2009年11月02日

●IMP−クラークのアイデア(EJ第1686号)

 1967年4月のことです。ロバート・テイラーとラリー・ロ
バーツは、ミシガン大学で行われたある会合に出席しています。
IPTOの主要な研究者を招いて、ネットワークの実験について
討論をするためです。この席には、あのウェスリー・クラークも
出席していたのです。
 この研究会でロバーツは、コンピュータ・ネットワークを構築
するため、電話回線を使ってタイムシェアリングのコンピュータ
を直接つなぐ実験を行いたいと冒頭に述べたのです。しかし、こ
の席でロバーツの案は、猛烈な反対にあいます。
 なぜなら、ロバーツの案では、この実験に参加することになる
機関のホストコンピュータは、これまでの処理に加えて通信の処
理もしなければならなくなり、コンピュータの処理の負荷が大き
くなるからです。当時としては、高価な大型コンピュータの能力
を余計なことに割きたくない――そういう思いが各研究者にあっ
たことは確かです。
 それに加えて、ハードウェアもOSも全く異なるコンピュータ
同士をどのようにしてつなぐのかという技術的な難問に対して、
誰も答えられなかったのです。かくして、テイラーのコンピュー
タ間ネットワークの構想は崩れ去ろうとしていたのです。しかし
会合の間、クラークは一言も発しなかったのです。
 悲惨な結果に終わった会合の後、ミシガン大学からテイラーと
ロバーツが車で飛行場に行こうとすると、クラークも車に乗り込
んできたのです。そして、飛行場に向う車の中で、クラークは次
のようにアドバイスしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コンピュータを直接つなぐのではなく、どうして各サイトにあ
 る小さなコンピュータを使わないのか。
                 ――ウェスリー・クラーク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、クラークは、メモにある図を書いてロバーツに渡した
のです。そこには、小型コンピュータを使ってホストを接続する
システムが書いてあったのです。
 添付ファイルをごらんください。ホスト1、ホスト2、ホスト
3のそれぞれにIMPという名前の小型コンピュータを用意し、
それを介して3台のホストをつなぐというアイデアです。つまり
内側に同一のコンピュータから成るサブ・ネットワークをつくる
というものです。
 この小型コンピュータであるIMPは、「インプ」と呼ぶので
すが、IMPは次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    IMP = Interface Message Processor
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このクラークのアイデアは、まさにARPAネットの基礎を築
く重要な発明になるのです。そして、このIMPというマシンが
後に「ルータ」と呼ばれるようになるのです。
 クラークの意図を理解したロバーツは「これを実現できるエン
ジニアを知っているか」とクラークに尋ねると、彼は「フランク
・ハート」と答えているのです。このフランク・ハートこそルー
タの開発者なのです。
 クラークのお陰でARPAネットのヒントを掴んだロバーツは
精力的にIMPの仕様を固めるために全力を注いでいます。ロバ
ーツはSRI(スタンフォード研究所)に支援を頼んで、毎週レ
ポートを受け取っています。
 さらに、ドナルド・デイビス、ポール・バラン、ウェスレイ・
クラーク、レン・クレインロックなど、考えられる限りの優れた
技術者の力も借りて、1968年7月、ラリー・ロバーツはIM
Pの仕様を決定します。そして、IMPの制作会社を公募する運
びになったのです。
 公募には結局20数社が応募してきたのです。中にはハネウェ
ル、レイセオン、IBMなどの巨大メーカの名前もあったのです
が、この仕事は名もないBBNが受注したのです。
 無名のBBNがなぜ仕事を取れたのか――これについては、推
測ですが、この仕事を担う総括技術者にフランク・ハートとウェ
スレイ・クラークの名前があったからではないかと思われます。
BBN社の出してきた担当技術者の名前をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 総括 ・・・・・・・・ フランク・ハート     40歳
 ハードウェア担当 ・・ セベロ・オルンステイン  38歳
          ・・ ウェスレイ・クラーク   42歳
 ソフトウェア担当 ・・ ウィル・クローサー    33歳
          ・・ デイビット・ウォルデン  27歳
 理論担当 ・・・・・・ ロバート・カーン     31歳
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、最大の功労者ともいうべきウェスレイ・クラー
クが役不足な感じがします。セベロ・オルンステインはかつての
クラークの部下ですし、総括のフランク・ハートにしてもクラー
クよりも年下です。どうやらクラークは、LINCに燃え尽きて
しまったようなのです。それはさておき、ウェスレイ・クラーク
が、インターネットの最大の功労者の一人であることは間違いの
ないことです。
 ARPAネット実験には次の4つの研究機関が指定され、19
69年9月を納入期とするIMP制作は急ピッチで進められ、同
年12月までにすべてIMPは納入されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.UCLA ・・・・・・・・・・・・・ 8月30日
  2.SRI ・・・・・・・・・・・・・ 10月 1日
  3.UCサンタバーバラ ・・・・・・・ 11月 1日
  4.ユタ州立大学 ・・・・・・・・・・ 12月10日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ・・・[インターネットの歴史 Part1/26]


≪画像および関連情報≫
 ・ルーターとは何か
  ルータは、コンピュータ・ネットワークにおいて異なるネッ
  トワーク間の中継・接続を行う通信機器である。

ホストとIMP.jpg
ホストとIMP
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2009年11月04日

●電子メールが好評のARPAネット(EJ第1687号)

 ホストとホストの通信をIMP(インプ)を介してつなぐとい
うウェスレイ・クラークのアイデアは実現されようとしていたの
です。この場合、通信は次の2つに分かれることになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ホストとIMPの間の通信 ・・   シンクロナス
               ――大学・研究機関の責任
 2.IMPとIMPの間の通信 ・・ アンシンクロナス
               ――開発会社BBNの責任
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在では、ホストとルータの通信とルータとルータの通信は同
じです。そういう意味では、厳密には「IMP=ルータ」とはい
えないのかもしれません。
 さて、UCLA、SRI、UCサンタバーバラ、そしてユタ大
学の4つの拠点にはIMPが搬入され、それぞれのホスト・コン
ピュータと接続、さらにそれが専用電話回線で結ばれて、最初の
ARPAネットが構築されたのです。
 ARPAネットによる通信は、本当にうまくいったのでしょう
か。最初にIMPが持ち込まれたUCLAでのデータの送受信の
模様を残されている資料を基にしてご紹介しましょう。
 1969年8月31日、UCLAには関係者が集まり、IMP
とUCLAのホスト・コンピュータSDSシグマ7の間でビット
・データが転送されたのです。しかし、専用電話回線上で実際に
データが転送されたのは、10月29日、ロサンゼルスのUCL
AとシリコンバレーのSRI(スタンフォード研究所)の間での
ことです。
 UCLAからSRIに「LOGON(ログオン)」というデー
タを送ろうとしたのです。最初に送られたのは「L」という文字
であり、続いて「O」という文字――これらが間違いなく、送ら
れていることは電話で確認しています。
 しかし、その時点でシステムダウンしてしまったのです。後で
判明したところによれば、SRI側のマシンのバグが原因なので
す。速やかにバクは取り除かれ、その日の午後にはUCLAから
SRIにログインが可能になっています。
 モールス信号の開発者、サミュエル・モールスが1844年に
電信で最初に送ったメッセージは「なんぞ神は造りたまいき」、
1876年にグラハム・ベルが、最初に電話に送ったメッセージ
は「ワトソン君、こっちにきてくれ。君に会いたい」――これに
対して、1969年にUCLAがARPAネットで最初に送った
メッセージは「LO」であったのです。
 かくして、ARPAネットは、ハード面については完成したこ
とになります。これからは、ソフトウェアやアルゴリズムの問題
になってくるので、研究開発の中心は東海岸のMITから西海岸
のUCLAに移ってくることになります。
 ここで、ARPAネットのアイデアを考えたテイラーとそれを
実現させたロバーツの考え方の差に注目する必要があります。
 ラリー・ロバーツは、テイラーの開発構想をARPAネットの
初期計画として次のようにまとめています。これを「技術的アジ
ェンダ」といいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.負荷共有 ・・・・・・・・・・・・・ 負荷の平均化
 2.メッセージサービス ・・・・・ 電子メールサービス
 3.データ共有 ・・ データベースへのリモートアクセス
 4.プログラム共有 ・・ データやプログラムを遠隔地に
 5.遠隔アクセス ・・ 遠隔地のコンピュータにログイン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロバーツとしては、IPTOの創始者であるリックライダー、
そして自分を引き抜いてくれたテイラーの意向を無視して、技術
的アジェンダをまとめるわけにはいかなかった事情をこの5項目
は示していると思います。
 この技術的アジェンダを見ると、リックライダーの考えていた
リソース共有ネットワークの機能は3、4、5にあらわれていま
すし、コミュニティの形成に重点を置いていたテイラーの考え方
は2の電子メールサービスに取り入れられています。
 しかし、ロバーツはメッセージ・サービスについては次のよう
にいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 教育や会議などにはよいかもしれないが、科学目的のコンピュ
 ータ・ネットワークにとっては重要ではない。
                   ――ラリー・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、結果としてARPAネットで一番よく使われたのは電
子メール・サービスだったのです。当時の学者としては、高価な
コンピュータを電子メールのようなものに使うことに大きな抵抗
があったのです。
 1968年、ロバート・テイラーは、リックライダーと共同執
筆で、次の論文を発表しています。この本は現在のコンピュータ
の使われ方を的確に示していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 J・C・R・リックライダー/ロバート・テイラー共同執筆
     『コミュニケーション装置としてのコンピュータ』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文の中でテイラーは、ネットワークでコンピュータを使
う人々のつながりを「オンラインで双方向のやりとりをするコミ
ュニティ」と名付け、その未来像について「そのうち同じ興味を
持つ人々が同じ部屋にいてさえも、コンピュータのネットワーク
を介して、一緒に仕事をしていくようになる」と書いています。
 コンピュータがネットワークを介して情報装置として機能する
ことで、地理的制限をとりはらった知的なコミュニティの出現を
うながすという予測をしているわけですが、この予測は見事に的
中することになったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/27]


≪画像および関連情報≫
 ・『コミュニケーション装置としてのコンピュータ』発表時の
  著者紹介写真。リックライダーとテイラーがコンピュータを
  使っていかにも通信をしているように見えるが、この時点で
  通信はつながっていなかったのである。
  左側:リックライダー/右側:テイラー

リックライダーとテイラー.jpg
リックライダーとテイラー
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2009年11月05日

●IMPとルータとの違いは何か(EJ第1688号)

 「インターネットの歴史」をテーマにして、これまで27回に
わたって書いてきました。そして、やっとARPAネットが4拠
点でスタートするところまできました。しかし、この話はまだま
だ終らず、これからがむしろ本番であり、面白くなります。
 このテーマは単なるITのテーマではなく、インターネットの
誕生のドラマを通じて現代の米国を知り、米国を理解するための
助けとなると思うので、そういう観点で読んでいただけたらと考
えて、さらにこのシリーズを続けることにします。
 IMP(インプ)の話が出てきていますが、これについてもう
少し述べることにします。そもそもIMPとは何をするマシンな
のでしょうか。
 通信をするさい、ホスト・コンピュータ(以下、ホスト)は通
信相手を指定してIMPにデータを送ります。IMPはそのデー
タを小さく区切り、宛先情報の入ったヘッダーを付けてパケット
化します。そして、IMPはヘッダーの宛先を頼りに通信相手の
ホストにつながっているIMPにパケットを運ぶのです。
 この場合、ホストはそれぞれ異なる仕様なのですが、IMPは
同一仕様なのです。したがって、IMPとIMPの間の通信プロ
グラムは共通のハードを共通のソフトで制御する一種類のプログ
ラムで済んだのです。
 しかし、ホストとIMPの間の通信は当然のことながらホスト
ごとに異なってくることになります。しかし、ホストプログラム
は次の2つに階層化されます。ホストのアプリケーションとIM
Pとのやり取りを担うホストプログラムを分けたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.アプリケーション ・・・ ファイルの転送/遠隔操作
 2.ホストプログラム ・・・ IMPとのデータの入出力
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このパケット交換の基礎技術は、その後登場するルータに引き
継がれるのですが、IMPをいきなりルータと同一視することに
は問題があります。というのは、現在のルータにあってIMPに
ないのは、異なる仕様のネットワークを相互接続する機能である
からです。
 この異なる仕様のネットワークを相互接続する機能は「ゲート
ウェイ」というマシンに受け継がれ、ここでいうIMPの機能は
「TCP/IP」(ティー・シー・ピー・アイ・ピー)という有
名な通信プロトコルに発展していくのです。
 IMPの基本的な機能には次の3つがあります。これは、ホス
トが、つねに正しいデータを受け取るという前提のもとにIMP
というミニコンがデータの送受信、エラーチェックを専用のハー
ドウェアが担うというものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.パケットの分解・再編
       2.受信確認・データ送信
       3.あて先への送信・受信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1974年に、ARPAにいてロバーツの部下であるロバート
(ボブ)・カーンとスタンフォード大学の助教授をしていたビン
トン・サーフは、ある学術誌に共同で論文を発表します。
 彼らは、無線など非常に雑音などが多く、通信に困難な環境で
もきちんとパケットを送受信させるにはどうするかという現実的
な研究をしており、論文はその研究成果をまとめたのです。
 論文の内容は、IMPの3つの機能をソフトウェア化し、コン
ピュータに実装することによって、エラー訂正などの機能をホス
トにやらせるという画期的な技術だったのです。先端技術という
ものは、当初ハードウェアで実現したことを技術の進化によって
後からソフトウェア化する――そういう流れになるのです。
 そのソフトウェアの名前は「TCP」――しかし、これは現在
のTCPではなく、TCP/IPの全機能をTCPと呼んだので
す。さらに1978年になって、「TCP」と「IP」は分離し
宛先に確実にデータを届ける機能として「IP」を独立させてい
るのです。IPプロトコルの誕生です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪TCP≫
       1.パケットの分解・再編
       2.受信確認・データ送信
       ≪IP≫
       3.あて先への送信・受信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでARPAについて述べておかなければならないことがあ
ります。それはARPAがときどき名称を変えていることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1958年 2月 7日 ・・・  ARPA
   1972年 3月23日 ・・・ DARPA
   1993年 2月22日 ・・・  ARPA
   1996年 2月10日 ・・・ DARPA
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAは1958年に設立されたことは既に述べましたが、
1972年に「DARPA」と名称を変更しているのです。DA
RPAとは次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 DARPA=Defense Advanced Research Projects Agency
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまで述べてきたように、もともと軍事目的の先端技術を開
発するのが目的なのに自由にやっているので、わざわざ「防衛の
ための」という言葉を先頭に付けたのです。しかし、93年にク
リントン大統領は再びARPAに戻したのですが、96年になっ
て、また、DARPAとなって、現在に至っています。しかし、
当のARPAの住人は名前には頓着せず、自由に研究を続けてい
るといわれます。・・・[インターネットの歴史 part1/28]


