2009年10月01日

●作ったものは必ず使うことになる(EJ第1665号)

 マンハッタン計画――原爆の開発は、当時のお金で、そのプラ
ントの建設に14億ドル、その稼動に6億ドル、合計20億ドル
もの大金がかかったのです。これは、米国政府にとってはじめて
のビック科学プロジェクトになったのです。
 この金額は、当初は誰も予想していなかった巨額の金額であり
コストがかさめばかさむほど、その「成果」を確認させる必要性
が生じてきたといえます。なぜなら、戦時中とはいえ、20億ド
ルもの巨額な税金が、納税者へのきちんとした説明もなく、議会
の承認も得ずに投入されていたからです。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、この原爆製造計画について途中で
非常に不安に駆られたと回想記に述べています。どうしてかとい
うと、最終決断は大統領であるとはいえ、それは事実上自分の案
そのものであったからです。彼が不安に感じていたのは、大統領
決定が得られないということではなく、あまりに容易に決定され
てしまうことに対する不安だったのです。
 ブッシュは、原爆開発に関する「最高政策決定グループ」を作
るよう大統領に提言し、認められています。メンバーは次の5人
だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ヴァネヴァー・ブッシュOSRD長官――議長
    ウォレス副大統領
    スティムソン陸軍長官
    ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長
    コナントNDRC委員長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、5人で討議して何かを決めるというより、原爆のこと
が一番よくわかっているのはブッシュだけであり、ブッシュが反
対すれば何も通らないし、彼が案を出せば、それが「最高政策決
定グループの提案」ということになって、大統領はそれをそのま
ま了承するというかたちになる――ブッシュを不安にさせたのは
これだったのです。権限が大きくなり過ぎて、それが彼を孤独に
させ、責任の重圧から不安感をいだくようになったのです。
 さまざまな技術的困難を乗り越えてマンハッタン計画は着々と
進行し、遂に1945年2月、プルトニュウムがロスアラモスの
爆弾製造班に渡され、いよいよ、原子爆弾の完成は時間の問題と
なっていったのです。
 しかし、1945年4月12日、フランクリン・デラノ・ルー
ズベルトは急逝してしまいます。そして、副大統領のハリー・S
・トルーマンが大統領に就任します。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、トルーマン大統領にマンハッタン
計画についてすべてを打ち明けます。ルーズベルト大統領は、副
大統領のトルーマンにも最高機密のマンハッタン計画のことは、
一切話していなかったからです。
 驚いたのはトルーマンです。しかし、その時点ではたとえ大統
領といえども、流れを変更することはできなかったのです。19
45年4月27日――第1回の標的委員会が開催され、どこに原
爆投下をするかが検討されたのです。
 新兵器の破壊力を正確に知るには、日本のまだ空襲を受けてい
ない無傷の地域で、100万人以上の人口があるところが検討さ
れたのです。その結果、京都、広島、横浜、小倉が理想的な標的
であるとされたのです。
 しかし、京都は貴重な文化遺産があるとして、スティムソン陸
軍長官が反対して外され、標的は広島、長崎に決定されます。そ
して、運命の8月6日、エノラ・ゲイ号が広島に原爆を投下し、
9日には長崎にも投下したのです。大変なお金をかけて作ってし
まったものは、結局、その威力を議会に見せつけ、国民を納得さ
せるためにかくして使われてしまったのです。
 原爆製造に関して米国と英国との関係にも言及しておきます。
米国は1940年8月頃から英国と兵器開発協力を行っていたの
です。英国も米国と兵器を開発することは積極的だったのですが
原爆開発に関しては別だったのです。
 当初、原爆開発に関して英国は米国よりも進んでおり、原子力
の大きな政治的、軍事的意味を考えて、自国開発を望んでいたか
らです。
 ヴァネヴァー・ブッシュは、英国の原爆開発責任者であるアン
ダーソン卿に原爆の共同開発を何回も働きかけたのですが、英国
は一向に乗ってこなかったのです。しかし、ドイツの空爆はます
ます激しさを増し、1942年になって、英国首脳部は米国との
原爆の共同開発を行うしかないと考えたのです。
 しかし、時既に遅し。この時点で米国は1941年末に「代替
燃料計画」という名の原爆開発をはじめており、既に米国独自で
原爆を製造する体制が整いつつあったのです。そして、6月17
日、ルーズベルト大統領は、ブッシュが議長を務める最高政策決
定グループの提出した原爆製造計画を承認し、全速力で開発を進
めるよう指示を出しています。
 6月20日にハイドパークで米英首脳会談が行われいるのです
が、その時点でも英国は米国の動きを正確には掴んでいなかった
ようなのです。しかし、チャーチルはこの会談で「原爆の製造は
米国で行う」ことを認めているのです。
 7月に入って英国は、原爆製造プラントは英米共同プロジェク
トでやることを米国に申し入れてきます。今度は、英国のアンダ
ーソン卿がしきりとブッシュに書簡を送り、共同事業化を求めて
きたのです。
 そういう英国の態度を見てブッシュは、英国に見切りをつける
のです。この時点で英国と組んでも損するのは米国であると考え
たのです。そして、ルーズベルト大統領に英国には原爆開発の情
報を漏らさないよう進言し、大統領の承認をとるのです。そのあ
と英国との間は非常に良くない状況になるのですが、これについ
ては話を省略します。なお、「ブッシュ対チャーチル会談」は関
連資料を参照。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/05]


≪画像および関連情報≫
 ・チャーチル首相からの激しい抗議に困り果てたルーズベルト
  は、対応をブッシュに丸投げし、ブッシュはチャーチルにつ
  かまって、ひどい目にあう。それだけ、ブッシュは大物であ
  るということである。以下はブッシュの回想記より。
  ―――――――――――――――――――――――――――
   チャーチルは、情報交換について、十分か十五分にわたっ
  て、わめきちらした。いわく、不公平だ、理にかなっていな
  い、不合理だ、いまの取り決めでは不満だ、あげくのはてに
  貴様はなんていまいましいやつだ、とののしった。首相は、
  閣議室の席につき、葉巻をくわえて火をつけようとする。私
  の見るところでは、葉巻の先端を切っていないので火がつか
  ず、肩ごしに暖炉の方に向って火のついているマッチを次か
  ら次へ放り投げた。海軍大臣たちを次の間に待たせているよ
  うだったが、首相は、私のやり方を罵倒しつづけた。私は何
  も言わなかった。首相の弾劾演説がようやく終わったとき、
  私は「アメリカの原子力開発は、現在、陸軍の管轄下にあり
  ます。陸軍長官がロンドンにおられますので、彼がいない場
  所でそのことについて議論したくありません。」とだけ言っ
  た。「よくわかった。正式に話し合いすることにしよう」と
  チャーチルは答えた。こうしてこの異様な話し合いは終わっ
  た。――歌田明弘著『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー
  ・ブッシュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ルーズベルトとチャーチル.jpg
ルーズベルトとチャーチル
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2009年10月02日

●ブッシュ、ウィナー、ノイマンの関係(EJ第1666号)

 インターネットの歴史の話をするのに、なぜ、原爆開発の舞台
裏の話が必要なのか――こういう疑問をいだく読者がいるかもし
れません。しかし、これらはコンピュータやインターネットと無
関係ではないのです。
 世界ではじめて原爆を開発するのですから、大勢の数学の専門
家を集め、智恵を絞る必要があります。そして、膨大にして複雑
な計算処理をこなさなければならないのです。その計算にはコン
ピュータが不可欠ですが、当時は現代のようなコンピュータはな
く、計算には大変な時間がかかったのです。それに、いうまでも
ないことながら、そこに莫大な予算が必要になります。
 今までにある技術に予算をつけるのと違って、新しい、その効
果が実証済みでない技術に予算を獲得するのは大変なことなので
す。ヴァネヴァー・ブッシュのやったことは、そういう国家的プ
ロジェクトを推進するために、科学者が主導権を取りやすいシス
テムというか体制を作ったことです。
 これがあの時期において原爆の開発を前進させ、さらに、軍事
的に使う新しいネットワーク――すなわち、インターネットの開
発に大きく寄与したのです。
 原爆の開発やインターネットの開発に直接的にはヴァネヴァー
・ブッシュの名前は出てきませんが、もし、ブッシュの作り上げ
た軍・大学・産業が一体となって国家的重要プロジェクトに取り
組む仕組みがなかったら、米国において原爆もインターネットも
開発されてはいなかったと思うのです。
 さて、この後の話に何回も登場する3人のキーマンがいます。
それぞれの人がどういう年代に活躍した人であるのかを次に示し
ておきます。これで見ると、ブッシュがいかに長生きであったか
がよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ヴァネヴァー・ブッシュ ・・・ 1890−1974
 2.ノーバート・ウイナー  ・・・ 1894−1964
 3.フォン・ノイマン    ・・・ 1903−1957
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3人はどういう関係にあるのか――3人の中では一番年が若く
早く亡くなったフォン・ノイマンの話からします。ノイマンは、
ハンガリーのブダペストで生まれているが、子供の頃から「普通
とは違う」人であったといいます。
 友人がノイマンの記憶力を確かめるために『二都物語』の冒頭
には何が書いてあったかいってみろといったそうです。これに対
してノイマンは、一瞬もためらうことなく語り始め、実に15分
以上続けたそうです。友人が確かめたところ、一字一句間違って
いなかったというのです。驚くべき記憶力です。
 ノイマンは、ブダペスト大学から数学の博士号、チューリッヒ
大学から科学の博士号を同時に授与され、1927年にドイツの
ゲッチンゲン大学において、著名な数学者であるダーフィト・ヒ
ルベルト教授の元で指導を受けています。このときの仲間には、
あの原爆開発のオッペンハイマーもいたのです。そして同大学の
教授として5年間を過ごすのです。
 ノイマンはこの時点で抜群の業績を上げて名声を博し、20代
半ばにして数学界にフォン・ノイマンを知らない者はいないほど
有名な数学者になったのです。しかし、彼が本当に実力を発揮す
るのはそれ以降のことなのです。
 フォン・ノイマンはナチスが台頭する前に米国に渡り、193
3年に開設されたプリンストン大学の高等研究所の最も若い研究
員になっています。そして、彼は純粋な応用数学のみならず、物
理や経済学、それに一種の哲学――とくに量子パラドックスにつ
いても優れた業績を残し、「最後の万能学者」といわれるように
なるのです。
 1941年にマンハッタン計画に参画――オッペンハイマーの
指揮の下で原爆の製造に取り組むことになります。彼は、移民で
ある自分がマンハッタン計画のような重要プロジェクトに参画で
きることを誇りに思い、これに全力を尽くしたのです。
 原爆の開発には、膨大で複雑な計算をこなす必要があります。
この面倒な計算をノイマンは一手に引き受け、起爆装置のレンズ
の設計などの難問を次々と解決していったのです。
 このときノイマンが計算処理をするために使っていたのが「微
分解析機」というマシンです。実はこれは、当時MITの教授を
していたヴァネヴァー・ブッシュのチームが、1930年に開発
したマシンなのです。
 実はブッシュは、最初に「ネットワーク解析機」というマシン
を作ったのです。ブッシュの専門は「電力伝送」なのですが、当
時の電力系のネットワークは非常に不安定であり、この現象を記
述する回路の方程式は解析が非常に難しく、手計算では到底無理
だったのです。そこでブッシュのチームは、電力系のネットワー
クをシミュレートする装置を開発しようとして「ネットワーク解
析機」を作ったのです。
 ブッシュのチームは、このネットワーク解析機の機能をさらに
強化させて「微分解析機」を作ります。これを使うと、6段まで
の微分方程式を解くことができるのです。このようにいうと、縁
遠い世界の話に聞こえますが、この微分解析機は「アナログ・コ
ンピュータ」なのです。当時のコンピュータは「アナログ」だっ
たのです。
 このアナログ・コンピュータの開発に当ってブッシュは、同じ
MITで教授をしていたノーバート・ウィナーに何度も相談し、
開発を進めたといわれています。ウィナーは、天才数学者といわ
れ、その著書、『サイバネティックスはいかにして生まれたか』
はあまりにも有名です。
 これで、多少大雑把ではありますが、フォン・ノイマン、ヴァ
ネヴァー・ブッシュ、ノーバート・ウィナーの3人がつなががっ
たと思います。月曜日はこの話をさらに進めます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/06]


≪画像および関連情報≫
 ・脇英世著、『インターネットを創った人たち』(青土社刊)
  には、微分計算機について次のように出ている。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  微分計算機は遅い。原理的には積分は円盤が回転し終わらな
  ければ終了しないからだ。何回も積分操作が入れば演算時間
  はそれだけ長くかかることになる。手回し計算機で計算する
  より、50倍程度速かっただけだそうだ。電卓に手の生えた
  程度の計算速度だろう。
  ―――――――――――――――――――――――――――

フォン・ノイマン.jpg
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2009年10月05日

●アナログにこだわるヴァネヴァー・ブッシュ(EJ第1667号)

