2009年06月01日

●病死と判定する証拠がないのか(EJ第1965号)

 モーツァルトは病死か毒殺か――常識的に考えてみても病死で
あるという人が多いと思います。いや、偉大なる音楽家モーツァ
ルトを生み出したヨーロッパ社会、とりわけ彼が活躍したウィー
ンの人たちにとっては、名誉にかけてもモーツァルトの死が自然
死であって欲しいと考えるのは当然のことです。
 しかし、なぜ、毒殺説が消えないのでしょうか。それは病死と
断定できない何かがあるからです。それに当時のモーツァルトを
取り巻いている環境にも、毒殺を疑う根拠がぜんぜんないわけで
はないのです。
 そういうわけで、病死の真贋について最初に調べてみることに
します。それによって、病死とは断定できないものとは何かが明
らかになると思います。
 モーツァルトの死を病死とする根拠を調べてみると、ある高名
な医師――ウィーン医学界の第一人者による医学的鑑定書の存在
です。その医師の名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      グルデナー・フォン・ローベス博士
―――――――――――――――――――――――――――――
 この博士による鑑定書とは、ジーギスムント・ノイコムなる人
物に宛てた手紙なのです。期日は1824年6月10日になって
います。ノイコムがどのような人物かは後で述べることにして、
手紙の一部をご紹介しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの病と死について私が知っていることのすべてを
 貴殿にお知らせするのは、私の喜びとするところであります。
 モーツァルトは秋も深まった頃、リウマチ熱に冒されました。
 この病気は当時私たちの間にひろく流行し、多くの人がかかっ
 たものです。私が彼の病気について聞き知りましたのは、彼の
 病状がすでにかなり悪くなってから二、三日後のことでした。
 私はあれやこれやを斟酌して彼を訪問することをしませんでし
 たが、ほとんど毎日顔を合わせていたクロセット博士から、そ
 の様子を聞き及んでおりました。博士はモーツァルトの病気を
 危険なものとみなし、最初から憂慮すべき結果を、とくに脳で
 の発症を恐れていました。ある日彼はザラーバ博士と会い、モ
 ーツァルトは絶望的状態であり、発症を阻むことはもはや不可
 能であると明言しました。ザラーバ博士はこの所見をただちに
 私に知らせてくれました。そして、事実、モーツァルトはそれ
 から二、三日たって、脳の発症の通例の症状で、死去したので
 す。(中略)・・・私は死後身体を見ましたが、この病例によ
 く見られる兆候以外のものは何ひとつ認められませんでした。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このグルデナー・フォン・ローベス博士は、実際には生前モー
ツァルトを一度も診察しておらず、医師のクロセットから聞いた
話としてこの手紙を書いているのです。しかし、死後モーツァル
トを見ている記述があるところからして、おそらくは公の検死官
であったと思われるのです。しかし、これについては確証がとれ
ていないのです。
 当時ウィーンで施行されていた医事衛生法では検死は義務づけ
られているのですが、検死を行う検死官はその土地の外科医もし
くは軍医と定められており、内科医は検死はできなかったはずな
のです。グルデナー医師とクロセット医師はともに内科医であり
内科医の2人が検死をしたとは思われないのです。したがって、
誰も検死していないというのが本当だったと思われます。
 それでは、この手紙の受取人であるジーギスムント・ノイコム
とは何者でしょうか。
 ノイコムは、かつてのハイドンの弟子であり、毒殺犯人である
との噂の高かったサリエリの嫌疑をはらすために、「論争ジャー
ナル」という雑誌に論文を書いたのですが、その材料としてグル
デナー博士の所見というか鑑定が必要であったのです。
 要するにノイコムの立場は、サリエリの嫌疑をはらすというと
ころにあり、毒殺説の反証――すなわち、モーツァルトは病死で
あるという証拠が欲しかったわけなのです。したがって、彼の論
文の中で使われているグルデナー博士の鑑定もモーツァルトが病
死したという客観的な証拠とはならないはずです。
 それでは、モーツァルトの最期を看取ったとされるクロセット
医師とは、どういう人物だったのでしょうか。
 クロセット医師について書く前に、モーツァルトが亡くなった
とき、そばに誰がいたのでしょうか。このこと自体がはっきりと
していないのです。EJ第1965号で述べたように、臨終の席
にいたのは妻のコンスタンツェと妹のゾフィー、それにクロセッ
ト医師の3人ということになっています。
 しかし、諸説があるのです。その席にジュスマイヤーがいたと
いう説もあるし、コンツタンツェはいなかったというものまであ
るのです。はっきりしているのは、間違いなくいたのは、コンツ
タンツェの妹のゾフィーだけなのです。
 コンスタンツェが夫の臨終の場にいなかったのではないかとい
う説が出てきたのは、コンスタンツェの第2の夫であるニッセン
がモーツァルトの伝記において、モーツァルトの臨終の模様をゾ
フィーからの手紙に基づいて記述しているからです。なぜなら、
コンスタンツェはモーツァルトの臨終の模様をニッセンがいくら
聞いても一切話そうとしなかったからです。
 しかし、コンスタンツェは少なくとも臨終の場には立ち会って
いたはずです。コンスタンツェとゾフィー、そしてクロセットの
3人でモーツァルトの死を看取っています。ところが、その直後
にコンスタンツェはその場から姿を消しているのです。そして、
その後の葬儀や埋葬に関しては、コンスタンツェは間違いなく参
加していないのです。コンスタンツェのこの行為は、一体何を意
味しているのでしょうか。   ・・・[モーツァルト/43]


≪画像および関連情報≫
 ・トーマス・フランツ・クロセット博士
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クロセットは、臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、
  当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトル
  の下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやってきた。
  彼は1783年に「腐敗熱」に関する論文をものにし、まも
  なく師シュトルを代講をするようになったのみならず、彼に
  代わって治療にもあたった。それによって彼は「すべての学
  識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た」のだった。
  1787年5月23日にシュトルが亡くなると、彼はウィー
  ンで最も高名にして人望ある医者となり、皇帝一家までもが
  対診医として幾度となく彼を招いたという。1797年には
  ついに彼はウィーン大学医学部の客員メンバーとなった。
  マティーアス・フォン・ザラーバ博士は、クロセット博士の
  友人であり、同じシュトルの門下生である。
  ―――――――――――――――――――――――――――

病床のモーツァルト.jpg
病床のモーツァルト
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2009年06月02日

●クロセットは正しく診断したのか(EJ第1966号)

 クロセット博士は、当時のウィーンでは臨床医師としてかなり
有名な人であったようです。はっきりとした記録があるわけでは
ないが、モーツァルトの友人のひとりであったようです。このク
ロセットは、1789年にモーツァルト家を訪れていますが、そ
のときは、コンスタンツェの脚の感染症の往診だったようです。
 その頃コンスタンツェは脚の具合が悪く、その治療と称して、
バーデンへの温泉治療を何回も行い、モーツァルト家の家計の足
を引っ張っていたのです。
 しかし、クロセット医師の診断では、コンスタンツェの脚は妊
娠に伴ってあらわれる静脈炎であり、少なくとも温泉療法を何回
も行うほどの重症ではないことははっきりしているのです。しか
し、人の好いモーツァルトは妻のいうことを真に受けて、大金の
かかる温泉治療に何度も行かせたり、クロセット医師にも往診を
頼んでいるのです。
 ここでモーツァルトの亡くなる前の晩、すなわち、1791年
12月4日のことです。モーツァルトが苦しみ出し、その様子が
尋常ではなかったので、モーツァルトを看護していたゾフィーは
必死になってクロセット医師のところに駆けつけたのです。しか
し、彼は家を留守にしていたのです。
 そのときクロセットは、ある劇場で観劇中だったのですが、ゾ
フィーはそのことを聞いて劇場まで行ったのです。そして、観劇
中のクロセットに、モーツァルトの様子がおかしいので診察して
やって欲しいと頼み込んだのです。
 しかし、返事は冷たいものだったのです。クロセットは「劇が
終わってから行くから・・」といったそうです。時刻は午後8時
頃であったと思われます。当時ウィーンではオペラや芝居は、午
後7時頃から始まるのが通例でしたから、ゾフィーがクロセット
に往診を依頼したのは、劇が始まって1時間ほど経過した頃だっ
たはずです。
 何度頼んでもクロセットが聞き入れてくれないので、ゾフィー
は家に戻ってクロセット医師を待つことにしたのです。しかし、
待てど暮らせどクロセットはやってこなかったのです。
 劇が終るのは午後9時頃と考えられるので、それからすぐモー
ツァルトの家に駆けつければ、遅くとも午後10時には着いてい
るはずなのですが、クロセットがモーツァルト宅にやってきたの
は、日付が変わった12月5日――つまり、モーツァルトの死の
直前であったのです。おそらくクロセットは劇が終ってから友人
と食事をし、酒を飲んで、それからモーツァルト宅にやってきた
ものと思われます。
 ピアニストで、熱烈なるモーツァルトの崇拝者であるヴィンセ
ント・ノヴェロという人がいます。彼はモーツァルトの死後、妻
のメアリーと一緒にモーツァルトの関係者――コンスタンツェや
息子のフランツ・クサーヴァー、妹のゾフィー、かつての恋人ア
ロイジアなどを訪ねて克明にメモをとったのです。
 後年、このノヴェロ夫妻の手記をまとめて「モーツァルト巡礼
――1829年ノヴェロ夫妻の旅日記」という本が出版されてい
ます。モーツァルトの伝記としては、コンスタンツェの第2の夫
であるニッセンのものがありますが、その中身は省略や誤りが多
くあり、とくに謎の多いモーツァルトの臨終から死・埋葬につい
ての記述は、ほとんど書かれていないのです。
 むしろニッセンの伝記よりも、ノヴェロ夫妻の手記は夫妻が直
接関係者に会ってビンセント自身が書いているので、内容が正確
であり、モーツァルトについて書くときよく引用されています。
 以下は、ノヴェロ夫妻が直接ゾフィーに聞いて、ヴィンセント
・ノヴェロが、メモをしたモーツァルトの臨終の様子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 医者はやって来るとゾフィーに、酢を入れた冷水でモーツァル
 トの額とこめかみを冷やすように命じた。彼女は、病人の手足
 が、炎症を起こしてむくんでいるので、急に冷やすのはよくな
 いのではないでしょうか、と言ったが、医者が強く命じたので
 濡れたタオルを当てると、途端にモーツァルトは軽く身ぶるい
 して、間もなく彼女の腕の中で息を引き取った。この時部屋の
 中にいたのは、モーツァルト夫人と医者と彼女だけだった。死
 んだのは二階の表通りに面した部屋だった。
 ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの遺品」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part6.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、モーツァルトが息を引き取ったのは、コンスタ
ンツェではなく、ゾフィーの手の中だったのです。一体コンスタ
ンツェは何をしていたのでしょうか。
 ゾフィーによると、モーツァルトに対するクロセットの処置は
短く、ひどくそっけないものだったというのです。それは、何と
か助けようという態度ではなく、もうだめだという諦めが医師に
あったのではないかと考えられます。
 モーツァルトの死因がアクア・トファナによる毒殺ではないか
という説が一方にありながら、病死説がそれを押さえ込んでいる
のは、高名で優秀な医師であるクロセットがモーツァルトの最後
を看取ったという事実があるからなのです。
 もし、死因がアクア・トファナによる中毒であるならば、クロ
セットほどの医師がそれを見逃すはずがないからです。しかし、
クロセット自身がそのとき相当酒を飲んでおり、時刻は深夜――
当時の薄暗いランプの光で、アクア・トファナによる中毒の特徴
――歯茎に浮かぶ青い線や皮膚の色の変化などが短い診断で判断
できるものとは思われないからです。
 おそらくクロセットは、昨日のEJでご紹介したグルデナー博
士による何らかの脳内発症による死亡と考えていたのでしょう。
まさか医師としては、アクア・トファナによる毒殺などは考えな
いと思われるので、死因を間違ってとらえたのではないかと考え
られます。脳に異常をきたすにしては、モーツァルトの意識は死
の直前まではっきりしていたのです。・[モーツァルト/44]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィンセント・ノヴェロによるコンスタンツェ像
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コンスタンツェの顔は、ニッセンの伝記で描かれている人物
  像と似ていない・・・。彼女が有名な夫について語るときの
  話しぶりは、彼にきわめて近く、親しい人間の中に私が当然
  期待したほど熱っぽいものではなかった。
                ――ヴィンセント・ノヴェロ
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

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フランシス・カーの本
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2009年06月03日

●モーツァルトの本当の死因は何か(EJ第1967号)

 モーツァルトの伝記作家たちが上げているモーツァルトの死因
は次の10種類に及びます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.尿毒症         6.ブライト病
   2.リューマチ性熱     7.水銀中毒
   3.結核          8.粟粒疹熱
   4.甲状腺腫        9.脳の炎症
   5.水腫         10.悪性チフス熱
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中で死亡診断書に記述されているのは、「(急性)粟粒疹
熱」です。粟粒疹熱とは、高い発熱によって生ずる毛穴の炎症と
膨張であり、ある病気の結果生ずる症状のひとつであって、病名
ではないことは既に述べた通りです。
 モーツァルトの謎の死と埋葬に新説を打ち出した『モーツァル
トとコンスタンツェ』の著者、フランシス・カーはモーツァルト
の死因について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 提出された死因のひとつひとつを検査すると、その死因のすべ
 てが、現われた症候と相いれない、ひとつあるいはそれ以上の
 要素を含んでいることが確認できる。モーツァルトが示した症
 候でわかっているものは、からだのむくみ、関節の炎症、熱、
 頭痛それに嘔吐だけである。実際の死因は、肝炎でこじれた尿
 毒症と充分考えていいかもしれない。患者が、モーツァルトの
 ように、昏睡状態で死んだ場合、尿毒症は、医師がまず考える
 と思われる5つの原因のうちのひとつである。
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 昏睡状態で患者が死んだとき、医者が考える5つの原因のうち
のひとつは「尿毒症」――他の4つの原因とは「脳卒中」「てん
かん」「外傷」「過剰な薬剤」の4つです。この最後の「過剰な
薬剤」がすなわち毒薬なのです。モーツァルトは、死の2時間前
に昏睡状態になっているのです。
 要するに、これが原因であるという決め手がないのです。した
がって、ひとつの原因ではなく、いくつかの原因が重なった結果
ではないかとも考えられます。したがって、何らかの方法で毒薬
を飲まされていて、体力がなくなり、それにプラスして何らかの
病気――とくにリュウマチ熱を発症したとも考えられます。そう
なると、病死か毒殺かで白黒をつけることは困難になると思われ
るのです。
 モーツァルトの死因について多くの医学関係者が指摘している
のは「リュウマチ熱」ですが、普通であれば成人がこの病気にか
かって急死することは稀なことなのです。しかも、モーツァルト
が35歳になってはじめてこの病気を発症した場合でないと、急
死は考えられないのです。ところが、モーツァルトは小さいとき
に少なくとも三度はこの病気にかかっており、免疫はできていた
と考えられるので、リュウマチ熱だけが原因で死亡した可能性は
きわめて低いといえます。
 ここで、モーツァルトの担当医のクロセットやザラーバは、脳
での発症を危惧していたことを思い出していただきたいのです。
脳での発症とは、頭部における沈着、つまり「脳合併症」のこと
なのです。
 クロセットもザラーバも、マクシミリアン・シュトルの門下生
ですが、シュトルは当時主流であった体液病理学の第一人者なの
です。体液病理学によると、リュウマチ性疾患によって頭部に何
らかの物質が沈着し、それが脳合併症を起こす可能性があること
を指摘しており、クロセットやザラーバがそれを疑ったのは当然
のことであるといえます。
 ザルツブルグ・モーツァルティウムを卒業し、優れたピアニス
トでもあるアントン・ノイマイヤーは、同時に優れた内科医でも
あるのですが、彼はこれに関連して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、当時主流であった体液病理学を思い起こしてみる必要
 がある。それによれば、リウマチ性疾患の諸症状は、病因とな
 る――今日なら毒性の、といわれるだろう――物質がさまざま
 な器官組織へ沈着することによって生み出されるとされた。そ
 のような物質のひとつが関節に集中して沈着すると、急性関節
 リュウマチの、あのような症状があらわれるのである。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この場合、ノイマイヤーが沈着する物質にわざわざ「今日なら
毒性の、といわれるだろう」という注釈をつけたことは意味深な
ことです。モーツァルトが、かなり前から何らかの毒物を飲まさ
れていて、そういう毒性のある物質が脳に沈着した可能性をほの
めかしているのです。
 モーツァルトの直接の死の原因は瀉血療法にあるという指摘を
する医師もいます。瀉血とは、人体の血液を外部に排出させるこ
とで、症状の改善を求める治療法のひとつです。体液病理学では
炎症性の疾患にこの療法をよく行うのですが、今日ではこの療法
は限定的にしか行われないのです。
 モーツァルトには、体液病理学を専門といるクロセットとザラ
ーバという2人の医師が付いていたため、もちろん何回も瀉血療
法を受けていたことは確かであり、ゾフィーの手紙によると、最
後の晩もクロセットはモーツァルトに瀉血を行っているのです。
 しかし、瀉血による血の喪失は、熱と発汗で衰弱していたモー
ツァルトに致命的な打撃を与えたはずであり、それが死への引き
金になったものと思われます。
 モーツァルトの死因は、毒薬の投与とそれが頭部に沈着する病
気の合併症が疑われるのです。 ・・・[モーツァルト/45]


