2009年09月01日

●ロシア革命の前奏曲/血の日曜日(EJ第1744号)

 アレクセイ・キリチェンコ氏という人がいます。日露戦争にお
ける日露の諜報機関の対決を描いたテレビドキュメンタリーフィ
ルムの台本を書いた人です。
 キリチェンコ氏は、明石元二郎が金を使って反政府勢力を操っ
たことには批判的ですが、明石が「民族問題こそがロシア帝国の
脆弱な部分である」と見抜いていたことを高く評価して、次のよ
うにいっているのです。
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 明石はレーニンより早く、民族問題の重要性に目を向けた。レ
 ーニンは後になってこれを理解し、民族自決権をスローガンに
 掲げてロシア革命を遂行したと指摘し、明石はレーニンの師に
 なったというのである。 ―― 読売新聞取材班著、『検証日
               露戦争』より。中央公論新社刊
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 しかし、レーニンの狡猾なところは、彼自身は民族自決権を理
解したもののそれを誰にも与えなかったという点です。その結果
が、後年ソ連の崩壊を招いたのです。
 1904年の日露開戦から11ヶ月後の1905年1月2日、
乃木将軍の第3軍は、多くの犠牲を積み重ねて旅順の203高地
を落としたのです。
 ニコライ二世は日記をきちんとつける人だったそうですが、そ
の1月3日の日記を紹介しましょう。
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  未明、ステッセルから日本に旅順を明け渡したとの衝撃的な
 報告を受けた。甚大な(将兵の)損失、守備隊内部の病的な状
 態、弾丸の枯渇のためだ!・・・つらく悲しい。――読売新聞
      取材班著、『検証日露戦争』より。中央公論新社刊
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 日露戦争当時は、日本もロシアも戦況の報告はウソや誇張がな
かったのです。したがって、日本国民は旅順で苦戦していること
はよく知っており、それだけに旅順陥落のときは日本中が沸いた
のです。街には提灯行列が出ましたし、旅順開港と白旗を掲げた
敵の将軍ステッセルをテーマにした歌まで流行ったのです。ロシ
アの将軍たちも、戦況に関しては逐一正確に皇帝に電報を打って
いたようです。
 ニコライ二世が旅順陥落の原因を「弾丸の枯渇のため」といっ
ているのは、ロシアも日本と同様にその頃は戦費の調達がままな
らなかったからです。日本軍は各会戦でロシアを打ち破っていま
すが、全般的に弾丸が不足しており、そのため追撃できず、決定
的な勝利が勝ち取れなかったといわれます。
 さて、旅順は落としたものの、1904年10月5日には世界
最強といわれるロシアの誇るバルチック艦隊はバルト海のリバウ
を出発し、一路日本に向っていたのです。旅順攻略で浮かれてい
るときではなかったのです。
 実は、旅順陥落後、米国大統領ルーズベルトは日本の依頼を受
けて、フランス大統領エミール・ルーペを通してロシア皇帝に和
議を打診しているのです。しかし、瀋陽(奉天)にはロシア軍が
集結してきているし、バルチック艦隊もやってくる――負けるは
ずがないと、皇帝は和議を拒否したのです。
 そういうとき、ロシアでは明石の仕掛けていた謀略のひとつが
炸裂したのです。その中心人物はゲオルギー・アポロヴィッチ・
ガボンという若き僧侶です。
 旅順陥落のニュースが伝わると、ロシア国内ではあちらこちら
で、ストが発生したのです。このストは明石がパリにいる革命グ
ループを扇動して起こさせたものなのです。
 1月19日にキリスト洗礼式の式典が冬宮殿であり、ニコライ
二世が出席していたのです。式典の最中に礼砲が上がったのです
が、故意か偶然か1発の実弾が冬宮殿を襲ったのです。空砲であ
るべき礼砲の中に1発だけ、実弾が入っていたためです。
 1905年1月22日――ある一団が冬宮を目指して行進をし
ていたのです。その先頭に立っていたのは、若き僧侶ガボンだっ
たのです。何のために冬宮殿を目指していたのかというと、皇帝
に請願するためです。
 ロシアでは、ストが起きると、工場労働者は先頭に僧侶を立て
て冬宮で皇帝に請願し、あこぎな雇い主に労働条件の改善をして
もらうことがならわしとなっていたのです。したがって、ガボン
が先頭に立って冬宮殿に向っても、とくに異例のことではなかっ
たのです。僧侶はロシアでは影響力は大きく、国民の味方である
と考えられていたのです。皇帝に請願すれば何とかなる――皇帝
の権威はまだ辛うじて保たれていたのです。
 しかし、この日は皇帝側の様子はいつもと少し違っていたので
す。冬宮殿の門の前には、歩兵1万2千人のほか、コザック騎兵
も3千人出動しており、物々しく守りを固めていたのです。
 実はこの日の冬宮請願をあのウィッテは事前に知っており、皇
帝に対して「群集は門の中に入れ、請願書だけを受け取る。皇帝
は自ら姿を現すことを避け、追って適切な措置を取ることをメッ
セージとして与える」案を示しています。しかし、ウイッテはそ
の後の会議から外され、この案は無視されてしまったのです。
 やがて冬宮殿の門に到着したガボン率いる群集は停止命令を受
け、押し問答がはじまったのです。そこで連隊長は、群集に叫ぶ
のです。「帰れ!命令にしたがわないと撃つぞ!」――しかし、
群集の力は凄く、門を押し破って入ろうとします。
 「撃ち方はじめ!」――連隊長は命令すると、ラッパの音とと
もに100梃以上の鉄砲が一斉射撃を行ったのです。しかし、最
初は空砲でした。それがかえっていけなかったのです。撃つ気が
ないと誤解した群衆は一斉に前進しようとしたのです。ところが
本当に銃が発射され、大勢の人が血にまみれて死んだのです。こ
れが「血の日曜日」と呼ばれ、5ヵ月後の戦艦ポチョムキンの叛
乱とともにロシア革命の前奏曲として、長く歴史に刻まれること
になるのです。          ・・・[日露戦争/38]


≪画像および関連情報≫
 ・血の日曜日の翌日労働者の歌った歌
  ―――――――――――――――――――
  極東で征服されたロシアの上の勝利者よ
  呪われてあれ、血で染まった
  残忍なツァー(皇帝)よ
  ―――――――――――――――――――
 ・サンクトペテルブルグ「冬宮殿」

冬宮殿.jpg
冬宮殿
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2009年09月02日

●血の日曜日は明石工作の一環(EJ第1745号)

 血の日曜日の仕掛けが明石の工作であったかどうかには諸説が
あるのです。実は、ゲオルギー・アポロヴィッチ・ガボンという
僧侶の正体に次の2説あるからです。
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 ≪第1の見方≫
  労働者の味方であり、立派な宗教家として宗教のみならず、
  新しい共済制度を政府に採用させ、労働者の地位と経済的な
  力を向上させようと尽力した若い僧侶
 ≪第2の味方≫
  非常に腹黒く、自己顕示欲が強いところがあり、弁舌さわや
  かである。強いカリスマ性があり、人を扇動してひとつの方
  向に向わせる能力を有している革命家
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 興味深いことは、既にご紹介済みの『動乱はわが掌中にあり』
の著者である水木楊氏は第1の見方を取り、『情報将校/明石元
二郎』の著者、豊田穣氏は第2の見方を取っていることです。
 水木楊氏の描くガボンは、冬宮殿のロシア軍の襲撃によって負
傷し、パリに逃れているのです。後にシリアスクを介して明石に
会い、ロシア大衆の一斉蜂起を手伝うようになるというのです。
 これに対して、豊田氏は血の日曜日のデモ自体に明石の工作が
あったという説を取っているのです。話の筋からいうと、豊田氏
の説の方がいろいろな点でつじつまが合うのです。そこで、ここ
では、豊田氏の説に沿って解説することにします。
 1905年の正月に旅順が陥落すると、明石は直ちにペテルブ
ルグに侵入するのです。この頃「ムッシュー・アカシ」の名はロ
シアのオフラーナには知れ渡っており、この潜行は非常に危険な
ものだったのです。
 ペテルブルグのネフスキー通りの裏小路にある酒場で、明石は
社会革命党の幹部とガボンに会っているのです。豊田氏はガボン
のことを「一種異様な風貌とムードを持った怪僧」と表現してい
ます。しかし、これが水木氏の手にかかると「深い神秘的な瞳を
持つ、背筋の伸びた、髭の濃い美しい僧」となるので、まるで別
人のようです。
 怪僧ガボンは明石に会うと、次のようにいったのです。
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 革命は成功する。そのためには犠牲が必要ですぞ。私は予言す
 る。神は私に民衆の犠牲になるようお命じになった。まさにイ
 エスキリストのように・・・その日取りは神のお告げによると
 1月9日(新暦の22日)なのだ。
              ――豊田穣著、『ロシアを倒した
 スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より  光人社刊
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 このとき、社会革命党の幹部は明石に対して、次のようにいっ
たのです。1月19日に冬宮殿でキリスト洗礼祭があり、皇帝が
出席する。そのさい、21発の礼砲が上がるが、その内の1発に
実弾を仕込んで冬宮殿上で爆発させるというのです。砲兵隊員の
中に社会革命党員がおり、それは可能であるというのです。
 これをやると、宮廷側は軍部のなかの不穏分子の仕業であると
考えて疑心暗鬼になる――そこにガボン率いる大規模な民衆のデ
モ隊を突入させ、宮廷側の心胆を寒からしめる作戦であるという
のです。そのとき、民衆側と宮廷側の軍隊がぶつかって流血騒ぎ
が起きると、皇帝の信用は一挙に地に落ちるというのです。
 ガボンがいう「民衆の犠牲」とはこれを指しているものと考え
られます。実際に宮廷側は冬宮殿を厳重に軍隊で囲み、民衆に向
って発砲したのです。そのため、多くの死者が出て、ガボン自身
も負傷するのですが、それは革命を成就させる犠牲であるという
わけです。
 確かに事態はガボンのいう通りになったのです。これによって
皇帝の権威は失墜したからです。民衆から最後の拠りどころにさ
れていた皇帝は雇い主と何ら変わらない存在であることを思い知
らされたからです。
 このことを独自の情報網から事前に知っていたのがあのウィッ
テなのです。だからこそ、彼はニコライ皇帝に会って民衆を冬宮
殿に入れて、しかるべき人物が請願書を受け取るべきであると忠
告したのですが、受け入れられなかったのです。
 既に何度も述べているように、宮廷内には反ウィッテ派がたく
さんいて、ウイッテと皇帝とを遮断しようとしたのです。そのた
め、21日に開かれた政府首脳の会議にはウイッテに声がかから
なかったのです。ニコライ二世という人は、他人の意見に左右さ
れやすく、ましてウイッテ自身は煙たい存在だったのです。その
ため、ウイッテの申し出は採用されなかったのです。
 水木氏の本によると、21日の夜、ウイッテの家にある訪問者
があったと記述されています。訪問者は、作家マクシム・ゴーリ
キーを含む一団だったのです。ゴーリキーには、名作「どん底」
という作品があります。
 彼らのウイッテに対する頼みというのは、このままでは流血の
惨事になるので、皇帝を何とか労働者に会わせるように計らって
欲しいというものだったのです。
 しかし、ウイッテは自分は閑職に追いやられていて、主要な会
議に呼ばれていないので、皇帝に伝えるすべはないと悲しそうに
答えたというのです。
 1月2日の旅順陥落に引き続き、19日の冬宮殿での銃弾の爆
発騒ぎ、そして22日の冬宮殿でのデモ隊の大量の流血事件――
このように事件が続いたのです。これはロシア皇室にとって、相
当なショックであったはずです。明石元二郎の工作がどんなに恐
るべきものかわかると思います。
 それにこの一連の事件がムッシュー・アカシの仕業であること
が当のペテルブルグのその筋では既に知られていたのです。いま
や明石はパリはもちろんのこと、ペテルブルグでもスコットラン
ドでも有名人になっていたのです。 ・・・[日露戦争/39]


≪画像および関連情報≫
 ・社会革命党の元老の言葉/明石の評価
  ―――――――――――――――――――――――――――
  私たちはロシア民族のために、現ロシア政府という悪魔と数
  十年戦ってきたが、何一つ満足な打撃を敵にあたえたことが
  ない。それなのに、ロシアの敵であるはずの日本人が、われ
  われに力をかして、悪魔退治の応援をしてくれている。まこ
  とに恥ずかしい話だ」。
              ――豊田穣著、『ロシアを倒した
  スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より 光人社刊
 ――――――――――――――――――――――――――――

ゴーリキー.jpg
ゴーリキー
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2009年09月03日

●われに一大隊の日本軍があれば(EJ第1746号)