 ここまで、ヴァネヴァー・ブッシュという一人の優れた科学者
が、いかに最高の政治的権力を持つにいたったかについて述べて
きましたが、彼にも大きな問題点があったのです。
 フォン・ノイマンは、かねてからコンピュータの開発が国家に
とっていかに重要であるかということを考えていたのです。彼の
考えているコンピュータは、単なる計算機ではなく、人間の機能
を拡張させるものだったのです。
 そのためには、コンピュータは可能な限り最新の機能を備えた
ものである必要があり、その観点からそれはデジタル技術のもの
である必要があったのです。当時はアナログ・コンピュータの時
代であり、デジタル・コンピュータの必要性はまるで理解されて
いなかったのです。
 しかし、コンピュータ――それもデジタル・コンピュータの開
発は途方もなくお金のかかるものであり、国家として開発すべき
ものである――そう考えたフォン・ノイマンは、太平洋大戦終了
後に、ヴァネヴァー・ブッシュに相談を持ちかけたのです。コン
ピュータについて理解できる頭を持ち、巨額な資金を動かせる政
治力のある人物は、ブッシュしかいなかったからです。
 ところが、ブッシュは、コンピュータはデジタルで開発しなけ
ればならないとするフォン・ノイマンの主張に真っ向から反対を
唱えたのです。ブッシュはアナログにこだわっていたのです。
 実はデジタル・コンピュータの必要性をブッシュに説いたのは
ノーバート・ウィナーの方が早かったのです。ウィナーは、19
40年9月に、デジタル・コンピュータのアイデアを書いた12
ページのメモをブッシュに送っているのです。
 しかし、ブッシュはこのウィナーの提案を拒否し、一顧だにし
なかったのです。彼は自らアナログ・コンピュータを制作してお
り、アナログに相当の思い入れがあったからです。
 このようにあくまでアナログにこだわるブッシュについてウィ
ナーは、次の言葉でそれとなく批判しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ヴァネヴァー・ブッシュは、頭で考えるのと同じ程度に
  手でも考える男である   ――ノーバート・ウィナー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これはどういう意味かわかるでしょうか。
 ちょっと考えると褒めているようですが、これは批判している
のです。ウィナーは、ブッシュの、機械のかたちでしか物事を理
解できない想像力の欠如というか限界について、精一杯の皮肉を
込めて「手でも考える男」といったのです。
 PCを例に上げると、今の世の中でも、PCというものを「ひ
とつの機械」としてしか認識できない人はたくさんいます。PC
はハードウェアとソフトウェア(OS+アプリケーション)から
成るマシンですが、ソフトウェアというものがどうしても認識で
きない人がいるのです。したがって、そういう人は、OSの不具
合もアプリケーションのバクも、すべてPCという機械の故障と
しかとらえられないのです。PC全体をハードウェアとして認識
しているからです。
 しかし、そうだからといって、ブッシュという科学者の能力が
低いということにはならないのです。なぜなら、その当時は世の
中すべてがアナログの時代であり、むしろ、そういう時代にデジ
タルの必要性を説くフォン・ノイマンやノーバート・ウィナーの
能力が人並み外れて高かったと考えるべきです。
 ブッシュは、「メメックス(MEMEX)」という機械のアイ
デアを発表しています。これは、太平洋戦争終結直前の1945
年7月の「アトランティック・マンスリー」誌に次のタイトルで
掲載された論文に出ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『われわれが思考するごとく――As we may think』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文は、戦争終結後、科学者は次に何をするべきかについ
て論じたものです。それでは、メメックスとはどういう機械なの
でしょうか。論文には次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それは机でできている。そして多分遠方からも操作できるが
 原則的には人が仕事をする家具である。上部には傾斜した透明
 なスクリーンがあって、その上に楽に読めるように資料が投影
 される。キーボード、ボタンのセット、レバーもある。それら
 がなければ、それは普通の机のように見える。
  一方の端には保存された資料がある。大部分は改良マイクロ
 フィルムに処理されている。メメックス内部のわずかな部分だ
 けが記憶装置になっていて、残りは機構装置である。それでも
 ユーザーが一日に5000ページ分の資料を挿入したとしても
 その貯蔵所を満杯にするには何百年もかかるので、ユーザーは
 浪費が許されて、資料を自由に入れることができる。
  メメックスのコンテンツの大部分は、すぐにも機械に挿入で
 きるマイクロフィルムで買うことができる。  ――脇英世著
      『インターネットを創った人たち』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メメックスは、一種のマイクロフィルム検索装置と考えられま
す。仕事の資料はマイクロフィルムに映しとって、保存スペース
におさめて、検索してスクリーンに映し出して利用します。再生
するだけではなく、自分のコメントを書き込むこともできます。
何となく現在のPCのような使い方です。
 当時としては驚くべきアイデアといえますが、装置としては、
1930年代のアナログ装置そのものです。ブッシュは、テキス
ト(文字)だけでなく、画像や音声までをメメックスの情報とし
て扱うことを考えており、そういう意味でメメックスはマルチメ
ディア・マシンと呼ぶことができます。しかし、このマシン、ア
ナログではありますが、現代に通じるアイデアも豊富に含まれて
いたのです。明日のEJで述べます。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/07]


≪画像および関連情報≫
 ・MEMEX――ブッシュがメメックスのアイデアを得た時期
  は「われわれが思考するごとく」発表の10年以上前のこと
  である。

MEMEX.jpg
MEMEX
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2009年10月06日

●ENIACからMANIACへ(EJ第1668号)

 ヴァネヴァー・ブッシュはこう考えたのです。あるテーマにつ
いて思考しようとするとき、その思考のための準備行為――とく
に関連資料の収集に膨大な時間がかかる――これを何とかできな
いものかと考えていたのです。この解決策としてメメックスの構
想が生まれたのです。
 メメックスの長所は資料の検索が柔軟にできることです。情報
を記述した通常のテキストは、ページ順に読まなければならない
のですが、メメックスの場合は読む順序は自由に決められ、さま
ざまなテキストを横断して、反復して読むことができるのです。
そして道筋を記憶させておくことによって、元の場所にも簡単に
戻れる――テキストの革命です。
 このアイデアは、のちに「ハイパーテキスト」と呼ばれて、コ
ンピュータによる情報処理の重要なコンセプトになるのです。さ
らにその情報はテキストだけでなく、ヴィジュアルの資料や音声
を含んでいたのです。メメックスにおいて写真を取り込み、何ら
かの方法で音声や動画まで扱うことまで考えていたのです。これ
は、マルチメディア・マシンそのものです。
 ヴァネヴァー・ブッシュをテーマに一冊の本を書いた歌田明弘
氏は、その本の中で次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (ヴァネヴァー・ブッシュが)50年代末に書いた『メメック
 スU』というエッセイでは、ブッシュは、電話線を介して、図
 書館のメメックス・マシンで必要な文献を検索し、ファクシミ
 リを使ってそのまま自宅のメメックスにとりこむことも考えて
 いる。実際、いまや、電話線をとおして、デジタル化されたデ
 ータをいながらにして入手し、自分のコンピュータにおさめて
 利用することができる。
 ――歌田明弘著『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
          シュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべし、これは、現在の「インターネット」そのものではな
いでしょうか。ヴァネヴァー・ブッシュは今から実に55年も前
に、今日のコンピュータ文化を予見していたのです。
 これほど優れた学者であるブッシュですが、なぜ、コンピュー
タの開発に関してはアナログにこだわり、デジタルを拒否したの
でしょうか。
 それは、フォン・ノイマンらが中心になって開発が進められて
いた世界初のデジタル・コンピュータENIACは相当ひどい代
物だったのです。動作はきわめて安定せず、雷雲がくると調子が
おかしくなるしまつです。
 ENIACを見たIBMの創業者の息子で、後に同社会長にな
るトーマス・ワトン・ジュニアは、世界で初めて稼動したENI
ACを見たとき、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あのENIACはせいぜいが興味深い実験装置であって、われ
 われとはおそらく無縁だろう。
              ――トーマス・ワトン・ジュニア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あのIBMですらこうだったのです。つまり、ビジネスパーソ
ンの目から見ると、ENIACは「金ばかりかかる信頼性の低い
マシン」であり、とても使い物になるとは見えなかったのです。
ある意味では、ビジネスマン的な合理性を持つブッシュとしては
納得のいくマシンとは思えなかったのでしょう。
 しかし、フォン・ノイマンは違っていたのです。コンピュータ
はデジタルであるべきだという信念を持っていたのです。ノイマ
ンは、マンハッタン計画での原爆開発のプロセスにおいて、ブッ
シュの開発したアナログ計算機を使っており、その限界を嫌とい
うほど知っているからです。
 ENIACの開発が終了したときの最初の計算は、フォン・ノ
イマンが主導して行っています。実際には1945年12月から
翌年の1月にかけて、ロスアラモスの2人の物理学者によって行
われたのです。
 計算内容は、水爆開発のための予備的な計算である3つの微分
方程式を解くもので、そのためのデータが打ち込まれた約50万
枚のパンチカードがENIACの設置されているペンシルヴァニ
ア大学に運ばれたのです。
 ENIACはこの計算を約6週間で仕上げています。もし、ア
ナログ計算機で行ったら、100人で1年はかかっていたはずで
あり、かなりのスピードであることが証明されたのです。ENI
ACによる計算の状況を見て、フォン・ノイマンは、プログラム
をコンピュータに内蔵させるというアイデアを思いつくのです。
 それまでのデジタル・コンピュータは、ひとつの計算が終了す
るたびに機械をリセットし、次の計算を行うという効率の悪いも
のだったのです。
 ノイマンは、コンピュータに記憶装置を作り、そこにプログラ
ムをデータとして格納し、これを順番に読み込んで計算するとい
うコンピュータを提案したのです。これなら、いちいちリセット
することなく、連続して計算することができるからです。
 これは「ストアドプログラム方式」――ノイマン型コンピュー
タと呼ばれ、現在のコンピュータの基になったのです。ノイマン
はこのアイデアを海軍に気候予測の計算のためと称して売り込み
1952年3月から稼動をはじめています。その名前は次のよう
につけられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Mathematical Analyzer Numerical Integrator and Computer
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この頭文字をとると、MANIAC(マニアック)となるので
す。ENIACからMANIACへ−−海軍は正式な開発をIB
Mに委ねます。当社とは縁のないもの――当初のワトソンの言葉
からの180度転換です。   
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/08]


≪画像および関連情報≫
 ・歌田明弘著、『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
  シュ/原爆・コンピュータ・UFO』/エピローグより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  原爆とコンピュータ・カルチャーとUFO。ブッシュという
  名は、いま、相互に何の関係があるかわからないこの三点の
  うえに位置している。「現代はどういう時代なのか」という
  問いに答えるのは容易ではない。だが、強いて答えるなら、
  この奇妙な三角形のうえにいるヴァネヴァー・ブッシュとい
  うこの男の有りように、それを見てとることができる、と言
  えるかもしれない。
  ―――――――――――――――――――――――――――

V・ブッシュと歌田氏の本.jpg
V・ブッシュと歌田氏の本
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2009年10月07日

●クロード・シャノンは何をやったか(EJ第1669号)

 ヴァネヴァー・ブッシュのもうひとつ大きな業績は、クロード
・シャノンという人物を世に出したことです。ところで、クロー
ド・シャノンという人物をご存知でしょうか。
 アインシュタインを知らない人はいないでしょうが、シャノン
の名前は意外に知られていないのです。何はともあれ、彼は何者
であり、何をやったのかを明らかにする必要があります。
 クロード・シャノン(1916〜2001)は、情報理論の創
始者なのです。ヴァネヴァー・ブッシュのアナログ・コンピュー
タもフォン・ノイマンのデジタル・コンピュータ――いずれもコ
ンピュータは「計算機」であり、そこには「情報」という概念は
存在しなかったのです。この「情報」という概念を作ったのが、
シャノンであり、もし、シャノンなかりせば情報処理マシンとし
ての現代のコンピュータは誕生していなかったといえます。
 19世紀から20世紀にかけての100年間は物理学の時代と
いわれます。すべてのものは物理学で説明できると考えられてい
た時代なのです。
 そういう時代にクロード・シャノンは、次のようなことをいっ
ていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  物理学だけでは解き明かすことができないものがある
  それが「情報」である   ――クロード・シャノン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンの情報の概念を説明する有名な話があります。タイプ
ライターをサルに与えて、タイプの打ち方を教えたとします。サ
ルは利口ですから、タイプライターを打つことはすぐ覚えてしま
うはずです。
 しかし、打ち出された紙には意味不明の文字が並んでいるだけ
です。一方、人間がタイプライターを使ってシェイクスピアの文
章をタイプしたとします。
 この人間が打ったシェイクスピアの文章が印字された紙とサル
が打った意味不明の文字を印字した紙とは、物理学の観点から見
れば、物質の構成も、光の反射もほとんど同じものです。しかし
人間が見ればその差は歴然としています。
 この物理学で測ることのできない「差」こそ「情報」であると
シャノンはいうのです。物理学では、世界は物質とエネルギーで
作られているとされてきたのですが、シャノンは宇宙を形作る第
3の要素として「情報」というものを指摘したことになります。
 クロード・シャノンの優れた業績には次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.情報のコード化
         2.情報の最小単位
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンの優れているところは、「物理学では情報を扱うこと
はできない」と指摘しただけでは終わらなかったところにあると
いえます。当時「情報」という言葉は既に存在したのですが、き
わめて曖昧に使われていたのです。
 シャノンは「情報」を科学的に定義し、数式や方程式で扱える
ようにしたのです。それを可能にしたのが「情報のコード化」な
のです。情報のコード化の最も分かりやすい例として「モールス
信号」をあげることができます。
 モールス信号は、「トン」(短音)と「ツー」(長音)という
2種類の信号の組み合わせで、文字を伝える方法です。添付ファ
イルに、アルファベットのモールス信号を付けておきますが、こ
れを見ると面白いことがわかるのです。
 英文の中に使われる文字には、よく使われる文字とそうでない
文字があり、統計的に判明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪最もよく使われる文字≫
  E ・・・ −         トン
  T ・・・ ――        ツー
 ≪あまり使われない文字≫
  Q ・・・ ―― ―― − ――  ツー・ツー・トン・ツー
  Z ・・・ ―― ―― −    ツー・ツー・トン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。最もよく使われる文字は短く、あまり使われな
い文字には長い音を割り付けています。少しでも早く情報を伝え
るための処置といえるでしょう。これがシャノンの考えた「情報
のコード化」なのです。
 これに加えてシャノンは「情報の基本単位」を明らかにしてい
るのです。物理学では、物資の基本となるものは「原子」である
としています。あらゆる物質は原子から作られている――正確に
いえば、原子を構成する素粒子である――情報の世界にも最小の
単位があることを明らかにしているのです。
 この情報の最小単位を「ビット」というのです。ビットとは、
「0」か「1」ということになります。シャノンは「ビットこそ
が最も基本的な情報であり、あらゆる情報はビットの単位に分解
できる」と指摘したのです。これは、ありとあらゆる情報は2進
数で表現できるということを意味しています。
 さらにシャノンは、ビットの単位までコード化できるのは、数
字だけではなく、文字、音、映像といった情報もビット化するこ
とができるとしたことです。それだけではないのです。空気の温
度や天体の運動という物理的変化・・・この世の中にあるすべて
の情報はビット化できるシャノンはいっているのです。
 このシャノンの理論から、次のように、アナログとデジタルの
考え方が出てきているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    アナログ ・・・ コード化されていない情報
    デジタル ・・・ コード化されている 情報
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/09]


≪画像および関連情報≫
 ・クロード・シャノンの略歴
  クロード・シャノンは1916年米国ミシガン州ペトスキー
  で生まれる。小さい頃から自分でものを作るのが好きな少年
  だったらしい。1932年に地元のミシガン大学に入学し、
  電気工学と数学を専攻。ここで学んだジョ−ジ・ブールの記
  号論理学は後に彼の情報理論に大きな役  割を果たすこと
  になる。1936年に卒業するとマサチューセッツ工科大学
  の研究助手になり、同時に大学院に進んだ。ここで、ヴァネ
  ヴァー・ブッシュが作った微分解析機の操作を担当している
  うちに、解析機のリレー回路をもっとうまくできないものか
  と考え、記念碑的な修士論文を書き上げる。1940年、M
  ITの博士課程を卒業し、数学博士号を取得した。その後、
  プリンストン大学にいたヘルマン・ワイルのもとで研究して
  いたが、第二次世界大戦の勃発のため1941年にベル研究
  所に入り、対空防御システムの研究を行った。戦後もベル研
  究所に残り、情報通信理論の研究をすることになった。この
  時代に情報理論の基礎的な仕事をした。1956年MITの
  教授に招かれた。一時期は一輪車で通う名物教授だったそう
  だ。1978年に引退し、2001年に逝去。

クロード・シャノンとモールス信号.jpg
クロード・シャノンとモールス信号
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2009年10月08日

●コンピュータは電子計算機にあらず(EJ第1670号)

