2009年08月03日

●ロシアとの最終交渉と戦争準備(EJ第1723号)

 日露戦争直前の日本とロシアの外交交渉を調べてみると、外交
交渉というものは難しいものだなと感じます。小村寿太郎外相は
ロシアに対して相当強気の案をぶつけてロシアの反応を見ていま
す。ロシアは日本の譲れない一線というものを熟知しています。
そういう強気の案に対して、どういう対案をロシアは出してくる
か――それによってロシアの本音が透けて見えるのです。
 果たせるかな、ロシアは日本の強気の案に対して、やはり強気
の対案をぶつけてきたのです。ロシアは満州を独占し、韓国――
現在の韓国ではなく、現在の北朝鮮を含む朝鮮とロシアの国境の
拠点を確保して、いつでもロシア軍が朝鮮半島に攻め入ることが
できる案を提示してきたのです。
 これは明らかにアレクセーエフ極東総督の考え方であると考え
てよいと思います。アレクセーエフ極東総督は、9月28日のニ
コニイ二世に宛てた書簡で、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本との来るべき交渉では、日本政府にこの上なく明瞭に、ロ
 シアは満州における自己の権利と利益を、必要とあれば武器を
 使ってまで守るつもりであるとわからせるように、ローゼン公
 使に行動させることによってのみ、その成功を期待することが
 できる。           ――アレクセーエフ極東総督
 横手慎二著、『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』より
                     中公新書1792
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こういう場合、時を置くと、その状態を黙認したことになって
しまいます。そのためには交渉を継続する必要があるのです。こ
こにきて日本としては、ロシアの満州の支配を認めざるを得ない
と考えたのです。しかし、韓国と満州の国境付近にまで何とか日
本の影響力を残したい――日本政府はこれを目標として次の提案
を行ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中立地帯を韓国と満州の両側各50キロメートルと変更せよ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この日本の主張は、簡単にいってしまうと、「ロシアの満州の
権益は認めるが、韓国は日本が支配する」という「満韓交換論」
に通じる考え方といえると思います。
 その頃日本国内の状況はどうだったのでしょうか。
 早期開戦の急先鋒に立っていたのは参謀本部です。1903年
6月22日の時点で、大山巌陸軍参謀総長は明治天皇に対して次
の趣旨の書簡を意見書として提出しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 不幸にして開戦するならば、ロシアの軍事力が整わないこの好
 機を逸してはなりませぬ。          ――大山 巌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂−小村ラインは、交渉の継続を強調して参謀本部の行動を抑
制しています。ところが、10月1日に田村参謀本部次長が急死
したのですが、政府はその後任に児玉源太郎を任命しています。
児玉といえば、早期開戦論の急先鋒であり、当然戦争のことを考
えての起用なのです。
 桂−小村ラインは、児玉を任命するさいに「日露の交渉は平和
に傾きつつある」と思わせているのです。つまり、このとき参謀
本部は、政策の決定から完全に切り離されていたといえます。
 しかし、そこは児玉源太郎です。彼は戦争は不可避と考えて、
参謀本部の権限でできる範囲内でひそかに開戦の準備をはじめて
いたのです。
 児玉源太郎参謀本部次長は、就任直後の10月20日と21日
に会議を開いて朝鮮半島上陸作戦を検討しているのです。馬山、
鎮南浦、そして仁川に上陸する作戦を検討して作戦計画書を練っ
ています。そして、27日、その計画書を寺内正毅陸相に提出し
ているのです。
 それでは海軍はどうだったでしょうか。
 海軍もその権限内で開戦準備をしています。山本権兵衛海軍大
臣は、10月19日に、当時舞鶴鎮守府司令長官をしていた東郷
平八郎中将を常備艦隊司令長官に抜擢しています。この常備艦隊
司令長官というポストは戦争になると、連合艦隊司令長官になる
のです。明らかに戦争に備えた任命といえます。
 ロシアの返答は、12月11日にきたのですが、その内容はき
わめて冷たい内容だったのです。満州については何もなく、これ
は満州については日本と一切協議するつもりはないということを
改めて伝えたものと思います。
 日本側が具体的に提案した韓国と満州の境界の両側50キロメ
ートルの中立地帯については、ロシアの主張に変更はなく、前回
と同様北緯39度以北の韓国領に設置するという主張を繰り返す
だけであったのです。
 桂首相と小村外相は、ロシアからの返事を見て、もはやロシア
は妥協する気はないと考えたのです。このまま交渉を継続すると
ロシアに開戦準備の時間を与えるだけだと判断したのです。
 ロシアの回答を受け取った次の日、12月12日に児玉源太郎
は大山参謀総長邸に呼ばれています。そこには寺内陸相もきてお
り、ロシアの再回答は日本の希望を一切入れないものであること
を告げられたのです。直ちにこの内容は参謀本部の全部長たちに
知らされたのです。
 しかし、ロシアの内部では戦争に関して一枚岩ではなかったの
です。それは、アレクセーエフに代表される楽観派とクロパトキ
ンに代表される慎重派の2派です。
 極東大宰府の上層部は、日本軍の上陸作戦はほとんどうまく行
かないだろうと考えていたのです。それはこの地域に存在してい
る強力なロシア艦隊によって妨害されるからだと考えていたので
す。朝鮮半島への上陸は行われるとしても南部に限られると見て
いたのです。ロシアはまさか制海権が奪われるという状況を考え
てもみなかったのです。      ・・・[日露戦争/17]


≪画像および関連情報≫
 ・児玉源太郎について
  明治期の日本陸軍における代表的な人物です。戊辰・西南戦
  争で功績をたてた後、参謀本部第一局長や陸軍大学校校長、
  台湾総督、陸軍大臣などを歴任しました。日露戦争において
  ては、満州軍総参謀長として従軍しています。1906年に
  現役のまま、54歳で没。
  http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

児玉源太郎.jpg
児玉源太郎
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2009年08月04日

●モルトケの影響を受けた参謀本部(EJ第1724号)

 ここで参謀本部について知っておく必要があります。1874
(明治7)年6月18日に陸軍省の外局として「参謀局」が設置
され、それが1878(明治11)年に陸軍省から独立して参謀
本部となったのです。
 その後、参謀本部には陸軍部と海軍部ができ、それが発展して
参軍(皇族)の下に、陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された
のです。1889(明治22)年になると、陸軍の軍令を管轄す
るのは参謀本部の仕事になり、海軍の場合は、海軍大臣の下に海
軍参謀本部が置かれたのです。旧日本軍では、陸軍は参謀本部、
海軍は軍令部と呼ばれていたのです。
 そもそも参謀本部とは、国防および用兵に関する事項を管轄す
る機関のことです。局地的な戦略や作戦に関しては、師団や艦隊
に参謀が所属するかたちをとります。
 幕末に国政を担当した幕府は、海軍は英国式を採用したのです
が、陸軍はフランス式にこだわっていたのです。何しろナポレオ
ンの活躍がすばらしく憧れてしまったからです。そして、これが
そのまま明治政府に引き継がれます。
 しかし、1870(明治3)年にヨーロッパで「普仏戦争」―
プロシア(ドイツ)対フランス戦争が起こり、フランスが負けて
しまったのです。当時、桂太郎はフランス留学中であったのです
が、プロシアの強さを目の当たりに見て仰天します。そして、こ
のことが日本の軍隊作りに大きな影響を与えることになります。
 当時プロシアは無名の小国だったのですが、鉄血宰相といわれ
るビスマルクと参謀総長のモルトケが作り上げた軍隊が、ナポレ
オン3世が率いるフランス軍を縦横に蹴散らしたのです。
 当時、事実上の日本の宰相であった大久保利通はこのビスマル
クに会い、その感化を受けて、軍隊をフランス式からプロシア式
に切り換えたのです。プロシアの軍隊は、その組織作りが優れて
いたからです。実は参謀本部という組織もこのプロシアから真似
をしたものなのです。
 プロシア軍の強さの秘密は参謀総長のモルトケにあります。こ
のモルトケという人物――アレキサンダー大王、フリードリッヒ
大王、ナポレオンと並び称される欧州きっての戦略家なのです。
 やっかいなことに、モルトケは2人いるのです。区別して、大
モルトケと小モルトケといわれますが、ここで述べているのは大
モルトケの方です。小モルトケは大モルトケの甥に当るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪大モルトケ≫
  ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
  ≪小モルトケ≫
  ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モルトケは、およそ軍人向きではないタイプの人であったとい
われています。文学に通じ、モーツァルトの音楽を葉巻をくゆら
せながら聴くのが趣味であるというどちらかというと学者といっ
たタイプの人です。
 近代戦を指揮する参謀というと一定のイメージがありますが、
モルトケはどちらかというと、中国古代の諸葛孔明、豊臣秀吉の
軍師である竹中半兵衛といったタイプといえます。
 モルトケは、上司に恵まれていたのです。プロシア参謀総長の
クラウセヴィッツから軍事戦略全般についていろいろ学んでいる
からです。このクラウセヴィッツは、ナポレオン戦争では実体験
を積み、参謀総長としての経験も豊富であり、著書に有名な『戦
争論』があります。このクラウセヴィッツの有名な教えに次のこ
とばがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「戦争は政治である」というのです。この考え方は今では当た
り前であるかも知れませんが、当時としては目から鱗が落ちるほ
ど画期的な発想だったのです。後で述べますが、とくに日本はこ
れが実践できなかったのです。
 モルトケはこういう優れた上司の下で戦略を研究したのです。
そして、当時のプロシアの生き残る道は「武装国家」しかないと
いう結論に達したのです。
 1858年にモルトケは参謀総長に就任し、その後に続く戦争
に次々と勝利していくことになります。1866年のオーストリ
アとの普墺戦争、1870年の普仏戦争がそれです。大久保利道
や若き桂太郎が注目したのは、普仏戦争におけるプロシアの鮮や
かな勝利です。
 モルトケの戦法を簡単にまとめると、次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.主戦場に可能な限り多数の軍を集中させるには、分散進撃
   方式がベストな方法である。
 2.大量の兵員を短期間に移動させるための鉄道や電信などの
   最先端技術を軍に導入する。
 3.各部隊の指揮能力の質的向上を図り、分散進撃のあと即包
   囲攻撃ができるようにする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、主戦場はどこかを見極めて、主力決戦の戦略構想を立て
るのです。そのうえで、主戦場に向けて長大な陣をはりめぐらせ
それにほとんどの兵を投入するのです。普墺戦争においてモルト
ケは、プロシア陸軍の7分の6をこれに投入しています。これが
分散前進です。
 そして、主戦場に向けて、敵と遭遇するまでしだいに環をせば
めていくのです。そして、主戦場に一気に突入して包囲殲滅する
という考え方です。
 日本は、日清戦争でも、日露戦争でも、このモルトケの戦法を
取り入れ、勝利しています。しかし、クラウセヴィッツの説く戦
略は取り入れていないのです。   ・・・[日露戦争/18]


≪画像および関連情報≫
 ・大モルトケについて
  1800〜1891 ドイツの軍人。メクレンブルクのパル
  ヒムの生まれ。デンマーク軍人であった父のあとを継いで、
  デンマーク陸軍に入ったが,のちプロイセン軍に奉職した。
  クラウセヴィッツの影響を受け、主として参謀勤務となり,
  1855年プロイセン(プロシア)参謀総長になった。18
  64年の対デンマーク戦争で名声を博し,1866年の普墺
  戦争7週間戦争で終了させた。ビスクルクとは衝突しながら
  協力し,陸相ローンとともに軍備の近代化と拡充につとめ,
  その成果を普仏戦争で発揮した。ドイツ帝国成立とともにド
  イツ軍参謀総長となり,1888年に辞任した。陸軍の近代
  的編成や補給を重視した用兵の基礎を築いた。
  ――http://www.tabiken.com/history/doc/S/S167L200.HTM

プロシアの参謀総長.jpg
プロシアの参謀総長
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2009年08月05日

●内戦型の軍隊を外征型に転換(EJ第1725号)

 モルトケについてもう少しお話ししたいと思います。モルトケ
の作戦というのはとにかく大作戦であって、その実行に当って味
方の意見が割れていては絶対に成功はおぼつかないのです。
 しかし、当時宰相のビスマルク、軍事大臣のローン――モルト
ケはこの2人とは何かと意見が合わなかったのです。そこでモル
トケが考え出したのが、帷幕上奏権の確立なのです。
 モルトケは、国王に意見具申を行い、国王の一声でモルトケ主
導の作戦に異論をはさませないようにしたのです。これが帷幕上
奏権の確立です。国王はモルトケを信頼しており、それを認めた
のです。これによって、モルトケは思うままに作戦を遂行できた
のです。これもプロシア軍の強さの秘密です。
 このモルトケとあまり仲がよくなかったビスマルクもクラウゼ
ヴィッツの教えを守る優れた政治家であったのです。彼は196
6年5月のオーストリアとの戦争において、モルトケ戦法で次々
とオーストリア軍を打ち破り、ウィーンに進撃したのですが、首
都ウィーンより60キロのニコルスブルグで兵を止め、オースト
リアに、無割譲、無賠償、即時講和を働きかけたのです。
 ビスマルクにはドイツ統一という政治目標があり、それに伴う
フランスとの一戦を考慮したうえでの提案であったのです。ビス
マルクとしては、あくまで政治の目的を果たすための戦争であり
その政治目的達成のための提案だったのですが、国王をはじめ、
全プロシア軍の将兵はビスマルクを批判したのです。彼らには、
あくまで戦争続行、完全勝利しかなかったからです。
 ビスマルクはこのために一時は自殺を考えるまで思い詰めるの
ですが、最終的に所期の目標を遂げたのです。そういう意味にお
いて、プロシアには宰相のビスマルクと稀代の戦略家モルトケが
いたからこそ、プロシア軍は圧倒的に強かったといえます。
 このモルトケの戦法――分散前進・包囲集中攻撃に惚れ込んだ
のは山縣有朋です。彼は当時の桂太郎からモルトケ戦法を聞いて
これを採用することに決め、川上操六に対清戦争の準備を進めさ
せたのです。山縣はそれまで内戦用の軍編成・用兵をモルトケ戦
法を取り入れて、外征用の軍編成・運用に切り換えようとしたの
です。
 日本の軍備を内戦用の軍編成から外征型に切り換える――これ
に反対した人は多かったのです。たとえロシアが南下してきても
水際で迎え撃てばよいと考える人はたくさんいたのです。
 しかし、既に述べたように山縣は国境としての主権線を守るだ
けでは不十分であり、主権線の安否に影響する利益線を確保する
必要があるという考え方を持っていたのです。そして、日本の利
益線としては朝鮮半島がそれに当るとしていたのです。結果とし
てこの考え方が日本の大陸進出につながったのです。
 国防に関するこれら二つの論議は、現在の憲法下における防衛
論議と似たところがあります。軍備はあくまで日本を攻めてきた
とき、水際で食い止めればよいとして、航続距離の長い戦闘機な
どは認められていないのです。
 また、敵陣に反撃を加える火力にしてもあくまで水際まで攻め
てきたときのことを想定して、ミサイルなどは認められていない
――しかも、あくまで相手が攻撃をしてくるまでは、こちらから
攻撃はできない――そういう装備しか、日本の自衛隊は持ってい
ないのです。ミサイル時代の現代戦では、そういう発想がいかに
ナンセンスであるか明らかです。
 本当に国土防衛に徹するなら、ミサイルはもちろんのこと、敵
陣に反撃を加えるに足る能力を持つ航空機や艦艇、場合によって
は、航空母艦も必要です。しかし、日本からは絶対に他国を侵略
しないようにすればよいのです。他国だって、下手に攻撃を加え
ると、厳しい反撃がくることがわかっていれば、それが抑止力に
なって攻撃を仕掛けることはしないはずです。
 さて、外征型への改革を急いでいた山縣有朋以下の軍部主流派
は、プロシア陸軍に即効性のある戦術の伝授を求めたのです。明
治16(1883)年に陸軍のスタッフが渡欧したとき、ドイツ
の陸軍大臣シュレンドルフ中将に対して、陸軍大学校教官の派遣
を要請したのです。
 シュレンドルフはモルトケに対して日本の要請を伝え、フォン
・デル・ゴルツ参謀大尉ではどうかと伺いを立てたのです。この
ときモルトケは、熟慮のすえシュレンドルフが推薦するゴルツで
はなく、ヤコブ・メッケルを選んでいます。
 モルトケは、日本が即効性のある戦術の伝授を望んでいること
をよく知っていて、メッケルを選んだのです。メッケルは戦略よ
りも戦術に優れたものを持っていたからです。しかし、後にゴル
ツこそモルトケの正当な後継者とみなされるようになるのです。
 明治18(1885)年、メッケルは日本の陸軍大学校に教官
として着任します。メッケルは、最初の授業で、次のようにいっ
たといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私にプロシア陸軍の1個連隊があれば、全日本陸軍を殲滅して
 みせるであろう。              ――メッケル
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このとき、学生としてメッケルの話を聞いた学生は、ついこの
間まで尊王攘夷をやっていた国の士族の子弟10人であり、後に
日本陸軍を代表する俊秀が揃っていたのです。彼らは主としてフ
ランス式の軍事教練に通じていたのです。
 彼らはメッケルの話を聞くや、ふざけるな、そんな馬鹿にこと
があるかと血相を変えたといいます。
 メッケルは少しも騒がず、「それでは、諸君の使っている『操
典』――軍隊運動の基礎教練を基に検討してみよう」と話し、講
義をはじめたのです。
 メッケルが話しはじめて約1時間ほど経つと、学生たちの顔面
は蒼白となり、真剣にメッケルの話に耳を傾けるようになったと
いうのです。           ・・・[日露戦争/19]