 ここまで日露戦争を独自の角度から追求してきましたが、今ま
で考えられていた以上にロシアという国が、傷んでいたことがわ
かってきました。ある意味において、日本が勝ったのは当然であ
るとさえいえるのです。
 水木楊氏の著書に驚くべきことが書いてあります。本当に目を
疑う記述です。血の日曜日の中におけるの記述です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  国際世論は、ロシア政府の暴挙を激しく批判した。この地獄
 絵を取材した欧州の新聞記者が、死にかけた労働者の残した言
 葉を報じた。
  「我に一大隊の日本軍があればこんなことはさせないのに」
      ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はこれを読んだとき、ミスプリントではないかと思ったので
す。なぜかというと、死にかけているのはロシアの労働者であり
そのロシアが戦っている国は日本であるからです。それなのに、
この労働者は「我に日本軍があれば・・・」といっているからで
す。これについて、水木楊氏は次のように解説しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「我に一大隊の日本軍があれば、こんなことはさせないのに」
 という言葉が、民衆の怒りを如実に反映している。日本軍はロ
 シアの敵であるはずだが、その日本軍がいれば皇帝の軍隊を倒
 すことができたのではないか、というのだ。 ――上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は日露開戦後一年が経過した段階で、いわゆる「日本加担―
―日本の力を借りて専制政治を崩壊させる」は、レーニンなどの
職業的革命家の間だけではなく、革命に共感を寄せる民衆、とく
にロシア帝国内の多数の民族が住む周辺地域において大きな広が
りを見せていたのです。
 ロシア側の史料で諜報戦の内幕を描いた本の中に、次の記述が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「極東におけるツァーリズム苦戦の報に住民は歓喜」と記して
 いる。ヴィチェブスクのある中学校の生徒たちは「日本ばんざ
 い!」と歓呼し、また、ペテルブルグ鉄道大学の学生たちは首
 都の学生層の大半がそうした風潮に「無条件に反対だった」に
 もかかわらず、日本の天皇にエールを送ろうとしたほどであっ
 たという。  ――デー・ペー・パブロフ+エス・アー・ペト
  ロフ著、左近毅訳、『ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の
             内幕/日露戦争の秘密』、成分社刊
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 これを見るとわかるように、既にロシアは部分的には崩壊しつ
つあったのです。明石は巧みにそこを衝いて工作を仕掛けること
によって、実際の戦闘による勝利をより増幅させることに成功し
たのです。
 さて、EJでは日露戦争を取り上げながら、鴨緑江の渡河作戦
以外はほとんど戦闘そのものは取り上げていません。そういうも
のを記述した書物は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をはじめとし
て、たくさんあるからです。
 しかし、乃木将軍率いる第3軍による旅順攻略に関しては、触
れておきたいことがあります。それは、乃木希典という人物の評
価に関してです。
 現代人による乃木希典の一般的評価は「乃木は愚将である」と
いうものではないかと思います。確かに、乃木将軍の指揮した旅
順要塞作戦は、半年間に死傷者6万人という多大な犠牲を出して
います。その犠牲は、工夫のない単純攻撃の繰り返しによって生
まれたものであり、その功績はむしろ一時的に指揮権を代行した
満州軍参謀総長、児玉源太郎に帰すべきであるという意見が支配
的なのです。
 乃木将軍に対して、こういうイメージを作り上げることに力が
あったのは、やはり『坂の上の雲』であると思います。しかし、
本当に乃木将軍は愚将なのでしょうか。
 乃木将軍に同情的な点は、もともと旅順の203高地の攻略は
海軍の立てた作戦であって、第3軍は準備不足・情報不足のまま
この作戦をやらざるを得なかったことです。日露戦争史に詳しい
防衛大学校田中宏巳教授は、次のように述べています。
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 旅順要塞攻撃は、旅順港に逃げ込んだロシア艦隊を陸からの砲
 撃でたたくため、海軍の要請で踏み切ったという面が強い。敵
 陣についての十分な情報もなかったわけで、その点、乃木には
 同情すべき点が多い。  ―― 読売新聞取材班著、『検証日
               露戦争』より。中央公論新社刊
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 乃木がとった方法は「強襲法」といって、砲兵の火力で敵陣を
徹底的にたたいてから、歩兵が突撃する戦法ですが、旅順の要塞
の位置と周囲の状況から決して間違っていないのです。むしろ、
事前に行う火力そのものが不足していたのです。当時は極度の弾
丸不足で十分な火力でたたけなかったのです。
 軍事の専門家によると、こういう状況において6万人の犠牲で
落とせたのは、むしろ乃木の戦略が成功していると述べているの
です。勝典と保典という2人の息子を失いながらも、悲哀を表に
出さないで戦い続けた老将軍を再評価すべきであると考えます。
 今年のEJはこれで終わります。どうか、良いお年をお迎えく
ださい。             ・・・[日露戦争/40]


≪画像および関連情報≫
 ・乃木希典について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東京生まれ。陸軍軍人。父は長府藩士。第2次長州征討に参
  加。1871年に陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍
  する。1887年に戦術研究のため川上操六とドイツ留学。
  日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し旅順を占領。18
  96年第3代台湾総督に就任。1904年大将へ昇進。日露
  戦争では第3軍司令官として旅順攻略を指揮するも、困難を
  極めた。戦後、軍事参議官となるが、1907年から明治天
  皇の意を受けて学習院の院長を兼任。明治天皇大喪の日、妻
  静子とともに殉死。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/160.html?c=0
  ―――――――――――――――――――――――――――

「日露戦争の秘密」.jpg
本「日露戦争の秘密」
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2009年09月04日

●戦争継続か講和か(EJ第1747号)

 日本は、日露戦争を開始した時点からいつ幕引きをやるかを窺
いながら戦争をやってきたのです。そういう意味で旅順の陥落は
ひとつの大きな節目であったことは確かです。
 旅順陥落は国際的にも知れ渡り、日露講和の可能性が各地で議
論されるようになってきたのです。これまでに戦争の継続につい
て終始あいまいな態度を取ってきたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世
も、米国のルーズベルト大統領に対して領土の割譲を前提としな
い講和を働きかけるべきであると伝えています。
 しかし、本音はドイツも米国もあまり日本が領土を取り過ぎる
ことは危険であると考えて、講和を調停しようとしたのです。と
ころが、当の日本の満州軍総司令部は、戦争継続で一致していま
した。それには、次の3つの理由があったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.兵力が充実していたこと
   ・旅順が陥落したため、乃木将軍率いる第3軍が使えるよ
    うになったことと、機関銃などは日本がロシアを上回っ
    ていたこと
 2.作戦に対する自信がある
   ・参謀本部としてはクロパトキン将軍の中途半端な采配を
    打ち破り、奉天(瀋陽)攻略に対して相当の勝算を持っ
    ていたこと
 3.両軍の士気の差が大きい
   ・開戦以来連戦連勝の日本軍と連敗と失敗を重ねたロシア
    軍との士気の差は大きく、ロシア軍には厭戦気分が満ち
    ていたこと
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 クロパトキン将軍は奉天を日本軍から守るには、100万人の
兵が必要であるとして、本国に兵の増派を要求していたのです。
しかし、1905年の1月22日に「血の日曜日」が起きて、軍
の増派どころではなかったのです。こういうところに明石工作が
効いているのです。
 結局、奉天の戦いは日本軍の勝利に終わるのですが、クロパト
キンは、異常に乃木の第3軍が背後に回られるのを恐れ、鉄嶺に
向って総退却をはじめたのです。しかし、日本軍はその時点で既
に弾薬の補給が底をついており、決定的勝利を勝ち取れなかった
のです。これが講和条件に大きく響いたのです。
 奉天陥落の報を聞いたニコライ二世は、直ちにクロパトキンを
解任し、リネウィッチ将軍を任命するのです。リネウィッチ将軍
は、攻撃型の勇将として知られ、直ちに日本軍に反転攻勢をかけ
るために、欧州の一流師団を中心にハルピンに50師団を集結さ
せはじめたのです。この頃には、シベリア鉄道の輸送能力は開戦
当時の倍近くになっていたのです。
 「これはいかん!ここが限界だ」――参謀長の児玉源太郎は、
このようにつぶやくと、3月22日に奉天を出発し、大連を経由
して東京に向かったのです。そして、児玉は3月30日に明治天
皇に会い、満州の現状を報告、それを受けて次の31日に大本営
で会談が行われたのです。
 この会談の名目は作戦会議だったのですが、次のことが話し合
われ、もはや戦争継続は困難であることが確認されたのです。そ
して、水面下で講和に向けて努力する方針が決定されたのです。
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 1.ハルピン会戦をやるには、さらに戦費が9億円必要である
 2.46歳までの日本男子を動員して、13万人の新兵を作る
 3.6ヶ月以内に戦わなければならないので、準備が不足する
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 しかし、ロシアが講和に応じなければ戦争を続けざるを得ず、
あくまで、表面上は、ハルピン、ウラジオストック、カムチャッ
カ半島の3点を奪取するという方針で臨むことになったのです。
 しかし、あくまで戦争継続の考え方を変えないニコライ二世も
開戦以来の負け戦の連続と国内の革命運動の懸念もあってかなり
弱気になっており、条件さえ整えば講和してもよいと考えはじめ
ていたことは事実です。
 しかし、皇后のアレクサンドラが戦争継続を主張して譲らない
のです。彼女はバルチック艦隊が極東に到着すれば、戦局は一変
すると主張しているのです。確かにアレクサンドラのいうように
もし、日本海軍がバルチック艦隊に破れれば、一挙に戦局が変わ
ることは間違いなかったのです。そういうわけで、戦争継続か講
和かの判断は、日本海海戦の結果に委ねられたのです。
 ロジェストヴェンスキー海軍中将に率いられた艦隊は、マダカ
スカルに着いたときに旅順陥落の報を受け取ったのです。ロシア
にとってそれは明らかに、来るべき海戦の意義を問い直す出来事
であったはずですが、ニコライ二世はこの海戦で日本に勝つこと
によって戦局を逆転させることしか頭になかったのです。
 こうしてバルチック艦隊は、4月初頭にマラッカ海峡に入り、
4月末にフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に艦
隊を停泊させようとしたのです。しかし、フランスはこれを拒否
したので、やむを得ず、カムラン湾の北方ワン・フォン港周辺海
域に艦隊を停泊させたのです。なぜ、カムラン湾が使えなかった
のか――それは日本がフランスに対し、猛烈な抗議をしたからで
す。カムラン湾はフランス領であり、中立国が日本の交戦国であ
るロシアのために自国領の港湾を利用させることは許されないと
主張したのです。英国との関係改善を進めていたフランスは、こ
の日本の抗議を無視できなかったのです。
 5月14日、バルチック艦隊は航海を再開します。このように
この艦隊は非常にスローペースで日本に近づいてきたのです。そ
の間、日本の連合艦隊はさまざまな作戦とその演習にたっぷりと
時間をかけることができたのです。
 バルチック艦隊の目的地はウラジオストック、航路には3つの
選択肢があったのです。対馬海峡か、宗谷海峡か、津軽海峡か、
このどれかです。          ・・・[日露戦争/41]


≪画像および関連情報≫
 ・奉天会戦
  奉天会戦はは、1905年3月1日から10日にかけて行わ
  れた、日露戦争最後の会戦。参加兵力は日本軍25万人、ロ
  シア軍37万人。司令官は日本側大山巌、ロシア側アレクセ
  イ・クロパトキン。奉天は現中国遼寧省の瀋陽。クロパトキ
  ンを総司令官とするロシア軍は100万に動員令をだしてい
  たが、ロシア国内は血の日曜日事件のように革命前夜の状況
  であった。ニコライ二世への国民の忠誠心は後退していた。
  一般的には、奉天を占拠しロシア軍を敗走させた日本軍の勝
  利と認識されているが、十分な追撃を行えなかったために、
  日本側の優勢的な引き分けに近いと評する者も多い。
                    ――ウィキペディア

バルチック艦隊.jpg
バルチック艦隊
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2009年09月07日

●日本海海戦の完全勝利(EJ第1748号)

 ロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊――ここま
で、このように記述してきましたが、「バルチック艦隊」とは実
は正しい名称ではなく、日本が日露戦争について記述するときに
独自に付けた名前なのです。
 正しくは「バルト(海)艦隊」というのです。ロシア海軍のバ
ルト海に展開する艦隊を意味しています。ニコライ二世は、この
バルト艦隊から主力の戦力を引き抜いて日本と戦うための艦隊を
編成したのです。これが第2艦隊です。
 当初はこの第2艦隊と旅順艦隊を合流させる作戦だったのです
が、旅順艦隊が全滅してしまったので、皇帝は急遽第3艦隊を編
成して、第2艦隊の後を追わせたのです。
 第2艦隊と第3艦隊は現在のヴェトナム周辺の海域で合流し、
1905年5月14日に極東に向けて出発したのです。この第2
艦隊と第3艦隊が合流した艦隊が日本の連合艦隊と戦ったのです
が、日本ではこの艦隊――輸送船を含めて38隻――をバルチッ
ク艦隊と呼んでいるのです。
 さて、日本海海戦については、それが講和の引き金になっただ
けに、少し詳しく記述することにします。日本の連合艦隊の推測
では、バルチック艦隊には次の2つの作戦が考えられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.戦闘を覚悟の上で1日も早くウラジオストック軍港に直航
   し、ここを拠点に反転作戦を開始する。
 2.台湾か清国南岸またはさらに南方に根拠地を獲得し、日本
   の背後を脅かし、時期を見て反撃する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、第2の作戦は実現が困難であり、ロシアは第1の作戦
を取ることが考えられたのです。
 ここで、当時のバルチック艦隊の内情について説明しておく必
要があります。結論からいうと、バルチック艦隊の将兵はあまり
にもスローペースな長旅に疲れ切っていたのです。というのは、
バルチック艦隊の航路の大半は英国海軍の勢力下にあって、港に
停泊することはもちろんのこと、燃料や食料の補給ですらままな
らない状態だったのです。辛うじて得た補給も洋上補給という困
難にして疲弊する作業をしなければならなかったのです。
 しかし、フランス領マダガスカル島北岸のノシベ泊地とインド
シナ半島カムラン湾だけが、40数隻、1万2000名の将兵か
ら成る大遠征軍の休養・補給地であり、バルチック艦隊はここを
目指してあえぐようにしてやってきたのです。
 しかし、昨日のEJで述べたように、フランスは英国に対する
配慮と日本からの抗議を考慮して、バルチック艦隊に対してカム
ラン湾は利用させず、食料や石炭の補給までも拒否したのです。
そこで、ロジェストヴェンスキー中将率いる第2艦隊は、第3艦
隊が到着する間、カムラン湾北方のワン・フォン港周辺海域を彷
徨しながら、洋上で約20日待っていたわけです。
 このため、将兵の健康状態は急速に悪化、軍紀は極端に緩んで
しまったのです。しかも、アフリカ海岸沿いの海図は不正確なも
のが多く、艦船の故障も相次いだのですが、補修もできない状態
だったのです。寒さには強いロシア人も灼熱の地は耐えがたいも
のがあり、運送船「マライア」では暴動まで起こったのです。
 このように疲れ切って士気が落ちているバルチック艦隊が対馬
海峡を通ってくることは明らかだっのです。なぜなら、一刻も早
くウラジオストックに入るには、最短距離である対馬海峡を通過
するのが一番早いからです。連合艦隊司令長官東郷平八郎は、そ
のように考えて、対馬海峡で待機していたのです。
 長旅で極端に将兵の士気が落ちていたバルチック艦隊と、長期
間にわたる訓練を重ねて手ぐすねをひいて待っていた日本の連合
艦隊との差はあまりにも大きいものだったのです。戦いは、午後
2時8分のロシア戦艦スワロフの砲撃開始から、たったの30分
で連合艦隊の勝利は動かないものになったのです。東郷は、後に
次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 10年かかって築いた艦隊は、海戦当初の30分の決戦に用い
 るためだった。             ―――東郷平八郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バルチック艦隊の戦艦11隻のうち7隻が撃沈され、1隻が自
沈、4隻が拿捕。巡洋艦は8隻のうち4隻が撃沈され、1隻が自
沈、3隻はマニラで抑留されたのです。駆逐艦は7隻のうち、2
隻がウラジオストックに逃げ込んだものの、4隻が撃沈され、1
隻が上海で抑留されています。
 ロシアは、兵員は戦死4830人、捕虜7000人、中立国抑
留1862人であったのに対し、日本艦隊は水雷艇3隻の損失、
戦死が107名という日本の完全勝利であったのです。
 司令長官であるロジェストヴェンスキー中将は、頭部に重症を
負い、参謀長コロン大佐、セミョーノフ中佐以下の幕僚とともに
駆逐艦「ベドーヴィイ」の降伏に伴い捕虜となり、直ちに佐世保
海軍病院特等室に入院しています。衣食ともに日本海軍の将官級
よりもはるかに高待遇をしたといわれています。
 東郷は、敗北した敵軍人に武人としての名誉を尊重し、ロジェ
ストヴェンスキー中将とネボガトフ少将に対してロシア皇帝への
戦況報告の打診を許可しているのです。これは戦時下にあって極
めて異例のことなのです。また捕虜に対する待遇も人道的なもの
であり、ここでも武士道精神が発揮されたといえるでしょう。
 造船技術水準が高く、新鋭戦艦を続々と自国で進水させている
世界一流の海軍国ロシアが、主要軍艦の多くを外国に発注してい
る技術後進国日本に大敗したという事実――これは世界を驚愕さ
せるものだったのです。ここにきてはじめて、日本が旅順や奉天
で勝利したことが本物であったことを世界は認めたのです。
 日本の同盟国である英国や米国のプレスは「20世紀のうちに
日本は、間違いなく世界のトップに立つだろう」と報道し、絶賛
したのです。           ・・・[日露戦争/42]