≪画像および関連情報≫
 ・マクシミリアン・シュトルツ博士の治療法
 ――――――――――――――――――――――――――――
 私の治療法は、以下のようなものであった。すなわち、必要と
 あらば、あらかじめ瀉血を施した後で、多量の食塩水を与え、
 次に催吐剤を投じる。これをときどき繰り返す。患者が嘔吐し
 たら、体内を空に保つようにする。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
 ――――――――――――――――――――――――――――

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モーツァルトの死亡通知書
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2009年06月04日

●ゾフィーはなぜ臨終の席にいたのか(EJ第1968号)

 モーツァルトの臨終の席の主役は、どう見てもコンスタンツェ
ではなく、妹のゾフィーです。モーツァルトはゾフィーの腕の中
で息を引き取っています。ゾフィーはどのような経緯でモーツァ
ルトの臨終の席にいることになったのでしょうか。
 1791年12月4日の話です。モーツァルトの亡くなる1日
前の話です。そのときゾフィーは、母のセシリアと一緒に生活を
していたのです。ゾフィーは11月の後半にモーツァルトが病床
から起き上がれなくなってからは、姉のコンスタンツェを励ます
ため、毎日のようにモーツァルトの家に行っていたのです。
 12月4日にいつものようにモーツァルトの家に行くと、モー
ツァルトはゾフィーに対して「今晩は一日自分に付き添っていて
欲しい」と頼んだのです。ゾフィーは、今晩は戻れなくなるので
母の面倒を一番上の姉であるヨーゼフ・ホーファーに頼んでくる
からといって家に戻ろうとしたのです。
 そのとき、コンスタンツェが家の外まで追いかけてきて、次の
ことを頼んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖ペテロ教会の司祭様のところに行って、司祭様に来てもらう
 ように頼んでちょうだい。それも、偶然のようにして来て欲し
 いと頼んで欲しいの。         ――コンスタンチェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゾフィーは姉のいう通りに教会に行って頼んだのですが、司祭
の返事は次のように冷たいものでした。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あの音楽家さんは、カトリック教徒としてはいつも芳しくない
 方でしてね。ですから、行くのはお断りします。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが司祭から疎まれていたのは、おそらくモーツァ
ルトがフリーメーソンとして、かなり派手に活動をしていたから
ではないかと思われます。
 ゾフィーがモーツァルトの家に戻ってきたときは、かなり遅い
時間になっていたはずですが、そのときの模様をゾフィーはニッ
センに宛てた手紙で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーがベットのそばにいました。有名な「レクイエ
 ム」が毛布の上に置いてあり、モーツァルトはジュスマイヤー
 に自分が死んだら、どうやって書き終えたらいいか自分はこう
 考えているからと言って説明していました。それからあの人は
 姉さんに自分が死んだことをアルブレヒツベルガーに知らせる
 までは秘密にしておくように言いきかせました。というのは、
 この方に神と世のつとめがすべて任されていたからです。
             ――フランシス・カーの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことは、この時点でモーツァルトはまだ元気であり、
仕事をしていたということです。しかも、モーツァルトは自分が
今晩死ぬということを自覚していたようです。ゾフィーに今晩は
泊まってくれと頼んだのも自分が明日まで持たないことをモーツ
ァルト自身がよくわかっていたからなのでしょう。
 実は、ゾフィーが母の面倒や教会との掛け合いをして走り回っ
ている間に、モーツァルトは病床で「レクイエム」の試演をやっ
ていたのです。その試演に参加していたのは、次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ベネディクト・シャック
         フランツ・ホーファー
         フランク・ゲルル
―――――――――――――――――――――――――――――
 シャックは、そのとき公演中の『魔笛』でのタミーノ役ですが
彼がソプラノを、ヴァイオリン奏者のホーファーはテノールを、
『魔笛』でザラストロ役をやっているゲルルはバスを、そしてモ
ーツァルト自身がアルトを担当して「レクイエム」の試演をやっ
たのです。
 しかし、リハーサルが始まって、「デイエス・イラエ」までは
進んだのですが、「ラクリモサ・ディエス・イラ(涙の日)」の
描写になったとき、モーツァルトは泣き出してしまって、そこで
中止になったのです。
 それにしても死の直前まで、モーツァルトは意識はしっかりし
ており、最後の最後まで「レクイエム」の完成を目指していたの
です。しかし、モーツァルトは午後11時頃に意識がなくなって
昏睡状態に入り、12月5日午前〇時55分にこの世を去ってい
ます。クロセット医師がモーツァルト家にやってきたのは、おそ
らく日付けの変わった5日早々であったと思われます。
 クロセットは、モーツァルトに対して瀉血を行い、依然として
熱が下がらないので、ゾフィーに額を冷やすように命じたところ
ゾフィーは次のように反対しています。それは、クロセット医師
がさんざん遅れてやってきて、あまりにも誠意のない治療をした
ことも手伝ってのことと思われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 病人の手足が炎症を起こしてむくんでいるし、急に冷やしても
 大丈夫なのですか。             ――ゾフィー
―――――――――――――――――――――――――――――
 おそらくクロセットはゾフィーの言葉にはカチンときたに違い
ないのです。この高名な医師に対して素人が何をいうか――クロ
セットは強引に「やれ!」とゾフィーに命じたのです。
 そうしたところ、モーツァルトは痙攣を起こし、ゾフィーの腕
の中で息を引き取ったのです。瀉血で最後の体力を奪われていた
ことが死の原因だったと思われます。以上がモーツァルトの病死
説の全貌です。        ・・・[モーツァルト/46]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト作曲/レクイエム
  ―――――――――――――――――――――――――――
   1曲:入祭唱        8曲:涙の日
   2曲:キリエ        9曲:主イエス・キリスト
   3曲:怒りの日      10曲:賛美の生け贄と祈り
   4曲:奇しきラッパの響き 11曲:サンクトゥス
   5曲:恐るべき御稜威の王 12曲:祝福されますように
   6曲:思い出したまえ   13曲:神の小羊よ
   7曲:呪われたもの    14曲:聖体拝領唱
   8曲:涙の日
  ―――――――――――――――――――――――――――

ネルソン・オニールの「モーツァルトの死」.jpg
ネルソン・オニールの「モーツァルトの死」
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2009年06月05日

●モーツァルトは誰に毒を盛られたのか(EJ第1969号)

 モーツァルトの毒殺説が出てきた最初のキッカケは、当のモー
ツァルト自身が口にしたからだといわれています。それは、17
91年6月のことで、コンスタンツェとウィーンのプラーター公
園を散策中のことだったといわれています。
 モーツァルトの伝記作家たちは、このプラーター公園における
モーツァルトによる告白を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1791年6月、モーツァルトは、コンスタンツェとウィーン
 のプラーター公園を散策中、自分は毒を盛られたと言い、「だ
 れかがぼくにアクア・トファナを飲ませた」と語った。
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 しかし、彼の不快な気分は眼に見えてつのり、彼を陰気な憂鬱
 へと陥らせた。妻はそれを感じとり、気が重かった。彼の気を
 紛らわせ、元気づけるために、彼女はある日彼とともにプラー
 ター公園を馬車で走った。彼らが公園で2人きりで座った時、
 モーツァルトは死について語り始め、僕は自分のために≪レク
 イエム≫を書いているんだ、と言い張った。感じやすい夫の目
 に涙が浮かんだ。「僕にはよく分かる」と彼は続けた。「僕は
 もう長くない。きっと毒を盛られたんだ!この考えを振り払え
 ないんだよ」。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃モーツァルトは2つの気分に支配されていたようです。
『魔笛』やフリーメーソン関係の曲を書いているときはとても元
気なのに、『レクイエム』の作曲をはじめると、なぜか元気がな
くなって、うつ状態になってしまうのです。
 しかし、そうかといってうつ病とは考えられない――このよう
に医師のアントン・ノイマイヤーはいうのです。それは精神異常
を示す兆候――食欲不振とか、それによる体重の減少、睡眠障害
などが当時のモーツァルトには何も見られないからです。
 もし、モーツァルトが本当に毒を盛られたとしたら、それは遅
効性のある毒であり、少しずつ効いてくる毒を飲まされていたと
いうことになります。問題はそういう毒薬を誰が盛ったかという
ことです。モーツァルトの身近にいる人でないと、それを果たす
ことはできないと考えられます。
 ところで、例のプラーター公園でのモーツァルトの告白を『モ
ーツァルトは誰に殺されたか』の著者、真木洋三氏は次のように
より踏み込んで書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの没後7年目の1798年、プラハのニーメチェ
 ックは、最初のモーツァルト伝を出版したが、その伝記による
 と、彼が妻に毒殺を打ち明けた場所は、プラター公園であった
 という。
 「誰が、毒を盛ったの?」
 コンスタンツェは驚いてモーツァルトに詰め寄った。彼はひと
 呼吸もふた呼吸も置いて、呟くように言った。
 「お前、気がついてなかったのか?」
 「なんのこと?」
 「とぼけるのもいい加減にしろ、お前のほれ・・・」
 お抱え道化師さ、と言おうとして彼は顔をそむけ、ゆっくりと
 歩き始めた。彼女の顔から血の気が一挙に引いた。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「お抱え道化師」とは誰のことでしょうか。
 オペラ好きの人であれば、「お抱え道化師」と聞いてすぐ頭に
浮かぶのはリゴレット――歌劇『リゴレット』のタイトル・ロー
ルです。モーツァルトは、コンスタンツェに宛てた手紙で、よく
この言葉を使っているのです。1791年6月にバーデンで温泉
治療をしているコンツタンツェに宛てた手紙の最後に次のように
使っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    お前のお抱え道化師に、ぼくからよろしく
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「お抱え道化師」といわれているのは、モーツァルトの
弟子のジュスマイヤーのことなのです。そうすると、ジュスマイ
ヤーによってモーツァルトは毒を盛られたことになります。その
ような可能性は考えられるのでしょうか。
 確かにジュスマイヤーであれば、モーツァルトの食べ物に毒を
盛ることは可能です。しかし、ジュスマイヤーにモーツァルトを
殺す動機が見つからないのです。
 そこで考えられるのは、コンスタンツェのジュスマイヤーとの
不倫疑惑です。真木洋三氏はそれを前提として、モーツァルト毒
殺の推理を組み立てているのです。それならば、ジュスマイヤー
はコンスタンツェと一緒に暮らすことを夢見てモーツァルトを毒
殺したのでしょうか。
 確かに不倫疑惑は否定できないし、あっても不思議はないので
す。コンスタンツェの脚の病気は妊娠に伴うものであり、頻繁に
温泉治療が必要なほどの重症ではないといわれます。それをコン
スタンツェは、モーツァルト家の家計の厳しい中で2年以上も続
けて行ない、モーツァルトを苦しめたのです。モーツァルトの借
金の主要な原因はコンスタンツェのこの病気治療にあるのです。
 その温泉治療のバーデンでは、ジュスマイヤーが付き添ってい
たのです。モーツァルトの命を受けてです。しかし、ジュスマイ
ヤーが宮廷貴族が送り込んだスパイと考えた場合は、少し事情が
違ってきます。        ・・・[モーツァルト/47]


≪画像および関連情報≫
 ・コンスタンツェのジュスマイヤーの不倫疑惑
  ―――――――――――――――――――――――――――
   モーツアルトの弟子がなぜ自分の師匠を毒殺しなければな
  らなかったのでしょうか。実は、モーツアルトの妻コンスタ
  ンチェと弟子のジュスマイアーは不倫をしていたのではない
  かと疑われています。モーツアルトは、もともとコンスタン
  チェの姉のアロイジアにプロポーズをしていましたが、結果
  的にふられてしまいました。それでもモーツァルトは、コン
  スタンチェと結婚した後も、アロイジアにずっと好意を寄せ
  ていたようです。それを不満に思ったコンスタンチェは若い
  弟子のジュスマイアーと不倫をしてしまったというのです。
  しかし、コンスタンチェはジュースマイアーにモーツアルト
  の殺害を依頼したわけではなく、むしろ、自分の不倫相手が
  夫を殺害してしまったのを知って、罪の意識から葬儀に参加
  できなかったのではないかと推論できます。
  http://www2.ocn.ne.jp/~lemonweb/story_pages/s_page4.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

プラーター公園.jpg
プラーター公園
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2009年06月08日

●ジュスマイヤーとは何者か(EJ第1970号)

 フランツ・ジュスマイヤー――モーツァルトの弟子であったこ
の男はどういう人物なのでしょうか。
 ジュスマイヤーは1766年にオーストリアのシュヴァーネン
シュタットで生まれる――父に音楽の手ほどきを受け、1779
年〜84年、クレムスミュンスター修道院で学んでいます。
 この修道院では、オペラやジングシュピールがよく上演された
ため、グルックやサリエリのオペラを研究する機会に恵まれ、修
道院のための教会音楽や舞台音楽を大量に作曲するなど、それな
りの音楽的才能を発揮しています。
 1790年にモーツァルトの弟子になりますが、そのときジュ
スマイヤーは24歳であり、なかなかの美青年だったといわれま
す。モーツァルトは、ジュスマイヤーを自分の仕事のアシスタン
トとしてに使うよりも、むしろコンスタンツェの面倒をみさせて
いたといわれます。
 コンスタンツェが脚の治療と称してバーデンに行きたがるとき
も家計が苦しいにもかかわらずそれを許し、ジュスマイヤーを世
話役として同行させたのも、わがままなコンスタンツェの面倒を
ジュスマイヤーに押し付け、作曲に専念するための自分の時間を
作りたかったというのがモーツァルトの本音だったと思います。
 なぜなら、そのときモーツァルトは「自分にはもうあまり時間
がない」ことを本能的に知っていたように思われます。その当時
モーツァルトが書いていたオペラは、歌劇『皇帝ティトゥスの慈
悲/K621』です。
 この当時のモーツァルトの心情を理解しようと思うなら、この
オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲/K621』について知る必要が
あります。ところがかなりのモーツァルトファンでも、『魔笛』
は知っていても、『皇帝ティトゥスの慈悲』については知らない
人が多いのです。
 このオペラは『後宮からの誘拐』に似ています。『後宮からの
誘拐』は実は当時の皇帝ヨーゼフ2世に対して愛と寛容を訴える
ものだったのですが、『皇帝ティトゥスの慈悲』は同じ愛と寛容
を皇帝レオポルト2世に対して訴えるものなのです。レオポルト
2世はモーツァルトに対して、どちらかというと冷たい人であっ
たからです。
 『皇帝ティトゥスの慈悲』とは、人間関係が複雑に入り組んで
いるオペラです。EJ風に要約してみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ローマ皇帝ティトにはセストという親友がいる。ティトはセ
 ストの妹のセルヴィアを愛しており、求婚するが、セルヴィア
 はセストの友人アントニオを熱愛していたので、ティトの求婚
 を断わる。そこで、ティトは先帝の娘であるヴィテリアと結婚
 することを決意するが、ヴィテリアはセストを愛している。
  セストはヴィテリアにそそのかされて、皇帝ティトの暗殺を
 企てるが失敗する。ティトは親友のセストを何とか救ってやろ
 うと理由を聞くが、セストはヴィテリアを庇って黙秘する。
  ローマ元老院はセストに死刑を言い渡し、刑が執行されるこ
 とになった。しかし、ヴィテリアは正式に皇妃の座につくこと
 になるが、その席で群集の面前でかかる悪事を企んだのはセス
 トではなく自分であると告白してセストの命を救う。
  皇帝ティトは、愛がすべての原因であることを悟り、この事
 件にかかわったすべての者を許すと言明する。しかし、セスト
 は、皇帝は許しても自分の良心は許してくれないと罪に伏すこ
 とを願い出る。しかし、ティトは悔い改めたその心こそ変わら
 ない忠誠よりも尊いとしてセストを許すのである。
  この皇帝ティトの深い慈悲に、ティトを除いた全員が「永遠
 の神」を称える大合唱が歌われ、オペラの幕が閉じる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このオペラの最後の大合唱は、モーツァルトの持っているエネ
ルギーが天に向かって噴出するかのような大迫力に満ちたものに
なっています。おそらくモーツァルトは、自らが皇帝ティトにな
り代ったような気持ちで作曲したものと思われます。
 この『皇帝ティトゥスの慈悲』の作曲と同時平行して『魔笛』
の作曲も進めていたモーツァルトは、『皇帝ティトゥスの慈悲』
の一部をジュスマイヤーにまかせているのです。そこがあとでこ
の作品の弱点ともなるのですが、モーツァルトにとっては、『魔
笛』の方が大切だったと思われます。
 1791年7月26日に、コンスタンツェは6番目の子供を出
産するのです。男の子です。モーツァルトの子供は6人ですが、
結局2人しか育っていないのです。このとき、モーツァルトは、
ジュスマイヤーを呼び出して次のようにいっているのです。真木
洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーが彼(モーツァルト)に呼ばれた。弟子は緊張
 し切っていた。
 「あの子は、わたしの子ではないよ」
 「でも、先生の子なのは、たしかです」
 「莫迦なこと、言うんじゃない。十か月前、君は、コンスタン
 ツェとずっと一緒だった。わたしは、昨年、9月23日、フラ
 ンクフルトへ出発した。しかも、9月はいちどもバーデンには
 行っていない」。
  ジュスマイヤーの顔色は蒼白となった。両手がかすかに震え
 ている。
 「なにもかも知っているよ。きみが特別の仕事のために、わた
 しのところへ来たのも・・・」
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「特別の仕事のために」とは何を意味しているのでしょうか。
ジュスマイヤーは誰かの命によって送り込まれたスパイだったの
でしょうか。         ・・・[モーツァルト/48]