≪画像および関連情報≫
 ・ヤコブ・メッケルと陸軍大学校
  次のサイトに詳細な「陸軍大学校の沿革」がある。参照され
  たい。メッケル少佐のことも出てくる。

  http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/kangun/school/rikudai.html

 ・川上操六――近代日本人の肖像より
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/61.html?c=0

川上操六.jpg
川上操六
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2009年08月06日

●戦略を忘れた参謀本部の暴走(EJ第1726号)

 メッケルが陸軍大学校にやってくるまでは、フランス陸軍の戦
略の専門家、ベルトー大尉が『戦略原理』というテキストにした
がって、戦略論を教えていたのです。
 しかし、メッケルが教えたのは主として戦術論であり、話が具
体的で面白いので、誰も戦略の重要性にはあまり重きを置かなく
なってしまったのです。そして、任期切れのベルトー大尉を二度
と招かなかったのです。
 しかし、これは大きな間違いであったといえます。確かに対清
国、対ロシアとの戦争が迫っていたという事情があり、具体的な
戦術論が役立つという背景はあったといえます。
 とはいえ、つねに情報を収集して時流の分析を行い、国家とし
ての的確な判断を行うため、戦史の研究などをもっと力を入れて
やるべきであったのです。
 もちろんメッケルは戦略の重要性についても力説したのですが
具体的な図上演習、参謀旅行など、実地に即した戦術論の面白さ
に学生たちは目を奪われてしまったのです。これが、日露戦争以
降の日本の重要な判断ミスにつながっていくのです。
 戦略的に判断していれば、アジア諸国および太平洋上の島々に
おいて、2000万人を超える人々の命を奪い、日本人にも31
0万人という犠牲を出して惨めな敗戦を迎えることはなかったは
ずです。国家としての戦略が完全に欠落していたのです。
 もともと参謀が重要視されたのは、ナポレオン率いるフランス
軍がプロシア軍に敗れたからです。ナポレオンという軍事戦術の
天才ですらも、大規模な組織を動かすには能力の限界があったこ
とを示しているのです。
 近代戦においては指揮官の能力は、個人の把握できる限界を超
えており、そのために参謀本部が必要になったのです。しかし、
その参謀本部が天皇に直属するというプロシア式統帥権を採用し
ていたために、参謀本部がそれを利用して日清戦争に突き進むこ
とを許したのです。
 日清戦争において、戦略なき参謀本部の暴走があったことは事
実なのです。その中心人物は、当時参謀本部次長に過ぎなかった
川上操六その人なのです。
 今回のテーマの第2回目に、徳富蘇峰の次の一文を紹介してい
ますが、再現しておきましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争は老人が始めたのではない。若者が始めたのだ。内地
 では、川上、北京では小村、それに巧く活機を捉えた所の陸奥
 などが、巧みに伊藤、山縣等の大頭を操って行ったらしいと思
 う。                ――『蘇峰自伝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この中の川上、小村、陸奥の3人のうち重要な役割を演じたの
は、川上操六なのです。川上は何とか清国と戦争する口実が欲し
かったのです。そこで、彼は朝鮮(李王朝)内部の内乱鎮圧を利
用しようと考えたのです。
 閣議で清国と共同で朝鮮から出兵要請を受けることを決めたと
き、川上は1個旅団を送ることを政府に報告しています。伊藤は
「もっと削れ」と命令したのですが、川上はこれを拒否していま
す。参謀本部の次長に過ぎない川上が首相の命令を拒否したので
す。川上は「兵数はじめ、出兵に関するすべては内閣の権限外で
ある」として、1個旅団を送ることを決めています。
 しかも、伊藤総理は1個旅団は2000人であると勘違いして
いたのですが、2000人は平時の人数であって、戦時には80
00人ほどにふくれあがるのです。にもかかわらず、川上はそれ
を総理に報告していないのです。
 伊藤首相としては、朝鮮半島における日清両国の勢力のバラン
スをうまくとって、平和裡にことを収めようとしていたのですが
川上はいうことをきかなかったのです。
 陸軍大将の大山巌も膨大な数の朝鮮出兵に不安を感じていたの
です。アジアにおいて列強の侵略を阻んでいる勢力は日本と清国
であり、この両国が戦争をすれば喜ぶのは欧州の列強である――
戦争をしてはならない。勢力均衡の埒外に出るなと戒めたのです
が、参謀本部は聞く耳を持たなかったのです。
 川上をはじめとする開戦派のアタマにあるのは、戦争をすれば
勝てる――それだけしかなかったのです。その判断は戦術として
は間違っていませんでしたが、戦略的思考に欠けていたのです。
 そういう意味において、日清戦争は純軍事的に見れば、明らか
に侵略戦争そのものだったといえます。参謀本部の暴走を時の総
理が抑えきれなかったのです。明らかにモルトケの戦略・戦術を
はきちがえているのです。
 とにかく日清戦争にはいろいろと疑惑があるのです。奈良女子
大学名誉教授中塚明氏の著書に『歴史の偽造をただす』という大
変興味深い本があります。その本の「はしがき」に次の記述があ
ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いま「国民的作家」としてひときわその名が高い司馬遼太郎を
 はじめ、日清・日露戦争までの日本は指導者もしっかりしてい
 て国を誤らなかったのに、満州事変以降、太平洋戦争の時期に
 は、指導者の能力は極端に落ちて、無能な指導者によって敗戦
 の憂き目を見たのだと、考えている人が大勢いる。太平洋戦争
 における破たんは「明治の遺産」ではなく、「良き時代であっ
 た明治」への「背信」の結果であると考えているのである。
    ――中塚明著、『歴史の偽造をただす』より。高文研刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは違うと思います。明治の日本には数多くの問題があって
この遺産が大正、昭和に受け継がれていることを中塚氏は述べて
いるのです。具体的には日本軍の「朝鮮王宮占領」です。これは
明らかに当時の参謀本部の暴走なのです。
 これは、非常に面白いテーマですので、現在のテーマとは別の
EJのテーマとして取り上げます。 ・・・[日露戦争/20]


≪画像および関連情報≫
 ・中塚明氏の前掲書より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  朝鮮王宮占拠の事実が、参謀本部の手によっていったんは詳
  細に書かれながら、その同じ参謀本部によって、ウソの「作
  り話」に書き変えられたのである。日本陸軍の参謀本部とい
  う公権力によって「歴史の偽造」が行われていたことが、ほ
  かならぬ参謀本部の記録で立証されたのである。
    ――中塚明著、『歴史の偽造をただす』より。高文研刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

中塚明氏の本.jpg
中塚明氏の本
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2009年08月07日

●セキュリティジレンマの日本とロシア(EJ第1727号)

 1903年12月16日――日本では元老会議が開催され、ロ
シア案が検討されています。しかし、この時点で日本政府は、ロ
シアと話し合いで解決する可能性が薄いとして、陸海軍に対して
いつ開戦になっても出兵に差し支えないよう準備せよとの指示を
出していたのです。
 日本政府としては、満州についてはロシアの支配はやむなしと
考えて、朝鮮半島に絞って交渉することにしたのです。ロシアは
朝鮮半島については次の3つを主張してきています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.韓国における日本の優越な権益は認めること
  2.韓国の領土は軍略上の目的に使うことは不可
  3.韓国内の指定場所に中立地帯を設置すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本としては、上記第2項は承服し難いとし、中立地帯につい
ては、韓国と満州の両側50キロメートルに設ける日本案をロシ
アは拒否したので、2項と3項をすべて削除せよという強硬案を
ロシアに返すことにしたのです。
 そのロシアでは、戻ってきた日本案を検討するため12月29
日に御前会議を開いています。このとき、なぜか、アレクセーエ
フ極東総督は欠席し、代理としてアバザ海軍少将が出席している
のです。
 この会議でクロパトキンは、日本の希望を入れて、満州を協定
の中に含めるよう主張しています。これに対してアバザ海軍少将
は、ロシアは満州に多大なる人的、物的犠牲を払ってきており、
この問題で他国を介入させることはできないと反論したのです。
これは、アレクセーエフの主張を代弁したものです。
 しかし、このときの会議では、アバザの意見は採用されず、ク
ロパトキンの意見を一部取り入れた次のような趣旨のロシア案と
してまとめられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州およびその沿岸には、ロシアは多大の投資をしてきて
   おり、日本の利益範囲外であることを日本は認める
 2.しかし、満州の区域内において、清国との条約の下に獲得
   した他国の権利や特権についてロシアは干渉しない
 3.ただし、韓国問題に関して日本は、ロシアのかねてからの
   要求――中立地帯、領土利用条件を承認し従うこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このロシア案は、1904年1月6日に小村外相に手渡された
のです。ほんの少しの譲歩ではありますが、ロシアは満州につい
て譲ってきたのです。しかし、日本が強く求める朝鮮半島につい
てロシアは、頑なにこれまでの主張にこだわったのです。
 ロシアとしては、日本だけではなく満州における他国の権益を
認めることによって、日本以外の国がこれに賛同することを期待
して、日本に圧力をかけたわけです。
 しかし、日本としては、朝鮮半島についての日本の主張が通ら
ないのでは交渉を続けても意味がないとし、開戦やむなしと決断
します。しかし、海軍については、運送船の準備が佐世保に集中
するのが20日頃になるという事情から、それまでは交渉を継続
して時間稼ぎをすることにしたのです。
 そこで、1月16日に従来の日本側の主張である朝鮮半島の権
利を要求するとともに、ロシア側のいう領土の利用条件と中立地
帯の規定についての撤廃を求め、さらに満州については、「満州
の領土保全を尊重する」という文言を協定に盛り込むよう要求し
素早い回答を求めたのです。
 これに対するロシア側の回答がきたのは、1904年2月7日
だったのです。しかし、日本は、2月5日にロシアとの国交断絶
をロシア側に通告しています。この公文は6日午後にロシア外相
に送付されたのです。日露戦争の開始です。
 本来ならば、日本にとって絶対に勝ち目のない戦争だったので
す。当のロシアはもちろんのこと、他の国においても日本が勝つ
とは考えていなかったはずです。
 しかし、当時のロシアはアフガンや黒海方面で英国と対峙して
おり、極東に膨大な軍事力を割けない事情があったのです。日本
における対ロシア開戦派は、この点を見抜いており、戦争を仕掛
けるなら、今しかないと判断していたのです。
 そういう意味で、ロシアの対日外交は稚拙すぎたといえます。
朝鮮半島問題で多少でも日本に譲っていたら、日本は戦争をする
ことはなかったといえます。『日露戦争史/20世紀最初の大国
間戦争』(中公新書1792)の著者、横手慎二氏によると、国
際政治学には「セキュリティジレンマ」ということばがあるそう
です。対立する2国間において、一方が自国の安全を拡大させよ
うとすると、他方はそれに対して不安を増大させ、それに備える
行動をとるようになる――これが繰り返されると、悪循環に陥り
最後は戦争になってしまうのです。こういう状況を「セキュリテ
ィジレンマ」というのです。
 当時の日本とロシアの間はこのセキュリティジレンマに陥って
しまったのです。ロシア軍が大挙して満州に兵を出してきて、居
座ったとき、これに対して日本は朝鮮半島にロシア軍が入ってく
ることを恐れ、朝鮮半島に理由を作って出兵し、ロシアに備えよ
うとする。これがロシアを不安にさせるというジレンマです。
 ロシアのニコライ二世には、満州と朝鮮半島を一体化し、当時
英国が支配していたインドのようにするというようなビジョンを
持っていなかったのです。単にウィッテを中心とした官僚の勢力
が台頭することが専制君主制の下では好ましくないと考えたに過
ぎないのです。
 それが日本を追い詰め、戦争に走らせるという全体の構図が読
めなかったのです。まさにセキュリティジレンマが「窮鼠猫を噛
む」結果になることを予測できなかったといえます。ロシアも戦
争など望んではいなかったのです。日本もそうですが、財政的に
も戦争は困難だったのです。    ・・・[日露戦争/21]


≪画像および関連情報≫
 ・ニコライ二世に関する情報

  http://ww1.m78.com/hito/nicholas%202.html

将官を激励する皇帝.jpg
将官を激励する皇帝
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2009年08月10日

●戦争回避に動いたニコライ二世(EJ第1728号)

