2009年07月01日

●借金は新支部設立のためのもの(EJ第1987号)

 EJ第1984号において、モーツァルトが死亡した時点での
借金総額は約4000フローリンと述べましたが、それを証明す
る借用書などは一切残っていないのです。したがって、本当のと
ころ、一体どのくらい借りていたのか、その使途は何なのか、そ
れらの借金は返済されたのか、そのままなのかなどについてはわ
かっていないのです。
 しかし、そういう状況において、ひとつ貸借関係がはっきりし
ている事実があります。それは、1791年11月に出された次
の判決文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはリヒノフスキーに対して、1435フローリン
 32クロイツァーの未返済金があることを認定する。直ちにそ
 の金員をリヒノフスキーに支払え        ――裁判所
―――――――――――――――――――――――――――――
 この1435フローリンはあくまで1791年春の時点での未
返済残高であって、実際に借りていた額はそれよりも多いと考え
られます。もっと多く借りていて、モーツァルトが何回か返済し
残っていた額と考えられるのです。
 これ以外の大口としては、金融業者ラッケンバッヒャーからの
約1000フローリンの借金があります。これについては借用証
書が残っているのです。その一部をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はここに以上の借金を確かに受納したことを確認するととも
 に、以下の責任を負いました。私、私の相続人、子孫はこの元
 金を前記の貸主、その相続人、又は新たな債権者に2年後の本
 日、予告なく、前記と同じ金種により、何等の抗弁なく返還致
 します。但し同貨幣により百分の五の利子をつけます。この利
 子は私の元金返還の期限が切れ、貸主が利子その他の費用を請
 求できるようになった時、半年の期限をもって遅滞なく当ヴィ
 ーンにて支払います。元金および利子の担保として私は私の全
 ての家財を貸主に差出します。私及び指定の証人の自署による
 証書と致します。     証人 マティアス・ブリュンナー
              証人  アントーン・ハインドル
――既出/藤澤修治氏論文より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この借用書によると、モーツァルトの動産が抵当に入っている
ことがわかりますが、それはモーツァルトが所有していたとみら
れる膨大な銀製品ではないかと思われます。モーツァルトは宮廷
や貴族の屋敷などで演奏会を開いたとき、贈り物として、銀の食
器などを大量に拝領していたのです。
 しかし、モーツァルトの死後作成された遺産目録には、それら
の銀製品は一切なかったのです。そして何よりも不思議なのは、
債権者リストにラッケンバッヒャーの名前はなかったのです。こ
れはおそらくこの借金が自分たちに及ぶことを知っていたコンス
タンツェによって返済されたと考えられるのです。
 それからもうひとつ、既に述べたように証文などは一切ないが
モーツァルトはプフベルクに対して、全15回――計1415フ
ローリンを借りていたことがわかっています。プフベルクはモー
ツァルトよりも15歳年上の裕福な織物商人であり、大変な音楽
好きだったのです。そういうこともあってか、モーツァルトは何
回もプフベルクに金の無心をしているのです。
 これに対してプフベルクは、モーツァルトの要求額よりも小額
ではあったが、そのつど用立てていたことがモーツァルトが彼に
宛てた手紙でわかっています。モーツァルトはプフベルクの他に
も裕福な友人を多くもっていたのに、なぜプフベルクばかりに無
心をいったのでしょうか。
 推測の域を出ないものですが、おそらくリヒノフスキーとプフ
ベルクの2人はモーツァルトが「洞窟」を設立しようとしていた
ことを知っており、そのための融資であったと思われるのです。
なぜなら、リヒノフスキーとプフベルクは、フリーメーソンの同
志だったからです。
 当時の秘密結社への厳しい管理下においては、よほど信頼でき
る人でないと、真実を打ち明けるのは危険であったのです。当時
は秘密警察によって、市民の手紙の検閲も行われていたのです。
そうであるとすると、いわゆる「プフベルク書簡」の奇妙な書き
出しの謎が解けてきます。
 既出の藤澤修治氏は、プフベルクへの書簡の冒頭はフリーメー
ソン特有の言葉が使われていることを指摘しています。モーツァ
ルトは、手紙の書き出しに「尊敬する最愛、最上の友よ!」とか
「この上なく尊敬する盟友」とか、「真の友人」とかいう言葉を
使っていますが、これはフリーメーソン結社員同士の挨拶でよく
使われる言葉なのです。
 こういう書き出しで始まるプフベルクへの借金の申し入れの手
紙についてはその使途を一切書いていないのです。それは、新支
部設立のための資金であるという暗黙の了解があったのではない
かというのです。
 モーツァルトがプフベルクに出した手紙は20通ほどあるので
すが、そのうち借金の使途について書かれたものは3通しかない
のです。そして使途の書かれた借金は、10〜30フローリンの
小額のものだったのです。
 リヒノフスキーとプフベルク――この2人からの借金は、モー
ツァルト自身が返済したものを含めると、3500フローリンほ
どになったものと思われます。そして、その資金は、新支部「洞
窟」の設立資金に使われたとみられるのです。
 モーツァルトはなぜフリーメーソンの新しい支部を作ろうとし
たのでしょうか。それは、音楽家の地位を向上させることにあっ
たのではないかと思われます。当時はモーツァルトのような才能
のある音楽家ですら、地位が安定せず、不安定な収入に甘んじざ
るを得なかったからです。   ・・・[モーツァルト/65]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとカトリック信仰
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトはたしかに、一度も公然とカトリックの信仰を
  否認しているわけではない。しかし、彼の最期にさいし、臨
  終の儀式をとりしきる司祭を探し出すことは困難だった。・
  ・・モーツァルトの考えは、明らかに異教的と見なされてい
  た。彼が啓明団の結社員たちと親交があるだけで、司祭たち
  の眼には、彼を非難するのに十分だった。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

王宮公園/モーツァルトの記念碑.jpg
王宮公園/モーツァルトの記念碑

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2009年07月02日

●3大交響曲も資金繰りの一環か(EJ第1988号)

 1788年――この年は、父のレオポルトが亡くなった次の年
であり、モーツァルトが「洞窟」の設立に向けて具体的な準備に
入ったとみられる年です。
 1787年から88年にかけてのモーツァルトの懐具合は決し
て悪くなかったはずです。1787年は、プラハで歌劇『ドン・
ジョバンニ』が大当たりし、ウィーンに帰ってくると、皇帝ヨー
ゼフ2世から呼び出され、同年12月1日付で宮廷作曲家の地位
を与えられているのです。
 それに父のレオポルトがモーツァルトのために残した1000
フローリンのお金も入っているのです。このお金のいきさつにつ
いては、EJ第1938号に書いてあります。
 しかし、モーツァルトはこの年にウィーンの聴衆には冷たくさ
れ、ほとんど演奏会を開くことはできなかったのです。もちろん
サリエリらの宮廷音楽家たちの陰謀によるものです。
 そのためモーツァルトはプラハで稼ぎ、その後もプラハで作曲
活動を続けてくれれば、『ドン・ジョバンニ』と同じ条件で報酬
を支払うという良い提案を受けていたのに、それを断って仕事に
ならないウィーンに戻っているのです。もし、プラハで仕事を続
けていれば間違いなく1000フローリンを手にすることができ
ていたのに、あえてウィーンに戻ってきているのです。
 どうして、ウィーンに戻ってきたのでしょうか。
 一説によると、モーツァルトがウィーンに戻ったのは、グルッ
クが死亡したためといわれています。しかし、モーツァルトとグ
ルックとの付き合いはハイドンほど深くはなく、稼ぎの良い仕事
を放り出してまで戻るほどのことはなかったのです。もっとも、
グルックが死んだおかげで、モーツァルトは宮廷作曲家の地位を
手にすることができたことは確かなのですが・・・。
 そして、1788年からモーツァルトは、巨額の借金を最期の
年である1791年まで積み重ねるのです。これらの借金は、明
らかに「洞窟」設立のための準備資金と見ることができます。当
時生活には困っていなかったからです。そして、あえてウィーン
に戻った理由も新支部設立のためだったと考えられます。
 1788年6月にモーツァルトは、プフベルクに対して次のよ
うな手紙を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もしあなたが1年か2年、1000もしくは2000フローリ
 ンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛
 と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けになる
 でしょう!        ――1788年6月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうみてもこれは生活資金のための借金申し込みとは思えない
のです。金額が大き過ぎるからです。しかし、「洞窟」設立のた
めの資金と考えると、納得がいくのです。
 しかし、これに関してプフベルクは、200フローリンしか用
立てませんでした。プフベルクは、モーツァルトの要求に対して
誠実に応えているのですが、つねに要求よりも控え目の資金しか
用立てていないのです。その代りそのお金が返済されなくても請
求しないし、重ね貸しを許しているのです。
 1000〜2000フローリン必要なのに200フローリンし
か入らない――モーツァルトはどう対応したのでしょうか。
 確かな証拠はないのですが、そのとき、もうひとつの借り手で
あるリヒノフスキー侯爵から借りたことは十分考えられます。そ
れは、それから1年間というものモーツァルトはプフベルクに金
の無心をしていないからです。
 このリヒノフスキー侯爵からの借り入れのほかに、モーツァル
トは自分の能力を使って資金作りをした可能性があります。それ
が、あの3大交響曲の作曲なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交響曲第39番/KV543 ・・・ 1788.6.26
 交響曲第40番/KV550 ・・・ 1788.7.25
 交響曲第41番/KV551 ・・・ 1788.8.10
―――――――――――――――――――――――――――――
 後世に完成度の高い交響曲として残っているこれら3曲の交響
曲は、1788年6月26日から8月10日までの3ヶ月ですべ
て完成しているのです。そのためこれら3曲は明らかにワンセッ
トであると考えられるのです。
 「3」という数字がフリーメーソンにとって重要な数字である
ことは既に述べていますが、交響曲3曲を3ヶ月で完成させて、
それによる資金を「洞窟」設立のために使おう――モーツァルト
はそのように考えたのではないかと思われます。
 このように考えてくると、リヒノフスキーの申し出で1789
年4月に奇妙な旅に出る理由が推察できるのです。これについて
EJ第1939号では、サリエリらの陰謀によるものと書きまし
たが、どうもそうではないようなのです。
 おそらくリヒノフスキーは1788年にモーツァルトに貸した
お金が約定通り戻ってこないので、その返済資金をモーツァルト
に作らせるため、リヒノフスキーが土地勘のあるドイツ旅行を提
案したのではないかといわれているのです。現地でモーツァルト
に演奏会を行わせ、返済資金を稼がせようというわけです。
 しかし、この旅行は準備不足のためか、ほとんど所期の目的を
達成することなく終っているのです。そのためかえってモーツァ
ルトの借金の総額は増えてしまっています。いずれにしても、リ
ヒノフスキーとモーツァルトの北ドイツ旅行は多くの謎に包まれ
ており、真相はわかっていないのです。
 結局、リヒノフスキーへの返済は一部はモーツァルトから返済
があったものの、1791年になっても完済されず、リヒノフス
キーは、1791年春に裁判所にモーツァルトに対する貸金返還
訴訟を起こすのです。そしてその判決が1791年11月に出さ
れたのです。しかし、その直後にモーツァルトが急死してしまう
ことになります。       ・・・[モーツァルト/66]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの6大交響曲について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーノンクールが38番以降を指揮したこのセットは、モー
  ツァルト没後200年追悼演奏会のライブ録音だ。4曲とも
  各主題の性格を明確に浮き上がらせ、強弱や明暗などのコン
  トラストも鮮烈な革新的演奏。伝統的な演奏ならレナード・
  バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤やカール・ベーム指
  揮ベルリン・フィル盤を。
  http://music.jp.msn.com/special/classic/harnoncourt.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルトの肖像.jpg
モーツァルトの肖像
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2009年07月03日

●新支部『洞窟』設立の断念(EJ第1989号)

 モーツァルトのテーマは今日を含めてあと4回になります。い
よいよ大詰めです。
 1788年6月にモーツァルトはプフベルクに1000〜20
00フローリンの借金を申し込み、200フローリンを送金して
もらっています。それから1年というものモーツァルトはプフベ
ルクに対してお金の無心をしていないのです。
 しかし、ちょうど1年後の1789年7月12日にモーツァル
トは、またプフベルクに500フローリンの借金を申し入れる手
紙を書いています。その手紙には次の奇妙な一文があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 とろこが、別の面で不幸な状況が見えてきました。――もちろ
 ん、ほんの一時だけのことです!――最愛、最上の友にして盟
 友よ。あなたは私の目下の状況をご存知です。でも、私の今後
 の展望もご承知です。私たちが話し合った例のことについては
 そのまま変わっていません。あれやこれや、お分かりのことと
 思います。      ――1789年7月12日の手紙より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既出の藤澤修治氏の論文によると、「別の面で不幸な状況」と
は、その時点から3ヶ月前に「真理」支部が解散届けを出したこ
とを指しているというのです。
 モーツァルト自身は「新・授冠の希望」支部に属していたので
すが、2つしかないもう一つの支部である啓明結社系の「真理」
の方に惹かれていたのです。「新・授冠の希望」はもともと薔薇
十字団系であり、所属している会員には貴族が多く、モーツァル
トには合わなかったからです。
 その「真理」支部が解散に追い込まれたことにより、フリーメ
ーソンに動揺が走ったのです。そのため、モーツァルトの作る新
支部「洞窟」に参加しようとしていた人まで、フリーメーソンを
脱会する動きが起こったのです。
 さらに藤澤氏は7月12日の手紙の中の「私の今後の展望」と
はモーツァルトが新支部を作る決心を指し、「私たちが話し合っ
た例のこと」は、新支部「洞窟」の設立であると述べています。
つまり、「真理」が解散ということになっても、「洞窟」という
新支部を作る決意は揺らいでないので、500フローリン貸して
欲しいとモーツァルトはプフベルクに懇願しているわけです。
 モーツァルトは秘密警察による手紙の検閲を恐れて、こういう
言い回しの手紙をプフベルクに送ったのです。しかし、これに対
してプフベルクはモーツァルトに返事をしなかったのです。
 そこでモーツァルトは、プフベルクに7月17日に再度手紙を
送って次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あなたの友情の数々の証しとこのたびの私のお願いとを考え合
 わせますと、あなたのお怒りもまったく当然だと思います。し
 かしまた、私の不幸な状況――これは厳密にいえば私の責任で
 はありませんが――とあなたの友情にあふれたお気持ちとを考
 え合わせますと、やはり私が弁解するのも理のあることだと思
 います。       ――モーツァルトの7月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手紙の中の「私の不幸な状況」とは、「真理」支部が解散
届けを出したことを指しています。そして、モーツァルトは、そ
のことは自分の責任ではなく、それを弁解するのは理のないこと
ではないといっているのです。これだけ見ても、この手紙が単な
る借金の依頼状でないことがわかります。
 この手紙を受けたプフベルクは、モーツァルトの窮状を察して
150フローリンを送っているのです。さらにモーツァルトは同
じ年の年末にプフベルクに400フローリンの無心をしているの
ですが、この時点では「洞窟」の設立は困難な状況に追い込まれ
ていたもものと推定されます。
 新しい支部を設立するには、そのための打ち合わせに使う会議
室の賃料、そのさいの飲食代、会議資料の印刷代、会員を勧誘す
るための旅費を含む諸経費など、いろいろお金がかかるのです。
支部ができてしまえば、会費を徴収してこれらの経費を賄えるの
ですが、それまでは誰かがそれを立て替える必要があり、モーツ
ァルトがその資金を調達したのです。
 実はプフベルクは「真理」支部の会計を担当していたので、モ
ーァルトの要求してくる資金の見当がついたのです。したがって
プフベルクはモーツァルトの要求を冷静に判断していつも適切な
金額を送金していたのです。何といってもモーツァルトは不定期
には大金は入るものの固定収入がないので、どうしても一時の借
金に頼らざるを得ない財務体質なのです。
 そういうプフベルクは1789年の年末のモーツァルトの資金
要求――400フローリンに対して、300フローリンを送金し
ています。これはプフベルクがモーツァルトに送金した金額では
最高の金額ですが、これは「洞窟」設立断念のための幕引き整理
資金と見ることができます。
 そして、1790年という年はモーツァルトの作曲活動が最も
低調な年なのです。おそらく「洞窟」設立断念がモーツァルトの
作曲の足を引っ張ったものと考えられるのです。
 しかし、これを観察していたコンスタンツェとセシリアは、借
金が増えて人気が地に落ちたモーツァルトに早々と見切りをして
いたと考えられるのです。それは、1791年の春に起こされた
リヒノフスキーによるモーツァルトへの貸金返還訴訟でおそらく
確信に変わったと思えるのです。
 そう考えると、死の直前の歌劇『魔笛』の大成功とその後の音
楽家としてのモーツァルトの高い評価の定着は、1790年時点
では予測することがいかに困難であったかがわかります。フリー
メーソンを扱った『魔笛』の成功こそ、モーツァルトにとって一
発逆転さよなら満塁ホームランぐらいの価値があったといえると
思います。          ・・・[モーツァルト/67]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトは人に金を貸していたという話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ここでモーツァルトの金銭貸借に関してまだ解かれていない
  新しい謎について言及しなければなるまい。それは遺産整理
  の時に判明したのだが、彼はクラリネット奏者アントーン・
  シュタードラーに500フローリンもの金を貸していた。こ
  れは中流家庭の1年間の生計費に匹敵する大金だが、一方で
  恒常的に借金を続けたモーツァルトが、他方で貸金を持って
  いたというのは意外だ。これについて、いつ、どんな目的で
  これが貸されたかを解いた説は現在までない。
       ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの借金」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part1.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「夜の女王」のアリア.jpg
夜の女王」のアリア
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2009年07月06日

