2010年01月13日

●今なぜエルヴィス・プレスリーなのか(EJ第2189号)

 「コンピュータの歴史Part2」は諸事情により掲載を中止し、
 今日から、テーマとしてロックの歴史に大きな影響を与えた歌
手であるエルヴィス・プレスリ−を取り上げます。今日はその予
告編のような話からはじめたいと思います。
 なお、この記事は2007年10月22日から2007年12
月07日までの34回にわたって連載したものであることをお断
りしておきます。
 どうしていま、エルヴィス・プレスリーなのかというと、今年
(2007年)が彼の没後30年に当るからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Elvis Aron Presley 
     1935.1.8〜1977.8.16
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、単なる歌手ではなく、ロックという新しい音楽
の歴史を切り拓くとともに、当時の米国の文化を根本から変える
重要な役割を果たしています。ですから、没後30年にもなるの
に、米国の文化の象徴としていまだに語り継がれているのです。
 ところで、エルヴィスのセカンドネームの「アーロン」の綴り
には次の2説があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       Aron  Aaron/Evis Aaron
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在では「A」を1つ書くようになっており、登録上も1つな
のですが、エルヴィスの墓標には「A」が2つの「Aaron」 と書
いてあるのです。このことからエルヴィスは実は死んでおらず、
生きているという説が出ているのです。
 エルヴィスの父親のヴァーノン・プレスリーという人は、どう
やら発音が正確ではなかったようで、エルヴィスをと取り上げた
医師のハントはヴァーノンの発音を聞き間違えて、エルヴィスの
「I/エル」を抜かして「エヴィス・アーロン」とカルテに書き
込んでいたことがわかっています。
 しかし、エルヴィス自身は意識して「Aaron」 を使っていたと
いわれます。もともと父親のヴァーノンは、自分の友人のアーロ
ン・ケネディにちなんで「アーロン」と名付けたのですが、エル
ヴィス自身は聖書のモーゼの兄のアーロンを意識していたようで
す。それほどエルヴィスは宗教には強い関心があり、友人とよく
宗教論をしていたようです。
 エルヴィスの生まれたのは、ミシシッピ州のテネシー寄りの農
村イースト・テュペロというところです。テュペロは綿花畑のつ
らなるコットン・ベルトの中心部に位置しています。
 エルヴィスは、双子の兄弟の弟として生まれていますが、兄の
ジェシー・ガーロン・プレスリーは、誕生時に死亡しているので
す。1935年1月8日のことです。
 エルヴィスは幼年期はこのテュペロで過ごし、13歳のときに
一家はテネシー州メンフィスに転居したのです。1948のこと
であり、太平洋戦争は3年前に終わっており、メンフィスは戦後
戦勝景気に沸き立っていたのです。
 米国の中南部の農村に住む者からみるとメンフィスは大都会で
あり、当時仕事はたくさんあったのです。そのため、南部の農民
たちは次々と農業をやめ、メンフィスに集まってきたのです。戦
後の20年で離農した人口は約1100万人――プレスリー一家
もそのうちのひとつであったのです。
 さてこのメンフィスは、テネシー州の西境にあり、ミシシッピ
川のデルタの頂点に位置しています。そして、この都市は米国の
2つの根本的に異なる領域にはさまれているという位置関係にあ
るです。
 つまり、メンフィスは、南に貧困なデルタの農場とルイジアナ
の湿地帯、それから、あのハリケーンで大きな被害を受けたヨー
ロッパ風のニューオリンズの港湾都市と、北と西には豊かな平野
部の農場、それにシカゴとデトロイトという工業都市にはさまれ
ているのです。メンフィスのこの位置関係がエルヴィスの音楽に
大きく影響したのです。
 つまり、メンフィスは、南部貴族の上品な雰囲気とアフリカ系
アメリカ人社会のソウル精神が混じっているのです。これがブル
ースとロックンロールという新しい音楽を生んだのです。
 ミシシッピ川河口のデルタ地帯で始まったディキシーランド・
ジャズの音楽が、外輪船に乗って次第に北の方へのぼってきて、
たどりついたのがメンフィスであり、黒人たちによって、より哀
愁のある音楽へと変わっていったのです。これがブルースです。
 1903年にミシシッピ州デルタ地帯を旅行中であったW.C
.ハンディーは、たまたまブルースの生演奏を聴き、それまで楽
譜に残されることのなかったその音楽を始めて楽譜に仕上げるこ
とによって、「ブルース音楽」の文化を確立したのです。
 そこでこの年を「ブルースの生誕の年」として、2003年は
ブルース生誕100年を記念して、アメリカ合衆国議会によって
「ブルースの年」と宣言されています。
 日本の場合「ブルース」というと、淡谷のり子、青江美奈らに
代表される「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」を指すことが
多いのです。しかし、「別れのブルース」や「伊勢佐木町ブルー
ス」のように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつ
く曲は、音楽的にはブルースとは別物と考えるべきです。
 エルヴィスは幼い頃から、ゴスペル・シンガーを夢見ていたの
です。ゴスペルは、米国発祥の音楽のジャンルであり、もともと
はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽で、ゴスペルとは英語
で「福音」や「福音書」を意味しています。
 米国南部の音楽のルーツは、ほとんど農村部にあったのです。
ブルース、カントリーソング、ゴスペル、ワーク・ソング――こ
れらはすべて南部の日常生活の中から生まれたのです。
 そういう農村部の南部人が、それぞれの音楽とともにこのメン
フィスにこぞって集まってきたのです。これらの音楽が都会の音
楽と融合して新しいサウンドを生み出しつつあったのです。そう
いう新旧のサウンドが渦巻く都市メンフィスでエルヴィスは育っ
たのです。            ――[エルヴィス/01]


≪画像および関連情報≫
 ・ロックとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロックは、米国で1950年代に生まれたポピュラー音楽の
  ジャンルである。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの基本
  構成をとるバンドスタイルで演奏される、激しいビートサウ
  ンドが特徴――ただし、音楽性の多様化によりこの範疇に入
  らないロックも多い。ジャズ、R&Bと共に世界中に広まっ
  たアメリカ発の音楽であり、世界中の音楽シーンに衝撃を与
  えただけでなく、その影響は思想、ファッション、アートな
  どポップスカルチャー全体に及び、その社会的インパクトは
  極めて強かったのである。
  ―――――――――――――――――――――――――――

テネシー州メンフィス.jpg
テネシー州メンフィス

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2010年01月14日

●サム・フィリップスとエルヴィスの出会い(EJ第2190号)

 続々と南部の農村からメンフィスという都会に集まってきた黒
人たち――その数は1960年までにメンフィスの総人口50万
人中20万人に達したのです。
 しかし、当時のメンフィスには厳格にして複雑な人種隔離の掟
というものがあったのです。レストランやトイレや病院、それに
動物園や図書館や乗り物など、あらゆる公共の場での人種隔離が
行われていたのです。
 黒人たちはメンフィスで黒人地区を形成して、ブルースが誕生
したといわれるビール・ストリートは黒人たちの集結する娯楽場
になっていました。そこでは、宗教歌も世俗歌も都会化され、エ
レキ化され、それは「リズム&ブルース/R&B」という音楽を
作り出したのです。
 当時高校生であったエルヴィスは、町の中心街にあるエリス音
楽堂で毎月行われる白人ゴスペル・コンサートに必ず出かけて行
き、日曜日の夜には黒人ゴスペルの作曲家として名高いウィリア
ム・ハーバート・ブルースター牧師による教会のゴスペル集会に
参加していたのです。
 確かにメンフィスには厳しい人種隔離の掟はあったのですが、
若者たちは、こと音楽に関しては白人も黒人もなかったのです。
南部人の彼らにとって音楽は最も身近な娯楽であり、とくにエル
ヴィスのような10代の白人の若者には、黒人音楽の強烈なビー
トとそのスタイルは抑えがたい魅力があり、何とかそれを自らの
音楽に取り入れようとしたのです。
 20世紀のちょうど半ばに南部社会において、このような音楽
における文化交流が自然発生的に行われ、結果として新しいスタ
イルの音楽――ロックを誕生させる契機となったわけです。
 それではエルヴィスはどのようにしてデビューすることになっ
たのでしょうか。その舞台はメンフィスのユニオン・アヴェニュ
ー706番地にあるメンフィス・レコーディング・サービス/サ
ン・レコードだったのです。
 このサン・レコードにおいて歌手エルヴィスが産声を上げるこ
とになるいきさつについては、多くのエルヴィス関連本において
ほとんど一致しています。要するに、サン・レコードを経営する
サム・フィリップスとエルヴィスがどういういきさつで出会った
かということです。
 これについては、エルヴィス研究の第一人者である前田絢子氏
による次の最新刊が一番詳しいので、これをベースとしてご紹介
することにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
   前田絢子著/角川選書/413
   『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』
―――――――――――――――――――――――――――――
 サン・レコードは5つしか部屋のない小さな録音スタジオであ
り、主として黒人系のR&Bなどのレコードの製作をやっていた
のです。しかし、それだけではやっていけないので、4ドル支払
えば、誰でもレコードが作れるサービスをやっていたのです。
 エルヴィスは、当時ギターの弾き方や音楽の指導を受けていた
年上の音楽仲間のビル・ブラックから、サン・レコードのサム・
フィリップスのことは何回も聞かされていたのです。彼がスゴ腕
の音楽プロデューサーであることをです。そして、ブラックは、
エルヴィスに次のような秘策を与えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一番重要なことはサムに君の歌を聞かせることだ。それは難し
 いことではない。サン・レコードに行って4ドル支払って自分
 の歌を録音してもらうことだ。そうすれば、スタジオのコント
 ロール・ルームにいるサムの耳に入る。君の歌は特徴があるの
 で、必ずサムの関心を引くと思う。   ――ビル・ブラック
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスといえば、派手な衣装をまとい、大げさなアクショ
ンで歌う歌手というイメージが強いので、意外かも知れませんが
非常に内気な性格だったのです。
 そのため、ブラックの提案をなかなか実行に移せないでいたの
です。いきなり、ダメといわれたくない――まだ、準備不足だと
考えて伸ばし伸ばしにしていたのです。
 1953年にエルヴィスは高校を卒業し、町の電気会社に就職
したのです。そして毎日のように工事用の部品を積んで小さなト
ラックで町を走り回ったのです。車内のラジオからはいつも音楽
が流れていました。実は私もエルヴィスと同年代の1935年生
まれであり、若いときに音楽を聴く手段はもっぱら、ラジオだっ
たのです。LPはまだ高くて手が出なかったのです。
 その1953年の夏の土曜日、エルヴィスはかねてから心に温
めていたことを実行します。サン・レコードに行って、自分の歌
を録音したのです。しかし、あいにくそのときスタジオにはサム
・フィリップスはいなかったのです。
 しかし、録音を担当したサムの秘書のマリオン・カイスカーが
エルヴィスの歌を録音して残していたのです。もちろんサムに聴
かせるためです。というのは、つねづねサムはスタッフに次のよ
うにいっていたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  黒人のような声と感覚を持った白人がいたら大儲けできる
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 カイスカーは、エルヴィスの声に特別の魅力があることに気が
ついて、スタジオのテープに彼の声を残しておいたのです。連絡
先を聞かれたエルヴィスは期待したのですが、1953年の終り
までは、サン・レコードからは何の連絡もなかったのです。
 そこで、1954年1月にエルヴィスは再びサン・レコードを
訪れ、もういちど録音します。そのときは、直接サム・フィリッ
プスに会えたのです。       ――[エルヴィス/02]