≪画像および関連情報≫
 ・東郷平八郎について
  明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に
  大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争に
  おける日本海海戦でロシア海軍を破り、「黄色人種が初めて
  白色人種に勝利した」として世界の注目を集め「東洋のネル
  ソン」と賞賛された。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦
  法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、
  日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。
                    ――ウィキペディア

日本海海戦.jpg
日本海海戦
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2009年09月08日

●樺太(サハリン)占領作戦(EJ第1749号)

 「ツシマ」――これはロシア側で日本海海戦のことをあらわす
言葉です。今でもバルチック艦隊の悲劇としてこの言葉は年配の
ロシア人には記憶されているのです。
 さて、日本海海戦に歴史的大勝利を遂げた日本はその後どのよ
うに行動したでしょうか。
 ロシアの惨めな敗北によって国際世論は、ロシアは講和を受け
入れるべきであるとの声が強くなったのです。それは、開戦以来
の戦闘でロシア軍はことごとく日本軍に敗れていたからです。
 しかし、ロシアは次のように主張して戦争継続の強い意思を示
そうとしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアは戦争に敗れていない。なぜなら、「極東に張り出した
 軍事力プレゼンス」を一時的に失っただけだからである。ロシ
 アは現時点でも50万人を超える陸軍力を保有している。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、ロシア固有の領土は取られておらず、したがって負
けていないという理屈です。しかし、このロシアの主張は世界に
通用するものではなかったのです。
 ロシアは日本と戦争をしているのです。ロシアが島国の日本を
降伏させるには、日本周辺の海域の制海権を握ることが必要条件
となりますが、その制海権をロシアは完全に日本に奪われてしま
っています。したがって、ロシアは日本を降伏させることはでき
ないのです。
 そのような状況の下でいくら陸軍が健在だといっても通らない
のです。現にその陸軍もことごとく日本軍に破れており、一度も
勝っていないのですから、著しく説得力に欠けています。
 6月5日、日本の要請を受けたルーズベルト米大統領は、駐ロ
シア大使マイヤーを通じて、日露講和交渉の件で直接ロシア側に
米国政府の意向を伝えるよう命じています。
 ニコライ二世は、6月6日に重臣たちを集めて御前会議を開い
たのです。会議ではリネウィッチ総司令官が戦争継続を主張して
歩兵13万5000人の増派を要求しましたが、アレクサンドロ
ヴィッチ大公は早期講和交渉をすべきであると強硬に主張したの
です。大公は、このまま、ずるずると事態を引きずっていると、
ウラジオストックやアムール河口、さらにカムチャッカ半島まで
日本軍に占領されることになると警告したので、会議は一気に早
期講和に傾いたのです。
 確かに、バルチック艦隊は全滅し、日本が制海権を握っている
ので、日本軍がその気になれば、ウラジオストックやアムール河
口の占領は十分可能だったといえます。
 6月7日、ニコライ二世はマイヤー大使にルーズベルト大統領
の申し出を受け入れることを伝えています。6月9日、ルーズベ
ルト大統領は、正式に日露両政府に対して、戦争を終結させ、講
和交渉をはじめるよう勧告したのです。
 実はこのとき、日本の首脳陣はある計画を実行に移そうと考え
ていたのです。それを勧めたのはなんとルーズベルト大統領だっ
たのです。日本が制海権を取った時点で、金子堅太郎を通して提
案しています。それは樺太占領計画です。
 なぜ、樺太占領なのでしょうか。
 それは樺太が疑義はあるものの一応ロシア固有の領土であるか
らです。ロシアはつねづね「ロシアは固有の領土は奪われていな
い」といい続けていたからです。つまり、講和交渉を有利に進め
るために、樺太を占領するわけです。占領の対象がウラジオスト
ックやアムール河口ではなかったのは、それらを占領すると講和
交渉そのものが壊れかねないと考えたからでしょう。
 しかし、日本政府は、ひとまず樺太占領は一時延期することに
したのです。せっかく手に入れかけている終戦の機会を失いたく
なかったからです。そして、ひたすら、ロシアが講和交渉勧告を
受け入れるときを待ったのです。
 6月12日、ロシア政府は正式にルーズベルト大統領の勧告を
受け入れることを米国に伝えています。しかし、この時点では戦
争は継続されています。時は来れりです。
 そこで7月4日、樺太南部上陸部隊を青森から出発させている
のです。実は3日にロシア側が密かに休戦協定の提案を米国側に
しており、日本は情報としてその事実を知っていたのですが、ロ
シア側がロシアから休戦協定を求めるのではなく、ルーズベルト
大統領から日本へ提案するかたちをとって欲しいということを求
めていたので、日本側はロシア側の意向を無視することにして、
樺太上陸作戦を進めたのです。
 7月11日、ルーズベルト大統領から休戦協定の締結が望まし
いという提案があったのです。高平公使はかつてロシアが清国に
やった前例を上げて、休戦を軍事的に利用する恐れがあるので、
これを受け入れることはできないと拒否したのです。
 ロシア側は、もし屈辱的な条件なら交渉決裂だと述べるばかり
で、休戦協定の提案を日本に一切してこなかったので、これを逆
手にとって、日本側は樺太占領作戦をどんどん進めたのです。
 7月9日、新設第13師団の部隊から成る最初の上陸部隊が進
撃して、27日までにアレクサンドロフスクとルイコフを占領し
たのです。そして、8月1日までに樺太全土が日本軍によって占
領されたのです。そして、休戦協定が締結されたのは、講和条約
直前の9月1日のことだったのです。
 休戦協定が結ばれていない以上、これは国際法上合法なのです
が、ロシアはこのときの屈辱をよく覚えていて、太平洋戦争終結
時に、日本は利息をつけたかたちでソ連軍によって仕返しをされ
ているのです。それが現在も解決していない北方領土問題です。
 しかし、このソ連軍の行為は、日ソ不可侵条約を破っての行為
であり、日露戦争時の日本軍の行為と同一視すべきではないと考
えます。ちなみに、日露講和交渉は休戦協定のないまま、8月9
日から、米国のニューハンプシャー州の小都市、ポーツマスにお
いてはじまったのです。      ・・・[日露戦争/43]


≪画像および関連情報≫
 ・樺太について
  樺太(からふと)の名は、アイヌ語でこの島を「カムイ・カ
  ラ・ブト・ヤ・モシリ」と呼んだことに因んでいる。この名
  前は、アイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒龍江
  の河口からみて、その先に位置することに由来する。江戸時
  代は、北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷(地)」
  と呼ばれていた。後に、明治政府が北海道開拓使を設置する
  にあたり、北蝦夷地を「樺太」に改称、日本語に樺太の地名
  が定着した。近年、日本の報道機関各社は樺太という名称を
  使わず、「サハリン」という名称を使っている。
                    ――ウィキペディア

樺太の地図.jpg
樺太の地図
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2009年09月09日

●(EJ ●賠償金と領土割譲で日露激突(EJ第1750号)

 1905年8月9日、米国の東海岸ニューハンプシャー州の小
都市、ポーツマス――ここで日露講和会議の予備会議がはじまっ
たのです。日本側の全権大使は小村寿太郎、ロシア側のそれはあ
のセルゲイ・ウィッテだったのです。
 小村寿太郎は1901年から外務大臣を務め、日露戦争の開戦
時から日本の外交を取り仕切ってきた人物です。おそらく当時に
おいて、この全権大使が務まる人物は小村しかいなかったと思う
のです。
 これに対してセルゲイ・ウィッテは、1903年8月に蔵相を
解任され、その後閑職にあったはずですが、どうして全権大使に
なることができたのでしょうか。
 ニコライ二世は当初別の外交官2人を指名したのですが、彼ら
が大役に怯えて固辞したので、ウィッテ以外にロシアを代表でき
るほどの人物がいなくなったのです。
 ポーツマスという都市は、米国の建国の祖である清教徒たちが
初めて降り立ったニューイングランドの伝統をたたえる美しい街
並みといかめしい軍港という2つの顔を持っているところです。
 両国の代表団と100人を超える新聞記者たちの宿舎はホテル
「ウエントワース・バイ・ザ・シー」、講和交渉の場は、そのホ
テルから数キロ離れた海軍工廠の中にある会議室がセットされた
のです。
 ウイッテは、ポーツマスへの出発に当たって、ニコライ皇帝か
ら、次の指示を受けていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1コペイカも、一寸の土地も譲ってはならない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、無賠償、無割譲で講和をまとめてこいというものであ
り、厳しい内容です。しかし、ウィッテ自身が真に講和が必要と
考えていたので、講和交渉の前途はかなり期待できるものだった
といえます。
 日本側としては、賠償金の獲得はかなり厳しいと考えて、合意
が得られ易い要求項目と可能であれば勝ち取りたい要求項目に分
けて提案したのです。
 合意が得られ易い要求項目とは、次の4項目です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.韓国を日本の自由処分に任せることをロシアは応諾する
 2.ロシアの軍隊と日本の軍隊は、速やかに満州へ撤退する
 3.遼東半島においてロシアが有する租借権の日本への譲渡
 4.旅順からハルピンまでの鉄道に関する権利を日本へ譲渡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、これらの4項目は、意外にも10日足らずの
交渉で決着をみたのです。
 韓国についての項目は、もともとこの戦争がこれが原因で始ま
っただけに、日本としては絶対に譲れない線だったのです。その
点はウィッテもよく理解しており、日本の指導による韓国の保護
国化は合意に達したのです。
 日本軍とロシア軍が満州から撤兵し、さらにこの地を清国に還
付することも合意されたのです。これら2つの合意によって日本
の安全保障はかなり確固たるものになったわけです。
 遼東半島の租借権と東清鉄道の支線の譲渡についても、日本側
が旅順からハルピンまでと要求しているところを日本が実効支配
をしている旅順から長春までの鉄道を譲渡するということで合意
に達したのです。交渉相手がウイッテであったからこそできた合
意であるといえます。
 しかし、可能であれば勝ち取りたい要求項目については大変難
航し、一時は交渉決裂寸前まで行ったのです。それは次の3項目
なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアは極東の海で5万トンを超える海軍力を持たない
 2.賠償金の支払いと中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡す
 3.樺太(サハリン)の割譲と沿海州沿岸での漁業権の獲得
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東アジアの海域におけるロシア海軍力の制限については最初か
ら難しいことはわかっていたのです。この項目は小村が駆け引き
として入れていたものであり、ほとんど意味を持たなかったので
す。また、中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡しもとくにこだわ
る必要のないことであったのです。どちらもロシアの威厳を傷つ
けるものであって、ロシア側が飲むはずはなかったのです。
 このとき、小村寿太郎は、ポーツマスにおける講和交渉の間、
対米工作に関わっていた金子堅太郎とその随行員である阪井徳太
郎をニューヨークに滞在させ、ルーズベルト大統領の意向をつね
に探りながら交渉するという作戦をとったのです。それほど、こ
の講和交渉におけるルーズベルト大統領の意向の影響力はとても
大きかったのです。
 ロシア全権団は、オホーツク海、ベーリング海での漁業権は認
める意向は示したものの、賠償金と樺太割譲に関しては強硬に反
対したのです。
 賠償金を協議した8月17日の会議では、小村とウイッテの間
に次のやりとりがあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村  :あなたの言は、あたかも戦勝国を代表するもののよ
      うに聞こえますね。
 ウイッテ:待ってもらいたい。ここには戦勝国なんかない。し
      たがって、戦敗国もないのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうして講和交渉は完全に行き詰まったのです。8月22日に
ウイッテはラムズヘルド外相から、日本の要求に屈せず、交渉を
打ち切るようニコライ皇帝が命じているとの電報を受け取ったの
です。交渉決裂の危機と感じたルーズベルト大統領は、日本に賠
償金と領土割譲の断念を迫ったのです。・・[日露戦争/44]


