ントの建設に14億ドル、その稼動に6億ドル、合計20億ドル
もの大金がかかったのです。これは、米国政府にとってはじめて
のビック科学プロジェクトになったのです。
この金額は、当初は誰も予想していなかった巨額の金額であり
コストがかさめばかさむほど、その「成果」を確認させる必要性
が生じてきたといえます。なぜなら、戦時中とはいえ、20億ド
ルもの巨額な税金が、納税者へのきちんとした説明もなく、議会
の承認も得ずに投入されていたからです。
ヴァネヴァー・ブッシュは、この原爆製造計画について途中で
非常に不安に駆られたと回想記に述べています。どうしてかとい
うと、最終決断は大統領であるとはいえ、それは事実上自分の案
そのものであったからです。彼が不安に感じていたのは、大統領
決定が得られないということではなく、あまりに容易に決定され
てしまうことに対する不安だったのです。
ブッシュは、原爆開発に関する「最高政策決定グループ」を作
るよう大統領に提言し、認められています。メンバーは次の5人
だったのです。
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ヴァネヴァー・ブッシュOSRD長官――議長
ウォレス副大統領
スティムソン陸軍長官
ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長
コナントNDRC委員長
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しかし、5人で討議して何かを決めるというより、原爆のこと
が一番よくわかっているのはブッシュだけであり、ブッシュが反
対すれば何も通らないし、彼が案を出せば、それが「最高政策決
定グループの提案」ということになって、大統領はそれをそのま
ま了承するというかたちになる――ブッシュを不安にさせたのは
これだったのです。権限が大きくなり過ぎて、それが彼を孤独に
させ、責任の重圧から不安感をいだくようになったのです。
さまざまな技術的困難を乗り越えてマンハッタン計画は着々と
進行し、遂に1945年2月、プルトニュウムがロスアラモスの
爆弾製造班に渡され、いよいよ、原子爆弾の完成は時間の問題と
なっていったのです。
しかし、1945年4月12日、フランクリン・デラノ・ルー
ズベルトは急逝してしまいます。そして、副大統領のハリー・S
・トルーマンが大統領に就任します。
ヴァネヴァー・ブッシュは、トルーマン大統領にマンハッタン
計画についてすべてを打ち明けます。ルーズベルト大統領は、副
大統領のトルーマンにも最高機密のマンハッタン計画のことは、
一切話していなかったからです。
驚いたのはトルーマンです。しかし、その時点ではたとえ大統
領といえども、流れを変更することはできなかったのです。19
45年4月27日――第1回の標的委員会が開催され、どこに原
爆投下をするかが検討されたのです。
新兵器の破壊力を正確に知るには、日本のまだ空襲を受けてい
ない無傷の地域で、100万人以上の人口があるところが検討さ
れたのです。その結果、京都、広島、横浜、小倉が理想的な標的
であるとされたのです。
しかし、京都は貴重な文化遺産があるとして、スティムソン陸
軍長官が反対して外され、標的は広島、長崎に決定されます。そ
して、運命の8月6日、エノラ・ゲイ号が広島に原爆を投下し、
9日には長崎にも投下したのです。大変なお金をかけて作ってし
まったものは、結局、その威力を議会に見せつけ、国民を納得さ
せるためにかくして使われてしまったのです。
原爆製造に関して米国と英国との関係にも言及しておきます。
米国は1940年8月頃から英国と兵器開発協力を行っていたの
です。英国も米国と兵器を開発することは積極的だったのですが
原爆開発に関しては別だったのです。
当初、原爆開発に関して英国は米国よりも進んでおり、原子力
の大きな政治的、軍事的意味を考えて、自国開発を望んでいたか
らです。
ヴァネヴァー・ブッシュは、英国の原爆開発責任者であるアン
ダーソン卿に原爆の共同開発を何回も働きかけたのですが、英国
は一向に乗ってこなかったのです。しかし、ドイツの空爆はます
ます激しさを増し、1942年になって、英国首脳部は米国との
原爆の共同開発を行うしかないと考えたのです。
しかし、時既に遅し。この時点で米国は1941年末に「代替
燃料計画」という名の原爆開発をはじめており、既に米国独自で
原爆を製造する体制が整いつつあったのです。そして、6月17
日、ルーズベルト大統領は、ブッシュが議長を務める最高政策決
定グループの提出した原爆製造計画を承認し、全速力で開発を進
めるよう指示を出しています。
6月20日にハイドパークで米英首脳会談が行われいるのです
が、その時点でも英国は米国の動きを正確には掴んでいなかった
ようなのです。しかし、チャーチルはこの会談で「原爆の製造は
米国で行う」ことを認めているのです。
7月に入って英国は、原爆製造プラントは英米共同プロジェク
トでやることを米国に申し入れてきます。今度は、英国のアンダ
ーソン卿がしきりとブッシュに書簡を送り、共同事業化を求めて
きたのです。
そういう英国の態度を見てブッシュは、英国に見切りをつける
のです。この時点で英国と組んでも損するのは米国であると考え
たのです。そして、ルーズベルト大統領に英国には原爆開発の情
報を漏らさないよう進言し、大統領の承認をとるのです。そのあ
と英国との間は非常に良くない状況になるのですが、これについ
ては話を省略します。なお、「ブッシュ対チャーチル会談」は関
連資料を参照。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/05]
≪画像および関連情報≫
・チャーチル首相からの激しい抗議に困り果てたルーズベルト
は、対応をブッシュに丸投げし、ブッシュはチャーチルにつ
かまって、ひどい目にあう。それだけ、ブッシュは大物であ
るということである。以下はブッシュの回想記より。
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チャーチルは、情報交換について、十分か十五分にわたっ
て、わめきちらした。いわく、不公平だ、理にかなっていな
い、不合理だ、いまの取り決めでは不満だ、あげくのはてに
貴様はなんていまいましいやつだ、とののしった。首相は、
閣議室の席につき、葉巻をくわえて火をつけようとする。私
の見るところでは、葉巻の先端を切っていないので火がつか
ず、肩ごしに暖炉の方に向って火のついているマッチを次か
ら次へ放り投げた。海軍大臣たちを次の間に待たせているよ
うだったが、首相は、私のやり方を罵倒しつづけた。私は何
も言わなかった。首相の弾劾演説がようやく終わったとき、
私は「アメリカの原子力開発は、現在、陸軍の管轄下にあり
ます。陸軍長官がロンドンにおられますので、彼がいない場
所でそのことについて議論したくありません。」とだけ言っ
た。「よくわかった。正式に話し合いすることにしよう」と
チャーチルは答えた。こうしてこの異様な話し合いは終わっ
た。――歌田明弘著『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー
・ブッシュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
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ルーズベルトとチャーチル