 EJ第1727号で、日本に対するロシア側の回答が届いたの
は2月7日のことである――このように述べています。しかし、
その回答がどのような内容であったかについては今まで公表され
てこなかったのです。
 なぜなら、日本政府は2月5日にロシアに国交断絶を伝え、ロ
シアには6日に正式に届いています。そのうえで日本は直ちに戦
争状態に入ったので、ロシアからの回答の内容など、もはやどう
でもよかったからです。
 しかし、最近になっていろいろな史料からそのときのロシア側
の回答の内容が明らかになったのです。その内容は次のような意
外なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本が朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ、朝鮮半島に
 おける日本の勢力圏を認める。中立地帯に関する条件について
 は撤廃する。      ――2月7日のロシア側回答の要旨
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その前のロシア側からの回答と比べると、驚くべき変化です。
確かに「朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ」という条件
は入っていますが、朝鮮半島を事実上、日本が支配することを認
めるという内容です。
 新しい史料によると、ニコライ二世は1月27日にアレクセー
エフ極東総督に対して「朝鮮半島全域を日本の支配にまかせよ」
という電報を打っているのです。しかも、29日には「予のメッ
セージを即刻日本政府に通告せよ」という内容の電訓を重ねてア
レクセーエフ総督に送っているのです。
 しかし、アレクセーエフ総督はニコライ二世の指示をわざと自
分の手元に据え置き、皇帝のメッセージがロシア側回答として駐
日公使のローゼンに届いたのは、日本の国交断絶宣言の翌日の7
日になってしまったのです。時既に遅しです。
 それにしてもニコライ二世はなぜ心変わりしたのでしょうか。
 実はニコライ二世としては、本気で日本と戦争する意思などな
かったのです。また、満州におけるロシアの権益については鉄道
建設ということもあってわかっていたものの、朝鮮半島のロシア
における重要性などはよくわかっていなかったのです。
 したがって、皇帝としては、日本の朝鮮半島の権益とロシアの
満州におけるそれを交換してもよいとかなり前から考えていたの
です。しかし、小国日本が生意気にも強気の要求を突きつけてき
たので皇帝はアタマにきて、それがロシア側の強硬回答となって
日本に突き返えされたのです。
 それに加えて、ニコライ二世はウイッテやクロパトキンが苦手
であり、ベゾブラゾフにそそのかされたということもあり、アレ
クセーエフを極東総督に選んでしまったのです。アレクセーエフ
は十分な情報もないまま、日本をなめ切っており、日本が大国ロ
シアに戦争を仕掛けてくることなど、100に1つもないと考え
ていたのです。
 しかし、ニコライ二世は少しずつ不安になっていたのです。そ
れはなかなか日本が折れてこないからです。それに1904年が
明けると、満州各地から日本人が続々と引き上げはじめていると
いう情報も耳にしており、もしかすると、本当に日本は戦争を仕
掛けてくるかもしれない――つまり、皇帝も疑心暗鬼に陥ってい
たのです。皇帝というのは、現体制に対して保守的であり、軍人
と違って戦争は可能な限り、避けようとするものなのです。
 しかし、ウィッテやクロパトキンを冷遇し、アレクセーエフを
極東総督に選んだのは、皇帝としては失敗だったのです。なぜな
ら、アレクセーエフによる皇帝のメッセージを日本に伝える遅れ
――故意であるとも考えられる――によって日本が開戦に踏み切
る結果を招いたことと、日露戦争に突入した後からもアレクセー
エフとクロパトキンの対立は解けず、作戦の乱れから、そこを日
本軍に攻め込まれるという二重の失敗を重ねたからです。
 こんな話があります。1904年2月6日、日本から日露外交
関係の断絶が告げられると、ロシア政府は直ちにそれを旅順にい
たアレクセーエフ極東総督に伝えています。当然のことです。
 しかし、アレクセーエフはごく内輪の者にしかこのことを知ら
せていないのです。彼は、2月9日に要塞司令官などの幹部を集
めた会議を予定しており、そのときに日本との外交関係の断絶を
伝えようとしたものと思われます。しかし、9日を待つまでもな
く、旅順のロシア艦隊は攻撃を受けているのです。これをみても
アレクセーエフがいかに日本を低く見ていたかがわかります。
 アレクセーエフがどのような人物であり、とくにウィッテがど
のようにアレクセーエフを見ていたかを示す興味深い逸話が司馬
良太郎の『坂の上の雲』にあります。
 将軍クロパトキンは、野戦軍の司令官として戦地に赴くときに
挨拶のためウィッテの邸を訪れています。そのとき、ウイッテに
自分の戦略・戦術について話したところ、ウィッテは全面的にク
ロパトキンの戦略・戦術を支持してくれたというのです。
 クロパトキンは邸を去るに当って「何か工夫があればこのさい
漏らして欲しい」と頼んだところ、「ひとつある」といって次の
ようなことをウィッテは話したというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アレクセーエフは、いま奉天にいる。君はむろん着任の挨拶を
 すべく奉天に直行するだろう。そこでもし僕が君の立場なら、
 部下の士官数人をアレクセーエフのもとに派遣し、有無をいわ
 さず逮捕する。その捕縛したアレクセーエフに厳重な監視をつ
 け、君が乗ってきた列車にほうりこみ、そのまま本国にかえし
 てしまうのだ。同時に陛下に電報する。――このように。
    ――司馬良太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウィッテはアレクセーエフがロシアのがんであることを見抜い
ていたのです。実際は逮捕などできなかったのですが、ウイッテ
の予想通り、ロシアは敗れたのです。・・・[日露戦争/22]


≪画像および関連情報≫
 ・ウイッテがクロパトキンに対して陛下に打てといった電報の
  中身は次のようなものである。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  陛下が私に命じられた重大任務を完全に遂行するために、私
  は当地に到着してただちに総督を捕縛しました。なぜならば
  この処置なくして戦勝はおもいもよらないからであります。
  陛下がもし私の専断を罰せられるならば、私を銃殺する命を
  下されよ。しからずんば、国家のためにしばらく私を許され
  んことを請う。
    ――司馬良太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

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皇帝/ニコライ二世
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2009年08月11日

●金子と末松/戦時広報を担った2人(EJ第1729号)

 1904(明治37)年2月4日の午後6時頃のことです。時
の貴族院議員をしていた金子堅太郎男爵の家に、1本の電話がか
かってきたのです。電話は枢密院議長の伊藤博文からであり、今
から家に来て欲しいというものだったのです。
 30分後に伊藤邸に着いた金子は書斎に通されたのです。しば
らくして伊藤は用件を次のように切り出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 突然であるが、これからアメリカに行ってある使命を果たして
 もらいたい。                ――伊藤博文
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚く金子に伊藤は、「米国に行ってルーズベルト大統領をはじ
めとする米国の要人に会って、米国国民に対して日本への理解を
深めるもらうよう工作し、適当な時期に米国に日露両国の講和の
調停役を務めてもらうよう働きかけて欲しい」といったのです。
 金子堅太郎は福岡藩士の家に生まれ、1871(明治4)年の
岩倉具視使節団と一緒に渡米して以来、全部で4回の渡米歴があ
り、ルーズベルト大統領とも面識がある米国通として知られてい
るのです。大臣の経験もあり、伊藤の懐刀ともいわれています。
 しかし、最初金子はこの伊藤の依頼を断っています。「それは
不可能である」というのです。金子が指摘した理由には、次の4
つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアは大事なときに米国を援助し米国は感謝している
 2.ロシア大使カシニー伯爵は実力者、政財界に通じている
 3.米国の大企業はロシア政府と親密、ロシアは有力な市場
 4.米国の富豪はロシアの名門貴族と姻戚関係多く親ロシア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、伊藤は熱心に金子をくどいたのです。その場での即答
を避けた金子は2日間熟慮して伊藤の要請を引き受けます。しか
し、官職は持たず独力でやるという条件付きです。そして、19
04年2月24日、金子は随行員2人を連れて、横浜港を出発し
3月11日にサンフランシスコに到着しています。
 金子堅太郎と同じ役割を担って欧州に派遣された男がもう一人
います。末松謙澄その人です。末松謙澄といえば、「源義経」の
テーマのときご紹介しています。2005年7月26日(火)付
EJ第1641号がそうです。
 末松謙澄は、旧豊前国前田村――福岡県行橋市の出身であり、
19歳のときに『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』)の記者
になり、その縁で伊藤博文と知り合うのです。8年間の英国留学
の後、伊藤博文の次女と結婚。35歳で第1回衆議院議員選挙に
初当選し、法制局長官、逓信相、内務相を歴任。また、『源氏物
語』の英訳を行い、日本最初の文学博士にもなるきわめて有能な
文化教養人です。
 日露開戦の一ヶ月前のこと、末松は伊藤博文と山縣有朋に手紙
を書いて、日露戦争になったら、関係国への戦時広報をやらせて
欲しいと申し出ているのです。末松の申し出の意義を悟った伊藤
と山縣は、これを政府に働きかけ、政府はこれを受けて1904
年2月10日に末松を英国に派遣したのです。
 金子のケースからご紹介しましょう。米国は金子の一行がサン
フランシスコに到着する3月11日の1日前に、ルーズベルト大
統領が、局外中立宣言をしているのです。これは日本にとっては
マイナス材料です。
 それに、金子としては当初シカゴを工作拠点として考えていた
のですが、既にロシアの工作が相当進んでいたので、急遽ニュー
ヨークを工作拠点にすることに決めたのです。それほど、ロシア
の対米工作は進んでいたのです。
 ロシアは米国の新聞社を買収してロシアに都合が良いことを中
心に報道すると共に、あわせて新聞記者の接待に大金を投じてお
り、米国の世論はロシアに傾きつつあったのです。
 ロシアの米国のメディア工作のポイントは、次の2つがあった
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本は宣戦布告をしないで国交断絶だけで戦争を開始した
   卑怯にして、野蛮な国であること。
 2.日露戦争は白人と黄人の戦争であり、あわせてキリスト教
   対非キリスト教の宗教戦争である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 宣戦布告をする前に国交断絶だけで戦争に入る――これはモル
トケの考え方なのです。敵の態勢の整わないうちに相手に一大痛
撃を与え、その後はそのダメージを回復させないうちに先手先手
を打って敵を弱めながら、包囲して殲滅する――これがモルトケ
の戦法なのです。これは、国際法上も違反ではないのです。
 まして、日本は国交断絶の通告に加えて、次の文言を付けてい
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本はこれをもって最良と思惟する独立の行動を取ることの
 権利を保留する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は米国の知人を通じて、あるいはマスメディアを徹底的に
利用して、チャンスあるごとに日本の正しさを語る作戦を地道に
続けたのです。
 金子の主張は一部では同情を買ったが、他方、多くの脅迫状や
投書が舞い込んだので、ニューヨーク市警は護衛を付けることを
提案したのです。しかし、金子はこれを丁重に断っています。そ
して、金子はこういったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が暗殺されれば、一億数千万のアメリカ人の、半分くらいは
 私へ、日本へ同情を寄せてくれるだろう。ならば、自分は喜ん
 で死のう。                ――金子堅太郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−・・・[日露戦争/23]


≪画像および関連情報≫
 ・金子堅太郎について
  福岡生まれ。官僚、政治家。父は福岡藩士。藩校修猷館で学
  ぶ。明治4年(1871)藩主黒田長知に随行し渡米。ハーバ
  ード大学で法律学を修める。13年(1880)元老院に出仕
  する。権大書記官、首相秘書官等をつとめる。明治憲法の草
  案起草に参画し、諸法典の整備にも尽力。23年(1890)
  貴族院書記官長、貴族院勅選議員。第3次伊藤内閣農商務相
  第4次伊藤内閣司法相を歴任。日露開戦時米国に派遣され、
  外交工作にあたる。39年(1906)枢密顧問官。晩年は臨
  時帝室編修局総裁、維新史料編纂会総裁として史料編纂にあ
  たったのである。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/57.html?c=0

金子堅太郎男爵.jpg
金子堅太郎男爵
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2009年08月12日

●米国における金子の働きと大統領の協力(EJ第1730号)

 金子堅太郎とセオドア・ルーズベルトは、ハーバード大学の同
窓生なのです。それもかなり親しかったといいます。しかし、ル
ーズベルトは、金子が米国に着く前に局外中立宣言を布告してい
るのです。局外中立とは次のような趣旨です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアも日本も米国にとっては友好国である。ゆえに、どちら
 の味方もしない。いずれか一方に加担するような言論はこれを
 禁止する。          ――セオドア・ルーズベルト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は内心大統領のこの措置に少し怒っていました。大統領は
大変な日本ファンであったからです。3月26日に金子はワシン
トンに入り、ルーズベルトに会いにホワイトハウスを訪ねたので
す。大統領は金子が来たと聞くと、執務室から駈け足でホールま
で出てきて金子と握手したのです。
 挨拶が終わると金子は早速「局外中立はけしからん」と大統領
に抗議したといいます。これに対してルーズベルトは次のように
答えたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まあ、聞いてくれ。日露戦争が始まってすぐ、アメリカの若い
 軍人が『自分たちはアメリカ軍を予備役になって、日本軍に身
 を投じたい』と騒ぎだした。これはまずいのでああした布告を
 出した。しかし、金子、安心しろ。私が命じて調べさせたとこ
 ろによると、ロシアの軍備、日本の軍備、その実情を精査した
 ら、日本は勝つと出た。
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子の相手はロシアの駐米大使のカシニーです。しかし、この
ロシア人は、「リトル・イエロー・モンキーはわれわれ白人の共
通の敵である」というようなきたない表現で日本の悪口をいい、
それがよく新聞に掲載されていたのです。
 当時のことです。根強い人種差別のあった米国ではそれが受け
入れられたりしたのです。一部の上流階級にはそういう風潮が存
在したのです。それを金子はひとつひとつ上品に反論し、多くの
米国人の共感を呼んだのです。
 米国には「アンダー・ドッグの味方をする」という風潮があり
大国のロシアに小国の日本が戦っているということで日本を応援
する米国人は多かったといいます。
 そんなとき、旅順にいたロシア太平洋艦隊司令長官・マカロフ
中将が、日本軍の敷設した機雷によって戦死したのです。これに
対して金子は次の談話を出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マカロフ大将(戦死後昇進)は、世界有数の戦術家である。わ
 が国は今ロシアと戦っている。しかし、一個人としては誠にそ
 の戦死を悲しむ。私はここに哀悼の意を表し、もって大将の霊
 を慰める。                ――金子堅太郎
                 ――瀧澤中氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この談話は多くの米国の新聞に載ったのです。敵将に対して畏
敬の念を忘れないとは立派なことである――として金子の評判は
一気に上がり、米国各地から講演依頼が殺到したといいます。こ
のようにして米国における金子の評判、すなわち日本の評価はど
んどん上がっていったのです。
 局外中立宣言をしたルーズベルト大統領も、日本側から頼まれ
たわけでもないのに、日本に対して側面から支援をしてくれたの
です。これは大統領でないとできない支援です。
 ルーズベルト大統領は、英国とフランスの外務大臣に対して、
次の書状を送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪対英国外務大臣≫
 イギリスは日本の同盟国でありながら、日本の敵であるロジェ
 ストヴェンスキーの艦隊(バルチック艦隊)に、イギリスの商
 人がイギリスのカーディフの石炭を売り込むことを黙認してい
 るではないか。なんたることか。それでも日本の同盟国か。
 ≪対仏国外務大臣≫
 日本の敵であるロシアの艦隊をフランス政府のドックに入れて
 修繕をし、食料品その他を供給するとは、日本に対してあまり
 に不公平な仕業ではないか。
                 ――瀧澤中氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうして、ルーズベルト大統領をはじめとして、米国民は日本
を応援してくれたのでしょうか。
 これは一にも二にも金子堅太郎の米国における人脈と活躍によ
るものです。伊藤博文の狙いは当ったのです。同時に、次の3つ
の背景があったことも事実なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.米国としてロシアの行為に不快感を持っていたこと
  2.日本軍の行動が武士道の精神にのっとっていること
  3.大国ロシアに連戦連勝を続ける日本に感心したこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国はロシアの満州における行動について苦々しい思いをもっ
ていたのです。まして、三国干渉で日本から取り上げた遼東半島
を横取りするようなことはあってはならぬと考えていたのです。
 それに米国人は金子の言動を見て、新渡戸稲造の『武士道』と
はこういうものかと納得したということです。英文『武士道』は
ルーズベルト大統領の愛読書なのです。
 最後に、明治以後の日本のめざましい発展と日本軍の強さに感
嘆したことがあります。あんな小さな国なのに大国ロシアと戦い
連戦連勝している――ここでは国土が小さいことが日本に幸いし
ています。            ・・・[日露戦争/24]