≪画像および関連情報≫
 ・サン・レコードについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「キング・オブ・ロック」エルヴィス・プレスリーが、メン
  フィスのローカル・レーベル「サン・レコード」で歴史的な
  キャリアをスタートさせたのは1954年。つまり今年はエ
  ルヴィス・デビュー50周年。ロックンロールを作ったのは
  エルヴィスであるからして必然的に「ロック生誕50周年」
  にもあたる今年には、エルヴィスとロックンロールの故郷、
  聖地グレイスランドを中心に世界中で記念イベントが開催さ
  れています。
   http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=6607
  ―――――――――――――――――――――――――――

サム・フィリップス/マリオン・カイスカー.jpg
サム・フィリップス/マリオン・カイスカー
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2010年01月15日

●ロックンロールの誕生(EJ第2191号)

 1954年1月のことです。サン・レコードから何もいってこ
ないので、エルヴィスはサン・レコードを訪ねて再び録音をやっ
たのです。本当はサム・フィリップスに会うためです。
 そのときは首尾よくフィリップスには会えたのですが、そのと
きとくに何の話もなかったのです。
 それから、さらに6ヵ月が経過したのですが、サン・レコード
からは何の連絡もなかったのです。これはもう駄目かなとあきら
めかけたとき、フィリップスの秘書マリオン・カイスカーから連
絡が入ったのです。「サン・レコードに来て欲しい」と。
1954年6月26日のことです。
 後にフィリップスの言によると、電話をかけて電話を置いたら
エルヴィスがサン・レコードの入り口に立っていたというほど、
エルヴィスはサン・レコードに息せきって駆け付けたのです。し
かし、この焦りが裏目に出るのです。
 エルヴィスはフィリップスの前で自分の歌える曲を全部聴いて
もらったのですが、フィリップスのOKは出なかったのです。エ
ルヴィスも焦っていて自分のベストを出せなかったといいます。
しかし、エルヴィス自身はこのセッションは失敗だったものの何
となく自分には何らかの才能があることを確信したのです。きっ
とチャンスはくる、と。
 フィリップスも迷っていたのです。そこで、友人のスコティ・
ムーアに「エルヴィスを試してくれないか」と頼んでいます。ス
コティは、カントリーバンド「スターライト・ラングラード」の
オーナーであり、フィリップスの音楽仲間なのです。そのバンド
のベーシストをやっていたのは、エルヴィスの年上の音楽仲間で
あるビル・ブラックだったのです。
 スコティは、早速エルヴィスの家に電話を入れて、その翌日に
スコティの家で会うことにしたのです。1954年7月4日のこ
とです。当日、エルヴィスはスコティの前で自分の歌を披露した
のですが、その席にはビル・ブラックも参加したのです。
 エルヴィスを帰すと、スコティはフィリップスに電話を入れて
その日のセッションの様子を次のように報告しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 リズム感はいいし、声も素晴らしい。しかし、歌った曲には問
 題があるけどね。しかし、オーディションをする価値はある。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1954年7月5日、サン・レコードで、エルヴィスの正式な
オーディションが行われたのです。スコティとビルも楽器を持っ
て参加したのです。
 しかし、一日かけて歌いまくったのに対し、前2回のセッショ
ンと同じで、良い結果が得られなかったのです。曲は主としてバ
ラード調のものが多かったようです。夜中の12時近くになって
今日はもうお開きにしようかということになったときです。
 いきなり、エルヴィスはギターをかき鳴らし、テンポの早い曲
を歌い出したのです。曲は「ザッツ・オール・ライト」という曲
です。この曲はある黒人のブルース・シンガーが1946年に書
いた曲ですが、結局ヒットしなかったのです。
 エルヴィスが歌い出すと、スコティとビルも演奏に参加して演
奏をはじめたので、スタジオは大変な騒ぎになったのです。コン
トロール・ルームで休んでいたフィリップスはこれを聞いて突然
起き上がり、大声で叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはいい。その調子で続けてくれ。この音がどこかにいって
 しまわないうちに、もう一度最初からやり直しだ。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 フィリップスはマイクの位置などを正しくセットして、テープ
を回し始めたのです。そして、何回も何回も形が整うまで演奏は
繰り返され、やっと収録が終わったのです。そして、出来上がり
を全員で聴いたのです。
 このサウンドこそ、後に「ロックンロール」といわれる新しい
音楽の誕生だったのですが、これについて、前田絢子氏は次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 黒人のリズム&ブルースとゴスペル、白人のカントリー・ミュ
 ージックとが、エルヴィスの若々しく躍動する身体の中で一つ
 となり、まったく独創的なサウンドを作り上げていた。ビルは
 圧倒されて、茫然としながら、「こんな危険な音をどうすれば
 いいんだ。きっと俺たち、町から追い出されるぜ」と呟いた。
 これが、伝説的なロックンロール誕生の瞬間であった。みんな
 疲れ切っていたが、何かを達成した後の奇妙な開放感と興奮を
 覚えていた。ようやく互いに「お休み」と言ってスタジオを出
 たのは、夜中の二時を回っていた。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 サム・フィリップスはそのままスタジオで考え込んでしまった
のです。この曲はビル・ブラックのいうように「危険な音」に違
いなかったからです。当時の白人の若者は、黒人の音楽には興味
を持ってはいましたが、黒人のレコードを買う者はさすがに少な
かったのです。
 しかし、この曲は確かに黒人の強烈なビートはあるが、黒人特
有の粘っこさはなく、もっと軽やかで若々しい声が躍動している
のです。これは白人のカントリーソングのセンチメンタルな声と
も異なっていたのです。まさに、これは黒人の音楽と白人の音楽
が融合した新しい音楽であったのです。
 当面フィリップスのやるべきことは、レコードのB面に何を入
れるかであったのです。フィリップスは、そのためにエルヴィス
とビル、スコティを召集します。  ―― [エルヴィス/03]


≪画像および関連情報≫
 ・「ロックンロール」と「ロック」の関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「ロックンロール」の略語が「ロック」である。「ロック」
  という略語はロックンロール黎明期からしばしば用いられて
  いたが、1960年代には「ロック」という呼び方が一般化
  し、「ロックンロール」と呼ぶことは少なくなった。ただし
  アメリカはでは現在もバンドサウンドであるロックのことを
  指して、総じて「ロックンロール」という言葉を用いること
  がある。              ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

前田絢子氏の本.jpg
前田絢子氏の本
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2010年01月18日

●SUN209/エルヴィス最初のシングル(EJ第2192号)