 中高年の人はコンピュータが苦手である――日本ではこれが通
り相場になっています。日本では大企業の社長や役員、ベテラン
の政治家、財界の大物など、一部の例外はあるものの、コンピュ
ータはダメのようです。そういう人たちの中でかなり使える人が
いると、それはニュースになるほどです。
 それでもコンピュータ関連の大企業のトップは違うだろうと考
える人がいるかもしれませんが、私の知る限り、そういう業界で
も使いこなせる人はあまりいないと考えてよいと思います。紺屋
の白袴は意外に多いのです。
 どうしてかというと、彼らはコンピュータを次のように考えて
いるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      コンピュータは「電子計算機」である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、PCを使う場合、一番多いのはワープロ、次いでイ
ンターネット関連の操作でしょう。ワープロは文章を作成するも
のですが、この場合、コンピュータを電子計算機と考えている人
は、「電子計算機」と「文章作成」の関係がわからないのです。
「なぜ、文章を作成するのに計算が必要なのか」と考えてしまう
からです。
 また、インターネットでメールを受発信する――なぜ、計算機
にそんなことができるのか――これも理解できないのです。さら
に、コンピュータが「スカイプ」のように電話にもなるといわれ
ると、完全に理解不能に陥ってしまいます。
 前回までに述べたように、かつてコンピュータは電子計算機そ
のものだったのです。主として砲弾の弾道計算に使われていたわ
けです。しかし、シャノンの情報理論によって、コンピュータは
単なる計算機ではなくなり、その可能性は一挙に拡大し、何でも
できる魔法のマシンと化したのです。
 ワープロは、「文字」という情報をコード化し、ビット化する
ことによって、実現されています。これにデジタル化ということ
が深く関連してきます。アナログからデジタルへ――この代表的
な例として、音楽CDやMDがあります。
 かつてのレコードは、音の情報をレコード盤の溝に刻み込み、
それをレコード針がなぞることによって再生しています。レコー
ドの音の情報は切れ目がなく、連続しています。これは、アナロ
グ情報であり、コード化されていない情報です。
 これに対して、CDやMDは音が連続していないのです。少し
専門的にいうと、CDの場合、44.1KHz(キロヘルツ)ご
とに音を分割してしまうのです。44100分の1秒の単位で分
割するのです。これを「サンプリング――標本化」といいます。
 次に、その分割された音の情報(音圧の高さ)をビットのかた
ちにコード化するのです。つまり、0と1の2進法のデータに変
換するのです。これを「量子化」といいます。
 したがって、CDには音の波形そのものは記録されておらず、
そこに記録されているのは、アナログの音をこま切れにしてビッ
ト化した0と1の情報だけなのです。
 それでは、なぜ、44.1KHzでサンプリングするのかとい
うと、このレートの場合、ちょうどその半分に当る22KHzま
での高音が正確に再現されるからです。なぜ、22KHzかとい
うと、人間の耳にはこのレベルまでしか聞こえないからです。
 したがって、理屈の上では、音の情報をできるだけ細かくサン
プリングした方が音に忠実にデジタル化できるのですが、聞こえ
なければ意味がないということで、44.1KHzでサンプリン
グしているのです。
 絵画や写真についてもデジタル化は可能です。
 まず、絵や写真を細かい升目に分割します。これはサンプリン
グ――標本化ですね。次に、その升目のそれぞれについて、その
中の色を読み込み、あらかじめ決めておいた対応表にしたがって
色を数値に置き換えるのです。これは量子化です。このようにす
ると、絵画でも写真でも単なる0と1の数字情報と化してしまい
コンピュータで扱うことができるのです。
 このようにシャノンの情報理論によって、コンピュータは単な
る計算機から情報を処理するマシンに変貌したのです。したがっ
て、コンピュータは電子計算機ではなく、「EDPS」と定義す
べきです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      E ・・・ Electronic  電子の
      D ・・・ Data     データを
      P ・・・ Processing  処理する
      S ・・・ System    システム
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまでの説明で、シャノンがコンピュータの発達にどれほど
貢献したかについてはわかっていただけたと思います。また、情
報理論は通信の発展にも大きく寄与したのです。
 しかし、このクロード・シャノン――かなり変わり者であった
ようです。そして、大のマスコミ嫌いで、彼に関する情報はあま
りにも少ないのです。
 シャノンは1916年4月30日にミシガン州のゲイロードと
いう小さい町で生まれています。祖父は発明家で、父親は判事、
母親はドイツ移民の娘でゲイロードの高校の先生だったのです。
 1932年にゲイロード高校を卒業し、16歳でミシガン大学
に入学しています。数学と物理が好きで、機械いじりや電子工作
が得意であったといいます。1936年に電気工学科と数学科を
卒業するという2学科専攻のダブル・メジャーを達成しており、
成績は抜群であったといわれています。
 そのときMITで微分解析機を保守する研究助手を募集してい
たので、それに応募して採用されています。ヴァネヴァー・ブッ
シュとの接点はここで生まれるわけです。MITでシャノンは大
活躍をはじめるのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/10]


≪画像および関連情報≫
 ・CDの音は「冷たい」?
  CDの音が物足りないという人が少なくない。そして、それ
  は音をぶつ切りにしているせいであるという人がいる。CD
  の音を聞き慣れている若者の間で、最近LPがブームになっ
  ていると聞く。LPはアナログで音をカットしておらず、聴
  くと雑音は入るものの、何となく音が「温かい」から人気が
  あるというのである。
 ・SACDというものがある。これは、100KHzまで録音
  可能であるという触れ込みである。私はSACDのプレーヤ
  を持っており、聴いてみたが、普通のCDに比べて別にどう
  ということはない。専門家に聞くと、SACDの音を満足に
  聴くには、超音波帯を再生可能な高性能スピくーカが必要で
  あるという。こんなものが普及するはずがないと思うが。

サンプリングと量子化.jpg
サンプリングと量子化
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2009年10月09日

●ブール代数とクロード・シャノン(EJ第1671号)

 1936年にMITの電気工学科の研究助手になったクロード
・シャノンは、その翌年の1937年に次の論文を発表して注目
されます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     リレーとスイッチング回路の記号分析
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シャノンは、ヴァネヴァー・ブッシュの開発した微分解析機に
取り組むうちに、微分解析機で使われている複雑なリレー回路は
ミシガン大学の数学科で習った記号論理とブール代数の0と1の
2進法に置き換えられることに気がつき、そのことを上記の論文
にまとめたのです。
 この論文はブッシュの推薦文によって、「38年AIEE」と
いう学術誌に投稿され、掲載されたのです。ときにシャノンは弱
冠22歳――この年齢で学術誌に論文が掲載されるのは、異例の
ことなのです。
 ところで、「ブール代数」とは何でしょうか。
 実はブール代数は、コンピュータにも通信にも関係があるので
簡単に説明をしておきたいと思います。少し理屈っぽくなります
が、しばらく付き合ってください。
 ブール代数を考え出したのは、ジョージ・ブール(1815―
1864)という英国の数学者です。この理論は、もともと論理
学のために考え出されたものです。
 ジョージ・ブールが現れるまでは、論理学は哲学の一種である
と考えられていたのです。ブールは、論理や推論を何とか数学に
置き換えることはできないものかと考えていたのです。
 しかし、人間が使っている10進法で考えている限り、それは
不可能なことだったのです。もし、10進法でやるとしたら、あ
まりにも複雑になってしまうからです。そんなとき、ふと「2進
法でやったらどうか」という考え方が浮かんだのです。論理が正
しければ1、間違っていれば0、これを基礎にして論理の数学化
を試みたのです。
 具体的にいうとジョージ・ブールは、AND、OR、NOTと
いう3つの演算子を使って「論理回路」というものを作ったので
す。これを論理代数学というのです。論理代数学には、次の3つ
の演算があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       AND演算 ・・・ 論理積
       O R演算 ・・・ 論理和
       NOT演算 ・・・ 否 定
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1は「AND演算」です。
 「A AND B = C」という数式について考えます。こ
れは「〜かつ〜」という意味になります。論理学的な言葉でいう
と、「Aが正しくかつBも正しいときだけ、Cも正しい」という
ことになります。
 第2は「O R演算」です。
 これは「〜または〜」という意味になります。同じ数式につい
て考えると、「AかBのどちらかが正しければCは正しい」とい
うことになります。
 第3は「NOT演算」です。
 これは「〜ではない」という否定です。これは、ANDやOR
と違って2つの数値から答えを出すためのものではないのです。
「Aが正しいときNOT−Aは間違いであり、Aが間違いである
とき、NOT−Aは正しい」ということになります。
 なぜ、このような演算をするのかというと、これらはいずれも
2進法で表現できるからです。例えば、上記の「AND演算」は
次のように2進法で表現できます。ちなみに、1は「真」であり
0は「偽」を表しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          A  B  C
          0  0  0
          0  1  0
          1  0  0
          1  1  1
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 0と1をベースとして作られているブール代数の理論は、2進
数で計算する電子回路の設計にそのまま使えるのです。コンピュ
ータを開発しようとしていたエンジニアが飛びついたのは当然の
ことといえます。AND、OR、NOTを組み合わせれば、どの
ような計算も可能になるのです。
 クロード・シャノンの論文を高く評価したヴァネヴァー・ブッ
シュは、今後ブール代数が通信工学全般に大きな影響を及ぼすこ
とになるとして、シャノンにMITの数学科でさらに勉強をする
よう勧めたのです。
 シャノンはこれを受け入れ数学科の博士課程に進み、1940
年に博士号を授与されています。その後、シャノンはプリンスト
ン大学の先進研究所(IAS)を経由して、1941年にベル研
究所に移籍し、そこで15年間を過ごすのです。
 そして、1948年に彼は論文を発表します。それはシャノン
の最も有名な論文になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         『通信の数学的理論』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文は、雑音の存在する通信チャンネルで、ひずみのない
信号を送ることができるということを証明してみせたのです。こ
の論文は各界に大きな衝撃を与え、クロード・シャノンは一躍有
名になるのです。しかし、彼は有名になることや人前に出ること
を嫌い、世間から身を隠すようになります。そして、シャノンは
正統的な通信理論を離れ、AI(人工知能)の研究に傾斜してい
くのです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/11]


≪画像および関連情報≫
 ・1桁同士の足し算の回路
  AND、OR、NOTを組み合わせると、あらゆる演算が可
  能になる。コンピュータは数多くの論理回路の組み合わせで
  できている。参考までに、添付ファイルには「1桁同士の足
  し算の回路」を付けてある。
  坂村健著、『痛快!コンピュータ学』より。集英社インター
  ナショナル刊

ジョージ・ブールと論理回路.jpg
ジョージ・ブールと論理回路
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2009年10月13日

●サイバネティクスとは何か(EJ第1672号)

 ノーバート・ウィナーが提唱する「サイバネティクス」――こ
れは、生物から機械までの通信や制御に関する一般理論といわれ
ています。サイバネティクスに該当する日本語は「操舵」という
ことばになります。
 「操舵」とは船を操ること――船の舵を取る、操縦することを
をいいます。ちょうどいま、私は福井晴敏さんの小説、『亡国の
イージス』(講談社刊)を読んでいるのですが、その中に次の一
節が出てきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのひと言で口もとを引き締め、引き下がった竹中を背にした
 宮津は、「応急操舵やめ。部署復旧だ。それから艦内に状況を
 通達」と立て続けに指示を出した。
    ――福井晴敏著、『亡国のイージス』(講談社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「応急操舵」というのは、船舶が航行中、船橋からの舵の操作
ができなくなった場合、その船舶は操縦がきかなくなり、とても
危険な状態に陥ることがある――そういう場合、応急的に舵を直
接人力で操作して、危機を脱出することをいうのです。
 変転する環境をかいくぐって、あらかじめ決められた目標へ直
線的に向い、最適コースをとるシステムと違って、行き過ぎたり
戻り過ぎたりするが目標に向って進む――これが「操舵」であり
サイバネティックスなのです。
 久里浜港から大島までの大島航路の船長さんの話です。普通港
から船を出すときは、あらかじめ進路を計って方向を定め、その
方向に向って出すものと素人は考えます。
 しかし、実際はそんなことはしないそうです。もちろん大島へ
の航路図はありますが、出航するときは、錨を上げて、港を出る
と、船長の判断で船を大島の方向に向けて30分ほど走らせるの
です。そのうえで船の現在位置を測り、航路とずれがあるときは
修正し、また、しばらく走らせる――これを何回か繰り返して目
的の大島港に時間通りに到着させるのです。
 この考え方がサイバネティクスなのです。目標に向う道筋にお
いて、ずれがあるときは素早くそれを察知し、自動的に方向を修
正し、最終的には目標に達する――つまり、自動制御の考え方で
す。人間の脳には、こういうシステムが備わっており、具体的な
目標が設定されると、そのシステムが作動するとされています。
 このサイバネティクスの原理を応用して巡航ミサイルが開発さ
れています。目標が設定されると、目標物が方向を変更しても追
尾して爆破する恐るべき兵器です。
 このウィナーの理論に心酔していたひとりにJ・C・R・リッ
クライダーがいます。J・C・Rはジョセフ、カール・ロブネッ
トの略です。
 リックライダーは、ウィナーが開催していたセミナーに積極的
に参加し、人間の脳が音声を知覚するメカニズムの理論モデルに
ウィナーの方法論が使えることを知ります。
 さて、このJ・C・R・リックライダー――これから詳しく紹
介することになる人物ですが、「リックライダーはインターネッ
ト開発の父である」といってもよいほど、インターネットに貢献
した人物であるのに多くの人に知られることなく、1990年に
この世を去っています。
 リックライダーは、音響学の専門家であり、ロチェスター大学
で博士号を授与されていますが、修士論文と博士論文のタイトル
は、次のように変わったものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 修士論文:猫の集団と睡眠について
 博士論文:猫の聴覚皮質での周波数局在に関する電気的研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーは大変な猫好きなのですが、これには理由があ
るのです。彼はミズリー州のワシントン大学在学中に父の会社が
倒産して、大学に通う学資が不足してしまいます。そこで、大学
の心理学科の実験用動物の世話をするアルバイトをやりながら大
学に通ったのです。その実験用動物の中に猫がおり、彼の生理心
理学への接近と猫好きをもたらしたのです。
 リックライダーの興味は非常に広範であり、化学、物理、美術
心理学まで及んでいます。そして、大学では、心理学科、数学科
物理学科の3学科を卒業しています。
 あのクロード・シャノンが、電気工学科と数学科のダブル・メ
ジャーであったのに対して、リックライダーは3学科卒業のトリ
プル・メジャー――こういうケースはとても珍しいそうです。し
かし、主たる関心は生理心理学であったといいます。
 心理学が専攻のリックライダーが、なぜ音響学の専門家になっ
たのか――これには理由があります。彼は1942年に博士号を
取得すると、すぐにモスクワ大学の準研究員としてゲシュタルト
心理学を研究する予定になっていたのです。
 ところが1942年の夏にある出来事が起こったのです。その
出来事とは、ハーバード大学心理音響研究所の所員の募集があっ
たことです。リックライダーにとって、これは非常に魅力的な募
集であり、応募したところ採用されたのです。
 それにこの心理音響研究所の所長というのがレオ・ベラネック
博士であり、リックライダーがかねてから崇拝していた人物だっ
たからです。レオ・ベラネックはハーバード大学の音響学の専門
家だったのです。
 この心理音響研究所は、戦争に際して実際的な音響学の研究が
必要であるとして、空軍によって設立されたのです。後にレオ・
ベラネック博士はBBN社を創設することになるのですが、この
BBN社こそ、インターネットの前身といわれるARPAネット
の構築を最初に請け負うことになるのです。
 この研究所でのリックライダーの研究テーマは「受容の理論と
音声の理解度」というものですが、これを契機に彼は音響の研究
打ち込むようになります。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/12]


