交渉というものは難しいものだなと感じます。小村寿太郎外相は
ロシアに対して相当強気の案をぶつけてロシアの反応を見ていま
す。ロシアは日本の譲れない一線というものを熟知しています。
そういう強気の案に対して、どういう対案をロシアは出してくる
か――それによってロシアの本音が透けて見えるのです。
果たせるかな、ロシアは日本の強気の案に対して、やはり強気
の対案をぶつけてきたのです。ロシアは満州を独占し、韓国――
現在の韓国ではなく、現在の北朝鮮を含む朝鮮とロシアの国境の
拠点を確保して、いつでもロシア軍が朝鮮半島に攻め入ることが
できる案を提示してきたのです。
これは明らかにアレクセーエフ極東総督の考え方であると考え
てよいと思います。アレクセーエフ極東総督は、9月28日のニ
コニイ二世に宛てた書簡で、次のようにいっています。
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日本との来るべき交渉では、日本政府にこの上なく明瞭に、ロ
シアは満州における自己の権利と利益を、必要とあれば武器を
使ってまで守るつもりであるとわからせるように、ローゼン公
使に行動させることによってのみ、その成功を期待することが
できる。 ――アレクセーエフ極東総督
横手慎二著、『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』より
中公新書1792
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こういう場合、時を置くと、その状態を黙認したことになって
しまいます。そのためには交渉を継続する必要があるのです。こ
こにきて日本としては、ロシアの満州の支配を認めざるを得ない
と考えたのです。しかし、韓国と満州の国境付近にまで何とか日
本の影響力を残したい――日本政府はこれを目標として次の提案
を行ったのです。
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中立地帯を韓国と満州の両側各50キロメートルと変更せよ
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この日本の主張は、簡単にいってしまうと、「ロシアの満州の
権益は認めるが、韓国は日本が支配する」という「満韓交換論」
に通じる考え方といえると思います。
その頃日本国内の状況はどうだったのでしょうか。
早期開戦の急先鋒に立っていたのは参謀本部です。1903年
6月22日の時点で、大山巌陸軍参謀総長は明治天皇に対して次
の趣旨の書簡を意見書として提出しています。
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不幸にして開戦するならば、ロシアの軍事力が整わないこの好
機を逸してはなりませぬ。 ――大山 巌
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桂−小村ラインは、交渉の継続を強調して参謀本部の行動を抑
制しています。ところが、10月1日に田村参謀本部次長が急死
したのですが、政府はその後任に児玉源太郎を任命しています。
児玉といえば、早期開戦論の急先鋒であり、当然戦争のことを考
えての起用なのです。
桂−小村ラインは、児玉を任命するさいに「日露の交渉は平和
に傾きつつある」と思わせているのです。つまり、このとき参謀
本部は、政策の決定から完全に切り離されていたといえます。
しかし、そこは児玉源太郎です。彼は戦争は不可避と考えて、
参謀本部の権限でできる範囲内でひそかに開戦の準備をはじめて
いたのです。
児玉源太郎参謀本部次長は、就任直後の10月20日と21日
に会議を開いて朝鮮半島上陸作戦を検討しているのです。馬山、
鎮南浦、そして仁川に上陸する作戦を検討して作戦計画書を練っ
ています。そして、27日、その計画書を寺内正毅陸相に提出し
ているのです。
それでは海軍はどうだったでしょうか。
海軍もその権限内で開戦準備をしています。山本権兵衛海軍大
臣は、10月19日に、当時舞鶴鎮守府司令長官をしていた東郷
平八郎中将を常備艦隊司令長官に抜擢しています。この常備艦隊
司令長官というポストは戦争になると、連合艦隊司令長官になる
のです。明らかに戦争に備えた任命といえます。
ロシアの返答は、12月11日にきたのですが、その内容はき
わめて冷たい内容だったのです。満州については何もなく、これ
は満州については日本と一切協議するつもりはないということを
改めて伝えたものと思います。
日本側が具体的に提案した韓国と満州の境界の両側50キロメ
ートルの中立地帯については、ロシアの主張に変更はなく、前回
と同様北緯39度以北の韓国領に設置するという主張を繰り返す
だけであったのです。
桂首相と小村外相は、ロシアからの返事を見て、もはやロシア
は妥協する気はないと考えたのです。このまま交渉を継続すると
ロシアに開戦準備の時間を与えるだけだと判断したのです。
ロシアの回答を受け取った次の日、12月12日に児玉源太郎
は大山参謀総長邸に呼ばれています。そこには寺内陸相もきてお
り、ロシアの再回答は日本の希望を一切入れないものであること
を告げられたのです。直ちにこの内容は参謀本部の全部長たちに
知らされたのです。
しかし、ロシアの内部では戦争に関して一枚岩ではなかったの
です。それは、アレクセーエフに代表される楽観派とクロパトキ
ンに代表される慎重派の2派です。
極東大宰府の上層部は、日本軍の上陸作戦はほとんどうまく行
かないだろうと考えていたのです。それはこの地域に存在してい
る強力なロシア艦隊によって妨害されるからだと考えていたので
す。朝鮮半島への上陸は行われるとしても南部に限られると見て
いたのです。ロシアはまさか制海権が奪われるという状況を考え
てもみなかったのです。 ・・・[日露戦争/17]
≪画像および関連情報≫
・児玉源太郎について
明治期の日本陸軍における代表的な人物です。戊辰・西南戦
争で功績をたてた後、参謀本部第一局長や陸軍大学校校長、
台湾総督、陸軍大臣などを歴任しました。日露戦争において
ては、満州軍総参謀長として従軍しています。1906年に
現役のまま、54歳で没。
http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm
児玉源太郎