画像および関連情報≫
 ・ルータ関連の歴史
  ――――――――――――――――――――――――――
  1973 ・・・ ARPAネット初の国際間接続が成功
  1974 ・・・ 「TCP」がIEEEの学術誌に発表
  1976 ・・・ BBN、初のTCP実装ルータを開発
  1977 ・・・ TCPによる異なるネットワーク接続
  1981 ・・・ TCPがTCP/IPに分離して独立
  ――――――――――――――――――――――――――

ARPAネットで使われたIMP.jpg
ARPAネットで使われたIMP
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2009年11月06日

●ゼロックス社とパロアルト研究所(EJ第1689号)

 ARPAのIPTO部長といえば、何百万ドルという援助を気
前よく配る存在です。その部長室は、国防総省のDリングに位置
して非常に大きく、豪華な絨毯が敷き詰められ、大きな机、がっ
しりとしたオーク材の会議用テーブル、ガラスの扉のついた立派
な本棚、それから快適な革張りの応接セットなどの調度品で飾り
立てられている豪奢な部屋なのです。
 しかし、IPTO部長の給料は非常に低いのです。ロバーツな
どは外に出かけるときは、オンボロのレンタカーを使っていたと
いうのです。したがって、高給が保証されているMITの教授や
助教授などのポストを捨てて、その職につくのは、相当の奉仕精
神がないとできないことなのです。
 ロバート・テイラーは、実質的に1965年からIPTO部長
の仕事をしていたのですが、1967年にホワイトハウスからあ
る命令を受けるのです。その命令とは、ベトナム戦争に関する米
国の陸海軍および海兵隊からなる四軍の報告があまりにもでたら
めなので、実態を調査し、そういうことがないようにせよという
ものだったのです。
 命令はマクナマラ国防長官からのものと思われますが、どうし
てこのような命令が、軍事のための先端技術を研究するIPTO
に下ったかということです。おそらく他に持って行きようのない
問題だったからではないかと思われるのです。
 このマクナマラという人物は、ケネディ政権のリンドン・ジョ
ンソン副大統領が「フォードから来た髪の毛を統計数字のように
整理した男」といったように、何事も数量化し、秩序立てて判断
するという統計学の権化のような人だったのです。彼は、自分の
仕事はデータの解析と理解であり、データの提供は軍部にまかせ
ればよいと考えていたのです。
 しかし、軍事情報は作戦参謀によって再編集され、嘘で塗り固
められたものが国防総省に上がってきたのです。その結果、米四
軍からの報告をそのまま信ずると、ベトナム人民軍の戦死者は北
ベトナムの総人口を上回ってしまうという結果を招いたのです。
そういうわけで、実態調査命令がIPTO部長のロバート・テイ
ラーに下ってきたというわけです。
 テイラーは、早速ベトナム視察に行くのですが、現地軍から猛
烈な抵抗にあいます。そのため自分が一つ星の准将待遇であるこ
とをまるで水戸黄門の印籠のようにいちいち誇示しなければなら
なかったほどなのです。
 抵抗にあいながらテイラーは、ベトナム視察を繰り返していく
うちにこの戦争が民主主義を守るための正義の戦争であるという
信念が揺らいできたといっています。そして、何のために誰が読
むのかわからない嘘で塗り固められた報告書が恣意的に生産され
国防総省に報告されていた事実を掴んだのです。
 そこでテイラーはARPAネットがスタートし、拡大していく
のを見届けることなく、ARPAを去ってユタ大学に行き、19
69年の暮れから教鞭をとることになります。
 ちょうどその1969年に、ゼロックス社の3代目の社長であ
るピーター・マッカローは、コンピュータ分野への進出を考えて
おり、買収すべきターゲットのコンピュータ会社を物色していた
のです。当初はDEC社をターゲットにしていたのですが、うま
くいかなかったのです。
 1969年2月にSDS(サイエンティフィック・データ・シ
ステムズ)を9億2000万ドルで買収したのです。この金額は
当時としては膨大であり、さしものゼロックス社も新株を350
万株を発行してやっと買収したのです。そして、SDS社はXD
Sとなったのです。
 この買収時点のゼロックス社の研究所の統括責任者は、ジャッ
ク・ゴールドマンだったのです。ゴールドマンは、フォード社か
ら移ってきたばかりの物理学畑の学者でしたが、ゼロックス社の
技術者は「守りの研究」をしていると批判していたのです。
 ゴールドマンは、SDSを買収した日と同じ日付で、マッカロ
ー社長に対して、「新しい先端科学・システム研究所の提案」と
題する21ページに及ぶ提案書を提出しています。そこに書かれ
ていた提案は、次の3つにまとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.既存のゼロックス社研究所群は従来通り、複写機関連技術
   に関わることにする。
 2.新研究所は既存の製品に関わる守りの研究は一切行わず、
   最新の研究に徹する。
 3.新研究所には、コンピュータやシステムに重点を置く3つ
   の部門が必要である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでいう「守りの研究」とは、既存製品――ゼロックスであ
れば複写機に関連する技術を中心に研究する姿勢をいうのです。
3つの部門とは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.システム科学研究室 ・・・ ゼロックス他部門連携
 2.コンピュータ応用研究室 ・ データ・マネジメント
 3.基礎科学研究室 ・・・・・ 一流の学者を集め研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゴールドマンは、最初に親友のジョージ・ペイクを新研究所の
責任者にすることを決めて、それから研究所の場所探しをやった
のです。ゼロックス社の既存の研究所に近い東海岸はあえて避け
て、カルフォルニアのパロアルトに場所を決定します。そして、
1970年6月に「パロアルト研究所」として発足したのです。
 ジョージ・ペイクは、セント・ルイスのワシントン大学の物理
学教授をしていたのですが、この学校はあのウェスレイ・クラー
クのいた大学なのです。しかし、所長を引き受けるさい、ペイク
の念頭にあったのは、ユタ大学にいたロバート・テイラーだった
のです。そして、ペイクは、テイラーに対して、執拗な説得をは
じめたのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/29]


≪画像および関連情報≫
 ・パロアルト研究所/Palo Alto Research Center――parc
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パロアルト研究所はアメリカ合衆国にある研究施設。複写機
  大手の米ゼロックス社が1970年にカルフォルニア・パロ
  アルトに開設する。アーキテクチャー・オブ・インフォーメ
  ーションの創出を目標にしたのである。コンピューター科学
  方面での影響力が大きく、スモールトーク、GUI、マウス
  イーサネット、レーザープリンタなどの発明が行われた。開
  放的な気風であったといわれる。
  出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

パロアルト研究所.jpg
パロアルト研究所
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2009年11月09日

●パロアルト研究所の胴元方式(EJ第1690号)

 パロアルト研究所長ペイクと同研究所システム科学研究室長の
ガニングが、ユタ大学にロバート・テイラーを訪ねたのは、19
70年の夏の頃だったのです。
 彼らはテイラーにパロアルト研究所に来てくれないかと説得し
たのですが、テイラーはパロアルト研究所がXDS(ゼロックス
・データ・システムズ)と深い協力関係があるという話を聞いて
研究所行きに難色を示したといわれます。
 というのは、テイラーは、過去にXDSの前身であるSDS社
長のパレフスキーと確執があったからです。テイラーがARPA
のIPTO部長のときの話です。
 IPTOが援助していたカルフォルニア大学バークレー校のプ
ロジェクトで、SDS社製のコンピュータ「SDS930」上で
時分割処理ができるプログラム(OS)を開発し、成功したので
す。このSDS930というコンピュータは、バッチ処理用のコ
ンピュータであり、時分割処理ができなかったのです。
 そこでテイラーは、SDS社長のパレフスキーをARPAに呼
んで、この時分割処理用のOSを載せた機種を開発してはどうか
というアドバイスをしたのです。ちなみに、そのOSはARPA
の助成による公共の成果であったので、そのOSを使うことには
お金がかからなかったのです。
 しかし、パレフスキーは頭が固く、時分割処理の価値を認めよ
うとしないので、激しい口論となり、交渉は決裂――最後はテイ
ラーが激高して、「出ていけ!」とパレフスキーを部屋の外に追
い出してしまったのです。
 その後、テイラーは時分割処理のOSを搭載したSDSのコン
ピュータを求めているクライアントをSDS側に複数並べて見せ
ることによって、SDSの次機種SDS940にそのOSは搭載
されたのです。しかし、XDSには依然としてパレフスキーが社
長として残っており、テイラーはそんな奴とは一緒にやりたくな
いと考えて、パロアルト行きを渋ったものと思われます。
 しかし、テイラーがXDSに対して不快感を抱いているという
ことを承知したうえで、ペイクはあえてテイラーにパロアルト研
究所入りを要請したのです。そこで、テイラーは、1970年9
月にパロアルト研究所のコンピュータ科学研究室に所属し、研究
者を集める仕事に就くことになったのです。しかし、テイラーの
XDS嫌いは後でいろいろな確執を生むことになります。
 さらにテイラーに関してはもうひとつ問題があったのです。そ
れは、テイラーが博士号を持っておらず、修士号も人文系のもの
であったため、ゼロックス社の社内規約上、コンピュータ科学研
究室の最高責任者に任ずることはできず、副責任者とするしかな
かったことです。
 そこでペイクは、コンピュータ科学研究室の最高責任者にBB
N社に所属していたジェローム・エルカインドを持ってくること
によって、テイラーが実質上の最高責任者として機能できるよう
に配慮したのです。エルカインドならばテイラーとうまくやって
いけると考えたからです。
 しかし、ペイクの気遣いは無用だったといえます。テイラーは
そうした組織上の必要性を自分に有利な条件に変容させる能力に
優れていたのです。それは、コンピュータ研究室にとって対外的
および社内調整などの雑務をすべてエルカインドにまかせ、自分
は副責任者として研究管理に特化することにしたからです。
 ここからテイラーの獅子奮迅の活躍が始まるのです。テイラー
がパロアルト研究所に集めてきた人材は、ARPAネットでつな
がれたコミュニティの中で、すこぶる評判の良い若手の研究者ば
かりだったのです。
 何しろ、普通の研究者であれば、苦吟しながらやっと一行を書
くような難しいプログラミングを、まるで機関銃を撃つようにタ
イピングする者が多くおり、プログラムをいかに短くエレガント
に書くかが競われていたからです。それはまさにハッカーの殿堂
そのものだったといえます。
 テイラーは、こうした若手の研究者に能力を発揮させる優れた
リーダーシップを持っていたのです。システムの若手の研究者た
ちにとってテイラーは、彼がARPAのIPTO部長をしていた
こともあって、その名は知られており、テイラーのチームに入れ
るならと、自らパロアルト研究所入りを志願する若手の研究者も
多かったのです。
 テイラーの率いるコンピュータ科学研究室の会議は、テイラー
によって「胴元方式」と名づけられ、大変有名になったのです。
ここで「胴元」とは、ゲームのルールについて宣言し、そのゲー
ムを仕切る人のことをいいます。どういう会議であったか、喜多
千草氏の本から紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会議では、発表者が胴元で、議事の進め方については自分
 の好きなように設定できるようになっていた。この胴元の比喩
 は活発な会議を促すためには効果的だったといえよう。なぜな
 ら、大勢のゲームの参加者は、胴元を打ち破らないかぎり儲か
 らないため、皆胴元を負かそうとするのが普通だからである。
 こうして、発表されたアイデアに対して、学問的・技術的に陳
 腐なものは容赦なく退けられ、甘い予測は痛烈に批判されると
 いった切磋琢磨が生まれた。つまり、率直なピア・レビューが
 おこなわれたのである。テイラーは、行き過ぎた攻撃や脱線に
 ついてのみ軌道修正しつつ、この合意形成の様子から、研究の
 採るべき方向性を探ることができた。
  ――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしたパロアルト研究所の開放的な風土から、現代のPCの
原型といういうべき個人用の小型コンピュータが生まれ、同時に
インターネットが育っていったといえるのです。パロアルト研究
所――それは当時、現代のIT環境につながる未来の扉だったと
いってよいと思います。  
        ・・・[インターネットの歴史 Patr1/30]