≪画像および関連情報≫
 ・ポーツマス会議での小村寿太郎に関するエピソード
  ポーツマス会議でのこんなエピソードがあります。ロシア側
  は会議中フランス語を使用していました。もちろん、日本側
  が誰もフランス語を習得していないからであろうという推測
  からでした。しかし、勉強熱心な寿太郎はフランス語を習得
  していたのです。もちろん、ポーツマス会議でフランス語が
  必要になるとは彼自身、その当時予想しえなかったことでし
  ょう。常日頃から勉学に勤しんでいた寿太郎だからこそ成し
  得た奇蹟です。寿太郎は敵の戦略などを得て会議を有利に進
  めるため、最後までフランス語を使用しませんでした。会議
  の数日後、ロシア全権ウィッテがフランス語で挨拶した際、
  初めて通訳を介さずに、流暢なフランス語で話をし、ロシア
  側を驚かせたそうです。
  http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/ijin.htm

ポーツマス講和会議.jpg
ポーツマス講和会議
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2009年09月10日

●メディア戦略でロシアに完敗(EJ第1751号)

 講和交渉――日本は戦争については、列強が舌を巻くほど相当
上手になったのですが、国際会議とか交渉などの外交面はとにか
く慣れていないというか下手だったのです。
 日清戦争とその講和交渉――これははじめてにもかかわらず、
比較的うまくいったのですが、三国干渉でせっかく獲得した遼東
半島を後から返還させられている。成功とはいえないのです。
 三国干渉といっても中心はロシア、今回はその狡猾なロシアが
相手なのです。ロシアは戦争と講和については何回もやっており
経験豊富です。したがって、日露の講和交渉は、まるで、大学生
と小学生の対決のようなものだったといえます。
 ロシアの全権ウイッテは、まず、メディアを味方につける戦略
をとったのです。ホテルに詰めかけた報道陣はゆうに100人は
超えていたのです。この報道陣に対し、日露の代表団の対応はあ
まりにも対称的だったのです。
 『検証/日露戦争』では、そのときのウイッテの対応について
次のように伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ウイッテは報道陣の前に積極的に現われ、よくしゃべって愛
 想を振りまいた。情報に飢えた記者たちにとっては、「一種の
 スーパースター」になった。
  ホテルの従業員たちとも気さくに握手し、子供を見れば抱き
 上げる。皇帝が支配する専制国家ロシアの政府高官という印象
 はなかった。――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対し、日本の小村全権は寡黙に徹し、報道陣に対し、話
しかけることをしないばかりかニコリともしなかったのです。作
家の吉村昭氏はその著書『ポーツマスの旗』で、日本の外交姿勢
について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  多様な欧米列強の外交政策に対して、日本の外交姿勢はどの
 ようなものであるべきかを小村は常に考えつづけてきた。結論
 は、一つしかなかった。歴史の浅い日本の外交は、誠実さを基
 本方針として貫くことだ、と思っていた。列強の外交関係者か
 らは愚直と蔑笑されても、それを唯一の武器とする以外に対抗
 できる手段はなさそうだった。
      ――吉村昭著、『ポーツマスの旗』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村はウイッテとの最初の会談で、交渉にかかわる秘密の厳守
を申し入れているのですが、ロシア側は一応それを了承したもの
の、全般的にはそれを守らなかったのです。
 記者団としては、少しでも情報は欲しいのです。しかし、日本
側は完黙するのに対し、ウイッテはそれを少しずつ漏らすことに
よって、記者たちをロシアの味方につけようとし、それはある程
度成功を収めているのです。
 気さくで愛想がいい――これを米国人は好むのです。そのこと
をよく知っていたウイッテは、ひたすらそれを装い、教会の礼拝
に住民と一緒に参加したり、慈善の会に顔を出すなど、ロシア人
は英米人と同じ欧米人で、日本人とは違うのだということを意識
的に印象づけようとしたのです。
 また、ウイッテはホテルの従業員には連日50ドルのチップを
ばら撒き、記者たちとも積極的に飲食を共にしたというのです。
当時50ドルは大金です。あまりの露骨さに批判する向きもあっ
たものの、講和交渉開始時点で80%は親日といわれた世論の風
向きが少しずつ変ってきたのです。
 その成果が、地元紙『ポーツマス・ヘラルド』には次の記事と
なってあらわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ロシア人が人々との交流を続け、日本人が厳格に仕事にこだ
 わっていれば、日露戦争に関するニューハンプシャーの世論は
 大きく変わるだろう。両国の代表団がホテルに入ってもう30
 時間たつが、日本側が通常の仕事以外のことをしているのを見
 た人はいない。(ホテルには)有名人と知り合いになりたくて
 たまらない。避暑の若い女性たちが大勢いる。ロシアの代表団
 の一行はすでに多くの女性たちと親しくなっている。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア代表団が、最初から地元メディアを味方につける戦略を
練っていたのは明らかです。彼らはニューヨークに「カイザー1
号」という船できたのですが、そこにはロシアのプレスの他に英
国、フランス、イタリアなどの有名紙の記者を満載してポーツマ
スにやってきたのです。世論工作のためです。
 その工作は成功しているのです。「ニューヨーク・タイムズ」
紙は、ウイッテについて次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテは人気者になっている。ニューヨーク、オイスター・
 ベイ、ニューポート、ボストン、そしてここポーツマスやニュ
 ーキャッスルでも、彼は温かく受け入れられている。ポーツマ
 スでは歓呼で迎えられた。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こういうロシアの「顔のある外交」に対して、小村寿太郎を中
心とする日本の全権団は「顔のない外交」に終始したのです。こ
の姿勢は100年が経過した現在でも何も変わっていない日本外
交のスタイルなのです。
 このようにして、米国世論の一部がロシアに少し傾きかけたこ
とは事実です。そして、この世論の変化は仲介役であるルーズベ
ルトに大きな影響を与えたのです。 ・・・[日露戦争/45]


≪画像および関連情報≫
 ・吉村昭著、『ポーツマスの旗』、新潮社の書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  本書は小村寿太郎とポーツマス講和会議の様子を描いたもの
  である。日露戦争の終結にあたって、小村寿太郎の国益をか
  けた闘いが始まった。講和会議では、小村とロシア全権ウィ
  ッテとの外交駆け引きが見ものである。随所に駆け引きの妙
  が描かれている。両者の交渉術、米国世論操作などを読みと
  りながら、それぞれの長所、短所を自分なりに検証するのも
  面白く、大変勉強になるところだ。
  以下は ⇒    http://www.bk1.co.jp/product/257161
  ―――――――――――――――――――――――――――

吉村氏の本.jpg
吉村氏の本
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2009年09月11日

●イェール大学と日本の講和条件案(EJ第1752号)

 日本はロシアとの開戦直後からひたすら講和の道を探ってきた
のです。そのため、日本の講和条件というものはなるべく早くか
ら確立しておくべきであると考えていたのです。
 ポーツマスにおいて小村がロシアに提示して交渉した日本の講
和条件は、実は旅順要塞203高地が落ちるはるか前である19
04年10月3日の時点で検討がはじめられていたのです。
 メディア工作のため米国に派遣されていた金子堅太郎は、本国
の意向により、随行員である阪井徳太郎の友人の米国人に依頼し
て講和条件の検討をさせているのです。その米国人とは、次の人
物であり、阪井徳太郎とは旧知の間柄の人物なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       イェール大学事務局長
       アンソン・フェルプス・ストークス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように書くと、多くの人は「そんな馬鹿な」と首を傾げる
と思います。そもそも日本国の講和条件をなぜ無名の米国人に依
頼するのでしょうか。それもなぜ、イェール大学の事務局長なの
でしょうか。日本とイェール大学とは、どういう関係があるので
しょうか。
 これらの疑問に答える前に、当の金子堅太郎が回想録で書いて
いる逸話をご紹介することにします。金子が米国でメディア工作
をはじめたとき、イェール大学から日露戦争についての講演を依
頼されたのです。
 講演のあとの晩餐会で4人の国際法学者から次のような申し出
を受けたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今度の講和談判に際し、日本は連戦連勝だから、これだけの条
 件は提出してもよろしかろうと、我々が国際法学者として思う
 意見を書いて貴下に提出したいが、お受けくださるか。
        ――清水美和著、『「驕る日本」と戦った男/
        日露条約の舞台裏と朝河貫一』より。講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は「喜んで読ませていただく」というと、彼らは協議して
レポートを作ってくれたというのです。読むと、随分思い切った
ことが書いてあるが、納得できる部分もあるので、それをルーズ
ベルトにも見せて意見を聞いて本国に送ったというのです。
 それからしばらく経って、講和交渉のために小村がニューヨー
クにやってきたとき、小村は金子に対して、こういう案で会議に
臨むつもりだといって携えてきた案を見せてくれたのです。とこ
ろがその案は、明らかにイェール大学の学者が作ってくれた案を
元にして作成されていたというのです。
 この回想録は、日露戦争から33年後に書かれているのですが
とても真実とは思えない部分があるのです。だいいち頼みもしな
いのに、他国の戦争の講和条件をわざわざ作成するヒマな教授な
どいるでしょうか。
 しかも、その案を米国大統領に見せて意見を聞き、国の命運を
賭けた戦争の講和条件の下敷きする――そんなことが本当にあり
得ることでしょうか。
 確かに金子の記述には大きなウソがあるのですが、次の3つの
ことは本当のことなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.講和条件の原案は確かにイェール大学で作成されている
 2.金子は日本の原案をルーズベルト米大統領に見せている
 3.この原案をベースにポーツマス交渉の日本の原案を作成
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 違っていることは、講和条件づくりは、日本政府がイェール大
学に依頼したという点です。依頼したのは、冒頭に述べたように
金子の随行員の阪井徳太郎なのです。
 阪井から重要な依頼を受けたストークスは、イェール大学の次
の2人に協力を呼びかけています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  セオドア・S・ウールジィ
   ・国際法の専門家で権威。ウールジィ学長子息
  フレデリック・ウェルズ・ウィリアムス
   ・「東洋のビル」の愛称を持つ東洋史の助教授
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ストークが阪井から講和条件づくりを依頼されたのは、10月
3日ですが、同じ月の14日には阪井に対して返信を送っている
のです。その中にはウールジィの筆による、ウィリアムスと共同
で作成した講和条件案が同封されていたのです。
 イェール大学の教授たちによる日本の講和条件の覚書は、実際
の講和条件にきわめてよく似ていたのです。とくに似ていたのは
実現すべき条件とそうでない条件に二分しており、「賠償金」と
「領土割譲」は実現すべき条件には入れていないことです。
 実際の日本の講和条件についてはそうなっていたし、ひとつひ
とつの条件もとてもよく似ていたのです。
 ちなみに、この覚書は、「ロシアとの講和条約で日本の最大要
求を決定するための原則」と称して、次の前書きで始まっている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず「ロシアが過去、国際上の義務に対して誠実さを欠いてい
 る」ため、日本はロシアの将来の行動について他の国々に対す
 るより「大きな保証」を要求することができる。また、今回の
 戦争は日本の「純然たる正当防衛」から始まっているため、日
 本は将来のロシアによる侵略に対して、「十分な保護と再度の
 戦火を避ける措置」を求めることが可能だ。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、どうしてもわからないことは、なぜ、イェール大学な
のかということです。       ・・・[日露戦争/46]


≪画像および関連情報≫
 ・イェール大学について
  イェール大学は、アメリカ合衆国の北東部、コネチカット州
  ニューヘイブン市にある名門私立大学であり、1701年に
  に創立された。アメリカの大学としては3番目に古い。アイ
  ヴィ・リーグに所属する8大学のうちの1校である。世界で
  も最高の名声を得ている大学の一つである。自然科学分野で
  も多くの専攻で全米ランキング及び世界ランキングの最上位
  を占めるのは言うまでもないが、人文科学、社会科学分野で
  の評価がとりわけ高い。大学院レベルでは、特にロー・スク
  ール(法学大学院)が全米最難関として知られる。
                    ――ウィキペディア

イェール大学キャンパス.jpg
イェール大学キャンパス
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2009年09月14日

●朝河貫一を知っていますか(EJ第1753号)

