2009年12月01日

●インターネットに出遅れたマイクロソフト(EJ第1705号)

 インターネット誕生・発展においてきわめて近くにいながら、
少なくともその主役ではなかったもうひとつの巨大企業とはマイ
クロソフト社のことです。
 このようにいうと意外に思われるかもしれませんが、マイクロ
ソフト社は1990年代の前半においては、インターネットには
あまり関心を持っていなかったことは確かです。
 1994年11月1日の夕刻のことです。私は海外出張で、米
国のラスベガスで開催されていた「コムデックス」――PC関係
の展示会の会場におり、おりしも舞台ではビル・ゲイツCEOが
基調講演をやっていたのです。演題は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      Information At Your Fingertips 2005
       ――指先で情報を/2005年――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、今年が2005年なのです。講演と短い映画を
見せられた記憶があるのですが、今ひとつピンとこなかったこと
を今でも覚えています。インターネットのことはほとんど語られ
ていなかったことは確かです。
 脇英世教授によると、当時ビル・ゲイツの考え方はきわめて保
守的であり、インターネットのような新興技術よりもむしろ既存
技術を活用すべきであると考えていたというのです。
 そして、コムデックスでビル・ゲイツが講演をした翌日、マイ
クロソフト社は、オンライン・サービスのMSN(ザ・マイクロ
ソフト・ネットワーク)を発表しています。これは、インターネ
ットではなく、日本流にいうと、パソコン通信の会社なのです。
MSNをまかされたのは、ラッセル・シーゲルマンという人物で
す。彼はインターネットを軽視しており、結果としてこれがマイ
クロソフト社のインターネット対応の遅れを大きくすることにつ
ながるのです。
 なぜ、このこの時期にパソコン通信会社なのでしょうか。IT
に少し進んだユーザなら、1992年の時点でインターネットの
影響力はわかっていたはずです。しかし、そのときのビル・ゲイ
ツのアタマにはAOL(アメリカ・オンライン)を追撃すること
しかなかったのではないかと思われます。
 脇英世教授の話によると、ビル・ゲイツは当時次のような話を
好んでするクセがあったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 インターネットはゴールド・ラッシュである。ゴールド・ラッ
 シュで一攫千金を掴んだ人はほとんどいない。本当に儲けたの
 は、そのために、全米から集まった人たちに対して食料などの
 生活必需品を売った人たちである。    ――ビル・ゲイツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ビル・ゲイツはインターネットはゴールド・ラッシュ
のようなものであると考えていて、そのようなものにあわてて手
を出すべきではないといっていたのです。
 J・アラードという人物がいます。1991年9月1日にマイ
クロソフト社に入社し、当時マイクロソフト社が苦手としていた
TCP/IPの担当をしているのです。
 このJ・アラードとMSNのラッセル・シーゲルマンの間にプ
ロトコルをめぐる激しい論争があったのです。アラードはTCP
/IPを使うことを主張したのに対し、シーゲルマンはマイクロ
ソフト独自のプロトコルの採用を主張したのです。今から考える
と、不毛の論争です。
 とにかく当時のマイクロソフト社では、通信に関しては無知な
人が多く、TCP/IPのことを「TCピップ」と呼んだ幹部が
いるほどなのです。「TCピップ」――TC PICと呼んだわ
けですが、素人ならともかく、マイクロソフト社がそれをいうの
は非常に恥ずかしいことなのです。どこかの国の宰相が「IT」
を「イット」と呼んだよりもお粗末といえるでしょう。
 しかし、MSNの発表直後にビル・ゲイツはそれが失敗であっ
たことに気がついていたのです。そして、幹部社員に次の内容の
メモを送るのです。このメモはマイクロソフト社では「社外秘」
扱いのメモであり、外部の人が読むことは不可能なのですが、同
社の独占禁止法訴訟の一環で証拠文書として公開されたので、内
容が判明したのです。脇英世教授の翻訳で、その最後の部分の一
部をご紹介することにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今や私はインターネットに最高度の重要性を割り当てる。この
 メモにおいて私は、インターネットへのわれわれの力の集中が
 われわれのビジネスのあらゆる部分において決定的に重要だと
 ということを明らかにしたいと思う。インターネットは198
 1年に導入されたIBM PC以来、最も重要な単一の開発目
 標である。(中略)われわれがこれらの挑戦や機会に取り組む
 次の数年は非常にエキサイティングなものになるだろう。イン
 ターネットは満ちてきた潮である。それは信じられないような
 挑戦であると同時に信じられないような機会である。私はわれ
 われの信じられないような成功の軌跡を続けるためにどのよう
 にわれわれの戦略を改善するかについて諸君の答を期待してい
 る。―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは明らかに方針転換です。マイクロソフト社のこの方針転
換で、壮絶なブラウザ戦争が勃発するのです。先行のネットスケ
ープ社のブラウザに対するマイクロソフト社のインターネット・
エクスプローラの逆襲です。
 1998年11月、ライバルのネットスケープ社は、AOLに
42億ドルで買収されたのです。これでネットスケープ社は消え
てブラウザ戦争はマイクロソフトの勝利に終わったのです。この
ブラウザ戦争の詳細は、次のインターネット特集に譲りたいと考
えています。  ・・・[インターネットの歴史 Part1/45]