≪画像および関連情報≫
 ・パロアルト研究所の討議方式
  ロバート・テイラーによって開発されたパロアルト研究所の
  討議方式を継承したものと思われる討議方式が、米国のIT
  業界の会議にいくつか残っている。その1つが本シリーズの
  第1回でご紹介したIETFミーティングである。次のアド
  レスをクリックして、「江端さんのひとりごと」をぜひ一読
  していただきたい。
  ―――――――――――――――――――――――――――
      http://www.ff.iij4u.or.jp/~ebata/ietf.txt
  ―――――――――――――――――――――――――――

カルフォルニア大学/バークレー校.jpg
カルフォルニア大学/バークレー校
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2009年11月10日

●若き天才/ランプソンと・サッカー(EJ第1691号)

 ロバート・テイラーがパロアルト研究所(以下、PARC)に
移って、事実上コンピュータ科学研究室をまかされることになっ
たとき、当然のことながら、コンピュータをはじめとする数々の
研究設備を整えることが必要になったのです。最大の問題は、ど
のようなコンピュータを導入するかにあったのです。
 テイラーは、ゴールドマンやペイクからは高い評価を得ていた
ものの、ゼロックスの上層部からは博士号を持っていないという
理由だけで冷ややかに見られていたのです。とくにXDSのハレ
フスキーとは犬猿の仲であることは既に述べました。
 そのような状況において、テイラーと当時コンピュータ科学研
究室にいた研究者たちが選定したコンピュータは、DEC社のコ
ンピュータ「PDP−10」だったのです。
 このPDP−10はその設計の優秀さから全米の大学が好んで
採用しており、ソフトウェアを互いに交換するためにはPARC
も同じコンピュータを持つ必要があったのです。ところが、PA
RCがPDP−10を導入することは絶対にできない事情があっ
たのです。なぜかというと、ゼロックス社にとってDEC社はラ
イバル会社であり、敵対関係にあったからです。
 実はゼロックス社傘下のXDS社製のコンピュータは、どんど
んDEC社のPDP−10に乗り換えられており、ゼロックス社
の幹部はDEC社を最大の敵として神経を尖らせていたのです。
そのようなときにテイラーは平然とPDP−10をコンピュータ
科学研究室用のコンピュータとして申請したのです。
 当然のことながら、これにはゼロックス本社経営幹部は激高し
て直ちに却下されてしまったのです。そこでテイラーは一計を案
じます。それは、DEC社のPDP−10に限りなく近いマシン
をコンピュータ科学研究室のスタッフで作ってしまうということ
だったのです。
 実際にテイラーの研究室は、ありとあらゆる新技術を総動員し
て、PDP−10に限りなく近いが、本物より高性能なコンピュ
ータ/MAXC(マルチプル・アクセス・ゼロックス・コンピュ
ータ)を作ってしまったのです。どうしてこのようなことができ
たのでしょうか。
 それは、テイラーの研究室にコンピュータ製作のプロが大勢い
たからです。実はBCC(バークレー・コンピュータ・コーポレ
ーション)という会社が1970年11月に倒産し、そこにいた
優秀なエンジニアがテイラーの研究室に移籍してきていたからで
す。中心人物として、次の2人の研究者がいたのです。この2人
の名前は覚えておいてください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          バトラー・ランプソン
          チャールズ・サッカー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 BCCは、カルフォルニア大学バークレー校で、ARPAの助
成を受けて時分割処理システム(OS)を作っていたメンバーが
中心となって1968年に設立されています。しかし、経営能力
には欠けていたらしく、1970年11月に倒産してしまったの
です。ちょうど同じ年の9月にテイラーがPARCに着任してい
たので、テイラーが動いてBCCのメンバーを受け入れたという
わけです。
 ついでに述べておくと、このBCCで唯一制作したコンピュー
タがあるのです。「バークレー500」と命名されたのですが、
これもテイラーが動いて、これをARPAに買い上げさせていま
す。後にこのバークレー500はハワイ大学に貸与され、後で述
べる「ALOHAネット」を生み出すことになるのです。
 さて、バトラー・ランプソンは、当時全米の学界でも名前を知
られるほどの若手の研究者でしたが、早口で有名だったといわれ
ます。提案者が少しでも矛盾したことをいうと、機関銃のような
早口で相手をねじふせたといいます。
 チャールズ・サッカーも非常に優秀な若手研究者で、彼は相手
を論破するとき、「ふん、そんなのがうまくいくなら、ブタが空
を飛ぶよ!」というのがクセだったといわれます。しかし、その
判断は的確であり、ランプソンの盟友だったのです。
 コンピュータ科学研究室に新しい研究者を入れるとき、集団で
面接し、議論したといわれます。ここの研究者たちとどの程度議
論できるかによって採否を決めていたのです。そういう集団討議
の場では、ランプソンとサッカーは際立っており、自然に研究室
のリーダー格になっていたのです。
 テイラーの優れていたところは、研究室には中間的な階級構造
を作らず、困ったことがあればすべてテイラーに相談する仕組み
になっていたのです。テイラーはその役割を熱心に行っており、
若い研究者たちにとって、テイラーはこの組織になくてはならな
い存在として尊敬を集めていたのです。
 当時パロアルト研究所の顧問をしていたアレン・ニューウェル
がコンピュータ科学研究室でプログラミングについて講演をやっ
たことがあります。ニューウェルといえば、コンピュータ科学分
野では著名なカーネギー工科大学(後にカーネギー・メロン大学
と改称)の教授だったのです。
 しかし、講演の内容について数多くの質問や提案が飛び出し、
ニューウェルが立ち往生してしまうということがあったのです。
テイラーの研究室のメンバーは、ランプソンやサッカーのように
頭の回転が速く、はっきりとした物言いをする研究者が多く、過
去の業績や権威などにはとらわれず、否定的な意見を述べるとき
は完膚なきまでにけなすことで知られていたのです。
 テイラーの作り出したこういう自由な雰囲気に対してもゼロッ
クス社の経営幹部は眉をひそめていたといわれます。しかし、パ
ロアルト研究所が世界的名声を勝ち取れたのは、こうした若き研
究者たちの後の輝かしい業績であり、そういう優秀な研究者を集
め、のびのびと研究をさせたロバート・テイラーの力があっての
ことなのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/31]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・ゲイツとPDP−10
  19歳でハーバード大学を飛び出し,1975年にマイクロ
  ソフト社を設立。36歳で米国長者番付第1位の史上最年少
  記録を作ることになる天才ハッカー、ビル・ゲイツを育てた
  のはDEC社のミニコン「PDP−10」であったといわれ
  ている。
 ・PDP−10は第2世代の36ビットコンピュータであるが
  世界初の商業用タイムシェアリングシステムとして成功して
  いる。

DEC/PDP−10.jpg
DEC/PDP−10
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2009年11月11日

●PCの原型/ALTO完成(EJ第1692号)

 昨日ご紹介したDEC社のPDP−10に限りなく似て、それ
を上回る機能を持つコンピュータ「MAXC」――これはCをサ
イレントにして「マックス」と呼ぶのです。
 これは、SDS社をゼロックス社に高値で売りつけて億万長者
になったマックス・パレフスキー(XDS社の社長)を揶揄して
「マックス」と呼んだのです。MAXCを制作したのは、テイラ
ーのチームであり、テイラーと仲が悪かったパレフスキーをから
かったというわけです。しかし、この揶揄がパレフスキー本人に
通じているかどうかは定かではないそうです。
 さて、ロバート・テイラーがPARC(パロアルト研究所)に
連れてきた研究者はかなりの人数になります。その中で、とりわ
け現在のインターネット環境づくりに重要な貢献をしたと考えら
れる人物を上げると、次の4人になると思います。これら4人の
関係について記述していきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.バトラー・ランプソン
        2.チャールズ・サッカー
        3.アラン・ケイ
        4.ロバート・メトカフ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アラン・ケイ――1968年当時、彼はユタ大学の大学院生で
あり、イワン・サザーランドの弟子の一人だったのです。そのと
き、同じユタ大学にいたテイラーとは当然面識があり、テイラー
によってPARCに引っ張られたのです。
 アラン・ケイは、PARCに入社する前から「ダイナブック講
想」という画期的なコンピュータのアイデアを持っており、これ
を実現するため、テイラーの誘いに乗ってPARCに入社したの
です。彼はPARCではシステム科学研究室に属していたのです
が、テイラーの率いるコンピュータ科学研究室のディスカッショ
ンにはよく参加していたのです。
 1972年9月のこと、ランプソンとサッカーは、アラン・ケ
イの部屋を訪ねたのです。彼ら2人はアラン・ケイに次のように
尋ねたのです。これは今でも語られる有名な話なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「予算をお持ちではありませんか」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対してケイは「持っている」と答えると、ランプソンと
サッカーは「そのお金であなた用の小さなコンピュータを作らせ
ていただけませんか」と頼んだというのです。
 もともとアラン・ケイは小型コンピュータには関心があり、彼
らがあまりにも真剣なので、現在考えている自分の仕事をあきら
めて、予算の23万ドルを彼らのために提供したのです。このア
ラン・ケイの決断が伝説的な名器「ALTO/アルト」を誕生さ
せることになるのです。
 ALTOの設計は、次のような分担で行われたと記録に残って
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  主設計者 ・・・・・・・・・ チャールズ・サッカー
  副設計者 ・・・・・・・・ エドワード・マクレイト
  監  修 ・・・・・・・・・ バトラー・ランプソン
  総  括 ・・・・・・・・・・・・・ アラン・ケイ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ランプソンとサッカーはアラン・ケイに「3ヶ月で作る」と宣
言したのですが、さすがに3ヶ月では無理で、約6ヶ月をかけて
ALTOは1973年4月に完成したのです。
 添付ファイルにALTOの写真を載せていますが、本体部分は
かなり大きいものの、現代のPCに近いものになっています。そ
れでは、ALTOはどのようなコンピュータなのでしょうか。
 脇英世氏の本から、ALTOがどのようなコンピュータである
かをご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ALTOは8.5インチ×11インチのモノクロのビットマッ
 プ・ディスプレイが採用された。このビットマップ・ディスプ
 レイによってGUIが可能になり、さらにビットマップ・ディ
 スプイとレーザー・プリンタがイーサネットによって結合され
 ることにより、WYSIWYGが可能になった。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かなり、専門用語が入っているので、簡単に説明します。ディ
スプレイは縦型で、ウインドウズのようなグラフィカル・ユーザ
・インタフェース(GUI)を装備しています。脇氏の説明には
ありませんが、キーボードとマウスという現在と同じ入力装置が
ついています。
 WYSIWYG――ウィジウィグというのは、ディスプレイの
画面で見たままが印刷されるという意味であり、WYSIWYG
は次の英文の頭文字をひろったものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       What You See Is What You Get.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。まさしく現代のPCの原型とでもいうべきもの
が1973年には米国では完成していたことになります。しかし
ゼロックス社の首脳はALTOを商品として販売せず、2000
台も生産しながら、PARC内部で使われただけで、終わってし
まったのです。これは同社の経営幹部の責任といえます。
 ALTOがどんなに素晴らしいコンピュータだったかは、19
79年にPARCを見学に来たアップルのスティーブ・ジョブス
CEOがALTOを見て感激し、まず、「リサ」を作り、それを
「マッキントッシュ」に発展させて大成功したことを見ても明ら
かなことです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/32]