 なぜ、イェール大学の学者が日露戦争の日本の講和条件の原案
をまとめたのか――今週はその謎を解いていきましょう。
 イェール大学は、ニューヨークからボストンまでの長距離列車
アムトラックに乗ると、ちょうど中間にニューヘイブンという街
があるのですが、そこにイェール大学があります。この街のダウ
ンタウンは、イェール大学のキャンパスそのものといってよい大
学都市なのです。
 この大学は、ブッシュ父子大統領、クリントン元大統領、ヒラ
リー上院議員など、著名な政治家の母校でもあり、ハーバード大
学、プリンストン大学とともにBIG3を形成する名門大学とし
て知られているのです。
 大学のキャンパスの中でもひときわ重厚な趣のゴシック建築の
尖塔を持つ建物が有名なスターリング図書館です。このスターリ
ング図書館の中に研修室を持ち、終生学問の研鑽を重ね、この大
学で一生を終えた日本人の歴史学の教授がいたのです。その名前
は朝河貫一といいます。ご存知でしょうか。
 彼の墓は故郷の二本松にも分骨されてはいますが、本体はイェ
ール大学の墓地にあるのです。この教授の名前を知っている日本
人は、ほとんどいないと思いますが、彼は学術メディアの面で日
露戦争に重要な関わりを持つ人物であり、米国におけるアジア研
究の創始者とまでいわれる高名な学者だったのです。
 それでは、このことと日本の講和条件をイェール大学の学者が
作ったこととはどのように関係するのでしょうか。
 これには朝河が米国で何をやったのかについて、少し詳しく知
る必要があります。朝河は1896年にダートマス大学の1年に
編入し、夢であった米国留学を実現しています。そして、日露戦
争の講和交渉が行われた1905年には、米国において将来を嘱
望される31歳の青年学者になっていたのです。
 そのとき、朝河は1903年にイェール大学大学院を卒業し、
母校であるダートマス大学の講師として東洋史を教えていたので
す。イェール大学の大学院では、学位論文「大化の改新の研究」
を書き、日本人ではじめて博士号を授与されていたのです。
 朝河はダートマス大学の学生の頃から、日本はロシアと戦わざ
るを得ない運命にあり、ロシアの満州への進出を食い止めない限
り日本の発展はありえないとする外交論文を多く書いていたので
す。これらの論文はもちろん巧みな英語で記述され、当時の米国
のインテリ層に日本の置かれたポジションを理解させるのに大い
に貢献したのです。
 そして、1904年11月、朝河は米国のインテリ層を中心に
大きな反響を巻き起こした英文による次の書籍を表したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    朝河貫一著 『日露衝突――その原因と問題点』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本が出版された頃、日本は旅順の203高地要塞攻略にし
のぎを削っていたのです。戦争の最中に交戦国の一方である日本
の学者が米国においてその戦争そのものを取り上げ、その原因と
問題点を分析した本を出すのは異例であり、米国のインテリ層の
間では大きな話題となったのです。この本の序説には、次の記述
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もしロシアが勝つならば、韓国と満州だけでなく、モンゴルも
 ロシアの属国になるか、あるいは保護国になるかであろう。日
 本の発展は阻止され、その国勢は衰退しよう。ロシアは東洋の
 すべての国家権力に対して支配する立場をとる。世界の貿易国
 は、アジアの重要な経済分野から大部分か、あるいは完全に排
 除される。
   ――朝河貫一著 『日露衝突――その原因と問題点』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時は工業化、大量生産の時代になりつつあったのです。問題
はその市場をどこに求めるかです。それは当然のこととして、東
洋に公開市場を求めることになります。この意味において、日本
と欧米諸国の利害は一致していたのです。とくに日本にとって韓
国は重要であったのです。
 しかし、朝河は「ロシアは例外である」というのです。なぜか
というと、ロシアは工業生産の発展がきわめて遅れていた国だっ
たからです。
 そのようなロシアが軍事的進出で手に入れた満州の未開発の資
源を生かすには、工業生産の発達した米国や日本などのライバル
国を追い出して、貿易を独占する必要があり、そのため、ロシア
は排他政策に依存する――朝河はこう指摘します。
 つまり、ロシアは多くの製品を輸入して少ししか輸出しない貿
易システムであるので、競争を軍事的に排除し、陸への巨大なる
拡張を続けるしかないといっているのです。
 さらに朝河は、ロシアは経済的利害というよりも「偉大な拡張
する帝国の栄光」のために軍事的に進出する可能性を指摘してい
るのです。これは大変危険なことです。
 ロシアは旅順を手にすることによって、首都北京への水路を確
保し、やがて北京の陥落や清国の大分割という事態をもたらすこ
とになる危険性を強調します。
 さらにロシアは満州を領有すれば韓国占領も容易であって、韓
国南海岸に不凍港を確保し、海軍基地を建設する――その結果、
ロシアは満州を安全に確保し、韓国・清国を併合する極東構想を
実現してインドに向うであろうと、ロシアの危険な体質を批判し
たのです。
 このように朝河貫一は、米国において日露戦争の世界史的意義
を説き、日本という国家をバックアップするために全力を尽くし
たのです。しかし、朝河の名はなぜか歴史の闇の中に埋没され、
多くの日本人は朝河貫一の名を知らないでいます。私自身も東京
新聞・編集局編集委員の清水美和氏の著書によって、はじめて知
ったのです。           ・・・[日露戦争/47]


≪画像および関連情報≫
 ・清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約の舞
  台裏と朝河貫一』、講談社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日露戦争勝利で増長する日本を批判、さらには日米衝突と敗
  戦を予見し、正史から抹殺された青年学者がいた。日米現地
  取材によってその歴史の舞台裏に追る。現代日本のあり方に
  一石を投じる一冊。        ――ビーケーワンより
  ―――――――――――――――――――――――――――

清水美和氏の本.jpg
清水美和氏の本
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2009年09月15日

●ポーツマスでの朝河の言動(EJ第1754号)

 日露講和交渉の全権大使として、桂首相が最初に打診したのは
伊藤博文だったのです。伊藤は全権を引き受けてもよいと考えた
ようですが、側近が猛反対したため断ったといいます。
 どうしてかというと、ロシアとの戦争に勝った栄誉は桂が握り
講和交渉の結果によって起こる国民の不満は伊藤が引き受けるの
は馬鹿げているというのが伊藤の側近の意見だったのです。
 それほど、日露講和交渉は日本にとって不本意なものになるこ
とは最初からわかっていることだったのです。講和交渉がはじま
る時点での日本国民は戦勝気分に浮かれていたのです。
 とくに「主戦7博士」といわれ、対露強硬論を唱えた東京帝国
大学法科大学の富井政章、金井延、寺尾亨、中村進午、小野塚喜
平、高橋作衛、戸水寛人は新聞に現実的ではない講和の最低条件
などを書き立てていたのです。
 とくに戸水寛人は、ローマ法の教授として碩学の名が高かった
学者であったため、日本国民が浮かれ気分になるのも無理からぬ
ものがあったといえます。
 そのとき、新聞に書き立てられた絶対譲れない講和の条件とは
次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  樺太・カムチャッカ、沿海州全部の割譲と償金30億円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂首相としては、その本心は償金など取れる自信はなかったの
ですが、だめもとで入れたといわれています。これを知った児玉
源太郎は「桂の馬鹿が償金を取る気になっている」と語ったとい
う話はあまりにも有名です。
 そういう難しい講和交渉を引き受けた小村寿太郎は駐米公使の
高平小五郎と随員8人を引き連れ、米国に向かう船に乗るために
新橋を横浜に出発したとき、新橋停留場には大勢の人々が集まり
「万歳!」の大歓声で見送ったのです。そのとき、小村全権は次
のようにいったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    新橋駅頭の人気は、帰るときは反対でしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は講和交渉に同行した記者団にしても国民と同じ期待を持っ
ていたのです。案の定講和交渉が「償金」と「領土割譲」で行き
詰ると、全権団と記者団との間にはとげとげしい雰囲気になって
いったのです。
 そういうときに全権団の宿舎のホテルに詰めていた日本の記者
団と同じホテルに滞在していた見事な英語をしゃべる怪しい日本
人の男とのトラブルが起こったのです。東京朝日新聞の通信員福
富は、そのときの模様を次のように振り返っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれ同士の中には大いに憤慨し、彼をののしり、腕力に訴
 えんとまでに及びしも、いかんせん彼は日本語を一言もつかわ
 ざるを以ってののしり合えば、多数の外人に内部を知られ、か
 えって恥となるを以って、余らは紳士の体面も保ちて、腕力に
 は訴えざりしも両三時(二、三回)彼を戒めたることあり。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこの怪しい日本人こそ朝河貫一だったのです。彼はウエン
トワース・バイ・ザ・シーに宿を取り、しきりと外国の記者団に
対して流暢な英語で次のように話していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は決して償金を望まず。償金は必ず撤回すべし。しかして
 償金を撤回するについては国民の意見と全然反対なりとの説を
 なすものあるも、かかる大問題の際、国民の意志うんぬんを問
 うの要なし。政府は思う通り断行すべきのみ。必ずわが政府は
 余の言のごとく断行すべしと。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき朝河は絶対に日本語をしゃべらなかったのです。ただ
ひたすら外人記者に訴えていたのです。確かにこれを日本の記者
団から見ると、あいつは何者だ、政府の回し者ではないかと疑わ
れるのに十分であったのです。それに当時ウエントワース・バイ
・ザ・シーの宿泊料は一日につき5ドルもかかり、夏季に避暑が
できる身分とは思えない日本人に疑惑が広がったのも当然である
と思います。
 要するに朝河は、いわゆる黄禍論によって偏見をもたれている
日本という国家を学者らしい客観的な事実に基づいて日本に対す
る偏見を欧米の記者団に訴えようとしたといえます。
 清水美和氏は、こうした朝河と日本人記者団との関係をあたか
も現在の小泉政権とメディアの関係を皮肉るように次のように述
べています。ちなみに、清水氏の本は2005年9月に出版され
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、賠償金と領土との要求で頭に血が上った日本の記者た
 ちの目には、(朝河は)日本の立場を弱めかねない、許せない
 言説と映ったようだ。いつの時代にも、マスコミで力を得るの
 は事実に基づく冷静な言論よりも、敵味方を図式的に分ける感
 情論であり、朝河をののしる福富(東京朝日新聞)の姿は現代
 のメディアで踊る一部「言論人」の姿に重なる。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ロシアに勝利したという興奮に国内世論のみなら
ず、ポーツマス現地の全権団や記者団までがとらわれる中で、弱
冠31歳の青年学者朝河一人が冷静に事態を見つめ、日本のため
にがんばったといえます。     ・・・[日露戦争/48]


≪画像および関連情報≫
 ・朝河貫一(1873〜1948)について
  1948年8月11日、朝河死去。AP電,UPI電も「現
  代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士が・・」
  と弔意を世界に知らせ,横須賀米軍基地では弔旗をかかげら
  れたのである。これに反し,日本の新聞は片隅に訃報電文を
  3,4行割いて知らせたものの、名前の綴りかたすら知らな
  かったという。朝河は書いている。
 ――――――――――――――――――――――――――――
  「国家はその国民が人間性をもっているかぎりにおいてのみ
  自由な独立国である。しかし,その政治体制が民主主義の組
  織をそなえているというそれだけでは,自由な独立国とはい
  えない.自由主義にあっては,その国民が世界における人間
  の立場を、すべてにわたって意識するまでに進歩しているか
  どうか、それこそが重要である」と。
  http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6030940/top.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

若き日の朝河貫一.jpg
若き日の朝河貫一
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2009年09月16日

●講和条件作りへの朝河の関与(EJ第1755号)

 朝河貫一は『日露衝突』の刊行に先立って、そのエッセンスを
イェール大学の季刊の論文集『イェール評論』の1904年の春
号(5月)と夏号(8月)の2回に分けて発表しています。
 この『イェール評論』は大学発行の機関誌の中でも非常に権威
が高く、読者はインテリ層に限られてはいるものの、その社会的
影響力はきわめて大きかったのです。とくに5月の論文は「ニュ
ーヨーク・タイムズ」の社説に取り上げられ、両論文ともドイツ
語とイタリー語に翻訳されたのです。
 また、これらの論文は確認されているだけでも、1紙6誌の書
評に取り上げられ、一部には批判もあったが、その多くは交戦国
民であるにもかかわらず、公正な立場で資料を精査して記述して
いると高く評価しているのです。
 朝河はこれらの論文で、この戦いは日本が代表する「新しい文
明」とロシアが代表する「古い文明」の戦いであり、その結果は
世界に大きな違いをもたらし、両国だけではなく、世界が岐路に
立っていることをまず強調しています。
 さらに、そのためにはロシアの南下を阻止することによって、
清国と韓国の「領土保全」と市場の「門戸開放」を確保する必要
がある−−そのために日本はロシアと闘っているという日本の立
場を正当化しています。
 この考え方が、日本はロシアの満州からの撤兵、韓国の「領土
保全」のみを要求すべきであって、まして賠償金など求めるべき
ではないという主張につながるのです。
 1904年5月と8月の『イェール評論』、11月の『日露衝
突』の発刊――これらの朝河の論文がポーツマス講和交渉に少な
からず影響を与えたことは確かなのです。
 さて、ここでなぜイェール大学がポーツマス講和交渉の原案を
作ることになったのかの話に戻ります。直接的には、金子堅太郎
の随行員である阪井徳太郎が旧知の間柄であるイェール大学のス
トーク事務局長に手紙を出したことがきっかけですが、阪井は次
のようにストークに手紙を書いたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 戦場から(日本軍勝利の)良いニュースが続いている。しかし
 早期に解決するという、わずかな希望さえもない。ニューヘイ
 ブンにいる学識の深い学者たちの間ではどんな雰囲気なのか。
 日本はどのような条件で講和すべきなのか。君自身はどう思う
 か。いつか、君からそれについて聞きたい。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題は、イェール大学による日露戦争の講和条件作りに朝河が
参加していたかどうかです。はっきりしていることはこの原案が
作成された時点においては、朝河はイェール大学を離れて、ダー
トマス大学の講師をやっていたということです。
 講和交渉の原案作りに携わった学者は次の3人ですが、彼らは
朝河貫一とどういう関係にあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.ストークス事務局長
        2.ウールジィ教授
        3.ウィリアムス助教授
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3人はいずれもイェール大学の職員であり、朝河貫一
をよく知っています。まして、2回にわたる『イェール評論』に
よって、朝河が日露戦争に対して、どのような考え方を持ってい
るのかを熟知していたはずです。
 朝河が博士号を取得したのはイェール大学大学院です。博士論
文のテーマは「六四五年の改革(大化改新)の研究」だったので
すが、上記のウィリアムス助教授がその指導を担当したのです。
 フレデリック・ウェルズ・ウィリアムスは、彼の父親がサミュ
エル・ウェルズ・ウィリアムスといって、日本に門戸開放を迫っ
たあのペリー提督の通訳を務めた人物なのです。したがって、そ
の息子のフレデリック・ウィリアムスが大学で東洋史を担当し、
大化改新を扱った朝河の博士論文の指導を担当していることは不
思議ではないのです。
 さらにウィリアムスは、朝河の『日露の衝突』に序文を寄せて
おり、これを見る限り、朝河の日露戦争観に非常に近い考え方を
持っていたといえます。ウィリアムスはその序文の中で日露戦争
について次のように述べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「アメリカの人々の(戦争に対する)態度はロシアに対する偏
 見に大きく影響されているわけではない」と断りながら、日本
 はロシアの東アジアに対する圧力を軽減する「世界のための仕
 事」をしていると認める。日本は中国が「その弱さが、西洋列
 強の恥ずべき軍事的野心を誘う国々のリスト」にある状態から
 目覚める手助けをしているのだ。――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウールジィ教授については、朝河と直接の付き合いはないと考
えられます。しかし、ウールジィ教授は国際法の権威ではあるが
東アジア問題には素人であり、講和条件の内容に関しては、ウィ
リアムスの意見が大きな影響を与えたことは確かであるといえま
す。それはともりなおさず朝河の考え方が反映されたということ
になるのです。
 しかし、朝河はその後日露戦争当時の自分の言動についてはほ
とんど語ることはなかったのです。朝河は日露戦争は、ロシアと
いう「古い文明」と日本が代表する「新しい文明」の戦いである
ことを全米を講演して訴えたのです。その主張は祖国日本によっ
て裏切られたからです。日露戦争後の日本は、「新しい文明」ど
ころか、古い帝国主義そのものになり、韓国併合から中国侵略へ
とのめりこんでいったからです。そして、米国世論は期待を裏切
られた分、反日に傾いたのです。  ・・・[日露戦争/49]