≪画像および関連情報≫
 ・サイバネティクス
  20世紀に入って確立された、主に生物と機械における通信
  ・制御・情報処理を総合して扱う学問の総称。「サイバネテ
  ィクス」という言葉の由来はギリシア語の kysernetes にま
  で遡るが、現在流通しているような「サイバネティクス」の
  意味を定着させたのはアメリカの数学者ウィナーの『サイバ
  ネティックス――動物と機械における制御と通信』(池原止
  戈夫ほか訳、岩波書店刊)である。

サイバネティクス.jpg
サイバネティクス
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2009年10月14日

●ワールウインド計画と北米防空システム(EJ第1673号)

 空軍の後ろ盾のある新設の心理音響学研究所というと、いかに
も立派な研究施設のように聞こえますが、実は間借りしたビルの
地下1Fにあったのです。そして、そのビルというのは、ビクト
リア様式とゴシック様式を混ぜたような前時代的なメモリアル・
ホールの建物であり、とくに地下1Fはダンジョン(地下牢)と
いわれる狭く薄暗い環境であったといいます。
 このダンジョンでリックライダーは、ひたすら軍事研究に打ち
込んだのです。例えば、高度1万メートルを飛行する重爆撃機B
−17やB−24の機内での搭乗員の会話の受ける影響の研究な
どがそうです。
 リックライダーは、心理音響学研究所でのこうした研究のかた
わら、ハーバード大学の講師をしたり、当時MITで行われてい
た「潜水艦の探知の研究」や「防空研究所の設立研究」などの軍
事研究にも積極的に関わっていたのです。
 MITの防空研究所の設立計画――この計画は1951年8月
にMITリンカーン研究所として実るのですが、これに関しては
少しその背景について述べる必要があると思います。
 そもそも防空研究のはじまるきっかけは、1949年8月にソ
連が原爆開発に成功したことによるのです。北極を越えてソ連の
爆撃機が核攻撃を加えてきたらどうするか――この危険性をいち
早く米空軍に指摘したのは、空軍の科学顧問を務めるMITのジ
ョージ・バレー教授だったのです。このバレー教授こそ第2次世
界大戦中に爆撃用のレーダー照準器を開発した人なのです。
 空軍はただちに防空システム技術委員会を作り、バレー教授を
を委員長に任命します。最初に委員会は、ソ連の長距離爆撃機の
北米侵入阻止率を試算したところ、わずか10%という結果が出
たのです。ほとんど阻止不能という結論です。
 そこで委員会は、北米防空システムを実現するために防空研究
所の設立を提案し、それを受けて空軍は、MITに防空研究所を
設けることを決定します。この設立をめぐってMIT内にいろい
ろ反対意見が出たのですが、1951年にMITリンカーン研究
所は設立されることになるのです。
 それまでMITにおいて軍事研究に深く関わっていたリックラ
イダーは、1950年にMIT音響研究室に移籍し、1951年
にリンカーン研究所ができると同研究所の研究員になります。そ
して、防空指揮統制システムのレーダー画面にどのような情報を
表示させるかという研究に没頭することになります。
 さて、バレー委員会はもうひとつ重要な提案をしています。北
米防空システムを実現するにはコンピュータが必要であるとして
「ワールウインド・コンピュータ」を推薦したことです。ところ
で、この「ワールウインド・コンピュータ」とは何でしょうか。
 第2次世界大戦後、MITはバレー教授の率いるレーダーの分
野ではほとんど独走していたのですが、デジタル・コンピュータ
の分野では大きく遅れていたのです。
 その一番の原因はヴァネヴァー・ブッシュの存在です。彼はア
ナログ・コンピュータにこだわっており、デジタル・コンピュー
タにはまるで意を払わなかったのです。
 しかし、MITにとって救世主がいたのです。その救世主とは
MITのサーボ機構研究所にいたジェイ・フォレスターという人
物です。ジェイ・フォレスターは1918年の生まれであり、ク
ロード・シャノンよりも2歳年下であったのです。
 1944年12月、MITサーボ機構研究所は海軍とフライト
・シミュレータの委託研究を契約するのですが、この研究がフォ
レスターに回ってきたのです。これは、アナログ・コンピュータ
を使うことを前提にしたシステムです。
 しかし、研究を進めるうちにフォレスターは、リアルタイムで
動作するフライト・シミュレータを作るにはアナログ・コンピュ
ータでは無理であるという結論に達したのです。1946年1月
フォレスターは海軍にデジタル・コンピュータの採用を提案し、
3月に正式に承認されるのです。そして、この計画は「ワールウ
インド計画」と呼ばれるようになったのです。この「ワールウイ
ンド」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         Whirlwind ―― つむじ風
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、「ワールウインド計画」は途方もなくお金がかかった
のです。当初の見積もりでは2年間で87万5000ドルだった
のですが、1946年3月のスタート時点では190万ドルに増
加し、次の年の1947年には300万ドルに膨れ上がるという
具合です。しかも、それから15年間の費用見積もりは実に10
億ドルというのですから、発注者の海軍は唖然としたのです。
 これがいかに凄い数字であるかは、ペンシルヴァニア大学開発
のENIACが60万ドルしかかかっていないことを知れば十分
でしょう。
 海軍はこの金額を聞いてすっかりやる気をなくし、フォン・ノ
イマンが開発を進めるIASコンピュータに乗り換えようとしま
す。しかし、このときワールウインド・コンピュータは、ほぼ完
成していたのです。
 それは当時としては驚くべきほど高速であり、しかも、このコ
ンピュータの最大の特色は、対話型ディスプレイを持つ画期的な
ものであったことです。当時のコンピュータには対話型ディスプ
レイを持つのはなく、かくしてMITはデジタル・コンピュータ
においても確固たる地位を築くことになるのです。
 バレー委員会の推薦のお陰で「ワールウインド計画」は存続が
決まります。1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発もこの計画
の追い風となります。この計画は、MITサーボ機構研究所から
独立し、MITデジタル・コンピュータ研究所に昇格します。
 このワールウインド計画の対話型コンピュータは、ヒューマン
・インタフェースに関心を持つリックライダーに大きな影響を与
えることになるのです。・[インターネット歴史 Part1/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ワールウインド・コンピュータの概要
  ―――――――――――――――――――――――――――
  3300本のストレージ管、8900個のクリスタル・ダイ
  オードを使い、巨大な二階建ての建物に収容されていた。建
  物の地下に大きな電源ユニットがあり、一階にストレージと
  通信ユニット、二階には中央処理装置とコンソール、CRT
  (ディスプレイ)が並んでいた。屋根には空調がついていて
  コンピュータの吐き出す膨大な熱を逃がしていたという。い
  わば建物全体がコンピュータの巨大な筐体であった。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

ワールウインド・コンピュータ.jpg
ワールウインド・コンピュータ
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2009年10月15日

●防空情報通信システム/SAGE(EJ第1674号)

 バレー委員会が進めようとしている対ソ連防空システムは、も
ともと空軍が計画したSAGE(セイジ)というシステムです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 SAGE = Semi-Automatic Ground Environment System
              ――――防空情報通信システム
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 SAGEは、大型高性能のコンピュータを多数作って全米に配
置し、電話回線を利用してレーダー・システムと接続するもので
す。脇英世氏の本からSAGEの概要を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 全米22箇所に、原爆攻撃に耐えられる厚い鉄筋コンクリート
 製の窓もない巨大な要塞のような指揮センターが設置されるこ
 とになっていた。各指揮センターには通信機器、空調設備、発
 電設備、戦闘指揮所、2台のAN/FSQ−7(コンピュータ
 の名前)が設置された。戦闘指揮所には、50台の巨大なモニ
 ターがあり、50人の将兵が常時はりついていた。さらにこれ
 らが全米100箇所のレーダー、高射砲部隊、迎撃戦闘機部隊
 と通信回線経由で結び付けられることになっていた。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バレー教授はこのSAGEにワールウインド・コンピュータを
使うことを決意したのです。1951年8月20日、ワールウイ
ンド・コンピュータは、マサチューセッツ州上空に侵入した2機
のプロペラ戦闘機をレーダーで捕捉、防空用の迎撃戦闘機を誘導
することに成功したのです。これによって、ワールウインド・コ
ンピュータの評価は大きく高まったのです。このSAGEこそ、
世界初のリアルタイム対話型コンピュータとなったのです。
 そして、SAGEには、IBMをはじめ、SDC、バローズ、
ウェスタン・エレクトリック、RCAなどの企業が参入してきた
のです。ちなみに、このSAGE計画によってIBMは世界最大
のコンピュータ・メーカになるきっかけを掴んでいます。それは
この計画のために56台の大型コンピュータを製造し、5億ドル
の利益を上げたからです。
 リックライダーは、かねてから、コンピュータを「インタラク
ティブ」にすればよいと考えていたのです。あたかも人間がコン
ピュータと対話するように、ユーザ自身がコンピュータで直接作
業できるようにする――こういう信念を持っていたのです。
 SAGEは、コンピュータネットワークによる情報システムの
先駆け的存在だったのです。しかし、当時の技術力では、すべて
の情報通信をコンピュータだけで制御することはできず、人間に
よる多くの補助操作が必要だったのです。つまり、SAGEは、
軍事目的の人間・機械混成システムだったといえます。
 このような人間・機械混成システムにおいて、システムの一要
素である人間を科学的に扱うためには、実験心理学の視点に立つ
必要があったのです。そういう意味で、リックライダーの存在は
大きかったのです。
 1953年になると、MITリンカーン研究所はMITのキャ
ンパスから離れて、レキシントンに移転しています。この機会に
MITに戻ったリックライダーは、経済学部の中に大学院生を集
めて心理学の研究をする「ヒューマン・ファクター・グループ」
を作ったのです。リックライダーはカリスマ性があり、学生たち
に人気があったのです。
 優秀な学生が集まっていたせいもあって、リックライダーの率
いるグループは数々の成果を上げたのです。しかし、経済学部で
心理学を教えるのはおかしいとか、そのグループが非公式グルー
プであるということから、そうした研究成果には、経済学部とし
ては博士号を出せないという議論に発展するなどして、1957
年6月30日にリックライダーはMITを去るのです。
 そのリックライダーを迎えたのが、BBNという企業です。役
職は次のように長いものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   心理音響・工学的心理学・情報システム担当副社長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その当時BBN社は、従業員40人程度の小さな企業だったの
ですが、その後BBN社はMITのドロップアウト組のたまり場
として有名になっていくのです。
 BBN社の「BBN」は、いずれもMIT関係者の名前の頭文
字なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     B ・・・・・  リチャード・ボルト
     B ・・・・・   レオ・ベラネック
     N ・・・・・ ロバート・ニューマン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初の「B」のリチャード・ボルトは、MIT出身で建築音響
の専門家であり、MITの教授を務めていたのです。次の「B」
はレオ・ベラネック――既に述べたようにベラネックはハーバー
ド大学で音響学の博士号を取得し、同大学の心理音響研究所の所
長を務めていますが、彼もMITの電気工学科の出身です。
 最後の「N」はロバート・ニューマン――ボルトの教え子であ
り、建築音響を専門とする大学院生です。BBN社は、1949
年11月に元になる会社が設立され、ニューマンが入社した50
年にBBNという社名になったのです。
 リックライダーがBBN社入りをした1957年、米国は一大
ショックにたたきのめされます。ソ連がスプートニク衛星の実験
に成功し、核弾頭を装備した大陸間弾道弾が現実の問題になって
きたからです。いわゆる「スプートニク・ショック」です。
 あれほど巨額の金と人を注ぎ込んだ米国自慢の防空情報通信シ
ステムSAGEは、その瞬間にただの鉄屑と化してしまったから
です。     ・・・[インターネットの歴史 Part1/14]


≪画像および関連情報≫
 ・BBN時代におけるリックライダーの3つの業績
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1.『聴覚の理論』 ・・・・・・・・・ 1959
  2.『機械と人間の共生』 ・・・・・・ 1960
  3.『心理生理学モデルについて』 ・・ 1961
  ―――――――――――――――――――――――――――

BNN時代のリックライダー.jpg
BNN時代のリックライダー
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2009年10月16日

●ARPA設立の舞台裏(EJ第1675号)