≪画像および関連情報≫
 ・スティーブ・ジョブス/アップル社暫定CEO
  スティーブ・ジョブズは米国の企業家。スティーブ・ウォズ
  ニアックなどとともにアップル・コンピュータ社を創立。P
  ARCのALTOのGUIやマウスのアイデアの可能性に目
  をつけたジェフ・ラスキンやビル・アトキンソンのアイデア
  である「マッキントッシュ」に最初は反対しながらも、自ら
  ALTOを見て考え方を変更し、「マッキントッシュ」を制
  作して成功する。近年では業績不振に陥っていたアップル社
  の暫定CEOを引き受け、「アイ・マック」や「iPod」
  を発売して業績を回復させている。ジョブスは暫定CEOで
  あるとして、毎年1ドルしか給与を受け取っていない「世界
  で一番安いCEO」といわれている。「マッキントッシュ」
  と写っているのは、若き日のスティーブ・ジョブスである。

アルトとマッキントッシュ.jpg
アルトとマッキントッシュ
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2009年11月12日

●ロバート・メトカフとノーマン・エブラムソン(EJ第1693号)

 テイラー、ランプソン、サッカー、そしてケイ――おそらくこ
の中で一番有名な人物はアラン・ケイでしょう。ロバート・テイ
ラー――同名の有名映画俳優がいる――はともかくとして、ラン
プソン、サッカーにいたっては、長年コンピュータ業界に籍を置
いた人でさえ、その名前を知る人は少ないと思うのです。
 それに比べてケイは、最初から「子供でも使える小型コンピュ
ータ/ダイナブック」というコンセプトを持っていて、コンピュ
ータ制作やプログラミングよりも、教育研究――その視点に立っ
たコンピュータ利用に情熱を傾けた人です。文才もあり、熱心に
執筆活動をしていたこともあって、世界的にその名前は知られて
いたのです。
 そういう著名人であるケイは、講演でアルト・システムについ
て語るとき、それをアルトとは呼ばず、「暫定版ダイナブック」
として紹介しています。これを聞けば、単体のアルトがケイのダ
イナブック講想を実現したものであると誰でも考えてしうでしょ
う。これでは、ランプソンやサッカーが気の毒です。
 もちろん、アラン・ケイの業績は素晴らしいとは思いますが、
私が調べた限りでは、ランプソンの小型コンピュータの将来像の
方がケイのそれよりもはるかに現実に近いものであったこと――
また、サッカーの類まれなるコンピュータ構築の技術やソフトウ
ェア開発力がなければ、アルトは誕生しなかったということを強
調しておきたいと思います。
 話を先に進めます。PARC内部のアルトをネットワーク化し
LANの基礎を築いたのは、ロバート・メトカフです。メトカフ
は、1972年6月にPARCのコンピュータ科学研究室の一員
になっています。テイラーの勧誘によるものです。
 メトカフは、MITの電子工学科を卒業して、ハーバート大学
の応用数学大学院に進み、主としてコンピュータ・ネットワーク
の研究をしていた研究者です。ハーバート大学には博士号を取得
する目的で通っていたのですが、当時優秀な研究者はいろいろな
研究所から引っ張りだこで、大学ではあまりじっくりと勉強でき
なかったようです。
 ハーバート大学院在学中にMITのMAC計画に参加し、ミニ
コンのIMPをMAC計画で使っていたPDP−10に接続する
など、実践的な通信・ネットワークの仕事をしてたのです。
 メトカフはこの仕事をした関係で、リックライダーやテイラー
を知り、博士号を取得したらPARCに就職することになってい
たのです。
 既に述べたように、学者にとって博士号は特別なものではなく
取得していないと学者仲間から相手にされないという性格のもの
だったようです。メトカフはMAC計画に参加した経験を基にし
て、博士論文をまとめてハーバート大学に提出したのですが、不
合格として却下されてしまいます。理由は「理論化が十分ではな
い」というものだったのです。
 困惑したメトカフはテイラーに電話をしてそのことを伝えたの
ですが、テイラーには次のようにいわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 博士号なんてどうでもいいから、早くPARCに来て欲しい。
 実はすぐに取り組んで欲しい仕事がある。博士号はその仕事で
 とれる。            ―― ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてメトカフはPARCのコンピュータ科学研究室の一員
となるのです。1972年6月のことです。
 テイラーがメトカフに対してすぐにやって欲しい仕事といって
いたのは、次の2つだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.時分割処理システムMAXCをARPAに接続する
  2.PARC内のアルトを接続してネットワーク化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記1の仕事に関しては、メトカフは簡単に片付けています。
しかし、2のアルトによるネットワーク化に関しては、いろいろ
考えるところがあったのです。これに関してもARPAを応用す
れば可能だったのですが、次の3つの理由によってARPAの技
術を使いたくないと考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.ARPAは電話回線を使うので遅い
    2.接続するに当って、コストがかかる
    3.システムが複雑になってしまう恐れ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフがワシントンのARPAを訪れたとき、ハワイ大学で
行われているアロハ・システムのネットワークに関する1970
年の学会報告書を目にしたのです。アロハ・システムのリーダー
は、ノーマン・エブラムソンという学者で、ハーバード大学の教
授から自らの希望でハワイ大学にやってきていたのです。彼は海
が好きで、かねてからハワイに住みたいと考えていたのです。
 エブラムソンの論文を読んだメトカフは、直ちにハワイに行っ
て、エブラムソンの指導を受けるために1ヶ月を過ごすのです。
1972年の夏のことです。
 このアロハ・システム――ハワイ大学の電気工学部情報科学科
が、1968年9月から、空軍の研究資金援助により時分割処理
システムを中心とした情報通信設備の開発を行っている過程で構
築されたものなのです。
 ハワイ大学の場合、その地理的条件などにより、通常の時分割
処理システムをそのままでは適用できないという事情があったの
です。とくに問題となったのは、次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.大学の施設が離れた島に点在していること
  2.電話回線はノイズが混入するので使えない
  3.専用回線は高価であり、海をまたぐネック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ハワイ大学/オアフ島には「IBMシステム360」が設置
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「IBMシステム360」はIBM最大のヒット商品であり
  1964年に完成している。IBM社によると「360」は
  「360度、どの用途でも応用できます」という意味であり
  その汎用性を強調している。
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

システム360/IBM.jpg
システム360/IBM
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2009年11月13日

●ロバート・メトカフとノーマン・エブラムソン(EJ第1694号)

 テイラー、ランプソン、サッカー、そしてケイ――おそらくこ
の中で一番有名な人物はアラン・ケイでしょう。ロバート・テイ
ラー――同名の有名映画俳優がいる――はともかくとして、ラン
プソン、サッカーにいたっては、長年コンピュータ業界に籍を置
いた人でさえ、その名前を知る人は少ないと思うのです。
 それに比べてケイは、最初から「子供でも使える小型コンピュ
ータ/ダイナブック」というコンセプトを持っていて、コンピュ
ータ制作やプログラミングよりも、教育研究――その視点に立っ
たコンピュータ利用に情熱を傾けた人です。文才もあり、熱心に
執筆活動をしていたこともあって、世界的にその名前は知られて
いたのです。
 そういう著名人であるケイは、講演でアルト・システムについ
て語るとき、それをアルトとは呼ばず、「暫定版ダイナブック」
として紹介しています。これを聞けば、単体のアルトがケイのダ
イナブック講想を実現したものであると誰でも考えてしうでしょ
う。これでは、ランプソンやサッカーが気の毒です。
 もちろん、アラン・ケイの業績は素晴らしいとは思いますが、
私が調べた限りでは、ランプソンの小型コンピュータの将来像の
方がケイのそれよりもはるかに現実に近いものであったこと――
また、サッカーの類まれなるコンピュータ構築の技術やソフトウ
ェア開発力がなければ、アルトは誕生しなかったということを強
調しておきたいと思います。
 話を先に進めます。PARC内部のアルトをネットワーク化し
LANの基礎を築いたのは、ロバート・メトカフです。メトカフ
は、1972年6月にPARCのコンピュータ科学研究室の一員
になっています。テイラーの勧誘によるものです。
 メトカフは、MITの電子工学科を卒業して、ハーバート大学
の応用数学大学院に進み、主としてコンピュータ・ネットワーク
の研究をしていた研究者です。ハーバート大学には博士号を取得
する目的で通っていたのですが、当時優秀な研究者はいろいろな
研究所から引っ張りだこで、大学ではあまりじっくりと勉強でき
なかったようです。
 ハーバート大学院在学中にMITのMAC計画に参加し、ミニ
コンのIMPをMAC計画で使っていたPDP−10に接続する
など、実践的な通信・ネットワークの仕事をしてたのです。
 メトカフはこの仕事をした関係で、リックライダーやテイラー
を知り、博士号を取得したらPARCに就職することになってい
たのです。
 既に述べたように、学者にとって博士号は特別なものではなく
取得していないと学者仲間から相手にされないという性格のもの
だったようです。メトカフはMAC計画に参加した経験を基にし
て、博士論文をまとめてハーバート大学に提出したのですが、不
合格として却下されてしまいます。理由は「理論化が十分ではな
い」というものだったのです。
 困惑したメトカフはテイラーに電話をしてそのことを伝えたの
ですが、テイラーには次のようにいわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 博士号なんてどうでもいいから、早くPARCに来て欲しい。
 実はすぐに取り組んで欲しい仕事がある。博士号はその仕事で
 とれる。            ―― ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしてメトカフはPARCのコンピュータ科学研究室の一員
となるのです。1972年6月のことです。
 テイラーがメトカフに対してすぐにやって欲しい仕事といって
いたのは、次の2つだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.時分割処理システムMAXCをARPAに接続する
  2.PARC内のアルトを接続してネットワーク化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記1の仕事に関しては、メトカフは簡単に片付けています。
しかし、2のアルトによるネットワーク化に関しては、いろいろ
考えるところがあったのです。これに関してもARPAを応用す
れば可能だったのですが、次の3つの理由によってARPAの技
術を使いたくないと考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.ARPAは電話回線を使うので遅い
    2.接続するに当って、コストがかかる
    3.システムが複雑になってしまう恐れ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフがワシントンのARPAを訪れたとき、ハワイ大学で
行われているアロハ・システムのネットワークに関する1970
年の学会報告書を目にしたのです。アロハ・システムのリーダー
は、ノーマン・エブラムソンという学者で、ハーバード大学の教
授から自らの希望でハワイ大学にやってきていたのです。彼は海
が好きで、かねてからハワイに住みたいと考えていたのです。
 エブラムソンの論文を読んだメトカフは、直ちにハワイに行っ
て、エブラムソンの指導を受けるために1ヶ月を過ごすのです。
1972年の夏のことです。
 このアロハ・システム――ハワイ大学の電気工学部情報科学科
が、1968年9月から、空軍の研究資金援助により時分割処理
システムを中心とした情報通信設備の開発を行っている過程で構
築されたものなのです。
 ハワイ大学の場合、その地理的条件などにより、通常の時分割
処理システムをそのままでは適用できないという事情があったの
です。とくに問題となったのは、次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.大学の施設が離れた島に点在していること
  2.電話回線はノイズが混入するので使えない
  3.専用回線は高価であり、海をまたぐネック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ハワイ大学/オアフ島には「IBMシステム360」が設置
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「IBMシステム360」はIBM最大のヒット商品であり
  1964年に完成している。IBM社によると「360」は
  「360度、どの用途でも応用できます」という意味であり
  その汎用性を強調している。
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

システム360/IBM.jpg
システム360/IBM
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2009年11月16日

●メトカフの3つの原理(EJ第1695号)