≪画像および関連情報≫
 ・『皇帝ティトゥスの慈悲』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『皇帝ティトゥスの慈悲』が音楽的に弱々しい作品だという
  のは絶対に正しくない。そこには最高の技術を持った名匠の
  美しい音楽がみちみちているのである。問題は、すべてテキ
  スト自体が、真の人間の感情と劇的な形を持つような作品を
  生み出す可能性を、まったくといってよいほど殺してしまっ
  ていることなのだ。―スタンリー・サディー著/小林利之訳
         『モーツァルトの世界』より。東京創元社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

『皇帝ティトウスの慈悲』の初版スコア.jpg
『皇帝ティトウスの慈悲』の初版スコア

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2009年06月09日

●モーツァルトの4男をめぐる謎(EJ第1971号)

 昨日のEJでも述べたように、モーツァルトとコンスタンツェ
の間には6人の子供が生まれましたが、次のように次男と四男の
2人の男子しか育っていないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   次男 ・・・・・    カール・トーマス
   四男 ・・・・・ フランツ・クサーヴァー
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第1932号で、2人の男の子のうちの四男、「フランツ
・クサーヴァー」の名前を覚えておいて欲しい――そのように私
は書きました。モーツァルトのテーマがはじまってちょうど10
回目のときでしたが、やっとそれが何を意味するかについて書く
ところまできました。
 モーツァルトの弟子であるジュスマイヤーのフルネームは、次
のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤー
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの四男もフランツ・クサーヴァー――すなわち、
フルネームは次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、モーツァルトは四男にこのような名前をつけたのでしょ
うか。真木洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの眼には涙が光った。すべり落ちる涙を振り払っ
 て、微かな、つぶやくような声で彼は続けた。
 「きみの名前をつけて、あの子は、フランツ・クサーヴァー・
 ヴォルフガング・モーツァルトとしよう。こんなことになるだ
 ろうと思って、去年の9月30日付でコンスタンツェはこの住
 所に引っ越したことにしてある。世間的には、わたしの子とな
 るだろう。だが、・・・」
 「先生、お許し下さい!」
 ジュスマイヤーは両頬に涙を迸らせて、両膝をついて涙に咽ん
 でいた。彼はキリストのかくれている場所を、わずかの金に釣
 られて役人に告げ、キリストを裏切ったユダの立場に自分が立
 たされているのを知った。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろんこれは四男の名前に着眼した真木洋三氏の推理です。
確たる証拠があるわけではありませんが、あってもおかしくない
説得力を持った説であると思います。
 真木洋三氏はもうひとつジュスマイヤーは、しかるべきところ
から意図的に送り込まれたスパイであると推理しています。映画
『アマデウス』では、サリエリが女中をスパイとして送り込むと
いう設定になっているので、あり得ないことではないのです。
 それなら、ジュスマイヤーは誰から送り込まれたスパイなので
しょうか。
 おそらくそれはサリエリであろうと思われます。何をもってそ
う判断するかというと、ジュスマイヤーはモーツァルトの死後、
コンスタンツェの前から姿を消し、サリエリの弟子になっている
のです。
 この事実からジュスマイヤーとサリエリは事前に繋がりがあっ
て、サリエリの特命を受けてモーツァルト家に入り込み、モーツ
ァルトに毒を盛る――まさかコンスタンツェと不倫を働くという
のは特命でないと思うが――そういう疑いが出てくるのです。サ
リエリのモーツァルト服毒説はこういう観点から出てくるのであ
れば、あってもおかしくない話なのです。
 実際問題として、サリエリらの宮廷貴族の一派は、『フィガロ
の結婚』をはじめとするモーツァルトのオペラの公演を物理的に
妨害して失敗させようとしたことは動かし難い事実です。貴族た
ちにとってモーツァルトは危険な存在だったのです。
 しかし、それでいながら、サリエリはモーツァルトの音楽を高
く評価していたのです。1791年4月17日にはサリエリが自
ら指揮して、モーツァルトの交響曲第40番ト短調を演奏してい
ます。サリエリはこの曲がとても好きだったといわれます。
 『魔笛』に関して、モーツァルトはコンスタンツェへの手紙に
おいて次のように伝えてもいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨日13日の木曜日・・・6時に、僕はサリエリとカヴァリエ
 リを馬車で迎えにいき、彼らを桟敷席に案内した。2人がどん
 なに感じよかったか、僕の音楽だけでなく、台本も何もひっく
 るめて全部をどれだけ気に入ってくれたか、お前には信じられ
 ないだろうよ。(中略)サリエリは、序曲から最後の合唱まで
 一心に聴き、見ていたが、彼からブラヴォーとか、ベッロ(素
 敵だ)とかいう言葉を誘い出さない曲は、一曲もなかった。彼
 らは僕の好意に対し、ほとんどきりのないくらい礼をいった。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほどモーツァルトを買っていたサリエリがモーツァルトを
殺すはずはない――これはひとつの説得力のある意見です。サリ
エリとしては、宮廷音楽家としては最高の地位を得ており、モー
ツァルトを恐れる必要は何もなかったからです。しかし、貴族と
してみた場合は、モーツァルトはやはり危険分子なのです。
 サリエリは、ジュスマイヤーを弟子として迎え入れただけでな
く、四男のクサーヴァー・モーツァルトの面倒まで見ているので
す。もし、四男ががジュスマイヤーの子供だとした場合、これは
何を意味しているのでしょうか。・・・[モーツァルト/49]


≪画像および関連情報≫
 ・フランツ・クサーヴァー・モーツァルト
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・モーツァルトはドイツのピアニス
  トで作曲家。モーツァルトの生き残った2人の子供のうちの
  次男(実際には四男)。母コンスタンツェの意向もあり、ヴ
  ォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世として活動。
  しかし、生まれた直後に父親が他界したため、父から直接、
  卓越した音楽教育などを受けた事実はない。アントニオ・サ
  リエリとヨハン・ネボムク・フンメルに師事。《ディアベリ
  の主題による50の変奏曲》に、フランツ・リストなどとと
  もに名を連ねている。ピアノ・ソナタやポロネーズ、ロンド
  変奏曲などの作品があり、作品は洗練され、繊細であるが、
  ウェーバーやシューベルトと同世代にもかかわらず、作風は
  ウィーン古典派の域を出ない。    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

クサーヴァー・モーツァルト.jpg
クサーヴァー・モーツァルト
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2009年06月10日

●『レクイエム』の補作をめぐる問題(EJ第1972号)

 宮廷貴族のスパイであるジュスマイヤーが弟子としてモーツァ
ルト家に入り込み、あろうことか妻のコンスタンツェと不倫を重
ね子供までつくってしまう――それをモーツァルトは知っていて
すべてを許す――普通こういうことは考えられないことですが、
『皇帝ティトゥスの慈悲』と重ねあわすと、なんとなく理解でき
るような気がするのです。モーツァルトは、自分が皇帝ティトゥ
スになったつもりで、寛容と慈悲の精神をもってコンスタンツェ
やジュスマイヤーを許したのでしょうか。
 いずれにせよはっきりしていることは、子供が生まれた時点で
ジュスマイヤーとコンスタンツェの仲は既に破綻していたという
事実です。それは、ジュスマイヤーがモーツァルトの死後、速や
かにモーツァルト家から姿を消しているからです。
 夫を亡きものにして一緒に暮らすのではなく、目的が達せられ
たので姿を消すというのであれば、ジュスマイヤーのスパイ説は
真実味を帯びてきます。ジュスマイヤーは、モーツァルト家から
姿を消して、サリエリの弟子になっているからです。
 ジュスマイヤーがコンスタンツェの前から姿を消したのであれ
ば、それなら彼はぜ未完の『レクイエム』の補作を行なったので
しょうか。これには少し複雑ないきさつがあるのです。
 モーツァルトの死後、『レクイエム』の依頼主のヴァルゼック
伯爵からコンスタンツェのところに使者が来て、『レクイエム』
の総譜を渡せといってきます。
 既にジュスマイヤーは姿を消していて、補作をやってもらう人
がいない。もし未完のままスコアを渡すと、残金がもらえないの
で、コンスタンツェはなんとか完成させようとします。そこで、
モーツァルトの友人のヨーゼフ・アイブラーに『レクイエム』の
補作を依頼するのです。
 アイブラーはいったんは引き受けておきながら、何ひとつ作業
を行なわないまま、補作を投げ出してしまったのです。なぜ、投
げ出したかは今もってわかっていないのです。
 ヴァルゼック伯爵からの催促は激しさを増すばかりで困り果て
たコンスタンツェは死にもの狂いでジュスマイヤーを探し、彼が
サリエリの弟子になっていることを突き止めたのです。
 コンスタンツェは人を介してジュスマイヤーに補作を依頼した
のです。ジュスマイヤーはモーツァルトとの約束でもあったので
補作を引き受け、完成させます。そして、モーツァルトの没後、
2年が経過した1793年になって、『レクイエム』は、ヴァル
ゼック伯爵に手渡されたのです。そしてその『レクイエム』は、
1793年12月にヴァルゼック伯爵の作品として、邸内の礼拝
堂において演奏されたのです。
 しかし後になってコンスタンツェが『レクイエム』のコピーを
楽譜出版会社のブライトコップフ・ウント・ヘンテル社に売りつ
けたので、『レクイエム』はモーツァルトの作品として正式に認
定されたのです。
 しかし、ジュスマイヤーも黙ってはいませんでした。1800
年2月8日になって、ジュスマイヤーはブライトコップフ・ウン
ト・ヘンテル社に対して『レクイエム』の後半のほとんどは自分
の補作であることを通告したのです。ジュスマイヤーの心境とし
ては、こうすることによってのみ自分の名前が後世に残る――そ
のように考えたのです。
 それは、ジュスマイヤーの考えた通りとなり、モーツァルトの
『レクイエム』の補作者としてフランツ・クサーヴァー・ジュス
マイヤーの名前は今日に残っているのです。そして、ジュスマイ
ヤーはそれから3年後に37歳の若さでこの世を去っています。
 ジュスマイヤー版の『レクイエム』は、その後何回かにわたっ
て修正が行なわれていますが、やはり作曲者のモーツァルト自身
から直接指示を受けてのジュスマイヤーの補作には、多くの問題
があるとはいえ、一定の価値が認められています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1971年、フランク・バイヤーによって、ジュスマイヤーの
 補作であるオーケストレーションの改訂が行われた。そのあと
 イギリスの音楽学者リチャード・モーンダーにより続唱の涙の
 日(ラクリモサ)の第9節以下のジュスマイヤーの補作がカッ
 トされ、代わって入祭文の一部を入れ、最後にモーツァルトが
 スケッチのまま残したアーメンのフーガをつけ加えるという大
 手術が行われた。完全にジュスマイヤーの作と思える、サンク
 トゥスとベネディクスも切り落とされてしまった。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまで宮廷貴族の送り込んだスパイとしてのジュスマイヤー
によるモーツァルト毒殺説について述べてきましたが、もう1人
疑わしい人物がいます。
 それは他ならぬモーツァルトの妻であるコンスタンツェその人
です。モーツァルトに遅効性の毒を盛るには、モーツァルトの身
近にいる者以外は無理ということになります。そうなると、コン
スタンツェかジュスマイヤーしかいないことになります。
 コンスタンツェを疑う理由はいくつもあるのです。それは死亡
から埋葬までの一連のプロセスに多くの疑惑があるからです。フ
ランシス・カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが死んだ正確な日時は1791年12月5日の午
 前1時5分前であることはわかっている。しかしその後は、わ
 れわれは闇、疑惑、矛盾の中に投げ込まれてしまう。特にその
 中で際立つのはコンスタンツェだが、それは彼女が肝心なとき
 にいなかったり、黙して語らずといった不可解な行動による。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――・・・[モーツァルト/50]


≪画像および関連情報≫
 ・モツレクに関するブログより/ゆきのじょうさん
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトのレクイエムには、フォーレやヴェルディには
  ない問題が生じています。それは本作品が全くと言って良い
  ほどの未完成品であるということです。モーツァルトの死後
  レクイエムは弟子たちによって完成版がつくられることにな
  ります。最終的にまとめたのがフランツ・クサヴァ・ジュス
  マイヤー(1766〜1803)です。特に「ラクリモーザ」
  より後はモーツァルトの自筆譜すら残っていないため、様々
  な仮説、憶測が流れることになります。それらの主張を乱暴
  に一言で言ってしまえば「モーツァルトが書きたかったレク
  イエムはこういうものではない」ということだと思います。
  http://www.kapelle.jp/classic/your_best/mozart_requiem.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

フランツとカール/モーツァルトの子供.jpg
フランツとカール/モーツァルトの子供
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2009年06月11日

●なぜ、スヴィーテン男爵が葬儀執行人なのか(EJ第1973号)