 エルヴィス、スコティ、ビル、フィリップス――この4人は、
「危険な音」を生み出した翌日、再びサン・レコードのスタジオ
に集まって、打合わせをしています。「B面を何にするか」を決
めなければならなかったからです。しかし、この日もB面に入れ
る曲は決まらなかったのです。
 しかし、サム・フィリップスは焦らず慎重に仕事を進めるタイ
プであり、この日も一日やって結論が出ないと、少し間を置いて
またはじめようということにしてその日は終ったのです。サムは
自分が心からいいと思わない限り妥協しなかったからです。
 みんなが引き上げると、サムは親友のデューイ・フィリップス
に電話します。 このもうひとつのフィリップスであるデューイ
は、ラジオ放送局でディスクジョッキーの仕事をやっており、自
分の番組「レッド・ホット・アンド・ブルー」を持っていたので
す。サムの要請を受け入れて、その日の夜、デューイは自分の放
送終了後にスタジオにやってきたのです。
 2人はビールを飲みながらエルヴィスの「ザッツ・オール・ラ
イト」を聴いたのです。何回も何回も繰り返して聴いたのです。
そのうえでデューイは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   これはヒットになる。でっかいヒットになるぜ。
            ――デューイ・フィリップス
―――――――――――――――――――――――――――――
 次の日、デューイはサムに電話を入れ、昨夜聴いた「ザッツ・
オール・ライト」のデモ盤をカッティングして欲しいと要請して
います。サムは早速デモ盤を作って放送局に届けたのです。
 デューイは自分の番組で「ザッツ・オール・ライト」を流した
ところ、もの凄い反応を呼んだのです。放送局にはリクエストが
殺到し、何十回も曲は反復して流されたのです。それでもリクエ
ストは止まらなかったのです。
 あまりの反応の凄さにデューイは、サムにエルヴィスを放送局
に連れてきてくれと依頼します。サムから話を聞いてエルヴィス
は震えあがって逃げ出し、映画館に姿を隠してしまったというの
です。やっとのことで、放送局に連れてこられたエルヴィスは、
マイクの前で怯えて何も話せない状況であったといいます。
 そこでデューイは本番前の打ち合わせをしようと騙して本番の
インタビューをはじめたのです。最初は次の質問――実は一番大
事な質問からはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     デューイ :高校はどこだった?
     エルヴィス:はい、ヒュームズです
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜこの質問が大事かというと、このやりとりでエルヴィスが
白人であることがわかるからです。ヒュームズ・ハイスクールは
白人用の高校であったからです。レコードを確実に売るには歌手
が白人であることを知らせておく必要があったからです。
 その日、サン・レコードの電話も鳴りっ放しだったのです。と
にかく急いでB面を決める必要がある――サム・フィリップスは
鳴り止まない電話を眺めながら考えていたのです。
 また、スタジオに集まった4人は、B面の選曲をはじめたので
す。その時点でまだ、できていないレコードの予約は5000枚
以上入っていたというのです。
 しかし、いつものように決定的なものが出ずにその日も終ろう
としていたときです。今度はビル・ブラックが「ブルー・ムーン
・オブ・ケンタッキー」という曲を少しテンポを上げながら、お
どけた甲高い裏声で歌い始めたのです。エルヴィスとスコティも
演奏に加わったのです。
 「これだ!!これはいける」とサムは叫んだのです。「ザッツ・
オール・ライト」は、黒人のブルースの上に白人のカントリーを
乗せているのに対し、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」
は白人のカントリーの上に黒人のブルースを乗せているのです。
これでやっとB面は決定されたのです。
 サム・フィリップスは「ザッツ・オール・ライト」と「ブルー
・ムーン・オブ・ケンタッキー」の2曲を表裏に収録したレコー
ドを作って、メンフィス中のディスク・ジョッキーに配布したの
です。各局とも反響は上々だったのです。
 そして、1954年7月19日、サン・レコードからエルヴィ
スの最初のシングル「SUN209」が発売されたのです。「ザ
ッツ・オール・ライト」はメンフィスのヒットチャートを一気に
駆け上がって第1位となり、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッ
キー」もそれに続いたのです。
 ビルボード誌は、エルヴィスについて、次のように書いてエル
ヴィスを絶賛したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス・プレスリーは、カントリーにおいても、リズム&
 ブルースにおいても、メロディをたたき出すことのできる有望
 な新人歌手である。           ――ビルボード誌
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスを中心として、3人の関係者が生み出した「危険な
音」は、南部社会はおろか、全米を巻き込み、ついには全世界を
征服する音になろうとは、さすがのサム・フィリップスも考えて
いなかったと思います。
 とにかくこのサン・レコードの発表した「SUN209」が、
後のロックンロール――略してロックという音楽の最初の音楽に
なったことは確かなのです。
 いや、今にして考えると、このロックという音楽は、黒人文化
を吸い込んだ新しい価値観の主張であり、時を同じくして起こっ
た公民権運動を社会の内部から支える強烈なエネルギーになった
といえるのです。         ――[エルヴィス/04]


≪画像および関連情報≫
 ・小泉純一郎元首相とエルヴィス
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ポップミュージックの「キング」と呼ばれたエルビス・プレ
  スリーが亡くなって30年。命日の8月16日には「キング
  ・オブ・ロックンロール」をしのぶイベントがエルビスゆか
  りのメンフィスでも大々的に開かれたが、秋に入っても、そ
  の熱気は冷めない。米テネシー州メンフィス。エルビスが長
  年暮らした場所で、ファンにとっての聖地だ。昨年6月、エ
  ルビスファンの小泉純一郎元首相も訪問した邸宅グレースラ
  ンドは、一部が観光施設として公開され、今も多数のファン
  が内外から訪れる。    ――エルヴィス関連サイトより
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・レコードと「SUN209」.jpg
サン・レコードと「SUN209」
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2010年01月19日

●2人のフィリップス(EJ第2193号)

 エルヴィスを見出し、エルヴィスを世界的なエンタティナーに
育てた人物であるサム・フィリップスとはどういう人物だったの
でしょうか。
 サム・フィリップスは、アラバマ州北部のフローレンスの大き
な農場主の8人兄弟の末子として生まれたのです。彼にとって幸
せだったのは、そういう環境から幼いときから、その農場で働く
黒人労働者の歌声を聴きながら育っているという点です。
 とくにその農場で働く下男のサイラス・ペインという盲目の黒
人からいつもブルースを聴かされていたので、ブースの虜になっ
てしまっていたのです。このような経験から彼は音楽を聴く確か
な耳を育てていたのです。
 幼いときから弁護士になることを目標にしていたのですが、高
校生のとき父親が亡くなると、弁護士になる夢をあきらめ、それ
まで通っていたハイスクールも中退してしまうのです。
 たまたま高校のときマーチング・バンドのリーダーをしていた
関係から、音楽に関する職業に就きたいと考えて、放送局に入社
し、アナウンサーや放送エンジニアとして働き出したのです。
 故郷から南に6マイルのマッスル・ショールズの町の放送局の
雑用係を振り出しに、アラバマ州ディケイターのWHSLを経て
テネシー州ナッシュヴィルのWLACというラジオ局で経験を積
んだあと、1946年の夏、23歳のときに妻と2人の息子を一
緒にメンフィスのラジオ局WLECに移ってきたのです。
 メンフィスのWLECでのサムの主な仕事は、ダウンタウンの
中心にあるピーボディ・ホテルの最上階のスカイウェイから毎日
夕方に放送する「トレジャリー・バンド・スタンド」という生番
組を演出することだったのです。要するにビックバンドのライブ
演奏の演出を担当したわけです。
 しかし、そのフルバンドによるスウィングジャズの演奏は実に
つまらないものだったのです。何よりも意外性がないこと、予定
調和的なアレンジ、生ぬるいけだるいムード、パンチが効かない
演奏、刺激的な興奮や衝撃などは、どこを探してもなかったので
す。こんな音楽じゃダメだな――サムはいつもそう思っていたの
です。サムには時代が変化しようとする鼓動がはっきりと聞こえ
ていたのです。
 1950年1月、彼は中南部にいる優れた黒人ミュージシャン
たちのユニークで素晴らしい音楽を多くの人に聴かせたいと考え
て、自分のスタジオを開設したのです。これがここまで何度も登
場したサン・レコード・スタジオなのです。
 サムは優れた黒人音楽家を見つけてきては自分のスタジオに連
れてきて録音させ、見込みのあるものは、シカゴのチェス・レー
ベルやウェスト・コーストに本拠を持つRPMレコードなどに音
源貸し出して紹介する仕事をはじめたのです。サムの良い音楽を
探し当る耳は確かであり、これが結構良い商売になったのです。
 そうするかたわら自分の歌を含めて何でも録音して音源を残し
ておきたい人のために、そういう音源を録音してアセテート・レ
コードを作るサービス――メンフィス・レコーディング・サービ
スをスタジオを利用してはじめたのです。エルヴィスはこのサー
ビスを利用してサムと知り合ったというわけです。
 これらの仕事は放送局の仕事をやりながらでもできたのですが
サムは1951年6月にWLECを辞めて独立したのです。サム
にそれを決意させたのは、彼が黒人と付き合っていることに不快
感を持つ者が放送局に多くいて、サムに対して露骨ないやがらせ
をするようになったからなのです。何しろこの局には黒人と握手
をする者がいるので、不潔な臭いがするというようなことをしつ
こくいわれたのです。
 もうひとりのフィリップス――デューイ・フィリップスについ
ても述べておくことにします。デューイはテネシー州のアダムズ
ヴィルで生まれ、成人してからメンフィスに出てきてパン屋の店
員などをしていたのですが、そのうちラジオの虜になり、ディス
ク・ジョッキーになろうと決心するのです。
 1949年にWHBQ局のラジオ・ショー「レッド・ホット・
アンド・ブルー」に自分を売り込んだところ、首尾よく採用され
たのです。彼にもサムと同様に時代の鼓動が聞こえており、新し
い音に反応する本能的な嗅覚を持っていたのです。
 デューイは伝統的な音楽区分を無視し、自分が最高だと思う音
楽をどんどん番組で流したのです。そこには白人も黒人もなかっ
たのです。そのため、デューイの番組は、黒人ファンも多く、な
かなか評判が良かったのです。
 なにしろ当時のメンフィスでは、警察が白人と黒人の分離に目
を光らせていたのですが、夜になるとデューイは自分の番組でそ
れを混ぜ合わせるのに忙しかったのです。デューイについてはこ
んな話が伝説のように伝わっています。
 あるとき、デューイは自分の番組の視聴率を知りたいと思った
のです。そこで、番組でこう呼びかけたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この番組を聴いていただいている皆さんにお願いします。本日
 夜10時に車のクラクションを鳴らしてくれませんか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜10時になると町は突然のクラクションの騒音で大騒ぎとな
り、警察まで出動する騒ぎになったのです。それでも鳴り止まな
いので、デューイが番組でストップをかけたところ、クラクショ
ンはピタリと収まったといいます。人騒がせな話ですが、デュー
イの人気がいかに凄いものだったかがこれでわかると思います。
もちろん、高校生のエルヴィスも毎晩9時になると、デューイの
番組にダイヤルを合わせていたのです。
 考えてみると、エルヴィスの音楽をこれら2人のフィリップス
が見出すのは必然的であったといえます。なぜなら、エルヴィス
とサムとデューイ――この3人が同じメンフィスという町にいて
ともに新しい音楽を必死に模索していたからです。メンフィスに
はそういう音楽的土壌があったのです。―[エルヴィス/05]


≪画像および関連情報≫
 ・関連サイト/BEATS21より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  テネシー州メンフィスはミシシッピ河によって発展した港町
  で、黒人のブルースやゴスペルから、白人のカントリー(ヒ
  ルビリー)に至るまで南部音楽文化の一大「集積地」の一つ
  でもあった。しかしサム・フィリップスがこのレコーディン
  グ・スタジオを造る前まで、近隣には同様の施設はなく、そ
  の結果、黒人・白人を問わず何がしかの大志をいだくミュー
  ジシャンはこぞってサンと接触を持った。小さなレコーディ
  ング・ハウスから、高純度の優れたポップ・ミュージックが
  次々と生まれ出たのは、50年代の深南部――ディープ・サ
  ウスという黄金時代を背景にしながら、フィリップスがその
  時代の胎動に鋭く反応したからだった。
         http://www.beats21.com/ar/A01112003.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