 アロハ・システムの話を続けます。ホストのIBMシステム3
60は、ホノルルのハワイ大学に置かれており、端末はその半径
200マイルの広大な範囲に分散していたのです。こういう状況
では無線しか対応のしようがなかったのです。
 データの基本単位をパケットに分割し、それぞれのパケットに
は宛先を示すベッダをつけて、ホスト・コンピュータ(IBMシ
ステム360)に接続されているIMPというミニ・コンピュー
タに送り、IMP経由で目的のホストに到着、そこで再合体され
て元のデータになる――既にご説明したパケット交換システムで
すが、これを無線でやろうというのです。
 ところで、このミニ・コンピュータIMPには従来のマシンに
はなかった無線通信を使うなどの工夫が加えられたこともあって
エブラムソンはあえてIMP(インプ)とは呼ばず、「メナフー
ニ」という洒落た名前をつけたのです。メナフーニとは「ハワイ
の小鬼」という意味です。
 アロハ・システムは無線通信だけではなく、いつくか新機軸が
取り入れられていたのです。もともとは時分割処理システム――
端末を中央のコンピュータに繋げて多くの人がコンピュータを共
同で使うシステムなのですが、ハワイの島々に置かれていた遠隔
端末がちょうどミニ・コンピュータ――具体的にはDEC社のP
DP−8に置き換えられつつあったのです。そして、それぞれの
PDP−8がメナフーニをパケット交換機として使って、互いに
通信をはじめていたのです。
 つまり、遠隔端末を中央のIBMシステム360に繋げるだけ
ではなく、メナフーニを通して端末同士の通信が行われていたと
いうわけです。この場合、メナフーニをルータと考えれば、現代
の通信に非常に近いものになっていたことです。
 ロバート・メトカフがエブラムソンの論文で最も関心を持った
のは、無線のパケット通信方式の理論の部分だったのです。メト
カフは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アロハ・ネットワークが興味深いのは、メナフーニに入ってく
 るパケットが中央から制御されていないということだった。パ
 ケットは端末で発信の準備が出来たらそのまま発信されており
 パケットにどの端末から発信されたかという情報がつけられて
 いた。そしてもし、メナフーニに入る前に干渉されてしまった
 場合、メナフーニが受け取ったという信号を発信してこないた
 め、端末は再度、ランダムに選んだ間隔をおいてパケットを発
 信する。こうしてランダムに間隔が選ばれることによって、繰
 り返し干渉が起こることを避けるという仕組みになっていた。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し解説する必要があると思います。エブラムソンのやったこ
とを簡単にいうと、次の3つにまとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.パケットが届いたら、それを送信元に信号で知らせる
 2.パケットの着信信号が戻ってこないときは再送信する
 3.そのさい再送信するときの待ち時間はランダムにする
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一番工夫が行われたのは3の部分です。ハワイの島々にある複
数の端末から同時にパケットを送信すると、同じ周波数の電波を
使っているので、どうしてもパケットの衝突(コリジョン)が起
こってしまうのです。
 コリジョンが起こるとパケットは使えなくなる――つまり、こ
の場合、届いたことを示す信号が戻ってこないので、それらのパ
ケットを再送信することになるのですが、各端末が同じタイミン
グで再送信すると再びコリジョンが発生するということになって
しまうのです。これを防ぐためにエブラムソンは各端末のパケッ
ト再送信のタイミングをランダムにして、コリジョンを減らすこ
とに成功したのです。
 「モデルがきれい過ぎる」――メトカフは、この3の部分の工
夫の素晴らしさを称えながらもこう考えたのです。エブラムソン
は、ポワッソンの待ち行列理論を単純に使っていたからです。な
ぜなら、このモデルであれば周波数帯の利用量が17%以上にな
ると、再送信がうまくいかなくなるからです。つまり、パケット
の通信量(トラフィック)が増えると、効率がダウンしてしまう
欠陥があったのです。
 メトカフはこの部分についてハワイにいる間にエブラムソンと
徹底的に議論しています。そして、PARCに戻ってからその解
決策を考案してまとめ、ハーバード大学に博士論文として提出し
たのです。この論文は受理され、メトカフは念願の博士号を手に
したのです。
 アロハ・システムの周波数帯における不安定性は、新しいモデ
ルによってパケット通信量を基礎にした再送信の率の制御を行え
ば、相当通信量が多くなっても周波数帯を安定させておくことが
できることがわかったのです。これは「バックオフ・アルゴリズ
ム」といわれています。
 このようにして、メトカフは、次の3つの基本原理なるものを
まとめます。後に「イーサネット」と呼ばれるネットワークの基
本原理となる3つの原理です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.キャリア・センス ・・・・・・・ CS
   ・ケーブル上に信号が流れているかどうかをチェック
 2.コリジョン検出システム ・・・・ CD
   ・コリジョンが発生したら、速やかにそれを検出する
 3.バックオフ・アルゴリズム ・・・ MA
   ・パケットの再送信する待ち時間をランダム化させる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この原理は現在では「CSMA/CD」と呼ばれ、イーサネッ
トの基本原理になっています。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/35]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・メトカフ開発の3つの基本原理

メトカフの3つの原理.jpg
メトカフの3つの原理
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2009年11月17日

●メトカフ/イーサネットを完成(EJ第1696号)

 PARC内のアルトを接続してネットワーク化する――これが
ロバート・メトカフに課せられた仕事です。当時はこういうネッ
トワークのことを「ローカル・ネットワーク」と呼んでいたそう
です。LANと呼ばれるのはもう少し経ってからです。
 メトカフは既にこの頃からパケット通信網の広がり全体を巨大
なシステムとしてとらえていたのです。そして、このネットワー
クが完成し、他にも同じようなネットワークがあるとそのネット
ワーク同士を統合してさらに巨大なネットワークを構築する――
実に広大な構想をメトカフは描いていたのです。
 しかし、この実現のためには、アルト用のローカル・ネットワ
ークをきちんと仕上げる必要があります。そのため、メトカフは
この仕事のパートナーとして、PARCの同僚のデビット・ボッ
グズを選んだのです。
 ローカル・ネットワークの基本設計としては、パケットの制御
を中央のコンピュータで行わない分散型の制御採用することに決
めていたのです。アロハ・システムと同じ方式です。具体的には
次のようなネットワークを目指したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 速くてシンプル、そして、太いケーブルを必要とせず、どこに
 でも這わせることができ、信頼性が高く、コンピュータの5%
 程度のコストにおさまるようなネットワーク。しかも、アルト
 に差し込めるカード仕様を充たすこと。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さまざまな問題点をクリアして、1974年にメトカフとボッ
クスは実験システムを完成させたのです。アルトを約100台接
続して動かしてみたところ、問題なくネットワークが稼動したの
です。ネットワークの仕様は次の通りだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    最大伝送速度 ・・・ 2.94Mビット/秒
    最大伝送距離 ・・・・・・ 1キロメートル
    最大セグメント ・・・・・ 1キロメートル
    アドレス長  ・・・・・・ 8ビット
    伝送メディア ・・・・・・ 同軸ケーブル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このネットワークは当初「アルト・アロハネットワーク」と呼
ばれていたのです。しかし、メトカフとボッグスがゼロックス社
の法律関係部局に提出したこのネットワークの「発明記録」には
「イーサネット発明記録」と書かれてあったのです。
 「イーサ」というのは、ギリシャ語の「上層の空気」から作ら
れた言葉で、光を伝える仮想的な物質を意味しています。音は空
気が振動することで伝わりますが、宇宙空間は真空であるのに光
は太陽から地球まで届きます。それなら、光を伝える媒体とは何
か――17世紀にホイヘンスはそれが「エーテル(イーサ)」で
あると仮定したのです。
 しかし、ホイヘンスの考え方は19世紀末のマイケルソンとモ
ーリーの実験や20世紀初頭のアインシュタインの相対性理論に
よって否定されています。
 もちろんメトカフはそんなことは知っていましたが、「データ
を伝える媒体」という意味を込めて「イーサネット」と名付けた
のです。後年メトカフはこういっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ある物理学者は既に存在が否定されている物質の名前を使うな
 んて、評判を落とすだけだと思うけどね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メトカフは、アルト・ネットワークを「イーサネット」と命名
するという趣旨の提案を研究者たちに配っています。その日付は
1973年5月22日――この日こそ「イーサネット」が誕生し
た記念日といえるでしょう。
 当時DEC社はベストセラーだったミニコンPDPの後継機と
してVAXという戦略商品を開発していたのですが、このマシン
はLANに繋ぐことが前提だったのです。
 そのことを知ったロバート・メトカフは、DEC社の技術部門
の責任者であるゴードン・ベルに次のように説得したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 DEC社の方からゼロックス社にイーサネットの標準化に協力
 すると説いてくれないか。標準化されれば、ゼロックス社のレ
 ーザー・プリンタは爆発的に売れますよとね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この説得は見事成功し、ゼロックス社はDEC社とイーサネッ
トの標準化で協調することになったのです。そして、この2社連
合にさらに1社が加わるのです。インテル社がそうです。当時イ
ンテル社は新しい半導体製造技術を開発したばかりで、この技術
が使える分野を探していたのです。
 この情報を入手したメトカフはひらめいたのです。もし、この
連合にインテル社が加われば、イーサネットの標準化ができた場
合、制御チップの供給先を確保できる――そう考えたメトカフは
インテル社を全力を傾けて説得し、承知させたのです。このメト
カフという人物、なかなか政治力があるようです。
 かくして、DEC、インテル、ゼロックス3社が共同で標準化
を目指すことになったのです。この3社連合は、それぞれの会社
の頭文字をを取って「DIX連合」と名付けられたのです。この
DIX連合――1980年9月にイーサネットの最初のバージョ
ン1.0を出しています。これをDIX仕様といいます。
 しかし、LANの標準化に競合する大企業が2社あらわれたの
です。GM社とIBM社です。1980年2月に第1回のIEE
E802委員会がサンフランシスコで開かれているのですが、結
局のところ、LANの標準化は1本化されず、DIX連合/GM
/IBMそれぞれがLAN仕様を出すことになります。政治的な
理由でそうなったといえます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/36]


≪画像および関連情報≫
 ・LANの3つの標準化仕様
  ―――――――――――――――――――――――――――
  IEEE802.3 ・・・ DIX連合
   ・バス型LAN
  1EEE802.4 ・・・ GM
   ・トークン・パス型LAN
  IEEE805.5 ・・・ IBM
   ・トークンリング型LAN
  ―――――――――――――――――――――――――――

イーサネットの開発者.jpg
イーサネットの開発者
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2009年11月18日

●RFC文書というものがある(EJ第1697号)

 ゼロックス社は、小型コンピュータのアルトを2000台も生
産しながら、1台も外部に販売しなかったのです。これは、産業
史上の大失敗のひとつとして語り草になったほどです。
 しかし、PARC内ではそれらのアルトがイーサネット・ネッ
トワークで相互につながり、さらにそれがARPAネットにつな
がって全米のコンピュータと自由にプログラムやデータを交換で
きるようになったのです。
 これに貢献したのがメトカフとボックスの2人なのです。2人
は「ボブジーの双子」といわれるほどいつも一緒に働き、イーサ
ネットの実装を熱心に行ったのです。
 ところが、イーサネットの実装が進む過程において、ファイル
転送用プロトコル(EEFTP)が作られ、1975年にレーザ
ー・プリンタをネットワーク上に置くEARSというネットワー
ク・プリンタ・システムが出来上がったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 EEFTP=Experimental Ethernet Transfer Protocol
 EARS =Ethernet Alto Research Character generator
       Scanning laser output terminal
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 PARC内で多くの研究者が個人でアルトを使うようになって
一番扱いに苦慮していたのが、実はプリンタの扱いなのです。し
かし、イーサネットが開発され、PARC内のアルトがネットワ
ークで接続されると、プリンタをネットワーク上の個々のアルト
から共有して使用できるようになったのです。
 もう少し正確にいうと、ネット上の1台のアルトにプリンタを
接続して制御できるようにし、それをネットワークで個人が使っ
ているアルトから利用するシステムなのです。
 やがて、プリンタに接続されたアルトは、入出力機器などの制
御を担当したり、ファイルを記憶したりすることで他のコンピュ
ータに奉仕する機能を持たされたことから、「サーバー(奉仕す
る者)」と呼ばれるようになります。これに対してそれを利用す
るコンピュータは「クライアント」と呼ばれ、「サーバー・クラ
イアントシステム」という方式のはしりになったのです。
 このEARSは、ゼロックス社に莫大なる利益をもたらすこと
になる「ゼロックス9700」というプリンタのプロトタイプに
なったのです。このプリンタの成功によってゼロックス社は、P
ARCへの投資の数倍も稼いだといわれます。
 ここで「RFC文書」について触れておく必要があります。通
信というのは必ず相手があるわけであり、そこに共通の約束事が
できていくことになります。この約束事をどのようにして決めて
いくかということに使われたのが「RFC文書」なのです。
 こういう通信の約束事はARPAネットのノード――ARPA
ネットの拠点のホスト・コンピュータ――から、大学院生が派遣
され、彼らによる話し合いで決められていったのです。
 1969年当時のノードは4ヶ所――UCLA、SRI、UC
サンタバーバラ、ユタ州立大学――でしたが、UCLAのステフ
ァン・クロッカーとジョン・ポステルが「RFC文書」を回覧す
る方法を考え出したのです。1969年4月のことです。そして
エディターはジョン・ポステルが長期にわたって務めたのです。
RFCは次の頭文字です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      RFC = Request For Comment
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このジョン・ポステルという名前を覚えているでしようか。
 EJの現在のテーマの第1回――8月23日付、EJ第166
1号に登場しているのです。そして、慶応義塾大学の村井純教授
の受けた賞がポステル賞なのです。やっと連載37回目にして、
ジョン・ポステルの名前が出てきたのです。
 さて、RFCとは「コメントを求む」という英文の頭文字をと
ったもので、ARPAネットの構築に当ってネットワーキングの
標準規約を定めていくための議論の内容を周知徹底し、関係者の
自由なコメントを求める文書なのです。
 このRFC文書は、現在も新しいものが出され続けており、総
数が4000を超えているそうです。世界中のネットワーク管理
者は、これらの規約によってネットワークを運用しているからこ
そ、世界各地の無数のネットワークが破綻することなく、一定の
秩序のもとに機能しているのです。
 ちなみにRFC文書第1号は次のような内容だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1969年4月7日/ステファン・クロッカー
    「ホスト・ソフトウェアについて」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 初期のREC文書はシステム上では電子的に書かれていたので
すが、プリントアウトされ、紙の文書を郵送するかたちで流通し
ていたのです。当時はメールやファイル交換のプロトコルができ
ていなかったので、メールで配付するというわけにはいかなかっ
たのです。
 現在、初期のRFC文書もインターネット上のウェブページで
読むことができますが、これは後年RFCオンライン・プロジェ
クトで、90年代に入ってから電子化されたものなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  http://www5d.biglobe.ne.jp/~stssk/rfcjlist.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1969年の時点で4ヶ所であったノードは1972年4月に
は23ヶ所になり、ARPAネットは大々的に国際会議で公開さ
れたのです。その当時、最も多い利用例は電子メールだったので
すが、電子メールはファイル転送の特殊な例という位置づけだっ
たのです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/37]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョン・ポステル
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ジョン・ポステル(Jonathan Bruce Postel,1943−19
  98)は米国のコンピュータ科学者。1974年にUCLA
  よりコンピュータサイエンスの博士号を授与される。UCL
  A在学中より初期のARPAネットにかかわる。1977年
  より南カルフォルニア大学(USC)の情報科学研究所にて
  インターネットの発展と標準化に多大な貢献をし、「インタ
  ーネットの神」と呼ばれた。
  出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・ポステル.jpg
ジョン・ポステル
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2009年11月19日