 モーツァルトが亡くなったのは、1791年12月5日午前0
時55分ということではっきりしています。しかし、葬儀の日付
については死亡日ほどはっきりしていないのです。
 それなら、聖シュテファン教会の死者台帳にはどのように記述
されているのでしょうか。死者台帳には、1791年12月6日
と明記されています。
 普通であればこれで決まりなのです。死者台帳が日付を間違っ
て記載されるはずがないからです。しかし、葬儀当日の天候が合
わないことと、モーツァルトが毒殺されたとする説を否定しよう
とする勢力によって、12月7日説が最近になって出てきたので
す。どうして、6日だと普通の病死ではないとされるかについて
は、これから述べていくことにします。
 モーツァルトが亡くなったあと、疑わしいことがたくさん出て
きています。それは、モーツァルトの臨終のさいは看護を妹のゾ
フィーにまかせきりにし、目だった動きをしなかったコンスタン
ツェが、モーツァルトが死ぬと急にテキパキと動き出したことで
す。それは、まるでモーツァルトの死を待っていたかのようだっ
たといわれます。
 それは、モーツァルトが死んでほどなくして、知らせを聞いて
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵が姿を現したことに
よって、わかったのです。モーツァルトの死後、コンスタンツェ
が召使の誰かに命じ、男爵に連絡を入れたからです。そして、彼
はコンスタンツェと葬儀の段取りを決め始めたのです。彼は最初
から葬儀を取り仕切るつもりでやってきたのです。
 EJ第1968号で述べたように、モーツァルトはコンスタン
ツェに、自分が死んだらアルブレヒツベルガーに一番最初に連絡
をとるようにいっています。アルブレヒツベルガーは宮廷付きの
オルガニストでモーツァルトの友人であり、モーツァルトから葬
儀などを依頼されていたのです。
 しかし、コンスタンツェはモーツァルトの言いつけを無視し、
スヴィーテン男爵に連絡をとったのです。おそらく事前にコンス
タンツから話がいっていたのでしょう。スヴィーテン男爵は深夜
にもかかわらず、モーツァルトの家に駆けつけたのです。
 それでは、スヴィーテン男爵とモーツァルトとの付き合いはど
の程度のものだったのでしょうか。
 スヴィーテン男爵との付き合いはフリーメーソンを通じてのも
のであり、いくつか作曲や編曲の仕事をもらっています。しかし
最後にヘンデル作品の編曲の仕事を最後に1年半以上疎遠になっ
ており、とくに親しい付き合いではなかったのです。
 コンスタンツェとしては、モーツァルトの死をいち早く伝える
べき人はたくさんいたはずです。親友のフォン・ジャカン、アロ
イジアの夫であるランゲ、何回も資金援助を受けた恩人のブフベ
ルク、それに『魔笛』を共に制作した仲間であるシカネーダーな
どです。しかし、コンスタンツェはなぜか、モーツァルトとあま
り接触のなかったスヴィーテン男爵を呼んでいるのです。遠くに
住んでいたとはいえ、モーツァルトの姉のナンネルにさえコンス
タンツェは最後までモーツァルトの死を伝えなかったのです。こ
れは妻として最低の行為と批判されても仕方がないのです。
 もうひとつ、モーツァルトが死んだときコンスタンツェは、モ
ーツァルトの友人の1人であるヨーゼフ・ダイナーのところへ女
中を走らせ、モーツァルトを死装束を着せ替えるよう頼んでいま
す。12月5日の午前5時のことです。
 なぜ、そんなに急ぐのでしょうか。夏であれば遺体の腐敗も考
慮して急ぐ必要がありますが、時期は厳冬の季節であってそんな
に急ぐ必要はまったくないのです。
 それは何らかの理由で、モーツァルトの遺体をあまり多くの人
には見せたくなかったのではないかと思われます。したがって、
少しでも早く遺体に死装束を着せ、モーツァルトの死を多くの人
が知る前に葬儀を済ます必要があったのでしょう。
 そのためには、あとで墓が掘り返される恐れのない最下等の葬
儀と共同墓地への埋葬一番都合が良かったのです。スヴィーテン
男爵は、深夜に駆けつけるや否やコンスタンツェに、第3等の葬
儀と共同墓地への埋葬を提案し、コンスタンツェは誰に相談する
ことなく、それに同意しています。
 葬儀費用は8フローリン56クロイツァー――これは貧民のた
めの無料の葬儀の一つ上のランクの葬儀なのです。おそらく事前
にコンスタンツェは男爵に、借金が多く葬儀にお金をかけられな
いことを話していたものと思われます。何やらモーツァルトが死
んだらこうするということを前々からよく計画を練っていたフシ
が濃厚なのです。
 既にご紹介しているモーツァルトの研究家藤澤修治氏のレポー
トによると、死の直前のモーツァルトは相当金銭的に潤っていた
としています。そのいくつかの根拠を示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『レクイエム』作曲料の前金 ・・・  225フローリン
 『皇帝テイトゥスの慈悲』の作曲料・ 1125フローリン
 『魔笛』の作曲料 ・・・・・・・・  900フローリン
 宮廷音楽家の報酬/5ヶ月分 ・・・ 2630フローリン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                   4880フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけで4880フローリン――この他楽譜出版収入、ピア
ノや作曲の教授料などを加えると、ゆうに5000フローリンを
超える収入(1フローリン=約1万円)があったのです。これで
最下等の葬儀しか出せないはずはないのです。
 コンスタンツェは、モーツァルトに親しい友人であれば、死の
直前のモーツァルトの懐具合を知っているので、あえて疎遠のス
ヴィーテン男爵に葬儀執行人を頼んだのではないかと推測できる
のです。しかし、最下等の葬儀を選んだのはお金のためではない
ある事情があったのです。   ・・・[モーツァルト/51]


≪画像および関連情報≫
 ・聖シュテファン大聖堂について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハプスブルク家のルドルフ4世はこの教会をゴシック様式に
  全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分
  と両側の廊下部分の礎石が据えられました。南塔は高さが、
  136.7メートルあり、1433年に完成。1469年に
  は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世がローマ法王を説得
  して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独
  立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬され
  ています。
      http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11795
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖シュテファン大聖堂.jpg
聖シュテファン大聖堂
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2009年06月12日

●なぜ葬列をやめ引き返したのか(EJ第1974号)

 モーツァルトの葬儀の費用は、第3等で8フローリン56クロ
イツァーであると述べましたが、これについてフランシス・カー
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴァン・スヴィーテンは聖シュテファン教会での葬儀の手筈を
 整え、埋葬は、主要な共同墓地ではなく、教会から2マイル半
 離れた郊外の聖マルクス墓地に決められた。粗末で目立たない
 墓穴が注文されたが、これに8グールデン56クロイツァーか
 かった。さらに3グールデンが葬儀馬車用にとっておかれた。
               注――グールデン=フローリン
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフランシス・カーの記述において気になる点が2つあるの
です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.埋葬場所が教会から2マイル半離れた郊外の聖マルクス
   墓地であること
 2.8フロ−リン56クロイツァーは、粗末で目立たない墓
   穴の費用である
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはもっと近くに埋葬できたはずなのです。それな
のに教会から約4キロも離れた郊外のマルクス墓地に埋葬されて
いるのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
 それから、8フロ−リン56クロイツァーの葬儀は、粗末で目
立たないけれども墓穴を掘る費用を含んでいるのです。しかし、
映画『アマデウス』で見たようにモーツァルトの遺体は目印をつ
けられないままに放置された共同墓穴に落とされているのです。
これは貧者の葬儀であり、無料の葬儀の扱いなのです。
 葬儀執行人スヴィーテン男爵がモーツァルトの葬儀を第3等と
したのは、当時の葬祭法令によれば当然のことであると唱える学
者がなぜか少なくないのです。
 確かに当時の社会習慣や葬祭法では第1等の葬儀は「貴族」に
限られ、「庶民」は第2等か第3等しか選べなかったというのは
事実です。『モーツァルトの死』という著作のあるカール・ベー
アはその本の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 葬祭法によれば(庶民であるモーツァルト)は、実際には第2
 等を選ぶか第3等を選ぶしかなかったのである。比較にならな
 いくらいはるかに高名であったベートーヴェンですら、36年
 も後で、第1等の葬儀ではなく、第2等が選ばれたものであっ
 た。モーツァルトの評価が高まったのは後世になってからであ
 り、彼は当時人気の落ちぶれた一介の音楽家に過ぎず、ベート
 ーヴェンが第2等だった事実からしても、庶民であるモーツァ
 ルトは第3等の葬儀だったとしても何の不思議もない。
      ――カール・ベーア著、『モーツァルトの死』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これには異論があるのです。モーツァルトに詳しい藤
澤修治氏の論文によれば、グルックは一曲もドイツ・オペラを作
曲したことがないにもかかわらず、ウィーン宮廷は彼を国葬で送
り出し、庶民だったが第1等の葬儀を受けて個人墓に葬られてい
るのです。さらに、ヨーゼフ・ハイドンも庶民ではあったが、葬
儀は第1等であり、はやり個人墓に葬られています。
 それにモーツァルトは、カール・ベーアのいうように、「当時
人気の落ちぶれた一介の音楽家」などではないのです。死の2ヶ
月前に作曲され、10月だけで24回も連続上演された歌劇『魔
笛』ひとつ見ても、稀有の音楽家であるという評価は定着してい
たのです。
 それに最も重要なことは、モーツァルトは第3等の葬儀となっ
て金が支払われていたにもかかわらず、実際には第3等以下の扱
い――目印のない共同墓地に投げ捨てられているのです。これは
一体どうしたことなのでしょうか。
 映画『アマデウス』で目にしたモーツァルトのあまりにも寂し
い埋葬のされ方をもしモーツァルトの遺族や友人が見ていたら、
黙っていないはずです。ところが、巧妙に計算されたある策略に
よって、モーツァルトの埋葬には遺族や友人は誰も立ち会っては
いないのです。映画でもそうなっていたはずです。
 これに関しても当時のウィーンの慣習を持ち出して、正当性を
主張する学者が多いのです。つまり、会葬者は墓地まで葬列を組
んで行くことはなかったというのです。
 これは明らかにウソであると思われます。もし、そうなら、共
同墓地に葬られる場合、遺族は遺体がどこに埋葬されたかわから
なくなってしまうからです。したがって、最低限遺族は埋葬に立
ち会うことが許されていたと考えられるからです。
 モーツァルトの場合、霊柩馬車を用意して、葬儀執行人のスヴ
ィーテン男爵とコンスタンツェを除く数人の遺族と友人がマルク
ス墓地に向かっているのです。しかし、なぜか、霊柩馬車に付き
添って全員がマルクス墓地に向かう途中のシュトーベントゥール
というところで引き返しているのです。
 それでは、霊柩馬車はどうなったのか――霊柩馬車はモーツァ
ルトの遺体を乗せて付き添いなしにマルクス墓地に向かったので
す。なぜ、引き返したのか――それは当日の6日の天候のせいに
されているのです。
 葬儀当日の12月6日、天候は荒れており、風雨が強く気温は
大きく下がっていたのです。馬車にはコンスタンツェの母のセシ
リアが付き添っていたのですが、途中寒さに耐えかねて自分だけ
帰えらせてくれとスヴィーテン男爵に申し出て降りたのです。し
かし、老婆一人だけを風雨のなか帰すわけに行かず、結局全員が
引き返したのです。      ・・・[モーツァルト/52]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの埋葬について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの埋葬に多額の金をかける労を取った人間はだ
  れひとりいなかった。雨が激しかったため、遺体に付き添っ
  ていた少数の友人たちも急いで家に帰って行った。柩は貧民
  用の墓穴にあわただしく下ろされ、土をかけられた。数週間
  後に、柩は他の貧者の柩に混ざって、なにひとつ痕跡をとど
  めなくなった。その結果、死体は全く発見されなかった。
            ――サッチヴェレル・シットウェル著
                  『モーツァルト伝』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

スヴィーテン男爵.jpg
スヴィーテン男爵

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2009年06月15日

●喪主が参加しない異常な葬儀(EJ第1975号)

 モーツァルトの遺体を収めた霊柩馬車に付き添っていたのは誰
でしょうか。
 正確にはわからない。しかし、確実にいた者といなかった者は
わかるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ≪付き添っていた者≫
      ・ヴァン・スヴィーテン男爵葬儀執行人
      ・セシリア(コンスタンツェの母)
     ≪付き添っていなかった者≫
      ・コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 確証はありませんが、この他に付き添っていたと思われるのは
最後までモーツァルトの面倒をみたゾフィー・ハイベルです。こ
れは理解できます。ちなみに、霊柩馬車は人が乗れるものではな
く、馬車には棺だけを乗せてその周りを葬列参加者が付き添って
ゆっくりと墓地に行くのです。
 そして、もうひとり――モーツァルトの埋葬について調べてみ
ると、必ず出てくるヨーゼフ・ダイナーなる人物――この人物が
付き添っていたと思われるのです。このヨーゼフ・ダイナー――
EJ第1973号では「モーツァルトの友人の1人」と紹介した
のですが、正確にいうと、ダイナーはモーツァルトがよく通って
いたビア・ホール「金蛇亭」の給仕であり、モーツァルト家と親
しくなって、店に関係なくモーツァルトの使い走りをしていたと
いわれます。
 だからこそ、モーツァルトが死ぬとすぐコンスタンツェは女中
をダイナーのところに行かせ、モーツァルトに死装束を着せるの
を手伝ってくれるよう依頼したのです。
 ところで、このヨーゼフ・ダイナーがなぜ霊柩馬車に付き添っ
ていたかですが、後になって、彼はモーツァルトの埋葬に関して
手記を出しているからです。これが「ダイナー手記」といわれ、
モーツァルトの埋葬の不可解さを世に知らしめたのです。
 「ダイナー手記」では、モーツァルトの葬儀の模様は次のよう
に記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・モーツァルトの亡くなった夜は、陰鬱な嵐もようであっ
 たが、彼の最後の祝福の時にも空が荒れだした。雨と雪が一緒
 に降り、それはまるで、偉大な作曲家の葬式にかくもわずかし
 か参列しない同時代人たちに対して、天が恨みを表わそうとし
 ているかのようであった。ごくわずかな友人と3人の女性が遺
 体に付き添った。モーツァルト夫人は参列していなかった。こ
 のわずかな友人たちは傘をさして棺の周りに立ち、それから棺
 はシュラー大通りを抜けて、聖マルクス墓地へと運ばれていっ
 た。嵐はますますひどくなったので、そのわずかな友人たちも
 シュトーベントゥールのところで引き返すことに決めた。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、肝心の妻であるコンスタンツェはなぜ付き添ってい
ないのでしょうか。
 コンスタンツェは、ヴァン・スヴィーテン男爵がモーツァルト
家に到着して間もなく家から姿を消しているのです。この喪主の
いない葬儀の執行について、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は何
もいっていないのをみると、コンスタンツェの失踪はあらかじめ
打ち合わせがあった通りということになります。
 後になってコンスタンツェは、夫の死に気が動転し、当時原因
不明の病気にかかっていて葬儀に参列できなかったといっている
のですが、それは明らかにウソであるといえます。
 それは、コンスタンツェがモーツァルトの死後少なくとも17
年間はマルクス墓地に墓参りにすら行っていないことによっても
明らかです。仮に百歩譲って病気で葬儀に参列できなかったこと
を認めるとしても、病気が治れば墓参りぐらいは行くのが自然で
あると思うのに行っていないからです。明らかにコンスタンツェ
は、行けなかったのではなく、行かなかったのでしょう。
 それなら、17年経過してなぜ急に墓参りをしたのかというと
これも自発的ではなかったのです。既出の藤澤修治氏の論文によ
ると、ザクセン公使館参事官であったゲオルク・グリージンガー
がコンスタンツェの家を訪ねてモーツァルトのことを話したとき
コンスタンツェがモーツァルトの墓参りに行っていないことを話
したというのです。1808年のことです。
 そのときグリージンガーは、モーツァルトの遺体がどこに埋葬
されているのかが分からなくなっているとことを報じたドイツの
新聞を見せてマルクス墓地に行って墓探しをするべきであるとコ
ンスタンツェを説得したのです。
 コンスタンツェは断わりきれなくなって、はじめてマルクス墓
地に行ったのです。そのときコンスタンツェに同行したのは、グ
リージンガーの他に、コンスタンツェの再婚相手のニッセン、息
子のフランツだったのです。結果はもちろんモーツァルトの埋葬
場所を特定できるはずはなかったのですが、モーツァルトの死後
はじめて、コンスタンツェはマルクス墓地に行ったのです。
 モーツァルトの死後、モーツァルトの音楽家としての評価が上
がるにつれて、音楽学者、音楽評論家などは次の2つのことの打
ち消しに必死になって取り組むようになります。さすがに大音楽
家のモーツァルトを大事にしない国としてウィーンの市民が批判
されることを恐れたものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.モーツァルトは何者かに毒殺されている
   2.モーツァルトの埋葬は当時の慣習である
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、どのようにいい繕っても、葬儀に喪主が参列しない異
常さは打ち消せなかったのです。・・・[モーツァルト/53]


≪画像および関連情報≫
 ・あえて不審の死を隠そうとする理由
  ―――――――――――――――――――――――――――
  もしモーツァルトが毒殺されたとすれば、彼と親しかった友
  人たちは、ある人間が彼を殺したがっていた理由を知ってい
  た可能性が充分ある。もしその理由にモーツァルトの私生活
  に関連した秘密にからんでいたとすれば、彼らはこのことに
  ついての問い合わせを避けたいと思うだろうし、彼の死を、
  世間の関心から極力遠ざけようとするだろう。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・写真/http://www.tdl.to/jurin/Mozart/Constanze.html

78歳のコンスタンツェ.jpg
78歳のコンスタンツェ
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2009年06月16日

●モーツァルトの葬儀の日は穏やかな日(EJ第1976号)