2人のフィリップス.jpg
2人のフィリップス
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2010年01月20日

●人種差別を容認するプレッシー判決(EJ第2194号)

 一定の年代以上の人でエルヴィス・プレスリーの名前を知らな
い人はいないはずです。しかし、彼のファンは別であるが、その
印象はそんなに良いものではないと思います。
 ド派手な衣装と腰を振るオーバー・アクション、不良っぽい長
いもみあげ、馴染みにくい音楽と激しい歌唱、うるさい音楽、多
くの青春映画のスター、それに意外に早死にした米国の歌手――
このように考えていた人は少なくないと思います。
 一方、若い人の中には、エルヴィスの名前を知らない人も多く
なっています。20世紀の音楽といわれるロックのファンであり
ながら、エルヴィスが生み出した「ロックンロール」についても
知らない人が多いのです。ちなみにロックは、ロックンロールの
省略形なのです。
 前田絢子氏と並ぶエルヴィスの研究者である作家の東理夫氏は
著書で、エルヴィスが時代に果たした役割について、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時代が熟していた、といえばいえる。またエルヴィスが、テネ
 シー州メンフィスという白人文化と黒人文化とが共生する場所
 にいたことも重要だった。そして彼がロックを生むのを助ける
 適切な人間に出会えたことも大切だった。ライトタイム、ライ
 トプレイス、ライトパーソン――しかるべき時に、しかるべき
 場所で、しかるべき人が、という3つの要素がととのった時、
 エルヴィスはロックを生み出すことができたのだ。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 サン・レコードが「SUN209」を世に問う1954年7月
――メンフィスではいささか深刻な事件が起きていたのです。深
刻な事件とは、5人の学生がメンフィス州立大学に入学願書を提
出したことです。
 現代人であれば、なぜそんなことが深刻な事件なのかといぶか
しく思うはずです。しかし、この米国南部社会では、学校は白人
と黒人に峻別されており、黒人学生は白人学校への入学は認めら
れていなかったのです。つまり、南部社会では人種隔離教育が徹
底されていたのです。
 問題は、この人種隔離教育が90年以上にもわたって南部社会
で行われてきた社会的掟であったにもかかわらず、なぜ、あえて
5人の黒人学生が禁止されている白人学校であるメンフィス州立
大学に入学願書を出したかです。
 もちろんそれには理由があったのです。1954年5月17日
に米国の連邦最高裁判所が米国史上画期的ともいえる判決を下し
ていたからです。それは「ブラウン判決」と呼ばれ、長い間、南
部社会で行われていた公立学校の人種差別を違憲とする判決だっ
たのです。5人の黒人学生は、このブラウン判決に基づいて、入
学願書をメンフィス州立大学に提出したというわけです。
 しかし、5人の黒人学生の願書は、テネシー州の教育委員会に
よって退けられたのです。つまり、テネシー州は、ブラウン判決
という国家の押し付けを拒否したのです。これは大変なことです
が、この間の事情を理解するには、南北戦争が終わった頃の米国
に戻って考えてみる必要があります。
 ブラウン判決は、その前の判例である「プレッシー判決」を覆
して成立しているのですが、そのプレッシー判決とは何なのかに
ついて考えてみることにします。
 南北戦争のさなかにリンカーン大統領は奴隷解放を宣言し、南
北戦争終了後に憲法修正条項が発令され、黒人の基本的な人権が
法的に保障されたことはよく知られている通りです。
 具体的にいうと、南北戦争後の1863年――憲法修正第13
条によって奴隷制度が廃止され、第14条により、法の下での人
種差別は許されないことになったのです。
 しかし、これに南部社会は猛反発したのです。そして彼らは次
の有名な言葉を掲げて人種差別を継続したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          分離すれども平等
―――――――――――――――――――――――――――――
 1892年6月のことです。ルイジアナ州に住むホーマー・ア
ドルフ・プレッシーという黒人男性がある行動を行ったのです。
そのとき南部を中心とする多くの州においては、法律によって、
あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場、列車の座席
など、あらゆるものに白人用、黒人用の区別があり、その区分け
を無視すると、法律違反として逮捕されたのです。
 黒人男性プレッシーは、法律の違法性――憲法第14条違反を
国に問うため、あえて白人席に座って逮捕されたのです。裁判は
長期化し、最高裁まで持ち込まれたのですが、判決はプレッシー
の敗訴に終ったのです。判決は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隔離を認める州法は一方の人種を劣勢とみなすものではない。
 したがって、憲法第14条に反するものではない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この判決は、それ以後実に50年以上南部社会において有効に
働いており、「プレッシー判決」として人種差別を容認し続けて
きたのです。
 リンカーン大統領によって確かに奴隷制度は廃止されたのです
が、黒人が自立するための経済的な救済制度は何ひとつ行われて
いないのです。
 そのためほとんどの黒人は、「分益小作人」という貧農として
奴隷時代とあまり変わらない生活を送るしかなかったのです。こ
の分益小作人制度は、黒人の安い労働力を確保するために考え出
された南部社会特有の農業制度であり、黒人たちはそれにすがっ
て生きるしかなかったのです。そして、1951年にもうひとつ
の裁判が起きるのです。      ――[エルヴィス/06]


≪画像および関連情報≫
 ・分益小作人とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小さな町では仕事がほとんどなかったため、田園地帯に住む
  多くの黒人たちは、まだ残っている白人の地主たちと、可能
  な限りの取り決めを結ぶしかなかった。農具、種子、住居、
  食糧の提供を受ける代わりに、他人の土地で栽培した作物の
  一定割合を地主に納める分益小作制という制度が、黒人たち
  にとっての生存手段、生活様式となった。それは、土地を失
  った多くの貧しい白人にとっても、同様だった。いったんこ
  の様式が定着してしまうと、農村地域以外への黒人の移動を
  制限する「黒人取締法」もあり、また教育機会もろくに与え
  られなかったこともあって、それはますます強化されていっ
  たのである。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-travel-geography08.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

東理夫氏の本.jpg
東理夫氏の本
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2010年01月21日

●音楽から崩れ去った人種差別(EJ第2195号)

 1951年のことです。カンザス州トピーカというところで、
オリバー・ブラウンという黒人の溶接工が、ある小さな裁判を起
こしたのです。
 それはブラウンの自宅の近くの学校が白人専用であるため、娘
をバスで遠くの黒人学校に通わせなければならなかったのですが
これは不当であるとして訴えたのです。訴えた先は、トピーカ市
教育委員会です。
 プレッシー判決から既に50年経っていましたが、もちろん簡
単には決着がつかず、最高裁までもつれたのです。プレッシー判
決の違法性を内心感じていた当時の最高裁判事たちは、いずれも
裁決には逃げ腰だったのです。なぜなら、どのように判決を下し
ても世間の大きな批判を浴びることは必至だったからです。
 ところがここにアクシデントが起きるのです。最高裁判所長官
のフレッド・ウイルソンが心臓麻痺で急死してしまったのです。
そこで当時の大統領アイゼンハワーは、新最高裁判所長官として
アール・ウォレンという人物を任命したのです。
 アール・ウォレンは、ノルウェー系の米国人で、1891年に
カルフォルニアに生まれています。家は貧しく肉体労働で稼いだ
お金でカルフォルニア大学バークレー校を卒業し、その後、共和
党左派の政治家としてカルフォルニア州知事にまで上り詰めたの
です。当時最も勢いのあるカルフォルニア州を率いる大物知事と
して政治力を発揮したのです。
 しかし、この知事時代にアール・ウォレンはある失政をしてい
るのです。彼は1943年にカルフォルニア州知事になっている
のですが、当時は第2次世界大戦中だったのです。そのとき、カ
ルフォルニアに住む10万人を超える日系人から土地や建物を奪
い、収容所に送り込む命令の書類に積極的にサインしたのです。
 やがて彼はこれがとんでもない間違いであったことに気がつく
のですが、そのことによって生涯苦しむことになります。人種差
別はやってはならない――そう思い知ったときにアイゼンハワー
大統領から最高裁判所長官を命ぜられたのです。彼はこれが自ら
犯した罪を償うために神が与えてくれた試練として受け止め、最
高裁判所長官を引き受けたのです。
 アール・ウォレンは、アイゼンハワーが軍隊とホワイトハウス
以外は知らない超エリートであったのに対し、カルフォルニアと
いう土地を治める州知事という仕事をやったことで、庶民の生活
も黒人の生活もよく実態を掴んでいたのです。
 したがって、現在係争中の裁判が明らかにトピーカ市教育委員
会が違憲であることは、アール・ウォレンはよくわかっていたの
です。しかし、50年前のプレッシー判決のようにならないよう
にするのはどうすべきかを考えたのです。
 一番重要なことは、最高裁の判事全員が違憲判決に賛成し、そ
れがアメリカ合衆国の総意であることを示すことであると考えた
のです。そうしないと、プレッシー判決の二の舞になると思った
のです。
 そこで、アール・ウォレン長官は違憲判決反対の最高裁判事に
1人ずつ説得に乗り出したのです。彼は「法律は、 『この日この
時』と無縁であってはならない」と説き、時代は確実に変わって
いるのだということを反対する判事たちに訴えたのです。
 この異例ともいえる最高裁長官による説得を受けて、自分の在
任中はことを起こしたくないと考えていた判事たちは大きく心を
動かされたのです。
 こうして、米最高裁は1954年5月17日に次の判決を下し
たのです。これがブラウン判決なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 我々は、公共教育の場における「分離すれども平等」の原則は
 成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が
 本質的に不平等だからである。      ――ブラウン判決
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このブラウン判決がさらなる人種差別を助長すること
になるのです。南部出身の80%にわたる101名のアメリカ合
衆国連邦議員は、この判決を無効ならしめるあらゆる合法手段を
取るとする「南部宣言」を発表し、マッシブ・レジスタンス――
大規模な抵抗をするという意思表示までしたのです。
 南部の州議会は、人種共学を阻止する州法を次々と制定し、南
部の各地で人種統合を阻止する市民組織シティズンズ・カウンシ
ルが結成され、大規模な反対運動が巻き起こったのです。
 また、ブラウン判決が人種別教育廃止の実施時期と方法を明確
にしていないことを口実に分離教育を継続し、また、公立学校以
外の公共の場所、例えばレストランやトイレ、乗り物などの分離
を禁じていなかったことを利用してそういう分離を継続して残し
たのです。そして、どうしても黒人の入学を認めざるを得ないと
きは、州知事はその学校に閉鎖命令まで出したというのです。そ
して、そこに通っていた白人たちには私立学校に転校させている
のです。そこまでして人種共学に断固反対したのです。
 しかし、この米国南部のマッシブ・レジスタンスによっても止
められなかったものが音楽なのです。ブルース歌手でディスク・
ジョッキーのB・Bキングは次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人は、もしもラジオの電波にも人種間隔をおこなうこ
 とができれば、やったと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人もメンフィスの市当局も飛び交うラジオを黙らせる
ことはできなかったのです。街のレコード店では黒人の作品を含
めてあらゆる音楽を並べたのですが、誰もそれを阻止することは
できなかったのです。メンフィスのポプラ通りのレコード店「ポ
プラ・テューンズ」には、とくにあらゆるレコードが揃っており
あの2人のフィリップスも、エルヴィスもこの店の常連だったと
いわれています。このようにして、人種差別は音楽から崩壊して
いったのです。          ――[エルヴィス/07]