≪画像および関連情報≫
 ・ダートマス大学について
  ダートマス大学は、ニューハンプシャー州ハノーヴァー市に
  あるアメリカの私立大学である。1769年に設立された全
  米で9番目に古い大学である。アイヴィー・リーグの一つに
  数えられる名門校だが、小規模な大学である。そのために、
  現在でも「ユニバーシティ」という呼称を用いず、「カレッ
  ジ」と名乗っている。        ――ウィキペディア

ダートマス大学.jpg
ダートマス大学
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2009年09月17日

●小村全権の真意は戦争継続か(EJ第1756号)

 日露講和交渉の小村寿太郎全権は、交渉が賠償金と領土割譲を
めぐって行き詰ると、会談ではかなりイライラしてミスを冒して
いたことがわかっています。
 彼は対清国にしても対ロシアについても、名うての主戦論者で
あっただけに、最初から勝ち取ることが困難であることがわかっ
ていた賠償金と領土割譲に執拗にこだわったのです。
 ロシアの全権ウィッテは、何としても戦争は終結させなければ
ならないと考えており、どうしても決着がつかないときは、最後
の譲歩プランともいうべきものを用意していたのです。それが、
「樺太南半分の割譲」です。しかし、「賠償金なし」は絶対に譲
れない条件であると考えていたのです。
 「樺太南半分の割譲/賠償金なし」はロシア側から妥協案とし
て示唆されたものですが、小村は首を縦に振らなかったのです。
ウィッテは、ニコライ皇帝に樺太南半分はかつて日本領であった
歴史もあり、これは譲るべきだと説得し、暗黙の了承を得ていた
のです。ロシアとしては、これが譲れる最後の線だったのです。
 読売新聞取材班による『検証/日露戦争』には講和交渉の席上
の小村とウイッテのやり取りが紹介されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテ:ロシアがもしサハリン全島を譲渡するといったら、
      日本は賠償金要求を撤回するか。
 小村全権:日本がサハリン全島返還に同意することの困難さは
      賠償金放棄の困難さと同じだ。
 ウィッテ:当方の質問の意味がわかっているのか。
 小村全権:わかっている。
 ウィッテ:それでは日本は賠償金抜きの提案では、絶対に承知
      しないということか。
 小村全権:その通り。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテは、日本側の腹を探る目的で「サハリン全島譲渡」の
話をしたのです。しかし、それに対する小村の応対は明らかに意
味不明です。だから、ウイッテは「わかっているのか」と聞き返
しているのです。
 小村はこれを肯定し、そのあと「日本は賠償金抜きの提案では
絶対に承知しない」というメッセージをロシア側に与えてしまっ
ているのです。これは賠償金獲得と領土分割については絶対条件
にしないという本国の訓令にも背いているのです。
 決着3日前の8月26日のことです。ロシア側は小村があまり
に強硬なので、もう一人の全権である高平公使に非公式面談を申
し入れ、その席で「樺太南半分の割譲、賠償金なし」でなんとか
まとめて欲しいと申し入れているのですが、小村は「ロシアはい
ささかも譲歩せず」という電報を東京に打っています。どうやら
小村はロシアの本心を探れなかったようなのです。
 そのため、政府としては、賠償金も領土割譲もあきらめて講和
交渉をまとめるよう小村に指示したのですが、そのあとなぜか、
「樺太南半分の割譲、賠償金なし」を改めて要求に盛り込んで提
案しています。これは一体どういうことでしょうか。
 それは、当時外務省の通商局長をしていた石井菊次郎が駐日英
国公使に呼び出され、公使から、8月23日の時点でロシア皇帝
ニコライ二世は、マイヤー駐ロシア米公使に対し、樺太の南半分
の割譲は、かつて日本領であった歴史を考慮して認めてもよいと
いったという情報を知らされるのです。
 それにしても小村はどうしてこう頑なだったのでしょうか。い
ろいろな説がある中で、外交評論家の岡崎久彦氏は、次のように
いっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村は早く交渉をつぶし、戦争継続にもっていきたかったの
 であろう。               ――岡崎久彦氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村が全権に選ばれたとき、政府関係者の一部には小村の強硬
姿勢を懸念する人もいたのです。しかし、この岡崎氏の主張には
反対する人も多く、真相はよくわからないのです。
 もうひとつ不可解なのは、この情報がなぜ米国からもたらされ
なかったということです。実は米国に滞在してメディア工作に当
たっていた金子堅太郎と随行員の阪井徳太郎は、交渉経過を逐一
ルーズベルト大統領に打ち明け、いわば手の内をすべてさらして
相談に乗ってもらっていたのです。
 日本海軍がバルチック艦隊を破ったとき、金子に「万歳!」と
いう電報を打ち、この機に樺太を占領せよというアドバイスをす
るなど、ロシア側からも「日本の弁護人」とまでいわれたルーズ
ベルト大統領は、なぜか肝心の8月23日のマイヤー駐ロシア米
公使とニコライ二世との会見の中の一番重要なことを金子に話し
ていなかったのです。
 ルーズベルト大統領は金子に次のように話したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2時間以上面談したるも、終わりに露帝は曰く、かの妥協案
 に到底賛成するを得ず。これに同意するよりは、むしろ露国
 人民全体に訴え、みずから陣頭に立ちて満州に出陣すべしと
 して、痛くせられたり。
 ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
             の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このことばによれば、ロシア皇帝は全面拒否であるように見え
ます。しかし、ロシア皇帝は樺太南半分の割譲はやむを得ないと
いっていたのです。後でこのことを知った金子はルーズベルトに
対し、非常に怒ったといわれます。ルーズベルト大統領はなぜ日
本に対し、情報を隠したのでしょうか。これは後でルーズベルト
の裏切りとして伝えられることになります。
                 ・・・[日露戦争/50]


≪画像および関連情報≫
 ・小村寿太郎について
  宮崎県日南市飫肥出身。藩校振徳堂に学び、大学南校・現東
  京大学卒業後、文部省留学生として米国ハーバード大学に留
  学。帰国後司法省を経て外務省に入り翻訳局長、清国代理公
  使、外務次官を歴任しさらに、米、露、清の公使となる。
  1901年(46歳)、桂内閣の外務大臣に就任。1905
  年、首席全権大使として米国ポーツマス市で日露講和条約を
  結び日本に平和をもたらす。1908年(53歳)外務大臣
  に再任。1911年、米英独仏と、幕末以来の不平等条約を
  改正し関税自主権を回復。以後、わが国は諸外国と対等な国
  際関係になる。勲功により侯爵位を授けられる。同年、神奈
  川県葉山町にて永眠(56歳)。
                ――日南市ホームページより
  http://www.city-nichinan.jp/kyoutsu/nichinan-ijin.asp

ウイッテと小村寿太郎.jpg
ウイッテと小村寿太郎
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2009年09月18日

●不本意な妥結/日露講和交渉(EJ第1757号)

 1905年8月28日、日本政府はポーツマスの全権団に対し
経済的理由から、償金、割地の2問題を放棄して講和をさせよと
いう訓令を打電しています。しかし、この電報を打って1時間後
に外務省の石井通商局長が英国大使からの情報――ニコライ二世
は樺太の南半分の割譲は認める意思ありという情報――を入手し
てきたのです。あわていたのは外務省です。
 外務省電信課長の幣原喜重郎はとりあえず独断で次の電文を小
村に送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   前の電信の執行は次の電信が着くまで延期されたい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 幣原といえば後に外務大臣、首相になった人物ですが、彼は改
めて桂首相以下の指示を仰ぎ、決定をもらって樺太南部を要求す
る訓令を再び打電し、翌29日、遂に日露講和交渉は妥結にいた
るのです。しかし、この経緯は非常にわかりにくいのです。
 小村としてはウイッテから樺太南部の割譲の提案は何度も受け
ていたのです。しかし、小村はそれに加えて、どうしても償金を
獲得したかったのです。小村としては出発のさい、新橋停留場の
多数の国民の万歳による見送りを思い浮かべていたのでしょう。
 「樺太南部割譲」はロシアから見たいい方ですが、既に樺太は
日本が合法的に占領しているのです。したがって、日本から見る
と、「樺太北部返還」になるわけです。この違いはとても大きい
ものがあります。
 小村としては、日本が樺太北部を返還するにはそれなりの金銭
が必要であるとして、それを強く求めていたのです。そのため、
ロシアの提案を本国に伝えていなかったのでしょう。しかし、本
国は全権団ではなく、英国大使から情報を得て「樺太南部割譲/
償金なし」で同意するよう求めてきたのです。これを受けて小村
はやむなく講和を妥結させるしかなかったわけです。
 しかし、国民は納得しなかったのです。新聞各紙には次のよう
な記事が載ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大阪毎日新聞 ・・・
   ・軍事費弁済の要求放棄/樺太北部も捨てられる
  万朝報
   ・千古の大屈辱に弔旗を
  大阪朝日新聞
   ・陛下の聖意にあらざる和約の破棄を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、日清戦争では三国干渉で国民は悔しい思いをし
ているのです。そして、軍備拡張のための増税や公債の割り当て
などの重い負担に耐えた結果がこれではと一気に政府に対する怒
りが燃え上がったのです。その結果、条約破棄を要求する国民大
会がを日比谷公園で開催され首都は大混乱となったのです。19
05年9月5日のことです。結局、近衛師団などから歩兵3個中
隊が出動し鎮圧に当るという騒ぎとなったのです。
 民衆は警官隊とは戦いましたが、軍隊が出動すると一斉に抵抗
をやめ、「万歳」を叫んでやまなかったといいます。大国ロシア
を相手に戦って連戦連勝を積み重ね、帝国の光栄を輝かせた軍隊
とは対決したくなかったのでしょう。怒りは政府に対してのみ向
けられたのです。
 講和条件を検討し、日本に提案したイェール大学のストークス
は、ポーツマス条約に「清国の領土保全」、「列強の機会均等」
「償金支払いや領土割譲を避ける」というイェール大学の提案が
ほぼ盛り込まれた点を高く評価しています。しかし、提案に掲げ
た「満州と韓国における商業的な機会均等」においては、条約で
は満州での機会均等を明記したものの、韓国については触れられ
ていない点に懸念を表明しています。
 ストークスのこの懸念は、1910年の日本の韓国併合という
かたちに立ってあらわれるのです。韓国についても清国と同じよ
うに「領土保全」と「機会均等」を貫くべきだったのです。
 朝河貫一は、韓国の扱いについては、次のように述べて、日露
戦争後の祖国に一抹の不安を抱いていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は韓国を効率的な前進部隊とすることによって外国の攻撃
 に対し、日本の立場を強化しようとするのか、それとも韓国は
 弱く、頼りにならないので韓国を日本帝国の一部であるかのご
 とく武装し統治するのか。(一部略)いずれが改革の指導原則
 になるかによって政策の実際の差異は、長い間には巨大な差異
 になるであろう。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河の懸念は不幸にして的中するのです。日本はポーツマス条
約で賠償金も領土割譲も得られなかったことの反動から、朝鮮、
中国大陸の権益獲得にのめり込んでいき、米国との関係が緊迫の
度を増していったからです。
 朝河は、この日本の動きを国運の危機と称して次のように述べ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、正当の
 優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって東洋
 の平和を攪乱し、世界憎悪の府となり、国勢とみに逆運に陥る
 べきことこれなり。(中略)日本もし不幸にして清国と戦い、
 また米国と争うに至らば、その戦争は明治37、8年のごとく
 世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、実に
 世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべか
 らず。            ――清水美和著、前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河貫一、まさに慧眼であるといえます。
                 ・・・[日露戦争/51]


≪画像および関連情報≫
 ・「私曲」とは何か。
  朝河貫一の文中の「私曲」とは、よこしまで不正なる態度と
  いう意味である。

日比谷焼き打ち事件.jpg
日比谷焼き打ち事件
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2009年09月24日

●米英両国を敵に回した原因(EJ第1758号)