 夫の死の直後から葬儀を放り出して姿を消し、以後17年間に
わたって、墓参りをしない妻のコンスタンツェ――どのように考
えても人の道に欠ける行いといえます。どうしてコンスタンツェ
はこういう行動をとったのでしょうか。
 推理小説めいた話になりますが、仮にコンスタンツェが夫を毒
殺したとすると、コンスタンツェのとった行動は理解できるので
す。だからこそ、200年以上も経ってモーツァルトの毒殺説が
消えないのです。
 一般論として、妻が夫を毒殺したとしたとき、その当事者であ
る妻はどういう行動をとるでしょうか。理想論としては次の3つ
であると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.遺体はできる限り人目に触れさせず、素早く埋葬する
 2.遺体は後で掘り返されないよう共同墓地に埋葬させる
 3.首謀者であり喪主である妻はなるべく表面には出ない
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上の3つは、コンスタンツェの取った行動そのものであり、
当時のウィーンの葬祭の慣習や宮廷の勅令にも合っていることな
のです。しかし、夫の死後、喪主の役割を放り投げて姿を消して
しまうことは、人の道に反することであり、当時でも許されるこ
とでないことはいうまでもないことです。
 推測ですが、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は事前にコンスタ
ンツェから相談を受け、モーツァルトが金銭的に窮していたこと
を聞かされていたものと思われます。
 そこで、スヴィーテン男爵は最低限の葬儀を素早く行うことに
し、このことをモーツァルトの親戚や友人から非難されることの
ないよう、喪主は気が動転して起き上がれない状態になったとし
て姿を隠すことを承知していたものと考えられます。
 ニッセンによると、コンスタンツェは「1人で絶望の淵にたた
ずむことがないように未亡人はシカネーダーの仲間のバウエルン
フェルトのもとに預けられ、後にゴルトハーンの家に移った」よ
うです。これはスヴィーテン男爵の差配です。
 それに当時のウィーンの葬祭に関する慣習と宮廷の勅令がから
んでくるのです。
 モーツァルトの葬儀や埋葬が当時の慣習から考えて、それほど
おかしなものではない証拠として、既出のアントン・ノイマイー
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 遺体の祝福は巨門(リーゼントーア)の左手の十字架礼拝堂で
 行われたものと思われる。その後遺体はカピストラン説教壇の
 横にある「死者のための礼拝堂」として用いられていた十字架
 像礼拝堂に、夜まで「安置」された。というのは遺体の移送は
 夜になってから行うことに決められていたのである。したがっ
 て、家族にとっては、聖堂敷地内での祝福をもって、本来の埋
 葬は済んだことになる。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 アントン・ノイマイヤーのこの記述でわかることは、当時遺族
は墓地での遺体の埋葬までは立ち会わないことが慣例であるよう
に思えることです。実際に勅令では「・・遺体は集落の外に選ば
れた墓地に運ばれて、飾りなしに埋葬される」とあるのです。
 しかし、それなら、すべての人は共同墓地に埋葬されるのかと
いうと、そうではないのです。身分の高い人や国に貢献した人に
ついては個人墓は認められているのです。
 それに、埋葬のさい、遺体に遺族は付き添わないと葬祭法で決
めているのに、モーツァルトの場合は墓地まで行かなかったにせ
よ、どうして葬列が組まれたのでしょうか。
 当時ウィーンの法律については、次のようにいわれているよう
に朝令暮改の典型だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウィーンの法律は、午前11時から昼までしか続かない
―――――――――――――――――――――――――――――
 ましてモーツァルトの葬儀執行人は、貴族であるスヴィーテン
男爵なのです。そういう身分の高い人が葬儀の手続きのさい、葬
列を組みたいと申し出ればそれは簡単に許されたはずです。
 このようにして、喪主はいなかったけれど禁止されている葬列
をあえて組み、ウィーンの厳冬のひどい風雨の中でそれを行おう
としたが、途中のシュトーベントゥールで、引き返さざるを得な
かったというかたちを作りたかったのではないでしょうか。
 ウィーンの冬は寒いのです。しかも風雨の強い日に葬列を組ん
で、馬車について4キロも歩けるでしょうか。葬列者の中には、
コンスタンツェの母のセシリアのように高齢者もいたのです。
 これなら、シュトーベントゥールで引き返したくなる気持は理
解できます。いくら遅く進むよう配慮しても相手は馬車です。そ
の速さについて行けなかったとしても当然です。
 しかし、これには条件があります。葬儀の日が天候が悪い――
風雨が強く嵐のような日であることです。実際にモーツァルトの
葬儀と埋葬の行われた1791年12月6日はそういう日であっ
たと誰でも思っています。映画『アマデウス』でもそういう設定
になっていたはずです。
 しかし、・・です。ウィーン気象台の記録によると、1791
年12月6日は、「霧の出やすい日であったが、晩秋の穏やかな
日」とあるのです。つまり、風雨の激しい日などではなかったの
です。そうなると、基本条件がガラガラと音を立てて崩れてしま
うのです。
 実は12月7日は、南西の強風が吹き、午後遅くに雨が降り出
しており、一般にいわれているモーツァルトの埋葬の日の天候と
一致するのです。そのため、今頃になって葬儀・埋葬の日は7日
の誤りという説が出ていたのです。・・[モーツァルト/54]


≪画像および関連情報≫
 ・個人墓や家族墓は稀に作られたのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最後に問題になるには、モーツァルトの墓が聖マルクス墓地
  のどこにあるのか、ということである。この問題は長い間熱
  心に討議され、その間に若干の確実性をもった答えが出され
  ている。ここでもまた、モーツァルトの時代には、死者の墓
  所をしかるべき記念碑で目立たせるということは、決して家
  族の自由裁量に任されていなかったのだ、ということをあら
  かじめ踏まえておく必要があろう。
  ―アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
  ―――――――――――――――――――――――――――

聖マルクス墓地のモーツァルト.jpg
聖マルクス墓地のモーツァルト
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2009年06月17日

●モーツァルト伝記作家たちの言い訳(EJ第1977号)

 モーツァルトはどのように埋葬されたか――この問題について
モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが妻のコンスタン
ツェをはじめとする家族や友人たちから冷たい最後の見送りを受
けて聖マルクス墓地に送られ、名もない貧民と同等の扱いで共同
墓地に葬られたことについて、数々の言い訳がましい理由を並び
立て、その正当性を主張しています。
 なぜ、そのような言い訳をするのでしょうか。どのような葬儀
をするかはモーツァルト家の問題であり、伝記作家たちは、事実
をそのまま伝えればよいのです。少なくとも言い訳をする必要な
どないはずです。
 モーツァルトの伝記作家たちが言い訳の根拠として使っている
のは、次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.葬儀当日の6日が風雨の強い荒天候であったこと
  2.当時ウィーンの葬祭慣例と葬祭に関する取り決め
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の葬儀当日6日の荒天候については、当時のウィーン気象
台の記録により、昨日述べたように荒天候ではなく、穏やかな日
であったことが証明されています。
 これを受けて、葬儀の日は12月6日ではなく7日ではないか
とする説が浮上しています。なぜなら、7日の天候こそ荒天候で
あったからです。しかし、聖シュテファン教会の死者台帳に6日
と明記されている以上、何ら説得性を持たない説といえます。
 言い訳の第2の根拠とされているウィーンの葬祭法――死者の
葬祭に関して宮廷から勅令のかたちで公布された細かな取り決め
――これについては、もう少し詳しく述べる必要があります。
 葬祭に関する細かな取り決めをしたのは、ヨーゼフ2世のとき
なのです。ヨーゼフ2世はいわゆる啓蒙主義精神に基づく改革派
の君主であり、その改革は埋葬の儀式にまで及んだため、多くの
住民の反発を買ったのです。
 啓蒙思想というのは、自然科学的な方法を重視し、従来は神学
的に解釈されていた事柄についても合理的な説明を行おうとした
のです。したがって、死者の埋葬に関しても宗教的な観点よりも
きわめて現実的な衛生管理的な取り決めが公布されたのです。
 例えば、1784年に出された埋葬規定の根拠付けのくだりに
は次のようにあります。このとき、ヨーゼフ2世は教会の埋葬を
違法としたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 埋葬の目的は、なによりも、腐敗をできる限りすみやかに進め
 ることにある。そこでそれを妨げぬように、埋葬のさいには衣
 服を剥いだ裸の遺体を麻袋に入れて縫い合わせ、棺に納めてそ
 のまま墓地へ運んでいくこと。・・・運ばれた遺体は、時を移
 さず、棺から取り出し、縫い合わされた麻袋に入れたまま墓穴
 の中に置き、生石灰を投入した上、土で穴を封じること。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 映画『アマデウス』では、モーツァルトはこれとまったく同じ
埋葬をされています。映画では特殊な柩が使われていたのですが
これについてフランシス・カーは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この種の埋葬を行うとき、司祭は底に特別な仕掛けが施されて
 いる柩を使った。柩が墓穴に下ろされると底は綱を少々引っ張
 ることで開き、遺体が穴に落ちると柩は再び引き上げられた。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、棺の片方の壁は開くようになっているので、棺を墓
穴のところに担いで行って傾けると、棺の中に入っている遺体が
穴に落ちるのです。
 しかし、宗教的なことにかかわる問題であるため、この埋葬規
定についての反論は大きく、暴動が発生して流血の惨事まで引き
起こしたため、同規定は1785年1月31日に事実上撤回され
ているのです。
 これによって、モーツァルトの埋葬のされ方が、当時の葬祭法
によってやむを得なかったとする伝記作家たちの言い訳は、その
根拠とされる葬祭法がモーツァルトの死の6年も前に廃止されて
いることによって根拠を失うのです。
 それでは、モーツァルトはどうしてあのような埋葬のされ方を
したのでしょうか。
 それは、モーツァルトの死に関して何らかの陰謀があったとい
うしかないのです。モーツァルトの伝記作家のひとりであるカー
ル・ベーアは、これに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (モーツァルトの)死と埋葬について別な考え方をもつ後世の
 人間にとって、モーツァルトが若くして死んだことは不幸とい
 うほかはない。もしモーツァルトがもう10年生きていたら、
 彼は国葬を与えられ、彼以前のグルックや、彼のあとのハイド
 ンと同じく独立した墓を確保できるほどの名声を得ていたこと
 だろう。しかしモーツァルトは、あの種の墓崇拝とは相反する
 時代に世を去っただけでなく、彼の偉大さが充分世間に認めら
 れなかった。            ――カール・ベーア著
           『モーツァルト、病気、死、埋葬』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このカール・ベーアの考え方は、その当時モーツァルトは名声
を勝ち得ていなかったことを前提としていますが、これは非常に
おかしいことであるといえます。モーツァルトの名声はグルック
やハイドンなどよりはるか上を行くものであったことは明らかで
あるからです。        ・・・[モーツァルト/55]


≪画像および関連情報≫
 ・啓蒙絶対君主制とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓蒙絶対君主とは、主に18世紀後半、プロセイン、オース
  トリア、ロシアにおいて、啓蒙思想を掲げて「上からの近代
  化」を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあ
  てはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して啓蒙絶対君
  主と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられてい
  ない。代表的人物としては、18世紀後半のプロセインにお
  けるフリードリッヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(そ
  の母である女性マリア・テレジアを含む)ロシアのエカチェ
  リーナ2世などがその典型とされる。また一般的には知られ
  ていないが、スウェーデンのグスタフ3世も啓蒙君主として
  説明されることがある。       ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

モーツァルト像.jpg
モーツァルト像
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2009年06月18日

●コンスタンツェはモーツァルトを憎んでいたのか(EJ第1978号)

 モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが悲惨な埋葬を
されている事実について、どういうわけか、さまざまなウソを並
べてそれを正当化しようとしています。
 モーツァルトの死の6年も前に廃止されたウィーンの葬祭法を
持ち出してきたり、実際は悪天候でない葬儀当日の天候を悪天候
ということにして、それを葬列が墓地まで行かず引き返した理由
にしたり、葬儀を放り出して姿を消したコンスタンツェをなぜか
過剰にかばったり・・・とにかく事実を隠蔽しようとする必死の
努力をしているのです。
 もうひとつ見逃せないのは、著名なモーツァルト伝記作家の一
人であるカール・ベーアは、その著作『モーツァルト、病気、死
埋葬』において、当時モーツァルトの人気は終焉しており、それ
が葬儀においてグルックやハイドンのような特別な計らいを受け
られなかった理由にしていることです。
 これは誠に支離滅裂な理由であるといえます。モーツァルトの
天才ぶりは、彼が死去した1791年の『魔笛』をはじめとする
作品だけでも十分過ぎるほどなのです。だからこそ当時ウィーン
の音楽界を仕切っていたあのサリエリでさえ、モーツァルトの才
能を認め、その影におびえたのです。
 しかし、当時の貴族から見た場合、音楽家としてのモーツァル
トの影響力はかなり薄くなっていたことは確かなのです。それは
それまでモーツァルトの重要な収入の柱であった予約演奏会が激
減したことにあります。
 予約演奏会とは、ある曲を作曲・演奏することをあらかじめ告
知し、参加者(ほとんどは貴族)を募る演奏会の形式であり、当
時のモーツァルトにとっては音楽家としての自分を売り込む絶好
のチャンスであり、同時に有力な収入源のひとつだったのです。
 それでは、なぜ、予約演奏会が減ったのでしょうか。
 それはモーツァルトの人気が凋落したわけではなく、戦争が起
こったからなのです。その戦争とは、1787年〜92年にかけ
て起こったロシア・トルコ戦争なのです。
 このとき、オーストリアはロシアの同盟国であり、ヨーゼフ2
世はロシアを助けるため対トルコ戦争をはじめたのです。この戦
争によって物価は高騰し、戦費調達のため増税が行われたので、
ウィーンの市民は苦しい生活を強いられることになったのです。
 モーツァルトの重要な顧客であった貴族は続々と出征し、また
は領地に帰ってしまったため、予約演奏会を開こうとしても誰も
参加しない状況がモーツァルトの死まで続くのです。カール・ベ
ーアがいうモーツァルトの人気の終焉とは、このときの状況を指
していっていることなのです。
 この時期にモーツァルトが作曲した曲を上げると、当時の世相
を反映していることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
         コルトダンス『戦闘』/KV535
  ドイツ語軍歌『我は皇帝たらんもの』/KV539
―――――――――――――――――――――――――――――
 話は変わるが、コンスタンツェの妹のゾフィーは、モーツァル
トが死去した1791年12月5日に、ヨーゼフ・ミューラーが
美術館から駆けつけてきて、モーツァルトのデスマスクを作成し
たことをニッセンに宛てた手紙に書いています。
 ヨーゼフ・ミューラーの実名は、ヨーゼフ・ダイム伯爵で、蝋
人形のコレクションを持っていたといわれます。ヨーゼフ・ダイ
ム伯爵はデスマスクをコンスタンツェに贈ったのですが、後日コ
ンスタンツェは間違ってかわざとか、このデスマスクを床に落と
して壊してしまったとき次のようにいったといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  昔の醜いものがこわれてよかった。――コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェはモーツァルトのどういうところに怒っている
のでしょうか。まるで夫を憎んでいるようです。モーツァルトの
葬儀をどのようにするか、コンスタンツェはどのようにもできた
のです。葬儀費用にも事欠いていたというのは偽りであり、コン
スタンツェとしては、何が何でもモーツァルトの遺体を人目に触
れさせたくなかったとしかいえないのです。既出のフランシス・
カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、コンスタンツェが、モーツァルトの最後の処遇に少しで
 も反対したとすれば、あの恥ずべき埋葬を差し止めることがで
 きたであろう。自分の不愉快な思いをあとで記録に残しておく
 こともできたはずである。しかし、コンスタンツェは、夫の最
 後の安息の場としての共同墓穴について非難することはまった
 くしなかった。モーツァルトが死んで1日2日して、ヨーゼフ
 ・ダイナーはコンスタンツェに会い、共同墓穴の上に、十字架
 かなんらかの目印を立てるようしきりと頼んだが、彼女は「教
 会にやらせなさい!」といって拒否したという。司祭も同じよ
 うに拒否したため、結局十字架も目印も立たなかった。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 夫の遺体を徹底的に隠すという意思がコンスタンツェに働いた
としたら、それは何らかの陰謀があったと考えざるを得なくなり
ます。            ・・・[モーツァルト/56]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト当時の演奏会
  劇場の使えない日には、旅館、カジノ、ダンスホールといっ
  た場所の多目的な空間が演奏会に用いられた。モーツァルト
  もしばしば登場した代表的な場所としては、ダンス・ホール
  を備えたレストラン兼旅館のメールグルーベや、モーツァル
  ト自身一時期そこに住んでいた出版業者トラットナーの邸宅
  の中にあるカジノなどがあり、夏期にはアウガルテンのよう
  な庭園でも野外演奏会が行われた。メールグルーベやトラッ
  トナー邸の収容人員は劇場に較べるとはるかに少なくほぼ百
  数十名といった所であったが、こうした所で演奏会を開こう
  とする場合には、まず名簿を回覧して予約者を募り、ある程
  度の人数が見込めたところで開催する、いわゆる予約演奏会
  の形を取るのが普通であった。モーツァルトが1784年3
  月にトラットナー邸で行った演奏会の予約者名簿には、当時
  のウィーンを代表する貴族や富裕市民たちの錚々たる名前が
  174名も連ねられている。
    http://homepage3.nifty.com/jy/essays/mz_concert.htm