 1957年10月、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに
成功します。直径22.8センチ、重さ184ポンドの小さな鉄
の玉が電波を発信しながら96分2秒ごとに地球を一周する――
このスプートニクは米国に一大衝撃をもたらしたのです。
 宿敵ソ連に手の届かない頭上から常時監視されるという屈辱は
米国としては到底我慢できるものではなかったのです。人工衛星
の打ち上げに成功したということは、核弾頭を装備した大陸間弾
道ミサイルを打ち込まれる恐れが現実のものになったことを意味
するのです。
 頼みの国防情報通信システム――SAGEは、核爆弾を積んだ
有人爆撃機から北米を守るために作られており、核ミサイルの来
襲は全く想定していなかったのです。核ミサイルの攻撃に対して
は、SAGEでは防御不能なのです。
 1957年11月、時のアイゼンハワー大統領は、事の重大性
を認識し、MIT学長であるジェームス・キリアンを科学技術関
連の顧問に任命します。キリアンは直ちに科学委員会を招集し、
11月末にマケルロイ国防長官がペンタゴン内に宇宙開発の最先
端研究を統括する機関を設置することを発表しています。
 これを受けて、1958年2月にARPAが設立されることに
なります。ARPAとは次の言葉の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ARPA = Advanced Research Projects Agency
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ARPA(アルパ)はソ連に対抗するために宇宙
開発を中心とする軍事的な先端技術の研究をするための機関とし
て設立されたのです。しかし、実施する研究をめぐって軍の内部
で激しい主導権争いが起こったのです。
 1958年、それまで、宇宙開発を手がけていたNACAを母
胎としてNASAが創設されます。とにかく宇宙開発だけは、A
RPAに渡したくないという勢力があったのです。大統領として
は、国防長官直属の機関であるARPAに宇宙開発を含めたすべ
ての権限を集中させておきたかったので難色を示したのですが、
結局押し切られて、宇宙関係の研究についてはARPAの仕事か
ら外されたのです。
 こういった結果を招いたのは、アイゼンハワー大統領の中途半
端な態度にあります。彼は世論対策としてARPAを立ち上げた
のであって、ここでの研究開発によって国が何を目指しているの
かを明確に国民に示すことはなかったのです。
 しかし、大統領選挙でもアイゼンハワー大統領の科学技術政策
の遅れを批判して大統領になったジョン・F・ケネディは、19
61年1月に大統領になると、5月には「今世紀末までに人間を
月に送り、安全に地球に戻す」という有名な声明を行い、目標を
明確にしたのです。
 とにかくJFKがホワイトハウスの住人になると、連邦政府は
先端技術開発の推進に一転して積極的になったのです。これは、
ソ連に先行されたという事情があったにせよ、JFKが大学その
ものが基幹産業であるマサチューセッツ州選出の議員であるとい
うことと無関係ではないといえます。そういうわけで、JFKは
科学界に対して極めて好意的だったのです。
 とくに、ケネディ政権にはロバート・マクナマラ国防長官のよ
うに科学技術に詳しい閣僚がおり、先端技術開発の強力な推進力
になっています。マクナマラは、フォード・モータース社の社長
からケネディ政権入りしていますが、ハーバード大学で企業経営
で用いる数値解析手法を教えていたことがあり、コンピュータの
効用も熟知している科学に強い国防長官だったのです。
 とにかく米国にとって非常に重要なタイミングで、ケネディ政
権が誕生していることは実に象徴的なことであると思います。米
国とソ連とのロケット開発競争の舞台裏やJFK暗殺の真相につ
いては、その時代的背景を知っていただくためにも、次のEJを
参考していただきたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪本当に月に行っているのか≫
  EJ第1390号(2004.7.10)〜
          EJ第1418号(2004.8.20)
 ≪JFK暗殺の謎を探る≫
  EJ第1424号(2004.8.30)〜
         EJ第1465号(2004.10.29)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、宇宙関係の研究を外された結果、ARPAに残されたも
のは、核実験探知とか弾道ミサイルといった分野だけになってし
まったのですが、国防長官事務局直属で、決定機構を簡素化し、
何事も迅速に対応できる機関という基本的な性格は残されたので
す。とにかく「冷戦下の国防」というお墨付きを持っていたので
国民に言い訳をしないでも国費を研究開発に振り向けることが可
能であったし、機密保持という理由から競争入札なしに研究者が
欲しい器材を自由に購入できたのです。こういう恵まれた環境が
あったからこそ、インターネットが開発できたといえます。
 さて、ARPAの局長に就任したのは、ジャック・ルイーナと
いう人です。彼はSAGEの仕事をしていたのですが、そのとき
地道に人間とコンピュータとの直接対話を研究していたJ・C・
R・リックライダーに注目していたのです。
 ルイーナは、コンピュータ化された軍事指令制御システムを何
としても構築しなければと考えていたのです。そのためには、従
来のパンチカードやテープの入出力によるシステムではなく、コ
ンピュータと直接対話する新しいシステムである必要があったの
です。そして、ARPAの中にコンピュータによる「コマンド・
コントロール」部門を作ることを決意して、それを実行するので
す。そして、1962年10月、指揮・統制事務部局が設けられ
その初代部長として、J・C・R・リックライダーが就任するこ
とになるのです。・・・[インターネットの歴史 Part1/15]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・マクナマラについて
  米国の実業家で、政治家。1961年から1968年まで米
  国の国防長官。1968年から1981年まで世界銀行総裁
  を務める。

ロバート・マクナマラ.jpg
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2009年10月19日

●リックライダーとIPTO(EJ第1676号)

 ジャック・ルイーナは、ARPAの新ポストである指揮・統制
事務部局の部長の人選に当って、次の2つのポイントが必要であ
ると考えていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.専門家でないことが好ましい。専門家ではかえって偏り
   が出る恐れがある
 2.技術だけでなく文化全般に造詣が深く、誰からも信頼さ
   れる人柄を持つ人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 候補者に上がったのは、MITリンカーン研究所の通信部門の
長であるフレッド・フリックとBNN社のリックライダーの2人
だったのです。実は、フレッド・フリックも心理学者であり、リ
ックライダーとはハーバート大学時代からの知己なのです。
 リックライダーが採用されたのは、彼がまさに2つの選考基準
にぴったりの人物だったからです。彼はコンピュータの専門家で
はありませんが、コンピュータについて明確なビジョンを持って
いたのです。
 リックライダーは、米国の防空指揮統制の問題は人間と機械の
共生の問題であり、人間とコンピュータの対話型インターフェイ
スの問題である――すなわち、コンピュータはもっとインタラク
ティブになるべきであるというビジョンを持っていたのです。
 また、防空指揮統制システムはバッチシステムではなく、タイ
ムシェアリング・システムであるといっていたのです。この考え
はジャック・ルイーナのそれと同じであったのです。加えて、彼
は専門は心理学ですが、化学、物理、美術、音響学など、幅広い
分野の知識を有していたのです。
 リックライダーは、指揮・統制事務部局の部長に就任すると、
部局の名称を「IPTO」(イプト)に変更し、一緒にまかされ
ることになっていた行動科学の研究を「行動科学部」として独立
させます。IPTOは、次の省略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  IPTO=Information Processing Techniques Office
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーは、最先端の研究開発の広がりと速度を熟知し
ており、長期的な視野から何をすべきかについて、実によく理解
していたのです。彼は、自分のビジョンを実現してくれると考え
る優秀な人材を発見し、十分な研究資金を援助することをはじめ
たのです。彼は人材の優秀性を見抜く優れた能力を持っており、
自分の独断で投入できる潤沢な研究資金を有していたのです。
 彼が最初に目をつけたのは、MITリンカーン研究所において
SAGEの開発をやっていたときに知ったイワン(アイヴァン)・
サザーランドという学生だったのです。
 サザーランドはインタラクティブなグラフィクス・コンピュー
タのアイデアを持っていたのです。その研究は、ライトペンとい
う入力装置を使って、オンラインで線画を描くシステムとなって
実っています。この研究は、1963年1月7日に次のタイトル
の博士論文にまとめられ、MITに提出されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「スケッチパッド――人間と機械のグラフィカルコミュニケ
 ーションシステム」      ――イワン・サザーランド
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 サザーランドはこの功績によって、リックライダーに続く第2
代のIPTOの部長をなったのです。そして、リックライダーは
25歳のサザーランドに後を託してARPAを去ります。
 このようにリックライダーは、1962年から1964年まで
のわずか2年しかIPTOにはいなかったのですが、その間に、
13の機関のプロジェクトに援助を行い、通常の30倍から40
倍の研究費を与えているのです。
 そのプロジェクトの中に、現在のコンピュータ環境に通ずる開
発が数多くあるのです。その一つにダグラス・エンゲルバートの
プロジェクトがあります。彼は「人間の知性の拡張」という論文
で、知的作業を支援するコンピュータのアイデアを発表しており
それをリックライダーは読んで知っていたのです。
 十分な研究資金を得たエンゲルバートは、マウス、ハイパーテ
キスト、ワードプロセッサー、ビットマップスクリーン、コンピ
ュータ会議システムなど、現代に通じる技術を次々と開発して世
に出したのです。
 しかし、リックライダーが結果としてIPTOで、一番多くの
資金を投入したのは、「時分割処理システム/タイム・シェアリ
ング・システム」だったのです。
 ここで、タイム・シェアリングシステムについて述べる必要が
あります。ジョン・マッカーシーという人物をご存知ですか。
 ジョン・マッカーシーは多くの分野で数多い業績を残している
人ですが、主な業績は次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.AI(人工知能)
         2.LISP言語
         3.タイムシェアリング
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 LISP言語というのは、マッカーシーが人工知能研究のため
に開発した言語です。したがって、マッカーシーは、人工知能と
タイムシェアリングの2つの分野で業績を残したといえます。
 当時のコンピュータの使い方は、高価なコンピュータを有効利
用するために、多くの仕事(ジョブ)をまとめた段階で一括に処
理していたのです。これをバッチ処理といいます。
 しかし、この方式は、コンピュータの処理時間は節約できるが
ジョブを入れた人間はその処理が終わるまで長く待たされるので
フラストレーションがたまるのです。短い簡単なジョブで待たさ
れる人はなおさらです。何か良いアイデアはないものか――マッ
カーシーは考えたのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/16]


≪画像および関連情報≫
 ・「タイムシェアリング」(Time Sharing System/TSS)
  タイムシェアリングシステムとは、1台のコンピュータのC
  PUの処理時間をユーザ単位に分割することにより、複数の
  ユーザが同時にコンピュータを利用できるようにしたシステ
  ムのことである。当初は、メインフレーム(大型コンピュー
  タ)で開発された技術であったが、現在ではパーソナル・コ
  ンピュータであってもOSの制御によって同様の処理を行う
  ことができる。――出典:フリー百科事典『 ウィキペディア
  (Wikipedia)』より
 ・スケッチパッドを操作するイワン・サザーランド/写真
   喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊

イワン・サザーランド/スケッチパッド.jpg
イワン・サザーランド/スケッチパッド
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2009年10月20日

●ジョン・マッカーシーとTSS(EJ第1677号)

 ジョン・マッカーシーは、1955年から58年まで、ダート
マス大学で助教授をしていたことがあります。当時、コンピュー
タは途方もなく高価なものであり、学者といえども触ることはも
ちろんのこと、近寄ることすら困難だったのです。
 このときMITには、IBMが寄贈した「IBM704」とい
うコンピュータがあったのですが、これはバッチ処理を目的とし
て作られたコンピュータだったのです。
 しかも、IBM704は、寄贈を受けたとはいえ、MITが独
占的に使っていたわけではないのです。MITが8時間、IBM
の事業所が8時間、ダートマス大学を含むその他東海岸の大学が
8時間というように時間を区切って使っていたのです。
 マッカーシーは考えたのです。ダートマス大学にいたのでは、
8時間をさらに他の大学と分け合うことになり、いつ順番が回っ
てくるかわかったものではない――そのためにはMITの教員に
なるのが一番良いと考えたのです。
 それからもうひとつ、IBMの連中と仲良くなる必要があると
考えたのです。そういうわけで、たまたまIBMの技術者がダー
トマス大学を訪問したときに、マッカーシーは食事と酒をおごっ
て饗応したのです。まさに目的のためには手段を選ばずです。
 その効果はすぐにあらわれたのです。IBMからIBMポーキ
プシー事業所に招待されたからです。マッカーシーはそこでコン
ピュータのプログラミングを身につけてしまいます。
 1958年に彼はこのアイデアを実行に移し、MITの助教授
になるのです。そして、同年中にLISP言語を開発し、次の論
文を発表します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「記号表現の機能関数と機械によるその計算T」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は一時人工知能(AI)の研究をやっていたことがあり、こ
のLISPも少しかじったことがありますが、とても難しい言語
です。LISPのプログラムはやたらと括弧が多いので、「括弧
のお化け」といわれていたのです。
 LISPに限らず人工知能のプログラムは複雑なので、大きな
システムを構築するときは、何人ものプログラマーがプログラミ
ングやそのデバック作業――「バグ」という名のプログラムのミ
スを取り除く作業に取り組む必要があります。これに途方もない
時間がかかるのです。
 そのためには、1台の大型コンピュータを複数のプログラマー
で同時に使い、作業に取り組む環境が必要なのです。この環境こ
そタイムシェアリングなのです。もちろんコンピュータは1人1
ジョブしかできないのですが、コンピュータ側でその処理時間を
複数のユーザに振り分けて処理を行うのです。
 そうすると、コンピュータを使うユーザは、あたかも一人でコ
ンピュータを使っているような感じになれるのです。これがマッ
カーシーの考えた時分割処理――タイムシェアリング・システム
(以下、TSS)なのです。
 MITの学内でもこのマッカーシーのアイデアに共感を持つ学
者が増えて、自発的にTSSの研究がはじまったのです。その中
で、MITコンピュテーション・センターのフェルナンド・コル
バトがIBM704用に開発したCTSS――コンパチブルTS
Sは注目に値します。
 コルバトは、1961年11月にCTSSのデモをしているの
ですが、CTSSはMITコンピュテーション・センターで19
73年まで使われていたのです。
 MITの上層部もTSSの重要性は認め、1960年から長期
コンピュータ研究グループ(LRCSG)を発足させ、MITの
将来のコンピュータ資源のあり方を研究させたのです。
 LRCSGは、上下2つの委員会に分かれていたのです。上部
委員会の委員は、ほとんど古典的な理論の専門家ばかりであった
のに対して、下部委員会は、マッカーシーをはじめ、フェルナン
ド・コルバト、ジャック・デニス、ウェスリー・クラークなどの
そうそうたる専門家が結集していたのです。
 下部委員会における実権はマッカーシーが握っており、そのた
め、マッカーシー委員会と呼ばれるまでになったのですが、この
委員会の結論は、「MITは巨大なTSSを構築すべし」という
ものだったのです。
 しかし、これには莫大な資金がかかり、上部委員会では慎重論
が多数を占めたのです。そこにIBMがある提案をしてきたこと
が原因で、MITはTSSの自力開発を断念してしまうことにな
ります。そのIBMの提案とは次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  新コンピュータIBM360の完成まで待ってもらえれ
  ば、MITに新しいコンピュータのTSSを寄付する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 MITはこの提案に乗ってしまったのです。しかし、IBMシ
ステムの開発は大幅に遅れ、別件でMITとIBMの間で法的な
トラブルが発生し、寄付の話は白紙に戻ってしまったのです。
 1962年、このようないきさつに失望したマッカーシーは、
MITを飛び出し、西海岸のスタンフォード大学のコンピュータ
科の教授になり、独自のAI研究を推し進めることになります。
このマッカーシー――よくよく彼にはMITは縁がなかったとい
えます。なぜなら、これほどの学者でありながら、MITでは助
教授にしかなれなかったのですから。
 1962年にIPTOの部長に就任したリックライダーは、こ
のMITのTSS開発計画に資金提供を申し出るのです。しかし
IPTOの資金はあくまで軍事目的に沿ったものである必要があ
り、TSSはその目的には入っていなかったのです。しかも、T
SSの研究には巨額の資金が必要なのです。
 そこで、リックライダーは、MITに「MAC計画」というプ
ロジェクトを立ち上げさせるのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/17]


≪画像および関連情報≫
 ・IBM704について
  1959年、日本の気象庁でもIBM704を導入し、翌年
  には米国に次いで数値予報を開始。IBM704は、日本政
  府が行政用に導入した初めてのコンピュータであり、導入当
  時は大きな話題となった。ただし、その性能は今日のパーソ
  ナルコンピュータにも遠く及ばないため、当時の数値予報結
  果は現場の予報官の使用には耐えず、研究開発の段階が長く
  続いたのである。しかし、気象庁は5〜8年毎に最新のコン
  ピュータの更新を繰り返し、数値予報システムの開発・改良
  を図った。この間、気象衛星等による観測データの充実もあ
  り、数値予報の精度は格段に向上した。今日では数値予報シ
  ステムなしに予報業務を語れない。