●初期の3層構造のプロトコル(EJ第1698号)

 PARC内のアルトがイーサネットで接続され、そのネットワ
ークがARPAネットに接続されて巨大なネットワークに成長す
る――しかし、まだインターネットは登場していないのです。
 この段階で「通信は階層構造になっている」という少し複雑な
話をする必要があります。しかし、読んでいただければわかるこ
とであり、お付き合いください。
 9月29日のEJ第1686号〜1687号でご紹介したウェ
スリー・クラークのメモの図(添付ファイル参照)を思い出して
いただきたいのです。
 ホスト・コンピュータ同士の通信を行うために、間にIMPに
よるサブネットワークを挟むというのがクラークの提案だったの
ですが、これにより次の2つの通信が生ずるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ホストとIMPの間の通信 ・・   シンクロナス
               ――大学・研究機関の責任
 2.IMPとIMPの間の通信 ・・ アンシンクロナス
               ――開発会社BBNの責任
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この場合、通信は二つの階層に分かれることになります。「ホ
ストとIMPの間の通信」と「IMPとIMPの間の通信」の2
つです。この場合、前者はホスト・コンピュータが置かれている
大学や研究機関が担当し、後者はIMPを受注したBBN社が責
任を負うことになります。
 この方式において注目すべきことは、大学・研究機関とBBN
社がそれぞれ独立して自分たちの仕事を行えば、2つの通信は繋
がることになります。通信に関してとくに緊密に打ち合わせをす
る必要はないわけです。これが階層化のメリットなのです。
 しかし、これにはひとつ問題があるのです。ホストAからファ
イルをホストBに送る場合について考えます。ホストAから送り
出されたファイルはホストAに接続されているIMPに送られ、
IMP間のネットワークを経由してホストBに接続されたIMP
に送られ、IMPからホストBに届きます。
 これによって、確かにファイルそのものは、ホストAからホス
トBに届きましたが、それで目的が果たされたわけではないので
す。なぜなら、そのファイルがちゃんとホストB上に開けないと
意味がないからです。
 ファイルをちゃんと開けるようにするためには、そのための環
境――アプリケーションなど――が受信側のホストになければな
らないのです。そういう意味において、送信側のホストと受信側
のホストの間には何らかの連携が必要になります。
 つまり、IMPとIMPレベルの層、ホストとホストレベルの
層――それぞれが対称的に連携している必要があるのです。この
ことをとくにうるさくいったのは、当時のIPTO部長であった
ロバーツです。その結果、ホストとIMP、ホスト相互間用のプ
ロトコルとして「NCP」が開発されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     NCP = Network Control Program
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、IMPによるサブネットが支える「通信層」とNCP
によってコントロールされる「ホスト層」という2つの層ができ
上がったのです。後にこのNCPがTCPになるのです。
 しかし、このときARPAネットを使う研究者の間でとくに求
められていたのは次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.遠隔ログイン ・・・ 遠くのコンピュータを使う
  2.ファイル交換 ・・・ ファイルを相互に交換する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら「遠隔ログイン」と「ファイル交換」のために「ホスト
層」を2つに分けて、次の3層構成にしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   アプリケーション層 ・・・ ユーザ・レベルの層
        ホスト層 ・・・ ホスト・レベルの層
         通信層 ・・・ IMPによる通信層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「通信層」と称しているのは、IMPのサブネットワー
クのことですが、ここが機能しないと通信はできないわけです。
そのため「通信層」と称しているのです。試行錯誤のすえうまく
機能するようになると、この層は当たり前の環境とみなされ、上
の層に関心は移っていくのです。
 これら3層は、各階層間のインタフェースの整合性さえあれば
上の階層は下の階層でどのような処理が行われているかは関知し
ないで独立して作業ができるのです。
 1973年に行われたARPAネットの現状をまとめた学会報
告では、この3層構造という表現が使われているのです。そして
この時点では、「通信層」の技術が安定してきていることが報告
されています。
 この時点で問題になっていたのは「ホスト層」なのです。なぜ
かというと、それが異種のコンピュータ同士の接続であったから
です。その当時既に実働していたネットワークはいずれも同機種
のコンピュータ同士を結んだものであり、ARPAネットのそれ
とは根本的に異なっていたのです。
 これと関連があるのは、ネットワークとネットワークを接続す
る異種ネットワーク間接続の問題です。これについては、ARP
Aネット側と次のヨーロッパの研究グループとの研究がスタート
しています。ここに国際ネットワーク・ワーキング・グループが
誕生したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     英国の国立物理研究所のグループ
     フランスのCYCLADESグループ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/38]


≪画像および関連情報≫
 ・IMPによるサブネットワーク

IMPによるサブネットワーク.jpg
IMPによるサブネットワーク
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2009年11月20日

●TCP/IPの誕生(EJ第1699号)

 英国とフランスの研究グループ、それに米国のARPA側のメ
ンバーから成る国際ネットワーク・ワーキング・グループの座長
は、ARPA側の代表としてヴィントン・サーフが務めることに
なったのです。このグループは、1974年には国際情報処理学
会――IFIPの正式な下部組織になっています。
 当時、フランスを中心とするヨーロッパでは、ネットワークの
方式について次の2つの方式が対立していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.  データグラム方式
        2.ヴァーチャル回線方式
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どちらの方式も階層的なプロトコルを持つという点では同じな
のですが、「データグラム方式」は、パケットの制御や再配列を
上位の層に受け持たせようとしているのに対し、「ヴァーチャル
回線方式」は、できるだけ下位の層にやらせて安定的なパケット
の配信を行うという考え方だったのです。
 初期のARPAネットでは、IMPによる通信層がパケットの
制御や再配列を行っていたので、上記の2つの方式でいえばヴァ
ーチャル回線方式に該当していたといえます。このヴァーチャル
回線方式の通信層のプロトコルが国際電信電話諮問委員会(CC
ITT)によってまとめられた「X.25」なのです。
 パケットの制御や再配列を上位の層にやらせるか下位の層にや
らせるかの違いは、パケットの配信・再配列に信頼性を持たせる
か否かの違いでもあります。もちろん、上位層にそれをやらせる
方が信頼性を保証するということになります。
 ところが、1977年頃になると、ネットワークにパケット音
声機能を追加しようとする動きが出てきたのです。パケットは通
信経路の中で失われることもあり、その場合はパケットの再送信
を求めて再配列をすることになります。しかし、音声の場合はタ
イミングを重視する通信であるので、失われたパケットの再配信
の必要はないのです。
 これを契機として、TCP(NCPから発展)は信頼性を受け
持たず、パケットを送ることだけに専念する層と信頼性の維持や
パケットの再配列などを受け持つ層に分けるべきであるという意
見が出てきたのです。
 これによって、TCPはその下位層として「IP層(インター
ネット層)」を置き、次の4層にすることになったのです。19
77年のことです。つまり、ホスト層を2つに分割するとともに
名称も一変させたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          アプリケーション層
           トランスポート層
           インターネット層
                通信層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして音声通信には「UDP」というタイミングを重視したプ
ロトコルを新たに加えることにしたのです。つまり、TCPは、
パケットごとの着信を確認して送信するが、UDPはそれをせず
ただパケットを送信するだけなのです。
 実はこれには、従来から対立していた「データグラムかヴァー
チャル回線か」に対して決着をつける意図があったのです。これ
について、喜多千草氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この四層構造こそが、ARPA方式が国際標準になってゆくた
 めの基本となる見通しがあっただろうということである。(中
 略)IPをTCPから分離し、信頼性を受け持たないIP層を
 介して、その上の層にもともとARPAネットで確立したヴァ
 ーチャル・サーキット方式を反映したTCPとCYCLADE
 Sで確立したデータグラム方式を反映したUDPという二つの
 プロトコルが併存することにより、異種のネットワーク間接続
 がすっきりと収まり得ることになった。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「パケット」という言葉は、「トランスポート層」で
は「データグラム」と呼ばれているのですが、ここまでEJを読
んでいただいた方には理解できると思います。
 しかし、この時点ではIMPサブネットに支えられた旧プロト
コルが有効に機能していたのです。これをどのように切り替える
かがなかなかの難問であったのです。
 ところがこの切り替えは急速に進むことになります。それは、
軍がTCP/IPを軍事用通信として本格的に利用しようと考え
ていたからです。1981年11月――ポステルのRFC801
によって、1983年1月までにすべてのノード(各拠点のホス
ト)で移行を完了せよということが伝えられたのです。
 なぜこのような強引なことができたかというと、1975年に
ARPAネットは国防通信局(DCA)の管轄下に編成されてい
たからなのです。
 国防通信局は、ARPAネットを軍事的な実用情報ネットワー
クにするため、セキュリティの甘い大学や研究所のノードと軍関
係のノードの切り離しを行っています。1982年にこの軍事部
分の分離を発表し、TCP/IPの移行が完了した1983年4
月にそれを実行したのです。このようにしてできたのが「MIL
NET」です。
 これに伴い、軍はTCP/IPを産業界に公開したのです。こ
のために2000万ドルの予算を組んで、コンピュータ・メーカ
にTCP/IPを標準で搭載するよう奨励したのです。そのため
TCP/IPは急速に民間に普及していったのです。
 しかし、既にIBM社をはじめ多くのメーカが独自のネットワ
ークの普及を行っており、世界中には互換性のないネットワーク
がうんざりするほど多くあったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/39]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィントン・サーフ博士
  ヴィントン・サーフ博士の近況については、ブログ・サイト
  「BB Column」を参照されたい。
  ―――――――――――――――――――――――――――
         http://www.bba.or.jp/bbc/
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴィントン・サーフ博士.jpg
ヴィントン・サーフ博士
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2009年11月24日

●OSI参照モデルをめぐる論争(EJ第1700号)