≪画像および関連情報≫
 ・セオドア・ルーズベルト
  セオドア・ルーズベルト(1858――1919)は、米国
  合衆国の第25代副大統領および第26代大統領。フランク
  リン・デラノ・ルーズベルトは彼のいとこに当たる。愛称は
  テディ(Teedie)、成人したからはTeddy → テディベア
                    ――ウィキペディア

セオドア・ルーズベルト.jpg
セオドア・ルーズベルト
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2009年08月13日

●金子成功/末松不成功という司馬評(EJ第1731号)

 昨日のEJで金子堅太郎とルーズベルトはハーバート大学の同
窓生であると書きましたが、加来耕三氏は自著で別の説を唱えて
おられるので紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  よく二人(金子とルーズベルト)はハーバード大学の同窓生
 だと述べたものをみかけるが、それは正しくない。
  金子とルーズベルトは、確かに明治9年(1876)にハー
 バートに入学している。が、金子がロー・スクール(2年制)
 であったのに対して、大統領はカレッジ(4年制の教育学部)
 に入学したのであって、卒業年次が異なる。また、二人は学生
 時代、出会っていない。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 加来氏によると、金子が大統領に会ったのは、ルーズベルトの
親友のビゲローという日本美術愛好家が来日したおり、金子と会
い、ルーズベルトに紹介状を書いてくれたことによるそうです。
2人がはじめて会ったのは、明治23(1890)年4月のこと
であり、以来交際が続いていたのです。
 それから金子は、広報外交のため米国に行き、大統領に会った
さい、新渡戸稲造の英文著書『武士道』と英国人イーストレイキ
の著作である『ヒロイック・ジャパン』を贈呈したという説もあ
るのです。しかし、新渡戸稲造の『武士道』は当時米国ではかな
り有名になっており、ルーズベルト大統領は金子から贈呈を受け
る前からこの本は持っていたはずです。
 さて、金子堅太郎と並んでヨーロッパの広報外交を担当した末
松謙澄の活躍についてお話ししましょう。
 末松に期待されたのは、ロシアに隣接する欧州の主要各国の世
論を「黄渦論」から隔離させることだったのです。ロシアとして
は、現実に黄渦によって戦争を強いられていると被害者的立場を
PRし、日本はその勢いを駈って仏領インドシナの占領を狙って
いるという根も葉もないことを吹きまくっていたからです。末松
の戦略は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.できるだけ講演をする機会を持つよう努力
   2.論文を書いて英仏両国の雑誌に掲載させる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松はもともと新聞記者であり、講演をしたり、論文を寄稿す
るのはお手のものであったのです。それに末松は『源氏物語』の
最初の英訳者として欧州では名前を知られており、当時の著名な
英国外交官の記録には「末松は欧州中で有名だった」と記されて
いるのです。
 末松がヨーロッパにいたのは2年ほどでしたが、その間に4回
の大きな講演会に招かれ、執筆した論文のうち英仏両国で掲載さ
れたものだけで20本を超えているのです。いずれも大きな反響
を呼んでおり、広報外交は成功したと考えてよいといえます。
 末松が講演や論文で訴えた内容としては、次のような項目が上
げられるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.日露戦争の原因とロシアの野望
      2.ロシア兵捕虜の処遇と扱い方法
      3.ロシアのデマ報道に対する反論
      4.日本人の性格論とものの考え方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、日露戦争の原因は、あくまでロシアの極東進出の野望に
あると説き、日本は目下勝ち進んでいるが、ロシア兵の捕虜は国
際法にのっとり人道的な待遇をしていることを強調――さらにロ
シアが盛んに吹聴している仏領インドシナへの占領など日本は考
えていないし、デマであると斬り捨てています。
 その一方で日本人と欧米人は文化的に異なるが、日本人は伝統
に裏打ちされた道徳と知性を持っている民族であると説く日本人
性格論は、当時の欧州世論を主導する英仏の知識階級の要求に応
える時宣にかなったテーマだったのです。
 しかし、この末松謙澄のヨーロッパ工作――とくに英国工作は
失敗であったという人もいます。司馬遼太郎がそうです。彼は金
子については成功を収めたと書いていますが、末松についてはか
なり厳しいことを書いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  英国に行った末松謙澄の場合は、成功といえるような成果は
 えられなかったといっていい。
  末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」
 の著者として知られている。明治型のはばのひろい教養人で、
 文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
  かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海
 外に紹介したことで知られ、さらには新聞記者時代に多くの名
 文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその
 娘むこになり、つづいて衆議院に出、のちに逓信大臣や内務大
 臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっ
 ているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎ
 ることであった。
  さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英
 国の指導者や大衆にあたえた。末松は「昇る旭日」といったふ
 うの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が
 「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はそ
 の講演速記を本にして刊行した。(一部略)英国人はかれの無
 邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
   ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第7巻より。文春文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松謙澄、気の毒なくらいけちょんけちょんです。しかし、高
く評価している向きもあるのです。司馬遼太郎の人物描写には問
題があり、末松は犠牲者といえます。・・・[日露戦争/25]


≪画像および関連情報≫
 ・司馬遼太郎の末松酷評について
  日露戦争を通して「明治の栄光」を活写した小説「坂の上の
  雲」は、作品発表から30年以上たった今も評価は高いが、
  人物描写では、作者の司馬遼太郎の思いこみや過度の単純か
  による偏りも指摘されている。末松謙澄もその被害者といっ
  てよい。――源氏物語の最初の英訳者。モーツァルトを日本
  に紹介した「たぶん最初の評論家」。末松の業績は探求する
  ほど面白い。
   ―――読売新聞2004.6.28朝刊「肖像」より抜粋

末松謙澄.jpg
末松謙澄
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2009年08月14日

●資金不足の中での重点投資(EJ第1732号)

 ドワイト・D・アイゼンハワー――第2次世界大戦中にヨーロ
ッパ方面の連合軍総司令官で後に米国の大統領になった人ですが
彼がこんなことをいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力と武器弾薬が滞りなく戦場に送り込まれるならば、誰が指
 揮しても戦争は勝てる。 ――ドワイト・D・アイゼンハワー
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アイゼンハワーは経済(兵站)という立場から戦争を見ている
のですが、軍人としては優れた考え方であるといえます。だから
こそ大統領になれたのでしょう。
 日露戦争当時の日本は超貧乏国家であり、どのようにして日本
は戦費を調達したのでしょうか。この面から少し日露戦争を分析
していきたいと思います。
 最初に当時の日本がどのくらい貧乏であったかをアタマに入れ
ておく必要があると思います。
 日本海海戦で大活躍した日本の連合艦隊の旗艦である戦艦「三
笠」は英国から購入したものです。英国の西海岸にあるバーロー
という港にあるヴィッカース社で製造されたのです。
 当時日本は軍艦を作る能力はなく、すべて輸入によって艦艇を
手に入れていたのです。戦艦「三笠」の建造費は880万ポンド
だったのです。当時、1ポンドは9.7円――したがって、日本
円にして8500万円になりますが、当時の国家予算が3億円の
時代ですから、途方もない価格だったのです。
 ですから、そんなお金は日本にはなかったのです。このとき資
金の調達で大活躍したのは、海軍大臣の山本権兵衛です。山本は
内務大臣であった西郷従道に頼んで内務省からお金を回してもら
うなど、お金をかき集めて戦艦「三笠」だけでなく、巡洋艦「日
進」「春日」を購入しています。これは、アルゼンチンがイタリ
アに発注していたものを日本に回してもらったのです。ぼんやり
していると、ロシアに買われてしまっては大変――山本のアタマ
にはそれしかなかったのです。
 日露戦争で使ったお金と明治37年度の国家予算を次に示して
おきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   日露戦争費用総計 ・・・ 19億8000万円
   明治37国家予算 ・・・  2億5000万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 国家予算が3億円足らずのときに、どうやって19億円もの資
金を調達することができたのでしょうか。
 結論からいうと、19億円という戦費の多くが外国から借りる
かたちで調達されたのです。とかく日露戦争というと、乃木将軍
であるとか、東郷連合艦隊司令長官といった軍人が英雄として焦
点を浴びてしまいますが、戦費の調達という面はほとんど注目さ
れていないし、そのために活躍した人のことは知られていないと
思うのです。EJはそこに重点を置いて書いていきます。
 明治政府ができたとき、政府にはお金がぜんぜんなかったので
す。戊辰戦争――王政復古で成立した明治新政府が幕府の勢力を
一掃するための内戦――のとき、官軍の動きを分析すると、官軍
はときどき、その進軍スピードを落としているのがわかります。
これは、お金が足りなくなって動けなかったためです。
 記録によると、慶応3(1867)年12月から明治元(18
68)年12月までの間に、明治新政府は383万両のお金を調
達しています。どこから調達したのかというと、当時の金持ちた
ちから借りたのです。東京、京都、大阪、大津などの富豪から、
いろいろな名目で資金をかき集めたのです。
 そういう資金を調達しながら戦争をやっていたのですから、と
きどき資金不足になって進軍が止まってしまったのです。しかし
そのような金欠病であったにもかかわらず、明治新政府は徳川幕
府の頃から建設を進めていた横浜製鉄所に40万両もの大金をつ
ぎ込んで完成させているのです。横浜製鉄所は後の横須賀造船所
のことであり、日露戦争で重要な役割を担うのです。
 この造船所の計画責任者は小栗忠順という幕臣です。彼は当時
としてはきわめて先進的な考え方を持っており、造船所の必要性
を時の幕府に説いて建設を進めたのです。
 当時の海戦は、軍艦ですべてが決まるのです。お金が極度に不
足する中で、一方においては輸入で軍艦を導入し、他方船舶を補
修し、整備し、修繕するために造船所を建設する――こういう手
を打っていたために日露戦争後に船舶の国産化が進んだのです。
 日本海海戦の前、日本海軍は横須賀造船所で軍艦を整備して出
撃しています。そのとき、船底にこびりついた貝殻をきれいに落
としているのです。
 船底にこびりついた貝殻は船足を遅くするのだそうです。海戦
では艦隊が敏速に動く必要があり、スピードが出ないと命取りに
なってしまうのです。連合艦隊司令長官の東郷平八郎という人は
船舶の整備にも詳しい人で、自ら指示して、貝殻落としを徹底さ
せたそうです。
 日露戦争のあとで東郷は、小栗忠順の子孫を招いて次のように
感謝の言葉を述べて、「仁義礼智信」の五文字の書を贈ったとい
われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今度の海戦で勝てたのは、あなた方の父上が横須賀造船所を日
 本のために建設しておいてくれたおかげです。――東郷平八郎
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 逼迫した財政ではあるが、重要なものには思い切った大金を重
点投資する――現在の小泉政権もぜひ見習って欲しいものだと思
います。             ・・・[日露戦争/26]


≪画像および関連情報≫
 ・小栗忠順(おぐりただまさ)
  1827年(文政10年)、江戸駿河台邸に誕生。徳川家に
  仕え、旗本だった。8歳の頃から文武両道に興味を持ち、抜
  き出た才能を発揮していた。17歳で登城し将軍直属の親衛
  隊となる。アメリカへ修好通商条約交換のため、咸臨丸で他
  の遣米使とアメリカへ行った帰路、彼は日本人で初めての世
  界一周を果たす。帰国後、1860年から1868年(慶応
  四年)までの八年の間に外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行など
  を歴任。慶応元年(1865)にはフランスから240万ド
  ルを借款し、フランス公使ロッシュと組んで横須賀海軍工廠
  (製鉄所・造船所・修船所)の建設を開始する。翌年にはさ
  らに600万の借款契約を結ぶが、その後幕府は瓦解。戊辰
  戦争での混乱による暴徒が村へ押し寄せてきたのを追い返し
  たことが東山道総督府に抵抗の意志ありと誤解されたため、
  同年4月6日に烏川ほとりにて斬首。享年42歳。
  http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30061/oguri.htm

小栗忠順の胸像.jpg
小栗忠順の胸像
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2009年08月17日

●明治政府初期の財政・経済政策(EJ第1733号)

 「次の3人の人物に共通するものは何ですか」と聞かれたら、
あなたはどのように答えるでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.由利公正
          2.大隈重信
          3.松方正義
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いずれも明治政府の財政の担当大臣、かつては大蔵卿(大蔵大
臣)、現在なら財務大臣をやった人である――これが正解です。
 ここで明治のはじめから日清戦争までの明治政府の経済・財政
政策についてごく簡単に振り返っておくことにします。
 由利公正という人は越前藩の出身であり、越前藩の財政再建に
辣腕を振るって成功させています。その由利公正が初期の明治政
府で財政を担当したのです。由利の前の大蔵卿はあの大久保利通
だったのです。しかし、由利財政は破綻してしまいます。
 当時の紙幣には、次の2つの種類があったのです。由利公正は
不換紙幣を使って富国強兵を図る政策をとったのです。何しろ当
時の日本は金も銀も極度に不足している貧乏国だったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.兌換紙幣 ・・・ 金または銀との交換ができる
  2.不換紙幣 ・・・ 金・銀との裏づけがない紙幣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 できたばかりの政府で、金や銀との裏づけのない不換紙幣を普
及させようとしても誰も信用しないのは当たり前です。結局、由
利財政は破綻するのですが、後に良い教訓を残したのです。その
教訓とは次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.結局政府に信用がなければ不換紙幣は使えない
  2.まだ貨幣制度そのものが整っていなかったこと
  3.政府財政の基礎となる税金徴収が整っていない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 由利財政の後の大蔵卿は大隈重信です。明治6年のことです。
大隈重信といえば、早稲田大学の創始者としてあまりにも有名で
すが、由利公正に代わって明治政府の大蔵卿を務めたのです。と
ころで、当時の主要な役所と大臣は次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.大蔵省 ・・・ 大蔵卿
        2.内務省 ・・・ 内務卿
        3.工部省 ・・・ 工部卿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大蔵省は現在の財務省、内務省は殖産興業と地方行政、それに
警察組織を含む巨大な役所であり、工部省は鉱山・製鉄から電信
機械工場などを管轄する役所です。明治6年頃はこれら3つの役
所で政府の役人の53%を占めたというのです。
 大隈重信を大蔵卿に任命したのは大久保利通であり、大久保は
当時内務卿、伊藤博文が工部卿を務めていたのです。大隈は大久
保派といってよい存在であり、大久保派が政界を牛耳っていたと
いえます。これを明治6年体制ともいいます。
 しかし、大隈自身は、財政は専門ではないといっています。肥
前、すなわち佐賀の出身で、役人としての最初の仕事は外交官だ
ったのです。大隈は大変な秀才であり、外交と財政という困難に
して異質な仕事を両方とも見事にこなしたのです。
 大隈重信がまずやったのが「地租改正」です。廃藩置県が行わ
れる前は、各藩ごとに税率はすべて異なったのですが、大隈は日
本全国一律で税金を土地の3%と決めたのです。これによって、
不安定だった税収が一応安定したのです。
 しかし、この税制は国としては都合が良いのですが、税金を収
める側は厳しいのです。今までは収穫に応じて支払っていたのに
この改正では収穫高の高低に関係なく、税金を納めなければなら
ないからです。全国的に「地租改正反対一揆」が続発し、結局地
租は2.5%に下げられたのです。
 続いて大隈は「殖産興業」に着手しています。これは次の2本
建てで進めたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.国営企業を積極運営する
       2.民間企業を保護育成する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民間企業を保護育成するとは助成金を出すことであり、お金が
かかるのです。大隈はそれを不換紙幣を発行してやろうとしたの
です。由利と同じ手法ですが、地租改正によって財政基盤は安定
していたので、成功すると考えたのです。
 しかし、事態はそう甘くはなかったのです。結局物価が上昇し
て、景気は悪化したのです。それに追い討ちをかけたのは、明治
10(1877)年に起こった西南戦争です。西南戦争は西郷隆
盛を盟主として起こった士族による武力反乱です。
 景気が悪いうえに、西南戦争による出費がかさみ、財政状況は
さらに悪化したのです。大隈は増税と官営工場の払い下げによっ
て何とかしのごうとします。現代風にいえば、規制緩和と公社・
公団の民営化によって財政赤字の補填を狙ったのですが、成功し
なかったのです。
 結局、大隈財政は破綻し、明治14(1881)年に、大隈は
大蔵卿を辞任します。インフレに対して有効な手だてがとれなか
ったことが、失敗の原因です。これを「明治14年の政変」と呼
んでいます。
 大隈重信に代わって大蔵卿に就任したのは、松方正義です。松
方正義は西郷隆盛と同じ薩摩人であり、一見すると鷹揚で細事は
気にしない雰囲気があるのですが、実に数字は強く、合理的な考
え方をする人だったのです。日本政府にとっては松方は、最も望
ましい大蔵卿の登場といってよいのです。松方財政については明
日のEJで述べます。       ・・・[日露戦争/27]