コンスタンツェ/ハンセン制作.jpg
コンスタンツェ/ハンセン制作
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2009年06月19日

●コンスタンツェ良妻論の根拠(EJ第1979号)

 コンスタンツェがモーツァルトの葬儀に出なかった理由は、突
然の病気ということになっています。もし本当にそうなら、コン
スタンツェは自宅に臥して医師を呼ぶなどしていたはずです。し
かし、そういう気配は一切ないのです。
 コンスタンツェはモーツァルトの死を確認すると、既に述べた
ように直ちにスヴィーテン男爵に使いを出すとともに、ダイナー
のところにも女中を走らせ、死装束の手伝いを頼んでいます。亡
くなったのが午前1時少し前であったことを考えると、あまりに
も素早い異様な対応であるといえます。
 それを済ますとコンスタンツェは家を出て、バウエルンフェル
ト宅に行き、しばらくしてゴルトハーン宅に移動しています。ま
るであらかじめ計画していたかのような素早い動きです。
 それなら、その移動先でコンスタンツェは臥せっていたのかと
いうと、そうではないのです。モーツァルトの死から一週間後の
12月11日にコンスタンツェは、レオポルト2世に謁見し、遺
族年金の支給を願い出ているのです。これだけみても、コンスタ
ンツェが病気であったとは思えないのです。
 さらにコンスタンツェは『レクイエム』の補作のことでアイブ
ラーと会い、話し合っていますし、遺産に関する当局からの召喚
調書の作成のときは家に戻っているのです。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、この手続きのため、12月
9日、16日、19日、20日は在宅しているのです。つまり、
葬儀は放り出しても、お金にからむことには非常に精力的に動き
回っているのですが、それらの事実を正確に伝えている伝記作家
はほとんどいないのです。
 コンスタンツェが皇帝に提出した年金請願書は、弁護士が書い
たと見られる論旨の一貫したものであり、自分にとって年金がい
かに必要であるかという理由が4項目にまとめられています。そ
の4つ目の理由は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第4に、故人は、その前途がいよいよ明るさを増し始めており
 ました矢先に神に召されましただけに、事情はまことに深刻で
 ございます。故人は、最近聖シュテファン大聖堂楽長の地位に
 復帰したほか、みまかる少し以前、ハンガリーの貴族何人かか
 ら1000グールデンの年金を保証されました。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでコンスタンツェは、夫の生活が「明るさを増し始め」た
ことを認めています。しかし、まさか自分が死ぬとは思ってもい
なかった夫が、音楽家未亡人孤児協会に家族を登録していなかっ
たので、これによる家族の生活を保障できない事態であり、年金
を認めて欲しいという趣旨なのです。
 モーツァルトは、宮廷での勤務の実績が年金を支給される条件
に該当していないのです。コンスタンツェにすれば、夫は今まで
にも十二分に宮廷の音楽の仕事に尽くしてきたのであるから、条
件は満たしていなくても、このさいは夫に免じて特別に認めて欲
しいといっているわけです。
 コンスタンツェのこの訴えは成功し、年間に266フローリン
の年金が下賜されることになったのです。さらに葬儀執行人のス
ヴィーテン男爵の計らいによる「未亡人救済音楽会」で、コンス
タンツェは1500フローリンを得ているのです。
 また、モーツァルトの死んだ翌年にプロイセンのウィルヘルム
2世が、オラトリオほか8曲の作曲料として800ダカット――
3600フローリンをコンスタンツェに送金してきています。こ
のように亡き夫の作品の販売と演奏で、コンスタンツェは生活に
困るどころか、ますますお金が入ってきたのです。
 コンスタンツェは、それらのお金でモーツァルトが残したとい
われる莫大な借金を返し、さらにそれらのお金を国債に投資した
り、人に利子を取って貸したり、家屋を増築して母のセシリアの
やっていたように下宿屋をやったりして資金を増やし、彼女が死
んだときには、実に27191フローリン(2億円以上)という
途方もないの財産を残しているのです。
 おそらくコンスタンツェはそういう面での才能があったと思わ
れるのですが、その元金はすべて夫の作品と演奏によるものだっ
たのです。しかし、モーツァルトの莫大な借金をすべて返済した
ことをもって、コンスタンツェのモーツァルトの葬儀の放り出し
や埋葬に当たっての冷たい仕打ちなどによる悪妻論を否定し、良
妻論を主張する向きも少なからずあるのです。
 しかし、コンスタンツェの死後のモーツァルトへの仕打ちは目
に余るものがあるのです。
 それは、モーツァルトの死後何回も繰り返されるモーツァルト
の記念碑を建てるべきであるという声に一切首を縦に振らなかっ
たことです。ある団体は善意の寄付金を集め、そのお金で、モー
ツァルトの記念碑を建てる提案をコンスタンツェにしたにもかか
わらず、彼女は断固これを拒否しています。それは、明らかにコ
ンスタンツェがモーツァルトを憎んでいたとしか思えない態度だ
ったといえるのです。このような経緯で、コンスタンツェの目の
黒いうちの50年間は、モーツァルトの記念碑が墓地に立てられ
ることはなかったのです。
 ちなみに、前夫モーツァルトに対しては冷酷とも思える仕打ち
をしたコンスタンツェは、第二の夫であるニッセンに対してはと
ては正反対に優しく、先に亡くなったニッセンのために自前で立
派な記念碑を建てているのです。それは、4組の石の花で囲まれ
たオベリスク状の手の込んだ記念碑だったといいます。
 コンスタンツェのこのアンバランスさの原因は何でしょうか。
モーツァルトに対する憎しみとは何でしょうか。そして、彼女は
モーツァルトを本当に毒殺したのでしょうか。いよいよその追求
に入っていきます。      ・・・[モーツァルト/57]


≪画像および関連情報≫
 ・ハイドンがブフベルクに宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの死を聞いて私はしばらく呆然としておりまし
  た。神が、かくも早々とあの不可欠な人間を召されるとは思
  いもよらなかったことです。ただ残念なのは、彼が死ぬ前に
  この点においては闇の中を歩いているイギリス人たちに、彼
  の偉大さ――私が毎日のように彼らに説いて聞かせていた主
  題です――を納得させることができなかったことです。わが
  優しき友よ、当地でいまだ知られていない作品の目録をお送
  り頂ければ幸いです。私は未亡人救済のため、そうした作品
  を推進するためにはあらゆる努力を惜しまないつもりです。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

交響曲の父ハイドン.jpg
交響曲の父ハイドン
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2009年06月22日

●コンスタンツェとセシリアの共謀説(EJ大1980号)

 モーツァルトの妻のコンスタンツェに関しては、悪妻論や良妻
論をめぐってさまざまな議論があります。コンスタンツェについ
てのいくつかの評価を上げておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・良くないしつけによって身につけた欠点を持ち、普通の女性
  には備わっている繊細な感情が不足している
 ・コンスタンツェの文章を見ると、優しさはどこにも見当たら
  ず、精神、気品、ユーモアのセンスに欠ける
 ・所作は上品で、気立てが良く、好感が持て、モーツァルトが
  全面的な信頼を寄せるに足りる愛すべき女性
 ・事務的能力はあるが、家事は嫌いで、九柱戯やダンスが好き
  で、夜遊びにふけるのが好きなところがある
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように評価が大きく分かれていますが、どちらかというと
コンスタンツェは家庭向きの女性ではなかったようです。文中に
ある「九柱戯」というのは、宗教的儀式に由来するボーリングの
元祖のようなゲームです。要するに、コンスタンツェは賭け事の
好きな遊び好きの女性というイメージが浮び上がります。
 実際にコンスタンツェは、旅先のモーツァルトから少しでもお
金の入るような手紙が届くと、その前祝いだと称して、男友達た
ちと行きつけのお店でパーティを開くような女性だったのです。
 コンスタンツェの母親のセシリアについては、このテーマの前
半部分でしばしば取り上げていますが、次女のアロイジアに失恋
したモーツァルトを一計を案じてコンスタンツェと結婚させると
いう作戦参謀的な能力に優れた女性であったようです。
 30代で未亡人となったコンスタンツェが頼りにしたのは、や
はり母親のセシリアだったのです。コンスタンツェは、モーツァ
ルトの死後、かつて母親がやったようにアパートの一部屋を間貸
しできるよう改造して、下宿屋をはじめています。
 そしてモーツァルトがそうであったように、その部屋を貸した
デンマーク公使館書記官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと結婚
しているのです。ニッセンは37歳の独身者で、コンスタンツェ
よりも2つ年上だったのです。
 このニッセン――大変なモーツァルト崇拝者であり、それもコ
ンスタンツェとの結婚を決意した理由のひとつだったと考えられ
ますが、コンスタンツェのアパートには500篇以上のモーツァ
ルトの作品の自筆譜が未刊のまま保存されているのを見て仰天し
たといわれています。
 モーツァルトの作品で、生存中に発刊されたのは70作品ほど
でしかなく、コンスタンツェはその残りの430篇ほどの作品の
価値があまりわかっていなかったように考えられます。ニッセン
はこれは大変なビジネスになると判断したのでしょう。
 さて、モーツァルトはなぜ若死にしたのでししょうか。
 もし、アクア・トファナのような遅効性の毒薬を使って毒殺さ
れたとすれば、それを実行できるのは、コンスタンツェかジュス
マイヤーしかいないのです。ちなみに、家庭でのコンスタンツェ
は家事のほとんどを女中まかせにしており、食事の支度などはし
ていなかったようですが、毒薬を使う機会はいくらでもあったと
考えられます。
 既出の藤澤修治氏によると、モーツァルトを毒殺したとみられ
るのは、コンスタンツェと母親のセシリアであるとしています。
その概要については、以下に述べますが、これについての詳細は
藤澤氏の次の論文を参照していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   藤澤修治著/モーツァルト論を再考する−5
   『モーツァルトの死』
   http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 その殺害の動機は何でしょうか。
 それはモーツァルトの借金であると考えられるのです。コンス
タンツェの母のセシリアは、夫のフリードマン・ウェーバーが写
譜の仕事をしていたこともあり、娘たちの音楽教育にも力を入れ
ていたので、多少音楽のことはわかっていたのです。
 夫のフリードマンはモーツァルトの才能に惚れ込んでおり、つ
ねづねモーツァルトはやがて高名な音楽家になるといっていたの
で、セシリアは策略を用いてモーツァルトと自分の娘のコンスタ
ンツェを結婚させたのです。
 ところが、そのモーツァルトはなぜか莫大な借金をこしらえる
ようになり、そのうちの一人の債権者であるリヒノフスキー侯爵
は、モーツァルトが亡くなる1791年の春にモーツァルトに対
して借金返還の訴訟を起こしてきていたのです。
 リヒノフスキー侯爵といえば、既にEJ第1939号でご紹介
しています。彼は、1789年春にモーツァルトに対し、プロセ
インの国王フリードリッヒ・ウィルヘルム2世の訪問に自分と同
行するよう要請してきた貴族です。
 その結果モーツァルトは、そのための借金をして、リヒノフス
キー侯爵と一緒に2ヶ月もの間、意味のない旅をさせられること
になったのですが、その真の狙いはまだわかっていません。
 EJ第1939号では、サリエリを中心とする宮廷のイタリア
系音楽家の一派の陰謀によって、モーツァルトにできるだけ金を
使わせ、モーツァルトとコンスタンツェの間を引き離して、作曲
意欲を削ぐのが狙いと書きましたが、モーツァルトは、そのリヒ
ノフスキーからも莫大な借金をしていたのです。
 リヒノフスキーから訴訟を起こされたことで心配になったコン
スタンツェは母と相談したと考えられます。なぜなら、モーツァ
ルトはリヒノフスキーだけでなく、友人のプフベルクやラッケン
バッヒャーという金融業者からも大金を借りており、このままで
は危ないと考えたからです。
 これら3者からの借金の総額はその時点で4000〜5000
フローリンと考えられるのです。・・・[モーツァルト/58]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ニッセンと言えば「モーツァルト伝」(1828)を著した人物
  として、そしてモーツァルトのお陰で名を残した人の1人と
  いえるでしょう。モーツァルトがいたから名を残すことがで
  きた人は多いのですが、この人はモーツァルトを利用して名
  を残した人?ともいえるかも知れません。さて、この人物と
  はどのような人だったのでしょうか。多くのモーツァルト周
  辺の有名な人のために話題にあまり上ることがなく、さほど
  知られている人物とはいえないかもしれませんが、彼こそ今
  モーツァルトを知る上で最も基礎となる「書」著した人なの
  です。モーツァルトとは5歳年下になりますが、モーツァル
  トの死後18年経って、妻であったコンスタンツェと結婚し
  ています。この結婚生活は彼が65歳で亡くなるまで17年
  間におよんでいます。
 http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/nissen.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゲオルク・ニッセン.jpg
ゲオルク・ニッセン
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2009年06月23日

●モーツァルトに見切りをつけたコンスタンツェ(EJ第1981)

 仮に5000フローリンの借金があっても、モーツァルトほど
の音楽家であれば十分返せると考えのが普通です。しかし、コン
スタンツェとセシリアは、モーツァルトはもうだめだと思ったの
です。1791年の春にリヒノフスキーからモーツァルトに対し
て、貸金返還訴訟が起こされた時点においてです。
 どうしてそのように判断したのかというと、次の3つの理由が
あるからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.1785年以降モーツァルトの定期演奏会や予約演奏会
   が激減していており、人気が凋落している
 2.「コシ・ファン・トゥッテ」以降、もはや大きなオペラ
   の制作依頼はもうこないと考えられること
 3.晩年の3年間に使途の明確でない巨額の借金が急増し、
   勝ち目のない訴訟まで起こされていること
―――――――――――――――――――――――――――――
 人気スターというのは、公の場への露出度が高いものです。そ
ういう意味で、1785年以降にモーツァルトが音楽家としての
公の場である定期演奏会や予約演奏会――とくにブルク劇場には
お呼びでなくなったのは人気の凋落であると考えたのです。
 しかし、当時モーツァルトにとってはいわゆる抵抗勢力の存在
があり、少しでも隙があれば足を引っ張られる状態にあったので
す。当時の音楽会の聴衆のほとんどは貴族であり、とくに予約演
奏会はそうだったのです。したがって、抵抗勢力の力が強くなれ
ばなるほどモーツァルトの演奏会は減ったのです。
 考えてみれば、『フィガロの結婚』にしても『ドン・ジョバン
ニ』にしても、内容は当時の貴族を痛烈に風刺する内容であり、
抵抗勢力を刺激するのに十分だったのです。
 それにもうひとつ忘れてはならないのは、1787年からはじ
まったロシア・トルコ戦争にオーストリアが参戦したことです。
この戦争によって、モーツァルトの味方である抵抗勢力でない貴
族までも出征し、音楽会どころではなくなってしまったのです。
モーツァルトの伝記作家の多くは、なぜかこのロシア・トルコ戦
争の影響には触れていないのです。
 しかし、そこまでは読めないコンスタンツェとセシリアは「モ
ーツァルトに先はない」と見切りをつけたのです。さらにモーツ
ァルトにとって不幸なことは、一貫してモーツァルトを支え続け
てくれた皇帝ヨーゼフ2世が亡くなったことです。1790年2
月20日のことです。これによって、抵抗勢力は一層力を得るこ
とになるのです。
 1787年の父レオポルトの死、1787年からのロシア・ト
ルコ戦争、そして皇帝ヨーゼフ2世の死――これによって、モー
ツァルトの仕事の面に大きな影響が生じたことは確かです。とく
に1789年以降、モーツァルトの生活は視界不良の乱気流に飛
び込んでしまうのです。
 このモーツァルトの死の3年前から、巨額な借金が累積されて
います。これらの借金は生活資金と考えるには額が大きく何に使
われていたのかはっきりしていないのです。その借金の使途をコ
ンスタンツェがどこまで知っていたのかは不明ですが、それらを
探る証拠になる手紙などが一切ないのです。
 このような状況をみてコンスタンツェとセシリアは、1790
年の『コシ・ファン・トゥッテ』を最後に、もはや大きなオペラ
の制作依頼はないだろうと考えたのは無理からぬことであると思
います。当時の作曲家においてオペラの依頼がないということは
それは事実上の失脚を意味していたのです。
 しかし、コンスタンツェとセシリアの分析は、結果として大き
く外れることになります。いうまでもなく、1791年後半には
『皇帝ティトゥスの慈悲』と『魔笛』の2つのオペラが作曲され
大当たりを取ったからです。
 実は1790年にモーツァルトは、英国行きをしきりと勧めら
れていたのです。そのきっかけになったのは、とくにモーツァル
トと仲の良かったヨーゼフ・ハイドンが英国で音楽活動をするこ
とになったからです。
 1790年9月に、ハイドンを召しかかえていたエステルハー
ジー侯が亡くなり、ハイドンは楽長の仕事から外れたのです。そ
のとき、ドイツ生まれで、ヴァイオリン奏者であったロンドンの
興行師ヨハン・ペーター・ザロモンがハイドンのもとを訪れ、き
わめて有利な条件で英国での音楽活動を勧めたのです。
 この申し出にハイドンは乗り、英国での音楽活動を決意し、暮
れが押し詰まった1790年12月14日、ハイドンの送別の宴
が開かれたのです。
 送別の宴に出席したモーツァルトはハイドンと別れを惜しみま
すが、そのときモーツァルトは次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おなたはわたしより20歳以上も高齢でいらっしゃる。十分に
 言葉も喋れないのにイギリスに行かれるのは・・、また、ウィ
 ーンに戻ってきて下さい。ウィーンで再会できるのを楽しみに
 していますよ。             ――モーツァルト
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときモーツァルトは、なぜかもうハイドンとは会えないと
思ったといいます。もちろんモーツァルトとしては、ハイドンの
方が高齢であり、まさか自分が死ぬとは思っていなかったと思う
のです。この予感は20歳以上も若いモーツァルトが死ぬことに
よって不幸にして実現してしまったのです。
 実は、モーツァルトにもロンドンにあるイタリア座の支配人、
ロバート・メイ・オレイリから、ハイドンよりも有利な条件で英
国への誘いが来ていたのですが、モーツァルトは乗らなかったの
です。これを知ったコンスタンツェとセシリアはモーツァルトに
絶望してしまうのです。    ・・・[モーツァルト/59]