 「日露戦争の真実」のテーマは、本日が最終回(全52回)に
なります。
 19世紀の末、米英両国は西洋列強が争奪戦を演じる中国(清
国)に対して2つの原則を確立しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        第1原則:中国の領土保全
        第2原則:商業機会の均等
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河貫一は、東洋政策に関して「旧外交」と「新外交」を次の
ように対比させています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪旧外交≫
  ・列強が中国を苦しめながら相争って自利を計る政策を展開
 ≪新外交≫
  ・中国の主権を尊重し、機会均等に各国が経済的競争をする
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日露戦争において日本が米英の協力を得られたのは、ロシアが
満州で旧外交を展開したのに対し、日本が東洋の正義を掲げて戦
いを挑んだからなのです。
 しかし、戦後日本は基本的にはロシアと同じことをやっている
のです。朝河の言葉でいうと、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州に新外交を強制したる日本が、同じ戦勝の功により、同じ
 満州において自ら旧式の利権を作為し、また自ら請いて露国よ
 り旧外交の遺物を相続したること
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米英両国は、日本が戦前に公言していたことは一時世を欺くこ
とばに過ぎず、ひとたび戦いに勝利すると、満州および韓国にお
いて、私意をたくましくしている――といって厳しく日本を批判
したのです。
 日本が戦前と考え方を変えた具体的な例を上げるとしたら、米
国の鉄道王エドワード・ハリマンが、日本に提案した南満州鉄道
共同経営計画の中止があります。この計画については桂首相自身
は前向きだったのですが、小村外相の強硬なる反対によって頓挫
したのです。せっかく苦労して手に入れた経営権を米国などに渡
してなるものかという小村の偏狭な考え方が原因です。
 さらに日本は満州で軍政を継続し、日本企業を優遇して米英両
国から非難されるという一幕もあったのです。軍政は桂内閣が代
わる1906年まで続いたのです。
 このようにして、日本はしだいに米英両国から距離を置くよう
になり、その関係はだんだん悪化していくのです。これについて
朝河は自分の米国留学を支援してくれた大隈重信に対し、次の手
紙を送っています。朝河の母校は東京専門学校(現早稲田大学)
であり、大隈重信は彼が最も期待した政治家だったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国将来の対清利益は、清国が独立富強、自ら主権を遂行する
 を得るに至りて、始めて最も増進すべし。故に清国の開進独立
 を妨ぐるものは、米国の利益を害するものなれば、(中略)清
 国を助けて侵害者(日本のこと)に抗せざるべからず。
              1909年9月27日、朝河貫一
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河が頼りにしていた大隈重信は、第2次内閣を組閣後、第1
次世界大戦が起こると強引に参戦し、敵の備えのないことに乗じ
て、かつてドイツが清国から強引に99年間租借した膠州湾を占
領してしまい、朝河の期待を大きく裏切るのです。
 朝河は「膠州湾を中国に返してやることによって日本は大きな
利益を得る」と大隈に説いたのですが、大隈は聞く耳を持たなか
ったのです。本当に当時は日本全体がおかしくなっていた暗黒の
時代であったといえます。かくして朝河のいうように日本は「東
洋平和を乱す張本人」になっていったのです。
 このように、日露戦争の勃発前の時期から戦争終了までの日本
の動きを逐一追ってみると、太平洋戦争が起こった原因、現在の
日本とロシア、中国、韓国との関係が見えてきます。
 それにしても朝河貫一は、日本から遠く離れた米国の地にあっ
て、ひたすら祖国日本のために研究生活のかたわら講演や論文に
よって日本の進むべき正しい道を説き続けたのです。
 1948年8月11日、朝河はバーモント州の静養先で心臓発
作を起こし他界しています。朝河の訃報はAPやUPIなど外国
通信社がわざわざ「現代日本で最も高名なる世界的学者」と紹介
して世界に打電したのに対し、当の日本のプレスは、外電として
片隅に小さく報道しただけだったのです。それも「朝河」を「浅
川」と姓を間違って伝えたのです。日本人がいかに朝河について
何も知らなかったかを物語っています。
 当時の政治家で朝河を知り、比較的その意見を買っていたのは
伊藤博文です。伊藤は1901年にニューヘイブンを訪れ、朝河
に会っているのです。イェール大学から名誉法学博士号を受賞し
たときのことです。しかし、その伊藤も韓国併合を結局は推し進
め、ハルピンの駅頭で暗殺されてしまったのです。そのとき、伊
藤は朝河の著書『日本之禍機』を持っていたといわれています。
 日露戦争のテーマで書き出した途中の時点で、何回も引用させ
ていただいた清水美和氏の著作『「驕る日本」と闘った男/日本
講和条約の舞台裏と朝河貫一』(講談社刊)を入手し、読めたこ
とは幸いであったと思っています。EJの読者にぜひ一読をお勧
めするしだいです。
 52回にわたる長期連載にもかかわらず、最後まで読んでいた
だいた読者に感謝の意を捧げます。 ・・・[日露戦争/52]


≪画像および関連情報≫
 ・エピローグ――1905年12月28日・・・
  一人のみすぼらしい男が、新橋の駅に降り立った。くたびれ
  た外套、つぶれたような帽子、時代遅れのトランクを提げた
  男は、懐かしそうにあたりを見回した後、改札を出ようとし
  た。そのとき、声をかけた男がいる。
  「明石さん、お帰り・・・」
  「おう、田中君か・・・満州では大変だったろう」
  「いや、明石さんこそ縁の下の力持ちで・・・」
   そういったのは明石より2期後輩の田中義一中佐である。
  田中は明石の前に参謀本部からヨーロッパ担当の諜報将校と
  して、活躍した敏腕の若手参謀である。――豊田穣著『情報
  将校/明石元二郎――ロシアを倒したスパイ大将の生涯』よ
  り。光人社刊
   ビックプロジェクトには、明石、金子、阪井、末松、朝河
  など、縁の下の人たちのたくましい活躍があって、はじめて
  実を結ぶものである。

二本松市の掲示板.jpg
二本松市の掲示板
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2009年09月25日

●開発当時も現在も無名な開発者(EJ第1661号)

 今日からスタートさせるテーマは、「インターネットはどのよ
うにして生まれたか」です。つまり、「インターネットの歴史」
ということになりますが、この一見何でもないテーマ――実は大
変な難題なのです。
 なお、この記事は2005年8月23日から2005年10月
28日までの計46回にわたって連載したものであることをお断
りしておきます。
 この驚くべきほど世界中で普及している通信技術は、一体誰が
開発し、いつから始まったのでしょうか。これが意外にはっきり
していないのです。
 ひとつわかっていることは、インターネットは特定の誰かが開
発したものではなく、数多くの人たちによって作り上げられた通
信技術であるということです。
 インターネットの場合は、開発に携わった人たちは当時はまっ
たくの無名であったのです。これは当然のことですが、他の有名
な技術の開発と違ってインターネットの特徴的なことは、インタ
ーネットがこれほど劇的に普及した現在でも、それらの人たちが
依然として無名のままであるということです。
 もし、あなたがインターネット構築に関わった人を1人でもい
いから上げてごらんなさいといわれたら、答えられますか。
 これは、かなり難問のはずです。私はIT業界の人にもこの問
いをしてみたのですが、ほとんど誰も答えられなかったのです。
IT業界の人でもわからないことが、一般の人にわかるはずがな
いと思います。
 それには、いくつもの理由があるのです。その謎を解き、改め
て身近になっているインターネットという通信技術について知る
ことは無駄なことではないと考えたのです。私は現在あるネット
関係の会社で、新人を主な対象として技術教育を担当しています
が、そのさいつねに次のことを強調しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 新しい技術について知る一番良い方法は、その技術がどのよう
 経緯で誕生したか、その歴史を知ることである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ITの話だからと敬遠しないで読んでいただくと、インターネ
ットが一層身近に感じられると思います。今日はその予告編のよ
うな話からはじめます。
 2005年8月3日のことです。7月31日よりパリで開催さ
れていたIETFミーティング会場において、2005年度ポス
テル賞の受賞者として、慶応義塾大学常任理事を務める村井純教
授が選出されたのです。
 IETFミーティングとは? ポステル賞とは? 村井 純と
は?――おそらくほとんどの人はチンプンカンプンであると思い
ます。まあ、インターネットに詳しい人は、村井純教授ぐらいは
ご存知とは思いますが・・・。
 それに私の調べたところでは、8月4日の日本経済新聞、日経
産業新聞には一切このニュースは伝えられていないのです。村井
教授の受賞は今回で7人目、しかもアジアからのはじめての受賞
なのです。これがニュースにならないのは不思議な話です。
 これはインターネットに関連するニュースですが、要するに、
日本ではこの手のニュースは関心がないということでしょう。い
や、もしかすると、新聞記者がよくわかっていないということで
はないでしょうか。彼らは自分に理解できないことはニュースと
して取り上げないのです。
 ポステル賞とは、1998年に急逝したジョン・ポステル氏に
ちなんで、インターネット・ソサエティ(ISOC)が1999
年に設置した賞であり、インターネットに多大な貢献をした人に
贈られるのです。今回の村井教授の受賞は、IPv6などの技術
開発と普及への努力、およびアジア太平洋地域でのインターネッ
ト普及への貢献が評価されたものとされています。
 村井教授に贈られた受賞トロフィ−には次のように書かれてい
ます。原文を載せておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   For his vision and pioneering work that helped
   countless others to spread the Internet across
   the Asian Pacific region.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、ポステルという人はどういう人でしょうか。
 このジョン・ポステル氏こそ、インターネットの創始者の1人
といってよいと思います。ポステル氏は、1969年、カルフォ
ルニア大学ロサンゼルス校在籍中に、米国防総省のプロジェクト
であるARPANET――あとでさんざん述べることになる――
に参加しているからです。IPアドレスの管理業務を政府より委
託され、IANAを創設するなど、インターネットの発展に貢献
した人なのです。IANA(アイアナ)というのは、インターネ
ットに関する方針や標準を決定し、インターネットで扱う基本デ
ータの割り当てを担当している組織のことです。
 しかし、1998年10月16日に心臓病のため、急逝されて
います。55歳の若さでです。インターネットの世界においては
惜しみても余りある人材を失ったことになるといえます。
 村井純教授によると、ポステル氏は日本のインターネットの立
ち上げに大変な協力をしてくれた大恩人だそうです。アドレス、
JPドメインなど彼の協力なしにはできなかったことがたくさん
あるのだそうです。
 しかし、ジョン・ポステルという名前を知っている日本人がど
れほどいるでしょうか。ほとんどいないと思うのです。インター
ネットがこれほど普及し、多くの人に使われるようになった現在
でも、彼はまだ無名に近いのです。
 村井純氏にしても、最近でこそ知る人が増えてきましたが、テ
レビに出る機会も少ないので、あまり知られているとはいえない
と思います。しかし、インターネットに不可欠であるルート・サ
ーバーの13台目が日本に設置されている事実を何人の日本人が
知っているでしょうか。この13台目のMサーバーは、村井氏の
実績によって設置されているのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/01]


≪画像および関連情報≫
 ・IETF = Internet Engineering Task Force
  TCP/IPなどのインターネットで利用される技術を標準
  化する組織。ここで策定された技術仕様はRFCとして公表
  される。RFCはIETFが正式に発行する文書である。
 ・IETFミーティングがどういうものか知りたい人は、次の
  URLをクリックして、「江端さんのひとりごと/IETF
  惨敗記」を読まれることをお勧めする。大変面白い。
  ―――――――――――――――――――――――――――
     http://www.ff.iij4u.or.jp/~ebata/ietf.txt
  ―――――――――――――――――――――――――――

村井氏ポステル賞を受賞.jpg
村井氏ポステル賞を受賞
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2009年09月28日

●電子メールはいつから始まったか(EJ第1662号)

 EJで今まで取り上げてきたテーマに比べて、今回のテーマで
ある「インターネットの歴史」はいかにも地味であり、面白くな
さそうに見えます。また、ITや技術の話は苦手であるとして、
読むのを敬遠する人もいるかも知れません。
 しかし、それでは困るのです。むしろ、技術に弱い人ほど、今
回のテーマは読んでいただきたいのです。現在の世の中において
インターネットの恩恵を受けていない人はほとんどいないでしょ
う。少なくとも、EJの読者はPCを所有し、インターネットを
利用している人々であり、そういう意味でインターネットの恩恵
を享受されています。私が毎日大勢の人々にEJをお送りできる
のもインターネットのおかげといえます。
 インターネットの素晴らしいことは、メールやサイトという手
段を通じて、世界中の人々とコミュニケーションができる点にあ
ります。ここで私たちが忘れてはならないことは、そういうネッ
ト・コミュニケーションのコストがきわめて低いことです。それ
は、多くのインターネットの開発者たちが誰一人として権利(特
許)を主張しなかったことにより、実現されていることをご存知
でしょうか。
 WWWの開発者として知られるティム・バーナーズ・リー、イ
ンターネット・プロトコルの生みの親であるヴィンセント・サー
フやロバート・カーン、ハイパーテキストを考案したテッド・ネ
ルソン、電子メールの考案者として知られるレイ・トムリンソン
などなど――誰もひとりとして特許を主張していない。これは驚
くべきことであります。そういう人たちのおかげで私たちはイン
ターネットという便利な道具を自由に使えるのです。
 しかし、私たちはそういう人々をあまりにも知らなさ過ぎると
思うのです。したがって、こういう開発者たちに敬意を払い、感
謝する意味でも、彼らに関してもっと関心を持つべきだと思うの
です。これがEJでこのテーマを取り上げた理由であります。
 インターネットは誰がはじめたか――これは難問なのです。イ
ンターネットの主要なサービスのひとつである電子メール(以下
メール)はいつからはじまったかを例にして考えてみます。
 インターネット上でメールをやり取りするには、メールアドレ
スというものが必要です。メールアドレスは、アットマークと呼
ばれる「@」記号を中心に、@の左の部分はユーザ名、右の部分
は、ドットでいくつかに区切られるドメイン・ネームというもの
が記述されています。これは、メールの送受信に使うコンピュー
タがどこにあるかを示しているのです。
 メールがいつからはじまったかを考える場合、第1の考え方と
して、「@」の右の部分の記述のやり方が統一され、標準化され
た時点――すなわち、ドメンネーム・システムが生まれ、それが
世界中で使えるようになった時点――これを基準として使う方法
があります。
 この考え方に立つと、1983年にドメインネーム・システム
の標準化ができているので、メールはこの時点からはじまったと
いうことになります。この観点からは、このドメインネーム・シ
ステムを使って実験を成功させたジョン・ポステル――昨日のE
J参照――がメールの創始ということになります。事実、ポステ
ルは「インターネットの父」と呼ばれているのです。
 第2の考え方として、「@」を中心に、左の部分にユーザ名、
右の部分にホストコンピュータ名を書くという方法で、メールを
やり取りするシステムが考案され、実験が行われた時点をもって
メールの創始とする考え方があります。
 この考え方に立つと、1971年にARPAネット(後で詳し
く説明)上のコンピュータ間で、メールをやり取りする実験が行
われているので、この時点をもってメールの創始と考えることが
できます。このま実験を行ったのが、レイ・トムリンソンなので
す。そのため、トムリンソンは「メールの発明者」、「アットマ
ークの父」と呼ばれているのです。
 さらに第3の考え方があります。
 そもそも第2の考え方の土台になる発想――コンピュータを介
して「手紙」をやり取りしようという発想――そういうアイデア
が生まれた時点があり、それが具体化されて使われるようになっ
たということがあれば、その時期こそメールが始まった時点であ
るという考え方です。
 調べてみると、「@」の使用に先立つ1960年代半ばにおい
て、「メール」と呼ばれるデジタル情報を個人間でやり取りして
いたことがあるのです。それは、大勢のエンジニアが大型汎用コ
ンピュータを共用する方式――時分割処理システムにおいて既に
行われていたのです。
 しかし、時分割処理システムは汎用ではなく、システムごとに
異なる運用が行われていたのです。したがって、このメールのや
りとりは、ひとつのコンピュータを共用する人々の間でのコミュ
ニケーションにとどまっていたのです。
 トムリンソンは、このような独自のルールを持つ時分割処理シ
ステム同士をつないで、他のシステムともメールをやり取りする
ために、「@」記号を使って、ユーザがどのコンピュータからメ
ールを出しているかを明示して、ネットワークを介してメールを
送る実験を行い、成功させたというわけです。
 このように、メールひとつとっても、以上の3つの考え方によ
り、その創始の時期が異なってくるのです。いずれにしても、メ
ールという技術的手法が生まれたのは、1960年代半ばである
ということがわかります。約40年前の話です。
 3つの観点を整理すると、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の視点 ・・ ネットワーク間をつなぐ決まり事ができる
 第2の視点 ・・ 決まり事のベースとなった技術の開発使用
 第3の視点 ・・ 上記の技術がどんな発想から誕生したのか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/02]