≪画像および関連情報≫
 ・アール・ウォーレン元米最高裁長官について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アール・ウォーレンは、カルフォルニア州地方検事および第
  30代カルフォルニア知事――1943年〜1953年、最
  高裁長官――1953年〜1969年まで務めた。彼の任期
  中のアメリカ合衆国では、人種差別、公民権運動、政教分離
  および警察逮捕手続き問題など様々な社会問題が憲法問題と
  して判断の対象となったが、ブラウン判決を始めとして、リ
  ベラルな判断を下すことにより20世紀後半以降のアメリカ
  の社会を法的アプローチによって根本的に変革することとな
  った。20世紀アメリカの法律家の中では最大の功労者とさ
  れる。               ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アール・ウォレン元米最高裁長官.jpg
アール・ウォレン元米最高裁長官
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2010年01月22日

●エルヴィスの舞台パフォーマンス(EJ第2196号)

 エルヴィスの最初のレコードがラジオで盛んに流されると、そ
れは南部各地の若者たちの間であっという間に広がって、大変な
騒ぎになったのです。そして、ミュージシャンを目指す多くの若
者がサム・フィリップスのスタジオに押しかけたのです。
 「ブルー・スエード・シューズ」で知られるカール・リー・パ
ーキンズもサムのところに駆けつけた一人です。その他にもジェ
リー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュ、バーバラ・ピット
マン、チャリー・リッチなどたくさんいたのです。
 1954年7月9日、「ザッツ・オール・ライト」の録音後は
じめて、最初のライブをやることになったのです。それは、スコ
ティ・ムーアとビル・ブラックが所属するバンド「スターライト
・ラングラード」の出演する「ベル・エア・クラブ」だったので
す。そのとき、エルヴィスの歌の伴奏は、当然ことながら、スコ
ティとビルが引き受けたのですが、彼らがエルヴィスの最初のバ
ック・バンドになるのです。
 それから、エルヴィスのレコードを聞き、WMPS局でディス
ク・ジョッキーをやっていたボブ・ニールが、エルヴィスのマネ
ージャーを買って出たのです。このボブ・ニールの最初の大仕事
が、7月30日にオーバートン・パーク・シェルで行われるコン
サートにエルヴィスを出演させることだったのです。
 そのときの話です。コンサートには大勢の人が集まったので、
エルヴィスは歌いながら不安になって身体が震え出して止まらな
くなってしまったのです。その震えを止めようとつま先で立った
ところ、今度は両足に震えがきて足がバタバタしたのです。
 その様子を見ていた観客の女性から歓声が上ったのです。観客
から見ると、エルヴィスが足を震わせながら歌うのが、とてもセ
クシーであり、それがエルヴィス特有のパフォーマンスであると
思ったからです。それ以来、エルヴィスは意識して足を震わせ、
腰を振りながら歌うのが彼のパフォーマンスとなったのです。今
までにそのようにして歌う歌手はいなかったので、この歌い方は
賛否両論を呼ぶことになります。
 エルヴィスの歌は多くの若者には諸手を上げて迎えられたので
すが、大人たちの反応はすこぶる芳しくなかったのです。彼の歌
をラジオで聴いた大人は「白人が黒人の歌を歌うとは何事か」と
いう非難を浴びせたのです。
 さらにエルヴィスの歌を実際に見た大人は、身体を震わせ腰を
振る歌い方を見て、さらに激しく非難したのです。「男のくせに
腰を振るとは・・・」といって嫌悪したのです。
 この舞台上のエルヴィスのパフォーマンスについて、作家で大
学教授のボビー・アン・メイソンは、エルヴィスに関する著書で
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは結局生まれながらの偉大なショーマンだった。舞
 台上ではのびのびとして、聴衆ともたやすく共感を作り上げ、
 彼らが何を欲し何を必要としているかを感覚的にとらえた。そ
 の確信があるために、彼はとっぴな動きもでき、その猥雑さが
 生な反応を引き起こした。初めの頃、彼はしばしば舞台上で無
 遠慮だった。きわどい冗談を言い、みだらな身振りをした。唾
 も吐いた。プロのショーマンシップのルールには気づかず、彼
 はティーンエージャーの反抗的エネルギーを田舎風の無邪気さ
 で、礼儀正しさもどこ吹く風と吹き飛ばし、大げさに振舞った
 のである。   ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 最初のオーバートン・パーク・シェルから10日後の8月10
日、第2回のオーバートン・パーク・シェルのコンサートが開か
れたのです。この日、エルヴィスは昼と夜の2度のステージを務
めたのです。
 昼のステージでエルヴィスは2曲――「オールド・シェップ」
と「ザッツ・ホェン・ユア・ハートエイクス・ビギン」というひ
どくおとなしい曲を歌っています。これを聴いていたサム・フィ
リップスは、エルヴィスはカントリー界でも通用するかもしれな
いと考えたのです。
 夜のステージは若いファンがいっぱいであり、昼のような生ぬ
るい曲を歌うのを許してくれなかったのです。彼らは「ザッツ・
オール・ライト」を聴きにきたからです。なかでもエルヴィス以
外には目に入らない多くの女性ファンは、エルヴィスの登場から
退場まで、その一挙手一投足に悲鳴を上げて、泣きわめき、そし
て歓声を上げたのです。現在のロック・コンサートと同じ光景が
そこに展開されたのです。
 エルヴィスの歌が、黒人音楽好きの少年少女に受けているのは
ラジオのディスク・ジョッキーのリクエストでわかっていたので
すが、当時の南部社会では、カントリー・アンド・ウェスタンの
大人のファンが多かったので、この面で気に入ってもらえなけれ
ば、大ヒットにつながらないのです。
 しかし、この第2回のオーバートン・パーク・シェルのコンサ
ートを聴いて、エルヴィスはどちらもいけるとサム・フィリップ
スは確信を強めたのです。このコンサートでエルヴィスはどちら
の歌でも受けていたからです。
 もうひとつエルヴィスの登場が米国の音楽界にとって幸いだっ
たことは、エルヴィスと同年代の若手のミュージシャンが一挙に
増えたことです。彼らは黒人歌手がどんなに人気を得てもけっし
て嫉妬しないのですが、白人の歌手の台頭には激しく対抗心を燃
やし、反応したからです。
 しかし、エルヴィスの人気は圧倒的であり、とくに彼の舞台パ
フォーマンスは天性のものがあって、他の追随を許さなかったの
です。そして、エルヴィスがカントリーの世界でもやっていける
とサムが睨んだ通り、エルヴィスのレコードがビルボードのロー
カル・チャートに顔を出してきたのです。これはいける――サム
は確信したのです。        ――[エルヴィス/08]


≪画像および関連情報≫
 ・ボビー・アン・メイソン氏の本
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カントリー&ウェスタン、リズム&ブルース、ロックン・ロ
  ールなどを融合させた新しいアメリカの大衆音楽を作り上げ
  抜群の歌唱力と独特の歌唱スタイルでスーパースターとなっ
  たプレスリー.ミュージック・シーンへの衝撃的登場と時代
  的熱狂から映画出演、歌手としての再生、晩年の生活と死に
  至るまでを共感的に描きだし、文化としてのプレスリーの意
  味を浮き彫りにする要を得た評伝。話題作を次々に発表し女
  性作家としていま注目を集める著者の意欲作。
               ――岩波書店ホームページより
  ―――――――――――――――――――――――――――

ボビー・アン・メイソンの本.jpg
ボビー・アン・メイソンの本
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2010年01月25日

●最初のレコードに隠された秘密(EJ第2197号)