コルバト博士.jpg
コルバト博士
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2009年10月21日

●なぜ、TSSにこだわるのか(EJ第1678号)

 MAC計画について説明する前に、IPTOが研究開発支援を
するのにふさわしい分野として、どういう分野を考えていたかに
ついて知っておく必要があります。
 国防総省がARPAのIPTOに求めていたのは、「指揮・統
制システムの自動化」であったようです。これを受けての委員会
の報告をまとめると、次の5つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.指揮官はあくまで人間であって、コンピュータはその補
   助装置と考えるべきである
 2.将来の指揮の自動化については、指揮のための情報には
   何が必要か分析・理解する
 3.指揮官が指揮の中枢になれるコンピュータ支援による指
   揮情報処理システムの開発
 4.現在の機械語は相当よくなっており、プログラミング分
   野のことは研究不要である
 5.問題設定、分析、プログラミングという情報処理技術の
   現状こそ自動化の阻害要因
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを踏まえて、委員会は研究開発を支援するのにふさわしい
分野として次の4分野の抽出を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.問題設定、分析、プログラミングの分野の先進的な研究
 2.機械と人間によるコミュニケーションのための必要分野
 3.パターン認識、概念形成・認識、問題解決、学習、意思
   決定、といった分野の構造を理解するために必要な研究
 4.コンピュータのハードウェアの信頼性を向上させる研究
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、リックライダーは、人間・機械混成システムの完全自
動化には否定的であったし、委員会も現状では無理と認めていた
のですが、4分野の抽出は、あくまで将来の自動化の可能性を探
るという観点からまとめられていたのです。
 しかし、IPTO部長としてリックライダーは、これらの4分
野にはないTSSに強くこだわり、そこに多額の援助資金を投入
しているのです。どうして、リックライダーはこれほどTSSに
固執したのでしょうか。
 それは、リックライダーがSAGEに従事していたとき、空軍
に提出した次の提案の中にヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この提案は、人間もコンピュータもそれぞれ最適に能力を引
 き出すためのもの――つまり、人間−機械思考システム構築の
 提案である。・・・・・
  このシステムは情報センターの中に置かれている。工学的知
 識の分野ごとに、全米でおそらくいくつかのセンターが作られ
 ることになるだろう。そして、関係するセンター同士は通信回
 線で結ばれている。
  ひとつのセンターには、情報にすばやくアクセスできる図書
 館が付属しているが、本や雑誌を排除するものではない。もち
 ろん、そこには大きな記憶容量をもった大型デジタルコンピュ
 ータがある。       ――J・C・R・リックライダー
 ――喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつデータがあります。それは、リックライダーが19
65年に書いた唯一の本『未来の図書館』の中の次の一節です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 産業界や、政府や、教育の場で、「机」の意味が、受動的なも
 のから能動的なものにかわるだろう。机は画像表示装置があっ
 て操作できるものになり、遠隔コミュニケーション・遠隔コン
 ピュータ・システムの中にあることになる。そして、そのもっ
 とも大切な部分が多分ケーブルで、そのケーブルは壁のコンセ
 ントを通して机を認知支援ネットワークにつなげている。
 ――喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読んで最初に思ったことはあのヴァネヴァー・ブッシュ
のメメックス構想です。コンピュータがブッシュのアナログ・コ
ンピュータからデジタル・コンピュータに変わっただけで、構想
そのものは基本的に同じです。そうかといって、リックライダー
は、ブッシュにヒントを得たわけではないのです。
 全米にいくつかの情報センターがあって、それぞれが通信回線
で接続されている――図書館にもコンピュータが設置されていて
それが情報センターに接続されており、ユーザは図書館でTSS
の環境で端末を通じて情報センターに接続し、必要な情報が得ら
れるという構想です。
 この構想でわかることは、リックライダーの考えているシステ
ムはあくまで中央にある大型コンピュータを端末でTSSの環境
によって共同で使うことを前提としていることです。そこには、
小型汎用コンピュータ(PC)への考え方が見えないことです。
だから、TSSは不可欠なのです。
 さて、ここでMITのMAC計画に戻りますが、MACはIP
TOの助成を受けるために立ち上げられたプロジェクトです。実
は、MACには2つの意味があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  MAC ・・・・ Machine-Aided Cognition ・・ A
      ・・・・ Multi-Access Computer  ・・ B
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Aは委員会の指定した3の分野をあらわしていますが、BはT
SSを意味しています。これは、リックライダーの建前(A)と
本音(B)そのものです。
 リックライダーは、こうまでしてMAC計画に300万ドルの
多額の予算をつけて、TSSに力を入れているのですが、それは
異常な執念といえます。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/18]


≪画像および関連情報≫
 ・リックライダーの認知支援システム
  ―――――――――――――――――――――――――――
  丸と楕円は上級の特別なコンピュータシステムである。四角
  は人間とコンピュータのインターフェースを示している。階
  層4は、大勢のシステムを利用する人のステーションか操作
  卓である。ほとんどの操作卓は電話線でつながれている。直
  線で表わされているのが、いま接続されている状態で、点線
  がこれから接続されうる状態である。階層1の中心は、知識
  の前提を貯めているセンターで、階層2は、そのサブ領域を
  受け持っている。そして、階層3がいろいろなところにいる
  ユーザの情報処理をしている。階層4の利用者のところには
  入出力(制御と画像表示)装置があって、たぶん、ある程度
  の処理能力とメモリーがある。階層1以外はこの図には書け
  ないほど数が多い。
   喜多千草著、『インターネットの思想史』より 青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

認知支援システム.jpg
認知支援システム
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2009年10月22日

●共有よりも占有にこだわるクラーク(EJ第1679号)

 インターネットの歴史をここまで追及してきて気がついたこと
があります。当時米国に、いかに優れた能力を持つ若手の学者が
数多くいたかということ――それに時の米国政府と軍が彼らを国
防の名の下にいかに有効に活用したかということです。
 一方学者たちの方も国防目的ということを巧みに利用し、国防
に寄与する開発を積極的に進める一方で、自らが何としても成し
遂げたかったアイデアを実現させている――そのように考えられ
るのです。国防目的、軍事目的であれば、資金的には採算を度外
視して使えたからです。
 政府と軍と大学と産業界――いわゆる軍産複合体が、一方にお
いて大きな問題点を残しながらも、うまく機能して、米国は後世
に残る数多くの発明やシステムをこの時期に創り出しているので
す。インターネットという全世界が等しくその恩恵を享受できる
素晴らしい発明も、このようにして実現されたのです。
 さて、スプートニク・ショックを受けた米軍の中枢がひたすら
開発を望んだのは、「デジタル・コンピュータによる指揮・統制
の自動化」です。リックライダーは、完全自動化は無理であると
しながらも、そのためには、人間がコンピュータとあたかも対話
するようにして使う「対話型コンピューティング」が必要である
ことをしきりと説いていたのです。
 ところで、『亡国のイージス』(福井晴敏著)を読んで、イー
ジス艦の中に「戦闘情報指揮所」(CIC)というものがあるこ
とをはじめて知りました。まさにこれはかつて米軍が目標にして
いた「デジタル・コンピュータによる指揮・統制の自動化」のミ
ニチュア版ともいうべきものです。指揮・統制の自動化に対する
米軍の執念がこのようなものを生み出したのだと考えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  戦闘情報指揮所(CIC)が、護衛艦の中枢と呼ばれるよう
 になって久しい。外を見渡せる艦橋(ブリッジ)ではなく、密
 閉された艦内に指揮所を設けるという発想は、旧日本海軍には
 なかった。それが終戦後に米海軍から艦艇が供与され、レーダ
 ー、ソナー各種攻撃兵器や通信機能をまとめて管制するCIC
 の存在が明らかになると、国産護衛艦にもそのシステムが導入
 されるようになって、瞬く間に主指揮所の地位を築いていった
 のだった。
  レーダーやセンサー、全地球測位システム(GPS)を活用
 し、リアルタイムで把握した情報をもとに立案した作戦を、前
 線から後方に至るまで速やかに実施させるC3−I(シーキュ
 ーブドアイ/指揮・統制・通信及び情報)システムが戦場の雌
 雄を決する現在、海上自衛隊もLINKA17と呼ばれるデー
 タ・リンクシステムを各艦のCICに備え、護衛艦隊の「有事
 即応」能力の向上に努めている。
    ――福井晴敏著、『亡国のイージス』より。講談社文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに、C3−I――3つのCと1つのI――には次の意味
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     指揮 ・・・・・ コマンド
     統制 ・・・・・ コントロール
     通信 ・・・・・ コミュニケーション
     情報 ・・・・・ インフォメーシイョン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リックライダーがあくまでTSSにこだわったのは、軍事に使
う「C3−Iシステム」にしても、学者が思考のために使う「思
考センター」の構想にしても、いずれもリックライダーは、情報
(リソース)共有システムをネットワーク化した巨大なシステム
を想定していたのです。そのため、高性能の汎用コンピュータを
多くの端末を介して共用で使うということが前提となっており、
どうしてもそこにTSSの環境が不可欠であったのです。
 しかし、こういうリックライダーのTSSの構想に反対の立場
を取る学者もいたのです。その一人が例のMITのマッカーシー
委員会に参加していたウィスリー・クラークです。
 ウィスリー・クラークはこう考えたのです。当時のコンピュー
タをTSSの環境で使うと、データの入出力にはタイプライター
様の端末(テレタイプ)しか使えなかったのです。しかし、画像
表示装置などの高度な入出力装置の利用は、コンピュータを占有
してはじめて可能だったのです。つまり、TSSを施して複数の
端末をつなげば入出力装置の質を低く抑えなければならない――
クラークはこの立場からTSSに反対したのです。
 しかし、クラークがTSSを否定したと考えるのは正しくない
のです。彼はTSSを可能にする「多重シークエンスプログラム
概念」という技術の考案者だったからです。この技術はクラーク
によって1954年に開発されているのです。
 しかし、クラークはTSSの考案者であるが故にその可能性と
限界がよくわかっていたのです。リックライダーは、コンピュー
タをTSSの環境で多くの人が利用することが対話型コンピュテ
ィングであり、それがコンピュータを「近寄りやすい」マシンに
できると考えていたのですが、クラークは画像表示装置を利用す
ることによって「対話の質」を上げる――つまり、グラフィクス
を使って対話を分かりやすくすることこそ、コンピュータをもっ
と「近寄りやすくする」と考えていたのです。
 クラークは、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コピュータはあくまで道具であり、大きなシステムには大きな
 仕事があり、小さなシステムには小さな仕事がある。そして、
 個人のファイルは共有されるファイルより安全である。
                 ――ウィスリー・クラーク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼はワールウインドのプログラマーだったのですが、小さなシ
ステムの快適さを知っていたのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/19]


≪画像および関連情報≫
 ・リックライダーとウィスリー・クラークとの出会い
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ある日、仕事に疲れたクラークが、気晴らしにリンカーン研
  究所の地下のホールを歩きまわっていると、ホールの端にと
  ても暗い研究室がある。興味を惹かれ中へ入って暗闇の中を
  見まわると、リックライダーが一人で、ディスプレイの前に
  座って何か心理学の実験らしいことをやっている。何をして
  いるのかと、訊いたことから、話がはずみ、意気投合。そこ
  で、クラークはホールの反対側にある自分の研究室を教え、
  ぜひ来室してTX−2(クラーク開発のデジタル・コンピュ
  ータ)でプログラミングを学ぶよう勧めたのである。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

護衛艦内部のCIC.jpg
護衛艦内部のCIC
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2009年10月23日

●ミニ・コンピュータ界のIBM/DEC(EJ第1680号)

 巨大にして強力ななコンピュータを大勢の人が端末を通して使
う――これが時分割処理システム/TSSの考え方です。リック
ライダーがIPTO部長として最も資金を投入したのが、このT
SSなのです。
 この考え方に対して反対の立場をとったのは、ウェスレイ・ク
ラークです。このクラークという人物――インターネットの歴史
にとって重要な役割を果たしているのです。そういうわけで、名
前をよく覚えておく必要があります。
 クラークは、1952年にMITリンカーン研究所に後のSA
GEとなるワールウインド計画のプログラマーとして入所してい
るのです。その当時リックライダーもMITリンカーン研究所に
いて、地下の薄暗い研究室でクラークと出会う話は前号で述べて
います。
 クラークはワールウインドのメモリ試験用のコンピュータを制
作しています。これは、TX−0、TX−2と呼ばれていますが
クラークがリックライダーにプログラミングを教えたのがTX−
2のプログラミングなのです。
 しかし、クラークはTXシリーズに飽き足らなくなり、自分が
理想と考えるコンピュータを制作したのです。それがLINCと
いう名前のコンピュータです。LINC――ラボラトリー・イン
スツルメント・コンピュータの頭文字であり、実体は研究室で使
える計測用の小型コンピュータなのです。
 LINCは画期的な小型コンピュータであり、これをPCの遠
い祖先とみる学者もいます。LINCは、MITのサマー・キャ
ンプで公開され、大きな話題を呼んだのです。LINCは自分専
用のコンピュータであり、当時としては夢の実現だったのです。
 しかし、先進的なものは保守的な層からは反撃を受けるものな
のです。LINCに対してMITの上層部は反対だったのです。
しかし、ここにDEC(デック)という会社が登場します。DE
C社はLINCをDEC製品として採用しようとしたのです。
 そうすると、MITの上層部は一転してその計画に参加させる
ようクラークに求めてきたのです。クラークはそのようなMIT
に失望し、MITを辞めて、1964年にセントルイスのワシン
トン大学にその拠点を移しています。それから、3年間、クラー
クはいったん表舞台から姿を消してしまうのです。
 ここでDECという企業について少し述べる必要があります。
この企業は大型コンピュータ全盛の時代に小型コンピュータ――
当時はこれをミニ・コンピュータと呼称――を制作し、「ミニ・
コンピュータ界のIBM」といわれた優良企業なのです。だから
こそ、クラークのLINCに興味を持ったのです。
 しかし、DEC社は1998年にコンパック・コンピュータに
買収され、さらにそのコンパックがヒューレット・パッカードに
買い取られるという劇的な変化に見舞われています。
 DECの創始者は、ケン・オルセンという人です。彼の父親は
コネチカット州のブリッジポートの金物工場の経営者だったので
す。オルセン少年はエレクトロニクス、具体的には無線に興味が
あったのですが、父親から機械関係の仕事を身につけるよういわ
れ、高校までは機械制作の現場で働いたのです。これがあとで役
に立つことになるのです。
 1944年にオルセンは海軍に志願入隊します。海軍なら、エ
レクトロニクスを勉強しながら、給料までもらえるという好条件
だったからです。1946年に帰還兵の特典を生かして、MIT
に入学し、電気工学科を選ぶのです。そして、1950年に大学
院に進学し、コンピュータを専攻します。
 その後、MITリンカーン研究所のワールウインド計画に参加
することになり、1954年からMIT初のトランジスタ・コン
ピュータTX−0、TX−2の制作に従事します。ここで、ウェ
スレイ・クラークとの接点が生まれるのです。
 1957年にケン・オルセンは、弟のスタン・オルセン、MI
Tリンカーン研究所の同僚であったハーラン・アンダーソンと3
人で、DEC社を設立します。
 1960年にDEC社は、「PDP−1」というコンピュータ
を発売したのです。PDPとは、プログラムド・データ・プロセ
ッサという意味です。このPDP−1――まったく新しいタイプ
のコンピュータであり、価格は12万ドル。当時としてはきわめ
て安く高速であり、ミニ・コンピュータという新しい分野を開い
た画期的な製品といえます。
 ところで、このPDP−1はグラフィック・ディスプレイとラ
イトペンを備えており、そういう意味でそれ以後のコンピュータ
の開発の方向性に大きな影響を与えたのです。
 PDP−1は、MITに寄付されたのですが、リックライダー
の提案でBBNも1959年に購入しています。リックライダー
は、キーボードとディスプレイのあるこのPDP−1を使うこと
によって、「機械と人間の共生」のアイデアを生み出したといえ
ると思います。
 PDP−1は大ヒット商品となったのですが、クラークのLI
NCはもっと画期的な小型コンピュータなのです。DEC社は、
PDP−12の一部にLINCを組み込んでいます。
 ところで、PDP−1を「ミニ・コンピュータ」と名づけたの
は、当時のコンピュータがあまりにも巨大であり、その落差は大
きかったからです。しかし、皮肉なことに、それ以後コンピュー
タはますます小型化が進み、「ミニ」の名前が奇異に感じられる
ようになります。
 DEC社は1966年に株式を公開し、超一流企業への道を進
むことになります。そして、1977年に32ビット・コンピュ
ータVAXを発表します。このコンピュータがDEC社の繁栄を
確固たるものにして、DEC社は「ミニ・コンピュータ界のIB
M」といわれるようになるのです。DEC社はMITに非常に近
い企業であり、分家のようなものです。そして、インターネット
にも深い関連があったのです。
         ・・・[インターネットの歴史Part1/20]