≪画像および関連情報≫
 ・コムデックス
  毎年アメリカで春と秋の2回開催される世界最大規模のコン
  ピュータ展示会。春季の展示会をコムデックス・スプリング
  秋季の展示会をコムデックス・フォールとと呼び、前者は例
  年ジョージア州アトランタで、後者は例年ネバダ州ラスベガ
  スで開かれる。1995年にソフトバンクが、コムデックス
  の運営会社のイベント事業部門を買収し、傘下に収めた。


ラスベガス.jpg
ラスベガス
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2009年12月02日

●インターネットができるまで/まとめ(EJ第1706号)

 『インターネットの歴史 Part1』は今回が最終回です。
 世界中の多くの人がコンピュータでネットにつながる現代情報
社会――誰がこのような便利なシステムを開発したのか。この謎
を46回にわたって追求してきました。
 長い話でしたので、簡単にまとめておきましょう。
 最初は、高価な1台のコンピュータを多数の人で同時に使える
ようにする時分割処理システムの開発からはじまったのです。こ
の時分割処理システムの開発を推進し実現させたのは、米国防総
省のIPTO部長として辣腕を振るったJ・C・R・リックライ
ダーです。
 やがて、その時分割処理システム上でそれを使っている人々同
士でメッセージのやり取りができるようになる――これが電子メ
ールのはじまりと考えらます。
 続いて、そういう時分割処理システム上で使っている大型コン
ピュータ同士を繋ぐという困難な試みへの挑戦がはじまります。
しかし、異なるハードウェアを持つコンピュータ同士をどうやっ
て繋ぐのか――こういう難問に突き当たってしまいます。
 この難問を解いたのは、ウェスレイ・クラークです。同じ仕様
のIMP(インプ)というミニコンを制作し、それによるサブ・
ネットワークを介して異なる仕様の大型コンピュータ同士を接続
する――この場合、大型コンピュータとIMPの間の通信、IM
P同士の通信という2つの通信が必要になります。こうして完成
したのが、ARPAネットです。
 1970年6月にゼロックス社はパロアルト研究所――PAR
Cを設立し、そのときIPTO部長を辞めていたロバート・テイ
ラーは、PARCに移ります。このときから、まるで水を得た魚
のように、テイラーの大活躍がはじまるのです。
 「もし、テイラーなかりせば・・」――現代の情報社会の基礎
を構成する基幹技術の数々は、本当に開発されていたのかどうか
わからないと思うのです。ロバート・テイラーはそれほどの活躍
をした人なのです。
 やがて、1973年、バトラー・ランプソン、チャールズ・サ
ッカー、それにアラン・ケイが企画に加わって、画期的な小型コ
ンピュータ「アルト」を作り上げます。当時日本ではコンピュー
タといえば、大型コンピュータと相場が決まっていたのですが、
その時点で現代のPCに通じる小型コンピュータ/アルトが既に
完成していたのです。
 このPARC内のアルトを繋いで「アルト・システム」という
ネットワークを作ったのは、ロバート・メトカフとデビット・ボ
ッグスです。このネットワークは「イーサネット」と命名され、
やがて、イーサネットはLAN(ローカル・エリア・ネットワー
ク)と呼ばれるようになります。
 続いて、アルト・システムはARPAネットと接続され、全米
のコンピュータと自由にプログラムやデータを交換できるように
なります。これによって、はじめてネットワークらしいネットワ