 ここでもう一度話をエルヴィスの最初のレコード、サン・レコ
ードの「SUN209」に戻ってしてみる必要があります。この
レコードのA面とB面は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   A面/     「ザッツ・オール・ライト」
   B面/「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」
―――――――――――――――――――――――――――――
 疑問に思うのは、エルヴィスがサム・フィリップスやスコティ
・ムーアに何回か時間をかけて歌を聴いてもらっているのに、な
ぜか「ザッツ・オール・ライト」は歌っていないのです。彼はこ
の歌がとても好きで、なかなか上手に歌えるのにです。
 しかもこの曲はセッションの最後の最後、もう今日はお開きに
しようというときになって、はじめて飛び出したのです。B面の
「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」も最後の最後になって歌
われています。
 これはどうしたことでしょうか。単なる偶然でしょうか。それ
とも何か理由があってのことなのでしょうか。
 これに関して、既出の東理夫氏は、エルヴィスには二面性があ
るとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一人は恥ずかしがり屋で昔ながらのカントリー・ミュージック
 や信仰深いゴスペル音楽をこよなく愛しながらも、なかなかチ
 ャンスに恵まれない孤独な青年。もう一人は、黒人系の音楽、
 特にリズム・アンド・ブルースが好きで、彼らの歌を、白人が
 人前で歌うことをはばかられた時代に、チャンスがあれば、開
 けっぴろげに歌うふてぶてしい青年。そのどちらが真のエルヴ
 ィスなのだろうか。
 ――東理夫著、『エルヴィス・プレスリー/世界を変えた男』
                     文春新書/766
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスは、もともと黒人系の音楽が大好きだったのです。
そのため、黒人系の教会――イースト・トリッグ・パプティスト
・チャーチによく出かけていき、ゴスペルを聴いていたのですが
当時の社会ではそんなことをとてもあからさまにはできなかった
のです。だから、サムの前では歌わなかったのです。
 しかし、なかなかサムのOKが出ず、これはもしかすると採用
されないかも知れないという危機的状況に追い込まれて、だめも
とで最後の最後に「ザッツ・オール・ライト」歌ったのです。
 「ザッツ・オール・ライト」という曲は、曲全体を通じ、カン
トリー風のビートを持つ自由に飛び回るようなブルースでおり、
生き生きとした曲なのです。エルヴィスはもともとこういう曲は
得意なのですが、それはある意味においてエルヴィスの秘密の逃
げ場だったといえるのです。つまり、当時のエルヴィスは、白人
世界から落ちこぼれ、黒人世界に逃避していたといえるのです。
だから、なかなかサムの前では歌えなかったのです。
 「ザッツ・オール・ライト」は、黒人のブルースシンガー、ア
ーサー“ビックボーイ”クルーダップが書いて、1946年9月
に自らレコーディングしていますが、結局ヒットしなかった曲な
のです。エルヴィスは、その歌を白人の若者の好みに合わせて、
今風にアレンジしてカバーしたに過ぎないのですが、きわめて新
鮮に聞こえたのです。
 B面の曲である「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」はどう
だったのでしょうか。
 この曲は、ブルーグラス・ミュージックのビル・モンローのオ
リジナルで、ちょうどエルヴィスがサン・レコードからデビュー
する前後にラジオで盛んに流れていた曲なのです。この曲はビル
・モンローの高音の裏声――ハイ・ファルセット・ボイスで、少
しもの悲しく歌われるワルツなのです。
 ブルーグラス・ミュージックは、アコースティック音楽のジャ
ンルで、ギター、アコースティック・ベース、フィドル、マンド
リン、バンジョーで構成されるのです。「アコースティック」と
いうのは、電気的な増幅なしに演奏する楽器のことです。これを
定着させたのが、ビル・モンローなのです。
 「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」を歌い出したのは、ベ
ーシストのビル・ブラックです。彼は、エルヴィスの歌った「ザ
ッツ・オール・ライト」のリズムやテンポをそのままに、ビル・
モンローの哀調を帯びた裏声を真似して「ブルームーン・オブ・
ケンタッキー」を歌ったのです。これを聴いてエルヴィスとスコ
ティとサムは笑い転げたのです。
 実は当時のカントリー・アンド・ウェスタン・バンドの特徴は
コメディアンを抱えたショウ・バンドであり、そのコメディアン
役を引き受けるのはベーシストだったのです。ビル・ブラックは
ベーシストであり、彼が所属しているバンドでこのコメディアン
役をやっていたのです。
 ビルの後に続いてエルヴィスは4分の3拍子の「ブルームーン
・オブ・ケンタッキー」を裏声ではなく、普通の音域の歌として
4分の4拍子のリズムに乗せて歌い始めたのです。これはやさし
いことではないのですが、「ブルームーン・・・」と歌い出すと
ころを「アイ・セッド・ブルームーン・・」と歌詞を付け加えて
歌うことによって、4分の3の曲を4分の4で歌い出すときの不
安定さを解消しているのです。これは、エルヴィスがよくやるこ
となのですが、まさに天賦の才能が光ったといえます。
 そのときです。エルヴィスは「ザッツ・オール・ライト」と同
じフィーリングで歌い出したのです。次の瞬間、サムが次のよう
に叫んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    Hell、thst's fine!
    That's different! That's a pop song now!
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ――[エルヴィス/09]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・モンローとブルーグラスについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  伝説的なバンドのリーダーや、シンガー・ソングライター、
  さらには革新的な演奏者として、ビル・モンローが現在のカ
  ントリー音楽の発展に与えた影響の大きさは計り知れない。
  それは、マディ・ウォーターズとロックの関係に匹敵すると
  いえるだろう。36年にレコーディング活動を開始した彼は
  バンド・リーダーとして、革新的な演奏者を求めつづけた。
  バンドはマンドリンの速弾きで有名な彼を中心に、まるでジ
  ャズ・コンボのような演奏スタイルを確立していったのだ。
           ―― http://wacca.tv/a/artist_18536
  ―――――――――――――――――――――――――――

ビル・モンローとブルーグラス.jpg
ビル・モンローとブルーグラス
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2010年01月26日

●エルヴィスとゴスペルの関係(EJ第2198号)

 エルヴィスについてもうひとつ強調しておくべきことがありま
す。それはエルヴィスとゴスペルとの関係です。エルヴィスの音
楽とゴスペルとは切っても切れない関係にあるからです。
 ところで、ゴスペル・ミュージックとは何でしょうか。
 ゴスペルは一般的には宗教音楽全体を指すことが多いのですが
エルヴィス研究の第一人者である前田絢子氏は次のように定義し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 教会の正統的・伝統的な讃美歌以外の、新しく生まれた宗教歌
 で、ブラック・ゴスペルとホワイト・ゴスペルの2つの流れが
 ある。そして、何といってもゴスペルの主流はブラック・ゴス
 ペルである。               ――前田絢子氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスがゴスペルの魅力に取り憑かれたのは、実は母のグ
ラディスのせいなのです。グラディスはゴスペルの大ファンであ
り、家には78回転の「ゴスペル・コレクション」のSPがあっ
て、グラディスはいつもこれを聴いていたのです。したがって、
エルヴィスは小さいときからゴスペル漬けで育ったということに
なります。
 エルヴィスが19歳のときの話です。19歳といえば例のサン
・レコードとの契約の話があり、これについてはここまで詳しく
お話ししてきましたが、ひとつふれていないエピソードがあるの
で、これについて述べます。
 エルヴィスが19歳の頃、メンフィスに活動の拠点を置き、全
米で最も人気の高かった「ブラックウッド・ブラザーズ」という
ゴスペル・グループがあったのです。その2軍的存在に「ソング
フェローズ」というグループがあるのです。
 そのソングフェローズが、新しいメンバーを募集していたので
す。その情報を掴んだエルヴィスが早速オーディションを受けた
のですが、なぜか落ちてしまったのです。しかし、それから数ヵ
月後に、今度はソングフェローズの方からエルヴィスに誘いをか
けてきたのです。ところが、それはちょうどエルヴィスがサン・
レコードと契約を結んだ直後のことだったのです。
 後年エルヴィスは、「もし、誘われる順序が違っていたら、自
分の運命は変わっていた」と述懐しています。しかし、エルヴィ
スはその後もゴスペル仲間と交際を続け、後年のエルヴィスの大
型コンサートでは、ゴスペルはプログラムの定番になっていたこ
とはよく知られていることです。
 考えてみると、「SUN209」は、エルヴィスの相反するイ
メージのカップリングであるといえます。そのA面は、どちらか
というと不良っぽいイメージの「ザッツ・オール・ライト」、B
面はおとなしいイメージのカントリー・アンド・ウェスタンとい
うような相反する二面性があり、両方が絶妙なバランスをしてい
たといえるのです。
 さらにエルヴィスはゴスペルへの深い傾倒があり、それが彼の
歌うバラード調の歌の底辺にあると思うのです。このことに関連
して、もうひとつのエピソードをお話ししましょう。
 トーマス・アンドリュー・ドーシーという黒人がいます。彼は
ゴスペルの父といわれた人で、全米にゴスペルを普及して巡回し
た人です。ドーシーの元で育った歌手にゴスペルの女王といわれ
るあのマヘリア・ジャクソンがいます。そのドーシーの作品に次
の曲があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「ピース・イン・ザ・バーレイ/谷間の静けさ」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、ブラック・ゴスペルの代表的作品ですが、この曲には
エルヴィスにまつわるエピソードがあるのです。ドーシーは19
37年から14年間にわたって全米にゴスペルを宣伝普及してい
たので、彼は汽車に乗ることが多かったのです。
 あるとき汽車は両側に広がる農場を駆け抜けると、静かな谷間
にさしかかったのです。その谷間の不思議な静寂さに圧倒されて
しまったドーシーは、思わずペンを取り出してその情景を書き留
めたというのです。
 現在、自分は普及・巡回に非常に疲れているが、この谷間のよ
うに未来には平和がある――というような歌詞です。これは「現
在の苦悩と天国の幸福」という黒人霊歌に通じる思想と一致する
と、既出の前田絢子氏は指摘しています。
 実はエルヴィスはこの曲がとくに好きで、いつも口ずさんでい
たといいます。この曲は1951年にレッド・フォリーが歌って
カントリー・チャートで第7位につけた曲ですが、エルヴィスも
よく歌っているのです。
 そして、1957年1月6日にエド・サリヴァン・ショーに出
演したとき、エルヴィスはこの歌を歌ったのです。当時エルヴィ
スは、不良っぱいイメージで評判はあまり良くなかったのですが
この曲を歌うことで、その悪いイメージを完全に払拭してしまっ
たといわれます。政治的にやったのではないかともいわれていま
すが、エルヴィスにとってはこの歌唱の方が本物であり、3回目
の出演になったエド・サリヴァン・ショーではそれを証明してみ
せたということになります。
 この曲は多くの歌手によって歌われていますが、何といっても
圧巻なのはエルヴィスの歌唱であり、この曲を含めてエルヴィス
によるゴスペルを聴きたい人は次のCDをお勧めします。CDに
は、前田絢子氏の長文のライナーノーツが付いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ELVIS PRESLEY/ELVIS ULTIMATE GOSPEL
              ――BMGジャパン
―――――――――――――――――――――――――――――
 サム・フィリップスは、エルヴィスのこの二面性をよく見抜い
ており、エルヴィスをカントリー界の殿堂、グランド・オール・
オープリーに出そうするのです。  ――[エルヴィス/10]