●新支部づくりの真の狙いは何か(EJ第1990号)

 それにしてもモーツァルトは、巨額の借金までして、なぜ、フ
リーメーソンの新支部を作ろうとしたのでしょうか。これについ
て、アルフレート・アインシュタインは、その著書において次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトを結社に飛び込ませたのには、おそらく彼の芸術
 家としての深い孤独感と、心からの友情への欲求も、あずかっ
 て力があったのだろう。アルコ伯爵によって足蹴にされ、大司
 教コロレドによって召使あつかいされたモーツァルトは、結社
 においては、天才を持つ一人の人間として貴族と同列であり、
 同権であった。   ――アルフレート・アインシュタイン著
           『モーツァルト/その人間と作品』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既に述べたように、モーツァルトが生きていた時代は、音楽家
の地位は低く、王侯・貴族の召使いでしかなかったのです。しか
し、フリーメーソンではそういう音楽家でも貴族と同じように扱
われる――モーツァルトの求めたのはこれであるとアインシュタ
インはいっているのです。
 しかし、モーツァルトは自分自身が貴族と同列に扱われたいと
いう考え方のみで新支部「洞窟」の創設を目指したのではなく、
フリーメーソンという組織に力を与えて、当時の封建領主体制を
改革したいと考えたのではないかと思われます。モーツァルトと
しては、フリーメーソン活動を今後強化していけば、きっとそれ
は実現されると考えたのです。
 この考え方は決して間違っていなかったと思うのです。どうし
てかというと、体制側がフリーメーソン活動を禁止したり、制限
するようになったからです。それは裏返すと、フリーメーソン活
動をそのままに放置すると、それが体制転覆につながる恐れがあ
ると体制側が判断したからでしょう。
 モーツァルトにとっては、音楽が貴族たちの占有物になってい
る現実はどうしても受け入れることができなかったのです。音楽
は身分に関係なく万人のためのものでなければならないと考えた
からです。しかし、これが実現するには封建領主体制が変わらな
ければならないのです。
 ちょうどそういう旧体制を否定する啓蒙主義運動が盛んになり
その思想を受け継いだフリーメーソン――とくに啓明結社系のフ
リーメーソン活動にモーツァルトは光を見出したのです。
 しかし、そのフリーメーソン活動が体制側の弾圧政策によって
制限され、支部が解散に追い込まれて力を失っていく――これで
はいけないとモーツァルトは思ったのです。そこで、音楽家であ
る自分が中心となって理想的な支部を作ろうと考えて、「洞窟」
設立に動いたのです。理想的な支部を作り、体制を変えようとし
たのですが、頼みの綱ともいうべき「真理」支部が解散し、資金
づくりの面も万策尽きたという感じです。
 モーツァルトは「真理」を率いていたイグナーツ・フォン・ボ
ルンを心から尊敬していたのです。ボルンとは、どういう人物で
あったのでしょうか。同時代のある著名人はボルンについて次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほど会って話を聞きたくなる人物は他にはいまい。余り書
 かなかったけれども、彼の語ることはすべて公刊されるべきで
 ある。というのは、それは必ず機智があって有意義であり、彼
 の風刺に悪意はないからである・・・彼は教父たちの著作から
 おとぎ話にいたるまで何でもよく読んでおり、調べてもいる。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンは1785年の啓明団への迫害のさなかに、パヴァ
リア科学アカデミーへ辞表を提出し、公然とパヴァリア政府のと
った行動に抗議する次の声明を発表しているのです。これは大変
勇気のいる行為であったといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は自分が無知な坊主(教会の祭司)どもと真っ向から対決す
 る人間であることをはっきり言っておきたい。・・・彼等に若
 者たちの教育をけっしてゆだねるべきではない。ジェスイット
 リー(イエズス会の教説)とかファナティシズム(狂信主義)
 という用語は、詐欺、無知、迷信、愚昧と同義語でありうると
 断言しておく。要するに、私の見解は、パヴァリア政府の公式
 見解と思われるものと全面的に対立しているのである。
           ――キャサリン・トムソンの上掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンが率いる「真理」が解散したのです。いや、強権で
解散させられたというのが正しいかもしれないのです。それほど
当時は、フリーメーソンであり続けることは大変なことだったの
です。そのため多くのフリーメーソンたちは、フリーメーソンで
あることを断念し、会員が減って、支部というものが成り立ちに
くい状況になっていたのです。
 そんな時代にモーツァルトはフリーメーソンをやめるどころか
新しい支部を作ろうとしていたのですから、「音楽を万人のもの
にする」という彼の情熱は強いものがあったのです。しかし、結
局のところ新しい支部「洞窟」の設立は幻に終わったのです。
 このように考えると、そのショックから立ち直ったモーツァル
トの最後の年1791年の後半に作り上げた歌劇『魔笛』の評価
が違ったものになるといえます。
 既に述べたように、『魔笛』の基本構成については、ボルンが
深くかかわっていると見られており、表面的にはたわいないおと
ぎ噺のかたちを取りながら、そこにフリーメーソンの思想が盛り
込まれている作品になっているからです。モーツァルトは音楽に
よってフリーメーソンの思想を伝えようとしたのではないでしょ
うか。            ・・・[モーツァルト/68]


≪画像および関連情報≫
 ・イグナーツ・フォン・ボルンと『魔笛』の関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ボルンの名前は、現存のモーツァルトの手紙には登場しない
  が、二人が親しかったことを示すたしかな証拠は存在する。
  『魔笛』を作曲する前年の1790年の夏にモーツァルトが
  ドロテーアガッセのボルンの家を訪れたことが現在では判明
  している。ボルンがザラストロの原型であったとみる伝説が
  あるし、彼がこの台本の企画に手を貸したという説もある。
  エジプトの秘儀にかんするボルンの論稿がその祭儀の場面の
  ための素材の一つであることは明らかだ。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

パパゲーノ/パパゲーナ.jpg
パパゲーノ/パパゲーナ
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2009年07月07日

●一般の印象と異なるモーツァルトがいる(EJ第1991号)

 今回のテーマ「モーツァルトをめぐる謎の解明に挑戦する」を
書き続けて今回でちょうど69回目です。このテーマは、明日の
8日に終了しますので、全70回になります。
 この間、同じ内容をブログでも公開していますが、このテーマ
になってから、次のようなアクセス数になっています。私のブロ
グは今まで一日来訪者500人は記録したことはないのですが、
491人を記録しました。あと一息です。世の中にモーツァルト
・ファンは多いものだと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  平均正味訪問者数 ・・・  350人〜 450人
  総ページビュー数 ・・・ 1000回〜1200回
      http://electronic-journal.seesaa.net/
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでモーツァルトについて書いてきて気がついたことが3
つあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.世間一般が認識しているモーツァルト像と実際のモーツァ
   ルトとはかなりのずれがあると思われること
 2.モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトの生きた時
   代背景を十分考えて彼を評価していないこと
 3.モーツァルトは音楽の万人解放をめざして当時の封建領主
   体制と戦った改革者としての側面があること
―――――――――――――――――――――――――――――
 世間一般が考えているモーツァルト像とは一体どのようなもの
なのでしょうか。
 それは、映画『アマデウス』に登場するモーツァルト――トム
・ハルス演ずる、あのモーツァルトではないでしょうか。時とし
て、奇妙な振る舞いをするあのモーツァルトです。
 トム・ハルス演ずるモーツァルトは、私がここまで調べてきて
分かったモーツァルトとは大きく異なっています。映画『アマデ
ウス』の脚本家、ピーター・シェーファーは、サリエリを中心に
モーツァルトをとらえています。つまり、サリエリを通して見た
モーツァルト像なのです。話の中心はなかば狂人化したサリエリ
の回想というかたちをとっており、真のモーツァルト像に迫って
いないのです。「クラシック・ジャーナル」の編集長である中川
右介氏は、サリエリについて面白いことをいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリは、モーツァルトが永遠に語り継がれる偉大な音楽家
 であることを認識していた。それに比べて自分はどうか?宮廷
 音楽家としてポストに就いていた頃はちやほやされていたけれ
 ど、晩年は忘れられていた。当然、死ねば完全に忘れられる。
 それはいやだ。そこで、考えた。自分の名を永遠に残すために
 は、いっそ『モーツァルトの敵』になればいい。『モーツァル
 トを殺した男』になれば、モーツァルトが語られるたびに、そ
 の悲劇の最期をもたらした男として自分の名も永遠に残るであ
 ろう、と。そこで、自分がモーツァルトを殺した、と言い出し
 た。 ――中川右介著、『モーツァルト・ミステリーツアー』
                  ゴマブックス株式会社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリの狙いは見事に成功したといえます。モーツァルトの
死後200年以上経って映画『アマデウス』が制作され、そこで
多くの人がサリエリという音楽家がいたことを知る。そして、サ
リエリの音楽を聴いてみようというニーズが出てきて、CDまで
発売されているのです。
 それはさておき、モーツァルトは家族思いの大変真面目な青年
であって、映画のトム・ハルスが演ずるモーツァルト――奇妙な
クセのある大まかで浪費家のモーツァルトとは、大きく性格が異
なるのです。
 モーツァルトが几帳面な人間であったことは、彼の遺した膨大
な手紙によって知ることができます。現在のように電話もメール
もなかった時代において、手紙が唯一の連絡を取る手段だったと
はいえ、実に入念に書かれております。
 もうひとつ、1784年頃からモーツァルトは家計簿をつけて
いたことがわかっています。彼は金銭管理に気を配る人間だった
のです。そういう人間が浪費をするとはとても思えないのです。
浪費的性格の強いのは、むしろ妻のコンスタンツェの方であって
モーツァルトではないのです。
 ところが、そのコンスタンツェの方は、モーツァルトをどう見
ていたのでしようか。既出の藤澤修治氏の論文では、コンスタン
ツェの第2の夫であるニッセンによる『モーツァルト伝』の次の
一文を引用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・そして気だてのよい妻は大目に見ていたが、彼には数々
 の色恋沙汰があった。さらにくわえて、彼は極端から極端へと
 走った。また、決まった俸給はなく、詩人や巨匠にはごく普通
 のことだったが、よい夫とは言えず、お金儲けにはうとく、お
 金を数週間やりくりすることを知らなかった。彼にはお金の価
 値がまったくわかっていなかった。仕事が途切れているときに
 は、彼はしばしば妻や子供たちと苦しい生活を送らねばならず
 債権者の厚かましい催促に閉口していた。しかし、ルイドール
 (昔のフランス金貨)がいくらか手に入ろうものなら、事態は
 一変した。今や有頂天になってしまうのだ。モーツァルトは、
 シャンペンとトカワインに酔い、しまりのない生活をし、数日
 で以前と同じ経済状態になってしまった。
        ――ニッセン著、『モーツァルトの生涯』より
 ――――――――――――――――――――――――――――
 妻から見たモーツァルトの実像は、実際とは大きく異なってい
るのです。          ・・・[モーツァルト/69]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  経済状態が改善された後に彼女が行ったのは、嘗て母親が営
  んでいたような下宿開くことであった。そこに現れたのが、
  1793年2月に公使館参事としてウィーンにやって来たデ
  ンマーク人のゲオルク・ニッセンである。コンスタンツェは
  彼と同棲し、後に彼がウィーンjを離れる際に正式に結婚し
  ている。ニッセンは後にモーツァルトの伝記「モーツァルト
  伝」を書く人物であるが、コンスタンツェに残された2人の
  息子を母親以上に愛し良い父親となった。
 http://homepage3.nifty.com/classicair/feuture/fueture_41.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

映画『アマデウス』より.jpg
映画『アマデウス』より
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2009年07月08日

●コンスタンツェから見たモーツァルト像(EJ第1992号)

 「死人に口なし」とはよくいったものです。昨日のEJの最後
にご紹介しているコンツタンツェから見たモーツァルト像――死
後に最も近い関係にあった妻からあのようにいわれてしまったら
その評価が歴史的に定着してしまいます。それに対して、死んで
しまったモーツァルトは何もいい返すことはできないからです。
 妻のコンスタンツェが述べたモーツァルトの実像をまとめると
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.妻がいるのに、数々の色恋沙汰を抱えていたこと
  2.決まった報酬がないので、苦しい生活が長く続く
  3.お金儲けには疎く、金をやりくりする才覚がない
  4.金の入る予定があるとそれをあてにして浪費する
―――――――――――――――――――――――――――――
 1については後で述べるとして、「決まった報酬がない」とい
うのは事実に反するのです。1787年12月にモーツァルトは
宮廷音楽家の地位を手に入れ、年俸800フローリンを得ている
のです。この額はけっして多くはありませんが、これだけでも節
約すれば十分生活ができたのです。
 まして、モーツァルトには作曲などで別途収入があり、その額
は年俸にして2000フローリンを超えていたと考えられるので
す。これだけあれば、庶民レベルをはるかに超えた生活ができた
はずなのです。
 しかし、3の「お金儲けには疎い」ということについては、確
かにそういうところはあったと思います。コンスタンツェからい
わせると、一方に儲け話があるのに、わけのわからぬフリーメー
ソン活動などに金を注ぎ込むことに不満があったのでしょう。
 そのためかコンスタンツェはモーツァルトの死後、手紙を含め
て、フリーメーソンに関わる一切の資料を破棄してしまっていま
す。もっともこれは、秘密警察の摘発を恐れてやったことかも知
れませんが、少なくともコンスタンツェがこの運動に賛成してい
なかったことは確かなことなのです。
 しかし、4の浪費癖に関しては完全に事実と違う指摘をしてい
ます。むしろ浪費癖があったのは、コンスタンツェの方であると
いえます。それは、コンスタンツェが脚の治療と称してバーデン
に行き、連夜のパーティにふけっていたことで明らかです。前に
も述べましたが、コンスタンツェの病気は大したことはなく、も
しかすると仮病かもしれないという説もあるのです。
 もちろん妻のバーデンでの行状はモーツァルトの耳にも達して
いて、モーツァルトが注意を与えている次のような手紙も残って
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ぼくはきみがバーデンで楽しんでいるのはうれしい――もちろ
 んうれしいが、しかしきみはときどき安っぽく振る舞うけれど
 そういうことはぜひ慎んでもらいたいのだ。きみは××にあま
 りにもなれなれしくしすぎる。別な××とも、彼がまだバーデ
 ンにいたときだが同じだった。きみは以前、あまりにすぐ人の
 言いなりになる傾向があることをぼくに認めたことがあるね。
       ――1789年8月/モーツァルトの妻への手紙
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
−−―――――――――――――――――――――――――――
 手紙の中で「××」となっている部分は削除されており、人物
を特定できませんが、妻のバーデンでの行状にモーツァルトが悩
んでいたことは確かなようです。
 実は、コンスタンツェがバーデンでこのように振舞っていたの
にはわけがあります。それは、上記1のモーツァルトの「数々の
色恋沙汰」の件です。モーツァルトの女性関係についてはいろい
ろな説があるのですが、あったことは事実のようです。したがっ
て、コンスタンツェのバーデンでの行状は彼女の夫に対するあて
つけではないかといわれているのです。
 上記の手紙が出された1789年頃のモーツァルトとコンスタ
ンツェの夫婦仲は、かなり問題があったとする説が多く出てきて
います。これに対してモーツァルトはあれほど多くの手紙をコン
スタンツェに送っており、妻を気遣っているではないかという指
摘もあります。
 確かにコンスタンツェに対する手紙は数多くあり、モーツァル
トの妻に対する愛情を感ずるのは確かですが、これはむしろ気ま
ずくなってしまっている夫婦仲をさらに壊したくないというモー
ツァルトの気持のあらわれであるという見方もあるのです。
 その中に、コンスタンツェとして、どうしても許せない女性が
一人いたはずなのです。それが、コンスタンツェの姉でモーツァ
ルトの初恋の人、アロイジア・ランゲなのです。モーツァルトと
アロイジア・ランゲとの関係については、既出の藤澤修治の次の
論文に詳しいので、ぜひ参照されることをお勧めします。
―――――――――――――――――――――――――――――
  藤澤修治氏論文「モーツァルトの夫婦愛と永遠の恋人」
     http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトには謎がたくさんあります。モーツァルトの音楽
をこよなく愛するファンにとっては、そういうことをあからさま
にされることはけっして愉快なことではないでしょう。
 しかし、そういう事実に目を塞ぐことなく、歴史的背景を含め
てモーツァルトを取り巻く事情を十分掴んだ上で彼の音楽を聴い
た方が、一層モーツァルトの音楽が理解できると思います。まだ
まだ書くことはたくさんありますが、モーツァルトのテーマは、
これで終ります。長い間のご愛読を感謝いたします。
 明日からは「日露戦争」を掲載いたします。乞うご期待。
               ・・・[モーツァルト/70]