≪画像および関連情報≫
 ・デモンストレーションをするウェスレイ・クラーク

LINC/クラーク.jpg
LINC/クラーク
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2009年10月26日

●第2代目IPTO部長サザーランドの役割(EJ第1681号)

 同じ対話型コンピューティングを目指しながらも、2つの考え
方があったことは既に述べました。リックライダーの考え方とク
ラークの考え方です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.中央に強力な大型コンピュータがあって、それを時分割の
   環境で端末を介してファイルを共有して使用する。しかし
   この場合、入出力装置は貧弱にならざるを得ない。
          ――J・C・R・リックライダーの考え方
 2.真の対話型コンピューティングは画像処理可能の入出力装
   置によってはじめて可能になる。そのためには各人が資源
   を占有できる小型コンピュータを持つ必要がある。
             ――ウェスリー・クラークの考え方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、1台の巨大なコンピュータを端末を介して時分割(T
SS)で多くの人で使うか、各人が小型のコンピュータを使い、
それらを何らかの方法でネットワーク化するかの違いなのです。
 現代のわれわれから考えると、クラークの考え方が正しいこと
はすぐわかりますが、当時は小型コンピュータが存在しなかった
時代なのです。それにおそらくリックライダーとしては、将来コ
ンピュータが小型化して、誰でも持てるようになるとは考えてい
なかったと思われるのです。
 しかし、クラークは小型コンピュータ同士でデータをやりとり
する具体的なアイデアまで持っていたのです。これについてはあ
とで明らかになります。
 クラークは小型コンピュータを設計するさい、最初に価格を決
めているのです。その価格は2万5千ドル――これは当時一人の
研究スタッフの年俸程度の金額であり、学部長決済で購入できる
予算額なのです。このようにして完成した小型コンピュータが、
LINC(リンク)なのです。
 クラークは、対話型コンピューティングにおいては、人とコン
ピュータが自然に対話できるように「対話の質」を上げる必要が
あると主張しています。そのためには、入出力装置にディスプレ
イが付き、それがグラフィクスを扱えることが不可欠であり、個
人がコンピュータの資源を占有しなければならない――これが、
個人が占有して使える小型コンピュータが必要であるとするクラ
ークの根拠です。
 確かに考えてみると、PCが一挙に普及したのはOSがウイン
ドウズ95になってからです。ウインドウズ95になってPCの
インターフェースがグラフィクス化されたのです。文字だけのイ
ンターフェースからグラフィクスになって対話の質が向上し、コ
ンピュータが身近なものになったからです。クラークは現代のコ
ンピューティングに非常に近いアイデアを当時持っていたことに
なります。
 クラークはこれほど優秀な学者ですから、彼を慕う門下生は多
かったのです。彼らはクラークがMITリンカーン研究所を去っ
た後も一部の人は研究所に残っていたのです。そして、クラーク
の開発によるTX−2というコンピュータ上で育っていた高度な
対話型コンピューティングの研究開発は、クラークが去っても研
究が継続されていたのです。その門下生の1人にイワン・サザー
ランドがいます。
 このサザーランド――1938年の生まれなのです。ネブラス
カ州の出身です。1959年に奨学金を受けて、ピッツパークの
カーネギー工科大学を卒業し、1960年にカルフォルニア工科
大学修士、1963年にMITで博士号を取っています。
 サザーランドはMITやARPAの主催する会合に講師として
招かれることが多く、その講演内容も期待を裏切らなかったので
リックライダーの目に止まったのです。そして、リックライダー
は、弱冠25歳のサザーランドを自分の後任のIPTOの部長に
選んだのです。
 サザーランドは、大学院を卒業すると陸軍に入隊し、国家安全
保障局(NSA)に配属されています。そして、1964年にI
PTOの部長に就任することになったのです。ちなみにサザーラ
ンドの軍隊での階級は陸軍一等兵、IPTOの部長職は准将待遇
なのです。つまり、一等兵がなんと一挙に将官になってしまった
ことになります。25歳の若者が、1600万ドルの予算権限を
握ったのですから大変なことです。
 しかし、サザーランドにとってIPTO部長の仕事はやはり少
し重荷だったようです。それもあって、サザーランドは、196
4年7月から1966年6月までIPTOに在籍はしたのですが
実質的にIPTOの仕事をしたのは、1年間だけだったのです。
 1965年になるとサザーランドは、ハーバード大学やNSA
(国家安全保障局)の仕事にかかりっきりであったそうです。し
かし、サザーランドはIPTOにとってひとつ大きな貢献をして
いるのです。それは、当時NASAの研究助成管理部にいたロバ
ート・テイラーをARPAに引き抜いたことです。
 テイラーは1965年からサザーランドに代わってIPTOの
仕事をしており、1966年6月から正式に第3代目のIPTO
部長に就任するのです。
 後にサザーランドはハーバード大学の電気工学科の助教授とな
り、そこで赤外線暗視鏡「リモート・リアリティ」を使ったヘリ
コプターの夜間着陸システムを開発しています。これが後に「バ
ーチャル・リアルティ(仮想現実)」の萌芽になるのです。これ
ではハーバード大学やNSAが彼を離さないはずです。それにも
かかわらず、彼を第2代のIPTO部長にしたのは、彼の師であ
るクラークをリックライダーは意識していたと思われます。
 ところで、ロバート・テイラーとは何者でしょうか。
 ロバート・テイラーは、1956年にテキサス州立大学に入学
し、心理学と数学を学び、大学院では心理音響学を専攻している
のです。専門分野がリックライダーと同じであり、お互いによく
知る間柄だったのです。
         ・・・[インターネットの歴史Pare1/21]


≪画像および関連情報≫
 ・「CGの父」といわれるサザーランド
  コンピュータ・グラフィックスは昔はCAD/CAMなどで
  使われた、ごく限られた専門家の世界だったが、ここ数年で
  大きく様変わりした。ハリウッドの映画は今やコンピュータ
  グラフィックス無しでは成り立たないし、テレビゲームの世
  界も3Dグラフィックスは当たり前になってきた。アイヴィ
  ン・サザランドは、このコンピュータグラフィックスの基礎
  技術を確立した人として知られている。現在はサンマイクロ
  システムズのフェローとして健在である。
  http://www.chienowa.co.jp/frame1/ijinden/Ivan_Sutherland.html

サザーランドの近影.jpg
サザーランドの近影
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2009年10月27日

●第3代IPTO部長ロバート・テイラー(EJ第1682号)

 ロバート・テイラーは、1961年にNASAに就職し、そこ
でフライト・シミュレータを制作しています。NASAは、彼の
業績を高く評価し、テイラーは若くしてNASAの枢要な地位に
就くことができたのです。
 そして、有人飛行制御、表示、シミュレーションなどの技術研
究に資金援助する仕事についたのです。そういう仕事の関係で、
テイラーは、CGのサザーランドやマウスの開発者エンゲルバー
トなどとも付き合いがあったのです。
 リックライダーは、早くからテイラーには注目しており、彼を
IPTOに呼んで、仕事をまかせたいと考えていたのです。なぜ
なら、NASAで彼がやっていた仕事とIPTOの部長の仕事は
よく似ており、彼はそれを手際よくこなしていたからです。
 こうしたリックライダーの強い要請によって、ロバート・テイ
ラーは、1966年6月から5年間にわたってIPTO部長を務
めることになるのです。しかし、テイラーは、サザーランドの都
合で、実質的には、1965年6月から、IPTO部長の仕事を
していたことは既に述べた通りです。
 ロバート・テイラーは、ある意味でリックライダーよりもこの
IPTO部長という仕事を割り切った感覚でこなしていったので
す。忘れてはならないのは、ARPAは国防総省の一組織であり
あくまで軍事目的のための先端技術研究ということで予算が出て
いるということです。
 しかし、テイラーは、この仕事について、次のように考えて仕
事をしていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは国防総省のエージェンシーだったが、私が援助する
 研究には特定の軍事的なつながりがあるべきであるとは考えて
 いなかった。(中略)われわれは軍事的な関連性があるという
 だけの理由で何かに資金援助しなければならないとは思ってい
 なかった。            ――ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テイラーによると、IPTO部長という仕事には途方もない自
由度があったといっています。当時ARPAには審査委員会など
はなかったので、研究プロジェクトへの資金援助は、IPTO部
長とARPA局長だけで決められたのです。したがって、IPT
O部長の良いと考えたプロジェクトには、資金援助はきわめてス
ピーディーに行われたのです。
 ちなみにIPTOは、9.11テロで被害のあった国防総省ビ
ルの中にあり、IPTO部長室はDリングにあったのです。国防
総省ビルは、上空から見ると五角形をしているので、ペンタゴン
――五角形の意味――といわれるのですが、五角形はさらに5つ
の五角形のリングで構成されているのです。なぜ、こんな形をし
ているのかというと、この構造であれば一番遠いところにも10
分以内で到着できるからです。
 この5つの五角形のリングは内側からA、B、C、D、Eと呼
ばれるのですが、外側になるほど位階の高い将官が使っているの
です。つまり、ラムズフェルド国防長官の部屋はEリングにある
のです。IPTO部長室はDリングにあったのですから、かなり
高い将官待遇(准将)だったわけです。
 そういう立場でありながら、IPTO部長はほとんど自分の判
断で、軍事目的を意識せず、これはと思う研究に資金を投入でき
たのです。結果としては、それができたからこそ、インターネッ
トが開発されたといえるのです。
 したがって、全体的なバランスなどほとんどなかったのです。
そのため、東海岸のMITや西海岸のUCLA/カルフォルニア
大学ロサンゼルス校やUCバークレー校にばかり資金が集中した
のです。とくに、MITには大量の資金が集中したといえます。
 テイラーは、国防総省の建物にいて将官でありながら、軍服も
着ず、白のタートルネックのセーターを愛用し、机に足を投げ出
していたといわれます。
 しかし、彼の頭はフル回転していたのです。そして、あること
を思いつくのです。リックライダーの考え方によって、資金はタ
イムシェアリング・システムに重点投入されていたので、多くの
タイムシェアリング・システムがあちこちにあったのです。
 それぞれのタイムシェアリングの周りには、これを取り巻く一
種のコミュニティができていたのです。例えば、MITのMAC
計画、UCバークレー校のGENIE計画などがそうです。大勢
の人が巨大なコンピュータを使うのですから、そういう共同体が
できるのは当然なことといえます。
 「そういったコミュニティ同士を何とか接続できないものか」
――テイラーはこのように考えたのです。しかし、これを実現す
るのは大変な難問があったのです。その難問とは、それぞれのコ
ミュニティが使っている端末の規格や通信に使うプロトコルなど
がすべて異なっていたことです。
 これを解決することは意義がある−−こう考えたテイラーは、
当時のARPAの局長であるチャールズ・ハーツフェルドのとこ
ろに交渉に行ったのです。ハーツフェルドは、ARPAの初代局
長であるジャック・ルイーナの後任者です。
 このときテイラーは、まだサザーランドの補佐役であり、正式
なIPTO部長ではなかったのですが、事実上の部長権限を有し
ており、こういう交渉ができたのです。
 ハーツフェルドは、1961年に弾道ミサイル防御計画のため
に着任したのですが、彼はリックライダーのタイムシェアリング
・システムを高く評価しており、軍事に直接関係がないとみられ
る一般的科学研究に資金を投ずることにもあえて異を唱えること
はしなかったのです。
 ハーツフェルドとテイラーの交渉はわずか20分で終了し、そ
の場で100万ドルの予算がついたのです。こうして、テイラー
構想――ARPAネットは滑り出したのです。1966年2月の
ことです。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/22]


≪画像および関連情報≫
 ・ペンタゴンについて
  ペンタゴンは、米国国防省総司令部の庁舎、または総司令部
  そのもののこと。建物のかたちより英語で五角形を意味する
  「ペンタゴン」で呼ばれる。5階建てで、各床に環状の廊下
  がある。この構造により世界最大のオフィスビルでありなが
  ら一番遠いところにも10分以内でたどり着くことができる
  とされている。所在地はワシントンD.C.郊外のバージニ
  ア州のアーリントン。約23,000名の軍事・民間の従業
  員、約3,000名のペンタゴンの国防以外の援助要員を収
  容する。
  ――出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国防総省ビル/ペンタゴン.jpg
国防総省ビル/ペンタゴン
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2009年10月28日

●ラリー・ロバーツ招聘の顛末(EJ第2683号)