≪画像および関連情報≫
 ・人気絶頂のときモーツァルトが出演していたブルク劇場
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1783年3月23日にモーツァルトがウィーンのブルク劇
  場で開いた演奏会を再現するというふれこみの演奏会に行っ
  てきました。シャンゼリゼ劇場で、ツァハリアス率いるロー
  ザンヌ室内オーケストラの出演です。この演奏会は、その6
  日後にモーツァルトがザルツブルクの父親へその大成功を知
  らせた手紙により、曲目が明らかになっています。今の感覚
  から見ると大分変わったプログラミングで、ハフナー交響曲
  がオープニングとシメに(多分)分割されて演奏され、その
  間にオペラのアリアやコンサートアリア、ピアノ協奏曲が2
  曲、ピアノのソロ(即興演奏を含む)が3曲、ポストホルン
  ・セレナードから2曲といった具合です。
http://falfal2.way-nifty.com/garter/2006/01/post_99ba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ブルク劇場/ウィーン.jpg
ブルク劇場/ウィーン
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2009年06月24日

●マクダレーナという弟子の存在(EJ第1982号)

 イタリア歌劇団のロバート・メイ・オレイリからモーツァルへ
の英国招聘の中身は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.1790年12月末〜1791年 6月末まで滞在
  2.オペラ、ジング・シュピールなど2曲を作曲し演奏
  3.その他営利のための作曲や演奏会の開催は可とする
―――――――――――――――――――――――――――――
 約6ヶ月間、英国に滞在して、オペラかジング・シュピールを
少なくても2曲を作曲するということだけなのです。それをクリ
アされることを条件として、演奏会を開くなどの仕事をやっても
かまわないというのです。
 その報酬として、300スターリング・ポンド――3000フ
ローリンを提供するというのです。2つの大曲オペラを6ヶ月で
完成させることは、モーツァルトにとっては何でもないことであ
り、同額以上の借金をしてしていたモーツァルトにとって願って
もない話のはずです。
 しかし、モーツァルトはその話を受けなかったのです。これに
対し、コンスタンツェやセシリアはモーツァルトに対して憎しみ
を募らせたのです。このままでは危ない。借金はさらに大きく増
えてしまい、返せなくなる――そう考えたのです。
 しかし、モーツァルトがオレイリからの申し出を断ったのには
理由があるのです。1791の春、ロレンツォ・ダ・ポンテは、
その回想録に次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトと話し合い、ロンドンまで私に同行するよう説得
 した。ところがほんの少し前に、彼は皇帝ヨーゼフから非凡な
 オペラを認められて終身年金を受領していた。そのころ、モー
 ツァルトはドイツ・オペラ「魔笛」を作曲していて、決心する
 のに6ヶ月の猶予が欲しいと頼んだ。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトは、2回にわたって英国に招聘されているのです
が、いずれも断っています。それぞれ理由があるのですが、言葉
の問題を含めていまひとつ乗り気ではなかったといえます。これ
に対して、コンスタンツェとセシリアは不信感を持ったのです。
 これ以外にコンスタンツェはモーツァルトに対してかなりの不
信感――もう少し具体的にいうと、憎しみすらいだいていたフシ
があるのです。それは何が原因だったのでしょうか。
 モーツァルトは、コンスタンツェが脚の治療のためにバーデン
に行くことにきわめて寛容であったのです。1789年8月から
1791年の秋まで、コンスタンツェはしばしばバーデンに行っ
ているのですが、一回出かけると何週間もバーデンに滞在するこ
とが多く、モーツァルトもそれを許しており、それにかなりのお
金を注ぎ込んでいます。つまり、その間モーツァルトは独り暮ら
しをしていたのです。息子のカールは、寄宿学校に入っており、
モーツァルトは文字通り独りだったのです。
 しかし、バーデンはウィーンから25キロしか離れておらず、
モーツァルトがその気になれば、いつでもバーデンに行くことが
できたにもかかわらず、モーツァルトは弟子のジュスマイヤーに
コンスタンツェの世話をまかせ切りにし、バーデンにはほとんど
行っていないのです。
 そのバーデン治療でコンスタンツェは、現地でパーティを開き
遊んでおり、モーツァルトもそのことを知っていたのです。映画
『アマデウス』にもそういうシーンがちょっと出てきていまが、
気がつかれたでしょうか。
 当時、モーツァルトには2人の弟子を持っていたのです。1人
はジュスマイヤーですが、もう1人は女性の次の弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       マグダレーナ・ホーフデーメル
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、ジュスマイヤーについては何回も書いていますが、
マグダレーナ・ホーフデーメルについてははじめて書くことにな
ります。仮にコンスタンツェがモーツァルト殺しに関ったとすれ
ば、マグダレーナの問題は無関係ではないからです。
 マグダレーナは、聖シュテファン教会から歩いて数分のところ
にあるグリュナンガー通りに夫のフランツと住んでいたのです。
マグダレーナはモーツァルトにピアノを習っており、モーツァル
トの数少ない弟子の一人だったのです。
 モーツァルトの葬儀があったとされる1791年12月6日の
夜――そのマクダレーナに関係する殺人未遂・自殺事件が起こっ
たのです。夫のフランツがマクダレーナに刃物で切りつけて重傷
を負わせ、自らは自殺したのです。しかし、マクダレーナは奇跡
的に助かったのですが、そのとき彼女は妊娠5ヶ月の身重だった
のです。
 この殺人未遂・自殺事件はモーツァルトの死と結びつけられて
今日まで語り継がれています。モーツァルトがマクダレーナと不
倫しており、マクダレーナがそのとき身ごもっていた子供はモー
ツァルトの子供ではないかというのです。
 おそらくマクダレーナはモーツァルトの葬儀に参列して戻って
きて夫のフランツと口論になり、夫が怒りのあまりマクダレーナ
に切りつけたものと考えられるのです。伝記作家たちは、モーツ
ァルトとマクダレーナの情事については、深追いはしないものの
その事実を否定していないのです。
 モーツァルトがコンスタンツェのバーデンでの療養にジュスマ
イヤーを同行させ、療養期間が長期にわたっても文句をいわない
ウラにはマクダレーナとの情事があったとも考えられます。はっ
きりしていることは、モーツァルトのマクダレーナとの情事をコ
ンスタンツェが知っていたことです。
               ・・・[モーツァルト/60]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとマクダレーナとの関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトとマクダレーナへの愛のこの悲劇的結末につい
  てウィーンに広がりつつあった噂を、確証もしくは否定でき
  ると思われる2人の人間が存在した。それはほかならぬコン
  スタンツェとマクダレーナ自身である。この噂が嘘だとすれ
  ば、両人とも進んで否定するはずだから、このような状況で
  は、沈黙は事実上確認とみなしていい。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
  ―――――――――――――――――――――――――――

バーデン鉄道.jpg
バーデン鉄道
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2009年06月25日

●モーツァルト最後のピアノ協奏曲(EJ第1983号)

 コンスタンツェがモーツァルトとマクダレーナの関係を知って
いたように、モーツァルトもコンスタンツェとジュスマイヤーの
関係を知っていたのです。このことは既に述べています。
 そして、モーツァルトは、コンスタンツェがむしろバーデンに
長逗留してもいいと思っていたフシがあるのです。それは、モー
ツァルトの最後の年である1791年7月2日に、バーデンにい
るコンスタンツェに宛てた次の手紙でも読み取れます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウィーン、1791年7月2日
 ぼくの親愛この上ない妻よ!(フランス語)
  きみがきわめて達者でいるとぼくは信じている。きみが妊娠
 中にめったに動じなかったことをぼくはいま思い出した・・・
 これはまじめな話だが、ぼくはきみが湯治を秋まで延ばしたら
 と思っている。あのばか者のジュスマイヤーに(『魔笛』の)
 第1幕の楽譜を、管弦楽用に編曲するからこっちに送るように
 言っておくれ。からだには注意して欲しい。きみが丈夫でぼく
 に優しくしてくれる限り、ほかのことがすべてまずく行っても
 ぼくはちっとも気にしないから。
             いつまでもきみのモーツァルトより
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 といっても、モーツァルトはコンスタンツェを愛していたので
す。しかし、自分がコンスタンツェを愛するせめて半分ぐらいで
もいいから、妻が自分を愛してくれたらという不満を持っていた
ことは確かなことなのです。
 この手紙を書いた24日後の1791年7月26日にモーツァ
ルトの6番目の子供であるフランツ・クサーヴァー・ウォルフガ
ング・モーツァルトが生まれているのです。この子がコンスタン
ツェとジュスマイヤーの子ではないかとモーツァルトが疑って、
ジュスマイヤーの「フランツ・クサーヴァー」の2字を冠した名
前を付けたのですが、ちょうどその頃、マグダレーナも2番目の
子供を身ごもっているのです。
 この子はモーツァルトの死後の1792年5月10日に生まれ
ています。男の子だったのですが、マクダレーナは次のように命
名しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ヨハン・アレクサンダー・フランツ
―――――――――――――――――――――――――――――
 この名前をめぐって既出のフランシス・カーは、ファースト・
ネームの「ヨハン」は、モーツァルトのクリスチャン・ネームの
「ヨハネス」から取られたものではないかと指摘しています。
 モーツァルト最後の年になる1791年――この年に入ると、
モーツァルトの創作欲に火が点り、内容の充実した作品が次々と
生まれています。その中で注目すべきは次の作品です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第27番/KV595』
           1791年1月5日作曲
―――――――――――――――――――――――――――――
 このピアノ協奏曲は実に美しい作品であり、まさしく天上の音
楽そのものです。モーツァルト自身が意識していたかどうかはわ
かりませんが、これはモーツァルトの白鳥の歌そのものです。
 なぜ、白鳥の歌というのかですが、それはシューベルトの最後
の歌曲集「白鳥の歌」からきています。イソップの童話で「白鳥
は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」と伝えられている伝説
に基づいて、シューベルトの遺作となった14曲の歌をこのタイ
トルで出版したことに由来するのです。それはあまりにも美し過
ぎるといっても過言ではないでしょう。そして、このピアノ協奏
曲はモーツァルトの最後のピアノ協奏曲になっています。
 辛口の音楽評論家として知られるC・M・ガードルストンは、
このピアノ協奏曲について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この曲はなんとなく親しみ深いところがあり、ほとんど室内楽
 に近い。その本来の環境は、仲間のひとりの家に集まった音楽
 家、音楽愛好家、それに、モーツァルトを加えたサークルであ
 る。これがどのような機会のために書かれたかはわからない。
 モーツァルトはこれを自ら使う目的をもって作曲したというの
 が一般の見方だが、その証拠はない。カデンツァの存在と、そ
 の内面的な性格には、われわれに、これは弟子のためにもので
 はないかと思わせるものがある。
               ――C・M・ガードルストン著
            『モーツァルトのピアノ協奏曲』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ガードルストンがここでいっている「弟子のために書かれたも
の」といっている弟子とは、マクダレーナ・ホーフデーメルのこ
とではないかと思われるのです。
 確かにこの作品は小編成のオーケストラで、音楽全体が控え目
であって、正式な公開演奏を目的としたものというよりも内輪の
サークルで演奏されるのに適しています。
 実際にこの曲は、1791年3月4日に、友人のクラリネット
奏者ヨーゼフ・ベーア主催の予約演奏会で、モーツァルトはゲス
トとして招かれ、彼自身のピアノ演奏によって初演されているの
です。そして、この音楽会がモーツァルトの公的な演奏家として
の最後のものになったのです。
 その時点でモーツァルトはあらゆる音楽会から締め出されてお
り、友人のベーアの好意によってそういう機会が与えられたこと
になるのです。それからほどなくして、モーツァルトはリヒノフ
スキー訴えられるのです。   ・・・[モーツァルト/61]


≪画像および関連情報≫
 ・ピアノ協奏曲第27番/KV595の推薦盤
  ―――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第23/27番』
    ピアノ/指揮/ウラジミール・アシュケナージ
    フィルハーモニア管弦楽団
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・ある批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  さすがアシュケナージである。ある意味協奏曲23番と27
  番の定番と言えるのではないか?1980年のデジタル録音
  初期の音源ではあるが、デジタル臭が希薄で音質も良い。ピ
  アノの音は繊細で細やか、紛れもないスタインウェイの音が
  する。「あー、どっかで聴いたことがあるー」という協奏曲
  の代表曲。廉価格でお買い得だ。
       http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000091LBT
  ―――――――――――――――――――――――――――

ピアノ協奏曲第27番/モーツァルト.jpg
ピアノ協奏曲第27番/モーツァルト
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2009年06月26日

●モーツァルトは高額所得者である(EJ第1984号)