≪画像および関連情報≫
 ・トーマス・A・ドーシーについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1899年にジョージア州ヴィラリカ生まれ。ゴスペルが生
  まれたのは19世紀後半頃だが、それまでの黒人霊歌やブル
  ース、また白人のカントリー&ウェスタンを融合してひとつ
  の姿となってあらわれたのは1930年頃と言われ、その創
  作者こそかつての売れっ子ブルース・シンガー、トミー・ド
  ーシーことトーマス・A・ドーシーである。彼の元で育った
  人にマヘリア・ジャクソンや、ロバート・マーティン、ジェ
  ームス・クリーヴランドなどがいるし、彼と共に賛美集会を
  催し、後進も育てていったマザー・スミスことウィリー・メ
  イ・フィールドなどもおり、彼らの働きによって黒人のバプ
  ティスト教会を中心に、ゴスペルは教会の音楽としても礼拝
  に欠かせないものとなっていった。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゴスペルを歌うエルヴィス.jpg
ゴスペルを歌うエルヴィス
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2010年01月27日

●人種差別を破壊したエルヴィスの音楽(EJ第2199号)

 後で述べることになりますが、実はサン・レコードとエルヴィ
スとの契約は、1954年7月から1955年11月までのごく
短い期間だったのです。
 しかし、その短い期間の間にサム・フィリップスは、無名のエ
ルヴィスを効果的に売り込み、大スターに仕立て上げたのです。
1954年10月2日、サムはエルヴィスを「グランド・オール
・オープリ」への出演を取り付けることに成功したのです。
 「グランド・オール・オープリ」というのは、正統的なカント
リー・ミュージックの伝統を誇るラジオ番組であり、それはカン
トリー・ミュージックの本場であるテネシー州のナッシュヴィル
のライマン公会堂から、全米に向けて放送される米国最大のカン
トリー・ショーだったのです。
 このライマン公会堂は、「カントリー・ミュージックのカーネ
ギー・ホール」と呼ばれており、ここに出演するのは、大変なこ
とだったのです。カントリー・ミュージックはもともと南西部の
田舎の民族音楽だったのですが、ラジオやレコードの普及によっ
て商品化され、ひとつのジャンルとしてのポジションを持ってい
たのです。
 グランド・オール・オープリは、それらを統括する権威の象徴
であり、その雰囲気は保守的で、権威主義的な傾向が強かったの
です。そこに斬新で自由なスタイルのエルヴィスの音楽をぶつけ
たのですから、それを聴いた聴衆が戸惑いと違和感を覚えたのは
当然のことであったと思います。その反応はいまいちであり、ど
ちらかというと、冷淡だったといえます。
 しかし、サムはエルヴィスの歌はカントリー・ミュージックに
通ずるものがあると確信していたのです。その仕掛けとして、サ
ムは、グランド・オール・オープリに出演したすぐ後、エルヴィ
スを「ルイジアナ・ヘイライド」も出演させたのです。
 「ルイジアナ・ヘイライド」はルイジアナ州シュリーヴポート
にグランド・オール・オープリに対抗して誕生した新しいカント
リー・ショーであり、こちらの方はエルヴィスのような新しいサ
ウンドを待っていたので、熱狂的にエルヴィスを歓迎し、大成功
を収めたのです。そして、果たせるかなグランド・オール・オー
プリもカントリー・ミュージックはエルヴィスの音楽の影響を受
けて変貌・発展を遂げていくことになるのです。
 このカントリー・ミュージックの最高峰であるグランド・オー
ル・オープリと、もうひとつの新しいカントリー・ミュージック
の拠点であるルイジアナ・ヘイライドの両方に相次いで出演した
ことによって、エルヴィスの音楽の南部制覇は完璧なものになっ
たのです。
 この頃から若者たちの反応は手のほどこしようのないほど熱狂
的になっていったのです。エルヴィスの人気は南部全体に広がり
ビルボード・チャートにもエルヴィスのレコードは頻繁に顔を出
すようになっていったのです。
 このように南部各地で開かれたエルヴィスのコンサートでは、
黒人も白人もなく、一体となって参加し、音楽とダンスの祭典と
化したのです。この事態に困ったのは警察当局です。
 エルヴィスに限らず、ロックンロールコンサートでは、コンサ
ート会場は一応きちんと人種隔離が行われていたのですが、興奮
してくると、若者たちは人種別の仕切りを取り払い、白人も黒人
も一緒になって踊るようになったのです。警察当局は必死になっ
て取り締ったのですが、どうしようもなかったといいます。
 遂に警察当局は、トラブルの危険があるとして、人種別にコン
サートを行うよう命令を出したのですが、やがてなし崩しになっ
ていくことなります。ロックンロールの持つ人種統合への潜在的
な力が爆発したからです。音楽の力が根強い人種差別の厚い壁を
少しずつ破壊していったのです。
 既出の前田絢子氏は、次のような印象的な文章で表現していま
す。エルヴィスの音楽をこのように位置づけている考え方に新鮮
さを覚えます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスはロックンロールを「発明」したわけではなかった
 かも知れない。なぜなら、歴史的文脈で見れば、いずれロック
 ンロールとなるはずの音楽的・文化的要素は、エルヴィスが登
 場する前から動き出していたからである。しかし、その「危険
 な音」を南部全体で新しい文化として爆発させ、やがて世界現
 象にしたのはまぎれもなくエルヴィスであった。型破りな才能
 と途方もない黒人文化への理解と包容力によって、エルヴィス
 は音楽を両人種間の新しいコミュニケーション手段に変容させ
 たのである。隔離されつづけた両人種に、思いがけない密な接
 触の機会を与えることで、南部社会に人種的な中立、寛容、や
 がては受容を促す環境を作り出したのだった。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、黒人の音楽R&Bを歌う白人の歌手は多くいたのです。
いくつか名前を上げると、ペリー・コモ、フランク・シナトラ、
パットブーンなどですが、いずれもR&Bを白人向けのソフトな
ポップスとして歌っていて、白人らしさを売り物にし、白人向け
のアレンジをしていたのです。
 しかし、エルヴィスは黒人らしさを強調し、それを売り物にし
ている点が違うのです。これは当時の白人歌手ではあり得ない革
命であり、それは音楽の世界だけではなく、南部社会全体を変貌
させる大きなパワーとなって爆発したのです。
 このようにしてエルヴィスは南部全体を征服し、その活動範囲
は急激に拡大したのです。そのため地方レーベルに過ぎないサン
・レコードの手に負えない状況になっていったのです。
 しかし、エルヴィスの才能を見抜き、最初のレコードを出すや
次々と手を打って、エルヴィスをスターダムに押し上げたサムの
プロデュースは見事の一言に尽きます。―[エルヴィス/11]


≪画像および関連情報≫
 ・カントリー・ミュージックとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カントリー・ミュージックと聞くと、一般的には西部開拓や
  カウボーイを連想する人も多いが、それはあくまでも、ハリ
  ウッドのの映画産業やブロードウェイ・ミュージカルなどが
  作り上げた西部劇の影響であり、元々はそれほど深い関係で
  はなかった。また、それらの劇中で演奏される曲もクラシッ
  ク音楽の作曲家が民謡などをベースに作った映画・舞台音楽
  がほとんどで、厳密に言うとカントリー・ミュージックとい
  うジャンルにも当てはまらない場合が多い。むしろ後にカン
  トリー・ミュージシャンの方がそのイメージに肖り、西部劇
  やカウボーイ風の演出を取り入れる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

サン・レコード時代のエルヴィス.jpg
サン・レコード時代のエルヴィス
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2010年01月28日

●パーカー大佐とは何者か(EJ第2200号)