 TCP/IP――この言葉が最近よく出てきます。国防通信局
(DCA)の軍事ネットワーク/ARPAネットの標準プロトコ
ルとしてです。このようにいわれてもきっとピンとこない人が多
いと思います。一体TCP/IPとは何なのでしょうか。
 TCP/IPは、PCの例でいうと、OS――通信のOSのよ
うなものと考えてよいと思います。
 PCはPCメーカ独自のハードウェアの上にOSが搭載され、
それがプラットフォームになっています。そのプラットフォーム
上でアプリケーションが動作するわけです。
 通信は伝送路(ケーブルなど)というハードウェアの上にTC
P/IPというソフトウェア(OS)が載り、その上位層におい
てアプリケーションが動作する――大雑把にいえばそういう位置
づけになります。添付ファイルを参照してください。
 さて、昨日のEJで述べたように、ARPAネットのすべての
ノード(拠点コンピュータ)へのTCP/IPの実装は1983
年4月までに完了しています。こんなに早く実装が完了したのは
当時のARPAネットが国防通信局(DCA)の傘下にあり、軍
事ネットワークとして位置づけられていたため、TCP/IPの
実装を軍の命令として実施することができたからです。
 さらに政府は、コンピュータ・メーカにTCP/IPを標準と
して搭載するよう働きかけたのです。しかし、これにはメーカか
らかなり抵抗があったのです。既に自社でプロトコルを開発して
いたところがあり、それをTCP/IPにせよというのですから
反発が起きて当然です。
 IBM社は、1974年9月に「SNA」という大型コンピュ
ータ用の通信プロトコルを発表しており、ゼロックス社において
もPARCが1977年に「PUP」という5層レベルから成る
プロトコルを既に実用レベルにまで高めていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    SNA = System Network Architecture
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とくにPARCのPUPは、TCP/IPを先取りした内容に
なっているのです。もともとヴィントン・サーフが座長を務める
国際ネットワーク・ワーキング・グループがARPAネットの標
準プロトコルを検討していたのです。そのときPUP構築の中心
メンバーであるPARCのロバート・メトカフもこの会議に参加
していたのです。
 しかし、ヴィントン・サーフという人は、拙速を非常に嫌うタ
イプだったのです。まして標準プロトコルを定めるには、大勢の
人による合意形成が必要であるという信念の持主であり、会議に
新しいメンバーが加わって異論を述べると、一から議論し直すと
いう慎重さがあったのです。
 これに対してロバート・メトカフはこういうノロノロとした会
議では何も生まれないと考えて、その標準プロトコルを決める会
議には途中から出席しなくなったのです。そしてPARCの仲間
と一緒にPUPを作ってそれを実装してしまったのです。
 PUPは当初ゼロックス社の「社外秘」とされてきたのですが
1979年7月にはPARCから技術報告が出ています。それは
デビット・ボッグス、ジョン・ショック、エドワード・タフト、
ロバート・メトカフの共著となっているのですが、興味深いのは
そのタイトルです。そこには「インターネットワーク」の文字が
書かれていたからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     『PUP:インターネットワークの仕組み』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 PUPはTCP/IPが世に出る前に単純化され、XNS――
ゼロックス・ネットワーク・システム――と命名されています。
 このように、世界中にさまざまな独自プロトコルによるネット
ワークが乱立する兆しが出てきたのを受けて、1978年に国際
標準化機構――ISOが、米国、英国、フランス、カナダ、日本
から委員を集めて、オープン・システム相互接続(OSI)参照
モデルを打ち出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    レイヤ7 ・・・  アプリケーション層
    レイヤ6 ・・・ プレゼンテーション層
    レイヤ5 ・・・     セッション層
    レイヤ4 ・・・   トランスポート層
    レイヤ3 ・・・    ネットワーク層
    レイヤ2 ・・・    データリンク層
    レイヤ1 ・・・        物理層
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この7層から成るOSIは、現在ネットワークの教科書に載っ
ているものと同じですが、いわゆるARPAネットの4層とは基
本的に異なっていたのです。それはARPAネットの4層にはあ
る「インターネット層」がOSIにはなかったことです。
 この時点のOSIモデルでは、「X.25」の方式を「ネット
ワーク層」の標準としていたからです。X.25というのは、既
に述べたように、ヴァーチャル回線方式の通信層のプロトコルな
のです。それにOSIモデルが発表された時点では「TCP」か
ら「IP」は分離していなかったのです。
 これを巡ってARPAの打ち出すTCP/IPとOSIモデル
とは、1982年まで激しい主導権争いを繰り広げるのです。論
争の結果、OSIモデルにインターネット層を加えることになっ
たのです。といっても名称は変更せず、OSIのレイヤ3のネッ
トワーク層がARPAでいうところのインターネット層を意味す
ることになったのです。
 これに伴い、PARCの開発したLANはデータリンク層に位
置づけられ、X.25もLANと肩を並べるひとつの方式という
ことになったのです。やがてX.25の役割は縮小され、歴史的
役割を終えていくのです。 
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/40]


≪画像および関連情報≫
 ・X.25とは何か
  X.25とは、ITU−T(CCITT)で勧告化(国際標
  準化)されたコネクション型のデータ通信を行うパケット交
  換用のプロトコル体系で、X.25プロトコルを使用した回
  線をX.25ネットワークとも呼ぶ。このX.25は、デー
  タ端末(ユーザー側。DTE、データ端末装置)とネットワ
  ーク側のDCE(回線終端装置)の間のプロトコルで、レイ
  3までをサポートしている。
 ・TCP/IPはPCでいうとOSに該当する

TCP/IPはOSである.jpg
TCP/IPはOSである
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2009年11月25日

●CSネットの誕生の背景(EJ第1701号)

 ARPAネットが普及してくると、ある動きがはっきりとした
かたちを取りはじめたのです。1980年代になってから、それ
は具体的に動き出します。ARPAネットの恩恵にあずかれなか
ったコンピュータ研究者たちの不満の高まりです。
 ARPAネットは、国防総省の所管であり、軍事研究をしてい
ない大学、研究所、企業が利用することはできなかったのです。
そこで持たざる者のためのネットであるCSネット――コンピュ
ータ・サイエンス・リサーチ・ネットワークを作ろうという動き
が起こってきたのです。
 この考え方を提唱したのは、ウィスコンシン大学コンピュータ
科学科のラリー・ランドウェーバー教授です。1979年5月に
ランドウェーバーは、ウィスコンシン大学に各大学、ARPA、
NSF(全米科学財団)の代表を集めて、次のテーマで会議を開
いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    コンピュータ科学学科の研究用コンピュータ
    ・ネットワーク構築の可能性について
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会議を開く2年前からランドウェーバーは、理論物理学者
同志のメール交換用のネットを作って運用していたのです。これ
は「セオリーネット」と呼ばれていたのです。
 「セオリーネット」は、ウィスコンシン大学にメールサーバー
を置き、利用者の端末をダイヤルアップ回線で接続してメールの
やり取りだけをやっていたのです。ランドウェーバーは、これを
ファイル転送、リモート・ログイン、高速メッセージ配信に拡大
したいと考えていたのです。ウィスコンシン大学は、このシステ
ムについて、NSFから資金援助を受けています。
 もうひとつ、パーデュー大学のケースがあります。同大学のピ
―ター・デニング教授は、AT&Tベル研究所のサービスを通じ
て、やはりダイヤルアップ回線を利用してメールの交換をやって
いたのです。
 ところで、AT&Tベル研究所のサービスというのはどのよう
なサービスだったのでしょうか。
 AT&Tベル研究所は、一日に一度、このネットワークに参加
している大学に電話回線経由で接続し、メールや小規模ファイル
を集めて、それを配付していたのです。この方式だと、メールを
出してから届くまで最低一日かかってしまいますが、郵送よりは
速かったのです。
 AT&Tベル研究所のシステムは、UNIXというサーバーO
S上で動くUUCP(UNIX間コピー・プログラム)というプ
ログラムで通信していたのです。しかし、このサービスは次第に
評判になり、UUCPシステムのユーザは増加し、AT&Tベル
研究所のUNIXサーバーは、同研究所の本来の業務に支障をき
たすようになってしまったのです。
 普通の企業であれば、これだけユーザが増えたらそれをビジネ
スにすることを考えるものですが、AT&Tという会社自体が、
ネットワークの会社でありながら、きわめて後進的な考え方しか
持っていなかったので、1979年の春にこのサービスをやめて
しまったのです。
 困ったのは、パーデュー大学です。しかし、そういうときにラ
ンドウェーバー教授の呼びかけがきたので、ピーター・デニング
教授は会議に参加したというわけです。
 会議は、ARPAのIPTOからボブ・カーン(当時はまだ部
長ではない)、NSFからは数学/コンピュータ部長ケント・カ
ーティスが出席していたのです。この会議の目的は、CSネット
の概要を説明し、NSFからの資金援助を仰ぐ根回しにあったの
で、ケント・カーティスの出席はランドウェーバーにその期待を
抱かせるのに十分なものであったのです。
 話を聞いたケント・カーティス部長は、次の3つの条件を出し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.CSネットは多様なサービスをサポートし、使った額に応
   じて従量課金すべきである
 2.NSFは多くの大学を支援したいので、供出できるものは
   最大5500万ドルとする
 3.NSFとしては無制限に支援できないので、2年間が経過
   したら自立して欲しいこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会談に基づき、ランドウェーバーはNSFに提案書を書い
たのです。NSFは、1980年1月にこの提案を受け入れるこ
とを了承しています。
 この時点でIPTOの部長になったボブ・カーンは、NSFの
関心がCSネットとARPAネットの接続にあるということを知
って、その責任者にヴィントン・サーフを任命しているのです。
またしてもヴィントン・サーフです。この人はよほど信頼の厚い
人物であったものと思われます。まさに「インターネットの父」
にふさわしい人物といえます。
 いろいろあって、CSネットの提案者にネットワークの専門家
はいないので、NSFのカーティス部長は、このCSネット・プ
ロジェクトのフルタイム・マネージャーとして、ボブ・カーンを
任命するのです。完全なるNSFペースです。
 そしてCSネットは、ARPAネットが提供しているのと同じ
ビス――メール、リモート・ログイン、オンライン・ネームサー
ビスを提供できるようになったのです。
 そして、NSFが手をひいた1983年1月には、CSネット
はちゃんと自立できるようになっていたのです。その他にも数多
くのネットワークが続々と誕生しつつあったのです。IBM社が
支援したBITネット、UNIXのUUCPを使ったUSEネッ
トなど――NSFはそれらを統合して「NSFネット」を立ち上
げる手を打っていったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/41]


≪画像および関連情報≫
 ・ウィスコンシン大学
  自然豊かな米国中西部ウィスコンシン州にあり、1894年
  年創立で、ウィスコンシン州・州立大学群の中で最も古い歴
  史を持つ。学生数は約9000人。教養、経営、教育、工学
  など100科目以上の授業が開講されている。研究・教育内
  容も年々充実しており、2002年度の大学 ランキングで
  は大学院修士課程(中西部)の部でベスト4位。

ウィスコンシン大学.jpg
ウィスコンシン大学
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2009年11月26日

●ジェニングスのNSFネット構想(EJ第1702号)

 ここでNSF――全米科学財団についてふれておく必要があり
ます。NSFの設立は、1950年に遡ります。1950年の全
米科学財団法に時のトルーマン大統領が署名したのです。そして
1951年に初代理事長としてアラン・ウォーターマンが指名さ
れて活動を開始しています。
 もともとこの財団設立の構想は、ルーズベルト大統領がヴァネ
ヴァー・ブッシュに書いた一通の手紙がきっかけで、ブッシュが
大統領に答申して実現したものです。もっとも答申した大統領は
ルーズベルトではなくトルーマンだったのです。ルーズベルトは
1945年4月12日に逝去したからです。
 一体どんな手紙だったのかというと、太平洋戦争において軍学
共同体制が生み出した数々の新しい知識や技術は、そのまま民間
でも役に立つものが多いが、こういう研究は平時においても続け
るべきであるかどうか、平時における科学知識・技術の研究体制
について答申して欲しい――おおよそこういう内容であったもの
と思われます。
 ブッシュは1945年7月25日に次の標題の答申をトルーマ
ン大統領に提出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        『科学:限りなきフロンティア』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もともとブッシュは、科学研究こそ国家の安全にとって絶対の
基本であるという信念の持ち主であり、この信念に基づいて科学
研究のみを行う新組織「全米科学財団――NSF」の設立を提言
し、認められたのです。
 NSFは陸軍、海軍とは直接には関係を持たないが、緊密な連
絡をとることが条件とされたのです。NSFのモデルとなったの
は、海軍科学財団であり、初代理事長のアラン・ウォーターマン
も海軍研究局の主任科学者だったのです。ちなみにブッシュ自身
も海軍閥であることは既に述べた通りです。
 1950年代の後半からNSFは、各大学にコンピュータ・セ
ンターの設置の援助を開始しています。しかし、設置したコンピ
ュータは一括処理用であったため、一般の研究者の利用要求を満
たすところまでいかなかったのです。
 しかし、時分割処理が登場してより多くの利用に対応できるよ
うになり、NSFはセンターのコンピュータを時分割処理に対応
できる設備に変更するための助成を行うようになったのです。こ
れによって、NSFは大学の枠内にとどまらない地域コンピュー
ティング・センターを作るようになり、そのセンターの数は増加
していったのです。
 こうしたNSFの地道な努力の積み重ねにより、学校における
コンピュータ利用は次のレベルに達したのです。こういうところ
が米国の強さといえるでしょう。何しろ、1968年頃の話なの
ですから驚きです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     4年制総合大学 ・・・・・・ 100%
     単科大学(カレッジ) ・・・  33%
     短期大学 ・・・・・・・・・  25%
     高校 ・・・・・・・・・・・  20%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 MERITネットワークというのがあります。ミシガン大学と
ミシガン州立大学、ウェイン州立大学の3校を結び、利用者はど
の大学の端末からでも、3つの大学にあるそれぞれの地域コンピ
ューティング・センターのコンピュータを自由に使うことができ
たのです。
 こういう地域センターのコンピュータネットワークがさらに拡
大しつつあった1970年代後半に、ウィスコンシン大学のラン
ドウェーバー教授のあの提案が出てきたのです。その結果、CS
ネットが構築されたのです。
 このCSネットの成功は、NSFの全国的ネットワーク構築へ
の布石となったのです。このとき登場したのが、デニス・ジェニ
ングスという人物です。1985年1月にNSFにやってきて、
ネット構築の責任者になった人物です。
 ジェニングスの仕事は速かったのです。彼はNSFネットの構
想を示し、すぐにテクニカル・アドバイザリー・グループを作り
デラウェア大学のディビット・ファーバー教授を委員長に指名し
たのです。
 ジェニングスの考え方は、既にNSFが設置しているスーパー
・コンピュータ・センターを「56キロビット/秒」の伝送速度
のバックボーン・ネットワークで結ぶというものだったのです。
バックボーン・ネットワークとは、いくつかのネットワークを繋
ぐ基幹的役割をするネットワーク回線のことです。
 これを決めるとき一番大変だったのは、通信プロトコルに何を
採用するかということだったのです。その時点での選択肢は次の
3つがあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.DECネットのプロトコル
       2.TCP/IP
       3.OSIのプロトコル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジェニングスはDECネットのプロトコルの信奉者であったの
ですが、TCP/IPとOSIのプロトコルの戦いになり、実質
標準のTCP/IPがOSIのプロトコルを押しのけて採用され
るようになったのです。これは、米国系のTCP/IPが、欧州
系のOSIに勝ったことを意味するのです。
 ルータの選定も大変だったのです。当時はBBN社のIMPが
主流だったのですが、非常に高価であり、新興勢力のシスコやプ
ロテオンは、まだ全国的なサポート体制ができていなかったので
す。結局、DECのPDP−11にソフトウェアをインストール
して使うことになったのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/42]