ークが誕生したことになります。
 しかし、ARPAネットはあくまで軍事用のネットワークであ
り、それを利用できる人は一部に限られています。そのため19
83年にARPAネットから軍事部分がMILNETとして分離
されます。これを契機にして、各地の大学や研究所の時分割処理
システムのネットワーク同士を結ぶ試みがはじまるのです。
 そして、1986年、NSF(全米科学財団)が援助して設置
した全米5ヶ所のスーパー・コンピュータを結んだネットワーク
が発足し、それはNSFネットと命名されます。NSFネットに
は、TCP/IPというプロトコルが採用されます。
 この時点で、ARPAネットのノード(拠点コンピュータ)は
拡大しており、それを結ぶネットワークは、米国を背骨のように
貫くバックボーン・ネットワークを形成して、基幹ネットワーク
として機能するようになります。
 NSFネットをバックボーンとして、TCP/IPで結ばれた
地域ネットワークとその下のキャンパス・ネットワークという3
層から成るネットワークが形成されていきます。これが後にイン
ターネットと呼ばれるようになります。そして、1989年、A
RPAネットは役割を終えて廃止されます。
 さて、ARPAネットからは軍事部分が分離され、残りはNS
Fネットに引き継がれたのですが、そのすべてが民間が使えるわ
けではなかったのです。それは、あくまで学術・研究関係の専用
ネットワークであり、民間全般が自由に使えるものではなかった
のです。まして、ビジネスとしてネットワークを使うことはでき
なかったのです。
 その不満から全米各地で草の根ネットワークが誕生していきま
す。代表格はCSネットです。それに加えて、IBMのコンピュ
ータのユーザー同士のネットワークであるBITネットというの
があります。さらに、UNIXのUUCPを使ったUSEネット
というネットワークもあります。
 結果として、NSPネットはそれらのネットワークをすべて束
ねるのですが、ネットワークの多くは、NSFネットに接続しな
いで、TCP/IPパケットを交換する通信を行うようになって
いき、NSFネットは1995年に廃止されるのです。
 1995年というと、ウインドウズ95が発売され、インター
ネットが急拡大をはじめる年です。その頃からはっきりと「イン
ターネット」と言葉が使われるようになってきているのです。
 明日から「インターネットの歴史 Part2」を掲載いたしますの
でご期待ください。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/46]


≪画像および関連情報≫
 ・喜多千草氏の本のまえがきより――
  アルト・システムは・・・・最初期のクライアント・サーバ
  ・システムを実現し、他社のコンピュータ・ネットワークと
  の接続や、時分割処理システムの広域ネットワークであるA
  RPAネットとの接続のための、階層的なプロトコルを備え
  ていた。つまり、アルト・システムは、インターネット時代
  のパーソナル・コンピュータのひな形だったのである。
   ――喜多千草著『起源のインターネット』より。青土社刊

喜多千草氏と脇 英世氏.jpg
 
喜多千草氏と脇 英世氏
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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