≪画像および関連情報≫
 ・藤澤修治氏の論文より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  探ってみれば、コンスタンツェがモーツァルトに対して腹に
  据えかねると思うようなことはいくつもあった。そんなとこ
  ろに自分の姉と夫に不倫があったと彼女は知ったのである。
  これでは、コンスタンツェの髪が逆立って、殺してやりたい
  ほどの感情を彼女が抱いたとしても不思議はない。こういっ
  たことも手伝って、やがて彼女は自分の母親にそそのかされ
  て夫の死に関与してしまうという、取り返しのつかない犯罪
  行為に手を染めたのである。
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

アロイジア・ランゲ.jpg
アロイジア・ランゲ
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2009年07月09日

●第0次世界大戦としての日露戦争(EJ第1707号)

 本日からはじまる新しいテーマは「日露戦争」です。これは
2005年11月16日から2006年1月23日まで52回
にわたって連載したものであることをお断りしておきます。
 なぜ、日露戦争なのかについては、3つほど理由があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日露戦争は100周年という節目を迎えており、振り返
   ることは懸案諸国との外交を考えるときに役に立つ。
 2.日露戦争は20世紀に入ってはじめての大戦争であり、
   この戦争を第ゼロ次世界大戦と命名する学者もいる。
 3.巷間伝えられている日露戦争には創作部分があり、この
   戦争の真実の姿を追求することには意義があること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本がロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを御前
会議で決めたのは、1904年2月4日のことです。それから、
実に101年の歳月が流れており、大きな節目を迎えています。
 現在、日本はロシアとの間に北方領土問題、北朝鮮や韓国、中
国ともさまざまな外交問題を抱えています。日露戦争はこれらの
問題と深い関わりがあり、日露戦争の真実を知ることは、これら
の懸案事項の解決を考えるとき役に立つと思います。
 もうひとつ、20世紀は総力戦と地球規模の紛争の世紀である
といわれますが、日露戦争は20世紀に入ってはじめての大きな
戦争であり、それ以後の戦争に大きな影響を与えたということが
いえると思います。日本のようなアジアの勢力が帝国主義の争い
に加わり、欧州の大国と対峙した、まさに最初の戦争が日露戦争
だったというわけです。
 米ジョージア・サザン大学準教授ジョン・スタインバーグ氏は
日露戦争を「第ゼロ次世界大戦」と命名しているのですが、その
根拠としているのは次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.この戦争に日露両国は当時としては前例のない水準の兵
   員を動員して戦っていること。
 2.日露戦争は10年後に起こる第1次世界大戦と軍事技術
   において非常に似ていること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに、スタインバーグ氏は世界大戦という以上、いろいろな
面で他国を巻き込むことになるが、そのひとつに戦費調達という
側面があると指摘しています。
 日露戦争では、日本は戦費を工面するため米国のシンジケート
に多額の資金を借り入れているし、ロシアはフランスやドイツを
頼って資金調達しており、戦争の資金調達をめぐっても国際的な
のです。しかし、軍事資金は戦争が消耗戦の様相を呈するに及ん
で調達が困難になり、日露双方は中途半端な終戦調停を結ぶこと
になったのです。
 軍事技術において第1次大戦に似ている点というのは、当時の
主要な戦闘がすべて行われていることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.海 上 戦
           2.機動作戦
           3.包 囲 戦
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時の国家は将来の海戦に備えて、いわゆる戦艦という名の大
艦を保有していたのですが、実際に大艦による海戦がはじめて行
われたのは日露戦争が最初だったのです。日本海海戦はその代表
的なものです。
 それでは機動作戦とは何でしょうか。機動作戦とは、鉄道、機
関銃、攻城砲などのあらゆる武器を使って戦う戦闘のことをいい
ます。日露戦争における遼東半島をめぐる戦闘は機動作戦そのも
のです。それに旅順攻撃は包囲戦です。
 このように日露戦争ではその当時の主要な戦闘はすべて行われ
ていたのです。スタインバーグ氏はそういう意味で世界ゼロ次大
戦といっているのです。
 もうひとつ重要なことがあります。われわれが知っている日露
戦争には相当の創作部分があるということです。その創作は大正
末期から昭和初期にかけて行われたものです。
 よく国の歴史認識といいますが、国家にとって客観的にして正
しい歴史などというものはありえないのです。というのは、どう
しても自国にとって都合の悪い事実は隠そうとするし、まして戦
史となると、それを書く時点で作戦を続行中ということも少なく
なく、本当のことは書けないのです。
 日本においては、ごく最近まで軍事関係文書はもちろんのこと
公文書全般に関しても公開制度というものがなかったのです。こ
れによって、公開をはばかること、国にとって都合の悪いことは
隠蔽されやすいのです。
 これに関連して不自然なことがあるのです。真実が秘匿された
のとはうらはらに、日露戦争の情報は開戦直後から洪水のごとく
出まわり、小説や映画の題材にまでなったのです。
 「日露海戦史」の編纂に当たった東郷平八郎は次のように述懐
しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 海戦史編纂はすこぶるやりにくいことだ。最も困難な点は、こ
 こにおられる部長をはじめ実戦に当った将官や上司の長官がほ
 とんど現存しておられることで、それぞれ立場を異にし観察を
 異にしていた人達から、色々な苦情が寄せられることがある。
 その人々の意見が一致していれば問題はないが、食い違いでも
 していたら大変である。双方の妥協で解決できる性質の問題で
 はないから、取捨選択が大変だった。    ――東郷平八郎
       加来耕三著『真説/日露戦争』より。出版芸術社
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そこには、情報操作によって国民感情を意図的に1つの方向に
向けようとする狙いがあったと考えざるを得ないのです。それは
かつての日清戦争においても軍部がそれに近いことをやっている
のです。             ・・・[日露戦争/01]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョン・スタインバーグ氏
  米ジョージア・サザン大学準教授
  米ミズーリ州生まれ。オハイオ州立大学で博士号
  専門はロシア軍事史。48歳

ジョン・スタインバーク.jpg
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2009年07月10日

●日露戦争の根は日清戦争にある(EJ第1708号)

 なぜ、日本はロシアと戦争することになったのでしょうか。
 20世紀初頭の日本にとって、ロシアは脅威であり、ロシアの
南下は、国の命運を左右する大問題であったのです。何よりも日
本が恐れたのは、ロシアが朝鮮半島に触手を伸ばし、押さえてく
るという事態だったのです。
 日露戦争直前の日本とロシアの国力は、どのくらいあったのか
調べてみることにします。
 まず、国土と人口/歳入の比較です。これはまるで問題にはな
らないでしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               国土        人口
   日 本    37万平方KM    4600万人
   ロシア  2500万平方KM  1億3000万人
                         歳入
   日 本             2億5000万円
   ロシア            20億0000万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、軍事力の差です。これはまるで大人と子供というより
子供が巨人に挑むようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             陸軍兵力      海軍兵力
   日 本    315000人  260000トン
   ロシア   3500000人  800000トン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見るとわかるように、当時のロシアの国力は日本の10
倍もあったのです。日本はそんな国に対して、なぜ、戦争を決意
したのでしょうか。
 その原因は、直接的には、日清戦争勝利の後の三国交渉にあっ
たといえるのです。いや、もう少し深い原因を考えると、朝鮮半
島をめぐる情勢の変化にあったと考えるべきでしょう。
 日清戦争の前の話ですが、清国は朝鮮を属国と考えており、ロ
シアは朝鮮に対して強い野心をいだいていたのです。このような
状況に対し日本は、自国の安全保障のために朝鮮半島の中立を望
んでいたのです。そこで、日本は清国と力のバランスを図ろうと
したのですが、清国は日本の思うようにはならず、朝鮮に対し、
宗主権を誇示しようとしていたのです。
 また、帝政ロシアは、シベリアを手中におさめ、沿海州、満州
をその制圧下に置こうとしていたのです。さらにその余勢を駆っ
て、朝鮮をもその影響下に置こうと狙っていたのです。
 当時の日本から見れば、ロシアはもちろんのこと、清国も大国
であり、強い危機感を感じていたのです。もし、朝鮮半島がこれ
ら大国の属国になると、日本は玄界灘を隔てるだけで、強力な帝
国主義国家と対峙することになる――こういう事態だけは絶対に
避けたかったのです。
 1885年、日本は伊藤博文を全権大使として清国に送り、天
津条約を締結するのです。天津条約の要旨は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪天津条約≫
 朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国もしくはそのど
 ちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往
 復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに
 撤兵する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この天津条約は、一方において清国の朝鮮に対する宗
主権を黙認するかたちになり、日本の発言力は大幅に封じられる
結果を招いたのです。相変わらずの日本の外交下手の結果です。
 そういう中で朝鮮では東学党が勃興したのです。東学党は「日
本や欧米の列強を退けて義を行う」をスローガンとして掲げ、西
学――キリスト教や儒教に対抗する朝鮮独自の学問を目指す秘密
結社「東学」が政治改革団体化したものといわれています。
 1894年2月に、朝鮮全羅道で東学党のリーダーが指揮する
農民一揆が起こり、あっという間に全羅道一円に拡大し、5月末
には全羅道首府の全州に入場する事態になります。いわゆる甲午
農民戦争と呼ばれる戦争です。
 この戦争は朝鮮南部一帯に広がったので、朝鮮政府は清国に出
兵を要請したのです。これを受けて清国政府は「天津条約」にし
たがい日本には軍を出すことを通告はしてきたものの、3000
人の兵をソウル南方約80キロの牙山まで進出させ、そのまま居
座ったのです。このまま放置すると、朝鮮半島における力関係が
清国からの一方的なものになり、日本にとってきわめて深刻な事
態になると考えられたのです。
 このとき日本政府内には開戦派と慎重派があったのです。これ
に関連して明治のジャーナリストである徳富蘇峰(猪一郎)は、
自著において次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争は老人が始めたのではない。若者が始めたのだ。内地
 では、川上、北京では小村、それに巧く活機を捉えた所の陸奥
 などが、巧みに伊藤、山縣等の大頭を操って行ったらしいと思
 う。                ――『蘇峰自伝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これでわかるように、開戦派はときの外務大臣陸奥宗光、川上
操六、小村寿太郎たちであり、慎重派は、ときの総理大臣伊藤博
文、山縣有朋たちであったのです。
 陸奥宗光たち開戦派は、当時「眠れる獅子」といわれていた清
国の実情が「死に体」であることを見破っており、ここは戦争に
よって決着をつけるべきであると考えていたのです。ただ、日清
戦争に関しては明治天皇は終始反対の姿勢を取っていたのです。
しかし、陸奥らの開戦派はそういう天皇の意向を無視して、18
94年7月17日、日清戦争を開始させたのです。朝鮮半島の不
安をなくす――これが目的だったのです。
                 ・・・[日露戦争/02]


≪画像および関連情報≫
 ・当時の心境を読んだ明治天皇の御歌
  ―――――――――――――――――――――――――――
     ゆくすえはいかになるかと暁の
           ねざめねざめに世をおもふかな
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・徳富蘇峰(1863〜1957)
  明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評
  論家。徳富蘆花は弟である。

徳富蘇峰.jpg
徳富蘇峰
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2009年07月13日

●連戦連勝のもたらしたものは何か(EJ第1709号)

 日清戦争開戦――開戦後日本軍はトントン拍子に勝ち続けたの
です。宣戦布告前の7月25日、連合艦隊第一遊撃隊による豊島
沖海戦の勝利、同じく陸軍は成歓と牙山へ侵攻、清国軍を平壌に
逃走させています。その平壌も9月16日には陥落しています。
まさに向うところ敵なしです。
 そして9月17日には、黄海において清国が誇る北洋水帥の主
力艦隊――「経遠」「致遠」「超勇」などを次々と撃沈し、制海
権を握ります。これによって、日本軍は陸兵を遼東半島に直接輸
送し、11月21日に旅順口をたった1日の戦闘で陥落させると
いう快挙を成し遂げるのです。
 旅順口は難攻不落の堅陣と世界中に知られており、フランスの
名将クールペー海軍中将は次のようにいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (旅順口は)50隻以上の艦隊と10万の陸軍精兵をもって
 しても、なお攻略に半年を費やさねば落ちまい
                 ――クールペー海軍中将
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本軍が圧倒的に強かったのか、それとも清国軍があまりにも
弱かったのか――たったの1日で旅順口は陥落したのです。清国
軍死者4500人、負傷者無数、捕虜600人、それでいて日本
軍人死傷者280人名という圧倒的な勝利だったのです。
 旅順が落とされると、清国は外交ルート(北京および東京にお
ける米国代表者経由)を通して講話を提唱してきたのです。これ
に対して陸奥外相は、2つの条件をつけて高圧的にこれに返答し
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.清国政府が誠実に和睦を講う意思表明をする
   2.正当な資格を有する全権委員を任命すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうする間も日本軍はいささかも攻撃を緩めず、台湾西方の澎
湖島を占領してしまうのです。
 ここで、日清戦争がはじまってからの日本国内の様子について
知っておく必要があります。開戦したのが盛夏の7月後半であり
通常であれば、夏休みということもあって、海水浴であるとか避
暑地に出かける人も多い季節です。しかし、戦争が始まると、そ
ういうレジャーを楽しんでいた人は一斉に引き上げ、観光地は閑
散としてしまったのです。
 どうしてかというと、当時の日本人にとって清国と戦うという
ことは大変なことだったのです。なぜなら、はじめての外国との
戦争であり、まして清国は広大な領土を持つ大国であったからで
す。一般国民にとっては、清国の内部が既に崩壊していたなどと
いうことは知るよしもなく、文字通り国運を賭けての大戦争だっ
たわけで、レジャーなど楽しむ状況ではなかったのです。
 また、家屋の新築や修繕、庭の手入れなど、当面急ぐ必要のな
いものは自粛する傾向が強まり、大工、左官、植木屋などが一斉
に失職し、社会経済は大打撃を蒙ったのです。
 こういう時勢にもてはやされたのが「軍夫」になることだった
のです。当時の日雇労働者や人力車夫の日当が20〜30銭のと
きに軍夫になると、1円50銭が支給されたからです。既に国民
皆兵制は施行されていましたが、何しろ急に開戦したために、兵
士は一人でも多く必要であり、志願兵を集めたのです。
 当然のことですが、国民全員が戦況に強い関心を向けたため、
新聞が飛ぶように売れたのです。何しろ、テレビもラジオもない
時代ですから、情報を知るのは新聞のみ――一日一回の新聞を国
民全員が首を長くして待ったのです。ちなみに、当時は夕刊とい
うものもなかったのです。
 日清戦争がはじまってもうひとつ変わったことがあります。そ
れは、明治維新以来くすぶり続けていた反政府運動がピタリと収
まったことです。国内でゴチャゴチャやっているときではない。
何しろ敵はアジア最大の国――清国だからです。
 ところがです。開戦してみると、連戦連勝です。国民が歓喜し
ないはずがないのです。この気持はよくわかります。しかし、半
分崩壊していた清国に連戦連勝してもそれは当たり前のことだっ
たのですが、そういう情報がない国民は、本当の強敵と戦って勝
利したと考えたのは当然です。
 こういうところから、日本国民の間に、次のような困った風潮
が生まれてきたのです。当時の日本政府も逆にそれを利用しよう
としたフシがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日清戦争は「未開な支那」を覚醒させる義戦である
 2.野蛮な清国や朝鮮を文明国日本が懲罰し、教育する
 3.日本は神の国であり、日本軍は神の軍隊であること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、日本政府と軍部は、長い期間をかけて清国に打撃を与
えることによって朝鮮半島の利権を独占するための計画を着実に
実行してきたのです。したがって、政府は連戦連勝に心を奪われ
ることなく、冷静に作戦を進め、有利な条件で講話を結ぼうとし
ていたのです。
 清国との講和会議は、清国から李鴻章を全権大臣とする50名
が来朝し、下関市の春帆楼で開催されています。日本の全権大臣
は伊藤博文、陸奥宗光――1895年3月20日のことです。
 この時点でも日本は攻撃の手を緩めず、大陸に侵攻を続けてい
たのです。そこで清国側は休戦を求めてきたのですが、日本側は
これを拒否して強気の交渉をしようとしたのです。清国が望んで
の講話交渉ですから、当然のことです。
 しかし、ここに困った事態が発生するのです。それは、全権大
臣の李鴻章が講和会議会場である春帆楼を出て宿舎に戻ろうとし
たとき狙撃されたのです。李鴻章は左眼窩下に弾丸が当ったもの
の、生命には別状はなかったのですが、これには日本政府は強い
ショックを受けることになるのです。・・・[日露戦争/03]