≪画像および関連情報≫
 ・デニス・ジェニングスの3つ重要な決定
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.NSFネットの目的は、汎用の研究用のネットワークを
    建設することであり、単にスーパーコンピュータを接続
    することだけにとらわれない。
  2.各地にあるスーパーコンピュータセンターがこの地域の
    ネットワークを構築することにし、NSFNETはそう
    した地域ネットワークを相互に接続するためのバックボ
    ーンを提供する。
  3.NSFネットで使うプロトコルはARPANETのTC
    P/IPとする。
    (牛島研究室/オンライン「研究プロジェクト」より)
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

デニス・ジェニングス.jpg
デニス・ジェニングス
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2009年11月27日

●NSFネットからインターネットへ(EJ第1703号)

 1986年になると、ジェニングスは英国に戻ってしまい、ス
ティーブ・ウォルフという人がNSFネット構築の責任者になる
のです。そして、NSFのバックボーン作りがスタートするので
す。NSFのバックボーンというのは、地理的に離れた場所にあ
った次の5大学/6ヶ所のスーパー・コンピュータ・センターを
結んだ回線なのです。
 この頃には、地域センターのネットワークからスーパー・コン
ピュータのネットワークまで、すべてがTCP/IPを採用し、
ARPAネットとなめらかな互換性を持つ相互接続には理想的な
環境になっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.UCSD ・・・・・ カルフォルニア州サンディエゴ
 2.コーネル大学 ・・・ コロラド州ボルダー
 3.イリノイ大学 ・・・ イリノイ州シャンペイン
 4.ピッツバーク大学 ・ ペンシルバニア州ピッツバーク
 5.           ニューヨーク州イサカ
 6.プリンストン大学 ・ ニュージャージー州プリンストン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バックボーンは「背骨」という意味ですが、上記5大学を結ぶ
回線は西と東を結ぶ「背骨」そのものです。西海岸のサンディエ
ゴからボルダー、シャンペイン、そしてピッツバーク、東海岸の
プリンストン、ニューヨークのイサカ――しかもこの回線の伝送
速度は当時としては高速であり、これに接続すると、まるで回線
を高速道路のように使うことができるのです。
 1988年にハードウェアの設置が完了し、新しい基幹ネット
ワークが動き出します。NSFネットの始動です。基幹ネットワ
ークのノード(拠点コンピュータ)は、ノード交換システム――
NSSと呼ばれる独自のパケット交換機です。NSSの内部には
次の3つのプロセッサが置かれ、通信機構に接続されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.パケット交換プロセッサ
     2.経路選択および制御プロセッサ
     3.アプリケーション・プロセッサ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように書くと凄いマシンが導入されたと考えるかもしれま
せんが、実はぜんぜん違うのです。ここで「プロセッサ」といっ
ているのは、IBMのRT/PCのことであり、そのPCが3台
設置され、それらがIBMの推進しているトークンリングLAN
で結ばれただけなのです。
 ちなみに、IBMのRT/PCというのは、初のラップトップ
PCとしてIBMが市場に投入したRISC系のCPUを搭載し
たPCですが、あまりにも低速であって、話題に上らなかったい
わば失敗作なのです。このマシンを本来とは違う目的で使ったと
いうわけです。
 なお、「RISC系のCPU」というのは、詳しく説明すると
難しくなるのでやりませんが、現在ほとんどのPCで使われてい
るインテルのCPUはRISC系ではなく、CISC系であるこ
とは知っておくべきでしょう。
 NSFネットの基幹ネットワークのノード間をつなぐ通信線の
伝送速度は当初56キロビット/秒でしたが、次のように改善し
ていったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1988年  448キロビット/秒
     1989年 1.55メガビット/秒
     1991年   45メガビット/秒
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1991年には、3台のIBMのRT/PCの分担処理を変更
し、IBMのRS/6000というワークステーション1台でや
るようになります。
 そして、1990年2月28日、ARPAネットは正式に幕を
閉じ、NSFネットに引き継がれたのです。この時点でインター
ネットは軍事的背景からは解放されたことになりますが、それを
動かしている組織――技術的意思決定をする組織はARPAネッ
ト時代と何もかわらなかったのです。
 それに、NSFネットの利用目的はあくまで「学術・研究」に
限られ、商業目的のネットワークはNSFネットが提供している
インターネットのバックボーンに接続できなかったのです。
 ごちゃごちゃしてきたのでここで整理しておきましょう。
 1983年にARPAネットから軍事関係の部分であるMIL
NETを分割し、1980年代の前半は、各地に大学や研究所を
結んだネットワークが乱立するようになります。
 1985年にデニス・ジェニングス博士が中心となってNSF
ネットの構築をはじめます。そして、1986年には全米5大学
のスーパー・コンピュータを結ぶバックボーンができ、このバッ
クボーンに地域ネットワークが接続をはじめるのです。これが、
1980年代後半の動きです。
 ARPAネットを受け継いだNSFネットは、利用目的が「学
術・研究」に限られていたので、商業目的のネットワークは、N
SFのバックボーンには接続せず、TCP/IPでパケットを交
換するネットワーク間通信を行うようになり、これがどんどん拡
大していったのです。この頃からこのネットワークを「インター
ネット」と呼ぶようになっていったのです。
 そして、1995年にNSFネットは、ARPAネットの廃止
からわずか数年で廃止に追い込まれます。そしてここに、インタ
ーネットの完全民営化が実現したのです。
 インターネット――インターは「〜の中の」という意味です。
したがって、インターネットは「ネットワークとネットワークの
中のネットワーク」という意味になります。ARPAネットがな
くなっても、NSFネットが廃止されても、インターネットは問
題なく機能しているのです。 
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/43]


≪画像および関連情報≫
 ・NSFネット/5大学スーパー・コンピュータ間を結ぶ基幹
  ネットワーク――牛島研究室/オンライン参照

NSFネット.jpg
NSFネット
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2009年11月30日

●IBM社とインターネット/BITネット(EJ第1704号)

 43回にわたって続けてきました「インターネットの歴史/
Part1」は12月2日で終了します。 本来であればインターネッ
トは1990年に入ってから大きく変わったので、さらに続ける
べきですが、あまりにも長くなるので、1990年代以降のイン
ターネットについては、日本におけるインターネットの歴史と一
緒にして、別の機会に取り上げることにします。
 そこで今回を含めて最後の3回は、インターネットに深く関わ
りながら、なぜかインターネットの誕生・発展の少なくとも主役
ではなかった2つの巨大企業のインターネットへの関わりについ
て述べることにします。
 2つの巨大企業の1つとはIBM社です。前回述べたように、
IBM社は、NSFネットの基幹ノードを構築し、インターネッ
トのノウハウについては熟知していたのです。しかし、それを生
かして他に売る努力をしていない――それはなぜでしょうか。
 推測ですが、IBM社はやはり大型コンピュータから脱却でき
ていなかったからではないかと思います。1990年代から急速
に普及するPCにおいても主導権をとれなかったし、インターネ
ットについても、必ずしも強いリーダーシップを発揮していると
はいえないからです。
 このことに関連して、IBMの大型汎用機を使う人たちの間で
作られていたBITネットについて述べることにします。
 BITネットの「BIT」という意味には次の2つがあるとい
われています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      BIT = Because It is There.
      BIT = Because It is Time.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ビコーズ・イッツ・ゼア」は、「それがそこにあったから」
という意味であり、「ビコーズ・イッツ・タイム」は、「時が満
ちていたから」という意味になります。
 BITネットの創始者は、アイラ・フュークスという人です。
1980年当時、フュークスを含めた大学関係者でコンピュータ
を使っている人たちの間には、ARPAネットに関しては大きな
不満が渦巻いていたのです。
 それは、ARPAネットは素晴らしいネットワークなのだが、
利用に当って制約が多過ぎるという不満です。実際にかなりのア
クセス制限があったのです。そこで、ARPAネットに接続でき
なくても、似たようなことができないかと考えていたのです。
 そこで使ったのがIBM社の「Vネット規格」です。フューク
スはこの規格を使って、IBMのVM370というコンピュータ
を使っている大学間をネットワーク化することを考えたのです。
要するにこのネットワークは、特定のコンピュータ会社の特定種
類のコンピュータ同士をつなぐという、きわめて内向きのネット
ワークなのです。
 IBM社のコンピュータユーザであるフュークスの立場から見
ると、自分が使っているコンピュータを、同じメーカの他のコン
ピュータと接続したいと考えたら、「そこに(Vネットという)
規格があったら」それを使ってネットワークを構築したというわ
けです。そういう意味でそのネットワークはBITネットと名づ
けられたという考え方です。
 いや、ARPAネットが充実し、コンピュータのネット機能も
充実している――すなわち、「時が満ちていたから」当然に作ら
れたネットワークという考え方もあるのです。
 フュークスの呼びかけにIBM社製の大型汎用機を使っている
大学が応じ、BITネットは、米国からカナダ、ヨーロッパまで
広がっていったのです。実際にできたことといえば、電子メール
やファイル交換機能という限られたものであったのですが、それ
でも他に手段がなかった時代ですから、結構重宝がられていたの
です。そして、この結果、メーリング・リストというサービスが
生み出されることになります。
 最終的には、32ヶ国の2300台以上のコンピュータがつな
がれ、その規模はARPAネットをしのぐほどになります。そし
て最終的には「世界一の学術コンピュータ・ネットワーク」とい
われるようになるのです。
 IBM社はBITネットに対して「自社にとって誇らしいユー
ザ・グループの活動」として、大規模な資金援助を行っているの
ですが、これには他の草の根ネットワークからはやっかみと批判
の声があったようです。
 NSFネットはちょうどこのときできたのです。このことによ
り、アイラ・フュークスは、ARPAネット経由のインターネッ
トがペンタゴンを離れ、民営化されることを受けて、同じような
ネットワークであるCSネットと合併して学術研究ネットワーク
会社――CRENを形成するのです。そして、CRENは、TC
P/IPを採用することによって、やがてインターネットに吸収
されていったのです。他の草の根ネットについても、同じような
行動を起こしているのです。
 IBM社関連では、もうひとつ「Fidoネット」と呼ばれる
ものがあったのです。これは、IBM PCを使う人々のネット
ワークです。IBM PCが発売されたのが1981年8月のこ
とであり、「Fidoネット」がスタートしたのは1983年か
らです。
 「Fidoネット」は、IBM PCやIBM互換PCを使っ
ている人たち用の電子メール交換用のネットワークです。そうい
う「Fidoネット」のユーザは、ARPAネットで行われてい
た情報交換の場を何とか作ろうとして、「電子掲示板システム」
(BBS)を作り出しています。
 BBSは米国では「オンライン・サービス」、日本では「パソ
コン通信」というかたちで流行することになります。しかし、こ
のサービスは中央のコンピュータを大勢の人で使う時分割処理シ
ステムの大衆版そのものなのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/44]


≪画像および関連情報≫
 ・「貧者のARPAネット」
  IBMのコンピュータのユーザ同士のネットワークがあった
  ように、UNIXというOS――ワークステーションに搭載
  ――を使う人たちのネットワークがある。「ユーズネット」
  がそれである。
 ・きっかけは、1981年のUNIXへのTCP/IPの標準
  搭載である。これはARPAネットに対して「貧者のARP
  Aネット」といわれたのである。そういう意味では、CSネ
  ット、BITネット、Fidoネットも、すべて「貧者のA
  RPAネット」ということになる。

日本のBBS/パソコン通信.jpg
日本のBBS/パソコン通信
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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