 モーツァルトの最後の年である1791年当時、モーツァルト
はどのくらい借金をしていたのでしょうか。
 モーツァルトの借金の明細はそれを証明する資料がほとんどな
いので推測するしかないのですが、総額で4000フローリン程
度はあったと考えられます。大口債権者は次の3人で、おおよそ
の内訳は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  リヒノフスキー ・・・・・・・ 1435フローリン
  プフベルク ・・・・・・・・・ 1415フローリン
  ラッケンバッヒャー ・・・・・ 1000フローリン
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                  3850フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 大口債権者3人のうち、リヒノフスキーとプフベルクはフリー
メーソンの仲間ですが、ラッケンバッヒャーは富豪商人――おそ
らく今でいう金融業者であると思われます。コンスタンツェは、
その契約内容が相当厳しいものであることを知っており、そのこ
とを母親のセシリアに話していたと思うのです。もし、返済しな
いうちにモーツァルトに万一のことがあったら、一家は路頭に迷
わなければならない――きっとそう考えたのでしょう。
 1フローリン=1万円であるとすると、モーツァルトの借金は
4000万円ということになります。確かに大金ではありますが
問題はこれがモーツァルトにとって返済可能かどうかです。その
ためには、彼の当時の収入を探ってみる必要があります。
 その前に当時のウィーン市民の生活水準というものを大雑把に
頭に入れておく必要があると思います。中級官吏の報酬はどのく
らいであったかというと、年俸で400〜500フローリン程度
――当時官吏は結構もらっていた方であり、中級レベルの世帯と
いってよいと思います。
 大学教授でも年に300フローリン、小教区の司祭職で600
フローリンというところです。ちなみにモーツァルトの父のレオ
ポルト――ザルツブルグ宮廷の副楽長のときは年俸450フロー
リンだったのです。
 同じ音楽家でもウィーンの宮廷楽長となると桁が少し違うので
す。その地位にあったサリエリの年俸は、何と2050フローリ
ンだったのです。しかし、サリエリは特別であり、同じウィーン
宮廷音楽家でも次席オルガニストのアルブレヒツベルガーの年俸
は300フローリンでしかなかったのです。
 これに対し、死亡率の高い18世紀においては、医師の年俸は
高く、ウィーン総合病院の院長クラスでは年俸3000フローリ
ンとサリエリのはるか上を行くのです。
 それでは、モーツァルトは、どのくらいの収入を得ていたので
しょうか。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、1788年から1791年
までのモーツァルトの推定年収は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1788年 ・・・・・ 2060フローリン
   1789年 ・・・・・ 2158フローリン
   1790年 ・・・・・ 3225フローリン
   1791年 ・・・・・ 5672フローリン
        藤澤修治氏論文/「モーツァルトの借金」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで見ると、モーツァルトはかなりの高収入を得ていたこと
になります。これだけの収入があれば、4000フローリン程度
の借金は返せたはずですが、コンスタンツェとセシリアは何を心
配していたのでしょうか。
 それは、おそらく次の3つの理由があると考えられるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.コンスタンツェはモーツァルトの収入の全貌を正確には把
   握していなかったこと
 2.コンスタンツェはモーツァルトの借金の使途についても把
   握していなかったこと
 3.モーツァルトは既に人気がなくなっており、仕事が大幅に
   減ると考えていたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェがモーツァルトの収入についてどこまで知って
いたかは不明です。推定ですが、コンスタンツェが考えていたよ
りもモーツァルトは高収入を得ていたのです。しかし、その全貌
についてコンスタンツェは知らなかったと思うのです。
 これに対して、モーツァルトが相当高額の借金をしていたこと
はよく知っていたのですが、その使途――とくに巨額のものにつ
いては果たして知っていたのかどうかはわかっていないのです。
とくにリヒノフスキーやプフベルクからの借金は巨額であり、そ
れが何に使われていたか――それをコンスタンツェはぜんぜん知
らなかったと思われます。
 収入の全貌が掴めず、明らかに人気は凋落し、仕事は減ってい
る――一方、借金はかなり高額であり、しかも増えている。返せ
る可能性は低い――こういう状況です。このままでは危ないとコ
ンスタンツェとセシリアが考えても不思議はないと思います。
 しかし、コンスタンツェはともかくとして、セシリアは、モー
ツァルトがたぐい稀な音楽の天才であることをよく知っていたの
です。彼の書きためている未発表の自筆譜は必ず高く売れる――
セシリアはそう見抜いていたのです。
 それにしても、モーツァルトは何のために借金をし、何をやろ
うとしていたのでしょうか。
 モーツァルトほどの収入があれば、借金などをしなくてもかな
り豊かな生活が送れたはずなのです。それなのに、モーツァルト
は巨額の借金をしているのです。しかし、それを解明する手がが
りは何も残されていない。明日はこの謎に迫っていきたいと考え
ます。            ・・・[モーツァルト/62]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとリヒノフスキーの謎の旅
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このリフノフスキーはモーツァルトに音楽を教わり、またフ
  リーメイスン仲間でもあり、2人は連れだって、4月始めに
  ヴィーンを旅出ったのである。この旅行中大量の手紙がコン
  スタンツェの元に送り続けられることは言うまでもないが、
  演奏会やオルガン競演などを交えつつ、ライプツィヒでは、
  かつてセバスチャン・バッハが活躍した聖トーマス教会でオ
  ルガン即興演奏を行なえば、バッハに師事した当地の楽長ヨ
  ーハン・フリードリヒ・ドーレスが感動してしまった事件も
  あった。
 http://reservata.s61.xrea.com/academia/mhistory/classic/hwm14-7.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

8フローリン金貨.jpg
8フローリン金貨
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2009年06月29日

●フリーメーソンになった理由は何か(EJ第1985号)

 モーツァルトが巨額の借金をしていたことと、彼がフリーメー
ソンの会員であったこととは無関係ではないのです。彼は熱心な
フリーメーソンであったのですが、現在残されている夥しい数の
モーツァルトの手紙には、フリーメーソンについて直接記述した
ものは一切ないのです。
 それは、18世紀の末に、ウィーンにおいてフリーメーソンで
あることが何を意味していたかということと関係があります。フ
リーメーソン運動の発展は、当時の国情によってそれぞれ異なる
のですが、一般論としては、旧来の土地貴族に対立する商人、手
工業者、専門的職業人――この中には当然音楽家も含まれる――
すなわち、新興ブルジョワの思想を代表していたといえます。
 だからこそ、1789年のフランス革命後において、フリーメ
ーソンがフランス革命の真犯人と噂され、中部ヨーロッパの多く
の国ではフリーメーソンの結社が禁止されたのです。モーツァル
トはまさにこういう時代に生きていたのです。
 オーストリアにフリーメーソン主義を導入したのは、フランシ
ス1世――マリア・テレジアの夫――なのです。彼はフランス生
まれの熱心なフリーメーソンであって、1731年にウィーンに
に最初の支部を設立しています。
 国王がフリーメーソンであるところから、貴族や軍人、それに
一部の聖職者までフリーメーソンになる者もいたのです。しかし
頑固なまでのカトリック教徒であるマリア・テレジアは夫のフラ
ンシス1世が死ぬと、直ちにフリーメーソンの結社を禁止し、フ
リーメーソンの迫害を始めたのです。
 しかし、その息子のヨーゼフ2世は、そのフリーメーソン禁止
令を廃止し、積極的にさまざまな改革を断行したのです。モーツ
ァルトが少なからずこの皇帝に助けられたことについてはもはや
多言を要する必要はないと思います。
 モーツァルトがなぜフリーメーソンに入会したのかについては
彼が王侯・貴族たち――すなわち当時の権力体制から冷たい仕打
ちを受けたからなのです。具体的にいうと、モーツァルトが若い
頃から父のレオポルトと一緒に、または母を伴って一人で、何回
となく繰り返し働きかけた宮廷への就職活動がことごとく失敗に
終ったことです。これによって、彼は権力体制が決して自分の味
方にならないことを思い知ったのです。
 しかし、マンハイム、パリ旅行において、モーツァルトを励ま
し支援を与えたのはフリーメーソンたちだったのです。マンハイ
ムでは、作曲家のカンナビヒ、フルーティストのヴェンドリング
オーボエ奏者のラム、それにマンハイム国民劇場監督のダールベ
ルク男爵、劇作家のゲミンゲン男爵などは、モーツァルトに物心
両面の支援を与えたのです。また、パリにおいては、カンナビヒ
とゲミンゲン男爵の紹介状により、ジッキンゲン伯爵と会うこと
ができています。彼らはいずれもフリーメーソンなのです。
 モーツァルトは、このマンハイム・パリ旅行の2年後にウィー
ンに移り住むことになったのですが、そのときモーツァルトを取
り囲んでいたのは、ほとんどはフリーメーソンの音楽家や貴族た
ちだったのです。
 そういう支援者のおかげで、モーツァルトはウィーンにおいて
ヴィルヘルム・トゥーン伯爵夫人のサロンに出入りできるように
なります。ここでモーツァルトは、後に彼自身の葬儀執行人を務
めることになるヴァン・スヴィーテン男爵に出会ったのです。フ
リーメーソンには、薔薇十字団系と啓明結社系の2つがあるので
すが、スヴィーテン男爵は啓明結社系の大物会員だったのです。
 スヴィーテン男爵は毎週日曜日に自宅でコンサートを開いてお
り、モーツァルトは毎週そのコンサートに参加し、そこで男爵の
保有する膨大なバッハやヘンデルの楽譜に出会うのです。これは
その後のモーツァルトの音楽にさまざまな影響を与えたのです。
 このようにモーツァルトはフリーメーソンから強い影響を受け
1784年12月14日に「恩恵」ロッジに入会することになり
ます。このロッジは啓明結社系であり、マンハイム旅行で知り合
った劇作家のゲミンゲン男爵が創立したロッジなのです。
 しかし、教会当局は、フリーメーソン、とくに啓明結社系の運
動に警戒心を募らせるようになるのです。というのは、薔薇十字
団よりは政治的色彩の強い啓明結社の動きに対して国として放置
はできなかったのです。その中心になったのはパヴァリア(バイ
エルン)なのです。
 パヴァリアでは、カール・テオドール選帝侯が啓明結社が領内
で会合を持つことを禁じたのです。1784年のことです。モー
ツァルトがフリーメーソンに入会した年にそういう禁止の勅令を
出したのです。
 こういう動きに呼応して、どちらかというとフリーメーソンに
理解のあったヨーゼフ2世統治下のオーストリアでもフリーメー
ソン支部に対する監督を強化するようになったのです。そして、
ウィーンではヨーロッパではじめて、秘密警察が創設されたので
す。秘密警察の趣旨は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 民衆の間に芽生えた不満、あらゆる危険思想、とりわけ謀反の
 種を発見して、つぼみのうちにすぐさまそれらを摘みとること
 を目的とする。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉なことに、モーツァルトがフリーメーソンになった年であ
る1784年頃により、フリーメーソンに対する規制がはじまり
フランス革命のはじまる1789年にかけて、一層強化されてい
くのです。モーツァルトのフリーメーソン活動に関する手紙など
が一切ないのは当然なのです。なぜなら、この頃からフリーメー
ソンは地下運動に移行するからです。また、モーツァルトの死後
コンスタンツェは、フリーメーソンに関わる手紙などをすべて処
分したともいわれています。  ・・・[モーツァルト/63]


≪画像および関連情報≫
 ・アルフレート・アインシュタインについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  EJの記述の中にときどき登場するアインシュタインは、高
  名な物理学者のアルベルト・アインシュタインではない。ア
  インシュタインの従弟で、アメリカに帰化したドイツの音楽
  学者、音楽史家であり、とりわけモーツァルトに詳しいモー
  ツァルト学者である。著書、『モーツァルト、その人間と作
  品』などがよく知られている。従兄のアルベルトともども、
  モーツァルト音楽の愛好者で、アルベルト(あるいはアルフ
  レート本人?)が「死とは、モーツァルトを聴けなくなるこ
  とだ」という名言を残している。   1880〜1952
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アインシュタインの著書.jpg
アインシュタインの著書
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2009年06月30日

●『洞窟』という名の幻の支部づくり(EJ第1986号)

 高名なモーツァルト研究学者だったアルフレート・アインシュ
タインはモーツァルトの作品について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自分がフリーメーソンの会員の一人であるという自覚が彼の全
 作品に浸透している。『魔笛』だけでなく、その他の多くの作
 品がフリーメーソン的なものである。この結社に未加盟の人間
 にとっては、これからの作品のメーソン的特徴がいっこうに明
 らかでないとしても、やはりそうである。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 アインシュタインのいう「フリーメーソン的特徴」とは、何で
しょうか。これについては、上記のキャサリン・トムソンの本を
ゆっくり読むことをお勧めしたいと思います。モーツァルトの音
楽の中の「フリーメーソン的特徴」を楽譜入りでわかりやすく解
説をしています。
 それはさておき、モーツァルトは現在私たちが知る以上に非常
に真面目に、そして情熱的にフリーメーソン活動に取り組んでい
たのです。そのため、それがあらゆるモーツァルトの作品に影響
を与えていたのです。
 それだけに、1785年12月にヨーゼフ2世の出した宮廷勅
令はこれから本格的にフリーメーソン活動に取り組みたいと思っ
ていたモーツァルトにとって衝撃的なものだったのです。なぜな
らこれによって、今まで8つあった支部は2つ――「新・授冠の
希望」と「真理」の2つに集約されてしまったからです。
 それに加えて、モーツァルトが加入していた支部の「恩恵」は
啓明結社系の支部であったのに、薔薇十字団系の支部である「授
冠の希望」に吸収され、「新・授冠の希望」(後に「新」が取れ
て元の「授冠の希望」となる)になったのです。
 モーツァルトは、「恩恵」と同系統の「真の調和」支部の支部
長――イグナーツ・フォン・ボルンに惹かれていたのです。とこ
ろがこのフォン・ボルンは新たに「真理」と名前を変えた支部の
支部長にはなったものの、モーツァルトの属することになる支部
「新・授冠の希望」とはまったく考え方が異なるのです。
 こういうフリーメーソン支部の統廃合によって、1785年に
は950名いたウィーンのフリーメーソンの会員は、半分以下の
350名に激減してしまったのです。そして、ウィーンの2つの
支部も18世紀中に消滅してしまったのです。
 そのひとつの重要な原因は、アロイース・ホフマンという男の
裏切りにあったのです。ホフマンは、もともとモーツァルトの属
していた「恩恵」の支部に属していたのですが、宮廷勅令を機に
フリメーソンをやめ、一転してフリーメーソンの誹謗中傷をはじ
めたのです。そして、ウィーンの秘密警察の手先となって、とく
に啓明結社潰しをやったのです。
 しかし、モーツァルトはフリーメーソンの活動を密かに継続さ
せていたのです。それも自ら新しい支部を作ろうとしていたので
す。しかし、それは宮廷勅令に反する行為であり、地下活動的に
ならざるを得なかったのです。そのモーツァルトが作ろうと目指
していた支部の名前は「洞窟」という名前であるといわれます。
 なぜ、「洞窟」という名前を付けたのでしょうか。
 それは、ザルツブルグのアイゲンに実在する美しい洞窟を意味
するのではないかといわれているのです。というのは、その洞窟
は、「啓明団の洞窟」といわれ、啓明団の会合がしばしば行われ
ており、モーツァルトはフリーメーソンに入る前にその会合に参
加したことがあるのではないかといわれているのです。
 キャサリン・トムソンは、このアイゲンの洞窟に関連して次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 地質学者ローレンツ・ヒューブナーの1792年執筆の報告に
 よれば、啓明団の会合が、ザルツブルグ近郊のアイゲンにある
 人里離れた美しい洞窟(今日「啓明団の洞窟」として知られる
 場所)で夜に開催されたさい、啓明団の指導者の一人、ギロウ
 スキー伯が「知人のフォン・アマン、モーツァルト、バリザー
 ニを連れて」列席した。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトにとっては、このアイゲンの洞窟で行われた啓明
団の会合が印象に残っていて、後にフリーメーソンに入ろうとす
る動機のひとつになったと考えられます。また、自分が新たな支
部を作ろうとするときにそれを使ったのではないかと考えられま
す。洞窟の周辺には急流の滝があり、高い木々がそびえ立ち、険
しく切り立った岩山があるのです。添付ファイルにアイゲンの滝
の写真を示しておきますが、この風景は『魔笛』の鎧を着た男た
ちが登場する場面そのものです。
 歌劇『魔笛』の第2幕――鎧を着た男たちが登場する場面のト
書きには、次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2つの大きな峰、一方の峰には急流の滝があり、他の峰からは
 火が吹いている。   ――『魔笛』/鎧を着た男たちの場面
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、モーツァルトがいかにアイゲンの洞窟のことを
印象深く覚えていたかがわかります。だからこそ、自分の最後の
年の作品である『魔笛』の場面に使ったり、自分が密かに作ろう
としていたフリーメーソンの支部の名前に「洞窟」を使おうとし
たものと思われます。
 その「洞窟」支部――結局は実現しなかったものの、それは大
変な企てであり、膨大な資金を必要としたのです。モーツァルト
の理解に苦しむ莫大な借金とは、この「洞窟」作りのために使わ
れたのではないでしょうか。  ・・・[モーツァルト/64]


≪画像および関連情報≫
 ・啓明結社について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓明結社は、陰謀論においては、非常に人気があり、現在で
  も密に世界へ手を伸ばし影響を与えている影の権力であると
  される。ただし、日本ではそれほど有名ではなく「ユダヤの
  陰謀」や「フリーメーソンの陰謀」で置き換えられているこ
  とが多い。また、単にイルミナティと言った場合、後述のア
  ダム・ヴァイスハウプト主宰のものを指す場合が多いが、そ
  の後に復興運動があったとは言えその本体の活動期間は実質
  8年間であり、陰謀論の主体としてはユダヤやフリーメイソ
  ンと比較して説得力に欠けるという側面もある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アイゲンの洞窟周辺.jpg
アイゲンの洞窟周辺
posted by 管理者 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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