≪画像および関連情報≫
 ・大隈重信について
  佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。尊皇攘夷派志士として
  活躍。維新後、外国事務局判事などを経て、明治3年 (18
  70)参議となる。明治6年 (1873)大蔵省事務総裁、つ
  いで大蔵卿に就任。征韓論争後、財政の責任者として大久保
  利通を補佐した。明治14年の政変で失脚。15年 (188
  2) 立憲改進党を組織、東京専門学校(早稲田大学の前身)を
  創立。第1次伊藤、黒田両内閣の外相として、条約改正に関
  与。第2次松方内閣の外相兼農商務相。31年(1898)憲政党を
  組織、首相に就任した。40年(1907)政界を引退したが、のち
  復帰。大正3年(1914)再び首相となる。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/33.html?c=2

大隈重信.jpg
大隈重信
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2009年08月18日

●松方財政による日本の財政基盤(EJ第1734号)

 由利公正と大隈重信の財政政策の目的は、ともに富国強兵を実
現することにありました。国が豊かになるには何よりもその前提
として国民が豊かになる必要があります。そのためには国に産業
を興して輸出主導の国家にし、国力を養って軍備を強化する――
この点においては、由利も大隈も同じことを考えていたのです。
 この殖産興業という考え方は、松方正義も同じように考えてい
たのです。しかし、由利と大隈が不換紙幣の大量発行でインフレ
を起こしており、松方としてはこれを何とか修復する必要があっ
たのです。
 松方は「財政が健全化しない限り、景気はよくならない」と考
えていたのです。そこで、超緊縮財政を敷き、無駄な出費は極力
抑える政策――つまり、デフレ政策を実行したのです。そして、
紙幣は銀の裏づけのある兌換紙幣を発行することにしたのです。
 金や銀に交換できない不換紙幣を発行すると、国民としてはい
つそれが紙切れになってしまうかわからないので、できる限り急
いでモノに換えようとします。お金で持っているよりも、モノで
持っていた方が安心だからです。
 もし、多くの国民がそのように考えて行動すると、モノの値段
が上昇し、インフレ状態になります。由利や大隈の場合はこれで
失敗したのです。そこで、松方は銀の裏づけのある兌換紙幣だけ
を発行し、発行済みの不換紙幣の償却を行ったのです。兌換紙幣
であれば、紙切れになることはないので、モノで持っている必要
はない――したがって、物価の上昇は起きないのです。
 加えて、松方は増税を行っています。酒税、タバコ税、地方税
を増税し、徹底的なシブチン政策で4年間で4000万円の剰余
金をつくることができたのです。明治14年度の歳入は、およそ
6400万円でしたから、この剰余金4000万円確保は、とて
も大きかったのです。
 松方はここで会社設立ブームを起こし、殖産興業政策を推進し
ようと考えたのです。デフレ政策によって物価は下落しており、
落ち着いてきていたので、「安い金利でお金を借りることができ
る」と奨励するとともに官営工場の払い下げを推進したので、狙
い通りの会社設立ブームが起きてきたのです。
 そして、輸出増加を図って国内産業の成長を促し、松方が大蔵
卿に就任した一年後の明治15(1882)年には、日本銀行を
開業します。これによって、150行を超えていた国立銀行が普
通銀行になり、由利、大隈時代に発行した銀行券の償却も着実に
進められていったのです。
 このように文章で書くと、松方財政になってからは何もかもう
まくいったようにみえてしまいますが、厳しい緊縮財政と徹底的
紙幣縮減は、当然のことながら、国民経済に強いデフレを引き起
こし、コメ相場は1881年〜1884年にかけて5割も下落す
るという事態が発生しているのです。
 しかし、由利、大隈、松方という3人の大蔵卿がその手法こそ
それぞれ違っていたものの、殖産興業という目的が一致していた
ことにより、結果として、それ以後の民間産業発展のための基盤
を提供することになったのです。とくに松方正義の作った近代的
財政金融制度は後の日本の発展にとても役立ったのです。
 銀行、鉄道などの近代産業、紡績、生糸、鉱物、雑貨などの輸
出産業、食品などの消費財産業が、在来企業のすそ野を拡大する
かたちで発展し、日本の経済を牽引する役割を果たしたのです。
 松方財政によって少しずつ国内産業が立ち上がりつつあったそ
の矢先に日清戦争が起きたのです。しかし、その当時の日本の財
政は、明治初期と比べものにならないくらいに安定しており、戦
争によって、すぐに経済が崩壊するような事態にはならなかった
のです。
 しかし、軍事力は脆弱そのものだったのです。そのために、戦
争には勝ったものの、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉
を跳ね返す力がなかっのです。そのため、政府の目標は軍事力増
強に一点に絞られたのです。
 さいわいにして、日清戦争では、台湾と澎湖島という土地、2
億テール(当時の日本円で3億1000万円)の賠償金を手に入れ
ています。そのため、この3億円を超える賠償金はすべてが軍備
拡充に当てられたのです。
 その結果として陸軍と海軍は次のように目標を立て、実際に増
強されていったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪陸軍≫
   常備 7個師団・平時兵員 5万人/戦時20万人
  →常備13個師団・平時兵員15万人/戦時60万人
 ≪海軍≫
  →20万トン超の艦艇保有
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、国の経済基盤がようやく安定してきたとはいえ、ロシ
アを相手に戦えるほど日本は豊かになったわけではないのです。
既に述べたように、日露戦争には19億8600億円かかってい
ます。これに対して、明治36年度の国家予算は2億5000万
円しかなかったのです。どのようにして、この莫大なる戦費を捻
出したのでしょうか。
 ほとんどは借金で賄うしかないですが、国内で調達できたお金
は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     手持ちの資金 ・・・ 5億0000万円
     国内向け国債 ・・・ 4億7000万円
     臨時事件公債 ・・・ 1億9900万円
    ――――――――――――――――――――
               11億6900万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あと8億円強不足しています。日本はこの8億円もの資金をど
のようにして調達したのでしょうか。・・・[日露戦争/28]


≪画像および関連情報≫
 ・松方正義について
  鹿児島生まれ。政治家、財政指導者、元老。父鹿児島藩士。
  日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、明治13年 (1
  880) 内務卿となる。翌年大隈重信が政変で追放されると
  参議兼大蔵卿に就任。いわゆる「松方デフレ」と呼ばれる緊
  縮財政を実施。第1次伊藤、黒田、第1次山縣、第2次伊藤
  第2次山県各内閣の蔵相。この間首相として2度組閣し、蔵
  相を兼任した。のち日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官
  貴族院侯爵議員、内大臣を歴任。日本銀行の創立、金本位制
  度の確立など、財政指導者として功績を残す。元老としても
  重きをなした。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/194.html?c=0

松方正義.jpg
松方正義

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2009年08月19日

●高橋是清に託された戦費調達(EJ第1735号)

 不足する8億円は「外債」で集めるしかなかったのです。外債
とは、国債と仕組みは同じものであり、額面いくらという国債を
発行して外国に買ってもらい、期限がきたら利子をつけて返すと
いうものです。
 しかし、平時ではなく戦時なのです。ロシアも外債でお金を集
めようとしていたのです。超大国のロシアと小国の日本が戦争を
はじめて、外国向けの国債を出したとします。自国民なら話は別
ですが、戦争に関係のない外国はどちらの国債を買うと思います
か。どうみても日本がロシアに勝てるとは思えない時点でです。
 元老会議の席上、松方正義は次のようにいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「この任を果たせるのは彼をおいてほかにいない」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「彼」とは、時の日銀副総裁・高橋是清のことです。松
方は大蔵卿の頃から高橋を評価しており、高橋の意見をよく聞い
ていたといわれます。
 高橋是清は、明治37(1904)年2月24日に後に日銀総
裁になる秘書役の深井英五と一緒に日本を出発しているのです。
成算があっての外国行きではないのです。やってみなければわか
らない困難な仕事だったのです。
 松方財政によって日本の財政はかなり立ち直ってはきたものの
ロシアと戦争するとなると、大変なお金がかかるのです。実際問
題として、戦争がはじまってからは、毎月1000万円くらいの
お金が武器購入などで外国に支払われていたのです。時間をかけ
てじっくりやる仕事ではないのです。すぐに成果を上げる必要が
あったのです。
 この高橋是清という人は実に波乱万丈の人生を送った人です。
彼は幕府御用絵師の川村庄右衛門の子として生まれ、仙台藩士の
高橋是忠の養子となったのです。高橋是清は12歳の時に英学修
行の生徒に選ばれ、横浜のヘボン夫妻のところへ送られたのです
が、その後、慶応3年に米国のサンフランシスコに給費学生とし
て渡りました。ところが、英語がよくわからないままにうっかり
サインしてしまったために、なんとオークランドの農園主に3年
契約でボーイ(奴隷)として50ドルで売り飛ばされてしまった
のです。こんな経験をした日本人は少ないと思いますが、結果と
して、この異常な経験が高橋の英語力を磨いたのです。
 さて、高橋一行は最初米国に行ったのですが、まったく相手に
されなかったといいます。その当時の米国は、自国の産業を発展
させるためにはむしろ、外国資本を誘致しなければならない状況
にあり、米国内で外国公債を発行するなどということは実現性に
乏しかったのです。
 高橋はそういう状況を悟ったので、米国には4、5日いただけ
で、英国に向ったのです。当時、世界の金融センターはロンドン
であり、まして英国は日本の同盟国ですから、英国の方が可能性
としては大きかったからです。
 高橋是清に課せられた当面の要請は、英国のお金で1000万
ポンド――当時の日本円で1億円、現在の貨幣価値に直すと35
00億円の外債を募集することだったのです。
 高橋は大富豪のロスチャイルドに会って話をしますが、話は聞
いてくれるものの手ごたえがないのです。何のことはない、同盟
国の英国でさえ、日本が勝つとは露ほども考えていなかったので
す。しかし、こんなことでめげる高橋ではないのです。
 彼はパース銀行ロンドン支店長のアレクサンダー・シャンドに
会いに行くのです。パース銀行は横浜正金銀行の取引銀行であっ
たことと、シャンドは高橋のかつての雇い主でもあるということ
で高橋が内心あてにしていた人物だったからです。
 シャンドは横浜で、バンキング・コーポレーション・オブ・ロ
ンドン・インディア・アンド・チャイナの支配人をしており、高
橋は英語の勉強のため、シャンドの使用人として働いていたこと
があったのです。
 高橋はシャンドの紹介で、パース銀行頭取のバー、本店支店長
のダン、香港=上海銀行の取締役支配人サー・ユウエン・カメロ
ン、仲買商パンミュール・ゴールデン商会のコッホ、レビタらと
会見したのです。
 しかし、彼らは口々に日本公債の発行は難しいというのです。
それは、日露戦争開始以来、パリやロンドンでのロシア公債の下
落幅が小さいのに比べて、日本の公債は暴落しているという点に
あります。それに加えて英国の王室はロシアの帝室と縁戚関係に
あるため、英国が単独で日本の軍費調達に動くことに内心、心苦
しく感じているということもあったと思われます。
 しかし、ここにきて日本に順風が吹いてきたのです。それは次
の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.マカロフ司令官戦死に関する金子堅太郎の追悼コメントが
   大評判を呼び、日本びいきが増えてきた。
 2.日本軍の緒戦の連戦連勝によって、日本絶対不利の風向き
   が少しずつ変化する兆しが出てきたこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここにきて金子の工作が高橋による外債引き受けに効いてきた
のです。高橋は、この戦争は自衛のための戦争であり、日本国民
は確固たる信念に基づく覚悟をもって臨んでいるなどと力説した
のです。この高橋の説得によって、英国の銀行団の姿勢が変わっ
てきたのです。
 資金力に余裕のなかった日本は、戦争に踏み切っても最初のう
ちに戦勝を重ね、なるべく早く講和に持ち込む戦略を立てていた
のです。戦争というと、どうしても軍隊の動きにばかり焦点が当
たってしまいますが、その裏で戦時広報として金子堅太郎を米国
に、末松謙澄をヨーロッパに派遣し、最も重要な戦費調達は高橋
是清に託すというように、明治政府は適切な手を打っていること
は評価できると思います。     ・・・[日露戦争/29]


≪画像および関連情報≫
 ・高橋是清について
  幕府御用絵師川村庄右衛門の不義の子として生まれ、仙台藩
  士高橋是忠の養子となる。1867(慶応3)年に藩留学生と
  して渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出
  し帰国。本場仕込みの語学力が認められ、16歳で開成学校
  (東大)の教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師をクビにな
  り、幇間になる。その後1887年に初代特許局長に就任。
  1889年、一攫千金を狙いペルーの銀山開発にのりだした
  が失敗し失意の底に沈んだ。1892年、才覚を認められ日
  本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功。1905年
  貴院議員。1907年男爵。1911年日銀総裁を経て、
  7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣などを歴任。し
  かし、2.26事件で暗殺。その後、高橋是清邸宅は「仁翁
  閣」は多磨霊園休憩所として活躍。
  http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html

高橋是清.jpg
高橋 是清
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2009年08月20日

●ジェイコブ・シフとの出会い(EJ第1736号)