≪画像および関連情報≫
 ・陸奥宗光外務大臣
  明治時代の政治家、外交官であり、「カミソリ大臣」と呼ば
  れ、外務大臣として、不平等条約の改正に辣腕を振るったの
  である。日清戦争当時の外相

外務大臣陸奥宗光.jpg
外務大臣陸奥宗光
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2009年07月14日

●三国干渉で失った遼東半島(EJ第1710号)

 清国の全権大臣李鴻章の暗殺未遂事件によって、日本政府は強
硬姿勢を一転させ、清国側が要求した無条件休戦を受け入れるこ
ととし、1895年4月17日に下関講和条約が締結されたので
す。条約の要点は次の6つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.清国は朝鮮の完全無欠なる独立を確認すること
   2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲
   3.清国は日本軍事賠償として2億両を支払うこと
        (2億両――邦貨約3億1000万円)
   4.清国と欧州各国間の条約ベースの新条約を締結
   5.重慶、蘇州、杭州などの開市・開港を実施する
   6.威海衡占領の費用は清国負担/条約履行の担保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この結果に国民は歓喜します。条約の内容としては、要点の1
と2によって、ほぼ日本の要求する内容になっていたからです。
実は、遼東半島を日本に割譲することを要求に盛り込むべきかど
うか、日本の全権団はかなり迷ったのです。しかし、その要求を
外したら、国内で暴動が起きかねない情勢だったので、あえて遼
東半島の領有を主張したのです。
 伊藤博文や陸奥宗光がそのようなことを考えたのは、日本が清
国と戦争をして間に東アジアにおける国際情勢は大きく変わりつ
つあったからです。日清戦争が始まる前の東アジア海域にいたの
は、最新型戦艦センチュリオンを旗艦とする英国の中国艦隊だけ
だったのですが、日清戦争の結果いかんでは既得権益が侵害され
かねないとの思惑から、各国海軍がこの海域に乗り出してきてい
たのです。
 ロシアは太平洋艦隊の戦艦と巡洋艦を、フランス、ドイツ、米
国、イタリアは巡洋艦を派遣して日清両国のどちらが勝つか監視
をはじめたのです。まるで、獲物を見張るハイエナのようです。
 果たせるかな、日清講和条約調印から6日後、ロシア、ドイツ
フランスの公使が遼東半島を清国に返還することを勧告する文書
をそれぞれ提出してきます。この中でロシアの公使からの勧告は
次のような内容でした。ドイツもフランスもほぼ同趣旨です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 遼東半島を日本にて所有することは常に清国の都を危うくす
 るのみならず、これと同時に朝鮮国の独立を有名無実となす
 ものにして、右はながく極東永久の平和に対し、障害を与え
 るものと認む。        ――ロシア公使からの文書
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが「三国干渉」です。要するに、遼東半島を日本が領有す
ると、そこが清国と韓国に対する日本の勢力拡張の拠点になるこ
とを警戒したための勧告なのです。
 この三国干渉は単なる勧告というようなものではなく、日本に
対する完全な脅しだったのです。ロシア、ドイツ、フランスは既
に戦艦や巡洋艦を東アジア海域に派遣しており、ロシア陸軍約3
万が臨戦態勢をひき、ロシアとドイツの艦隊が合同演習をするな
ど、日本に対する示威行為は露骨を極めたのです。「勧告を受け
入れないときは日本を攻めるぞ」という脅しです。
 しかもその時、日本の海軍艦隊主力は台湾海峡付近に遠征して
おり、陸軍野戦軍のほとんどはいまだ中国大陸の戦場にあって、
日本国内はガラ空きの状態だったのです。しかし、三国とも本当
は日本と本気で戦端を開く気はなかったのです。
 もともと伊藤博文と陸奥宗光は、日本が遼東半島を領有するの
は無理と考えていたようです。しかし、海軍は台湾、陸軍は遼東
半島の割譲を強く求めていたのです。それに、伊藤博文という人
はかなり弱気の人であり、明治天皇も最初から領土の割譲を求め
ることに反対であったため、早々に三国交渉を受け入れることに
してしまったのです。
 日本政府は、1895年5月4日の閣議で三国干渉受け入れを
了承し、翌日に三国の公使に通告しています。しかし、天皇の詔
は、さらに5日後の5月10日に全国民に伝達されたのです。
 国民の怒り、落胆ぶりは大変なものだったのです。それは、ア
ジアの大国である清国に快勝し、天にも昇る勢いであった日本国
民に冷水を浴びせた格好になったからです。
 日清戦争の推進派である陸奥宗光、小村寿太郎、川上操六らは
この国民の怒りを対ロシア戦争にうまく誘導しようとしたフシが
あるのです。そして、次のスローガンを生み出されるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「臥薪嘗胆」とは、中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)が越王
勾銭(こうせん)を討って父の仇を報じるために薪(たきぎ)の
上に寝て、さらには勾銭が呉を討って恥をすすぐために苦い肝を
嘗めて復讐心を固めたという故事から、仇をはらすために長期間
にわたって苦心、苦労を重ねて自分を励ますことをいうのです。
 ところが、「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、「ロシア何する
ものぞ」という風潮が生まれつつあった1895年10月8日―
―朝鮮でとんでもない事件が起きるのです。閔妃(ミンピ)殺害
クーデター(乙未[いつみ]事変)です。
 日清戦争で日本が勝利したことにより、朝鮮半島は清国の属国
になることは阻止されたのですが、韓国宮廷は三国交渉によって
日本がロシアに屈したとみて、王后である閔妃(ミンピ)はロシ
アの保護を得て、独自勢力の温存を図ろうとしたのです。
 これに対して駐韓日本公使の三浦梧楼陸軍中将は、韓国王の父
親を擁立してクーデターを起こし、首都・漢城(ソウル)の王宮
に日本人の浪人を乱入させ、閔妃を殺害してしまったのです。
 ところが、妻を殺され、実父に政権を奪われたかたちの韓国王
は、身の危険を感じて駐韓ロシア公使ウェーバーを頼ってロシア
公使館に逃げ込んでしまったのです。もちろん、このクーデター
は日本政府承知のうえです。    ・・・[日露戦争/04]


≪画像および関連情報≫
 ・乙未事変について/1895年10月8日
  閔妃は、日本が後ろ盾につく大院君(韓国王の父)と長く対
  立していたが、日清戦争後の三国干渉で復活すると,ロシア
  の勢力をひきいれて反日親露政策を取る。これに対抗して公
  使三浦梧楼は,大院君をかつぎ,日本浪人と朝鮮軍の訓練隊
  を宮中に乱入させ,閔妃を殺させた。三浦は朝鮮軍内部にお
  ける訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように装ったが、真相を
  隠せなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し,形式
  的な裁判を行ったが,三浦らは証拠不十分で無罪となる。

遼東半島.jpg
遼東半島
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2009年07月15日

●シベリア鉄道と東アジア国際情勢(EJ第1711号)

 三国干渉――ロシアは英国にも声をかけたのです。しかし、英
国は、ロシアの南下政策に対する抵抗勢力である日本と敵対する
ことは好まず、断っています。当時世界の制海権は英国が握って
おり、東太平洋と地中海、インド洋などヨーロッパからアジアに
至る海上交通路は英国海軍の手中にあったのです。
 したがって、ヨーロッパ諸国におけるアジア政策は、英国の出
方によって左右されたのです。しかし、ロシアには陸路で東アジ
アに至るシベリア鉄道があり、1901年にバイカル湖の区間を
除いて完成しています。
 ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道は、モスクワとウラジ
オストック間を7泊8日で結んでいますが、これを使うとロシア
は英国に関係なく大勢の兵士を東アジアに短時間で動員できるこ
とになります。ちなみに軍港の「ウラジオストック」という言葉
は、ロシア語で「東方を征服せよ」という意味なのです。
 このようにシベリア鉄道は英国が中国においてそれまで保って
きた通商的権益や外交的優位性を覆すだけではなく、ウラジオス
トックから香港に至る制海権をロシアに取られる可能性を示して
いたのです。したがって、シベリア鉄道の建設は、英国の東アジ
アにおける覇権を脅かすだけではなく、国境を接する中国や朝鮮
さらに日本にとっても直接的で大きな脅威であるといえます。
 しかし、それならなぜロシアは遼東半島や朝鮮半島に触手を伸
ばしてきたのでしょうか。
 それは、冬でも凍らない不凍港が欲しいからです。ウラジオス
トックは冬の間は凍ってしまい、使えないからです。不凍港を手
に入れない限りロシアはいくらシベリア鉄道を持っていても東ア
ジアに勢力を拡大できないのです。
 何としてもロシアに不凍港を与えてはならない――日本政府の
この思いがあの非合法のクーデター――乙未事変を引き起こして
しまったのです。絵に描いたような外交下手の典型です。これを
修復するため、枢密院議員山縣有朋は、1896年5月26日に
開催されたロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式のさいにモスクワに
渡り、ロシアの外相ロバノフと会談を行ったのです。そして朝鮮
半島をめぐる日露議定書を作成・調印したのです。
 議定書の内容は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.朝鮮の財政問題に関しては日露共同で当たること
  2.朝鮮軍が組織されるまでは日露同数の軍隊を置く
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアはしたたかな外交を繰り広げる国ですが、それから考え
ると、乙未事変のあとの日本としてはまずまずの外交成果であっ
たと考えられます。
 しかし、ロシアとしてはその裏でしたたかに計算をしていたの
です。それは次の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州経由でウラジオストックに鉄道を敷く権利を確保
 2.ハルピンから旅順・大連に南下する鉄道の敷設権確保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争終了時点におけるシベリア鉄道は、チタからウラジオ
ストック間は完成しておらず、当初はロシアと清の国境に沿って
敷設される予定だったのです。しかし、日本に遼東半島を返還さ
せた見返りとして、ロシアは清国から満州経由でウラジオストッ
クまで鉄道を敷く権利を得たのです。
 さらに、同時にロシアはハルピンから遼東半島に至る区間の鉄
道敷設権をも得ているのです。これで、ロシアは待望の不凍港を
手にすることができる可能性を得たことになります。そのために
は、日本の関心を朝鮮半島に向けさせておく必要があり、ロシア
としては日本に一歩引いてみせたわけです。
 実際に日露戦争が始まる1904年9月までに上記の「東清鉄
道」2本を含むシベリア鉄道全線が開通しているのです。日本が
日露戦争を急いだ背景にこのシベリア鉄道問題があったことは確
かであるといえます。
 しかし、三国干渉によって日本が遼東半島をあっさりと返還し
たことで、ロシアは「日本は強く出ればどんどん下がる国」と考
えるようになったといいます。
 ロシアが当時いかに日本を馬鹿にしていたかを示す有名なエピ
ソードがあります。ドイツのダルムシュタットに保養のため滞在
していたニコライ二世に、同盟国ドイツのウィルヘルム二世皇帝
が、日本がロシアの強硬なやり方に腹を立て、戦争を準備してい
るとの情報があると伝えたとき、ニコライ二世は次のように答え
たというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それはあり得ない。なぜならば、朕は戦を望んでいない。した
 がって、開戦の懸念などない。      ――ニコライ二世
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、戦争というものはロシアが一方的にそれを望んだとき
にのみ起きるのであって、非力な小国である日本がそれを仕掛け
てくることなど100%あり得ない――こういっているのです。
この姿勢は今も何も変わっていないし、そのような国がいったん
獲った北方領土をかつての日本のように、あっさりと返すことな
ど考えられないことなのです。
 ところで、このニコライ二世は日本に対してある恨みを持って
いたのです。1891年のことです。この年の5月にシベリア鉄
道の起工式がウラジオストックで行われたのですが、そのさい、
24歳のニコライ二世が日本にやってきたのです。
 皇太子が琵琶湖を見物し、大津を通過しようとしたとき、沿道
を警備していた巡査・津田三蔵によって日本刀で切りつけられ、
負傷するというとんでもない事件が起こったのです。ロシアが怒
って日本に攻めてくるのではないか――日本の国民の間ではこの
ときから、いつかロシアとは戦争になることを覚悟する雰囲気が
醸成されていったのです。     ・・・[日露戦争/05]


≪画像および関連情報≫
 ・大津事件
  シベリア鉄道の式典に出席するため、ニコライは艦隊を率い
  てウラジオストックに向かう途中、日本を訪問した。いまだ
  小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待し、
  京都では季節外れの大文字焼きまで行われた。そして、5月
  11日、琵琶湖からの帰り道、大津を通過中に警備の津田三
  蔵巡査が突然斬かかりニコライを負傷させた。津田は逃げる
  ニコライになおも斬りかかろうとしたが、随伴していた人力
  車夫向畑治三郎に両足を引き倒され、同じく車夫の北賀市市
  太郎に自身の落としたサーベルで斬りつけられた後、警備中
  の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9センチ
  近くの負傷を負ったが、命に別状はなかつた。後日明治天皇
  自らが神戸港ののロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致
  されてしまう」という重臣達の反対を振り切って療養中のニ
  コライを見舞った。(ウィキペティア「大津事件」より)

シベリア鉄道地図.jpg
シベリア鉄道地図
 
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2009年07月16日

●山縣有朋の主権線と利益線(EJ第1712号)

