとはし
なかったのです。それを見届けように、リンダはプリシラと同様
に、1976年11月にグレイスランドを去ったのです。今度こ
そエルヴィスは一人になったのです。――[エルヴィス/31]


≪画像および関連情報≫
 ・コイズミの夢実現/ニューヨーク・タイムズ紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  【メンフィス(米テネシー州)=有元隆志】「コイズミの夢
  が実現した」−。米国の人気歌手、故エルビス・プレスリー
  宅のあるテネシー州メンフィスのグレースランドを30日、
  ブッシュ大統領とともに訪問した小泉純一郎首相について、
  米メディアは外国指導者に対しては異例の大きな扱いで伝え
  た。普段はブッシュ大統領の一挙手一投足を取材するホワイ
  トハウス詰め記者団も、この日ばかりは大統領よりも首相の
  パフォーマンスに注目し、大統領も「珍しい経験だ」ともら
  した。
    http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060701/1151752870
  ―――――――――――――――――――――――――――

小泉元首相のグレイスランド訪問.jpg
小泉元首相のグレイスランド訪問

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2010年02月26日

●すべての歌がエルヴィス風ゴスペル(EJ第2220号)

 エルヴィスは孤独と闘いながら、超人的なコンサートをこなし
ていったのです。その頃エルヴィスが好んで歌ったのは、次のよ
うなバラードやゴスペルだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         「アンチェインド・メロディ」
         「明日に架ける橋」
         「マイ・ウェイ」
         「偉大なるかな神」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの曲は、エルヴィスの深い悲しみや苦悩を反映して一層
深みを増し、人々の心のひだに沁み込むように歌われたので、観
客を感動で圧倒したのです。
 もはやここまでくると、ロックンロール、バラード、ゴスペル
などの音楽としての区別はなくなり、エルヴィスの歌う歌のすべ
てが「エルヴィスのゴスペル」となっていたのです。つまり、エ
ルヴィスの歌は、それが「アンチェインド・メロディ」であれ、
「明日に架ける橋」であれ、「マイ・ウェイ」であっても、それ
はすべてエルヴィス風ゴスペルとなっていたのです。
 ところで「ゴスペル」とは一体何でしょうか。
 黒人による音楽では、次の違いを知っておく必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.ゴスペル
     2.黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)
     3.ソウル
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゴスペルは黒人霊歌とは違うのです。ゴスペルについて、ゴス
ペルの女王といわれるマヘリア・ジャクソンは次のように説明し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゴスペルは、ニグロ・スピリチュアルのように、どこからとも
 なく人から人へと歌い継がれてきたような歌ではない。トマス
 ・ドーシーのようなミュージシャン/ライターによって、作詞
 作曲されたものである。     ――マヘリア・ジャクソン
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、黒人霊歌は一種の伝承歌であり、作詞・作曲者はい
ないが、ゴスペルには作詞・作曲者がいるということです。音楽
的には、宗教的な内容を扱った歌詞にブルースやジャズの要素を
取り入れたものであり、ゴスペルには良い知らせを運んでくると
いうキリストの福音という意味があります。
 しかし、ゴスペルの母胎はニグロ・スピリチュアル――黒人霊
歌なのです。黒人霊歌は、アフリカから強制的に米国に連れてこ
られた黒人たちが、奴隷という厳しい環境を生き抜くために自然
に歌われるようになった歌なのです。
 内容としては、旧約聖書の登場人物や逸話に、奴隷としての過
酷な生活への思いを重ねて作られているのです。なお、黒人霊歌
には、通常「ダブル・ヴォイスィング」といわれる二重の意味が
こめられている場合が多いのです。
 一つは、白人の主人が聞いても「聖書」的であると判断できる
側面であり、もう1つは奴隷のみがわかる隠された意味です。奴
隷達は、白人に気づかれぬように自分たちの仲間同士の情報連絡
を歌に盛り込んだのです。しかし、ゴスペルには、そういうダブ
ル・ヴォイスィングのようなものはないのです。
 それでは、ソウルというのは何でしょうか。
 ソウルは「黒人革命のブルースである」といわれます。奴隷解
放後に生まれた黒人たちは、黒人としての誇りやプライドという
気持ちを持つようになり、黒人がアメリカの主流へ向かうという
文化的、心理的な思想を抱いたのです。
 そういう黒人たちに主導されて作られた音楽ががソウルなので
す。ソウルはブルースとは違い、白人の音楽的要素も積極的に取
り入れた音楽ですが、分類的には「ブラック・ゴスペル」といわ
れることもあります。
 エルヴィスが、1960年10月にRCAスタジオで録音した
曲に「スウィング・ダウン・スィート・チャリオット」という曲
がありますが、これはニグロ・スピリチュアルです。
 「スウィング・ダウン・スィート・チャリオット」は次の歌詞
ではじまるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  いとしのチャリオットよ、ここまで下りてきておくれ、
  ちょっと止まって、この私を乗せておくれ
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、この「チャリオット」とは何でしょうか。
 チャリオットとは、旧約聖書に出てくる偉大なる預言者エリア
を天に運んだ二頭立ての馬車のことです。したがって、この歌を
白人が聴くと、黒人たちの天国への憧れを歌った歌であると考え
てしまいます。しかし、これは黒人たちへ逃亡を呼びかける秘密
のボランティア・ネットワーク「地下鉄道」のメッセージなので
す。「地下」というのは「隠れて行動する」という意味であり、
「鉄道」とは、黒人たちの逃亡を意味しています。
 逃亡する奴隷は「乗客」、ボランティア活動員は「車掌」、そ
して隠れ家は「駅」というように、それぞれ隠された言葉がある
のです。黒人たちが目指した国はカナダなのですが、ボランティ
ア組織は、その自由の国カナダに奴隷を導くために、こういうニ
グロ・スピリチュアルをよく利用したのです。
 当時は厳しい奴隷狩りが行われており、逃亡してもすぐ捕まっ
てしまったのですが、それでもそういうボランティア組織の力を
借りて約6万人の奴隷がカナダ入りに成功したといわれているの
です。              ――[エルヴィス/32]


≪画像および関連情報≫
 ・黒人霊歌とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカ黒人音楽の一番古いジャンルであり、民謡の一種で
  あり、ゴスペルはもとよりこんにちある様々なアメリカ黒人
  音楽の原点となったのが、この黒人霊歌です。黒人たちは奴
  隷として自分の意思とは関係なくアメリカに連れてこられ、
  そこでは人間としての権利は与えられず過酷な労働のみ与え
  られました。生き方も選べず、権利も自由も何もなく抑圧さ
  れたなかで労働するしかなかった人生、その中で生まれた黒
  人霊歌は彼らの魂の叫びそのものです。信仰のあかしでもあ
  ります。その誕生の歴史的背景は特異なものであり、他の民
  俗音楽とは一線を画しているといえるでしょう。
     ――http://www6.ocn.ne.jp/~fleur/spirituals.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

エルヴィスのゴスペル特集ディスク.jpg
エルヴィスのゴスペル特集ディスク
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