 1000万ポンドの公債発行という高橋是清の要請に対して、
銀行団は次の条件を提示してきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.発行公債はポンド公債とする
  2.関税収入を抵当とする。
  3.利子は年6分(6%)とする
  4.期限は5ヶ年とする
  5.発行価格は92ポンドとする
  6.発行額の最高限度を300万ポンドとする
         ――田畑則重著、『日露戦争に投資した男/
        ユダヤ人銀行家の日記』より 新潮文庫143
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国の銀行団は2の「関税収入を抵当とする」に対して「サー
・ロバート・ハートのような処置を取る」という付帯条件を付け
てきたのです。
 この条件に対して高橋は本気で怒ったそうです。「サー・ロバ
ート・ハートのような処置を取る」というのは、ロバート・ハー
トは清国の総税務司で、40年あまりにわたって清朝の海関行政
を支配した人です。銀行団としては、サー・ロバート・ハートの
ような英国人を派遣して、利子がちゃんと支払われるよう日本の
税関を管理するという意味です。
 高橋是清は、次のように述べて絶対に譲らず、ついに抵当権を
名目だけのものにしてしまったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 冗談じゃない。日本政府は外債のみならず、内国債でも利払い
 を怠ったことはない。            ――高橋是清
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 高橋が不満だったのは6の「発行額の最高限度を300万ポン
ドとする」という項目です。しかし、日本政府の命令である10
00万ポンドは開きがあり過ぎてまとまりそうもないので、本国
と連絡をとって半分の500万ポンドとし、その代わり期限を7
年に、発行価格92ポンドを93ポンドとするよう申し入れ、強
引に銀行団を承知させたのです。高橋は大変なタフ・ネゴシエー
タといっていいでしょう。
 しかし、あと500万ポンド足りない。これをどうするか――
高橋は悩んでいたのです。しかし、残りの500万ポンドは思い
もかけない人の申し出によってできてしまうのです。
 1904年4月23日と24日の両日にわたって、銀行団との
仮契約を結んだときのこと。高橋の友人でニューヨークの投資銀
行スパイヤーズのロンドン支店長アーサー・ヒルがお祝いにと、
晩餐会を開いてくれたのです。
 高橋はヒル邸で行われた晩餐会において、ジェイコブ・シフと
いうユダヤ系米国人と知り合いになるのです。シフはニューヨー
クの投資銀行クーン・ロープ商会の首席代表であり、毎年恒例の
ヨーロッパ旅行のさい、たまたまロンドンに立ち寄ったところ、
ヒルから晩餐会に招待を受けたと高橋に伝えていたのです。
 晩餐会でシフなる人物は高橋の隣に座って、しきりに日本経済
の状態、生産の状況、開戦後の人心はどうかなど、細かに質問を
してきたというのです。
 その話の中で高橋は、本当は1000万ポンドを募集するよう
国から命令を受けていたのだが、500万ポンドしか契約できず
困っているという話をしています。
 晩餐会の翌日、例のアレクサンダー・シャンドが高橋のところ
にやってきて、シフが今回の日本公債の残額の500万ポンドは
自分が引き受けて、米国で発行したいといっていることを告げた
のです。とにかく高橋は昨夜までシフという人物を知らなかった
ので、ロンドンの銀行団と相談したのです。
 そうすると、銀行団は異存はないということで、シフの申し入
れを受け入れることにしたのです。何はともあれ、高橋は本国か
ら命じられた1000万ポンドの起債はクリアしたのです。それ
にしてもシフはどうして起債に応じてくれたのでしょうか。
 本当のところははっきりしないのですが、どうやらシフは晩餐
会で高橋に偶然に会ったのではないようなのです。そこには、英
国側のシフに対する周到なる根回しがあったのです。
 実は日露戦争の起きる4〜5年前から、ペテルブルグの銀行家
が蔵相ウイッテの命を受けてシフのところにロシアの中期国債の
発行を頼みにやってきていたのです。しかし、シフはこれを断っ
ています。シフはユダヤの同胞を虐待するロシア政府は許さない
という姿勢からです。
 シフの親友の英国人にアーネスト・カッセルという人物がいる
のです。このアーネスト・カッセル――当時、ロンドンではあの
ロスチャイルド家を凌駕するほどの信望を得ていたといわれるの
です。日本に投資してもよいというシフに対し、カッセルは日本
に理解のある説明をしてくれているのです。カッセルは日本の事
情に通じていたのです。
 のちにシフはカッセルと一緒に国王エドワード7世から午餐に
招かれているのですが、その席上国王は、シフが日本国債発行に
参加する決断をしたことをとても喜んでいたというのです。
 これでわかることは、英国としては日本からの申し入れ通り、
1000万ポンドの公債を引き受けたいが、ロシア帝室との関係
もあって、英国があまり日本に肩入れするのはきわめて問題があ
る。そこで、とりあえず英国銀行団が半分を引き受け、あとの半
分は英国が根回ししてシフにやらせる――こういう筋書きではな
かったかと思います。
 ロシアは日露戦争開戦後も、内相プレーヴェを使って、執拗に
シフに対して働きかけていますが、シフは頑としてこれを拒んで
いるのです。このような意味において、ジェイコブ・シフは、日
露戦争に大きな影響を与える活躍をしたのです。高橋是清の交渉
――銃や剣こそ使いませんが、これも紛れもなく戦争そのもので
あるといえます。         ・・・[日露戦争/30]


≪画像および関連情報≫
 ・1904年4月にシフがロスチャイルド卿に宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「過去4、5年にわたりロシア政府はアメリカ市場での起債
  に向けて努力を続けてきたが、それを私(シフ)が無に帰せ
  しめてきたことを誇りに思う」   ――ジェイコブ・シフ
         ――田畑則重著、『日露戦争に投資した男/
        ユダヤ人銀行家の日記』より 新潮文庫143
  ―――――――――――――――――――――――――――

シフについて書かれた本.jpg
シフについて書かれた本
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2009年08月21日

●第1回戦時公債の成功/1904(EJ第1737号)

 日本の第1回戦時外債(1000万ポンド)は、1904(明
治37)年5月1日にロンドンとニューヨークで売り出されたの
ですが、購入希望者が募集額を上回ったのです。
 逆に開戦当初は高値を呼んでいたロシア公債の人気は急落した
のです。開戦前の1月の時点で額面の97%であったものが、5
月には額面の89%まで下がってしまったのです。
 そのため、ロシアはさらに多額の戦時公債を売り出すことが困
難になったのです。なぜなら、それをすれば、金融市場に混乱を
引き起こす恐れがあると、ロシアの最大の債権国フランスが反対
したからです。
 どうしてこういう結果になったかというと、5月1日に陸軍大
将黒木為禎率いる第一軍が、鴨緑江の渡河作戦を成功させたから
なのです。実にタイミングがよかったのです。少し戦局のことを
書きましょう。
 宣戦布告した日本軍がまず目指したのは、朝鮮半島上陸作戦で
あり、戦略拠点のソウル(京城)の確保だったのです。2月6日
に先遣隊が佐世保で輸送船に乗り込み、朝鮮半島に向ったのです
が、途中抵抗らしい抵抗に遭わずに8日にあっさりと仁川に上陸
し、そのままソウルに入っています。
 その日の午後、瓜生外吉の率いる第2艦隊とロシアの砲艦「コ
レーエッツ」と「ワリャーク」の2隻が遭遇したのですが、ロシ
ア艦は仁川港口に逃げ込んでしまいます。しかし、次の日に港か
ら出てきたところを瓜生艦艇に攻撃され、被弾の後、自沈してし
まいます。
 この戦況によって、大本営は、先遣隊に続いて第12師団が上
陸する予定地であった朝鮮半島の南端の馬山を変更し、中央部の
仁川にしたのです。第12師団は2月半ばから10日間かけて、
仁川に無事上陸し、朝鮮半島のソウル以南を日本の支配下に置い
たのです。ここまでは実に順調に進んだのです。
 これは黄海における制海権の確保が予想を上回るスムーズさで
確保できたことによるのです。制海権の確保には、ロシア太平洋
艦隊と相当激しい戦闘を予想していたのです。しかし、ロシア艦
隊は黄海には出てこないので、2月8日に連合艦隊はロシアの主
力艦が集結する旅順港に接近し、旅順港外に停泊中のロシア太平
洋艦隊を攻撃しています。
 続く9日も連合艦隊は旅順港を攻撃したのですが、その攻撃が
すさまじかったので、ロシア艦隊は旅順港に閉じこもり、出てこ
なくなってしまったのです。このとき、マカロフ司令官は旅順に
おらず、その着任をひたすら待っていたようなのです。
 このようにして、不十分ではあるが、一応黄海の制海権は日本
の手に落ちたのです。当初の作戦計画では黄海にロシアの太平洋
艦隊が出てくることを予想し、第12師団は朝鮮半島の南端に上
陸して北上する予定でいたのですが、制海権を得たので、作戦は
急ピッチで進み、次の目標値は平壌に絞られたのです。
 このとき、鴨緑江左岸の昌城、義州方面からロシア軍が南下し
平壌北方付近まで達しているとの情報が入ったのです。大本営は
第12師団長の井上中将に直ちに平壌占領の命を下したのです。
当時平壌には在留邦人が300人ほどいたのです。
 大本営の命を受けて、小泉義男大尉を中隊長とする先遣隊は、
仁川港を軍艦で出港し、海州に上陸、そのまま北上して2月24
日に平壌入りを果たしています。以下、続々と第12師団司令部
をはじめ、残る各部隊も平壌入りし、3月18日までに防御を固
め、第一軍主力の上陸を待ったのです。そして、主力の近衛師団
と第2師団は3月29日までに第12師団と合流したのです。
 黒木大将率いる第一軍は、韓国内に残るロシア軍を掃討しなが
ら北進を続け、4月21日までに全部隊が鴨緑江右岸の義州一帯
に兵を展開させたのです。その目の前には鴨緑江が横たわり、対
岸にはロシア軍が守る九連城――国境線随一の名城が見えていた
のです。ロシア軍2万6000の兵力を率いる将軍は、ワルシャ
ワから着任したウラジミール・ザスリッチ中将だったのです。
 ザスリッチ中将は着任前にクロパトキン大将と参謀長のサハロ
フ中将から、次のように指示されていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 優勢な敵との不利な戦いを避けて、敵の編成、配備および前進
 方向を確かめながら、できるかぎり徐々に退却して敵との接触
 を保つように。           ――クロパトキン大将
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ザスリッチは「彼ら(クロパトキンとサハロフ)は、
日本軍を欧州諸国の軍隊と同一視している」として日本軍をみく
びり、クロパトキンの指示を無視して、2万6000の兵力を、
275キロにおよぶ鴨緑江岸に分散配置してしまったのです。日
本軍の力を過小評価したからです。
 これに対して黒木大将率いる第一軍は3個師団を集中配置して
いたのですから、日本軍の優勢は誰の目にも明らかです。なお、
1個師団は約1万1600名ほどの兵力です。
 4月29日午後2時、渡河一番手を担う第12師団は架橋作業
に着手します。この作業は30日の午前3時に終了し、第12師
団部隊は渡河を開始し、夜明け前には全軍渡河したのです。
 これと平行して近衛師団と第2師団は鴨緑江本流の架橋作業に
着手、九連城のロシア砲兵隊はこれを阻止しようとして攻撃を加
えてきたのですが、架橋作業は午後8時に終了し、5月1日午前
5時に全軍が渡河を完了し、敵と対峙したのです。
 集中した日本軍と分散したロシア軍――その差は歴然としてい
ました。日本軍の総攻撃にロシア軍は総崩れになり、5月1日、
午後5時39分に黒木軍は九連城を占領したのです。
 九連城を落とした日本軍は直ちに追撃戦に入り、5月6日、先
陣の近衛師団はほとんど無抵抗のまま鳳凰城を占領したのです。
旅順の極東総督府から「退却せよ」との命を受けたからです。ま
さにこういうときに、ロンドンとニューヨークで日本の戦時公債
が売り出されたのです。      ・・・[日露戦争/31]


≪画像および関連情報≫
 ・1904年5月1日に黒木大将の大本営への報告
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍は予定のごとく天明をもって砲戦を開始し、午前7時5分
  楡樹溝西方高地に在る敵の砲兵を沈黙せしめ、同7時30分
  より各師団は攻撃前進に移り、8時15分より9時の間にお
  いて、九連城より馬溝、楡樹溝北方にわたる高地線を占領せ
  り。委細は後より。            ――黒木為禎
  ――平塚柾緒著、『図説/日露戦争』より。河出書房新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

鴨緑江渡河作戦.jpg
鴨緑江渡河作戦
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2009年08月24日

●明石元二郎大佐の役割(EJ第1738号)

 日露戦争開戦前後に、軍人とは別に特命を帯びて諸外国で活躍
した人をここまで追ってきました。戦時におけるメディア工作の
ため米国に行った金子堅太郎、同じ目的でヨーロッパに派遣され
た末松謙澄、それに戦費の調達の重要任務を担って英国と米国で
活躍したた高橋是清――こうした人たちの縁の下の活躍がなけれ
ば、とても日露戦争は勝てなかったはずです。
 また、そういう人物の才能を見込んでを選抜し、それぞれ任務
を与えて必要にして適切な手を打った元老の山縣有朋と伊藤博文
は、やはり優れた政治家といえると思います。
 実はこれら3人のほかに軍人でありながら戦場に赴かず、日露
戦争の日本勝利に多大なる貢献をした人物がもうひとりいるので
す。それは、明石元二郎という人物です。
 宰相ビスマルクを退けて自ら権力をふるって拡張政策を進めた
ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、明石元二郎のことを次のように
いって称えたといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上
 げている。             ――ウィルヘルム二世
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石元二郎とはいかなる人物なのでしょうか。しばらく明石に
ついて書くことにします。
 1902年――日露開戦より1年半くらい前の夏のことですが
陸軍大佐・明石元二郎は、帝政ロシアの首都サンクトペテルブル
グの駐公使館付武官に任命されているのです。彼には次の3つの
指令が出ていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.ロシアの兵力はどのぐらいの規模か
     2.シベリア鉄道の輸送能力のチェック
     3.開戦になったときの鉄道の破壊工作
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうです。明石の仕事とは「軍事情報の収集」、すなわち諜報
活動だったのです。当時ロシアは世界無敵の陸軍国です。その陸
軍の主力は、首都サンクトペテルブルグに結集しています。この
兵力が大挙して満州に進出してくると、日本はひとたまりもなく
蹴散らされてしまうでしょう。
 したがって、ロシア陸軍の主力を満州まで出てこれないように
すればよいのです。そのためには、ロシア内部や周辺にくすぶっ
ている反ロシア勢力(革命勢力)と連携してテロや騒動を起こさ
せる――そうすれば軍隊が対応せざるを得ないから、とても満州
などに兵を派遣できなくなるはずです。
 それでも少しは兵を満州に送ってくることは考えられる――そ
の輸送手段であるシベリア鉄道の能力はどのレベルのものかを調
査し、可能であれば破壊耕作をせよ。これが明石に課せられた仕
事なのです。実に重大な任務です。
 結果として明石はこの大仕事をやり遂げているのです。実際に
明石のやった工作が契機になってロシア革命が起こり、ロシア帝
国は崩壊しているのです。後のソ連邦の創始者であるレーニンは
次のようにいっているほどです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したい
 ほどである。               ――レーニン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この大仕事をやり遂げた明石について、司馬遼太郎
は、例によって毒舌を浴びせています。彼は明石を「一種異様な
人物」とまえおきして、次のように表現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  軍人のくせに運動神経に欠けていて、走らせてもびりっこだ
 ったし、器械体操はまるでできなかったし、その上、服装とい
 う感覚においてはまるで鈍感で、自分の姿(なり)というもの
 を自分で統御するあたまがまるでなかった。(中略)
  ポケットの底はみなやぶれていたし、ときどきボタンがちぎ
 れており、軍服のところどころがやぶれていて、サーベルの鞘
 などはたいていさびていた。
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第6巻より。文春文庫刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際の明石大佐に会っていないので、この表現が正しいかどう
かはわかりませんが、少なくとも外交官向きの人ではなかったよ
うに思います。
 しかし、その司馬遼太郎でも褒めていたのは、彼の語学力なの
です。明石の士官学校の成績を見ると、フランス語の成績が27
人中のトップであり、語学の修得にかけては大変な努力家であっ
たということです。彼は、赴任した国の言葉を一心不乱に、寝食
を忘れて没頭し、マスターしてしまう――そのさまはまさに「異
様」であり、司馬遼太郎は「語学狂」と命名しています。
 そんなわけで、フランス語、ドイツ語、ロシア語・・・何でも
マスターしてしまったのです。あるパーティの席でこんなことが
あったそうです。その席にはドイツとロシアの士官がいたのです
が、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができ
ますか」と聞いてきたのです。
 明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語
で答えたのです。そうすると、たちまちそのドイツの士官は明石
を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し
始めたというのです。ドイツの士官にすれば、まったく風采の上
がらない明石を見て、こんな男にドイツ語がわかるはずはないと
きっと考えたのでしょう。
 しかし、明石はドイツ語は完全にマスターしていて、その機密
をすべて聞いてしまったというのです。見た目が利口に見えない
というのもスパイの重要な資質なのです。そのせいか、日本の陸
軍内部でも明石の能力を見抜けない人が大勢いたのです。しかし
その明石の能力を買った男がいるのです。
                 ・・・[日露戦争/32]