 山縣有朋――この人は軍事上の観点から、早くからシベリア鉄
道脅威論を唱えていた人です。当時は、もし東アジアにおいて紛
争が起きるとすれば、それは英国とロシアの戦争であると考えら
れていたのです。
 山縣は、もし、英国とロシアがインドかアフガニスタンで衝突
する事態になれば、ロシアはシベリア鉄道を使って大兵を東アジ
アに送り込み、必ず朝鮮の侵略を始めるに違いないと考えていた
のです。そうなると日本の安全は脅かされる――これが山縣のシ
ベリア鉄道脅威論なのです。
 やがて山縣は政権を握ると、このシベリア鉄道脅威論を前提と
した軍事拡張のための予算計上を行っています。明治24年予算
では、軍事費が予算の30%近くを占めていたのですが、これに
ついて山縣首相は、1890年11月29日の第一帝国議会にお
ける一般演説で次のように説明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍事費が予算の30%近くを占めているのは、それが国家の独
 立と国権の伸張を図るために不可欠なものであるためである。
 国家の安全を保つためには、主権国家として他国の侵害を許さ
 ない国境としての「主権線」を守るだけでは不十分であり、そ
 の主権線の安危と相関係する区域としての「利益線」を守る必
 要がある。その利益線を維持するためには、膨大なる軍事費が
 かかるのである。              ――山縣首相
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 山縣首相は、ここでいう利益線として「わが国の利益線の焦点
は実に朝鮮にあり」と明言しています。つまり、日本の安全保障
は、朝鮮半島の安危に左右されると述べたのです。
 つまり、朝鮮の独立が脅かされ、他の帝国が朝鮮半島を占領す
る事態になると、日本の安全保障が脅かされるというのです。そ
のため、日本としては朝鮮半島の安危を注意深く監視し、すぐ手
が打てる体制をとるべきであると山縣は説いたのです。
 山縣がこういう考え方に立つに至った次の2つの歴史的事件が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.対 馬事件
           2.巨文島事件
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 対馬事件とは何でしょうか。
 1861年3月のことです。ロシアの戦艦ポサドニックがいき
なり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領する
という事件が起こったのです。困ったのは対馬藩です。
 対馬藩老中安藤信正は英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと
交渉した結果、ホープ司令官は英国艦隊2隻を対馬に派遣し、ロ
シア艦を退去させたのです。英国にとってもこのことは看過でき
ない事件だったからです。これが対馬事件です。
 ここで租借とは、条約によって一定年限、貸与国の主権を留保
したまま、租借国に対し、その地域における排他的な管轄権や軍
隊駐留権を認めるものですが、最終的には貸与国が領土を割譲す
るのと同じ効果を持っていたのです。
 それでは、巨文島事件とは何でしょうか。
 既に述べたように、朝鮮では宮廷が2つに分かれて主導権争い
が絶えず、それを理由にして清国がたびたび介入するという事態
が起きていたのです。その一方の勢力がロシアに接近し、ロシア
はそれを口実に朝鮮半島の取り込みを画策していたのです。
 やがてロシアは軍事教育の名のもとに教官を送り込み、その代
償として朝鮮半島の南部の小さな湾である永興湾に軍事施設を建
設しようとしていたのです。
 このことを知った英国は、アフガニスタンで英国とロシアの間
のちょっとした衝突を理由に、朝鮮半島南端沖にある巨文島を占
拠して軍港を築き、ロシアの朝鮮進出を阻止する先制行動に出た
のです。これが巨文島事件です。
 結局、このときは清国が仲裁に入って、「ロシアは朝鮮のいか
なる地域にも占領しない」ことを条件として、英国軍は撤退した
のです。ちなみに巨文島は日本の対馬のすぐ近くであり、2つの
事件とも日本に関わりがあったにもかかわらず、日本としては英
国に頼るだけで何もできなかったのです。
 山縣はこのことを受けて、日本と利害が一致する英国との同盟
を推進するとともに、利益線としての朝鮮半島を守るための軍事
拡張に全力を注ぐ政策を推進することになるのです。
 ここで、三国干渉前後のヨーロッパにおける国際関係について
述べておくことにします。
 まず、1870年のプロイセン・フランス戦争以来、ドイツと
フランスは対立していたのです。また、ヨーロッパにおける農産
物の販売をめぐって、ドイツはロシアとも対立を深めていたので
す。そのロシアはバルカン半島をめぐってオーストリアと反目、
そのオーストリアのバックにはドイツがいたのです。
 フランスはドイツとの対抗上、ロシアと軍事同盟を結んでおり
ロシアが進めるシベリア鉄道にも巨額の資金を援助しているので
す。この仏露軍事同盟は日露戦争のときも有効だったのですが、
あくまでドイツとの戦争に対する同盟であったため、フランスは
中立を保ったのです。
 このようにロシアとフランスに敵対され、苦しい立場に立たさ
れたドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、ロシア皇帝のニコライ二世
に日本を中心とする黄色人種の台頭がヨーロッパ全体に損害をも
たらすといういわゆる「黄禍論」を説いて、関心を日本に向けさ
せようとします。この「黄禍論」が日露戦争から第2次世界大戦
まで影響することになるのです。
 その点、世界の海を支配していた英国は、東アジア海域を大陸
の列強から守るという点において、日本と利害が一致する面が少
なくなかったのです。そういうわけで、1902年に日本は日英
同盟を結ぶことになるのです。   ・・・[日露戦争/06]


≪画像および関連情報≫
 ・山縣有朋について
  明治、大正の軍人、政治家、公爵。川島で出生。
  松下村塾で学び、奇兵隊の軍監となり、高杉晋作挙兵による
  内訌戦などに活躍。戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明
  治以降、陸軍卿、参議、陸軍大将、元帥へと進み、日本陸軍
  の中心的存在として長州陸軍閥を形成、政治家としては内務
  大臣となり、のち二次にわたり内閣を組織し、元老となる。
  大正11年(1922)没。享年85。

山縣有朋像.jpg
山縣有朋像
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2009年07月17日

●日露戦争に向けての10年計画(EJ第2615号)

 日本は主権線を守るために利益線としての朝鮮半島を保護する
必要がある――これは日清戦争の前の時点での山縣有朋の考え方
です。この山縣の考え方は、次の伊藤内閣になっても継承されて
いくのですが、日清戦争に勝ってからは、利益線を日本が獲得し
た勢力圏の外側に置こうとするようになります。
 つまり、山縣の構想は、あくまで防衛的な視点からの利益線と
して朝鮮半島をとらえるべきであるとの考え方ですが、伊藤政権
になると、利益線は朝鮮半島を飛び越して満州に置かれるように
なります。防衛的な考え方から大陸膨張主義に転換してしまった
わけです。
 そうなると、日本にとってロシアが仮想敵国とみなされるのは
自然のなりゆきです。清国を破ったあとでロシアと覇権を争い、
それに勝って「アジアの盟主」になる――日本の指導者としては
このことがはっきりと意識されるようになっていったのです。
 これは日本にとって大変危険な考え方であり、実際にロシアに
勝利することによって歯止めが利かなくなり、勝算が100%な
い太平洋戦争まで突っ走ることになるのです。
 しかし、日本はロシアと戦うにさいしては、極めて綿密な計画
を立て、10年の歳月を費やして軍備を強化して軍隊を育て、必
勝の体制で戦争に臨んでいるのです。当時日本は国民皆兵で徴兵
制の下で厳しく訓練を積んでおり、士官を含む立派な軍人が育ち
つつあったのです。
 1895年12月に開会した帝国議会において、戦後10年計
画に基づく予算が通過しています。1895年から10年後とい
うと1905年になりますが、この年にはシベリア鉄道が完成す
る予定の年なのです。それまでにロシアと戦えるようにする――
こういう目標が立てられたのです。
 この10年計画には、次の軍備拡張が軸になります。これを達
成するための基幹産業の育成や行政拡張が進められたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 陸軍 ・・・  現7個師団から13個師団への軍事力拡張
 海軍 ・・・  鋼鉄戦闘艦6隻/巡洋艦6隻の六・六艦隊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのための総予算は7億8105万円――この金額は日清戦争
開戦前の1893年度総予算の実に9倍に相当するのです。そし
て、国家予算歳出中に占める軍事費の割合は、1903年までの
平均で42%に及んだのです。
 このような軍事費の突出する予算では公債の発行と増税は不可
避となります。それに日清戦争の賠償金約3億円も軍事費に回さ
れたのです。このような厳しい税負担に耐えるためにも国民には
「臥薪嘗胆」のスローガンは必要だったのです。
 軍事教練もロシアとの戦いを前提に行われたのです。厳しいロ
シアの寒さに耐える耐雪演習も繰り返し行われたのですが、これ
があの八甲田山の悲劇を生むのです。
 1902年1月――青森歩兵第5連隊第2大隊は八甲田山で耐
雪演習を行ったのですが、参加した210名のうち199名が凍
死するという惨事になったのです。この貴重な経験によって、日
露戦争では凍傷を防ぐいろいろな工夫が重ねられたのです。
 さて、1896年5月に山縣有朋がロシアと結んだ日露議定書
のウラでロシアは清国と秘密協定を締結していたのです。その要
旨は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東アジアのロシア領、清国及び朝鮮半島に日本軍が侵入して
 きた場合、露清両国はすべての陸海軍事力をもって、相互に
 援助し合い、これを殲滅する。そのさい、ロシア軍艦の活動
 を助けるため、清国は自国の港湾をことごとく開放する便宜
 を図るものとする。          ――露清密約より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実に虫のよい話です。表では、日本の立場を若干考慮した議定
書に調印しながら、そのウラではそれを平気で裏切る密約を結ぶ
――これがロシアのやり方なのです。
 この密約は、駐清ロシア公使カシニーの名前をとって、「カシ
ニー条約」と呼ばれています。ロシアはこのカシニー条約を結ぶ
と、ロシアのロバノフ外相は駐露韓国公使を呼びつけて、次の3
つの内容の露韓密約を結んでいます。度重なるロシアの日本への
裏切りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.韓国王はロシアにおいて保護する
     2.ロシアから軍事・経済顧問を派遣
     3.日本との有事における武力の援助
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本がこれらのロシアの密約に気が付くのは、1897年7月
漢城(ソウル)にロシアの軍事顧問団13名が到着したときなの
です。日本という国は、「外交は情報戦である」ということがわ
かっていないのです。ドイツなどは、カシニー条約のことを早く
から掴んでしたたかな外交を展開しているのです。
 こういうロシアの後ろ楯を得て、韓国王はロシア公使館を出て
国名を正式に「大韓帝国」、君主を「皇帝」に改めて清国から独
立を宣言したのです。1897年のことです。
 とにかく日本にとって朝鮮半島は国土防衛上重要であり、つね
に強い関心を持っていなければならなかったのです。この考え方
は、英国の名提督として名高いキャプテン・ドレイクの考え方に
学んだのです。ドレイクは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は朝鮮半島と満州に足場としての港を確保し、大陸側の港
 の背中に国防線を引くべし    ――キャプテン・ドレイク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ドレイクのこの提言は朝鮮半島や満州を領有すべしと
はいっていないのです。いずれにしても、昔も今も朝鮮半島情勢
は日本の国防に大きく影響するのです。・・[日露戦争/07]


≪画像および関連情報≫
 ・新田次郎著/『八甲田山死の彷徨』 新潮文庫
  明治時代に冬の「八甲田山」で起きた陸軍、青森第五聯隊の
  ”全滅”は当時、大変なニュースであったらしい。”全滅”
  の中から奇跡的に命を取り留めた兵士は、その後暫くの間、
  講演活動などで引く手数多だった。この作品は、その「八甲
  田山」で起きた”事件”を冷徹に描ききった傑作である。な
  ぜ、そういった悲劇が起きたのか。著者は筆を緩めることな
  く、軍人と軍という特殊な世界の出来事を今に続く人間の組
  織のドラマに仕立て上げている。
  http://j4101122148-a.moovle.net/

日清戦争絵画/牛荘市街戦.jpg
日清戦争絵画/牛荘市街戦
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2009年07月21日

●日本の出番を作った義和団事件(EJ第1714号)

 清国が日清戦争で日本に完敗したのを見て、西欧列強は清国が
内外ともに衰退しているのを見てとったのです。しかし、清国か
らは収奪できるものはまだたくさんある――西欧列強は一斉に動
き出したのです。
 1897年11月、何の前触れもなく、ドイツの艦隊3隻が三
東半島(シャントン)に現われ、海兵隊600人を膠州湾に上陸
させ、青島(チンタオ)付近一帯を占領してしまいます。ドイツ
人宣教師が何者かに殺害されたというのがその根拠です。
 このドイツの行動を見てロシアは、同じ年の12月15日、艦
隊6隻で遼東半島の旅順・大連に侵入し、旅順港をそのまま占領
してしまったのです。自分たちの欲しいところは押さえておくと
いう行動です。ロシアを頼りにしていた清国は大きなショックを
受けたのです。
 1898年3月になって、ドイツは清国から正式に膠州湾を租
借することに成功します。あわせて、青島から済南(チーナン)
までの膠州鉄道の敷設権も獲得し、事実上三東半島全域を支配下
に置いたのです。これは、カシニー条約の存在を掴んだドイツが
清国を脅して勝ち取った成果といわれます。
 しかし、ロシアのあくどさはドイツのはるか上を行くものだっ
たのです。清国がドイツに三東半島の租借を認めたことを知ると
ロシアは宰相の李鴻章を呼び出し、脅しをかけると共に巨額のワ
イロを贈って、清国から遼東半島の租借権とハルピンから大連ま
での東清鉄道の敷設権に関するさらなる権利を獲得したのです。
 ロシアの要求は、単に鉄道を敷設するだけでなく、その線路敷
はもとより、線路の両側や駅の周辺付属地の主権も租借地同様に
ロシアに帰属する−−そういう要求を呑ませたのです。
 ドイツやロシアがやれば、英国もフランスも黙ってはいないの
です。英国は三東半島北部の威海衛を租借し、フランスは、ラオ
スやベトナムに近い広州湾を租借するといった具合です。まるで
獲物にたかるハイエナのように、清国から取れるだけ取ろうとい
うわけです。その間、日本はひたすら軍事力の強化――軍隊に磨
きをかけていたのです。
 こういう西欧列強のあまりの非道ぶりを見せつけられた清国の
人々は、いわゆる排外運動――興清滅洋をスローガンとして立ち
上がったのです。1898年4月のことです。
 運動の核となったのは、三東省の貧しい人々の間に広がった宗
教勢力だったのです。彼らは「義和団」と称し、キリスト教に代
表される西欧文明の広がりこそ、庶民の生活を苦しめる災厄の根
源だと説いたのです。
 義和団は、たちまちのうちに三東省、河北省、河南省、山西省
へと勢力を拡大し、1900年6月には20万人を超える勢力と
なって北京に入り、各国公使館を包囲し、日本とドイツの外交官
を殺害する事態になります。
 当初清朝内部では義和団の動きを傍観していましたが、その勢
いが大きくなってくると、清国政府もそれと一体となって行動す
るようになります。事態は戦争の様相を呈してきたのです。
 こうした事態を受けて、英国、ドイツ、ロシア、米国、フラン
ス、イタリア、オーストリア、それに日本の8ヶ国は連合軍を編
成することを決定します。これに対して清国は8ヶ国に宣戦布告
をして戦争――北清事変がはじまったのです。
 しかし、8ヶ国がどのくらいの数の軍隊を出すかという段階に
なってもめたのです。英国はボーア人国家と泥沼の戦争をかかえ
ていたし、米国はフィリピンの独立戦争の鎮圧に躍起となってい
たので、多くの軍隊は出せない状況だったのです。しかし、ドイ
ツ、フランス、イタリアでは本国が遠すぎて、派兵することは困
難だったのです。
 結局大軍が出せるのは、ロシアと日本だけだったのですが、ロ
シアが大軍を出すのは他の国が反対したのです。下手をするとロ
シアに満州全域を取られかねないからです。そこで、期待された
のが日本なのです。そこで、日本は1万人を派兵します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.イギリス    ・・・  3000人
    2.アメリカ    ・・・  2000人
    3.フランス    ・・・   800人
    4.ドイツ     ・・・   200人
    5.オーストリア  ・・・    58人
    6.イタリア    ・・・    53人
    7.ロシア     ・・・  4000人
    8.日本      ・・・ 10000人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように連合軍は約2万人の軍隊を編成し、軍艦47隻で天
津を攻略したのです。そして、連合軍を先導するかたちの日本軍
は通州を急襲して清国軍を蹴散らし、英国軍は北京に入り、外国
人居留区を開放します。
 この戦争では参加国の軍隊による略奪や清国人に対する虐殺・
暴行・狼藉がとくにひどかったといいます。そのため皇帝を幽閉
して清国軍の指揮を執っていた西大后は、報復を恐れて皇帝を連
れ出して西安に逃亡してしまいます。
 これに対して、米軍と日本軍はよく軍律を守って行動し、きわ
めてマナーが良かったのです。とくに日本軍は指揮官の下に一糸
乱れずに行動し、存分の活躍をし、西欧列強各国を驚かせたとい
います。ここに日本は、はじめて「極東の憲兵」としてその存在
を認められたのです。
 総大将である西大后が逃げてしまったので、8ヶ国は今後の対
応を協議します。西大后を追って西安を攻撃し、清国を分割して
植民地にするか、あくまで清国政府を認めて外交の相手とし、紛
争の終結処理を行うか――協議は各国の思惑がからんで、紛糾し
ます。一番ずるいことを考えていたのはロシアなのです。ロシア
は、旅順に2万人の兵力を温存しており、西大后を支援する振り
をして満州の占領を考えていたのです。・・[日露戦争/08]