 チャールズ・ハーツフェルド第2代ARPA局長――彼はオー
ストリア生まれの物理学者で、とても大柄の人物であり、その声
は轟くように大きかったといいます。そのため、提案のために彼
の前に出ると、多くの人は縮み上がって用意していたことを半分
もいえなかったそうです。しかし、テイラーはむしろ、ハーツフ
ェルドのような人物が好きだったのです。
 前回述べたようにIPTO部長の部屋は、ペンタゴンのDウイ
ングにあったのですが、ARPA局長の部屋はEウイング――外
の見晴らしのよいところにあったのです。
 ロバート・テイラーは意を決して、Eウイングにハーツフェル
ド局長を訪ねて例の提案をしたのですが、そこでどのような会話
が行われたか再現してみることにします。テイラーをT、ハーツ
フェルドをHと表記します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 T:ARPAが支援している機関は、それぞれ規格の異なる独
   自のコンピュータを持っているのですが、それが仇となっ
   て、コンピュータの資産が共有できないでおります。
 H.つまり、物理的に孤立しているということかね。
 T:その通りです。ARPAが支援のさいに、コンピュータの
   機種を限定し、ハードウェアやOSを統一すれば共有は可
   能ですが、ARPAは政府機関でありますから、そんなこ
   とはできません。
 H:その通りだ。ところで、いいアイデアでもあるのか?
 T:ございます。本日はその提案に伺ったのです。
 H:どのような提案かね。
 T:規格の異なるハードウェアやOSを前提として、それぞれ
   のコンピュータを結ぶネットワークを構築するのです。そ
   うすれば資産は共有化できます。
 H:そんなことが本当に可能なのか?
 T:可能です。コンピュータがネットワークで結ばれれば、機
   種の相違から派生する問題は解決できます。
 H:ネットワーク化するというが、技術的には大丈夫なのか。
 T:大丈夫です。やり方は既にわかっておりますし、最初は実
   験的に4つくらいのノード(コンピュータ)からはじめた
   いと考えています。
 H:凄いアイデアだな。よし、わかった、やろう。たった今か
   ら君は100万ドル以上の資金が使える。がんばれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際はこんなに簡単ではなかったでしょうが、折衝は20分し
かかからなかったといいます。
 しかし、「やり方は既にわかっております」といったものの、
これはあくまで方便であり、技術的には見当がついていなかった
のです。テイラーとしては、そういうことができる人物を探せば
よいと考えていたのです。
 コンピュータに通じていて通信の専門家でもある――現代でも
この条件を満たす人を探すのは難しいほどですが、テイラーはそ
の幅広い人脈から、条件にぴったりのMITのリンカーン研究所
の研究員、ローレンス・G・ロバーツ(愛称ラリー・ロバーツ)
を探し出してくるのです。
 1966年当時、ラリー・ロバーツは、MITリンカーン研究
所で空軍の電話システムを設計していたのです。リンカーン研究
所のコンピュータとサンタモニカにあるコンピュータを電話回線
を使って実験的につなぐ実験をしていたのです。このプロジェク
トについてもARPAは支援をしていたのです。
 テイラーは早速ロバーツに会い、今回のプロジェクトの趣旨を
話して、IPTOの実験的ネットワークのプログラム・ディレク
ターとして採用したいと申し入れたのです。そして、この仕事は
ARPA局長の全面的な支持を取りつけていること、さらにダメ
押しとして、自分の後任のIPTO部長に推薦するということま
で付け加えたのです。
 しかし、意外なことにロバーツの返事は「考えてみる」という
素っ気ないものだったのです。数週間後、テイラーは再びボスト
ンにロバーツを訪ねたのですが、このときロバーツは、はっきり
と「ノー」と断っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リンカーン研究所の仕事は楽しい。ワシントンの官僚になる
 のはごめんだ。          ――ラリー・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それから約2ヶ月に1回の割合で、テイラーはロバーツを訪問
して説得したのですが、ロバーツの意思は固かったのです。
 こうしてテイラーがハーツフェルドにOKをとってから、プロ
ジェクトは何も進展しないまま、空しく1年が過ぎようとしてい
たのです。思い余ったテイラーは、ハーツフェルド局長に会いに
行ったのです。
 テイラーは、リンカーン研究所の予算の51%はARPAから
出ていることは本当かと局長に尋ねます。本当だという答えを聞
いたテイラーは、ネットワークのプロジェクトを任せたいエンジ
ニアがリンカーン研究所にいるが、どうしても来てくれないと訴
えたのです。
 ハーツフェルドは「そいつは誰だ」と聞いたので、ラリー・ロ
バーツの名前を告げたのです。ハーツフェルドは、その場でリン
カーン研究所長に電話をかけて「ロバーツをくれ」と頼んだので
す。そして「何が起こるか楽しみだ」といって、ニャッと笑った
といいます。
 それから2週間後にロバーツからテイラーに「仕事を引き受け
た」という連絡が入ったのです。そして、ラリー・ロバーツはペ
ンタゴンの中で働くようになったのです。
 かくして、テイラーは、ロバーツという逸材をネットワークの
プロジェクトに引き入れることに成功するのです。1966年の
12月のことです。・・[インターネットの歴史 Part1/23]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・テイラー
  1932年/米国生まれ
  1956年/米国航空宇宙局(NASA)に勤務
  1965年/IPTO部長に就任
  1966年/ARPAネット開発に参画
  1968年/『コミュラケーション・デバイスとしてのコン
        ピュータ』論文をリックライダーと共同執筆
  1970年/ゼロックス社パロ・アルト研究所創設に参画

ロバート・テイラー.jpg
ロバート・テイラー
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2009年10月29日

●軍事目的のネットワークかどうか(EJ第1684号)

 念願のラリー・ロバーツを引き入れ、ARPAは本格的にAR
PAネットに取り組むことになるのですが、その前に述べておく
べきことがあります。
 それは、インターネット、すなわち、ARPAネットに関する
次の2つの「俗説」の検証です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ARPAネットは、ソ連の核攻撃に対応するための軍事
   目的ネットワークである。
 2.パケット通信システムは、ARPAネットではじめて開
   発された通信技術である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの2つは、インターネットについてほぼ常識的にいわれ
ていることです。とくに1つ目の「インターネットは軍事目的の
ネットワーク」として開発されたことについては、私もそうであ
ると信じてきたのですが、きちんとインターネットの歴史を調べ
てみると、必ずしもそうとはいい切れないのです。
 最初に、1994年に起こったある論争をご紹介しましょう。
これは、喜多千草著『インターネットの思想史』(青土社刊)に
詳しく紹介されているものです。1994年といえば、ちょうど
インターネットの普及が加速し始めた時期に当たります。この同
じ年の7月25日付の「TIME」誌は、次のように伝えている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 インターネットは国防総省の分散型コンピュータネツトワーク
 ARPAネットから育ったものであり、もともと核攻撃による
 中央情報施設壊滅を避けるために構想されたものである。
        ――1994年7月25日付の「TIME」誌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロバート・テイラーは驚いたのです。自分の愛読誌である「T
IME」誌がとんでもない間違いを書いていると感じたテイラー
は編集長に次の手紙を書いて送っています。そして、自分の意見
を「TIME」誌に掲載するよう求めたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 核戦争を避けるためのネットワークがインターネットの母胎に
 なったという説が、いかに「おいしい」話であろうとも、当時
 のARPAネットの計画責任者として、それは断じてなかった
 と証言します。          ――ロバート・テイラー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「TIME」誌の編集長も負けてはいません。テイラーの反論
に対する反論を次のように送ってきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 パケット交換方式が、核戦争を避けるために開発されたという
 のは、紛れもない事実であり、この技術こそがARPAネット
 構築に使われたというのは確かな筋からの情報です。したがっ
 て、残念ながらあなたの意見を掲載することはできません。
                 ――「TIME」誌編集長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAネットがもともと軍事目的で構築されたという考え方
については、テイラーの主張する方が正しいようです。どうして
このような誤解が生じたかというと、1964年に空軍に対して
提出されたある論文と混同されたのです。その論文は、空軍のシ
ンクタンクであるRAND(ランド)社の研究員であるポール・
バランによって提出された次の論文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     「分散型コミュニケーションについて」
              ――ポール・バラン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポール・バランという人は、1926年にポーランドに生まれ
ていますが、2年後に一家は揃って米国に移民しています。バラ
ンは、1955年にヒューズ航空機に入社し、ここを経て、19
60年にランド社に移籍しています。
 ちょうどそのとき米空軍は、ランド社に対して軍事通信システ
ムの研究を委託していたのです。そのため、この研究がバランの
仕事になったのです。
 空軍がランド社に委託した軍事通信システムというのは、米国
本土がソ連の大陸間弾道ミサイルによる核攻撃を受けたときでも
耐えられる軍用通信ネットワークを構築するというものだったの
です。つまり、ネットワークの一部が破壊されても、ネットワー
ク全体としては機能できるようにするというものです。
 高高度で核爆発があると、電離層が打撃を受けて、長時間、高
周波での通信ができなくなるのです。そのため低周波の地上波を
使う以外はなくなります。つまり、短距離での地上波を使った放
送局によって、メッセージを中継する通信を使うしかない――バ
ランは、この放送局によるメッセージの中継を自動化することを
考えたのです。これが最終的には、パケット通信につながってい
くのです。
 通信ネットワークには、次の3つがありますが、軍事用のネッ
トワークは「分散型」でなければならないとバランはいっている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1. 集中型
          2.非集中型
          3. 分散型
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、バランは「通信はアナログでやるべきである」を主張
するAT&Tの幹部を説得できなかったのです。AT&Tにとっ
ては、結果として電話の将来を危うくするデジタルによる革新的
ネットワークなど、受け入れられるはずがなかったからです。
 そして、このプランは軍事ネットワークとしては、採用されな
かったのです。 ・・・[インターネットの歴史 Part1/24]


≪画像および関連情報≫
 ・「ARPAネットは軍事ネットワークである」という俗説に
  対するラリー・ロバーツの反論
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  インターネットは核戦争に耐えるべく軍によって構築された
  という噂が(1964年のポール・バランの論文によって)
  広まり始めた。これは全くの間違いである。たとえランド社
  がこうした前提にたって仕事をしたとしても、ARPAネッ
  トもインターネットも、リックライダー、クレイン・ロック
  ロバーツのMIT派の仕事から生まれてきたのであり、ポー
  ル・バランの仕事とは何の関係もない。
  ラリー・ロバーツ著、『インターネット年代記』/1997
  年3月
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ポール・バラン/RAND.jpg
ポール・バラン/RAND
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2009年10月30日

●パケットの開発者デイビス(EJ第2685号)

 昨日のEJで、ARPAネットにまつわる2つの俗説について
述べましたが、今日は2つ目の問題について考えてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2.パケット交換システムは、ARPAネットではじめて開
   発された通信技術である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ARPAネットは、確かにパケット交換システムを採用した最
初の通信システムですが、果たしてこのパケット交換システムは
核戦争を避けるために開発されたものなのでしょうか――検証し
てみることにします。
 問題は、パケット交換システムは誰が開発した通信技術かとい
うことです。
 一般的には、次の図式が既に出来上っており、パケット交換シ
ステムの開発者はポール・バランだと思われているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ARPAネット=パケット交換=ポール・バラン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、少なくとも「パケット交換」という言葉はポール・バ
ランが発明したものではないのです。バラン自身は「分散通信」
という言葉を使っていたからです。それでは「パケット交換」は
誰が開発したのでしょうか。
 「パケット交換」という言葉を使ったのは、英国人のドナルド
・デイビスという人です。デイビスは1924年に英国のウェー
ルズで生まれていますが、小さい頃から神童とか天才といわれて
いたそうです。成績は抜群であり、いくつもの大学から奨学金提
供の申し出があったといわれます。
 1954年にデイビスは奨学金を受けてMITに留学します。
ちょうどその頃米国では、タイムシェアリングが熱狂的に流行し
ていたのです。デイビスは見学できるタイムシェアリングを見て
回ったのですが、米国と英国の違いに気が付いたのです。
 一つは、英国はコンピュータを実務に使うことが一般的であっ
たのに、米国ではOSに興味の中心があり、コンピュータを実務
に使うことには関心がなかったように思えたことです。
 二つは、英国でもタイムシェアリングは盛んだったのですが、
英国と米国には次の違いがあったことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    英国 ・・・ マルチ・プログラミング中心
    米国 ・・・ マルチ・ユーザー   中心
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、米国の場合は大勢のユーザーが同時に使うことに重点
が置かれていたのに対し、英国のそれはユーザーは少なくてもよ
いが、複数のプログラムが動かせるかどうかに、多大の関心が集
まっていたということです。
 デイビスが41歳になった1965年――ちょうどあのスタン
リー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮影していた
同じ年ですが、デイビスはあることから、情報を小さな単位にし
て送れば、インタラクティブな通信システムが可能になることに
思いいたったのです。
 1966年6月、デイビスはこのアイデアを理論としてまとめ
『デジタル通信ネットワークの提案』という論文を書いているの
ですが、その中に次の一節があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ユーザーはメッセージをシステムが運んで欲しい情報の単位と
 思っているが、ネットワークは自身の必要のために、チャンネ
 ルの容量割当ての際にユーザーのメッセージをより小さな単位
 に分割することがある。この伝送用のより小さな単位のことを
 われわれは『パケット』と呼ぼう。
                  ――ドナルド・デイビス
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこれとほぼ同時期にポール・バランも情報を小さな単位に
分けるアイデアを理論化していたのです。デイビスの理論もバラ
ンのそれも次のような構成になっていたのです。
 ネットワークは分散型にし、ある点から別の点へデータを送る
とき、はじめから経路を決めておくのではなく、状況に応じて経
路が選択できるようにする――そして、データはパケットという
単位で細かく分割して送り出し、目的地にたどりついたとき、順
番に再構成するというものです。
 このように、デイビスとバランの考え方は驚くほどよく似てお
り、パケットの長さも同じ128バイトだったのです。違ってい
たのはその目的だったのです。バランの場合は、核戦争下の戦略
指揮統制システムの開発であるのに対して、デイビスは単に新し
い通信ネットワークの開発だったという点です。
 もうひとつ大きく違ったのは、国営電話会社の対応です。既に
述べているように、米国のAT&Tがバランに対し、「通信はア
ナログでやるもの」と決めつけて反対したのに対し、英国のブリ
ティッシュ・テレコムはデイビスに対して好意的であり、実験の
ための資金まで提供しているのです。まさに度量の違いというべ
きでしょう。これにより、英国は小規模ではあるが、パケット交
換ネットワークが構築されていくことになるのです。
 それでは、ARPAはどのようにしてパケット交換システムを
取り入れたのでしょうか。
 ラリー・ロバーツは、バランとデイビスの研究については知ら
ないといっており、ARPAネットには彼らの研究成果を参考に
していないといっていますが、これは明らかにウソなのです。
 なぜかというと、デイビスが国防総省を訪問したとき、ロバー
ツの机の上にデイビスの『デジタル通信ネットワークの提案』が
ボロボロになった状態で置いてあったのをデイビス自身が見てい
るからです。  ・・・[インターネットの歴史 Part1/25]


≪画像および関連情報≫
 ・インターネットとARPAネット
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  現在のインターネットのルーツは、1960年代後半の国防
  総省のARPAの資金援助で開発されたネットワーク、AR
  PAネットまでさかのぼることができる。ARPAネットは
  主要な大学と契約企業の研究者間のデータ交換を行うために
  これらの機関のコンピュータを結んだものである。
  ――浜野保樹著、『極端に短いインターネットの歴史』より
                         晶文社刊
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

浜野保樹氏の本.jpg
浜野保樹氏の本
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