≪画像および関連情報≫
 ・過去から未来で/探検!つうしんワールド
  「電子メールの開始」
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   http://www.ntt-west.co.jp/basic/faq/html/in_02/
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『起源のインターネット』.jpg
『起源のインターネット』
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2009年09月29日

●ヴァネヴァー・ブッシュをご存知ですか(EJ第1663号)

 最初に、次の4人の名前に注目していただきたいのです。この
中に一人でも知っている人がいるでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.J・C・R・リックライダー
    2.イワン・サザーランド
    3.ロバート・テイラー
    4.ローレンス(愛称ラリー)・G・ロバーツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東京電機大学の脇英世教授によると、この中で一人でも知って
いる人がいたら、その人は、相当の情報通信業界通であるとまで
いっています。実は、この4人はインターネットの開発に深い関
わりのある組織のトップを務めた人たちなのです。
 これらの人たちがどのような人物であり、インターネットの開
発においてどのような役割を果たしたのかを知っていただくため
に、少し遠まわりな話からはじめる必要があると思います。
 「ヴァネヴァー・ブッシュ」という人をご存知ですか。
 現在の米国大統領は、ジョージ・ブッシュですが、彼とは何も
関係はないのです。しかし、ヴァネヴァー・ブッシュは、大統領
という職務とは必ずしも無関係ではないのです。それにきちんと
インターネットの歴史について説明するには、彼の名前は欠かせ
ないひとりなのです。
 米国のボストンには2つの有名な大学があります。ボストンの
西側にあるハーバード大学と東側にあるMIT(マサチューセッ
ツ工科大学)です。
 ハーバード大学は今から300年以上前に創立された歴史のあ
る名門大学です。これに対してMITは、1861年に創立され
た大学ですが、長い間にわたって、あまりぱっとしない大学だっ
たのです。
 しかし、MITは、第2次世界大戦中の軍事研究によって一躍
有名大学の地位を獲得するのです。MITは、軍と協力し、放射
研究所を設立したのですが、そこでレーダーの開発に成功したか
らです。
 このレーダーは、第ドイツ戦、対日本戦におどろくべき威力を
発揮し、両国空軍が得意とする空からの攻撃を無力化させてしま
ったからです。MITの空軍との協力は第2次世界大戦後も続き
北米防空を目的とするMITリンカーン研究所が設立されている
のですが、インターネットの前身といわれるARPAネットを作
り出した人材の多くはこの研究所から育っているのです。
 このMITにおいて最初に有名になったのが、ヴァネヴァー・
ブッシュなのです。ブッシュはボストン郊外のチェルシーという
ところで生まれたのですが、子供の頃から数学には天性のものが
あったそうです。1913年、彼はタフツ大学の修士課程を優秀
な成績で卒業、一時GEに務めます。しかし、GEの工場が火事
で焼けて失職してしまうのです。
 そこでブッシュは、海軍の検査官をしながら、タフツ大学の数
学の教師をやっていたのですが、1915年に大学に戻ることを
決意、MITの博士課程に進みます。そして、1年後にはハーバ
ードとMITの両大学から工学博士の学位を取得し、母校のタフ
ツ大学の電気工学科の助教授に就任するのです。
 第1次世界大戦が終わった1919年にブッシュはMITの電
気工学科の助教授になり、1923年には教授に昇進します。専
門は一貫して「電力伝送」だったのです。そして、これから彼は
まさに縦横無尽の活躍をすることになるのです。
 このヴァネヴァー・ブッシュという人物は、このように科学者
としても一流であったのですが、その政治的手腕も並外れていた
のです。若い頃のブッシュは数々のアイデアを軍に対して提案し
ているのですが、軍は無名の若造の提案などに耳を貸さなかった
といわれるのです。やがてブッシュは、「工学で成功するには政
治にも通じている必要がある」と考えて、意識的に政治の世界を
目指したといわれます。
 そして、1940年6月にブッシュは、時のルーズベルト大統
領にNDRC(全米防衛研究委員会)の設置を提案し、大統領の
承認を得て委員長に就任します。そしてその次の年に第2次世界
大戦がはじまると、OSRD(科学研究開発庁)が議会の承認の
下に作られ、ブッシュは長官に就任――この経緯は明日のEJで
述べますが、こうして、大学と軍が協力して軍事研究を推進する
システムが出来上っていったのです。
 そしてブッシュが第2次世界大戦中に取り組んだ最も大きな仕
事が、マンハッタン計画なのです。ブッシュは原爆開発の最高幹
部としてこの計画に深く関与していたのです。
 米国の原子爆弾の開発には、ハンガリーからの亡命ユダヤ人が
多く加わっています。名前を上げておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ジョン・フォン・ノイマン  ユージン・ウィグナー
  エドワード・テラー     セオドア・カールマン
  レオ・シラード
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは着の身着のままで米国に逃れてきたのです。彼らが生き
残る手段として身につけているものは才能しかなかったのです。
彼らはナチスが原爆を所有したときの最悪の事態を避けるために
移民である自分たちを受け入れてくれた第2の祖国である米国に
奉仕する機会として、マンハッタン計画をとらえ、ナチスとの原
爆開発競争に打ち込んだのです。
 マンハッタン計画を率いていたのは、後に「原子爆弾の父」と
称されるJ・ロバート・オッペンハイマーでしたが、この計画を
バックで支え、コントロールしていたのは、ヴァネヴァー・ブッ
シュだったのです。
 この時点でブッシュは、大統領の科学顧問というべき科学者と
して最高の地位にあり、何でもやれる立場にあったということが
できます。   ・・・[インターネットの歴史 Part1/03]


≪画像および関連情報≫
 ・マサチューセッツ工科大学
  米国において、シリコンバレーなどと並ぶ先端技術産業の集
  積地であるボストンのルート128地域においても、中核的
  な役割を果たす機関である。同大学のメディアラボは情報技
  術関連の先端を走る研究所としてマスメディアなどでも頻繁
  にとりあげられる。特筆すべきは、同研究所で開発された情
  報処理システムがキャンパスネットワークの根幹を占めてお
  り、この研究成果は米国以外の大学院大学等でも活用され成
  果を挙げている。同大学は、ボストン所在の他大学(ハーバ
  ー大学、マサチューセッツ工科大学)との間で、学生や研究
  者同士の交流も推進している。
    出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

MIT.jpg
MIT(マツチューセッツ工科大学)
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2009年09月30日

●ブッシュと原子爆弾製造計画(EJ第1664号)

 ヴァネヴァー・ブッシュが、いかにして科学界をまとめ、ND
RC(全米防衛研究委員会)のトップになったか――これについ
て、もう少し詳しく述べる必要があります。
 1930年代の後半のことです。ヨーロッパでは戦争の危機が
深刻の度を増していたのです。そのとき米国では、4人のスーパ
ー科学者が集まって、科学界が国の国防上の要請にどう応えるべ
きかを討議していたのです。その4人の科学者とはヴァネヴァー
・ブッシュを含む次のメンバーです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カール・コンプトン ・・・・・・・・・・・ MIT学長
 ヴァネヴァー・ブッシュ ・・・・・・・・ MIT副学長
 ジェームス・コナント ・・・・・・ ハーバード大学学長
 フランク・ジュウェット ・・・・ベル電話会社研究所所長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ヴァネヴァー・ブッシュを含む4人組は、いずれも科学界の超
エリートだったのです。MIT学長のコンプトンは、ハイテク王
国米国を支える現在のMITの基礎を築いた人物です。ハーバー
ド大学学長のコナントは戦後、初代のドイツ大使として活躍し、
政財界に名を残し、ハーバード大学の傑出した学長として語り草
になったほどの人物です。それにベル研究所のジュウェットは、
1939年に科学アカデミー総裁として科学界のとりまとめ役と
して活躍した人物です。
 この4人組の中心人物はもちろんヴァネヴァー・ブッシュその
人です。彼らは、学者は象牙の塔に閉じこもっていては駄目であ
り、計り知れない価値を持つ科学の成果を社会の現実的な役に立
てなければならない――たとえそれが戦争のための兵器を作るた
めであっても、必要ならやらざるを得ないと彼らは考えて議論を
したのです。ブッシュはこの4人組で科学界をまとめ、何とか、
大統領にものがいえるシステムを作りたい――このように考えて
いたのです。
 1939年にブッシュはMITの副学長を辞任し、カーネギー
研究所に移籍します。カーネギー研究所は、カーネギー財団の豊
富な資金力をバックに科学振興をはかることを重要な任務として
おり、政府の科学政策に大きな影響力を与える役割を担ってきた
のです。ブッシュとしては、かねがね政治へのアプローチの必要
性を感じており、この移籍はそのための最初の一手ということが
できます。
 ワシントンにくると、ブッシュは国家航空諮問委員会の議長に
就任します。この委員会では、防空などの航空問題について、軍
人と科学者が議論し、結論をまとめて、大統領に勧告する役割を
担っているのです。
 そして、1939年の春、科学アカデミー協会は、例の4人組
のひとりであるベル研究所のフランク・ジュウェットを総裁に選
出します。もちろん、ブッシュら4人組が周到に根回しした結果
なのです。科学アカデミー協会は、科学界をとりまとめるかなめ
の組織なのです。
 軍、政府、産業界を組織化する――そのためには、肝心の科学
界をまとめる必要があるます。そこで、その布石として、科学ア
カデミー協会にジュウェットを送り込んだのです。
 1940年6月、ブッシュはハリー・ホプキンズ大統領補佐官
の斡旋によって、はじめてルーズベルト大統領に会います。会見
時間はたったの10分――この会見でNDRCの設立とブッシュ
の委員長就任が決まったのです。ブッシュによる事前の十分な根
回しによって、大統領との会見は儀式的なものになったのです。
 ブッシュはなぜNDRCの設立を訴えたのでしょうか。
 その目的のひとつに、各大学や海軍の研究所において、ばらば
らに行われていた核分裂研究を一元的に把握することがあったの
です。そして、NDRCが発足すると、ウラン諮問委員会はその
傘下に入ることになったのです。
 しかし、ブッシュがNDRCの委員長になり、核分裂研究を一
元管理するようになって、原子爆弾の開発はかえって遅れること
になります。それには難しい問題がたくさんあったからです。
 1940年4月、ドイツ軍はデンマークやノルウェーに侵攻し
第2次世界大戦が始まります。6月14日にドイツはパリを陥落
させ、フランスを手中におさめます。危機的な状況はますます深
刻化の度合いを深めていたのです。
 1941年6月にOSRD(科学研究開発庁)が設けられ、N
DRCはその下部組織になります。ブッシュはOSRDの長官に
就任し、NDRCは4人組のひとりであるハーバード大学学長の
コナントが務めることになったのです。
 もはや研究をしているときではなく、開発に重点を置く時期に
なったからです。OSRDは300を超える研究機関と契約を結
び、6000人を超える科学者を動員し、あらゆる兵器の製造に
着手したのです。ブッシュの体制整備がものをいったのです。
 しかし、当時の米国は他国の武力紛争への介入を禁ずる中立法
が制定されており、強い厭戦ムードもあったのです。しかし、軍
や政府は、このままでは済まないことを確信していたのです。
 ブッシュとしては、そういうときに備えて、少なくとも意思決
定はスムーズに行える体制だけは作っておきたいと考えて、ND
RC委員長のコナントを通して提出された計画書と予算案をOS
RDのブッシュ長官が裁可できるようにしたのです。しかし、原
子爆弾の製造に関しては、ブッシュは最後まで悩みぬくのです。
 しかし、1941年11月17日、原子爆弾製造に関する計画
書がNDRCから提出されます。ブッシュは27日にこの原爆開
発計画を大統領に提出し、原爆製造は決定されたのです。
 1941年12月8日(日本時間)、日本軍による真珠湾爆撃
によって、米国の厭戦ムードは吹き飛び、米国も戦争に突入する
ことになったのです。そして、大統領は原爆開発のための試験炉
建設を承認し、「代替燃料計画」の名前で、原爆製造の方向に大
きく舵が切られたのです。
        ・・・[インターネットの歴史 Part1/04]


≪画像および関連情報≫
 ・1940年5月にブッシュが科学アカデミー総裁のジュウェ
  ットに送った手紙の内容
  ―――――――――――――――――――――――――――
   ひとつ、困っていることがある。それはとてつもなく重要
  なことかも知れないし、また、そうでないかもしれない。ウ
  ランの核分裂のことだ。昨年の夏は、ウランの核分裂によっ
  てつくられる原子爆弾の顛末がどうなるか知りたいと思って
  いたし、いまでもそうだ。しかし、事態は決定的に切迫して
  いる。この国でできることがあるとして、何をするべきだろ
  うか。
   もうひとつは何もしないことだ。平和時の穏当な時期だっ
  たら、私がとるのはこのやり方だ。そうでないいま、何もし
  ないということは、現在の研究の進展をあえて無視するに等
  しい。もちろん、すべてはたち消えになるかもしれない。誰
  かが、連鎖反応の障害を発見する可能性はある。しかしなが
  ら、昨年はそうしたことは起こらなかった。たち消えになる
  のをただ座して待っているわけにはいかないように思う。
  歌田明弘著、『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
  シュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴァネヴァー・ブッシュ.jpg
ヴァネヴァー・ブッシュ
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