≪画像および関連情報≫
 ・「義和団」とは何か
  義和団の興りは、清の中期に三東省に生まれた義和拳という
  宗教的秘密結社であり、白蓮教の流れを汲んでいた。信者ら
  は拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や
  鉄砲でも身体が傷つかないと信じていた。また、各集団ごと
  に民間小説のヒーローである諸葛孔明(『三国志演義』)や
  孫悟空(「西遊記」)などを神として祭るなど、その信仰も
  極めて土俗的なものであった。
             ――ウィキペディア「義和団」より

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北清事変における各国の軍隊
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2009年07月22日

●日英同盟か日露協調か(EJ第1715号)

 清国をどうするか――植民地として割譲するか、主権を認めて
外交交渉をするか――この問題を巡る8ヶ国協議は各国の思惑が
からんで難航したのです。
 ドイツとフランスはあくまで植民地にして分割するべきだと主
張したのです。しかし、米国は清朝を残して「貿易の機会均等に
よる門戸開放」を主張して譲らなかったのです。
 英国はどうだったかというと、米国寄りの姿勢だったのです。
といってもドイツとフランスとは対立したくないと考えていたの
です。英国は世界中に艦隊を展開しており、それぞれの植民地で
の武力抵抗に対処するため、多忙を極めていたのです。
 もし、ドイツとフランスとコトを構えるとなると、世界中に展
開している艦隊を呼び戻す必要がある――それに英国が欲しいの
は、拠点としての港湾都市だけであり、何が何でも植民地にした
いとは思っていなかったのです。
 ところで、ロシアはどうだったのでしょうか。
 ロシアは、英・露・独・仏による清国の割譲などとんでもない
と考えていたのです。そんなことをすれば既に清国との間に締結
している有利な各種条約が宙に浮いてしまう――これでは何にも
ならない。そこで、清国を残すことを前提に、西大后と結託して
満州を占領することを考えていたのです。そのためにロシアは、
大連に2万人の軍隊を温存させていたのです。
 現にロシアはこの話し合いの隙を突いてロシア軍は、1900
年9月に瀋陽(シェンヤン)を占領してしまいます。そして10
月には鉄嶺(ティエリン)も占領するのです。
 これらの都市は、いずれも東清鉄道の鉄道敷設地であり、事実
上既にロシアのものという理屈がついているのです。しかし、こ
れらの都市を押さえられると、ロシアが朝鮮半島を侵攻するさい
の満州側の戦略上の基地になるため、日本にとっては看過できる
ことではなかったのです。
 その頃日本では、大陸強硬派の山縣有朋政権に代わって、大陸
協調派の伊藤博文による第4次内閣になっていたのです。それに
しても日本は戦争にも貢献し、会議に出ていながら、何ら重要な
発言をしていないようなのです。国際舞台への初デビューだった
ので遠慮していたのでしょうか。
 ここで英国の戦略について考えてみる必要があります。英国が
植民地政策を進める場合、総督を置いて支配するかたちをとるの
が一般的なのですが、植民地側にその総督に忠誠を誓う既存勢力
の存在が不可欠なのです。
 しかし、清国の場合、実権支配者である西大后に対抗する勢力
は皆無であり、既に西大后がロシアに押さえられていることから
植民地化は断念したのです。その代わり、朝鮮半島を巡って日本
とロシアが争っているのを利用しようとしたのです。
 英国は巨大な艦隊を持っていましたが、それらは世界中に分散
しており、英国が配置している東洋艦隊だけでロシアの極東艦隊
を制圧するのは難しいと考えていたのです。
 そこで、日本と組んで日本艦隊の力を利用すれば、ロシア極東
艦隊を牽制できると考えたのです。そこで英国にとって「日本と
組む」メリットが生まれたのです。なお、その頃の日本は自国で
軍艦を作ることができず、英国に発注していたのです。
 1900年11月8日、英国で日本の戦艦「三笠」が進水した
のです。この戦艦は全長122メートル、船幅23メートル、最
大速度18ノット、12インチ砲4門、6インチ砲14門を搭載
する当時世界最強の軍艦だったのです。
 1901年7月、駐英公使の林薫から、次の情報が本国にもた
らされます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国は皇帝陛下をはじめ、ソールスベリー首相以下、日英同盟
 論者が急増せり
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、時の政権の中枢はこの情報をなぜか黙殺しています。
深い考え方があっての黙殺ではなく、黄禍論が激しい中にあって
あの大英帝国が日本と同盟する意思があるとはとても考えられな
かったからなのです。
 逆にロシアの駐日公使が日本に示したとされる満韓交換論――
韓国を列国の共同保証のもとに中立化する案に伊藤博文をはじめ
山縣有朋までもが関心を示したのです。ちなみに伊藤内閣は19
01年5月に財政方針をめぐる閣内不統一によって総辞職してお
り、6月から桂太郎第1次政権になっていたのです。
 伊藤博文は、英国が本気で日本と同盟を締結しようとしている
のがわかってからも、ロシアとの交渉の考え方を捨てておらず、
桂内閣が正式に日英同盟交渉に入った後の12月にウィッテ蔵相
と日露協商交渉の名目で交渉を行っているのです。そのとき、ロ
シアは、まさか英国が日本と同盟を交渉しているとは考えていな
かったのです。
 しかし、ロシアは伊藤の提案などに聞く耳を持たずという態度
に終始したので、さすがの伊藤もロシアとの交渉の打ち切りを宣
言せざるを得なかったのです。
 ところが日本がロシアと交渉しているのを知って愕然としたの
は英国の方です。なぜなら、日露同盟ができると、英国がアジア
に築いている利権は吹き飛んでしまうからです。
 英国としては、腰を据えて時間をかけて交渉し、少しでも有利
な同盟条件にする気でいたのですが、態度を一変させ、日本の要
望を大幅に取り入れたのです。そういう意味において、伊藤博文
は、日英同盟成立に貢献したといえます。
 そして、1902年1月30日に日英同盟は成立するのです。
これを知ってロシアはあわてます。そして、満州南部の遼河以西
の地域からロシア兵を撤兵させ、続いて、盛京省と吉林省からも
撤兵を行ったのです。ロシアとしては、日本など問題にしてしま
せんが、英国が日本に加担したことを非常に警戒し、恐れていた
のです。             ・・・[日露戦争/09]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアのウィッテ蔵相は伊藤の提案に前向きに対応
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (日本の提案にしたがって、ロシアが)韓国を放棄すれば、
  われわれは日本との常なる誤解のの素を取り去り、いつも攻
  撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないまでも、このように苦
  労して得た土地(満州のこと)を再び失わないよう、われわ
  れとの友好関係を維持しようとする隣国に変えることができ
  よう。             ――ロシア蔵相ウイッテ
    横手慎二著『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』
                     中公新書1792
  ―――――――――――――――――――――――――――

日英同盟のポスター.jpg
日英同盟のポスター
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2009年07月23日

●ウィッテはなぜ蔵相になったのか(EJ第1716号)

 今回のテーマ「日露戦争の真実」では、戦闘のディテールより
も、戦争にいたる経緯や戦争終了後の処理に重点を置いて記述を
進めようと考えています。そのために、話が少し前後することが
あることをお許し願います。
 そこで、当時のロシアの蔵相ウィッテ(1849〜1915)
について少しお話しする必要があります。ウィッテは、アレクサ
ンドル三世によって任命されたのですが、当時のロシアには首相
職はなく、蔵相は事実上の政府の最高責任者だったのです。
 ソ連時代におけるウィッテの評価は「帝政の腐敗の象徴」だっ
たのですが、ソ連が崩壊すると今度は「経済改革の先駆者」とし
て評価が一変します。各地にはウィッテの名前を冠した通りや記
念像が建てられ、官僚時代の事務書類までを集めた全集が現プー
チン政権によって進められているといった具合です。ウィッテと
はどういう人物だったのでしょうか。
 セルゲイ・ウィッテは、鉄道畑の出身なのです。1890年に
大蔵省鉄道局長、1892年には交通大臣を務めましたが、同じ
年にアレクサンドル三世によって蔵相に抜擢されています。シベ
リア鉄道を推進するためです。
 シベリア鉄道の建設計画は、1882年にアレクサンドル三世
によって決定されたのですが、実際に計画が実行に移されたのは
1891年からなのです。
 なぜ、かくも遅れたかというと、予想される建設経費が巨額で
あって、当時経済的に豊かでなかったロシアの財政を圧迫し、計
画の実現を妨げたからです。時の蔵相はヴィシネグラツキー――
彼は財政の均衡を重視し、終始鉄道建設に難色を示してきたので
す。蔵相であれば、当然のことといえます。
 それでは、なぜ、アレクサンドル三世は全長8000キロメー
トルに及ぶシベリア鉄道を敷こうとしたのでしょうか。
 もともとはヨーロッパのロシア部における人口の稠密状態を改
善するのが目的であり、それに当時清国において勢力を拡大しつ
つあった英国とドイツに対抗するということが加わったのです。
 当時英国は清国内で着々と鉄道利権を獲得しつつあり、それが
ロシア領アムール河とウスリー河沿岸地域に脅威になっていたの
です。もし、英国が清国と結び、ロシアの弱い部分を襲ってきた
らどうするか――ロシアの皇帝は心配したのです。
 それに、満州における清国人の人口増加も気がかりだったので
す。清国人1200万人に対して極東ロシア領の人口はわずかに
7万3000人――この人口格差は将来大きな問題になると皇帝
は考えて、鉄道建設を急ぐべきであると決断します。
 そして、1891年5月――シベリア鉄道は東端のウラジオス
トックから建設が着手されることになり、皇太子のニコライ二世
をその起工式に出席させたのです。このとき、皇太子は日本に立
ち寄り、大津で暴漢に襲われています。
 当時のロシアの経済力は急成長していたものの、経済力として
は、西ヨーロッパ諸国と比べると非常に小さかったのです。した
がって、財政を心配するヴィシネグラツキー蔵相をはじめとする
鉄道建設の抵抗勢力が存在していたのです。中でも最大の抵抗勢
力は、地主貴族たちだったのです。
 地主貴族たちは、ヨーロッパ・ロシア部に土地を持っていたの
ですが、鉄道敷設によって人口の移動が容易になると、地価が下
がることを恐れたのです。
 1902年9月、アレクサンドル三世は抵抗勢力の中心である
ヴィシネグラツキー蔵相を解任し、鉄道建設のプロフェッショナ
ルであるウィッテを蔵相に任命したのです。
 ウィッテは、直ちにシベリア鉄道特別委員会を設けて、そこで
立法を含むすべての事項が決められる体制を敷くと同時に、強力
な政治力によって抵抗勢力を次々と粉砕していったのです。何と
なくどこかの国の首相に似ていますね。
 蔵相ウィッテがシベリア鉄道建設に没頭していた1894年に
日清戦争が起きるのです。そして、日本が勝利します。このとき
既に皇帝は、ニコライ二世になっていたのです。
 ここでロシアには、選択すべき次の2つの道があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国の「弱さ」に着眼する戦略 ・・・ ニコライ二世
 2.日本の「強さ」に着眼する戦略 ・・・ ウィッテ蔵相
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 判断のポイントは、清国が弱いと見るか、それとも日本を強い
と見るかにあるのです。ニコライ二世は日本を過少評価して1の
戦略を取るべしと判断したのですが、ウィッテ蔵相は日本の強さ
を恐れて2の戦略を取ったのです。
 ここで大事なことは、西欧列強は日清戦争まで清国の力を過大
評価してきたということです。作家の司馬遼太郎は、その名著で
ある『坂の上の雲』で清国(シナと呼称)について次のように表
現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 帝国主義の時代である。(中略)列強は、つねにきばから血を
 したたらせている食肉獣であった。その列強どもは、ここ数十
 年シナというこの死亡寸前の巨獣に対してすさまじい食欲をも
 ちつづけてきた。が、なおもシナの実力を過大に評価した。
 「シナはねむれる獅子である」
 と列強はおもい、もしもその獅子を過度に刺激することによっ
 て、ついに奮いたたせてしまいでもしたら、大けがをするのは
 列強のほうである。というおそれが、かれらの侵略行動をつね
 に制御した。
   ――司馬遼太郎著『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコライ二世は当時父の時代から権勢を振るっているウィッテ
には抵抗できなかったのです。つまり、ウィッテに一目置いてい
たわけです。そこで、ウィッテはドイツとフランスと共同で日本
に圧力をかけたのです。      ・・・[日露戦争/10]


≪画像および関連情報≫
 ・司馬遼太郎著、歴史エッセー『ロシアについて』
  日露戦争の相手国ロシアでは司馬遼太郎の『坂の上の雲』の
  翻訳はないが、上記の書は1999年に翻訳・出版
  この本の中で東京在住のコンスタンチン・サルキソフ山梨学
  院大学大学院教授は、司馬遼太郎を19世紀のロシアの大作
  家レフ・トルストイにたとえて、『坂の上の雲』によって司
  馬遼太郎は、長編小説『戦争と平和』のような「伝統的な人
  文主義の歴史小説の世界」を描き出したと賞賛している。
   ――読売新聞取材班/『検証・日露戦争』中央公論新社刊

ウィッテ蔵相.jpg
ウィッテ蔵相
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2009年07月24日

●遼東半島占領を決めたロシア御前会議(EJ第1717号)

 蔵相ウィッテは、日清戦争で日本が勝つと、ニコライ二世が必
ずしも乗り気でなかったにもかかわらず、フランスとドイツに働
きかけ、遼東半島の返還を日本に要求したのです。
これは日本の「強さ」に着眼した戦略なのです。つまり、日清
戦争における日本の勝利は、清国が弱かったのではなく、日本が
強かったためであると考えていたのです。だからこそ、もし、日
本に遼東半島を与えると、満州とモンゴルへの日本の膨張の端緒
となり、やがてロシアを脅かす勢力となる――ウィッテはこのよ
うに分析していたのです。
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において、ウィッテについて次の
ように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ウィッテは大蔵大臣であったが、閣僚中の実力者として外交
 問題に強い発言権をもっていた。このウィッテの終始かわらな
 かった考え方は、極東においてはなるべく日本との衝突を避け
 るというところにあった。要するに日露戦争を回避するという
 ことであり、こういう考え方は、この時期のロシアの大官にお
 いてはきわめてめずらしい。
  むろん、ウィッテは平和主義者ではない。修道院的平和主義
 者が、この時代の本来血なまぐさい大国の大官がつとまるはず
 がない。(中略) (彼は)「日本との戦争はロシアになんの
 利益ももたらさないばかりか、害のみである」という考え方を
 とっている。
   ――司馬遼太郎著『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既に述べたように、ロシアはドイツとフランスを巻き込んで三
国干渉で遼東半島を日本から清国に返還させています。1895
年5月のことです。これによって清国はロシアに感謝し、満州を
横切る鉄道の敷設権をロシアに与えています。相手に感謝させて
一番欲しいものを得る――ここまではウィッテの巧妙な戦略がも
のをいったのです。
 しかし、1897年12月にロシアは遼東半島を占領してしま
います。ドイツが清国から膠州湾を租借したというそれだけの理
由からです。これを決める御前会議においてウィッテは、これに
猛烈に反対します。1897年11月のことです。
 『坂の上の雲』にもそのシーンは出てきますので、ご紹介して
おきます。御前会議でのウィッテの発言です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それは清国への背信行為ではないか。露清条約(カシニー条
 約のこと)はどうなるのか。(中略)
  シナはロシアを疑惑する。それによってわが国の極東発展に
 大いなる障害をまねくであろう。眼前の一片の土地のほしさに
 百年の国益をうしなってはならぬ。
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この御前会議においてウィッテは、清国の現状維持を図り、友
好関係を維持することが、ロシアの国益になることを説いている
のです。そして、満州において権益を拡大しようとすることは国
際的に反発を招くので、すべきではないとニコライ二世に忠告し
たのです。また、同席していた海軍提督も旅順は海軍基地として
立地上問題があるとして遼東半島の占領に反対したのです。
 しかし、ニコライ二世は、満州において権益を拡大したいとい
う膨張主義にとらわれており、聞く耳を持たなかったのです。外
務大臣ムラヴィヨフは、ニコライ二世がつね日頃から、いつも自
信満々に振る舞う態度の大きいウィッテに不快感を抱いているこ
とを知っていたので、その席ではニコライ二世を支持して旅順の
獲得を提案しているのです。まさに「偉大なるイエスマン」その
ものです。
 このような経過で、ロシアによる遼東半島の占領は、ニコライ
二世が了承して実行されたのです。しかし、これによって、ロシ
アは当事国である清国はもとより、日本までを敵にまわしてしま
うことになります。
 日本から見ると、これによってロシアは旅順に軍港と要塞を築
き、東清鉄道(ハルピン〜大連間)を建設するとともに、ロシア
がすでに朝鮮半島において獲得していた地位を強化し拡大してく
るように思えたのです。これを一番心配していたのは山縣です。
 しかし、ロシアはこのとき、乏しい財源の中から多大なる資金
を捻出して軍港建設費や鉄道敷設費をまかなわざるを得ず、とて
も朝鮮半島までは手がまわらなかったのです。そこで、駐韓ロシ
ア公使のパヴロフは、日韓共同支配を強化する協定の締結を提案
してきたのです。ロシアとしては、この協定以外に日本の朝鮮半
島に対する独占支配を抑える方法はなかったからです。
 このあと義和団事件が起こります。ロシアは連合軍に4000
人しか兵を出しませんでしたが、旅順に2万人の兵を温存してい
たのです。結果的にこの兵が満州に出て行くことになるのです。
 一方の日本も、西欧列強の要請により、1万人の兵を満州に出
しています。実は2万人出せる状況にあったのですが、それを嫌
うロシアに配慮して1万人に削減したのです。それでは、ロシア
は何を理由にして満州に兵を出したかです。
 ロシアとしては、いくらでも理由はあったのです。1900年
6月頃から、東清鉄道の建設でロシア人に不満を持っていた住民
は建設中の鉄道の破壊やロシア人の退去を要求するデモを起こし
ています。そして、この動きの背後には清朝や省レベルでの支配
層が加担していたことがわかっていたのです。
 さらに不幸な出来事が起こります。1900年7月15日――
アムール河でロシアの汽船が突然清国兵の発砲を受けたのです。
さらにこれは、アムール河の岸辺の街ブラゴヴェンチェンスクに
対して、対岸の清国領から砲撃が加わるという事態に発展するの
です。ロシア軍はすぐに反撃を開始し、ブラゴヴェンチェンスク
で多数の清国人を殺害したのです。 ・・・[日露戦争/11]


