あるという人が多いと思います。いや、偉大なる音楽家モーツァ
ルトを生み出したヨーロッパ社会、とりわけ彼が活躍したウィー
ンの人たちにとっては、名誉にかけてもモーツァルトの死が自然
死であって欲しいと考えるのは当然のことです。
しかし、なぜ、毒殺説が消えないのでしょうか。それは病死と
断定できない何かがあるからです。それに当時のモーツァルトを
取り巻いている環境にも、毒殺を疑う根拠がぜんぜんないわけで
はないのです。
そういうわけで、病死の真贋について最初に調べてみることに
します。それによって、病死とは断定できないものとは何かが明
らかになると思います。
モーツァルトの死を病死とする根拠を調べてみると、ある高名
な医師――ウィーン医学界の第一人者による医学的鑑定書の存在
です。その医師の名は次の通りです。
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グルデナー・フォン・ローベス博士
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この博士による鑑定書とは、ジーギスムント・ノイコムなる人
物に宛てた手紙なのです。期日は1824年6月10日になって
います。ノイコムがどのような人物かは後で述べることにして、
手紙の一部をご紹介しておきます。
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モーツァルトの病と死について私が知っていることのすべてを
貴殿にお知らせするのは、私の喜びとするところであります。
モーツァルトは秋も深まった頃、リウマチ熱に冒されました。
この病気は当時私たちの間にひろく流行し、多くの人がかかっ
たものです。私が彼の病気について聞き知りましたのは、彼の
病状がすでにかなり悪くなってから二、三日後のことでした。
私はあれやこれやを斟酌して彼を訪問することをしませんでし
たが、ほとんど毎日顔を合わせていたクロセット博士から、そ
の様子を聞き及んでおりました。博士はモーツァルトの病気を
危険なものとみなし、最初から憂慮すべき結果を、とくに脳で
の発症を恐れていました。ある日彼はザラーバ博士と会い、モ
ーツァルトは絶望的状態であり、発症を阻むことはもはや不可
能であると明言しました。ザラーバ博士はこの所見をただちに
私に知らせてくれました。そして、事実、モーツァルトはそれ
から二、三日たって、脳の発症の通例の症状で、死去したので
す。(中略)・・・私は死後身体を見ましたが、この病例によ
く見られる兆候以外のものは何ひとつ認められませんでした。
――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
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このグルデナー・フォン・ローベス博士は、実際には生前モー
ツァルトを一度も診察しておらず、医師のクロセットから聞いた
話としてこの手紙を書いているのです。しかし、死後モーツァル
トを見ている記述があるところからして、おそらくは公の検死官
であったと思われるのです。しかし、これについては確証がとれ
ていないのです。
当時ウィーンで施行されていた医事衛生法では検死は義務づけ
られているのですが、検死を行う検死官はその土地の外科医もし
くは軍医と定められており、内科医は検死はできなかったはずな
のです。グルデナー医師とクロセット医師はともに内科医であり
内科医の2人が検死をしたとは思われないのです。したがって、
誰も検死していないというのが本当だったと思われます。
それでは、この手紙の受取人であるジーギスムント・ノイコム
とは何者でしょうか。
ノイコムは、かつてのハイドンの弟子であり、毒殺犯人である
との噂の高かったサリエリの嫌疑をはらすために、「論争ジャー
ナル」という雑誌に論文を書いたのですが、その材料としてグル
デナー博士の所見というか鑑定が必要であったのです。
要するにノイコムの立場は、サリエリの嫌疑をはらすというと
ころにあり、毒殺説の反証――すなわち、モーツァルトは病死で
あるという証拠が欲しかったわけなのです。したがって、彼の論
文の中で使われているグルデナー博士の鑑定もモーツァルトが病
死したという客観的な証拠とはならないはずです。
それでは、モーツァルトの最期を看取ったとされるクロセット
医師とは、どういう人物だったのでしょうか。
クロセット医師について書く前に、モーツァルトが亡くなった
とき、そばに誰がいたのでしょうか。このこと自体がはっきりと
していないのです。EJ第1965号で述べたように、臨終の席
にいたのは妻のコンスタンツェと妹のゾフィー、それにクロセッ
ト医師の3人ということになっています。
しかし、諸説があるのです。その席にジュスマイヤーがいたと
いう説もあるし、コンツタンツェはいなかったというものまであ
るのです。はっきりしているのは、間違いなくいたのは、コンツ
タンツェの妹のゾフィーだけなのです。
コンスタンツェが夫の臨終の場にいなかったのではないかとい
う説が出てきたのは、コンスタンツェの第2の夫であるニッセン
がモーツァルトの伝記において、モーツァルトの臨終の模様をゾ
フィーからの手紙に基づいて記述しているからです。なぜなら、
コンスタンツェはモーツァルトの臨終の模様をニッセンがいくら
聞いても一切話そうとしなかったからです。
しかし、コンスタンツェは少なくとも臨終の場には立ち会って
いたはずです。コンスタンツェとゾフィー、そしてクロセットの
3人でモーツァルトの死を看取っています。ところが、その直後
にコンスタンツェはその場から姿を消しているのです。そして、
その後の葬儀や埋葬に関しては、コンスタンツェは間違いなく参
加していないのです。コンスタンツェのこの行為は、一体何を意
味しているのでしょうか。 ・・・[モーツァルト/43]
≪画像および関連情報≫
・トーマス・フランツ・クロセット博士
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クロセットは、臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、
当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトル
の下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやってきた。
彼は1783年に「腐敗熱」に関する論文をものにし、まも
なく師シュトルを代講をするようになったのみならず、彼に
代わって治療にもあたった。それによって彼は「すべての学
識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た」のだった。
1787年5月23日にシュトルが亡くなると、彼はウィー
ンで最も高名にして人望ある医者となり、皇帝一家までもが
対診医として幾度となく彼を招いたという。1797年には
ついに彼はウィーン大学医学部の客員メンバーとなった。
マティーアス・フォン・ザラーバ博士は、クロセット博士の
友人であり、同じシュトルの門下生である。
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病床のモーツァルト