 1955年11月21日のことです。エルヴィスは、サン・レ
コードからニューヨークに拠点を持つ世界的レーベル、RCAビ
クターに移籍したのです。移籍料は当時としては3万5000ド
ルという破格なものだったといわれます。
 このRCAビクター移籍を実現させた立役者は、トーマス・ア
ンドリュー・パーカーという人物――この男は、パーカー大佐と
呼ばれており、生涯エルヴィスにつきまとうことになるのです。
 なぜ、パーカー大佐と呼ばれるかですが、パーカーというのは
彼の本名ではないのです。大佐というのは敬称であり、自分を偉
そうに見せるための肩書きとして使っていたに過ぎないのです。
 彼はどこの国の市民権も持たないオランダ人亡命者であり、本
名は、アンドレアス・コーネリス・ファン・クーイクというので
すが、このアイデンティテイは既に捨てていたのです。
 彼は米国にやってきて国籍を取得する目的で軍隊に入り、19
29年〜1932年まで、第64沿岸砲兵部隊で任務に従事し、
米国の国籍を取得しています。パーカーという名前はそのときの
上官の名前をそのままパクッタのです。
 彼は国籍を取ると、早速ビジネスを始めます。最初はサーカス
とカーニバルの世界に入り、辣腕を発揮して、巡業団を立ち上げ
興行師として成功しています。第2次世界大戦後は、カントリー
歌手のマネジメントに乗り換えて、エディ・アーノルドやハンク
・スノーを大物スターに育て上げています。そのマネジメント能
力は優れており、その業界では有名な存在だったのです。
 そして、パーカー大佐は、1954年から1955年にかけて
彗星のごとく出現したエルヴィスに目をつけたのです。「これは
良い商売になる」と考えたわけです。そして、エルヴィスに近づ
き、エルヴィスと当時マネジャーをしていたボブ・ニールに、大
きな仕事をとってプロモートし、もっと有名にしてやるといい、
そのための契約をしようと迫ったのです。
 当時、エルヴィスには仕事の話が多く舞い込み、その活動範囲
が拡大して、サム・フィリップスのサン・レコードではとうてい
捌き切れない状況になっていたのです。
 パーカー大佐はサン・レコードのそういう状況を見て積極的に
動き、エルヴィスをサン・レコードから、RCAビクターに移籍
させたのです。地方レーベルからメジャー・レーベルへの移籍で
あり、エルヴィスの価値が大きく上がったことは確かです。
 しかし、そのとき、パーカー大佐がエルヴィス側に突き付けた
契約条件はエルヴィス側にとってきわめて不利なものだったので
すが、エルヴィスの両親はその条件を受け入れています。この間
の事情について、前田絢子氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスのキャリアの最後までマネジメントを独占したパー
 カー大佐の評価は二つに割れる。エルヴィスを食い物にしつづ
 けた貪欲な商人とするものと、エルヴィスを大スターに仕立て
 た有能なマネジャーというものだ。パーカー大佐の取り分が、
 最初の契約では収益の25%だったものが、1967年の契約
 更改では50%という異常な数字に跳ね上がっている事実を併
 せ考えれば、その両方が正しかったということになる。
             ――前田絢子著/角川選書/413
      『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィスについて語るに当たって、パーカー大佐という大物
マネージャーにふれないことは困難です。なぜなら、エルヴィス
の1955年のRCAビクター移籍以来、エルヴィスの行動はほ
とんどパーカー大佐によってコントロールされていたといっても
過言ではないからです。
 ひとつ例を上げましょう。エルヴィスはあれほどの大スターに
なったにもかかわらず、なぜ日本にきていないのでしょうか。そ
れどころか、エルヴィスがショーを行ったのは、米国以外ではカ
ナダだけなのです。
 どうしてなのでしょうか。本当のところは闇ですが、パーカー
大佐がエルヴィスの海外公演を許さなかったというのが本当の理
由ではないかと思われます。
 ある説によると、パーカー大佐はオランダ人で不法滞在をして
いて、いったん米国から出たら、再び米国へは帰れなくなるから
ではないのかという話があるのです。しかし、パーカー大佐は米
国国籍を持っており、別に米国から出ても帰れなくなることはな
いと思うからです。
 しかし、エルヴィスが42歳の若さで死んだこととパーカー大
佐の存在は無関係ではないと考えるのです。これについてはやが
て明らかにしていくつもりです。
 さて、パーカー大佐はどういう風貌をしていたのでしょうか。
添付ファイルには、おそらくパーカー大佐と思われる人物の写真
を付けていますが、既出のボビー・アン・メイソンによるパーカ
ー大佐についての記述をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼は禿げかかった肥満男で、歩くというよりは、よたよたする
 と常に評される男だった。奇妙な帽子をかぶり、だらしない衣
 装を身につけ、葉巻を吸った。彼は人前でもシャツ姿だった。
 騒々しく愛想がよく、文字通り口の端で、奇妙な言語障害にも
 見える話し方をした。実際のところそれは彼のオランダなまり
 の名残だったが、誰も彼がオランダ人とは知らなかった。
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 エルヴィス側がパーカー大佐と結んだ契約は、ボビー・アン・
メイソンによれば、「年季奉公」の契約書のようなものだったの
です。それなのに、どうしてエルヴィスはこの契約を受け入れた
のかについては、エルヴィスサイドのいろいろな事情が存在して
いたのです。           ――[エルヴィス/12]


≪画像および関連情報≫
 ・サム・フィリップスのエルヴィスへの思い/2003年没
  ―――――――――――――――――――――――――――
  むろん、ジミー・ロジャーズやハンク・ウィリアムズも悪く
  はないだろう。……知ってのとおり、私は大のロジャーズ・
  ファンだ。……ハウリン・ウルフほど深いところまで、食い
  こんではこないにしても。ただ、ウルフを筆頭とする偉大な
  ブルース・シンガーたちからは、もうとにかく絶対的に真実
  で、南部の人間たちが、白人、黒人を問わず経験してきた暮
  らしにとことん密着した何かが感じ取れる。そういう一番基
  本的なもろもろを思い出させてくれる男の魂が死ぬなんてこ
  とは、絶対にありえないんだ、そうだろう?その手のことは
  買ってきた本で覚えられるようなもんじゃない。現場に居合
  わせなきゃ駄目だ。私もたぶん解かってると思う。それはい
  つまでも心の中にある。絶対に忘れない。絶対に忘れられな
  い。              ――サム・フィリップス
   ――http://homepage3.nifty.com/cross-may/impre48.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

「パーカー大佐」.jpg
「パーカー大佐」
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2010年01月29日

●パーカー大佐のマルチメディア戦略(EJ第2201号)

 パーカー大佐は、エルヴィスに対し、もし一流になりたいので
あれば、サン・レコードのような三流レーベルでは駄目であると
説いたといいます。
 これは本当の話であり、当のサン・レコードのサム・フィリッ
プスもそう考えていたのです。彼はエルヴィスのレコードを相応
にプロデュースすることも、売り出すこともできないことをよく
知っていたのです。己の実力をよくわきまえていたといえます。
 サムはパーカー大佐は嫌いでしたが、メジャー・レーベルのR
CAビクターが動いたと知ると、サムはエルヴィスを全米のエル
ヴィス、世界のエルヴィスにするにはパーカー大佐にまかせるし
かないと考えたのです。サムはパーカー大佐のマネジメントの実
力は認めていたのです。
 それにRCAビクターが提示してきた移籍金3万5000ドル
という当時としては途方もない金額もサムにとって必要であった
のです。したがって、サム・フィリップスは、自分が発見したも
のを手離すことに何の後悔もないといっていたのです。
 現代の人から考えると、いかに相手が大物マネージャーである
ことがわかっていても、あまりにも不平等な契約であれば断れば
いいと思うでしょう。しかし、エルヴィスの両親は不平等である
ことを十分承知のうえパーカー大佐の要求を受け入れているので
す。契約の当事者はもちろんエルヴィス本人ですが、エルヴィス
が未成年者であるためパーカー大佐は両親と交渉したのです。
 エルヴィスの父親のヴァーノンは当時トラックの運転手をして
いたのですが、そういう社会階層の人間は、権威すなわち高い階
層の人間への従属が求められていたのです。人種差別が色濃く残
っていた時代ですから、白人といえども階級意識は非常にはっき
りしていたのです。
 エルヴィスの両親は、自分たちの置かれているポジションをよ
く心得ており、パーカー大佐が口が達者で腕は確かであるが、詐
欺師同然のタイプの人間であることをよく承知していながら、彼
にエルヴィスのマネジメントを任せたのです。それは当時として
はきわめて分別ある判断であったといえるのです。彼らは自分た
ちにはできない能力を持っているパーカー大佐にすべてを賭けて
みようと考えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プレスリー一家がガイドが必要なのを知っていた。彼らと同じ
 ような種類の人間で、銀行家、弁護士、会社重役など、ひとり
 として信用できない人々の間を巧みに動き回れる人間が、おそ
 らくプレスリー一家は大物たちに挑戦できる詐欺師を見出した
 自分たちを幸運だと考えた。大物は彼らを単に踏み潰すだろう
 ということを知っていたからだ。それが彼らの人生の現実だっ
 た。      ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、エルヴィスが100万ドルを稼ぎ、その半分を大佐が取
り分としてとったとしても、50万ドルはエルヴィス側に入るの
です。毎日トラックを運転して週に37ドルを稼いでいるヴァー
ノンにとって途方もない金額だったのです。もともと仕事をとっ
てくるのは大佐であるのだから、半分やってもいいとヴァーノン
とグラディス(エルヴィスの両親)は考えていたのです。だから
こそ、大佐と長い間うまくやっていけたのです。
 1955年11月21日にサン・レコードからRCAビクター
への移籍契約がすべて終わった翌日、エルヴィスはパーカー大佐
に次のような電報を打っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大佐殿、僕と家族があなたのしてくださったことにどんなに感
 謝しているか言葉では決して言い表せません。僕はずっと思っ
 ていましたが、そして今では僕の両親も確信していますが、あ
 なたこそ僕がともに仕事をすることを望みうる最高の、もっと
 もすばらしい人物です。僕は終始変わらずにあなたに、忠実で
 す。そしてあなたの僕に対する信頼に応えるためにできること
 はすべてします。そのことを信じてください。もう一度、御礼
 を言います。そしてあなたを父のように愛していると申し上げ
 ます。              エルヴィス・プレスリー
         ――ボビー・アン・メイソン著/外岡尚美訳
        『エルヴィス・プレスリー』より。岩波書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 パーカー大佐は、マルチメディアを重視しようとする当時とし
ては非常に珍しいマネージャーであったのです。それまではレコ
ードとラジオが中心であったのですが、それに映画とその頃から
普及がはじまっていたテレビを活用しようという考え方を持って
おり、それに向けて積極的に運動をはじめたのです。
 1956年1月27日にエルヴィスは、RCAビクター移籍後
はじめて次のシングルを出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     Heartbreak Hotel / I Was the One
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ハート・ブレイク・ホテル」――このあまりにも有名な曲は
その後登場した数多くのミュージシャンに多大な影響を与えたの
です。R&Bでもないし、カントリーでもない。それにピアノも
加わってモダンさが出ている。曲は暗く陰鬱であり、最初は伴奏
もなく、全編ほとんどアカベラに近い。ここまでのエルヴィスの
スタイルとは明らかに違うのです。
 しかし、エルヴィスのこの第6弾シングルは、4月にはチャー
トの第1位に達したのです。さらに、「ハート・ブレイク・ホテ
ル」発表の次の日の1月28日、エルヴィスはCBS−TV「ト
ミー・ドーシー・ステージ・ショウ」に出演して、黒人R&Bを
歌っています。パーカー大佐の仕掛けによって初のテレビ出演で
す。しかし、TVではじめてエルヴィスを見た視聴者はさまざま
な反応を示したのです。      ――[エルヴィス/13]


≪画像および関連情報≫
 ・「ハート・ブレイク・ホテル」の歌詞/1番
  ―――――――――――――――――――――――――――
  彼女が俺を捨ててから
  新しい溜まり場を見つけた
  淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
  俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
  淋しくて死にそうだ
  いつも混んでいるけれど
  座るところなら見つかるぜ
  傷ついた恋人たちが
  自分の悲しみを嘆く場所
  淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
  みな淋しくて死にそうだ
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ハート・ブレイク・ホテル」.jpg
「ハート・ブレイク・ホテル」
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