≪画像および関連情報≫
 ・アムール河の流血
  北清事変最中である明治33年6月1日、清国兵がロシア領
  ブラゴエシチェンスクを襲撃したことに端を発して、ロシア
  は同地の清国人を捕縛の上、老若男女5000人あまりを黒
  竜江(アムール河)にて虐殺した。この惨劇は清国人のみな
  らず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行
  為を糾弾する声が高まった。さらにロシアは東清鉄道の防衛
  を口実にして大軍を送り込み、満州全土を占領した。ついで
  明治33年11月、極東総督アレキシーフは清国に迫りロシ
  アに有利な密約を結び、さらに翌明治34年には列国の反対
  にもかかわらず第2の露清条約を結ぼうとしたが、これは、
  日英両国の反対によってロシアは要求を撤回するにいたった
  のである。
  http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html

関連地図/遼東半島.jpg
関連地図/遼東半島
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2009年07月27日

●アムール河の残劇とロシアの満州占領(EJ第1718号)

 ロシアは満州に進出する機会を狙っていたのです。しかし、満
州に進出し、そのまま駐留するにはそれなりの理由が必要です。
一番よく使われた理由が「鉄道権益の保護」なのです。鉄道が破
壊され、鉄道員が殺傷されたりすると、それを理由に出兵し、清
国が鉄道破壊に対する賠償が終わるまで居座るのです。
 ですから、1900年のアムール河事件は、軍需品を満載して
黒龍江(ロシア名:アムール河)を航行中のロシアの船舶に対し
て清国が砲撃してきたのですから、ロシアとしては軍隊を出すこ
れほど正当な理由はなかったのです。
 しかし、このときはブラゴヴェシチェンスク在留の清国人を5
千人虐殺したということで、ロシアの暴虐性が世界中で非難のマ
トになったのです。
 日本では1900年はまだ19世紀ということになるのでしょ
うが、20世紀は「虐殺の世紀」ともいわれるのです。このアム
ール河の流血は、その後のナチスのホロコースト、カンボジアの
ポル・ポト政権による虐殺などの幕開けに位置づけられる痛まし
い事件だったのです。
 詩人の土井晩翠は、このアムール河の流血について「黒龍江上
の悲劇」という詩を書いて次のように歌っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 記せよ――西暦一千九百年、なんじの水は墓なりき、五千の生
 命罪なくて、ここに幽冥の鬼となりぬ     ――土井晩翠
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに1901年になって、旧制第一高等学校東寮の第11回
記念寮歌として作られたのが、『アムール河の流血や』です。塩
田環作詞・栗林宇一作曲です。一番だけを記述しておきますが、
添付ファイルでも紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          アムール河の流血や
          凍りて恨み結びけん
          20世紀の東洋は
          怪雲空にはびこりつ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『アムール河の流血や』のメロディはご存知ですか。
 この歌はその後いろいろな替え歌として歌われたのですが、一
番有名なのがメーデーの歌として知られる「聞け万国の労働者」
――聞け万国の労働者 轟き渡るメーデーの 示威者に起こる足
どりと 未来を告げる鬨の声――というあの歌のメロディが『ア
ムール河の流血や』なのです。
 アムール河でロシアの船舶が清国兵から発砲されると、ロシア
軍の作戦行動は瞬く間に拡大し、1900年8月にはチチハルを
占領、9月後半には満州中部の多くの都市を支配下に置きます。
さらに10月初頭には瀋陽までロシア軍は占領するのです。
 ちょうどこのとき、連合軍――ロシア以外の7ヶ国は北清事変
の後始末をしていたのですが、清国側と協議するうえで、ロシア
のこの軍事行動をどう扱うべきかについて検討したのです。
 ロシアとしては他の国と違って清国と長い国境で接しており、
しかも、満州で大規模な鉄道工事を行う権利を有しているので、
特別な処遇を受けるべきであると主張したのです。また、清国政
府は現在政府の体をなしておらず、治安確保のためにも軍を駐留
させざるを得ないと主張し、そのまま満州に居座ったのです。
 1901年に清国は連合各国に対し、莫大なる賠償金を支払う
条件で講話は成立します。日本を含む各国は、講話が成立すると
速やかに軍隊を引き揚げたのですが、ロシアだけは軍の駐留を続
け、満州全域を占領し続けたのです。
 この事態が続くと満州は事実上ロシアのものになり、日本は満
州への進出の機会が完全に閉ざされてしまうだけでなく、ロシア
が朝鮮半島に進出してくることは確実視されていたのです。
 実際問題としてロシアはそのように考えていたのです。ウィッ
テはもちろん反対したのですが、その頃から極東のことに関する
限り、ウィッテの発言力は弱まっていたのです。その時点でニコ
ライ二世の判断に影響を与えていたのが、ペゾブラゾフという退
役の騎兵大尉なのです。
 『坂の上の雲』にペゾブラゾフの考え方が次のように出ていま
す。ウィッテは、ペゾブラゾフこそ日露戦争の原因を作った男と
非難しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州と遼東を占領しただけで朝鮮を残しておいてはなにもなら
 ない。朝鮮は日本が懸命にその勢力下に置こうとしており、将
 来日本はこの半島を足がかりとして、北進の気勢を示すであろ
 う。その日本の野心をあらかじめ砕くには、いちはやく朝鮮を
 とってしまうほかない。         ――ペゾブラゾフ
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ペゾブラゾフ――彼は巧みにニコライ二世に取り入っていたの
です。このような人物は帝国主義的膨張期にはどこの国にも必ず
いる右翼の大立者ともいうべき人です。しかし、状況判断力に優
れ、弁舌が立つことによって皇帝のお気に入りだったのです。
 それにニコライ二世は、いわば歴史的虚栄家であって、歴史的
偉業になるものにはすぐ手を出す人物です。このときもペゾブラ
ゾフが提案した朝鮮に国策会社を設立する――こういう構想に飛
びついたのです。
 この国策会社によって、あらゆる事業――産業、都市建設、鉄
道・港湾建設などにロシア資本を投入し、朝鮮人の心を掴んで、
他日機会を掴んで一挙に日本を朝鮮から駆逐するという構想であ
り、実際に「東亜工業会社」の名前で1901年に設立されたの
です。つまり、満州は軍が取る、朝鮮は東亜工業会社が取る――
この戦略に日本はどんどん追い詰められていくことになります。
 しかし、ロシアは経済・財政的に朝鮮半島に巨額の資金を投入
することなどできなかったのです。 ・・・[日露戦争/12]


≪画像および関連情報≫
 ・関連話題
  義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは
  笑みを浮かべて「満州を占領する口実ができた。満州を第二
  のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもり
  だ」とウィッテ蔵相に豪語し、さらに皇帝ニコライ二世は、
  満州を占領後は更に朝鮮も占領することを欲しており、ロシ
  アの侵略的野心は止むことはなかった。かくして北清事変後
  に乗じてロシアは虎視眈々としていた満州を軍事占領、その
  矛先は朝鮮に及び、極東の緊張は高まっていったのである。
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2009年07月28日

●伊藤博文はなぜ日露協調をとったか(EJ第1719号)

 ロシアの満州居座りに対して、危機感を深めた日本政府内には
次の2つの考え方があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.日露協調 ・・・ 伊藤博文・井上 馨
    2.日英同盟 ・・・ 山縣有朋・桂 太郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この場合、「日露協調」を進めようとした伊藤博文らの考え方
はいささかわかりにくいのですが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』
には次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  要するに日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州をとっ
 たロシアが、やがて朝鮮をとる。(一部省略)そういうロシア
 の南下による重圧をなんとか外交の方法で回避できはしまいか
 と考え、いっそロシアと攻守同盟を結んでしまったらどうか、
 という結論を思いいたったのは、伊藤博文である。
  飛躍にちがいない。
  隣り村にまで押し込んできている武装盗賊集団に対し、自分
 の村と隣り村だけはなんとか侵さないでもらえまいかと、頭を
 さげて直取引きにゆくようなものであり、盗賊団にすれば虫の
 よすぎるはなしであった。同時に村の者からみれば、腰抜けと
 しかみえない。――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアは既に満州を事実上占領している。しかも、そのやり方
は、これまで見てきた通り、フェアではない。居直り強盗そのも
のである。やがて、朝鮮半島に踏み込んでくることは確実。そう
なると、日本の安全保障が脅かされる。これを回避するためには
戦うしかない――本来ならこうなるはずです。それを当のロシア
と「攻守同盟」を結んで解決しようとする――これが伊藤博文の
考え方だったのです。
 どうして伊藤博文はこのような考え方を持ったのでしょうか。
おそらく彼は次のように考えていたのだと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.英国が日本との同盟に応ずることが信じられなかった
 2.日本が本当にロシアに勝てると考えていなかったこと
 3.現実派であって、ロシアを必要以上に恐れていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伊藤博文は、日英同盟が本当に実現するとは考えていなかった
のです。黄渦論が渦巻くヨーロッパの国の中でも最も誇りが高く
それまでどこの国とも同盟を結んでいなかった最強の海軍国であ
る英国が、アジアの弱小国家に過ぎない日本と同盟を結ぶはずが
ない――伊藤はそのように考えていたのです。
 それに英国は日清戦争のときは、中立を宣言しながらも、日本
艦隊の所在を信号で清国に連絡するなど、必ずしも日本の味方と
はいえない行動をとっていたのです。しかし、英国は三国干渉に
は加わらず、その点はドイツやフランスと違っていたのです。当
時の英国はボーア戦争を抱えており、日本を利用するメリットは
十分あったといえます。
 確かに日英同盟が成立しなければ、日本がロシアに勝てるはず
がないと考えても不思議はないのです。それに伊藤は必要以上に
ロシアを恐れていたことも確かなのです。
 こういう伊藤博文の姿勢は、当然世間の批判を浴びます。中で
も駐露日本公使館付武官補佐官であった田中義一少佐は伊藤と直
談判をしたといわれます。歴史研究家の加来耕三氏の著作『真説
/日露戦争』――出版芸術社刊にはそのシーンが次のように書か
れています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「閣下、ロシアは戦争を承知のうえで満州への侵略をすすめて
 おります。もはや日本には、戦う以外に選択肢はありませぬ。
 満州をロシアに、朝鮮を日本に任すなどといっても、所詮はロ
 シアの時間稼ぎに利用されるだけです。おわかりになりません
 か。この現実が」
  このとき、伊藤は60歳、田中は36歳であった。田中は明
 治29年から4年間、ロシアに留学しており、ロシアをつぶさ
 に見てきた。それをかわれて、日露戦争では満州軍総司令部の
 作戦主任に任命される。だが、伊藤は田中を認めない。
 「なにをいうか、青二才が!」
 激怒した。その伊藤に、なおも田中は食い下がる。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、結果として、伊藤の対露交渉は英国を慌てさせること
になって、日英同盟交渉が加速するという皮肉な結果となるので
す。そして1902年1月30日、ロンドンにおいて日英同盟協
約が締結され、即日発効されたのです。協約の骨子は次の3つに
まとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国における日英両国の利益と大韓国における日本の政
   治・産業の利益を第三国の侵略的行動や民衆の反乱から
   守るため、日英は適当な措置を講ずる。
 2.日英両国のいずれかが第三国と戦争になったとき一方の
   締結国は厳正に中立を守ることとする。
 3.前項において第三国に他の国が同盟して参戦するときは
   一方の締結国は同盟国と参戦すること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「第三国」とはロシアであることを想定しています。第
三項を見ると攻守軍事同盟であり、もし英国がヨーロッパでドイ
ツやイタリアと戦争を始めると日本は参戦する義務が生じたので
す。しかし、その時点でほぼ確実視される日露戦争においては英
国は参戦しないという点が抜け目のない英国の外交の巧さを感じ
させます。事実英国がそういう戦争をはじめる危険性は十分あっ
たのですから。          ・・・[日露戦争/13]


≪画像および関連情報≫
 ・日英同盟に一役買った新渡戸稲造の英文『武士道』
  加来氏の上掲の本に次の一節がある。
  ―――――――――――――――――――――――――――
   義和団の蜂起、北清事変で事実上、連合国最大兵力を負担
  した日本はこの事変を通じて列強にその実力のほどを見直さ
  れ、とりわけイギリスに強い印象を与えることに成功した。
  「日本には騎士道同様の武士道がある」
   すでに国際的ベストセラーになっていた新渡戸稲造の英文
  『武士道』の影響力も手伝って、イギリスは日本との同盟を
  考えはじめる。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

加来耕三氏の本.jpg
加来耕三氏の本
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2009年07月29日

●絶対に譲れぬ一線とは何か(EJ第1720号)