≪画像および関連情報≫
 ・日露関係が険悪になった頃の明石元二郎の詩
  ――――――――――――――――――――
   耳をおおう他家の和戦論
   門を鎖(とざ)してただ読書の人となる
   おもむろに期す大業晩成の日
   先ず祝す今年四十の春
  ――――――――――――――――――――

明石元二郎.jpg
明石元二郎
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2009年08月25日

●明石大佐の能力を買った男(EJ第1739号)

 明石元二郎を見出したのは、児玉源太郎なのです。児玉源太郎
は、実は士官学校を出ていないのです。戊辰戦争に藩の献功隊士
として参加します。のちに陸軍に入り、佐賀の乱、神風連の乱、
西南戦争に従軍、戦争によって武勲を立て、大本営参謀本部第一
局長、陸軍大将にまで昇りつめた人です。
 児玉は陸軍大学校の校長をしていた時期がありますが、そのと
き教官としてきていたメッケルの講義を聴講し、意見を交わした
ことがあるのです。のちにメッケルは「あなたが日本で教えた者
たちの中で、これはと思った者がおりますか」と聞かれたとき、
即座に「コダマ」と答えているのです。
 その児玉は一風変わっていた明石元二郎の才能を早くから見抜
いており、使える男であると考えていたのです。しかし、周りは
そうではなかったようです。
 明石の上司に当るペテルブルグ時代の駐露公使の栗野慎一郎で
さえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜
が欲しい」と要請したほどだったのです。いつも一緒にいる明石
の能力に気づいていなかったわけです。
 しかし、児玉は、明石がつねづねロシアという国を次のように
とらえていることを知っていたのです。明石は外国に赴任すると
語学と同時にその国の歴史を冷静に把握することを怠らず、その
国の現状を誰よりも正確に把握していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアの国土を掠奪し、ロシア国民を虐げているのは、ロシア
 皇帝とその宮廷である。ロシアにおけるすべての政治悪はここ
 に根源している。             ――明石元二郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 児玉は、戦場が満州である以上、清国を味方につけ、ロシアの
革命煽動が必要であると考えていたのです。そして、清国工作は
青木宣純、ロシア工作は明石元二郎が適任と考えて、素早く手を
打ったのです。
 当時清国では、袁世凱が清朝において有力な勢力を形成してい
たので、袁世凱を味方に引き入れる必要があったのですが、その
袁世凱に信用されていたのが青木宣純という宮崎県出身の砲兵大
佐だったのです。青木は北京の公使館付武官をしていたことがあ
り、そのとき袁世凱と親交が生まれたのです。
 話を明石に戻します。児玉は決断すると、参謀本部の留守役を
担当していた長岡外史少将に工作資金として明石に100万円を
送らせたのです。当時の100万円について、明石工作の詳細に
ついて書かれている水木楊氏の著作に、次のように記述されてい
ます。大変面白い本です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 陸軍が明石一人に自由に任せた資金は当時の資金で百万円。そ
 のときの米の値段と現在のそれとを比較すると、およそ七千二
 百倍。単純にいっても、百万円は七十二億円の米を買う購買力
 を持っていた。一九○五年の国家予算が現在の十二万分の一だ
 から、予算金額上の百万円は千二百億円という莫大な金額にな
 る。明治政府がいかに明石工作に力を入れたか分かろうという
 ものだ。 ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水木氏の本には明石のお金の扱い方について面白いことが書い
てあります。明石の家は貧乏でお金に困っていたそうです。小学
校時代は教科書も他人のものを借りて写して使わなければならな
いほど困っていたそうです。
 それだけに母親の躾けは厳しく、お金のために性根を曲げない
よう育てられたのです。そのためか、明石は終生お金には恬淡と
しており、俸給は副官が明石ではなく夫人に渡すことにしていた
といわれます。本人に渡すと、それを無造作にポケットにねじ込
み、なくしてしまうことが多かったからです。
 しかし、明石は公金にはそれほどまでしなくてもというほど、
几帳面に扱ったのです。例の工作資金の百万円は、帰国後、上司
が舌を巻くほど細かな使途報告書を提出し、残金27万円を返却
したのです。仕事の性格から使途明細も返却もいらないお金だっ
たのですが、彼はきちんと返却したのです。
 英国のノンフィクション・ライターのリチャード・ディーコン
は、その著作『日本の情報機関』において、次のように書いて明
石を賞賛しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 工作資金を残し、しかも明細を付けて返した、珍しいスパイ・
 マスター           ――リチャード・ディーコン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治37(1904)年2月8日、ペテルブルグの日本公使館
が日露開戦によって公使以下引き上げることになり、一行は一路
ストックホルムを目指したのです。交戦中はストックホルムに公
使館を移すというのが栗野の考え方だったのです。ストックホル
ムなら、ロシアの情報は入ると考えたのですが、市内にはロシア
の官憲がストックホルムの政府機関に目を光らせており、まして
日本人の諜報行為など許さないという状況だったのです。
 一行を乗せた列車がストックホルム駅についたとき、ホームに
は多数の紳士や軍人が集まっていたのです。これは、ロシアを引
き上げてきた日本の公使館一行を歓迎するスウェーデンの人たち
だったのです。
 スウェーデンにとってロシアは歴史的に絶えざる恐怖そのもの
だったのです。いつ北境から攻め込んでくるかわからない――こ
のことが悩みの種だったのです。その強敵ロシアに極東の日本と
いう小国が果敢にも立ち向かう――その日本の勇気に感動して、
密かに支持しようとして、公使館一行を駅頭に出迎えたというわ
けです。スウェーデンは、ロシアの恐ろしさを知り尽くしている
国であるだけに日本の行くすえを他人事とは思えない――何とか
がんばって欲しいと激励に来たのです。・・[日露戦争/33]
                 

≪画像および関連情報≫
 ・ビタリー・グザーノフ氏/ロシアの歴史作家
  ―――――――――――――――――――――――――――
  満州の前線における諜報戦が戦術的とすれば、欧州を舞台に
  した明石工作は戦略的・政治的謀略活動だった。ロシア国内
  でインテリゲンツィア(知識層)を中心に国民の間に革命気
  運が高まっていた状況で、日本との戦争に反対の声を上げさ
  せ、加えて、革命諸政党をロシアの敗北に向け活動するよう
  に仕向けた明石元二郎の役割は非常に重要だ。
       ――読売新聞取材班著、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

水木楊氏の本.jpg
水木楊氏の本
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2009年08月26日

●フィンランド地下組織への工作(EJ第1740号)

 日露戦争開戦直後の1904年2月のある日、場所はストック
ホルムのホテル・リード・ベリイの前に平服の明石元二郎はたた
ずんでいたのです。雪が激しく降っており、濃い霧も発生してい
て見通しがきかなかったのです。
 午前11時30分頃、一台の馬車が霧をかいくぐって明石に近
づいてきたのです。ドアがわずかに開いています。馬車が止まる
と、素早く明石は馬車に乗り込んだのです。馬車はすぐに走り出
し、霧の中に消えていったのです。
 馬車の中で明石は、乗っていたある人物と固く握手をしたので
す。その人物はフィンランド人革命家のコンニ・シリアクスだっ
たのです。フィンランドは当時ロシアの支配下にあり、シリアク
スは、フィンランド独立を目標に過激な地下活動を展開し、ロシ
アの秘密警察に追われていたのです。
 明石はその日、フィンランド憲法党の党首、カストレンに会う
ことができたのです。そこは事務所のような部屋だったのですが
何よりも明石を驚かせたのは、壁に明治天皇の肖像が飾ってあっ
たことです。
 壁にはもうひとつ、ロシア皇帝ニコライ二世の署名入りのカス
トレンの追放状が貼ってあったのです。おそらく、カストレンは
毎日それを見て、ニコライ皇帝への憎悪を再生産していたものと
思われます。
 カストレンは、明治天皇の肖像を見つめる明石に対して次のよ
うにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この日本の皇帝がわれわれを救ってくれることを信じている
                     ――カストレン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石はこの席でカストレンとシリアスクに対して次の2つのこ
とを頼んだのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  お願いが二つあります。第一はフィンランド、ポーランド、
 コーカサス、ウクライナなど、ロシアの支配下に置かれた国々
 にはどのような革命グループがあり、実際にどれくらいの力を
 有し、どのような活動をしようとしているかが知りたい。第二
 は、ロシア政府はどのような軍事行動を起こそうとしているか
 把握したい。この二点について情報をいただけないかというこ
 とです。 ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石のこの第一の要望についてシリアスクは承諾したのですが
第二の要望については拒否しています。しかし、カストレンは、
その場で電話を取り上げ、スウェーデンの陸軍に電話をかけたの
です。そして、イヴァン・アミノフというスウェーデン参謀大尉
と電話で協議をはじめたのです。その結果、ベルゲンという名の
参謀少尉をペテルブルグに派遣することになったのです。
 カストレンのいうのは、もし、自分たちがロシアのスパイをや
ると、フィンランドはロシアに併合されているので、形式的には
反逆ということになり、ロシア秘密警察の取締りが一層強くなる
――だから、この役割はスウェーデン人にやらせた方がよいとい
うものだったのです。
 このように、フィンランドの革命分子とスウェーデン陸軍とは
つながっていたのです。それはスウェーデンがロシアに対してい
かに強い恐れと反感を持っていたかを十分に物語るものです。実
際にベルゲン少尉はロシア国内にスパイ網を拡大し、それが日本
に貴重な情報をもたらすことになるのです。
 このコンニ・シリアクスと同世代の有名なフィンランドの有名
な作曲家に、ヤン・シベリウスがいます。そのシベリウスの作品
に交響詩『フィンランディア』というのがあります。この曲は当
時のフィンランドの政情と深い関係があるのです。
 ロシア皇帝ニコライ2世によりフィンランドは自治権を取り上
げられ、民衆はロシア軍の傍若無人な圧力に日々苦しんでいたの
です。そんな中で祖国を愛する人々の間から、フィンランドの歴
史を描いた演劇『いにしえからの歩み』の上演の話が持ち上がっ
たのです。この演劇のための付帯音楽として書かれたのが、交響
詩『フィンランディア』の原曲になる6つの音楽なのです。
 1899年11月に、この劇と共に全6曲の付随音楽がヘルシ
ンキで初演され、感動を呼ぶ終曲が特に大好評でした。そして観
る側も演る側も、皆祖国への熱き想いを新たにしたのです。この
終曲は「スオミ」――これはフィン語で「フィンランド」を意味
する――と名付けられたのです。そして、1900年のパリの万
国博覧会で独立したひとつの曲――交響詩『フィンランディア』
として初演されています。これは大成功だったのです。
 ニコライ二世は直ちに弾圧を加えて演劇は中止に追い込まれま
す。しかし、フィンランド国民はひるまず、タイトルを変更して
同じ曲を演奏し、また弾圧。さらに名を変えて上演。そのたびに
フィンランドの独立運動は一層盛り上がっていったのです。
 そしてこの曲の中間部にある美しい旋律にはいつの間にか歌詞
が付き、「フィンランディア(フィンランド賛歌)」として合い
言葉のように歌われるまでになったのです。そして、1917年
フィンランドは独立を勝ち取ったのです。
 このことを知って交響詩『フィンランディア』を聴くと、すぐ
気が付くことがあります。曲は低音楽器によるうめくような和音
で始まりますが、これはロシアの圧制をあらわしています。そし
て、ロシア軍の銃撃や爆撃を思わせる金管楽器のリズムや低弦の
うねりが示されます。しかし、軽快な主部に入り、中間部は木管
と弦のコラール。ここが歌詞のついた部分です。主部が再現した
のち、全員で先ほどのコラールを高らかに奏して力強く終結する
――この曲は当時のフィンランドのことを描いた作品なのです。
そのフィンランドのカストレンとシリアスクと明石――ロシアは
大変な強敵を誕生させてしまったのです。 [日露戦争/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ヤン・シベリウス/交響詩『フィンランディア』
  この曲を改めて聴くときは、カラヤン/ベルリン・フィルの
  演奏をお勧めしたい。実にわかりやすく素晴らしい演奏だか
  らである。これを含めて、この曲のCDは次のアドレスをク
  リックすると参考になる。
  ―――――――――――――――――――――――――――
    http://www.kapelle.jp/classic/sibelius.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

交響詩『フィンランディア』.jpg
交響詩『フィンランディア』
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2009年08月27日

●ポーランド兵士戦線離脱作戦(EJ第1741号)

