借金総額は約4000フローリンと述べましたが、それを証明す
る借用書などは一切残っていないのです。したがって、本当のと
ころ、一体どのくらい借りていたのか、その使途は何なのか、そ
れらの借金は返済されたのか、そのままなのかなどについてはわ
かっていないのです。
しかし、そういう状況において、ひとつ貸借関係がはっきりし
ている事実があります。それは、1791年11月に出された次
の判決文です。
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モーツァルトはリヒノフスキーに対して、1435フローリン
32クロイツァーの未返済金があることを認定する。直ちにそ
の金員をリヒノフスキーに支払え ――裁判所
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この1435フローリンはあくまで1791年春の時点での未
返済残高であって、実際に借りていた額はそれよりも多いと考え
られます。もっと多く借りていて、モーツァルトが何回か返済し
残っていた額と考えられるのです。
これ以外の大口としては、金融業者ラッケンバッヒャーからの
約1000フローリンの借金があります。これについては借用証
書が残っているのです。その一部をご紹介します。
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私はここに以上の借金を確かに受納したことを確認するととも
に、以下の責任を負いました。私、私の相続人、子孫はこの元
金を前記の貸主、その相続人、又は新たな債権者に2年後の本
日、予告なく、前記と同じ金種により、何等の抗弁なく返還致
します。但し同貨幣により百分の五の利子をつけます。この利
子は私の元金返還の期限が切れ、貸主が利子その他の費用を請
求できるようになった時、半年の期限をもって遅滞なく当ヴィ
ーンにて支払います。元金および利子の担保として私は私の全
ての家財を貸主に差出します。私及び指定の証人の自署による
証書と致します。 証人 マティアス・ブリュンナー
証人 アントーン・ハインドル
――既出/藤澤修治氏論文より
http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
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この借用書によると、モーツァルトの動産が抵当に入っている
ことがわかりますが、それはモーツァルトが所有していたとみら
れる膨大な銀製品ではないかと思われます。モーツァルトは宮廷
や貴族の屋敷などで演奏会を開いたとき、贈り物として、銀の食
器などを大量に拝領していたのです。
しかし、モーツァルトの死後作成された遺産目録には、それら
の銀製品は一切なかったのです。そして何よりも不思議なのは、
債権者リストにラッケンバッヒャーの名前はなかったのです。こ
れはおそらくこの借金が自分たちに及ぶことを知っていたコンス
タンツェによって返済されたと考えられるのです。
それからもうひとつ、既に述べたように証文などは一切ないが
モーツァルトはプフベルクに対して、全15回――計1415フ
ローリンを借りていたことがわかっています。プフベルクはモー
ツァルトよりも15歳年上の裕福な織物商人であり、大変な音楽
好きだったのです。そういうこともあってか、モーツァルトは何
回もプフベルクに金の無心をしているのです。
これに対してプフベルクは、モーツァルトの要求額よりも小額
ではあったが、そのつど用立てていたことがモーツァルトが彼に
宛てた手紙でわかっています。モーツァルトはプフベルクの他に
も裕福な友人を多くもっていたのに、なぜプフベルクばかりに無
心をいったのでしょうか。
推測の域を出ないものですが、おそらくリヒノフスキーとプフ
ベルクの2人はモーツァルトが「洞窟」を設立しようとしていた
ことを知っており、そのための融資であったと思われるのです。
なぜなら、リヒノフスキーとプフベルクは、フリーメーソンの同
志だったからです。
当時の秘密結社への厳しい管理下においては、よほど信頼でき
る人でないと、真実を打ち明けるのは危険であったのです。当時
は秘密警察によって、市民の手紙の検閲も行われていたのです。
そうであるとすると、いわゆる「プフベルク書簡」の奇妙な書き
出しの謎が解けてきます。
既出の藤澤修治氏は、プフベルクへの書簡の冒頭はフリーメー
ソン特有の言葉が使われていることを指摘しています。モーツァ
ルトは、手紙の書き出しに「尊敬する最愛、最上の友よ!」とか
「この上なく尊敬する盟友」とか、「真の友人」とかいう言葉を
使っていますが、これはフリーメーソン結社員同士の挨拶でよく
使われる言葉なのです。
こういう書き出しで始まるプフベルクへの借金の申し入れの手
紙についてはその使途を一切書いていないのです。それは、新支
部設立のための資金であるという暗黙の了解があったのではない
かというのです。
モーツァルトがプフベルクに出した手紙は20通ほどあるので
すが、そのうち借金の使途について書かれたものは3通しかない
のです。そして使途の書かれた借金は、10〜30フローリンの
小額のものだったのです。
リヒノフスキーとプフベルク――この2人からの借金は、モー
ツァルト自身が返済したものを含めると、3500フローリンほ
どになったものと思われます。そして、その資金は、新支部「洞
窟」の設立資金に使われたとみられるのです。
モーツァルトはなぜフリーメーソンの新しい支部を作ろうとし
たのでしょうか。それは、音楽家の地位を向上させることにあっ
たのではないかと思われます。当時はモーツァルトのような才能
のある音楽家ですら、地位が安定せず、不安定な収入に甘んじざ
るを得なかったからです。 ・・・[モーツァルト/65]
≪画像および関連情報≫
・モーツァルトとカトリック信仰
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モーツァルトはたしかに、一度も公然とカトリックの信仰を
否認しているわけではない。しかし、彼の最期にさいし、臨
終の儀式をとりしきる司祭を探し出すことは困難だった。・
・・モーツァルトの考えは、明らかに異教的と見なされてい
た。彼が啓明団の結社員たちと親交があるだけで、司祭たち
の眼には、彼を非難するのに十分だった。
――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
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王宮公園/モーツァルトの記念碑