 日英同盟が成立すると、さすがのロシアも国際的非難をかわす
ためにも満州から兵を引いてみせる必要があったのです。これを
巡ってロシア政府内部には次の3つの案があったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州を一時的に清国に返還することによって、英国の警戒
   心を解き、日英同盟を実質的に無効にさせて、しかる後、
   再度満州に兵を入れる。
 2.装備や軍需物資はそのままに残しておき、とりあえず兵員
   8万人を撤退させる。必要になれば、兵員のみを輸送すれ
   ば直ちに戦力化できる。
 3.清国と協約を結び、計画にしたがって撤退するが、情勢の
   変化に合わせて撤退をコントロールする。そして、瀋陽付
   近に兵員を集結させる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1の案は、蔵相ウィッテ、陸相クロパトキン、外相ラムズドル
フの3人が主張したものです。ロシアは全軍を満州から撤兵し、
国策会社の利権を外国商社に売り、東清鉄道を露清銀行を使って
準民営化させ、ロシアの信用を回復させる――そのうえでシベリ
ア鉄道を早期に完成させ、動員力を確保し、再び満州に兵を入れ
それから朝鮮半島にも進出するという案です。
 もし、この案をロシアが採用していたら、おそらく日本は開戦
の機会を失い、朝鮮半島も獲られていたかも知れないのです。し
かし、ウィッテ、クロパトキン、ラムズドルフの3人は、こと極
東政策に関しては既に発言権はなかったのです。
 極東関係の主導権は、ニコライ二世が寵愛していたベゾブラゾ
フとアレクセーエフ海軍大将に移っていたのです。とくに国策会
社――鴨緑江木材株式会社はベゾブラゾフが作ったものであり、
これを外国商社に売ることなど承知するはずがなかったのです。
結局、彼らの採用したのは3の案なのです。
 そこでロシアは、1902年4月8日に、10月18日までに
満州南部の遼河以西の地域から撤兵すると発表し、本当に撤兵す
したのです。続いて、1903年4月8日までに、盛京省と吉林
省からも撤兵すると発表したのです。
 しかし、第2次の撤兵は行われなかったのです。それどころか
シベリア鉄道の未完部分の建設と警護を理由に多くの将兵を満州
に送り込み、満州と朝鮮半島で戦えるだけの兵力を着実に蓄積し
ていったのです。
 ある国との間に外交の懸案事項があるとします。どこの国の政
治家も戦争などやりたくないと考えているので、何とか妥協点を
探ろうとします。しかし、あることを妥協すると、相手はその妥
協点を出発点とする新しい要求を出してきます。これを繰り返す
と、妥協する方がどんどん不利になっていくのです。
 優れた政治家というものは、いくら妥協を繰り返しても「絶対
に譲れない一線」というものを明確に持っています。それを冒さ
れたときは敢然と実力行使――つまり、軍事力の行使を行い、そ
の一線を守り、妥協しないのです。
 その点、明治の政治家は、その「絶対に譲れない一線」という
ものをきちんと持っていたといえます。その譲れない一線とは何
でしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ロシアが朝鮮を保護国にしないこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを具体的にいうと、ロシアが満州を支配下に置くことを意
味するのです。こういう点は、穏健派であって、最後まで戦争を
避けるため、日露協調を探った伊藤博文でもきちんとそれを持っ
ていたのです。
 それに比べて、現在の日本の政治家は「絶対に譲れない一線」
を持っているでしょうか。
 1954年に韓国の警察隊(事実上は軍隊)に竹島を占拠され
ても具体的には何もせず、百名を超える自国民が不当にも拉致さ
れても経済制裁ひとつできない――ずるずると妥協を積み重ねて
いたずらに相手を利する結果を招いています。
 現在の国際社会では、「既成事実の原則」というものがありま
す。例えば、ある島が武力の行使によって主権が奪われたとき、
その主権を持つ国がその島の奪回のための闘争を続けていかない
限り、奪われた主権は既成事実によって相手国の主権に組み込ま
れてしまうことになっているのです。
 こういう時代に、戦争はもちろんのこと、敵から攻撃されても
十分な反撃もできない憲法を持つ日本は、今後やっていけるので
しょうか。
 当時の日本政府が一番恐れたのは、ロシアが満州に居座り、占
領という既成事実を作り上げてしまうことだったのです。なぜな
ら、当時の清国の力ではロシアに対して奪回のための抵抗ができ
ないことがわかっていたからです。
 稀代の戦略家といわれるナポレオンの名言に次のようなものが
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍隊は敵軍を撃破するためにある。よほどのことがないかぎり
 敵国を占領するのに軍隊を使用するな。それは軍隊運用の限界
 を越えている。              ――ナポレオン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにこれは名言です。軍隊は占領統治をするためのものでは
ないのです。成吉思汗は敵軍を撃破し、相手の国王を倒すと、即
座に兵を引いたのです。その国を再建するのは敗者の仕事である
というのです。そして、もし、そこに反成吉思汗政権が出来ると
再び来襲して殲滅したのです。こうして、成吉思汗はわずか25
万の兵力でモンゴル大帝国を築いたのです。
 そういう意味で当時のロシアや韓国を併合した日本は明らかに
間違っていたといえます。講和条約なき戦争終結は、侵略戦争そ
のものだからです。        ・・・[日露戦争/14]


≪画像および関連情報≫
 ・松村 劭氏の本
  陸上自衛隊出身で、米国デビュイ戦略研究所東アジア代表
  ―――――――――――――――――――――――――――
      ――松村 劭著、『教科書が教えない/日露戦争』
                       文春ネスコ刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍事理論を日露戦争に適用して考察し、そこから得られる教
  訓をもって現代の諸問題を観察する好著である。今回のテー
  マでもいろいろな面で活用させていただいている。

松村氏の本.jpg
松村氏の本

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2009年07月30日

●クロパトキンの来日(EJ第1721号)

 1903年6月10日にロシアの陸相クロパトキン大将が来日
したのです。ロシアの大物の来日です。時期が時期であり、人物
が人物です。日本から見れば、日露和解のための使者と考えても
不思議はないのです。
 しかし、クロパトキン大将の訪日は事前に予定が組まれていた
のです。しかし、クロパトキンは4月末にペテルブルグを出発し
ながら、わざとゆっくりと満州、遼東半島、沿海州などを査察し
なかなか日本に近寄ろうとはしなかったのです。
 クロパトキンは、ニコライ二世からの指示を待っていたのだと
いわれています。その皇帝からの指示は、クロパトキンが日本に
到着する直前に届いたのです。
 皇帝からクロパトキン大将に届いた指示は次のようなものだっ
といわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアに対して配慮を払う条件において、日本は今後極東
   諸国の中で枢要の地位を占めることを強調すること。
 2.日本は英国と組んで武器を振り回わしてロシアを威嚇する
   ようなことをすればそれは逆効果を生むということ。
 3.ロシアが極東方面でとった一連の行動は、他国のためでも
   あって正当性のあるものであることを強調すること。
 4.日本における諸会談では、たとえ日本から話を向けられて
   も朝鮮半島についてコメントすることは控えること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロパトキンとしては、なるべく戦争は避けたいと考えており
そのためには日本が最大の関心を持っている朝鮮半島の扱いにつ
いて討議したかったのですが、これを皇帝から封じられてしまっ
たので、積極的な発言ができなくなってしまったのです。
 皇帝の指示はともかくとして、日本政府としては、この時期に
クロパトキンが日本に来る狙いは、日本が本当に戦争を準備して
いるかどうかを探ることにあると考えていたのです。
 これに対して日本政府は、戦争の準備なんかしていないふりを
することにして、クロパトキンが会いたい人物、行きたい場所は
すべてを見せる方針でクロパトキンに接したのです。
 これはクロパトキンが後日に語ったことですが、近衛師団長の
長谷川好道中将と後に第一軍を率いることになる黒木為髑蜿ォに
はすさまじい威圧感を覚えたことから、日本はロシアとの戦争も
辞さないと考えていることを悟ったというのです。
 そのため、桂太郎首相との階段において、クロパトキンは次の
ようにいったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私個人としてはあくまで戦争を望むものではありませんが、も
 し、日本がわが帝国に挑戦してくれば、われらは300万人の
 ロシア常備軍を出動させ、東京を占拠してお目にかける。
      ――アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロパトキンの接待には村田淳少将が当ったのですが、村田少
将は、クロパトキンとの雑談を通して、日本はロシアとの戦争は
やりたくないと考えているが、国内には戦争も辞さずという考え
方が根強くあることを率直に伝えたといっています。
 既に述べたように、クロパトキン陸相は、ウィッテ蔵相、ラム
ズドルフ外相の3人は対日妥協派として知られていますが、皇帝
の寵臣ペゾブラゾフは、アレクセーエフ海軍大将をはじめとして
極東外交に関わる次の人物をすべて押さえていたのです。驚くべ
き政治力といえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    レッサー駐清ロシア公使
    パブロフ駐韓ロシア公使
    チチャーコフ・ハルピン中将/駐屯軍司令官
    マドリトフ中佐/鴨緑江木材の現地指揮官
    ウォーガタル少将/駐日公使官付武官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは対日妥協派の3人の失策をつねに画策しており、極東政
策の主導権を獲ろうと皇帝に働きかけていたのです。
 さて、日本側は、クロパトキンがまだ日本に滞在している6月
23日に御前会議を開いています。そして、日本としては韓国に
おける優勢地位については譲らず、満州についてはロシアに、鉄
道経営の利権のみ擁護を認めるという方針を決めています。そし
て、それをそれとなくクロパトキンにメッセージとして伝えたの
です。クロパトキンが離日したのは6月28日のことです。
 日本の基本的な考え方を理解したとみられるクロパトキンは、
日本を離れるとすぐ日露和解に向けて行動を開始したのです。そ
の結果開催されたのが旅順会議です。
 1903年7月1日から10日まで、ロシアは皇帝の命により
旅順において、クロパトキンをはじめとして、アレクセーエフ、
ベゾブラゾフ、北京駐在公使、東京駐在公使などの実力者を集め
てロシアの極東政策について会議を行ったのです。
 この旅順会議においては、満州におけるロシアの権益と鴨緑江
の事業が中心に討議されたのですが、終始クロパトキンが主導権
をとっていたのです。
 クロパトキンは、鴨緑江の事業については、日本の対露認識に
悪い影響を与えているので、事業の中身を縮小し、満州と遼東半
島の権益を守るべきであると説いたのです。これに対して、ペゾ
ブラゾフは、日本は満州も朝鮮半島も狙っているので、鴨緑江沿
岸だけ譲っても意味がないとして、正面から反対したのです。
 結局、アレクセーエフがどちらにつくかに注目が集まったので
すが、このとき彼はクロパトキン側の意見に賛成したのです。な
ぜなら、アレクセーエフはかねてより遼東半島を中心とする満州
の権益を重視していたことと、この時点でベゾブラゾフに対して
不信感を抱いていたからです。しかし、ニコライ二世の考え方は
少し違っていたようです。     ・・・[日露戦争/15]


≪画像および関連情報≫
 ・アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキンについて
  クロパトキンは日露戦争の前年(!)、陸軍大臣として来日
  している。極東視察の一環という名目だ。日本側は、儀礼的
  な笑顔の奥で相当に身構えながらこれを迎えたわけだが、ご
  当人はかなり物見遊山だったようで、みやげ物をごっそり買
  い込んでいる。東京で純銀製花瓶、置物、指輪、かんざし、
  腕輪、財布、煙草入れなど六十余点三千五百余円、京都で象
  牙細工三百余円、ビロード額地、絹織物四百余円、扇子数百
  本といった具合だ。彼はのち、ロシア陸軍の総大将として、
  日本軍に勝利をごっそりプレゼントしてくれる。実に気前の
  いい人物ではあるようだ。
           ――http://www.c20.jp/p/kuropa_a.html

クロパトキン大将.jpg
クロパトキン大将
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2009年07月31日

●アレクセーエフ極東全権を握る(EJ第1722号)

 EJは、現在、日露戦争開戦1年前の出来事を記述しておりま
す。しかし、どうして日本がロシアと戦争する事態になったのか
についてなるべく詳細に書こうと考えております。このあと、日
付を記載するとき、それが何年の話であるか、わからなくなると
いけないので、次の年月をあらかじめ示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1904年(明治37年)2月 6日  ロシアと国交断絶
 1904年(明治37年)2月10日  ロシアに宣戦布告
 1905年(明治38年)9月 5日  日露講和条約調印
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1903年当時、日露交渉に当った日本の政府首脳は、桂太郎
首相と小村寿太郎外相です。桂も小村も「ロシアとの戦争はやむ
なし」と心に決めていたものの、ぎりぎりまで戦争を避けるため
の日露交渉に全力を尽くしたのです。
 この時点で日本の政界に大きな影響力を持つ山縣有朋と伊藤博
文も対露交渉については桂−小村ラインに完全にまかせていたと
思われます。1903年7月に伊藤は枢密院議長に就任し、彼の
有する政友会総裁の地位を西園寺公望に譲っています。これによ
って、日露交渉の全権は桂−小村ラインに委ねられたのです。
 山縣有朋も桂−小村ラインの考え方を支持しており、彼も「ロ
シアとの戦争はやむなし」と考えていたのです。伊藤にしても山
縣にしても、桂−小村ラインが戦争を決意すればそれに従うハラ
は固めていたのです。
 1903年7月28日、小村外相はモスクワ駐在の粟野公使に
ラムズドルフ外相に対して交渉の申し入れをするよう命令してい
ます。これに対するロシア側の了承は得られたので、小村は8月
3日に目指すべき協定の基本線を粟野公使に示しています。この
提案の要旨は次の通りですが、この小村提案は、かなり強気の提
案だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国と韓国の独立と領土保全を尊重し、各国のあらゆる商
   業活動を妨げてはならないこと。
 2.ロシアは日本の韓国における、また日本はロシアの満州に
   おける商工業活動を妨害しない。
 3.ロシアは韓国において日本が軍事上の援助を含めて助言を
   与える権限を持つことを認める。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見るとわかるように、ロシアの権限を明確に制限し、ロ
シアが韓国に有していた権限を放棄させ、日本の韓国における独
占的な権限を与える内容になっています。小村としてもこの案を
ロシアが認めるはずはないとは考えていましたが、交渉は最初は
強気に出る作戦で提案したのです。
 しかし、ロシアのラムズドルフ外相は多忙を理由として、粟野
公使に会うことを拒否し、8月12日にはじめて日本の提案を受
け取ったのです。
 ところがその12日にロシア皇帝は、極東大宰府を新設し、そ
の長にアレクセーエフ提督を任命すると発表したのです。これに
よってアレクセーエフはいわゆる極東総督になり、太平洋艦隊と
この極東地域に配備されたロシアの全軍を指揮し、極東地域でロ
シアと隣接する国家との外交関係を左右する権限を手に入れたの
です。もちろん対日窓口の最高責任者もアレクセーエフというこ
とになります。
 アレクセーエフ極東総督は、日本との交渉は駐日ロシア公使の
ローゼンと東京で行うべしと命令しているのです。これは、領土
を含む重要な国家間交渉を日本政府はロシアの出先機関との間で
行うことを意味しており、日本にとってきわめて屈辱的なことで
あったのです。
 とにかくロシアは日本をなめ切っていたのです。とくにベラブ
ラゾフらの対日強硬派はそうだったのです。3年間駐日ロシア公
使館付陸軍武官ワンノフスキー大佐や海軍のグランマッチコフ艦
長は、日本の軍隊について次のようにいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・日本陸軍がヨーロッパ最弱の軍隊と同一の水準に達するのに
  はあと100年かかる。     ――ワンノフスキー大佐
 ・日本海軍は物的装備はまあまあだが、海軍軍人の精神を持っ
  ていない。軍艦の操法、運用などは幼稚というほかない。
                 ――グランマッチコフ艦長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアの返事は遅れに遅れ、10月3日に返事がきたのです。
内容は日本にとってひどいものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本の韓国における優越な利益は承認するが、韓国の領土
   は軍略上の目的で使用してはならない。
 2.満州およびその沿岸は日本の利益の完全なる範囲外である
   ことを日本は承認しなければならない。
 3.韓国領土の中で、北緯39度以北にある部分は、中立地帯
   とし、両国は軍隊を引き入れないこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、韓国における日本の優越な利益は条件付で認めるが、
そこを軍略的に使うことを禁ずるなど種々の制約を加えているの
に対し、満州は日本には関係ないから、一切はロシアが清国と相
談して自由に使うことを日本は承認すべしといっています。
 しかも、3については、韓国の北緯39度以北――現在の平壌
と元山を結ぶ線の中立地帯を除くと、ロシア側は韓国国境の鴨緑
江と豆満江を確保し、日本軍が満州や遼東半島に向かうのを阻止
できるなど、日本が到底承服できない内容だったのです。
 しかし、桂−小村ラインは交渉を継続すべしとして山縣、伊藤
とも連携して、日本は修正案をまとめ、10月末にロシアのロー
ゼン公使に手交しています。それは朝鮮半島の中立地帯のライン
の変更提案だったのです。     ・・・[日露戦争/16]


≪画像および関連情報≫
 ・エフゲニー・イワノヴィッチ・アレクセーエフ
  ロシアの東方進出を推進した中心的人物で、皇帝の信任も厚
  く、しばしば国政を壟断した。海軍大将であったが、極東地
  区の内政・外政・軍事の三権を掌握し対日政策では日本の戦
  力を過小評価し強硬路線を取った人物である。

アレクセーエフ総司令官.jpg
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