 明石がシリアスクに会って、2人のロシアへの諜報戦争が開始
された頃のこと、明石は東京の参謀本部次長、長岡外史に対して
ポーランドからひとつの小包を送っています。
 小包を解くと、中から銅板が出てきたのです。銅板には一人の
将校が石碑の前で泣き崩れる図が彫ってあったのです。送ってき
たものはそれだけであり、手紙一本入っていなかったのです。
 しかし、これを見て、長岡外史はすぐピンときたのです。当時
ポーランドはロシアに併合されており、ポーランドの将校がロシ
ア当局に身内を殺されて嘆いている構図だと判断したのです。日
本もぼんやりしているとこんな目に遭いますよという明石の訴え
である――長岡は受け取ったのです。
 もし、日本がロシアに敗れると、一体どうなるでしょうか。こ
れについて『坂の上の雲』には次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  朝鮮半島は、ロシアの領土になるだろう。日本は属邦になる
 ことは間違いない。ロシア帝国はその威容を示すためにヘルシ
 ンキでやったと同様、壮大な総督官邸を東京に建てるだろう。
 さらに太平洋に港をもちたかったというながい願望をはたすた
 めに横須賀港と佐世保港に一大軍港を建設するにちがいない。
  憲法は停止し、国会議事堂を高等警察の本部にするに相違な
 く、さらに幕末以来、ロシアがほしかった対馬を日本海の玄関
 のまもりにすべく大要塞を築き、島内に政治犯の監獄をつくる
 であろう。銃殺刑の執行所をもうけるであろう。
  いまひとつ、東京には壮麗な建物ができるにちがいない。ロ
 シア帝国はその国教であるギリシャ正教をその軍隊同様、専制
 の重要な道具にしており、げんにヘルシンキの中央広場にこの
 異教の大殿堂がつくられているように、日比谷公園に東洋一の
 壮麗な伽藍をつくるであろう。
        ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第6巻より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石がカストレンとシリアスクにストックホルムの隠れ家で会
ったとき、シリアスクはある具体的な提案をしているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州ではロシア兵に混ざってポーランド人が徴兵されて戦場に
 送り出されている。しかし、ロシアのためには血を流したくな
 いと考えているポーランド人は多い。そこで、このポーランド
 人の兵隊を戦線から離脱させる工作をしようではないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにポーランドでは、大量の徴兵が行われており、それもロ
シアに楯突く屈強な若者や医者、科学者などを重点的に狙って徴
兵していたのです。シリアスクはこのことを新聞の報道で知った
のです。
 シリアスクは、ポーランド国民民主党党首であるロマン・ドム
スキーに手紙を書き、ロシアを揺さぶる陰謀に加担しないかと説
得したのです。ドムスキーからはすぐに「賛成」の返信が届いた
のです。ちょうどそのようなときに、シリアスクは明石と会うこ
とになったのです。
 ロシア兵に加わっているポーランド兵を戦線から離脱させる計
画について明石は日本の参謀本部から了解を取りつけ、この計画
は明石の指示により、ドムスキーが東京で準備をすることになっ
たのです。日本側の担当者は、明石の上司である参謀本部主任部
長、福島安正だったのです。
 ドムスキーは、数万部の反戦ビラを印刷して、ポーランドから
徴兵される兵士にひそかに持たせ、戦場で配らせる案を福島に説
明し、その文案を示したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア皇帝はロツ、ジラルドフ、ドムブロワなどでポーランド
 労働者を惨殺した。その皇帝のために諸君は戦うのか。日本は
 強い。その背後には、英国、米国がついている。ロシアは負け
 る。日本軍を見たら投降せよ。日本軍は諸君の名誉を重んじて
 身柄を取り扱うだろう。その約束は日本政府との間ですでにで
 きている。――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポーランド兵士の戦線離脱作戦は、実は鴨緑江の渡河作戦で見
事に花開いたのです。明石のところに届いた暗号報告によると、
前線で降伏を勧告する大量のビラが撒かれ、ポーランド兵士が動
揺し、ロシア人上官の命に従わず、大量脱落したと報じていたの
です。さらに、ポーランド国内でも、ロシアからのさらなる徴兵
要求に対して抗議デモが発生し、流血騒ぎが起こっているという
のです。ドムスキーの作戦は成功したのです。
 しかし、ロシアもさるものです。ドムスキーの作成したビラを
発見し、ポーランド兵士を分散させたり、後方に回したりしたの
で、さらなる効果は期待できなくなったからです。
 明石は、このほかにシベリア鉄道破壊作戦にも挑んだのですが
こちらは警戒が厳重であり、ほとんど戦果らしい戦果は挙げるこ
とができなかったのです。
 明石は少し焦っていたのです。日本軍は鴨緑江渡河作戦は成功
したものの、5月になって日本軍のミスで多くの軍艦を沈めるな
どの作戦の不手際が露呈してきたからです。
 巡洋艦・吉野は戦艦・春日と衝突して沈没し、戦艦・初瀬が水
雷に触れて轟沈するなど、貴重な船を沈めたのです。国際市場は
正直なもので、ロンドンの金融市場では日本の公債の価格が下落
をはじめたのです。このままでは戦費の調達が苦しくなる。何と
かしなければと、明石はストックホルムで焦っていたのです。
 もっと大きな工作をする必要がある――そのためには、レーニ
ンを動かす必要がある。しかし、外交官の役職が邪魔になる。明
石は自分をもっと自由に動けるようにして欲しいと参謀本部に要
求したのです。参謀本部はそれに応えて、「欧州移動武官」のよ
うな役職を与えたのです。     ・・・[日露戦争/35]


≪画像および関連情報≫
 ・明石元二郎とシリアスク
  シリアスクの写真は入手が非常に困難。次の本に掲載されて
  いたものを発見。
  デー・ペー・パブロフ+エス・アー・ペトロフ著、左近毅訳
  『ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の内幕/日露戦争の秘
  密』、成分社刊

明石とシリアスク.jpg
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2009年08月28日

●帝政ロシアの革命グループに接近(EJ第1742号)

 ここで帝政ロシアの革命グループについての知識が必要になっ
てきます。革命グループは大別すると次の2つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.帝政ロシア本国から発生したグループ
     2.支配された小国から発生したグループ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1のグループは、帝政ロシアそのものを理想のかたちに変え
たいと考えているグループです。その実現手段によって次の4つ
に分かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.社会革命党 ・・・ 過激集団
     2.社会民主党 ・・・ 穏健路線
     3.自 由 党 ・・・ 段階移行
     4.ブ ン ト ・・・ ユダヤ人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 社会革命党は、農村や地方を基盤とするグループで、皇室の廃
止、土地の国有化、農民の開放などの実現を目指す過激路線をと
るグループです。
 社会民主党は、工場労働者を基盤とし、比較的穏健な路線をと
るグループです。レーニンはこのグループに属していたのです。
 自由党は、社会民主党よりも穏健であり、帝政ロシアを段階的
に立憲政治に移行させようとするグループです。
 ブントは、ユダヤ人の集団であり、正式な名称としては、次の
長い名前を持っていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  リトワニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して第2グループは、帝政ロシアの支配下にある小国
で発生したグループです。傘下には、次のような集団が含まれて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.ポーランド国民民主党 ・・・ ドムスキー党首
  2.ポーランド国民進歩党
  3.フィンランド過激反抗党    シリアスク党首
  4.フィンランド憲法党 ・・・・ カストレン党首
  5.アルメニア革命連合
  6.小ロシア党
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これ以外にも小さい集団はたくさんあるのです。既にEJで取
り上げているシリアスクはフィンランド過激反抗党の党首であり
カストレンはフィンランド憲法党の党首、ポーランド兵士戦線離
脱作戦の実施担当のドムスキーは、ポーランド国民民主党の党首
なのです。
 しかし、これら大小さまざまの集団はお互いに反目し合ってい
て、ひとつにまとまるという考え方はなかったのです。本来の敵
である帝政ロシアを協力して倒すという考え方はまったくなかっ
たといえます。それをひとつにまとめる――そのためにはその前
提として秘密統一集会を開催する必要がある――シリアスクと明
石はこの作戦をストックホルムで、練りに練ったのです。そして
シリアスクは、スイスに向ったのです。
 この当時本国から追われた革命分子は、スイスのジュネーヴに
集まっていたのです。余談ですが、スイスには次の面白い悪口が
あるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スイスにスイス人がいなかったらとても良い国になるだろう
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スイスは風光明媚な土地です。しかし、そこに住むスイス人は
自分の生活基盤を脅かす参入者に対しては断固排除するところが
あるのです。つまり、排他的なのです。
 しかし、そうではない一時的な滞在者に対しては、驚くほど寛
容なところがあるのです。そのため、革命者やスパイなど、一時
的に滞在しようとする者には便利な国なのです。お金についても
スイスの銀行は、どのような性格のお金でも詮索をしないで預か
るし、どんなに圧力をかけても顧客の口座については秘密を守っ
てくれるのです。これがスイスの特徴といえます。
 明石とシリアスクは、統合の鍵を握っているのは第1グループ
の社会民主党であると考えたのです。社会革命党は統一集会を提
案すれば、一も二もなく乗ってくると考えたのです。そして、ス
イスにいた社会民主党の党首であるプレハーノフに会いに行った
のです。
 プレハーノフに会ってシリアクスは、秘密統一集会のことを提
案します。しかし、プレハーノフは、シリアスクの説明には耳を
傾けたのですが、「参加する」というと返事はなかったのです。
 かつて社会民主党には、ウラジミール・ウリヤーノフ――つま
り、若きレーニンがいたのですが、プレハーノフと意見が合わず
既に党を脱退していたのです。
 シリアスクは、続いて自由党の党首、ストルーベに会っていま
す。彼は積極的な人間ではないのですが、秘密統一集会には賛同
したのです。
 続いて、社会革命党、ブント、ポーランド国民民主党などの党
首に次々と会って、秘密統一集会を説いたのです。最も積極的に
賛成したのは、社会革命党の党首、チョルノフだったのです。彼
は、秘密統一集会だけではなく、デモも敢行すべきであるという
過激な提案をしてきたのです。
 レーニンは、一時危険分子として逮捕され、シベリアに流刑に
なっています。しかし、3年後の1900年7月にヨーロッパに
きて、1904年3月にはジュネーヴに落ち着いたのです。やが
て、レーニンは、本拠地をジュネーヴからチューリッヒに移し、
ボリシェヴィキを結成したのです。明石はどのようにして、レー
ニンに会ったのでしょうか。    ・・・[日露戦争/36]


≪画像および関連情報≫
 ・ウラジミール・レーニン
  ウラジミール・レーニンは、本名はウラジーミル・イリイチ
  ・ウリヤノフ。「レーニン」は「レナ川の人」の意である。
  レーニンの名を用いるまで、地下活動の間に約150もの偽
  名を用いていた――カルポフ、ヤーコプ・リヒテル、フレイ
  バシル、ニコライ・レーニンなど。  ――ウィキペディア

レーニン.jpg

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2009年08月31日

●明石/レーニン会談(EJ第1743号)

 社会民主党の機関誌に「イスクラ」というのがあります。この
機関誌はヨーロッパの社会主義者や反ロシア運動、抵抗運動に従
事する人たちの間で圧倒的に売れ、社会民主党の有力な資金源と
なっていたのです。
 レーニンは、この機関紙に力を入れており、社会民主党のプレ
ハーノフ党首との間に意見の違いが起こった出獄以後の時期にお
いても「イスクラ」には書いていたのです。
 ちょうどその頃、明石はパリにいたのですが、シリアスクとカ
ストレンの紹介で、レーニンに会っています。
 明石がレーニンに会った場所は、レーニンのジュネーブの自宅
なのです。その頃、レーニンは、イワン・イリーチ・ウリヤーノ
フと本名を名乗っていたのです。
 当時、レーニンは35歳、明石は40歳です。自宅に招き入れ
られた明石は、パリから持ってきた上等のコニャックを出すと、
レーニンは「いや、私は酒はやりませんので・・」と断ったので
明石は自分で栓を抜くと、手酌で飲み出したのです。
 レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助する話で
あるということは、あらかじめシリアスクからレーニンに伝えら
れていたのですが、レーニンはそれを断ってきたのです。
 レーニンが日本政府の資金援助は受けられないという理由は、
次のような根拠に基づいていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本政府が社会主義運動に理解があるとは考えられない
 2.日本はロシアの敵国、敵国から資金援助は受けられない
 3.資金援助を受けて革命が成就したとき自分は非難される
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石はきっとそうくると考えていたのです。ここから先の対話
は、豊田穣氏の著書から引用させていただきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「レーニンさん、あなたはまた肝心のところで、大きな認識の
 間違いを冒していますぞ!」
 「認識の間違いだと?」
 レーニンは眼を大きくして明石をにらんだ。そのいくらか茶色
 を帯びた黒い瞳をみて、
 ――この男はやはり東洋人だ・・・と明石は考えた。
 「レーニン君、君の祖国は果たしてどこなのかね?」
 「・・・・」
 「君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪
 いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。
 タタール人ではないのか? タタール人の君が、ロシア人の大
 首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといっ
 て、何が裏切りなのかね?」――豊田穣著、『ロシアを倒した
 スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より  光人社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、明石はレーニンにロシア史をぶつのです。そして、次
のようにレーニンに迫ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の
 子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復で
 あって、なんら道義にもとるものではない。かつてフランス、
 ドイツ、デンマーク、スウェーデンは、みな失地回復の戦争を
 やっている。それはすべて正義の戦いなのだ。力を奪われたも
 のは、力を取り戻す・・・それが国際紛争解決の法則なのだ。
 そうではないかね。レーニン君?」    ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レーニンは驚いたのです。彼はこれほどまでに率直にものをい
う人間に会ったことがなかったからです。やがて、レーニンは明
石の申し入れを理解し、次のようにいって、この歴史的会談が終
わったのです。
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 「とにかくムッシュー・アカシ、よくきてくれたよ。われわれ
 は社会主義運動、君は国家のために金をつかう・・・キブ・ア
 ンド・テイクでゆこうじゃないか」。   ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、革命家たちのスイスでの活動が盛んになると、ロ
シアの秘密警察組織――オフラーナの活動は一段と激しいものに
なっていったのです。このオフラーナの頂点にいた人物が内務大
臣プレーヴェなのです。
 プレーヴェは、歴代内務大臣の中でも際立ったタカ派であり、
1902年に大臣になると、強硬な方法で農民蜂起などを取り締
まったのです。彼は、あのペゾブラゾフと結託して、国民の間に
高まりつつある革命機運を弾圧するためには「小さな、さして金
もかからぬ戦争」――日露戦争のこと――を起こし、これに圧勝
して皇帝の威信を示せばよいという考え方で、ウィッテなどと反
対の立場をとってロシアを戦争に導いた張本人でもあるのです。
 もともとロシアの秘密警察――オフラーナは、イワン四世がリ
ボニア(現在のラトヴィアとエストニアの一部)を併合したとき
1200人あまりで組織する「秘密調査隊」を編成したときに始
まるのです。
 このイワン四世の死後、摂政になったのが、オペラで有名なボ
リス・ゴドノフなのです。彼は、秘密調査隊を1万人以上に増強
して、モスクワに本部を移し、外国でのスパイ活動に力を入れる
ようになったのです。
 このプレーヴェ内相――革命組織から見ると、目の上のタンコ
ブであり、なにかとうるさい存在なのです。そこで、プレーヴェ
を暗殺しようという計画が持ち上がったのです。中心になって動
いたのは、社会革命党です。
 周到な計画が練られ、実行に移されたのです。1904年7月
28日――内相プレーヴェの乗った馬車はダイナマイトで爆破さ
れ、暗殺は成功したのです。    ・・・[日露戦争/37]


≪画像および関連情報≫
 ・歌劇『ボリス・ゴドノフ』とは・・・
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   16世紀末、イワン雷帝なき後のロシアの帝位についたの
  は重臣ボリス・ゴドノフだった。しかし、ボリスの皇座には
  血に塗られた秘密が隠されていた。イワン雷帝の子、ドミト
  リー皇太子を暗殺していたのである。
   ボリスは、権力保持の欲望と良心の呵責にさいなまれる。
  一方、ロシア史の編纂に携わる老修道僧ピーメンに仕えるグ
  リゴリーは、ドミトリーの復讐を決意する。彼は、自らをド
  ミトリー皇太子と名乗って、リトアニアの国境近くへと向か
  う。やがて、偽ドミトリー皇太子は、ポーランドの支持を得
  て叛乱軍を組織しモスクワへと進軍してくる。ボリスの苦悩
  は、クレムリンを錯乱と狂気にかりたてていくのだった。
  http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/Douran/rosia1.htm
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豊田 穣氏の本
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